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2016年1月31日 (日)

「神と人間」について 五井先生の祈祷法 4



感想

巷で占いの類の店などを見ることがありますが、霊感の無い私でも、その異様な雰囲気は感じるのです(苦笑)。

そしてそこから時々現われる人の姿(占い師も占ってもらっている人も)は、幽界のオバケちゃんに取り憑かれた、お気の毒な人たちです。

なぜそうなるかと申しますと、まず、人の過去や未来を占おうという人は、占いが当たったとしたときに、「あなたは凄い、神様だ」 「どうしたらいいんですか?あなたに私の人生を託します」 と言わせたいのです。

そんな心境は、肉体人間を操って、いたずらしてやろうという幽界のヤカラ(不良霊)たちと共鳴します。 

そして魂を乗っ取られてしまうのです。(取り憑かれる)

また、自分の人生を悲観し、 「今、こうなっているのは自分のせいではない、どこか他に原因があるんだ、自分ではどうしようもないんだ」 と責任転嫁し、外のものに依存しようとしている人が多いのです。(すべての人がそうだとは限りませんが)

自立している人、しようとしている人は、人や占いに依存しないのです。

自分の中、内から力を出そうとします。

自分の内には潜在能力があり、無限の叡智が秘められているのです。

真理とは内にある無限の可能性を引き出してゆくことにあります。

占いなどに頼る(頼り過ぎる)ことは、宇宙の法則、真理から外れているのです。

だから軌道修正が行なわれる結果として、ろくなことが起きないのです。(守護霊は目覚めさせるための手段として)

下記の本文にあるように、人の運命に携わる人とは、愛一念でなければなりません。

私心があってはいけない、

 「尊敬されたい、敬われたい」 「儲けてやろう」 「騙してやろう」 などとは、とんでもないことです。

同じく巷で詐欺等に騙される人がいます。

「騙される方も悪い、馬鹿だ」 と言いますが、その通りだと思います。(ごめんなさい)

隙があるのです。(そこに魔が入る)

今を一生懸命に生きていないからそんなもの(人)に共鳴してしまうのです。

邪な波動は一瞬でわかるはずです。






「霊力と霊能力の違い」

http://goodmoon51.cocolog-nifty.com/blog/2011/01/post-6c91.html





本文


どこまで悩んでも、いかに苦しんでも、救われぬのが人間である、という迷妄を覚させるために、私は働いているのである。


であるから、ただたんに “おまえの運命はかくかくしかじかだから” と、その人の運命の悪さを指摘したり、“おまえの心が悪いから、おまえの病気や不幸はなおらない” というような指導のしかたはしないのである。


ただひたすら、その人の運命の好転を祈る愛念だけで、人に対しているのである。


人の名前を聞いても、その人と対座しても、私の心には、その人の性格や運命が、鏡のように写ってくる。


何故写ってくるかというと、私の心に私自身の想念がないから(私自身が空だから)相手の運命(潜在意識に録音されてある)がそのまま私の空の心に入ってくるのである。


しかし、私は、その事柄をそのまま、その人に告げることはしない。


そのまま告げても、その人を傷つけず、かえって勇気づける場合は別であるが、大体は勇気づけるような内容だけを話して、少しずつその人の誤れる習慣の心、いわゆる、悪想念の癖を善い想念に変えるように指導してゆく。


その間、勿論、私の祈念法をもって、祈念してやることは、いう迄もない。


いかに達者な弁で真理の道を説いても、心に愛の薄い人は、その姿に光が薄いし、何も説けずに、ただ黙ってその不幸な人の開運を祈っていても、愛の深い人の姿は、光輝いて見えるのである。



愛は光であり、光は即ち神である。




             つづく
 




   『神と人間』 私の祈念法 五井昌久 白光出版



  



 

2016年1月29日 (金)

「神と人間」について 五井先生の祈祷法 3



感想

肉体は物質ですよね、目に見えるものです。

しかし今、思ったり考えたりしている心というものは目にも見えないし物質ではありません。

心臓は心の臓器と書くけれど、心臓の中に心が入っているわけではない、そして考える臓器として頭がありますが、頭と心は又違うと思うのです。

人間というものは、考えるのは頭、感じるのは心(心臓)、などとはっきりと決めてしまわないと気が済まないように出来ているようですが(笑)、私はどこにあるのかなんてどうでもいいことだと思うのです。

ただ私の見解(真理)ですが、肉体以前に、心(魂)というものがある、心は肉体と同時に発生するものではなく、地球が出来たときから、いや宇宙が出来たときから、いや宇宙は無限なのだから時空を超えてずっと無限の以前から、そして未来永劫に在り続けているものなのです。

私たちの本体(本心)は宇宙(神界)にあります。

そして、本心に肉体という物質を纏わせて今の生活があるのです。

心が主、肉体は従なんですね。

だから、今現在、肉体という物質(服がわかりやすいです)を纏っていますが、服がボロボロになったら、あるいは役割を終えたら、捨て去る(肉体人間の死)のです。

しかし、心は残っています、生きています。

そしてそのことがわかっている人は、死ぬと同時に悟りの世界である霊界、神界に行くのです。

わからない人は、心が在るので 「まだ自分は生きているんだ」 と錯覚します。

そして霊界神界に行けず、迷いの世界である幽界に留まって時には、肉体人間に悪さをするのです。

あまり書くと切りがないので、今日はこれくらいにしておきます。


そして、下記の本文の中に五井先生がおっしゃりたかった一文があります。



私の本願は、すべての人間に神の存在を知らせ、人間は業生ではなく、光の子、神の子な

のであることを知らせたいのだ。


です、私の感想とこの一文が共鳴してくれることを願っています。






本文



間の肉体は細胞組織でできていて、その細胞は、陽子、電子の寄り集まったもので、それをさらに細かく分析すれば微粒子となり、その微粒子は光の粒だという。


その粒も、もっと根本にゆけば、光の波動である、と科学者がいっているが、人間が真の精神統一に入ると、自分自身が、無限拡の光であることがわかる。


私の想念停止は、自我を脱却したということなので、そこに肉体という物質体が存在していようとも、それはただ光の媒介体があるので、私と対座した人の業生の因縁体(幽体、肉体)に、本源の光が流れこむことになり、分霊にまつわる業因縁が浄まってゆき、分霊の体が軽く清らかになってゆくので、度重ねて私と対座すると、知らず知らずに安心立命の境地に近づいてゆくのである。


この黙想と同時または前後に、柏手を打つことが多い。


これは、相手の因縁の波が多種多様であるので、種々の印を結ぶ。


これは、相手を統一させるためと、こちらの光の波長に合わせるためである。


やさしくいえば、テレビのダイヤルを種々に切りかえるのと同じである。


この祈りは相手と向き合ってやったり、相手を後向きにさせて、祈ったりする。


前向きの時は、その人そのものの、過去世からの業因縁を浄めるのであり、後向きの場合は、その人にまつわる祖先や縁者の想念の浄めなのである。


私は人の運命の方向を指示し、好転せしめるように祈念する。


大体私は易者ではないので、人の運命の過去を当てたり、先を予見したり、性格を指摘したりすることを本願としてはいない。


私の本願は、すべての人間に神の存在を知らせ、人間は業生ではなく、光の子、神の子なのであることを知らせたいのだ。


どこまで悩んでも、いかに苦しんでも、救われぬのが人間である、という迷妄を覚させるために、私は働いているのである。


であるから、ただたんに “おまえの運命はかくかくしかじかだから” と、その人の運命の悪さを指摘したり、“おまえの心が悪いから、おまえの病気や不幸はなおらない” というような指導のしかたはしないのである。


ただひたすら、その人の運命の好転を祈る愛念だけで、人に対しているのである。



              つづく




   『神と人間』 私の祈念法 五井昌久 白光出版



   

  

2016年1月28日 (木)

「神と人間」 について五井先生の祈祷法 2




感想

スポーツや身体を動かすと、なぜ清々しい爽やかな気持ちになるかというと精神が無、空になって何も考えていないからなのです。

何かに集中すると肉体(頭)から意識が外れます。

すると頭で考えているどうでもいいこと、どうにもならないこと、つまり 「どうのこうの」 が無くなるのです(笑)

そして川の流れである血流も良くなり、その一瞬だけでもストレスが無くなり、病気のような症状も緩和されるのです。

人間ってつくづくエネルギー体なのだなあと思うのであります。

本来の健全なる人間とは、エネルギー(血流)がサラサラと流れている状態を言います。

スポーツだけではなく、それが仕事でも、趣味、芸術をやっているときも一生懸命に集中しているときとは、素晴らしい波動体になっているのです。

光っているんですね!

がしかし(笑)、これを覆って邪魔をしているのが、過去世からの想念であり、現在のストレス、周りの人のマイナス想念(集合意識)です。

これらを仏教では業(ごう)と言ったり、キリスト教ではカルマなどと言います。

カタチで例えると黒雲でしょうか、この黒雲が心と体にもくっついてくるのです。

理由もなく気分がすぐれない、訳もなく腹が立ってくるなどは、あまり良い状態ではないのです。

下記に出てくる五井先生は、個人指導で個人や人類の暗雲を取り去っておられるのです。

なぜそんなことが出来るのか?

それは五井先生が無であり空である聖者だからです。

心の中にな~んにも無いので、相手の人の重たい荷物を持ってあげられるのです。

そしてもっと素晴らしいことは、五井先生は黒雲(カルマ)を取るだけではなく、自分で取る方法を教えておられるところです。

取る方法とは、世界平和の祈りです。

世界平和の祈りは宇宙神の理念なので、光輝いています。

この言霊を唱えると、みな光の波動体になるのです。

「自分のエネルギーのメンテナンスは自分でしなさい」(波動調整)、

甘えさせるのではなく、人間をほんとうの自立へと導いてゆく、それが本当の愛だと思います。





世界人類が平和でありますように

日本が平和でありますように

私たちの天命がまっとうされますように

守護霊さまありがとうございます

守護神さまありがとうございます

May peace prevail on earth

無限なる愛 無限なる調和 無限なる平和



調和波動気功法 

http://www.harmony-wave.jp/



本文




相手と向かい合って座る。

私の心には相手の分霊の光と、その分霊が過去から放ちつづけている想念の波が種々なる波長をもって、幽体を流れているのが観じられる。
 

即ち、因縁の波を観じるのである。
 

私はすでに光体になっている私の中に相手の因縁の波が吸いこまれて、しだいに浄まってゆくのを感じる。
 

ちょうど吸い取り紙のようなもので、吸い取り紙は吸い取ったインキを消すことはできぬが、私は、その人と対座を止めると、ほとんど同時に、その人の因縁の汚れを消滅できる。


私に来ている本源の光が汚れを消滅するのである。


私と対座した人は、なんだかわからぬが、体が軽くなり、清々しくなる、と異口同音にいう。


これはその人たちの業因縁が浄められたことによるもので、いかなる言葉の説教よりも、はるかに早くその人たちを救いの道に導くことになるのである。




                  つづく



   

『神と人間』 私の祈念法 五井昌久 白光出版



   

2016年1月24日 (日)

「神と人間」 について五井先生の祈念法 1



感想
 

私たちは、頭でものを考えることがあたり前だと思っています。

熟考し、長考して出した答えや結論は、一瞬でヒラメイタ直観よりも、重みもあり、正しいとさえ思っています。

しかし、実は私たちは考え過ぎて出した答えよりも直観で動いていることのほうが多いのです。(知らず知らずのうちにそうしている)

そしてなぜか人間関係、恋愛関係、仕事、その他のことも自分がほとんど考えていなかったり忘れているときに事はうまく行っている(進んでいる)のです。

あたかも自分の知らない所で、誰かが万事を整えてくれているかのように・・・・・・。

頭でどうのこうの、計算しているとほとほと自分が嫌になってきますよね(笑)

「あいつがあんなことを言ったから辞めておこうかな?」 「あっちの方が得そうだからこっち

はやめよう」 「効率のよいのはどっちかな?」 「相手の人はどう想うかな?」・・・・

どうでもいいことを感情(勘定)で判断しようとします。

すると考えすぎた結果、ほとんどが上手くいかないのです。(宇宙法則を外れているから)


子どもがかわいいのは?猫や犬によって癒されるのは、大人の人間のように思惑がないからです。 

思慮分別がないからです。 

計算しない、ジャッジしないからです。

天真爛漫に直観のまま素直に生きている、宇宙法則のまま天(神様)のみ心のままに自然体で生きている。


五井先生は、自分という我を無くし、天智(天から送られて来るメッセージ)のままに生きておられました。

お釈迦様もそうですし、キリスト様も、その他の聖者たちは、みんなそうです。

エネルギーの無駄使いが一切無かった、潜在意識に潜んでいた潜在能力を100%出しておられたのです。

私たちは頭で余計なことばかり考えているので、潜在能力の一万分の3~5しか出せていないのだそうです。 

なんともったいないことでしょう!


どうすれば、無駄なくほんとうの自分の力(無限なる叡智)を発揮出来るのでしょうか?

それはこれまでもこのブログでかなり書いてきたつもりですが(笑)、これからの本文(五井先生の祈祷法)を読んでいかれたら、きっと判られると思います。

楽しみにしていてください(笑)


 

私の祈念法

 

私は現在、毎日多数の人びとの相談に応じて、寧日(ねいじつ)ない有様であるが、ほとんど疲れが残ることはない。
 

業因の深い人と対座する瞬間、相手の業因が、電波の如く、私の肉体身に感応いしてくるのだが、それもほんの瞬間に消えて、疲れがそのまま残っているようなことはすくない。
 

私の肉体の頭脳は常に 空 なのである。
 

私は肉体の頭脳でものを考え出すことはない。
 

必要に応じて必要を充たす智慧が、私の本体から自然と肉体に伝わってくるのである。

 
私は霊媒ではないから、霊動したり、霊言したりはしない。


普通の肉体人間となんら変わらぬ平々凡々たる人間に見えるし、常識を一歩も越えぬ生活をし、行動をしている。
 

しかし、根本的にはまるで違っている。
 

それは私の本体が光であることを体験として知っていることであり、私の言動が、すべて神(本体)から直接に支配されていることをはっきり認識しているからである。
 

普通、人間は、常になんらかの想念が頭脳を駆け巡っているのだが、私の肉体頭脳を駆け巡る想念は何もない。
 

私はかつて、一切の想念を断絶する練習を私の守護神から強制的にやらされたのである。


それは、普通の座禅や、精神統一の類ではなく、二十四時間ぶっつづけの練習なのである。(このことについては、自叙伝“天と地をつなぐ者” を参照されたい)苦しいといえば、これほど苦しいことはない。


ものを想わぬこと、念を停止すること、即ち、空になる練習なのである。

寝ても起きても、歩行していても、全時間、すべてこの練習なのである。

この期間約三ヶ月、自我を全部滅却して、神我に変えたのである。


霊媒ならば、肉体を、その支配霊に他動的に委ねて、自己の我はねむっていればよいのだが、私の場合は、自己意志で、自己の我を消滅し去ろうとするのである。


いいかえれば、因縁の流動を超えて、自由自在心になるために練習なのである。


原因結果、原因結果と果てしなく輪廻する業因を超えるためには、その業因をつかんでしまってはいけない。


いかなる業因縁が果として現われようとも、果として現われれば、その因縁はそのまま消えるのだから、消えてゆくという念と、これで善くなる、という善念だけ出せば、運命はその時、新しい善因を記録する。


そうした方法を根よくつづけて行けば、その人の潜在意識は、しだいに善因縁に変化してゆき、顕在意識の善なる想念と正しく交流して、その人の運命は好転する。


私は人びとに、そのような方法を教え、練習させながら、私自体は、私の想念をすっかり停止して、相手の業因縁を、私自体の生命(心)の中に吸い込んでゆく黙想をする。


これは苦しい想念停止の練習によって、到達し得た空即実相の黙想なのである。


                       
                         
                     つづく




      『神と人間』より私の祈念法 五井昌久 白光出版



 

 

2016年1月23日 (土)

「神と人間」について 正しい宗教と誤れる宗教(最終章)




感想
 

真理とは、単純に事実、真実とかの類のものではなく、ちょっと大げさかもしれませんが、宇宙の法則なのです。

古い新しいではなく普遍的な宇宙が出来たときから、地球が完成したときから何一つ変わっていない原理原則です。

人間も宇宙の一部であり(小宇宙)、この宇宙法則(真理)に乗って生きて行かないと、どこかで必ず軌道修正を強いられることになる。

この軌道修正(病気、貧困、破綻)を、人間は 「神様からの罰が当たった」 

「地獄へ落ちた」 などと言うのです。

そして人間は、 「神も仏も無いのか?」 「この厳しい世の中をたった一人で生きて行けというのか?」 と嘆き、訴えるのです。

しかし、宇宙の法則は、あまりにも深遠(難解)なので、宇宙神は、人間救済のために、守護霊、守護神を使わしたのです。

守護霊とは、悟った祖先のお祖父さんお祖母さんなのだから、

「いつも守ってくれてありがとう!」 と心の念を向けていれば、

「ここはこうしたほうがいい」 と、霊界、神界からメッセージ(神智)を送ってくださるのです。

いつも言っていますが、私たち人間は肉体界のほかに目にみえない幽界、霊界、神界にも

同時に生きています。

見えないので 無い!と思い込んでいるだけです。

肉体界とは、この3界の写し世なので、3界(特に幽界)で起こったことがそのまま肉体界に現われるのです。

私たちは幽界のことなど知る由もありません。(インチキ霊媒師はわかる場合もありますが)

その幽界から肉体界に写って来る、あらゆる出来事が手に取るように判って、正しい方向

へ導いてくださっているのが、言うまでもなく、守護霊さんなのです。

ですから宇宙の法則に乗りたかったら、人生を活き活きと自由自在に生きたいのならば、守護霊さん守護神さんと一体となって生きて行けばいいのです。(三位一体)

宗教とは、宇宙法則を示す教え、元(宗)の教えですが、守護霊、守護神の存在を示す教えでもあると思います。

世界平和の祈りの中には、宇宙神の理念(宇宙人類が平和であれ)と守護霊様、守護神様への感謝が含まれてます。完璧(パーフェクト)な祈りなのです(笑)
 

 

世界人類が平和でありますように

日本が平和でありますように

私たちの天命がまっとうされますように

守護霊様ありがとうございます

守護神様ありがとうございます





本文



いかに真理の言葉であっても、聴く人の心が、その真理の言葉に遠い境界にあったり、空腹に喘いでいる人に、高遠な理想を説いても、ほとんど効果はあるまい。



真理の眼玉よ  降りて来い

おまえがあんまり高すぎるから

世の中は暗いのだ



と歌った詩人がいるが、これこそ肉体人間一般の叫び声であろう。


この声を無視した教えでは人類を救うことはできまい。


一の因には一の縁をもって、この因を消し、二の因には二の縁をもって、この因を消すべきで、一の因に十の縁をもってきてもこの因は消えずにかえって深くなるであろう。(註・・・・一を低い念いとし、十を高い理念とする)


牛肉(真理の言葉)が栄養があるから、といって、毎日牛肉ばかり食べさせられてはやりきれないし、鯨が食べたい(真理が知りたい)といったから、といって、鯨をそのまま眼の前に置かれても、どうにもしようがあるまい。


指導者は常に愛と智慧とに導かれていなければ、かえって人類を不幸にしてしまう。


以上で大体正しい宗教と、誤れる宗教の区別がついたと思うので、次には、私の祈念法を書いてみることとする。



                      おしまいです。






『神と人間』 正しい宗教と誤れる宗教 五井昌久 白光出版



  

2016年1月22日 (金)

「神と人間」について 正しい宗教と誤れる宗教 14


感想
 


「なぜこんなことを言ってしまうのだろう?」 「なぜこんなことを想ってしまうのだろう?」・・・と私たちは自分で自分の言動行為、そして想念をコントロールすることが非常に難しい状態にあります。

言動行為はある程度、理性で抑えることもできますが、脳裏に浮かんでくる想念は

「いったいどこから湧いてくるのだろう?」 と思うほど絶え間なく続くのです。

そしてこれは自分の本心なのか?本心ではないところから来ているのか?

知る由もありません。

想念とは、潜在意識から来るものであり、潜在意識とは、つい最近思ったことが消えなくて潜んでいるものもあるのですが、生まれる前、つまり前世、過去世で思ったことも含まれるのです。

ですから仲の良かった友だちのことが急に疎ましくなったり、腹立たしくなったりするのも、前世での不仲(因縁)が蘇ることがあるのです。

今生(この世)で会うということは、前世無しではありえません。

「初対面ですね!」 は無いのです。

「以前(前世)でどこかでお会いしていますね!」 なんです(笑)

そしてやったことは必ず自分に返って来るというのが宇宙の絶対法則です。

今、いじめられているのは、過去世で自分がいじめていたからです。


・・・これは真理なのですが、この法則で言えば、加害者はすべて許されることになります。

被害者は、 「しかたがないよ」 で済まされることになります。

警察も刑務所もいらなくなってしまいます(笑)

争いも喧嘩も戦争も過去世の想念が消えないので起こっているのです。

・・・では、どうすればいいのか?

自分(個人)の、そして人類に代わって、人類に溜まった潜在意識(つまり幽界)を浄化するしかないのです。

忌まわしい過去を消し、許し(自分も相手も)、愛で包み込む、それしか地球が素晴らしい星になる術はありません。

理性(頭)で相手を許すことは、難しいです。

それは元が残っているからです。 感情が消えていないからです。

真理(やったことが返って来ている)を知ったとしても、ひとときの慰めにしかなりません。

次に過去の自分を責めるからです。

浄化するとは、元を空(くう)・クリスタルにする、ということです。

記憶を消すことでもありません。

自分と他人という二元対立を無くすということです。

自分は他人であり、他人は自分である、

一つの太陽から分かれた光が人間です。 元は一つなんです。

分霊(わけみたま)といいます。

自他一体感を感じられたとき、感情が消えるのです。

愛の気持ちが湧いて来たとき、過去は消えるのです。

潜在意識(幽界)は消えるのです。

世界平和の祈りは、自分を浄化し、その他すべてのもの(人類の想念)を浄化するのです。
 




世界人類が平和でありますように


May peace prevail on earth






本文



因縁を説いたら、必ず、その因縁の消え去る方法を教え、その本体の神仏であるところまで説かねばならぬ。


これは、因縁を、想念(心)の法則と説いても同じである。


この不幸は、この病気は、みんなあなたの心の影ですよ、と指摘する類である。


形の世界の運命は、みんな心の影であるのは真理であるが、現在そこに現われた、病気や不幸が、その人にとって記憶のある悪想念の現われであることは少なく、大半は、記憶に出て来ぬ過去世からのものも含めた潜在意識にあったものであり、あるいは祖先や縁者の悪想念に感応している場合も多いのである。


この理を考えずに、ただ、あなたの心の影だと説くことは、その人を救うというより傷つけ痛めることが多いのを私はよく知っている。


これは愛の不足ということで、知識が智慧と離れた状態である。


心の温かい人、愛の深い人はどうしても相手の心の傷や痛手に、ぐさっと突きささるような言葉は吐けないもので、まずその不幸にたいして、同情せずにはいられなくなるものではないかと思う。


いかに真理の言葉であっても、聴く人の心が、その真理の言葉に遠い境界にあったり、空腹に喘いでいる人に、高遠な理想を説いても、ほとんど効果はあるまい。




真理の眼玉よ  降りて来い

おまえがあんまり高すぎるから

世の中は暗いのだ




と歌った詩人がいるが、これこそ肉体人間一般の叫び声であろう。


この声を無視した教えでは人類を救うことはできまい。







『神と人間』 正しい宗教と誤れる宗教 五井昌久 白光出版


  




2016年1月21日 (木)

「神と人間」について 正しい宗教と誤れる宗教 13



 
感想


人間は一体何者なのか? 

動物(チンパンジー)が進化して高い知能を持つようになっただけなのか?

それともキリスト教や神道にあるように人間神の子なのか?(解釈の仕方は違いますが)

また、タイトルにあるように神と人間の関係はどうなっているのか?

神の子ならば、どうして病気や死や生きること、老いることの苦しみがあるのか?(生老病死)

神は完璧(パーフェクト)なはずなのに、どうして神の子である人間はこうも不完全なのか?無限なる力!

だがしかし、一方では、神性を顕わした人を見て、「あの人は神様のようだ!」と絶賛される人もいるのです。

神性を顕した人が少なすぎるので 「人間悪魔の子」 が勝っているだけで、

お釈迦様やキリスト様、マザーテレサ様のような光そのものの人が次々に現われてくれば、 

「人間はやっぱり神そのものだったのだ」 と証明されると思うのです。

ダイヤモンドに例えると、今は光が現われていない、原石の状態です。

汚れや煤に覆われて光を放っていないのです。

しかし時間をかけて磨いて(魂を)いけば、

そして宇宙からの光が強くなれば、素晴らしい光を放つようになる。(一部の人は強くなっています)

玉石混交(ぎょくせきこんこう)という言葉があるのですが、玉が神性です、石が業想念、汚れた潜在意識です。

業想念(カルマ)が消えて、本来の姿を思い出せば、人間はみな

“神の子”

になれる

、いや、なるのではない、元々神の子なのだから思い出す作業をすればいいのです。

その思い出すメソッドが神(宇宙神)と共鳴する祈り(世界平和の祈り)であり、印であるのです。

本来の自分は素晴らしいんだ、神そのものなのだと強く信じてください。

信じた通りの自分になるのです。




推薦図書 「無限なる癒し」于 寿明 (著)

調和波動気功法

http://www.harmony-wave.jp/


 



本文




現代のように唯物知識の盛んな時代に、ただ、人間は仏性であり無礙心ある、ということや、そのような実相論、本体論だけで、近代人を救いに導くことはほとんど不可能である。


本体論、実在論、実相完全論を説きつつ、人間因縁論をも同時に説き、肉体界、幽界、霊界、神界(仏界)を知識として認識させ、本体はこうなのだが、因縁としては、こうこう、このように種々な界を経巡っているのであるから、本体を実際に確認し、実相界にて仏となるにはいかにしたらよいか、ということを、教え導くようにするのが、宗教家であり、指導者でなければならない。


その意味では、心霊学者や、心霊研究家の仕事も、大事であり、善い意味の霊媒者も必要である。


また旧来の仏教や道教、キリスト教も役立っているが、その一つに捉われてしまうようだと、到底悟りに入ることはできないし、現象の生活環境すら真実の善さを現わしては来ない。


であるから、各自、自己の因縁(性格を含めた)を知ることに努め、長所(善因縁)を見出して、それを伸ばして行くことに真剣になることで、悪因縁(短所)はそれを知った上で、それに捉われずに放してゆくことである。


宗教家や指導者はその人の長所、短所を認識し、その認識の上に立って、長所が伸びてゆくように導き、短所は何気なく打ち消し、打ち消し、してやって、消し去るように指導してやるべきである。


因縁を説いて、その因縁を消し去ることを教えぬ宗教家は人を救えない。


それは、因縁、因縁と因縁を想う念に捉われさせて、人間の本来の自由自在性を失わせてゆき、安心立命どころか、不安心の生活にその人間を追いこんでしまうからである。


因縁を説いたら、必ず、その因縁の消え去る方法を教え、その本体の神仏であるところまで説かねばならぬ。


これは、因縁を、想念(心)の法則と説いても同じである。


この不幸は、この病気は、みんなあなたの心の影ですよ、と指摘する類である。





『神と人間』 正しい宗教と誤れる宗教 五井昌久 白光出版


  
  

2016年1月20日 (水)

「神と人間」について正しい宗教と誤れる宗教 12




  

感想 



私の義父が亡くなって、5年ほど経ちますが、近くのお寺の住職さんが、節目節目にお経を唱えに来てくださっています。

最初は住職さんが唱え始め、途中から私たち家族、親族が一斉に同じお経を唱えます。

お経を唱えるのは、亡くなった義父の魂を浄化させるためにして戴いていることは理屈ではわかっているのですが、その時に唱えている経典の意味であるとか、なぜ唱えることが必要なのか、今、義父はどこでどうしているのか?だとか

肝腎なこと一切がクエスチョン????なのです。

家族たちも、「このお坊さんに聞いてもたぶん知らないだろう」 と思っているし、お坊さんも一応は質問を受けたときの準備をしているのでしょうが、

「お父さんは今、帰って来られていますよ」

 とは言うものの、普段は?どの世界(幽界?霊界?神界?)で何をしているかなど、ご存知ないと思うのです。(すいません決めつけて)

私たちは、死後の世界のことやこの肉体界、今生を安心立命して、活き活きと生きてゆくにはどうしたらいいのだろう?などといったことをどこで教えてもらえばいいのでしょうか?


最低限

私たちはどこからやって来たのか?

何のために生きているのか?

肉体を去ったらどこへ行くのか?

聞いてみたいし、知りたいですよね

「そんなこと知らなくいいんだ、今を一生懸命に生きてゆくことが何よりも尊いんだ」 と大人は言うのかもしれません(笑)

しかし生きてゆくための基本(原理原則・真理)は知っておくべきでしょう?と私は思うのです。

でないと必ずどこかで行き詰るからです。
 

しかし誰も教えてくれない。


大きな本屋さんに行くと、人生の指南書や宗教、哲学書がたくさん並んでいます。

頭で理解することももちろん大切なことです。

たくさんの人が良書に出会い、覚醒(安心立命)されることを祈ります。

いや、本に出会うことよりも、人生の師匠(メンター)に出逢うことのほうがずっとずっと大切でした。

みなさん、守護霊さんにお願いして、真のメンターに会わせて戴くことをお願いしましょう。

あくまでも本は従、人との出会いは主だと思います。






本文




なんでもまず、自己の心の指導者、行動の守護者である、守護霊に念じてみることである。


必ず現界における、善き相手をその人の前に現わしてくれるのである。


自己の内に神があるのだから、他の誰の教えを受けなくとも良いのだ、と思いこんでいる人が、友人たちに向かって

“君たちは、君たちの内部に神性があって、ひとりでに君たちを善きように導き給うているのだから、どこの誰に教えを受けたり、浄めてもらったりする必要はないよ” と忠告しているのを時々耳にする。


これは真理の言葉のようで、非常に誤っているのである。


内部の神性は、常に人間や事柄をもって、その人を導いているのであって、ある指導者に逢ったことが、内部神性の導きである場合がたくさんあるのである。


人間は真理に素直であることが、実に大事なことであり、その素直さは、常に内部神性(守護霊を含めた)の導きに心を傾けている真剣な祈りの念に根柢を置くべきである。


内部の神性とは、常に守護霊、守護神を含めたものであることを忘れてはならない。


宗教教団そのものが立派で正しくあっても、その教えを説く人が正しくない場合がたくさんあるので、その点も注意が肝要なのである。


また、その教えが、実に立派で、教えそのものとしては、それ以上の高さには誰にも説き得ないほどのものであっても、その教えのままをこの肉体世界に実現せしめ得ぬようでは、その教えが生(なま)である、といい得よう。


例えば、人間は本来形なく、姿なきものであり、神、仏と一つのものであって、光明そのものである。


実相身、無礙身であるから、幽界があるとか、死後の霊魂が生きているとか、いうことは全然必要ないことである。


ただ、ひたすら仏を憶念すればよい。


といわれた場合、その理は真であって、返す言葉はないが、ただ、ひたすら仏を憶念するだけで、安心の境界に入り得る人がいったい何人あるであろうか。


また、ひたすら仏だけを憶念できる人があるであろうか、という実際問題となるのである。


現代のように唯物知識の盛んな時代に、ただ、人間は仏性であり無礙心ある、ということや、そのような実相論、本体論だけで、近代人を救いに導くことはほとんど不可能である。







『神と人間』 正しい宗教と誤れる宗教 五井昌久 白光出版



  
追伸・・・冒頭で真理を識るには本よりも良き指導者がに出会うことが必要だと書きましたが、人生の指南書『神と人間』には、人生を生き抜く上でのヒント、答えが書かれています。この本の解説が出来る人があなたの良き指導者になるのかも知れませんね。



 






 

 

2016年1月18日 (月)

「神と人間」について正しい宗教と誤れる宗教 11





 
感想

 

下記の本文と関連しているのですが、

「今日は、どこそこへ行かなければならない」ということが一日の中でも必ずあります。

何度もあります。

そこで、「よし行こう!」を腰をあげようとするのですが、どうも行く気がしない、気が進まない、それどころか行くと嫌なことが起こりそうな気がする・・・・。


これらのことにはすべて“気”という文字が付きます。

気とは一体何なのか? 目にみえないもの、エネルギーに関するものにはこの、気がすべて付くのだと言っても過言ではありません。

なのに私たちは気とは何なのか?本質的なことは、何もわかっていないのです。

于 寿明先生のご著書の中に(私は調和波動気功法を17年間実践しています)


気功とは何なのか?が説明されています。
 

幽気、霊気、神気の気の働きであり、神様の働きである。

日本語の 「気を付けて」は英語で「Good bye」=「God by you」であり、

スペイン語で「Adio's」の「dio's」は神の意味である。気とは神の意味である。



気とは神様からのエネルギーだったんですね、

であれば私たちの感じる?

“気がする”

はすべて正しいと判断していいのか?


信じていいのか?
 

それは、神様からのメッセージか、もしくは感情だと思ってください。

あまり深く追求すると、どちらなのかわからなくなってしまいますが、潜在意識の中で、

「あの人嫌いだからなあ」とか「行ってもなんの得にもならないしなあ」

などと感情(勘定)で迷っているのは、神様(守護霊)からのメッセージではありません。


人間というものはほとんどが損得勘定(感情)で動いているので、誤った判断をしてしまうのです。無限なる叡智!
 

正しい判断力を身に付けるにはどうしたらいいか?

それは以下の本文を読んでください(笑)

きっと、ヒントが隠されていると思います。




 

本文



 
それから、未来の予言をして、人を恐怖させ、それを入信の手段としているような宗教もま
た誤れるものである。


宗教とは人間を安心立命させることが本意なのであるから、その日常生活が、宗教に入ったために、かえって不安になったり、乱れたりしては、宗教が人間に害を及ぼすことになる。


真の宗教とは、業生を超えて神仏に直通する道を指し示し、導き上げてくるものであり、真の信仰とは愛と真をますます深め高め、人類大調和創造のために、偉大なる勇気を湧き上げさせるようなものでなければならない。


宗教に入って、不安動揺するならば、その宗教が間違いか、その人の信仰が間違いかのどちらかである。


いかなる正しい宗教に入っても、直ちに安心立命の境地に入れるわけのものではないが、それは、その人、その人の信仰の深さ、信行の真剣さによって、時間の短縮はいくらでもできるのである。


真の宗教家を求めるならば、まず自己の守護霊、守護神に心を傾けて熱心に頼むべきである。


守護霊、守護神は、必ず、その人を一番適当な宗教家や指導者のもとに送りこんでくれるのである。


その時は、何か、安心に似た感じか、懐かしい、嬉しい感じがするものである。


いかに高い教えを説く宗教に誘われても、守護霊、守護神に念じてみて、行きたくなかったり、行っても心が不安であったりしたら、その時は、その人の心境に、その教えが適さないのであるからである。


なんでもまず、自己の心の指導者、行動の守護者である、守護霊に念じてみることである。


必ず現界における、善き相手をその人の前に現わしてくれるのである。






『神と人間』 正しい宗教と誤れる宗教 五井昌久 白光出版



 





 

2016年1月16日 (土)

「神と人間」について 正しい宗教と誤れる宗教 10



 
 

感想

これまで散々、宗教のことについて書いてきましたが、私は俗にいう「宗教」というものが大嫌いです(笑)。

今までの経験で邪な宗教に勧誘されかけたことが何度かあり(すぐに見破ったのですが)、その時のその人たちの態度が好きになれなかったのです。無限なる愛!

その人たちの様子は、まさしく何かおかしな霊魂(不良霊)に取り憑かれているようでした。

不快感だけが残りました。

だから新興宗教=宗教だと私も思っていたのです。

ですからほとんどの人は、宗教という文字があるだけで敬遠されるのだと思います。

このブログが宗教シリーズに入ってからアクセス数が激減していることがそれを物語っています(笑)。

しかし、神と人間(真理)を語る上で、宗教を外すわけにはいかないのです。


そもそも宗教とは、自分の心の中に存在するものであり、そこは聖域です。

誰も踏み込んで来ることのできない、いや踏み込ませてはいけないのです。

自分なりに魂を磨いていけば、心の奥底に入っていけば自ずと悟るようになっています。

だから宗教が心の外に存在することがおかしいのです。

だがしかし、誰も頼らずにたった一人で本心とつながることは至難の業です。(本心と繋がることを悟るといいます)

ほんとうに悟った人はお釈迦様、キリスト様、その他数名しかおられません。

しかし仏教、キリスト教でさえも、多くは弟子たちによって経典は改ざんされ、本来のものでなくなってしまったものもあります。

それを信じた人たちは迷いの世界へと行ってしまう。

また教えがほんものであったとしても伝達者が邪な人ならば、濁ったものになってしまいます。

私たち人間は、本心(神性)と繋がらなければ本当の幸せをつかむことはできないのです。

 

では、どうすればいいのか?

もう私たちは正しい宗教を探すことはやめましょう、宗教に頼ることもやめましょう。

人に依存することもやめましょう。

これからは自分の中(聖域、神性)に入ってゆき、ほんとうの自分と繋がる時代になっていきます。

つまりお釈迦様やキリスト様のような人が次々に現われるのです。

そうなればその人たちの波動(エネルギー)に触れて、周りの人の意識が変わってゆくのです。

肉体(欲望)意識から宇宙(神)意識へとシフトしていきます。

人類がみな神性を顕わすときがもうすぐやって来るのです。(神性復活)





神性復活については、下記のホームページをご覧ください。
 
  
富士宣言

http://fujideclaration.org/ja/
 


本文



この種の宗教の教祖はおおむね、女性や、学問的知識のすくない人が多い。


何故ならば、知性のある人びとは、相当素直な人でも、その言葉や態度に批判の眼(まなこ)をむけずにはいないので、肉体を使おうとして憑く霊魂にとって、自由に使いにくいからである。


この種の教祖や宗教家は、非常に尊大ぶった態度を取ったり、下卑た口をきく。


または知ったらかえって不安動揺するような予言をする。


予言されて、その通り防げば、防げる態(てい)の事件の予言ならよいが、その難を絶対除かれようもない未来の予言をするようなことは神の心に適うはずはない。



これらの霊魂は幽界の生物であって、神から来る守護神、守護霊ではないので、ただたんに面白半分に、肉体人間を驚かし、畏敬させて得々としているのである。


肉体人間でいえば、不良青年のようなものである。


ただ、予言が当ったり、人の心を見抜いたりするだけの奇蹟で、その人間を神が使っている、とか、神様だとか、思ったりしてはいけない。


たとえ、その霊魂(宗教家)の言葉で事業や、商売がよくなった、としても、そのことだけで、その人が救われの道に入ったのではない。


現世利益だけの目的で神にすがりつこうとするその姿(心)は、神の道をかえって見失ってしまう恐れがある。


生命を活かさず、心の汚れたままで、神に救ってもらおうとする人間たちの、卑しい心を助長するような働きをする宗教は、誤れる宗教という他はない。


それから、未来の予言をして、人を恐怖させ、それを入信の手段としているような宗教もまた誤れるものである。

 



『神と人間』 正しい宗教と誤れる宗教 五井昌久 白光出版


 

2016年1月15日 (金)

「神と人間」について 正しい宗教と誤れる宗教 9




 


感想
 

「人間、生きている間に多少の迷惑はかけてもいいが、死んだ後には生きている人間に対して迷惑をかけるな」 と五井先生はおっしゃっておられます。

真理を知らないと死んだ後に残された家族、知人などに多大な迷惑をかけてしまうのです。

それは死んでも人間は、意識は生きているときのままだからです。

肉体が無くなって意識だけが残る状態をイメージしてみてください。

きっと 「私はまだ死んでいない、生きている」 と思うはずです。

しかしどれだけ家族等に話し掛けても気づいてくれないのです。

そこで執着の強い人は、生きている家族の人に憑依します。

その時取り憑かれた人は、なんだか重苦しい状態になるのです。

そして死んだ人がガンを患っていた場合には、憑かれた人は病気まで背負ってしまうのです。(病気は遺伝ではないことがわかります)

もちろんほとんどの人がそうなるわけではなく、守護霊さん守護神さんが

「あなたの次の世界はこっちだよ」 と、霊界、神界にひっぱっていこうとします。

しかし肉体界に「まだ生きたい!」と強く思っている人は、肉体界にくっついている幽界(迷いの世界)に留まって、知らず知らずのうちに悪さをしてしまうのです。
 
 
ところで、日本には仏教信者の人が多いですよね。

仏教では、肉体界の死を、往生(おうじょう)と言います。

生きて往くという意味です、そして他界すると言います、これは生きて他の世界である幽界、霊界、神界へ行くという意味です。

ちゃんと魂は死なないことを語っているのですが、真理(真実)を説いて、死者を成仏させたり、遺族を安心させないといけないお坊さん(宗教者)が、真理をわかっていない、死後の世界を知らない人が多いことも、いたずらに死を怖がらせる原因になっていると思うのです。

私は生きている間に死とは何か?死後はどこに行くのか?をしっかりと学習、予習して旅立つ準備をすることがとても大切なことだと思っています。

真理(真実)を知らないと人間は不幸になるのです。

身内、知人で死の恐怖に襲われている人がいたら、魂は永遠であること、肉体界を去ったあとは、幽界、霊界、神界に行くこと、霊界、神界は素晴らしい世界なんだと言ってあげてください。

あなたに確証がなくてもいいのです。 

死後の世界を見たことがなくてもいいのです。

それで、肉体界を去ろうとしている人が安心し、真の世界、霊界、神界に行けるのなら・・・・・

そしてあなたがほんとうの確証を得たいのならば、是非、真理の書 「神と人間」 を読んでください、それも何度も何度もです。

読むたびに腑に落ちてゆくと思います。 

本心に響くのです。

それは初めて聞く話ではないからです。

魂の奥では知っていることなのです。

記憶が消えているので忘れているだけなんです。

読み返すたびに思い出します。

そしてほんとうの確証を持って誰かに言ったならば、きっと心を打つはずです。



一日も早くあなたが真理に目覚めますように 
 


世界人類が平和でありますように



本文




さて話を幽界に戻して、幽界において肉体界に悪影響を及ぼす、生物の話をしてみよう。


幽界には、肉体界を離れながら、いまだに肉体界に生活しているものと思いこんでいる人間たちがいる。


この人たちは、肉体の死が人間の消滅である、と思いこんでいる人たちで、肉体への執着が非常に強く、病気あるいは傷害で、肉体的に死にながら、われわれが通常夢みているような工合に、自分の肉体界当時の周囲の人びと、近親や、子孫の人びとを想念し、その人びとの肉体の背後に密着する。


それは、自分自身の肉体が、すでに無いのに有る、と思いこんでいるので、幽体だけが想念を包んで、肉体界をさまようのである。


この幽塊が肺病で死んだならば、肺病の念(おも)いを、そのまま持ちつづけているのでその幽塊に密着された人は、しだいに、その肺病の念に禍され、その人もついに肺病になってゆくのである。


それは親しい人や血筋ほど禍されやすいのである。


その他の病気や傷害も同じである。


生前の恨みを晴らそうとする場合も、恨まれた人は難を受けやすい。


また、幽界に転移しながらも、肉体界に異常に興味を寄せている霊魂と、幽界のみに生存する感情霊、あるいは動物霊という、人間のような倫理観や道義など持ち合わせぬ生物がいる。



これらの霊魂や生物は悟りから程遠いのであるから、俗事に非常に興味があり、自己の神性を探求することよりも、何か、事件を起こして、騒ぎたかったり、崇められたかったりする心が強いので、肉体人間が、あまりに自己の欲望達成のための神頼みや、奇蹟に頼ったりしているのを見て(ある程度の幽界人は、肉体界がよくわかるのである)茶目気を出し、ある種の霊媒素質のある(これは肉体の下衣である幽体の大きい人、霊魂が出入りしやすい人)人たちに送念して、あるいは肉体を借りて口をきき

 “我々は何々の神であるぞ” 

式に現われ、種々と肉体世界の出来事の予言をするので、これはなかなか当るのである。


低い宗教、誤れる宗教にはこの種類が非常に多い。





『神と人間』 五井昌久 正しい宗教と誤れる宗教 白光出版



  










 

2016年1月14日 (木)

「神と人間」について 正しい宗教と誤れる宗教 8




  


感想



自分が 「これは絶対に正しい」 

そして 「これを実行することでみんなが幸せになるんだ」 という大確信があるのなら、どれだけ非難や誹謗中傷を受けようと前に進んでゆく人が真の人だと思うのです。

「こんなことを言ったらみんなはどう思うだろう?」 「損かな?得かな?」 と他人の顔色ばかりをうかがいながら生きている人にどうして世の中を変えることができるでしょう。

「このままでいいんだ」 「自分が金持ちで家族が健康、円満ならば、よその人や日本、他国はどうなろうと知ったことじゃない」と思っている人ばかりなら、地球は破滅の一途をひた走ります。滅亡します。

己の幸せは、自分と人類(地球人類、宇宙人類)とが同時に幸せにならないと何の意味もないと思うのです。

一人だけお金をかき集めて、他の人がみんな貧乏になったとして、それでいいのでしょうか?

自分だけ健康でみんなが病気になってもいいのでしょうか?

自分のほんとうの喜びとは、相手の人が幸せになって喜んでくれることです。

相手の人の魂(本心)を喜ばせることほど、尊いことはないのです。

自分が正しいこと、善いことをして(宇宙法則に則ったという意味です)、その反動で自分に都合の悪いことが起きたとしても、死んだ後でその功績が認められたとしても、やるときはやらねばならぬのです。

私は真理の伝達を何が何でもやって行こうと思っています。




  

本文



かくて、幽界において、ある程度浄化されると、また肉体界に誕生し、また異なる生活の経験を得て、再び、三度、両界における体験を繰りかえし、しだいに、高度の生活に導かれ、ついには、天界にいたり、神格を得て、神界に住し、あるいは、覚者(仏)となって、肉体界、幽界の指導者となるのである。


結局、人間はその人自体が、すでに蓄積した悪想念をいかに巧みに消し去ってゆくかによって、その人の運命の度合が高度になってゆくのである。


桶が汚水で一杯になっていたら、人は必ず、その水をこぼして、新しい水に汲みかえるであろう。


しかし人間は、自分の運命の汚水(悪想念)をそのまま流さずにおきたがるものなのである。


何故ならば、その汚水(悪想念)がこぼれると、その場が汚くなる(その人の生活に起こる不幸や病気をいう)からである。


といって、次から次へと汚水(不幸や病気への恐怖、恨み、怒り等の悪想念)を出しつづけたら、その桶からは常に汚水がこぼれつづけ、その場は、汚水でいたたまれなくなるであろう。


この汚水を消すには、まず清い水をその桶にそそぎこむ(善い想念、愛と感謝)ことが第一であり、それと同時に、その場のふき掃除をすればよいのである。


人間はその忍耐力と勇気が必要である。
  




『神と人間』 五井昌久 正しい宗教と誤れる宗教 白光出版


   





  


   

2016年1月13日 (水)

「神と人間」について正しい宗教と誤れる宗教7



 
感想



もし、相手の人に腹が立って、「このやろう!殴ってやろうか!」と心の中で思った瞬間に相手に察知されて、向こうから強烈なパンチが飛んできたら、どんなにか恐ろしいことでしょうか?(笑)

心で怒っていても、言葉に出さなければ誤魔化すことも可能ですが、顔が引きつっていたならば(目が語っていたならば)、そうとうに鈍い人以外には、簡単に見破られてしまいます。

それと同時に心の中まですべて見透かされてしまったならば、もう自分の想念、気配を消すしかありません。

しかし人間の想念とは、「なぜこんなことを想ってしまうのだろう」 と思うほど次々と泉のごとくいろんな想いが湧き出て来るのです。

お釈迦様のおっしゃっている空(くう)とは脳裏に何も思い浮かばないスッキリと澄み渡った青空のような心境を言うのですが、精神が健全な状態とは、この空の心境をいうのです。

他にも同じような教えとしてキリスト様は 「幼子のようになりなさい」 

老子様は、「無為になせ」(〇〇のためにしようとするな)があります。

死後の世界である幽界、霊界、神界では、思ったことが即、自分に返って来るといいます。

怖いですね~(笑)

しかし、肉体界はまだ、修正が効くのです。

「あっやばい!マイナス想念の中に巻き込まれそうだ」 「相手のことを責めてしまいそうだ」 「自分を卑下してしまいそうだ」 と思った瞬間に

世界平和の祈り(世界人類が平和でありますように)をすれば消えるのです。

世界平和の祈りは、宇宙の無限の言霊(プラスのエネルギー)だからです。

人間が作ってしまったマイナス想念は有限です。

どんなマイナスも宇宙の言霊(世界平和の祈り)には勝つことは出来ません。

一日一日を青空のように、幼子のように、損得で考えずに(無為に為せ)生きられたらどんなにか幸せでしょう。

人間の幸福とは、目の前の現象が整っていることだけではありません。

心がスッキリ爽やか澄み渡った心境を言うのです。



 
  
世界人類が平和でありますように

日本が平和でありますように

私たちの天命がまっとうされますように

守護霊様ありがとうございます

守護神様ありがとうございます



本文



地界は、愛に背くもの、物質欲深きもの、執着強きもの、自我心強きもの、怠惰なるもの、等々、神の心、すなわち本源の心に遠いものが、その業因縁を消滅せらるるために住む世界である。


人界、地界(註・・・・この世界はお互いに幽体が見え合うのであって、その点肉体界と同じである。

ただ肉体界よりすべてにおいて速度が早く、善悪とも、思うことがすぐに実現する)においては、業因縁の渦から脱しようと努力しながらも、肉体界以上に業因縁の渦は急速に回転するので(それは、念波の周波数が肉体界より細かいから)なかなか、その輪をぬけ出ることはできない。


その渦の輪を抜け出すためには、一度、想念を停止すること、絶対の精神統一に入ること、すなわち、神にのみ心を集中して、いかに業因縁の念が自己の周囲を回転しても、見むきもしないことであって、その精神統一の深さに従って、蓄積された想念の消滅の仕方が違い、その度合いによって、自己の住む圏(世界)が高くなるのである。

 

いいかえれば、いかなる辛さや、苦しみや自己に都合の悪いことが出て来ても、それは今、自己を取り囲む業因縁が消え去ってゆく姿である、と観て、ただひたすら、神との統一観に浸れ、ということで、これは肉体界における場合と同様であるが、肉体界のように、その業因縁が緩慢に現われる世界と違い、烈しく、急激に現われるので、なかなかその苦しさに耐え得られないのである。

 

このことを考える時、この肉体界に生活する期間中に、できる限り、自己の業因縁を消し去っておくほうが、幽界において同じ業因縁を消し去るよりは、どれだけ楽であるかわからないのである。

 

例えていえば、百万円の借金(業因縁)をした人が、肉体界においては、五万円ずつの月払いで済むとすれば、幽界では、一度に百万円を支払わねば、さらに百万円の利息がつく、というわけである。

 

幽界(人界、地界)においては精神統一が最大の悟道の法であるが、もう一方法、守護神の指導に素直になることである。

 

肉体界において、守護霊、守護神の援(たす)けがあるように幽界においても、守護霊、守護神(主に守護神の援助)の導きがあるので、この導きに素直に従ってゆくことが、自己を救う、よい方法なのである。
 


この場合も、自己の眼前の利益を超えて導かれる場合が多いので、守護神の導きが、例え、自己に不利のように見えても素直に従うべきである。


この場合でも、肉体界において、常に守護霊、守護神に感謝していた人は非常に益することが多いのである。


かくて、幽界において、ある程度浄化されると、また肉体界に誕生し、また異なる生活の経験を得て、再び、三度、両界における体験を繰りかえし、しだいに、高度の生活に導かれ、ついには、天界にいたり、神格を得て、神界に住し、あるいは、覚者(仏)となって、肉体界、幽界の指導者となるのである。




  
『神と人間』 正しい宗教と誤れる宗教 五井昌久 白光出版



  

2016年1月11日 (月)

『神と人間」について正しい宗教と誤れる宗教6






感想


肉体界には、つまり現世には、ほんとにいろんな人が生きていると思うのです。

日本人だけではなく他国の人もそうですが、一番不思議なのは、心の美しい人、普通の人、心の醜い人(無限なる光!)たちが同じ家族で同居していたり、学校であり、職場、会社に同時にいるということです。

同じ意識の人たちが同じ場所に集まることもあれば、違う人が入って来ることもある。

美しい心で調和が取れていれば、その場は愛であり平和であり、一方汚れた想念で一体感がないところには二元対立が生まれ、不調和な関係になる。

この世を生きてゆくのに一番難しいのは言うまでもなく人間関係です。

“コミュニケーション力”の大切さは、仕事が出来るよりもなによりも、どんなことよりも必要であると言われています。
 

人と人とが判り合える、愛し合えるにはどうすればいいか?

それは人間の永遠のテーマであったわけですが、実は真理を知ると以外と簡単でシンプルであることがわかります。


それは、自分が何者であり相手の人が何者であるかを知れば解決するのです。


人間とは一体何者であるのか?

それは“神の子”であるということです。

創造主である宇宙神と同じ、神様仏様(キリスト様やお釈迦様)と同じ、そして自分は守護霊、守護神でもあるということが判れば、自分とは神性(神聖)なるものだとわかります(我即神也)。

そして自分自身が神ならば相手の人も神そのもの(人即神也)であることがわかるのです。

自分も神、相手の人も神、神性なるもの(善なるもの)だとわかれば、自分のことを尊敬し、相手の人をも敬うことが出来るのです。(たとえ今は、神性を現わしていないとしても)

問題はどこに意識があるか?なのです。

自分を神の子と意識しているのか?

自分や他人をどうしようもないバカな悪魔の子と認識してるのか?

意識した通りの自分になれます。

思った通りの自分が自分を顕すのです。

それが創造主であるという証です。

正しい宗教とは、人間神の子、仏の子であることを示す教えであるのです。



 
本文



これを物理学的にいうと、霊体は非常に細かい周波数をもつ波長の体であり、肉体は粗い周波数をもつ波長の体であり、幽体はその中間の周波数をもつ波長の体である、ということになり、分霊はその三つの体を自己の体としているのであるが、肉体に入るには必ず幽体をつけてゆかねばならぬのである。


それは霊体から肉体に移るには波長の周波数があまりに違い過ぎて合わぬからである。


幽体は霊と肉体を結ぶ役目をもっているのであり、霊の念と肉体人間としての脳髄の想いとを、その体に録音しておく役目をもつのである。(この場合幽体を念体ともいう)


肉体人間の死によって人間(霊)は幽体をつけたまま幽界において生活する。


この幽界にも肉体界(現界)と等しく、種々な生活があり段階がある。


その生活は幽体に蓄積されている想念の通りに実現されてゆく。


この人の想念が憎しみに充ちていれば、憎しみに取りまかれた生活をする、というようになるのである。


従ってその蓄積された想念の種々相であるように、幽界の段階は細かくいえばかぎり無いほど分れているが、大別して、天界、人界、地界というように三段階に分けられる。


この段階の上位は天界で、愛深き人、物質欲少なき人、執着少なき人、等々、神の心に近い人びとが住み、この界においてもさらに細かい段階がある。


人界とは、この肉体界における普通人であり、平均点の人びとの圏であるといえよう。


地界は、愛に背くもの、物質欲深きもの、執着強きもの、自我心強きもの、怠惰なるもの、等々、神の心、すなわち本源の心に遠いものが、その業因縁を消滅せらるるために住む世界である。





『神と人間』 正しい宗教と誤れる宗教 五井昌久 白光出版



  



 

「神と人間」について正しい宗教と誤れる宗教5

感想

 

人間の一番の苦しみは、ズバリ死への恐怖ではないかと思います。

貧乏の恐怖も食べていけなくなったら飢え死にしてしまう、路頭に迷ってのたれ死をしてしまう、病気の恐れも間違いなくその先には死があります。

生きていることの感動や喜びさえも「いつかは死んでしまうんだ」という恐怖で割り引きされてしまうのです。(なんともったいないことか)

巷の話題も、「〇〇さんがガンになった」 「△△さんが自殺した」 

「□□さんの店、会社が潰れた」(ごめんなさい暗い話ばかりで)・・・などと結局は死と直結するような内容が多いのです。

死への恐怖がある限り人間は常に死という不可解(理解していない)なものと戦っていかなければならないのです。

人間のほとんどは、死は永遠の死だと思っています。

肉体の中に心(魂・精神)があると思っているので、肉体の死は、魂の死を意味します。

肉体が無くなればほんとうに心も消えてしまうのでしょうか?

これだけインターネットが普及し、真実が知られるようになったのに、肉体の死は永眠ではないとかなり多くの人がわかってきている(それでも少数ですが)にもかかわらず、それを信用しようとしない。

今の自分の魂(心、気持ち、精神)は永遠に生きつづけるんだと思った方がずっとずっと嬉しいことだし、恐怖心も消えるにもかかわらず、どうしてネガティブな方を信用しようとするのか?

どちらかわからないのであればポジティブな方を選択すればいいのにと思うのはおかしいでしょうか? 多数決で決めているのでしょうか?

私が人間とはなんとも不可解な生き物なのだなあと思う一番の要因なのです。

と言っても、肉体の死というものが何を意味するのかがわかっていたとしてもこの世的な別れは確かに辛く悲しいものです。

あの世(霊界・神界)でその人が生きているんだとわかっていてもこの世(肉体界)で会えなくなるのは確かに辛いのです。

そこでこう思ってはどうでしょう?すごく仲の良かった友だち(親子でもいい)が急に遠くへ転校することになった、連絡先を聞けずに去って行ったので、どこでどうしているのかがわ

からない。(今はネットの時代なので判らないというのは現実的ではありませんが)

ただ風の便りで 「新らしい地で元気にしているらしい」 と聞いた

「いつかまた縁があれば会うこともあるだろう」 くらいに死を理解していればいいと思うの

です。

かなり前になりますが、映画(邦画)で『よみがえり』という作品がありました。

自殺した男子学生や亡くなった夫、恋人、知人があの世から現世に帰って来たという内容です。

この世(3次元)とあの世(4次元、多次元)はらせん状で繋がっていて、ほんとに近くにあるのです。

ただ目にみえないだけです。

現に私たちの祖先(悟った)である守護霊さんや守護神さんたちは24時間プラスαで守り続けてくださっています。

守護霊や守護神のご加護がなければ私たち人間はとっくに死に絶えているのです。

では、目にみえないもの(霊も含む)が見えるようになったほうがいいのか?

幸せになるのか?と言うとそうでもありません。

守護霊守護神の姿も見えると同時に幽界のオバケちゃん(悟り切れなかった浮遊霊たち、汚いものも)も見えてしまうからです。

相手の人の心もはっきりとわからない方がいいのです。

霊的ではないけれど、神仏の存在をわかっているし、知っている、そして真理(人間神の子であること)を識っていることが一番良いのではないかと思うのであります。

 
下記の本文では、五井先生が肉体の死についてわかりやすく説明してくださっています。

一人でも多くの人が肉体の死を正確に理解されることを願っています。



本文

 


私は肉体生活がある限り、肉体生活の利害を全然思わぬ、というような教え方は無理であると思うので、肉体生活の利害も認め、その利益もあり、幽体の存在を認め幽界を知らせ、幽界における死後の生活の方法を教え、さらに一番大事で、肝腎な、人間は神そのものである、ということを悟らせる方法が、前者の各方法よりさらによいのではないかと思う。


私はここで、第三章で書き漏らした、死後の世界、即ち、幽界について、述べておきたい。

死後の世界をここで説明しておかぬと、誤れる宗教について述べる時に読者にわかりにくいことが多いと思うからである。


人間世界におけるすべての不安の根底は死の恐怖にある。


いかなる種類の苦しみに直面したとしても、死への恐怖を超越した人にとって、その苦しみは、心の痛みにならない。


死ほど、人間の関心をそそる出来事は他にあるまい。


死は人間にとって終りなのか、転移なのか、この謎が解けることによって、人間の進歩は一段と早まるに違いあるまい。


人間は肉体人間の消滅によって失くなってしまうものではない。


これは先章から私が説いていることなのである。


死とは幽界(以後は霊界を含めて)への転出なのである。


肉体の死とは幽界への誕生なのである。


死ぬことを往生(おうじょう)といったのはこのことを昔の人は知っていたからなのである。


肉体が死ぬ、ということは、その中の神につながる分霊が(後にはただ霊という)幽体をつけたまま、肉体を抜け出た後の状態をいうのである。


先きの章と重複するが、人間とは肉体ではなく、霊そのものをいうのである。


肉体とは霊の容(い)れものであって、霊の心のままに行動するものなので、ちょうど自動車が運転手によって走っているように、霊の運転によって種々の行動をなすのが肉体なのである。


ただ先きの章で述べたように、直霊(神)から分かれた分霊が、まず幽体を創り、その幽体を下着やシャツのように着け、その下着をつけた上に、肉体という上衣(うわぎ)を着けた姿を、普通は人間と呼んでいたので、その肉体の消滅を、人間の消滅、と残された肉体界の人びとは思いこんでしまっていたのである。




『神と人間』 正しい宗教と誤れる宗教 五井昌久 白光出版


 




 

2016年1月 9日 (土)

「神と人間」について 正しい宗教と誤れる宗教4



 
感想

 

私は奇跡というものについてそんなに大げさには思ってはいません。

日常生活において自分と相手の人との心が通じ合えたり、年賀状を書きながら長らく会っていなかった友人のことを「あいつどうしているのかなあ?」と思い出していたら突然その人から電話がかかってきたり

ふとした瞬間に 「自分はなんて幸せなんだろう」 と思えたり・・・・・等々、予期せぬ嬉しい出来事が起こったときはたとえそれが小さな出来事であっても神様からのご褒美(それが奇跡)だと思うのです。

小さな嬉しい奇跡をたくさん起こすにはどうしたらいいか?


それは、自分の意識(精神)を高めてゆくことだと思います。(調和波動気功法)

目に見えるもの、みえないもの、この世もあの世もすべて波動の世界なので、自分の波動(エネルギー)を高めてゆくと感度(精度)が上がっていきます。

そしていろんな波動と共鳴するのです。(善いものとだけ共鳴するとは限りません、悪いものを消すために共鳴することもあります)

いろんな波動の中には人との出会いもあり、自分が乗り越えてゆくための試練の波動もあります。

自分のエネルギーを高めてゆくと(祈りや印を組むこと、真理の勉強をすることによって)、そのエネルギーに触れたいと待ち望んでいる人たちが目の前に現われてきます。

縁に触れ折にふれ人は人と出会い、触れ合い、魂を磨き合うことによって互いに成長してゆくのです。


話は突然変わりますが(笑)、

精神が調う(悟る)のと現象、物質面が整うのが同時であれば良いのですが、ほんとうの意味での物質面が整うのは、心の変化が起こってから後なのであります。

どういうことかといいますと、目に見えるものは、目にみえない精神面で、ある気づきがあり、そこでその気づきを実践した後にやっと整ってくるからです。

ほとんどの人は、実践をしている途中で挫折
するのです。無限なる成功!

モチベーションを保ち続けるのが難しいからです。無限なる可能性!

なぜ、モチベーションが下がるかというとそれは本心(心の奥底、魂の叫び)から出たものではないからです。(志が低い)

邪な宗教はその辺の心理状態をうまく利用しているのです。
 

感想が長くなってしまいました。

それでは本文をお読みください。





本文





人間は古代から奇蹟を求め、新しい世界を求めつづけた。


人間の力以上のもの、知識以上の出来事、こうしたことを待ち望む心は、本来の神性、自由自在性の顕れの一部であり、常に新世界を求める人類の心の底には、神の国が蔵されていたのである。


この求むる心、希求する心が、一方では科学精神となり、眼に触れ、手に触れる物質から物質へと探求してゆき、ついには現代のように物質波動説にまで進展し、一方では求むる心をそのまま五感の世界を超越して、波動の世界にいたり、さらに超越してあらゆる波動を発する本源の世界に突入した覚者を生んだのである。


そして、この二つの方法が必然性をもって近代の文化を開き、理想世界樹立を目指してゆきつつあるのである。


先覚者釈尊は、自己の肉体を超越して本源の光に達した時、自己そのものが、光明身そのものであることを悟ったのであり、それ以来、自由自在に神の力を駆使して、数多の奇蹟を行い、その弟子たちも、霊界の守護神の力を借りて、それぞれの神通力を発揮した。


仏教学者は釈尊の偉大さを、その哲学的な説教におき、その奇蹟の面は、釈尊の偉大さを称えるための一つの物語的に解釈している向きが多いが、あの奇蹟があったればこそ
仏教哲理が現在のように拡がったのであり、この点、キリストの奇蹟も真実そのものであることを私は明言する。


奇蹟なき宗教は、あまりに広まらないし、人間を魅力しない。


といって奇蹟のみを喧伝(けんでん)する宗教には邪(よこ)しまなものが多い。
 

説教のみの宗教は、宗教の形骸に流れやすく、奇蹟のみの宗教は、かえって、人間を不安動揺せしめる。


近代における既成宗教の大半は形式を教うるのみで魅力なく、新興宗教の大半は、奇蹟的現世利益を説くが、人間の不安動揺の心を根底から救ってはくれない。


その場、その場の現世利益があったからといって、そのことだけで正しい宗教とはいえないが、宗教とは現世の利益など、どうでもよく、死後や未来がよければよい、というのも片寄っている。


また、宗教に現世利益を求めることは間違いで、人間の本体を仏であると観ずること、色即是空、空即是色(ものは即ち空であり、空の中にすべてのものがある)である悟りに入ることのみが宗教なのだ、という人びともある。


これは真に正しい教えなのであるが、現世のように、肉体生活への執着の非常に深い時に、ただ、肉体は仮想であって、実相ではない、と、全然、肉体生活の利害を無視したように見られては、一般大衆との距離があまりにも遠く、これによって真に救われる人は僅少のほんのわずかであると思う。




 
『神と人間』 正しい宗教と誤れる宗教 五井昌久 白光出版


 

2016年1月 8日 (金)

「神と人間」について 正しい宗教と誤れる宗教 3 




感想



その宗教の道に入ったことにより、現象面ではなくまず、心が至福感にみたされ、安心立命しなければ入った意味がないと思うのです。

そして心が安定することで目にみえる現象も時を経て、整ってくる。

しかし人間はせっかち(笑)なので、現象面を早く整えようとする。

「まずは、貧乏が無くなって欲しい」 「まずは、健康になりたい」 

「まずは子どもが自分の言うことを聞くようになってもらいたい」

「まずは、他人との人間関係がうまくいくようになりたい」・・・・。

魂の奥は心の平安を求めているのですが、目の前に不調和なことが現われると心を調えるどころではなくなるのです。

そして右往左往していらないことをしてしまい、悪化してしまう。

それを何回も繰り返して、

「あーやっぱり心を静めないとダメだなあ」と実感するのですが、そこでその解決法を宗教に求める人と他に解決法を探す人とに別れます。

宗教に求めた人が、その宗教が正しいものであればいいのですが、正しい宗教とは、奥が深いので簡単には達観(悟る)することはないのです。(よって整うのも遅くなる)

どんなことでもそうですが、ものになるには、時間と真剣さが必要なのです。

そこに邪な宗教がつけ込んで、

「うちへ来ればすぐに悟れますよ、現象面も整いますよ、病気も治りますよ」 と誘惑するのです。

そして又、何度も痛い目に遭う 無限なる愛!

宗教が腐敗してしまった原因はここにもあるのです。無限なる光!

人間の心境、心の中は 「複雑なんだなあ」 とつくづく思います。

「もっとシンプルであればいいのに」 と思うのであります。




 

本文


 

宗教とは哲学ではない。


哲学を越えた行の世界が宗教である。


また、宗教とは教団や教会や、伽藍ではなく組織でもない。


人間が神仏にそのままつながっている生命であることを、自覚させる行であり、教えである。


真に宗教が世界に拡まり、世界人類が、真の宗教心、信仰心に生きたならば、この世は愛に満ち充ちた天国となるのは明らかである。


愛とは神そのものであり、神と人間をつなぎ、人間と人間を調和させ、人間とあらゆる生物を琴和(きんわ)させる最大の働きをもつ心である。


宗教に入って、愛の心が湧きあがらぬようならば、その人は真の宗教人ではなく、神に祈りながら安心立命の道に入ってゆかぬならば、その人の神観は誤りであり、その祈りは正しいものではない。


こうしたところから、正しい宗教と、誤れる宗教、正しい信仰心と、誤てる信仰心とを判断すべきである。



 

神と人間 五井昌久 (正しい宗教と誤れる宗教) 白光出版





  
 





 

2016年1月 7日 (木)

「神と人間」について正しい宗教と誤れる宗教2




感想

 

一般的になぜ、宗教が嫌われ、敬遠されているのかというと下記の本文にあるように、お釈迦様やキリスト様が肉体界を去った後に、その弟子たちが本来の宗教を継承していけなかったからなのであります。

そして自分たちの都合のよいように改ざんをした。

このようなことは現代にも言えることでありまして、事業の成功した一代目は、志も高く、純粋であったものが2代目、3代目になると甘えが出たり余計な欲が心の中に生じやすいのです。

そして初代とは変わり果てた姿になるのです。

その原因は、精神にあります。

前世で正しい宗教を体得したや精神のバランス感覚の取れた人は誤れる宗教を直観で見抜くことができます。

「この宗教はおかしい」 「教えは善いが語っている教祖(世襲を含む)や信者たちが胡散臭い」 「お金ばかりを要求する」 「信者を集めるように言われる」・・・・

など、常識で考えればおかしな言動であることがわかります。

しかし欲が絡んだり、心の隙を見せると騙されることになります。

魂は真理(宇宙法則)を求めているのになかなか真の宗教に繋がらない・・・

これは人間にとって、とても不幸なことだと思うのです。



  

本文




しかし、この覚者たちが、肉体生命を終えた後、この覚者たちの教えを、種々な弟子たちが、それぞれ独自な形で伝え始め、これが、何宗、何派、何教会、等々、世界全土に拡まっていった。


日本では、仏教が最も盛んで、各宗派に分れ、しだいに教えの根本を忘れて、激烈なる宗派争いをしながら信者獲得に狂奔した。


その他、神道、儒教があり、現在に至って、キリスト教が非常に盛んになってきた。


このように宗教が、各種の組織をもって、世界各国に拡まっていったのであるが、人類の宗教心はその組織の拡大と正比例して深まってきている、とはいえないのである。


古代の人類は、宗教を学理的に知るよりは、行為で理解し、直接体験で、神を知ろうとしていたが、中世、現代としだいに、宗教を行から哲学に移してゆき、学理究明が先になり、行からくる直接体験は薄らぎ、本来の宗教心から、知らず知らず遠のいていった。


やがて宗教は、学理的究明者と、教団、教派の形式の踏襲者並びに、真に神仏と人間との関係を直接体験として知らんとする行の人、の三つの流れに分れてきた。


宗教は、学理的に究明しただけでは肉体脳髄に知識として残るだけで、先覚者の志を継ぐものではなく、形式を踏襲したのでは、神仏のいのちが枯れてしまって生きて来ない。


神仏は生きとし生けるものであり、人間も生きとし生ける者である。


生きとし生きて自由自在に形の世界を造ってゆくものが神であり、人間である。


学理に固着し、形式に捉われた世界には、いくら神を求めても神はいない。


宗教とは哲学ではない。


哲学を越えた行の世界が宗教である。




『神と人間』 五井昌久 正しい宗教と誤れる宗教 白光出版



  

2016年1月 6日 (水)

「神と人間」について 正しい宗教と誤れる宗教1







感想

 

正しい宗教と誤れる宗教へ進む前におことわり、訂正があります。

 

前回に書いた因縁因果を超える法4の文章の続きは、去年12月4日に書いた夢はなぜ見るか?になっており、「夢はなぜ見るのか?の最終章」をもって因縁因果を超える法を終了します。

同じ文章の繰り返しになりますので、続きを読みたい方は、申し訳ありませんがさかのぼってお読みください。


では、宗教とは何か?に移ります。みなさん宗教というと仏教、キリスト教、イスラム、ヒンズー教・・・それから巷に溢れる新興宗教を思い浮かべると思います。

そして熱心に宗教をやっている人をなんらかのメガネをかけて見ようとします。

「胡散臭い人、あやしい人」 「心の弱い人」 「変な人」 「自分をわけのわからない世界へ巻き込もうとする人」 「偏った考えを持った人」・・・・・ろくな人には見られないですよね笑)

私も真理の話をすると「それって宗教やん!」と言われたことがあります。

それくらい宗教ってダーティなイメージがついているのです。

しかしここで宗教の良し悪しについての議論をしてもしかたがない、時間の無駄です。

それよりも宗教って一体なんぞや?正しい宗教と間違った宗教ってどこが違うのだろう?

と理解することの方がずっと建設的だと思います。

宗教なんて知らなくていい、そんなことを追求するくらいなら他のことに時間をかけた方がいいとおっしゃる人もおられると思います。

だがしかし、宗教を知るということは自分を知ることでもあるのです。

それもほんとうの自分を識ることになります。

自分のことがわからないのに他人のことを理解することなんて出来ません。

ここはじっくりとお付き合いください。





本文



宗教とはいったい何か、ということが最初に問題になる。


宗教とは、神仏(絶対者)と人間との関係を説き教え、明らかにする道であると、私は解釈する。


この原理に沿って、正しい宗教と、誤れる宗教とを区分し考えてみることにする。


神とは、人間理念の根本であり、智慧(創造力)、愛、生命の根源である。


従って、完全にして、円満、調和せる象徴である。


この完全円満なる力を内にもちながら、業因縁の渦巻きの中で、その渦巻、そのものが自己であると誤認し、悩み、苦しみ、もだえながら、その渦を脱しよう、逃れようとしているのが肉体人間の姿である。


そして、その業因縁の渦を脱して、内なる神性を完全に輝かせた人を、解脱者、仏陀といった。


釈迦はそうであり、イエス・キリストもそうである。


他にもそのような完全神性を現わした覚者がいたわけである。


最初にそうした人たちが、神と人間との関係を説き、人間は完全円満な神性であることを明かし、行じて、人びとを安心立命の境地に導いていった。


自己が完全円満なる神性であることを悟ったら、この人間は業生を越えて救われたことに間違いない。


この導師は、神の使徒たちであって、真の宗教家である。




 


『神と人間』 五井昌久 (正しい宗教と誤れる宗教) より



  


 

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