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2019年8月26日 (月)

「見ざる聞かざる言わざる」の本当の意味とは?

 

  

私はどんなことがあっても心が乱れない、不動心の自分になりたかったのです。

そして20年程前に于先生に出会い、調和波動を実践し、真理を学んで来ましたが、最近つくづく

「自分のやっていることは間違っていなかった」

と揺るがない自信を持てるようになったのです。

それは以前に比べて心が安定してきたからだと思うのです。

周りで起こる出来事に対し、とらわれることや感情的になることが少なくなってきたのです。

それは自分にしかわからない自分だけの世界の話なのですが

不動心でいられることくらいありがたい

嬉しいことはないのです。

そこでどうしたらそのようになれたのか?(まだまだ修養中ですが)

世界平和の祈りはどのように自分を変えてくれたのか

を五井先生のご著書(質問ありませんか?)を読んでいて客観的に見直すことが出来ました。

少し長いですが、お付き合いください。








 




見ざる聞かざる言わざる、つまり諸々の不浄を見ず、耳に不浄をきかず、というようなことがありますが、先生のみ教えをうけたまわるようになって、これに疑問が出ております。

見ざる聞かざるでいい場合もありますけれど、いわなきゃならん場合も起こるんじゃないかと思うのです。

例えば、人が危険にさらされている。

その時に何気なしに 「危い!」っていう声が出ます。

これは神さまの声じゃないかと思いますが、しかし大変失敗する時がある。

かえって先様の気持ちを害することがある。こういう場合どうしたらよろしうございましょうか?










 








昔からいわれていることですが、見ざる聞かざる言わざるということはどういうことかというと、見た想いに把われず、聞いた想いにとらわれず、いった言葉にとらわれず、すべてのものにとらわれないことがいいのだ、ということです。




大体、道とか宗教の教えというものは、すべて想いがとらわれないということを主にしているわけです。想いがとらわれなくなると、神さまからそのままくる行ないが出来る。




この世の中では、テレビ、ラジオはいつもいろんなニュースを報道している。どこどこで強盗があった、火事があった、殺人があった、と嫌なこと暗いことをきくまいと思ったって聞えてくる。




新聞を見れば、誘拐があった、事故があった、アメリカがどうだこうだ、見まいと思ったって見えてしまう。




ともかく、見ざるも聞かざるもありゃしない、今は、文明文化が発達して、マスコミというものが発達してますと、こちらが好むと好まざるとにかかわらず、強制的に見せられる、聞かされる、いわされる。




だから見ざる聞かざる言わざるというのは、本当はいいかもしれないけれど、実際問題としては適用しないわけです。




そこで、私は見てもいい、聞いてもしかたがない、いってもしかたがない。




しかし、あらゆるものはいいことであれ、悪いことであれ、それは消えてゆく姿なんだから、その想いに把われていてはいけない。




いくらいい言葉をいっても、しまったと思って




「しまったしまった、私はなんて悪い人間だろう、なんでこんなことをいったんだろう」 といつまでも把われていたんでは、それはかえって業が積もるんだから、いってしまった悪いことはしかたがないから




「あー悪かったな、これは消えてゆく姿なんだ、もう再びいいますまい、ああこれで業が一つ減ったんだ」




というふうに思いながら“世界人類が平和でありますように、あの人の天命がまっとうされますように” というようにいいなさい。




そういうように想いが出た時、想いに把われそうになる時に、それを消えてゆく姿として、平和の祈りの中に入れさせてしまうような教えに転換させたんです。




それはどうしてかというと、私は昔とても短気でしてね、ものすごい感情家だったんです。




私は大体、本質は芸術家ですから、いいものはいい、悪いものは悪い、嫌なものはもう我慢出来ないように嫌だったりね。青年の頃はそういう性質をもっていました。




だから、これじゃいけないな、こういうことじゃいけない、なんとかしてこの短気を押え、この感情にまけないようにしなきゃいけない、というような気持ちが随分強くありました。




なんとかして立派になりたい、感情に把われない人間になりたい、愛一念の人間になりたい、と思いつづけていたわけです。




それで聖書も読めば、仏教の経典も読んだり、宗教の書、修養書など手当たり次第に読んだり、坐禅観法をしたりいろんなことをやったのです。




そのうちに、把われまい把われまいとしたんじゃ、かえって把われるんだなということがわかったのです。




短気だから短気をなおそうと直そうだけじゃだめなんだ。




感情に把われちゃいけない、把われちゃいけない、というと恐怖心が起こってしまう。




それではだめなんだから、どうしたらいいかというと、把われを消してくれる何かがなければいけない、それを見つけることだと思った。




それは神さまだと思ったのです。




短気が出たら出たでいい、臆病が出たら出たでしかたがない。感情が激する時はしかたがない。その時はどうしようもないんだから、そういう時に、ああこれは消えてゆく姿だな、ああすべてこの世に現われているものは、みんな変化変滅していく。




常時そのまま変わらないものは一つもない。




みんな変わっていく。




自分はだめだ、だめだと思うより、いけなかったな、しまったな、と思ったら




『あッこれは消えてゆく姿だ、どうか神さま消して下さい、一日も早く消して下さい、どうかあの人の天命がまっとうされますように、私の天命がまっとうされますように、世界人類が平和でありますように』




順序はどうでもよいから、そういう祈り言にして、神さまのみ心のなかへ、想いをどんどん送りこんでしまうのです。




神さまは完全円満なんだし、善なんだし、大光明なんですから、神さまに消せないものはないわけです。




善いものは善いものでそのまま生きるし、悪いものはそのまま消えてゆく。




だから善悪ともども神さまの中に送りこんで、消してもらう。




そういうふうに自然に教わったわけです。




それで消えてゆく世界平和の祈りという教えが出来たわけです。




そこには見ざる聞かざる言わざるもない、こらえるもなければ、我慢するもない。ああ消えてゆく姿なんだなぁ、ありがとうございます、世界人類が平和でありますように、私がますます立派になりますように、愛深き私にならしめたまえ、とか、いろんな言葉で自分の願望をつけ加えてもいいから、みんな神さまの中に入れてしまうわけです。




すると、神さまのほうで、その人に一番適当な生き方をさせるのです。




肉体をもっている人間というものは、罪悪深重(ざいあくじんじゅう)の凡夫でして、親鸞がつくづく、心は蛇蝎(だかつ)の如くなり、罪悪深重の凡夫だ、と嘆いたのがよくわかる。




もう相当悟りすましたような立場にいても、何やかやといろんなことがひっかかってくる。




まして一般の人はひっかかり通しなんです。




何かしら心が把われている。




だから肉体を持っている人間というものは罪悪深重の凡夫だ、ダメなものだ、ということがわからないとダメなのです。




いつもいっていることですが、心臓を動かすことも、肺臓を動かすことも、肉体の頭ではでき得ない。




心臓の止まった死骸に向かって、心臓よ動けといったって動かない。




肉体から魂がぬけたら、どうしようもない。




自分のことも人のことも何事もなし得ない。だから、肉体をもった人間というものは無力なものだなぁ、ということがハッキリわからないと、悟りにはいかないのです。




自分でなんとか出来るんだ、という想いがあるところからは、本当の悟りも生まれてこないし、安心立命も生まれてきません。




肉体は不完全だからです。




不完全なものがいくら力んだって、完全になりっこはないのです。




だから不完全な肉体というものを、一度、肉体人間じゃどうしようもないんだな、とあきらめる。




さてそれでは、なし得るのはどなたかというと、守護霊さんであり、守護神さんであり、大神さまであるわけです。




そこで、守護霊さん守護神さんお願いいたします。世界人類が平和でありますように、私共の天命がまっとうされますように、と素直に自分では出来ないことを、みんな神さまに差しあげてしまう。




それがいいことも悪いこともですよ。




よいことはオレがしたんだ、悪いことは人のせいだというのじゃない。




善いことも悪いことも自分ではなし得ない。




肉体の人間として生まれてきたその前から、分け生命(いのち)として分かれてきた時から因縁、想念や行為がまわりまわって、今日ある肉体の生活として現われている。




ですから、今日ある姿は、今つくったものではなく、今の自分が作ったものでもないのです。




今食べたものが今すぐ栄養になるのではなく、ある時間がたって栄養になってくる。




それと同じように、あらゆるものは、過去世からズーッとつながってきて、今現われてくるんで、今いいことを想えば将来に現われるんです。




今、自分の想念が悪いとする、自分の生活が悪いとする、環境が悪いとする、体が悪いとする。




それは過去世からつながってきた、原因結果がそこに現われて、病弱に現われているのかもしれない。




気が弱く現われているのかもしれない。 短気に現われているかもしれない。貧乏な環境に現われ、不幸な環境に現われているかもしれない。




しかし、それは今の自分そのものじゃないのです。




過去世からの自分の想いがそこに現われて、消えていこうとしているんですよ。




それをつかまえて、私がいい悪いとか、立派だとか立派じゃないとか、悲しいとか憎らしい、とやっているわけです。




過去世のものが流れて来て、現われてくるんだから、いくら摑まったって、現われてくるものは現われてくるんです。




結果として現われてくる。




だから現われた結果に把われたってしょうがない。




今の自分はどうしたらいいかというと、今思ったこと、今やったことが後の自分の運命を良くするか悪くするかなんですから、今までの悪い想いのくせ、悪い環境があるその上に、私はだめなんだ、私の環境はなんて不幸だろう、私は病弱だ、とつかんでいたら、また悪い同じ波が重なってしまう。




その想いの波からぬけなければならない。




ぬけるためには、それに把われてはいけない。




想いに把われてはいけないわけです。




そこで、空とか無為とかいうのです。




見ざる聞かざる言わざるもそうなんです。




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