2018年10月20日 (土)

神社仏閣へはむやみやたらに行くものではない



 


昨今は、スピリチュアルブームなので神社仏閣にお参りに行く人が多いと思います。

実は私は神社仏閣が苦手?なのです(苦笑)

なぜかというと多くの神社仏閣が幽界のおばけちゃんの棲家になっているからです。

神社などは、神のやしろ(社)というくらいだから神さまが住んでおられるはずなのですが、宮司さんがなまけて祝詞を怠る、浄化を怠る、あるいは浄化する霊力がない場合は、お参りに来た人に憑依しようとする不良霊などの格好の餌食になるのです。

「楽して儲けたい」「神秘力を持ちたい」「人の気持ちがわかるようになりたい」などと欲を持ってお参りすると、オバケちゃんと共鳴してしまうのです。

新聞やテレビなどで取り憑かれた人などは報道、放映などされませんが、結構あるのです。

行くのはいいと思います。

しかし邪な考えを持って行かないことです。

今、アセンションによって3次元は消えようとしています。

幽界も消えかかっています。

最後のあがきで肉体人間に取り憑こうとする輩がうごめいています。

行くのなら、守護霊さん守護神さんありがとうございます、どうぞお守りくださいと感謝し、お願いしながら行ってください。

守護霊さん守護神さんとしっかりつながっていれば、十分に守って下さる、願いも聞いて叶えてくださる(その人の魂の成長になることなら)ので、そのような危険な場所に行くことは必要ないと私は思います。

それから幽界の生物に取り憑かれている人の見分け方ですが、その人の学歴や地位などに関係なく、考え方、やっていることが精神的に幼い感じがしたり、偉ぶったり、なぜそんなことで怒るのか?というように感情的なのです。

幽界の生物たちの共通した特徴です。

常識ある人たちは、「この人はおかしい」と相手にしないのですが、一旦信じてしまうと冷静に観ることが難しくなります。

自分も他人も客観的に観るようにしましょう!



問   俗に、キツネとか、タヌキが憑くといわれているが事実あることでしょうか。


答 


狐、狸といっても、動物の狐狸のことをいうのではないので、幽界に住む、感情霊、動物霊ともいう、霊魂のことなのである。


医学でいう精神病や、行者の一部には、こうした感情霊に憑依されている場合がたくさんある。


神詣りばかりしている人が、突然、種々の予言をするようになったりすることがあるが、この場合にも、この感情霊の作用が多い。


この感情霊は、霊と普通にいわれているが、実は魂(因縁の波の集り)つまり、迷いの念の波の中に生まれたもので、迷いの念の一つの現われともいえる。


すべて、興味本意、感情本意に行動していて、人間のように、愛(神)を内部に持っている霊魂ではないのである。


従って、人間の本体(本性)とは、まるで違った生物なのである。


いいかえれば、人間にとって一番大事な心、愛と知性を取り除いた、その他の念(おも)いでできているものである、といっても間違いではない。


人間の中にも、愛も知性もなく、利害や、感情のみで、敵になったり、味方になったり、やたら褒めたり、けなりしたりする徒輩(やから)があるが、こうした人たちは、人間というよりは、動物霊に近いというべきで、こうした念の人が、幽界に行くと、今度は、これらの動物霊と、一つになって、迷信家や、低い念の行者に憑依して、肉体の人間を面白半分に迷わせるのである。


形の世界は、すべて、想いが写ってできているので、狐のような想いは、そのような形に、蛇のような想いは、蛇のような形に霊眼に見えたりするのである。(心霊家や、研究家の一部では、天狗、狐、狸などを、自然霊と呼んでいるが、私はただたんに感情霊と呼んでおく。何故ならば、私の説明は自然霊と呼ぶ広範囲の説明ではないからである)



こうした感情霊の憑依を受けぬためには、私の最も主張する、守護霊、守護神への感謝と、愛と真心の行動をしていればよいので、いたずらに奇を好み、霊力を欲するような態度は、厳に戒むべきである。



懸命に信仰をしているように、自分も思い、人にも思われていながら、不幸が絶えぬ人や、信仰していることが、かえって家庭の調和を乱している人や、信仰しているその信仰のしかたや、日常の行動が、奇矯に流れているようでは、その信仰のしかたのどこか誤りがあるので、そうした家庭には憑依霊作用が多いのである。



興味本位の神廻りや、ご利益本位の信仰は、実に危ない気がするのである。


まず、よく自己の本心を顧みて、一生はおろか、神と真に一体になるまで、導いてくれる良い師に出会うよう、守護霊、守護神に祈るべきである。


守護霊は、自己と全く一つの者であるともいえるので、心の中で、常に守護霊、守護神を念じていれば、必ず、その人を邪道から引き出してくれるのである。


そうした心で、入った信仰や、集まりなら、たとえ、その入会の動機が、ご利益からであっても、ついには、真の浄まりにまで、その人を高めてくれるに違いない。


そうなれば、憑依霊の心配は勿論ないのである。



 

  『神と人間』問答篇 五井昌久




 追伸・・・・私の気功仲間(調和波動気功法)の人が初詣のときにすごく嫌な予感がしたそうです。

しかし自分だけ行かないわけにもいかず、しぶしぶ付いて行ったのですが、そこでとんでもない動物霊がいたそうです。

そしてしばらく憑かれて大変な目に遭ったと言っていました。

この方は守護霊さんとつながっていたので、直観(神智)として知らせてもらったのですね。

守護霊さんとつながることの大事さがわかります。

 

 

 
 

2018年10月19日 (金)

これから人間は宇右衛門さんになっていく


 


混とんとした今の世の中において地球の行く末はどうなるのだろう?と不安になりますが、それよりも人間の性根といいますか、性格、人格、人柄がどうなっていくのか?私は興味があるのです。

 

アセンション(次元上昇)とは、物質文明から精神文明、霊(神)文明への移行です。

 

人間がより人間らしく、人間とは神なので神様、仏様のようになっていくのです。

 

以前、五井先生のご著書『生きている念仏』を読みました。

 

今から2百年も前の話なのに全然古くないのです。

 

それはこれから人間が「生きている神様、仏様」になっていくからです。

 

このような人たちばかりになればそれだけで地球は天国になります。

 

昔の話ではなく、近未来の人間の姿として読んでいただければ幸いです。


 

 

兵庫県揖保郡太子町北村というところに、二百年前に、宇右衛門(うえもん)という馬子(馬をひいて人や荷物を運ぶことを職業とした人)がおりましたが、この宇右衛門は、若い頃力自慢で乱暴な人でしたが、或る時念仏の説法を聴聞しているうちに、後生の一大事、という阿弥陀如来の本願を説き聴かされ、非常に興味をもって念仏門に入ることになりました。


そして次第に心改まり、唱名念仏絶ゆることなき、昔とは別人の柔和にして不言実行の信者となり、馬子もやめて、農業に精を出し、かりそめにも人と争わぬ、法のまま生くる生活を身心に行じるようになりました。


昔、禅宗の大徳白隠禅師が、近所のいたずら娘の懐胎の罪をなすりつけられた時、そうかと言って、無実の罪を引き受けられたことが、美談となって伝わっておりますが、宇右衛門にも、これと同じような佳話があるのです。


太子町太田より南、山陽線にそって山戸というところがあります。この村の某という者が、亡父十七回忌法事の記念に仏壇を買い、宇右衛門にこの礼拝を頼みました。

宇右衛門はその家を訪ね仏壇を礼拝して帰りましたが、その後で大変な問題が持ち上りました。

それはその某が金二十五両を仏壇の引出しにしまっておりまして、いよいよ入用だという日になってあけてみますと、その金子がありません。

仏壇の前に行ったものは、家内のものか、宇右衛門しかおりません。

盗人の入った風もありません。

そこで某は女房に向い

「宇右衛門さんは正直な念仏者ではあるが、凡夫だからふと盗み心が起ったかも知れん。」と話しますと、女房も同感したので、某は急いで宇右衛門の宅へ参り実はかようかようでと、さも言いにくげに申しました。

大抵の人ならこんな疑いをかけられたら、腹を立てて怒鳴りつけてしまうところですが、宇右衛門は怒るどころか、その話をきき終わるなり、どうもすまぬことを致しました、といいながら、二十五両の金を渡してその罪をわびました。

さてその後、その人の隣の人が用事があって大阪に行き、その人の息子の家に立寄り、四方山(よもやま)の話のついでに宇右衛門が、仏壇の引出しから金を盗んだことを話しました。

息子はびっくりして、その金なら実は私が大阪に来る時に持ち出した、実に宇右衛門さんに済まぬことをした、と急いで山戸に帰り、両親に打ち明け、その足で宇右衛門の所へ行き、重々詫びながら二十五両を返しますと、宇右衛門はかえって気の毒そうに、それでは前生でお借りしてはおりませんでしたか、といってその金を受取りました。━


宇右衛門のこの素直さはどうでしょう。現代の人からみたら、馬鹿ではなかろうかと思われますが、何事がでてきても、過去世の因縁の現われと思いこみ、すべての出来事事柄を、過去世と結びつけていて、今生だけの出来事とは思っていないのです。

自分の顕在意識(あらわれのいしき)では判らないが、すべては阿弥陀如来様のみ心によって現われてくることなので、その事柄が如何に自分に都合の悪い事柄であろうと、素直に受け切って生きてゆく、という素晴らしい真理の生き方を、何気なく当然のこととして行じている、この宇右衛門の素直に徹した姿は光輝く尊いものです。

現代の人の生き方の習性は、自分の間違った行為でも、何とか言いぬけて、自分の損にならぬように、という、今生の瞬間瞬間利害関係で動いているそういう人が多いのです。

天と地の差です。

これが白隠ほどの学問修行を積んだ人なら又別格ともいえるでしょうが、馬子上がりの百姓爺の学問知識のない人の行為なのですから、宗教の道は百知は一真実行に及ばず、という守護神の言葉がよく判ります。

 

妙好人宇右衛門の他にも、そうした種々の話があります。もう一、二書いてみましょう。

 

・ある村に源左という無学の農民がいた自分の畑に行くと人の掘って荒らされた跡があった、これを見た源左は、「こりゃ手でも怪我さしちゃならんだがやぁ」そう言って、わざわざ鍬をそこへ置いて帰った。

 

 

又、或る日、源左が家路を急いで帰っていると、知らぬ馬子が、源左の大豆畑に馬を入れて食わせている。

 

源左は「馬子さん、そこらのはま赤なぁけ、先の方のまっとええのを食わしたんなはれな。」馬子は逃げるように去って行った。

又、或る時源左がお金を受け取った後、これを懐にしていつもの如く「なんまんだなんまんだぶようこそようこそ(ありがとうございますという意味)」と念仏を称えながら歩いていると、うさんな男に後をつけられた。

 

男は出獄したばかりの前科者であったというが、源左が店から金を受け取ったのを見ていた。

 

峠にさしかかる頃、いよいよ様子がおかしいのを知って、源左はその男に振り向いて、「おらぁの持っとるむんに、お前にゃ欲しいものがあって、ついて来よんなはるか。欲しけりゃ上げもしようが、まぁ如来様のことを話さしてつかんせい」 そう言って連れ立って、法話をしいしい遂に村まで来た。

 

男は源左がの人柄に手の下しようがなかった。

 

かくて夜にもなったので源左はその男を自分の家に連れて来た。

 

早速家内の者に食事を仕度させ、遂にはその晩は泊めてやり、あたり前のようにもてなした。

 

そうして翌日には弁当をもたせ、いくらかの金をもやり、人目につかぬように朝早く立たせた。

男は源左を拝んだ。





 

『生きている念仏』 五井昌久 白光出版











 








 



 








 

2018年10月17日 (水)

人を恨まずに生きていけたら、どんなにか幸せな気持ちになれるでしょう



 

今、日本では外国人労働者を受け入れて永住させる施策が決まりました。

 

評論家の人たちは諸外国の例をあげて外国人は日本人と違って素行が悪い、育った環境が悪いので将来が心配だ、悪法だと言っています。

 

しかしそうでしょうか?

 

日本に来ている外国の人たちは前世で 「日本人だった」 そうです。

 

日本人の魂が宿っています。

 

そして日本の風土が外国の人たちの意識を変え、日本人の“生き方 に染まっていくと思うのです。

 

五井先生の「生きている念仏」を読んで確信したのでした。

 

みなさんもお読みになって安心してください(笑)

 

 

 

 

宇右衛門は自分のことよりも、人の為に村のために働いた人であります。総体に百姓は夏田の水入れに皆苦労するのです。

干ばつになると特にひどく、みな吾が田に水を入れようとして、水喧嘩を起したりします。

我田引水(がでんいんすい)とはここから起った言葉で、この世の生活には個人個人の関係から、国際間の問題でも、この我田引水的やり方が多いのです。

ところが宇右衛門は全く反対で、もし他人の田に水がない時には、自分の田の水を落して入れてあげます。

そうして、私は水上ですからいつでも水が入れられますといい、水上の人には、あなたの田は水上ですから、遠慮なく入れて下さいと申します。

このようにあまりにも人の善い宇右衛門の行為には、村人も気の毒がって、皆々そのまま帰ってしまいます。

こんな風でいて、宇右衛門は村でも有数の資産家になってしまうのです。


                          *

又、宇右衛門は入信以来、如何なる事にも腹を立てたことがなかったので、村の悪い青年たちが四、五人集まって、宇右衛門を怒らしてみようと相談して、或る時、柴を背って姫路の御坊へ急いでゆく宇右衛門を川の中へつき落してしまいます。

つき落された宇右衛門は、ずぶぬれになりながら、怒ろうともせず、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と念仏を唱えながらああ、己が悪かったのだ、如来様へお供えする御仏飯をたく柴が、山で牛や狐や人間の小便で汚れているかも知れないのに、洗いもしないで持参するのが悪かったのだ、これからは柴や薪をよく洗ってもって行け、との仏様のいましめだと了解して、その後は必ず柴や薪は洗って御坊へ持ってゆきました。

村の青年たちも宇右衛門の信徳に感化されて言行をつつしみ、殺生を戒め、風儀とみに改まり、淳朴温厚、家業に精励したということであります。━


この話など、良寛さんの舟頭に川に落とされて感謝した話とよく似ております。実にみ仏に純一そのものの生き方です。

こういう話をきいておりますと、自然と心清まり、心温まる想いがします。

今更ながら、宗教の道とは言葉でなくて、その人の日頃の行いにあるのだなぁ、と思います。

ついでにもう一つ宇右衛門について心温まる出来事を書いてみましょう。


                 *


或る年の冬、宇右衛門の息子の嫁で、わがまま気ままの一家の手に負えぬ女が、宇右衛門の物の言い方が悪いといって、庭にあった横槌を取って舅に投げつけました。

その槌は宇右衛門の額に当ってたくさんの血が流れました。側にいた温厚な息子も流石に腹を立てて、お前のような女房は離縁すると門口へ引き立てて行きますと、宇右衛門はびっくりして、我が子の袖をひきとめ 「この親父が悪いのだ」 といって謝ります。

息子は 「とんでもないお父さんが悪いのではない。お父さんに手をあげるようなこんな不考な嫁は、切り刻んでも腹の虫が納まりません。何故お父さんは、こんなわがままな嫁をとめるのですか」と申しますと、宇右衛門は涙を流しながら「うちでさえ辛抱の出来ぬ嫁がよそへ嫁入って一日も辛抱できるはずがない。この家を追い出されては、この嫁の身の置き所がなくなってしまう。おれさえ辛抱すれば大事にならず納まるだ。

不心得な嫁を貰ったのはそちの不幸せ、私の因縁の悪いせいじゃ、何事も堪忍せよ。」とかえって息子をなだめ、お仏壇に参りお光をあげ、念仏を唱えて明るい顔をしていました。

流石の嫁もこの宇右衛門の深い愛に感激して、大いに後悔してあやまり、その後はうってかわった孝行な嫁となったのであります。━

この話なども、全く恐れ入ってしまう程、み仏の心に徹しています。

私の常に説いている、すべては過去世の因縁の消えてゆく姿、ただ在るのは神仏のみ心だけなのだ、という真理そのままの生き方をこの宇右衛門さんはしているわけです。

それがわざとらしくするのでもなく、気張ってするのでもなく、その場、その時々の出来事を、自然に光明化してゆく、無為にしてなす、という行為を、宇右衛門さんはいつの間にか体得してしまっていたのであります。




 おしまい

 

 

 

 『生きている念仏』 五井昌久 白光出版

 

 
 
 

地球は5次元になっている


 


にわかに信じられないかもしれませんが、今の地球は3次元でも4次元でもなく5次元に入っているそうです。(4次元は飛び超えた)

それも、もう7年も前に・・・

と言っている私も「えっ」と思っています(笑)


 

それが実感できないのは


消えてゆく姿(個人、人類の神様から離れた過去世の想念行為)が、まだ消え切っていないんですね

忍者が逃げるときに煙の出る火薬を地面に投げつけた

その煙がまだ煙った状態なので、神界が見えてこない

煙の向こうには、肉体界、幽界、霊界(4次元?)が消え去って神界が降りて来ている

今の地球はまさしくそんな状況だと思います。




「我即神也」西園寺昌美著 白光出版より抜粋


地球はね

今七劫という周期に入っています。

26000年ごとに大浄化されるのですが2012年がその時期なのです。

これまでに何回も浄化されてきたのですが完成までに至らなかった。

それが、今回でやっと完成するのです。

今までに完成されなかったのは、まだ生まれ変わる時期ではなかったからです。
 

愛が本物でなかったからです。

真理が本当にわかっていなかったからです。

   
地球は太陽系で一番遅れた星でした。

意識が低かったのです。

だから戦争があった

だから対立があった

だから神さまは次元上昇を認めなかったのです。
 

意識の高い星にはなれなかったのです。



肉体の自分しかみていないからです。

ダメな自分しか

愚かな人間しか

認めてこなかったからです。



私たちは一人一人が創造主なのです。

私たちは星を創っていけるのです。

そのことがわかるようになるのがアセンションの瞬間なのです。


真理とは我即神也なのです。


わたしたちが創造主なのです。


これがすべてのすべてなのです。
 

 

 

 
 『我即神也』西園寺昌美 白光出版  





 





 



 

悩みの実体とは?

 

 

 

私たちは常になにかで悩んでいます(苦笑)悩んでいない日、時がないくらいです。

 

しかし悩みはどこからやって来ているのかをほとんどの人は知りません。

 

実は悩みとは実体(態)のないものなんです。 

 

にせもの、幻です。

 

肉体界、幽界、霊界の低いところにはあるのだけれど、ほんとうの世界である神界(天国、ほんとうの自分がいるところ)にはありません。

 

地球がこれから次元上昇をしていくと悩みは無くなります。(嬉しいですね!)

 

悩みとは、闇が波のようにやって来るから波闇(なやみ)というのです。

 

ではその闇は、どこにあるのか?どこから来るかというと自分の心の中だけではありません。

 

人類の業想念、マイナスの想念、集合意識が闇となって一人一人に襲って来る。そして自分の中にほんのちょっとでも闇(業想念)があると共鳴するのです。

 

だから悩みは増幅します。初めはちょっとした心配事が雪だるま式に大きくなり、大きな悩みになる。

 

しかし人間は本来光そのもの、神の子なので、闇はないはずです。

 

ないはずの闇を持っているのが人間です。

 

お釈迦様が「人間は自分で自分の首を絞めている」とおっしゃったのは、人間が実在していないものを捉まえているということです。

 

幻をつかまえて「ある」と思い込んでいる。

 

自分を客観視すると闇が闇でないことがわかります。(心配事も苦労も痛みも悩みも過去世で起こったことが現れているだけ、今、起こっていることではありません)

 

次元上昇するというのは、人間が客観視し実像(神)と虚像(消えてゆく姿)の違いがわかるようになることなのです。

 

「世界平和の祈り」を祈り、印を組んでいると自分が光そのものになっていくので、実像と虚像の違いがわかるようになります。

 

実像、虚像の入り乱れた中にどっぷりと浸かっているから虚像の闇がわからないのです。

 

わたしたちは実像の世界、地上天国に住むようになります。

 

 

世界人類が平和でありますように

 

日本が平和でありますように

 

私たちの天命がまっとうされますように

 

守護霊様ありがとうございます

 

守護神様ありがとうございます

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2018年10月15日 (月)

運命を今から創りかえよう

 

 

 

神界といい、幽界といえど、すべて波動の世界でありまして、神界は光明波動そのものの世界、幽界は、様々な欲望の世界であります。

 

神々はこうした実情をよくご存知ですから、自ら肉体界に天降って、仏菩薩となって、真実の生き方を人類に教えたり、様々な浄めの方法で、幽界の欲望の波を浄めたり致して今日に至っているのであります。

 

人間は肉体という固まった動きの鈍い生物が人間だと思っているのですが、実は、光り輝いた無限能力をもった光明波動であることを、一日も早く多くの人々に知らせなければいけないのです。

 

善いにつけ悪しきにつけ、この肉体界は眼に見えぬ世界の影響によって生活しているのです。 

 

神界の光明波動か霊界の波動か、それとも幽界波動をすっぽりかぶって生活しているか、それによって、自己の運命がきまってくるのです。

 

ただここで人間にとって有難いことは、神々が人類の進化を助け、地球滅亡を防ごうとしていることなのです。

 

人類を救おうとする神々の救世の大光明は、日々強力なその救済の力を発揮しているのであります。

 

ですから、人類のほうから、神のほうに想いを向けていさえすれば、神の救済力は、まともに人類の運命の修正働いて、人類は救われてゆくのです。

 

地球人類が、神界の完成された未来を、この地上界に実現するか、幽界の滅亡図をここに画き出すかは、人類自体の想念行為そのものによることになるのであります。

 

ここで忘れてはならないことは、人間の精神も肉体もすべて波動として宇宙の中で、自らの波動圏をつくっているのでありまして、固定した精神でも、固定した肉体でもありません。

 

人間自体の意志力で、天にも地にも、右にも左にも、自由に活躍できるのが、私たち人間の本質だということです。

 

そこのところをじっくり想いみまして、自分自体の運命も、社会国家人類という共同体の運命も今から創りかえてゆけばよいのです。

 

もう過去に把われることはありません。

 

過去にはどうだったからだとか、人間というのは神とは違うのだからとか、人間だから仕方がないとかいう、そういう自己否定の想いをすべて、世界平和の祈りの中に投入しきって、私どもの人生を生きつづけなければいけません。

 

今の自分の想念が、自分の運命をつくり出しているのであり、社会国家人類の未来を画き出しているのである、という事実をしっかり心に思い定めて、これからの一日一瞬というものを無駄に過ごしてはならないのです。

 

 

『人類の未来━物質文明より霊文化へ』 五井昌久著






 

 

 

 

2018年10月13日 (土)

幽界、地獄界は消えつつある(もう消えている)

 

 

昌美先生は、「世界平和平和の祈り」「我即神也」「人類即神也」「神聖復活目覚め」の印などの神事よって幽界、地獄界は完全に浄まった、消え去った、とおっしゃっていました。

そうなのです。

 

エネルギー、波動はもう神界であり、地上天国は出来上がっている。


昌美先生は、未来(神界)をみておられるので、まだ、肉体界にどっぷりと浸かった肉体意識である私たちとはタイムラグ、時間差があります。

肉体界とは過去世の世界です。

3次元(肉体界)とは、過去世の想念行為が写っている世界です。

私たちが今と思っているまやかしの今は、過去世の幻影なのです。

本当の今は、肉体界、幽界(潜在意識の世界)にあるのではなく、霊界(霊界の高いところ)です。

そして未来は神界にある。


 

肉体界(過去)→幽界・地獄界(過去・潜在意識)→霊界(霊界の高いところは現在)→神界(未来)

 

  
昌美先生は神界のことをおっしゃっている。(そして幽界、地獄界はもう消えているとおっしゃっている)

しかし、タイムラグがあるため、私たちはピンとこない。

今(過去の幻影)の延長線上でしか物事を見れないから、過去世の業想念に振り回されている。

振り回されて幻影をつかんでしまうとまた、幻影が潜在意識にインプットされて幻影が繰り返される。

だから、くどいようですが(笑)

今は、今ではなく、過去の幻影が今だと思い込んでいるのだ、と徹底してわかる?ことです。

そして善いことのみをイメージする、未来に刻印する(果因説)

ほんとうの今は神界である

神界に意識を合わせれば、肉体界、幽界(迷いの世界)に惑わされずに、消えてゆく姿を冷静(霊性)に観ることができる。

その神界(天国、未来)に意識を合わせるメソッドが「世界平和の祈り」です。

そして人類の目を覚まさせ、自分が何者であるか(我即神也)を悟らせ、神界を早く顕わすために「神聖復活目覚めの印」を組むのです。


 


「すべては完璧欠けたるものなし大成就!」


世界人類が平和でありますように
日本が平和でありますように
私たちの天命がまっとうされますように
守護霊さまありがとうございます

守護神さまありがとうございます





 

 

 

 

 

 

 

 

 

2018年10月10日 (水)

今、起こっていることは、今のことではない

 

 

 

 

以前にも同じようなことを書きましたが、今、目の前で起きていることは、自分や人類の過去世での想念行為(想ったこと、行っていたこと)が映し出されているのです。

映画館で自分の過去世での行いを観ていると思えばいいです。

その上映内容が良いものであるにせよ、悪いものであるにせよ、ほんとうの今の貴方には、なんの関係もない。

ただ、スクリーンの上を流れて行くだけです。

 

もうすぐ時空を超えて、過去も現在も未来も無くなって行くのですが


大切なのは過去でも現在(過去の写し絵)でもなく未来です。

そして未来を輝かしいものにするには、ほんとうの今を大切に丁寧に生きることです。

過去の結果が現在、未来の原因が現在です。

ただ、消えてゆく姿の現在に固執してはいけません。

それは過去を悔いるのと同じです。

「今、起こっていることは今ではない」

「ほんとうの今は未来(神界)にあるんだ」

「未来を幸せにするため、「世界平和の祈り」を祈るんだ!

と思うことです。信じることです。

そうすれば、目の前の出来事、現象に惑わされることが無くなります。

今、起こっていることは

「まぼろし〜い」(笑)

なのです!


世界人類が平和でありますように

 
 
 
 
 
 
 

物質文明が終わりをつげ、霊文明が始まる


 
 
一部の若い人を除いて、総じて今の若い人は金銭欲、物欲が少なくなっています。

バブル期を経験していないこともあり、「大きな家に住みたい」「かっこいい車が欲しい」というマインドがないのです。
 
進化した星から降りてきた魂が多く、昔と比べると暴走族は減ったし、犯罪、自殺者も減少しているのです。
 
そして、感情的でもありません。
 
いつも言ってますように、感情は勘定=お金であり、ほとんどの争いは損得勘定から起こります。
 
ところで、世界の経済(お金)の動きは、感情を揺さぶることで生じます。
 
お金と物との交換は、語尾が「・・・しい」又は「・・・い」で終わります。
 
「美味しい」「欲しい」「嬉しい」「羨ましい」「美しい」・・・
 
「・・・い」は
「やばい?」「食べたい」「やってみたい」「行ってみたい」・・・
 
世界のマーケティングは感情を意識して企ててられているのです。
 
しかし、そのマーケティングも人間が冷静(霊性)で感情的で無くなるとしたら必要でなくなるのではないでしょうか?
 
お金を持っていないと親切にしない、助けてあげない、困っている人を見ても見ぬふりをする。
 
それは物資文明時代にやってしまっていたことです。
 
これから霊文明になるのと並行してお金が消えて行きます。
 
地球の磁場が変わって、電気系統が一切使われなくなってしまう、電子マネーも消える(復旧出来ない)
 
現金は過剰に刷っているので信用されていない(外国ではハイパーインフレが起きています)
 
中国などの経済が破綻して世界的大恐慌が起きる(元の世界通貨が紙切れ)
 
不動産バブルが弾け、株価も大暴落する
 
人間の物欲が無くなり、消費が落ち込む
 
物欲で成り立っていた商売が成り立たなくなる
 
A Iが生活必需品を大量に作り出すために物の価値が0円同然になる。
 
どのプロセスを通るのかは誰も予想出来ないと思います(神様のみぞ知る)
 
どちらにしても物資文明は終焉を迎えようとしていることは確かです。
 
宇宙の法則がそうなっている
 
肉体人間の力では止めることは出来ません!
 
お金が無くなる、いや必要とされなくなる日は、案外近いのかもしれません!
 
この動画、面白いですよ、近未来が垣間見れます!
 
https://m.youtube.com/watch?v=qp3ke79D6gk&feature=youtu.be
 

 

2018年10月 9日 (火)

今、起こっていることは、今のことではない!

 

 

以前にも同じようなことを書きましたが、今、目の前で起きていることは、自分や人類の過去世での想念行為(想ったこと、行っていたこと)が映し出されているのです。

映画館で自分の過去世での行いを観ていると思えばいいです。

その上映内容が良いものであるにせよ、悪いものであるにせよ、ほんとうの今の貴方には、なんの関係もない。

ただ、スクリーンの上を流れて行くだけです。

 

 
もうすぐ時空を超えて、過去も現在も未来も無くなって行くのですが

大切なのは過去でも現在(過去の写し絵)でもなく未来です。

そして未来を輝かしいものにするには、ほんとうの今を大切に丁寧に生きることです。

過去の結果が現在、未来の原因が現在です。

ただ、消えてゆく姿の現在に固執してはいけません。

それは過去を悔いるのと同じです。

「今、起こっていることは今ではない」

「ほんとうの今は未来(神界)にあるんだ」

「未来を幸せにするため、「世界平和の祈り」を祈るんだ!

と思うことです。信じることです。

そうすれば、目の前の出来事、現象に惑わされることが無くなります。

今、起こっていることは

「まぼろし〜い」(笑)

なのです!


世界人類が平和でありますように

 
 

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