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2016年1月24日 (日)

「神と人間」 について五井先生の祈念法 1



感想
 

私たちは、頭でものを考えることがあたり前だと思っています。

熟考し、長考して出した答えや結論は、一瞬でヒラメイタ直観よりも、重みもあり、正しいとさえ思っています。

しかし、実は私たちは考え過ぎて出した答えよりも直観で動いていることのほうが多いのです。(知らず知らずのうちにそうしている)

そしてなぜか人間関係、恋愛関係、仕事、その他のことも自分がほとんど考えていなかったり忘れているときに事はうまく行っている(進んでいる)のです。

あたかも自分の知らない所で、誰かが万事を整えてくれているかのように・・・・・・。

頭でどうのこうの、計算しているとほとほと自分が嫌になってきますよね(笑)

「あいつがあんなことを言ったから辞めておこうかな?」 「あっちの方が得そうだからこっち

はやめよう」 「効率のよいのはどっちかな?」 「相手の人はどう想うかな?」・・・・

どうでもいいことを感情(勘定)で判断しようとします。

すると考えすぎた結果、ほとんどが上手くいかないのです。(宇宙法則を外れているから)


子どもがかわいいのは?猫や犬によって癒されるのは、大人の人間のように思惑がないからです。 

思慮分別がないからです。 

計算しない、ジャッジしないからです。

天真爛漫に直観のまま素直に生きている、宇宙法則のまま天(神様)のみ心のままに自然体で生きている。


五井先生は、自分という我を無くし、天智(天から送られて来るメッセージ)のままに生きておられました。

お釈迦様もそうですし、キリスト様も、その他の聖者たちは、みんなそうです。

エネルギーの無駄使いが一切無かった、潜在意識に潜んでいた潜在能力を100%出しておられたのです。

私たちは頭で余計なことばかり考えているので、潜在能力の一万分の3~5しか出せていないのだそうです。 

なんともったいないことでしょう!


どうすれば、無駄なくほんとうの自分の力(無限なる叡智)を発揮出来るのでしょうか?

それはこれまでもこのブログでかなり書いてきたつもりですが(笑)、これからの本文(五井先生の祈祷法)を読んでいかれたら、きっと判られると思います。

楽しみにしていてください(笑)


 

私の祈念法

 

私は現在、毎日多数の人びとの相談に応じて、寧日(ねいじつ)ない有様であるが、ほとんど疲れが残ることはない。
 

業因の深い人と対座する瞬間、相手の業因が、電波の如く、私の肉体身に感応いしてくるのだが、それもほんの瞬間に消えて、疲れがそのまま残っているようなことはすくない。
 

私の肉体の頭脳は常に 空 なのである。
 

私は肉体の頭脳でものを考え出すことはない。
 

必要に応じて必要を充たす智慧が、私の本体から自然と肉体に伝わってくるのである。

 
私は霊媒ではないから、霊動したり、霊言したりはしない。


普通の肉体人間となんら変わらぬ平々凡々たる人間に見えるし、常識を一歩も越えぬ生活をし、行動をしている。
 

しかし、根本的にはまるで違っている。
 

それは私の本体が光であることを体験として知っていることであり、私の言動が、すべて神(本体)から直接に支配されていることをはっきり認識しているからである。
 

普通、人間は、常になんらかの想念が頭脳を駆け巡っているのだが、私の肉体頭脳を駆け巡る想念は何もない。
 

私はかつて、一切の想念を断絶する練習を私の守護神から強制的にやらされたのである。


それは、普通の座禅や、精神統一の類ではなく、二十四時間ぶっつづけの練習なのである。(このことについては、自叙伝“天と地をつなぐ者” を参照されたい)苦しいといえば、これほど苦しいことはない。


ものを想わぬこと、念を停止すること、即ち、空になる練習なのである。

寝ても起きても、歩行していても、全時間、すべてこの練習なのである。

この期間約三ヶ月、自我を全部滅却して、神我に変えたのである。


霊媒ならば、肉体を、その支配霊に他動的に委ねて、自己の我はねむっていればよいのだが、私の場合は、自己意志で、自己の我を消滅し去ろうとするのである。


いいかえれば、因縁の流動を超えて、自由自在心になるために練習なのである。


原因結果、原因結果と果てしなく輪廻する業因を超えるためには、その業因をつかんでしまってはいけない。


いかなる業因縁が果として現われようとも、果として現われれば、その因縁はそのまま消えるのだから、消えてゆくという念と、これで善くなる、という善念だけ出せば、運命はその時、新しい善因を記録する。


そうした方法を根よくつづけて行けば、その人の潜在意識は、しだいに善因縁に変化してゆき、顕在意識の善なる想念と正しく交流して、その人の運命は好転する。


私は人びとに、そのような方法を教え、練習させながら、私自体は、私の想念をすっかり停止して、相手の業因縁を、私自体の生命(心)の中に吸い込んでゆく黙想をする。


これは苦しい想念停止の練習によって、到達し得た空即実相の黙想なのである。


                       
                         
                     つづく




      『神と人間』より私の祈念法 五井昌久 白光出版



 

 

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