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2014年1月12日 (日)

科学と宗教の行き着く先は同じ 2


 

疑うことと信ずること


 

科学はあくまでも “証明” が本命です。 人類のすべての内に無限なる可能性、無限なる能力が存在すると理論では突きとめても、現実にそれを証明することが出来ません。

そのため、生涯をかけて証明してゆかなければなりません。

ところが宗教の道は、ただそれを “信ずる” ことのみで成り立つ世界です。

科学の道のように、初めから物事を疑ってかかるものではないのです。

だがしかし、その疑いこそ、人類の進化、発展の原動力でもありました。

科学の道を通して、究極的には、自らの存在そのものに行き着くのであるし、宗教の道を通してもまた、自らの存在そのものに目覚めてゆくのです。

どちらを行くのも、人間の自由です。 それぞれ好きな選択ができるように、各人に任されているのであります。

だがしかし、人類にとって “疑う” ことと “信ずる” ことのどちらが容易でしょうか。

圧倒的に、人類の多くは疑うことのほうを優先し、疑いなしに素直に信ずることは、なかなか出来にくいものです。

疑うということは、まず物事を否定してかかることであり、信ずることは、物事を積極的に受け入れてゆくことであります。

ですが、ここでいう “信ずる” とは、無知ゆえに信ずるという意味ではなく、無限なる直観、叡智を通しての信への道を指しているのです。

20世紀の人類の闘争、戦争、紛争、飢餓などの歴史は、すべてがこの疑いから生じ発生してきています。

他の人種、民族の血を疑い、それぞれの神を疑い、能力を疑う。

そしてさらに、自分自身に対しても疑いの目が向けられてゆく。

自分の才能、能力、資質、性格、人柄、血統を疑う。

自分自身に向けて発せられる疑いは、次々と周りに影響を与え、周りを汚染してゆきます。

両親や子ども、親戚、友人、知人、さらに民族、人種、国家へと広がってゆきます。

疑いこそ、暴力、闘争、紛争、戦争の原点です。

その反対に “信” ほど素晴らしいものはありません。 人間の不信、疑いを超えて、我々の内面の奥深くに平安、静けさ、平和、愛、安らぎの源があり、その源から幸せや感謝が溢れ出てくるのです。

自らが自らを信じられるからこそ、他を信じ、他を受け入れることが出来るのです。

この自らが自らを信ずることが出来ることは、究極の醍醐味です。

私にとって、科学も宗教も共に、“人は常に、他に一切頼ることなく、すがることなく、求めることなく、自らの内にある神、即ち無限なる能力をいかに引き出してゆくか” にあります。

私は、この両面のバランスを考えながら、究極のところに導いてゆくのです。

  

             「果因説」 西園寺昌美 白光出版





 

 

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