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2015年11月30日 (月)

『神と人間』 について(夢は何故見るか)



感想

  

「想いは現実化する」 「思いをカタチにする」 「強く思えば夢は叶う」・・・・・

巷の本屋さんには想い(イメージしたこと)が現実になるという類の本が所狭しと並べられています。

それは真理であり、間違いのないことなのですが、想いというのはそう単純なものではなく、想いたくないのに想ってしまったり、

「こんなことを想ってはいけない、なんて自分は悪い性格なのだろう」

と自分を責めてしまうのです。

想いはなぜコントロール出来ないのか?

それは想いは自分の本心ではないからです。

想いは相手の心と書く、人の思いが移って来るのです。

肉体の頭というのは、たくさんの人の想念波動をキャッチしています。遠く離れた人の想念までも拾ってしまう(集合意識)ほど精巧に出来ているのです。

そしてそれが人の想いとはだとは思わずに、自分の本心から来ているものだと思い込んでいる。

想念とは自分の本心と他人の想いがごちゃまぜになっているのです。

だから自分の思いに自信が持てない、そこに過去世からの想念までもが加わってくるものだから、自分が自分で無くなるのも無理からぬことなのであります。

話が長くなりましたが、

夢は想ったことが現実になってしまってはいけないために夢の中で想念を消す、守護霊様の偉大なお仕事なのです。

善いことばかりを想っていれば、現実になっても善いのですが、ほとんどの人間は、ろくなことを思い考えてはいないのです。

肉体界が混沌とし、暗黒時代になってしまったのも想念が汚れているからです。

守護霊は、想念がそのまま現実になってしまっては、かわいい孫やひ孫たちが不幸になってしまうので、夢の中(霊界)で必死で消しておられるのです。

そのことがわかれば人間は出来るだけマイナスな言葉を吐き、思うことを控えると思うのです。

そうすれば、守護霊さまの仕事が減り、少しでも楽をさせてあげられる。

そう思うのであります。守護霊さまとは、自分たちの祖先であり、悟ったおじいさんおばあさんなのです。

  



本文


守護霊を信じ、守護神を想い、神に感謝しなければ、いくら因縁の転回や、心の法則を知ったところで、人間は永久に救われない。
 

こちらが知っていても知らなくとも、守護霊はただ、黙って人間を見守ってくれる。
 

夢などはその顕著なるものである。
 

夢は何故見るか、この問題は世界の学者が種々と研究をつづけているのだが、いまだに、はっきりとわかっていない。
 

夢とは人間の業因縁の消滅する姿である、と私はいう。
 

想念は必ず現われる。
 

この法則は動かしがたい法則である。この法則のままに、想うことがそのままこの肉体に現われたら、この人生は、もっともっと以前に滅びていたに違いない。
 

何故ならば、肉体の人間の心を奥底まで解剖すれば、愛は情に流れて執着となり、恨みは恨みを重ね、悲しみは悲しみを追い、闘争心は常に戦火を絶やさず、情欲の業火は至る所に燃え広がり、殺傷事件は眼に触れるあらゆる個所に展開されていることは明らかである。
 

この業念の感情を、肉体脳髄の念の休止している間に、巧みに夢として肉体世界と離して、画き出してしまうのが守護霊の偉大なる一つの仕事なのである。
 

現われれば消えるのが想念の性格であるので、夢として画き出されてしまえば、その想念は消えてしまう。
 

肉体世界に現われた場合は、その現われが、また頭脳にキャッチされて、再び同じ想念を幽体に記録してしまうが(それでも現われれば幾分ずつか、消えてゆくのである。)

夢の場合はその想念(おもい)が巧みに劇画化されていて、いったいなんの想念であるか判然としないので、夢から醒めた後で、いくら肉体頭脳で思ってみても、その夢に現われた想念(おもい)は再び幽体に記録されることはない。

 

その想念は夢によって一度断ち切られるので、業因縁がそれだけ消えたことになる。
 

たまたまはっきり憶えている夢もあるが、守護霊が予知的に、その人に示す夢(霊夢)以外は、その夢の画が、やはり、その想念の内容を察知できぬように描いてあって、判然としない。


フロイトという精神分析学者は、この夢をすべて性欲(リビドー)の現われと解釈していて、夢に現われる物質、風景、氏名等によって、それぞれの内容を解剖しているが、私の述べていることとはまるで異なる解釈で、人間の救いには、あまり役立たぬものと思う。
 

判然としない夢は、そのまま判然とさせる必要はないので、ただ、簡単に、自分の業想念が肉体の悪い運命となって現われるのを、守護霊がその夢と現わして消して下さったのだ、と感謝すればよいのである。

 
このことを知ることは大きな救いになると思う。
 

この守護霊の働きは真に感謝しなければならぬものである。
 

守護霊は霊界、幽界、肉体界と三界を通して働ける者なので、幽界(潜在意識の世界)において、できつつ運命、あるいはすでにできあがって、時間の経過につれて自然に肉体界(現界)の運命として現われようとする悪想念の結果(因果)を、あらゆる手段をもって、その運命として現われぬように修正してゆく。
 

この守護霊の働きを、知っている人は、感じている人は実に少なくて、肉体人間の大半が、この蔭の働きを知らないのである。
 

守護霊はその肉体人間が、守護霊の守護の力を知ろうと知るまいと、それは問わず、ただひたすら、運命の修正に全力を挙げているのである。
 

いわゆる菩薩行なのである。



 


どういう風に守護霊が運命を修正してゆくかは明日続きを書きます。ペン わーい(嬉しい顔)




      『神と人間』 より   五井昌久  白光出版




  

2015年11月29日 (日)

『神と人間』 について3




感想


 
  

今までに、『神と人間』 の感想を書いてきましたが、真理の書とは、堅く難しいのです。

まるで哲学書を読んでいるような(笑)

神って一体なんだろう? その答えを本日(2015年11月29日(日))に行なわれた

調和波動気功法のセミナーで答えを聞いたのです。

神とは愛のこと、愛そのものなのです。

か~あ み~い でしょ(笑)

「ふざけるな!」 と叱られそうですが、神は宇宙であり大自然です。

宇宙は、地球を創り、大自然を無償で創ってくださいました

そして大自然は、私たちに必要なものすべてを与えてくださっています

空気、大地、水、山、海、食べ物、鉱物、植物、動物、天象・・・・・

これだけ必要なものを与えてくださっているのに、私たちは血眼になって物質(お金や領土)

を奪い合っているのです

人間とはなんとおろかな生き物なのでしょうか?

ところが人間の本質(本当の姿)はどうしようもない生き物ではないのです

神(宇宙・大自然)の分霊(わけみたま)であり、神そのものなのです。

神とはなんでしたっけ?

そう愛です

神=愛=大自然=人(霊止)

人(霊止)とは、霊(神霊)が宿っているという意味なんです

だがしかし、今の人間は、神(愛)の姿を顕してはいない

けれど、時期が来れば、人間は神性を顕し、神そのものになってゆく

それが真実なのであります。






本文から


その場、その時々の喜怒哀楽、渦をつかんでいったい何になろう。それが、

こよなき歓喜のように見えたとしても、渦は、はかなく消えてゆくものである。

形あるもの、それは形なきものの影である。形あるものが、形あるそのまま

で見えるようでは、その人は救われない。

形あるものの形のみを変えて、社会改革を実現したとしても人類は救われない。

形、型、組織、制度、と形の世界、物の世界のみに固着した眼をもった思想

は人類を滅ぼしこそすれ、救うことにはなり得ない。

人間とは肉体だけではないのである。神、すなわち宇宙に遍満せる生命が、

その創造せんとする力が、個々の人格に分けられたもので、しかも横におい

てつながり合い、協力し合って、その与えられた力を、縦横に、自由無礙

(じゆうむげ)に発揮し、形ある世界に、完全なる神の姿を画き出そうとして

いる者である。


神とは宇宙に遍満する生命の原理、創造の原理であり、人間とは神の生命

を形ある世界に活動せしめんとする神の子なのである。

このような、神と人間との関係を知り得たならば、この現象世界のいかなる

変動の中にあっても、動揺せぬ生き方ができるようになるのである。



                 つづく




     『神と人間』  五井昌久 白光出版

2015年11月28日 (土)

『神と人間』について2


感想
  

人間とは、目の前に見えている海に浮かんでいる氷山がすべてではなく

海の下にその何千倍もの大きさが隠されているように、肉体人間も本当の人間

のほんの一部でしかないのです。

もっとわかりやすく言えば、人間は目に見える波動の粗い肉体界だけではなく、

想いの世界である幽界、幽界よりも波動が細かく守護霊の住んでいらっしゃる霊界、

そして天国と言われている神の世界である神界にも同時に住んでいるのです。

実際に寝ているときなどは、意識(本体・魂)は肉体界を離れ、霊界に行ってい

るのです。

「目にみえる世界(肉体界)しかないんだ」 と決めつけ、信じず、狭い世界だけで生

きることは非常に不自由であり、自らの可能性を限定することになり、自分の本体

を知らずに死んでゆくことはなんとももったいないと思うのです。

私は下記の文章を読んで、アンデルセン童話 『みにくいアヒルの子』 を思い出しました。

童話は真理を説いているものが多いのです。

私なりに解釈すると美しい白鳥の子であるのに自分はみにくいアヒルの
子であると

信じ込んでいた。

これは本当は自分がパーフェクトな素晴らしい神の子であるのに、ダメでどうしようも

ない肉体人間だと思い込んでしまったことに非常に似ているのです。

空を自由に飛べる羽根を持っているのに、「この羽根は飾りであり、何の意味も無い」

と思い込んでるのと同じです。

人間の素晴らしさの真理をわかっている人は、本当の幸せをつかむことができるの

ですが、知らない人は、不幸のまま肉体界を去ってゆく。

それくらいの違いがあるのです。

前置きが長くなってしまいました(笑)

それでは、本文をお読みください。






人間とはいったい、いかなる者であろうか。
 

この問にたいして、はっきりかくかくの者であると答え得る人ははなはだ

稀なのではあるまいか。

 
一見なんとなく考えすごしてしまうこの問が、人間世界の幸福を創りだす

最も根底になる問題であり、最もむずかしい答なのである。
 

人間とはいかなる者か、我とはいったい何か、これがわかった時、その人

は永遠に救われ、多くの人間がこの問に答え得る時、人類は救われ、地上

天国の実現が見られるものである。
 

今迄に幾多の哲人、宗教家がこの問題に立ち向かい、あるいは百パーセ

ントその問題を解明し得て覚者となり、あるいは半ば知り得て学者となり、

あるいはみずからの肉体生命を断ち、あるいは唯物思想家、唯物行動家

となって、世界をますます混乱せしめた。

 
かくて人間の本性を知り得た人が時代別にすると僅少であったため、現在

にいたるまで人類は混迷をつづけてきたのである。


私はここで、ひとまず、私の信ずる、救われに入る人間観を、簡単に述べて、

しだいに本題に入ってゆきたい。
 

人間は肉体のみにあらず、肉体のうちに、生命となって活動している何かが

ある、と認識して、そうした方向に生きている人。

それは天国への階段を一歩踏み出した人である。



人間は霊が主であり、肉体が従である、という思いに入った人。

これは同じ階段を二歩、三歩昇った人びとである。

人間は神によって創られた者であって、あくまで神のしもべである、と、こと

ごとに神の審判を恐れつつ、しかし行いを謹んで神にすがっている人々、

この人々は、真の人間観からいまだ遠いが、他人を傷つけぬ場合は、天国

の階段を昇り得る。
 

人間は神によって創られた被造者であるが、神は愛であるから、愛の行いを

積極的にしていれば、決して自己に不幸はこないのである、と確信している人。

この人も天国の階段を昇っている。
 

神のことも、霊のことも、特別に考えぬが、ただ、ひたすら、素直な明るい気

持ちで、愛他行ができ、しかも、神仏の存在を信じ、あわせて、この地上世界

が必ず善くなることを信じて生活している人、この人は天国の住者である。
 

人間は霊であり、肉体はその一つの現れであって、人間そのものではない、

人間とは神の生命の法則を、自由に操って、この現象の世界に、形の上の

創造を成し遂げてゆくものである、と識って、それを実行している人。この人

は覚者であって、自由自在心である。即ち、個の肉体を持ちながら、みずか

らが、霊そのものであることを自覚し、その霊とは神そのものの生命である

ことを識り、神我一体観、自他一体観を行動として表現してゆく人、例えば、

仏陀、キリストの如き人々である。



                     つづく



        

            『神と人間』 五井昌久

『神と人間』 について 1


 
私は五年前に 『神と人間』 という五井先生のご著書を掲載し、その感想を述べさせていただいていました。

この本の内容は素晴らしく、今の日本人、いや人間にとって大変重要な必要なことが書かれています。

五年前時の私の感想をそのまま写そうかとも思ったのですが、それでは脳が無く、また読み返してみると少し違和感を覚えたりしますので、今の私の心境を述べてみたいと思います。

長い連載になりますが、どうぞお付き合いください。







神と人間


昔の私がそうであったように、世界の人びとの大半が、人間とは肉体そのものであり、精神とは肉体の中に存在する、ある機能の働きである、と思っている。

人間とは五十年、六十年、この社会に生存していて、後は灰になり無になってしまうものと思っている。

死んでしまえばそれまでのもの、と思いこんでいる。

はたして人間は肉体の滅亡をもって、最後の終止符になるであろうか。

私は即座に、否(いな)と答える。

なんとなく偶然にこの世に生まれ出て、食べたり飲んだりして肉体を維持し、ただなんとなく、社会生活を営んで、妻をめとり、夫に嫁し、子を生み育て、そして死んでゆく。

人類の大半はこのような生活を繰り返して、今日にいたっているのであるが、それでは済まない。何か漠然とした不安の想いが、その大小にかかわらず、人々の胸の中に去来しているのではなかろうか。

このような生き方ではあまりにも無意義であり、無目的でありすぎる。

このような生き方の他に、何かある。何があるかわからない。

わからないが、またわかろうと積極的に思わない。こうした想いが一般人の心であって、その中の少数の人たちが、そのままで済まされずに、社会改革に乗り出し、思想活動に加わり、また一方の小数人は自分自身の心の内面に立ち入って、深く突きつめ、神を知り、霊を知るにいたる。

ともに現況における心の苦しみを突き破ろうとしての動きなのである。


               
                          『神と人間』   五井昌久     





感想
 

私も人間は、死んでしまえば肉体と同時に心(魂)も消滅するものだと思っていました。

幼い頃に自分という存在が無くなるんだという恐怖心を持ったことを覚えています。

ただそれを聞きたくても聞けない、聞いてはいけない、聞いたところで誰も答えを知らないんだと幼心になぜかわかっていたのです。

随分大人になって五井先生のこの『神と人間』で「ああ、やっぱりそうだったのか」と安堵したのですが、世の中には、「そうなんだよ、だから安心しな」と言われてもにわかには信じられない人が多数おられるわけなのであります。

人間とは心(魂)で納得しないことには、本当の安心立命(幸せ)になることはありません。

それには、真理を識ることが必要です。私は真理を体得することは人間の必修科目だと思っています。
 


  


           

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