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2017年7月 1日 (土)

心と魂はどう違うのか? 2

 
  

心の中心に真理とつながる美しい 「核」 がある


 

私は、人間の心は多重構造をしていて、円心円状にいくつかの層をなしているものと考えています。

すなわち外側から

 

① 知性 ━ 後天的に身につけた知識や論理

② 感性 ━ 五感や感情などの精神作用をつかさどる心

③ 本能 ━ 肉体を維持するための欲望など

④ 魂   ━ 真我が現世での経験や業をまとったもの

⑤ 真我 ━ 心の中心にあって核をなすもの。真・善・美に満ちている

 

という順番で、重層構造をなしていると考えています。私たちは心の中心部に 「真我」 をもち、その周囲に 「魂」 をまとい、さらに魂の外側を本能が覆った状態でこの世に生まれてきます。

たとえば、生まれたての赤ん坊でも、おなかがすけば母乳を欲しがりますが、これは心の一番外側に位置する、本能(生命力)のなせる業です。

そして成長するにつれて、その本能の外側に感性(感情)を形成し、さらに知性を備えるようになっていきます。

つまり、人間が生まれ、成長していく過程で、心は中心から外側に向かってだんだん重層的になっていくわけです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・(中略)・・・・・・・・・・

ここで肝要なのは、心の中心部をなす 「真我」 と 「魂」 です。

この二つはどう違うのか。

真我はヨガなどでもいわれていますが、文字通り中核をなす心の芯、真の意識のことです。

仏教でいう 「智慧」 のことで、ここに至る、つまり悟りを開くと、宇宙を貫くすべての真理がわかる。

仏や神の思いの投影、宇宙の意思のあらわれといってもよいものです。

仏教では、「山川草木悉皆(しっかい)成仏」、すなわちありとあらゆるものには仏性が宿っているという考え方をしますが、真我とはその仏性そのもの、宇宙を宇宙たらしめている叡智そのものです。

すべての物事の本質、万物の真理を意味してもいる。

それが私たちの心のまん中にも存在しているのです。

真我は仏性そのものであるがゆえにきわめて美しいものです。

それは愛と誠と調和に満ち、 真・善・美を兼ね備えている。

人間は真・善・美にあこがれずにはいられない存在ですが、それは、心のまん中にその真・善・美そのものを備えた、すばらしい真我(本心)があるからに他なりません

あらかじめ心の中に備えられているものであるから、私たちはそれを求めてやまないのです。


 


災難にあったら 「業」 が消えたと喜びなさい

 

そして、その真我(本心)を包み込むようにして取り巻いているのが、「魂」 です。 真我が一糸まとわぬ純粋な裸身であるとすれば、魂はそれを覆う衣服に相当します。

その衣服には、それぞれの魂が経験してきた思いや行ない、意識や体験がすべて蓄積されています。

現世で自分がなしてきたもろもろの思念や行為もまたそこに付加されていきます。

つまり魂とは、それが何度も生まれ変わる間に積み重ねてきた、善き思いも悪しき思いも、善き行ないも悪しき行ないもみんなひっくるめた、まさにわれわれ人間の 「業」 が含まれたもの。

それが魂として真我という心の中核を取り巻いている。

したがって真我が万人に共通したものであるのに比して、魂は人によって異なっているのです。

子どものころ、母親から 「あんたは魂が悪い」 といわれた覚えがあります。

鹿児島では、根性が悪かったりひねくれた性格のことをそういうのですが、幼いながら私の魂のうちに、何かよくない業が含まれていて、それが私の心の一部をゆがめたり汚していた。

そのことが母の目には見えていたのでしょう。

では、魂に垢のようにこびりついているとされる 「業」 とはどのようなものなのか。

そのことについて深く教えてくださったのは、私が得度する際にお世話になった西片たんせつ老師でした。

もう20年近くも前の話になりますが、京セラが許認可を受けないままにファインセラミック製の人工膝関節を製造、販売したとして、マスメディアから非難を浴びたことがありました。

これはすでに許可を受けて製造していたファインセラミック股関節を、医師や患者の方々の強い要望があったために、膝関節部分に応用したという経緯があり、私としては不本意なところもありました。

しかし、私はとくに弁解をせずに批判を甘んじて受けようと覚悟しました。

私はたんせつ老師を訪ね、

「このところこういう問題があって、心労が耐えないのです」 というお話しをしました。

老師もこの問題については新聞などを読んで知っておられたようです。

あたたかい慰めの言葉をかけてくださるのかと思ったら、老師は開口一番、次のようにいわれたのです。

「たいへんでしょうが、しかたありません。生きていれば、苦労は必ずあるものです」

そして、続けざまに次のようにお話しくださったのです。

災難にあったら、落ち込むのではなくて喜ばなくてはいかんのです。

災難によって、いままで魂についていた業が消えていくのです。 それぐらいの災難で業が消えるのですから、稲盛さん、お祝いをしなくてはいけません」

このひと言によって、私は十分救われた思いがしました。

世間からの批判も、

「天が与えもうた試練」 と素直に受け取ることができたのです。

まさに、いかなる慰めの言葉にもまさる、最高の教えを老師は授けてくださり、私は人間が生きるということの意味、そしてその奥底に横たわる偉大な真理までを学ぶことができました。

        

           『生き方』 稲盛和夫 サンマーク出版



感想

稲盛さんの文章は詳しく書かれていますが、平たく言えば本心という綺麗な心に、業という汚れた魂が乗っている。

この業が個人の人間にも地球人類にも覆い被さって人間も地球人類もおかしくなっているのです。

魂とは、肉体にくっついている目に見えない幽体というボディ(体)です。

そして個人の幽体がたくさん集まった世界が幽界なのです。

私たちを守ってくださっている守護霊さま守護神さまは、霊界と神界から幽体と幽界を浄めてくださっています。

だからまだ人間も地球も滅亡しないで済んでいるのです。(大難が小難)

が、しかしいつも書いていますように、守護霊と守護神だけでは、魂である幽体も幽界も浄め切ることが出来ないのです。

そして肉体人間もいつまでも意識が肉体界や汚れた世界である幽界にあっては(低意識レベル)、ほんとうの意味の魂磨きが出来ていないし、本心を輝かせることが出来ません。

本心が光輝いている姿が悟った状態ですが、人間は稲盛さんがおっしゃるように真理を知り、本心が顕われるようにならないとほんとうの幸せにはなれないのです。

なぜならば、人間は悟るため、本心に還るために生まれて来たからです。

なぜ元々神(我即神也)なのにわざわざ肉体を纏って、記憶を無くさせ苦労をさせるのか?

と言いますと、本心と波動の違う世界に身と心を置いた方が、魂磨きや本心を開発するのに適しているからです。

人間は窮地に立たされないと努力しようとしないからです。

真理を知り、悟ろうとしないからです。

人間は今、目覚めようとしています。

人間が業を取り去り、本心につながる(覚醒する)メソッドが世界平和の祈りです。



世界人類が平和でありますように

日本が平和でありますように

私たちの天命がまっとうされますように

守護霊さまありがとうございます

守護神さまありがとうございます



  

 

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