親鸞と弟子(五井昌久)
こういう話があるんですよ。親鸞という人がいますね。そのお弟子に唯円(ゆいえん)という人がいて、歎異抄(たんにしょう)を書いています。その歎異抄に
出ているのですが、親鸞が唯円にいうのです。
「お前は私のいうことをなんでも聞けるか」勿論、とても信仰厚い弟子ですから、
「なんでも聞きます。お師匠さまのおっしゃることならなんでも聞きます」と答えたんです。
「本当になんでも聞けるか、なんでも出来るか、私のいうことをなんでも守るか、なんでもやるか」こう念を押すんです。いやにお師匠さん念を押すなと思ったけれど、
「はい、なんでもやります。先生のおっしゃることならなんでもやります」
「それじゃ、お前これから人を殺してこい」というんですね。
「先生それは、それだけは私は出来ません、人を殺すなんて出来ません」
「そうだろう、お前がどうして人を殺さないかというと、お前の中には、人を殺す因縁がないんだ、お前の宿縁としては人を殺すようなこと、人を痛めるようなことが出来る性分じゃないんだ。そういう風に生まれついているんだ。だからお前がいくら私のいうことを聞くといっても、それだけは出来ないんだ。人間には出来ることと出来ないことがある」そういうようにいわれた。
悪いことをしてしまうのも、それは宿縁でしてしまうのだ。いいことをしようと思いながらも、宿縁があっていいことが出来なくて、悪いことばかり、人の困るようなことばかりしてしまう。
人を殺そうと思っても、憎らしいと思っても、人を殺せない因縁の人にはどうやったって人を殺せないんです。人間というものは、前の世からの、過去世からの宿縁によって定められている。
だから人間がどうじたばたしようと、騒ごうと、前の世の宿縁のままに動いてゆくより仕方がないんだ、と親鸞はいうんです。
そこから他力になってゆくんですよ。
そうでないと思うならば、自分が好きにやってごらんなさい。やっぱり運命の渦の中に巻き込まれて、そこから動きがとれないのだ、それが肉体を持っている人間なのだ。
これは私が親鸞から引きついでいうんです。
人間というものは肉体の業想念の中にいたのでは、どうやってもこうやっても自分の運命を変えることも何も出来ない。
前の世で決まった運命のままに、翻弄されていってしまう。
そこに仏さま、阿弥陀如来が必要なのです。神様が必要なのです。
人間が一旦、肉体人間というものはダメなものだ、どうやろうとも、前から決まっている、定まっているものなのだ、ということに本当にあきらめがつかない以上、その人は救われることはない。
いくら滝にあたろうと、水垢離をとろうと、絶食をしようと、その人が悟れるわけじゃない。そういう自力の行で悟ろうと思っても悟れるわけじゃなくて、悟れる人はそうしなくても悟れる。
『不動心』五井昌久講和集5
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