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2017年8月 3日 (木)

全想念を祈りの中に投げ入れるという意味は?



想っていること、考えていることをそのまま世界平和の祈りの中(光の溶鉱炉)に投げ入れてください。

そしてピッカピカに光ったエネルギーを受け取って、そこから生活を始めてください、と申し上げたのですが、わかったようなわからないような複雑な心境になられた方もいらっしゃると思います(笑)

これから人間は、肉体意識から、宇宙意識、神意識へとシフトしてゆくのですが、それは、肉体という古い頭で想い、患い、考えるということは、もう無くなる、卒業するということなんです。

「頭で考えないでどこで考えるんだ」「考えなくなったら動物と同じで人間お終いだろう?」という声が聞こえて来そうですが、

頭で考えるのではなく、神界にある自分の本心から流れて来るエネルギーが言霊になって話すようになるのです。

だから考える、想うという行為が無くなるわけです。(今までの私たちではなくなります)

宇宙人はテレパシーで対話をしています。(会話ではないのが味噌です)

これは、頭と頭が繋がっているではなく、心と心が繋がっている、と言えばわかりやすいでしょうか?

そんな状態にどうやったらなるんだ?というと最初に戻りますが、やはり自分の頭で考える「ああだ、こうだ」というどうでもいいカスの想い(ごめんなさい)を世界平和の祈りの高次元の世界へ投げ入れ、消してもらい、戴き直すことが、まったくの自然体でスー、スーと気持ちよく生きるメソッドなのです。


これは説明するのが、非常に難しいです。五井先生助けてください(笑)




『天地の通りをよくしよう』


宗教の極意に空とか、“無為になせ” という老子の言葉があります。

無為というのは、こうしようと思ってするんじゃない、ああしようと思ってするんじゃない。そのまま自然法爾(じねんほうに)無為になせ、ということです。

どういうことが空であり、どういうことが無為になすことなんだろう。自分がしようと思わないで出来ることがないじゃないか。自分が考えるからこそ出来るんだ。だから自分が何も考えないで出来ようがないじゃないか、と思うわけですね。

それは本当に人間というものをよく知らないからです。

人間を本当に知ってくると、肉体の中に現われてくる想いというもの、頭の中でゴチャゴチャと思う。

ああ今日はよい天気だろうか?雨が降りはしないかしら。今家で誰がどうしているだろうか、とこう思う。

そういう想いと人間の生命がそのまま法則に従って動いているものとは違うんですよ。

例えば、今ここで話を聞いているから、何も思いませんね。

だけど普通の場合は家を出ると、家はどうなったろう、ガスに火をつけっぱなしで来たかしら、どうかしら、と今思ったってどうしようもないことを思っているわけです。

人間はどうしようもないことのほうを余計に思っているんじゃないですか?

例えば来年子供が高校へ行くんだけれども、今どうしようと思っている。今とやかく思ったってしようがない。

必要な時にその活動を開始すればいいわけでしょ。だから大体頭の中の想いのほうは、本当の実体の身になるものが出てこないで、かすばっかり出てくる。

それなのに考えなきゃしかたがないと思っているわけ。

ところが達人になりますと、老子までもいかなくても、相当な人になれば、一日中いちいちガチャガチャ思わなくたって、そのままスースーと生きられるようになる。

それはどうしてかというと生命の力というのは自然に働いているからなんです。

心臓、肺、胃腸は自然に動いているのです。心臓の鼓動を自分できめるわけにはいかない。

肺を自分で動かすわけにはいかない。大生命の力が小生命になって動かしているわけです。

だからあらゆることが、本当は自然に動くのが原理なんですよ。

その原理を知らずに、あたかも自然に動いているんじゃなく、自分で動かなきゃ動かないような感じがしている。

子供なら子供の教育は、こうしなきゃ、ああしなきゃ、というわけで、あんまりかまいすぎて弱くしちゃったりする。

 かまった人が善くなるかというとそうでもない。

 野放しに放っておいても、丈夫になってピンピンしている子供もあるし、お金をかけて栄養だ栄養だとやっていても、弱い子もあるわけです。

 人間が一々頭で考えて育てていいものならば、そうして育てた子供は必ず丈夫になって、必ず偉くならなければならないけれども、野放しにしたほうが丈夫になる場合があるし、それが多いかもしれない。

 そうすると頭で考えてガチャガチャやったことが、果たして良いことか悪いことかわからないでしょ。

 だからこの頭で考える想いというものと、人間の本然の姿、いわゆる大生命から来ている生命の動きというものとは違ってくるんです。

 しかし本当は違っちゃいけないんです。

 けれども人間が違わせちゃう。それを業(ごう)というんですよ。

 神の法則として動いている大生命の流れからはずれたことを勝手にやっているのを業というんですよ。

・・・・・・・・

 人間の想いというのは、幽体という磁場つまり想いの波の流れる場所があって、そこに想いが一杯あるわけです。

 肉体にも磁場があり、霊体の磁場も神体の磁場もあるわけです。

 神体の磁場というのは、ズーッと大きく宇宙に広がっているのです。

 そうすると神体の磁場で大生命からの光が流れて、それが働きとなるわけです。

 それが霊体を通り幽体を通り肉体にスーッと流れてくれば、神のみ心がそのまま伝わっているわけです。

 神さまの行いが素直にそのまま出来るのです。

 それが霊体まではくる、幽体でもってクチャクチャと思っていると、想いが一杯つまっているから、光が入って来ないんですよ。

 光が屈折してしまう。そうすると幽体肉体に溜まっている、詰まっている想いが出て来て無為にしてなさないで、ああしよう、こうしよう、といつもいつも思い巡らしながらやっているトンマな生き方になる。

この自分の幽体で思っている想いを、神サマーって神さまの中へ投げ出しちゃうわけね。

 そうすると想いが守護霊守護神の霊体神体を通して、自分の中へ入っていく。

 神体に入っていくと、いうなれば穴があくわけだ。 通りがよくなる。

 すると神体の磁場で行なわれている命令が生命の動きが、スーッと肉体まで通っていくわけです。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

『空即是色』 五井昌久著 白光出版

 

追伸・・・・文章はこの後もずっと続いてゆくのですが、要は自分の魂が喜ぶ生き方をするには、本来の素晴らしい自分を現わすには、自分の天命(ミッション)を果たすためには、宇宙法則に乗るということです。

私たちは地球人でもありますが、宇宙の一員でもあるのです。

そして宇宙は進化している、地球は今、進化の過渡期、変わらなければならない時期に来ているのです。(七劫目)

そのためには今までの意識ではダメなんです。

まったく意識を変えなければどうしようもないところまで来ています。

また自分の本心もそれを望んでいるのです。

結論は、肉体意識を捨て、神(宇宙・愛)意識になることです。

私は今回、久しぶりに五井先生の『空即是色』を読んで、新たな発見がありました、理解していたつもりがしっかりとわかっていなかったこともありました。

とにかく面白いです。奥が深いです。

そして奥深く入って行けば行くほど、スッキリして来ます。

それは真理を知ることを魂が喜んでいるからです。

みなさんも是非、読まれてみてください。



  
 

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