2017年3月 2日 (木)

霊的パワーなどはにせものです。

 

【感じるもの、聞こえるものは全部否定せよ】


パワースポットの場所に行って、そこでジンジンに感じた。

身体が震えた、感動して涙が溢れてきた、神様の声が聞えた・・・・・

これらはすべてにせものなのです。

神界から来ているものではないのです。

本心から来ているものとは違うのです。

ほんものはそんなに簡単にわかるものではないのです。

どういうことかと申しますと

人間は、肉体というボディ(体)の他に幽体、霊体、神体を纏っています。

そして肉体界の他に幽界にも霊界、神界にも同時に住んでいるのです。

だけど、肉体しか目には見えないのでその他のボディ、世界はないと思っています。

そして肉体と幽体はくっついていて常に幽界の影響を強く受けています。

幽界は潜在意識の世界でもあり、迷った霊たちが浄まった世界である霊界や神界に行けずにさ迷っている世界でもあるのです。

この幽界の霊魂たちが肉体界の人間たちに悪さをするのです。

自分たちには、器(体)がないので肉体界の人間の体に憑依してその人間をコントロールしようとしている。

だから感じるというのは幽体というボディです。

幽界のおばけちゃんの仕業なのです。

肉体界→幽界→霊界→神界(本心)

霊界や神界(本ものの世界)は、波動(エネルギー)が細かいので肉体人間には感じないのです。(守護霊や守護神が意図的に感じさせ、どうしても知らせようすることがない限りは、余程のことがない限りありません)

本当の自分がいる神界は幽界からずっと奥の感じない世界にあるのです。

ですからパワースポットなどに行ってまたは、霊的なもの(石やアクセサリーの類い)に触って感じるものなどは全部違うのです。

五感に感じるものはすべて幽体、幽界です。(目に見えるUFOもすべて幽界のおばけのいたずらです)

ほんものはずっと奥にあります。(ほんもののUFOは宇宙意識まで行った人でないと見えません、肉眼ではないのです)

だから、まともな人、常識的な人は

「パワースポットに行って来た」

「霊的なパワーを感じた」

「UFOを見た」

「あそこには、神様が住んでいる」

といった類いの言葉にはすごい違和感を感じているのです。

幽界のおばけちゃんの独特の気配を感じるからです。

それは、聞いた人が幽界の重苦しい、嫌な雰囲気のエネルギーを受けるからです。

スッキリ爽やかな感じではないのです。

だからそういうことを言う人は変な奴、おかしな奴と思われています。

中にはほんとに波動(エネルギー)が善くて、浄まったところもあります。

しかし、感じるのではないのです。

わかるのです。

わかるは感じるの奥にある

感じるのは五感です。

わかるのは、本心です。

わかるとは、感じることではないのです。

本物とにせもの(幽界)を区別することを審神(さにわ)というのですが

これが出来る人は、ほとんどいません。(悟った人だけです)

だから面白半分で、興味本位でパワースポットなどに行ってはいけないのです。

パワーのある石などに関わってはいけないのです。

オバケちゃんの餌食になって面白いように遊ばれるだけです。

そして、大切なお金を取られるのです。


憑依されると取り返しのつかないことにもなりかねません。

そして、まともな人(普通の人)から敬遠されるだけです。

霊的なパワーなんて持とうとするのが間違っているのです。

そんな邪な、間違った力を得ていったい何を、どうしようとするのですか?

目的はなんですか?
 

霊的なことに興味のある人は下記の文章を是非、読んでください。
 


 

誤った霊能


 

真の霊能と魔境的、迷い心の幻覚、幻聴とは違います。

魔境とは、まず最初に自己の力を誇示したいとか、自己の都合のよいようにその力をつかいたいとかいう想念でなった霊眼、霊聴、霊言のすべてをいいます。

そうした想念が魔境的想念なのでありますから、そうした想念、統一でなった霊能は、全部一度打ち消してもとの普通人に還らなければいけません。

それは例えば霊眼に仏菩薩の姿がみえ、霊聴に神と称しキリストと名のってきこえてきても、これはダメなのです。

何故かというと、自己利益的欲望では、絶対に神仏の真の力をいただく境地にはなれないからです。

魂の開発向上には少しも役に立たぬばかりか、ついに自己の身を滅ぼし、他人の魂を傷つけ、ゆがめてしまうようにもなるのです。

           「日々の祈り」 五井昌久 白光出版



  



2013年9月 6日 (金)

霊的なパワーなどに興味を持っては危険です!

  

パワースポットの場所に行って、そこでジンジンに感じた。

身体が震えた、感動して涙が溢れてきた、神様の声が聞えた・・・・・

これらはすべてにせものなのです。

神界から来ているものではないのです。

本心から来ているものとは違うのです。

ほんものはそんなに簡単にわかるものではないのです。

どういうことかと申しますと

人間は、肉体というボディ(体)の他に幽体、霊体、神体を纏っています。

そして肉体界にも幽界にも霊界、神界にも同時に住んでいるのです。

だけれど、肉体しか目には見えないのでその他の体、世界はないと思っているのです。

そして肉体と幽体はくっついていて常に幽界の影響を強く受けています。

幽界は潜在意識の世界でもあり、迷った霊たちが浄まった世界である霊界や神界に行けずにさ迷っている世界でもあるのです。

この幽界の霊魂たちが肉体界の人間たちに悪さをするのです。

自分たちには、器(体)がないので肉体界の人間の体に乗り移って(憑依して)その人間をコントロールしようとしている。

だから感じるのは幽体であり、幽界がうつって来てるのです。

幽界のおばけちゃんの仕業なのです。

肉体界→幽界→霊界→神界(本心)

霊界や神界(本ものの世界)は、波動(エネルギー)が細かいので肉体人間には感じないのです。

本当の自分がいる神界は幽界からずっと奥の感じない世界にあるのです。

ですからほとんどの人がパワースポットなどに行ってまたは、霊的なもの(石やアクセサリーの類い)に触って感じるものなどは全部違うのです。

五感に感じるものはすべて幽体、幽界です。(だから目に見えるUFOもすべて幽界のおばけのいたずらです)

ほんものはずっと奥にあります。

だから、まともな人、常識的な人は

「パワースポットに行って来た」

「霊的なパワーを感じた」

「あそこには、神様が住んでいる」

といった類いの言葉にはすごい違和感を感じているのです。(正解です)

幽界のおばけちゃんの気配を感じているのです。(言っている本人は真剣ですが)

それは、聞いた人が幽界の重苦しい、嫌な雰囲気のエネルギーを受けるからです。

全然爽やかな感じを受けていないのです。

だから変な奴と思われています。(人は人を雰囲気で判断するのです、これはかなり正しいのです)

中にはほんとに波動(エネルギー)が善くて、浄まったところもあります。

しかし、感じるのではないのです。

わかるのです。

感じるのは五感です。

わかるのは、本心です。

わかるのは、感じることではないのです。

本物とにせもの(幽界)を区別することを審神(さにわ)というのですが

これが出来る人は、ほとんどいません。(悟った人だけです)

だから面白半分で、パワースポットなどに行ってはいけないのです。

パワーのある石などに関わってはいけないのです。

オバケちゃんの餌食になって面白いように遊ばれるだけです。

憑依されると取り返しのつかないことにもなりかねません。

まともな人(普通の人)から敬遠されるだけです。

霊的なパワーなんて持とうとするのが間違っているのです。
 

霊的なことに興味のある人は是非読んでみてください。
 


 

誤った霊能


 

真の霊能と魔境的、迷い心の幻覚、幻聴とは違います。

魔境とは、まず最初に自己の力を誇示したいとか、自己の都合のよいようにその力をつかいたいとかいう想念でなった霊眼、霊聴、霊言のすべてをいいます。

そうした想念が魔境的想念なのでありますから、そうした想念、統一でなった霊能は、全部一度打ち消してもとの普通人に還らなければいけません。

それは例えば霊眼に仏菩薩の姿がみえ、霊聴に神と称しキリストと名のってきこえてきても、これはダメなのです。

何故かというと、自己利益的欲望では、絶対に神仏の真の力をいただく境地にはなれないからです。

魂の開発向上には少しも役に立たぬばかりか、ついに自己の身を滅ぼし、他人の魂を傷つけ、ゆがめてしまうようにもなるのです。


           「日々の祈り」 五井昌久 白光出版




   

 

 

2013年6月10日 (月)

霊力と霊能力の違いについて教えてください。 2



霊力と霊能力とを間違える人がいますが、人の心がわかったり、当てものをしたり、運命の予言をしたりするのを、霊力と解釈していますけれど、それは霊能力なのです。

一つの能力なのです。

霊能力がすぐれている人が人格が高いかというと、そうでないのです。

ところが霊力のすぐれた人は人格が高いのです。

霊力というのはいいかえれば、霊の光、根源の光です。

神のみ心の光が強い人がやっぱり人格が高いのです。

たとえあてものをしたりすることがうまくたって、それが偉いということにはならない。

そんじょそこらの行者はみんな当てものがうまいですよ。

財布の中にいくら持っているか、なんてチャンとわかるんです。

なぜわかるかというと、肉体波動のそばにいる幽界の生物が、幽界と肉体界と波動が近いから、透して見えるのです。

ところがズーッと高い所にいる神さまは、わざわざそんな低い所を見ない。

その人がいかに生きるべきか、どうしたらその人を立派に出来るかということを見るわけです。

わざわざ降りれば見えますよ。 けれどそんなことは必要ないから、高いところからその人に光を当ててやる。

そしてその人に力をつけてやる。

ところが低級の霊能者というのは、力をつけてあげるのではなく、その人に出来ないことをチョコチョコと教えて、相手を屈服させて、自分の支配下におく、子分にしているのです。

霊力が強くて、霊能力の素晴らしい人もあります。

霊力が強くても当てものなどわからない人もあります。

ですからこういうことがいえるのです。

信者が一杯いる教祖があながち偉いとはいえない。

普通の人でいい影響を社会的に或いは周囲に与えている人がいます。

その人は霊力があるわけです。

霊力というのは要するに人格の立派なということで、そういう人が偉いのです。

いくら当てものがうまく、これをこうやれば儲かるといって当たって儲かったとしても、それを教えた人は神さまでもなんでもない、偉いのでもない、勿論そういう当てものようなことが出来て偉い人があります。

祈りつづけていて、霊能力が出て、人の心が分かったり、予感、予知力が出来たりする人があるとします。

そうした神秘力が得られたといって、いばってしまってはだめなのです。

そういうことではない。

人間の立派さというのは何かというと、人格が立派になることなのです。

いつもいいますが、おのずから和んでくる。

おのずから人の心が優しくなってくる。

その人と一緒にいると、おのずから勇気が湧いてくる。

何か親しい懐かしい気持ちが出てくる。

そういう力を持つことが霊力が強いということなのです。

人に与える好影響が強ければ強い程霊力が強いんです。

「お前の息子さん、三年先に大病するよ、気をつけろ」 といわれて、二年たった、あと一年だ、どうしようどうしようと私にききにくる人が随分います。

これはいい影響を与えていません。

三年間脅しつづけたんだから、悪い影響しか与えません。

わかっていたって、いわないで知らん顔していて、しらないうちに霊力で光を与えていて、大病でなくなるようにやっておいて、やがて現われた時に救ってあげる、という人のほうがいちいち予言して、おどかして自分の力を示そうなんていう人より、ずっと立派ですね。

「神と人間」(五井昌久著 白光出版)には簡単に書いてありますけれど、よくわかるように書いてあります。

皆さんは霊能力のある人よりも、霊力の立派な人格のすぐれた人になることです。

人格がすぐれていると同時に、霊能力があればそれに越したことはないのです。

それを間違えてはいけない。

だから霊能力だけを磨こうとして、統一などしてはいけない。

人格を立派にするために祈るわけです。

人格が立派というのはどういうことかというと、愛が深いこと、調和した人間であること、勇気があること、簡単にいったらそういうことです。

そうなるように全力をもって近づかなければいけませんね。

 

 

 「質問ありませんか?」 五井昌久 白光出版





 


 

 

2011年1月 1日 (土)

霊力と霊能力の違い

 
  
  


今年は霊能力を持った人がどんどん出て来ます。

それは地球がこれから物質文明から霊文明へと移行して行くからです。

しかし本当の霊とは神さまのことなのです。

幽霊も霊には違いないが低級な霊のことです。

本当の、本物の霊は神霊です。

 
人間は人であって人間ではない(あまり言い方にこだわらなくてもいいのですが)

人とは、人=霊止 と書くのです。

神霊(神さま)が宿ったのが本物です。

人間とは、人と動物の間という意味です。

動物という不完全な感情が入った心の状態をいいます。(要らないものをくっつけている)

つまりアセンションとは

人間→人(霊止)になること

霊能者→霊覚者 になるということです。

だから私たちは変な霊能者に気をつけなければならない(笑)

幽界のオバケちゃんに取り憑かれた人を

霊覚者(高い人格の人)と間違えては目覚めるのが遅くなってしまうのです。

いらない道を通ってしまうのです。

本物とにせものの違いとは何か?

五井先生がまたまた答えてくださっています。

でも審神(さにわ)ができるようになるのではなく

自分が本物になることが一番なのです。

そうなれば人の波動(ヴァイブレーション)とかはどうでもいいのです。












霊力と霊能力の違いについて教えて下さい。







 



霊力と霊能力とを間違える人がいますが、人の心がわかったり、当てものをしたり、運命の

予言をしたりするのを、霊力と解釈していますけれど、それは霊能力なのです。

一つの能力なのです。

霊能力がすぐれている人が人格が高いかというと、そうでないのです。

ところが霊力のすぐれた人は人格が高いのです。

霊力というのはいいかえれば、霊の光、根源の光です。

神のみ心の光が強い人がやっぱり人格が高いのです。

たとえあてものをしたりすることがうまくたって、それが偉いということにはならない。

そんじゃそこらの行者はみんな当てものがうまいですよ。

財布の中にいくら持っているか、なんてチャンとわかるんです。

なぜわかるかというと、肉体波動のそばにいる幽界の生物が、幽界と肉体界と波動が近い
 
から、透して見えるのです。

ところがズーッと高い所にいる神さまは、わざわざそんな低い所を見ない。

その人がいかに生きるべきか、どうしたらその人を立派に出来るかということを見るわけです。

わざわざ降りれば見えますよ。

けれどそんなことは必要ないから、高い所からその人に光を当ててやる。

そして、その人に力をつけてやる。

ところが低級の霊能者というのは、力をつけてあげるのではなく、その人に出来ない事を

チョコチョコ教えて、相手を屈服させて、自分の支配下におく、子分にしているのです。

霊力が強くて、霊能力の素晴らしい人もあります。

霊力が強くても当てものなどわからない人もあります。

ですからこういうことがいえるのです。

信者が一杯いる教祖があながち偉いとはいえない。

普通の人でいい影響を社会に或いは周囲に与えている人がいます。

その人は霊力があるわけです。

霊力というのは要するに人格の立派なということで、そういう人が偉いのです。

いくら当てものがうまく、これをこうやれば儲かるといって当って儲かったとしても、それを

教えた人は神さまでもなんでもない、偉いのでもない。

勿論そういう当てもののようなことを出来て偉い人があります。

祈りつづけていて、霊能力が出て、人の心がわかったり、予感、予知力が出来たりする人

があるとします。

そうした神秘力が得られたといって、威張ってしまってはだめなのです。

そういうことではない。

人間の立派さというのは何かというと、人格が立派になることなのです。

いつもいいますが、おのずから和んでくる。

おのずから人の心が優しくなってくる。

その人と一緒にいると、おのずから勇気が湧いてくる。

何か親しい懐かしい気持ちが出てくる。

そういう力を持つことが霊力が強いということなのです。

「お前の息子さん、三年先に大病するよ、気をつけろ」 といわれて、二年たった、あと一年
 
だ、どうしよう、どうしようと私に聞きにくる人が随分います。

これはいい影響を与えていません。

三年間脅しつづけたんだから、悪い影響しか与えません。

わかっていたって、いわないで知らん顔していて、しらないうちに霊力で光を与えていて、

だんだんその大病なるものを大病でなくなるようにやっておいて、やがて現われた時に

救ってあげる、という人のほうがいちいち予言をして、脅かして自分の力を示そうなんてい

う人より、ずっと立派ですね。


“神と人間” には簡単に書いてありますけれど、よくわかるように書いてあります。

皆さんは霊能力のある人よりも、霊力の立派な人格のすぐれた人になることです。

人格がすぐれていると同時に、霊能力があればそれに越したことはないのです。

それを間違えてはいけない。

だから霊能力だけを磨こうとして、統一などしてはいけない。

人格を立派にするために祈るわけです。

人格が立派というのはどういうことかというと、愛が深いこと、調和した人間であること、勇

気があること、簡単にいったらそういうことです。

そうなるように全力をもって近づかなければいけませんね。





  
    「質問ありませんか?」 五井昌久 白光出版




 





  感想


私が時々、霊能者について書くのは、あまりにもおかしな霊能者の人にひっかかっている

人が多いからです。

ひっかかるのもある程度はしかたがないとも思うのですが

その一番の間違いとは

その人(霊能者)を神のように思ってしまっているということです。

つまり外に神をみて、自分の内に神をみていない。

その人は神だけど自分は神ではないと思っているのです。

それが他人を知るよりも先に自分を知ることが大事だということなのです。

自分の中の神(我即神也)をみれば、おのずと人も神であることがわかってきます。


 我即神也 → 人類即神也、人即神也なのです。




最近、健康についてのブログを書き始めました。(2016年12月現在)

目に見える肉体とみえない気(エネルギー・精神)との調和が取れてほんとうの健康が得られるのです。

どのページにも健康について大切なことが書かれています。


『健康と調和波動気功法 1~』

http://goodmoon51.cocolog-nifty.com/blog/2016/11/post-6b36.html



  



   

2009年9月25日 (金)

真の霊能の条件

   
  
愛が深いということは、魂の清さ高さを端的に現わしているからです。

自己を深めたい、人を救いたい、人のために働きたい、人の世のために全力を挙げたい

等々、常に自己の力を他に捧げたい、という愛の心が根本になって、開発された霊能であ

ることが第一です。

だがいかに深い愛をもっていても、霊視、霊聴、霊言を審神(さにわ)もせず、ただやたら

に信ずるようではいけないのです。

霊能があったからといってすぐに有頂天になったり、すぐに人に告げてみたりする軽率さで

は、守護神はその人に及第点を下さらないのです。

もしその人に深い洞察力がなければ、出てくる霊能を否定し尽くすことです。

否定して否定して否定し尽くしても、どうしても消えぬ霊視であり、霊聴であり、霊言だった

ら、それは真実のものと判断すべきです。





      
                日々の祈り  五井昌久




 


 

 

感想

 

これだけ、霊能のことを一生懸命に書いているということは、私と縁のある人の中でスピチ

ュアルな世界に入ろうとしている人、入っているけど抜け出したいとしている人がいるのか

もしれません。


霊的な力を得ようとしている人は、最初は純粋なのです。

愛が深い人たちが多いのです。

それはそうなんだと思います。

でも、どこに意識があるか?が大切なのです。

少しでも人に褒められたい、感謝されたい、凄いと言われたいという自分というものがあれ

ば、すぐに幽界のオバケのおもちゃにされてしまうのです。

そして人格がまったく変わってしまってしまう。

憑依されるのです。

それだったら最初からそんなものに興味を持たなければよかったということになります。

それくらい本当の霊力を得るということは厳しいのです。

洞察力というのは自分の本心(神)と繋がって、繋がり続けてやっと得ることが出来る力で

す。

真剣に自分というものを無くしていかないと得られないのです。

もし、少しでも自分がの我のある人は止めてください。

そんなものを持たなくても時期が来ればみんな覚者になれるのです。

ただ人類を愛する気持ちだけは失わないでくださいね。




 
  
世界人類が平和でありますように 

日本が平和でありますように

わたくしたちの天命がまっとうされますように

守護霊さまありがとうございます

守護神さまありがとうございます





  


2009年8月 2日 (日)

霊力なんて持とうとするな!

  

肉体人間以外のささやきや声が聞こえて来ても、まともに受取って耳を傾けてはいけません。

一切を雑念と否定しなさい。

そして守護霊さんに “どうか消して下さい” と祈りなさい。





     
       

              如是我聞  五井昌久




  

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