« 自他を生かすもの | トップページ | モーパッサンの『首飾り』 から真理を学ぶ »

2017年9月 9日 (土)

如是我聞(にょぜがもん)


 
如是我聞(にょぜがもん)とは、お釈迦様の説法に対し、弟子である阿難(あなん)が「私はこのようにお釈迦様のお言葉を聞きました」という意味なのです。

 
五井先生はお釈迦様と同じ大聖者なのでそのお言葉は光り輝いています。

しかしいくら輝いていてもその輝きをそのまま伝えてくれる阿難尊者のような立派なお弟子さんが必要だったのです。

その阿難に匹敵する人が高橋英雄さんという方でした。

その如是我聞の中から特に響いたお言葉をご紹介します。

聖者の言葉は普通人が発する言葉とは全然次元の違うものです。聞き覚えもないと思います。

だからピンと来ないかもしれません。しかし心の奥底にある本心はわかっているので、なんだか温かくなるのです。真理の言葉は光り輝いているからです。

意味がハッキリとわからなくても心が洗われたようになればよいと思います。

 

1.個我のわたくし、肉体の私、というのがなくなればなくなる程、その人は立派な人である。

弱い私、善い私、悪いわたし、そういうものはない。いいわたしもいる必要はない。

悪い私も必要ない。みんなわたしというのは渡しだから、渡すだけである。

天に渡すだけである。わたしを渡し、それで天の心に入ってしまえばいい。

そして光ごと降りてくればいい。

そうすると光明体である。光になることが唯一のことなのだ。

 

2.その人が悪いのではない。業にまきこまれてしまうのだ。

あいつは悪い奴だ、と言われる人は、実は業をそこに結集させて、代表的に業を消している役目を荷っているのである。

ああご苦労さま、あの人の天命がまっとうされますように、と祈れる心は仏の心である。

 

3.地球が滅びては、自分の運命も、家族の幸福もあったものではない。

今という時代は、目に見える世界においても、目に見えない世界においても、地球が滅亡しそうな様相にあふれている。

それは戦争という姿だけでなく、天変地異という形で現われるかもしれないのである。

今こそ、日々世界平和の祈りに徹しなければいけない。

わがままも、自分の楽しみも、欲望もひとまずおいて、祈りに祈らなければいけない。

祈りは目に見えるものではない。

だから霊性に目覚めたる者から祈りの生活に徹して、その生き方、その人自身の人格、行為によって、人々に悟らしめることである。

4.現われて来た事柄、想いをつかまえて、善い悪いと分別しているうちは、心の平和は得られない。

 

5.焦ってはいけない。世界平和の祈りで暮らしている人の運命は決まっているのだ、悪くなりようがないのだ、よくなるに決まっていると思って、どんなことが現われても、消えてゆく姿だと思って一生懸命祈ってさえいれば、この世の現象面のいいとか悪いとかは問題じゃなくなって、いつも心が平安になってゆく。

  

『如是我聞』 五井先生の言葉 高橋英雄編著


 

 

« 自他を生かすもの | トップページ | モーパッサンの『首飾り』 から真理を学ぶ »

コメント

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/160971/71663309

この記事へのトラックバック一覧です: 如是我聞(にょぜがもん):

« 自他を生かすもの | トップページ | モーパッサンの『首飾り』 から真理を学ぶ »

最近のトラックバック

2017年9月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
無料ブログはココログ