2018年9月20日 (木)

霊能について教えてください!(興味のない人も読んでください)



 

私たちは肉体が自分だと思っていますが、真実は肉体(物質)は消えてゆく仮の姿であり、私たちの本体は霊(神霊、神)なのです。

ですから誰にでも霊能があって当然であり、お釈迦様やキリスト様のような奇跡を起こすような神通力や神秘力があることもまた当然なのです。

しかしその力を得たいと思っても、神様が「おまえの霊能は覚者(お釈迦様、だキリスト様に等しい、その霊能(愛)を活かし人々を救え!」と認めてくれない限りは与えられないのです。

 

それ以外は霊力ではなく、幽界のおばけちゃんによる邪な念力、幽力なのです。

 

巷に溢れている、ネットで氾濫している、占いの類は、ほぼ100%にせものです。

 

迷わせ、邪な道へ入ってしまいます。(軽い気持ちでも占いを受けてはいけません)


そのことがわかりやすく書かれている五井先生の文章をご紹介します。

霊力、霊能に興味がない普通の人にも読んでいただきたいです。(騙されないためにも)




『誤った霊能』


真の霊能と魔境的、迷いの心の幻覚、幻聴とは違います。

魔境とは、まず最初に自己の力を誇示したいとか、自己の都合のよいようにその力を使いたいとかいう想念でなった霊眼、霊聴、霊言のすべてを言います。

そうした想念が魔境的想念なのでありますから、そうした想念統一でなった霊能は、全部一度打ち消してもとの普通人に還らなければいけません。

それは例えば霊眼に仏菩薩の姿がみえ、霊聴に神と称しキリストと名乗って聴こえてきても、これはダメなのです。

何故かというと、自己利益的欲望では、絶対に神仏の真の力をいただく境地にはなれないからです。

魂の開発向上に少しも役立たぬばかりか、ついには自己の身を滅ぼし、他人の魂を傷つけ、歪めてしまうようにもなるのです。



『真の霊能の条件』


愛が深いということは、魂の清さ高さを端的に現わしているからです。

自己を深めたい、人を救いたい、人のために働きたい、人の世のために全力を挙げたい等など、常に自己の力を他に捧げたい、という愛の心が根本になって、開発された霊能であることが第一です。

だがいかに深い愛をもっていても、霊視、霊聴、霊言を審判もせず、ただやたらに信ずるようではいけないのです。

霊能があるからといってすぐ有頂天になったり、すぐに人に告げてみたりする軽率さでは、守護神はその人に及第点を下さらないのです。

もしその人に深い洞察力がなければ、出てくる霊能を否定し尽くすことです。

否定して否定して否定し尽しても、どうしても消えぬ霊視であり、霊聴であり、霊言だったら、それは真実のものと判断すべきです。


 


『守護神の指導にまかせよ』



もっと危険性のないことは、出てくる霊視、霊聴、霊言に把われず、わが天命をまっとうせしめ給えの祈りと、守護霊、守護神の加護を念じつづけることです。

そうしていさえすれば、霊能になる天命のものなら、必ず善き霊能者として社会人類のために働かせて下さるのです。

もしそうしているうちに霊能が消えてしまったとすれば、その人の素質が外に現われる霊能ではなく、内部からの直感的働きとして、職業生活を通して、天命を完全に遂げてゆく素質であるということになるのです。

真の霊能はすべて守護神の指導によるものであり、魔境的、外道的霊能は、幽界の悟らざる霊魂たちの興味本位の肉体界への働きかけによるのです。




【日々の祈り】 五井昌久 白光出版

 

 

 

 

2018年5月30日 (水)

霊力と霊能力の違いについて教えてください



 

私のブログで過去から今まで一貫して一番読まれているのはこのタイトルの「霊力、霊能力の違い」なのですが(苦笑)、今悩んでいる人、さ迷っている人は、幽界のお化けちゃんに取り憑かれる確率がグンとアップします。

今の日本、地球世界が最もさらわれやすい時期だと言っていいと思います。

そんなところに行ってはいけない、一生どころか死んだ後の人生も台無しにするといくら言っても、行く人は行くのですが、自分だけではなく多くの人、魂にも多大な迷惑lをかけることだけは言っておきます。

それは人間は自分個人ではなく、何百万人、いや、何千、何億人もの人たちの代表として肉体を纏っているからです。

幽界のおばけちゃん、輩に取り憑かれるというのは、守護霊、守護神からの王道を外れることでもあるのです。

心の親である守護霊、守護神が低次元のおばけちゃんと同じ考えであるはずがありません。魂を売るのと同じです。

普通で良いのです。

霊能力なんて必要ありません!(占いなども絶対にやってはいけません、幽波動に巻き込まれます)

 

 

霊力と霊能力とを間違える人がいますが、人の心がわかったり、当てものをしたり、運命の予言をしたりするのを、霊力と解釈していますけれど、それは霊能力なのです。

 

一つの能力なのです。

 

霊能力がすぐれている人が人格が高いかというと、そうでないのです。

 

ところが霊力のすぐれた人は人格が高いのです。

 

霊力というのはいいかえれば、霊の光、根源の光です。

 

神のみ心の光が強い人がやっぱり人格が高いのです。

 

たとえあてものをしたりすることがうまくたって、それが偉いということにはならない。

 

そんじょそこらの行者はみんな当てものがうまいですよ。

 

財布の中にいくら持っているか、なんてチャンとわかるんです。

 

なぜわかるかというと、肉体波動のそばにいる幽界の生物が、幽界と肉体界と波動が近いから、透して見えるのです。

 

ところがズーッと高い所にいる神さまは、わざわざそんな低い所を見ない。

 

その人がいかに生きるべきか、どうしたらその人を立派に出来るかということを見るわけです。

 

わざわざ降りれば見えますよ。

けれどそんなことは必要ないから、高いところからその人に光を当ててやる。

 

そしてその人に力をつけてやる。

 

ところが低級の霊能者というのは、力をつけてあげるのではなく、その人に出来ないことをチョコチョコと教えて、相手を屈服させて、自分の支配下におく、子分にしているのです。

 

霊力が強くて、霊能力の素晴らしい人もあります。

 

霊力が強くても当てものなどわからない人もあります。

 

ですからこういうことがいえるのです。

 

信者が一杯いる教祖があながち偉いとはいえない。

 

普通の人でいい影響を社会的に或いは周囲に与えている人がいます。

 

その人は霊力があるわけです。

 

霊力というのは要するに人格の立派なということで、そういう人が偉いのです。

 

いくら当てものがうまく、これをこうやれば儲かるといって当たって儲かったとしても、それを教えた人は神さまでもなんでもない、偉いのでもない、勿論そういう当てもののようなことが出来て偉い人があります。

 

祈りつづけていて、霊能力が出て、人の心が分かったり、予感、予知力が出来たりする人があるとします。

 

そうした神秘力が得られたといって、いばってしまってはだめなのです。

 

そういうことではない。

 

人間の立派さというのは何かというと、人格が立派になることなのです。

 

いつもいいますが、おのずから和んでくる。

 

おのずから人の心が優しくなってくる。

 

その人と一緒にいると、おのずから勇気が湧いてくる。

 

何か親しい懐かしい気持ちが出てくる。

 

そういう力を持つことが霊力が強いということなのです。

 

人に与える好影響が強ければ強い程霊力が強いんです。

 

「お前の息子さん、三年先に大病するよ、気をつけろ」 といわれて、二年たった、あと一年だ、どうしようどうしようと私にききにくる人が随分います。

 

これはいい影響を与えていません。

 

三年間脅しつづけたんだから、悪い影響しか与えません。

 

わかっていたって、いわないで知らん顔していて、しらないうちに霊力で光を与えていて、大病でなくなるようにやっておいて、やがて現われた時に救ってあげる、という人のほう

がいちいち予言して、おどかして自分の力を示そうなんていう人より、ずっと立派ですね。

 

「神と人間」(五井昌久著 白光出版)には簡単に書いてありますけれど、

よくわかるように書いてあります。

 

皆さんは霊能力のある人よりも、霊力の立派な人格のすぐれた人になることです。

人格がすぐれていると同時に、霊能力があればそれに越したことはないのです。

 

それを間違えてはいけない。

 

だから霊能力だけを磨こうとして、統一などしてはいけない。

 

人格を立派にするために祈るわけです。

 

人格が立派というのはどういうことかというと、愛が深いこと、調和した人間であること、勇気があること、簡単にいったらそういうことです。

 

そうなるように全力をもって近づかなければいけませんね。

 

 

 「質問ありませんか?」 五井昌久 白光出版




 

2018年1月 2日 (火)

霊能力なんていらない、普通でいいんだ




私の知り合いで霊能者ではないのですが、神秘的なこと、霊的なことに興味を持っている、持っていた人がかなりおられます。

私が実践していること(調和波動気功法)とはまったく違うので、持っている人たちとどう接すればいいのか?とも思うのですが、普通に接しています。(いつか気づいて欲しいなあと思いながら)

この人たち(霊的なことに興味が深い)は一般の人たちから見るとかなり浮いており(本人は気づいていませんが)文字通り浮世離れしています。

幽体というボディが一般の人よりかなり大きいのです。(幽界のオバケちゃんの影響を受けやすい)

この人たちは悟る(幸せになる)ことには時間がかかります。

一度リセットして一般の人の常識に戻ってからでないと次の次元に進めないからです。

一見、近いように見えますが、違うのです。

一般の人でも3次元を一生懸命に地道に実直に生きている人のほうが早く悟れる、幸せになれます。

それは3次元の終わりは4次元、5次元、多次元への入り口だからです。

邪な霊能者は、一番最後に救われるのです。





真の霊能と魔境的、迷いの心の幻覚、幻聴とは違います。

魔境とは、まず最初に自己の力を誇示したいとか、自己の都合のよいようにその力を使いたいという想念でなった霊眼、霊聴、霊言のすべてをいいます。

そうした想念が魔境的想念なのでありますから、そうした想念、統一でなった霊能は、全部一度打ち消してもとの普通人に還らなければいけません。

それは例えば霊眼に仏菩薩の姿がみえ、霊聴に神と称しキリストと名のってきこえてきても、これはダメなのです。

何故かというと、自己利益的欲望では、絶対に神仏の真の力をいただく境地にはなれないからです。

魂の開発向上には少しも役立たぬばかか、ついに自己の身を滅ぼし、他人の魂を傷つけ、ゆがめてしまうようになるのです。




 

         「日々の祈り」 五井昌久 白光出版



 

霊能者とは?


 


間違った神秘的なことがはびこるということは、邪な霊能者もいけないのですが、ひっかかる人たちにも問題があるのです。(詐欺に騙される人と同じです)

それはほとんどの人に「目に見える肉体界しか無いんだ」 「目にみえない世界は存在しない」 「死んだらお終い何も無いんだ」 という間違った想いがあるからです。

そして目に見えない世界の中に幽界(迷いの世界)や霊界(幽界に近い霊界と神界に近い霊界があります)、神界(天国)があることも知らないのです。

自分はいったいどの世界に波長が合っているのだろう?

意識は落ちているのか? 神界(愛)に波長が合っているのか?

と客観視することが大切だと思います。

そんなことできるわけないだろ?と思いますか?

理知的な人、冷静な人、常識的な人は出来ている人は多いです。

「出来ない」と思う気持ちが出来なくさせているのです。
 



霊能はどういう状態になると現われるか


 

それでは一体霊能というのは、どういう状態になると現われてくるのか、ということについて説明しましょう。

人間はいつも私が説いておりますように、肉体の他に幽体とか霊体とか神体とかいう体をもっているのであります。

そして、人間の想念波動が、常にどの体の中に一番多くの時間を巡っているかということによって、その人の人格が定まり、運命が定まってくるのであります。

その人の想念波動が常に神体の中を巡っている人は、高い人格者であり、神人合一の境地のいわゆる霊覚者にもなり得るのです。

そこで私は、いつでも守護霊さん守護神さんに感謝を捧げつつ、世界平和の祈りをしていなさい、と教えているのです。

守護霊さんは霊界にいて、肉体界にまでその光の波動を伸ばしてきているのであり、守護神さんは神界にいて、光明波動を肉体人間の波動に合わせてきているのであります。

そうして肉体人間の業想念を常に常に浄めているのであります。

そこで、浄められ守られている肉体側では、いつでもそうした守護の神霊の加護に感謝の想いを向けていれば、その人の想念はいつも霊界神界に往っていて、肉体界に、神界霊界の光明波動を導き入れやすくなってくるわけです。

ですから、その人の人格は自然と高くなってくるし、その人の運命もよくなってくるのです。

霊能者といわれる人は、自己が意識するとかしないとにかかわらず、幽界の波動や霊界(霊界でも低いところ)の波動を受けやすい肉体に生まれついているのであります。

そして、自己の霊能に気づきはじめますと、今度は、その想念そのものも、幽界や霊界にむかうことが多くなり、本格的に霊能者となってくるわけなのです。

そうした霊能があると気づいた場合には、いち早く、真の秀れた宗教者のところへ行って、自己の想念波動が、常に神霊の世界のみに集中されてゆくような指導を受けることが必要なのです。

一般の人の見えぬ世界が見えたり、運命の予見ができたり、病気を治すことができたりすることだけで、自分の人格が立派になったように思ったり、神様が自分にのりうつったように思って、高慢になったりする霊能者は、いつかは自分をも人をも傷つけ損ねてしまうのです。

一人の人間が生きているということだけでも神様の力が働いていることは事実なのですが、そういう意味でなく、神様が特別に自分に力を与えている、特別に神様の愛を得ている、ということを、単に霊能力があるということだけで思ってしまうことは実に危険なことなのです。

霊能力のあるということが、即、神様の力ということではありません。

霊能力があるということは、その人の肉体波動が幽質に近いので、幽界や霊界(の低いところ)の波動を受けやすい、ということなのであります。

幽界や霊界の波動の中には、人間各自の過去世の意識層(想念波動)や未来に起こってくる運命の波動もあるのであります。

そうした種々の波動を、自己のもつ幽質的機関がキャッチすることのできるのが霊能力となるのです。

そうした人々にはその背後には肉体界と幽界或いは霊界との交流を計ることを役目としている霊魂(人)や、単にそうしたことに興味を持っている霊魂(人)がおりまして、その交流を助けているのであります。

そうした背後の霊人の住んでいる世界の高低によって、その霊能者の人格の高さが定まってくるのであります。

これを逆にいえば、霊能者の人格の高低によって、その背後に働く霊人の高低が定まってくる、ともいえるのです。

ですから、霊能者が、その霊能力を誇りに思うだけでなく、常に人格の練磨に心掛け、常に神霊界へ自己の想念波動を向けているようにすれば、霊覚者にまでなり得ることもできるのです。

ところが巷間の霊能者と称する人には、人格的には問題のあるような人が多くて、高慢そのものであったり、怒りっぽかったり、心が狭かったり、物質欲や権力欲が旺盛であったり、女色に溺れやすかったり、というような、普通人よりも低い行為をみせる人が意外な程多いのです。

 

      「神は沈黙していない」 五井昌久 白光出版



  

  

霊能者と霊覚者は違う




霊的なことに興味を持って占い師になったり、霊能者になったりする人がいるみたいですが、守護霊、守護神、聖者、そして宇宙神から認められていないのに、他人の運命を占ったり指導することは極めて極めて危険なのです。

自分の運命もそうですが相手の運命も狂わせます。

自分の運命は守護霊さん守護神さん、つまり先祖の悟ったおじいさんおばあさんが見守って指導し、メッセージを送ってくれるのだから、外に求める必要など無いのです。

アセンションとはそのようなことがわかるようになることなのですが、今はまだその判断が出来る時期ではありません。 迷う人で溢れています。

そんな時期ほど、真理は必要だと思うのです。

自分が神であることを識れば、先日述べた宗教も必要ありません。

霊能者も必要ありません。

すべては自分の中から、祈り『世界平和の祈り』の中から答えは出るのです。



  


霊能者と霊覚者とは違う
 



霊能者とは一般の人々には見えもしない聞こえもしない姿や声を聞いたり、人の想いがわかったり、運命がわかったり、過去世における状態がわかったり、医薬を使わないで人の病気を治したりする人々をいうのです。

そうした人々はその人の人格の高い低いにかかわらず、霊能者といわれます。

だから運命の予言や病気治しは上手だが、人格としては頂きかねるという人もあるわけです。

人の想いがわかったり、運命の予言ができたり、病気治しが上手だったり、肉眼で見えない世界が見えたり、という能力があったとしても、その能力がかえって相手の本心開発を遅らせる、自我欲望達成の具となるだけだったら、その霊能者も相手の人も不幸であるばかりでなく人類の進歩にもよくないことになるのです。


  

     「日々の祈り」 五井昌久 白光出版



  

霊力と霊能力の違いを教えてください


昨日、久しぶりにテレビの前に座ってある番組を観ていたのですが、あるアナウンサーの人が性格が「暗い」と放映されたら(ほんとうは自分も周りも言ってはいけない)霊能者の人から10通も手紙が来たと言っていました。

この女性は聡明なのでひっかからなかったようですが、巷にはこのような危険がいっぱいあるのです。

幽界のおばけちゃん(闇の勢力)にひっかかっては大変だと思い、以前載せていた記事を再掲載することにしました。

神秘的なものに惹かれるのはわかります。

しかし興味本位で近寄っては、行っては絶対にいけないのです。





霊力と霊能力とを間違える人がいますが、人の心がわかったり、当てものをしたり、運命の予言をしたりするのを、霊力と解釈していますけれど、それは霊能力なのです。

一つの能力なのです。

霊能力がすぐれている人が人格が高いかというと、そうでないのです。

ところが霊力のすぐれた人は人格が高いのです。

霊力というのはいいかえれば、霊の光、根源の光です。

神のみ心の光が強い人がやっぱり人格が高いのです。

たとえあてものをしたりすることがうまくたって、それが偉いということにはならない。

そんじょそこらの行者はみんな当てものがうまいですよ。

財布の中にいくら持っているか、なんてチャンとわかるんです。

なぜわかるかというと、肉体波動のそばにいる幽界の生物が、幽界と肉体界と波動が近いから、透して見えるのです。

ところがズーッと高い所にいる神さまは、わざわざそんな低い所を見ない。

その人がいかに生きるべきか、どうしたらその人を立派に出来るかということを見るわけです。

わざわざ降りれば見えますよ。

けれどそんなことは必要ないから、高いところからその人に光を当ててやる。

そしてその人に力をつけてやる。

ところが低級の霊能者というのは、力をつけてあげるのではなく、その人に出来ないことをチョコチョコと教えて、相手を屈服させて、自分の支配下におく、子分にしているのです。

霊力が強くて、霊能力の素晴らしい人もあります。

霊力が強くても当てものなどわからない人もあります。

ですからこういうことがいえるのです。

信者が一杯いる教祖があながち偉いとはいえない。

普通の人でいい影響を社会的に或いは周囲に与えている人がいます。

その人は霊力があるわけです。

霊力というのは要するに人格の立派なということで、そういう人が偉いのです。

いくら当てものがうまく、これをこうやれば儲かるといって当たって儲かったとしても、それを教えた人は神さまでもなんでもない、偉いのでもない、勿論そういう当てもののようなことが出来て偉い人があります。

祈りつづけていて、霊能力が出て、人の心が分かったり、予感、予知力が出来たりする人があるとします。

そうした神秘力が得られたといって、いばってしまってはだめなのです。

そういうことではない。

人間の立派さというのは何かというと、人格が立派になることなのです。

いつもいいますが、おのずから和んでくる。

おのずから人の心が優しくなってくる。

その人と一緒にいると、おのずから勇気が湧いてくる。

何か親しい懐かしい気持ちが出てくる。

そういう力を持つことが霊力が強いということなのです。

人に与える好影響が強ければ強い程霊力が強いんです。

「お前の息子さん、三年先に大病するよ、気をつけろ」 といわれて、二年たった、あと一年だ、どうしようどうしようと私にききにくる人が随分います。

これはいい影響を与えていません。

三年間脅しつづけたんだから、悪い影響しか与えません。

わかっていたって、いわないで知らん顔していて、しらないうちに霊力で光を与えていて、大病でなくなるようにやっておいて、やがて現われた時に救ってあげる、という人のほう

がいちいち予言して、おどかして自分の力を示そうなんていう人より、ずっと立派ですね。

「神と人間」(五井昌久著 白光出版)には簡単に書いてありますけれど、

よくわかるように書いてあります。

皆さんは霊能力のある人よりも、霊力の立派な人格のすぐれた人になることです。

人格がすぐれていると同時に、霊能力があればそれに越したことはないのです。

それを間違えてはいけない。

だから霊能力だけを磨こうとして、統一などしてはいけない。

人格を立派にするために祈るわけです。

人格が立派というのはどういうことかというと、愛が深いこと、調和した人間であること、勇気があること、簡単にいったらそういうことです。

そうなるように全力をもって近づかなければいけませんね。

 

 

 「質問ありませんか?」 五井昌久 白光出版



  

 

2017年11月22日 (水)

霊能力について(人を飛ばして何になる?)

  

時代が混沌としてくると、原因不明の病気になったり、運命を修正出来なくなって、神秘的なことに頼ろうとする人が増えてきます。

すると、「私の病気は祖先の人に取り憑かれているのではないだろうか?」「私の前世が影響しているのではないのだろか?」「目にみえない力が働いているのではないだろうか?」と霊的なことに興味を持ち始めます。

しかし巷には、霊能力なるものを利用して「儲けてやろう」という輩(動物霊、取り憑かれた人を含む)が溢れているのです。

この輩とは、動物霊(感情霊、不良霊)のことで、霊界の高いところや神界に行くことが出来ずに肉体界と幽界(さ迷った世界)を行ったり来たりして、肉体界の人間を驚かせたり、憑依して「霊能者」を名乗ったり、人間を思い通りにコントロールして楽しんでいるのです。

私は「幽界のお化けちゃん」と呼んでいるのですが、一旦取り憑かれると大変です。

運命をもてあそばれ、めちゃめちゃにされます。(そして低級な霊能者、占い師・・・の末路は哀れです)

自分が苦しかった肉体界での人生を同じように味あわせてやろうとしているのです。

守護霊守護神は手を出すことができません。

それは良い意味でも悪い意味でもその人の自由意志に任せているからです。

私のメンターである于先生から興味深い話を聞きました。

ある女性が新興宗教にはまり、異変に気づいた夫が心配になってその教団を訪ねて行ったそうです。

そこでは、信者の幹部が集まった人たちを気(幽気)で飛ばしていた・・・・。

冷静だったご主人は、「ここに居てはあぶない」と奥さんを連れ出したのだそうです。

私たちは目に見えるものしか「ある」と信じていないので、目にみえない力、パワーを見せられると、魅せられてしまうのです(笑)

しかしそれは神秘力でもなく、守護霊、守護神さまから来たものでもなく、ましてや神界(ほんもの)のものでもないのです。

「人を飛ばしてなんになる!」

感情は喜ばせても、誰も幸せにならないし、魂、本心を成長させるものではありません。

このご主人は、審神力(さにわりょく)、ほんもの、にせものを見抜く能力があったわけではありません。 ただ常識的で冷静な人だったのです。

今、私たちに求められているのは、霊能力ではありません。

物事を正しく判断する、見極める能力です。

于先生は、「物事に把われない、振り回されないためには客観視することが大切です」とおっしゃいました。

今の自分(肉体の自分)を離れたところから観ている自分(ほんとうの自分)がいる。

それが客観視だと思います。

話が長くなってしまいました(笑)

みなさんくれぐれも「霊能者」という輩(幽界のおばけちゃん)にご注意ください。





【霊力と霊能力の違い】

霊力と霊能力とを間違える人がいますが、人の心がわかったり、当てものをしたり、運命の予言をしたりするのを、霊力と解釈していますけれど、それは霊能力なのです。

一つの能力なのです。

霊能力がすぐれている人が人格が高いかというと、そうでないのです。

ところが霊力のすぐれた人は人格が高いのです。

霊力というのはいいかえれば、霊の光、根源の光です。

神のみ心の光が強い人がやっぱり人格が高いのです。

たとえあてものをしたりすることがうまくたって、それが偉いということにはならない。

そんじょそこらの行者はみんな当てものがうまいですよ。

財布の中にいくら持っているか、なんてチャンとわかるんです。

なぜわかるかというと、肉体波動のそばにいる幽界の生物が、幽界と肉体界と波動が近いから、透して見えるのです。

ところがズーッと高い所にいる神さまは、わざわざそんな低い所を見ない。

その人がいかに生きるべきか、どうしたらその人を立派に出来るかということを見るわけです。

わざわざ降りれば見えますよ。

けれどそんなことは必要ないから、高いところからその人に光を当ててやる。

そしてその人に力をつけてやる。

ところが低級の霊能者というのは、力をつけてあげるのではなく、その人に出来ないことをチョコチョコと教えて、相手を屈服させて、自分の支配下におく、子分にしているのです。

霊力が強くて、霊能力の素晴らしい人もあります。

霊力が強くても当てものなどわからない人もあります。

ですからこういうことがいえるのです。

信者が一杯いる教祖があながち偉いとはいえない。

普通の人でいい影響を社会的に或いは周囲に与えている人がいます。

その人は霊力があるわけです。

霊力というのは要するに人格の立派なということで、そういう人が偉いのです。

いくら当てものがうまく、これをこうやれば儲かるといって当たって儲かったとしても、それを教えた人は神さまでもなんでもない、偉いのでもない、勿論そういう当てもののようなことが出来て偉い人があります。

祈りつづけていて、霊能力が出て、人の心が分かったり、予感、予知力が出来たりする人があるとします。

そうした神秘力が得られたといって、いばってしまってはだめなのです。

そういうことではない。

人間の立派さというのは何かというと、人格が立派になることなのです。

いつもいいますが、おのずから和んでくる。

おのずから人の心が優しくなってくる。

その人と一緒にいると、おのずから勇気が湧いてくる。

何か親しい懐かしい気持ちが出てくる。

そういう力を持つことが霊力が強いということなのです。

人に与える好影響が強ければ強い程霊力が強いんです。

「お前の息子さん、三年先に大病するよ、気をつけろ」 といわれて、二年たった、あと一年だ、どうしようどうしようと私にききにくる人が随分います。

これはいい影響を与えていません。

三年間脅しつづけたんだから、悪い影響しか与えません。

わかっていたって、いわないで知らん顔していて、しらないうちに霊力で光を与えていて、大病でなくなるようにやっておいて、やがて現われた時に救ってあげる、という人のほうがいちいち予言して、おどかして自分の力を示そうなんていう人より、ずっと立派ですね。

「神と人間」(五井昌久著 白光出版)には簡単に書いてありますけれど、

よくわかるように書いてあります。

皆さんは霊能力のある人よりも、霊力の立派な人格のすぐれた人になることです。

人格がすぐれていると同時に、霊能力があればそれに越したことはないのです。

それを間違えてはいけない。

だから霊能力だけを磨こうとして、統一などしてはいけない。

人格を立派にするために祈るわけです。

人格が立派というのはどういうことかというと、愛が深いこと、調和した人間であること、勇気があること、簡単にいったらそういうことです。

そうなるように全力をもって近づかなければいけませんね。

 

 

 「質問ありませんか?」 五井昌久 白光出版


五井先生がYoutubeで霊力と霊能力について述べられています。

よろしければご覧ください。

https://www.youtube.com/watch?v=FgwM9XXY7HM


 

2017年8月 4日 (金)

霊的な人は甘えるな!





ちょっと厳しいことを書きます。 (2008年8月某日のブログより)

霊的な人、つまり目に見えないエネルギーの影響を受けやすい人は確かにいます。

器の大きい人、波動の細かい人、繊細な人、エネルギーの弱い人、強い人、つまりほとんどの人は多かれ少なかれ他人のエネルギーを受けています。

オーラ写真を撮ると実感するのですが、自分の肉体を自分が放ったエネルギーが覆っています。

そのエネルギーが写っているのです。

人間は肉体の他に幽体、霊体、神体があるのです。

オーラはその幽体の部分が写っているのです。

幽体の大きい人はビル一棟分の大きさがあるそうです。

だからこの人はビルの中に100人の人がいたら100人分のエネルギーと重なっているのです。

人のエネルギーをまともに受けてしまうのです。

人ゴミに行くと疲れるのはこのエネルギーをもらってしまうからです。

疲れるとは取り憑かれるという意味です。

だから疲れるのはわかります。

しんどくて何もしたくなくなるのもわかります。

でも甘えてはいけないのです。

自分は受けやすいからと3次元でのこの世での責任から逃げてはダメです。

それは業(ごう)に負けたことになるのです。


業(ごう)とはたくさんの人の想いのエネルギーです。 (自分の過去からの間違った想念もあります)

 

マイナスの集合意識です。


人間がつくってしまったものとは言え、凄まじい力があります。

でも、やっぱりそこで萎えてしまってはダメなのです。

それは甘えです。

だって神様は本人に耐えられないような試練は与えないからです。

耐えられないと思っているのは本当のあなたではないのです。

本心を覆っているマイナスの想いが

「耐えられない」 と決めつけているのです。

どれだけしんどくても辛くても必死で頑張って生きている人はたくさんいます。

業を受けやすいとか、マイナスのエネルギーが強いからとかは関係ないのです。

3次元のやるべきことは、人として任されたことや自分でやると宣言したことは一生懸命にしなければならないのです。

その姿を見て、神様は助けたり、メッセージを送ってくださるのです。

霊的な人は3次元でこの世のすべきことに甘えています。

甘えている人が多いのです。

3次元の仕事が出来なくて、自分に霊的要素がある人が、スピリチュアルな職業?に就くことがあります。

占いは、百害あって一利なし

占う人も占ってもらっている人も不幸になります。(過去世を知っても何の解決にもならないからです)



3次元のことをキチンとやり遂げて

始めて

4次元、多次元のことを語ることが出来るのです。


業に甘えてはいけないのです。


マイナスのエネルギーなんて認めてはならないのです。


業に甘えること、負けることを怠惰というのだそうです。


  
追伸・・・自分が何者か?(我即l神也)に気づいたとき、すべてのことは解決します。業やマイナスのエネルギーは人間が作った有限なもの、宇宙(ほんとうの自分)と一体になったら無限のプラスのエネルギーが無尽蔵に入って来るのです。自然と予知能力が付いてきます。占い等しなくていいのです。


 
  

2017年4月20日 (木)

オーラ写真(幽体)など取ってはいけない!




私の日記で肉体とか幽体、霊体、神体とかをよく書いていますが、ほとんどの人は肉体しかないと思っています。


空気は見えないけどあるとわかっているのに、なぜか自分のこと(見えないボディのこと)になると信じられなくなるのですね。

別に、あると信じなくてもいいのですが、あるかもしれない・・・くらいの大らかな気持ちで目にみえない世界をイメージしていけばいいのではないかと思います。


という私も霊的なものは見えないのです。


でも神さまとか守護霊さま、守護神さまの存在は、 ある と確信しているのです。




では、質問コーナーに移ります。


   



 人間には、肉体の他に幽体があるといわれてますが、幽体はどのような役をしているのでしょう。







幽体とは、人間の想念(おもい)や、行為の記録体とでもいうべき体で、肉体に重なり合って、肉体のような形をもったガス体である。


このガス体の大きさや、色によって、その人の霊性の高低や、性格、運命がよくわかるのである。


よく魂を見たというが、それは、霊を見たのではなく、この幽体(念体を含めた)を見たので、魂とは、幽体に分霊が乗っている状態、いわゆる、分霊が幽界にいる状態をいうのである。


幽体はその人、その人によって、大きさや色(想念、行為の集積が色になる)が違うので、幽体の大きな人が、主に宗教に熱心になったり、やたらに神詣りしたりするのである。


人の想念を受けやすかったり、幽界からの念波に感応しやすい人は、おおむね幽体の大きな人で、その幽体に蓄積されている想念の汚れている人は、低級な想いに憑かれやすく、幽体が浄まっている人は、高級な霊の感応を受けることができる。


幽体の色は軽い色ほど、澄み浄まっていることになるので、金色に輝いている時は、すでに幽体はなく、神の光、そのものが、輝いていることになる。


そして重い色になるとほど、汚れが多いということになる。


紫や青系統の色をもった幽体などは、高級な人格といえるのである。


普通会っていて、その雰囲気が澄み切ったように感じられる人は、大体高級な人格者であると思って間違いあるまい。


とにかく、常に、善なる想念、愛の行いをすることを心掛けていれば、ついには、特別に心掛けなくとも、自然な素直な形で、愛行のできる人間になってゆくのである。


人間は肉体生活が、すべてでなく、幽界の生活、霊界の生活が、肉体生活の後に待っていることを、よくよく考えて、肉体生活のうちに、自己の想念を浄め、行ないを直しておかなくてはいけない。




               おしまい





『神と人間』より 問答篇 五井昌久 白光出版



 



感想


この幽体を特殊なカメラでキャッチしたものがオーラ写真なのです。

でも巷で行われているものは

「あなたのオーラは濁っています」

「形が崩れています」

「この先、身体の具合が悪くなります」

または

「綺麗なオーラですね、良かったですね」

「大丈夫、普通の人より綺麗ですよ」

と良い意味でも悪い意味でも

ただ写した結果を教えてくれるだけで

アフターフォローがないのです。

お医者さんに身体を診てもらって

「あなたは癌です」

「えッ先生どうしたらいいんでしょう?」

と聞いても

「さぁ、私は検査をしただけですから」

と言われても困りますよね。(笑)


オーラも近未来のことはわかるのです。

潜在意識に溜まったものが顕在意識に出て来るからです。(オーラは潜在意識が写る)

幽界が肉体界に写って来るのです。

だからかなりの確率で当るのです。(占いよりは)

でも良い事だったらいいけど、悪いことを言われてもどうしようもないのです。(実は良い事を言われたら安心して努力をしなくなるのです、だから占いと同じくオーラ診断なんてしない方がいいのです)

なぜなら、幽界の汚れたエネルギーを浄化する方法を知らないからです。(写真を撮る人が)

せいぜい、インチキの石や壺を売りつけられて少しは気が休まるかもしれません。

でも近未来のことがわかってもちっとも良い事ではないのです。

悪いことを言われると気にします。

「そうなったらどうしよう」 と動揺します。

そしてそこにエネルギーが注がれるのでイメージした通りになりやすいのです。

自分のエネルギーは他人や物に浄化してもらうものではないのです。 (自分で波動調整することが正解です)

念力で多少はエネルギーが動いて改善されたように思えることもあるのですが、それは宇宙(神)からのものではなく、肉体界や幽界の念力だからです。


治療する人が宇宙に通じている人なら治りますが、そんな人はこの世ではいないと思ってください。


宇宙に通じる人とは神と一体となった人です。


愛そのものの人です。ぴかぴか(新しい)


キリストやお釈迦様の意識を持った人を言うのです。


あなたを治療してくれるという人(お医者様以外)でそんな聖者、霊覚者の人がいますか?

病気を治すのでも本当にその人にとって、病気を治した方がいい場合だけ治ることがあるのです。

その人の守護霊、守護神に

「助けてやってくれ!」

と頼まれた場合だけ

霊覚者の人は治すのです。(霊覚者とは、霊能者ではなく宇宙に通じていて悟った人のこと)


そして、誰でも彼でも治すことはしないのです。


それは病気になることがその人にとって必要なこともあるからです。


深い、深~い洞察力がなければ人の運命を変えることをしてはいけないのです。




これから時代が混沌としてくると、自分ではどうしようもないと思ってしまって、目に見えない力に頼ろうとする人が増えてきます。

占いやオーラ診断等がもてはやされることも増えて来るでしょう。

しかしそんなところへ行ってしまうと多かれ少なかれ影響を受けます。

そんなところでは、何の解決にもならないどころか

取り返しのつかない事態になる可能性があることを知ってください。

今はそんなことをしている時ではないのです。

世界平和の祈りを祈って、本心、守護霊、守護神、宇宙神に通じていれば、何の心配もいならいことをつけ加えておきます。




世界人類が平和でありますように ぴかぴか(新しい)

日本が平和でありますように

わたくしたちの天命がまっとうされますように

守護霊さまありがとうございます

守護神さまありがとうございます




2017年3月25日 (土)

霊力と霊能力の違いについて教えてください




霊力と霊能力とを間違える人がいますが、人の心がわかったり、当てものをしたり、運命の予言をしたりするのを、霊力と解釈していますけれど、それは霊能力なのです。

一つの能力なのです。

霊能力がすぐれている人が人格が高いかというと、そうでないのです。

ところが霊力のすぐれた人は人格が高いのです。

霊力というのはいいかえれば、霊の光、根源の光です。

神のみ心の光が強い人がやっぱり人格が高いのです。

たとえあてものをしたりすることがうまくたって、それが偉いということにはならない。

そんじょそこらの行者はみんな当てものがうまいですよ。

財布の中にいくら持っているか、なんてチャンとわかるんです。

なぜわかるかというと、肉体波動のそばにいる幽界の生物が、幽界と肉体界と波動が近いから、透して見えるのです。

ところがズーッと高い所にいる神さまは、わざわざそんな低い所を見ない。

その人がいかに生きるべきか、どうしたらその人を立派に出来るかということを見るわけです。

わざわざ降りれば見えますよ。

けれどそんなことは必要ないから、高いところからその人に光を当ててやる。

そしてその人に力をつけてやる。

ところが低級の霊能者というのは、力をつけてあげるのではなく、その人に出来ないことをチョコチョコと教えて、相手を屈服させて、自分の支配下におく、子分にしているのです。

霊力が強くて、霊能力の素晴らしい人もあります。

霊力が強くても当てものなどわからない人もあります。

ですからこういうことがいえるのです。

信者が一杯いる教祖があながち偉いとはいえない。

普通の人でいい影響を社会的に或いは周囲に与えている人がいます。

その人は霊力があるわけです。

霊力というのは要するに人格の立派なということで、そういう人が偉いのです。

いくら当てものがうまく、これをこうやれば儲かるといって当たって儲かったとしても、それを教えた人は神さまでもなんでもない、偉いのでもない、勿論そういう当てもののようなことが出来て偉い人があります。

祈りつづけていて、霊能力が出て、人の心が分かったり、予感、予知力が出来たりする人があるとします。

そうした神秘力が得られたといって、いばってしまってはだめなのです。

そういうことではない。

人間の立派さというのは何かというと、人格が立派になることなのです。

いつもいいますが、おのずから和んでくる。

おのずから人の心が優しくなってくる。

その人と一緒にいると、おのずから勇気が湧いてくる。

何か親しい懐かしい気持ちが出てくる。

そういう力を持つことが霊力が強いということなのです。

人に与える好影響が強ければ強い程霊力が強いんです。

「お前の息子さん、三年先に大病するよ、気をつけろ」 といわれて、二年たった、あと一年だ、どうしようどうしようと私にききにくる人が随分います。

これはいい影響を与えていません。

三年間脅しつづけたんだから、悪い影響しか与えません。

わかっていたって、いわないで知らん顔していて、しらないうちに霊力で光を与えていて、大病でなくなるようにやっておいて、やがて現われた時に救ってあげる、という人のほう

がいちいち予言して、おどかして自分の力を示そうなんていう人より、ずっと立派ですね。

「神と人間」(五井昌久著 白光出版)には簡単に書いてありますけれど、

よくわかるように書いてあります。

皆さんは霊能力のある人よりも、霊力の立派な人格のすぐれた人になることです。

人格がすぐれていると同時に、霊能力があればそれに越したことはないのです。

それを間違えてはいけない。

だから霊能力だけを磨こうとして、統一などしてはいけない。

人格を立派にするために祈るわけです。

人格が立派というのはどういうことかというと、愛が深いこと、調和した人間であること、勇気があること、簡単にいったらそういうことです。

そうなるように全力をもって近づかなければいけませんね。

 

 

 「質問ありませんか?」 五井昌久 白光出版



 



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