2016年7月24日 (日)

成功するために一番大切なこと

   


 
私は今、個人事業主ですが、仕事、お金のことでは結構苦労しました(笑)。

その前に自分が何をしたいのか?お金を稼ぐ手段をどうするのか?やりがいのある仕事(天

職)でなければ仕事をする意味はあるのか?など、随分悩んだものです。

そしてサラリーマンにはなれず、自分で何か仕事を起こすことを考えたのですが、成功するこ

とが、私の中で大きな課題だったのです。

3次元(この世)での成功は、真理を伝達してゆく(真理カウンセラーになる)上で、必須条件

だったからです。

自分の仕事面、生活面が整っていないのに、人にアドバイスが出来るわけがない。

精神(目に見えない)エネルギーが調ってくれば、必要なお金や物質は自ずと整ってくるとい

うのが真理(宇宙法則)だからです。

そしてありとあらゆる成功本を読みました(笑)

本田健さん斉藤一人さん、ナポレオン・ヒル・・・・

しかし、どれも心の底から納得するものがなかった。

それはなぜか?

どれだけメンタルトレーニングをしても、ほんのちょっとのマイナスが入るだけでモチベーショ

ンがガタ落ちになるからです。

過去世で失敗ばかりをしていたのなら、潜在意識が覚えていて記憶として甦って来る。

今生での経験でも上手くいかなかったことがふと頭をよぎる。

すると 「やっぱり俺はダメなのではないか?」 と自分を疑う気持ちの方が強くなってしまう

のです。

根っこの部分が 「自分(人間)とはダメな奴なんだ」 から始まっているからです。

初めに大きなマイナスがあるのに、それをプラスに転換することは無理があります、ほとんど

不可能です。(無限なる可能性!)


だがしかし、真理はそうではないのです。

人間とは、宇宙(神)から分かれた分霊(つまり神)であり、宇宙神そのもの、創造主そのも

の、パーフェクト(完璧)なんです。

自分に必要なもの、地上に善いもの、役立つものは自分で創り出せる力を持っている。(我即神也)

このことを心の底から信じれば(ここが重要です)、マイナス想念がもたげてきても

「すべては完璧、欠けたるものなし 大成就!」の大真理が勝ります。

・・・・「自分は神(創造主)なのだ」 という絶対なる自信が揺らぐことがなくなるのです。

そして想像(イメージ)したことに100%エネルギーが注がれ、完璧に創造される。

成功する。

自分とは一体何者なのか?その真理を識ることが、ほんとうの成功への必須条件なのです。

「自分は何者なのか?」を識るには五井先生のご著書である『神と人間』を読んでください。

私のブログでも解説しています。

http://goodmoon51.cocolog-nifty.com/blog/2015/11/post-8efa.html
 

同時に、『果因説』 西園寺昌美著白光出版

『つながり合う世界』 西園寺昌美著も読まれることをお薦めします。





 

2016年2月 4日 (木)

「神と人間」について 五井先生の祈祷法(最終章)

 



感想


自分の子どもだけではなく、人に対しても自分の言っていることや、やっていることが相手

の人が自立することになるのか?ただ甘やかしているだけなのか?を常に自問自答する

ことが大切だと思います。

甘やかすことは、その人の精神的な自立、成長(進化・神化)を遅らすことになり、大きな意

味で言えば、その人個人の問題に留まらず、人類の進化にも影響を与えるのです。

先日のセミナーでウ先生が 「自分の中に宇宙があり、宇宙の中に自分がいるのです」 と

おっしゃったのですが、人間とは神そのものであり、神そのものとは宇宙そのものというこ

とであり、一人一人が自分の中にある無限大の宇宙を創造しているのです。

だから宇宙そのものの人間の進化を妨げる行為は、とんでもないことなのだとわかりま

す。

人間の幸せは自立にあります。

夜空に輝く星のように、私たち人間は、寄り添って依存するのではなく、周りの星との調和

を保って、絶妙の距離感を保って、一人で凛と美しく光輝くものなのです。

アメリカインディアンの教えで、「人間は生まれるときも死ぬときも一人である」とあります。

そういう意味では人間は孤独です。

孤独(自分)を愛し孤独を乗り越えたとき、自分は一人ではない、周りの人に支えられ助け

られ神(守護霊、守護神)に愛されて生きているんだと感じるのです。

ほんものの愛とは、生易しいものではないのです。

「愛は忍耐」 は真実の言葉だと思います。

忍耐の忍は心の上に刃と書くのです。

ほんとうの愛を貫こうとするのなら、 「相手に好かれたい」 「いい人だと想ってもらいた

い」 などという甘えはいらないのです。

好きだ嫌いだは薄っぺらい感情です。

だがしかし人間は、感情を喜ばすことを愛だと思っている。

感情を喜ばせてくれる人を 「いい人だ」 と思っている。

そこに間違いがあるのだと思います。







本文

定まった一時刻(いっとき)の祈りよりも、常に常に心に抱いた想念のほうがよほど効果が

あるのである。


だから、いつも泣きごと、ひがみごとや、恨みごと、病気の不安などを想いつづけていた

ら、その想念の作用で、その人の運命は、いつも暗く不幸なものになってしまうのである。


想念は、運命に大きな作用を及ぼすことを忘れてはいけない。


“愛はすべてを癒すのである”


すべての不幸を打開するのは、愛の心が根柢にある行動である。


私の祈りは、愛の祈りである。


智慧は愛のうちに含まれていると私は思っている。


ただし、愛とは情ではないことを申し添えて置きたい。


情は愛から生まれたもので、愛情と一つに呼ばれているように、愛とは切っても切れぬ関

係がある。


そのため、仏教では、愛さえも業(ごう)と呼んでいて、迷いの本体である、と説いている。


そして神の愛を慈悲と呼んでいる。


私が今まで愛と書いてきたのは、情(執着)ではなくて、英語でいうCharity(チャリティー、

大慈悲心)のことである。


しかし、愛は善で、情は悪である、と簡単に割り切ってもらっては困る。


この現世では光に影が伴うように、愛には情がつきまとうのである。


切りがたい情を涙を呑んで断ち切ってゆくところに、人間の美しさがあり、愛の輝きがます

のである。


情を簡単に切れることが、その人の冷酷性の現れであったりしたら、情に捉われやすい人

よりなお悪いことになる。


愛深い人が情に溺れぬように自重してゆく姿には、美があるもので、そうした人の動きの

中に、神のこの現象界における生き方が示されているものと思われる。


私の祈りは、自分が相手と一体になって、相手を抱いたまま、神の世界に昇ってゆこうとす

る祈りである。


祈りとは、まず自分の心を空っぽにすることである。


それまでの自分をひとまず捨てて、神だけを自分の心に住まわせることである。


願いごとは、すべて後まわしにすることである。


神だけを自己に住まわせれば、その人に必要な願いごとは、すべて叶うのである。


小我の祈りは、その人をますます小さくするだけで、なんの得にもなりはしない。


ただ、神だけを想うことである。


愛だけを行ずることである。


愛は、時には峻厳を極める場合がある。


しかし冷酷とは全然異なるものである。


愛は全体を生かすとともに、そのもの、そのことをも、真に生かすために峻厳さを示すもの

であり、冷酷とは、自己や自己の周囲の利益のために、すべてを殺すものである。


愛の峻厳であるか、冷酷性からくる厳しさであるか、自己を省み、他を参考にしてよく自己

の道しるべとしなければならぬ。


愛の峻厳を装った冷酷、愛ともまごう情意(執着)、この二つの心を超えるためにこそ、人

は神に祈り、神と一体にならねばならぬ。


私はそうした人間の深い問題を、根柢から知らせる役目を神から受け持たされているもの

と信じて、毎日、空即実相の祈りを、多くの人びとともに祈りつづけているのである。


 
                  おしまい

 


 

『神と人間』 私の祈念法 五井昌久 白光出版





 





 

2016年2月 2日 (火)

「神と人間」について 五井先生の祈祷法 6



 

感想

暗く落ち込んだときにどうしたらいいか?というとただ単純に、シンプルに空を仰ぎ見れば

いいのです。

“素晴らしい” という字は、素(宇宙)は晴れているという意味です。

雲の上に雲はない、青空が無限に拡がっているだけです。

空を見るということは、宇宙の無限のプラスのエネルギーに波長を合わせることになりま

す。

だから上を向いているだけで、天を見ているだけでなぜか気持ちが晴れてくるのです。

日本の名歌 「上を向いて歩こう」 (歌 坂本九さん)が今なお、世界中の国で愛されてい

るのも真理を突いているからだと思うのです。

そして本文にありますように、自分を 「愛深い人間にしてください」 と祈る祈りですが、

愛とは神なのです(か~あ み~い)、ですから、愛深くなるとは、神さまにしてくださいと同

意語になります。

人間は元々神の子なのだけれど、それを忘れてしまっている、元々愛深い人なのだけれど

どこかに置いてきてしまっている、それを 「思い出しなさい」 ということなんですね。






本文


真摯な愛の祈りと、無邪気な明るさ、運命を信ずる楽天、こうした要素が、神に通ずる心で

あり、いかに祈っても、邪気ある心、暗い心、不安の念(おも)いなどがあっては、神の心に

触れることはできない。



不安の心多き人、暗い心の人たちは、常に天を仰ぐことを実行するがよい。


天からはいつも、陽気が降ってくる。


たとえ雨や曇りの日であっても、天に心をむけることが大事である。


天に心をむけると、いつの間にか、心が軽く明るくなるものである。



そして次のように祈るとよい。



“神様、どうぞ私の心に愛を充実せしめ給え、どうぞ愛深い私にならしめ給え”  と。



その祈りを毎日かかさずつづけていることは、細かい種々な願いごとをする神詣、仏参り

より、はるかに、はるかに、その人を高い境地に導いてくれるものである。



立っていても、坐っていても、歩いていても、寝ていても、そんな形のことはどうでもよい。



ただひたすら、愛深い自分になることを祈りつづければよいのである。



定まった一時刻(いっとき)の祈りよりも、常に常に心に抱いた想念のほうがよほど効果が

あるのである。








                 つづく

 




   『神と人間』 私の祈念法 五井昌久 白光出版



 


2016年2月 1日 (月)

「神と人間」について五井先生の祈祷法 5




感想

私はこの「神と人間」の感想を書いていて、本文があまりにも素晴らしいので余計なことを

してしまっているのでは?と思うことがあります。

しかし、本文へ繋ぐためのジョイントとして 「読んでみようかな」 と思っていただけたら少

しは価値のあるものになるのかな?と思っております。

さて、下記の本文のどこが素晴らしいかというと、レベルの高い本ものの愛(チャリティー)

には、自分がどうなりたい、どう思われたいなどという我がないのです。

自分がの我、我があるうちは、それは純粋なものではなく、汚れたものなのです。(五井先

生のご著書には我がまったく無いのです)

だがしかし、我がなければこの世の中をたくましく生きていけない、競争に勝たなければ職

を失いその結果、食を失ってしまう(笑いごとではありませんが)ではないか?

そこで私は思うのですが、どうして競争をして、戦争をして、対立をしてまでも勝たなければ

ならないのか?

争わないでみんなが協力し合って、助け合って調和して生きてゆくのがほんとう(真実)で

はないのか?と思うのであります。

物質文明はもうこれ以上発展しなくてもいいところまで来ています。

便利になり過ぎています。贅沢になり過ぎています。これ以上文明が発展すると人間が怠

惰になるところまで来ています。

経済成長は、「消費は美徳」 を基本としています。

物を大切に扱うのではなく、より便利なものが出たら、購買し、古いもの?は捨てるように

奨励しています。(奨励しているのと同じです)

しかし物には魂が宿っていて、愛情、愛着が湧くと簡単に捨てたり、手放したり出来ないの

です。 それが人間の本性です。

「今の世の中どこかおかしいのではないか?」 真剣に生きている人のならば、気づいてい

るはずです。

どこが間違っているのか?・・・・・・・


それを見抜くベースとなるものは、そこに愛があるか?です。

愛がなければ本物(真理)ではないからです。

昔、私が受験勉強をしているときに、ラジオの深夜放送を(キリスト教の番組)聴いていて、

心に響き今でも時々思い出すフレーズがあります。

この言葉を思い出すと心がホッコリと熱くなるのです。



“心に愛がなければどんなに美しい言葉も相手の心に響かない” (聖パウロの言葉より)






本文


いかに達者な弁で真理の道を説いても、心に愛の薄い人は、その姿に光が薄いし、何も

説けずに、ただ黙ってその不幸な人の開運を祈っていても、愛の深い人の姿は、光輝いて

見えるのである。



愛は光であり、光は即ち神である。


真の行いは神の行いである。


愛の黙想は光そのものである。


愛に充ちた真理の言葉は神の言葉である。


あの人を善くしてあげたい、と思ったら、まず自分が光にならなければならない。


光になるとは、愛そのものになることである。


それは自分の立場がよくなるとかいう不純な心があってはいけない。


真に善くしたい、という、純粋な愛の心でなければならぬ。


その場合、純粋な愛は自己の想念停止(無我)と同じであるから、本源の光がその人を通

して、相手に流れ入るのである。


愛の純粋さの程度に従って、光の強さが違ってくる。


病気などの場合、なおしてやるんだ、という力みや、不安動揺の心は、光を乱し、弱める。


よく、霊治療家や、霊覚者になりたい、といって、修行する人があるが、私はそれに反対す

る。


そうした特別な力を得たい、と思う心は、神の心に遠いからである。


何故ならば、神はすでに、その人、その人に対して、天命を授けているのであって、正しい

霊能者や、霊覚者になる者は、自然にそうなるような方向に、守護神が導いてゆき、その

人に必要な修行を現象の心の否応なしにさせられてしまうのである。


私は音楽家で世に立とうと思って、音楽を勉強した者であるが、いつの間にか、種々と哲

学や宗教や、心霊学の道にひき入れられてしまい、ついに種々な修行をさせられて、現在

のような人生指導者になってしまったのである。


その間、私は友人の誰よりもよけいに勉強したわけでもなく、特別な能力が欲しいと願った

こともない。


ただ、常に、常に、神に祈っていたことは確かである。



その祈りは ━


“神様、どうぞ、社会人類のために、私のいのちをおつかい下さい。私に授けられた私の使

命を一日も早くなさしめ給え”



という意味のもので、この祈りは常に、私の心を離れることはなかった。


霊能を得たい、ということは 我 である。


特別な力を得たい、という心も 我 である。


そうした我の祈りや願いは、低い霊魂に感応しやすい。


その祈りが通って、霊能者になったとしても、その人が、そうした我の心を捨てない以上

は、その人の運命は最後に行き詰ってくるであろうし、その人の力では、真に救われる人

は出てこない、と私は思っている。


真摯な愛の祈りと、無邪気な明るさ、運命を信ずる楽天、こうした要素が、神に通ずる心で

あり、いかに祈っても、邪気ある心、暗い心、不安の念(おも)いなどがあっては、神の心に

触れることはできない。




             つづく
 




   『神と人間』 私の祈念法 五井昌久 白光出版





 

2016年1月31日 (日)

「神と人間」について 五井先生の祈祷法 4




感想


巷で占いの類の店などを見ることがありますが、霊感の無い私でも、その異様な雰囲気は

感じるのです(笑)。

そしてそこから時々現われる人の姿(占い師も占ってもらっている人も)は、幽界のオバケ

ちゃんに取り憑かれた、お気の毒な人たちなのです。

なぜそうなるかと申しますと、まず、人の過去や未来を占おうという人は、占いが当たった

としたときに、「あなたは凄い、神様だ」 「どうしたらいいんですか?あなたに私の人生を

託します」 と言わせたいのです。

そんな心境は、肉体人間を操って、いたずらしてやろうという幽界のヤカラ(不良霊)たちと

共鳴します。 そして魂を乗っ取られてしまうのです。

また、自分の人生を悲観し、 「今、こうなっているのは自分のせいではない、どこか他に

原因があるんだ、自分ではどうしようもないんだ」 と責任転嫁し、外のものに依存しようと

している人が多いのです。(すべての人がそうだとは限りませんが)

自立している人、しようとしている人は、人や占いに依存しないのです。

自分の中、内から力を出そうとします。

自分の内には潜在能力があり、無限の叡智が秘められているのです。

真理とは内にある無限の可能性を引き出してゆくことにあります。

占いなどに頼る(頼り過ぎる)ことは、宇宙の法則、真理から外れているのです。

だから軌道修正が行なわれる結果として、ろくなことが起きないのです。(地獄のような波

動の世界へ行く)

下記の本文にあるように、人の運命に携わる人とは、愛一念でなければなりません、私心

があってはいけない、 「尊敬されたい、敬われたい」 「儲けてやろう」 「騙してやろう」 な

どとは、とんでもないことです。

同じく巷で詐欺等に騙される人がいます。

「騙される方も悪い、馬鹿だ」 と言いますが、その通りだと思います。(ごめんなさい)

隙があるのです。(そこに魔が入る)

今を一生懸命に生きていないからそんなもの(人)に共鳴してしまうのです。

邪な波動は一瞬でわかるはずです。

目に見える世界(3次元、肉体界)を生きていくのも、死んでから他界(幽界、霊界、神界)

に行くのも基本(原理原則)は同じなのです。




「霊力と霊能力の違い」

http://goodmoon51.cocolog-nifty.com/blog/2011/01/post-6c91.html





本文


どこまで悩んでも、いかに苦しんでも、救われぬのが人間である、という迷妄を覚させるた

めに、私は働いているのである。


であるから、ただたんに “おまえの運命はかくかくしかじかだから” と、その人の運命の

悪さを指摘したり、“おまえの心が悪いから、おまえの病気や不幸はなおらない” というよ

うな指導のしかたはしないのである。


ただひたすら、その人の運命の好転を祈る愛念だけで、人に対しているのである。


人の名前を聞いても、その人と対座しても、私の心には、その人の性格や運命が、鏡のよ

うに写ってくる。


何故写ってくるかというと、私の心に私自身の想念がないから(私自身が空だから)相手の

運命(潜在意識に録音されてある)がそのまま私の空の心に入ってくるのである。


しかし、私は、その事柄をそのまま、その人に告げることはしない。


そのまま告げても、その人を傷つけず、かえって勇気づける場合は別であるが、大体は勇

気づけるような内容だけを話して、少しずつその人の誤れる習慣の心、いわゆる、悪想念

の癖を善い想念に変えるように指導してゆく。


その間、勿論、私の祈念法をもって、祈念してやることは、いう迄もない。


いかに達者な弁で真理の道を説いても、心に愛の薄い人は、その姿に光が薄いし、何も

説けずに、ただ黙ってその不幸な人の開運を祈っていても、愛の深い人の姿は、光輝いて

見えるのである。



愛は光であり、光は即ち神である。




             つづく
 




   『神と人間』 私の祈念法 五井昌久 白光出版





 

2016年1月29日 (金)

「神と人間」について 五井先生の祈祷法 3



感想


肉体は物質ですよね、目に見えるものです。

しかし今、思ったり考えたりしている心というものは目にも見えないし物質ではありません。

心臓は心の臓器と書くけれど、心臓の中に心が入っているわけではない、そして考える臓

器として頭がありますが、頭と心は又違うと思うのです。

人間というものは、考えるのは頭、感じるのは心(心臓)、などとはっきりと決めてしまわな

いと気が済まないように出来ているようですが(笑)、私はどこにあるのかなんてどうでもい

いことだと思うのです。

ただ私の見解(真理)ですが、肉体以前に、心(魂)というものがある、心は肉体と同時に発

生するものではなく、地球が出来たときから、いや宇宙が出来たときから、いや宇宙は無

限なのだから時空を超えてずっと無限の以前から、そして未来永劫に在り続けているもの

なのです。

私たちの本体(本心)は宇宙(神界)にあります。

そして、本心に肉体という物質を纏わせて今の生活があるのです。

心が主、肉体は従なんですね。

だから、今現在、肉体という物質(服がわかりやすいです)を纏っていますが、服がボロボ

ロになったら、あるいは役割を終えたら、捨て去る(肉体人間の死)のです。

しかし、心は残っています、生きています。

そしてそのことがわかっている人は、死ぬと同時に悟りの世界である霊界、神界に行くの

です。

わからない人は、心が在るので 「まだ自分は生きているんだ」 と錯覚します。

そして霊界神界に行けず、迷いの世界である幽界に留まって時には、肉体人間に悪さを

するのです。

あまり書くと切りがないので、今日はこれくらいにしておきます。


そして、下記の本文の中に五井先生がおっしゃりたかった一文があります。



私の本願は、すべての人間に神の存在を知らせ、人間は業生ではなく、光の子、神の子な

のであることを知らせたいのだ。


です、私の感想とこの一文が共鳴してくれることを願っています。






本文



間の肉体は細胞組織でできていて、その細胞は、陽子、電子の寄り集まったもので、

それをさらに細かく分析すれば微粒子となり、その微粒子は光の粒だという。


その粒も、もっと根本にゆけば、光の波動である、と科学者がいっているが、人間が真の

精神統一に入ると、自分自身が、無限拡の光であることがわかる。


私の想念停止は、自我を脱却したということなので、そこに肉体という物質体が存在してい

ようとも、それはただ光の媒介体があるので、私と対座した人の業生の因縁体(幽体、肉

体)に、本源の光が流れこむことになり、分霊にまつわる業因縁が浄まってゆき、分霊の体

が軽く清らかになってゆくので、度重ねて私と対座すると、知らず知らずに安心立命の境

地に近づいてゆくのである。


この黙想と同時または前後に、柏手を打つことが多い。


これは、相手の因縁の波が多種多様であるので、種々の印を結ぶ。


これは、相手を統一させるためと、こちらの光の波長に合わせるためである。


やさしくいえば、テレビのダイヤルを種々に切りかえるのと同じである。


この祈りは相手と向き合ってやったり、相手を後向きにさせて、祈ったりする。


前向きの時は、その人そのものの、過去世からの業因縁を浄めるのであり、後向きの場合

は、その人にまつわる祖先や縁者の想念の浄めなのである。


私は人の運命の方向を指示し、好転せしめるように祈念する。


大体私は易者ではないので、人の運命の過去を当てたり、先を予見したり、性格を指摘し

たりすることを本願としてはいない。


私の本願は、すべての人間に神の存在を知らせ、人間は業生ではなく、光の子、神の子な

のであることを知らせたいのだ。


どこまで悩んでも、いかに苦しんでも、救われぬのが人間である、という迷妄を覚させるた

めに、私は働いているのである。


であるから、ただたんに “おまえの運命はかくかくしかじかだから” と、その人の運命の

悪さを指摘したり、“おまえの心が悪いから、おまえの病気や不幸はなおらない” というよ

うな指導のしかたはしないのである。


ただひたすら、その人の運命の好転を祈る愛念だけで、人に対しているのである。



              つづく




   『神と人間』 私の祈念法 五井昌久 白光出版





  

2016年1月28日 (木)

「神と人間」 について五井先生の祈祷法 2




感想

スポーツや身体を動かすと、なぜ清々しい爽やかな気持ちになるかというと精神が無、空

になって何も考えていないからなのです。

何かに集中すると肉体(頭)から意識が外れます。

すると頭で考えているどうでもいいこと、どうにもならないこと、つまり 「どうのこうの」 が

無くなるのです(笑)

そして川の流れである血流も良くなり、その一瞬だけでもストレスが無くなり、病気のような

症状も緩和されるのです。

人間ってつくづくエネルギー体なのだなあと思うのであります。

本来の健全なる人間とは、エネルギー(血流)がサラサラと流れている状態を言います。

スポーツだけではなく、それが仕事でも、趣味、芸術をやっているときも一生懸命に集中し

ているときとは、素晴らしい波動体になっているのです。

光っているんですね!

がしかし(笑)、これを覆って邪魔をしているのが、過去世からの想念であり、現在のストレ

ス、周りの人のマイナス想念(集合意識)です。

これらを仏教では業(ごう)と言ったり、キリスト教ではカルマなどと言います。

カタチで例えると黒雲でしょうか、この黒雲が心と体にもくっついてくるのです。

理由もなく気分が優れない、訳もなく腹が立ってくるなどは、あまり良い状態ではないので

す。

下記に出てくる五井先生は、個人や人類の暗雲を取り去っておられるのです。

なぜそんなことが出来るのか?

それは五井先生が無であり空である聖者だからです。

心の中にな~んにも無いので、相手の人の重たい荷物を持ってあげられるのです。

そしてもっと素晴らしいことは、五井先生は黒雲(カルマ)を取るだけではなく、自分で取る

方法を教えておられるところです。

取る方法とは、世界平和の祈りです。

世界平和の祈りは宇宙神の理念なので、光輝いています。

この言霊を唱えると、みな光の波動体になるのです。

「自分のエネルギーのメンテナンスは自分でしなさい」(波動調整)、甘えさせるのではな

く、人間をほんとうの自立へと導いてゆく、それが本当の愛だと思います。





世界人類が平和でありますように

日本が平和でありますように

私たちの天命がまっとうされますように

守護霊さまありがとうございます

守護神さまありがとうございます

May peace prevail on earth

無限なる愛 無限なる調和 無限なる平和



調和波動気功法 

http://www.harmony-wave.jp/



本文




相手と向かい合って座る。

私の心には相手の分霊の光と、その分霊が過去から放ちつづけている想念の波が種々な

る波長をもって、幽体を流れているのが観じられる。
 

即ち、因縁の波を観じるのである。
 

私はすでに光体になっている私の中に相手の因縁の波が吸いこまれて、しだいに浄まっ

てゆくのを感じる。
 

ちょうど吸い取り紙のようなもので、吸い取り紙は吸い取ったインキを消すことはできぬ

が、私は、その人と対座を止めると、ほとんど同時に、その人の因縁の汚れを消滅できる。


私に来ている本源の光が汚れを消滅するのである。


私と対座した人は、なんだかわからぬが、体が軽くなり、清々しくなる、と異口同音にいう。


これはその人たちの業因縁が浄められたことによるもので、いかなる言葉の説教よりも、

はるかに早くその人たちを救いの道に導くことになるのである。




                  つづく



   

『神と人間』 私の祈念法 五井昌久 白光出版



 

2016年1月24日 (日)

「神と人間」 について五井先生の祈念法 1



感想
 

私たちは、頭でものを考えることがあたり前だと思っています。

熟考し、長考して出した答えや結論は、一瞬でヒラメイタ直観よりも、重みもあり、正しいと

さえ思っています。

しかし、実は私たちは考え過ぎて出した答えよりも直観で動いていることのほうが多いので

す。(知らず知らずのうちにそうしている)

そしてなぜか人間関係、恋愛関係、仕事、その他のことも自分がほとんど考えていなかっ

たり忘れているときに事はうまく行っている(進んでいる)のです。

あたかも自分の知らない所で、誰かが万事を整えてくれているかのように・・・・・・。

頭でどうのこうの、計算しているとほとほと自分が嫌になってきますよね(笑)

「あいつがあんなことを言ったから辞めておこうかな?」 「あっちの方が得そうだからこっち

はやめよう」 「効率のよいのはどっちかな?」 「相手の人はどう想うかな?」・・・・

どうでもいいことを感情(勘定)で判断しようとします。

すると考えすぎた結果、ほとんどが上手くいかないのです。(宇宙法則を外れているから)


子どもがかわいいのは?猫や犬によって癒されるのは、大人の人間のように思惑がない

からです。 思慮分別がないからです。 計算しない、ジャッジしないからです。

天真爛漫に直観のまま素直に生きている、宇宙法則のまま天(神様)のみ心のままに自然

体で生きている。


五井先生は、自分という我を無くし、天智(天から送られて来るメッセージ)のままに生きて

おられました。

お釈迦様もそうですし、キリスト様も、その他の聖者たちは、みんなそうです。

エネルギーの無駄使いが一切無かった、潜在意識に潜んでいた潜在能力を100%出して

おられたのです。

私たちは頭で余計なことばかり考えているので、潜在能力の一万分の3~5しか出せてい

ないのだそうです。 なんともったいないことでしょう!


どうすれば、無駄なくほんとうの自分の力(無限なる叡智)を発揮出来るのでしょうか?

それはこれまでもこのブログでかなり書いてきたつもりですが(笑)、これからの本文(五井

先生の祈祷法)を読んでいかれたら、きっと判られると思います。

楽しみにしていてください(笑)


 

私の祈念法

 

私は現在、毎日多数の人びとの相談に応じて、寧日(ねいじつ)ない有様であるが、ほとん

ど疲れが残ることはない。
 

業因の深い人と対座する瞬間、相手の業因が、電波の如く、私の肉体身に感応いしてくる

のだが、それもほんの瞬間に消えて、疲れがそのまま残っているようなことはすくない。
 

私の肉体の頭脳は常に 空 なのである。
 

私は肉体の頭脳でものを考え出すことはない。
 

必要に応じて必要を充たす智慧が、私の本体から自然と肉体に伝わってくるのである。

 
私は霊媒ではないから、霊動したり、霊言したりはしない。


普通の肉体人間となんら変わらぬ平々凡々たる人間に見えるし、常識を一歩も越えぬ生

活をし、行動をしている。
 

しかし、根本的にはまるで違っている。
 

それは私の本体が光であることを体験として知っていることであり、私の言動が、すべて神

(本体)から直接に支配されていることをはっきり認識しているからである。
 

普通、人間は、常になんらかの想念が頭脳を駆け巡っているのだが、私の肉体頭脳を駆

け巡る想念は何もない。
 

私はかつて、一切の想念を断絶する練習を私の守護神から強制的にやらされたのであ

る。


それは、普通の座禅や、精神統一の類ではなく、二十四時間ぶっつづけの練習なのであ

る。(このことについては、自叙伝“天と地をつなぐ者” を参照されたい)苦しいといえば、

これほど苦しいことはない。


ものを想わぬこと、念を停止すること、即ち、空になる練習なのである。

寝ても起きても、歩行していても、全時間、すべてこの練習なのである。

この期間約三ヶ月、自我を全部滅却して、神我に変えたのである。


霊媒ならば、肉体を、その支配霊に他動的に委ねて、自己の我はねむっていればよいの

だが、私の場合は、自己意志で、自己の我を消滅し去ろうとするのである。


いいかえれば、因縁の流動を超えて、自由自在心になるために練習なのである。


原因結果、原因結果と果てしなく輪廻する業因を超えるためには、その業因をつかんでし

まってはいけない。


いかなる業因縁が果として現われようとも、果として現われれば、その因縁はそのまま消

えるのだから、消えてゆくという念と、これで善くなる、という善念だけ出せば、運命はその

時、新しい善因を記録する。


そうした方法を根よくつづけて行けば、その人の潜在意識は、しだいに善因縁に変化して

ゆき、顕在意識の善なる想念と正しく交流して、その人の運命は好転する。


私は人びとに、そのような方法を教え、練習させながら、私自体は、私の想念をすっかり停

止して、相手の業因縁を、私自体の生命(心)の中に吸い込んでゆく黙想をする。


これは苦しい想念停止の練習によって、到達し得た空即実相の黙想なのである。


                       
                         
                     つづく




      『神と人間』より私の祈念法 五井昌久 白光出版




 

2016年1月23日 (土)

「神と人間」について 正しい宗教と誤れる宗教(最終章)




感想
 

真理とは、単純に事実、真実とかの類のものではなく、ちょっと大げさかもしれませんが、

宇宙の法則なのです。

古い新しいではなく普遍的な宇宙が出来たときから、地球が完成したときから何一つ変

わっていない原理原則です。

人間も宇宙の一部であり(小宇宙)、この宇宙法則(真理)に乗って生きて行かないと、どこ

かで必ず軌道修正を強いられることになる。

この軌道修正(病気、貧困、破綻)を、人間は 「神様からの罰が当たった」 

「地獄へ落ちた」 などと言うのです。

そして人間は、 「神も仏も無いのか?」 「この厳しい世の中をたった一人で生きて行けと

いうのか?」 と嘆き、訴えるのです。

しかし、宇宙の法則は、あまりにも深遠なので、宇宙神は、人間救済のために、守護霊、

守護神を使わしたのです。

守護霊とは、悟った祖先のお祖父さんお祖母さんなのだから、

「いつも守ってくれてありがとう!」 と心の念を向けていれば、

「ここはこうしたほうがいい」 と、霊界、神界からメッセージ(神智)を送ってくださるのです。

いつも言っていますが、私たち人間は肉体界のほかに目にみえない幽界、霊界、神界にも

同時に生きています。

見えないので 無い!と思い込んでいるだけです。

肉体界とは、この3界の写し世なので、3界(特に幽界)で起こったことがそのまま肉体界に

現われるのです。

私たちは幽界のことなど知る由もありません。(インチキ霊媒師はわかる場合もあります

が)

その幽界から肉体界に写って来る、あらゆる出来事が手に取るように判って、正しい方向

へ導いてくださっているのが、言うまでもなく、守護霊さんなのです。

ですから宇宙の法則に乗りたかったら、人生を活き活きと自由自在に生きたいのならば、

守護霊さん守護神さんと一体となって生きて行けばいいのです。(三位一体)

宗教とは、宇宙法則を示す教え、元(宗)の教えですが、守護霊、守護神の存在を示す教

えでもあると思います。

世界平和の祈りの中には、宇宙神の理念(宇宙人類が平和であれ)と守護霊様、守護神

様への感謝が含まれてます。完璧(パーフェクト)な祈りなのです(笑)
 

 

世界人類が平和でありますように

日本が平和でありますように

私たちの天命がまっとうされますように

守護霊様ありがとうございます

守護神様ありがとうございます





本文



いかに真理の言葉であっても、聴く人の心が、その真理の言葉に遠い境界にあったり、

空腹に喘いでいる人に、高遠な理想を説いても、ほとんど効果はあるまい。



真理の眼玉よ  降りて来い

おまえがあんまり高すぎるから

世の中は暗いのだ



と歌った詩人がいるが、これこそ肉体人間一般の叫び声であろう。


この声を無視した教えでは人類を救うことはできまい。


一の因には一の縁をもって、この因を消し、二の因には二の縁をもって、この因を消すべ

きで、一の因に十の縁をもってきてもこの因は消えずにかえって深くなるであろう。(註・・・・

一を低い念いとし、十を高い理念とする)


牛肉(真理の言葉)が栄養があるから、といって、毎日牛肉ばかり食べさせられてはやりき

れないし、鯨が食べたい(真理が知りたい)といったから、といって、鯨をそのまま眼の前に

置かれても、どうにもしようがあるまい。


指導者は常に愛と智慧とに導かれていなければ、かえって人類を不幸にしてしまう。


以上で大体正しい宗教と、誤れる宗教の区別がついたと思うので、次には、私の祈念法を

書いてみることとする。



                      おしまいです。






『神と人間』 正しい宗教と誤れる宗教 五井昌久 白光出版



  

2016年1月22日 (金)

「神と人間」について 正しい宗教と誤れる宗教 14


感想
 


「なぜこんなことを言ってしまうのだろう?」 「なぜこんなことを想ってしまうのだろう?」・・・

と私たちは自分で自分の言動行為、そして想念をコントロールすることが非常に難しい状

態にあります。

言動行為はある程度、理性で抑えることもできますが、脳裏に浮かんでくる想念は

「いったいどこから湧いてくるのだろう?」 と思うほど絶え間なく続くのです。

そしてこれは自分の本心なのか?本心ではないところから来ているのか?

知る由もありません。

想念とは、潜在意識から来るものであり、潜在意識とは、つい最近思ったことが消えなくて

潜んでいるものもあるのですが、生まれる前、つまり前世、過去世で思ったことも含まれる

のです。

ですから仲の良かった友だちのことが急に疎ましくなったり、腹立たしくなったりするのも、

前世での不仲(因縁)が蘇ることがあるのです。

今生(この世)で会うということは、前世無しではありえません。

「初対面ですね!」 は無いのです。

「以前(前世)でどこかでお会いしていますね!」 なんです(笑)

そしてやったことは必ず自分に返って来るというのが宇宙の絶対法則です。

今、いじめられているのは、過去世で自分がいじめていたからです。


・・・これは真理なのですが、この法則で言えば、加害者はすべて許されることになります。

被害者は、 「しかたがないよ」 で済まされることになります。

警察も刑務所もいらなくなってしまいます(笑)

争いも喧嘩も戦争も過去世の想念が消えないので起こっているのです。

・・・では、どうすればいいのか?

自分(個人)の、人類に溜まった潜在意識を浄化するしかないのです。

忌まわしい過去を消し、許し(自分も相手も)、愛で包み込む、それしか地球が素晴らしい

星になる術はありません。

理性(頭)で相手を許すことは、難しいです。

それは元が残っているからです。 感情が消えていないからです。

真理(やったことが返って来ている)を知ったとしても、ひとときの慰めにしかなりません。

次に過去の自分を責めるからです。

浄化するとは、元を空(くう)・クリスタルにするということなんです。

記憶を消すことでもありません。

自分と他人という二元対立を無くすということです。

自分は他人であり、他人は自分である、

一つの太陽から分かれた光の柱が人間です。 元は一つなんです。

自他一体感を感じられたとき、すべてが消えるのです。

愛の感情しか湧いて来なくなったとき、過去は消えるのです。

潜在意識は消えるのです。

世界平和の祈りは、自分を浄化し、その他すべてのものを浄化するのです。
 




世界人類が平和でありますように


May peace prevail on earth






本文



因縁を説いたら、必ず、その因縁の消え去る方法を教え、その本体の神仏であるところま

で説かねばならぬ。


これは、因縁を、想念(心)の法則と説いても同じである。


この不幸は、この病気は、みんなあなたの心の影ですよ、と指摘する類である。


形の世界の運命は、みんな心の影であるのは真理であるが、現在そこに現われた、病気

や不幸が、その人にとって記憶のある悪想念の現われであることは少なく、大半は、記憶

に出て来ぬ過去世からのものも含めた潜在意識にあったものであり、あるいは祖先や縁

者の悪想念に感応している場合も多いのである。


この理を考えずに、ただ、あなたの心の影だと説くことは、その人を救うというより傷つけ痛

めることが多いのを私はよく知っている。


これは愛の不足ということで、知識が智慧と離れた状態である。


心の温かい人、愛の深い人はどうしても相手の心の傷や痛手に、ぐさっと突きささるような

言葉は吐けないもので、まずその不幸にたいして、同情せずにはいられなくなるものでは

ないかと思う。


いかに真理の言葉であっても、聴く人の心が、その真理の言葉に遠い境界にあったり、

空腹に喘いでいる人に、高遠な理想を説いても、ほとんど効果はあるまい。




真理の眼玉よ  降りて来い

おまえがあんまり高すぎるから

世の中は暗いのだ




と歌った詩人がいるが、これこそ肉体人間一般の叫び声であろう。


この声を無視した教えでは人類を救うことはできまい。









『神と人間』 正しい宗教と誤れる宗教 五井昌久 白光出版




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