2018年11月16日 (金)

この世的などんな仕事よりも尊いのは「世界平和の祈り」

 

 

■『五井先生ワールド』

神の摂理と生命の醒め

皆さんは神様から使命を与えられているのです
日本を建て世界を救う神の使徒の一員なのだという事を
どうか今ここでシッカリと自覚して下さいますように
皆さんのする仕事は真の宗教を知らずに騒いでいる
政治家や宗教家などよりずっと大きく偉い仕事なのです
皆さん方のように“本当の祈りが出来る人”というのは
大臣より何よりも立派で偉大なる仕事が出来るのです。

 

 感想・・・「1000人の人にパンを配るより、ほんの一瞬でいいから冷静でいなさい」

これはイエス・キリスト様のお言葉です。
私たちは目に見えるものがすべてだと思っていますが、宇宙からいえば目に見える波動の粗い世界は、全宇宙の0・0000000001も無いのです。
私たちはそんな無いに等しい世界に固執し自分を見失っています。
宇宙は波動で出来ています。
波動がすべてのすべてです。
宇宙の波動と共鳴する「世界平和の祈り」を祈ること、宇宙の波動を乱さないことがどれだけ大切かがわかります。


世界人類が平和でありますように
日本が平和でありますように
私たちの天命がまっとうされますように
守護霊さまありがとうございます
守護神さまありがとうございます







 

 

2018年11月15日 (木)

人間は崇高なる存在なのです!




人間が本当に識らなければならないことは、自分の本性に対して畏敬の念をもたねばならない、そのことなのであります。

人間は決して弱きものでもなく、不完全なるものでもありません。

人間は完全にして完璧なものであるという認識をもって、自分自身を見つめ直していかなければなりません。

初めから自分自身に対して畏敬の念をもって接するのです。

自分の中にいかなる不完全さが存在しようと決してそれを認めず、自らの本性、輝いた神そのものを認識し見つめてゆくべきものなのです。

人間の多くは、業生のみの己を見つめ、決して本心の自分、輝いた自分、神そのものの自分、完全円満なる自分を認識する眼をもってはいません。

まず自分自身を尊敬し、愛し、そして自分自身を畏敬の念をもって認めてゆくことから始めるのです。

“我即神也” このたった4文字の中にすべての真理が含まれ、人間そのものが言い尽くされているのであります。

自分が神なら “人類即神也”、人もまた神です。

人間即神そのものなのです。

自分自身に畏敬の念をもって接すると同時に、すべての人間に対して畏敬の念をもって接していかなければならないのです。

人間そのものは、宇宙の神性の現われであり、宇宙神の働きを現わすために存在しているのです。

宇宙と地球の大調和のため、大進化のための素晴らしい働きを担っているのです。

人間本来、誰もが持っている直観力をますます磨き高め上げ、宇宙の神霊と交流しつつ自らの意識を高め、宇宙神そのものの存在を自らの上に完全に開示していかなければならないのです。

直観力は、知識や学問からはなかなか得られるものではありません。

直観力は、宇宙意識に自らを託すことによって得られてゆくものです。・・・・・・・・・・・・・

  

感想・・・・・真理の文章はこの後も続いてゆくのですが、私たちは人との接し方の前に自分自身との接し方が判っていないのです。

それは自分が何者なのかが全くわかっていないからです。

自分とはダメな奴なのか、馬鹿なのか? それとも上記の文章にあるように、崇高なる存在なのか?

今、多くの人が、「自分って素晴らしい、そして人ってとんでもなく凄い英知が宿っているのではないか?」と気づき出しているのです。

後もう一歩です。 ほんとうの自分、ほんとうのその人がわかるところまで来ているのです。

そう思っているときに、この本(「次元上昇」西園寺昌美著)に出会いました。

みなさんも是非、ほんとうの自分に気づいてください。出会ってください。




『無限なる癒し』 于 寿明著 星湖舎

 

『無限次元への誘い』 于 寿明著 星湖舎

『無限なる幸せを体得する方法』 于 寿明著 星湖舎

『無限なる勇気』 于 寿明著 星湖舎

これらの本には、印の組み方(人類即神也も)が紹介されています。

  

調和波動気功法

http://www.harmony-wave.jp/

  

 

 

 

 

 

2018年11月14日 (水)

霊能力なんていらない、人を飛ばしてなんになる!

 





 

時代が混沌としてくると、原因不明の病気になったり、運命を修正出来なくなって、神秘的なことに頼ろうとする人が増えてきます。

すると、「私の病気は祖先の人に取り憑かれているのではないだろうか?」「私の前世が影響しているのではないのだろか?」「目にみえない力が働いているのではないだろうか?」と霊的なことに興味を持ち始めます。

しかし巷には、霊能力なるものを利用して「儲けてやろう」という輩(動物霊、取り憑かれた人を含む)が溢れているのです。

この輩とは、動物霊(感情霊、不良霊)のことで、霊界の高いところや神界に行くことが出来ずに肉体界と幽界(さ迷った世界)を行ったり来たりして、肉体界の人間を驚かせたり、憑依して「霊能者」を名乗ったり、人間を思い通りにコントロールして楽しんでいるのです。

私は「幽界のお化けちゃん」と呼んでいるのですが、一旦取り憑かれると大変です。

運命をもてあそばれ、めちゃめちゃにされます。

自分が苦しかった肉体界での人生を同じように味あわせてやろうとしているのです。

守護霊守護神は手を出すことをしません。

それは良い意味でも悪い意味でもその人の自由意志に任せているからです。

私のメンターである于先生から興味深い話を聞きました。

ある女性が邪な新興宗教(邪教)にはまり、異変に気づいた夫が心配になってその教団を訪ねて行ったそうです。

そこでは、信者の幹部が集まった人たちに幽気で人を飛ばしていた・・・・。

冷静だったご主人は、「ここに居てはあぶない」と奥さんを連れ出したのだそうです。

私たちは目に見えるものしか「ある」と信じていないので、目にみえない力、パワーを見せられると、魅せられてしまうのです(苦笑)

しかしそれは神秘力でもなく、守護霊、守護神さまから来たものでもなく、ましてや神界(ほんもの)のものでもないのです。

「人を飛ばしてなんになる!」

感情は喜ばせても誰も幸せにならないし、魂、本心を成長させるものではありません。

このご主人は、審神力(さにわりょく)、ほんもの、にせものを見抜く能力があったわけではありません。 ただ常識的で冷静な人だったのです。

今、私たちに求められているのは、霊能力ではありません。

物事を冷静に正しく判断する、見極める力です。

于先生は、「物事に把われない、振り回されないためには客観視することが大切です」とおっしゃいました。

今の自分(肉体の自分)を離れたところから観ている自分(ほんとうの自分)がいる。

それが客観視だと思います。

話が長くなってしまいました(笑)

みなさんくれぐれも「霊能者」という輩(幽界の生物)にご注意ください。
そしてほんとうの神である守護霊、守護神、宇宙神につながっていると幽界の生物に振り回されることは皆無なのです。

 

【霊力と霊能力の違い】

霊力と霊能力とを間違える人がいますが、人の心がわかったり、当てものをしたり、運命の予言をしたりするのを、霊力と解釈していますけれど、それは霊能力なのです。

一つの能力なのです。

霊能力がすぐれている人が人格が高いかというと、そうでないのです。

ところが霊力のすぐれた人は人格が高いのです。

霊力というのはいいかえれば、霊の光、根源の光です。

神のみ心の光が強い人がやっぱり人格が高いのです。

たとえあてものをしたりすることがうまくたって、それが偉いということにはならない。

そんじょそこらの行者はみんな当てものがうまいですよ。

財布の中にいくら持っているか、なんてチャンとわかるんです。

なぜわかるかというと、肉体波動のそばにいる幽界の生物が、幽界と肉体界と波動が近いから、透して見えるのです。

ところがズーッと高い所にいる神さまは、わざわざそんな低い所を見ない。

その人がいかに生きるべきか、どうしたらその人を立派に出来るかということを見るわけです。

わざわざ降りれば見えますよ。

けれどそんなことは必要ないから、高いところからその人に光を当ててやる。

そしてその人に力をつけてやる。

ところが低級の霊能者というのは、力をつけてあげるのではなく、その人に出来ないことをチョコチョコと教えて、相手を屈服させて、自分の支配下におく、子分にしているのです。

霊力が強くて、霊能力の素晴らしい人もあります。

霊力が強くても当てものなどわからない人もあります。

ですからこういうことがいえるのです。

信者が一杯いる教祖があながち偉いとはいえない。

普通の人でいい影響を社会的に或いは周囲に与えている人がいます。

その人は霊力があるわけです。

霊力というのは要するに人格の立派なということで、そういう人が偉いのです。

いくら当てものがうまく、これをこうやれば儲かるといって当たって儲かったとしても、それを教えた人は神さまでもなんでもない、偉いのでもない、勿論そういう当てもののようなことが出来て偉い人があります。

祈りつづけていて、霊能力が出て、人の心が分かったり、予感、予知力が出来たりする人があるとします。

そうした神秘力が得られたといって、いばってしまってはだめなのです。

そういうことではない。

人間の立派さというのは何かというと、人格が立派になることなのです。

いつもいいますが、おのずから和んでくる。

おのずから人の心が優しくなってくる。

その人と一緒にいると、おのずから勇気が湧いてくる。

何か親しい懐かしい気持ちが出てくる。

そういう力を持つことが霊力が強いということなのです。

人に与える好影響が強ければ強い程霊力が強いんです。

「お前の息子さん、三年先に大病するよ、気をつけろ」 といわれて、二年たった、あと一年だ、どうしようどうしようと私にききにくる人が随分います。

これはいい影響を与えていません。

三年間脅しつづけたんだから、悪い影響しか与えません。

わかっていたって、いわないで知らん顔していて、しらないうちに霊力で光を与えていて、大病でなくなるようにやっておいて、やがて現われた時に救ってあげる、という人のほうがいちいち予言して、おどかして自分の力を示そうなんていう人より、ずっと立派ですね。

「神と人間」(五井昌久著 白光出版)には簡単に書いてありますけれど、

よくわかるように書いてあります。

皆さんは霊能力のある人よりも、霊力の立派な人格のすぐれた人になることです。

人格がすぐれていると同時に、霊能力があればそれに越したことはないのです。

それを間違えてはいけない。

だから霊能力だけを磨こうとして、統一などしてはいけない。

人格を立派にするために祈るわけです。

人格が立派というのはどういうことかというと、愛が深いこと、調和した人間であること、勇気があること、簡単にいったらそういうことです。

そうなるように全力をもって近づかなければいけませんね。

 

 「質問ありませんか?」 五井昌久 白光出版


五井先生がYoutubeで霊力と霊能力について述べられています。

よろしければご覧ください。

 
 

2018年11月13日 (火)

悟りはゴールではない、そこから始まるのです!

 

 

前生があり、輪廻転生があるとしたのなら死んだ後の未来も当然のごとくあるのです。

生命は永遠である、ということからいえば、死はゴールではないのです。

そして私たちは、創造主であり、宇宙そのもの、大自然そのもの、サムシング・グレートであり、神そのもの、神の子なのです。

宇宙は無限に進化創造しています。 小宇宙である私たち人間も未来永劫進化し続けるのです。
 
だからちょっと真理(我即神也)がわかったところでそれは最終の悟りでもなければ、ゴールでもない、私たち神の子には永遠に終わりは無いのです。
 
では、今、私たちの目の前に現われている現象はどう受け止めればいいのか?
 
目の前の現象、幻想とは自分が前生、前々生・・・・で輪廻転生を繰り返して来た未解決の事柄が宿題?として再生されて写って来ているのです。
 

潜在意識に未解決として心に残っているので、また写し出されてきた

その問題を今生でどう処理、解決をして行けばいいのか?
 

神様は問題を解きなさい、クリアせよとおっしゃっているのか?

・・・・・・・・
 
それは解かなくてもいいのです(笑)
 
その時(前生)に解けなかったからといって「やり直し!」をさせられているのではないのです(笑)
 
解かなくてもいいから、それはもう過去で経験をしたことだから、その経験は神さまから離れた間違った想念や行為(迷い)だったのだから、過去をほじくり返す必要はない、ただ客観視し、俯瞰視して「もう写って来ているこれらは終ったことなんだ、消えてゆくんだ」「自分は神の子だとわかった時点でもう肉体界に生まれて来る(輪廻転生は終わった)ことはないんだ」 と映画鑑賞をしているときのように観ていればいいのです。
 
そしてそのときに『世界平和の祈り』 を祈り、自分の想念を祈りの中に投げ入れてやると前生での業想念、業因縁、間違った考えだったこと、悲しかったこと、怒ったこと、赦せなかったことなどあらゆる感情が次々に光の溶鉱炉の中で消えてゆき、完全に過去(輪廻転生)は消えてしまうのです。
 
過去が消えれば後は未来しかありません。
 
進化するとは、前だけを見て進むということです。
 
宇宙には未来(神界)しかないのです。
 

世界人類が平和でありますように

日本が平和でありますように

私たちの天命がまっとうされますように

守護霊さまありがとうございます

守護神さまありがとうございます

 

*この祈りは五井先生と神界との約束事で、この祈りをするところに必ず救世の大光明が輝き、自分が救われるとともに、世界人類の光明化、大調和に絶大なる力を発揮するのです。



本文

『宗教問答』にある、肉体人間の誕生や前世についての質問に対する五井先生の答えの最後に、輪廻転生の輪から解脱して、それで終わりではない、ということが書かれています。

そこから初めて神の分霊としての人間の第一歩が始まるのだ、という意味のことを説いておられますのでご紹介します。

本論を書くにあたって、このことを私は申し上げたくて、今までペンを進めてきたわけであります。

最後に、最も大事な真理をお話し致しておきましょう。

それは今まで説いてまいりました 「転生」 や 「前世」 や 「再生」 などということは、人間の本体の世界、本心の世界のことではなく、あくまでも業想念の世界のことであって、人間本体は常に、神の世界において光明燦然たる光を放ちつづけている、ということであります。

その真理は肉体人間の頭脳で知ろうと知るまいと、厳然たる事実であって、この世や幽界、霊界を往来している人間(霊魂)は、水に映っている影のようなもので、その実体はなく、いつかは消え去ってゆくものであります。

ですから、真理の面から一言にして言えば、人間が自己の前世を云々したり、過去世の因縁や今生の幸不幸にひっかかったりして、一喜一憂しているのは、消え去ったもの、或いは今現われて消え去ろうとしているものを把え、追いかけるようなものであって、あまり知恵のある話ではないのであります。

前世云々と、常に言う人たちがありますが、前生はまたその前々生があり、そのまた前生があるので、いつの時代がその人の運命にいつ現われてくるか、はかり知れないのですから、すべての事物は、皆現われては消えてゆく姿として、その姿に把われる想いを世界平和の祈り、神のみ心の中に投入しつづけていれば、真理の世界にいつかしらず入っていって、自己の神である実体を知ることが出来るようになるのであります。

この大事な真理の話を書き写しながら思ったことは━

 この世界に生まれて肉体を持ったことは、自己が神であることを知るためであり、そのために悲しみや苦しみ、喜びや楽しみを味わいつつ、実体を知るための経験を、今、一つ一つ積み重ねているところであり、その一つ一つの経験がたいへん重要なものである、ということです。

五井先生は始めに、人間本体論を説き、因縁因果論も同時に説き、その上で因縁因果すべてを“消えてゆく姿” と断じ、それを世界平和の祈りの中に投入することによって、本体の自己を現わせるように、観念的にも、実質的にも覚知するように、私たちを導いてくださっております。

因縁因果論も私たちの覚醒にいたるまでの修行に必要なものであり、覚醒に至ればみな消えてゆく姿となって、目の前から消えてゆくものであります。

それゆえ修行として 

 

 うつりくるものなべて消ゆ消え去ると ひたすら想へ心素直に 五井昌久 

となるわけです。

 

『神の満ちる星の話』(五井先生が語った地球と人類の未来図)高橋英雄著 白光出版




 

 

霊的な人は気をつけよう!

 

■『日々の祈り』から

 

 
(五井昌久著、高橋英雄編)白光出版

 

「霊能的人々に必要なこと」

 

 霊能的な人のほうが早く悟りの境地に入りやすいように思われますが、そう割り切ることは出来ません。なぜなら、霊能的な人には幽界の波動の邪魔が多くあり、神のみ心と波長を合わせる非常な妨げとなるのです。

 第一に感情の波を乱されるということ。急に怒りっぽくなったり、悲しくなったり、淋しくなったりする一方、なんだか自分が偉い人物に思われてきたり、人を劣等視する観念の波を受けたりするのです。

だから、精神の安定が保たれず、宗教精神のうちで一番大事である、調和の精神を乱すことが多くなるのです。宗教精神とは大調和の精神が根源のものであって、それが愛、誠の行為として現わされるものなので、調和の精神に欠けていたら、他のプラス面が大割引きされてしまうのです。

 

感想・・・上記に書いていることはまさしく私が経験したことです。私の知り合いでとても霊的な方がいらっしゃるのですが、幽界、霊界、神界の影響をとても受けやすいのです。そしてその人を「素晴らしい神そのものだ」と思える時と「動物以下だな(ごめんなさい!)」と思えるときが交互に現われるのです。

周りの人はそれに振り回され、結果、その人は信用を失ってしまいます。

私は霊的ではないのですが(幽界の生物、守護霊様守護神様は見えません)、「ああ見えなくてよかった」と胸をなでおろすのです。

霊的な人は大変だと思います。普通人にはわからないご苦労があると思います。しかし周りの人に感じさせないように一般の普通の人と同じように生きていかれることを願います。大変でしょうが、頑張って?ください。(この世的なことから逃避して邪な霊能者などにならないでください)

 

 

 

2018年11月11日 (日)

日々の指針(今、人類に必要な生き方は?)

 

 

 

1、自らの怒りは原因がなんにしろ、結果、自らを傷つけてゆく。

 

 

1、人類のすべてが神聖復活に目覚めれば、人類一人一人の私利私欲は、自然と消え失せ、不安、苦しみからも解放されてゆく。

 

 

1、人生のいずれの時期も、あなたが蒔いた種の結果である。 これからは、神聖のみを蒔きつづけてゆくのだ。

 

 

1、報酬とは、どれだけ人のために尽くしたか、そのものである。

 

 

1、自らが日常繰り返し使う言葉こそが、自らの人生を築いていっているのだ。 「ダメだ」 「出来ない」 「無理」 は決して使わないよう努力しよう。

 

 

1、人の心は放っておくと不安、不満、嫉妬に、あるいは高慢、慢心に陥りやすい。 日々の心がけこそ大切である。

 

 

1、見事な人生を生き抜いた人たちは例外なく、物事を前向きに考え、感謝の心を忘れず、謙虚にして人のために捧げ尽くした人である。




            『日々の指針』     西園寺昌美






 

 

 

2018年11月10日 (土)

魔(間)が差すとは?



 

“魔が差す” とは?


心の中に悪魔が入ったようになるという意味なのだそうですが、

私たちはちょっと油断すると後から考えると信じられないようなことをしてしまうときがあります。

 

この魔は、何の前触れもなく、容赦なく、土足でずかずかと心の隙間に入って来ます。(油断大敵!)

ぼんやりと集中力を欠いて運転しているときに人を轢きそうになる。

相手の立場を考えずに悪魔のささやき(幽界のおばけちゃんの悪戯)のままにしゃべってしまう。

後悔先に立たずではないけれど後から想い起こすと冷や汗が出て来るようなことがあります。

ほんの一瞬の間に、この魔が入って来るのです。

これは自分が自分の本心(神、守護霊、守護神)とつながらずに、幽界につながってしまった結果なのです。

わたしには、最近

「しまった、魔が差した」

ということはほとんどありません。

それはぎりぎりのところで守護霊、守護神様に助けていただいているからだと思うのです。

先日も車の運転中、すぐそばを人が通りかかりました。

歩いていたその人は私の視界から外れていました。

当たっていてもおかしくない状況でした。

でも瞬間、信じられないくらいの反射神経でブレーキを踏んでいました。

そして

踏んだのは自分ではなく、守ってくださっている守護霊様だとわかりました。

意識を守護霊守護神に向けていると頭で反応する前に体が勝手に動くのです。(動かしているのは守護霊様です)

それはぴったりとつながっているからです。

いつも自分を守ってくださっている守護霊様、守護神様に感謝をしているといざというときに守ってくれるのです。

そして、私たちは寝ます。

 

寝ている間は無防備です

その間に何かがあったらどうすることも出来ない。

しかし守護霊守護神は24時間プラスαで守ってくれている。

人間は、肉体人間の自分の力だけでは生きていけない。

今から一分先のことも何が起るかわからない。

しかし守護霊守護神は一生を通して未来に何が起るかがわかっている。

過去の聖者、賢者たちは守護霊守護神の存在を知っていました。

知っていたからこそ聖者、賢者になれたのです。

世界平和の祈りの中には守護霊守護神への感謝が入っています。

だから完璧な祈りなのです。
 

間(魔)が入らないようにたゆまない祈りをすると守られやすいのです。
 

 


世界人類が平和でありますように 

日本が平和でありますように

わたくしたちの天命がまっとうされますように

守護霊様ありがとうございます

守護神様ありがとうございます





 

情報において大切なことはその量ではなく、情報に振り回されないことだ(西園寺昌美)



 

1.知識はあくまでも知識だ。 いくら知識を人よりもたくさん蓄えたとしても、それを身に修め、自分自身の人格や行いに現わしてゆかなければ、何ら意味がない。

只の肥満児と同じことだ。 肥満児がたくさん食べて食べて食べまくっても、それを完全に自分自身で消化し切れなかったならば、食べた分だけ全く無駄になる。 食べた分だけ輝くような健康体と美しいプロポーションにエネルギーを変えていかなければ、不完全燃焼に終ってしまう。

肉のかたまりや脂肪のかたまりが身体のあちこちにつき、醜い身体と化してしまう。

知識もそれと全く同じで、スマートにこなしてゆかないと、知識のみを鼻にかけた醜い人物に化してしまう。


 
2.私のライフワークは、この世に生きている人々に対して、「生きる」 ということは希望であり、喜びであり、栄光であって、決して悲しみや苦しみや憤りではない、ということを知らせることにある。

昨日いかなる苦悩があったにせよ、それはもう過ぎ去ってしまったことなのだ、それは明日を迎える希望の夜明けなのだ、ということを知らせることにある。

 

 

『日々の指針』 西園寺昌美 白光出版


感想・・・・1.たくさんの本が書店に並び、インターネットで何でも調べられるのに、私たちはそれらの恩恵を十分に受け、また活かしているだろうか?

かえって間違った知識が邪魔をしてうまくいくものもいかなくしてしてしまっているような気がします。

私はある人から、「これは自分にとって必要な本だと思ったら、7回以上読みなさい」と言われました。

それくらい読んでやっと気づきが生まれ、身に付くのです。

そういえば、食物も 「20~30回噛んでゆっくり食べなさい」 と言いますね、 同じだと思います。



2.お金に余裕がある人でも「生きる希望」つまり目標を持って生きていない人は、ただお金を使って生きながらえているだけであり、死んだも同然です。

一方、人のために生きている人は光り輝いているのです。

人の為って偽りだという人がいますが、相手の感情(表面的な上っ面の喜び)を喜ばせるのではなく、魂、本心を喜ばせることがほんとうの愛であり、他人も神(人即神也)なので、人の魂を喜ばせること、神聖を輝かせる手助けをすることは最高の徳なのです。

私にとってのライフワークとは、昌美先生と全く同じなのだと気づきました。

 

 

 

2018年11月 9日 (金)

運命を恐れるな(悪や不幸を超える生活)

 



 

運命を変えるのに一番良い方法は、ほんとうの自分を知ることである、と五井先生は述べておられます。

自分(人間)は神である、神とは完全であり、あらゆる英知が宿っている、そして天と地を貫く光りの波動体になれば、エネルギーは調って、やがて目に見える3次元も整ってくるのだ、ということです。

私たちは、善と悪、好きと嫌い、男と女・・・・どうしてもどちらかに分けようとします。 別のものと区別しようとします。

しかしこれらのものは表裏一体同じものであるとわかります。



 

『光明を見失わない心の用意』
 

 

人間個人の環境にしても、体が不具であったり弱かったり、あるいは貧乏な家庭に生まれたり、というように悪条件の環境に生まれ育っている人々も随分あるわけなのですが、この悪条件というものが、どうにもこうにも、如何なる時間をかけ、どのような方法を取っても、超え得ることができない、というような悪条件というものはそんなに数多くあるものではありません。

絶対に無いともいえるのです。

如何なる悪条件の中にも、その悪条件を土台にして、善なる立場に飛躍できる瞬間、チャンスというものを、神々は、あらゆる人々に与えておられるのです。

ただ、その瞬間とかチャンスとかを見出すための心の用意というものが人間には大切なのであります。

国家や人類そのものにしても、そうなのでありますが、国家や人類というものは、個人が集ってできているものなのですから、やはり、個人個人の心の用意が大事であるということになります。

私のこれから言おうとしている心の用意をさえできていれば、どのような悪条件の中にあっても、人間は光明を失うことはないし、いつかは、その悪条件を超え得て、広い深い、真善美の世界に跳躍することができるのです。

それは、あに、天才でなくとも容易に出来得るのであります。

その場を、私は常に、様々な話し方で説きつづけているわけなのです。

人間というものは全くおかしなもので、自分達が、一体どこから来て、どこへ行くのか、どんな風にして自分というものの生命が存在しているのか、自分というものは一体どんなものなのか、等など、実にわからぬことだらけの中で、自分というものを主張して生きているわけで、よくまあ、何にも知らずに生きていられるものだと、心ある人は自分自身にあきれながら生きていることでありましょう。

そんな人間たちが、自己というものを、万人が認めながら、自己という立場に立ってのお互いの幸福というものを追い求めているのですが、自己というものがあり、自己の立場というものがあるばかりに、お互いに自己を主張して、かえってなかなか自分たちの思うような安心立命した平和な生活に成り得ないでいるのです。

個人も国家もこれは同じことなのであります。

ところでこの自己というものが、果たしてどんな自己であるかといいますと、自分自身でも、まるではっきりわかっていない。

どうして生まれてきて、どうして亡くなってしまうのか、亡くなった先はどうなるのか、なんにもわかっていない自己なのであります。

そしてお互いが、そうしたわけのわからない自己や自国や自民族の自己主張をして、争い合っているわけなので、平和を欲っしながらも、いつまでたっても平和になりっこないわけなのです。

それはその筈です。 真実の自分や自分の国の使命(ミッション)がわかっていないで、どうして、他人や他国の為が計れましょうか。

暗中模索で、その場その場の利害損失で事を運んでゆくだけということになってしまうのであります。

現在の人間の大半が知っていることは、人間はオギャア、と生まれてきた赤児の時から始まった肉体人間であって、そうした肉体人間としての一生を無事に幸福に過ごせればよい、ということなのであります。

精神といっても肉体に付属した精神的な考え方をいうのであって、肉体未生以前から、肉体消滅以後までの個性ある永遠の生命としての人間を考えての精神とは、一般の人々は考えていないわけなのです。

ですから一般の人々の思想の中に流れているものは、眼に見え、手に触れ、耳に聞こえ、環境と現われてきている状態だけが主なる運命であって、五感の世界に現われていない運命というものは重点を置こうとはしないのです。



『未来の未知の足音』

ところが、五感に感じない運命の流れというか、未来の世界のさざめきといおうか、眼にも耳にも手にも触れないのだけれど、何か自分たちに迫ってくる本来の未知の足音をそれとなく大衆は感じ取っているのです。

何か判然としないけれど、肉体人間の現在の自分たちから発しているのではないが、何か自分達の運命に深い関連をもつ波動のようなものを、漠然と感じているのです。

 

それは生命の本源の世界からの響きなのか、業想念波動の流れのさざめきなのか、人類は、その両面の響きをそれとなく感じとっているのです。

 

しかし、それでいて、自分たちの行動は依然として、肉体人間としての自己に固執した生活の波を抜け出ようとはしていないのです。

 

しかし、肉体人間的自己をのみ主張していての、善悪の時代はもうすでに去りかかっているのです。

 

単なる肉体としての人間観では、自分自身も人類も滅亡する他にない、という未来の足音が、誰の心にも響いてきているのです。

 

それなのに、多くの人々は、今日までの習慣で、なんとなくそうした未来の足音から耳をそむけるようにしているのであります。 

 

戦争から平和、平和から戦争へという、今日までの人類の輪廻的発展過程にいよいよ終止符を打つ、滅亡か永久平和かの最終的段階に今日の世界は到達してしまったのです。

 

ですから、個人個人の思想も、今までのような世界観から脱皮しないでは、苦しくてどうにもやりきれなくなってくるのです。

 

今日までのように、一つ一つの事柄をもってきて、自分が悪いの人が悪いの、といっていたのでは、未来の光明世界に足音を合わせていけなくなるのです。


 

 

『この世の善悪は完全さが現われるための光と影の交差』

 

この世に現われてきている善いとか悪いとかいう、一つ一つの現象は、それは単に、真実の人類の姿が現われてくるための光りと影の交差であって、それが固定した悪とか善とか、いうものではないのであります。

 

自分にとって昨日まで悪かった人が、何かの都合で、善く現われてこないとは限らないのです。

 

また悪くされたそのことがかえって、自分自身の発展の動機となってゆくことも多々あるので、善いとか悪いとかというのは、こちらの取り方によって、どうにでも変わってゆくのです。

 

どうせ変らせるのならすべて善いのだというほうに変らせたほうが、自分の発展にも人類の光明化にも役立つので、そうしたほうがよいのです。

 

ただそうするためには、どうしても、人間は神からきている神の分生命であって、すべては兄弟姉妹なのだ、という根本的な人間観に立たないといけないのであります。

 

神は大親様であり、人間は神の子である、人間の運命のすべては、神のみ心の現われとしてあるのであって、悪や不幸のように現われている場合でも、それはみな、より大きな広い善の立場に、その人を進化させるためのものであるというように、神の大愛を信ずるようにすることが大事なのです。 



『運命を恐れるな』 五井昌久 白光出版

 

 




 


 

 

2018年11月 8日 (木)

五井先生はすべてをお見通しなのです

 

 

【「ある日の五井先生」清水 勇 著より】

 

 叱らず、優しく、さりげなく

 

 

 次のエピソードは、聖ヶ丘道場の近くに白光会館という宿泊施設があった頃のことです。木、金曜の二日間にわたる宿泊錬成会が聖ヶ丘道場で行われ、会員は年に一度だけ受講することができました。

 

私が担当講師として参加した時のことで、今から三十年以上も前のことです。

 

 プログラムには載っていませんでしたが、昌美先生が突然、錬成会にお出まし下さいました。受講者にとっては予想もしていなかったことなので大喜びでした。昌美先生はご法話が終わってから、受講者全員を柏手を打ってお浄めして下さいました。

 

私は他の担当講師とともに陪席していて、お浄めをなさっている間、目を閉じて講師席に座っておりました。

 

いつも耳にしている五井先生の柏手と違って、昌美先生の柏手の音はペチャペチャという感じで、男性の手と女性の華奢(きゃしゃ)な手との違いもありますが、意外な感じがしました。「冴(さ)えない音だな」と失礼ながら一瞬そう思いました。

 

 練成会の翌日のことでした。ガラガラと道場事務室のガラス戸があいて、突然、前触れもなく五井先生がいらっしゃいました。私の机は出入り口から離れた奥のほうにありましたので、先生に向って会釈し、そのまま仕事を続けておりました。

 

 先生は二、三の職員と言葉を交わした後で、私のほうに歩いてこられ、仕事をしている私の後ろを通り過ぎる時に、独り言のように、「昨日の練成会の昌美のお浄めは素晴らしかったね、神そのものだったね」とおっしゃいました。「穴があったら入りたい」とはこの時の私の心境です。

 

 私がふと思ったのは錬成会の開かれていた大道場でした。その時、五井先生がいらしたのは昱修庵(いくしゅうあん)*(大道場の隣の会長室の建物)です。

 

*昱修 昭和四十年代に白光真宏会と交流のあった紅卍字(こうまんじ)会から、五井先生に贈られた道号で、日の光を身に修(おさ)めるという意味。

 

私が一瞬発した想念がなぜ五井先生に判ったのでしょうか? 遠隔透視? 他心通? いや違います。聖ヶ丘道場は五井先生のお体だからです。私たちの発した想念などは、手に取るようにお判りだったのです。

 

 五井先生の前に座るということは、鏡の前に座るようなもので、その人の全てが映し出されているのです。隠しようがありません。

 

「わたしの前にすまして座っていても、私はかくかく、しかじかのことをやってきました、と録音テープをまわして聴かせているようなものだよ」とおっしゃったことがありました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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