2017年5月24日 (水)

ただ食べて、感情を喜ばせて、死んで、それでいいのだろうか?


なんとなく偶然にこの世に生まれ出て、食べたり飲んだりして肉体を維持し、ただなんとなく、社会生活を営んで、妻をめとり、夫に嫁し、子を生み育て、そして死んでゆく。


上記は私が愛読する『神と人間』の冒頭の文章なのですが


ほとんどの人がこのような生活を送り、死んだときにただ灰だけが残るというなんとももったいない、なんとも情けない人生を送ってしまっています。


「みんなそうだからそんな哲学的な宗教的なことを考えなくてもいいんじゃない」

という返答が返って来そうですが(笑)

地球や世界、日本、そして自分はもうそんな悠長な怠惰なことを言っていられない状態にあるのです。

他の人は関係ない

危機感を持って今、自分に何が出来るのか?を真剣に考える人が自分を救い、人類を救って行くのです。




【神と人間】


昔の私がそうであったように、世界の人びとの大半が、人間とは肉体そのものであり、精神とは肉体の中に存在する、ある機能の働きである、と思っている。

人間とは五十年、六十年、この社会に生存していて、後は灰になり無になってしまうものと思っている。

死んでしまえばそれまでのもの、と思いこんでいる。

はたして人間は肉体の滅亡をもって、最後の終止符になるであろうか。

私は即座に、否(いな)と答える。

なんとなく偶然にこの世に生まれ出て、食べたり飲んだりして肉体を維持し、ただなんとなく、社会生活を営んで、妻をめとり、夫に嫁し、子を生み育て、そして死んでゆく。

人類の大半はこのような生活を繰り返して、今日にいたっているのであるが、それでは済まない。

何か漠然とした不安の想いが、その大小にかかわらず、人々の胸の中に去来しているのではなかろうか。

このような生き方ではあまりにも無意義であり、無目的でありすぎる。

このような生き方の他に、何かある。何があるかわからない。

わからないが、またわかろうと積極的に思わない。こうした想いが一般人の心であって、その中の少数の人たちが、そのままで済まされずに、社会改革に乗り出し、思想活動に加わり、また一方の小数人は自分自身の心の内面に立ち入って、深く突きつめ、神を知り、霊を知るにいたる。

ともに現況における心の苦しみを突き破ろうとしての動きなのである。


               
                 『神と人間』   五井昌久 




        


2010年4月 8日 (木)

人間の誕生について

  
 
  
神と人間の本には、質問コーナーがあって、五井先生がお答するようになっています。

私たちは、なんでも知っているような気がしていますが、ほとんどのことはわかっていないのです。


ただなんとなく生きていて、どこから生まれて来て、どこへ行くのかも知りません。


そんな親からも学校の先生からも聞けない大切な人間として基本的なことを知っておくべきだと私は思うのです。


では、みなさんと学んでいきましょう♪ わーい(嬉しい顔)





 

質問 人間の誕生について教えて下さい。




 



人間は死後、その人の過去の想念や行動によって、その霊魂の幽界における生活が決まり、その霊魂が種々の苦難や悲哀、あるいは喜びを味わいつつ、進化に役立つ行をするのであるが、これ以上は幽界における経験よりは、肉体界における経験のほうが、よりその霊魂の進化を促進させるに役立つと、その霊魂の教育に当っている先輩霊(高級霊)あるいは守護神が思った場合、肉体界誕生の待合場へその霊魂は移され、そこで肉体界誕生の日を待つのである。


この場合、よほど高級な霊魂以外は意識を眠らされているのである。


意識があっては、幽界の微妙な波動の世界から、肉体界の粗い波動の世界に転移することが、非常に苦痛であって、普通の霊魂では耐え得られぬからである。


もっとも高級な霊魂の中には、意識したまま、この苦痛を耐え忍び、母体にある程度住して、あるいは、赤児と誕生して直ちに、再び霊界に還って、自己の業因縁を、すっかり解脱してしまうものもある。


普通霊の霊魂は、待合場に移されて以来、幽界の記憶を喪失したまま、誕生し、また再び肉体の死まで、過去の記憶を失ったままでいるのである。


そうして幾度びか、死から誕生、誕生から死へを繰りかえしつつ、業因縁を解脱してゆくのである。


この誕生の霊魂は、過去世において、その父母の、どちらかに深い因縁(関係)を持つ霊魂で、血縁が多く、その想念の周波数が、類似してる。



そのためにその子は親にその姿形がよく似ているのである。


しかし時には、血縁でない場合もあるが、これとて、その想念の周波数が類似している霊魂であることには違いない。


周波数が類似していても、その霊魂の光の大きさや、浄まり方の違い、過去世からの経験の違いによって、親子でありながら、親とは雲泥万里の差のある大人物も生まれ、小人物もできあがるのである。


もっとも胎教や、誕生の教育の相違も、親子の差を違える力になっている。


ここで大事なことは、霊界の待合場には、多くの霊魂が、その誕生を待たされているのであり、その中にはA夫婦なら、A夫婦の関係霊魂も幾人かいるわけであって、肉体界のA夫婦の性交時の心の波動の高低や、想念の種類によって、その中の、その時のA夫婦の想念に一番適合する霊魂が、宿ってくるのである。


例えば、A夫婦が、高い浄らかな気持ちで、性交を営んでいる場合は、高い浄らかなる霊魂が宿り、争いの想念を持ちながらの営みの場合は荒々しい霊魂が宿るのである。


だから夫婦関係というものは非常に大事なもので、善良な立派な子供を欲するならば、胎教や、生後の教育よりも、性交時の夫婦の心の持ち方が、さらに一層大事なのである。


この誕生については、夫婦それぞれの過去世からの因縁や、性交時の想念などを、守護神が、観じて、その児を宿らせるのである。


              
                   つづく

 



    『神と人間』 人間の誕生について 五井昌久 





  


感想


五井先生のご本には、常に波動という言葉が出て来ます。


実はこの波動が私たちを創り、宇宙を創っているのです。


響きとでもいいましょうか、バイブレーション?


う先生は、波動のことをハーモニーウェービングモーションと言っておられます。


この波動を整えることが調和していくための秘訣なのです。


波動は共鳴します。


善い波動は善いものと悪い波動は悪いものと、素晴らしい波動は素晴らしいものと・・・・・


だから自分の心の波動を整えるということは、目にみえないものが整って行き(エネルギー)


そして形のあるものが整っていくことになるのです。


ですから赤ちゃんなどもそうなのです。


性交時の夫婦の波動が浄らかならば、いくつかの縁のある霊魂からそれにふさわしい霊魂が選ばれるわけですね。


そんなこと親は教えてくれませんよね。(笑)


産婦人科の先生は、ほとんどが妊娠してからのことだし


やっぱり事前に知っていて教えてくれる人が必要ですよね。



  

  


  
  

2010年4月 6日 (火)

神と人間 (五井先生の祈念法 最終章 )

 
  
 
定まった一時刻(いっとき)の祈りよりも、常に常に心に抱いた想念のほうがよほど効果が

あるのである。


だから、いつも泣きごと、ひがみごとや、恨みごと、病気の不安などを想いつづけていた

ら、その想念の作用で、その人の運命は、いつも暗く不幸なものになってしまうのである。


想念は、運命に大きな作用を及ぼすことを忘れてはいけない。


“愛はすべてを癒すのである”


すべての不幸を打開するのは、愛の心が根柢にある行動である。


私の祈りは、愛の祈りである。


智慧は愛のうちに含まれていると私は思っている。


ただし、愛とは情ではないことを申し添えて置きたい。


情は愛から生まれたもので、愛情と一つに呼ばれているように、愛とは切っても切れぬ関

係がある。


そのため、仏教では、愛さえも業(ごう)と呼んでいて、迷いの本体である、と説いている。


そして神の愛を慈悲と呼んでいる。


私が今まで愛と書いてきたのは、情(執着)ではなくて、英語でいうCharity(チャリティー、

大慈悲心)のことである。


しかし、愛は善で、情は悪である、と簡単に割り切ってもらっては困る。


この現世では光に影が伴うように、愛には情がつきまとうのである。


切りがたい情を涙を呑んで断ち切ってゆくところに、人間の美しさがあり、愛の輝きがます

のである。


情を簡単に切れることが、その人の冷酷性の現れであったりしたら、情に捉われやすい人

よりなお悪いことになる。


愛深い人が情に溺れぬように自重してゆく姿には、美があるもので、そうした人の動きの

中に、神のこの現象界における生き方が示されているものと思われる。


私の祈りは、自分が相手と一体になって、相手を抱いたまま、神の世界に昇ってゆこうとす

る祈りである。


祈りとは、まず自分の心を空っぽにすることである。


それまでの自分をひとまず捨てて、神だけを自分の心に住まわせることである。


願いごとは、すべて後まわしにすることである。


神だけを自己に住まわせれば、その人に必要な願いごとは、すべて叶うのである。


小我の祈りは、その人をますます小さくするだけで、なんの得にもなりはしない。


ただ、神だけを想うことである。


愛だけを行ずることである。


愛は、時には峻厳を極める場合がある。


しかし冷酷とは全然異なるものである。


愛は全体を生かすとともに、そのもの、そのことをも、真に生かすために峻厳さを示すもの

であり、冷酷とは、自己や自己の周囲の利益のために、すべてを殺すものである。


愛の峻厳であるか、冷酷性からくる厳しさであるか、自己を省み、他を参考にしてよく自己

の道しるべとしなければならぬ。


愛の峻厳を装った冷酷、愛ともまごう情意(執着)、この二つの心を超えるためにこそ、人

は神に祈り、神と一体にならねばならぬ。


私はそうした人間の深い問題を、根柢から知らせる役目を神から受け持たされているもの

と信じて、毎日、空即実相の祈りを、多くの人びとともに祈りつづけているのである。


 
                  おしまい

 


 

『神と人間』 私の祈念法 五井昌久 白光出版







 

感想




神とは愛である。


私はここで


か~あ

み~い


とほんとにくどいほど書いてきました。(笑)



みなさんも


「また、グッドムーンの神は愛が始まった」 と苦笑いされているのではないかと思います。



でも、私たちはなんのために生まれてきたか?



それは愛を学ぶためだと思うのです。


愛にも色んな愛があります。


自分勝手な愛(執着の愛)、情の絡んだ愛、見返りを期待しない愛、与えるだけの愛、情を

絡めない峻厳な愛、それさえも超越したもっともっと深い愛・・・・・・。

 

宇宙が無限にあるように、愛の深さも無限にあるのです。



一つの愛を完成させたと思ったら、また次には違う愛がやってくる。



私たちはそうやって無限次元に進化向上して行くのです。


だから人間は素晴らしいのです。




 


 


  

 
 
  
補足


「人間は無限次元に進化向上して行くのです


だから素晴らしいのです」


この言葉は私が尊敬してやまない私のメンターであるW先生のお言葉でした。

私の心にずっと残っていて最後の最後にこのお言葉が出て来たことにびっくりしています。


心にズシンと響く、素晴らしい言霊だと思います。



 

  

  

2010年4月 4日 (日)

神と人間 (五井先生の祈念法 6 )

  
          
  
真摯な愛の祈りと、無邪気な明るさ、運命を信ずる楽天、こうした要素が、神に通ずる心で

あり、いかに祈っても、邪気ある心、暗い心、不安の念(おも)いなどがあっては、神の心に

触れることはできない。



不安の心多き人、暗い心の人たちは、常に天を仰ぐことを実行するがよい。


天からはいつも、陽気が降ってくる。


たとえ雨や曇りの日であっても、天に心をむけることが大事である。


天に心をむけると、いつの間にか、心が軽く明るくなるものである。



そして次のように祈るとよい。



“神様、どうぞ私の心に愛を充実せしめ給え、どうぞ愛深い私にならしめ給え”  と。



その祈りを毎日かかさずつづけていることは、細かい種々な願いごとをする神詣、仏参り

より、はるかに、はるかに、その人を高い境地に導いてくれるものである。



立っていても、坐っていても、歩いていても、寝ていても、そんな形のことはどうでもよい。



ただひたすら、愛深い自分になることを祈りつづければよいのである。



定まった一時刻(いっとき)の祈りよりも、常に常に心に抱いた想念のほうがよほど効果が

あるのである。








                 つづく

 




   『神と人間』 私の祈念法 五井昌久 白光出版







 
 

感想



私が以前、ノルマなどが非常に厳しい数字に追いかけられる仕事に就いていて、疲れ果て

ていた頃の思い出があります。


私は重たい荷物をしょっているように気持ちが落ち込んでいました。


そんなとき


「元気になるにはどうしたらいいんでしょうね?」


とある人に質問したのです。


その人は、満面に微笑みを浮かべて


「空を見たらいいんですよ」


とおっしゃったのです。


私はその人の無邪気さにわけもなく感動したのです。


そしてそれは真理を語っていたのです。


空の上は晴れています。


どんなに雨が降っていても、雲が重くのしかかっていても


その上はいつも晴れているのです。晴れ


私たちはその上を見ようとせず


暗い雲や雨だけを見ているのです。


宇宙からは絶えずプラスの波動が降りて来ています。


調和された、平和で、愛に溢れた宇宙の波動が降りて来ているのです。


宇宙に目を向けるとその波動が伝わって来るのがわかるのです。


素晴らしいとは、宇宙(素)が晴れているという意味です。


宇宙(そら)には、暗いものや悲しいもの辛いものはないのです。


でも、私たちは目の前に現われた幻を見てしまっている。


だから、これからは上を向いてください。


空を見上げてください。


それだけでも元気が出て来ます。


それが宇宙法則に乗る方法なのです。




  
 

2010年4月 3日 (土)

神と人間 (五井先生の祈念法 5 )

  
  
  
いかに達者な弁で真理の道を説いても、心に愛の薄い人は、その姿に光が薄いし、何も

説けずに、ただ黙ってその不幸な人の開運を祈っていても、愛の深い人の姿は、光輝いて

見えるのである。



愛は光であり、光は即ち神である。


真の行いは神の行いである。


愛の黙想は光そのものである。


愛に充ちた真理の言葉は神の言葉である。


あの人を善くしてあげたい、と思ったら、まず自分が光にならなければならない。


光になるとは、愛そのものになることである。


それは自分の立場がよくなるとかいう不純な心があってはいけない。


真に善くしたい、という、純粋な愛の心でなければならぬ。


その場合、純粋な愛は自己の想念停止(無我)と同じであるから、本源の光がその人を通

して、相手に流れ入るのである。


愛の純粋さの程度に従って、光の強さが違ってくる。


病気などの場合、なおしてやるんだ、という力みや、不安動揺の心は、光を乱し、弱める。


よく、霊治療家や、霊覚者になりたい、といって、修行する人があるが、私はそれに反対す

る。


そうした特別な力を得たい、と思う心は、神の心に遠いからである。


何故ならば、神はすでに、その人、その人に対して、天命を授けているのであって、正しい

霊能者や、霊覚者になる者は、自然にそうなるような方向に、守護神が導いてゆき、その

人に必要な修行を現象の心の否応なしにさせられてしまうのである。


私は音楽家で世に立とうと思って、音楽を勉強した者であるが、いつの間にか、種々と哲

学や宗教や、心霊学の道にひき入れられてしまい、ついに種々な修行をさせられて、現在

のような人生指導者になってしまったのである。


その間、私は友人の誰よりもよけいに勉強したわけでもなく、特別な能力が欲しいと願った

こともない。


ただ、常に、常に、神に祈っていたことは確かである。



その祈りは ━


“神様、どうぞ、社会人類のために、私のいのちをおつかい下さい。私に授けられた私の使

命を一日も早くなさしめ給え”



という意味のもので、この祈りは常に、私の心を離れることはなかった。


霊能を得たい、ということは 我 である。


特別な力を得たい、という心も 我 である。


そうした我の祈りや願いは、低い霊魂に感応しやすい。


その祈りが通って、霊能者になったとしても、その人が、そうした我の心を捨てない以上

は、その人の運命は最後に行き詰ってくるであろうし、その人の力では、真に救われる人

は出てこない、と私は思っている。


真摯な愛の祈りと、無邪気な明るさ、運命を信ずる楽天、こうした要素が、神に通ずる心で

あり、いかに祈っても、邪気ある心、暗い心、不安の念(おも)いなどがあっては、神の心に

触れることはできない。




             つづく
 




   『神と人間』 私の祈念法 五井昌久 白光出版







 
 

感想


ここではもう何もいうことがありません。

五井先生の文章は、ひっかかることなく、スーッと心に沁みてゆくのです。

あえていうならば、ほとんどの人は 我 があることがさも善いことのように思っているので

す。


我 が強くなければ生きて行けない!

厳しい世の中を生きて行けない!

自分というものを強く主張するくらいでないと人に負けてしまう!


そして唾を飛ばして相手をなじり、個性豊かな人の方が頼もしく思えてそんな人を選挙で

選んだり、トップに立つ人に推薦したりする。


そしてイザ、そんな人が選ばれると好き放題、我儘放題して


「そんなはずではなかった」


と悔やむのです。


我が強いというのは、肉体人間の自分の力だけでなんとかなると思っているのです。

それは傲慢であり、驕りです。


ついこの間のう先生のレッスンで諭されたことがあります。
 






何事も自分がやるのではない


力んでいる


結果を求め過ぎている


もっと謙虚に


統一をして(神さまと一体となって)


守護霊、守護神の中に入りなさい




 


 

  

  

 
  
  

2010年4月 2日 (金)

神と人間 (五井先生の祈念法 4 )

  
  
  
どこまで悩んでも、いかに苦しんでも、救われぬのが人間である、という迷妄を覚させるた

めに、私は働いているのである。


であるから、ただたんに “おまえの運命はかくかくしかじかだから” と、その人の運命の

悪さを指摘したり、“おまえの心が悪いから、おまえの病気や不幸はなおらない” というよ

うな指導のしかたはしないのである。


ただひたすら、その人の運命の好転を祈る愛念だけで、人に対しているのである。


人の名前を聞いても、その人と対座しても、私の心には、その人の性格や運命が、鏡のよ

うに写ってくる。


何故写ってくるかというと、私の心に私自身の想念がないから(私自身が空だから)相手の

運命(潜在意識に録音されてある)がそのまま私の空の心に入ってくるのである。


しかし、私は、その事柄をそのまま、その人に告げることはしない。


そのまま告げても、その人を傷つけず、かえって勇気づける場合は別であるが、大体は勇

気づけるような内容だけを話して、少しずつその人の誤れる習慣の心、いわゆる、悪想念

の癖を善い想念に変えるように指導してゆく。


その間、勿論、私の祈念法をもって、祈念してやることは、いう迄もない。


いかに達者な弁で真理の道を説いても、心に愛の薄い人は、その姿に光が薄いし、何も

説けずに、ただ黙ってその不幸な人の開運を祈っていても、愛の深い人の姿は、光輝いて

見えるのである。



愛は光であり、光は即ち神である。ぴかぴか(新しい)




             つづく
 




   『神と人間』 私の祈念法 五井昌久 白光出版






 
 


感想


いかに達者な弁で真理の道を説いても、心に愛の薄い人は、その姿に光が薄いし、何も

説けずに、ただ黙ってその不幸な人の開運を祈っていても、愛の深い人の姿は、光輝いて

見えるのである。



愛は光であり、光は即ち神である。
ぴかぴか(新しい)



ここの文章を読んだだけで、五井先生というお方がどれだけ愛深く、人間の幸せだけを考

えていらっしゃったかがわかります。


普通、相手のことがわかるようになったり、その人の未来のことが見えたりすると自分の凄

さを誇示するために得々としゃべったりしたいものです。

でも五井先生はそんな3次元的なこと、自分の感情を喜ばすことなどは一切思ってもみら

れない。


そうでなければ真の人生指導等は出来ないのです。


私もちょっとでもそのような調子に乗ったところが出ると、う先生から強いお叱りを受けるの

です。


それがレッスンにおける、波動調整なのです。


みなさんも神と人間を読んでおられて書いてあることはよくわからない。


でも、心が何かしらホッコリして来る


と感じておられたらそれが良い波動ということです。


五井先生の文章は宇宙(神)からのプラスのエネルギーをそのまま降ろしておられるので

す。




   
 

2010年3月30日 (火)

神と人間 (五井先生の祈念法 3 )

  
  
  
間の肉体は細胞組織でできていて、その細胞は、陽子、電子の寄り集まったもので、

それをさらに細かく分析すれば微粒子となり、その微粒子は光の粒だという。


その粒も、もっと根本にゆけば、光の波動である、と科学者がいっているが、人間が真の

精神統一に入ると、自分自身が、無限拡の光であることがわかる。


私の想念停止は、自我を脱却したということなので、そこに肉体という物質体が存在してい

ようとも、それはただ光の媒介体があるので、私と対座した人の業生の因縁体(幽体、肉

体)に、本源の光が流れこむことになり、分霊にまつわる業因縁が浄まってゆき、分霊の体

が軽く清らかになってゆくので、度重ねて私と対座すると、知らず知らずに安心立命の境

地に近づいてゆくのである。


この黙想と同時または前後に、柏手を打つことが多い。


これは、相手の因縁の波が多種多様であるので、種々の印を結ぶ。


これは、相手を統一させるためと、こちらの光の波長に合わせるためである。


やさしくいえば、テレビのダイヤルを種々に切りかえるのと同じである。


この祈りは相手と向き合ってやったり、相手を後向きにさせて、祈ったりする。


前向きの時は、その人そのものの、過去世からの業因縁を浄めるのであり、後向きの場合

は、その人にまつわる祖先や縁者の想念の浄めなのである。


私は人の運命の方向を指示し、好転せしめるように祈念する。


大体私は易者ではないので、人の運命の過去を当てたり、先を予見したり、性格を指摘し

たりすることを本願としてはいない。


私の本願は、すべての人間に神の存在を知らせ、人間は業生ではなく、光の子、神の子な

のであることを知らせたいのだ。


どこまで悩んでも、いかに苦しんでも、救われぬのが人間である、という迷妄を覚させるた

めに、私は働いているのである。


であるから、ただたんに “おまえの運命はかくかくしかじかだから” と、その人の運命の

悪さを指摘したり、“おまえの心が悪いから、おまえの病気や不幸はなおらない” というよ

うな指導のしかたはしないのである。


ただひたすら、その人の運命の好転を祈る愛念だけで、人に対しているのである。



              つづく




   『神と人間』 私の祈念法 五井昌久 白光出版







 
  

感想


私たちは何でできているのか?

細胞でできているのは、わかります。

細胞は分子の集まりであり、その分子は陽子、電子でありもっと細かくしていくと微粒子に

なります。


そして最後は光の粒が漂っているのだそうです。


それを波動といいます。


人間は光輝いた光の波動でできているのです。


それを司っているのはもちろん宇宙なのです。

宇宙の心が私たちの故郷です。(宇宙心、宇宙神という)

肉体が自分ではなく、本心は宇宙にある。

宗教とは宇宙を示す教えだと何回も書きましたが


お釈迦様はこの宇宙観を説いていたのです。


私たちが迷い、悩むのは自分を肉体だけだと思っていてその狭い範疇で


「あーでもない、こーでもない」

と言っているのです。


そこを超えて自分の故郷である宇宙に入って行きなさい


「小我の自分を大我の自分に昇華させなさい」


空になって肉体意識を宇宙意識に変えて行きなさいとお釈迦様はおっしゃっておられまし

た。


空になると業生、業因縁の渦を超えて本心とつながるのです。


本当の自分(神)に出会えるのです。


でも、それは簡単なことではなく


これまでにたくさんの修行僧たちが挑んでいきました。


そしてことごとく失敗して来たのです。(正しい知識と方法を知らなかったから)


しかしその時期が来ました。


期は熟したのです。


それがアセンション(自分の次元上昇と人類の次元上昇)なのです。


ただ待っているだけでは宇宙意識にはなりません。


自分を肉体波動から宇宙の波動に変えないとダメなのです。


そのメソッド(方法)が祈りであり、印であり、統一なのです。


空になるには自分を宇宙に波動に合わせていけばいいのです。





 

 
補足

私たちは

肉体の頭でどうにかしようとします、でもそれではどうにもならないことは気づいているので

す。

どうにかなるんだったら何の苦労もありません。(笑)

それは想念もそうなのです。

「自分は愛深くなりたいのに憎しみが湧いて来る」

「こんなこと想いたくもないもないのに想ってしまう」

それは過去世において想ったことしたこと(想念・行為)が録音されていて頭脳を駆け巡っ

ているからなのです。

そこを超えないといつまでたっても同じことの繰り返しです。

このことを輪廻転生(りんねてんしょう)といいます。

ならば肉体の頭脳、想念、想いをどこかにやってしまえばいい。

消してしまえばいいのです。

その消し先はどこかというと宇宙です。

宇宙には無限のプラスのエネルギーが流れているのでそこに意識を合わせると綺麗に浄

化してもらえるのです。

これが自分で出来ることです。

そして後は守護霊様、守護神様にお願いするのです。

守護霊様、守護神様は霊界、神界におられて人間に溜まった潜在意識(幽界)を浄めてく

ださいます。

つまり自力(祈り)と他力(守護霊、守護神)で業因縁を浄化してゆくのです。

それが出来て初めて人間は本来の姿に戻り、人間が浄まると同時に地球も浄化されてい

きます。

それが、アセンションなのです。


すいません、補足なのに同じことを書いていますね(笑)




  

  

2010年3月29日 (月)

神と人間 (五井先生の祈念法 2)

  
  
  
相手と向かい合って座る。

私の心には相手の分霊の光と、その分霊が過去から放ちつづけている想念の波が種々な

る波長をもって、幽体を流れているのが観じられる。
 

即ち、因縁の波を観じるのである。
 

私はすでに光体になっている私の中に相手の因縁の波が吸いこまれて、しだいに浄まっ

てゆくのを感じる。
 

ちょうど吸い取り紙のようなもので、吸い取り紙は吸い取ったインキを消すことはできぬ

が、私は、その人と対座を止めると、ほとんど同時に、その人の因縁の汚れを消滅できる。


私に来ている本源の光が汚れを消滅するのである。


私と対座した人は、なんだかわからぬが、体が軽くなり、清々しくなる、と異口同音にいう。


これはその人たちの業因縁が浄められたことによるもので、いかなる言葉の説教よりも、

はるかに早くその人たちを救いの道に導くことになるのである。




                  つづく



   

『神と人間』 私の祈念法 五井昌久 白光出版



 




感想



私と対座した人は、なんだかわからぬが、体が軽くなり、清々しくなる、と異口同音にいう。


これはその人たちの業因縁が浄められたことによるもので、いかなる言葉の説教よりも、はるかに早くその人たちを救いの道に導くことになるのである。


 

この文章を読んでいると、心の底から感謝の気持ちが湧いて来たのです。

と言いますのは、五井先生が相手の人(求めて来る人)を浄められていることを私はう先

生に月に2回もレッスンによって浄めて戴いているからです。


ハーモニーの人たちの器は物凄く大きいので、その器を浄められるう先生は、まさしく命懸

けなのです。(レッスンの後、髪の毛が真っ白になったり、足を引きずって歩いておられる

お姿をお見かけすることがあります)


そして、レッスンの後


「スッキリしたでしょ?」


と聞かれるのですがほんとにそれまでのモヤモヤがすっかり消えてしまっているのです。


ですがいつも取って戴いているのではなく、自分のエネルギーの処理は自分で出来るよう

にならないといけないのです。


それはたゆまない祈りと毎日の印、呼吸法などを地道に続けていくしかありません。


それでも取れないところは取ってくださっているのです。


アセンションとは自分で自分の器にあるエネルギー(波動)を自分で綺麗にすることが出来

るようになることなのです。



これを波動調整と言います。


エネルギーとは波動であり、心であり、宇宙そのものでもあります。


このことを神と言っているのです。


私の実践している調和波動気功法とは、気(エネルギー)を調和した波動に整えることなの

です。





  

2010年3月28日 (日)

 神と人間 (五井先生の祈念法)

  
  
「神と人間」の本の感想はもう終わりにしようかとも思ったのですが、

「本当に人を救うとはどういうことか?」

「人を浄めるとはどういうことか?」

「人の運命を善くするとはどういうことか?」

「その人の魂にとって大切なこととはどういうことか?」

をもっと知ってもらいたいと思い

また、書くことにしました。


ある霊能家の人や念力を信じている人は

「病気を治します」 とか

「遠隔で気を送ります」 とか

言いますが

病気を治すのは、あくまでもお医者さんの仕事です。(正確には自分自身ですが)

それを簡単に

「医者なんかに何が出来るものか、俺の念力でそんなものは治せるのだ!」

と言っている人がいます。

でも、そんなときに自分の身うちが病気になると、慌ててお医者様に頼るのです。

つまり自分のやっている念力が本物ではないとわかっているのです。


そして必ず言うのです。

「あの医者は頼りない」

「あんな医者はダメだ」





人を救うってそんな簡単なものではないですし

五井先生は自分という我を無くして 空 になって相手に対しているのです。

う先生も命懸けで病気を治したり、人を救ったり、私たちのレッスンをしてくださっています。

五井先生とう先生には共通のところがあります。

それはご自分がという我が無いのです。

自分がよく思われたい

自分がよい思いをしたい

自分が良い生活をしたい

普通人が持つあらゆる欲望がまったくないのです。

ないから宇宙とつながり、神とつながって

その神通力を得ることが出来るのです。

「神通力が欲しい」

「人によく思われたい」

「感謝されたい」

という欲望が少しでもあったなら

それは神へは通じないのです。

そこまで行って初めて

神から認められ

無限なるエネルギーが降りて来るのです。ぴかぴか(新しい)

だからそこまで意識が行っていない人が簡単に

「私は人を救います」

なんて

軽々しく言ってはいけないのです。


話が長くなりましたが五井先生がどのように祈祷して人を救われていたか?を神と人間の

「私の祈念法」から抜粋していきたいと思います。


五井先生の姿は未来の私たちの意識(宇宙意識)を示すものであり、アセンションとは何

か? お釈迦様のいう 空 とは何か?を知るヒントになります。


そのつもりで読んでください。



 


私の祈念法


私は現在、毎日多数の人びとの相談に応じて、寧日(ねいじつ)ない有様であるが、ほとん

ど疲れが残ることはない。
 

業因の深い人と対座する瞬間、相手の業因が、電波の如く、私の肉体身に感応いしてくる

のだが、それもほんの瞬間に消えて、疲れがそのまま残っているようなことはすくない。
 

私の肉体の頭脳は常に 空 なのである。
 

私は肉体の頭脳でものを考え出すことはない。
 

必要に応じて必要を充たす智慧が、私の本体から自然と肉体に伝わってくるのである。

 
私は霊媒ではないから、霊動したり、霊言したりはしない。


普通の肉体人間となんら変わらぬ平々凡々たる人間に見えるし、常識を一歩も越えぬ生

活をし、行動をしている。
 

しかし、根本的にはまるで違っている。
 

それは私の本体が光であることを体験として知っていることであり、私の言動が、すべて神

(本体)から直接に支配されていることをはっきり認識しているからである。
 

普通、人間は、常になんらかの想念が頭脳を駆け巡っているのだが、私の肉体頭脳を駆

け巡る想念は何もない。
 

私はかつて、一切の想念を断絶する練習を私の守護神から強制的にやらされたのであ

る。


それは、普通の座禅や、精神統一の類ではなく、二十四時間ぶっつづけの練習なのであ

る。(このことについては、自叙伝“天と地をつなぐ者” を参照されたい)苦しいといえば、

これほど苦しいことはない。


ものを想わぬこと、念を停止すること、即ち、空になる練習なのである。

寝ても起きても、歩行していても、全時間、すべてこの練習なのである。

この期間約三ヶ月、自我を全部滅却して、神我に変えたのである。


霊媒ならば、肉体を、その支配霊に他動的に委ねて、自己の我はねむっていればよいの

だが、私の場合は、自己意志で、自己の我を消滅し去ろうとするのである。


いいかえれば、因縁の流動を超えて、自由自在心になるために練習なのである。


原因結果、原因結果と果てしなく輪廻する業因を超えるためには、その業因をつかんでし

まってはいけない。


いかなる業因縁が果として現われようとも、果として現われれば、その因縁はそのまま消

えるのだから、消えてゆくという念と、これで善くなる、という善念だけ出せば、運命はその

時、新しい善因を記録する。


そうした方法を根よくつづけて行けば、その人の潜在意識は、しだいに善因縁に変化して

ゆき、顕在意識の善なる想念と正しく交流して、その人の運命は好転する。


私は人びとに、そのような方法を教え、練習させながら、私自体は、私の想念をすっかり停

止して、相手の業因縁を、私自体の生命(心)の中に吸い込んでゆく黙想をする。


これは苦しい想念停止の練習によって、到達し得た空即実相の黙想なのである。


                       
                         
                     つづく




      『神と人間』より私の祈念法 五井昌久 白光出版








感想

これまでに神と人間とその感想を読んでくださっていた方にはなんとなく祈念法とは何か?

 がわかっていただけたのでは?と思っております。


わからなくても人を救うには常人には理解出来ないほど自分を滅していかないと出来ない

ことなんだと感じてもらえたのではと思っております。

「こんな凄いこと普通の人には出来ないよ」

と思いますよね。

実は五井先生のように空になるために想念停止を自己の意思でしなくとも勝手にそうなる

のが未来の私たちの姿なのです。

勝手になるといってもある程度の意識の高さと宇宙(神、本心)と波長を合わせることは必

要なのですが

そうなると人と人とは心で通じ合い、口から発する言葉はいらなくなるのです。

向かい合っただけで相手が何を考え、何を想っているかがわかるようになるのです。

そのときまでに私たちは自己の想念を綺麗にしておくことが大切なのです。


その想念を綺麗にする方法が五井先生が提唱されている


世界平和の祈りです。

自分の想念をすべて祈りの中に入れてしまえば

その想念は宇宙に行って

浄化されて自分に返って来るのです。

よって運命が善くなってゆくのです。





世界人類が平和でありますように ぴかぴか(新しい)

日本が平和でありますように

わたくしたちの天命がまっとうされますように

守護霊様ありがとうございます

守護神様ありがとうございます




  


    

2010年3月23日 (火)

神と人間 (正しい宗教と誤れる宗教 最終章)

  
    

いかに真理の言葉であっても、聴く人の心が、その真理の言葉に遠い境界にあったり、

空腹に喘いでいる人に、高遠な理想を説いても、ほとんど効果はあるまい。



真理の眼玉よ  降りて来い

おまえがあんまり高すぎるから

世の中は暗いのだ



と歌った詩人がいるが、これこそ肉体人間一般の叫び声であろう。


この声を無視した教えでは人類を救うことはできまい。


一の因には一の縁をもって、この因を消し、二の因には二の縁をもって、この因を消すべ

きで、一の因に十の縁をもってきてもこの因は消えずにかえって深くなるであろう。(註・・・・

一を低い念いとし、十を高い理念とする)


牛肉(真理の言葉)が栄養があるから、といって、毎日牛肉ばかり食べさせられてはやりき

れないし、鯨が食べたい(真理が知りたい)といったから、といって、鯨をそのまま眼の前に

置かれても、どうにもしようがあるまい。


指導者は常に愛と智慧とに導かれていなければ、かえって人類を不幸にしてしまう。


以上で大体正しい宗教と、誤れる宗教の区別がついたと思うので、次には、私の祈念法を

書いてみることとする。



                      おしまいです。






『神と人間』 正しい宗教と誤れる宗教 五井昌久 白光出版




 




感想


宗教についてはかなり細かく分けて感想を書いてきましたが、書いているときに、これ読ん

でいる人は、すごく興味があって読んでくださっている人と全然面白くもおかしくもなく読む

気すらしない人とに分れているのだろうなぁと何度も思ったのです。


100人の人が読んで、いや、1000人の人が目を通して響いている人はほんの数人だと

思うのです。


それくらい特殊であり、ある意味偏っていると思います。


だからほとんどコメントもありません(笑)


それは覚悟の上でした。


でもたくさんの人に共感されて


「ああ、面白かった、為になった!」


で留まるのではなく


その人が救われなければ意味が無いと思ったのです。


感動する映画、本、為になることはどこにでも情報があります。


溢れかえっています。


でもその人の魂を救うほどの影響力があるものは少ないと思うのです。


そのときは救われた気持ちになってもすぐに戻ってしまう。


清涼飲料水のようなものです。


それも必要です。


でも魂が永遠に救われるものでないと人間は本当に幸せにはなれないと思うのです。


10000人の人が喜ぶものより一人の人でいい


本当の真理が伝わって、真の幸せを掴んで欲しい


私はこれからも伝達者(メッセンジャー)として日記を書き続けていきます。(宣言文でした) わーい(嬉しい顔)ぴかぴか(新しい)





世界人類が平和でありますように  ぴかぴか(新しい)


我即神也

人類即神也





  

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