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2017年7月 2日 (日)

私たちはもう回り道をしている場合ではない


 

地球人類が一刻も早く、一日も早く目覚めなければいけないときにこんなことを書いている場合ではないのですが、今、巷に邪な、おかしなものが溢れているのも事実なのです。

ある意味お試し(変なものにひっかからないか)なのかも知れませんが、神秘的なものと魔界的なものと間違えてはいけません。

東大の学生さんに「なぜ、そんなに頑張って勉強をして東大に入ったのですか?」と聞いたところ、一番多かった答えは、「東大に入ると神秘的なことに出会えるかもしれないと思ったから」だったそうです。

目に見える世界(3次元)に生きている私たちは目に見えないものに憧れます。

魅力を感じます。

そこにはほんとうの美、真理があると思うからです。

興味を持つことは良いことだけれど、そこには落とし穴があることを知らねばなりません。

世界平和の祈りを常に祈っているとそんな世界に誘導されたり、入ることはないのですが、それでも絶対に無いとは言えないのです。


それは肉体人間には欲望があるからです。(これがほんとにやっかいです)


参考までに読んでみてください。



(2013年10月30日のブログより)



神秘的なものとは、本物の世界である神界から来たものであり、人を感動させ、魂を高めるものなのです。

しかし神界に行く途中で幽界があり、そこにはさ迷ったオバケちゃんが住んでいます。

そして、人間に取り憑いたり、驚かせたりして楽しんでいるのです。

この違いを見抜く力を審神(さにわ)というのですが、幽界のオバケちゃんも巧妙化してきまして、人を騙すのがうまくなっているのです。

あやしい霊能者などを常識的な人は相手にしないのですが、これだけ世の中が混沌とし、やるせないこと、迷うことが多くなってくると、魔界的(奇蹟的)なものを神秘的なものと履き違えて、信じてしまう人も多いのです。

本物とは、地味で、そうやすやすと、奇蹟を見せることはありません。

人間の魂の成長を第一とするからです。

悠長なのです。

時間をかけてゆっくりと慎重にするのです。

しかし、それを人間は我慢できない

即効性のある、ご利益のある、感情を喜ばせるものに惹かれます。

これからもそのような魔界的なものがたくさん現われてくるのです。

だがしかし、それも悪いものが消えてゆく姿であり、やがて人間はみな審神(さにわ)が出来るようになる(我即神也になるから)

一度はひっかかりかけてもすぐに気づき戻ればいいのですが、中にはやはり吸い込まれてゆく人もいるのです。 (このことを守護霊、守護神様は決して望んではいません)

にせものは、陰湿な暗い印象があります。

高額のお金を取ったり、どこか納得出来ないおかしなことを言います。

弱みにつけこんだり、感情を揺さぶり、判断力を鈍らせようとします。

見た目に騙されてはいけません。

財布の中身を当てられたり、今の現状、心境を当てられても信じてはいけません。

神さまは、奇蹟(神秘力)を見せることはめったにないのです。

本物かニセモノかを見抜く力よりも、にせもの(魔界的なもの)に惑わされないようになりましょう。

観察していればどこかおかしいところが必ず見えます。

洞察力よりも観察力(常識力)を磨くことです。

世界平和の祈りを祈り、しっかり観察していると騙されることはありません。

占いや霊能者だけではなく、審神(さにわ)しなければいけない場面に私たちは毎日のように出会っています。

「この人とはこれからもお付き合いしていい人だろうか?」

「この人を信じても大丈夫だろうか?」

そんなことは肉体人間の知恵ではわかりません。

守護霊、守護神からのメッセージを瞬間で受け取るには、神界に通じて自分がスッキリ爽やかな波動体になっていなければならないのです。

頭で考えて出す答えは、間違っていることが多いのです。

五井先生(ほんもの)とニセモノの違いが下記の文章に書かれています。


よろしければ読んでみてください。



本文


「わたしもとうとう三十五キロになってしまったよ」と五井先生がおっしゃったことがありました。

昼夜も分かたず、世界の業のお浄めに身を挺しておられる先生のお体は痛々しいほど痩せておられました。
...

 「先生、浅丘ルリ子と同じですね」と思わず軽口をたたいてしまいました。

「他の教団の教祖はみんな、でっぷりと太っているのに、なぜ先生だけが鶴のように痩せ細って・・・・」と言いかけると、先生は、「住んでる世界が違うよ」とおっしゃいました。

 肉の身をこの地上に置きながらも、先生は常に神界の住者として、神そのものとして地上に大光明を放っておられたのです。

大光明と引き替えに世界の業を引き寄せて浄め続けておられたのです。

 ところである時期、目を瞠(みは)るような霊能力を駆使して話題になった、今は亡きG教団のT師のことを、ある講師が講師会で五井先生にお訊ねしたことがありました。

 先生は、「わたしの足元を見渡しても、そういう人は見当たらないよ」とだけおっしゃいました。

先生は神界の住者ですから、先生の足元ももちろん神界であるわけです。

その足元にもいないのですから、T師は神人ではないということになります。

五井先生のお立場上、「わたしの足元」という婉曲的な言い方をなさったのでしょう。

 ちなみに霊能力に優れた村田長老はT師のことを「幽界の魔王」とはっきり言い切っていました。

このように神人でもない幽界の住者が、この世で宗教教団の教祖として君臨して、それなりに真理らしきものを説いているということは、なんと恐ろしいことでしょう

 T師から霊能力を与えられた人が、訳の判らない古代語のような言葉をペラペラと口にしたそうですが、T師は幽界の生物を自由自在に操って、相手の背後に付けてしまう魔王だったのです。

まさに霊(幽)能恐るべしです。

 またS教団の教祖だったO師は、あちらの世界で、弟子と共にせっせとお札(さつ)を数え続けているそうですが、そこがどういう世界であるかは説明する必要はありませんね。


 なお講談や浪曲でお馴染みの大政、小政、森の石松・・・・という錚々(そうそう)たる子分を擁する清水次郎長一家は、思ったよりいい世界に行っているそうです。「所詮、俺たちは人生の裏街道を行く渡世人」という開き直りがあったのかもしれません。

 しかも決して堅気の人たちには迷惑をかけなかったという点で救われがあったのではないでしょうか。

しかしあちらの世界でも相変わらずシマ(縄張(なわばり))を荒らしたとか、荒らされたとかやっているということですから、決して高い世界ではないことは確かなことです。


*清水の次郎長・・・・今のヤクザのこと、しかし一般の人(堅気の人)には、迷惑はかけず、見世物小屋などの興行を仕切っていた。


  

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