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2016年2月 4日 (木)

「神と人間」について 五井先生の祈祷法(最終章)

 



感想


自分の子どもだけではなく、人に対しても自分の言っていることや、やっていることが相手の人が自立することになるのか?ただ甘やかしているだけなのか?を常に自問自答することが大切だと思います。

甘やかすことは、その人の精神的な自立、成長(進化・神化)を遅らすことになり、大きな意味で言えば、その人個人の問題に留まらず、人類の進化にも影響を与えるのです。

先日のセミナーでウ先生が 「自分の中に宇宙があり、宇宙の中に自分がいるのです」 とおっしゃったのですが、人間とは神そのものであり、神そのものとは宇宙そのものということであり、一人一人が自分の中にある無限大の宇宙を創造しているのです。

だから宇宙そのものの人間の進化を妨げる行為は、とんでもないことなのだとわかります。

人間の幸せは自立にあります。

夜空に輝く星のように、私たち人間は、寄り添って依存するのではなく、周りの星との調和を保って、絶妙の距離感を保って、一人で凛と美しく光輝くものなのです。

アメリカインディアンの教えで、

「人間は生まれるときも死ぬときも一人である」

とあります。

そういう意味では人間は孤独です。

孤独(自分)を愛し孤独を乗り越えたとき、自分は一人ではない、周りの人に支えられ助けられ神(守護霊、守護神)に愛されて生きているんだと感じるのです。

ほんものの愛とは、生易しいものではないのです。

「愛は忍耐」 は真実の言葉だと思います。

忍耐の忍は心の上に刃と書くのです。

ほんとうの愛を貫こうとするのなら、

 「相手に好かれたい」 「いい人だと想ってもらいたい」 

などという甘えはいらないのです。

好きだ嫌いだは薄っぺらい感情です。

だがしかし人間は、感情を喜ばすことを愛だと思っている。

感情を喜ばせてくれる人を 「いい人だ」 と思っている。

そこに間違いがあるのだと思います。







本文

定まった一時刻(いっとき)の祈りよりも、常に常に心に抱いた想念のほうがよほど効果があるのである。


だから、いつも泣きごと、ひがみごとや、恨みごと、病気の不安などを想いつづけていたら、その想念の作用で、その人の運命は、いつも暗く不幸なものになってしまうのである。


想念は、運命に大きな作用を及ぼすことを忘れてはいけない。


“愛はすべてを癒すのである”


すべての不幸を打開するのは、愛の心が根柢にある行動である。


私の祈りは、愛の祈りである。


智慧は愛のうちに含まれていると私は思っている。


ただし、愛とは情ではないことを申し添えて置きたい。


情は愛から生まれたもので、愛情と一つに呼ばれているように、愛とは切っても切れぬ関係がある。


そのため、仏教では、愛さえも業(ごう)と呼んでいて、迷いの本体である、と説いている。


そして神の愛を慈悲と呼んでいる。


私が今まで愛と書いてきたのは、情(執着)ではなくて、英語でいうCharity(チャリティー、大慈悲心)のことである。


しかし、愛は善で、情は悪である、と簡単に割り切ってもらっては困る。


この現世では光に影が伴うように、愛には情がつきまとうのである。


切りがたい情を涙を呑んで断ち切ってゆくところに、人間の美しさがあり、愛の輝きがます
のである。


情を簡単に切れることが、その人の冷酷性の現れであったりしたら、情に捉われやすい人よりなお悪いことになる。


愛深い人が情に溺れぬように自重してゆく姿には、美があるもので、そうした人の動きの中に、神のこの現象界における生き方が示されているものと思われる。


私の祈りは、自分が相手と一体になって、相手を抱いたまま、神の世界に昇ってゆこうとする祈りである。


祈りとは、まず自分の心を空っぽにすることである。


それまでの自分をひとまず捨てて、神だけを自分の心に住まわせることである。


願いごとは、すべて後まわしにすることである。


神だけを自己に住まわせれば、その人に必要な願いごとは、すべて叶うのである。


小我の祈りは、その人をますます小さくするだけで、なんの得にもなりはしない。


ただ、神だけを想うことである。


愛だけを行ずることである。


愛は、時には峻厳を極める場合がある。


しかし冷酷とは全然異なるものである。


愛は全体を生かすとともに、そのもの、そのことをも、真に生かすために峻厳さを示すものであり、冷酷とは、自己や自己の周囲の利益のために、すべてを殺すものである。


愛の峻厳であるか、冷酷性からくる厳しさであるか、自己を省み、他を参考にしてよく自己の道しるべとしなければならぬ。


愛の峻厳を装った冷酷、愛ともまごう情意(執着)、この二つの心を超えるためにこそ、人は神に祈り、神と一体にならねばならぬ。


私はそうした人間の深い問題を、根柢から知らせる役目を神から受け持たされているものと信じて、毎日、空即実相の祈りを、多くの人びとともに祈りつづけているのである。


 
                  おしまい

 


 

『神と人間』 私の祈念法 五井昌久 白光出版


 
  

 





 

2016年2月 2日 (火)

「神と人間」について 五井先生の祈祷法 6



 

感想

暗く落ち込んだときにどうしたらいいか?というとただ単純に、シンプルに空を仰ぎ見ればいいのです。

“素晴らしい” という字は、素(宇宙)は晴れているという意味です。

雲の上に雲はない、青空が無限に拡がっているだけです。

空を見るということは、宇宙の無限のプラスのエネルギーに波長を合わせることになります。

だから上を向いているだけで、天を見ているだけでなぜか気持ちが晴れてくるのです。

日本の名歌 「上を向いて歩こう」 (歌 坂本九さん)が今なお、世界中の国で愛されているのも真理を突いているからだと思うのです。

そして本文にありますように、自分を 「愛深い人間にしてください」 と祈る祈りですが、愛とは神なのです(か~あ み~い)、ですから、愛深くなるとは、神さまにしてくださいと同意語になります。

人間は元々神の子なのだけれど、それを忘れてしまっている、元々愛深い人なのだけれどどこかに置いてきてしまっている、それを 「思い出しなさい」 ということなんですね。




本文


真摯な愛の祈りと、無邪気な明るさ、運命を信ずる楽天、こうした要素が、神に通ずる心であり、いかに祈っても、邪気ある心、暗い心、不安の念(おも)いなどがあっては、神の心に触れることはできない。



不安の心多き人、暗い心の人たちは、常に天を仰ぐことを実行するがよい。


天からはいつも、陽気が降ってくる。


たとえ雨や曇りの日であっても、天に心をむけることが大事である。


天に心をむけると、いつの間にか、心が軽く明るくなるものである。



そして次のように祈るとよい。



“神様、どうぞ私の心に愛を充実せしめ給え、どうぞ愛深い私にならしめ給え”  と。



その祈りを毎日かかさずつづけていることは、細かい種々な願いごとをする神詣、仏参りより、はるかに、はるかに、その人を高い境地に導いてくれるものである。



立っていても、坐っていても、歩いていても、寝ていても、そんな形のことはどうでもよい。



ただひたすら、愛深い自分になることを祈りつづければよいのである。



定まった一時刻(いっとき)の祈りよりも、常に常に心に抱いた想念のほうがよほど効果があるのである。






                 つづく

 



   『神と人間』 私の祈念法 五井昌久 白光出版


  




 

2016年2月 1日 (月)

「神と人間」について五井先生の祈祷法 5




感想

私はこの「神と人間」の感想を書いていて、本文があまりにも素晴らしいので余計なことをしてしまっているのでは?と思うことがあります。

しかし、本文へ繋ぐためのジョイントとして 「読んでみようかな」 と思っていただけたら少しは価値のあるものになるのかな?と思っております。

さて、下記の本文のどこが素晴らしいかというと、レベルの高い本ものの愛(チャリティー)には、自分がどうなりたい、どう思われたいなどという我がないのです。

自分がの我、我があるうちは、それは純粋なものではなく、汚れたものなのです。(五井先生のご著書には我がまったく無いのです)

だがしかし、我がなければこの世の中をたくましく生きていけない、競争に勝たなければ職を失いその結果、食を失ってしまう(笑いごとではありませんが)ではないか?

そこで私は思うのですが、どうして競争をして、戦争をして、対立をしてまでも勝たなければならないのか?

争わないでみんなが協力し合って、助け合って調和して生きてゆくのがほんとう(真実)ではないのか?と思うのであります。

物質文明はもうこれ以上発展しなくてもいいところまで来ています。

便利になり過ぎています。贅沢になり過ぎています。これ以上文明が発展すると人間が怠惰になるところまで来ています。

経済成長は、「消費は美徳」 を基本としています。

物を大切に扱うのではなく、より便利なものが出たら、購買し、古いもの?は捨てるように奨励しています。(奨励しているのと同じです)

しかし物には魂が宿っていて、愛情、愛着が湧くと簡単に捨てたり、手放したり出来ないのです。 それが人間の性です。

「今の世の中どこかおかしいのではないか?」 真剣に生きている人のならば、気づいているはずです。

どこが間違っているのか?・・・・・・・


それを見抜くベースとなるものは、そこに愛があるか?です。

愛がなければ本物(真理)ではないからです。

昔、私が受験勉強をしているときに、ラジオの深夜放送を(キリスト教の番組)聴いていて、心に響き今でも時々思い出すフレーズがあります。

この言葉を思い出すと心がホッコリと熱くなるのです。



“心に愛がなければどんなに美しい言葉も相手の心に響かない” (聖パウロの言葉より)






本文


いかに達者な弁で真理の道を説いても、心に愛の薄い人は、その姿に光が薄いし、何も説けずに、ただ黙ってその不幸な人の開運を祈っていても、愛の深い人の姿は、光輝いて見えるのである。



愛は光であり、光は即ち神である。


真の行いは神の行いである。


愛の黙想は光そのものである。


愛に充ちた真理の言葉は神の言葉である。


あの人を善くしてあげたい、と思ったら、まず自分が光にならなければならない。


光になるとは、愛そのものになることである。


それは自分の立場がよくなるとかいう不純な心があってはいけない。


真に善くしたい、という、純粋な愛の心でなければならぬ。


その場合、純粋な愛は自己の想念停止(無我)と同じであるから、本源の光がその人を通して、相手に流れ入るのである。


愛の純粋さの程度に従って、光の強さが違ってくる。


病気などの場合、なおしてやるんだ、という力みや、不安動揺の心は、光を乱し、弱める。


よく、霊治療家や、霊覚者になりたい、といって、修行する人があるが、私はそれに反対する。


そうした特別な力を得たい、と思う心は、神の心に遠いからである。


何故ならば、神はすでに、その人、その人に対して、天命を授けているのであって、正しい霊能者や、霊覚者になる者は、自然にそうなるような方向に、守護神が導いてゆき、その人に必要な修行を現象の心の否応なしにさせられてしまうのである。


私は音楽家で世に立とうと思って、音楽を勉強した者であるが、いつの間にか、種々と哲学や宗教や、心霊学の道にひき入れられてしまい、ついに種々な修行をさせられて、現在のような人生指導者になってしまったのである。


その間、私は友人の誰よりもよけいに勉強したわけでもなく、特別な能力が欲しいと願ったこともない。


ただ、常に、常に、神に祈っていたことは確かである。



その祈りは ━


“神様、どうぞ、社会人類のために、私のいのちをおつかい下さい。私に授けられた私の使命を一日も早くなさしめ給え”



という意味のもので、この祈りは常に、私の心を離れることはなかった。


霊能を得たい、ということは 我 である。


特別な力を得たい、という心も 我 である。


そうした我の祈りや願いは、低い霊魂に感応しやすい。


その祈りが通って、霊能者になったとしても、その人が、そうした我の心を捨てない以上は、その人の運命は最後に行き詰ってくるであろうし、その人の力では、真に救われる人は出てこない、と私は思っている。


真摯な愛の祈りと、無邪気な明るさ、運命を信ずる楽天、こうした要素が、神に通ずる心であり、いかに祈っても、邪気ある心、暗い心、不安の念(おも)いなどがあっては、神の心に触れることはできない。




             つづく
 




   『神と人間』 私の祈念法 五井昌久 白光出版


  

  


 

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