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2014年1月12日 (日)

愛のある雰囲気を


  
「人は見た目で判断してはならない」 というのは、見た目だけでは間違って判断してしまうこともあるということであり、五感(感じるものだけ)ではその人の想念はわからないのです。

しかし目にみえないエネルギー(波動、雰囲気)というものは、誤魔化しようがないものであり、隠しようもないのです。

そしてこの年齢(55歳)になると、相手の人に会って雰囲気を感じただけでその人が日頃何を考えどんな日々を送っているのかはだいたいわかるのです。

そしてまず当っていると思うのです。

人と会っていて一番気持ちのよい人というのは、何の想念も伝わって来ない、スッキリ爽やかな人をいうのです。

何かを隠しているような 「何を考えているのかわからない」 というような暗くl陰湿なものではなく

滝の側にいるような、周りに居る人たちの汚れた想念までをも浄めてくれるような、爽やかなエネルギーをその人は放っている

そんな人はめったにいませんが、その人は自分の想念を常に天に投げ入れているのであり、天で綺麗に洗濯され浄化されたエネルギーは自分の器(肉体)に帰って来ているのです。

だからその人は頭でどうのこうのと考えていない(計算をしていない)

頭は空っぽ 天(本心)の命ずるままに生きている

常にさっぱりとしている

しかし光に闇が寄って来るように、周りの人や縁のある人たち、そして人類の汚れた想念が、光った瞬間に次々と襲って来るのです。

だから

汚れてはまた天に返し、また汚れては天に返し、綺麗になったエネルギーで器が曇らないようにしているのです。

このいつも綺麗なエネルギーに保つメソッドが世界平和に祈りを祈ることであり、印を組むことなのです。

このようなことを行っている人たちは、日常生活の合間に祈っているではなく、祈りの中に生活を入れているのです。

それが素晴らしい雰囲気として現われてくるのです。

しかし見た目ばかり外見ばかりを気にしている人には、雰囲気というものがわかりにくいのかもしれません。

だから私たちは相手を肉体という物質、塊、形、見た目で見るのではなく、エネルギー体(雰囲気)として、その人をみてみれば冷静に判断できると思います。

ただあまり相手のことがわかるのも考えものです。

それは相手の想念がもろにわかってしまうと人間不信になるからです(笑)

いくら汚れた想念を持った人でもその奥の本心は光り輝いた神性があるのです。

私たちは汚れた想念、業、マイナスのエネルギーを見るのではなく、相手の神性(神)を見なければなりません。

ですから

「この人は信じてよいのだろうか?」という決断に迫られたとき以外は、あまりナーバスにならない方がいいのかもしれません。

雰囲気を相手を判別することに使うのではなく

自分が爽やかな人間になるために使うのです。

 

愛のある雰囲気を

 

  
人間の想念というものは肉眼には見えませんが、各種の液状をえがいて、その人の周囲から流れ出ているもので、その人の長い間(過去世からの)想念の集積が、その人の雰囲気となって他に伝わり、あるいは様々な運命を創り出しているものなのです。

そうした雰囲気が霊眼者には、光とみえたり、黒雲のようにみえたりするのです。

ですから、そうした想念の波動をみれば、その人がどの程度の魂的高さをもっているか、常にどのような行為をしているかがわかるのです。

常日頃から愛念で生きている人の魂は光を放っています。

愛が深いということは、本心が顕われている証であるのです。

    「日々の祈り」 五井昌久 白光出版

 

 

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