2017年8月21日 (月)

スピリチュアル、霊能なるものは危険です




私自身がスピリチュアル、霊能系の人間だと思われているかもしれませんが、私は宗教(邪なですが)大嫌い、スピリチュアル、霊能者大嫌い人間なのです。

それは巷に溢れているものが怪しいもの、邪なもの、ニセモノが多過ぎるからです。

と言っても私はその系にはまったく興味がなく近づいていかないので、知人から情報を得ています。

そこには信じられないようなことが行なわれてるようなのです。

「第一チャクラを開いてもらうために何十万円を要求された」(恐らく悟るために)、「因縁生を消してやるからと30万円を持って来いと言われた」

・・・・これらは明らかにおかしな話です。

それは悟るという境地は、自分が守護霊守護神と一体となって、神界にいるほんとうの自分(本心)とつながることだからです。

チャクラとは、肉体の自分(吾)と本心が通じる上で大切な場所であることは間違いないのですが、それは人間側がどの境地(心境)にあるかによって守護霊様が開いてくださるものであり、外部の者が入り込む余地などないのです。

過去世の因縁生(幽体)を消すのも、自分と守護霊、守護神が三位一体となって、霊界と神界から守護霊さん守護神さんが計画的に消してくださるものなのです。

それを外(他人)の者が「お金をくれるのなら俺が消してやる」と言うのは、どんなこともお金さえあれば解決出来るという邪な考え方と同じなのです。

それは根本解決になっていないので必ずしっぺ返しがあるのです。

これらのものに頼るのは、極少数の人たちだけだとは思うのですが、老婆心ながらご注意申し上げる次第です。

五井先生のご著書『本もの贋物』の中から霊能がいかにいかがわしいか、そして危険であるかを抜粋します。くれぐれもお気をつけください。





1.いかなる悪因縁といえど、消え去るのである、という想いを持ちつづけ、守護の神霊としっかり心を通じて、つまり守護の神霊の加護に感謝をしつづけ、世界平和の祈りという人類愛の祈りをつづけてゆけば、神の光明は永遠無限のものであり、悪因縁は有限のものでありますから、世界平和の祈りのような善念、光明念波で魂が洗われて、いつかは、晴れやかな、明るい生活を迎えることが出来るのです。

これは守護の神霊の存在と、その働きを体験として経験しつづけている私にとっては、はっきりわかっていることなのです。

そういう自分自身を絶え間なく守りつづけていてくださる肝腎かなめの守護神さん、守護霊さんを忘れてしまって、人の心をちょっと見抜く霊能や、自分の周囲の人に霊動を起こさせたり、異言をしゃべらせたりするインドの昔のバラモン行者のような外道者の幻術に迷わされている人をみると、気の毒になってきます。

人間は誰も彼も、神の子なのであり、誰にも彼にも、専属の守護の神霊の守りがあるのに、何を好んで、自己の本体から離れた、外道の道に迷い込んでしまうのか、ちょっと不可解に想えますが、そういう人たちの想いをみますと、自己の心や現在の環境に不平不満の想いが蓄積されている人や、霊能というもの、普通人にない能力というものに、常に憧れている人、絶えず想念の揺れ動いている人が、そういう形で迷いの道に入ってゆくことになっているようです。



2.人格高潔で調和した人が、霊能力を備えている、というようなら、これは実に結構なことなのですが、霊能者には得てして、人格の常人より低劣な、常識外れの人が多いので、余程気をつけて近づかぬと、霊能者には危険性があるのだ、ということを知らねばなりません。

なんにしても人間は、一人一人がすべて神の子であり、神の分生命であることを知らねばなりません。

そして神が愛であることを知らねばなりません。

どんな不幸災難にしても、現在起こったようにみえましょうが、それらはすべて、過去世から今日までのその人の想念所業が集積の現われでありまして、そうした業の集積が現われて消えてゆくことによって、その人の本心が開き、その人の神の子の姿が輝き出すのですから、消えてゆく業を抑えようとして、神詣でをしても、行者詣りをしても、それは根本の考えが誤っているので、どうにもなりません。

一時は行者や霊能者の力で、その不幸や病気の症状を抑えてもらえたようにみえましょうとも、それは一時だけのことで業は消え去ってしまったのではなく、内にこもっただけなので、機をみてまた現われてまいります。

ですから、消えてゆく業を他人の力で抑えようなどとはしないで、ひたすら自己の守護の神霊を心で呼びつづけるのです。

そして守護の神霊の加護によって、自己の本心の光明を表面に導き出してもらうのです。

本心の開発こそ、この世もあの世を通して、最も大事な人間のなすべきことなのです。


 

 

3.ところが、人間の肉体生活にふりかかってきている不幸災難があまりに辛過ぎると人間はつい焦ってまいりまして、自分には専属の守護の神霊が存在することを知っている人でも、ふいとそうした存在を忘れてしまって、巷間の行者や霊能者に頼っていってしまうのです。

これは守護の神霊の許可を受けて行なったわけではないのでたとえ一時お陰があったようにみえても、後で必ず、その行者や霊能者の背後霊に負い目を受けて、返礼しなければならなくなります。

それはその行者や霊能者の背後の憑依霊魂の業を背負わされるとか、金銭的に相当の額のものを取られるとか、なんにしても、自己が背負っていた業の一時引受料を、必ず取られるのです。

それが金銭的な時はまだしもよいのですが、憑依霊魂の業を背負わされるなどは、とてもたまりません。

それなら自分がはじめから払わねばならなかった、本来の業因縁を自然に現わして消し去ったほうが余程、自己の霊魂の修行のためになるのです。

ですから、自己の行動は常に心の中で、守護の神霊に相談しながらやってください。・・・・・・・



『本もの 贋物』五井昌久 白光出版


2017年7月 8日 (土)

人の態度に一喜一憂してしまう自分をなんとかしよう




人間関係の一番の悩みは他人の自分に対する態度だと思うのです。

いつものその人のイメージがあって、そのイメージと違う態度を取られたら、

「自分に対して何か怒っているだろうか?」「自分は嫌われているのだろうか?」「これから自分はどう接していけばいいのだろうか?」・・・・・

など、意識はそちらのほうに向かい、他の大切なことに意識が向かわないのです。

先日ご紹介した悩みを紙に書き出すメソッドですが、大きな反響がありました。

下記のメソッドもきっと役に立つと思います。

頭でごちゃごちゃ考えていても何も解決しないのです。

頭(肉体)はおバカさんだからです。





「5つのマス」 で問題を正しくとらえ直す

 


「友達の態度に一喜一憂してしまう・・・・・」

 

K乃は、今朝、電車を降りた駅で友達に会ったので、

「おはよう」

と声をかけました。 いつもなら、

「あっ、おはよ~ぉ、いま電車から降りたんだぁ」

と返事が返ってくるのに、友達からは不機嫌そうに (と感じた)

「おはよう」 としか返事がなかったので

「私のこと、何か怒っているのかな、私と話したくないのかな」

と考えてしまいました。

友達から
 「嫌われたに違いない」 という考えが浮かびます。

「あの態度は絶対そうだ」 と確信します。

「私って、誤解されやすいのよね・・・・・。でも私に何か悪いところがあったのね きっと」

そう考えていると、暗く、イヤな、自分を責めるような気分にさえなってきます。

学校に行くのも気が乗らなくなってきます。 授業もなんとなく楽しくありません。

昼休みも友達からできるだけ離れています。

一人で机に向かって座っていると、朝の考えがまた浮かんできます。

行動はますます消極的になってしまいます。



空気が読めないのは困りますが、K乃のようにあまり相手の言動に左右されてたのでは、自分らしくのびのびと快適に生活できません。

相手の態度に振り回されないようにするにはどうしたらいいのでしょうか。

まず、今の状態が心地良くないとしたらどう変わりたいか目標をしっかり持つことが必要です。

そして自分の問題に気づいたら、今度はどうなりたいかを考えてみます。


「相手の態度に一喜一憂しないようになりたい」

「何か事が起ったとき、パニックにならないようになりたい」

「ゆううつな気分から抜け出したい」

などでしょうか。 

人は、

「こんな状態では心地良くないからイヤだ」

と思ってはいても、

「では、どういう状態になりたいのか」

と聞かれると、具体的に言葉にならないことが多いものです。

漠然と、「心身ともに快適な生活がしたい」 というのでは、どうしたらそうなるのかわかりませんね。


第一章で触れたように、あなたの反応パターンは、感情と思考と行動が密接につながって、セットで動きます。



ですから、 物事をどのように考え、それをどのように感じ、そしてそれに対する反応はどのようになりたいかを、具体的に考えることが重要 です。



では考え方を見直し、もっと新しく生まれ変わるその方法をご紹介しましょう。



( 書き込むだけで冷静な判断ができる )


相手の態度に一喜一憂しないようになりたいと考えているK乃の場合を例に考えてみましょう。


紙を出して広げてください。 紙に5つのマスを作ります。


1番上のマスに、今朝起こった状況を書きます。


2番目のマスに、そのとき頭に浮かんだ考えを書きます。


3番目のマスにそのときの気分を書きます。


その気分が最悪のときを 100 とすると、いくつくらいか書いておきます。


4番目のマスには、2番目のマスに浮かんだ考えに反対する言葉や、別の考えがないかを書きます。

この別の考えと、はじめに頭に浮かんだ考えを見比べて検討します。


どちらが客観的で合理的、あるいは常識的な考えでしょうか。


場合によっては親しい人に聞いてもらって意見を聞いてみましょう。


5番目のマスに、いろいろ思い、考えを巡らせた結果、いまの気持ち、感情について書き入れます。
 

その気分は最悪の状態を 100 とするとどのくらいかも書きます。


K乃は1番目のマスに、今朝、友達に声をかけた状況を書きました。


「おはよう」 と声をかけたのに友達は不機嫌そうに 「おはよう」 と言っただけでした。


2番目のマスに、そのとき頭に浮かんだ考えを書きました。


それは、


「嫌われたに違いない」


「私のこと怒っているのかしら」


「私が何かしたのかな」


「私は誤解されて嫌われやすい」


などでした。


3番目のマスに、そのときの気分を書きました。


とても不快な気分で、さらに 「寂しい」 「悲しい」 でした。


その気分は最悪の状態からみると70くらいでしたので 70くらいと書き入れました。

 
4番目のマスには、2番目に書いたはじめに頭に浮かんだ考えとは別の考え方、反対の考え方などを書きました。
 

「疲れていたのかな」

 
「友達は今日提出するレポートのこととか、何か考え事をしていたのかもしれない」

 
「家で何か不愉快なことがあったのかな」
 

「体調が悪いのかもしれない」

 
・・・・・そして2番目と4番目の2つのマスに書かれたさまざまな考えをじっくり見てみると、どれにいちばん信憑性がありそうでしょうか。

 
最後のマスに、検討した結果、今の気分を書きます。


「そうか、別に私は何かした覚えはないし、友達はたまたま気が乗らない気分だったんだわ、きっと。 誰にでも機嫌の良くないときってあるものだし」


という結論から、今の気分は最悪のときの 100 と比べると、40くらいになっていました。


もし、 「やはり何か嫌われることがあったのだ」 とどうしても思ったのであれば、それを解決する方法を考えましょう。

相手にそれを聞いてみることもできますし、信頼できる人に意見を聞いてみるのもいいですね。



このように、物事のとらえ方を客観的に正していくことを繰り返していくうちに、


「相手の言動に一喜一憂する」 から 「物事を積極的に考えて自分の考えに自信を持つ」


ように、前向きに変わっていきます。


K乃のように、相手の言動に一喜一憂するのも、たまたま作り出した反応パターンのせいかもしれないのです。


こうした方法ではネガティブな反応を修正して脚本を書き換えることもできるのです。




 
 「1ヶ月」で新しい自分に生まれ変わる方法 中村延江 すばる舎




  

2017年5月31日 (水)

親は子に淋しい想いをさせてはいけない



先々週に終わったテレビ番組で「とんび」というドラマがありました。(2013年4月のブログより)

妻がずっと観ていて

「すっごく感動するよ、お父さんも観てみたら」

というので一緒に観はじめたのですが

ほんとにそうなのです。何度録画を観直しても涙があふれてくるのです。

なにが感動するのかといえば、親の愛、人間愛です。

お父さん役の内野聖陽さんの人柄かもしれませんが温かいエネルギーが伝わってくるのです。(つくづくドラマはキャストだなと思います)

物語の内容は割愛しますが、最終回で内野さんが旭(あきら)という一人息子に語った言葉が、最高に感動しました。

 

親は、子よりも偉いものでもなんでもない

ただ子よりも先に生まれてきただけなんだ

子育てをしようなんて思わなくていい

俺の子育てなんて間違ってばかりのことをやってきた

だけどありがたいことに子どもは自分の力で立派に育ってくれる

お前は自分の力で育ったんだ


お父さん役の内野さんである「やっさん」はそう言っていました。

ほんとその通りだと思うのです。

私も息子に対して子育ては失敗ばかりをしていたと思うのです。

しかし、息子は私の知らないところでいろんな経験をして

しっかりと育ってくれています。

子に影響を与える期間というのは、限られた極短い時間だと思うのです。

その短い時間の間に

親は子になにをしてあげればいいのか?

「やっさん」 はそれを教えてくれたのです。

「やっさん」の愛は、親子愛だけでなく

人類愛に通じると思うのです。

私がそう感じた「やっさん」の台詞をご紹介します。

「やっさん」が子育てに悩む息子あきらに話す言葉です。


 

「一つだけ親がどうしても子にしてやらなければいけないことがあるんだ、それは子どもに淋しい思いをさせないってことなんだ」

「淋しいっていうのは、雪みたいにチロチロチロチロ降り積もって、いつの間にか心をガチガチにするんだってよ」

「だから親は海にならないといけねえ、海になって笑ってなきゃいけないんだ」

「海には雪は積もらねえから・・・・」

 

 


追伸

文章だけではあのドラマの感動は伝えられないのが残念なのですが、心が寂しさでガチガチになった人は心が固まったままで凍ったままで人生を歩いていけなければならないのです。

また別の番組で、小さい頃にお母さんに愛されていないと感じたまま大人になった女優が出演していました。

お母さんは有名な作家で忙しくて、子どものことをかまってやれなかった。

褒めてもらおうとテストでとった100点をみせても、お母さんが喜んでくれそうなプレゼントをしても冷たく反応される。

しかし母は決して娘を愛していなかったわけではなく、影では見守っていたのです。

応援もしてくれていた、もらったプレゼントも大切にしていた。

ただそれが娘には通じていなかった。

心に雪が積もった後でそのことを知っても遅いのです。

娘は後でそのことを知ったが冷え切った心を溶かしてくれる親はもういない(亡くなっている)。

だから自分で自分を温めるしかないのです。

人間の不幸って自分を温めてくれるものがないこと、温めてくれるのが何であるかを知らないことだと思うのです。

人間のほんとうの親は、肉体界の親ではありません。(肉体の親は仮の親です)

肉体界では親であっても

魂(心)の親、本当の親は、守護霊守護神なのです。

だから守護霊守護神のことを知れば、肉体の親への執着はなくなります。

親への感謝の気持ちはあっても恩は感じても

親から 「愛してもらいたい」 「温めてもらいたい」 という気持ちは薄れてくるのです。

しかしそのことがわかる前は

やっぱり海になってくれる人が必要なのです。

親は、子になにが出来るか?

それは、淋しい想いをさせない

心を凍らせないように

冷えないように

目を離さず観ていることです。

そして

言葉はいらない

抱きしめてあげればいいと思うのです。

人間は愛されていることがわかれば、それだけでたくましく生きていけるのです。

 

2017年5月21日 (日)

目標は低いほうがいい(イチロー選手)


 

「志は高く持て!」

「青年よ大志をいだけ!」


と言って大人は子供を煽っています。

という大人も目標を持ってずっとモチベーションを継続させているかは疑問です。(モチベーションを持ちつづけるってそれくらい難しいのです)

目標ってそもそも何をもって目標というのか?

少年なら将来なりたいものを目標にするのか?

「プロ野球選手になるのが目標です、かっこいいから」

「お医者さんになりたい、いい生活が出来るから」

「特にないけど一生懸命に勉強していれば幸せになれるとママが言っているから」
(笑)

ただ漠然と目標を掲げているくらいではそれは本当の目標とは言えないだろうし、毎日目標に向ってコツコツと継続していかないと近づいていくことにもなっていない。


目標を忘れることもあればその時の気分で

「もうやめた!やっぱり無理だ!」

になってしまう・・・・・・。


私は目標は小さくてもいいと思うのです。

「今日は家のかたずけをしよう!」

「銀行に行って手続きをして来よう」

「お母さん(妻)に頼まれていたことをやってしまおう」

「日記(ブログ)を書いてみよう」(笑)

朝起きた時に、自分の中で無理をしなくても達成できること

気になっていたけど、手つかずになっていること(結構ありますよね)

を時間をかけずに

サーッとやってしまうのです。

これは目標を達成したなんてものじゃないかもしれない。

でも、心はかなり満足しているのです。

「お前もなかなかやるじゃないか」

と自分で自己満足に浸れるのです。

この小さな目標を達成させることを毎日のように続けていくと

自信が生まれます。

そしていつの間にか

以前立てていた

大きな目標にも近づいていっていることに気づくのです。

イチローも立てている小さな目標

あなたもやってみませんか?わーい(嬉しい顔)手(チョキ)



  

2017年4月12日 (水)

人は食べなくても大丈夫になるのです



人は食べることが大好きです。

食欲は、他の欲(金銭欲、物欲、性欲、独占欲・・・)と比べても一番強いと言ってもいいと思うのです。

人間は、空腹の極限状態になったとき

目の前に1億円を積まれても

絶世の美女が現れても(ハニートラップか?)

空腹を満たす方を選びます。

それは死と直結すると思っているからです。

では、人間は食べなくても死なずに生きていけるのか?

生きていけるとしたら、お金を稼がなくてもよくなるのか?

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

人は、「食べて行くため」に働いている人がたくさんいると思うのです。

もちろん生活するには食費だけ掛かるわけではありませんが

住む場所が無料で提供されるとして、食べ物も与えられるとしたら

真面目に?働く人は減るかもしれません(親に経済力があると子どもはニートになるのも頷けます)

それくらい食べることは人間にとって大きな問題なのです。


ここから

神秘的な話しをます。

ズバリ、これから人間は食べる量が減っても大丈夫になっていきます。

これまで人間は食べ物からのエネルギーで空腹を満たしてきました。

車で言うとガソリンで動いていたのです。

しかしこれから人間は宇宙からのエネルギーで生きていけるようになります。

宇宙からのエネルギーを霊要素と言います。

樹をイメージしてください。

樹は宇宙(空・天)に向かって真っ直ぐに伸びています。

宇宙からのエネルギーと地面、土からの肥料、栄養を摂って育っていくのです。

人間も同じです。

頭のてっぺんの百会(ひゃくえ)に宇宙からのエネルギーが入っているのです。

これまでは、百会のチャクラがほぼ閉じていたので、ほとんど霊要素が入っていなかったのです。

その足りない分を固形の食べ物から摂っていたのです。

しかし、地球が5次元に突入したということは、この霊要素が強く、多くなっているのです。

自然と人間の食欲は減っていきます。(すでに少食になったり断食をしても平気な人が増えています)

そして、断食が健康を保つ為に必要だとわかってきているのです。

食べ過ぎが病気の原因になっていることもわかってきました。(癌は三つの口で山のように食べるから)

前に書いたブログで、「食品業界が淘汰される」と書きました。

それは、人間が食べなくなることも影響されるのです。

お金が無くなり、食べることが難しくなったとしても

食欲じたいが減っているので苦しくないのです。

これから人間は欲が少なくなるのです。

金銭欲、そして食欲です。(性欲は最後まで残るそうです)

アセンション(次元上昇)に向けて

準備は進んでいるようです。


  

 

2017年4月 4日 (火)

私は宗教が嫌いです!



感想

これまで散々、宗教のことについて書いてきましたが、私は俗にいう「宗教」というものが大嫌いです(笑)。

今までの経験で邪な宗教に勧誘されかけたことが何度かあり(すぐに見破ったのですが)、その時のその人たちの態度が好きになれなかったのです。無限なる愛!

その人たちの様子は、まさしく何かおかしな霊魂(不良霊)に取り憑かれているようでした。

不快感だけが残りました。

だから新興宗教=宗教だと私も思っていたのです。

ですからほとんどの人は、宗教という文字があるだけで敬遠されるのだと思います。

このブログが宗教シリーズに入ってからアクセス数が激減していることがそれを物語っています(笑)。

しかし、神と人間(真理)を語る上で、宗教を外すわけにはいかないのです。


そもそも宗教とは、自分の心の中に存在するものであり、そこは聖域です。

誰も踏み込んで来ることのできない、いや踏み込ませてはいけないのです。

自分なりに魂を磨いていけば、心の奥底に入っていけば自ずと悟るようになっています。

だから宗教が心の外に存在することがおかしいのです。

だがしかし、誰も頼らずにたった一人で本心とつながることは至難の業です。(本心と繋がることを悟るといいます)

ほんとうに悟った人はお釈迦様、キリスト様、その他数名しかおられません。

しかし仏教、キリスト教でさえも、多くは弟子たちによって経典は改ざんされ、本来のものでなくなってしまったものもあります。

それを信じた人たちは迷いの世界へと行ってしまう。

また教えがほんものであったとしても伝達者が邪な人ならば、濁ったものになってしまいます。

私たち人間は、本心(神性)と繋がらなければ本当の幸せをつかむことはできないのです。

 

では、どうすればいいのか?

もう私たちは正しい宗教を探すことはやめましょう、宗教に頼ることもやめましょう。

人に依存することもやめましょう。

これからは自分の中(聖域、神性)に入ってゆき、ほんとうの自分と繋がる時代になっていきます。

つまりお釈迦様やキリスト様のような人が次々に現われるのです。

そうなればその人たちの波動(エネルギー)に触れて、周りの人の意識が変わってゆくのです。

肉体(欲望)意識から宇宙(神)意識へとシフトしていきます。

人類がみな神性を顕わすときがもうすぐやって来るのです。(神性復活)





神性復活については、下記のホームページをご覧ください。
 
  
富士宣言

http://fujideclaration.org/ja/
 


本文



この種の宗教の教祖はおおむね、女性や、学問的知識のすくない人が多い。


何故ならば、知性のある人びとは、相当素直な人でも、その言葉や態度に批判の眼(まなこ)をむけずにはいないので、肉体を使おうとして憑く霊魂にとって、自由に使いにくいからである。


この種の教祖や宗教家は、非常に尊大ぶった態度を取ったり、下卑た口をきく。


または知ったらかえって不安動揺するような予言をする。


予言されて、その通り防げば、防げる態(てい)の事件の予言ならよいが、その難を絶対除かれようもない未来の予言をするようなことは神の心に適うはずはない。



これらの霊魂は幽界の生物であって、神から来る守護神、守護霊ではないので、ただたんに面白半分に、肉体人間を驚かし、畏敬させて得々としているのである。


肉体人間でいえば、不良青年のようなものである。


ただ、予言が当ったり、人の心を見抜いたりするだけの奇蹟で、その人間を神が使っている、とか、神様だとか、思ったりしてはいけない。


たとえ、その霊魂(宗教家)の言葉で事業や、商売がよくなった、としても、そのことだけで、その人が救われの道に入ったのではない。


現世利益だけの目的で神にすがりつこうとするその姿(心)は、神の道をかえって見失ってしまう恐れがある。


生命を活かさず、心の汚れたままで、神に救ってもらおうとする人間たちの、卑しい心を助長するような働きをする宗教は、誤れる宗教という他はない。


それから、未来の予言をして、人を恐怖させ、それを入信の手段としているような宗教もまた誤れるものである。

 



『神と人間』 正しい宗教と誤れる宗教 五井昌久 白光出版


2015年12月末~2016年2月にこのブログに掲載




  


 

2017年3月28日 (火)

宗教が敬遠されるようになった理由




感想

 

一般的になぜ、宗教が嫌われ、敬遠されているのかというと下記の本文にあるように、お釈迦様やキリスト様が肉体界を去った後に、その弟子たちが本来の宗教を継承していけなかったからなのであります。

そして自分たちの都合のよいように改ざんをした。

このようなことは現代にも言えることでありまして、事業の成功した一代目は、志も高く、純粋であったものが2代目、3代目になると甘えが出たり余計な欲が心の中に生じやすいのです。

そして初代とは変わり果てた姿になるのです。

その原因は、精神にあります。

前世で正しい宗教を体得したや精神のバランス感覚の取れた人は誤れる宗教を直観で見抜くことができます。

「この宗教はおかしい」 「教えは善いが語っている教祖(世襲を含む)や信者たちが胡散臭い」 「お金ばかりを要求する」 「信者を集めるように言われる」・・・・

など、常識で考えればおかしな言動であることがわかります。

しかし欲が絡んだり、心の隙を見せると騙されることになります。

魂は真理(宇宙法則)を求めているのになかなか真の宗教に繋がらない・・・

これは人間にとって、とても不幸なことだと思うのです。



  

本文




しかし、この覚者たちが、肉体生命を終えた後、この覚者たちの教えを、種々な弟子たちが、それぞれ独自な形で伝え始め、これが、何宗、何派、何教会、等々、世界全土に拡まっていった。


日本では、仏教が最も盛んで、各宗派に分れ、しだいに教えの根本を忘れて、激烈なる宗派争いをしながら信者獲得に狂奔した。


その他、神道、儒教があり、現在に至って、キリスト教が非常に盛んになってきた。


このように宗教が、各種の組織をもって、世界各国に拡まっていったのであるが、人類の宗教心はその組織の拡大と正比例して深まってきている、とはいえないのである。


古代の人類は、宗教を学理的に知るよりは、行為で理解し、直接体験で、神を知ろうとしていたが、中世、現代としだいに、宗教を行から哲学に移してゆき、学理究明が先になり、行からくる直接体験は薄らぎ、本来の宗教心から、知らず知らず遠のいていった。


やがて宗教は、学理的究明者と、教団、教派の形式の踏襲者並びに、真に神仏と人間との関係を直接体験として知らんとする行の人、の三つの流れに分れてきた。


宗教は、学理的に究明しただけでは肉体脳髄に知識として残るだけで、先覚者の志を継ぐものではなく、形式を踏襲したのでは、神仏のいのちが枯れてしまって生きて来ない。


神仏は生きとし生けるものであり、人間も生きとし生ける者である。


生きとし生きて自由自在に形の世界を造ってゆくものが神であり、人間である。


学理に固着し、形式に捉われた世界には、いくら神を求めても神はいない。


宗教とは哲学ではない。


哲学を越えた行の世界が宗教である。




『神と人間』 五井昌久 正しい宗教と誤れる宗教 白光出版



 

2017年3月27日 (月)

宗教はなぜ嫌われるのか?




感想

 

一般的になぜ、宗教が嫌われ、敬遠されているのかというと下記の本文にあるように、お釈迦様やキリスト様が肉体界を去った後に、その弟子たちが本来の宗教を継承していけなかったからなのであります。

そして自分たちの都合のよいように改ざんをした。

このようなことは現代にも言えることでありまして、事業の成功した一代目は、志も高く、純粋であったものが2代目、3代目になると甘えが出たり余計な欲が心の中に生じやすいのです。

そして初代とは変わり果てた姿になるのです。

その原因は、精神にあります。

前世で正しい宗教を体得したや精神のバランス感覚の取れた人は誤れる宗教を直観で見抜くことができます。

「この宗教はおかしい」 「教えは善いが語っている教祖(世襲を含む)や信者たちが胡散臭い」 「お金ばかりを要求する」 「信者を集めるように言われる」・・・・

など、常識で考えればおかしな言動であることがわかります。

しかし欲が絡んだり、心の隙を見せると騙されることになります。

魂は真理(宇宙法則)を求めているのになかなか真の宗教に繋がらない・・・

これは人間にとって、とても不幸なことだと思うのです。




  

本文




しかし、この覚者たちが、肉体生命を終えた後、この覚者たちの教えを、種々な弟子たちが、それぞれ独自な形で伝え始め、これが、何宗、何派、何教会、等々、世界全土に拡まっていった。


日本では、仏教が最も盛んで、各宗派に分れ、しだいに教えの根本を忘れて、激烈なる宗派争いをしながら信者獲得に狂奔した。


その他、神道、儒教があり、現在に至って、キリスト教が非常に盛んになってきた。


このように宗教が、各種の組織をもって、世界各国に拡まっていったのであるが、人類の宗教心はその組織の拡大と正比例して深まってきている、とはいえないのである。


古代の人類は、宗教を学理的に知るよりは、行為で理解し、直接体験で、神を知ろうとしていたが、中世、現代としだいに、宗教を行から哲学に移してゆき、学理究明が先になり、行からくる直接体験は薄らぎ、本来の宗教心から、知らず知らず遠のいていった。


やがて宗教は、学理的究明者と、教団、教派の形式の踏襲者並びに、真に神仏と人間との関係を直接体験として知らんとする行の人、の三つの流れに分れてきた。


宗教は、学理的に究明しただけでは肉体脳髄に知識として残るだけで、先覚者の志を継ぐものではなく、形式を踏襲したのでは、神仏のいのちが枯れてしまって生きて来ない。


神仏は生きとし生けるものであり、人間も生きとし生ける者である。


生きとし生きて自由自在に形の世界を造ってゆくものが神であり、人間である。


学理に固着し、形式に捉われた世界には、いくら神を求めても神はいない。


宗教とは哲学ではない。


哲学を越えた行の世界が宗教である。




『神と人間』 五井昌久 正しい宗教と誤れる宗教 白光出版


追伸・・・人生の指南書である『神と人間』の感想と本文は、2015年12月末から2016年1月にかけてこのブログの中に書かれています。よろしければさかのぼってお読みください。



  

2017年3月22日 (水)

愛の波動



 
息子と全然話をしていなくて、お互いの心がどんどん離れていっていると思っていたときがありました。
 
「息子だけでなく、自分も嫌いになりかけている」

このままでいいわけがないと思いながら、なすすべもなく自暴自棄になっていました。


そんなとき、師匠である于(う)先生から

「息子さんと相撲を取ったことがありますか?」 と質問されました。

「はい、あります」

「そうですか」

とだけ、先生は答えられました。

たったそれだけの会話だったのですが

私の心の中には

「絶対に大丈夫なんだ」

という確信が芽生えたのです。

それは自分と息子とは繋がっているんだという確信です。

身体と身体をぶつけ合って、触れ合って

息子の体温を感じていた

そのときに心は通じ合っていたのです。

だからどんなことがあっても必ず大丈夫なんだ!

そのことを想い出させて私に安心を与えてくださったのです。
 

「そうか、人を癒すには多くの言葉はいらないんだ」

「自分が穏やかなやさしい波動を発していればきっと善くなっていく」

と気づかせてくれました。

今になって、それがわかるようになりました。

ありがとうございました。


  

2017年3月15日 (水)

今、置かれている環境は最善の場所

3月に入ると卒業、転職、転勤などで新しい環境に向けて準備をされる人もいるでしょうし、一方で、ここ何年も環境が変わってないという人も多くいるでしょう。ところで皆さんは、今置かれている環境は好きですか?


とても気に入っていると答えれる人は、毎日が充実して楽しい日々を送られているのでしょう。あるいは、いやいや、もうこの環境から早く抜け出したい、変えたい、変わりたい、何とかしたいと思っている人もいるのではないでしょうか。


私も変化のない日々が退屈で、何とかして変えたいと強く思う時期がありました。そのためにイメージをしてみたり、本を読んで色々なことを試してみたりもしましたが、状況は全く変わりませんでした。どうしたら変えれるのかが分からず途方に暮れていました。今思えば、もがいてばかりで肝心なことに気付いてなかったのです。“肝心なこと”とは何か…


それは、その状況においての課題をクリアしていなかったのです。置かれた場所において、学ぶべきことを学んでいかないと、次の場所へは行けないのです。仮に行けたとしても同じ状況を繰り返します。今の環境が、とても辛く悲しい状況であったとしても、課題をクリアすることで、あなたをもっと大きく成長させる最善の場所なのです。


肉体の人間が、嫌だ辛い、自分にはもっと相応しい場所があるはずだと思っていても、本心の自分にとっては待ち望んだ場所なのです。そして、その場所は魂が清められ、進化するために用意されたもので、自分を輝かせるための、またとないチャンスを与えられた場所でもあるのです。


しかし、多くの人は嫌だ、辛い、苦しいというマイナスの感情に覆われ振り回されてしまい、真実が見えなくなっています。今の環境は偶然ではなく必然なのです。意味があってその場所に置かれているのです。自分を磨き、進化させるために必要なことが表裏一体となって隠れているのです。今いる場所が最善の場所であると思えるようになれば、自ずと次の場所へ導かれステップアップしていくのです。

 



もし環境や状況を変えたい、一刻も早く脱したいと願うなら先ずは、今いる場所で何か出来ることを見つけることです。必ず何か出来ることはあります。やりたいことはあるが、足りないものがあって出来ないと思う人もいるかも知れませんが、神さまは、その人にとって必要なものは必ず与えています。気付いてないだけで、本当に必要なものは与えてくれるのです。


ですから、今の場所から逃れることを考えるのをやめて、腰を据えて、その場にいることを覚悟してみてはどうでしょう。今やれることをやるというのは、将来のためにもなります。人生に無駄はありません。


そして「やるぞ!」「やってみせる!」という強い気持ちがあると、神さまは環境を整えてくださり物事が前に進むのです。環境が変わり物事が前に進んでいる状態は、言い換えると、波動が動いて変わっているということです。なぜ変わることが出来るのでしょうか。それは、自分の波動が変わったからです。


今の環境というのは、自分の波動(想い)が写し出されたものなので、いくらでも変えられるのです。覚悟を決めるということは、自分の波動を一瞬で変えることになります。波動が変わると、今までの習慣の想念が変わるので、自然と写し出される環境が変えられてゆくのです。


それに今出来ることが大きなことでなくてもいいのです。ほんの小さなことでもいいから続けていくと、思いもよらぬ世界が展開し最終的には、自分の思い描いていた世界へと繋がってゆくのです。


今置かれた環境が、嫌で変えたいと思っている人は、先ずその場で地に足をつけ覚悟を決めて、自分が出来ることを見つけ出し、それをとことんやってみるというのが一番の方法だと思います。



                          あーやんブログより
                       http://akemi51.blog.fc2.com/



  




  


  

              

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