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2017年9月30日 (土)

心の整理整頓を


 

1.もっとさっぱりしろ、もっとあっさりしろ、心は単純なのが一番よろしい。

誰がみても明らかにわかるようにしろ。

ごちゃごちゃと複雑に心の中が入りくんでしまうと、自分ですら何をしてよいか判断に悩うのみである。

ああでもない、こうでもない、と繰り返し繰り返し迷わないで、自分の想いを、自分の迷いを、自分の考えを、すべてを神の中に入れこむのだ。

改めて神のほうから素晴らしいひびき(直観)を通して、予期しない答えが与えられるものだ。

 

2.人間は肉体的な過労や疲労が原因で死ぬようなことは滅多にない。

精神的な過労や疲労が原因でストレスが生じ、それがこうじて病気に至り死ぬのである。

自分の心が常に緊張感、義務感、責任感等で占められていると、人間息つくひまがない。

生真面目な人間ほど陥りやすい。

やるべき仕事はさっさと果たし、どうでもいいようなことは素早く捨てて、心の中をいつも整理しておくことが大事である。

いつも心に余裕を持ち、いざという時にこそ最大なるエネルギー、集中力が出せるようにしておきたいものである。

 

3.どうして人々は無益な無価値なものを求めて、いつまでも、あくせくと働かねばならないのであろうか。

最も複雑に思えて困難と捉えていた道のりが、想いのベールをすべて取り去ったのちに、いかに単純にして容易であったかを知るのである。

地位、権力、名誉、金などが、すべての人生を複雑に且つ困難なものへと仕向けている。

利欲と栄華ほど人生にとってむなしいものはない。
 

4.余計なことを考えるな、くだらないことを気にするな。

そんな暇があったら神のみ心に集中せよ。

考え過ぎて良いことなど決してない。決断をせまられる時、答えは神より直観として与えられる。

正しい判断、善いことなどは神より直観として与えられるものである。

考えたからといって得られるというものではない。

 

5.どうしてまだかかってもいない病気のことに対して、いちいちあれこれと思い煩う必要があるのであろうか。

全く愚かという以外に何もない。それだけ時間の無駄である。

エネルギーの損失である。いらない神経を使いすぎ、傷ついてゆくのはあなた自身である。

あなたは余程ひまなのか、またはあなたのまわりには情報が氾濫しすぎていて、あなたは何を選んでよいのか、否かの判断に困るのであろう。

今自分がかかっている病気について思い悩むのならまだしも、まだかかっていない病気をあれこれ恐怖するのはナンセンスである。

今からでも遅くはない。さっさ取り越し苦労はやめることである。

全エネルギーを自分だけのものに使わないで、それよりもっと人類的な方向に目を向けてゆく必要がある。

そうすれば、くだらないことで思い煩うことが全くなくなってしまう。




 『日々の指針』 西園寺昌美 白光出版



感想・・・西園寺昌美さんのお言葉は厳しく、たいていの人は逃げ出してしまうかもしれません(笑) 

しかし、「この人常識がないなぁ」「人の気持ちを考えない人だなぁ」と思ってしまう人とは、人間として教育されるべき時期に師匠(人生のメンター)が誰もいなかった人だと思うのです。

メンターとは地位などが立派な人でなくてもかまわないのです。

相手のことを思って、「この人に幸せになってもらいたい」と心から思ってくれる人のことです。

時には耳の痛いことを言うかもしれませんが、それはいうまでもなく『愛のムチ』です。


私たちはこれまでに時間の無駄をたくさんしてきました。

エネルギーの使い方を間違っていました。

しかしそれももう卒業です。

『世界平和の祈り』が神、本心へまっすぐに繋がる道へと導いてくれるのです。




世界人類が平和でありますように

日本が平和でありますように

私たちの天命がまっとうされますように

守護霊さまありがとうございます

守護神さまありがとうございます




   

人間の生命は神の領域にある


 



1.顛倒夢想(てんどうむそう)とはまさにこのことだ。

思いあがりも甚だしい。一体人間に何が出来るというのだ。

臓器移植、遺伝子組替、人工臓器・・・・まことに結構。

人間の目からすれば大いに絶賛されるべき著しい科学技術の進歩。

だが神の目からみれば、人間一人の生命は神の領域に属する神聖なる分野。

人間が人間の生命を伸ばしたり縮めたり、新しく創ったりする権利が果たしてあるのだろうか。

世俗的なものが神聖なるものを支配出来ると本当に思っているのだろうか。

大いに疑わしい。

もっと謙虚になるべきだ。

 

2.過去から現在に至るまでの、科学と文化の著しい進歩は、ここのところ目を見張るばかりである。

我々はその恩恵に充分浴し、それにどっぷり浸かりきってきた。

だが改めてこのままの勢いで突っ走っていいものかどうか、まことに疑わしい時に来ている。

総合より分析、直観より知識、調和より自己主張、宗教より科学、自然保護より自然破壊、を好んで来たからである。

この一面的な発展は、今やかつてない極めて危険な段階に到達して来ているといわざるを得ない。

精神を無視し、神を冒涜し、人間のあくなき欲望を追求し、今や神の領域も犯そうとしている。

今後地球はどんな道をたどってゆくかを恐れるものである。

そんな時世界平和の祈りを祈ってくれている人達がいる限り、この世は滅亡することはない、とホッと胸をなでおろすのである。

 

3.医学や薬学も、芸術も科学も、文明文化すべて神の叡智から発しているものである、何も自然に反するからといって、すべてを毛嫌いする必要は毛頭ない。

だからといって、その中にどっぷり浸かり切ることもない。

賢い人間とは中庸の道を歩んでゆくことが出来る人達である。

ある時は医学や文明に頼り、ある時は必要としないといったように。

神から与えられた叡智により、その場その時に的確な直観力、判断力によって切り抜けてゆくことが大事である。

人間はどちらか一方に偏るといったような、固い融通のきかない生き方をしないで、いつもフレシキブルな生き方をしていきたい。

その為にはすべてに感謝できる素直な人になることが必要条件である。


4.人の心というものはそんなにもろいわけでもなく、弱いものではない。

心が天に一直線につながっていると、神の叡知が真っ直ぐそのまま流れ入り、どんな不可能なことをも可能にしてしまう力が湧いて出る。

人間本来はみなこうあるべき筈である。

心がもろく弱そうにみえる人は、それだけ神に一直線につながっておらず、心の先端がどこかでずれてしまって、神のエネルギーが全部そのまま肉体に届かず、途中で放出されてしまっているのだ。

それはあたかも水道の蛇口はホースを真っ直ぐに差し込むのと、ずれて差し込むのと違いである。

ずれて差し込んだ場合、水道の蛇口とホースとの間から水が漏れ、ほとばしり、流れてしまい、全部が全部、肉体に届かないため心の力が弱ってしまうのである。


『日々の指針』 西園寺昌美著 白光出版


感想・・・・今現在の医学に対し以前とは違い不信感を持った人と今だに妄信的に「お医者様は神様だ、薬は絶対だ」と思っている人が拮抗していると思うのです。

どんな名医に出会っても治らないものは治らないし、医者や薬に頼らずとも自らの自然治癒力を使い治る人もいる。

しかし絶対ということは、医学にも民間療法にもいえず、ほとんどの人が体の不調和(病気)になったとき、「こうすれば治る!」という信念を持ってはいない。

そんなとき、西園寺昌美さんの「原点に帰れ!」という叫び声?が聴こえて来て、「厳しいなぁ」と思いつつ、なにか守護霊さま(亡くなった自分のお祖父さん、お祖母さん)に叱られているような、懐かしいような不思議な感覚になるのです。

「そうだ人間は神聖なのだ」 「本来病気はないんだ」 「意識を自分の本体のある神界に向ければいいんだ」 と気づかせてくれるのです。

水道の蛇口が本心ならば、ホースが肉体の自分です。

心と吾が合体すると悟る状態、心境、境地になります。

心の故郷である宇宙(神界)と一体となるのです。

4.の文章にある、人間本来のあるべき姿になるのです。



世界人類が平和でありますように

日本が平和でありますように

私たちの天命がまっとうされますように

守護霊さまありがとうございます

守護神さまありがとうございます




  



 

2017年9月29日 (金)

誰かがあなたのことを思っている


  

1.あなたの幸せを邪魔するのは、夫でもなければ妻でもない。子供でもなければ姑でもない。

あなたを邪魔するのは、あなた自身である。あなた以外に誰もいない。

あなたの誤った想念が、感情が、知識があなたの邪魔をしているのである。

幸せは人が与えてくれるものではない。自分自身の手でつくってゆくのである。

その為には、神といつも心を一つにしていなければならない。

  

2.人間の美しさを形成しているのは、善と慈愛である。

人に奉仕出来る喜びと美しさが、人間の顔のあらゆる線から、表情からあふれ出し、その最も深く刻まれた皺の中からも、人生の喜びと味わいが輝きいでて、実に妙なる美しさをかもし出してる。

それは肉体の表面の美とは似ても似つかぬ美しさであり、その美しさは見る者の心を感動せしめ、自分もそうなりたいと躍動させる美しさでもある。

精神美こそ最大の美である。

  

3.人間の幸せは 「もの」 ではなく 「心」 である。

心のもち方一つで幸せにもなれば、不幸にもなる。まず一番に心がけなければならないことは、人を誹ることをつつしむべきことである。

人はついついそんな悪気でもないのに人を誹り、侮って自分の気をよくしてしまう。最も嫌なことは、他人を誹謗中傷することが生きがいのような人がいるということである。

こういった人は一生幸せになれない。

 

4.人は常に良書に親しんでいかなければならない。

特に五井先生のご著書は、天からの真理がそのままに映し出されているため、なるべく多く、丁寧に、そして繰り返し読むべきである。

潜在意識の底から真理が手にとる如くわかるまで、真髄を汲み取っていかなければならない。

心の中が真理のみに満たされてゆくと、自ずと自分の考え方が真理の書と同じ考え方になり、下らぬことに心を惑わされることがなくなるので、運命もまた変わる。

いつも青空のように、心がすっきりしていたければ、一日に一ページでも五井先生の書を読むことをおすすめする。

 

5.心おごれる者たちよ、憎しみに心燃える者たちよ、不正をして生きながらえる者たちよ。

何故、神を恐れる? 光がまぶしいからか、正義の剣が恐いからか。

それとも明より暗を好むからか。

だからその想いももうそれ以上長続きはしまい。

虚(マイナス)のエネルギーは有限であるからだ。

蓄電池のようなものだ。

肉体界の電池が切れればもうすべてのエネルギーは終わり。

だが(プラス)のエネルギーは無限である。

神から無限に流れ入るエネルギーだからである。

心が神に常に向いている者たちは、プラグが電源に通じているのと全く同じで、神の全エネルギーが肉体身に途絶えることなく入り、どんなものをも恐れぬ正しい心で、どんなことをも貫いてゆけるのだ。

 

『日々の指針』 西園寺昌美 白光出版


   

2017年9月28日 (木)

祈りは生命の洗濯である

 

りとはお願いではありません。

自己の想念を自己の本体(神)の中に飛び込ませて、洗い浄めてくることなのです。

いわゆる生命の洗濯なのです。

それを常にやっていれば、いつも生命(霊魂)は清らかでいられるわけで、自ずから光り輝いてくるのであり、他への善い影響を与えてゆくのです。

私の説いている世界平和の祈りは、思念の力でやるのではありません。

思念にも何にも、すべて自己に附属するすべての想念を、ただふんわりと、神様のみ光の中に世界平和の唱え言と共に投げ出してしまう。

そこには自己という小我の想念は何もない。

何もないというより有る想念はすべて神様の中に投入してしまうという、宗教本来の方法、色即是空、空即是色という般若心経の方法をあっさりとやさしく行じさせているのです。

何度びも申しているように、祈りと念力は違うのです。

祈りとは神そのものに全託して、神のみ光をそのままこの肉体世界に天降らせる、器をきれいに神のみ光で浄めて貰って、光の通りやすいようにして頂く、という方法であります。

肉体人間の余計な想念は神のみ心を邪魔するだけで何の益もないのであって、そうした想念を全託した時にはじめて、真実光り輝く神のみ智慧としての想念行為が、その人その国の行為として現われてくるのであります。

ですから私どもの世界平和の祈りは、思念の力で神の光を地上に流れ入らせるというようなものではなく、本来の神性を邪魔する想念の一切を神様の光の中で消してもらって、本来の神性を素直にこの地上界に光らせようというのであります。

そうして下さるのはすべて肉体人間の想念や思念の力ではなく、大神様であり、直霊であり、守護神、守護霊の光によるのであります。




『愛・平和・祈り』 五井昌久 白光出版



感想・・・肉体人間の余計な想念は神のみ心を現わす邪魔になっているとここで書かれています。

肉体の頭で考えないでどこで考えるんだ、頭で想い、考えるのはなぜいけないんだ、と私たちは思いますが、頭というのは、過去世からの蓄積された想念(潜在意識)だとか、人類の集合意識だとかが脳髄の中に入って来て、混乱させ「ああだ、こうだ」と迷い悩ますことになるのです。

そこでお釈迦様は、「頭を空っぽにしろ」、キリスト様は「幼子のようになりなさい」、老子様は、「無為に為せ」(何々の為にしようとするな)とおっしゃり、頭で考えることを否定されたのです。

そこで、頭で考えないでどこで考えるのだ、ですが、それは下丹田(かたんでん、へそ下3.5センチ)なのです。

下丹田は腹脳(ふくのう)とも呼ばれ、霊的なほんとうの脳がある場所なのです。

頭に浮かんで来る想念、雑念、業想念をすべて『世界平和の祈り』の中に投げ入れ、想い考えたくなったら頭ではなく下丹田に意識を集中させる。

すると必要な智慧はすべて頭からではなく、下丹田から浮かんで来るのです。

なぜならば下丹田は宇宙そのものだからです。宇宙(本心)と繋がっているからです。

進化した星の宇宙人たちはみなテレパシー、下丹田で対話をしています。

下丹田と下丹田同士で交信しているのです。

すなわち本心と本心で通じ合っているのです。


下丹田については、また詳しく述べてゆきます。

 

人間の実体を突きとめる

自分というものは一体どんな者なのか、こんなことを考えるのは当り前のようなのですが、意外と考えない人が多いのです。

自分は一体どこから来て、どこへ行くのか、こうして生きている自分というものはどんな原動力で生きているのか、生命力というのは一体何なのか、自分の想念というものはどこから湧いてきて、どこに隠れてしまうのか、等など種々な疑問が自然と湧いてくるはずなのですが、そんなことを一度も考えたことがないと人があるのです。

それでいて、自分の権利とか、自分の自由とか言っているのです。

自分の権利とか、自分の自由とかいったって、自分自体が本当にはわかっていないで言うのですから、その権利とか自由とか言うのも、全く浅い浮ついたものになってしまっているのです。

今までは、まあそれでいいでしょう。

しかし今日では、そんな浅薄な生き方では、とても自分も自分の周囲をも生かしてゆけない、非常事態になってきているのです。

いやでも応でも、自分というものを見極めなければ生きてゆけない、幸福な平和な生活ができない、最後の土壇場にきてしまっているのであります。

この世が大戦争になって、核爆弾が落とされて、映画の大戦争のように地球人類が全滅してしまう事態が目の前に近づいたら一体どうしますか。

全人類は等しく恐れおののことでありましょう。

恐れおののくのは当然のことです。

しかし、当然のこととはいうものの、恐れおののいていてよいというものではありません。

個々人の出来る限りの力をもってして、その災禍を防ぐ方法を実行しなければなりません。

それにはまずいたずらに恐れおののかない心境に各自がなってしまわねばなりません。

それには人間の死というものが、実は生命が他の世界に転移して更に生き生きと生き続けることである、という真理を知ることが第一なのです。

さあそこで、自分自身というものが一体どんなものなのかという、自分自身の実体というものを知ることが絶対に必要になってくるのです。

自分自身の実体がわからなくては、これからは恐ろしくて生きてゆけないような事態が、世界の各処で起こりかねなのであります。

人間というのは一体肉体身だけのことをいうのでしょうか。

肉体身にまつわる精神だけを心と言っているのでしょうか。そうではないのです。

人間とは肉体身だけではない。

精神というのも肉体身がある時だけあるものではない。

人間の実体というのは、霊妙不可思議なる光明身なのだ、ということを、私は体験としてようく知っているのです。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



人間というものは、肉体としては、被造物(神様によって造られた)の側にあるのですが、霊性としては、創造主の側にあるのです。

そして霊性の側の人間というものは、内面的には直霊、分霊、外面的には守護霊、守護神として、宇宙の運行にもたずさわっているのです。

ですから、人間が、肉体人間としても側から、霊性の人としての立場に自己を置くことよって、いかようにも自己の運命を変化せしめることができるようになるのであります。

人間という者は肉体ではない、肉体というものは一つの器であり、場所であって、真実の人というものは、神霊の体なのである、と知ることが大事なのであります。





 『愛・平和・祈り』 五井昌久著 白光出版



感想・・・・・これから近未来の地球人類に起こるアセンション(次元上昇)とは、どういうことかといいますと、前述にありますように、自分が何者なのか?どこから来てどこへ行くのか?今自分が想っていることはどこから湧いて来るのか?などのあらゆる疑問が??????がすべて解消、解決されるのです。

それも他人から教えられるのではなく、波動、エネルギーで自らが答えがわかる、附に落ちるのです。

頭でわかることと、心(本心)でわかることは違います。

人間は心でわからないことにはほんとうに納得しないようになっているのです。

しかし今はまだその時期ではなく、真剣に真理を追究し、探求した人だけにわかるようになっています。

そして今すぐにでも真理がわからないと苦しくて生きてゆけない世の中の状況になっているのです。

神様は気づかせるために(自分が何者であるのかを)真剣に考えさせる状況を人間の周りに作り出すのです。

病気になる(健康とは何か?生命とは何かを問う?)

事業の失敗(私利私欲で儲けようとしていないか)

人間関係の破滅(愛の心で接しているか?)

・・・・・このように自分にとって不都合なことばかりが起き、真理がわからなければ解決しないことがわかるようになるのです。


今、真理に目覚め、神性(神様の性質)に目覚める人がどんどんと増えてきています。

『神性の復活』(人間は元々神そのものであった)がすぐそこまで来ているのです。

そして文中の

個々人の出来る限りの力をもってして、その災禍を防ぐ方法を実行しなければなりません。

の箇所ですが、災禍を防ぐメソッドが『世界平和の祈り』 であることは言うまでもありません。

 

世界人類が平和でありますように

日本が平和でありますように

私たちの天命がまっとうされますように

守護霊さまありがとうございます

守護神さまありがとうございます



追伸・・・五井先生のご著書 『神と人間』 には、肉体人間が疑問に思っているすべての答えが書かれています。

真理のバイブルです。是非、読まれることをお薦めします。



  

 

 

2017年9月27日 (水)

揺るがぬ心の平安こそ最大の利益

   

世界平和の祈りは、誰でも彼でも、一度に聖者の心境になれるというのではありませんが、いつの間にか、自己の脳裏に去来する業想念(恐怖、不安)の想いが薄くなり、憤怒や、悲嘆や妬みの想念が消え去ってゆくのであります。

これは現世利益の最大なるものであると思います。

私の思っている現世利益とは、お金が儲かるということや、病気が治る、ということではないのです。

心が平安になることが第一であると思うのです。

お金は儲かることもあり損をすることもあります。

病気は治ることもあり、また現われることもあります。

そうした現象の細かい現われを、いちいち気にしての信仰では、真実に現世利益を得たとはいえません。

真実の現世利益とは、この現世における自分や自分の周囲に、如何なる変化が起ころうとも、それは只単なる因縁の変化であって、その因縁がたとえ今、不幸や病気のように現われていようとも、それは今日以後の未来において、自己の本心を輝かすために、過去世の業因縁が消え去ってゆく姿である、この病気、この不幸によって、過去世からの業の借財払いをしたのだから、これからの生活はよくなってゆくのである、と思えるようになったほうが、揺るぎのない現世利益を受け得ることになるのであります。




『愛・平和。祈り』 五井昌久著 白光出版



感想・・・「人間万事塞翁が馬」であるとか「国敗れて山河あり」「栄枯盛衰」などのことわざにあるように、そのときの浮き沈み、お金のある、ない、病気である、健康であること等に心が把われると変化の激しい今を生きていると疲れ果ててしまうのです。

そんなとき「やっぱり頼りになるのはお金だよね」と言う人もいるのですが、いくらお金がたくさんあっても病気なったり、心配事に心が把われると意気消沈し、「やっぱりお金ではないよね」(笑)となるのです。

では、人間のほんとうの幸せとは何でしょうか?

それは五井先生がおっしゃっている、心の平安しかないと思います。

『世界平和の祈り』はいつの間にか「私は幸せだなぁ」という心境になっているのです。

それは解決しなければならない問題は山積しているけれど、全然不安にならない、マイナス思考にならないという心境でしょうか?

この祈りに出会ってつくづく 「私は幸せだなぁ」と思うのであります(笑)

 

世界人類が平和でありますように

日本が平和でありますように

私たちの天命がまっとうされますように

守護霊さまありがとうございます

守護神さまありがとうございます



 

世界平和の祈りによる三大効果

 
 
1.この祈りはいつも申しておりますように、人間の心を去来する業想念を光明心に振りかえさせるために、業想念は、すべて消えてゆくために起こるもの、という真理の言葉を裏づけとして、祈らせ、いつの間にか、個人を安心立命を得させる、という意義であります。

この原理は、人間には潜在意識といって、幽体に想ったこと、行なったことが、すべて録音機のように録音されているのでその録音された業想念が表面意識に現われようとする時、あるいはした時、それと同時に、光明心、つまり世界平和の祈りを録音してしまう、ということであります。

そうしますと、悪とか不幸とか失敗とかが表面に現われる度に、潜在意識は見事に光明心に振りかえ録音されるわけで、これを何度びかつづけてゆけば、潜在意識は光明心で一杯になってしまい、そのままの心で、特別力む必要もなく、その人は善事を為してゆくことが出来るようになるのです。

 

2.人間の幽体つまり潜在意識の奥には、神意識、光明そのものの世界があるので、世界平和の祈りをしていると、その度に、祈った人の想念が潜在意識をつき抜け、神意識、救世主の光明世界の中に飛びこんでゆくことになる。

そうしますと、幽体、霊体というのは、幽界霊界で一つに通じ合っているものですから、一人の人間が肉体界から神界まで祈りの想いで突き抜けた業想念の割れ目を通して、神の大光明が幽界霊界を縦から横に響き渡るのです。

これによって幽界霊界が浄められてゆき、肉体界の人間の思想想念が自然と浄化されてゆくのであります。



3.世界平和の祈りが強まれば、その純化されたところに、神霊や宇宙人が、地球世界救済のために、その姿を現実体として現わし、現実的に、業想念で行動している大国を真実の平和の道に入れて下さる、ということにもなっているのであります。

もはや、地球人類だけの力では、地球人類自らを救済することは出来ません。

人類を救う者は誰か、それは神霊の団体活動であり、宇宙人の援助による他はないのであります。

それを一日も早くなさしめ、その活動を容易になさしめる方法は、世界平和の祈りによるのであることを、改めて申し述べて置きます。




『愛・平和・祈り』 五井昌久著 白光出版


*この本にはこれから地球上で起こることやそれの付随して大切なことが書かれています。是非、読んでみてください。

 

世界人類が平和でありますように

日本が平和でありますように

私たちの天命がまっとうされますように

守護霊さまありがとうございます

守護神さまありがとうございます

 

感想・・・・今日初めてこの記事を読まれる人は、特に2.の幽界霊界がわからないと思います。

私たちは物体である肉体や、肉体界しか目に見えないので、その他の目にみえない世界が存在しているとは思っていないのです。

しかし人間とは、肉体の他に幽体、霊体、神体というボディ(体)を同時に纏っており、その大きさは幽体が約、家一軒分(オーラとは幽体)、霊体は、地球大、神体にいたっては、宇宙大なのです。

ですから私たちが肉体意識を離れ(捨て)、神界(宇宙)に意識を合わせれば宇宙そのものになるのです。

そして私たちは肉体界の他に幽界、霊界、神界にも同時に生きているのです。

肉体の死とは、死んでから幽界や霊界神界に往くのではなく、もうすでにそれらの三界(他界)に住んでいるのです。

仏教では、肉体の死を往生(おうじょう、生きて往く)、他界すると言います。

人間は未来永劫永遠に生きつづける霊(神霊)なる存在です。

そして肉体界に非常に大きな影響を与えているのは肉体界にくっついている幽界です。

幽界は潜在意識の世界であり、想念行為の集積場でもあるのですが、浄まった世界である霊界や神界に行けずにさ迷った霊魂たちがうごめいている世界でもあるのです。

この世界の汚れた業想念やさ迷った霊魂たちが肉体界に悪さをするのです。

肉体界は幽界が浄まらない限りは善くならなのです。

人間を守っている守護霊さま、守護神さまは幽界を浄めて運命が好転させるように日々加護してくださっているのです。

地球世界の平和の実現は守護霊さん守護神さんだけの力だけではなく3.にあるように救世の大光明霊団である宇宙天使たちの助けが必要です。

そして言うまでもなく私たち人間が世界平和の祈りを祈り、高次元の意識と波長を合わせることでその助けが最大限に生きて来るのです。

 

  
   

2017年9月26日 (火)

神様から来た霊力と幽界のオバケちゃんの霊能力

  
 
ブログというものは便利なもので、どの記事が人気があり、みなさんの関心を得ているのかが、アクセス解析というツールを使ってすぐにわかるのです。

そしてみなさんが興味深く思っているのは本来人間が持っている霊力のことだとわかりました。

そこで霊力をもっと掘り下げて述べてみたいと思います。

人間と動物の大きな違いは、人間には想い、心があることです。

想いとは想いのエネルギーと言われている通り、創造する力、具現化するパワーを持っています。

動物は感情はあるのですが心や想いが無いので自分を変えたり(成長、進化)、周りや世界を変えることは出来ません。

動物は神の被造物であり、神様がつくったのですが、神様と同じ創造力は持っていないのです。

一方、人間は神と同じ創造力を持っているのです。

自分が創造主、神だと自覚し、持っている力を世のため、人のため、世界(宇宙)人類の平和、愛(か~あ み~い)のために使おうとしている人(霊止)は、お釈迦様やキリスト様のように霊力が与えられるのです、というより悟った時点で自然に出てくるのです。

しかし欲望の塊であり、人類愛ではなく我欲で周りを自分の思い通りに支配したいと想っている人は、神様(宇宙)と共鳴することはなく、意識の低い幽界のオバケちゃんと共鳴してしまうのです。

こんなことを書くとまた反感を買いそうですが(笑)

巷に溢れているスピリチュアル系はほとんどが幽界のオバケちゃんが仕切っているのです。

ほんものとにせものを判断する力を審神(さにわ)というのですが、人には元々この審神力が備わっているのです。

しかし自分の意識が低いところ(3次元、肉体界、幽界)にあっては、高い意識(宇宙・神・神界)がわかるはずもなく、どれがほんものでどれがにせものか?自分の本心や他人の本心、業想念かの区別もわからず、他人または自分の想いに振り回されてしまうのです。

私たちはなんのために肉体を持って生きているのか?

それは、立派な人格になるためです。それしかありません。

本来の素晴らしい自分(神)を思い出し、神の姿を肉体界に顕わしてゆくことなのです。

そのためには、神様から来ている霊力と、神様から離れた、間違った力である念力、幽力との違いがわからねばなりません。

五井先生がわかりやすく説明してくださっています。





霊力と霊能力の違いを教えてください
 


霊力と霊能力とを間違える人がいますが、人の心がわかったり、当てものをしたり、運命の予言をしたりするのを、霊力と解釈していますけれど、それは霊能力なのです。

一つの能力なのです。

霊能力がすぐれている人が人格が高いかというと、そうでないのです。

ところが霊力のすぐれた人は人格が高いのです。

霊力というのはいいかえれば、霊の光、根源の光です。

神のみ心の光が強い人がやっぱり人格が高いのです。

たとえあてものをしたりすることがうまくたって、それが偉いということにはならない。

そんじょそこらの行者はみんな当てものがうまいですよ。

財布の中にいくら持っているか、なんてチャンとわかるんです。

なぜわかるかというと、肉体波動のそばにいる幽界の生物が、幽界と肉体界と波動が近いから、透して見えるのです。

ところがズーッと高い所にいる神さまは、わざわざそんな低い所を見ない。

その人がいかに生きるべきか、どうしたらその人を立派に出来るかということを見るわけです。

わざわざ降りれば見えますよ。

けれどそんなことは必要ないから、高いところからその人に光を当ててやる。

そしてその人に力をつけてやる。

ところが低級の霊能者というのは、力をつけてあげるのではなく、その人に出来ないことをチョコチョコと教えて、相手を屈服させて、自分の支配下におく、子分にしているのです。

霊力が強くて、霊能力の素晴らしい人もあります。

霊力が強くても当てものなどわからない人もあります。

ですからこういうことがいえるのです。

信者が一杯いる教祖があながち偉いとはいえない。

普通の人でいい影響を社会的に或いは周囲に与えている人がいます。

その人は霊力があるわけです。

霊力というのは要するに人格の立派なということで、そういう人が偉いのです。

いくら当てものがうまく、これをこうやれば儲かるといって当たって儲かったとしても、それを教えた人は神さまでもなんでもない、偉いのでもない、勿論そういう当てもののようなことが出来て偉い人があります。

祈りつづけていて、霊能力が出て、人の心が分かったり、予感、予知力が出来たりする人があるとします。

そうした神秘力が得られたといって、いばってしまってはだめなのです。

そういうことではない。

人間の立派さというのは何かというと、人格が立派になることなのです。

いつもいいますが、おのずから和んでくる。

おのずから人の心が優しくなってくる。

その人と一緒にいると、おのずから勇気が湧いてくる。

何か親しい懐かしい気持ちが出てくる。

そういう力を持つことが霊力が強いということなのです。

人に与える好影響が強ければ強い程霊力が強いんです。

「お前の息子さん、三年先に大病するよ、気をつけろ」 といわれて、二年たった、あと一年だ、どうしようどうしようと私にききにくる人が随分います。

これはいい影響を与えていません。

三年間脅しつづけたんだから、悪い影響しか与えません。

わかっていたって、いわないで知らん顔していて、しらないうちに霊力で光を与えていて、大病でなくなるようにやっておいて、やがて現われた時に救ってあげる、という人のほうがいちいち予言して、おどかして自分の力を示そうなんていう人より、ずっと立派ですね。

「神と人間」(五井昌久著 白光出版)には簡単に書いてありますけれど、

よくわかるように書いてあります。

皆さんは霊能力のある人よりも、霊力の立派な人格のすぐれた人になることです。

人格がすぐれていると同時に、霊能力があればそれに越したことはないのです。

それを間違えてはいけない。

だから霊能力だけを磨こうとして、統一などしてはいけない。

人格を立派にするために祈るわけです。

人格が立派というのはどういうことかというと、愛が深いこと、調和した人間であること、勇気があること、簡単にいったらそういうことです。

そうなるように全力をもって近づかなければいけませんね。

 

 

 「質問ありませんか?」 五井昌久 白光出版


五井先生がYoutubeで霊力と霊能力について述べられています。

よろしければご覧ください。


https://www.youtube

2017年9月25日 (月)

今、目の前に現われていることは過去の幻影


人間は現在現われているすべての状態を、実際に今起こっている状態と思いがちですが、現在現われている状態というのは、過去において、人間の心の波の中にあった状態が、今消えてゆこうとして現われてきているので、そうした消えてゆく姿を把えて、どうの、こうのと言っていることは、丁度幻影をつかんで騒いでるのと同じことなのです。

この真理を知ることが宗教の極意でもあるのです。

今私たちが想念し行為していることは、未来の世界にその結果が現われてくるのですから、過去の現われである現在の状態はすべて消えてゆく姿と観じて、今、世界平和の祈り一念で生きてゆくことこそ、唯一無二の賢明なる生き方となるのです。



『愛・平和・祈り』 五井昌久著 白光出版 (祈りによって愛の心を生み、愛の行為によって、すべての平和が生まれる)



感想・・・今、私の周りの現状は、プラスと思われることよりもマイナスと思われる状態のほうが多いのです。

以前の私ならば、「祈っているのに、これだけプラスの波動(エネルギー)を発しているのに、なぜ、マイナスの現象が現われるだろう?」と嘆いたり、悲観したりしていたのですが、今の私の心境は昔の自分とは違うのです。

「今、現われていることは、自分の過去世の悪いもの(膿)が消えてゆこうとするために出てくれているのだ」「今の自分とはまったく関係のないものなのだ」と心から思えるのです。

だからそのマイナスに見える現象を摑まず、これは太陽にかかっている雲なのだ、と静観していればいずれ消えて無くなるのです。

自分が今と思っているのは、ほんとうの今ではない、過去なのだ過去世という幻なのだ、今の自分がこれからの未来を創るんだ、と思えたとき、目の前の不調和なもの、嫌なこと、辛いことは雲のように早く消えてゆくのです。

過去はない、過去が写っている現在もない、ほんとうの現在とは未来のことなのだ、とわかったとき、目の前の出来事、現象に把われなくなり、ほんとうの幸せをつかむことが出来るようになります。

「今は今だろう?今がなぜ過去の現われなんだ」と思う人がほとんどだと思います。

しかし、そうではないのです。

今、夜空に光り輝いている星の光は今、光った光ではありません。何万光年も前に光った光を観ているのです。目の前に現われたものは過去の幻影、幻なのです。

私たちは、過去の幻影を観て、今だと思っているのです。
 



世界人類が平和でありますように

日本が平和でありますように

私たちの天命がまっとうされますように

守護霊さまありがとうございます

守護神さまありがとうございます



  

2017年9月23日 (土)

自己の根源と一体になる


  
不幸とは、業因縁に心が把われている状態をいうのですから、把われさえしなければ、不幸はないのです。

そうした把われから解脱するためには、どうしても不動心にならなければならぬのです。

直霊(神・本心)と分霊(肉体の自分)とがしっかりつながって動揺しないでいる、この不動の心になるには、やはり常日頃から、自分と神とは一体である、とか、常に守護の神霊が自分を護っていて下さる、ということを想っていることが大切なのです。

神仏を離れてはは決して不動心になりません。

不動心とはただ単なる度胸などというのではないのです。

自己の根源、真我と一体になり、不動の心になって、この業生の世界に明るい光、神の光明を放射してゆかねばならぬのです。



『日々の祈り』 五井昌久 白光出版 


感想・・・私事ですが、私の母はすごく心配性で父が病気になって手術することになり、「手術が失敗したらどうしよう」「あの先生で大丈夫だろうか?」などと任せないとしかたがないことまで、「ああだ、こうだ」と想いを駆け巡らせているのです。

まるで自分で不幸を創っているかのようです。(不幸はこうやって出来るのだと改めてわかりました)

恥ずかしながら私は真理を皆さんに伝達しているのに、今まで母に『世界平和の祈り』を伝えておらず、「業想念(マイナスの想い)をひきつけているのは、業想念を消すメソッドを知らないからだ」と痛感したのです。

母に祈りを伝えていなったのは、私のやっていることをおかしな宗教だと誤解していたからです。

しかし年齢を重ね(83歳)痴呆症も見え隠れし、自分の言動に自信を失った母は素直になっていました。

私は、自分が于先生に出会った経緯や調和波動気功法のことを初めて詳しく説明しました。

母は理解をしてくれ、私が『世界平和の祈り』を書いた紙(神)を渡すと、「いい言葉やね」と言ってくれました。

私は母が亡くなる前にどうしても真理(世界平和の祈り)を伝えたかったので、一仕事を終えたような安堵の気持ちになりました。


五井先生の文章にあるように不動心にならないと人間は安心立命して生きていけないのです。

それは正しい判断が出来ないからです。

想いが頭の中を駆け巡っている状態を動揺と言います。

一方、不動心になると想いが止まるので正しい判断が出来るようになるのです。

正しいという字は、天(一)に止まると書きます。天と地は漢字で一を表わすのです。

また明るい光を放つことが出来るのも、業想念や業因縁が消えて不動心(天地を貫く光の柱)になってからなのです。

近い将来、アセンション(次元上昇)によって人間はみな不動心になってゆきます。

そうなれば痴呆症ももちろん、精神病も無くなってゆくでしょう。

進化した星には病気ももちろん精神病もないのです。




世界人類が平和でありますように

日本が平和でありますように

私たちの天命がまっとうされますように

守護霊さまありがとうございます

守護神さまありがとうございます


2017年9月20日 (水)

霊能についてわかりやすく教えてください



私たちは肉体が自分だと思っていますが、真実は肉体(物質)は消えてゆく仮の姿であり、私たちの本体は霊(神霊、神)なのです。

ですから誰にでも霊能があって当然であり、お釈迦様やキリスト様のような奇跡を起こすような神通力や神秘力があることもまた当然なのです。

しかしその力を得たいと思っても、神様が「おまえは神そのものの意識である、愛そのものである(か~あ み~い)、だから神と同等の力を授ける」と認めてくれない限りは与えられないのです。

それ以外は霊力ではなく、幽界のおばけちゃんによる邪な念力、幽力なのです。

そのことがわかりやすく書かれている五井先生の文章をご紹介します。

霊力、霊能に興味がない普通の人にも読んでいただきたいです。




『誤った霊能』


真の霊能と魔境的、迷いの心の幻覚、幻聴とは違います。

魔境とは、まず最初に自己の力を誇示したいとか、自己の都合のよいようにその力を使いたいとかいう想念でなった霊眼、霊聴、霊言のすべてを言います。

そうした想念が魔境的想念なのでありますから、そうした想念統一でなった霊能は、全部一度打ち消してもとの普通人に還らなければいけません。

それは例えば霊眼に仏菩薩の姿がみえ、霊聴に神と称しキリストと名乗って聴こえてきても、これはダメなのです。

何故かというと、自己利益的欲望では、絶対に神仏の真の力をいただく境地にはなれないからです。

魂の開発向上に少しも役立たぬばかりか、ついには自己の身を滅ぼし、他人の魂を傷つけ、歪めてしまうようにもなるのです。



『真の霊能の条件』


愛が深いということは、魂の清さ高さを端的に現わしているからです。

自己を深めたい、人を救いたい、人のために働きたい、人の世のために全力を挙げたい等など、常に自己の力を他に捧げたい、という愛の心が根本になって、開発された霊能であることが第一です。

だがいかに深い愛をもっていても、霊視、霊聴、霊言を審判もせず、ただやたらに信ずるようではいけないのです。

霊能があるからといってすぐ有頂天になったり、すぐに人に告げてみたりする軽率さでは、守護神はその人に及第点を下さらないのです。

もしその人に深い洞察力がなければ、出てくる霊能を否定し尽くすことです。

否定して否定して否定し尽しても、どうしても消えぬ霊視であり、霊聴であり、霊言だったら、それは真実のものと判断すべきです。

  

 

『守護神の指導にまかせよ』


もっと危険性のないことは、出てくる霊視、霊聴、霊言に把われず、わが天命をまっとうせしめ給えの祈りと、守護霊、守護神の加護を念じつづけることです。

そうしていさえすれば、霊能になる天命のものなら、必ず善き霊能者として社会人類のために働かせて下さるのです。

もしそうしているうちに霊能が消えてしまったとすれば、その人の素質が外に現われる霊能ではなく、内部からの直感的働きとして、職業生活を通して、天命を完全に遂げてゆく素質であるということになるのです。

真の霊能はすべて守護神の指導によるものであり、魔境的、外道的霊能は、幽界の悟らざる霊魂たちの興味本位の肉体界への働きかけによるのです。




【日々の祈り】 五井昌久 白光出版



 





 

人は十人十色・・・

   


人間というものは十人十色、百人百色で、人間という等しい名称で呼ばれながらも実に多様な心の動きをもち、多種類の精神的なものを含めた生活内容をもつものです。

自己の欲望のために平気で人を殺害できる男も人間と呼ばれており、自己の欲望のすべてを捨てて、人類社会のために尽くしている人も人間であります。

生命と呼ばれる等しき力をともに与えられながら、一人は人生を有益に生き、一人は有害に生きるということは、実に不思議なことです。

それは各人の想念行為の相違のためなのであります。

想念が神(生命の源、本心)に近づいているか離れているか、あるいは業、カルマ、いわゆる利己的欲望が強いか弱いか、本心の光明を覆う暗雲が濃いか薄いかによるのです。




『日々の祈り』 五井昌久 白光出版



感想・・・人間の価値、そして運命は想念がどうなっているか?がすべてなのです。

人間というのは、神と動物(感情)の間という意味です。

自分の周りを見渡して観ますと、神様に近い人格の人もいれば、感情だけで生きている人間もいます。

私が今、神様に近い人を人と使い、動物に近い人間を人間と書いたのには意味があります。

実は人とは神様のことなのです。

人=霊止という意味であり、霊(神様)が宿った想念の状態、意識が人であり、業にまみれた想念、意識の状態を人間というのです。

「あの人は・・・」というのと「あの人間は・・・」と言うのでは響きがまったく違うことに気づかれたと思います。

今の混沌とした世紀末の世の中で平常心、不動心、そして真面目で誠実に生きてゆくことは難しいのです。

どうしても感情、業想念に流されるからです。

そうならないために『世界平和の祈り』が生まれたのです。

この祈りは、3次元の業想念、業因縁とまったく共鳴しない高次元の祈りなのです。

そして業想念、業因縁、過去世からの汚れた潜在意識を綺麗に消し去ってくれるのです。




世界人類が平和でありますように

日本が平和でありますように

私たちの天命がまっとうされますように

守護霊さまありがとうございます

守護神さまありがとうございます



*この祈りは五井先生と神界との約束事で、この祈りをするところに必ず救世の大光明が輝き、自分が救われるとともに、世界人類の光明化、大調和に絶大なる力を発揮するのです。













日々の精進を怠るまじ



この世の中の生活でも、あの世の中の生活でも、研究努力がなければ、立派な生活ができるものではない。

何事にも真面目な生活態度が、その人を立派にしてゆくのであって、安易な不真面目な享楽精神では、到底、立派な人になり得ることができない。

老人になって、或いはあの世に去ってから、しまった、といってもなかなか取り返しはつかないのである。

たゆみない日々の精進が、その人を真の幸福世界に入れるのである。

だから若いうちから享楽を主としたような生活は、好ましいものではない。

努力した後の慰安こそ、明日のための力の源泉となってくるのである。

そしてまた、その慰安が高度の方法であることこそ、その人の未来をますます輝かしくしてゆくのである。




『日々の祈り』 五井昌久 白光出版

  


感想・・・私はここでスピリチュアルなこと、神秘的なことを書いていますが、運命や人生は多かれ少なかれ、目にみえない守護霊さん守護神さんのご加護があったり、過去世の自分の想念や因縁が原因していることは事実なのですが、あまり神秘的なことに気持ちが奪われていると、一番大切な今、現在を地に足を着けた状態で過ごすことが出来なくなるのです。

私のメンターである調和波動気功法の創始者、于先生は、

「過去の結果が現在、未来の原因が現在。今を大切に、現在が大事。一瞬一瞬を光明思想で明るく、笑顔で、優しい言葉で、礼儀正しく謙虚で、想いやりを。」

とおっしゃっています。ほんとその通りだと思うのです。

過去、過去世に把われず、未来を不安に想うのではなく、現在をしっかりと真面目に誠実に生きること。大切だと思います。

守護霊さんはそんな人(霊止=神)を応援してくださるのです。


  

 




  

悔い改めは永々と時間をかけてするのではない

  

いつまでも悔いてばかりいては、悪を把えていることになるのですから、その人の神性が表面に表われることが出来ないのです。

悔いも改めも同時に瞬間的にするするのであって、永々と時間をかけてやるのではありません。

自分が悪い悪いといつまでも思っていることは、けっして神様のお喜びになることではありません。

神の世界には悪はないのですから、自分の悪でも、人の悪でも、悪い悪いといつまでも摑んでいるようでは、その人は神の世界から遠ざかっていることになるのです。

悪を摑むのは自己なり人なりからその悪を消し去るために、一度摑むだけなのです。

それが自己の場合には悔い改めとなり、他人の場合には赦しということになるのです。




『日々の祈り』 五井昌久 白光出版 


 
感想・・・反省の省という字は少な目と書くのですが、私たちは必要以上に反省し、そして悔いてばかりいるようです。

そんな人は、本来の明るさを業想念が覆い、暗く、何度も同じ言葉を繰り返すので、周りの人は最初は慰めているのですが、最後は面倒くさくなって離れてゆくのです。(あるいは利害関係だけで繋がる)

と、そんな自分が嫌になりなんとかしたいと思うのですが、自分ではどうすることも出来ず、頭の中に反省や悔いが離れずにいるのでつい想い出してしまうのです。

こんなときは、何か他のことに想いを替えて意識が行かないようにすればいいのですが、想いのエネルギーは目にはみえませんが、消えずに残っているのです。


そして頭の中や周りをグルグルと廻っているのです。

 

想い(潜在意識)を消さなければ私たちは幸せになれない。(お釈迦様、キリスト様などの聖者、賢者は同じことをおっしゃっておられます)

想いが人間を苦しめているのです。

ではどうしたらいいか?

それは、想いを綺麗に消してくれる強力なプラスのエネルギーの中にすべての想い(善い想いも、悪い想いも判別せずに)を投げ入れてしまえばいいのです。

その光の溶鉱炉が『世界平和の祈り』であり、世界人類が平和でありますように、という言霊なのです。

世界(宇宙)の平和、調和は宇宙共通の悲願であり、私たち人間個人の悲願でもあるのです。

世の中にはプラスの言霊がたくさんありますが、『世界平和の祈り』は、自分(個人)と地球人類の業想念、業因縁を消すために宇宙神から五井先生に降ろされた究極の言霊、祈りです。

『世界平和の祈り』しか、個人も人類も救われる道はないのです。(ハッキリと断言します)



世界人類が平和でありますように

日本が平和でありますように

私たちの天命がまっとうされますように

守護霊さまありがとうございます

守護神さまありがとうございます

無限なる愛

無限なる調和

無限なる平和



*この祈りは五井先生と神界との約束事で、この祈りをするところに必ず救世の大光明が輝き、自分が救われるとともに、世界人類の光明化、大調和に絶大なる力を発揮するのです。



 

 

2017年9月19日 (火)

愛することを止めるな


 

妻や夫や恋人や子供たちが、いつでも素直に自分の愛を受け入れてくれるものではありません。

愛されていると知りながら、かえってその愛を裏切るような行為をしてしまうことがよくあるものです。

愛されれば愛されるほど、どこまで愛してくれるのか試してみたいなどと思う、恋人や子供がよくあるものです。

愛しても愛しても、自分の心を素直に受け入れてくれない時などは、全く愛することの悲哀を感じるのは誰しものことです。

しかしそれだからといって、愛することを止めてしまったり、相手を憎んでしまったりしたら、せっかくの神のみ心が現わせぬことになってしまいます。

愛することが哀しい時があっても、やはり愛しつづけることが大事なのです。

愛することそのことが神の光なのです。



『日々の祈り』 五井昌久 白光出版



感想・・・自分はこんなに愛しているのに、相手の人の気持ちが伴っていなかったときに人は一番ショックを受けるのではないでしょうか?

相手の気持ちとは関係なくどんなときでも、どんなことがあっても絶対に見捨てずに愛し、見守りつづけてくださるのが、言うまでもない守護霊さん守護神さんです。

だからほんとうの愛とは見返りを求めない無私の愛、慈愛(チャリティー)だとわかります。

世界平和の祈りはすべての地球人類、そして宇宙人類を愛し、平和、幸せを願う祈りです。

グローバルな祈りが憎しみや我欲、執着の想いを洗い浄め、愛の光がすべての人類を優しく包み込んでゆくのです。




世界人類が平和でありますように

日本が平和でありますように

私たちの天命がまっとうされますように

守護霊さまありがとうございます

守護神さまありがとうございます

無限なる愛

無限なる調和

無限なる平和

*この祈りは五井先生と神界との約束事で、この祈りをするところに必ず救世の大光明が輝き、自分が救われるとともに、世界人類の光明化、大調和に絶大なる力を発揮するのです。


  
    

愛の真実


 
愛というのは、合、相という言葉と同じ意味を持っておりまして、自と他とが一つに合する働きをする時に、起こる心の状態です。

神のみ心は、すべてのすべてを生みなしたるみ心なので、神のなかには、自と他という区別がないわけであります。

そこで神は愛そのものである、ということになります。

そのような神のみ心は、分霊である人間のうちにも働いておりまして、愛したい、愛されたい、愛せずにおられない、という想いが湧いてくるのです。

そして、この愛の心が天に向けられた時、魂の内奥に向けられた時には、神への信仰、神への愛となり、人類社会に向けられた時には、人類愛となるのであります。



『愛、平和、祈り』 五井昌久白光出版



感想・・・感動とは文面にありますように人と人の心と心が合い、相いしたときに愛という化学反応が起きて心(本心)の奥底が熱くなる現象だと思います。

そのとき、涙となって感涙(光)することもありますし、「心が通じた」と感じることがあります。

私はこれがほんとうの奇跡だと思っておりまして、感動するために、いろいろな愛(合・相)を経験するために生きているんだと思うのです。

なぜなら愛を感じたときが一番幸せ感があるからです。(人間は幸せになるために生まれてきました)

私たちは天から縦に神(宇宙・守護霊、守護神)の愛を戴き、横からは人(人類)の愛を戴くことが出来る。(縦┃横━十字、キリストの愛です)


「人間とは幸せ者だなぁ」と思うのであります。


そして私は同時に、最高の人類愛である『世界平和の祈り』を祈れる幸せを感じているのであります。




世界人類が平和でありますように

日本が平和でありますように

私たちの天命がまっとうされますように

守護霊さまありがとうございます

守護神さまありがとうございます



 

2017年9月18日 (月)

ほんものとにせものを区別する法

 

やたらに人を信じてよいというものではない。

やたらに人の言う通りに行動してよいというものでもない。

相手の本心と業想念をよく区別して、相手の業想念のなかにひきずり込まれてしまってはいけない。

そうした本心と業想念の区別をつける最もよい方法は、先祖の悟った霊である守護霊さんと、その上にいて常に守護霊に光を送っている守護神さんに常に感謝の心を送っていると、守護の神霊の側から、その人の心にむけて、その区別を直感的にか、他の人を介してか必ず知らせてくれるものである。

もしそれでも騙されたり、ひっかかったりする時は、それこそ過去世からのその人との業因縁がそこで消え去っていったもので、それも、自己の本心を輝かすために必要なことであったのだと思い、世界平和の祈りをつづけることである。




 『日々の祈り』 五井昌久白光出版
 



 感想・・・今は末法の世(世界が変わる過渡期)なので、一番混沌とする時期であり、騙す人、騙される人が増えて行きます。

その中で騙される人とは、自分の頭、経験智で判断しようとする人であり、騙すほうが知能が上であったり、相手の経験を越える手口を使った場合、騙される確率は高くなります。

一方、人生経験が少ない、偏差値などが高くなくても直観力の優れた人は騙されにくいと思うのです。

それは頭でごちゃごちゃ考えない分だけ、守護霊のメッセージが入りやすいのです。

それに加えて神様(守護霊、守護神)の存在を信じて素直に感謝している人は災難に遭いにくいのは言うまでもありません。

そしてみなさんがひっかかるところは、最後のところだと思うのです。

「騙されそうになったら素直に教えてくれたらいいじゃないか?」と思いますよね。

ところが騙されたほうがよい場合があるのです。

自分が前世で相手を散々騙していた場合は、相手の人の気がすまないのです。(潜在意識が覚えている)

そして騙されないと自分の魂も納得しない(騙される方も)、

そんな場合は、小さな騙し(大難が小難)でお互いの想い、潜在意識を消すのです。

そしてスッキリした後は、台風の後のように青空が広がります。(騙されてもなんだかすっきりしている心境)

要は、すべてを神様任せにして、現われて来る現象に把われない、気にしない、神様のみを信じるということですね。(絶対に神様は私を不幸にしないと信じる)

なにがあっても平常心、なにがあっても不動心、そしてなにがあっても幸せ
 

こんな心境って素晴らしいですね!


世界人類が平和でありますように

日本が平和でありますように

私たちの天命がまっとうされますように

守護霊さまありがとうございます

守護神さまありがとうございます

 

2017年9月16日 (土)

不安は小さいうちにつみとれ

 

  
1.不安は最初は何か漠然とした恐れから始まる。

その恐れをまだ小さいうちに、手早くつみとってしまうと、不安はたちどころに消えてしまう。

どうしてその芽をつむかというと、自分の心の中から、その恐れを一刻も早く追い出してしまうことである。

又、その恐れを認めないように出来るだけ心がけることである。

そして絶対に “無い” と否定することである。

その為には祈ることである。

認めたら最後、それは認められたことによって、どんどん成長していってしまい、手に負えないものになってしまうからである。



2.一つの不安、一つの問題、一つのトラブル、一つの悩みに心が把われている時、又いつまでもそのことだけ心を奪われていると、解決どころか、ますますその不安、悩み、問題は自分の心の中で大きく成長していってしまう。

その一番の解決方法は、出来るだけその問題から心をそらすことに専念し、逆にその問題が解決された後の、本来の素晴らしいこととか、明るいこととか、楽しいこととかを心に描くように試みるのである。

すると、いつの間にかその問題は自然に解決されてゆく。

  

3.いかなる人の欠点も過ちも認めず、すべてを超えてほめたたえることが出来れば、どんなに素晴らしいことかと思います。

そうなるための最も端的な方法が、五井先生のみ教えである “消えてゆく姿で世界平和の祈り” です。

この祈りを実践してゆくと、知らないうちに、人に寛容になり、いかなる欠点も過ちも、小さな小さな出来事としてみることが出来るようになり、そしてすべてを許せるようになり、人の長所を見、その長所をほめたたえることが出来るようになります。

  

4.人生とは選択と決断の連続である、といわれている。

自分のつちかった経験や知識、情報に基づいて行っているが、ほとんどの場合直観で決めてしまう場合のほうが多い。

ただ単に好き嫌い、良い嫌だ、といったフィーリングの方が経験や知識よりも先行する。

又その方がずっと自分の思った通り人生を歩むことが出来る。

直観とは神から流れてくる答えだからである。


『日々の指針』 西園寺昌美 白光出版




  

 

2017年9月15日 (金)

苦しみを背負って生きているのは、あなただけではない

  
 

苦しみを背負って生きているのは、あなただけではない。

時折、仕事に重荷を感じているのもあなただけではない。

何もかも捨てきって自由に生きられたら等と考えているのも、あなただけではない。

老若男女すべてほとんどが大差なく、同じような苦しみを背負って生きているのが、この世の常だ。

その中にあって、その苦しみを抱え込みながら、人類の為に生きようとしている人こそ、輝いている人なのだ。

世界平和を祈る人々、祈っているうちにその抱え込んでいる苦しみがだんだん少なくなっているのに驚くのである。

そう、そうなのだ。個人の苦しみなど忘れて、人類の為に勇気をもって働きかけるならば、苦しみなど難なく消え去ってしまうものである。




               
 『日々の指針』 西園寺昌美 白光出版




感想・・・・最近、特にいろんな人とお話をするのですが、みなさん総じてご苦労があるようです。

心配事、気になること、スッキリしないこと、不安なことはほぼ全員、悩みはかかえておられます。

それはすべて自分に関わることであり、死ぬまでに解決出来ること、緩和されることもあれば、解決しないこと、どうにもならなかったこともあるでしょう。

しかしそれも『世界平和の祈り』のとてつもなく大きな大ビジョン、大理念に比べれば小さな小さな想念だったことに気づくのです。

そしていつの間にか雲一つない青空のような心境になっている。

幸せとは目の前に現われている今の現状、状態ではなく、目にみえない心の状態がスッキリ爽やかになった心境を言うのです。

 

世界人類が平和でありますように

日本が平和でありますように

私たちの天命がまっとうされますように

守護霊さまありがとうございます

守護神さまありがとうございます

 

*この祈りは五井先生と神界の神々との約束事で、この祈りをするところに必ず救世の大光明が輝き、自分が救われるとともに、世界人類の光明化大調和に絶大なる力を発揮するのです。

 

相手の天命を祈ることが最高の愛なのです。

 


何をそんなに思い煩っているのだ。 

何もかも自分一人で背負うとするから混乱してしまうのだ。 

あなたは一番根本なることを忘れている。

それはどんな人にも守護霊さま守護神さまがついておられるということだ。

そしてその守護霊さま守護神さまが必ずその人の運命をよくしようと、日夜努力し導いて下さっておられることだ。

あなたのすることといえば、ただその人の天命を祈ってあげさえすればよいのだ。

夫のために妻のために、愛する子供たちのために、友人知人のために、両親、祖父母のために、ただそれだけでよい。

だがあなたはその人の心をあまりに思うあまり、その人のためにあまりに考えすぎるためにすべての責任を自分一人で背負うことが正しいと思い込んでしまっているのである。

その人の運命はその人でなければ切り抜けられないものである。

思い違いをするな! 思いあがるな!

 




        「日々の指針」 西園寺昌美  白光出版 




感想・・・心配をし過ぎるとなぜいけないのか? 

それは心配のマイナスの想念エネルギーが現実のものとしてしまうからです。

想いはカタチになります。 想いはエネルギーだからです。
  
そして私たち肉体人間は悲しいほど無力です。(だから全知全能の神様に全託出来る)

子供のこと、親のこと、友だち、知人のことを心から心配したところで負のエネルギーになることはあってもプラスの助けるエネルギーにはならないのです。

では、絶対的な力を持った人?とは誰か?

言うまでもなく、守護霊さん守護神さんです。

霊界、神界から絶大なる力で肉体界を救ってくださるのです。



  

睡眠は大切です、夢はなぜ見るか?



・眠っている間は何もしていない、と思っている人がいますが、とんでもないことなのです。

というのは、眠っている時が一番神さまが働いている時なのであって、守護霊守護神が想いを浄めてくれている、ということなのです。

・寝ている時には、魂を霊界や神界に、守護霊さん守護神さんが連れて行き、そこで浄めるのです。

浄めていると汚れたものが流れてきて、脳髄に夢のように出てきて、幽界でいわゆる夢を見させるのです。

汚れたものを、消えてゆく姿として夢に見させるのです。

潜在意識の中にたまっている、悪い想いが消えてゆくのです。

そのことによって、現象世界に悪い想いも、悪い行いも出ないで消されてゆくわけです。

もし夢を見ないとするならば、夢で消されていただけの業想念が、肉体を冒して、死んでしまったり運命に現われたりして、短い期間で終わってしまうわけです。

寝ないと、どうして死んでしまうかというと、魂が汚れきってしまうからです。

・業想念波のエネルギーを、何とかして消滅させてしまわねばいけないというので、神の大愛の行為者として各自の守護の神霊が、人間を睡眠状態に導き入れ、霊魂にまつわりついている業想念波動を、霊界において洗い浄めることになったのです。

肉体が眠っている時、その霊魂は神界あるいは霊界において、統一行をしているのであります。

そしてその間に、守護の神霊がその人の業想念波を洗い浄めるのです。

その洗い浄めている時に、幽体あるいは肉体の脳裡に、その波動が夢として画かれてゆくのです。

睡眠の場合などは、人間の本心と守護の神霊とが、人間の顕在意識の想念波動にじゃまされることなく、充分に働き得る貴重な時間なのであります。

肉体が睡眠に入るということは、死と同じように、霊魂が守護霊に誘導されて、肉体を離れてゆくのであります。

そう致しまして、その霊魂に適当な階層まで守護霊が連れて行き、そこで統一に入らせたり、目覚めてから必要な道の修行をさせたりするのであります。

そういう状態の間に、守護の神霊はその人間の霊魂にまつわる、業想念波動の浄めの働きをするわけなのです。

急に叩き起こされたり、大きな音で目覚めたりすると気持ちが悪くなったりするのは、序々に霊魂が肉体に入ってくるのを、急速に戻ってしまうので、不調和な状態になり、気持ちが悪くなるのです。

充分な睡眠をとっていながらも、寝ざめが悪い時は、霊魂が肉体外の階層で、修行に疲れたりする時の名残りがあるからです。


  

この世に恩を返さなければ生まれて来たことがマイナスになる



  

“己が幸願ふ想いも朝夕の世界平和の祈り言の中” 


という歌のように自分の幸せを想わない人はありません。

 自分の身体が丈夫でありますように、自分の家が幸福で仲良くいきますように、お金もないよりあるほうがいいだからあるようにと、そういう自分の幸せを想うのは当たり前です。

それと同時になにかしら人の世のために役に立ちたいという気持ちがなければ、人間の道を踏んでいるわけではありません。

この肉体の自分というのは、天の恩、地の恩、先祖父母の恩、あらゆる恩恵によってこの一つの生命体として生まれてきたわけです。

それをなんにもこの世に恩を返さないで死んでしまったら、生まれたことがマイナスになる。

それなのに、今の若い人たちの中には、親が勝手に生んだんだ、とか、俺はもう二十歳になったんだ、自分に命は自分の勝手にするんだ、ほっといてくれ、ってなことを言って我まま一杯して、イザ困ると親にすがってくる、そういう人が大分あります。

           「永遠のいのち」 五井昌久 白光出版


  

感想・・・私が最近つくづく実感するのは、『世界平和の祈り』に出会ってほんとに善かったな、ということです。

まだまだ足りませんが一日の大半を祈りと印に注ぎ生活の一部というより、祈りの中に生活が入っているのです。

祈りは光なので光の中に自分がいる感覚です。

光には闇(マイナスの想念エネルギー)もやって来ますが、太陽にかかる雲のようにしばらくすると消えてゆくのです。

そしてすぐに光り輝いた太陽(私の本心)が顔を出すのです。

この光は自分自身だけはなく自分の器(光の柱)を通して地球人類、そして宇宙に放たれてゆきます。

もし『世界平和の祈り』に出会っていなかったら、自分のことしか考えない、欲深い(笑)嫌な奴になっていたと思うのです。

今、北朝鮮がミサイルを発射しました。

地球世界が混沌とし、人間が狂ってしまっているのは(一部の人が狂っているのは地球人類全員の責任)、人類の業想念、業因縁の黒雲が地球を覆っているからです。

目覚めさせるには、祈りしかありません。

黒雲の闇を消すには、宇宙神からの光のエネルギーしかないのです。

人類のカルマはいくら強力だったとしても有限なのです。宇宙のエネルギーは無限です。

無限が有限に負けることは絶対にないのです。

宇宙神のエネルギーそのものが『世界平和の祈り』であり、『人類即神也の印』であり、『神性復活目覚めの印』です。

地球の完成(アセンション・愛の星の誕生)は約束されています。

しかし実現するには、地球人類の愛の行為(先に述べた神事)が必要なのです。



世界人類が平和でありますように

日本が平和でありますように

私たちの天命がまっとうされますように

守護霊さまありがとうございます

守護神さまありがとうございます





  

2017年9月14日 (木)

自分で悟った、なんていう人は本当に悟っていない


 
1.自慢高慢バカのうち。俺は偉いんだ。というヤツは一番バカだと思っていい。自分で悟った、なんていう人は本当に悟っていないのだ、と思っていい。

 

 

2.涙を流すにもいろいろあります。悲しい時に流す涙、嬉しい時に流す涙。しかし、喜びの涙、感謝の涙、それは光です。

 

 

3.水を浴びたり、山にこもったりして修行しなくとも、もっと近くに最も厳しい修羅場がある。それは家庭生活という修羅場である。人間は自分に近く親しいものに、業をぶつけるもの。業をぶつけても、ぶつけられても、自分も人も痛めることなく、業を消せ、家庭内が調和していけるようになれば、どこに出たって立派なものだ。

 

4.一番悪そうに見える時、一番どうにもならないようになった時、その時が一番夜明けに近いのです。いいことが必ずくる前兆なのです。
 




             『如是我聞』 五井先生の言葉 高橋英雄編著




感想・・・私は「人間は悟るために生まれて来た」とブログに書いています。

五井先生も「悟ったところから人間としての第一歩が始まる」とおっしゃっておられます。

だけれども悟ることと自分が悟ったと自覚することは違うのです。

「悟った」と自分で思うことは進歩を止めてしまうからです。

第一、「私は悟りました」などと言っている人、自慢している人は鼻持ちなりません。

信用出来ません、好きになれません(笑)

それは悟ることが決してゴールではないからです。

愛の奥にはもっと深い愛や空(くう)があるように、悟るの先もずっと奥があるのです。

人間は無限次元に進化向上してゆく存在なのです。(だから素晴らしい!)

それは人間が神さまそのもの、宇宙そのものだからです。



  
   

運命に左右されるな

 

     
あれも運命だ、これ運命だ、という人がいます。大体の人は、自分が運命の流れの中に入ってしまって、その流れに左右されているようです。

ところが本当は、自分というものと運命というものは違うのです。

運命というものは、前世を含んだ過去において作ったものが、今現われて消えてゆく姿だけのものなのです。

運命それ自身が今の自分ではないのです。

たとえ運命が善かろうと悪かろうと、今の自分のものではないのです。

すべて過去世からの想念行為が現われては消えてゆく姿なのです。

ですから運命環境が悪くても、それは今の自分が悪いからではない。

また運命が素晴らしくよくても、それは今の自分が善いから、偉いからというわけではない。

それはすべて過去からの想念行為の蓄積が、現われて消えてゆく姿なのです。

ですから運命や環境が悪いから、といって今の自分を嘆き悲しみ、責め卑下することはありません。

また運命環境がよいからといって、感謝こそすれ、自惚れたり威張ったりしてはいけません。

それはみな消えてゆく姿なのです。

では今の自分はどこにあるか。

今の自分は神の中にいるのです。

神の生命と全く一つの個性をもった永遠の生命なのです。

そして現われてくるものはすべて消えてゆく姿。

この信仰に徹すると、生き死にの恐怖不安に把われなくなり、永遠に生きつづける生命がある、という不動心を会得出来るのです。





『如是我聞』 五井先生の言葉 高橋英雄編著


 
感想・・・私のメンターである調和波動気功法の創始者である
于先生のお言葉で、「自分と他の人を比較してはいけない」があります。

先生のもとにはいろんな生徒さんが来られるのですが、みなさん千差万別、一人として同じタイプ?の人、似通った人はいないのです。

業因縁をたくさん持っている人、少ない人、今生での家庭環境が整っている人、いない人、仕事がうまく行っている人、いない人、魂が古い人、新しい人、輪廻転生の多い人、少ない人、そして霊的な人とそうでない人・・・・とてもじゃないけれど共通していない部分のほうがずっと多いのです。

だから現時点での心境の高さや霊を感じる感じないはまったく比較するほうがおかしいのです。

霊的でない人は霊的な人を羨むことがありますが霊的な人とは、神様(守護霊さま)を感じることもあるのですが、幽界のおばけちゃんの影響(感情的になりやすい)も受けやすいのです。

私はかなりスピリチュアルなことを書いていますが、守護霊さんも感じませんし、その代わり幽界のオバケの影響も受けにくいのです。

どちらがいいか悪いかではありません。

守護霊さんはその人の魂の成長に対して霊的にしたりしなかったりします。

一番善い方法を取ってくださっているのです。


運命も同じですね、たった今の環境がベストなんだ、守護霊さんが自分の魂にとって一番善い環境を与えてくださっているのだと信じることが大切だと思います。

 

 


  

他人の悪運、悪癖、悪性格を直してあげる祈り

 

 
私たちは簡単に「あの人は悪い人だ」「あの人の性格は良くない」「あの人は癖が強い」などと言いますが、『罪を憎んで人を憎まず』のキリスト様のお言葉にあるように、その人自身には責任はないのです。

私たちのマイナスの言葉や想念エネルギーがある人の所に集中して行って、その人がそのエネルギーをもらって(被るとも言う)しまっているのです。

 

1.その人が悪いのではない業に巻き込まれてしまうのだ。

あいつは悪い奴だ、と言われる人は、実は業をそこに結集させて、代表的に業を消している役目を荷っているのである。

ああご苦さま、あの人の天命がまっとうされますように、と祈れる心は仏の心である。

                              
                                  『如是我聞』

にあるように、自分の想念(想い)、意識を相手の人を批判、非難することに向けるではなく、その人を守っている守護霊さんに向けるのです。


2.他人の悪運(悪癖、悪性格)をなおしてあげる祈り。

「一日も早くあの人の業が消えて、本体(神性)があらわれますように、守護霊さん守護神さんお願いします、世界人類が平和でありますように」 と相手の守護霊さんに祈ることです。



                                  『如是我聞』

 

感想・・・総じて悪い人と言われている人の守護霊さん守護神さんは弱っています。(守護霊さん守護神さん生意気なことを言ってごめんなさい)

なぜかと言いますと、守っている人の業が厚すぎて消しても消してもまだ光(神性)が見えないのです。

何千、何万回も輪廻転生を繰り返しているその人の業因縁、汚れは相当なものです。

そこで守護霊さん守護神さんにとって一番有り難いのは、光を得ることです。

光はエネルギーなので元気になった守護霊さん守護神さんは守っている人間に強い光を当てることが出来るのです。

そして感謝も光です。

相手の神霊にお願いし感謝をするといっそう力を得るのです。

肉体人間がいくら「この人の性格、性根を直してやろう!」「俺が目を覚ませてやるんだ」と想ったところでほとんど(一切と言っていいでしょう)効果はありません。

それよりも魂の親、ほんとうの親である守護霊さん守護神さんに愛の光を送ってもらったほうがいいのです。

私たちは守護霊さん守護神さんのご加護がなければ一日たりともまともに生きては行けないのです。



 

予感がしたとかしないとかはバカバカしい

 
 

予感がしたとか予感がしないとか、いうことがあるね。

行っちゃいけない予感がしたからどうしようか、行くか行くまいか、なんて言っている人がいるらしいけれど、およそバカバカしいね。

本当に行っていけないものなら神さまは行かせはしない。

予感とかなんとかより、行かれなくなる状態になる。

神のみ心というものは、もっともっと深いところにある。あたり前でいいんです。

行かれなかったら行かなかったほうがいいんだし、人に会えなかったら、会えなかったほうがいいんだ。

だからありとしあらゆるものが、みんなそれでいいんだ、ということになるとそれは悟りだろうね。老子のいう無為に為せだ。

それで一生懸命自分の仕事をするんですよ。サラリーマンは会社に行って一生懸命働き、商人は一生懸命商売することです。




『如是我聞』 五井先生の言葉高橋英雄編著



 


感想・・・感想を書こうとしたのですが、ここに書いてある通りなので少しだけ述べることにします。

一生懸命に生きていれば神様が一番いい状態にしてくださる。

一生懸命に生きているということはそこに神様が宿っているのです。

予感に振り回されるということは魔(間)が差す、余計なことを考えているのだと思うのです。

人は直観(神智)だけで生きられる。

予言、予知、予感はいらない。


  
 

 

あなたは幸せになれる人だ

 

あなたは幸せになれる人だ。幸せにならなければならない人だ。

本来幸せであるべき人なのに、今まで廻り道をしてきてしまった。

長い間本当にご苦労であった。さぞや苦しかったであろう。さぞや辛く悲しかったであろう。

もう大丈夫だ。

神様のふところの中に飛び込んできた以上、たった今からあなたは本当に幸せになる。

あなたは幸せの道に飛び込んできたのだから、今までのあなたとは全く違った新しいあなたが誕生したのだから、さあ神様と一緒に祈るのだ。

世界平和の祈りを祈るのだ。


世界人類が平和でありますように

日本が平和でありますように

私たちの天命がまっとうされますように

守護霊様守護神様ありがとうございます


あなたの明日は希望に輝いている朝を迎えることであろう。




『日々の指針』 西園寺昌美 白光出版

 

感想・・・私事ですが、先日、「真理の勉強会」を行なって、講師役になった私が、参加してくださったある一人の人に「なにか自分がこうなりたいというような希望がありますか?」と質問すると

「いえ別にないです、それよりも世の中がディズニーランドのようになって欲しい」

と言っておられました。(なんとピュアな人なのでしょう!)

ふつうは、「自分の目標を達成したい」「ビジネスで成功したい」「病気を治したい」・・・など自分のこと、自分中心のことが出てくるのに、この方は世界の平和を願っておられたのです。


ところでディズニーランドを創ったウォルト・ディズニーは、ディズニーランドが出来たオープニングのスピーチで、

私はディズニーランドが人々に幸福を与える場所、大人も子供も、共に生命の驚異や冒険を体験し、楽しい思い出を作ってもらえる様な場所であって欲しいと願っています。

と語ったのだそうです。

まさしくディズニーランドは天国だと思います。

そしてまさしく地上天国にするためのメソッドが神様と一体になることであり、神様と一体になるためのメソッドが世界平和の祈りなのです。

神様と一体になったあなたの幸せはもう約束されたも同然です。

祈っておられる人は、自信をもってください。

世界平和の祈りは、宇宙共通の宇宙最高の祈りなのです!


  

日本人よ今こそ起て

 




『日本人よ今こそ起て』  

                五井昌久



日本人よ 日本人よ 今こそ起たねばならぬ

今日起たねばいつ起つ時があるのか

日本人よ 日本人よ 今こそ起たねばならぬ

だが日本は剣を持って起つのではない

一億二千万の心を一つに

平和の祈りをもって起つのだ

日本は核爆弾の洗礼を受けた唯一の国

真実平和を絶叫できる唯一の国だ

何者だ今頃になって武器を持とうと言うのは

剣を持って防ぎ得るのは一時のこと

永遠の平和は剣を持つ手に来ることはない

日本の天命は大和の精神を海外に示すにあるのだ

日本は今こそ世界平和の祈りによってのみ起ち得る

世界平和の祈りは

大救世主の光り輝く言葉だ

救世の大光明は日本国の平和の祈りに結ばれて

地球の隅々にまでその光明を顕現するのだ

サラリーマンの家庭から

農家の主婦の心から

機械に躍る職場から

世界平和の祈りは光となって

世界中にひろがってゆくのだ   (詩集 『いのり』 より)

そして次の文章が詩に続く。

「皆さん、私たちは個人の幸福と人類の平和とが同時に成就するのには、一体どうしたらよいかと常に考えているのです。

そうしてこういう結論が出たのです。

人間は誰でも善いことがしたいし、人に悪く思われたくないし、不幸や貧乏や病気になりたくない、というように、万人が調和した住み心地よい環境にありたいと思っているのです。

これは国家や民族の間でも同じことで、どの国も戦争はしたくない、お互いに平和につき合いたい。そういう気持ちでいるのに、お互いの政策のゆき違いで戦争になったり、今にも戦争が起こりそうな状態にもっていってしまっているのです。

どうしてそうなるかというと、個人の想いと個人の想いが離れすぎている、国家と国家の利害が相対しすぎている、というところからそんな風になってしまうのです。

そこで個人も国家も、自分だけの立場や自国だけの利害ということをひとまず置いて、人類世界を滅亡させてしまうような争いの想いや不幸不満の想いを、どこかへ片づけてしまうことをしたら、どうだろうということなのです。

国家とか人類とかいうことは、個人の私たちが口先でとや角いっても仕方がないから、まず自分たち個人の貧苦も病苦も不幸も不平不満も、ちょっとの間そのままにしておいて、そうした想いも含めた心を、世界人類の平和を念願する、という一点に集中してしまって、日本なら日本の国民全体の心を、個人個人の立場から、世界平和を念願するという、一つの立場に持っていってしまう日常生活に切りかえてゆけば、いつの間にか日本人の心は世界平和という、大きな心一つに融け合ってしまうと思うのです。

そうしますと、自己のもっているあらゆる苦悩も、いつの間にか世界平和という大目的の中に消え去っていって、苦しい環境にありながらも、今日までよりも余程苦しみの少ない心境になれると思うのです。

そこで私は、世界平和を念願する共通の祈り言を提案したいのです。

それは━



世界人類が平和でありますように

日本(祖国)が平和でありますように

私たちの天命がまっとうされますように

神さまありがとうございます



という神への感謝とともなる平和祈願なのです。

これは朝昼晩の食前に、夕べの床に、職場の往復に、日常茶飯事の心の暇をみては、各自の都合のよいように祈りつづけてくださればよいと思うのです。

こうしていれば、必ず個人の幸福と人類の平和とが成就される、大きな働きになると確信しているのです。

どうぞみなさん、今日から早速実行して下さい。

世界人類は今や危急存亡の時なのです。

どうぞ人類救世の一役を貴男も貴女買ってください。




己が幸 願う想ひも朝夕の世界平和の祈り言の中       昌久





   

 

2017年9月10日 (日)

お釈迦様の悟りとは?



滝行をしたり、断食をしたり、不眠行などの肉体のそうした錬磨は、小さな悟りには到達しますが、大悟徹底の境地に至ることは、はなはだ少ないのです。

それは、肉体を超越するための修行であっても、肉体というものを相手にしての修行は、あくまでも肉体世界のあり方であって、神霊世界のあり方ではありません。

【悟り】

釈尊は難行苦行の末に仏陀となられ、苦行は悟りの因にあらず、人間の本心本体を発顕し、本心のままに生きられるようになる事が悟りなのだ、という真理を教えられたのでありました。

この世の中の苦しみ不幸というものは、何が不幸なのか何が苦しみなのかというと、肉体にまつわる想念が苦しむのであり、想いが不幸なのです。

生きているけれども、寝ている時には想いが消されているから、なんの苦しみもない、貧乏もない、病気もない、なんの考えも感じもない。しかし想いがよみがえると、病気があり、貧乏があり、苦しみがある。

つまり、想いが不幸を感じ、想いが病気をし、想いが貧乏を感じるわけです。

お釈迦さまが修行の結果、悟りをひらいたことはどういうことかというと、想いが苦しくなければ苦しくはないのだ、ということがわかったのです。

人間の苦しみは何かというと、想いが苦しんでいるのであって、生命そのものは苦しんでいない。生命そのものは仏なのだ。生命そのものの流れは、仏の姿なのだ。

だから座禅観法をして空になって、その想いから解脱しさえすれば、その人は光り輝く人であって、貧乏でも苦しくない、病気でも苦しくない、ということを悟ったわけです。

                          五井昌久

感想・・・『世界平和の祈り』は肉体人間にまつわる業想念を消し去り浄化して神界の響き(光)に替えるのです。
祈り続けているとお釈迦様の悟りの「空」の状態になってゆくのです。
神界にいるほんとうの自分(本心)だけが肉体の自分に顕われて来るのです。


あっ今、五井先生のお言葉(如是我聞より)を思い出しました。

「悟る(幸せになる、自由自在心になる)って難しいことではない、余計なことを思わなきゃいいんだ」


 

モーパッサンの『首飾り』 から真理を学ぶ


   
 

モーパッサンの首飾り


 

安月給の家庭などに案外垢ぬけした美しい娘さんがいるものだが、彼女もそんな一人だった。

持参金もなければ、遺産の目当てもあるわけではない。

いわんや、金持ちの立派な男性に近づき、理解され、愛され、求婚される、そんな手づるのある筈もなかった。

結局、文部省の小役人と結婚してしまった。

もとより着飾ることなど出来ようもなく、簡単な服装で間に合わせていたものの、内心では、零落(れいらく)でもしたような気がして、自分が可哀想でならなかった。

彼女は自分がどんな贅沢をしても、どんな洗練された生活をしてもいいように生れついているのに、と思うにつけ、いつもいつも寂しくて仕方なかった。

今の自分の住まい、環境、一切が気にいらなかった。

彼女には晴れ着もなければ、装身具もなかった。

実際、何一つ持っていなかったのだ。

そのくせそんなものばかりが好きだった。

自分はそんなものをつけるために生まれついているような気さえしていた。

それ程までに彼女は人に喜ばれたり、羨まれたりしたかったのだ。

人を惹きつけ皆からちやほやされたかったのだ。

ところがある日の夕方、夫は妻を喜ばせるために意気揚々と帰ってきた。

手には大きな角封筒を握っている。

それは大臣官邸で行なわれるパーティの招待状であったのだ。

だが夫の期待に反して、彼女は、喜ぶどころか、さもいまいましいげにその招待状を放り投げ、不平そうに言った。

「これ、あたしにどうしろとおっしゃるの! 私に何を着て行けとおっしゃるの!あたしにはよそ行きがないでしょう。だからそんなおよばれには行けないわ」

夫は、途方にくれ、それでもなお妻が喜ぶことを考え、彼の貯めてあった貯金を全部はたいて新しい洋服を買ってあげたのであった。

ところが、喜んでいた妻が、パーティが近づくにつれて浮かない顔になってきた。

夫は妻にそのわけをきいてみた。

「だって、あたしつらいわ、装身具ひとつないなんて、宝石ひとつないなんて、身につけるものが一つもないなんて、あんまりだわ、考えたってみっともないじゃないの。あたし、いっそそんな宴会なんて行きたくない」

と応えたのであった。

夫はきらびやかな宝石よりも、美しく咲いている本物の花でも差すように言ったが、彼女は聞かなかった。

そこで思案した揚句、彼女のお金持ちの友達から借りることに気がついた。

早速彼女は友達の家へ行き、事情を話した。

友達は、大きな宝石箱を取り出すとそれを彼女のところへ持ってきて、蓋を開け、

「さあ、好きなものを選んで」

と言った。

彼女は見た、まずいくつかの腕輪を、つぎに真珠の首飾りを。 それについで金と宝石をちりばめた見事な細工のヴェネチア製の十字架を。

そして彼女はダイヤをちりばめた首飾りを選んだのであった。

宴会の当日になった。 彼女は大成功だった。

彼女は他の誰よりも美しかった。 上品で、優雅で、愛嬌があり、歓喜に上気していた。

男という男が彼女に眼をつけ名前を尋ね、紹介してもらいたがった。

大臣官房のお歴々も彼女と踊りたがった。

彼女は快楽に酔いしれながら、男たちから受けるお世辞、賞讃、彼女の身うちに目ざめてきた欲情、女心にとってはこの上もなく甘美なこの勝利、こうしたものから生まれた一種の至福につつまれながら、彼女は夢うつつで踊るのだった。

家に帰って、首飾りが失くなっているのに気づき、二人は驚愕した。

彼女が行ったあらゆる所を二人で探しまわったが、とうとう首飾りは見つからなかった。

二人は女友達から借りた首飾りと同じものを見つけ出すため、あらゆる宝石店を探し廻った。

ついに、同じ首飾りがみつかった。 値段は三万六千フランだった。

彼女は手紙を書き、ありったけの品物を担保に入れ、高利貸をはじめあらゆる金融業者と関係を結んだ。

こうしておのれの余生を台なしにし、果ては自分たちの身に襲いかかる暗たんたる生活を思うにつけ、今更ながら空恐ろしい気分になるのであった。

彼女が首飾りを返しに行くと、金持ちの女友達は、

「困りますわ、もっと早く返していただなくては。だって、あたし入用だったかもしれないでしょう」

だが、彼女はその首飾りが替え玉であることに気づかなかった。

二人は住まいも屋根裏に間借りをし、貧乏暮らしの辛さを思い知らされるのであった。

美しかった肌も爪も荒れ放題、長屋のおかみさんみたいな格好で、どこへでも出かけ、そのつど恥ずかしい思いをしても、なるべく値切っては、苦しい財布から一銭でも守ろうとした。

かくしてこのような生活が十年間続いた。

十年目に高利の利息から利に利を積んだ借財まで一切合財返済した。

美しかった彼女はまるでおばあさんみたいに変身してしまった。

貧乏所帯が身について、骨節の強い頑固なおかみさんになっていた。

髪もろくろくとかさず、スカートがゆがんでいようが平気であった。

さて、ある日曜日のこと、彼女がシャンゼリゼを散歩していると、相変わらず若くて美しい子どもづれの金持ちの女友達に出会った。

彼女が声をかけると、昔の美しい面影をまるで失ったその変わりように、友達は初めは真実、彼女とは気づかなかった。

「貴女ずいぶん変わったわね」

それから彼女は、借金も返し終わったことだし、思いきって今までのいきさつを一切友達に話した。

すると友達は、

「貴女は新規にダイヤの首飾りを買ってわたしのとかわりにしたとおっしゃるのね。まあ、どうしましょう、わたしのは模造品(まがいもの)だったのよ、せいぜい五百フランくらいのものだったのよ・・・・」

                  モーパッサン『首飾り』より



 


西園寺昌美先生の感想



誤解と錯覚のために人生を無駄にしていないか
 

ここでモーパッサンの意図としては、女の内に潜んでいる虚栄心とか見栄の醜さ、いやらしさをいやというほど描きたかったのに違いありません。もし彼女がその時貧しい夫から新しい洋服を買ってもらった唯そのことだけに満足し、感謝してさえいれば、こんなにみじめて耐えられないほどの不幸な一生を辿ることはなかった筈です。

だが彼女は新しい服にもう一つ自分をさらに美しく飾りたてる宝石が欲しいと願った、その時から二人の人生は全く予期しない暗い道へと転落していったのです。

モーパッサンは、誰の心の中にも潜む心の弱さと同時に、この虚栄心のもつ破壊力のすごさを表現したのだと、以前の私はそう理解していました。

しかし今の私の感じ方は昔とは少し違ってきています。

私がこの作品で把えたのは、誰しもが簡単に陥ってしまう誤解と錯覚というテーマです。

金持ちの女友達が宝石を彼女の前にとり出し、どれでもよいからあなたの好きなものを持っていってよいといった時、彼女はダイヤモンドの首飾りを手にしました。

その時、彼女の頭の中には、あの金持ちの女友達がまさか偽りの宝石を自分の前に出してくれたのだとは、思いもよらなかったのです。

考えも及ばないのです。

頭から本物であると誤解してしまっていたのです。

本物に違いないと錯覚を起こしてしまっていたのです。

このように事実とは全く違ったように見たり聞いたり、感じたり思い込んだりしてしまうことによって、引き起こされる不幸なことは実にこの世には多いものです。

読者の皆様方も誰しもが一度や二度は誤解や錯覚による過ちを犯してしまったり、感情を害したり害されたりしてしまった経験をお持ちになっているに違いありません。

蜃気楼もまた錯覚の一種です。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

我々はこのようにして我々の尊い一生を、誤解と錯覚のために無駄に送ってしまっているのです。

自分の中にすでに内在している輝かしい全知全能なるものを見ようとせず、蜃気楼のようにそれを、外にはるか遠くのほうに自分の欲するものが存在すると信じ込み、追い求めようとしているのです。

それがそもそもの錯覚なのです。

自分の不幸や苦しみを他のもので癒せるとそう思い込んでいる錯覚。

また神に願いごとをかなえてもらったり、病気を治してもらったり、自分の欲することは何でもきいてもらえると信じ込んでいる錯覚。

また自分の前に起こってくるあらゆる不幸や災難、苦しみや悲しみなどの一切を自分の責任だとは認めずに、すべては他人のせいだと思い込んでいる錯覚です。

またこの世は名声や栄誉、お金や権力が絶対と思い込んでいる誤解、一流校を出なければ一流人でないと思い込んでいる錯覚。

神に仕える人や聖職についている人が清き立派な人と信じきっている誤解。

このようにして例をあげればきりがないほど我々一人一人の心の中に、さまざまな誤解に惑わされ、あらゆる錯覚に陥った生活を、自然とまわりから強いられて生きているのです。

人類全体がここで一気に真理に目覚めない限りこの生き方はさらに、子から孫へ孫から曾孫へと永遠に続いてゆくことでしょう。

           「果因説」 西園寺昌美 白光出版



 
   

2017年9月 9日 (土)

如是我聞(にょぜがもん)


 
如是我聞(にょぜがもん)とは、お釈迦様の説法に対し、弟子である阿難(あなん)が「私はこのようにお釈迦様のお言葉を聞きました」という意味なのです。

 
五井先生はお釈迦様と同じ大聖者なのでそのお言葉は光り輝いています。

しかしいくら輝いていてもその輝きをそのまま伝えてくれる阿難尊者のような立派なお弟子さんが必要だったのです。

その阿難に匹敵する人が高橋英雄さんという方でした。

その如是我聞の中から特に響いたお言葉をご紹介します。

聖者の言葉は普通人が発する言葉とは全然次元の違うものです。聞き覚えもないと思います。

だからピンと来ないかもしれません。しかし心の奥底にある本心はわかっているので、なんだか温かくなるのです。真理の言葉は光り輝いているからです。

意味がハッキリとわからなくても心が洗われたようになればよいと思います。

 

1.個我のわたくし、肉体の私、というのがなくなればなくなる程、その人は立派な人である。

弱い私、善い私、悪いわたし、そういうものはない。いいわたしもいる必要はない。

悪い私も必要ない。みんなわたしというのは渡しだから、渡すだけである。

天に渡すだけである。わたしを渡し、それで天の心に入ってしまえばいい。

そして光ごと降りてくればいい。

そうすると光明体である。光になることが唯一のことなのだ。

 

2.その人が悪いのではない。業にまきこまれてしまうのだ。

あいつは悪い奴だ、と言われる人は、実は業をそこに結集させて、代表的に業を消している役目を荷っているのである。

ああご苦労さま、あの人の天命がまっとうされますように、と祈れる心は仏の心である。

 

3.地球が滅びては、自分の運命も、家族の幸福もあったものではない。

今という時代は、目に見える世界においても、目に見えない世界においても、地球が滅亡しそうな様相にあふれている。

それは戦争という姿だけでなく、天変地異という形で現われるかもしれないのである。

今こそ、日々世界平和の祈りに徹しなければいけない。

わがままも、自分の楽しみも、欲望もひとまずおいて、祈りに祈らなければいけない。

祈りは目に見えるものではない。

だから霊性に目覚めたる者から祈りの生活に徹して、その生き方、その人自身の人格、行為によって、人々に悟らしめることである。

4.現われて来た事柄、想いをつかまえて、善い悪いと分別しているうちは、心の平和は得られない。

 

5.焦ってはいけない。世界平和の祈りで暮らしている人の運命は決まっているのだ、悪くなりようがないのだ、よくなるに決まっていると思って、どんなことが現われても、消えてゆく姿だと思って一生懸命祈ってさえいれば、この世の現象面のいいとか悪いとかは問題じゃなくなって、いつも心が平安になってゆく。

  

『如是我聞』 五井先生の言葉 高橋英雄編著


 

 

自他を生かすもの

 

愛とは、自分の生命をいかすと同時に、他の生命をも生かすものでなければなりません。

愛することによって、自分の生命がいきいきとし、愛されることによって、その人の生命がいきいきとしてくるものでなければなりません。

自他の生命がいきいきとし合うようでなければ、それは真の愛とはいい得ないのであります。

ところが現実は、愛するという名目の下に、相手を縛り、自己の生命の自由をも縛りつけている恋愛や、親子愛が、いかに多いことでありましょう。自己が楽しむために人を愛そうとしても、それは愛ではありません。

それは自己主義の業想念であります。

自分というものがその人の想いのなかにあることは、もうすでにその人を愛から引き離しているのであります。



『日々の祈り』五井昌久白光出版(「愛・平和・祈り」五井昌久より)



感想・・・・神は愛である、か~あ み~い はしょっちゅう私が書いているのですが、幼い頃、そして真理を知る前の愛(恋愛)とは完全に自己愛であり、相手を縛り自分を縛り結果、自分で自分の首を絞めるような浅い愛(とても愛とはいえない)でした。

今はもう感情(自己愛、欲望)を伴う愛は卒業しましたが、最近の私の愛は日々進化していると思っているのです。(自分で言うのも変ですが)

それは、人間の進化、宇宙の進化とは、愛の深まりだと思うからです。

宇宙と共に人間(小宇宙)も進化してゆく、人間は無限次元にどこまでも進化してゆくのです。

だから素晴らしい!

私の大好きな五井先生の語録があります。 愛の奥には何があるのでしょうか?

 

自分の立場から見て行動するを 「我」 といい、他人の立場をのみ想って行動するを 「愛」 という。

それさえも超越してすべて神さままかせにするを 「空」 という。

             
               

       『如是我聞』 五井先生のお言葉より 高橋英雄著



 

人間の本質


  

人間は根本として、一なる神より分けられたる生命体であります。

動植物、鉱物等もすべて一なる神の生命の働きを根本にしているわけでありますが、人間は神の生命の働きを、自己自身が自由に使いわけ得る能力を与えられていて、自己の運命を自己自身が自由に創り得る存在者なのであり、本来神の被造物ではなくして、神自身の能力を内部に持った神の子なのであります。

ですから人間自身が欲するならば、神のみ心の内奥までも探り得るし、神と一なる心境にまで到達でき得る者なのですが、現在では、そうした心境まで到達した人々はごくわずかでありまして、大半は神と動物、自由者と被造物との混合者としてこの世に生きているのであります。



『日々の祈り』 五井昌久白光出版 (『霊性の開発』より)



感想・・・人と人間は違う、人とは霊止であり、霊は神霊のことなので神様が宿った神そのものの人であり、人間は人と被造物の間にある混合者である。

「あの人は」と言うのと「あの人間は」と言うのでは響き、エネルギー、波動がまったく違うのです。

だから私たちは自分も相手の人も神であることを意識して言葉を発したり、人と接していると自然と自由者(創造主)になってゆくと思うのです。

そして自分の本質、本当の姿を思い出すため、「自分には素晴らしい神性が宿っているんだ」と心の底からわかるようになるために神と人間の共通の理念である『世界平和の祈り』を祈り、自分と人類が真理(我即神也・人類即神也)に目覚め、目覚めさせる為に印を組んでいる人たちがいます。(約12,000人、3万人になると次元上昇する)

潜在意識の奥ではもう真理(我即神也・人類即神也)はすべての人類が知っていることであり、今はその真理を邪魔をしている業想念、業因縁が消えている途中なのです。

今起こっている事件事故、天変地変、あらゆる不調和な出来事はすべて人類の業想念、業因縁が現われて消えてゆこうとしているのです。

消えてゆく姿を出来るだけ少なく大難を小難にするためには先ほど述べたように『世界平和の祈り』を祈り、印を組み、マンダラを描く(我即神也・人類即神也)人たち、つまり神人(しんじん)が必要です。

神々は神人になる人を求めておられます。


世界人類が平和でありますように

日本が平和でありますように

私たちの天命がまっとうされますように

守護霊さまありがとうございます

守護神さまありがとうございます

 
 

2017年9月 8日 (金)

霊と肉の波が近づいている




現在では肉体人間の波動が、霊的波動にかなり近づいているのである。

無限に微妙な神界の波動が、守護神守護霊としだいに波を粗くして、肉体人間の波に合わせてきているのであるから、肉体人間のほうから、常に守護の神霊への感謝行をつづけていれば、守護の神霊の波動と肉体波動とが全く一つになり得るのである。

そうしたことが完成された時、その人の本心は全く開発され、神人(しんじん)といわれ、聖者といわれる、神我一体の人となり得て、神通力を自己のものとすることができるようになるのである。

世界平和の祈りは、こうした神人になる最も近き道であり、そして世界人類の真の姿を現わしめる、最短距離の祈りの方法なのである。




『日々の祈り』 五井昌久 白光出版



感想・・・・・私たちは元々は神なので肉体という粗い波動を纏って自分の思い通りにいかないことに対して苛立ちを抱いているのです。

「おかしいな、なんでうまくいかないのだろう?自分はもっと出来る子なのに」(笑)

そして向上心があるので「もっともっと自分を高めたい、自分の可能性を伸ばしてみたい」と思っているのです。

最終的な目標は神です。

神は全知全能であり、すべてを知りすべての能力を持っている。

しかし神は雲の上の空のもっともっと高いところにいる。

だからどれだけ努力してもとても神には届かないと思っているのです。

そして自分を不完全なダメな奴だと思い込んでいる。

しかしここで何度も何度も述べているように私たち人間は元々神だったのです。

そのことを忘れていたのです。

そして思い出す方法として『我即神也』の印を授かった、光そのものになる方法として『世界平和の祈り』を祈るようになった。

ぐっと神(自分の本心)との距離が縮まったのです。

そしてまたまた嬉しいことに、宇宙神(本心がある)から波動を粗くして守護霊守護神のところまで降りてくださっているので、私たちが守護霊守護神に意識を向け、感謝することで神我一体になるようにしてくださっているのです。

肉体人間と神霊の波動はあまりに違い過ぎているので、肉体人間が波動を細かくして神霊に合わせることが大変だったのです。

だから今までほんとうに悟った人、聖者になった人が地球が生まれてからほんの数名しかいなかったのです。

それがハードルがかなり低くなった、超えやすくなったのです。

宇宙神は、目覚める人を求めています。愛の人を求めています。

地球人類の平和、幸せを祈ってくれる人、印を組み、マンダラを描き(我即神也・人類即神也)、神人になる人を求めているのです。




世界人類が平和でありますように

日本が平和でありますように

私たちの天命がまっとうされますように

守護霊さまありがとうございます

守護神さまありがとうございます


 

運命を好転させるには、未来から現在へと時間を流せばいいのです。




私たちは、時間とは過去から現在、そして未来へと流れていくものだと思い込んでいます。

それは、人間が勝手に考え出した時間の流れの概念なのです。

私たちが住んでいる宇宙には、時間はないのです。

過去も未来も現在もない(時空を超えています)

だとしたら時間を未来から現在へと自由に流すことができるのです。

イメージトレーニングがあります。

スキーなどで自分がうまく滑っている姿をイメージし続けて

現地に着く、そしてそのイメージのまま滑ると、イメージ通りに滑れている

格段に上達しているのです。

これは、上手に滑っているという未来の形を先に創ってしまうということです。

宇宙は、人間の想像した通りに創造されていくという法則があります。

人間は創造主(神)であるからです。

思った通りの自分になれるのです。(マイナスなど邪魔をするものを入れなければ)

これからは時間の概念が変わっていきます。

それによって、みんなすばらしい未来を想像(創造)するようになります。

病気の人は、健康をイメージし、貧困の人は豊かさをイメージし、人間関係がうまくいっていない人は、みんなが調和している姿をイメージする

そんな素晴らしい世の中がやってくるのです。

果因説については、もう何度もここに掲載しましたが、今回も載せることにしました。

人間がこれから明るく生きていくためには、絶対に必要な考え方だからです。

みなさんも是非、明るい未来をイメージしてください。

時間は未来から今へとやって来るのです。

 

世界人類が平和でありますように
 

 

因果律と果因説の違い


過去→現在→未来か、 未来→現在→過去か

 

次にあげる因果律と果因説の違いは、「過去→現在→未来」という因果律の流れに対して、果因説の流れでは、 「未来→現在→過去」であるということです。

因果律では、現在起こることは過去の因が決めている、つまり 「過去→現在」という全体の流れがあります。

病気に例えると、「過去にしてきたさまざまなことによって、現在病気になることがすでに決まっていた」 というように、過去に起こった一つのことが原因となり、次々と玉突き式に結果となって、現在の病気が現われる。

そして現在の病気がまた新たな因となり、「現在→未来」 という流れに乗って、未来の結果となってゆく。

これが因果律の流れです。

この考え方でゆきますと、過去からやってくる病気に対して、現在や未来では何一つ打つ手がなく、ただ黙って受け入れるしかないということになります。

現在も未来も過去に起こったことから生じる必然であって、もし過去に別の選択をしていれば今病気にならなかったかもしれないが、過去に戻って過去の選択を変えることが出来ない以上今も変わらない、今が変わらなければ未来も変わらないということになります。

これでは、人間には全く自由意思がないということになってしまいます。

しかし果因説では、「未来→現在」という流れに乗って、未来の結果を先に創り出すことが出来るのです。

例えば、川は川上から川下へと流れています。

今現在自分は川の中にいて、傍に落ちていた葉っぱに希望や夢を、現実に現われるように書き込むとします。

それを放り投げます。

川下のほうに放り投げたら、その希望の葉は永遠に自分のところへは戻ってきません。

自分の手から放たれた瞬間からどんどんと川下のほう(即ち過去)へと流れ去っていってしまいます。

結果、その希望は自分の手には戻りません。

だからこそ投げる時には、必ず川上に向って(即ち未来の希望のビジョンを持って)、投げるのです。

その希望の葉は川上のほう、即ち未来へと放たれて、そこから次第に川下へと流れてゆきます。

そして今、ついに現地点の自分のところに、何年か、何ヶ月か、何日か前に投げ込んだその希望の葉が戻ってきて、自分の前を通り過ぎようとしています。

それを自分がキャッチすることにより、希望していたことが現実に顕現されるのです。

時間は未来から現在へとやってくるのです。

そして毎日のように、思い出すたびに繰り返し繰り返し希望の葉を何十枚、何百枚、何千枚、何万枚と未来に投げ込みつづけると、いつの日か、宝くじのようにそのうちの数枚が、必ず自分の前に現われ、現実となるのです。

従って、まさに今の瞬間、自分の未来に対する希望や輝かしい人生の設計図を強く思い描き、

「絶対大丈夫!」 「必ず出来る!」 「すべては可能である!」 「すべては完璧!」 「欠けたるものなし!」 「必ず成就する!」・・・・・・などという想いや言葉を繰り返すことにより、それが現実となって現われるのであります。

時間は未来から現在、現在から過去へと流れているのですから、今この瞬間、未来について思ったこと、考えたこと、語ったことの成就は、いずれ現在にやってくるのです。

ですから今現在、この瞬間、未来の希望を繰り返し、繰り返しインプットすることにより、それが次々に現在へと流れてくるのです。

そしてそのうちの数枚の葉(未来に投げかけた希望のビジョン)を、自分がキャッチする瞬間が必ず来るのです。

これが果因説です。

今までのような、過去の原因を突き止め、悪い種を一つ一つ暴き出し、それを排除しつつ上り詰めてゆくやり方は、過去のマイナス(川下)に意識が集中するため、目的達成が容易ではありません。

しかし、過去の因縁に由来する果因律に心縛られず、憂えず、今の瞬間、未来(川上)に向って自らの意識を高めるという果因説に切り換えると、自らに内在する素晴らしい資質が目覚め、人生は好転するのです。

    

         「果因説」 西園寺昌美 白光出版

天の目を気にして生きてゆくことだ

 

 
1.世の中の人々のすること、なすことに対して、いちいち気にするな。あなたが今、一番気にしなくてはならないことは、神に対して己のとっている態度が善いか悪いかのみである。

神に対して、宇宙真理に照らしてみて、今自分がとっている態度が善いか悪いかのみである。

神に対して、宇宙真理に照らしてみて、今自分がとっている態度が正しいと思えば、人が何と思おうと、人が何と言おうと気にすることはない。

自信をもって堂々と生きてゆくことだ。

自分に自信がないからこそ、人の言うこと、なすことがいちいち気になるのである。

 

2.私は釈尊(お釈迦様)の次の言葉が好きである。

「沈黙しているものも非難され、多くを語るのも非難され、少しを語るのも非難される。世に非難されない者はいない」

この世に生ある限り、何をしても人は非難の目、嫉妬の目をもって他人を見つづけるのである。

人の目を気にして生きていたならば、自分の身が持たない。

天の目を気にして生きてゆくことだ。

 

『日々の指針』 西園寺昌美 白光出版

 


 

感想・・・私は前世でいつも幼い頃に肉体界を去っていたので人間同士の大人のドロドロした関係の経験がとぼしいのです。

ですから「あの人は何でそんなことを想うのだろう?」「なんで自分は嫌われたのだろう?」と不思議なことばかりが起こったのです。

特に同窓会を主催するようになってからでした。中心となって行動をしていました。

学生時代は多感だったので意識がプレイバックして、大人になってからの日頃抑えていた感情がもろに出るのです。


処理出来ない友人たち自身の、不満、嫉妬、妬み、欲望などの感情が私にぶつけられました。


そして、いわれのない誹謗中傷をかなり受けたのです。


私も感情処理が出来ずにいました。


そんなとき2.の釈尊(しゃくそん)のお言葉に救われたのです。

大切なことは、他人に焦点、意識をあてるのではない、自分の本心である、神に向けるのだ、天に向けるのだ、だったのです。

自分の本心に意識を向け、合わせ続けることを、ブレないと云うのです。



 
    

本当に幸せな人とは?



1.本当に幸せで心豊かなる人とは、お金や所有物をたくさん持っている人のことをいうのではない。

自由と利害関係を超えたところの友人知人をたくさん持っている人のことをいう。

所有物や金銭をたくさん所有しているが為に、いかにも自分が富み、多くの人々に囲まれ、幸せそうに見えるようであるが、実は彼らの餌食になっていることに気づかない。

そればかりか、物を所有するが為に自分の心がその物品に縛られて、物や冨を守るための奴隷と化し、全く自由のない屈従の生活をおくらなければならなくなるよう、自然に強いられているのである。哀れなものよ。


2.あくなき物質的欲望を追っていると、いつまでたっても真の幸福は見出せない。

次から次へと新しいもの、自分に無いものが欲しくなり、自己欲望への規制がきかなくなり、しまいには必ず破滅の道へと自らを自らの手でまねいてしまう。

もっと自分の心を大人にして、精神的なものへの欲求へと変えてゆかなければならない。

精神的に結ばれている友は本物で、長続きし、物質的に結ばれている友はもろく崩れやすい。




『日々の指針』 西園寺昌美 白光出版




感想・・・お金をたくさん持っていることだけで多くの人々に囲まれているのと、利害関係を超えた友人知人をたくさん持っているのとでは、周りにいる人の数は同じでも幸せの質が全然違うと思うのです。

それは日頃の生き方、人との接し方で決まります。

人を神と認め、人を尊敬し、人の中に無限の可能性を見出し、人に対し大切に接し、扱う、そうするとその愛は必ず相手の心(守護霊、守護神)に届き、心(守護霊、守護神同士)の交流が生まれるのです。

しかし利害損得でつながった薄っぺらなうわべだけでの関係では奥にある本心(神)には響きません。

中身の無い虚しい人生を送ることになるのです。

相手の人に神性を見出す(人類即神也)ことが、幸せになるためのメソッドです。

これから地球人類は、自分が神性を顕わし、人に神性を見出す時代になってゆきます。

“神性復活” の到来です。


  
 

2017年9月 7日 (木)

いちいち善悪を比較するな

 
  
相手が悪い、自分は善い、と相手と自分をいちいち比較しているような想いでは、とうてい真実に相手を愛することはできないもので、相手も自分も、悪いも善いもすべて守護霊守護神の神愛のなかに投入することの練習が一番よい方法なのです。

自分のほうが善いと思ったところで、過去世からどれほど間違ったことをしていたかは、現在の自分にはわからないのであって、自分のほうが善い、と思うその想いは、ごく最近の出来事によるだけのものであるので、過去世からのその人の行為の何兆分の一かもわからないのです。

善い悪い等はいちいち自分で判断して、人を責めたり、自分を裁いたりするものではないので、自分は瞬間瞬間を神のみ心に波長を合わせつつ行為していればよいのであります。



『日々の祈り』 五井昌久 白光出版




感想・・・「あんなに善い人がなんで苦労ばかりしているのだろう?神様は不公平だ」と思うときがあるのですが、それは今生でのつい最近のその人しか見ていないのであって過去世でその人が何をやっていたのかは自分にももちろんその人自身もわからないのです。

そこで占いなどが、「あなたは前世でかなり悪いことをやっていました、現在が不遇なのはそのためです、前世の想念や行為を消すためにはお浄めが必要です、〇十万円を持ってきなさい」と言うのです。

しかし真実は自分の運命の修正は自分自身でしか出来ないので、そのしわ寄せはなんらかの不調和な現象で必ず何倍かになって返って来るのです。(占ったほうも占ってもらったほうも不幸になります)

それは宇宙の法則を外れてしまうからです。

話が逸れてしまいました(笑)

私たちはすぐに善いか悪いか、善い人であるのか?悪い人であるのか?をジャッジ(判断)したがる生きものであるようです。

そして決めつけた後で、「しまった違っていた」と後悔するのです。

しかしその違っていたことさえも正しいかどうかはあやふやであり、私たちが判断していることは自分の都合(利害損得)であり、その都合もコロコロ変わるのです。

自分の頭で考えて「善いか悪いか」なんてわからないのです。

つくづく「肉体人間はバカだなあ、たいしたことはないなあ」と思うのです。

・・・ということはバカではない人?たいしたことがない人ではなくて素晴らしい人とはどこにいるのでしょう?

それは人間を創った、宇宙を創った全知全能の宇宙神(神様)なのです。

そして私たちは神の分霊(わけみたま)なので、神と波長を合わせ、神様と同じ知恵を得ることが出来るのです。(悟る、神我一体)

その方法が『世界平和の祈り』です。

神様が世界(宇宙)の平和を願う愛と人間側が神様のみ心に合わそうという気持ちが一致するからです。

覚者である法然さん親鸞さんも「肉体人間は凡夫である」いくら頑張って努力しても絶対に救われないと徹底して、心の底からわかったからこそ、全知全能である仏さま(神さま)に全託出来たのです。

善悪を判断するなんて人間の思い上がりであることがわかりますね。




世界人類が平和でありますように

日本が平和でありますように

私たちの天命がまっとうされますように

守護霊さまありがとうございます


守護神さまありがとうございます



 
 

2017年9月 6日 (水)

今は過去のフィルムが写って来ているのです。


フィルムと言えばちょっと古臭いですが、私たちが今現在と思って見ている今とは、たった今の今ではなく、過去世に想念した(想っていた)こと、行為したことが録画されていて、そのフィルムが映し出されているのです。

みなさんは初めて来た場所なのに「ここは以前来たことがある」「なんだか懐かしい」と思われたことはないですか?

それは過去世のことを思い出したのです。

そして夜空の星を見てください。今、私たちが見ている光はたった今、光った光ではなく何万光年も前の光を見ているのです。

もしかしたらその星はもうないのかもしれません。

そう考えると私たちの存在も宇宙の存在もとても神秘的ですね。

私たちは今の現状を嘆きます。今をなんとかしようとします。今を変えたい、自分を変えたいと思います。

しかし私たちが生きている今とは今ではなく過去の幻影なのです。(仏教では現世を写し世と言います)

実体のない幻影(過去)を変えようとしてもそれは無理です。つかめないからです。

でも過去世が悲惨なものであったのならそれが写って来てしまいます。

守護霊さん、守護神さんは過去世がそのまま写って来ては大変なので霊界と神界から過去世の想念行為の溜まり場である幽体・幽界(潜在意識の世界)を必死で浄めてくださっているのです。(幽体とは個人の肉体にくっついているボディのこと、幽界とは人類の想念の溜まり場)

それでなんとか大難が小難になっています。

肉体人間の私たちにも出来ることがあります。

それは『世界平和の祈り』の光によって守護霊さん守護神さんと一体になって幽界(幽体)を浄めるのです。

3人?でやれば早く消えてゆきます。(三位一体)

運命も早く好転するのです。

過去の業因縁が綺麗サッパリ消え去ると後は、神様のみ心が顕われた愛の世界になります。

それが地上天国です。

そしてもっと早く私たちが幸せになり、地球人類が平和になるメソッドがあります。

それは未来へ光の種を蒔くのです。明るい未来を強くイメージ(想像)するのです。

想像は創造になるのです。私たちは創造主です。どんな世界も創れるのです。

私たちは自分の未来も地球の未来も変えられる。

なぜならば、私たちは神の子だからです。宇宙そのものだからです。

「世界平和の祈り」と守護霊さま守護神さまのご加護で過去世を浄め、明るい未来を刻印する(果因説)ことで完璧です。

業因縁は消えるしかないのです。



世界人類が平和でありますように

日本が平和でありますように

私たちの天命がまっとうされますように

守護霊さまありがとうございます

守護神さまありがとうございます



追伸・・・『果因説』はこれまでになかったまったく新しい考え方です。

過去、過去世に把われるのではなく、なりたい自分をイメージした種を未来に蒔くことで、その通りの未来を受け取るのです。

未来を変える素晴らしい著書です。

是非、読まれてください。



『果因説』 西園寺昌美 白光出版


  

2017年9月 5日 (火)

光に闇はやって来る

 

『世界平和の祈り』を祈っていると私たちの本体(神体)が光り輝くと同時に肉体も光り輝いて来るのです。そして過去世から積もり積もった業因縁が次々に消えてゆきます。

消えるとスッキリと澄み切った青空のような心境になり、幸福感も湧いて来ます。

このときがほんとうの至福のときなのですが、残念ながら長続きをすることはほとんどなく反対に意識が落ち込むことがあるのです。

これはなぜかと言いますと、光には闇が集まって来るからです。

するとまるで今の季節の秋の空のように、さっきまで晴れ渡っていた心境が黒雲に覆われたようになる、陽気だったのに鬱になるのです。

これは光り輝いている太陽が一瞬、雲に覆われただけであり、時間が経てば通り過ぎてゆくのですが、私たちはその時間が待てないのです。

そして「祈っていると明るくなり軽くなるはずなのになぜ暗い重い気分になるんだ」「意識が祈る前よりも落ちている、祈っている意味がないじゃないか?」と自分で勝手に判断して、やめてしまう人がいるのです。

業因縁の想念が綺麗さっぱり完全に消え去るには、光っては闇が曇らせ、また光っては闇がやって来るの繰り返しを繰り返すのです。

何千、何万回も輪廻転生を繰り返し溜めに溜めてきた業因縁がそう簡単に消えるわけがありません。

しかしそれでも『世界平和の祈り』は超高速のスピードで浄めているのです。

世界平和の祈りを真剣に祈れば祈るほど、徹底すればするほど早く消えて行きます。

そして守護霊、守護神も業因縁を消すことに全力で応援してくださっています。

守護霊守護神に感謝すればするほど同じように早く消えるのです。(感謝は光だからです)

それは虫めがねで太陽の光を集め、紙を燃やすのと同じです。

集中すればするほど早く火が着くのと同じ原理です。

するといつの間にか業因縁は消え去り、自分の本体は肉体にあるのではない、神界にあるのだと自然にわかってくるのです。

消えてゆく姿には段階があります。

何事も毎日の積み重ねが大切なように瞬々刻々の祈りが大切です。

間が空くとそこに魔が差すからです。闇がやって来るからです。悩みとは闇が波のようにやって来ることを言うのです。闇(業因縁)が消えれば悩みは無くなります。

光に闇がやって来ることはしかたのないことです。

プラスの心境がマイナスの心境になることもあります。

しかしそこからが大切です。

「自分は闇(業因縁・人類がつくったマイナスのエネルギー)を消したんだ、掃除をしたんだ。

だから又、消してもらおうと闇がやって来たんだ、『世界平和の祈り』で光の溶鉱炉に入れ続けて行けば、いつかは消え去るんだ、その時が自分と地球の完成の時なんだ」と思うことです。

そうなんだと信じることです。

私たちは人類の業因縁を消し、吸い取る掃除機なのです。

宇宙にとって、地球人類にとって欠かすことの出来ない、神様に愛される尊い存在なのです。



世界人類が平和でありますように

日本が平和でありますように

私たちの天命がまっとうされますように

守護霊さまありがとうございます

守護神さまありがとうございます


 

お酒を飲むと守護霊さまのメッセージが届かなくなる

 

昨日、沖縄にある橋の上からプロポーズの直後、橋の欄干を乗り越え、足を滑らせて転落して男性が亡くなったという事故がありました。

なんともやるせない、やりきれない出来事です。

この場合なぜ、男性を守っている守護霊は男性の行動を止めなかったのか?という疑問が出てくると思うのですが、お酒を飲む、あるいは飲んでいなくても有頂天(感情的)になっている場合は、守護霊の静止が利かない場合があるのです。

お酒は言葉は悪いのですが、「気違い水」と言われています。

お釈迦様もそうおっしゃっておられます。

気とは、神様から流れて来る生命エネルギー(波動)なのです。

そのエネルギーが真っ直ぐ流れるのではなく、歪んで流れしまうのです。

だから守護霊さまからのメッセージが真っ直ぐに届かないのです。

そして幽界のおばけちゃん(感情霊、不良霊)が肉体脳髄に入りやすくなるのです。

また、お酒は「百薬の長」「少量ならば体に善い」などといいますが、少量であってもアルコールは体にかなり負担をかけているのです。(特に肝臓)

体に悪いものが、精神にとっても善いはずがありません。

キリスト様は最後の晩餐にお酒(ワイン)を飲んだと言われていますが、ほんとうかどうかわかりません。

もし飲んだとしてもキリスト様の波動は、お酒の波動とは共鳴しないので、肉体人間のように精神を狂わすことはなかったと思います。

お釈迦様は、先ほど述べたようにお酒は全否定されておられます。

このようなものが世界中に出回っていること事態が世紀末です。

お金儲けのためには戦争もするという精神に近いのです。

現にお酒にまつわるトラブル、事件、事故は絶えません。

これから人間は波動がますます細かくなるのでお酒は飲めなくなります。

飲みたくなくなる、弱くなります。

自然のままに任せていいとも思うのですが、冒頭の事故のように後から気づいては遅いのです。

肉体人間の死は、ほんとうの人間の死ではない、霊界、神界で未来永劫生き続けるのだ、とわかったとしても肉体生活をまっとうしてこそ(天命を果たしてこそ)の永遠の生命です。

肉体という器は大切にしなければなりません。

そのためにはお酒というものがどういうものなのか?を知る必要があるのです。

お酒は覚せい剤やヘロイン、大麻よりも毒性の強い薬物だとも言われています。

それだけ精神(神性)を狂わすのです。

お酒という感情、業、カルマに流されていては、巻き込まれては、いけないと思うのです。


  

お酒を飲むと守護霊さんのメッセージが届かなくなる



昨日、沖縄にある橋の上からプロポーズの直後、橋の欄干を乗り越え、足を滑らせて転落して男性が亡くなったという事故がありました。

なんともやるせない、やりきれない出来事です。

この場合なぜ、男性を守っている守護霊は男性の行動を止めなかったのか?という疑問が出てくると思うのですが、お酒を飲む、あるいは飲んでいなくても有頂天(感情的)になっている場合は、守護霊の静止が利かない場合があるのです。

お酒は言葉は悪いのですが、「気違い水」と言われています。

お釈迦様もそうおっしゃっておられます。

気とは、神様から流れて来る生命エネルギー(波動)なのです。

そのエネルギーが真っ直ぐ流れるのではなく、歪んで流れしまうのです。

だから守護霊さまからのメッセージが真っ直ぐに届かないのです。

お酒は「百薬の長」「少量ならば体に善い」などといいますが、少量であってもアルコールは体にかなり負担をかけているのです。(特に肝臓)

体に悪いものが、精神にとっても善いはずがありません。

キリスト様は最後の晩餐にお酒(ワイン)を飲んだと言われていますが、ほんとうかどうかわかりません。

もし飲んだとしてもキリスト様の波動は、お酒の波動とは共鳴しないので、肉体人間のように精神を狂わすことはなかったと思います。

お釈迦様は、先ほど述べたようにお酒は全否定されておられます。

このようなものが世界中に出回っていること事態が世紀末です。

お金儲けのためには戦争もするという精神に近いのです。

現にお酒にまつわるトラブル、事件、事故は絶えません。

これから人間は波動がますます細かくなるのでお酒は飲めなくなります。

飲みたくなくなる、弱くなります。

自然のままに任せていいとも思うのですが、冒頭の事故のように後から気づいては遅いのです。

肉体人間の死は、ほんとうの人間の死ではない、霊界、神界で未来永劫生き続けるのだ、とわかったとしても肉体生活をまっとうしてこそ(天命を果たしてこそ)の永遠の生命です。

肉体という器は大切にしなければなりません。

そのためにはお酒というものがどういうものなのか?を知る必要があるのです。

お酒は覚せい剤やヘロイン、大麻よりも毒性の強い薬物だとも言われています。

それだけ精神(神性)を狂わすのです。

お酒という感情、業、カルマに流されていては、巻き込まれては、いけないと思うのです。


  

死んでしまえばそれまでか


【死んでしまえばそれまでか】


人間とは五十年、六十年、この社会に生存していて、あとは灰になり無になってしまうと思っている。死んでしまえばそれまでのもの、と思い込んでいる。

果たして人間は肉体の滅亡をもって、最後の終止符になるのであろうか。

私は即座に、いな、と答える。

なんとなく偶然にこの世に生まれ出て、食べたり飲んだりして肉体を維持し、ただなんとなく、社会生活を営んで、妻をめとり、夫に嫁し、子を生み育て、そして死んでゆく。

人類の大半はこのような生活を繰り返し繰り返して、今日に至っているのであるが、このような生き方ではあまりにも無意義であり、無目的でありすぎる。

これではすまない、と何か漠然とした不安定の想いが、その大小にかかわらず、人間の胸の中を去来しているのではなかろうか。




『日々の祈り』 五井昌久 白光出版 



感想・・・私の記事を毎日のように読みの来てくださっている人とは、人生を真剣に考え、生き、自分のことだけではなく世の中を善くしたい、世界が平和になって欲しい、と願っている人たちだと思うのです。

そしてもう肉体の死というものはほぼ、超越している人たちではないでしょうか?

人間にとって死とは確かに恐怖です。

しかし死の奥には、素晴らしい世界、真実の世界が拡がっているのです。

その真理を探究してゆく姿(本心開発)こそ、人間のこれからの生き方だと思います。


  

守護霊の陰の力



【陰の力がある】
 

守護霊は霊界、幽界、肉体界と三界を通して働けるものなので、幽界においてできつつある運命、あるいはすでにできあがって、時間の経過につれて、自然に肉体界(現界)の運命として現われようとする悪想念の結果(因果)を、あらゆる手段をもって、その人間の運命として現われぬように修正してゆく。

この守護霊の働きを知っている人、感じている人は実に少なくて、肉体人間の大半がこの影の働きを知らないのである。守護霊はその肉体人間が、守護霊の力を知ろうと知るまいと、それは問わず、ただひたすら、運命の修正に全力を挙げているのである。

いわゆる菩薩行なのである。



『日々の祈り』 五井昌久 白光出版



感想・・・神社仏閣が大好きで神様仏様参りをしてお守りをたくさんもらっている人がいますが、浄化する霊力、神力のない宮司さんやご住職によって浄められていない神社やお寺がたくさんあるのです。

そのような場所(パワースポットも含む)は、人間の欲に取り憑こうと幽界のおばけちゃんの棲家になっています。

私は行くとしてもほんの数箇所の浄められた神社、お寺にしか行っていません。

取り憑かれることはないのですが、気持ちが悪くなるのです。(妖気によって)

五井先生はそんなところに行くのではなく、24時間プラスα、夜も寝ないで守ってくださっている守護霊さんに感謝の気持ちを向けていなさい、『世界平和の祈り』をしていなさいとおっしゃっておられるのです。

運命の修正は、3次元的な自分の努力(天命を信じて人事を尽くす)と守護霊さまの強力なご加護で成り立つのです。

 

2017年9月 4日 (月)

囚人たちの神性を拝んが老僧

 


ある老僧が刑務所に講話にいった時、前に並んだ囚人たちを見て、「ああ仏さまたちがおかわいそうに、こんな姿でここにいなさる。ああお気の毒な仏さま方」といってハラハラと落涙されつづけたそうです。

すると囚人たちは、その老僧の真実こもった涙に、声をそろえて泣き出し、スッカリ心を浄められたということです。

この話などは、一言の説教も、一言の訓戒もせず、ただ囚人のなかのみ仏をみつづけた老僧の心が、囚人のなかから仏性を呼びさせしめたのであります。

人間はすべて神の子、仏の子であります。

悪とは神仏を離れたマイナスであって、その人の本心のなかにあるのではありません。悪や不幸はすべて消えてゆくより仕方のないものなのです。




「守護霊につねに心を向けよ」


一体どういう風に守護霊が運命を修正してゆくかというと、いろいろの方法がある。

たとえば、転覆した汽車に乗るべきを、忘れ物をして乗り遅れたため、生命の危機を逃れた。という場合、物を忘れた、この忘れ物に守護霊の働きがあるので、守護霊の念が、その人の肉体頭脳に働きかけ、その人の頭の回転を瞬間的に阻止して、物を忘れさせたのである。

また他の人を使って、自分の守護する助ける場合もある。

このような実例は、常に人間世界の生活の上に起こっているのである。

しかしここで大いに考えなければならぬことは、守護霊にとって一番働きやすい肉体人間の状態は、常に守護霊のほうに心を向けていてくれることである。

『日々の祈り』 五井昌久 白光出版



感想・・・・人間同士が相手の神性(神の子)を見出すことが出来るようになれば、一挙に地上天国は完成すると思うのです。

だがしかし今は人間の境地が肉体意識であり、神(愛)意識、宇宙意識になっていないのです。

それは時期があり、「世界平和の祈り」・「我即神也・人類即神也」の印・「神性目覚めの印」などが徐々に人間の意識を変え、地球のエネルギーを光に変え、幽界を浄め調和へと誘ってゆくのです。

そして個人があらゆる危険を回避し、健やかに生きてゆくためには守護霊、守護神のご加護が絶対必要条件なのです。

『世界平和の祈り』の中には守護霊さま守護神さまへの感謝が込められているのです。





  

人間は瓦(かわら)ではない、ダイヤモンド(神)なんだ

 

   
どんな人間でもその人のエネルギー(波動)の奥を辿って行くと光り輝いています。

その光の場所とは神界です。神界(本心)にほんとうの自分がいるのです。

肉体人間とは、真の人間のほんの一部、先っぽの現われであり、肉体界→幽界→霊界→神界と大きくわけると4つの世界に同時に生きて住んでいるのです。

肉体の死とは、霊界、神界への誕生であり仏教では往生(おうじょう、生きて往く)と言われています。

人間は未来永劫生き続けているのです。

人間は意識が常に神界(本心)にあれば、神の子である素晴らしいほんとうの自分を顕わすことが出来るのですが、肉体を持ったときから自我意識が芽生え、二元対立が生まれ、妬み、恨み、嫉妬を持った間違った業生(ごうしょう)の自分がほんとうの自分だと思ってしまったのです。

人間は肉体(物体、凡夫)ではないのです。

もう一度書きます。人間は肉体ではないのです。(霊なるものです)

人間とは光り輝くダイヤモンドなのです。瓦(かわら)ではないのです。(例えですが)

ダイヤモンドは汚れを取り除けば光るけれど、瓦はいくら磨いても光輝くことはありません。

だがしかし私たちは自分のこと、他の人のことも瓦だと思っているのです。

凡夫、ダメな奴、どうしようもない奴・・・、確かに業想念を被ってしまった人間は、光っていません、動物以下のとんでもないこともやってしまいます。

今、地球が滅亡寸前まで来ているのは、業想念の黒雲が地球を覆っているからです。

これから地球が救われてゆくには、宇宙神、守護霊守護神、宇宙天使、救世の大光明霊団、地球霊王(地球の神様)・・・らの絶大なる援助が必要なのですが、人間自らが「自分とは一体何者なのか?」に気づくことが一番重要なのです。

神々も人間が目覚めないからには救いようがないのです。共同作業にならないからです。(神々は人間の精神的自立を待っているのです)

人間とは、瓦を磨いて精進して、立派(神)になってゆくのではない、元々神(ダイヤモンド)なのです。光り輝いているのです。

その光を隠して覆っているのは、過去世から積もり積もった業想念です。

この業想念を消す方法が、『世界平和の祈り』です。

*この祈りは五井先生と神界との約束事で、この祈りをするところに必ず救世の大光明が輝き、自分が救われるとともに、世界人類の光明化、大調和に絶大なる力を発揮するのです。


世界平和の祈りは、自分が凡夫(瓦、アヒルの子)だと思いながら祈るのと、自分は神の子(ダイヤモンド・白鳥)だと信じていのるのとでは効果がまったく違うのです。

もう私たちは自分が何者か?であることを知る時期に来ているのです。



世界人類が平和でありますように

日本が平和でありますように

私たちの天命がまっとうされますように

守護霊さまありがとうございます

守護神さまありがとうございます




 

2017年9月 2日 (土)

祈りの中から最善の知恵が授かる



“祈りの中から最善の知恵が授かる” (五井昌久)


これはどういうことかと申しますと、祈っている自分は、神と一体になっているのでありまして、守護霊さま、守護神さまの素晴らしい叡智、知恵、能力、可能性・・・を受け取ることになるのです。

祈っていない自分は肉体の限られた力(170センチ、65キロ)しか発揮することが出来ませんが、守護霊、守護神とつながると、霊力、神力を得ることになり、肉体意識の何万倍もの知恵を受け取ることが出来るのです。

人間は潜在能力の100万分の3か5しか出せていないというのは、肉体の知恵だけで頑張ろうとしているからです。

一生懸命に努力し、頑張ることは大切です、しかし自分の本体を肉体だけだと思っているのと、自分は神の子なんだ、無限の可能性があるのだと知っていることは雲泥万里の差があります。

このことをもったいないというのです。

「世界平和の祈り」を祈っているといつの間にか次元を超えているのです。

3次元の知恵から4次元、多次元の知恵へと昇格するのです。

それはもちろん守護霊さま守護神さまのご加護があるからなのですが、守護霊さま守護神さまとは自分自身なのです。

なぜならば私たち人間は神の子だからです。

肉体人間がいくら頭をひねっても解決できない問題が、祈っているといとも簡単に答えが湧いて来る(最善の知恵が授かる)、まるでアニメの一休さんのようですが(笑)、祈っている私たちは、聖者、賢者なのです。

お釈迦様、キリスト様と同じ境地になれるのです。



世界人類が平和でありますように

日本が平和でありますように

私たちの天命がまっとうされますように

守護霊さまありがとうございます

守護神さまありがとうございます

無限なる力

無限なる叡智

無限なる能力

無限なる可能性

無限なる発展

 


  

世界平和の祈りは素晴らしい!

 
祈りとは、生命(いのち)がのりだすという意味であり、心の底から元気、勇気、陽気が湧いて来るものなのです。

なぜなら祈りの言霊は、人間の根源である宇宙とつながっているからです。

宇宙、神の理念、願いはなにかというとすべての宇宙人類が平和で調和のとれた世界になることです。そして進化し続けることです。

宇宙が平和で調和し、進化しつづけるには、愛が深まることしかありません。

「世界平和の祈り」を祈っていると、余計な業想念が消えて、愛の心が湧いて来るのです。

それが祈りです。

祈りしか自分を輝かせ、人類を幸せにするものはありません。私はそう確信しています。





『祈るあなたは神の世界の住者』


神は人間の本体であり、神の世界こそ、人間の本住の地であるから、人間はどうしても神のみ心に還らなければ、真実の明るさ、真実の安心を得られぬようにできていないのである。

世界平和の祈りをしている時は、その人はすでに神の世界の住者なのである。

なぜなら世界人類の平和こそ、神の姿の現われた姿であるからで、それを願うのは神のみ心そのものであるからである。

世界人類の平和を乱しているもの、それは人間の業想念に他ならないのであるから、その業想念を神の世界の大光明の中に各自が持ち込んで、消し去ってくることによって、この世が、神の真の姿である平和世界になることは必定なのである。

その最もやさしい方法が世界平和の祈りなのである。



『いつでも光の中に住もう』


人間はいつでも光の中に住んでいることが大事である。

なぜかというと、神様は大光明であり、人間はその光明を分けられてこの世界に住んでいるからである。

大体において、暗い陰うつな人より明るい清らかな人のほうが誰にでも好かれるのも、この必然性によるのである。

そのようなことは、今さらいわれなくともわかっているようでいて、実はその反対の生き方をしている人がたくさんいる。

この世界が暗くてみじめなのは、一人一人の暗いみじめな、不幸や病気や悪に巻き込まれやすい生き方が、寄り集まってつくりあげているのであって、一人一人の責任である。

永遠につづき得る明るさは、真実神につながり得た明るさ、本心開発の道を歩みつづけている明るさである。



世界人類が平和でありますように

日本が平和でありますように

私たちの天命がまっとうされますように

守護霊さまありがとうございます

守護神さまありがとうございます



無限なる愛

無限なる調和

無限なる平和


すべては完璧、欠けたるものなし、大成就!




 

2017年9月 1日 (金)

感情を喜ばすものからの卒業


つい最近の私の心境なのですが、俗に言う感情を喜ばすものにほとんど興味を示さなくなって来たのです。

カラオケ、ボーリング、ゴルフ、花火、賭け事、飲み会、色恋・・・・。

先日中学時代の友だち(59歳)からお誘いがあり男3人で会ったのですが、その2人は青春時代に戻ったようになって「今から海を見に行こう」「ボーリングしようか、カラオケもいいな」「朝まで語り明かそう」と、とにかく元気?なのです。

そして食事の後の喫茶店での会話は、「親父がもうすぐ死にそうなんだ、遺産が数千万ある、非課税になるのはいくらからか知ってるか?」、だったのです。

そうか、一般的な私たちの年齢の人たちの会話はそうなのかと思いつつも、真理(真・善・美)からあまりにもかけ離れた想念に言葉を失ったのでした。

そして今からドライブしようという友人の誘いを体の不調と偽って早々に退散したのでした。

そんな時間があるのなら真理の書を読んで、「気づきをブログにアップしたい」と思ったのです。

私の場合は少し極端かも知れませんが、感情を喜ばせること(お金の勘定も含む)に疲れ、飽き飽きしている人も多いと思うのです。

これから人間は、感情という業想念を超えるようになって行きます。

生きる意義や充実感(喜び)を求めるようになります。

それは幸せや平和は感情を超えたところにあるからです。

昔から“祭りの後の侘しさ”と言われていますが、人間は感情を喜ばすことでは決して魂(本心)が満足出来なくなっているのです。

遊び心(感情を喜ばすという意味)を失くした私に対し、友人は

「お前は真面目か!」と言いそうですが(笑)、これから人間はホンモノを求めていきます。

そしてほんとうに魂が求めるものを探し、生きるようになるのです。

そのためにはまず、感情(五感)からの卒業が必要だと思うのです。




『安易なるものを退けよ』


今、自分が読んでいる本が、はたして自分の魂を喜ばせ、精神を純化させてくれるものであろうか、今、聴いている音楽は自分にいかにプラスしてくれているか、ということを、若い世代の人々は常に思考してみる必要がある。

自己の精神問題に怠惰なる人は、知らず知らずに、自己を地獄の世界、不幸の世界に陥れている。

口あたりのよいもの、耳ざわりのよいもの、そうしたものには安易に飛びこんでゆけるものだが、安易に読めるもの、安易に聴けるものこそ、一応気をつけて、自己の心に聞きただしてみるとよい。

自己の精神にプラスとなるか、マイナスになるか。

肉体欲望(五感)の満足だけで、精神(魂)に不満足のものは、これは退けるだけ退けてみることが必要である。



『真の芸術は天のみ心を伝える』


よい音楽とかよい演奏者とかいうのは、天のみ心を音楽を通じて、人類世界に伝え得ることができるものであり、自ずから人の想いが浄まり、高まるといったようなものか、或いは人類世界の悲哀や憎悪や、さまざまな汚れの中から、そうした不完全を跳躍台にして、神の座まで人間を高め上げようという、つまり人類の完成を目指す想いを元として生まれてきたような音楽であり、そうした想いが心にある演奏者の演奏であると思う。

いわゆる天と地を交流させるリズムであり、メロディーでなければ、よい音楽とはいえないと思う。

神からの愛や美が魂的と肉体的とにかかわらず表現されているもの、それは生命力の美、内容の美となり調和となって、その作品に現われているものである。




『日々の祈り』 五井昌久 白光出版


 

調和波動気功法セミナーへのお誘い




みなさんこんにちは、今月もまた調和波動気功法のセミナーがやって来ます。

先月もブログからお一人参加してくださいました。

その方は、一年半前から私のブログを読み始めたのですが、読んでいるうちに「世界平和の祈り」と気功に興味を持つようになられ、思い切って連絡をくださったのだそうです。

連絡をするまでかなり勇気がいったようが、「どうしても行ってみたい」、という気持ちが勝ったのだそうです。たぶん守護霊さんがひっぱって来られたのだと思います。

私たちは肉体人間の自分の意志でほとんど動いていると思っていますが、守護霊さんからのメッセージで動いていることがかなりあるのです。

特に「世界平和の祈りを祈り」自然体(神様にお任せ)になっている人は、自分という我が少なくなり、守護霊、守護神と一体となって動くようになります。

これは宇宙法則に乗っていることになり、すべてがスムーズに上手く運ばれるようになるのです。

「自然体で生きたい」、「自分の中の潜在能力を十分に発揮したい」、「そしてほんとうの幸せを体得したい」と思っている人は是非、セミナーに参加してください。







        『水の会』

 

 

        
 

★日時 9月24日(日) 

12:00~13:30 会食

14:00~  于寿明先生先生講演

★ 大成閣(中華料理)大阪心斎橋

06-6271-5238(禁酒・禁煙)

★ 会費 8000円(小学生4~6年生4000円)


参加したい人はご遠慮なくグッドムーンに連絡をくださいね


携帯 080-1444-0018


調和波動気功法

http://www.harmony-wave.jp/




申し込み方法は、ホームページに記載されている口座ではありません。(会によって申し込み先が異なります)

必ず上記の携帯にお電話ください。


 
     

死は霊界への誕生、雰囲気とは?


 

死に関しては、未だに死は、永眠であり、肉体と共に心も同時に無くなると思っている人が多いことに驚かされます。

死とは、肉体界を卒業し(やるべきことは終ったので)、目に見えない世界の幽界や霊界、そしてほんとうの実在する世界である神界に生きて往く(往生という)、移るのだということをもうそろそろわかっていいと思うのです。

でなければ、いつまでたってもほんとうの安心立命、幸せをつかめないからです。

そして雰囲気ですが、その人の醸し出している雰囲気で日頃何を考えて生きているのかがだいたいわかります。(霊能力が無くても)

洞察力(心の中を読み取る力)とは、雰囲気を読み取るということではないでしょうか?

想念はいつも綺麗にしておきたいものです。





『死は霊界への誕生である』
 

人間世界におけるすべての不安の根底は死の恐怖にある。

いかなる種類の苦しみに直面したとしても、死への恐怖を超越した人にとって、その苦しみは心の痛みにはならない。

死は人間にとっての終わりなのか、転移なのか。

この謎が解けることによって、人間の進歩は一段と早まるに違いあるまい。

人間は肉体消滅によってなくなってしまうものではない。

死とは幽界、霊界への転出、誕生なのである。

死ぬことを往生(おうじょう)といったのはこのことを昔の人は知っていたからなのである。

人間とは肉体ではなく、霊(神)そのものをいう。

肉体とは霊のいれ物(器)であって、霊の心のままに行動するものなので、ちょうど自動車が運転手によって走っているように、霊の運転によって種々の行動をするのが肉体なのである。



『愛のある雰囲気を』


元来、人間の想念というものは肉眼には見えませんが、各種の波状をえがいて、その人の雰囲気となって他に伝わり、あるいは様々な環境や運命を創り出しているものなのです。

そうした雰囲気が霊眼者には、光とみえたり、黒雲のようにみえたりするのです。

ですから、そうした想念の波動をみれば、その人がどの程度の魂的高さをもっているか、常にどのような行為をしているかがわかるのです。

常日頃から愛念で生きている人の魂は光を放っています。

愛が深いということは、本心が顕われている証拠であり、神の心の働いている証であるのです。




『日々の祈り』 五井昌久 白光出版




  

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