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2018年11月 9日 (金)

運命を恐れるな(悪や不幸を超える生活)

 



 

運命を変えるのに一番良い方法は、ほんとうの自分を知ることである、と五井先生は述べておられます。

自分(人間)は神である、神とは完全であり、あらゆる英知が宿っている、そして天と地を貫く光りの波動体になれば、エネルギーは調って、やがて目に見える3次元も整ってくるのだ、ということです。

私たちは、善と悪、好きと嫌い、男と女・・・・どうしてもどちらかに分けようとします。 別のものと区別しようとします。

しかしこれらのものは表裏一体同じものであるとわかります。



 

『光明を見失わない心の用意』
 

 

人間個人の環境にしても、体が不具であったり弱かったり、あるいは貧乏な家庭に生まれたり、というように悪条件の環境に生まれ育っている人々も随分あるわけなのですが、この悪条件というものが、どうにもこうにも、如何なる時間をかけ、どのような方法を取っても、超え得ることができない、というような悪条件というものはそんなに数多くあるものではありません。

絶対に無いともいえるのです。

如何なる悪条件の中にも、その悪条件を土台にして、善なる立場に飛躍できる瞬間、チャンスというものを、神々は、あらゆる人々に与えておられるのです。

ただ、その瞬間とかチャンスとかを見出すための心の用意というものが人間には大切なのであります。

国家や人類そのものにしても、そうなのでありますが、国家や人類というものは、個人が集ってできているものなのですから、やはり、個人個人の心の用意が大事であるということになります。

私のこれから言おうとしている心の用意をさえできていれば、どのような悪条件の中にあっても、人間は光明を失うことはないし、いつかは、その悪条件を超え得て、広い深い、真善美の世界に跳躍することができるのです。

それは、あに、天才でなくとも容易に出来得るのであります。

その場を、私は常に、様々な話し方で説きつづけているわけなのです。

人間というものは全くおかしなもので、自分達が、一体どこから来て、どこへ行くのか、どんな風にして自分というものの生命が存在しているのか、自分というものは一体どんなものなのか、等など、実にわからぬことだらけの中で、自分というものを主張して生きているわけで、よくまあ、何にも知らずに生きていられるものだと、心ある人は自分自身にあきれながら生きていることでありましょう。

そんな人間たちが、自己というものを、万人が認めながら、自己という立場に立ってのお互いの幸福というものを追い求めているのですが、自己というものがあり、自己の立場というものがあるばかりに、お互いに自己を主張して、かえってなかなか自分たちの思うような安心立命した平和な生活に成り得ないでいるのです。

個人も国家もこれは同じことなのであります。

ところでこの自己というものが、果たしてどんな自己であるかといいますと、自分自身でも、まるではっきりわかっていない。

どうして生まれてきて、どうして亡くなってしまうのか、亡くなった先はどうなるのか、なんにもわかっていない自己なのであります。

そしてお互いが、そうしたわけのわからない自己や自国や自民族の自己主張をして、争い合っているわけなので、平和を欲っしながらも、いつまでたっても平和になりっこないわけなのです。

それはその筈です。 真実の自分や自分の国の使命(ミッション)がわかっていないで、どうして、他人や他国の為が計れましょうか。

暗中模索で、その場その場の利害損失で事を運んでゆくだけということになってしまうのであります。

現在の人間の大半が知っていることは、人間はオギャア、と生まれてきた赤児の時から始まった肉体人間であって、そうした肉体人間としての一生を無事に幸福に過ごせればよい、ということなのであります。

精神といっても肉体に付属した精神的な考え方をいうのであって、肉体未生以前から、肉体消滅以後までの個性ある永遠の生命としての人間を考えての精神とは、一般の人々は考えていないわけなのです。

ですから一般の人々の思想の中に流れているものは、眼に見え、手に触れ、耳に聞こえ、環境と現われてきている状態だけが主なる運命であって、五感の世界に現われていない運命というものは重点を置こうとはしないのです。



『未来の未知の足音』

ところが、五感に感じない運命の流れというか、未来の世界のさざめきといおうか、眼にも耳にも手にも触れないのだけれど、何か自分たちに迫ってくる本来の未知の足音をそれとなく大衆は感じ取っているのです。

何か判然としないけれど、肉体人間の現在の自分たちから発しているのではないが、何か自分達の運命に深い関連をもつ波動のようなものを、漠然と感じているのです。

 

それは生命の本源の世界からの響きなのか、業想念波動の流れのさざめきなのか、人類は、その両面の響きをそれとなく感じとっているのです。

 

しかし、それでいて、自分たちの行動は依然として、肉体人間としての自己に固執した生活の波を抜け出ようとはしていないのです。

 

しかし、肉体人間的自己をのみ主張していての、善悪の時代はもうすでに去りかかっているのです。

 

単なる肉体としての人間観では、自分自身も人類も滅亡する他にない、という未来の足音が、誰の心にも響いてきているのです。

 

それなのに、多くの人々は、今日までの習慣で、なんとなくそうした未来の足音から耳をそむけるようにしているのであります。 

 

戦争から平和、平和から戦争へという、今日までの人類の輪廻的発展過程にいよいよ終止符を打つ、滅亡か永久平和かの最終的段階に今日の世界は到達してしまったのです。

 

ですから、個人個人の思想も、今までのような世界観から脱皮しないでは、苦しくてどうにもやりきれなくなってくるのです。

 

今日までのように、一つ一つの事柄をもってきて、自分が悪いの人が悪いの、といっていたのでは、未来の光明世界に足音を合わせていけなくなるのです。


 

 

『この世の善悪は完全さが現われるための光と影の交差』

 

この世に現われてきている善いとか悪いとかいう、一つ一つの現象は、それは単に、真実の人類の姿が現われてくるための光りと影の交差であって、それが固定した悪とか善とか、いうものではないのであります。

 

自分にとって昨日まで悪かった人が、何かの都合で、善く現われてこないとは限らないのです。

 

また悪くされたそのことがかえって、自分自身の発展の動機となってゆくことも多々あるので、善いとか悪いとかというのは、こちらの取り方によって、どうにでも変わってゆくのです。

 

どうせ変らせるのならすべて善いのだというほうに変らせたほうが、自分の発展にも人類の光明化にも役立つので、そうしたほうがよいのです。

 

ただそうするためには、どうしても、人間は神からきている神の分生命であって、すべては兄弟姉妹なのだ、という根本的な人間観に立たないといけないのであります。

 

神は大親様であり、人間は神の子である、人間の運命のすべては、神のみ心の現われとしてあるのであって、悪や不幸のように現われている場合でも、それはみな、より大きな広い善の立場に、その人を進化させるためのものであるというように、神の大愛を信ずるようにすることが大事なのです。 



『運命を恐れるな』 五井昌久 白光出版

 

 




 


 

 

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