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2016年2月 1日 (月)

「神と人間」について五井先生の祈祷法 5




感想

私はこの「神と人間」の感想を書いていて、本文があまりにも素晴らしいので余計なことを

してしまっているのでは?と思うことがあります。

しかし、本文へ繋ぐためのジョイントとして 「読んでみようかな」 と思っていただけたら少

しは価値のあるものになるのかな?と思っております。

さて、下記の本文のどこが素晴らしいかというと、レベルの高い本ものの愛(チャリティー)

には、自分がどうなりたい、どう思われたいなどという我がないのです。

自分がの我、我があるうちは、それは純粋なものではなく、汚れたものなのです。(五井先

生のご著書には我がまったく無いのです)

だがしかし、我がなければこの世の中をたくましく生きていけない、競争に勝たなければ職

を失いその結果、食を失ってしまう(笑いごとではありませんが)ではないか?

そこで私は思うのですが、どうして競争をして、戦争をして、対立をしてまでも勝たなければ

ならないのか?

争わないでみんなが協力し合って、助け合って調和して生きてゆくのがほんとう(真実)で

はないのか?と思うのであります。

物質文明はもうこれ以上発展しなくてもいいところまで来ています。

便利になり過ぎています。贅沢になり過ぎています。これ以上文明が発展すると人間が怠

惰になるところまで来ています。

経済成長は、「消費は美徳」 を基本としています。

物を大切に扱うのではなく、より便利なものが出たら、購買し、古いもの?は捨てるように

奨励しています。(奨励しているのと同じです)

しかし物には魂が宿っていて、愛情、愛着が湧くと簡単に捨てたり、手放したり出来ないの

です。 それが人間の本性です。

「今の世の中どこかおかしいのではないか?」 真剣に生きている人のならば、気づいてい

るはずです。

どこが間違っているのか?・・・・・・・


それを見抜くベースとなるものは、そこに愛があるか?です。

愛がなければ本物(真理)ではないからです。

昔、私が受験勉強をしているときに、ラジオの深夜放送を(キリスト教の番組)聴いていて、

心に響き今でも時々思い出すフレーズがあります。

この言葉を思い出すと心がホッコリと熱くなるのです。



“心に愛がなければどんなに美しい言葉も相手の心に響かない” (聖パウロの言葉より)






本文


いかに達者な弁で真理の道を説いても、心に愛の薄い人は、その姿に光が薄いし、何も

説けずに、ただ黙ってその不幸な人の開運を祈っていても、愛の深い人の姿は、光輝いて

見えるのである。



愛は光であり、光は即ち神である。


真の行いは神の行いである。


愛の黙想は光そのものである。


愛に充ちた真理の言葉は神の言葉である。


あの人を善くしてあげたい、と思ったら、まず自分が光にならなければならない。


光になるとは、愛そのものになることである。


それは自分の立場がよくなるとかいう不純な心があってはいけない。


真に善くしたい、という、純粋な愛の心でなければならぬ。


その場合、純粋な愛は自己の想念停止(無我)と同じであるから、本源の光がその人を通

して、相手に流れ入るのである。


愛の純粋さの程度に従って、光の強さが違ってくる。


病気などの場合、なおしてやるんだ、という力みや、不安動揺の心は、光を乱し、弱める。


よく、霊治療家や、霊覚者になりたい、といって、修行する人があるが、私はそれに反対す

る。


そうした特別な力を得たい、と思う心は、神の心に遠いからである。


何故ならば、神はすでに、その人、その人に対して、天命を授けているのであって、正しい

霊能者や、霊覚者になる者は、自然にそうなるような方向に、守護神が導いてゆき、その

人に必要な修行を現象の心の否応なしにさせられてしまうのである。


私は音楽家で世に立とうと思って、音楽を勉強した者であるが、いつの間にか、種々と哲

学や宗教や、心霊学の道にひき入れられてしまい、ついに種々な修行をさせられて、現在

のような人生指導者になってしまったのである。


その間、私は友人の誰よりもよけいに勉強したわけでもなく、特別な能力が欲しいと願った

こともない。


ただ、常に、常に、神に祈っていたことは確かである。



その祈りは ━


“神様、どうぞ、社会人類のために、私のいのちをおつかい下さい。私に授けられた私の使

命を一日も早くなさしめ給え”



という意味のもので、この祈りは常に、私の心を離れることはなかった。


霊能を得たい、ということは 我 である。


特別な力を得たい、という心も 我 である。


そうした我の祈りや願いは、低い霊魂に感応しやすい。


その祈りが通って、霊能者になったとしても、その人が、そうした我の心を捨てない以上

は、その人の運命は最後に行き詰ってくるであろうし、その人の力では、真に救われる人

は出てこない、と私は思っている。


真摯な愛の祈りと、無邪気な明るさ、運命を信ずる楽天、こうした要素が、神に通ずる心で

あり、いかに祈っても、邪気ある心、暗い心、不安の念(おも)いなどがあっては、神の心に

触れることはできない。




             つづく
 




   『神と人間』 私の祈念法 五井昌久 白光出版





 

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