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2017年3月31日 (金)

肉体界を安心して生きて行くには守護霊の助けが必要です!




肉体人間の私たちが守ってくださっている守護霊、守護神さまから充分な光をいただいていたのなら、受取っていたのなら

幽界からのオバケちゃんに振り回される、惑わされることはないのです。

守護霊守護神さまは、私たちの想いを消すことが出来るのです。

マイナスの想いが襲いそうになった瞬間(とき)

光を当てて、スッと消してくださるのです。

先日、妻の親友のご主人が自ら命を絶たれたという話をしましたが、そこまでいってしまうのは守護霊(以下は守護神は省きます)からの光が届いていないのです。

幽界のおばけちゃんとは霊界神界に行けずに迷っている霊たちです。

霊というのは本来は神さまのことなので、幽界の霊たちもほんとうは神霊なのですが、悟っていないためにその段階にないためにそのような姿になっているのです。

幽界のおばけちゃんは、自分たちの力を強めたいために肉体界にいる人間たちを自分たちの世界に呼びこもうとしています。

悟らないうちに、迷っているうちに引っぱりこもうとしているのです。

もちろん守護霊たちはそのようなことをさせないように必死に光を送っています。

しかし、本人が守護霊たちに意識を向けていないので非常に届きにくいのです。

光が弱い、逆にいえば幽界の力が勝っていたことになります。

今は業想念、カルマのエネルギーが幅をきかせていて闇が深くなっています。

悲しいかな私たち肉体人間だけの想いの力(念力や根性論など)では肉体界を明るくすることはできないのです。

完全無力です。

今の時代は、文明が最高に発達した時代なのかもしれません。(進化した星から観ればまだまだ幼いのですが)

科学だけで充分幸せに生きていけると思っているのかもしれません。

しかし霊界神界から観れば、肉体界はとんでもなく幼稚(精神的に)な世界なのです。

そのことが人間にはわかっていない

人間はもっと謙虚になって

自分たちの無知、無力を認めて

「守護霊さま守護神さま助けてください私たちでは自分のことも肉体界全体のこともどうにもすることはできません」 と素直に求めればいいと思うのです。

今までは、守護霊さん(親しみを込めてさんづけでもいいと思います)の存在をよく知らなかった、感じていても確証がなかった(確証なんてものはいりませんが)

目には見えなくても

いらっしゃると思ってお願いをすればいいのです。

感謝をすればいいのだと思います。

そうしているうち守護霊さんたちの存在がきっとわかってくると思います。

見えないものを信じられる人は、幸せな人なのです。


 




肉親的愛情をもった神

 



守護霊、守護神とただいっただけでは、やはり実感としてピンとこない。

この守護霊や守護神が、自分たちと同じように人間的愛情をもった、しかも自分とつながり深い親の親、つまり祖先の悟った力のある人、あるいは生まれる前から自分につききりで観ているくれる愛情をもった神、でなければならない。

何があっても自分をまっさきに救ってくれる肉親的愛情の所有者である神が必要なのである。

私はこうした神を、守護神として改めて民衆に発表した。

そしてその下に真実肉親として系図を見ればわかるような祖先を守護霊としてははっきり認識させるように教えている。

今まで何となく漠然としていた守護神、守護霊を各自が、自分のものとして暖かい想いでつかり得るように示したのである。

 

    

         「日々の祈り」 五井昌久 白光出版



死は怖いものではない!



感想

 

人間の一番の苦しみは、ズバリ死への恐怖ではないかと思います。

貧乏の恐怖も食べていけなくなったら飢え死にしてしまう、路頭に迷ってのたれ死をしてしまう、病気の恐れも間違いなくその先には死があります。

生きていることの感動や喜びさえも「いつかは死んでしまうんだ」という恐怖で割り引きされてしまうのです。(なんともったいないことか)

巷の話題も、「〇〇さんがガンになった」 「△△さんが自殺した」 

「□□さんの店、会社が潰れた」(ごめんなさい暗い話ばかりで)・・・などと結局は死と直結するような内容が多いのです。

死への恐怖がある限り人間は常に死という不可解(理解していない)なものと戦っていかなければならないのです。

人間のほとんどは、死は永遠の死だと思っています。

肉体の中に心(魂・精神)があると思っているので、肉体の死は、魂の死を意味します。

肉体が無くなればほんとうに心も消えてしまうのでしょうか?

これだけインターネットが普及し、真実が知られるようになったのに、肉体の死は永眠ではないとかなり多くの人がわかってきている(それでも少数ですが)にもかかわらず、それを信用しようとしない。

今の自分の魂(心、気持ち、精神)は永遠に生きつづけるんだと思った方がずっとずっと嬉しいことだし、恐怖心も消えるにもかかわらず、どうしてネガティブな方を信用しようとするのか?

どちらかわからないのであればポジティブな方を選択すればいいのにと思うのはおかしいでしょうか? 多数決で決めているのでしょうか?

私が人間とはなんとも不可解な生き物なのだなあと思う一番の要因なのです。

と言っても、肉体の死というものが何を意味するのかがわかっていたとしてもこの世的な別れは確かに辛く悲しいものです。

あの世(霊界・神界)でその人が生きているんだとわかっていてもこの世(肉体界)で会えなくなるのは確かに辛いのです。

そこでこう思ってはどうでしょう?すごく仲の良かった友だち(親子でもいい)が急に遠くへ転校することになった、連絡先を聞けずに去って行ったので、どこでどうしているのかがわ

からない。(今はネットの時代なので判らないというのは現実的ではありませんが)

ただ風の便りで 「新らしい地で元気にしているらしい」 と聞いた

「いつかまた縁があれば会うこともあるだろう」 くらいに死を理解していればいいと思うの

です。

かなり前になりますが、映画(邦画)で『よみがえり』という作品がありました。

自殺した男子学生や亡くなった夫、恋人、知人があの世から現世に帰って来たという内容です。

この世(3次元)とあの世(4次元、多次元)はらせん状で繋がっていて、ほんとに近くにあるのです。

ただ目にみえないだけです。

現に私たちの祖先(悟った)である守護霊さんや守護神さんたちは24時間プラスαで守り続けてくださっています。

守護霊や守護神のご加護がなければ私たち人間はとっくに死に絶えているのです。

では、目にみえないもの(霊も含む)が見えるようになったほうがいいのか?

幸せになるのか?と言うとそうでもありません。

守護霊守護神の姿も見えると同時に幽界のオバケちゃん(悟り切れなかった浮遊霊たち、汚いものも)も見えてしまうからです。

相手の人の心もはっきりとわからない方がいいのです。

霊的ではないけれど、神仏の存在をわかっているし、知っている、そして真理(人間神の子であること)を識っていることが一番良いのではないかと思うのであります。

 
下記の本文では、五井先生が肉体の死についてわかりやすく説明してくださっています。

一人でも多くの人が肉体の死を正確に理解されることを願っています。



本文

 


私は肉体生活がある限り、肉体生活の利害を全然思わぬ、というような教え方は無理であると思うので、肉体生活の利害も認め、その利益もあり、幽体の存在を認め幽界を知らせ、幽界における死後の生活の方法を教え、さらに一番大事で、肝腎な、人間は神そのものである、ということを悟らせる方法が、前者の各方法よりさらによいのではないかと思う。


私はここで、第三章で書き漏らした、死後の世界、即ち、幽界について、述べておきたい。

死後の世界をここで説明しておかぬと、誤れる宗教について述べる時に読者にわかりにくいことが多いと思うからである。


人間世界におけるすべての不安の根底は死の恐怖にある。


いかなる種類の苦しみに直面したとしても、死への恐怖を超越した人にとって、その苦しみは、心の痛みにならない。


死ほど、人間の関心をそそる出来事は他にあるまい。


死は人間にとって終りなのか、転移なのか、この謎が解けることによって、人間の進歩は一段と早まるに違いあるまい。


人間は肉体人間の消滅によって失くなってしまうものではない。


これは先章から私が説いていることなのである。


死とは幽界(以後は霊界を含めて)への転出なのである。


肉体の死とは幽界への誕生なのである。


死ぬことを往生(おうじょう)といったのはこのことを昔の人は知っていたからなのである。


肉体が死ぬ、ということは、その中の神につながる分霊が(後にはただ霊という)幽体をつけたまま、肉体を抜け出た後の状態をいうのである。


先きの章と重複するが、人間とは肉体ではなく、霊そのものをいうのである。


肉体とは霊の容(い)れものであって、霊の心のままに行動するものなので、ちょうど自動車が運転手によって走っているように、霊の運転によって種々の行動をなすのが肉体なのである。


ただ先きの章で述べたように、直霊(神)から分かれた分霊が、まず幽体を創り、その幽体を下着やシャツのように着け、その下着をつけた上に、肉体という上衣(うわぎ)を着けた姿を、普通は人間と呼んでいたので、その肉体の消滅を、人間の消滅、と残された肉体界の人びとは思いこんでしまっていたのである。





『神と人間』 正しい宗教と誤れる宗教 五井昌久 白光出版



 追伸・・・人生の指南書である『神と人間』はシリーズでお伝えしています。

ごのページは一部を抜粋したものです。

ご覧になりたい方は、2015年12月末から2016年1月にかけてご覧ください。




  

2017年3月30日 (木)

正しい親子関係のために



━ あなたはこの世の創造者


人は自分の想念の世界に住んでいる

地球人類を構成しているのはあなた方一人一人なのだ。

この世に世界というものが存在しているのは、あなた自身のためだ。

実際この世界は、あなたがそれを創り出しているのだ。

一般に、あらゆる人々は自分のまわりにあらゆる世界を創り出す。

その世界はその人の想い方次第で創られてゆく。

平和な世界を創り出してゆくか、また豊かな世界や調和の世界や孤独な世界を創り出してゆくかは、あなたの想い方一つで決まるのである。

家族がお互い一つ屋根の下に暮らしていても、家族それぞれ皆異なる世界に住んでいる。

確かに同じ建物、空間を共有し、同じ物を食べ、血で結ばれていてさえも、あなたたち家族は皆決して同じ世界には住んでいない。

みんな別々の世界に居を構えているのである。なぜならば家族皆、同じ思考を持っているとは限らないからである。

家族はお互い、同じ濃い血の絆で固く結ばれているので、一つの世界に住しているように思われるであろうが、否、決してそんなことはない。

家族であっても全く異なる世界に住しているものである。自分の子供が天国に住み、その両親が地上の世界に住んでいるかもしれない。

ところがあなたたちは、実際に自分たちが同じ世界に住んでいると思っている。

たとえ夫や妻であろうと、親や子供であろうと、想念が違っているのに、どうして同じ世界に住むことが出来よう。

人は自分の想念によって創っている世界に住み、その世界から離れることは出来ないのである。

またあなたの想いで創りあげた世界に、誰も住むことは出来ない。

それはあなたの世界だからだ。

あなた一人の想いで築きあげてきた世界なのである。

 そして自分一人の世界に住みつくと、あなたが自分のまわりに世界を創る。

親が子に(夫は妻に)自分の生き方や思想や体験を語り聞かせることは出来る。

だがそれまでのことである。

決して親の思う通りに子を導くことは出来ないし、また子供のほうは、果してその親が導く通りに歩んでゆくかというと、それは否である。


子供は子供の世界を築いてゆくからである。子供の築いた世界が地獄の様相をきたすような世界であるため、子供を変えたいと思うならば、まず子供の想念を変えるように導いてゆかねばならない。

そういう世界をこの世に創り出してゆく根源は、その子の想念だからである。

人は皆、自分の想念の世界に住んでいる。

自分の住んでいる世界があまりにも不幸で悲惨で汚れた世界である場合、、まず自分の住んでいる周囲の世界を変えなければならない、と誰しもが思うことであるが、それは間違いである。

誰も他を変えることは出来ないし、変えられるわけもない。

たとえ親が子に対しても、夫が妻に対しても無理なことである。

自分自身が本当に今自分の住んでいる世界から抜け出したいと思うならば、まず自分の想念を変えてゆくことから始めてゆかなければならないのである。

自分自身が変わること以外に、何の方法も見出せないのである。

故に、たとえ血のつながった愛すべき親兄弟姉妹がどんなに不幸であろうと、それらの人々に関しての責任はいっさい他にない。

すべては本人の責任である。

本人の考え方であり、本人の願いであり、本人の想いだからである。

自分の今住んでいる世界が嫌だからといって、家から逃れても、世間から逃れても、自分の世界はいつも自分についてまわる。

どこか別の世界へと逃げおおせたとしても、一番肝心のこの自分自身から逃げ出すことは決して出来ない。

どうやって逃げられよう。たとえどこかに逃れても、そこでまた同じ世界を、全く同じ自分の想念の世界を創ることになるのである。

何故ならば、自分自身が以前と変わっておらず、同じままだからである。

自分の想いが消えない限り、人は自分の世界を離れることは出来ないのである。

故にどうしても変えたいと切に望むならば、自分の思考や想念を変えなければならない。

変えさえすれば自分の世界はたちまち変わってしまう、まったく違った別の世界が自分の目の前に現われてくる。

あなたがあなたの想念によって創り出す世界とは、自分が真実であれば真実の世界になる。

自分が非実在の欲望の中に住んでいれば、あなたはみせかけの世界を創り出す。

どんなものにせよ、自分がそれであるもの、それがその人の世界なのだ。

だからこの世の中には、人の数と同じだけの世界が存在している。

何故なら、誰もが自分だけの世界に住んでおり、自分だけの世界をまわりに創り出しているからである。

それはその人の想いの投影、その人の想いの創作になる世界である。

たとえこの世を離れても、その世界を離れることは出来ない。

どこに行こうとも、人は再び同じ世界を創り出すことになる。

何故ならばその世界は、絶えず自分の想念から生まれてきているものだからである。

子供の運命は子供の責任である


ここで、再び話を親子関係にもどしてみたいと思う。昨今、実に親子間のトラブルが絶えない。

特に自分の血を分けた愛しい子が、自分の思った通りに順調に育たない場合が多く、悩みが絶えない。

健康面でのトラブル、精神面でのトラブル。

親は自分のことならいざしらず、実の子の不幸をみていて血を吐く想いである。

ほとんど多くの親は、我が子がこうしたあらゆる問題を抱えている時、それをすべて親の責任と痛切に感じ、自分自身のいたらなさを責め裁く。

たとえ自分を責めて責めて責めまくったにせよ、それでその子がものの見事に変わるなら大変に結構なことであるが、そんなことは、ほとんどと言っていいほどあり得ない。

親が我が子の不幸や災難に対して、あくまでも自分の責任として受けとり、自分を責めつづけ、その結果我が子が治るなら、どんな親もわが身を徹底的に責め裁くがよい。

だがいくら自分を責めつづけてみても、子が治る筈は決してないのである。

子供本人の抱えている、その苦しみや不幸や悲惨さは、決して親のせいでもなければ、親の至らなさでも親の責任でもない。

その子自身の本人の望みであり、まさしくその子の持っている想念行為の顕われなのである。

それがたとえ生後何ヶ月の子、一歳二歳十歳の幼子であってもである。

その真理がわからずして、いたずらに歎き悲しみ、人生のすべてを費やしてその子のために捧げ尽くし、暗く惨めな不幸な一生を終える親がこの世の中にどれだけいることか。

絶対なる真理は、この肉体界の世界を通過する時、どうしても歪んだものになっていってしまう。

それはあたかも、丁度まっすぐな棒を水の中に入れるようなものである。

棒はまっすぐなのに、突然水という媒体を通すと曲がってみえる。

水という媒体が何かをしてしまう、まっすぐな棒を屈折させてしまうのである。

頭の中では、棒はまっすぐなままだとよく知っているのに、実際の目にはそれが曲がってみえてしまうのである。

真理もまったくこれと同じことで、真理は真理で厳然としていてしかるべきものなのに、肉体という媒体、世間という媒体、常識という媒体を通過すると屈折される。

真理が想念という媒体を通り抜けてしまうと、それは何でも歪んだものになってしまう、故意に曲げられてしまう。

真理が真理にあらずである。

そのように、子供に関する限り、世間の常識でいえば、子供ことはすべて親の責任と義務にあると思い込まされている。

そして子供に関する一切合切、そのすべてを親に負い被せ過ぎてしまっているのである。

確かに親は、赤ちゃんや、幼い子供に関しては充分に保護し、養い育てる義務はあるのであるが、子供がどんどん成長して自分の意見を持ちはじめ、自主的になりはじめる頃は、全面的に親の責任とはいえないのである。

子供が持って生まれた天性の性格や才能、因縁、そして想念によるものの顕われだからである。

たとえ親といえど、子供の心の中にまで土足で入り、踏みにじることが許される筈もなく、また子供の心や想念を変えることが出来るなどとは、思い上がりも甚だしい。

どんな親であれ、そんな権利は持ち合わせてはいない。

子供はすべて、子供の自由意思によって、その子の人生が運命づけられてゆくものだからである。

親の役目は導き手にすぎない。真理への道、神への道へと、方向づけしてあげさえすればそれでよい。

折角方向づけしてあげても、その子供がそれに反発して従わなかったり、逆の道を行くようだったら、それはその子の生き方であるから、それはそれでよいのである。

今生には未だその子が果たさなければならない、修行しなければならない険しい道が敷かれているに違いないのである。

 
その子が今生において、無事その子の果たすべき因縁を超えられた場合、来生は素晴らしい、輝かしい世界が展開されてゆくものだからである。

それが一つの魂の成長なのである。
 

段階なのである。
 

今生の生き方だけを垣間見て、ああでもないこうでもないと言うことは、甚だおこがましいことである。
 

子供の苦しみをみていて、あまりにも悲惨さがつづくと、つい子供の苦しみを少しでも親が引き受けてあげたいとか、自分と代わってあげたいとか想うのは、心情的には実によくわかることなのであるが、真実からいえば自分の感情移入も甚だしい。


子供の天命のまっとうを祈ろう


本当に子供を愛し、子供のことを想うならば、今その子が通り抜けなければならない状況を、無事通りこせるよう祈ってあげればよいのである。

それ以外に方法は何も無い。

またたとえ、親の願いが聞き遂げられたとして、その子の苦しみや負担を分かち合えたにせよ、いずれその子には同じ運命の苦しみや、同じ悲惨さが待ち受けているのである。

決して苦しみから抜け出したのではない、ただ後まわしになったに過ぎないのである。


その子が今生において果たすべき天命は、必ず果し終えなければ、何生繰り返しても同じ世界が繰り広げられるのである。


どうぞ世の親たちよ、心を鬼にしてまでも厳しく対処すべし。

その子の担った運命は、その子のみにしか果たし終えないものである。

決して代わりが許されるべきものでもない。

その子の魂の磨きである。

立派になるためのプロセスである。

自由自在にして、真理の道を歩んでゆくための今生の道でもあるのである。

それをよく判っていただきたいのである。

厳しいようでも、子供の苦しみは、その子の問題である。

親であるあなたの問題ではない。


何故あなたがかき乱されなくてはならない。

何故あなたが苦しまなければならない。

何故あなたが責任を感じなければならない。

何故あなたが負い目を負わなければならない。

何故あなたが、あなた自身の人生までも狂わしてしまうことがあろうか。

ましてや、その子を取り巻く兄弟姉妹の運命までも。

その子の周りにある物は、すべてその子のせいでそこにある。

その子がその子自身によって、果さなければならないことなのだ。

だからこそ、その子がそれを引き寄せているのだ。

その子の周りにある苦しみや不幸や悲惨さをあなたが感じているとしたら、それは間違っている。

それを引き寄せているのはすべてその子なのだ。

あなたではない。

あなたがそれに対して苦しむのは止めなさい。

腹を立て憤るのは止めなさい、そしてその子の抱えている悲惨さと闘うのも止めなさい。

そんなことをしても無駄だ、その子が引き寄せて招いているのだから。

その子の周りに起こっていることは、何でもその子の想いに源(みなもと)がある。

その子の想いが常にその子の不幸の原因である。

あなたがそれに対して責任を感ずることはない。

あなたが責任を強く感ずるとしたら、それはあなたが間違っている。

あなた自身の存在が、その子の修行にとってかえって負担になってしまっているのである。

その子は今生において果さなければならない因縁を持って、生まれ合わせているのである。

本当にその子のことを思っているならば、あなたはただ黙って、その子のために祈ってあげることだ、ただ祈ってあげさえすればよい。

一刻も早く真理に目覚めるよう、その子のために祈ってあげさせすればよいのである。

縁あって、親と子として今生に生まれ合わせてきたのである。

その縁故に親が心から愛する子に対して、その子の天命がまっとうされんことを祈ってあげる時、その子にその親の心、真理が通じない筈はないのである。

やがて子は目覚め、その子自身の持つ想念が変わった時、もはやその子の世界は苦しみの世界から一変することであろう。


子供への執着を断とう


親は子供への執着を断つことだ。執着故に苦しみ傷つき病むのだ。

執着の想いほど子供にとって大いなる迷惑はない。

執着は留まることを知らない。

ただ物事をしてあるがままにあらしめなさい、そうすれば物事のほうから自然に去ってゆく。

物事を自分の力で引きつけてはならない。

物事の自然と己れの自然とに従うがよい。

無知からくる執着こそ人を惑わすものだ。

人は光明にも執着し得るし、神にも執着する。愛にも執着するし、祈りにも執着する。

過去の出来事にも執着すれば、未来にもまた執着する。

物質に執着すれば、地位や権力にも執着する。

夫や妻や子供に執着すると思えば、土地や財産、富にまで執着する。

また憎しみにも執着し喜びにも執着する。

ひとたび何かに執着すれば留まることを知らない。

どんなものにも執着せず、自由でなければならない。

何事も執着すればすべてが止まってしまう。

エネルギーが一ヵ所に滞り、自由自在とはほど遠くなる。

人は常に何ものにも把われず、自由自在であるべきだ。

執着は自分に足かせをはめているようなもの、自分で自分の首を絞めているようなもの。

何事にも執着しないでいられたら大したものである。

ましてやそれが愛するいとしい子にさえも行われ得たなら、あなたはもうすでにあなたの苦しみから解き放たれている。

心は自由だ、明るく陽気だ。

たとえ現実がどんな悲惨な状況をみせていようとも、もはやあなたの心の中には苦しみは存在しない。

何ものにも把われない自由な心があるからだ。

あなたが周りにある、そして起こる、あらゆるものに執着しなくなれば、あなたはいかなるものをも引き寄せることはない。

そうなると、あなたの執着を身に受けて自由を失っていた子供が、突如として溌剌と生き生きと輝いてくる。

多くの人々、実に多くの人々が、不幸に対して深い執着を持っている。

なぜなら、ある不幸からやっと抜け出られたと思ったら、また次にはもう新しい何か別の不幸を持ってくるからである。

私にいわせれば、まるで好きこのんで次の不幸をつかもうとしているとしか思えないのである。

逆に自分の不幸を売りものに、内心大いに楽しんでいるかのように思えてならないのである。

彼らにとっては、不幸こそが最大の宝物なのであろう。

人は新しい不幸を次から次へと創りつづけることによって、生き甲斐を求めているのかもしれない。



                    

                           
西園寺昌美


 

2017年3月29日 (水)

生きているだけで “まるもうけ” 

 



息子が2度目の手術をうけたのは2年半前の中学3年の夏のことだった。

そして、大好きな野球の大会が終わったすぐ後のことであった。

2年の時から腹痛を何度か繰り返し、なんとか乗り越えてきたがその時は様子が違っていた。

痛みが時間とともに増してきて気絶しそうになっていた。

しばらく様子をみようとしていたが病院に連れて行ってと叫んでいた。

夜中の4時くらいだった。

病院に連れて行き、検査をしようとしても痛みでなかなか出来ない程だった。

なんとか検査を終え、担当の先生に話を聞くと腸が癒着しているのが原因だった。

幼稚園の時の手術(腸捻転)が影響していたのかも知れなかった。

「とにかく早く手術して癒着した部分を離すことです」

と先生は言われた。

私は最初の手術のことを想い出し、この若さでなんで2回も同じところにメスを入れないといけないのかとつらくなった。

どうしても手術はさせたくない。

そう思った私は先生に

「このまま痛みがおさまって治ることはないんですか?去年もなんとか乗り切りました」

と食い下がった。

しかし、「その時とは状態が違うようです」 と言われたときには覚悟を決めた。

時計の針は午後6時を指していた。

今すぐするか、明日の10時か、選択を迫られた。

私と妻は息子のところへ行って話をした。

痛みは少しひいて、小康状態だった。

「先生はすぐにでも手術したほうがいいと言っている。でもお父さんはもう少し様子をみたい気もする、明日まで待ってもらえる、どうする?自分で決めていいよ」

と言うと

「手術しても野球できるかな?」

と聴いてきた。

私は「大丈夫、絶対に出来るよ」と答えたときには泣き声に変わっていた。

そして「お父さんはどう思う?今したほうがいいかな?」

と聞かれたときには泣き声は嗚咽(おえつ)に変わっていた。

自分はこいつに信頼されている・・・うれしさとかなしさが混ざっていた。

「今、したほうがいいと思う」 しぼり出すように答えた。

その時に確かに判ったことがある。

熱いものが流れてなにかが一つになった。

一つになって大きな力になった。

手術は無事成功し、いまではすっかり元気になった。

その頃、さんまさんが娘さんの名前の由来を話していたのを聴いた。

いきてるだけでまるもうけ、だから  “いまる

本当にそう思った。

人間は生きてるだけで素晴らしい。


                          (2007年1月24日の日記より)



追伸・・・その後、しばらくしてある人に

「人間は死に直結するような大きな病気を2度すると、その後嘘のように健康体になる」と聞いた。

憑き物(前世からの因縁生)が落ちてスッキリするからだと思いました。


守護霊様はこんな守り方もするのですね。


 

 

2017年3月28日 (火)

地上天国の創生


【地上天国の創生】     
                            
                               
五井昌久


地球世界をこのままにしておいてよいのか

日本をこのままにしておいてよいのか

輪廻の歴史が大きく地球を崩そうとしている今なのに

一人のキリストを待っていてはいけない

イエスの再臨を待っていてはいけない

あなた方の一人一人がキリストになって

この世界を守り通さなければいけない

地球が崩れかかっている音が

あなた方には聞こえないのか

日本を救い地球を救うのは

一人の偉人でも聖人でもない

地球を救うのは一人一人のあなた方なのだ

聖者賢者はただその中心者として指揮をとる

何もむずかしいことではない

あなた方の想いを宇宙の法則に合わせること

ただそれだけで地球の崩壊は救われる

いかに世界中が正義という旗印の

平和という軍旗をかかげていようとも

お互いが戦争の方向に歩みをむけているようでは神のみ心に合うわけがない

私たちは争い心を消えてゆく姿として

戦争という方向とは全く無縁の

世界平和の祈りという

宇宙大法則に合わせた大調和の道を

ただひたすら進みつづけているのだ

国防という名の武力の時代はもう過去の歴史

守るも攻めるも武器をもつことにかわりはなく

戦争の道であることにかわりはない

これからの世界は武力のいらない世界

国を守る力は純粋そのものの平和の心

真実地球を傷つけたくない徹底した愛の心

その心以外にもう地球を救う手だてはない

人類進化は争いの心を捨てることによって大なる飛躍を遂げる

平和の大科学は宇宙大法則に基づいた叡智によって生れる

その誕生こそが地上天国創生の礎石ともなる

北風が外套をぬがせるのではない

太陽の愛がすべての心を開かせるのだ

(『純白』所収)




  

宗教が敬遠されるようになった理由




感想

 

一般的になぜ、宗教が嫌われ、敬遠されているのかというと下記の本文にあるように、お釈迦様やキリスト様が肉体界を去った後に、その弟子たちが本来の宗教を継承していけなかったからなのであります。

そして自分たちの都合のよいように改ざんをした。

このようなことは現代にも言えることでありまして、事業の成功した一代目は、志も高く、純粋であったものが2代目、3代目になると甘えが出たり余計な欲が心の中に生じやすいのです。

そして初代とは変わり果てた姿になるのです。

その原因は、精神にあります。

前世で正しい宗教を体得したや精神のバランス感覚の取れた人は誤れる宗教を直観で見抜くことができます。

「この宗教はおかしい」 「教えは善いが語っている教祖(世襲を含む)や信者たちが胡散臭い」 「お金ばかりを要求する」 「信者を集めるように言われる」・・・・

など、常識で考えればおかしな言動であることがわかります。

しかし欲が絡んだり、心の隙を見せると騙されることになります。

魂は真理(宇宙法則)を求めているのになかなか真の宗教に繋がらない・・・

これは人間にとって、とても不幸なことだと思うのです。



  

本文




しかし、この覚者たちが、肉体生命を終えた後、この覚者たちの教えを、種々な弟子たちが、それぞれ独自な形で伝え始め、これが、何宗、何派、何教会、等々、世界全土に拡まっていった。


日本では、仏教が最も盛んで、各宗派に分れ、しだいに教えの根本を忘れて、激烈なる宗派争いをしながら信者獲得に狂奔した。


その他、神道、儒教があり、現在に至って、キリスト教が非常に盛んになってきた。


このように宗教が、各種の組織をもって、世界各国に拡まっていったのであるが、人類の宗教心はその組織の拡大と正比例して深まってきている、とはいえないのである。


古代の人類は、宗教を学理的に知るよりは、行為で理解し、直接体験で、神を知ろうとしていたが、中世、現代としだいに、宗教を行から哲学に移してゆき、学理究明が先になり、行からくる直接体験は薄らぎ、本来の宗教心から、知らず知らず遠のいていった。


やがて宗教は、学理的究明者と、教団、教派の形式の踏襲者並びに、真に神仏と人間との関係を直接体験として知らんとする行の人、の三つの流れに分れてきた。


宗教は、学理的に究明しただけでは肉体脳髄に知識として残るだけで、先覚者の志を継ぐものではなく、形式を踏襲したのでは、神仏のいのちが枯れてしまって生きて来ない。


神仏は生きとし生けるものであり、人間も生きとし生ける者である。


生きとし生きて自由自在に形の世界を造ってゆくものが神であり、人間である。


学理に固着し、形式に捉われた世界には、いくら神を求めても神はいない。


宗教とは哲学ではない。


哲学を越えた行の世界が宗教である。




『神と人間』 五井昌久 正しい宗教と誤れる宗教 白光出版



 

2017年3月27日 (月)

宗教はなぜ嫌われるのか?




感想

 

一般的になぜ、宗教が嫌われ、敬遠されているのかというと下記の本文にあるように、お釈迦様やキリスト様が肉体界を去った後に、その弟子たちが本来の宗教を継承していけなかったからなのであります。

そして自分たちの都合のよいように改ざんをした。

このようなことは現代にも言えることでありまして、事業の成功した一代目は、志も高く、純粋であったものが2代目、3代目になると甘えが出たり余計な欲が心の中に生じやすいのです。

そして初代とは変わり果てた姿になるのです。

その原因は、精神にあります。

前世で正しい宗教を体得したや精神のバランス感覚の取れた人は誤れる宗教を直観で見抜くことができます。

「この宗教はおかしい」 「教えは善いが語っている教祖(世襲を含む)や信者たちが胡散臭い」 「お金ばかりを要求する」 「信者を集めるように言われる」・・・・

など、常識で考えればおかしな言動であることがわかります。

しかし欲が絡んだり、心の隙を見せると騙されることになります。

魂は真理(宇宙法則)を求めているのになかなか真の宗教に繋がらない・・・

これは人間にとって、とても不幸なことだと思うのです。




  

本文




しかし、この覚者たちが、肉体生命を終えた後、この覚者たちの教えを、種々な弟子たちが、それぞれ独自な形で伝え始め、これが、何宗、何派、何教会、等々、世界全土に拡まっていった。


日本では、仏教が最も盛んで、各宗派に分れ、しだいに教えの根本を忘れて、激烈なる宗派争いをしながら信者獲得に狂奔した。


その他、神道、儒教があり、現在に至って、キリスト教が非常に盛んになってきた。


このように宗教が、各種の組織をもって、世界各国に拡まっていったのであるが、人類の宗教心はその組織の拡大と正比例して深まってきている、とはいえないのである。


古代の人類は、宗教を学理的に知るよりは、行為で理解し、直接体験で、神を知ろうとしていたが、中世、現代としだいに、宗教を行から哲学に移してゆき、学理究明が先になり、行からくる直接体験は薄らぎ、本来の宗教心から、知らず知らず遠のいていった。


やがて宗教は、学理的究明者と、教団、教派の形式の踏襲者並びに、真に神仏と人間との関係を直接体験として知らんとする行の人、の三つの流れに分れてきた。


宗教は、学理的に究明しただけでは肉体脳髄に知識として残るだけで、先覚者の志を継ぐものではなく、形式を踏襲したのでは、神仏のいのちが枯れてしまって生きて来ない。


神仏は生きとし生けるものであり、人間も生きとし生ける者である。


生きとし生きて自由自在に形の世界を造ってゆくものが神であり、人間である。


学理に固着し、形式に捉われた世界には、いくら神を求めても神はいない。


宗教とは哲学ではない。


哲学を越えた行の世界が宗教である。




『神と人間』 五井昌久 正しい宗教と誤れる宗教 白光出版


追伸・・・人生の指南書である『神と人間』の感想と本文は、2015年12月末から2016年1月にかけてこのブログの中に書かれています。よろしければさかのぼってお読みください。



  

2017年3月26日 (日)

平和に暮らすことと、平和に生きることは違うのです。


感想


個人的に平和に暮らそうとしたのなら、たくさんのお金があってセキュリティーを万全にすればある程度は安全に暮らせるし、不自由することもない。

しかしそれは物質的、表面的なものであって、心が平和を感じること、幸せを感じるのとは違うのです。

反対にお金は少ししか持っていなくても、心が通い合う家族や友人にたくさん囲まれていたり、周りから慕われ、尊敬されていて、自分自身も常に感謝の気持ちを持って生きている人は、平和に生きている人だと思うのです。

要は、心が何に満たされているかです。

心がどこまで真理を体得しているか? 真理(真実)を識っているかです。

心の琴線に触れる経験(感動)をどれだけしているか?です。


ちいさな出来事にどれだけ喜びを見出すことが出来るかです。

私は、人の幸せとはどれだけ自分自身のことを

「僕(私)は幸せだなぁ」 と思えるかだと思うのです(笑)

それが平和に生きることなのではないでしょうか?

私たち人間は、幸せになるために生まれてきました。

平和に生きるために地球に降り立ったのです。

神さまはそうなるように、人間を導いてくださっています。

神さまの願いは人間を平和に、幸せにすることなのです。

自分の分身である人間を幸せにしたくないと思う人(神)なんてどこにいるでしょう?

私たちは遠慮することはないのです。

幸せに暮らすなんてちっぽけな生き方です。

幸せに生きる生き方をしましょう

その方がずっとずっと素晴らしい人生になります。

私はそう思います。



                『次元上昇』から


五井先生が提唱した “世界人類が平和でありますように” のスローガンは、世界人類が平和に暮らせることではないのです。

世界人類が平和に生きることです。

平和に暮らせることとは、戦争がなく、人種差別がなく、病なく、貧なく、飢餓なく、すべてが充分に調って安定した状態で暮らせることを言います。

だが、世界人類が平和に暮らすことは即、平和に生きられることでしょうか?

否です。 平和に暮らせるということは、あくまでも物質的、表面的に安定した状態を指しています。

平和に生きるということは、精神的、内面的な生き方を指しています。

人類はたとえ平和に暮らせても、人類一人一人の心の中に不平不満がなくならなければ、決して平和には生きられません。

心の中に憎しみ、憤り、悲しみ、怒りがあれば、決して平和には生きられません。

平和に暮らすことは出来ても、平和に生きることは出来ません。

このように平和に暮らすことと、平和に生きることとは、大きな違いがあるのです。

そして多くの人類はみな、世界平和を望み、平和に暮らすことを望んでいますが、それは平和に生きることへの熱望ではありません。

平和に暮らせることへの切望です。

しかし心の何ら平和を望まない生き方よりはまだ積極的な望みと言えるでしょう。

人類の大半は、人類の平和よりも個人の平和、個人の幸せ、個人の成功、個人の繁栄、個人の健康のみを探究しているのです。

世界の平和を望んでいるのはわずかの人々ですが、それさえも世界人類が平和に暮らせることであります。

この平和に生きることこそ、真の個人人類同時成道の道であります。

     「次元上昇」 西園寺昌美 白光出版


 

  

世界平和の祈りが個人と人類を救う 下


 
 
さて世界人類が平和でありますようにという祈り言には、さらにもう一つの奥義があります。

それは、人間というものの全体に向って、祈り言をしているということであります。

人間というものは、この肉体だけではありません。

幽・霊・神・大きく分けて、肉体以外にさらに三つの世界に生きているものであります。

この人間の本質、本体と申しましょうか、それぞれの世界に呼びかけ、霊界神界から光の放射をしやすくする働きを、自然と持っているのが、世界人類が平和でありますようにという祈り言なのであります。

個人と人類の同時救済という性質を、この祈りは持っております。

さらにこの祈りは、人間の本体である光に向って愛と調和を放っている祈りなのであります。

ですから、心の中に 「世界」 と思い浮かべただけで、直ちにそれは、宇宙と人間の本体である光につながり、大光明を発揮することとなるのであります。

ちなみに宇宙人達は、こうした光体が自己の本質であることを熟知して、日々我々を助けてくれているのであります。

こうした世界平和の祈りを我々はたゆみなく祈って、宇宙人類と光と愛の世界建設のために邁進致しましょう。

 

      「無限なる幸せを体得する方法」 于寿明 星湖舎






感想

私たちは、肉体(物質)が本体なのではなく、光の波動体(エネルギー体)であることを知らねばなりません。

そして光の光子を浴びることで、魂が喜び、進化してゆくのです。

そして、「印と祈りはこの地上最高のエネルギー」 なのです。

今、人知れず隠れたところで密かに印を組み、祈っている人たちがいるのですが、最高の陰徳を積んでいるのです。

汚れた人が千人集まっても一人の浄まった人の救済力にかなわない。(五井昌久)

一人の人が聖者(世界平和の祈りを祈ると)になると九族(九代)救われると言われています。

それくらい人間が光を放つというのは素晴らしいことなのです。

祈っている人たち、印を組んでいる人たちはもっと誇りを持ちましょう

今自分が人のことをかまっている状況ではない

人は人、自分は自分という人たちがほとんどの中で

自分以外のどんな人たちのことも、地球人類だけではなく宇宙人類全体の幸せを祈ることの出来る器なのです。

とてつもなく素晴らしいことをしているのです。

自分を尊敬し、誇りに思い、自分を大好きになってください

大げさではなく 世界平和の祈りを祈ることは人間のミッション(使命)、天命だったのです。

自分の素晴らしさを実感したならば、他人からのどんな誹謗中傷にも動じなくなります。

マイナスのエネルギーよりも自分を愛する無限のプラスのエネルギーの方がずっとずっと勝るからです。

真に自分を愛し誇りに思えないと、他人を愛すること、称えることは出来ないのです。

世界平和の祈りは、自分を愛し、人を愛することが出来る最高の祈りなのです。



  
 

世界平和の祈りが個人と人類を救う 上




言葉というのはエネルギーであり、言霊とも言われていることはみなさんご存知のことと思います。

だから言葉によって光が強いもの、弱いものがあることも理解出来ます。

感謝の言葉を心から語ると相手の人の心が熱くなるのは、感謝の言葉にはエネルギーがあるからです。

では、世界平和の祈りはどの程度のエネルギーがあるのでしょう。

「世界人類が平和でありますように」

ただ聞いているだけだと

「うんいい言葉だね、平和であればいいよね」

くらいのもので、普通は、一般の人は、余程世界で戦争のような紛争が起こり悲惨な状況をメディア等で見ないことには浮かんでは来ないのではないでしょうか?

地球人類みんなが望んでいることなのに

それが言霊という大きなエネルギーになっていない

そこに地球が素晴らしい星になり切れていない様に思うのです。 無限なる光!

ただそれも時期があって

これからたくさんの人が、世界平和の祈りを祈るようになるのです。

そのためには、祈りの根源、原点、奥義を知っておかなければなりません。

世界平和の祈りを祈ればどうなるのか?

個人的にはどうなり、地球や宇宙にどのくらいの影響を与えるものなのか?

それを于先生のご著書 「無限なる幸せを体得する方法」から抜粋致します。

 

世界平和の祈りについて

 

私どもが唱えております世界平和の祈り、特に最初の世界人類が平和でありますようにという祈り言について述べてみたいと思います。

世界人類が平和でありますようにという祈り言を心に思い浮かべた時、その人は神様のチャンネルをひねったのと同じであります。

人類すべての悲願が結集し、祈り言となったこの言葉には、どんな人間の個我をも消してしまう大きな光がこめられ、放射されているのでありまして、この祈り言を、思い浮かべるだけで私どもは大光明霊団の中に参加しているのであります。

ところで、この祈りの世界人類とは、どの程度の世界でありましょうか。勿論直接的には、私どもが住んでおりますこの地球を指しているのであります。

我々人間のいのちを細かくみて参りますと、それは光子という宇宙子から成っており、いのちの源はすべて波動から複雑に構成されているのであります。

宇宙に浮かんだ小さな星、この地球人類達は、こうしたいのちの成り立ち、いのちの仕組みというものにまだ気がついておりませんので、そのために宇宙人達から 「幼い兄弟達」 と呼ばれているのであります。

私は今、宇宙人と申しましたが、実際この地球以上に、心も科学も数百倍も進んだ星々と人類が存在することは、事実でありますし、それのみならず、我々はこうした宇宙のすぐれた兄弟達から様々な援助を得て、一日一日を無事に過ごしているのであります。

世界平和の祈りはここに至って、地球人類のみならず、宇宙に生きるすべての我々の仲間、兄弟、宇宙人類が平和であるようにという、宇宙の大調和をも目指した祈りであることが理解されるのであります。

この地球上には多くの国々があり、そのそれぞれの国は国交を結んでおります。

これからの政治家は、世界平和を根底に据えてかかなければ、一日たりとも政治がとれなくなってくるでありましょう。

しかし、もっと真理を見極める眼を持ちますなら、単に地球という星の地上の国々との交わりというばかりではなく、星と星との交わり、星交というところまで進まなければ本当の宇宙全体の調和というものは完成されないのであります。

そして現在、我々にコンタクトを求めてきております宇宙の兄弟達は、この宇宙の大調和の中に、我々地球人類が一日も早く溶け込むよう、最大の助力を日々行ってくれているのであります。

世界人類が平和でありますようにという祈り言は、宇宙神のみ心、愛の中に溶け入り、宇宙人類の一人として、全宇宙と宇宙人類全員の平和を祈り、又その愛念を彼らに送って、我々が日々彼らから受けております援助にも、応える形となっているものであります。

宇宙は玄妙であります。

そしてその玄妙な宇宙の運行を支えているものは、一点のわたくしなき、宇宙神の愛であります。


                    つづく



    「無限なる幸せを体得する方法」 于寿明 星湖舎

心の法則(因縁)を知ったところで、守護霊の存在を知らなければ人間は救われない!



感想


私は占いが大嫌いです。

人生を悟ったような顔や態度をして、上から目線で

「あなたの過去世はこうだったから今こうなっているんだ」

「あなたの人生を変えたいのなら私の言うことを聞きなさい」などと横柄な対応をする。

もちろん最初は相手の心を摑むためにいろんなテクニックを使うとは思うのですが、人の人生をもて遊んでいることには違いありません。

そこには愛がないと思うのです。(本人は愛だと思っているかもしれませんが)

人生を正しく導いてくれるのは、守護霊さま守護神さまだけです。

それはほんとうの親だからです。

心の親、魂の親、ちなみに肉体界の親はほんとうの親ではありません。

もちろん相手の人への愛がほんものならば守護霊と同等となりますが、肉体界の親には愛だけではなく愛情という“情”が絡むのです。

愛を語っているつもりでも、そこに自分の欲望が入っていたり、甘やかしたりすることを愛だと錯覚している。

愛情は愛の中でももっとも低いレベルの愛です。(愛から出た情もありますが)

人間の魂を成長させるものではありません。

そのことが心の奥底ではわかっている(これでいいのか?と自問自答する、後悔する)ので親は苦しむのだと思います。




 

本文




しかし、これは一回の肉体世界即ち、五十年や六十年だけの想念をいうのでなく、三回、五回、十回と生まれ変わった数百年、数千年、数万年間の想念の蓄積が順次縁となり、果となり、また因となり縁を生じ果となって現われているので、この現在の肉体の三十年、五十年の心の想念だけを自己の想念だと思って


“私はそんな悪いことを思わないのに、こんなに悪いことばかりある” という人がある。

また “私はお嫁に行きたい、といつも思っているのに、いつまでたっても嫁がれない、だから自分のままになるなどという法則は嘘である”等々現在の肉体界だけの想念で判断すれば、なかなかうなずけない。


しかし、この法則は、自然の法則の、物は上から下へ落ちる、ということや、電流の法則と同じように、絶対なる法則なのである。


想うことは必ず現われる。


この法則を知っただけでも、知らぬよりは進歩が早く運命改善ができやすいがこれを逆に応用し、反対に考えると、かえってその人自身や人を傷つけ、痛めてしまう。


想ったことは必ず現われる。 

この言葉を真剣に考えている人で、自分は恐怖心が非常に強い。

自分のように恐れる心の多い者は、この心の法則の通り、必ず恐れる事態が起こるに違いない。


恐れることはみな来るのだ、と、その法則を知ったことがかえって仇となって日夜恐れつづけている人がある。


またある人は、他人のために常に真剣になって心配苦労し、そのためいつも貧乏している人に向かって、

 “あなた貧乏したい心があるからいつも貧乏しているのですよ。富む心を起こしなさい。

あなたが貧しい心があるから、貧しい人ばかり側によってくるのですよ” と説教した。


このため、この人は善事をなすことに対して、大きな疑いを抱き、それ以来、愛行が乱れていった。


これらの例に見られるように、心の法則(因縁)だけ思ったり、説いたりすると、実に間違った逆効果になりやすい。


“あの人は、あんな心を持っていたから、あんなになったんだ” 式に、なんでも悪く現われている場合は、その人の心のその悪い原因があるんだと、決めつけられたり決めつけたりしていたら、まことに愛も情もない人生になってしまう。


法則を知ったために、人を傷つけたり、自分を痛めたりするのは神の本性を知らない無知から起こるのである。


神は愛である。 

愛であるから、守護神を我らにつかわし、守護霊を任じて、人間世界の悪因縁を消滅し去ろうとしているのである。


守護霊を信じ、守護神を想い、神に感謝しなければ、いくら因縁の転回や、心の法則を知ったところで、人間は永久に救われない。


こちらが知らなくとも、守護霊はただ、黙って人間を守っていてくれる。




                    つづく


 


神と人間 因縁因果を超える法 五井昌久 白光出版


2017年3月25日 (土)

山を愛する人とはどんな人なのでしょうか?

 

私の友人で山を愛している人がいます。

彼はとても穏やかで優しい人なのですが、人に対して寛容(愛深く)になろうとするのなら、その裏返しとして自分に厳しくしないと出来ないと思っているのかもしれません。

彼を見ているとそんな気がするのです。

一歩踏み違えたならそこは谷底で命を落とすかもしれない

判断を誤ったらそこは死への通り道なのかもしれない

そんな生死の境をあえて行くなんてなにかの目的がなくては行けるはずはありません。

その目的とは、言葉では云えなくても 頭ではわかっていなくても

心の奥底ではわかっているのです。

それは、自分を徹底的に見つめて鍛え上げようとしているのだと思うのです。

だから無事登り終えて地上に降りて来たときには

一皮も二皮もむけた ピッカピッカに魂の輝いた彼がいるのです。

「生きているだけでありがたい」

「これからどんなに辛いことや嫌なことがあったとしても生きていける」

そんな心境になっていると思うのです。

そんな彼が愛の薄い人であるはずがありません。

自分に怠惰であるはずがありません。

弱いはずがありません。
 

環境は人を育てるといいますが

まさしく彼の性質は 山が創ったものだといえるでしょう

海には海の役割りがあり

山には山の役割りがある

大自然はただ存在しているだけではなく

私たちの心にも多大な影響を与えてくれているんですね。


海に感謝 山に感謝 大自然に感謝 宇宙に感謝 あらゆるものに感謝 そして 自分に感謝・・・・・

私も

都会の喧騒を忘れて

海や山の波動(エネルギー)に浸ってみたいと思うのであります。

 

山をこよなく愛する人もいます。

山のどんなところが彼らを惹きつけるのでしょうか?


 

山に惹かれる人たちはちょっと独特の価値観を持った人です。

彼らは世俗的な喜びだけでは満足できず、自らを高めるためにあえて自らに困難を貸そうとするのです。

彼らが山に登るのは、究極的には自我を捨て去り真の自己に出会いたいという強い願望からくるのです。

高い山に登るのは、決して容易ではありません。不注意で軽率な態度を取れば、転落の憂き目に遭うことにもなりかねません。

たった一歩の過ちが命を危険にさらします。

すべての細胞を覚醒させて慎重に足を運ばねばなりません。

全身の神経を研ぎ澄まして一歩一歩に意識を集中するということは、一歩一歩山を意識するということでもあります。

自ずと山に対する畏敬の念が芽生えます。

山の波動はいつも峻厳であり、人を慈しむ海や太陽のような暖かく包み込む波動ではないのです。

慈しむあいも峻厳なる愛も、共に大切な愛です。

人類にとって、慈しみの愛だけでは足りません。

また峻厳なる愛だけでも不十分です。

慈しみの愛と峻厳なる愛とが互いに作用し合い、調和してはじめてこの世の愛は完成するのです。

山の持つ峻厳なる愛の響きは宇宙の調和に深く寄与しています。

自然界のものすべては神の法則に色分けされた働きをしながら宇宙法則の秩序の中に組み込まれています。

海も、大地も、風も、雨も、みなそれぞれに違う神の法則のもとに動いているのです。




 

   『地球を癒す人のハンドブック』 西園寺昌美



  

人はなぜ、海に惹かれるのでしょうか?


 

私たちは海へ出掛け、波の音を聞くと安らぎを覚えます。 人はなぜ海に惹かれるのでしょうか。

 

それは海が私たちに生命の波動、宇宙根源の響きを思い出させてくれるからです。

寄せては返す波の音は、宇宙の響きそのものを伝えています。

私たちがすっかり忘れ去っていた、しかし心の奥では求めつづけていた響きがそこにあるのです。

波は自然の動きそのもので、人工的なものは一切加えられていません。

海自体が自然のエネルギーそのものであり、そのエネルギーが波の動きや音となって私たちに伝わってくるのです。

そのリズムは私たちの肉体の中にも存在しています。

今日、ほとんどの人が、多くのストレスや心配事を抱えて生きています。

その中で心や体のバランスを保ってゆくのは容易なことではありません。

もし、私たちが自分たちの力だけで傷ついた肉体や心を癒そうとすれば、それこそ途方もない努力を積み重ねなければならないでしょう。

しかしそんな時、海に行けば、海は人々をその胸に抱き取り、宇宙が奏でる調和の響きに戻してくれます。

それが海の持つ役目の一つであるのです。

たとえるなら私たちは大海の一滴。 大宇宙の営みの中に一つの生命です。

どんな一滴でも海より生じ海に還るように、人もまた宇宙より生じ宇宙に還ります。

そう考えると、今の人類は宇宙と一つであるという感覚を失ったまま生きているといえます。

宇宙の律動を忘れ去ってしまったのです。

でも、波の音を聞くだけで人は心の故郷に帰ることが出来ます。

心の故郷、それは宇宙の律動、そして神の響きそのものなのです。

人は波の音を通してそれを思い出すのです。

私は宇宙の一員、神から分かれた生命だったのだと。

宇宙にはさまざまな波動が流れています。

しかし、宇宙本来の根源の波動は平和と調和に満ちたものです。

そして、この世のいろいろな宗教がその宇宙根源の波動を伝えようとしています。

たとえばキリスト教の聖書には 「太初に言(ことば)あり」 というくだりがありますが、この言とは宇宙根源の波動のことです。

アメリカインディアンの教えの中にも同じものがあり、彼らの打つ太鼓のリズムにその響きを感じ取ることが出来ます。

    『地球を癒す人のハンドブック』 西園寺昌美



   


守護霊の援護がないと人間は救われないようになっているのです!



努力することは大切だし、尊いことだけれど、それをしたからと言って報われることは少ないのです。

それは目に見える力しか働かないからです。

肉体人間の親は、子が良くなって欲しい、幸せになって欲しいと願います。

しかし、肉体人間の力ではどうしようもないことがあるのです。

だからみんな神頼み、仏さま頼みをしに神社仏閣に行く

だがしかし、そんなところに行くよりも、もっと身近にいて、24時間プラスアルファで守りつづけて下さっている、守護霊様、守護神様に助けていただく方が正解なのです。

一刻も早く守護霊様のコンセプト(構想)を聴き、みなさんが守護霊様、守護神様と三位一体となってこの厳しい3次元を乗り越えて行かれることを祈ります。

守護霊様は一体、孫である私たちに何を知ってもらおうと思っておられるのか?

それを知ることが一番だと思います。

『守護霊、守護神に代わってあなたに語る』   西園寺昌美


1、 私は日頃あなたが思っていること、考えていることそのすべてを把握し、そしてその希望をすべて成就させるよう願っている。

決してあなた一人だけの望みではない。

あなたの望みは常に私の望みなのだ。





2、 自己の希望を実現しえないで人生を終わってしまう人の何と多いことか。
 
彼らは私の存在を少しも認めようとはしなかった。
 
私はどんな時でさえも常に彼らの側にあり、彼らの望みを達成し得んが為に彼らを見守り導いてきたつもりでいる。
 
希望の成就は肉体個人一人で出来るものではない。
 
常に守護霊、守護神と共に歩んでこそ成就する路なのだ。
 
それが真実の人生の路なのだ。

   


3、 出来うる限り明るく陽気に振るまいなさい。





4、 私はあなたがいかなることをしようとも、決してあなたに罰を与えない。
 
私はただ、すべてを許すのみである。

そしてあなたのその罰を私が代わりにしょってあげているのである。
 
その代わりあなたは “消えてゆく姿で世界平和の祈り” を繰り返し繰り返し祈ればよい。

自分自身を深く信じなさい。

 


 

5、 私はあなたにあえていいたい。
 
出来る限り明るい言葉や思いやり深い優しい言葉を常に、極力心がけて努力して使うようにし、光明思想の本を一日一回は読み、人の心を感動させるようなニュースを聞き、人と語り合う時には人の心を豊かに楽しませるような話題をあえて選び、明るいことのみを語るようにしてほしい。

そして暗いニュース避け、病気の話や人の不幸の話は出来るだけ口にしないことである。



 

6、 羨望の心が湧くのも致しかたない。
 
嫉妬心にもだえるのもまたこれ仕方がないではないか。
 
そして人の幸福を妬み人の不幸を心ならずも喜ぶのもまた致しかたない。
 
人の心は感情によって左右されるものであるから、感情を無くさない限りこのようなことはすべて人の心の中に起こり得る現象である。
 
この世は物質肉体の世界、完全なる霊なる世界と違って不自由な束縛ある世界、よくないことだと充分にわかっていながら、正しいことではないと充分に理解していながら、神から反している行為だと充分に納得していながら、やはり現れてくるのが現実なのである。
 
おさえる必要はない、出すだけ出すがよい。

だが、出来るだけ人に迷惑がかからないように出してゆくのだ。
 
相手にまともにぶつからず、声を出して私にぶつけなさい、私にどなりなさい、私に非難をあびせかけるがよい。
 
私はあなたの心が充分にわかるだけに、あなたが愛しくて可哀相でならない。
 
私の大きな翼であなたを包んであげよう。
 
癒してあげよう。
 
心の中にある鬱憤をすべて私に吐きすてるのだ。
 
私が聞いてあげよう。
 
私が代わって祈ってあげよう。
 
あなたがあなた自身で祈れる時がくるまでは。

 偽善者 になるよりはよほどよい。






7、 不調和な状態を一刻も早く自分の心の中から一掃せよ。

 



8、 あなたの内部の奥にじっとひそんで隠されている部分、秘密、嘘、葛藤、情欲・・・・それらのすべてを私は知っている。

私の前には何の隠しだても無用である。

ただ裸になることだ。

私にとっては肉体人間の弱さなどは百も承知の上だ。

だからこそ私というものが必要なのだ。

私の支えを必要とするのだ。

朝な夕なに私の名を呼びなさい。




9、 大自然の修復作用が発揮出来るよう大自然に代わって祈れ。




10、 あなたの希望を実現する場合、まだこの世の中に何の手ががりも見出せず、皆目何も無いところから全く新しい希望、この世に打ち出すそのきっかけを創造(つく)り出すのは、いうまでもないこの私である。
  
常に私の存在を忘れず私の名を呼びなさい。守護霊、守護神同士でお互いに交流し合うからである。


 

11、

人の悪を聞くために耳があるのではない。
 
人の悪を語るために口があるのではない。

人の悪しき姿を見るために目がついているのではない。

 



12、相手を解放してあげると自己の束縛から解放される。

 


13、

すべてを見知っている私の前ですら未だ嘘、偽りでもって自分を覆いつくし、隠しだてをするつもりでいるのか。

情けない。

私はすべてを許そうと思っているのに。

私は(宇宙の法則)から絶対なる権限を与えられている。

あなたのすべてをゆるし、あなたのすべてを愛するのが私の働きである。





14、

あなたが私から離れてどこへ逃げようとも、隠れようとも、またどんな罵詈雑言(ばりぞうごん)をあびせかけようとも、それでもなお私は常にあなたの側を離れず、怪我がないよう、苦しまないよう、痛まないよう、見守りつづけているだけである。
 
私はあなたに嫌われていても、それでも尚あなたが愛(いと)しいし、愛しつづけているのである。





15、 私は肉体を持ちあわせていないので常にあなたの内部に働きかけ、内部の力を増し、調わせ、そのエネルギーを外界に現わし、そして出来るだけあなたの思うようになるよう、成就するよういたらしめているのである。

 

 

16、

私はあなたが暗く沈んでいる時、今まで以上に強い希望の光を投げかけている。
 
あなたが自分自身を傷つけ悲しみに浸っている時、すべては許されるのだという真理の光を送り、あなたに語りかけているのだ。
 
そして私の慈愛の光によって次第にあなたが真理に目覚めはじめ、その暗く果てしない入り組んだ道から脱け出してゆくあなたを見た時、私はあなた以上に天の神に感謝しているのだ。


 

17、

私は常にあなたに真理を語りつづけている。
 
あなたの心が全智全能の創造主と同じような強い力を握っているのだということを。
 
あなたは自分の心で、自分自身を幸せにも不幸せにもすることが出来るのだということを。
 
自分自身を、傷つけ暗く悲しいものだと思ったら、その通りの人生が展開されてゆくであろうということを。

そして自分自身を神の分け生命として認め、明るく大いなる希望をもってゆくならば、またその通りの人生が展開されてゆくであろうということを。
 
心はすべてのすべてである。
 
なぜならば、心は自分自身の運命の支配者であるからだ。



 

18、

私はあなたがいかなる苦悩、いかなる悲哀、いかなる絶望にあろうとも、必ずあなたを幸せにしようと心をくだいて見守りつづけているのである。

私の働きはあなたの真の幸せに導くこと以外の何ものでもない。


 


19、

 
私はあなたにお願いがある。この世は物質的肉体がすべてではなく、本来霊なる世界の写し世である、という事実を自覚してほしいのである。
 
霊的自我に目覚めたその時から、もはや何ものにもしばられぬ自由自在なる世界が、あなたの目の前に展けてくるのである。

それは無限の可能性を秘め、自分の思う通りになる世界となるのである。

 

 

20、

あなたは常に幸せを願うのだ。
 
あなたは常に神の無限なる能力を信ずるのだ。
 
あなたは常に調和を愛するのだ。
 
私はあなたのその望みにむかって全精力を傾けて、その実現のためにわがエネルギーをフルにあなたの心の中に注ぎこんでいるのだ。
 
だが、あなたの望みが常に暗く悲しく絶望的であるならば、その方向にむかってわがエネルギーを注ぎ込むことは、不可能である。
 
あなたの考えが明るく積極的な希望に満ち溢れたものに変わるよう、エネルギーを注ぎこむのであるが、そのエネルギーの消費量は並大抵ではない。
 
もともと+(プラス)の考え方を更に+(プラス)の方向に導き、この世に実現可能にせしめることは、宇宙の法則通りに実に簡単で無駄なエネルギーを消失しないものであるが、-(マイナス)の思考を+(プラス)に方向転換させることは、前者の何万倍ものエネルギーが消失されるものである。
 
 
常にあなたの考えを+(プラス)の方向に向けて生きて下さい。



 
 

21、

頭のよくない人ほど中途半端な聞きかじりをし、自分の知識をひけらかしたがるものである。

頭がよくないから善悪の批判力が無くすべて受動的に自分に吸収してしまうため、その人の潜在意識の奥にすべてそれらの中途半端な知識は溜めこまれてしまう。
 
さて、本人が病気になったり、挫折したり、失敗したりした時、これらの中途半端な知識が次から次へと頭を擡げ(もたげ)はじめ、自分自身の下らない知識で自分自身をがんじがらめにしばりつけ、また、自分自身の暗い思考力で自分自身を暗示にかけてしまい、どうしようもなく救われがたき状態においこんでいってしまうのである。
 
浅はかというより他にいいようがない。
 
知識ならどんなものでも入れていいというものではない。
 
本来ならば自分の心が勇気づけられ、希望に満ち溢れ、生きることの幸せが鼓舞(こぶ)されるような知識なら徹底的に入れこめよ。


自分の心を暗く不安恐怖に陥らせる知識は意識して取り払うべきである。



 
 

22、

“自分だけ悟ればそれでよい” という考え方は多分に利己的なわがままな生き方である。

これを出来るだけよい意味にとるとすると、人に真理を押しつけがましくするのは、たとえその教えがどんなに素晴らしくても、そこで必ず人の自由を縛りつけてしまうものであるから、よくないということであろう。

だが神のみ心からみたならば、真理を一人でも二人でも出来るだけ多くの人達に知らしめた方が積極的な善なる徳のある生き方なのである。

また何回も何回も重ねて自分の口を通して真理を語るということは、逆に、更に自分自身の潜在意識の中に改めて真理を吹きこむ形となり、自分の信念がまたここで更に強固に絶対的なものとなってゆくのである。

真理は何度も何度も繰り返し繰り返し語れば語るほどよい。

 

 

23、


旧き自己を捨て新しき自己に 蘇(よみがえ)るのが世界平和の祈りである。


どうにもならない自分をしっかりそのままつかんでしまった上、私はこんなにも悪い人間ですといわんばかりに、自分の悪を強調しても、誰も救われはしない。

むしろどうにもならない自分を一旦神の中に捨ててしまって、すべてを神の中に投げ入れていまうと、宇宙の法則にのっとった生き方が示されはじめる。




24、

あなたの長い間にわたる苦しみは私にはわかっている。
 
あなたの悲しみや痛みも私にはすべてわかっている。
 
そして更に今あなたの上に投げかけられている不安恐怖、今のあなたの立場ではどうしようもないのもわかっている。
 
私はいつでもあなたの心の叫びを聞き、訴えを聞き、その問題解決が一刻も早からんことを願い奔走しているのである。
 
だがあなたはこの私の心を知ってか知らないでか、常に自分自身の肉体の力でのりこえようともがいている。
 
だがよく聞いて欲しい、もはや肉体界でトラブルが現われはじめたということは、もう何年も、いや何千年も前に幽界で現れていたことを。

幽界で浄めることが全くできなかったが為に、この肉体界に現れはじめたのであるということを。

そのためにはまず幽界を浄め去るのが先決である。

それが出来るのはこの私である。

霊なる力で、霊なる光で、幽界を浄めれば、自ずと肉体界のすべてのトラブルは自然に解決されるものである。

私に頼りなさい。私を信じなさい。あなたが夢をみているその時ですら、私は闇を光に変える働きをあなたの為にしているのです。

あなたはあなた一人で生くるに非ず、私の生命と共にあって生くるなり。


 
25、

今あるとるにたらない小さな小さな幸福にさえも、神の与え給いしごほうびだとして感謝せよ。





26、

私は “神の子” であるという徹底的なる自覚がいかなる災いからもあなたを防ぎ、いかなる不幸からもあなたを脱出させる。
 
災いにも不幸にも絶対に波長が合わないからだ。







27、 私に徹底的に素直たれ。






   

『富士宣言』を世界中に広めましょう!

【富士宣言】

神聖なる精神の復活とすべての生命が

一つにつながる文明へ向けて

地球人類の文明は新たな進化の段階を迎えつつある。

様々な危機的状況により、世界中で混乱や不安が絶えない今、私たちは考え方や生き方の根本的な変革を迫られている。

絶滅に向けて危機の深みに陥ってゆくのか、それともすべてのものが生かされる尊厳ある世界を切り開いてゆくのか、今こそ一人一人の選択と決断に委ねられている。

これまで人類は、主として唯物的な意識に導かれてきた。

欠乏を恐れ、必要以上に物質を求めて奪い合い、地球の自然資源を枯渇させてきた。

このまま人間の願望が有限な物質の追求にのみ向けられ続けたならば、世界が破滅に至ることは不可避である。

<人間の本質とは何なのか>

人類が賢明な選択によって明るい未来へと方向転換するには、生命に関する根本的な問題に立ち返らなければならない。

一人一人が真剣に人間の本質を問い、明確な答えを見出さなければならない。

世界の偉大な宗教や思想は、私たちの生命が宇宙の源と密接につながっていることを語り継いできた。

最先端の物理科学と生命科学においても、この古くからの洞察が見直されつつある。

人は自らの生命と自然や宇宙とのつながりを再発見することにより、多様性を持ちながらすべてが統一と調和へと向かう宇宙の流れに沿った生き方が可能となる。

神聖なる精神を呼び覚まし、自らに内在する愛、思いやり、英知、喜びといった善なる心を顕現し、輝かしい生き方ができるのである。今こそ、一人一人が魂の中の神聖なる生命を復活させる時である。

<私たちが存在する目的は何なのか>

私たちは地球人類にとって重大な移行期に生を受け、平和に向けて大きく前進する可能性を与えられている。

この地上に真の平和を築くことこそ、私たちすべての人間の究極の目的である。

そしてそれは個々人の生き方、あり方を通して達成できるのである。

自らの責任において意識的に生きることにより、人は誰でも生まれ持った自由と能力を使い、自分の運命と世界の未来を創り上げることができるのである。

私たちが成すべきことは、人間の精神の持つ力を最大限に発揮し、人類家族と地上のすべての生命のために奉仕する、思いやりと尊厳ある世界を共に創ることである。

<新しい文明に向けて>

科学者、芸術家、政治家、実業家など、様々な分野の人々が今こそ力を合わせ、歴史的な転換を引き起こすための確固たる基礎を築くことが急務である。

あらゆる人々が勇気ある先駆者となり、個人・文化・国家の利害や専門分野の枠をこえ、全人類のためにその英知と魂と意思を結集すべき時が来たのである。

そうすることにより、今日の持続不可能な世界を支配している固定観念や時代遅れな行動様式を覆し、未来世代のために調和と繁栄の文明を設計することができるのである。

<新しい文明のパラダイム>

新しい文明のパラダイムとなるのは、すべては多様性の中で一つにつながっているという価値観である。

身体の無数の細胞や器官が相互につながり、調和して働くことにより生命を維持しているように、生あるものはすべて地球が奏でる生命交響曲の本質的な一部である。

宇宙は多様性と統一性を併せ持ちながら生きているのである。

私たちはその一部であることをはっきり認識して、人間同士、そして自然との共創的なつながりの中で進化を遂げてゆくのである。

<一人一人の宣言>

私たちは未来世代に対して、責任ある個として、

・人間の本質である神聖なる精神と善なる心を復活させ、自らの上に顕現すること。

・地球上に真の平和を築くという人類共通の使命を、自らの生き方と行動を通して果たしてゆくこと。

・生きとし生けるものは多様でありながら一つにつながっていることを認識し、すべての生命を尊重しいきいきと活かすこと。

・人間の精神の限りない創造性を発揮し、経済、科学、医療、政治、教育、宗教、芸術、メディア等あらゆる分野に必要な変容をもたらすために尽力すること。

・調和した精神文明を実現するために、一人一人が内在する素晴らしさを顕現し、人類の進化に向けた大きな一歩を共に踏み出すことを、ここに宣言するものである。

※『「富士宣言」事務局からのお知らせ』を、ご紹介いたします。


http://fujideclaration.org/ja/spread-the-word/



  
  

霊力と霊能力の違いについて教えてください

霊力と霊能力とを間違える人がいますが、人の心がわかったり、当てものをしたり、運命の予言をしたりするのを、霊力と解釈していますけれど、それは霊能力なのです。

一つの能力なのです。

霊能力がすぐれている人が人格が高いかというと、そうでないのです。

ところが霊力のすぐれた人は人格が高いのです。

霊力というのはいいかえれば、霊の光、根源の光です。

神のみ心の光が強い人がやっぱり人格が高いのです。

たとえあてものをしたりすることがうまくたって、それが偉いということにはならない。

そんじょそこらの行者はみんな当てものがうまいですよ。

財布の中にいくら持っているか、なんてチャンとわかるんです。

なぜわかるかというと、肉体波動のそばにいる幽界の生物が、幽界と肉体界と波動が近いから、透して見えるのです。

ところがズーッと高い所にいる神さまは、わざわざそんな低い所を見ない。

その人がいかに生きるべきか、どうしたらその人を立派に出来るかということを見るわけです。

わざわざ降りれば見えますよ。

けれどそんなことは必要ないから、高いところからその人に光を当ててやる。

そしてその人に力をつけてやる。

ところが低級の霊能者というのは、力をつけてあげるのではなく、その人に出来ないことをチョコチョコと教えて、相手を屈服させて、自分の支配下におく、子分にしているのです。

霊力が強くて、霊能力の素晴らしい人もあります。

霊力が強くても当てものなどわからない人もあります。

ですからこういうことがいえるのです。

信者が一杯いる教祖があながち偉いとはいえない。

普通の人でいい影響を社会的に或いは周囲に与えている人がいます。

その人は霊力があるわけです。

霊力というのは要するに人格の立派なということで、そういう人が偉いのです。

いくら当てものがうまく、これをこうやれば儲かるといって当たって儲かったとしても、それを教えた人は神さまでもなんでもない、偉いのでもない、勿論そういう当てもののようなことが出来て偉い人があります。

祈りつづけていて、霊能力が出て、人の心が分かったり、予感、予知力が出来たりする人があるとします。

そうした神秘力が得られたといって、いばってしまってはだめなのです。

そういうことではない。

人間の立派さというのは何かというと、人格が立派になることなのです。

いつもいいますが、おのずから和んでくる。

おのずから人の心が優しくなってくる。

その人と一緒にいると、おのずから勇気が湧いてくる。

何か親しい懐かしい気持ちが出てくる。

そういう力を持つことが霊力が強いということなのです。

人に与える好影響が強ければ強い程霊力が強いんです。

「お前の息子さん、三年先に大病するよ、気をつけろ」 といわれて、二年たった、あと一年だ、どうしようどうしようと私にききにくる人が随分います。

これはいい影響を与えていません。

三年間脅しつづけたんだから、悪い影響しか与えません。

わかっていたって、いわないで知らん顔していて、しらないうちに霊力で光を与えていて、大病でなくなるようにやっておいて、やがて現われた時に救ってあげる、という人のほう

がいちいち予言して、おどかして自分の力を示そうなんていう人より、ずっと立派ですね。

「神と人間」(五井昌久著 白光出版)には簡単に書いてありますけれど、

よくわかるように書いてあります。

皆さんは霊能力のある人よりも、霊力の立派な人格のすぐれた人になることです。

人格がすぐれていると同時に、霊能力があればそれに越したことはないのです。

それを間違えてはいけない。

だから霊能力だけを磨こうとして、統一などしてはいけない。

人格を立派にするために祈るわけです。

人格が立派というのはどういうことかというと、愛が深いこと、調和した人間であること、勇気があること、簡単にいったらそういうことです。

そうなるように全力をもって近づかなければいけませんね。

 

 

 「質問ありませんか?」 五井昌久 白光出版



 



ほんものとにせものを区別する方法




ほんものとにせものを区別する法

 

やたらに人を信じてよいというものではない。

やたらに人のいう通りに行動してよいというものでもない。

相手の本心と業想念をよく区別して、相手の業想念のなかにひきずりこまれてしまってはいけない。

そうした本心と業想念の区別をつける最もよい方法は、先祖の悟った霊である守護霊さんと、その上にいて常に守護霊に光を送っている守護神さんにつねに感謝の心を送っていると、守護の神霊の側から、その人の心にむけて、その区別を直感的にか、他の人を介して必ず知らせてくれるものである。

もしそれでもだまされたり、ひっかかったりする時は、それこそ過去世からのその人との業因縁がそこで消え去っていったもので、それも、自己の本心を輝かすために必要なことであったのだ、と思い、世界平和の祈りを祈りつづけることである。

 

      「日々の祈り」 五井昌久 白光出版



感想

もしそれでもだまされたり、ひっかかったりする時は、それこそ過去世からのその人との業因縁がそこで消え去っていったもので、それも、自己の本心を輝かすために必要なことであったのだ、と思い、世界平和の祈りを祈りつづけることである。
 


のところは多分ほとんどの人が、納得できないのだと思うのです。

守護霊守護神さまに頼んでいれば、騙されずに済むはずなのに、なんで助けてくれないことがあるのか?

理屈が通りませんよね。

それは、過去世で自分が相手を散々騙してきた場合は、いくら守護霊守護神さんでもかばい切れないのです。(仏教では因果応報という)

この世は、あの世で自分がやってきたことへの清算が行われているんだ。

今自分がされていることは、すべて自分がやっていたことが返ってきているのだ。

ということです。

例えば、今、旦那さんに泣かされている妻がいるとします。

観ていると可哀想ですね。

なんでそこまでやられなければならないのか?

なんの罪もないのに・・・・

と。

しかし今やられているということは、前世でやっていた側だったのです。

それを相手の魂が覚えていて、仕返し?をして来ている。

そして、奥さんは案外と相手のことを恨んでいないのです。

まるで自分が過去世でしていたことを覚えていたかのように・・・・。

守護霊守護神にお願いしていると自分のやっていたことの百分の一、千分の一になるのです。(祈っていない人でも随分おまけをしてもらっているのです)

それでも消せない分は自分で受けるしかない。

本当はそれくらいで済んでありがとうございます。

なのですが、人間はちょっとでも自分に不都合な事があると、相手を恨み、自分の運命を嘆き、神も仏もあるものか!と神さままでも恨んでしまう。

まったく肉体人間というものは勝手なものだと思うのです。(真理を勉強していると)

それよりも

「この人は信用していいものか?」

「あやしい人なのか?」

は大概の場合、守護霊さんがメッセージ(人を介してもある)で知らせてくれるのだ

と思えばいいのです。

なんと有り難いことか!

 

   

意識がどこにあるのか?が大切です

意識って大切なことはわかっています。

しかし具体的にどこに意識を持っていけばよいのか?

その一番肝心なことがわかっていません!

意識が常に神様のおられる神界にいたのなら

宇宙法則に乗り、すべてがパーフェクトになってゆくのです。

そして常に至福感を得られることになります。

(『日々の祈り』 五井昌久著 高橋英雄編 白光出版)

 人間は肉体の他に幽体とか霊体とか神体とかいう体をもっていて、想念波動が常にどの体の中に一番多くの時間を巡っているかということによって、その人の人格が定まり、運命が定まってくるのであります。

 その人の想念波動が常に神体の中を巡っている人は、高い人格者であり、神人合一の境地のいわゆる霊覚者にもなり得るのです。

そこで、いつでも守護霊守護神さんに感謝を捧げつつ、世界平和の祈りをしていなさい、と私は教えているのです。

いつでも守護の神霊の加護に感謝の想いを向けていれば、その人の想念はいつも霊界神界に往っていて、肉体界に神界霊界の光明波動を導き入れ易くなってくるわけです。

ですからその人の人格は自然と高くなってくるし、その人の運命もよくなってくるのです。

守護霊様ありがとうございます
守護神様ありがとうございます
 

世界人類が平和でありますように


 

 

2017年3月24日 (金)

おかしな霊に取り憑かれないためにも幽界のことを知っておきましょう


 
雰囲気はなにかというと、その人の肉体にくっついている幽体というものが
感じられるということです。

オーラと言ったほうがわかりやすいでしょうか

肉体は目に見えるけれども幽体は肉体よりも波動が細かいので見えないのです。

私たちは目に見える肉体や肉体界のことはまだ認識出来ていますが、非常に影響を受けている幽体、幽界についてはまったくの無知であり無頓着なのです。

学校でも教えてくれない、親も知らない

・・・・・・・

私もまったく知りませんでした。

私は、幽体や幽界が見えるわけではありませんが、真理を学んでいくうちに自然と知ることとなりました

頭で理解することで腑に落ちることがあります。

「そうかそんな世界があるんだ」

「だからあのときそうだったんだ」

「少し気をつけた方がいいな」

それくらいでいいと思うのです。

しかしまったく知らなかったら闇の中を灯りもなしに歩くのと同じです。

昔は、霊的な人が周りに何人か居て、その人の話を怖がりながら聞くうちに不思議な世界の存在を知り、恐れたものです。

だから

昔は、むやみやたらに神社仏閣、お墓などに行かなかったように思うのです。

荒れた神社やお寺などは、妖気が漂っています。

幽界のオバケちゃんの棲家(すみか)になっているのです。

無意識に近づくと取り憑かれることもあるのです。

取り憑かれると幽界の動物霊、感情霊たちにコントロールされてしまいます。

一生を棒に振るようなことにもなりかねません

そうならないようにするには、どうしたらいいか?は、以下の文章に書いてあります。

私たちはいつまでも真理に対して無知ではいけない

そして、真理ではないですが、幽界などみえない世界にも少しは精通しておく必要が

あると思うのであります。

 


俗に、キツネとかタヌキとが憑くといわれているが事実あるこでしょうか。



答 


狐、狸といっても、動物の狐狸のことをいうのではないので、幽界に住む、感情霊、動物霊ともいう、霊魂のことなのである。


医学でいう精神病や、行者の一部には、こうした感情霊に憑依されている場合がたくさんある。


神詣りばかりしている人が、突然、種々の予言をするようになったりすることがあるが、この場合にも、この感情霊の作用が多い。


この感情霊は、霊と普通にいわれているが、実は魂(因縁の波の集り)つまり、迷いの念の波の中に生まれたもので、迷いの念の一つの現われともいえる。


すべて、興味本意、感情本意に行動していて、人間のように、愛(神)を内部に持っている霊魂ではないのである。


従って、人間の本体(本性)とは、まるで違った生物なのである。


いいかえれば、人間にとって一番大事な心、愛と知性を取り除いた、その他の念(おも)いでできているものである、といっても間違いではない。


人間の中にも、愛も知性もなく、利害や、感情のみで、敵になったり、味方になったり、やたら褒めたり、けなりしたりする徒輩(やから)があるが、こうした人たちは、人間というよりは、動物霊に近いというべきで、こうした念の人が、幽界に行くと、今度は、これらの動物霊と、一つになって、迷信家や、低い念の行者に憑依して、肉体の人間を面白半分に迷わせるのである。


形の世界は、すべて、想いが写ってできているので、狐のような想いは、そのような形に、蛇のような想いは、蛇のような形に霊眼に見えたりするのである。(心霊家や、研究家の一部では、天狗、狐、狸などを、自然霊と呼んでいるが、私はただたんに感情霊と呼んでおく。何故ならば、私の説明は自然霊と呼ぶ広範囲の説明ではないからである)



こうした感情霊の憑依を受けぬためには、私の最も主張する、守護霊、守護神への感謝と、愛と真心の行動をしていればよいので、いたずらに奇を好み、霊力を欲するような態度は、厳に戒むべきである。



懸命に信仰をしているように、自分も思い、人にも思われていながら、不幸が絶えぬ人や、信仰していることが、かえって家庭の調和を乱している人や、信仰しているその信仰のしかたや、日常の行動が、奇矯に流れているようでは、その信仰のしかたのどこか誤りがあるので、そうした家庭には憑依霊作用が多いのである。



興味本位の神廻りや、ご利益本位の信仰は、実に危ない気がするのである。


まず、よく自己の本心を顧みて、一生はおろか、神と真に一体になるまで、導いてくれる良い師に出会うよう、守護霊、守護神に祈るべきである。


守護霊は、自己と全く一つの者であるともいえるので、心の中で、常に守護霊、守護神を念じていれば、必ず、その人を邪道から引き出してくれるのである。


そうした心で、入った信仰や、集まりなら、たとえ、その入会の動機が、ご利益からであっても、ついには、真の浄まりにまで、その人を高めてくれるに違いない。


そうなれば、憑依霊の心配は勿論ないのである。




 

    『神と人間』  問答篇 五井昌久

想いは時空を超え、物質化現象を引き起こす



自分の心の中にある人のことが浮かんで来ることがあります。

私がいつも不思議だったのは、これは相手の人が自分のことを想っていてその想いが私に伝わって来たものなのか?

それとも私の潜在意識の中にその人がいてそれが浮かびあがってきたものなのか?

昔から、“くしゃみをすると誰かが自分を噂している” と言われています。

それは人間の想念とは、つながっていることを言っているのですが

ならば、自分の想念が相手の人にどう影響しているのか?

そして人類全体にもどう影響していくのか?

そのことについて、もっと知る必要があるように思うのです。

以前書いた日記で、目にみえないエネルギーは消えないでその残像は生き続ける、影響を与えつづけると書きました。

今回も西園寺昌美先生がそのことについてわかりやすく述べてくださっています。



 


想いは時間、空間を超え物質化現象を引き起こす
 



想念波動の生きものは、実際に起こらなかったことでも、あたかも起きたかのような、不思議な現象を引き起こすことがある。

例えば、ある母親が、遠くアメリカに住む娘に会いたいと強く思ったとする。

その想いは時間、空間を超えて、あたかも自分がアメリカに居り、娘に会っているかのような想念形体の像をつくり上げてしまうのである。


この状況を、霊能者や透視能力を持っている人が見ると、そこに本当にその人が存在しているように見えてしまう。

これは、この母親が、自らの想念形態を物質化するほどの強い念力を、持っていたということの証である。

また、同時に、宇宙空間に存在する種々さまざまなる物質(元素)を、自らのつくり上げた想念形態に集中的に引きつけたとも言えるのである。

このように、「娘に会いたい」 という強い念が高じると、それは一気に濃縮され、霊能者や透視者に見えてしまうほどの像を、時間、空間を超えてつくり上げてしまうのである。

この時、普段は決して使われない肉体エネルギーが大量に放出され、使い果されているのである。

かつまた、娘の側にあっては、普段母のことなど思い出さないのに、突然心の中に胸騒ぎのような感覚を覚え、急に母のことが気になるのである。

これもまた、母より放たれた 「娘に会いたい」 という想念エネルギーの影響である。

その想いの生きものは、母親の意識を離れ、宇宙空間に浮遊するたくさんの資質(元素)を引きつけながら、娘に自分の像を届ける。

その結果、母が実際にはそこに居なくても、娘の心の中に母が会いに来たような、不思議な感覚を生じさせるのである。

このようにして、想念は時間、空間を超えて、はるか遠くにいる人にも、届けることが出来るのである。

この母親の場合、普段は気にならない娘のことが急に案じられ、心配や不安の念に駆られ、どうしようもなく会いたいという衝動に駆り立てられたのであるが、その強い感情想念は娘のところに飛んでゆき、彼女のオーラに作用して、彼女のことを何らかの危機から守護してあげたのである。

それはどういうことかというと、母の直観が、そして強い愛が近い将来娘の身に降り掛かるであろう誘惑や危険から見事に娘を守り、無事その場を脱け出せるよう導いたのである。

こうした強い愛、そして直観ほど、素晴らしい偉力を発揮するものはない。

また、その母が祈りや印を行じていたならば、まさにその数千倍、数万倍を上回るほど強力な宇宙神のエネルギーが加わり、この母の愛念は、娘の守護霊のような役割りを果たし、それに力を与え、持続させてゆくのである。

だが、反対に、母の情の念が極度の心配や不安や恐れの強いものだとすると、娘に届く念波も、否定的な念波となってしまうため、娘も母と同じように、心配や不安や恐れを抱いてしまい、却って光明的な解決が為されにくくなってしまうのである。

そして、その心配や取り越し苦労、不安や恐れの念は、二人の心をますます大きく占めてゆき、とうとう自分自身でも抑えきれない、治められないほどの力となって、二人の前に立ちふさがってくるのである。


この場合、真理を知っているならば即、自らの否定的想念を光明に転換することが出来るのである。


だが、真理を知らない人々は、自らがつくり上げた不安や恐れの念に巻き込まれ、飲み込まれてゆき、ついには母も娘も本来ならば遭わなくてすんだはずの事件や出来事に衝きあたってしまうのである。

想念は生きているのである。

生きているからこそ、その思った通り、心配した通り、恐れを抱いた通りの現実を起してしまうのである。

しかし、いかなる敵意の念や憎しみ、怒り、報復の念が自分の身に襲いかかってこようとも、自らの心の中に、何らその想いと共鳴する波長がなければ、自分は何一つ侵されることはないのである。

ゆえに、人はみな一刻も早く真理に出会うことである。

それが、運命を善きほうへと導き、創造してゆくための原点でもある。




  
    

    「今何を信じるか?」 西園寺昌美  白光出版



  

2017年3月23日 (木)

私たち人間が生まれてきた目的は何か?

太陽系の惑星の中で、世界(宇宙)の平和を祈っていないのは、地球人だけだそうです。

進化した星の先輩?たちは地球人を「幼い兄弟たち」と呼んでいます(笑)

ズバリ!

私たちは、世界平和の祈りを祈るために生まれて来たのです。

それが95%でその他のことは、たったの5%に過ぎない。

私たちはその5%のことで四苦八苦している。

私たちは、3次元をもっと楽に悠々と過ごして行けるのです。

過ごして行けるはずなのです。


https://www.youtube.com/watch?v=3GKOTE26mGM


  

心の持ち方が大切



【五井先生のご指導】

■或る日こういう質問をした人がいた。

「先生、何故この世に迷いがあり、悪があり、苦しみがあるのでしょう。神が完全であれば、何故人間を迷わない、苦しまないように造らなかったのでしょう?」

この質問はよくされるものであるが、その時、五井先生は次のように答えられた。

「それは心の持ち方ですよ。登山者は山に登る苦しみをへて頂上にたどり着く。その喜びはそれは大変なものです。その場合、苦しみは悪いことだろうか?その人にとってただ単に苦しいことか?あるいは喜びであろうか?楽しみであろうか?

或る人がお酒を止めようと思ってもお酒を止めることが出来なかった。その人はついに病気になってしまった。それが動機となって信仰の道に入り、病気も治るし、お酒ものむなんてコリゴリだと思い、ピタリと止まり、清らかな生活に入っていった。

この場合、この人にとって病気は悪いものでしょうか?その人にとって善なるものでしょうか?その人にとってよかったわけですね。

よいからこそ守護霊さんがそう導いたわけです。赤ん坊が最初から大人のように大きかったら、育てる楽しみがなくなってしまいますね。

赤ん坊がだんだん大きく生長して、完全になっていく、というところに人生の妙味があるのだし、よいところがあるのです」

■「青年指導のキーポイントは?」という質問に、こう答えられた。

「①人間は肉体のみの存在ではなく、永遠の生命である。これに目覚めさせ、人間の真の価値を教えること。

②正義であろうとも調和が乱れたら正義ではないということ。

③愛、人を痛めない心をもつこと。

④指導者は本当に純粋であれ。

この四つでしょうね。そして青年指導をする場合には、指導一本にならなければいけないですよ」


 

愛はすべてを癒す


 

感想

私は、小学3年生まで九州の大分県のある町で過ごし、そこから父の転勤で大阪に移り、大阪の小学校に転校しました。

大分にいる頃の私の生活はなんの不満も不足もなく仲の良い友達が毎日のように私の家に遊びに来て、夕方遅くまで楽しい時を過ごしていました。

ところが大阪に拠点が移ったとたん魔のような日々が待っていたのです。

クラスメートたちによる言葉に出来ないような陰湿ないじめです。

嫌がらせは6年生の卒業式まで続き、それまで後ろの方に並んでいた背が最後の学年にはほぼ最前列になっていたのです。

精神的なことによる発達障害だったと思います。

私はいじめられる所以(ゆえん)が子ども心に

 「方言にあったのだ」 と思っていたのですが、そうではなかったのです。

随分大人になって、W先生にその頃にいじめられていたことを話すと、

「あたり前です、あなたが前世で散々その人たちを痛めつけていたからです」

と言われたとき、私の中のトラウマがスーッと消えてゆくのがわかりました。

「そうだったんだ、私が酷いことをしていたことが返ってきていたんだ」・・・・

それからしばらくして「誰が行くものか!」と頑なに拒否していた小学校の同窓会に参加することにしました。

そこに来ていた元いじめっこ達は、私を不思議そうな目で見ていたことを覚えています。

という私も喧嘩両成敗のような心境で彼らを見ていました(笑)

「逃げないでここに来て良かった」 と思いながら・・・・。








本文

 


幽界や霊界においては、その想念は直ちに現われ、その念は、すぐに自分自身にかえってくるので、どういう念が、どういう風に自分にかえるのかが体験としてわかるのであるが、それでさえも、なかなか、その業因縁の念を消すことができがたいのである。


まして非常に粗い波の体をもつ肉体世界の人間の、

しかも、その人間と相手の間にある業因縁の種類さえも知らず、ただたんに一般論の心の法則だけを利用して、指導しようとすることは実に危険なことであって、かえって相手の進化を妨げ、浄化を乱すことになるのである。

 

“人を審(さば)くなかれ”

“愛はすべてを癒す”

“神は愛なり”




私はキリストのこれらの言葉をその人びとに与えたい。


自己の功名心の満足や、知識に偏した愛薄き人びとによる人間指導ほど逆効果なものはないのである。


愛深き人のみ、人間心理の指導者たり得るのである、と私は強くいいたい。


業想念は過去世の過去世から流れつづいている波の連続である。


この五十年、六十年の肉体にのみあるものではない。


まして、各人の肉体的環境(病気や幸、不幸)がその間の二年や三年に起こした念(おもい)の現われとして、できあがったり現われたりしたものではない。


誰が見ても立派な心の人が不幸になっており、どこから見ても悪いように見える人が、人も羨む幸福を得ている例は枚挙にいとまがない。


だから簡単に人を責めたり、審(さば)いたりすることはできないのである。


人間はそれぞれ、各種各様の因縁の心を持っていて、Aの善なる生き方を、Bが必ずしも真似られるものではなく、Bが何気なくできる善行為をAがその通りにできるものでもない。



一字、一線においてさえ百人百様、千人千様なのである。


ただ、非常に似通った心の人とはなはだ異なる心を持つ人とがある。


これを想念の類似、あるいは因縁が合う、合わぬ、ということになるので、こんなためになる本をあの人は何故読まぬか、といって、その人が、自分の薦める本を読まぬ、という理由で、その人を低級視する人があるが、それは低級視するほうが間違っている。


バッハや、ベートーベンの曲は素晴らしい音楽である、と思う人が、それらの音楽に無関心で、流行歌謡に熱中している人を、ただそれだけのことで軽蔑したら、これも誤りである。
 

宗教に入って現在熱心な人であっても、その熱心さが利己心から発している人もあれば、今、宗教に無関心のように見えている人の心が純粋な愛に燃えている場合もある。


現在、形の世界に現われている言動のみでその人の真価をはかることはできない。


それ故私は、その人、その人に最も適切なる指導をしているものであるが、その指導は次に説明するような原理、法則を元としているのである。


                   

                      つづく





 『神と人間』 因縁因果を超える法 五井昌久 白光出版


追伸・・・『神と人間』の本文と感想 は連載になっています。

ご興味のある方は、2015年の12月中頃までさかのぼってご覧ください。



  

2017年3月22日 (水)

愛の波動



 
息子と全然話をしていなくて、お互いの心がどんどん離れていっていると思っていたときがありました。
 
「息子だけでなく、自分も嫌いになりかけている」

このままでいいわけがないと思いながら、なすすべもなく自暴自棄になっていました。


そんなとき、師匠である于(う)先生から

「息子さんと相撲を取ったことがありますか?」 と質問されました。

「はい、あります」

「そうですか」

とだけ、先生は答えられました。

たったそれだけの会話だったのですが

私の心の中には

「絶対に大丈夫なんだ」

という確信が芽生えたのです。

それは自分と息子とは繋がっているんだという確信です。

身体と身体をぶつけ合って、触れ合って

息子の体温を感じていた

そのときに心は通じ合っていたのです。

だからどんなことがあっても必ず大丈夫なんだ!

そのことを想い出させて私に安心を与えてくださったのです。
 

「そうか、人を癒すには多くの言葉はいらないんだ」

「自分が穏やかなやさしい波動を発していればきっと善くなっていく」

と気づかせてくれました。

今になって、それがわかるようになりました。

ありがとうございました。


  

みなさん、今しんどくないですか?



しんどいって言葉は、大阪弁なのかな?(笑)

他にいい言い廻しがないかとも思ったのですが、私にはこの 「しんどい」 が

一番しっくりとくるのです。

話は戻りますが、今日本でも地球上でもマイナスの想念エネルギーが充満しています。

とくかく無意識でいるとしんどいのです。

酸素ボンベ無しで、エベレストの頂上にいるような感じといえばいいのでしょうか?

酸欠状態です。

酸素とは愛のエネルギーです。

宇宙の無限のプラスのエネルギーです。

人間は、一ヶ月くらいなにも食べなくても生きてはいけますが

霊要素が無ければ一瞬たりとも生きてはいけないのです。

その霊要素とは、宇宙エネルギーのことです。

宇宙のエネルギーは、頭のてっぺん(百会)から入り、血管の中を通り、60兆の細胞

に力を与え、また神様の道(神経)を通って、地球の中心へと流れて行きます。

これを引力というのです。

今、宇宙からのエネルギーが人間の業(カルマ、マイナスエネルギー)によって

希薄になっているのです。(感じませんか?)

だから理屈抜きにしんどい

どうしてもネガティブになってしまう

3次元的に良いことがあっても心から喜べない

なにをしても楽しくない

それは、魂が喜んでいないからです。

霊要素がしっかりと入っていないからです。

私は、酸欠状態になったとき

必死で祈らないと

どんどんとしんどくなっていきます

溜まっていくと霊要素が入らなくなって死んでしまいます。

百会(ひゃくえ)、頭のてっぺんが煙突のように業で詰まってしまって

宇宙からのエネルギーが入らなくなると

肉体を去ることになるのです。

死ぬとはそういうことです。

私はまだ、今生(根性)ですることが残っています(笑)

今ここで死ぬ(肉体界を去る)ことは出来ないのです。

世界平和の祈りを祈ると

宇宙神と共鳴して、肉体の身体の中に宇宙のエネルギーが入って来るのが

わかるのです。

その中心となる場所とは、下丹田(かたんでん)です。

下丹田とは、へそ下3.5センチのところにあって

肉体の自己エネルギーと宇宙エネルギーが最も交わる場所です。

ここはシェルター(防空壕)にもなっていて、下丹田を意識するとマイナスの

エネルギーを受けなくなります。

その下丹田の中に小さなカプセルを作り(イメージ)、縮小させた自分を入れて

世界平和の祈りを祈るのです。

すると自分の周りで起こる様々なマイナスの現象が早く消えてゆくのです。

そして、調和した宇宙のエネルギーだけが残ることになる

ちょっと難しいですか?

でも、とてもシンプルで簡単なんです。

これが宇宙の法則です。

とにかく、一刻も早く 「しんどい」 状況から脱出してください。

姿勢を正して、下丹田に意識を集中させて、へそした3.5センチに

光りのカプセルとつくって、自分をカプセルの中に入れて(グルグル回してください)

そして

世界平和の祈りを祈る

するといろんなものが取れていきます。

マイナスのエネルギー、人類の想念エネルギー、過去世からの間違った

自分の想念行為(カルマ)・・・・・

人間はスッキリ爽やかになることが一番の幸せなのです。

これから躊躇することなく

真理について、祈り、印について述べていこうと思っています。

よろしくお付き合いください。

 

世界人類が平和でありますように

日本が平和でありますように

私たちの天命がまっとうされますように

守護霊さまありがとうございます

守護神さまありがとうございます
 

 調和波動気功法

http://www.harmony-wave.jp/

波動とはなにか?最終章

 
 
 

みなさんももう薄々お気づきだとは思うのですが地球並びに私たちの波動が細かくなってきて人々が発している波動(エネルギー)がどんなものなのかがわかるようになってきているのです。


「あっこの人は、今イライラしているな」

「この人は人の話を聞いていないな」(笑)

「嘘を言っているな」(テレビ等を観ていてわかります)

それは、大まかにいえば

なんとなく雰囲気(オーラ)でわかるということなのかもしれません。

以前だったら

誤魔化せたものだったのかもしれません。


しかし目には見えないのですが

確実にその波動は伝わって来て、識別できるようになっているのです。

本当のことが直観でわかる

ピュア(純粋)なものなのか、そうではない不純なものなのか

本物なのか、にせものなのか?

等がたくさんの人にわかるようになってきたのです。

だから本物しか認められないようになります。

嘘から出たものは気持ちが悪いのです。

本心から出たものでないと

信用されなくなるのです。

アセンションとは本物の時代が来るということなんですね。

本物の時代とは波動がわかるようになるということです。

自分が何者であるのかがはっきりとわかるということです。

何十年も前にはほとんど理解されずにいたものが

今の時代になって、波動が上昇してわかるようになってきた。

以前は、10人のうち3人の人しか理解出来なかったことが

今は10人中7人の人が真理(我即神也・人類即神也)を理解出来るようになったのだそうです。

先日、于先生はそうおっしゃっておられました。



 




宇宙子波動生命物理学から生まれた印



宇宙子波動生命物理学においては、すべての源は波動です。

しかもその波動は宇宙神の究極の波動が直接に絵図面に到達し、その波動が地球上の核に吸い込まれてゆくのです。

この絵図面こそすべての波動を創造し調和させて、今生に究極の真理、そして究極の科学をもたらすのです。

この宇宙子波動生命物理学によりますと、波動は七を中心に幾千、幾万の組み合わせにより、あらゆる波動を創造してゆくのです。

宇宙子波動生命物理学という名の通り、この究極の科学は、宇宙子という、現在、地球上で発見されている最極小の粒子(クォーク)よりもっともっと極小の存在から成り立っています。

そもそも宇宙子とは宇宙の中心(宇宙神)より発せられた直接のヴァイブレーションです。

この宇宙子波動生命物理学は、我々の生命を明らかにし、かつまた究極の真理を物理や化学の分野にまで展開してゆきます。

人間は神そのものである

“人類即神也” という究極の真理を明らかにする科学です。

人類は本来、神そのものであるため、神を全く似せられて創られているのです。

無限なる創造と無限なる自由と無限なる能力を自己の内に包含しているのです。

そしてその無限なる神の生命のひびき、ヴァイブレーションを肉体に生かし永遠の進化を遂げてゆくのです。

常に新しき進化、向上を目指して肉体そのものを神の姿に顕現してゆくのです。

それゆえ、人類全体が一人残らず神の姿を顕現する時が必ず来るのです。


そのために、宇宙子波動生命物理学では、印をいう究極の方法を教えているのであります。

印は、宇宙神の波動(ヴァイブレーション)を発します。


宇宙神のヴァイブレーションは、高く細かく微妙でパワー、エネルギーに満ち溢れたものです。


この印を組むことによって、人類は無限に神に近づいてゆくのです。

そして一個の肉体は、決して単なる一個の生命体ではなく、宇宙神と全く一つのものであり、宇宙の永遠の進化への共同体として、すべてに共鳴し影響し、無限に膨張する大宇宙の生命への一助として貢献しているのです。
 






高く広く微妙な波動の素晴らしさ



 
 
このように人類はすべて、ヴァイブレーションによって成り立っているのであります。

人類が究極の真理に目覚めれば目覚めるほど、ヴァイブレーションは高く細かく微妙になり、力強いものとなってゆきます。

そして無限に広がってゆきます。

そのため、未来を見通すことも出来れば、事故や病気を未然に防ぐことも出来ます。

さらに時間・空間を超えて、この肉体を持ったまま、どこにでも移動することも出来ます。

なぜならば、人間は究極は波動だからです。

もう少し判りやすく説明いたしますと、我々が普段使っている物の長さ、重さ、大きさ・・・・・・・等を測る単位は、粗い波動に対してのものなのです。(天文学や顕微鏡下の世界の単位は別といたします)


一センチより小さいミリの単位、そしてもっと小さいミクロン(0.001ミリ)の単位、さらに小さいオングストーム(0.0000001ミリ)の単位などがありますが、ここまで来ると、途方もなく小さく我々の頭では理解できません。

だがしかし、宇宙子波動生命物理学では実際に出てくる単位です。

数式上ではオングストームのさらに10のマイナス49乗という単位で表わされる微小な波長の波さえ存在します。

そうなりますとその波動はどこまでもどこまでも小さく微妙ですので、何でも突き抜けて浸透してしまいます。

岩も水も空気も肉体も大地も・・・・・・。

実際に我々の目に見えない、感じられない宇宙線という波動もその一部です。

実際にこの地球上で未だ発見されていないたくさんの宇宙線が我々の身体を自由自在に通り抜けています。

そのように人類一人一人のヴァイブレーションが高まり広がり微妙になれば、物事を自由自在にコントロールすることが可能になるのであります。


先ほどの窓際の花瓶の花にしても、もしこの私が高い広い微妙なヴァイブレーションを放っているとしますと、子供が入ってくる瞬間、もうこの私は花瓶に近づき、花瓶を支えて、花瓶が倒れるのを未然に防ぎます。


子供が走ってくる。

それ以前に私が立ち上がる。

子供がどこを通るかそれ以前にキャッチできる。

子供とぶつからないで、花瓶に近づいてゆく。

そして子供が通り過ぎてゆく瞬間、もうすでに私の手は花瓶を支えている。

これらの情報を一つ一つ把握することによって、未然に防ぐことが可能になるのです。

これは日常生活の当り前のことです。

もっともっと極めてゆきますと、事故も失敗も不幸も防げます。


ヴァイブレーションの粗い人は全く不可能です。

何事も予測できないからです。

事が起こったあとに行動を起こすのです。

これが人類の一般であります。

真理に目覚めていない人たちです。

これらの人々はヴァイブレーションが遅鈍なのです。

もっともっと真理を求め、自分自身を磨き高め上げる必要があります。

だからこそ、自分のことは未だ何一つ判らないので、不幸や苦悩や挫折が続くのであります。

だがしかし、毎日、世界平和の祈りを祈り、印を組みつづけておりますと、一人一人のヴァイブレーションが高く広く微妙になってゆくのです。

そして人類一人一人がもっと真理に目覚めれば、祈りで印で、天変地変も未然に防ぐことが可能になるのであります。



 
ヴァイブレーションについてはおしまいです。


     「次元上昇」 西園寺昌美 白光出版



 





 

波動とはなにか? 4

 

今、私はリビングルームのドアを開けた瞬間、窓際に花瓶に活けられた美しい花が飾ってあるのを見ます。

花瓶は色とりどりの花で一杯で、誰の目から見ても感動するくらいです。

一つ一つの花は美しく色鮮やかで、他の花々と見事に調和し、素晴らしい雰囲気を醸し出しています。

私はリビングルームのソファーに腰かけ、周りの様子を見回しながら、見るともなしに花瓶のほうに目を移します。

改めて花瓶をじっと見ると、先ほど一見した時よりはもっと正確に私の目に映し出されます。

なぜかバランスが悪いのです。

花瓶の大きさの割には花が多過ぎるのです。

さらに中心より右に花が多く入り過ぎて、右に傾き過ぎている感じがするのです。

そこへ急にドアが開いて子供が二人ふざけ合いながら走ってきました。

さぁどうなるでしょうか!

窓際の花瓶は今にも倒れそうになっています。

その際、ヴァイブレーションが粗雑で荒々しい人は、たった二つか三つの情報しか伝達されません。

花瓶が倒れた。

花々が周りに飛び散った。

花瓶が割れた。

だがしかし、ヴァイブレーションが細かく微妙であると、花瓶が倒れる以前にすでにたくさんの情報を受け取っているのです。

安定していない花と花瓶。

左ではなく右に倒れそうな感じ。

子供が窓際の花瓶までかけれゆく時間。

子供の動作。

子供が何に集中しているか・・・・・。

ヴァイブレーションが細かく微妙であるということは、すべてに余裕とゆとりを持って物事を正確に的確に把えられるということです。

そのため、事が起こる前に、余裕ともって未然に防ぐことが出来るのです。

それに反して、ヴァイブレーションが荒々しく粗雑であると物事を大まかにしか見られず、行動を起こすことに全く無頓着です。

荒々しいヴァイブレーションは、たった二つか三つの情報でしかないので、物事があっと言う間に起こってしまうのです。

すべての事柄があまりにも早く起こり過ぎます。

何をすべきか判断を下す前に、もうすでに事は終わってしまっているのです。




    
         「次元上昇」 西園寺昌美 白光出版



 

 
感想


波動が細かくなるというのは、一つの場面、出来事に対して自分のヴァイブレーション(波動)が細部に渡って入り込むことだと思うのです。

だから内容が濃くなる、深くなる。

よって相手をみる力が強くなる。

これが洞察力だと思うのです。

人と付き合っていく上でこの洞察力はとても大切なものなのです。

観察力ではない

もっと深い、相手の本心を観る力です。



 



 

 

波動とはなにか? 3

 
 

自らの波動を神域に高め上げる祈りと印


 
真理は、自分たちが意識しようがしまいが、いかなる人も皆、“我即神也” “人類即神也” そのものなのです。

そしてすべての人は絶対なる存在者として同じヴァイブレーションを共有しているのであり、無限なる愛、無限なる叡智を共有しているのであります。

故に人類はもともと、高い次元のヴァイブレーションに属しているのであり、その神域こそもっとも安定した本来あるべき人類の世界なのであります。

だがしかし、人類個々人が発しているヴァイブレーションは、それぞれの意識レベルによってみな違うのです。

自分の発しているヴァイブレーションが一体、どんなレベルなのか知っておくことも大事なことでしょう。

なぜ自分はこんなに不幸ばかりが続くのであろうか?

あるいは、なぜこのように幸せが続くのであろうか?

一番高次なるヴァイブレーションとは、高い波動であると共にエネルギー、パワーが強くて微妙なのです。

それが最も素晴らしいヴァイブレーションです。

世界平和の祈りを祈る人、または印を組んでいる人は、もちろん一番高次元レベルの強くて微妙なる波動を発しているので、今生において最良の人生を歩んでいくことが保証されます。

どんな人も自分が波動を発しますと、その波動は必ずある対象物に当たって再び戻ってきます。

低い次元のヴァイブレーション(例えば、憎しみ、嫉妬、苦しみ、痛み、不幸、不満、不完全・・・・・)を発すると、その波動は必ず対象物に当って再び自分のところへ戻ってきます。

それは法則です。

自分が常に不幸だと思っている人、悩みみが多いと信じている人、病気や悲しみが続く人は自分のヴァイブレーションが低く粗いのです。

ですから、自分のヴァイブレーションを高め上げれば、それらの否定的ヴァイブレーション(憎しみ、苦悩、不幸、悲しみ・・・・)の領域に入り込まないで済み、その結果、少しずつ自分の生活や人生が安定し善いほうへ、幸せなほうへ、楽しいほうへと導かれ、展開してゆくのです。


そのためには、自分の発するヴァイブレーションを常に高次元レベルへと高め上げる努力をしなければなりません。

その方法こそ世界平和の祈りと印です。

これをしている人々は、必ず自分のヴァイブレーションが高め上げられていっているのです。

そして自分の発するヴァイブレーションが高次元レベルの神域に達し、また再び自分のところに戻ってくる、その法則から言いますと、自分の人生は無限なる幸せ、無限なる健康、無限なる発展、無限なる生命そのものになることは間違いのない事実です。

なぜならば、神域とは神々の世界であり、神々の世界には一切の否定的姿、形、物、現象が存在せず、無限なる愛、無限なる幸せ、無限なる歓喜、無限なる健康そのものなので、当然と言えば当然なのです。






微妙な波動と粗雑な波動との違い


 

ヴァイブレーションについてもう少し詳しく説明してみましょう。

ヴァイブレーションが低いよりは高い次元のほうが勿論よいことは言わずもがなのことです。

と同時に、荒く粗雑なものよりは細かく微妙なほうがどれほどよいか計り知れません。

微妙な波動を発している人は、未然にいかなる不幸も事故も病気も最小限に防ぐことが出来ます。

あるいは、そのような現象が生じる前に、直観的に全く何事もなく防ぐことも可能なわけです。


譬えて言いますと、漫画がとてもよい例です。


ディズニーの動物アニメ(漫画)のように、常に優れた最高の作品は、観客に感動と感激をもたらしてくれます。

画面の美しさ、リアリティー、迫力、正確さ、細かい微妙なところまで行き届いた神経、観察力は傑出しています。

現実との区別がつかないくらい素晴らしいものです。

それに比べて三流、または低いレベルの映画会社が作り出す映画は、同じ動物のアニメであっても余りの違いに驚くばかりです。


ディズニーが描くアニメは、ライオンの物語にしても、そのライオンの動く動作、表情、獲物をとる時の緊張感、獲物を見つけた瞬間、目的達成のためにすべての神経、エネルギーを集中してほえながら飛びかかってゆくその雄々しい姿・・・・・・・等、一つ一つの動作が実に細かく微妙なのです。

それは一コマ一コマの描写が動作をわずかに変化させただけのものだからです。

ライオンが獲物を見つけ、獲物を目がけて一気に飛びかかってゆくその瞬間、その時の口の開く様子、口の筋肉、牙のむき出し方、口だけではなく、髭の揺れ方、鼻の周辺、目の色、輝き、目の開き具合、目の力と焦点、皺のより方・・・・・・等、ライオンの一瞬の出来事を何百コマに描きつづけるのです。

そして、その何百のコマを映写することによって、ライオンが獲物を見つけ飛びかかってゆく瞬間が実に見事に映し出され、あたかも本物そっくりのリアリティーに迫るのです。

これこそ粗い波動ではなく、細かい微妙な波動と言えます。

要するに一瞬の間にたくさんの情報(コマ)が入っているのです。

ところが引くレベルのフィルムになりますと、ライオンが飛びかかる瞬間は、二コマか三コマの動作で終りにしてしまいます。

最初の一コマはライオンが土を蹴り、宙に舞い上がる瞬間。

二つ目はライオンが大きな口を開き切っているところです。

そして三つ目はライオンがもう獲物をくわえている動作です。

これは荒々しい粗雑な波動としか言えません。

このように、二つのフィルムは、ライオンが同じ獲物をくわえるまでの動作に関して、微妙なヴァイブレーションと粗々しいヴァイブレーションとの差を示しています。

その違いに驚きを禁じ得ないのです。

微妙なヴァイブレーションには、一瞬の出来事に百コマ以上の微妙な動き、変化、権威、集中、輝き、感情、威厳、周りの風景、他との関係等の情報がたくさん盛り込まれております。


ヴァイブレーションが細かく微妙なほど現実的にすべての状況を適格に判断できるのです。


ヴァイブレーションが荒く粗雑ですと、動作のみに終り、周りの状況を把えることが出来ません。


なぜ、我々にとっても細かい微妙な波動がよいのか、もっとわかりやすいように、我々の日常生活を通して例を挙げてみましょう。




                  つづく





      
          「次元上昇」 西園寺昌美 白光出版










感想


私たちの周りには気配りの出来る人がいます。

そして気がつき過ぎる人もいる。(笑)

それは全体を観ているか、どこかに部分的に集中し過ぎているかの違いだと思うのです。

全体を観ている人は全体の調和を考える

だからその動きが自然でその後の全体の流れを善くする

しかし何かに捉われてこだわっている人は

自分中心に場面を見ているのです。

だから

「そんなことどうでもいいのに・・・・」

ということになります。

波動が細かくなるというのは

調和を保つためのものなのです。

みんなが気持ち良く過ごしていく為のものなのです。

私がしている調和波動気功法

そのものですね。(笑)

すいません

自画自賛してしまいました。わーい(嬉しい顔)



 



波動とはなにか? 2




  
自分と相手の波長が違う場合




親子であれ、夫婦であれ、兄弟姉妹であれ、いかなる関係であるにせよ、人の自由を縛ることは絶対に許されるべきことではありません。

なぜそういうことが起こるかと言いますと、もともとは自分自身が自らの存在価値を無視したり、自分の能力を否定したり、自分の崇高さや自分の尊さを見失ってしまったために生じているのです。

自分の意識レベルが低く重く鈍感で否定的であるため、相手に対しても自分と同じことを強いるのです。

なぜならば、自分の心が信頼できず不安でならないからです。

自分が他との遊離を恐れるあまり、相手を強制的に自分と同じ波長にすることによってそこに一時的にしろ安定感が生ずるのです。

このように人間は、常に自分と波長の似通っている人と関わっていないと、孤独感や挫折感、敗北感を味わい、生きてはいられないのです。

そのため、自分のヴァイブレーションと違う人に出会うと、お互いが無意識に反発し合ったり、抵抗し合ったり、拒絶し合ったりして、不安定な雰囲気や場をつくり出してゆくのであります。

昔からのことわざで “類は友を呼ぶ” “朱に交われば赤くなる” と言われておりますが、全く真理をついているのです。

人間は自分が相手と共通のヴァイブレーションを持っているのを感じて安心するのです。

そのため、異なったヴァイブレーションの人とは、なかなか親しくなれなかったり、閉鎖的になったり、オープン・マインドで接することが出来ないのです。

お互いが余りにも極端にヴァイブレーションが違った場合には無視を装います。

お互いの意識がずれて相反するばかりだからです。

人間は、自分と異なったヴァイブレーションの人といると、必ずどちらか強い人が相手のヴァイブレーションにモーションをかけて自分のレベルまで引き下げようとしたり、あるいは引き上げようとしたりします。

そして、どちらか一方が無意識に自分のエネルギーを相手に奪い取られてしまうのです。

相手も知らないうちに奪い取っているのです。

そのため、この二人の関係は緊張し、不調和な状態を生み出します。

そして奪い取ったほうは相手より優位な立場に立ち、なぜか相手に対して勝ち誇ったような態度に出るのです。

このように、お互いのヴァイブレーションによって、人間関係はいかようにも変わってゆきます。





 
ヴァイブレーションの高い人・低い人
 



ヴァイブレーションと一口に言っても様々なレベルがあります。

最も一般に判りやすく大別すると、ヴァイブレーションには 高━低、強━弱、粗━細 があります。

その他にも様々な段階、働きが存在していますが、それは専門的分野に入りますので、ここでは省きます。

ヴァイブレーションが高い人は、宇宙の他のすべての存在と一体となることが出来ます。

自らの放つヴァイブレーションを自由に上げたり下げたりして常にいかなるものにも逆らわず、すべてを在るがままに抱擁し調和させてゆくのです。

常に無限なる愛を相手に放ちつづけているのです。

ヴァイブレーションの高い人は、自分の人生の上に悪いこと、苦しむこと、不幸なこと等一切の否定的な現象が生じないのです。

いやヴァイブレーションが高いため、他のいかなる低次元レベルの否定的業想念波動を自らに引きつけないのです。


こういったレベルの人々とは、究極の真理を知り得ている人であり、世界平和の祈りを祈り、印を組みつづけている人たちであります。

彼らは皆、無意識のうちにこの高いヴァイブレーションを放出しているのです。

そして彼らはついには超意識レベルまで達し、自ら神人としての姿を顕現してゆくのです。

世界平和の祈りを祈り、印を組みつづける人たちは一人残らずこの域に達するのです。

これは五井先生によって約束されていることです。


高いヴァイブレーションを発している人々とは、常に “我即神也”“人類即神也” の究極の真理を理解し実行している人たちです。

そのため、いかなる人々に対しても差別することもなく愛をもって平等に接することが出来るのです。

なぜなら、人類はすべて神そのものであるということを知っているからです。

自分たちの目に映る人々の表面的な状態が貧乏、苦悩、失敗、不幸、病であったにせよ、彼らに対して差別や軽蔑、哀れみ等といったような特別な目で見ることは決してないのです。

また、天才、秀才、成功者、有識者といった、この世的に自分たちよりも優れた人たちであったにせよ、彼らに対してへりくだったり、おもねったり、特別に崇拝したりはしません。

現象的な差異で判断するのではなく、もっと深いところで真理そのものを基準にして見ているのです。

そのため、人類一人一人がいかなる姿形、いかなる態度で生きていても、今現われている在るがままの姿を受容し、人類即神也に至るまでのプロセスとして認識しているのです。

高次元ヴァイブレーションの人たちは低次元ヴァイブレーションの人たちよりは自由に気楽に生きています。

しかも自分たちの欲するものは次々と手に入り、欠けたるもの、不足なるものが何一つなく平安な安定した日々を送っています。

これは高次元レベルの人々の日常の生活であります。

なぜならば、彼らは自分の内にある無限なる創造力を大いに発揮し無限なる叡智、無限なる能力、無限なる直観を働かせ、自由自在に生きられるからです。

ところが低次元レベルに属する人々は自分のヴァイブレーション・レベルに必死にしがみついて生きているのです。

自分の固定観念に縛られ、自由に生きられないのです。

常に自分と気楽に付き合える仲間と共に過ごすことによって自分に安定感を求めているのです。

自分を高め上げることに対して、また、自分が変わることに対して不安を抱いているのです。

自分より高い次元に生きている人々を見ては羨ましくもあり、彼らと付き合いたい、彼らの世界に溶け込みたいと思い、自分を高め上げることを望むのですが、なぜか自分で自分を規制してしまうのです。

皆、今の自分を変えることに用心深く、自分を必要以上に守り過ぎているのです。

自分が変わることに一種の恐怖を感じるのです。

今までの自分なりに築き上げてきた安定した家庭、グループ、社会から離れることが恐ろしいのです。

異なったヴァイブレーションに対して抵抗を感じるのです。

それは、自分の凝り固まった思考、感情、仕事、肉体に執着し、今の安定した状態を手放したらもっと低いレベルに落ち込むのではないかという不安恐怖から来ているのです。



                
つづく



      「次元上昇」 西園寺昌美 白光出版






感想

  ヴァイブレーション(波動)について 2を読まれていて、確かにそうだと納得する部分と本当のことだろうけど結構痛烈だなぁと感じられる部分があると思います。

私も書き写していてマイナスに受取ってしまいそうな箇所もありました。

しかし当り障りのないことを羅列してもプラスのことばかりを書いても

それでいいのか?という疑問もあったのです。

包み込むような愛もあれば、ハッとするような厳しい愛もある。

昌美先生はあえて憎まれ役をされているのだと思います。

しかし、厳しいばかりではない。

この後の包み込むような愛にご期待ください。




 


 

波動とはなにか?1



みなさんは波動と言葉を聞かれたことがあると思います。

「あの人は波動が良い」

「素晴らしい波動だ!」

とか言いますが

ほとんどの人はその実態はわかっていません。

宇宙は波動で出来ています。

すべては波動で出来ている

私たちの肉体も心も

そして死んでからも(肉体が無くなってからも)

ヴァイブレーション(波動)は永遠に生きつづけるのです。


では、いったい波動とは何なのか?

読んでいてわからない部分が出てくるかもしれません。(絵図面など)

その部分は読み流して先に進んで行ってください。(後日わかるようになると思います)





 
 
ヴァイブレーションについて


宇宙はすべて波動で成り立っている


私はよくヴァイブレーション(波動)という語を使います。

三十数年前、五井先生と共に宇宙子波動物理学を始めた時、この宇宙はすべて波動から成り立っているという原理を教わりました。

宇宙子科学の大絵図面に最初の最初に宇宙神より天地を貫いて響いてきたものがヴァイブレーション(波動)であったのです。

そのヴァイブレーションは、宇宙神から直接、絵図面に降ろされ、その降ろされた部分は、絵図面の中心点となり、現実にすべてのものを生み出すエネルギーのスポットとして、今でも神域となっています。

特別に許された者以外、その中心に立つことも、触れることさえも出来ません。

なぜならば、三十数年経った今でも、絵図面の中心点は、宇宙神と直接に交流し、物凄いエネルギーを今生に放ちつづけ、偉大なる働きを為しているからです。

この中心から七つの異なった波動に分れ、その一つ一つほ波動はさらに七つずつの波動に枝分かれしてゆきます。

そしてその波動は様々な異なった波動となって、大いなる宇宙の法則のもとに結びついたり離れたりし、その過程において、新しい波動を創造し、この地球上を大進化、大調和させているのであります。

この宇宙子科学の絵図面は、一般の目から見れば、ただの紙の上に描かれた数式であり、幾何学模様であり、図面ですが、その奥に究極の無限なるエネルギーが蔵された、宇宙神そのものの働きなのです。

この絵図面は、今生において、宇宙神と時間、空間を超えて直結する唯一の場であり、宇宙神が直接、働かれる場でもあるわけです。

私は三十数年も前からこの地球上を構成しているすべてのものは波動から成り立っていることを知っていました。

この肉体も動物も植物も水も空気もこの世に存在する生きとし生けるものすべては、究極は波動なのです。

ですから、人類は他のものと決して遊離しているものではなく、すべてのものと全く一つに結ばれているのです。

人類は無限なる創造の過程において、先程も述べましたように、あらゆる波動と結びあったり(融合)、離れたり(遊離)、混ざり合ったり(混合)して自分独自の波動を創り上げているものなのです。

この世に起きるあらゆる現象もすべて波動として把えてゆきますと、よく理解できるし、納得できるのです。






他との一体感と遊離




人類は皆一人ずつ波動が異なっています。

誰一人同じ波動ではありません。

指紋と同じです。

似通った波動は存在するかも知れませんが、それでも同じであることは決して有り得ません。

宇宙は無限であり、すべては一体であり、神聖であります。

その上、宇宙は意識に満ち溢れ、存在するすべてのものはそれ自身が完璧であり、調和し、愛そのものであります。

我々が発したり、表わすすべての想念、言葉、行為は、我々がどんな世界に住み、どんな人生を送るかを決定づけるものです。

我々が他のすべての存在を包み込み、すべてのものに抵抗せず、また遊離せず、常に一体感を感ずる愛の波動を放っているのであれば、我々は一切迷いのない、幸せで平安で自由な一生を送れるのです。

だが、そのような状態に至るのはまれでして、多くの人々は、あらゆるものに対して抵抗したり、差別したり、反発したり、拒絶したりして、一体感とはほど遠い生き方をしているのが現状であります。

なぜ我々は他との一体感を持てないのでしょうか。

それは、我々の意識が自分のことのみに執着し把われているからです。

我々の意識がもっともっと広がり、愛に満ち溢れていたならば、いかなるものとも相反せず、対立せず、調和してゆけるものなのです。

自らの愛が広がるほど、自らの人生は大きく変わって安定してゆきます。

すべての固定観念を捨てて、執着もこだわりも捨てて、自分の欲することを思い切って自由自在に為しつづけてゆくならば、そこに自ずと他との一体感が芽生えてくるのです。

自分自身が自分そのものに執着し把われるほど、本来の自由性は失われてゆきます。

自由を失えば、他との遊離が始まります。

まず自分自身がすべての事や物から自由になってこそ、相手の自由を縛らず、相手の自由を尊重し認めることが出来るのです。

相手に対して何かを押しつけたり強制したりして相手の自由を縛ることは、もうそこにお互いの一体感が失われ、遊離の状態へと追い込んでいっているのであります。



                   つづく


2017年3月20日 (月)

波動の良い場所とは清まったスポットを言うのです。

 

清めるとはどういうことか?

清めるとは汚れたエネルギーを光に昇華するということです。

くすんだ、汚れたエネルギーを消して、光輝くエネルギーに代えていく

それが出来るのは、我のない(自分というものがない)

純粋でピュアな

愛一元の人でないと出来ません。

今の地球には汚れている場所がたくさんあります。

その中でも日本は世界と比べると少ない方です。(これを波動がよいといいます)

私たちは祈りによってこれらの汚れた地を浄めることができるのです。

祈れば磁場が出来ます。

光の柱が自分の家を中心に広がっていくのです。(主に自宅で祈れば)

ここに地球の波動事情を書いた文章があります。

みなさん、みなさんの祈りで少しでも日本のいや地球の、いや宇宙の波動を清めてください。


 

西園寺


カリヴァン先生とこうやって対談できて本当にうれしいと思いますし、カリヴァン先生のミッションは、ここに行けば苦しみがあるとか、すごい悲しみや怒りのカルマがあるとか、ご自分で感じられるわけで、そこを癒してくれれば、そこを通った人たちは、その波を受けないで済む。

人によっては偶然(無意識)にある特定な場にかかると急に悲しくなったり、苦しくなったり生きているのが嫌になったり死にたくなったりしてしまう。

それはちょうどその場が何かの事故で人が死んだとか、殺されたりとか・・・・・という場合、その亡くなった魂がいまだ浄まらずに事故現場を浮遊しているため、ある人がちょうど殺されたところを偶然通ると、そのカルマを受けて急に軽い病気になったり事故にあったりする。


このようにカルマを持っている土地がまだ世界じゅうにいっぱいありますが、カルマを清めることによって、そこに住んでいる人たちとか、そこを通り過ぎる人たちも清められていく。

だから目に見えない部分のミッション、魂を地道に清め、苦しみを清めていく。

そういう尊いミッションは人類を平和にしていくし、その心を通して私たちは学び取り、一人ひとりが自分の言葉とか行動に気をつけていけば、世の中に平和が訪れてくるのではないかと私は思っています。



 『ハーモニック地球ヒーリング』 西園寺昌美 ジュード・カリヴァン


 

追伸

祈ることによって私たちはいつの間にか、自分でも気づかないうちに


純粋でピュアで

愛一元の人になることができるのです。





世界人類が平和でありますように

日本が平和でありますように

私たちの天命がまっとうされますように

守護霊様ありがとうございます

守護神様ありがとうございます

  

 

プラスにフォーカスするか?マイナスにフォーカスするか?によって人生は決まる!



私は、今までにありとあらゆる成功本を読んできました。

それはただ、自分が 「成功したい!」 「経済的にも自立したい、豊かになりたい!」

という願望だけではなく

心が豊かになるということが、お金の面でも豊かになることとつながっていると証明したかったからなのかもしれません。

それがほんとうの真理なのです。

心がプラスで満たされていれば、当然宇宙の法則として経済的にも整ってくる。

「私は幸せだ!」 と思っている人は、物質的に満たされていないとおかしいのです。

・・・・・・・・・・・・・

しかし、現実は伴っていないことが多い

それよりも悪い人、自分勝手で強欲の人のほうがお金持ちになっている(笑)

それはなぜか?

それは、心をどこにフォーカスしているか?なのです。

善い人と言われる人は

「自分はこれでいいのだろうか?」

「欲を持ってはいけないのではないだろうか?」

「こんなことをしては人に嫌われないだろうか?」

と、ああだこうだと考え過ぎる

だからいろんなところにフォーカスして、焦点が定まらない

だが、悪い人は、悪いことにフォーカスし、集中できる

「こんなことしていいのだろうか?」

という迷いがない(笑)

目に見える現象は、心にどれだけ強く思ったか?

だけなのです。

思い(想像)が現実を創る(創造)のです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

一番大切なことは

プラスのみを思い続けること

・・・・・・・・・・

行動を起こすことも大切だけれど

思いが先です。

思いが行動よりも先に、現場に行って待っているのです。

 想像する

  ↓

 心の中でイメージが出来上がる

  ↓

 エネルギーが注がれる(フォーカスされる)

  ↓

 現実化する
  


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

だから想いってすごく大切なんですね。

日ごろの想念が現実を生み出すのです。

日頃、いや瞬々刻々の一瞬の想いが大切なのです。

マイナスを思えば、即マイナスが現実のものとなる。

プラスを思えば、すぐにプラスが具現化する。

私たちは、つい

マイナスにフォーカスしてしまいます。

それで

「どうにもならない」 「うまくいかない」

って言ってるんですよね。

・・・・・・・・・・・・・・・

だから

うまくいくはずがない

だってマイナスにもフォーカスしているのですから

私は今、マイナスには一切フォーカスしないことを実践しています。

・・・・・・・・・・・・・・・

これは意識的にしなければ絶対に出来ないことです。

無意識でいたならばついマイナス思考になってしまうからです。

それは、自分を取り巻く周りの人たちの意識、人類の意識(集合意識)、

ほとんどの人が今、マイナスの想いになっているからです。

それに巻き込まれてしまうのです(言い訳してはいけませんが)

今、マイナスのエネルギーのほうが強いのです。

無意識、無防備でいたら

自然とマイナス思考になってしまうのです。

こんなときこそ、プラスを見つけるのです。

どんな状況であっても必ずプラスはある(と信じる)

小さなプラスを見つけて、そこにフォーカスする

小さなプラスを大きなプラスのエネルギーに変えてゆく

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

プラスを見つける名人、天才になるのです!

そのための、助け、メソッドとして

私がいつも言っている

下丹田(へそ下3.5センチ)に集中 があるのです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

宇宙そのものである(プラスしかない)下丹田に集中する

下丹田に集中するとマイナスの想念エネルギーが入って来ない

そして
 

小さなプラスを見つけてそこにフォーカスして、プラスを大きくしてゆく

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

自分(個人)がプラスのみのエネルギー体になって

プラスのみのエネルギーを振り撒くことは、自分にも人類にとっても

素晴らしいことなのです。

マイナス(カルマ)を消すからです(地球を掃除することになる)

個人も人類も幸せになるためには

それしかないと私は思うのであります。


 

 

2017年3月19日 (日)

意識がどこにつながっているかが大切です



お金がふんだんにあって、美味しいものが食べれて、時間もあって

豪華な客船や列車の旅をしている人をテレビなどで観ると

「幸せそうだなあ」 と一瞬思ってしまいます(笑)

しかし、いくら目に見える世界が整っているように見えても

幸せそうに見えても、なんの苦労もないように見えても

その人の意識(心)がどこにつながっているか?

そしてどのような心境にあるのか?によって幸せは決まるのです

反対に

お金が無くても、病気で寝たきりであっても

周りに親しい人が誰一人としていなかったとしても

肉体界の自分がほんとうの自分(本心)とつながっていれば次元、空間、時空を超えて

最高の至福感があるのです。

その心境とは、どう例えればいいでしょうか

人間には一生のうちで一度は

「あの頃の自分は最高に幸せだった」

というときがあったと思うのです

ある人は

無条件で愛されていた幼少の頃

何も考えていなかった無邪気な少年の頃

ある人は

初恋をした頃

またある人は

やることなすことがすべてうまく行っていた頃

そしてある人は

最高にモテていた頃

たぶんその頃とは自分ではほとんど意識していなくても

最高の心境や状況になっていたと思うのです

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

だがしかし

「もっと良くなりたい」

と欲を出したところからガタガタと崩れしまった

・・・・・・・・・・・・・・

それは自然体ではなくなったからです

自分と無欲の自分が離れてしまったからなのです

肉体人間と本心の自分が離れてしまった

そのときから何をやっても面白くない、うまくいかない

充実感がない

感動がない

という気持ちになっていったのです

本心から離れてしまったので

魂が喜ばないのです

ほんとうの幸せとは

宇宙(神界)にいるほんとうの自分(本心)と肉体の自分(吾)が一体となることなのです。

そのことを悟ると言います

神我一体(しんがいったい)

と言います

そしてその状態を

統一した状態というのです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

肉体界に居ながら

意識は宇宙にある

本心とつながっている

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

お釈迦様がそうでした

キリスト様がそうでした

地球に降り立った

聖者たちがそうでした

・・・・・・・・・・・・・・・

特別な人たちだけが神我一体になれるのではないのです

悟るのは聖者だけではないのです

・・・・・・・・・・・・・・

私たちも同じ境地になれるのです

そしてほんとうの幸せを会得することが出来るのです

どれだけお金があっても

3次元的に環境に恵まれていても

意識が幽界にあっては決して幸せではないのです

それは、迷いの世界に居るからです

感情の世界に居るからです

幽界のおばけちゃんにもてあそばれているからです

ほんとうの世界とつながっていないからです

無意識にただ感情を喜ばせることだけを目標にしている人は

一生のうちでほんとうの至福感を味あうのは

一度から多くて2度くらいだと思います

しかし、意識して本心とつながろうとしている人は

何度も何度も至福感を味わうことが出来るのです

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

私は、肉体を持っているうちにどれだけ多くの至福感(神との一体感)を味わうかが

地球に降り立った目的だと思うのです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

私は今、下丹田(かたんでん)を意識出来ています

宇宙とつながっています

だからずっと至福感を味わっています

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

この至福感を是非、たくさんの人にも味わってもらいたい

それが私の願いでありミッションなのです。


「無限なる幸せを体得する方法」 う寿明著 星湖舎




  

 

人間とは本来、善なのか悪なのか?



感想 


人間には、いろんな人がいて、神さま仏さまのように素晴らしく、光り輝いている人がいるかと思えば、極悪非道で動物以下(動物さんごめんなさい)の人もいて、同じ人間なのにどうしてこうも違うのだろう?

そして神性を顕している人を見ると、人間は本来、善であるという「性善説」だと思い、狂った人を見ると人間は悪魔だ悪の心を持ったどうしようもない生き物(性悪説)が本当だと思うのです。

おそらくほとんどの人は、あるときは人間神の子、またあるときは、悪魔の子と人間観が二転三転していると思うのです。

だから自分のことも、「自分は素晴らしい!」と自画自賛することもあれば(あまりないか)、「自分はなんて駄目な奴なんだろう」(無限なる可能性!)と卑下をする自分がいる。

「神様、いったい自分(人間)とは何者なんですか?教えてください」 と聞きたくなりますよね・・・・・。

その答えがズバリ下記の本文(これから先の文章に)には書かれているのです。




 

本文


 
   
この幽界における分霊を霊魂といい、肉体界にいる期間を魂魄(こんぱく)という。


いいかえれば、霊とは神であり、神性であり、魂魄を因縁性とよぶのである。


従って、分霊は、霊界に本住する神でありながら、因縁世界に降っては魂魄(こんぱく)であるといえるのである。


人間の本性としては、霊(神)であるので完全円満であり、行き通しであるが、分霊の念波から生じた業生は、業因縁となり、幽界、肉体界を輪廻転生して生まれ変わり死に変わりするのである。


仏教でいわれる、人間本来仏性なり、とは、どんなに業因縁の迷路にいる人間でも、その中味はすべて仏のいのちである。


私流にいえば、分霊の光であり、直霊の光であり、宇宙神そのものの光(いのち)である、というのである。


人間の性は善なるや、と今までに多くの人びとが、性善説、あるいは性悪説を唱え、論じあってきたが、人間の本来性には善も悪もない。


人間はただ無限の光(神)の創造性を行動に移し、神の姿を客観的に現わそうとしている者であって、悪といい善というも、全面的に神が現象界に現われるまでに織りなす光と影の交叉であり、悪(影)と現われている姿、行動も、より大いなる善(光)を現わさんとする一瞬であり、善と現われている姿、行動すらも、より偉大なるすべてを含めた善(光)を現わさんとする過程の一瞬である。


初めに分霊が、宇宙神の創造を顕現するため、その創造性を光の線と彩なして、幽界肉体界を創造してゆく過程において、みずから発した念波の業因の中に、しだいに自己の本性を見失っていったことは、前章においてすでに説明したのであるが、これは一見、無限の智慧の持ち主である神の行為の失策の如く見え、この点を疑問に思う人々が多数あると思うので、この点についてちょっと説明してみよう。



                  
                  つづく





『神と人間』 守護神守護霊について  五井昌久 白光出版


追伸・・・これらの文章は、2015年12月末に記事にしたもの(『神と人間守護霊守護神4』を再投稿しました。

ご興味のある方は、シリーズになっておりますのでさかのぼってお読みください。



  




2017年3月17日 (金)

肉体の死とは固体が気体になったのです



感想

すごい、すご過ぎます

この下に書いてある文章を読むと(何度も読み返すと)

人間とはなんぞや? ということが端的に、明確にわかる

真理を長年勉強し、わかっているつもりの私でさえ、改めて「そうだったのか」と頷くのです。

肉体というのは物質です。

死というのは、肉体という固体が液体を飛び越えて気体になるとでも表現すればいいので
しょうか

水が形を変えただけでH2Oには変わりはない。

固体(肉体)の世界から気体(幽・霊・神)という他の世界へ行った。

仏教では肉体界を去ることを他界というのはそういう意味だったんですね。

下記の本文では死のことを、上着に例えています。

上着(肉体)を着る必要が無くなったので、シャツ一枚になった(幽界へ行った)

そして上着は必要が無くなったので焼かれた、

だがその人(霊・心)自身は滅びていない(死んではいない)。

・・・・・もう感想は止めます(笑) どうぞ、本文をお読みください。

 

  
本文


肉体が消滅した、ということは、肉体細胞の分離をいうのである。


肉体は何兆という細胞が種々の要素が仲介として組織体となっているもので、いいかえれば、分霊の放射した光波(念)が、宇宙の物質要素と結合して、創りあげたもので、分霊の光波(念)がそれらの物質要素に働きかけなくなれば、自然にこの組織体は解体してしまうのである。


もっと端的にいえば、分霊が上衣である肉体をぬぎ捨てたのであり、着手のなくなった上衣は、もう必要がなくなって焼かれてしまった、といえるのである。


上衣が破れたからといって、着手が滅びてしまったという人はいない。


ただ着手であり中味である分霊が、下着である幽体を着けたまま、別の界層に移転した、ということなのである。


いいかえると、真の人間は死滅したのではなく、肉体界を離れた、のみである。


私はこの肉体要素を魄(はく)とよんでいる。



肉体を離れた分霊は、ある期間、幽界において生活する。


ここの生活は、肉体界の波動より細やかな波動の世界で、大体肉体界と同じような生活を
営む。


ただしこの世界は想うことがすぐに現われる世界であって、肉体界のように、念じたことが、なかなか現れぬ世界とは違う。


想うことが直ぐ現われるということは、ありがたいようでなかなかありがたくなく、よほど心が整い、浄まっていないと、非常に苦労するのである。


何故ならば、肉体界においては、相手を憎んでいても、顔に現わさねば、なかなかわからないし、ちょっとだましても、すぐにはわからない。


一生わからないこともある。


しかし幽界においては、喜怒哀楽ともに、すぐにその結果が起こり、憎む人はすぐに憎みかえされ、だます人は、すぐにだましかえされる。


憎み、悲しみ、恐れ、不正直、こうした想念は、すべて直ちに苦しみの種となり実となる。


こうした体験を経て、肉体界から持ち越して来た悪想念、悪行為の習慣(業因縁)、これはすべて幽体に記憶されてあり、記録されてある。


これらを浄めるべく努力することにより、その昔より、高い人格となり、よい因縁をなって、肉体界に再生する。


今度は以前より立派な生活が肉体界において、営まれるのである。


かくして何度か再生し、悪想念、悪習慣を矯正して、やがて直霊と一つになってゆくのである。


この幽界における分霊を霊魂といい、肉体界にいる期間を魂魄(こんぱく)という。


いいかえれば、霊とは神であり、神性であり、魂魄を因縁性とよぶのである。


従って、分霊は、霊界に本住する神でありながら、因縁世界に降っては魂魄(こんぱく)であるといえるのである。



                     つづく




『神と人間』 守護神、守護霊について 五井昌久 白光出版


2017年3月15日 (水)

近未来に起こること

今、私が感じていることをストレートに書きます。

テレビ等のメディアではまだ、隠されていますが

ネットでは常識になっていることが主流になってゆく

今までは現実世界が主流で、ネットはバーチャルな世界でした。

ところが現実世界が嘘で固められているため

ネットが暴き始めたのです。

例えば、ネットでは、「薬は毒」 「炭水化物、糖質は病気の温床」は常識になっています。(一部知らない人はいますが)

これからが拡散して行けば、知れ渡るのは時間の問題です。

そこで何が起こるか?

医学界は、淘汰され、病院は、今の十分の一から百分の一に減ります。

お医者さん、看護師さん、薬剤師さんの職も無くなります。

薬局も当然激減します。(反対にみんなが健康になってゆく)

炭水化物、糖質を主とした飲食産業も激減します。

白米、小麦、白砂糖などの血糖値を上げる食事は極力避けるようになります。

牛乳(乳製品)、肉、加工食品、添加物の入ったものは食べなくなります。

飲食店は、健康に留意した店だけが残るようになります。

コンビニやスーパーに今置いてある食品の9割は変わります。

当然それらに代わるものが出来るとは思われますが

食は、かなり質素になる、少食になると思われます。

これは医学界、健康産業、飲食業界だけですが、他にももっと淘汰されるもの、業界は目白押しです。

私たちは、そんな中でも職、仕事を見つけ、お金を稼ぎ(多い少ないは別として)、生きて行かなければなりません。

5~10年先も需要があるもの、これからの世の中に必要とされるもの

人に感動を与え、それがお金というエネルギーに代わるもの

それはなにか?

考える時期に来ているのかもしれませんね。

 

今、置かれている環境は最善の場所

3月に入ると卒業、転職、転勤などで新しい環境に向けて準備をされる人もいるでしょうし、一方で、ここ何年も環境が変わってないという人も多くいるでしょう。ところで皆さんは、今置かれている環境は好きですか?


とても気に入っていると答えれる人は、毎日が充実して楽しい日々を送られているのでしょう。あるいは、いやいや、もうこの環境から早く抜け出したい、変えたい、変わりたい、何とかしたいと思っている人もいるのではないでしょうか。


私も変化のない日々が退屈で、何とかして変えたいと強く思う時期がありました。そのためにイメージをしてみたり、本を読んで色々なことを試してみたりもしましたが、状況は全く変わりませんでした。どうしたら変えれるのかが分からず途方に暮れていました。今思えば、もがいてばかりで肝心なことに気付いてなかったのです。“肝心なこと”とは何か…


それは、その状況においての課題をクリアしていなかったのです。置かれた場所において、学ぶべきことを学んでいかないと、次の場所へは行けないのです。仮に行けたとしても同じ状況を繰り返します。今の環境が、とても辛く悲しい状況であったとしても、課題をクリアすることで、あなたをもっと大きく成長させる最善の場所なのです。


肉体の人間が、嫌だ辛い、自分にはもっと相応しい場所があるはずだと思っていても、本心の自分にとっては待ち望んだ場所なのです。そして、その場所は魂が清められ、進化するために用意されたもので、自分を輝かせるための、またとないチャンスを与えられた場所でもあるのです。


しかし、多くの人は嫌だ、辛い、苦しいというマイナスの感情に覆われ振り回されてしまい、真実が見えなくなっています。今の環境は偶然ではなく必然なのです。意味があってその場所に置かれているのです。自分を磨き、進化させるために必要なことが表裏一体となって隠れているのです。今いる場所が最善の場所であると思えるようになれば、自ずと次の場所へ導かれステップアップしていくのです。

 



もし環境や状況を変えたい、一刻も早く脱したいと願うなら先ずは、今いる場所で何か出来ることを見つけることです。必ず何か出来ることはあります。やりたいことはあるが、足りないものがあって出来ないと思う人もいるかも知れませんが、神さまは、その人にとって必要なものは必ず与えています。気付いてないだけで、本当に必要なものは与えてくれるのです。


ですから、今の場所から逃れることを考えるのをやめて、腰を据えて、その場にいることを覚悟してみてはどうでしょう。今やれることをやるというのは、将来のためにもなります。人生に無駄はありません。


そして「やるぞ!」「やってみせる!」という強い気持ちがあると、神さまは環境を整えてくださり物事が前に進むのです。環境が変わり物事が前に進んでいる状態は、言い換えると、波動が動いて変わっているということです。なぜ変わることが出来るのでしょうか。それは、自分の波動が変わったからです。


今の環境というのは、自分の波動(想い)が写し出されたものなので、いくらでも変えられるのです。覚悟を決めるということは、自分の波動を一瞬で変えることになります。波動が変わると、今までの習慣の想念が変わるので、自然と写し出される環境が変えられてゆくのです。


それに今出来ることが大きなことでなくてもいいのです。ほんの小さなことでもいいから続けていくと、思いもよらぬ世界が展開し最終的には、自分の思い描いていた世界へと繋がってゆくのです。


今置かれた環境が、嫌で変えたいと思っている人は、先ずその場で地に足をつけ覚悟を決めて、自分が出来ることを見つけ出し、それをとことんやってみるというのが一番の方法だと思います。



                          あーやんブログより
                       http://akemi51.blog.fc2.com/



  




  


  

              

意識して習慣を変える


地球は宇宙の進行に合わせて、今も進化創造しています。地球のレベルが上がるにつれて、人々の意識も上げてゆかないと生き辛くなるのです。では、どうやってこの波に乗り、意識を上げれるのでしょうか。先ずは、今までの悪しき習慣を変えることです。多くの人は日常の想念で、不平不満、心配、怒り、悩みなどのネガティブな習慣の想いを毎日繰り返しています。これらの想いは当たり前のようにパターン化された生活になり、なんの違和感もなく通り過ぎています。会社に行けば、人間関係で不平不満が出たり、給料のことで心配し不安になり、きつい労働を強いられて怒りが出たりと、このようなマイナスの想念の繰り返しで、自分の人生を暗いものにしてしまっています。


 
 また、習慣といっても色々あり、先ず心の習慣を考えてみると、朝起きてから寝るまでは感情が一定でなく、一日の始まりからすでに、イライラや不安、悲しみ、憎しみなどの感情想念に覆われています。次に物質の習慣です。あれが欲しい、これが欲しい、あれが足りない、など、常に物質によって人生が支配され、物質の多い少ないで人生が左右されると思い込んでいます。食べ物の習慣もあり、常にお酒やタバコを好んで飲んだり、肉ばかりを食べたり、暴飲暴食をするなど、嗜好の習慣があります。そして、心の習慣に基づいて行動の習慣が挙げられます。


 
 このようなマイナスの習慣で、自分の人生が築き上げられています。悪しき習慣を変えずに、人生を変えようとしても無理なのです(無限なる可能性)悪しき習慣に対して無頓着で、変えようとする信念や、変えなければという決意も起こっていません。なぜなら、変えなくても取り敢えずは生きてゆける、苦しみや悲しみも、誰しもが抱えているから、これは当たり前だと思い込んでいるからです。世の中は、真理から離れた人々の想いで創られ、感情に支配され、感情で解決しているのが現状です。しかし、このような状況がいつまでも続くわけにはいかないのです。このままだと、いつか地球は混乱状態になり、にっちもさっちも行かなくなるのです。

  
 

 だから今こそ、習慣の軌道修正をし新しい地球の波に乗ることで、未来を安泰して生きてゆくことが出来るのです。ただ、自分の力だけで習慣を変えるには、かなり強い信念がなければ続かず、挫けてしまうのことがあります。世の中の波は、人類の欲望の波、物質に支配された波、真理からかけ離れた波が、渦巻いており、信念を貫くのは難しいのです(無限なる光) 


 
 しかし、このようなマイナスの世界であっても、習慣を変えることが出来るのが、祈りと印なのです。祈りと印により光の柱に身を置くことで、自らの意識と波動を高め上げ、次元上昇できるメゾットなのです。自分の意識と神の意識が全く一体となり、光り輝いた自分が、低次元の習慣を変える力を発揮していきます。長い時間かけて創った習慣でも、自分が創ったものは、自分で変えれるのです。自分しか変えることは出来ないのです。祈りと印を組むことで、否定的な想念から発した悪しき習慣から、光明想念から発する良き習慣へと自然に変わってゆくのです。今は個人個人が、本当に変わらなければいけない時期に来ています。人々とって、マイナスの感情想念で生きるよりも遥かに、プラスの感情想念で生きることが、どれほどの良い人生を創れるかは計り知れないのです。 



あーやんブログより

こんな人こそ

 
人の幸せを自分のことのように喜び

人の悲しみを自分の悲しみのように悲しむ

それでいてその喜びに把われる想いをもたず

その悲しみに沈みこむ愚かさもない

自分のしたどんな善いことにも

他人のしたどんな悪いことにも

いつまでも想いがとどまらずに

何んでも可でも神様が善いようにして下さると信んじきっている

それでいながら

善い事柄ならどんな小さなことでもおろそかにせず

少しの悪い行為をも即座に消し去ろうと努める

心はいつでも青空のように澄んでいて

体中から温かいほほえみが一杯溢ふれている

その心にはいささかの誇る想いもなければ人をさげすむ想いも無い

ただ心の奥底から湧きあがってくる世界平和の祈りの中で

生命(いのち)生き生きと生きている

そんな人々が世界中から沢山育ぐくまれてくることを

私は

平和の祈りをしつづけながら願っている

( 五井昌久詩集『純 白』 生誕100周年新装版、白光出版より )

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

人 間 と 真 実 の 生 き 方

人間は本来、神の分霊であって、業生ではなく、つねに守護霊、守護神によって守られているものである。
この世のなかのすべての苦悩は、人間の過去世から現在にいたる誤てる想念が、その運命と現われて消えてゆく時に起る姿である。
いかなる苦悩といえど現われれば必ず消えるものであるから、消え去るのであるという強い信念と、今からよくなるのであるという善念を起し、どんな困難のなかにあっても、自分を赦し人を赦し、自分を愛し人を愛す、愛と真と赦しの言行をなしつづけてゆくとともに、守護霊、守護神への感謝の心をつねに想い、世界平和の祈りを祈りつづけてゆけば、個人も人類も真の救いを体得出来るものである。

へそ下3.5センチに凄いパワーが宿っている





最近、私は下丹田(かたんでん)のことを頻繁に書いていますが

 

武道でも、学問でも、仕事・・・すべての物事の真髄はこのへそした3.5センチ


のところにあるのだと言っても過言ではないのです。

 

例えば、自分の想念(意識)があっちに行ったりこっちに行ったりと

 

堂々巡りをしていては、正しい判断は出来ません。

  

正しいとは、天(一)に止まると書くのです。

 

止まるとは不動心のことです。

 

周りがどれだけ騒ついていても、動揺していたとしても

 

たった一人でも心を落ち着かせていなければならないのです。

 

と言っても不動心なんてそう簡単になれるものではありません。


不動心とは

 

現れているものすべてが、過去(過去世)の消えてゆく姿だとわかり

 

静かに見守ることによって悪いものが消え(祈ることで早く消え)

 

善くなってゆくんだという強い信念を持つことで初めて得られるからです。



ほんとうの真理がわかっていないとすぐに目の前に現れる現象に

 

一喜一憂してしまうからです。

 

不動心になるためにはどうしたらいいか?

 

正しい判断が出来るようになるにはどうしたらいいか?

 

直観力を得るのはどうしたらいいか?

昔の人は偉かったと思います。

 

真理を自然に実践していました。

 

「あの人は肝が座っている」

 

「あの人は肝っ玉が大きい」

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

この肝とは、下丹田のことです。

 

武道の達人(聖者・賢者)などは、自然と下丹田を会得していました。

 

下丹田は、天からの宇宙のエネルギーと、自己のエネルギーが交錯するところです。

 

交錯して、すべてが光に変わってゆく場所なのです。

 

だから下丹田を意識をすると通常の何倍もの速さで物事が進んでいきます。

一ヶ月掛かるところが一週間で出来たりします。

 

それは、下丹田を意識をすることで邪魔をしていたマイナスのエネルギー

 

も消えていったからです。

 

大難が小難に変わったのです。


下丹田を意識し、宇宙の言霊(世界平和の祈り)を唱えると心がみるみるうちに

スッキリとし崇高になってゆくのがわかります。

 

マイナスが消えて、プラスのみの思考になっているのがわかります。

 

それは、下丹田には、マイナスが一切ないからです。

 

マイナスを消して、唯一宇宙意識(本来の自分)になれるのが

 

下丹田なんです。(凄いんです下丹田って)

 

きっと下丹田(肝)の効能などが

 

これから読もうと思っている本に書かれていると思うのです(笑)

みなさん、下丹田を制するものが


自由自在心になれるのだということを知ってください。

 

これから幸せになるための “キーワード” は、肝、腹脳、つまり下丹田です。

 

覚えていてくださいね。

 

おススメ図書

 

「女は胆力」 園田天光光




世界人類が平和でありますように

日本が平和でありますように

私たちの天命がまっとうされますように

守護霊さまありがとうございます

守護神さまありがとうございます


  

 

2017年3月13日 (月)

宇宙神の真理の一節

“地球人類よ 目覚めよ

心して目覚めよ

汝らは聖なる人々である

宇宙神の光の一筋そのものである

宇宙神の無限能力、可能性、叡智、直観力が内在しているのである

ゆえに

汝らが真に究極の真理に目覚めた時

他のいかなるものにも依存する必要はない

外なる神にも宗教にも物質にも

すべては自らの内にある

それを自覚し信じ実行に移すことにより

汝らの希望はすべて成就されるのである

世界平和樹立のために立ちあがるのだ”




『つながり合う世界』 西園寺昌美 白光出版




  

 

2017年3月12日 (日)

あなたは一番根本なることを忘れている



『2014年の日記より』


私事ですが、私には今年社会人になった一人息子がおります。

東京で就職して、夏季休暇で大阪に帰って来ていました。(昨日帰りました)

久しぶりに会って

息子を見ていて

「成長したなあ」

と思う部分もあるのですが

「まだまだだなぁ」

「大丈夫かなぁ?」

「心配だなぁ」

と思ってしまうこともいくつかあります。

「学生の頃にもっと言っておけばよかった」

「これは親の責任かな」

と私の脳裏を後悔や心配の気持ちが駆け巡ります。

もう24歳にもなっているのに

独立して一人でやっているのに

放っておけばいいのに

・・・・・・・・

つくづく子離れ出来ていない自分を感じます。

そして子を心配するのは

心配し過ぎるのは

子に対して失礼だし

子の守護霊さま守護神さまにも

大変失礼なことをしてしまっていることに気づくのです。

肉体人間の親なんて

たいしたことなんて出来ないのです。

どんなに心配しても

まったく役に立っていないばかりか

迷惑なことをしてしまっているのです。

・・・・・・・・・・・・・・・・

それは、ネガティブなエネルギーを子に送ってしまっているからです。(心配のマイナスエネルギーによってほんとうに具現化してしまう)

守護霊さま 守護神さまのご指導の邪魔をしてしまっているのです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

肉体人間の親は

ほんとうの親である 守護霊さま 守護神さまに

ご加護をお願いするしかないのです。

守護霊さま 守護神さまは

霊界 神界から幽界、肉体界を俯瞰的、宇宙的に観て

魂にとって一番適切な体験、経験をさせ

 絶妙なタイミングで、次へのステップへと導いてくださっているのです。

そのことを忘れ

私たち親は

自分の感情をぶつけている

心配することで

自分の不安を子どもにぶつけることで

益々 こどもに迷惑をかけているのです。

・・・・・・・・・・・・・

私は自立とは

自分の感情をコントロールすることだと思っています。

感情をコントロールすることで

勘定(経済的なこと)もコントロール出来るようになっていきます。

整っていきます。

人間は感情(勘定)を超えることで

精神的にも物質的なことも乗り越えられるようになっていきます。

ほんとうの一人前になっていきます。

これは息子のことではなく

自分自身のことだとわかりました(笑)。

下記の文章を読んでそう思ったのでした。






1.何をそんなに思い煩っているのだ。 何もかも自分一人で背負うとするから混乱してしまうのだ。 あなたは一番根本なることを忘れている。

それはどんな人にも守護霊さま守護神さまがついておられるということだ。

そしてその守護霊さま守護神さまが必ずその人の運命をよくしようと、日夜努力し導いて下さっておられることだ。

あなたのすることといえば、ただその人の天命を祈ってあげさえすればよいのだ。

夫のために妻のために、愛する子供たちのために、友人知人のために、両親、祖父母のために、ただそれだけでよい。

だがあなたはその人の心をあまりに思うあまり、その人のためにあまりに考えすぎるためにすべての責任を自分一人で背負うことが正しいと思い込んでしまっているのである。

その人の運命はその人でなければ切り抜けられないものである。

思い違いをするな! 思いあがるな!

 






        「日々の指針」 西園寺昌美  白光出版




 

 

2017年3月11日 (土)

思わんとあきまへんなぁ





私事ですが、私はこれから今までの自分の在り方を一新して、まったく新しい仕事や生活

に変えてゆこうと思っているのです。

新しい仕事を自分で始める、自営業者から起業家になる、

それに伴い生活も一変します。

そこで大切なことは何か?を考えたときに、これからどうするか?を考えるのではなく、

その前に自分がどうなりたいか?を強くイメージすることが重要だとわかったのです。

プロセスではなく、ゴールを強くイメージする

映像になるまでイメージし、夢(イメージ)か現実かわからなくなるくらいまで思いつづける。

すると、イメージは潜在意識にインプットされるのです。

潜在意識というものは、時間を経て必ず顕在意識となって現実世界に顕われてくるのです。

そしてイメージをすると、現われてくるまでにどうしたらいいかというやり方が見えてくるのです。

ほとんどの人は、やり方を先に考えます。

しかし、自分の夢(目標)をしっかりと持って、イメージすることの方がずっとずっと大事なことなのです。

何をすればいいか? ではなく どうなりたいか?

想いが形をつくるのです。

『思わんとあきまへんなあ』

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

そこで松下幸之助さんは有名なダム式経営の話をされた。ダムを持たない川というのは大

雨が降れば大水が出て洪水を起こす一方、日照りが続けば枯れて水不足を生じてしまう。

だからダムをつくって水をため、天候や環境に左右されることなく水量をつねに一定にコン

トロールする。

それと同じように、経営も景気のよいときこそ景気の悪いときに備えて蓄えをしておく、そう

いう余裕のある経営をすべきだという話をされたのです。

それを聞いて、何百人という中小の経営者が詰めかけた会場に不満の声がさざ波のよう

に広がっていくのが、後方の席にいた私にはよくわかりました。

「何をいっているのか。その余裕がないからこそ、みんな汗水たらして悪戦苦闘しているの

ではないか。余裕があったら、だれもこんな苦労はしない。

われわれが聞きたいのは、どうしたらそのダムがつくれるのかということであって、ダムの

大切さについていまさらあらためて念を押されても、どうにもならない」

そんなつぶやきやささやきが、あちこちで交わされているのです。

やがて講演が終わって質疑応答の時間になったとき、一人の男性が立ち、こう不満を

ぶつけました。

「ダム式経営ができれば、たしかに理想です。 しかし現実にはそれができない。

どうしたらそれができるのか、その方法を教えてくれないことには話にならないじゃない

ですか」

これに対し、松下さんはその温和な顔に苦笑いを浮かべて、しばらく黙っておられました。

それからポツリと

「そんな方法は私も知りませんのや。知りませんけども、ダムをつくろうと思わんとあきま

へんなあ」 とつぶやかれたのです。

今度は会場に失笑が広がりました。

答になったとも思えない松下さんの言葉に、ほとんどの人は失望したようでした。

しかし私は失笑もしなければ失望もしませんでした。

それどころか、体に電流が走るような大きな衝撃を受けて、なかば茫然と顔色を失って

いました。

松下さんのその言葉は、私にとても重要な真理をつきつけていると思えたからです。

 

 

寝ても覚めても強烈に思いつづけることが大切

 

思わんとあきまへんなあ━この松下さんのつぶやきっは私に、

「まず思うこと(イメージすること)」の大切さを伝えていたのです。

ダムをつくる方法は人それぞれだから、こうしろと一律に教えられるものではない。

しかし、まずダムをつくりたいと思わなくてはならない。

その思いがすべての始まりなのだ。

松下さんはそういいたかったにちがいありません。

つまり、心が呼ばなければ、やり方も見えてこないし、成功も近づいてこない。

だからまず強くしっかりと願望することが重要である。

そうすればその思いが起点となって、最後には必ず成就する。

だれの人生もその人が心に描いたとおりのものである。

思いはいわば種であり、人生という庭に根を張り、幹を伸ばし、花を咲かせ、

実をつけるための、もっとも最初の、そしてもっとも重要な要因なのである━。・・・・・・・・・
 




    
         
「生き方」 稲盛和夫  サンマーク出版





  

未来→現在→過去へと時間は流れる



時間は過去から現在未来へと流れると私たちは思っています。

しかし宇宙は時空を超えているので時間は存在しないのです。

であれば、

未来から現在へと時間を流すことが出来るのではないか?

イメージ(想像)したことを、創造させる力を人間は持っていると、私は思うのです。

今までは過去の結果が現在という因果律が主流でした。

だから過去から現在へと時間は流れた

だが、しかしこれからは未来から現在へ時間を流す

『果因説』 という考え方が主流になっていきます。

するとほんとうに未来から時間がやってくることになります。



 未来→現在→過去





次にあげる因果律と果因説の違いは、「過去→現在→未来」という因果律の流れに対し
て、果因説の流れでは、 「未来→現在→過去」であるということです。

因果律では、現在起こることは過去の因が決めている、つまり 「過去→現在」という全体
の流れがあります。

病気に例えると、「過去にしてきたさまざまなことによって、現在病気になることがすでに決
まっていた」 というように、過去に起こった一つのことが原因となり、次々と玉突き式に結
果となって、現在の病気が現われる。

そして現在の病気がまた新たな因となり、「現在→未来」 という流れに乗って、未来の結
果となってゆく。

これが因果律の流れです。

この考え方でゆきますと、過去からやってくる病気に対して、現在や未来では何一つ打つ
手がなく、ただ黙って受け入れるしかないということになります。

現在も未来も過去に起こったことから生じる必然であって、もし過去に別の選択をしていれ
ば今病気にならなかったかもしれないが、過去に戻って過去の選択を変えることが出来な
い以上今も変わらない、今が変わらなければ未来も変わらないということになります。

これでは、人間には全く自由意思がないということになってしまいます。

しかし果因説では、「未来→現在」という流れに乗って、未来の結果を先に創り出すことが
出来るのです。

例えば、川は川上から川下へと流れています。

今現在自分は川の中にいて、傍に落ちていた葉っぱに希望や夢を、現実に現われるよう
に書き込むとします。

それを放り投げます。

川下のほうに放り投げたら、その希望の葉は永遠に自分のところへは戻ってきません。

自分の手から放たれた瞬間からどんどんと川下のほう(即ち過去)へと流れ去っていって
しまいます。

結果、その希望は自分の手には戻りません。

だからこそ投げる時には、必ず川上に向って(即ち未来の希望のビジョンを見て)、投げる
のです。

その希望の葉は川上のほう、即ち未来へと放たれて、そこから次第に川下へと流れてゆきます。

そして今、ついに現地点の自分のところに、何年か、何ヶ月か、何日か前に投げ込んだそ
の希望の葉が戻ってきて、自分の前を通り過ぎようとしています。

それを自分がキャッチすることにより、希望していたことが現実に顕現されるのです。

時間は未来から現在へとやってくるのです。

そして毎日のように、思い出すたびに繰り返し繰り返し希望の葉を何十枚、何百枚、何千
枚、何万枚と未来に投げ込みつづけると、いつの日か、宝くじのようにそのうちの数枚が、
必ず自分の前に現われ、現実となるのです。

従って、まさに今の瞬間、自分の未来に対する希望や輝かしい人生の設計図を強く思い
描き、

「絶対大丈夫!」 「必ず出来る!」 「すべては可能である!」 「すべては完璧!」

 「欠けたるものなし!」 「必ず成就する!」・・・・・・などという想いや言葉を繰り返すこと
により、それが現実となって現われるのであります。

時間は未来から現在、現在から過去へと流れているのですから、今この瞬間、未来につい
て思ったこと、考えたこと、語ったことの成就は、いずれ現在にやってくるのです。

ですから今現在、この瞬間、未来の希望を繰り返し、繰り返しインプットすることにより、

それが次々に現在へと流れてくるのです。

そしてそのうちの数枚の葉(未来に投げかけた希望のビジョン)を、自分がキャッチする瞬間が必ず来るのです。

これが果因説です。

今までのような、過去の原因を突き止め、悪い種を一つ一つ暴き出し、それを排除しつつ上り詰めてゆくやり方は、

過去のマイナス(川下)に意識が集中するため、目的達成が容易ではありません。

しかし、過去の因縁に由来する果因律に心縛られず、憂えず、今の瞬間、未来(川上)に
向って自らの意識を高めるという果因説に切り換えると、自らに内在する素晴らしい資質
が目覚め、人生は好転するのです。

 「果因説」 西園寺昌美 白光出版


 

へそ下3.5センチの奥にほんとうの世界がある



下丹田(かたんでん)とはへそした3.5センチのところにあるエネルギースポットです。

上丹田(眉毛と眉毛の間)、中丹田(胸と胸の間)と違うところは頭から離れたところにあるので気が静まりやすい。

つまりここに意識を置くと平常心、不動心になりやすいのです。

武道(スポーツ)でも、修行中のお坊さんでもこの下丹田に気を鎮めることをしている人がいます。

宇宙、天界、神界とは空にあるだけではなくて地球の下を突き抜けたところにもあるし、下丹田の奥深く(後ろ)にもあるのです。

そういう意味ではどこも宇宙だといえます。

ただどれだけ奥深く入っていけるか、なのです。

肉体にくっついているのは、幽界です。

浅い統一、瞑想だとこの迷いの世界(さ迷っている魂(霊ではない)たちのいる世界)である幽界と共鳴してしまう。

ほとんどの人がつながったと思っているのは

ほんとうの自分のいる実在界である神界、霊界の高いところではなく

低い階層の幽界です。

インスピレーションを得た !

神智を得た !

神秘力を得た !

啓示があった !

と思っているのは 、

思い上がっているのは、

この幽界です。 (ほとんどの霊能者はここにつながっています)

幽界には

迷いの世界でさ迷っている(死んでから霊界、神界に行けなかった人の)魂たちがうごめいているのです。

そして神秘力を得たいと安直に考えている人間たちに取り憑いてきます。

これが一番危険です。

神秘力など得る必要はありません。

神秘力は得たいと思って得られるのではなく

与えられるものです。

宇宙にとってその人が神秘力を得るのが必要なことならば

本人の意思にかかわらず 与えられるのです。

するとその人は神様の器そのものとなります。 (霊覚者になる)

話が違う方に行ってしまいました。(笑)

下丹田には、カルマを消す空間があります。

どんなマイナスのエネルギーにも侵されない空間があるのです。

ここに意識を集中させて

世界平和の祈りを祈る、呼吸法をしていくと

マイナスのエネルギーが消えて行きます。

つまりなにかマイナスのことが起る前に

事前に消すことが出来るのです。

おへそで茶を沸かすということわざ? 格言?

がありますよね。

それは昔の人は下丹田にもの凄いエネルギーが宿っていることを知っていたと思うのです。

悪い現象を早く消そうとしたら問題を好転させようとしたら

下丹田で消せばいいのです。

肉体人間が出来る

唯一のメソッドだと思います。




世界人類が平和でありますように ぴかぴか(新しい)

日本が平和でありますように

わたくしたちの天命がまっとうされますように

守護霊様ありがとうございます

守護神様ありがとうございます


 



 

お薦め本

「無限なる幸せを体得する方法」 于寿明 星湖舎  

   

2017年3月10日 (金)

今、目の前に現れてるのは、過去の出来事

“現実”・・・と私たちは言いますが、

今、目の前に現われているもの、

起こっている出来事

は、すべて幻、つまり幻影なんだと言ったら、みなさんはどう思われるでしょうか?

「何を言っているんだ、夢は幻かもしれないが、目の前のことは全部本当だろうが」

とおっしゃると思います。

しかし、夜空に浮かぶ星を見てください。

その星の光は数億年前に光った光が数億年後を経て今、私たちの目に飛び込んで来てい
るのです。

・・・・と言う事は、今起こっていることは、過去世で起こったことがフィルムのように映し出されている(再現)されているのだということがわかるのです。

過去世の想念行為が、今現実だと思っている自分の目の前に映し出されているのです。

今、お金持ちだったとしたらそれは過去世のおかげ、病気だったとしたら過去世が原因、
いじめられているとしたら、過去で自分がいじめていたから、何故か人生のすべてが上手く
いっているのなら、過去世の陰徳のお陰・・・・・

では、今の自分の努力とか思っていることとか行為していることはまったく関係ないのか?
と言えばそうではないのです。

80%は過去世のこと20%はこれから変えれることなのです。(過去世を観て(調べて)現
在や未来を予想する占いが8割方当たるのはそのためです)

「なんだ20%しかないのか?だったらほとんどは運命なんだ、決まってしまっているのか」
と諦めることはありません。

20%は“窓口”であってそこからグッと押し開いてゆくことが出来るのです。

運命は変えられる。命を運ぶことが出来る。

しかし運命を変えるには肉体人間の自分一人の力、努力だけでは変えられない。

肉体界は、肉体界だけで出来ているのではないのです。

幽界、霊界、神界の目にみえない世界が影響している。

だから霊界を司っている守護霊さん、神界(天国)を司っている守護神さんの助太刀が絶対に必要なのです。
 

 

本文


また、現象に現われた、病気や、不幸を、これはいかなる過去の心の現われか、と精神分
析して反省するよりは、現われた悪い事態は、すべて、過去の業因縁が、形に現われて、
消えてゆく姿なのだから、この苦しみが済めば、必ず、一段善い環境になると信じ、それと
同時に、守護霊さんが守っていてくださるのだから、必ず善いほうに、善いほうに向かって
いるに違いないと信じることである。
 

過去の因縁を分析すると、自分を痛めやすいし、気持ちが暗くなって、神から離れがちに
なってしまう。
 

神は光なのだから、常に明るい心の人を喜ぶ。
 

神は愛なのだ、光なのだ、私は常にその愛と光の中に生きているだ、しかも守護霊さんに
守られながら生きているんだ。

 
過去はない。

 
過去は消えてゆく。
 

どんな苦しみも必ず消えてゆくんだ   と、過去の心の誤りなぞ、ほじくり返さずに、ただ、
ただ、光明のほうに、心を向けていることが、自分を救い、人を救う、一番大切なことなの
である。
 

愛と許(ゆるし)の世界をみんなで創ることが大切だ。
 


自分を愛し、人を愛し
 

自分を赦し、人を赦す、
 

これが業を越える最大の道
 

みんな、いたわり合い、励まし合い、
 

足りない智慧や力は、守護霊さんにおまかせしよう
 

守護霊さんがきっとうまくやってくれるに違いない。

 



              終わり





  『神と人間』より 五井昌久  白光出版


 

2017年3月 9日 (木)

病気を治す3つの方法


 

病は気からと言いますが、もちろん気持ちだけですべての病気が治るなんて、私は思っていません。


昔と違って現在は、食べ物の中にも病気になる要素がたくさん含まれているからです。


しかし、「なぜ病気になるか?」という原点をみたとき、やはり気の持ち方、日頃の考え方が大きいのではないでしょうか?


私が尊敬してやまない五井先生の指導法です。

 

個人指導の時、五井先生が 


「今日は病気が治る秘訣を教えてあげましょう。三つの約束が出来ますか?」

とおっしゃいました。

あなたは患部を触って、こんなに大きくなって、一体どこまで大きくなるんだろうか、と心配ばかりしている。

だからいけない。


明日から絶対に患部に触ってはいけない。


それが一つ。


二つ目は私がお浄めで病気の想いを消してあげても、あなたは病気だ病気だと、家に帰ると思う。

私は病気だからいつ頃死ぬのかな、とカレンダーを見れば、私の命日はいつかなと思い、先生が消せば、そばから病気だ病気だと思っている。


それではいくら消しても限りがない。


もう明日から、決して病気だと思っちゃいけない。



三つ目は、あなたはあと一ヶ月で死ぬか、三ヶ月で死ぬか、と思っているけど、人のいのちは神よりほかに知らない。

丈夫で歩いている人だってあと五分後のいのちかもわからない。

今夜にも自動車にはねられたり、ガス中毒で死ぬかもわからない。

そうかと言って、今、寝ている人が十年二十年生きるかもわからない。

だから、もう今日一日のいのちだ、と思って、半年後だの三ヶ月後だのと考えることは絶対にやめなさい。


あなたは今日一日、夜までだと思いなさい


先生に言われて、約束しますと申上げました。


そうしたら翌日から、何か皮がむけたような気がして、花も星もみなきれい、犬も猫も子どもたちもなんて可愛いんだろう、と思えるようになりました。

何か仕事をするんでも病気なんて思わないんです。

晩までのいのちなんだから、一生懸命にやろう、という気になりました。

関連ブログ


「湯川れい子さんの末期ガンが治ったのはなぜ」


http://goodmoon51.cocolog-nifty.com/blog/2008/11/post-eac4.html



「ガンが治る人 治らない人」

http://goodmoon51.cocolog-nifty.com/blog/2011/06/post-31a4.html


 



 

2017年3月 8日 (水)

死んだ人は生きている

 


死んだ人は影も形も無くなってしまうのか?
 
どこか他の世界へ行ってしまうのか?
 
見守ってくれているのか?
 
素朴な疑問だと思います。
 
この間、同じ先生に気功を習っている人が言っておられた。(Aさんとする)
 
その人には妹さんがいた。
 
何年か前に亡くなったらしい。
 
その妹さんがあるときAさんの袖を引っぱったそうだ。
 
その引っぱりかたが以前の妹さんの引っぱりかたにそっくりだったらしい。
 
そのとき、Aさんは 「妹は生きてる」 と実感したそうだ。
 
私たちはしばしば気配を感じることがある。
 
人がいるはずがないのにそこにいるような、そんな気配を・・・
 
目に見えるものに惑わされずにそっと目を閉じて気持ちを静めていくと守護霊や亡くなった人が語り掛けてくれているのがわかる。
 
これから感じるのではなく、わかる人が増えてくる。
 
本当のことは五感で感じるのではなく、心でわかるということ。
 
 
五感を超えないと本当の世界はわからない。


想い(重い)を放つとエネルギーは流れ、健康になる


先日、新聞を読んでいたら(10年前ですが)作詞家の湯川れい子さんという人の体験談が書かれていた。
 
外国で生活しているとき、ガンを宣告された、

それも末期の・・・。
 
治療を受けるために帰国しようとしたら、別の国での仕事を依頼された。
 
その仕事はやりがいのある自分のやりたいことであった。
 
無謀と云われたが帰国をやめ、仕事に没頭した。
 
そして仕事を終えて帰国し、再度、診断結果を聞くとガンは消えていた。

・・・・・・・・・・・・・・・
 
こういう奇跡は頻繁には起きないが何度か耳にすることである。
 
何故、ガンは消えたのか?
 
病気とは気が病(や)むと書きます。

気とはエネルギー、つまりエネルギーが正常に流れていない状態なのです。
 
エネルギーの流れは川の流れに似ています。

ストレスや、思い悩むことなく想いをサラサラと流して平常心でいるとエネルギーは滞ることなくスムーズに流れていく。
 
だが、何かに捉われたり、何かに意識が奪われたりすると川の流れに大きな石を置くように流れをせき止めてしまいます。

これが気(エネルギー)が病んでいる状態なのです。

湯川さんは仕事に没頭することで病気のことを忘れるくらいだった。

想いを放って、川から石を取り除いたのです。

もちろん、意識してしたのではなく、結果的にそうなったのですが

昔、 「患者よガンと戦うな」 という著書がありました。

本は読んでいないのですが、おそらくガンに捉われるな、過剰に意識するな、という内容だと思います。

ポイントは問題点に執着、固執するのではなく、想いをそこから離すこと、放つことなのです。

放つと流れはよくなって行きます。


心配事は誰にでもあります。

でもそこに意識を集中させてもなんの解決にもならないどころかかえってマイナスを引きつけてしまうのです。

だったらどうしたらいいんだ?
 
どうやって想いを放つんだ?

になると思いますが

それについては追々書いていこうと思っています。

肉体の死後も魂は生きつづける

 

人間は真面目に生きて、努力し、忍耐をしていれば、立派な生き方で誰も文句を言わない、それで十分だろうと思っている人は多いと思うのです。

それが1回こっきりの永眠であれば、何の問題もないのかもしれない。

だがしかし、それで終わりどころか肉体の死は、プロセスに過ぎない。

「あの世でゆっくりと休んでください」

などということはないのです。

だったらどんな死に様だったらよいのかというと、真理を知って理解して肉体を放れることが大切なのです。

自分は何者であったのか?

何のために肉体を纏って生まれて来たのか?

天命(ミッション)はなんだったのか?

少なくともこの3つは真理として知っておかなければ話にならない。

いくらこの世で名声を得たとしても、そんなものあの世では何の足しにもならないのです。

もうそのことがわかってよい時期に来ていると思うのです。






1.人間は生まれ、そして成長し、体験し、老い病み死する。これの繰り返しである。人間は永遠に行きつづけてゆかねばならない。

肉体が変減しても、その奥にある魂はなお継続して生きつづけてゆくのである。

個人にやどる不死の生命は偉大である。

肉体が消滅したならば、これで何もかもすべてが終わると思ったら大間違いである。

過去に積み上げてきた想念、言語、行動すべてを背負って、未来にむかって歩み出すのである。

真理を知って生きないと、これは大変なことになる。

真理を知らないで、真面目に努力し忍耐し、生きている人がいるが、それは報われない生き方である。

何よりも先に、真理を知ることが大事である。

2.動物は苦痛はあっても、死への恐怖というものは何もない。

死への恐怖は人間のみに与えられた特別な感情であろう。

だが同じ人間でも、死を恐れをもって迎える人と、喜んで迎え入れようとする人とでは、自ずと苦痛と恐怖の度合いが違ってくる。

死とは不自由な住みにくい肉体を脱ぎ去って、自由で輝いた明るい世界へと移行してゆく、一つのプロセスにすぎない。

死は恐いものではない。

        『日々の指針』 西園寺昌美著



  

2017年3月 7日 (火)

天に向かって垂直に立ちましょう

 
私たちは、根本を忘れている

私たち人間の本体は

光の波動体、エネルギー体であることを

宇宙からは無限のプラスのエネルギーが常時降り注いでいる

雨の日も、雪の日も、台風の日も・・・・・

そのありがたいエネルギーをもらさず有り難く戴く方法が

天に向かって真っ直ぐに立つことなのだ

人間は天地を結ぶ光の波動体であることを意識(イメージ)することなのだ

それさえしていれば

病気になどならない

病気とは、気(エネルギー)が病んだ状態

滞った状態なのだ

姿勢を正した上で

他の健康法を考えればよい

私たちは順番を間違えている


 

人の心というものはそんなにもろいわけでもなく、弱いものでもない。

心が天に一直線につながっていると、神の叡知が真直ぐそのまま流れ入り、どんな不可能なことをも可能にしてしまう力が湧いて出る。

人間本来みなこうあるべき筈である。

心がもろく弱そうにみえる人は、それだけ神に一直線につながっておらず、心の先端がどこかでずれてしまって、神のエネルギーが全部そのまま肉体に届かず、途中で放出されてしまっているのだ。

それはあたかも水道の蛇口にホースを真っ直ぐに差し込むのと、ずれてさしこむのとの違いである。

ずれて差し込んだ場合、水道の蛇口とホースとの間から水が漏れ、ほとばしり、流れてしまい、全部が全部、肉体に届かないため心の力が弱ってしまうのである。

        『日々の指針』 西園寺昌美著


 



  

今、見ている星は何万年も前の光です






  
過去の波動がここに現われている

 

私という肉体は、五尺二寸というもので、この肉体というのは皆さんの目に見えていますね。

目に見えているけれど、実はこれは本当にあるんじゃないんです。

過去の因縁をたどって、ここに現されている。

現されているだけのもので、過去のものなのです。

というのは、私ばかりではなくて、あなた方も過去の波動がここに肉体となって現われているだけなんですよ。

だから今、生活して、今なんか考えている。

今、病気なら病気をしたとする。


それはみんな過去のものが現われて、いわゆる消えてゆく姿なのです。

この肉体生活を営んでいるということは、神さまのみ心を全うする、天命を果そうとすると同時に、過去世の因縁を果している、消えてゆく姿にしているわけです。


両方が同時に肉体として現われているんです。

ですから、今、現われている事柄に対して、なんだかんだと心配したって、苦労したって、何にもならないわけです。

それはもう過去のものだから、単に消えてゆくだけなんですよ。

それをお腹が痛い、どうしようどうしようと、一生懸命におさえている。

不幸だ不幸だといっている。

しかしそれはどうしたって、心配したってどうしたって、それはもう過去にあるもんだから、過去のものが出てきただけだから、どうしようもないわけです。

映画の撮影を終わってしまって、フィルムが出来ている。


映画やテレビで上映する、というところになっているわけです。

じゃあ、なんの打つ手もないのか、というとそうではなく、ただ一つあるのです。

それは何かというと、肉体の自分の力でやるのではなくて、守護霊さん守護神さんお願いします、と守護の神霊のほうにフィルムの修正を頼む━それだけしかないわけです。

だからわれわれがしなければならないことは、常に寝ても覚めても、守護霊さん守護神さん有難うございます、神さま有難うございます、といって、神さまの中へ入りこんでしまう、神さまと一つになってしまう。

一つになりながら、一生懸命、日常生活の消えてゆく姿をやっている。

それ以外にないんです。

それをハッキリと観念して、純粋に純朴にそれを信じて、行なってゆくということが悟りなんですよ。

そうすると、今まで感じてなかった世界、神霊の世界もハッキリわかってくるし、いろんなことがわかってくる。
 

 「永遠のいのち」 五井昌久 白光出版



   
 

運命を好転させるには守護霊さんの応援が必要なのです


一番大切なことは、今を一生懸命に生きること、それをしていれば土壇場のところで
神様(守護霊さま)がきっと応援してくださる。

そのギリギリのところまでは、応援は入らないです。

ただいくら一生懸命にやっていてもなかなか善い状況が現われない場合があります。

それは、前世の因縁が消えていないからです。

前世で、仕事を怠けていた、怠惰な生活を送っていた、みんなに迷惑ばかりをかけていたとしたのなら、今はそのツケが回ってきているのです。


今生の過去だけではなく前世(過去世)までが今に影響しているのか?

それは、不可解なことなのかもしれません

しかし、今やっていることが未来に現われるのと同じように

過去の結果が現在なのです。


過去世の結果が今ならば

いくら健康に気をつけても病気はなかなか治らないのか?

いくら一生懸命に働いても生活は楽にならないのか?

いくら人間関係を善くしようとしても前世でその人に辛く当たっていたとしたら

今生で仲良く出来ないのか?

前世のことを出されたらもうお手上げですね。

自暴自棄になってしまう人もいるかもしれません。

それでも一生懸命に頑張らなければならないのか?

それは理不尽ではないのか?

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

そうではありません

運命を修正する方法があるのです。

それは守護霊さんに過去の修正をお願いするのです。

守護霊さんは、霊界におられます。

肉体界→幽界→霊界→神界

肉体界に今、現われているのは幽界なのです。

幽界とは人間の潜在意識が溜まったところです。

過去世からの想念行為が録音されている場所です。

そこが汚れているから今肉体界に汚れた様子が写って来ている。

幽界を浄めて、フィルムを修正出来るのは、肉体界、幽界を網羅している守護霊さん守護神さんなのです。

守護霊さんは人間の運命を修正するために私たちが寝ている間にも働いてくださっています。

夢を観させて、劇画化させて潜在意識から消そうとしているのです。

私たちは寝ますが、守護霊さん守護神さんは四六時中寝ずに見守って運命の修正をしてくださっているのです。

私たちが守護霊守護神に意識を向けて感謝をすれば、もっともっと守りやすくなるのです。

そして運命の修正も早くなります。

世界平和の祈りは守護霊、守護神への感謝も含んだ完璧(パーフェクト)な祈りなのです。

 

世界人類が平和でありますように

日本が平和でありますように

私たちの天命がまっとうされますように

守護霊様ありがとうございます

守護神様ありがとうございます


 



 

 

2017年3月 6日 (月)

怒りは脳の老化現象


私の父は、現在83歳、

身体は元気なのですが、最近、認知症?気味、そして怒りっぽくなっています。

認知症は、各個人いろんな症状が出るそうですが、

共通して言える大切なことは

「家族の理解」

「家族があたたかく見守る」

ではないでしょうか?

お年寄りの怒りはどういうところから来ているのか?

それを知りたがっていたのですが

今読んでいる

「怒らない技術」嶋津良智著にこんなことが書いてありました。

やっぱりみんな心が寂しいんですね。





怒りは脳の老化現象


心の老化が怒りの原因になっていることもあります。

年をとったおじいちゃん、おばあちゃんと接していると、以前よりもひがみっぽくなった、話がしつこくなったと感じることがあります。

 おそらくそれは、年をとった自分に関心を寄せてくれないことに対するさびしさではないかと思います。

 年老いた自分の存在価値の希薄感もあるでしょう。

仕事を離れてしまったさびしさもあるでしょう。

一生懸命話しているのに相手が話を聞いてくれないというさびしさもあるでしょう。

おじいちゃん、おばあちゃんなりの心のメッセージのような気がするんです。

たとえば、不平や不満ばかり漏らしている人や、ストレスや悩み事を抱えている人などは実際の年齢より老けて見えるものです。

逆に健康で、いつも笑っている人や、物事に興味を持っている、あるいは趣味を持っている人はイキイキとして若く見えます。

このように感情や思考によって大きな違いが出てくるものです。

つまり、心の老化とは、喜怒哀楽などの情動が低下し、意欲や気力が低下することをいうのではないでしょうか。

くどくなる、怒りっぽくなる、涙もろくなる、なぜか不安になる、ひがみっぽくなる、病気が必要以上に気になる、など心当たりがあったら、もっとリラックスさせることに努めてみると良いかもしれません。





      「怒らない技術」 嶋津良智 フォレスト出版



 



人として生れてくる確率とは?

 

人の生命は地球より重たいっていうけど

人としてこうして肉体を持って地球に生まれてくる確率ってどれくらいなんだろう?

この無限の宇宙の中で目にみえないものが圧倒的に大きい中で、

肉体と精神を備えた私たちとは、いったいどんな存在なんだろう?

時々、自分の存在そのものが不思議に思えてくることってありますよね。

 
人として肉体を持って生まれてくる確率は,


な、なんと


3億円の宝くじを何千回も連続して当たるよりも少ない確率だそうです。

 

まさしく天文学的な数字ですよね 


なのにわたしたちは宝くじを買って幸せになろうとする。


でも自分はそんなものよりももっと桁違いにすごい


素晴しい存在なのです。


嫌~な人を見ていても

「あ~この人は、ものすごい確率で奇跡的に生まれてきた人なんだなぁ」

と思うとなんだかいとおしくなったりします。

人や自分が生まれてきたすごい意味ってきっとあるんですね。
 

追伸・・・肉体を持って今の地球に降り立ちたかった魂たち(競争に負けた)がそれこそ、無限に近いほどあったそうです。

私たちはその魂たちの代表でもあるのです。


 
  



  



  

魔(間)が差すとは?




“魔が差す” とは?


心の中に悪魔が入ったようになるという意味なのだそうですが、

私たちはちょっと油断すると後から考えると信じられないようなことをしてしまうときがあります。

この魔は、何の前触れもなく、容赦なく、土足でずかずかと心の隙間に入って来ます。(油断大敵!)

ぼんやりと集中力を欠いて運転しているときに人を轢きそうになる。

相手の立場を考えずに悪魔のささやき(幽界のおばけちゃんの悪戯)のままにしゃべってしまう。

後悔先に立たずではないけれど後から想い起こすと冷や汗が出て来るようなことがあります。

ほんの一瞬の間に、この魔が入って来るのです。

これは自分が自分の本心(神、守護霊、守護神)とつながらずに、幽界につながってしまった結果なのです。

わたしには、最近

「しまった、魔が差した」

ということはほとんどありません。

それはぎりぎりのところで守護霊、守護神様に助けていただいているからだと思うのです。

先日も車の運転中、すぐそばを人が通りかかりました。

歩いていたその人は私の視界から外れていました。

当たっていてもおかしくない状況でした。

でも瞬間、信じられないくらいの反射神経でブレーキを踏んでいました。

そして

踏んだのは自分ではなく、守ってくださっている守護霊様だとわかりました。

意識を守護霊守護神に向けていると頭で反応する前に体が勝手に動くのです。(動かしているのは守護霊様です)

それはぴったりとつながっているからです。

いつも自分を守ってくださっている守護霊様、守護神様に感謝をしているといざというときに守ってくれるのです。

そして、私たちは寝ます。

寝ている間は無防備です

その間に何かがあったらどうすることも出来ない。

しかし守護霊守護神は24時間プラスαで守ってくれている。

人間は、肉体人間の自分の力だけでは生きていけない。

今から一分先のことも何が起るかわからない。

しかし守護霊守護神は一生を通して未来に何が起るかがわかっている。

過去の聖者、賢者たちは守護霊守護神の存在を知っていました。

知っていたからこそ聖者、賢者になれたのです。

世界平和の祈りの中には守護霊守護神への感謝が入っています。

だから完璧な祈りなのです。
 

間(魔)が入らないようにたゆまない祈りをすると守られやすいのです。
 

 


世界人類が平和でありますように 

日本が平和でありますように

わたくしたちの天命がまっとうされますように

守護霊様ありがとうございます

守護神様ありがとうございます

2017年3月 5日 (日)

守護霊、守護神と一体になれば不動心になれる


 
五井先生の教えは、別名 「守護霊、守護神教」 とも言えるほど、守護の神霊の存在とその守護のあり方を詳しく、判り易くお説き下さっています。

守護神(一体)と守護霊(正守護霊一体と副守護霊二体)が四六時中、守護の任にあたっておられるのです。

私たちがいつもいつも守護の神霊に感謝をし続けていれば、その守りはますます強固になっていきます。

ついには守護の神霊との一体化という形になります。

その時の状態を

「不動心」

というのだと五井先生から教えて頂きました。

つまり守護の神霊との一体化イコール不動心をいうことです。

専属の守護の神霊の他に、時に応じて

「背後霊」という形で別の神霊が応援して下さることがあります。

フィルピンの有名な心霊手術師のトニーは手術の際にメスは一切使わず、しかも傷跡ひとつ残しませんでした。

「トニーの背後には霊界の外科医がついているんだよ」

と五井先生はおっしゃいました。

つまりトニーの手が、粗い肉体波動から微妙な神霊波動となって患者の身体の中に入っていって、患部を手術していたのです。

かつて作家の山岡荘八が書いた『徳川家康』がベストセラーになりましたが、

そのとき五井先生は

「ベストセラーになるのは当然だよ。あれは徳川家康が自叙伝を書いたようなものだね」

とおっしゃいました。

つまり徳川家康が山岡荘八の背後で、山岡荘八の体を使って執筆していたのです。

山岡荘八は太平洋戦争当時、報道班員として鹿児島県の特攻基地の知覧(ちらん)で多くの神風特攻隊を見送っていたので、戦死した隊員の慰霊のために戦後、知覧に特攻平和観音を建立(こんりゅう)した信心深い作家でした。

故村田正雄長老は 『私の霊界通信』 (第一巻~第五巻)という名誉を残されましたが、

五井先生は冗談ともつかず、

「あの本は、とてもきめ細やかな優しい文章だろう。

だいたい村田さんがあんな上手な文章書けるわけがないよ」

とおっしゃいました。



  

心配するな なんとかなる



一休和尚の説話の一つに、遺言の話があります。

一休さんは、亡くなるときに一通の封書を寺の弟子たちに残しました。

「この先、ほんとうに困ることがあったら、これを開けなさい」

と言い遺しました。

何年かたって、寺に大変な難問題が持ち上がり、どうしようもないので、弟子たちが集まって、その封書を開いてみると、そこには

「 しんぱいするな なんとかなる 」

と書いてありました。

とたんに弟子たちは一同、大笑いの内に落ち着きと勇気と明るさを取り戻し、難しい問題を解決できたという話です。


小坊主の一休さんは、大人たちが次々と突きつけてくる難題を少しも騒がず、抜群の集中力とトンチで切り抜けます。

彼は今から約600年前に生まれ、88歳という当時としては、ケタ外れの長息きをしました。

さすがの一休さんも「平常心でいられない」 「楽しめない」 「ばく然とした不安がある」 「なんとなく無気力で元気が出ない」 等など、人生の苦しみ、悩みにさいなまれた時がありました。

けれども 「不思善悪(ふしぜんあく)」

つまり、もの事の善し悪しにあまり厳しくこだわり過ぎない、ありのままをありのままに見て、認めてしまう、常に気を楽にする。

という事を悟ったようです。

気分を楽にすると必ず同時に元気が身体に湧いて来ます。

不安や心配や焦りの中では決して生まれない知恵や創造力が気分を楽にした時に湧き出て来ます。

難問が難問にみえなくなります。

しんぱいをやめたとたんに健康がもたらされます。

みなさん、厳しい状況が続きますが、こんな時ほど、物やお金がなくても平常心でいることが大切なのではないでしょうか。

日本人の誇るべき清潔意識


 
長男が二歳のときのことです。里帰り先のハワイでブランチを食べていました。

あのボリュームたっぷりな「アメリカ式ブランチ」です。

実家があるオアフ島・パールリッジの円形レストラン、「アンナミラーズ」のパンケーキブランチは最高です。

シロップとバターでどろどろのパンケーキに、ベーコン・カリカリハッシュブラウンと美味しいコーヒー・・・・。



さて、気持ちよく食事を終え、子供の散らかしたテーブルを整え、お皿を重ねていると、それまでざわざわしていたレストランが、突然静まり返りました。

ふと周囲を見回して、ほかのお客さんたちやウェイトレスの視線を浴びていることに気がつきました。

ウェイトレスがやってきて、こう言います。

「10年間ウェイトレスをやっているが、自分たちで後片づけをしているお客様は初めて! GREAT!

「日本では普通ですよ。大丈夫、こちらでやります!」

このやり取りが日本の 「常識」と、世界の 「常識」 の差なのです。


帰国するたびに、「日本人ってすごく清潔らしいですね」と言われます。

外国から来る人にとっても、日本の清潔さが大きな印象ポイントになっているのです。

海外のどの国に行っても、日本ほどの 「清潔感」 を保っている街はとても少ない気がします。

海外のホテルのフィットネスなどに行くと、ときどきスリッパがなければ床を踏みたくないときがあります。

見た目がよくても、不潔に感じる場所がたくさんあります。

それは日本以外の国では、他の利用者のために気配りをする、ということがほとんどないからです。


清潔な施設を維持するには、施設の責任者や担当者だけでなく、利用者一人ひとりの協力がないとできないことです。

喫煙者が吸殻をきちんとマナーバックに入れる。

自分の家の前の道路だけでなく、隣の家の前まで、掃除する。

人に迷惑がかからないように、レストランで食べ終わった食器の後片づけをやっておく。

究極の 「気遣い」 は傘だと思います。

雨で濡れた傘をハンカチで拭いてから畳むなどという行為を、日本以外のところで見たことがありません。

電車が込み合っているとき、濡れた傘がまわりの人に触れて迷惑をかけたくない、という気持ちなのでしょう。


清潔感へのこだわりは、日本人ほぼ全員が共有している「気遣いやおもてなし」精神です。

ワイシャツの白さ、靴の磨き方、手先の手入れなど、自分自身の体から始まって、やがて街や国家にまで定着した「清潔感」。

日本の誇るべきものは、伝統や歴史だけでなく、あらゆる場所で習慣化した「清潔な気遣い」と「衛生的なおもてなし」なのです。





  日本人が誇れる33のこと ルース・ジャーマン・白石 あさ出版




 


感謝の言葉が豊かな日本人





わたしが日本の文化の中で特に尊敬をしているのは、感謝の気持ちを表す表現が豊かであることです。

「ありがとう」の気持ちを忘れずに相手に表現する必要性は、どの国でも母親や父親が子どもに言って聞かせます。

わたし自身、両親に教えられ、「Thank You」という言葉の意味の深さについてよく考えていました。

しかし、日本の日常生活にある豊かな「ありがとう」の感謝表現は、他の国とは異なります。

実にさまざまな、感謝を表すことばがあるのです。

「すいません」

「ありがとう」

「恐縮です」

「おそれいります」

「助かりました」

「お世話になりました」

「ご馳走さまでした」

「お疲れ様でした」

長年日本にいても、その場その場で使い分けられる 「感謝の表現」の複雑なニュアンスに戸惑うことがあります。

ちょっとしたおじきなど、感謝を表すジェスチャーもたくさんありますし、お土産やギフトの文化に含まれる 「感謝の心を表す行為」にも、深い意味や歴史があるようです。

日本の社会では、ビジネスでもプライベートでも、感謝の気持ちを表すことが基本的な習慣となっています。

「お礼の気持ち」 をどのように表すべきかという「課題」を、無意識のうちにこなしてしまっているのです。

もちろん他の国にも、「家族を大切にする」「社会活動を行う」などのすばらしい共通認識がありますが、「ありがとう」をここまで極めている文化はありません。

言うまでもないのですが、「ありがとう」を中心に考えると、必然的に「我」ではなく、「相手」がフォーカスされます。

相手のためにどのように言えばいいか、どのように動けばいいか、何を差し上げればいいかを日常的に考えるようになると、自己的ではなく外向きな視点をもつようになるでしょう。

時には、組織のチームワークやグループシンキングが上達します。



わたしの子供たちが小さいころ、よく横浜の市営バスを利用していました。

わたしたちが定期的に乗るバスが日野墓地を通る関係で、お墓参りをされるご年配の方が多くいらっしゃいました。

それらのお年寄りたちのほとんどが、バスを降りる前に運転手さんに向って「ありがとうございます」と声をかけていました。

目的地まで無事につれていってくれた運転手さんへの、「お礼」 の気持ちを、当り前のように、何気なく言葉にしていることに心を打たれました。

そうした文化が、子供たちにも根づいていることを、わたしは誇りに思います。

先日、子供とタクシーに乗り、十歳になった娘が下車する際に、無意識に運転手さんにちょっとしたおじきをし、「ありがとうございます」と丁寧に言ったのです。

その瞬間、母親としてとても穏やかな気持ちになりました。

これからも日本人のお礼の心を、親子ともども、どの国に行っても、大切にしていきたいと思います。

「日本で暮らせて、ありがとう・・・・・・」



 

『日本人が世界に誇れる33のこと』ルース・ジャーマン・白石 あさ出版




2017年3月 4日 (土)

ぞうのはな子さん



自己犠牲ではないけれど、自分のことを顧みず

他人や動物や何かのために命がけで

一生懸命になる。

これほど美しい姿があるでしょうか

私は正直に申しますと

自分以外の人のために

自分というものをすっかり忘れて

無私になって

愛を注いだという経験がありません。

だから今からご紹介するゾウのはな子の物語は

感動するのです。


自分がどう想われてるとか

想われたいだとか

そんなことには、一切とらわれない

ただ、自分の本心に忠実に、エネルギーを、愛を、惜しみなく相手の人に注いでいるのです。

だから相手の人はそれをストレートに感じ取って

心があたたかくなる。

理屈ではないんですよね。

“人間って素晴らしい!” 

って思うのは

このような実話を聞いたときです。









山川宏治さん(掲載当時:東京都多摩動物公園主任飼育員)

『致知』2007年5月号「致知随想」より


■「殺人ゾウ」の汚名
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

武蔵野の面影を残す雑木林に囲まれた

東京・井の頭自然文化園に、

今年還暦を迎えるおばあちゃんゾウがいます。

彼女の名前は「はな子」。

私が生まれる以前の昭和24年に、

戦後初めてのゾウとして日本にやってきました。

当時まだ2歳半、体重も1トンにも満たない

小さくかわいい彼女は、

子どもたちの大歓声で迎えられました。

遠い南の国、タイからやって来たはな子は

たちまち上野動物園のアイドルとなりました。

ところが、引っ越し先の井の頭自然文化園で、

はな子は思いがけない事故を起こします。

深夜、酔ってゾウ舎に忍び込んだ男性を、

その数年後には飼育員を、踏み殺してしまったのです。

「殺人ゾウ」──。

皆からそう呼ばれるようになったはな子は、

暗いゾウ舎に4つの足を鎖で繋がれ、

身動きひとつ取れなくなりました。

餌をほとんど口にしなくなり、

背骨や肋骨が露になるほど身体は痩せこけ、

かわいく優しかった目は人間不信で

ギラギラしたものに変わってしまいました。

飼育員の間でも人を殺したゾウの世話を

希望する者は誰もいなくなりました。

空席になっていたはな子の飼育係に、

当時多摩動物公園で子ゾウを担当していた

私の父・山川清蔵が決まったのは昭和35年6月。

それからはな子と父の30年間が始まりました。

「鼻の届くところに来てみろ、叩いてやるぞ!」

と睨みつけてくるはな子に怯むことなく

父はそれまでの経験と勘をもとに何度も考え抜いた結果、

着任して4日後には1か月以上

繋がれていたはな子の鎖を外してしまうのです。

そこには

「閉ざされた心をもう一度開いてあげたい」、

「信頼されるにはまず、はな子を信頼しなければ」

という気持ちがあったのでしょう。

父はいつもはな子のそばにいました。

出勤してまずゾウ舎に向かう。

朝ご飯をたっぷりあげ、身体についた藁を払い、

外へ出るおめかしをしてあげる。

それから兼任している他の動物たちの世話をし、

休憩もとらずに、暇を見つけては

バナナやリンゴを手にゾウ舎へ足を運ぶ。

話し掛け、触れる……。

「人殺し!」とお客さんに罵られた時も、

その言葉に興奮するはな子にそっと寄り添い、

はな子の楯になりました。

そんな父の思いが通じたのか、

徐々に父の手を舐めるほど心を開き、

元の体重に戻りつつありました。

ある日、若い頃の絶食と栄養失調が祟って歯が抜け落ち、

はな子は餌を食べることができなくなりました。

自然界では歯がなくなることは死を意味します。

なんとか食べさせなければという、

父の試行錯誤の毎日が始まりました。

どうしたら餌を食べてくれるだろうか……。

考えた結果、父はバナナやリンゴ、サツマイモなど

100キロ近くの餌を細かく刻み、

丸めたものをはな子に差し出しました。

それまで何も食べようとしなかったはな子は、

喜んで口にしました。

食事は1日に4回。1回分の餌を刻むだけで何時間もかかります。

それを苦と思わず、いつでも必要とする時に

そばにいた父に、はな子も心を許したのだと思います。

定年を迎えるまで、父の心はひと時も離れず

はな子に寄り添ってきました。

自分の身体ががんという病に

蝕まれていることにも気づかずに……。

はな子と別れた5年後に父は亡くなりました。

後任への心遣い、はな子へのけじめだったのでしょう。

動物園を去ってから、父はあれだけ愛していたはな子に

一度も会いに行きませんでした。

■亡き父と語り合う
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

思えば父の最期の5年間は、

はな子の飼育に完全燃焼した後の

余熱のような期間だったと思います。

飼育員としての父の人生は、

はな子のためにあったと言っていいかもしれません。

残念なことに、私には父と一緒に遊んだ思い出がありません。

キャッチボールすらしたことがないのです。

家にじっとしていることもなく、

自分の子どもよりゾウと一緒にいる父に、

「なんだ、この親父」と

反感を持つこともありました。

ところが家庭を顧みずに働く父と同じ道は

絶対に歩まないと思っていたはずの私が、

気がつけば飼育員としての道を歩いています。

高校卒業後、都庁に入り動物園に配属になった私は、

父が亡くなった後にあのはな子の担当になったのです。

それまでは父と比べられるのがいやで、

父の話題を意識的に避けていた私でしたが、

はな子と接していくうちにゾウの心、

そして私の知らなかった父の姿に出会いました。

人間との信頼関係が壊れ、敵意をむき出しにした

ゾウに再び人間への信頼を取り戻す。

その難しい仕事のために、

父はいつもはな子に寄り添い、

愛情深く話し掛けていたのです。

だからこそ、はな子はこちらの働きかけに

素直に応えてくれるようになったのだと思います。

一人息子とはほとんど話もせず、

いったい何を考え、何を思って生きてきたのか、

生前はさっぱり分かりませんでしたが、

はな子を通じて初めて亡き父と語り合えた気がします。

私は「父が心を開かせたはな子をもう1度スターに」と、

お客様が直接おやつをあげるなど、

それまでタブーとされてきた

はな子との触れ合いの機会を設けました。

父、そして私の見てきた

本来の優しいはな子の姿を多くの方々に

知ってほしかったのです。

人々の笑顔に包まれたはな子の姿を

父にも見てほしいと思います。




  

2017年3月 3日 (金)

自分の中に神を見出す



地球の次元は、なんと5次元に上った、だから自分(人類)の意識を5次元の波動に合わせれば、心の中は即、神界(天界・天国)になる。

そして、神界とは宇宙の完璧なエネルギーの世界なので、肉体に神の姿が現われ、そのエネルギーのカタチは縦、横、十字の真理(キリスト・十字架・光の柱・パワースポット)になっているのです。

その世界は自由自在心です。

どんなものでも創造でき、どんな奇跡でも起こせる。

キリスト様やお釈迦様だけが聖者ではなかったのです。

人間即神也、人類皆即神也なのです。

ただ肝心なのは、意識がどこにあるかだけです。

地球の波動は調った、後は私たちの意識を5次元(宇宙・我即神也)に合わせるだけなのです。



自分の中に神を見出してこそ



今までの私は、他の人の中に神を見、それを信じ、その神を通して自分自身を安心へと導
き、納得させていたのです。

神を外に見たのです。

神を自分以外に、例えば、イエス、釈迦、聖者賢者、偉大なことを成し遂げた人、人類の犠牲になった人、死んで神に祭られた人、先祖・・・・

等の中に神を認め、それを絶対なる神と信じていたのです。

彼ら中の神々が自分たちを救ってくれると信じていたのです。

そのような低次元の段階においては、私が自分の中に神を見出すことなど、到底考えも及ばなかったのです。

自らの内にある力を信じることが出来ずに、かつまた自らが自らを余りにも低いレベルに置くことによって、自らの機能を他の聖者賢者に与えることによって、自らを導いてもらっていたのです。

しかし、いつまでもそんなことを繰り返していたのでは、自分の人生は始まりません。

何も事は起こりません。

このような低次元レベルから上昇してゆかねばならないのです。

わずか数人の聖者、賢者の教えに今なお、数億の人々が従い導かれ、コントロールされて
いるのです。

そのうちのどれだけの人々が真理に目覚めてゆくことでしょうか。

地球そのものの次元が高まり、ヴァイブレーションが微妙になってゆくその時に、未だなお、かつての修行のやり方、真理を学んだとて何になりましょう。

その時代、その時代に即して真理への道、方法が違ってきて当然であります。

・・・・だがしかし、いつまでも彼ら(聖者賢者)の中に神を見出し、それに従っていたのでは自分自身の内なる神は一体、どうなってしまうのでしょうか。

永遠に見出せぬままに終わってしまうのでしょうか?

その通りです。

人類すべての人々が自分自身の内に神を見出すまで、神と出会う時まで輪廻転生(生ま
れ変わり死に変わり)は続くのです。・・・・・・



『つながり合う世界』西園寺昌美著 白光出版



心のバランスを


  
どんなに酷い人とでも、自分の心を乱すことなく、冷静に対応することが出来たのなら、幸せ

の半分以上は手に入れたと言っていいと思うのです。

それくらい人間関係とは複雑怪奇で手のつけようがないと思われています。

しかし私たちの周りには、誰とも対立せず穏やかで、その問題児も自然に受け入れ、いつも

ニコニコしている人がいるものです。

私たちはその人のことを

「仏さまのようだ」

「神さまみたい」

と尊敬のまなざしで手を合わせて拝んでいます。

そして自分には無理だ、あの人のようにはなれないと思い込んでいます。

 

おそらくその人の心の中には、

怒りなどの感情と共鳴するような

 
火種

がまったくないと思うのです。

いつも心の中をすっきり爽やかな、雲一つない青空のようにさせる。

それが幸せになるメソッドだと思います。




               『心のバランスを』


どんなことがあっても人とは対立するものではなく、柔和に打ちとけあってゆくことである。

どんな人にでも自分の心の中に、闘争心や対立心が潜んでいるものである。

それをまともに人にむけず、強い心で己をコントロールし、まず自分自身に打ち克つことである。

自分に都合の悪い人でも、心和やかに対処すると、かえって予想もしない結果を招くことになる。

 

          『日々の指針』西園寺昌美著 白光出版

 



追伸・・・自分の心、感情をコントロールすることを波動調整と言います。

私の実践しているのが、「調和波動気功法」です。


          http://www.harmony-wave.jp/

日本は世界の代表なのです 


  

たった今、「世界のひな形━日本」という本が届いたところです。

ここには今人間が、いや日本人がしなければならないことが書かれています。

いつもだったら読んでしまってから感想などを書くのですが、読むのと書くのを同時進行でやってみたいと思います。

心の響いた文章をそのまま、あるいは感想を交えながら書いてみたいと思います。

では、まず世界のひな形とは何か?

日本は地球の国の縮図と言われています。

九州はアフリカ、四国はオーストラリア、地球の中で一番波動が粗いのはニューヨークだそうですが、それは私がよく通っている大阪のミナミという街だそうです。

つまり日本は地球を代表する国なのです。

だから原爆も一番最初に落ちた、地震や津波等の被害も一番受けています。

しかしそこから立ち直っていける強さを持っているのです。

日本が浄まればそこから世界へ発信していき、全世界が善くなっていく。

それは神様のご計画なんですね。

これからそのことを詳しく書いて行きます。

私たちは肉体界に住んでいるのですが、その前に幽界があるということを知らねばなりません。

幽界とは霊界との間に出来た世界です。

人間の想念がつくった潜在意識の世界です。

想いの世界、迷いの世界です。

人間はマイナスを想うと(プラスもそうですが)そのエネルギーは消えることなく滞っていきます。

プラスを想うよりもマイナスを想う気持ちの方がずっと多かった。

それが今、肉体界に現われて来てしまっているのです。


しかしそういう世界になることも神様はもちろん御承知です。

神様は何を望んでいるか?

それは人間がつくってしまった幽界を浄めていくこと。

つまり祈りによってきれいに浄化して神様の世界、天国を地上に現わすことを望んでおられるのです。

人間は神の子です。

幸せになって欲しい、平和になって欲しい、調和な姿を現わして欲しい、・・・・・それは、私たちの魂の親である神様の率直な願いなのです。


そしてそれは私たち人間は誰でもが想っていることかもしれません。


しかし人間は自分のことばかりに意識がいって、本当に大切な事を忘れてしまっている。

そのことを想い出させるために、今いろんな天変地変を始め、個人的にも不調和(本当は違うのですが)と思われることが起っています。


どう受け止めてどう対処するのか?

人間の真価が問われています。


それがこの本に書かれていると思うのです。




「世界のひな形 ━ 日本」 五井昌久 西園寺昌美 白光出版



  
世界人類が平和でありますようにぴかぴか(新しい)

日本が平和でありますように

私たちの天命がまっとうされますように

守護霊様ありがとうございます

守護神様ありがとうございます



2017年3月 2日 (木)

霊的パワーなどはにせものです。

 

【感じるもの、聞こえるものは全部否定せよ】


パワースポットの場所に行って、そこでジンジンに感じた。

身体が震えた、感動して涙が溢れてきた、神様の声が聞えた・・・・・

これらはすべてにせものなのです。

神界から来ているものではないのです。

本心から来ているものとは違うのです。

ほんものはそんなに簡単にわかるものではないのです。

どういうことかと申しますと

人間は、肉体というボディ(体)の他に幽体、霊体、神体を纏っています。

そして肉体界の他に幽界にも霊界、神界にも同時に住んでいるのです。

だけど、肉体しか目には見えないのでその他のボディ、世界はないと思っています。

そして肉体と幽体はくっついていて常に幽界の影響を強く受けています。

幽界は潜在意識の世界でもあり、迷った霊たちが浄まった世界である霊界や神界に行けずにさ迷っている世界でもあるのです。

この幽界の霊魂たちが肉体界の人間たちに悪さをするのです。

自分たちには、器(体)がないので肉体界の人間の体に憑依してその人間をコントロールしようとしている。

だから感じるというのは幽体というボディです。

幽界のおばけちゃんの仕業なのです。

肉体界→幽界→霊界→神界(本心)

霊界や神界(本ものの世界)は、波動(エネルギー)が細かいので肉体人間には感じないのです。(守護霊や守護神が意図的に感じさせ、どうしても知らせようすることがない限りは、余程のことがない限りありません)

本当の自分がいる神界は幽界からずっと奥の感じない世界にあるのです。

ですからパワースポットなどに行ってまたは、霊的なもの(石やアクセサリーの類い)に触って感じるものなどは全部違うのです。

五感に感じるものはすべて幽体、幽界です。(目に見えるUFOもすべて幽界のおばけのいたずらです)

ほんものはずっと奥にあります。(ほんもののUFOは宇宙意識まで行った人でないと見えません、肉眼ではないのです)

だから、まともな人、常識的な人は

「パワースポットに行って来た」

「霊的なパワーを感じた」

「UFOを見た」

「あそこには、神様が住んでいる」

といった類いの言葉にはすごい違和感を感じているのです。

幽界のおばけちゃんの独特の気配を感じるからです。

それは、聞いた人が幽界の重苦しい、嫌な雰囲気のエネルギーを受けるからです。

スッキリ爽やかな感じではないのです。

だからそういうことを言う人は変な奴、おかしな奴と思われています。

中にはほんとに波動(エネルギー)が善くて、浄まったところもあります。

しかし、感じるのではないのです。

わかるのです。

わかるは感じるの奥にある

感じるのは五感です。

わかるのは、本心です。

わかるとは、感じることではないのです。

本物とにせもの(幽界)を区別することを審神(さにわ)というのですが

これが出来る人は、ほとんどいません。(悟った人だけです)

だから面白半分で、興味本位でパワースポットなどに行ってはいけないのです。

パワーのある石などに関わってはいけないのです。

オバケちゃんの餌食になって面白いように遊ばれるだけです。

そして、大切なお金を取られるのです。


憑依されると取り返しのつかないことにもなりかねません。

そして、まともな人(普通の人)から敬遠されるだけです。

霊的なパワーなんて持とうとするのが間違っているのです。

そんな邪な、間違った力を得ていったい何を、どうしようとするのですか?

目的はなんですか?
 

霊的なことに興味のある人は下記の文章を是非、読んでください。
 


 

誤った霊能


 

真の霊能と魔境的、迷い心の幻覚、幻聴とは違います。

魔境とは、まず最初に自己の力を誇示したいとか、自己の都合のよいようにその力をつかいたいとかいう想念でなった霊眼、霊聴、霊言のすべてをいいます。

そうした想念が魔境的想念なのでありますから、そうした想念、統一でなった霊能は、全部一度打ち消してもとの普通人に還らなければいけません。

それは例えば霊眼に仏菩薩の姿がみえ、霊聴に神と称しキリストと名のってきこえてきても、これはダメなのです。

何故かというと、自己利益的欲望では、絶対に神仏の真の力をいただく境地にはなれないからです。

魂の開発向上には少しも役に立たぬばかりか、ついに自己の身を滅ぼし、他人の魂を傷つけ、ゆがめてしまうようにもなるのです。

           「日々の祈り」 五井昌久 白光出版



  



アインシュタインはユーモアの天才だった



アインシュタインは20世紀でもっとも優れた科学者であると言われているのですが、本人

は天才ではないと言っている。

それは正直な気持ちだと思うのです。

ただ違ったのは、宇宙(天、本心)と波長を合わせるのがうまかった。(だから天才)

そして天から無限の叡智だけではなく、ユーモアというセンスも降ろして来た人です。

舌を出して笑っているお茶目な写真を見られた人も多いと思います。

アインシュタインは

人間はユーモア(ジョーク)という余裕がないと

「人生が楽しくならないよ」 と言っているような気がします。

「アインシュタイン150の言葉」からわたしが選んだ語録をご紹介します。

 

1.あなたはほんとうにそう思っているんですか?他人によって永遠の幸せが得られるな

んて。いくらその他人が最愛の男だったとしても。 私は、自分自身の経験から、男というも

のをよく知っています。だって、私もその一人なんですから。男に期待しすぎてはいけませ

ん。このことは、私にはよくわかっています。


2.人は海のようなものである。あるときは穏やかで友好的。あるときはしけて、悪意に満

ちている。ここで知っておかなければならないのは、人間もほとんどが水で構成されている

ということです。


3.私の母は、だいたいにおいていい性格の持ち主ですが、姑としては、まったくの悪魔で

す。彼女がわれわれ夫婦と一緒にいるとき、まわりはダイナマイトでいっぱいになってしま

います。


4.蝶はもぐらではない。でも、そのことを残念がる蝶はいないだろう。


5.ああ、悲しいかな。エゴと競争心は、公共性と義務感より強い。


6.ある偶然の出来事を維持しようとする不幸な試みを結婚という。

 
7.異性に心を奪われることは、大きな喜びであり、必要不可欠なことです。しかし、それが

人生の中心事になってはいけません。もし、そうなったら、人は、道を見失ってしまうことで

しょう。


8.どうして、自分を責めるんですか?他人がちゃんと必要なときに責めてくれるんだから、

いいじゃないですか。


9.わたしは、先のことなど考えたことがありません。すぐに来てしまうのですから。


10.
私は自然について少し理解していますが、人間については、ほとんど まったく理解し

ていません。


11.死はいずれやって来る。それがいつかなんて、どうでもいいじゃないですか。


12.熱いストーブに1分間手を乗せてみてください。まるで1時間くらいに感じられるでしょ

う。ところが、かわいい女の子といっしょに1時間座っていても、1分間くらいにしか感じられ

ません。それが、相対性というものです。

 
13.人間の邪悪な心を変えるより、プルトニウムの性質を変えるほうがやさしい。

  
14.われわれは何も知らない。 われわれの知識のすべては、小学生と変わらない。

 

15.わたしたちが体験しうる最も美しいものとは、神秘です。これが真の芸術と科学の源

となります。 これを知らず、もはや不思議に思ったり、驚きを感じたりできなくなった者は、

死んだも同然です。

 

16.常識とは、18歳までに身につけた偏見のコレクションのことをいう。

 

17.わたしは天才ではありません。 ただ、人より長く一つのことにつき合ってきただけです。

         
             『アインシュタイン150の言葉』



  



2017年3月 1日 (水)

罪を憎んで人を憎まず



警官の涙】


明治26年(1893)6月7日正午、四年前に熊本で警察官を殺害して逃亡した強盗犯が、福岡で捕えられて熊本へ護送されてきた。

殺された警察官は、地元の人々からの人望がとても厚い人物だったという。

そのためだろう、熊本駅前には多数の群衆が押し寄せ、一帯はきわめて穏やかではない雰囲気に満ちていた。

その群衆の中に、当時、第五高等学校(現・熊本大学)で教鞭をとっていたラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の姿があった。

ハーンはいったい何が起きるのだろうかと不安な気持ちを抱いていたようだった。

列車が到着すると間もなく、一人の警部に背中を押されるようにして、後ろ手に縛られ首をうなだれた犯人が改札口から出てきた。

警部が犯人を改札口の前に立ち止まらせると、群衆はいっせいに前の方へ押し出てきたが、しかし静かに見守るような様子であった。

そのとき警部が大声で呼んだ

━ と、ハーンはそこで見た光景を次のように書いている。

「 『杉原さん、杉原おきび、来ていますか?』

背中に子供を負うて私のそばに立っていたほっそりとした小さい女が

『はい』

と答えて人込みの中をおしわけて進んだ。

これが殺された人の寡婦(未亡人)であった、負うていた子供はその人の息子であった。

役人の手の合図で群衆は引き下がって囚人とその護衛と周囲に場所をあけた。

その場所に子供をつれた女が殺人犯人と面して立った。

その静かさは死の静かさであった」

警部はその子に向かって、低いがはっきりした声で話しかけた。

「坊ちゃん、これが四年前にお父さんを殺した男です。

あなたは未だ生まれていなかった。

あなたはお母さんのおなかにいました。

今あなたを可愛がってくれるお父さんがないのはこの人の仕業です。

御覧なさい、(ここで役人は罪人の顎に手をやって厳かに彼の眼を上げさせた)よく御覧なさ い、坊ちゃん、恐ろしがるには及ばない、厭でしょうがあなたのつとめです。よく御覧なさい」

ハーンが見ていると、その男の子は母親の肩越しに犯人の顔を恐れるように見やった。

それからすすり泣き、涙を流しながら、恐れを追い払うようにしてしっかりと、眼をそらすまいと力を込めているかのように犯人の顔を見つめ続けた。

そのとき「群衆の息は止まったようであった」とハーンは記す。

犯人はみるみる顔をゆがませると、突然身体の力が抜けたかのように倒れこみ、地面に顔を打ちつけ、声を震わせて叫ぶように言葉を放った。

「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんして下さい、坊ちゃん。

そんな事をしたのは怨みがあってしたのではありません。

逃げたさの余り恐ろしくて気が狂ったのです。

大変悪うございました。何とも申し訳もない悪い事を致しました。

しかし私の罪のために私は死にます。

死にたいです。喜んで死にます。

だから坊ちゃん、憐れんで下さい、堪忍して下さい」

子供は無言のまま泣き続け、警部は犯人を引き起こし、二人が歩きはじめると群衆は左右へ分かれて道をあけた。

すると突然に 「全体の群衆」がいっせいにすすり泣きをはじめた。

と同時にハーンは、犯人をつれて歩く警部の顔に涙を認めて大きな驚きをもった。

「私は前に一度も見た事のない物、めったに人の見ない物、恐らく再び見る事のない物、即ち日本の警官の涙を見た」

群衆が引き上げていくなか、ハーンは

「この光景の不思議な教訓を黙想しながら」一人その場に立ち続けていた。

ハーンは、この場には「罪悪の最も簡単なる結果を悲痛に示す事によって罪悪を知らしめた容赦をしないが同情のある正義」があった。

犯人には 「死の前に只容赦を希(ねが)う絶望の悔恨があった。

・・・・・中略・・・・

大いなる罪を犯した者がまちがいを悟り後悔しているんだなと、反省してみずからの行為を恥ずかしく思っているんだなと心から理解できたとき、人道にもとる凶悪犯人への怒りが消え て、その代わりに罪に対する悲しく哀れな気持ちでいっぱいになる

 ━ ハーンが目撃したのは、まさしくそうした日本人の心情倫理が息づくさまであった。


日本人がしばしば口にする

 「罪を憎んで人を憎まず」 の言葉が、単によき理念を表す格言としてあったのではなく、日 常の実際的な状況のなかに生きる倫理観としてあったことが、ハーンが語ったこの明治期の一エピソードからひしひしと伝わってくる。


このような日本人の心情倫理は今なお健在だろうか。

昨今のテレビ報道でしばしば耳に入るのは、

「どうか犯人を死刑にしてください」

「生涯、けっして許すことはできません」

といった犯罪被害者遺族たちの声である。

もし私が親兄弟姉妹を殺害されたとすれば、同じような言葉を吐くかもしれないと思う。

それは、現在の社会ではハーンが目撃したような場面を体験することが、

「けっしてない」とすらいえる現実と深くかかわっているのではないだろうか。

今では、犯罪者(の思い)と被害者遺族(の思い)が接点をもつことは許されない。

犯人に心からの「反省と悔恨」があると人づてに聞いても、身体で感じ取れる直接性を得るこ とはできない。

言葉だけ・・・・との思いから、いっそう受け入れられない気持ちが強くなるばかりだ。 

とすれば、遺族たちはどのようにすれば、罪人への憤怒の情から罪への悲哀の情へと移り変わることができるのであろうか。

また罪人はどのようにすれば、自らの「容赦を希う絶望の悔恨」を被害者遺族に伝えられる のだろうか。


ハーンが目撃した明治期の警部の 「はからい」 のような実際的な契機はなくとも、

「罪を憎んで人を憎まず」 の気持ちは今なお日本群衆のものであり、当事者もまた、やがて は日本群衆の気持ちに同化していく ━ 私にはそう信じられる。


犯人が死刑になろうが恨み続けようが、亡くなった者は帰ってこないけれども、人は死ぬと神となり仏となり、この世の一切の善悪を超えた存在となる。

こうした鎮魂への思いが強ければそれだけ

 「罪を憎んで人を憎まず」

 の平穏なる気持ちへ至ろうとするのではないだろうか。

死者の供養に一切を許していこうとする日本人は今も健在だと私は思う。




 なぜ世界の人々は「日本の心」の惹かれるのか 呉 善花 PHP




  


一生懸命と頑張るの違いは




一生懸命とは、命を懸けるということで、その瞬間には命を捨てているのです。

つまり自分を投げ出している、小さい枠の肉体意識を越えているのです。

人間は肉体以外には何もないと思っているけどいつも言っているように

私たちは同時に幽体、霊体、神体のボディを纏っており、幽界、霊界、神界にも同時に住んでいるのです。

肉体の大きさは170センチ65キロであっても、幽体(オーラ・雰囲気)の大きさはビル一棟分もあり、霊界に至っては地球の大きさがあり、神界は宇宙大です。

だから人間がほんとうに 空=一生懸命 になったときその大きさは宇宙大なのです。 (神界、宇宙と繋がっているから)


オリンピックで金メダルを取った人が
 

「自分がしていたのではない、何か違う力が働いていた」
 


と言っているのは 空 になっていたのです。


一方、頑張るとは我を張る、つまり肉体の力でなんとかしようとすること

肉体の意識を越えていないのです。

肉体だけの力しか出てこないので微力です。

頑張るのが悪いと言っているのではなく、もったいないのです。

潜在的に無限の力を持っているのにほんの数%の力しか出ない。

生命が活き活きしていないのです。

反対に一生懸命に生きていると生命が輝いて来る。

一日一日を一日一生だと思って、一生懸命に生きることは、時空を超えて、光輝いた本来の姿を現し続けることなのです。

それは肉体を去って、違う世界へ行っても未来永劫ずっと続く宇宙の法則です。



それくらい素晴しいことなんですよ わーい(嬉しい顔)
 



時空を超えて宇宙と繋がる祈り言葉

 

世界人類が平和でありますように

May peace prevail on earth


 

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