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2013年12月22日 (日)

把われのある人とない人

 

把われというのは、捉われ、囚われ、捕らわれとも書くように、非常に窮屈で心が縛られた状態を指す嫌な言葉であります。

宗教というのは、この把われを無くすというのを最大の目標としているところもあるくらい人間の心を縛りつけ苦しめるものなのです。

執着に似た響きがあります。

お金への把われ(執着)、物への把われ、子どもへの把われ、恋人への把われ、過去への把われ、悪いことへの把われ、善いことへの把われ・・・・・把れるというのは、それがどんなことであっても人間の心の自由を奪うのです。

人間は心がすべてのすべてなので、本能的に心が把われることを非常に嫌うのです。

そこで

悪いことに把われるのは、いけないとわかるけれど善いことに把われることが何故いけないんだといいますとそこに意識が集中して、これからやろうとしている大切なことに意識がいかないからです。

エネルギーが滞ってしまうからです。

エネルギーがスムーズに流れないと生命が活き活きとしないのです。

それで苦しくなってくる

私事ですが、私は同窓会の幹事をやっているのですが、無事に同窓会も成功に終わったとします。

次の日などに「さぁ終わったぞ、気持ちを切り替えて次のやるべきことをやろう」 とするのですが私の脳裏には昨日の同窓会のことがまだ消えずに残っているのです。

そして、あそこはもっとこうすればよかったかな?とか 食事はみんな食べてなかったなとかみんなの感想はどうだったのかな?だとか済んでしまったことなのに次々にいろんな想いが脳裡を駆け巡るのです。

それは想いは私の思いだけではなく、想いとは相手の心と書くように、みんなの想いが私に移って集まってきているのです。

誰がどう想ったかはわかりませんが、想いというのは空のようにすべてがつながっているのです。

相手の想いが、突然わかったりするのは、つながっているからです。

だから同窓会は、やっている最中が一番楽で、行なう前と終わった後が非常にしんどいのです。(でも、もちろんみんなが楽しんでくれたという喜びがあるから続けられるのですが)

そんなときは、早く忘れたい、人の想いのエネルギーから早く開放されたいと思うのです。

これも一つの把われです。

脳裡に浮かんだものを放てずに掴んでしまっているからです。

良い想い出であったとしても、すぐに消せなくてそこに意識がいき過ぎると心が把われて苦しくなるのです。

心がなにかに執着しそうになったとき、把われそうになったときは、祈りによって執着心や把われの心を消してもらえばいいのです。

すると把われている自分、しんどい自分がどんどんと消えていくのです。

下記の文章は、私が大好きな話の一つです。

読んでいて スカッ とするのです。

私もこのお坊さんのように、竹を割ったような スカッと爽やかな人間になりたいと思うのであります。

みなさんはいかがでしょうか?



把われのある人とない人




ある坊さんが、他の坊さんと二人で旅をしていて、ある川にさしかかった時、その川を渡り悩んでいる女性のいるのに気づき、その坊さんが、私の背に乗りなさいといって、その女性を背負って川を渡ってしまい、渡りきるとその女性を背からおろして、さっさと歩きだした。

それを見ていた他の坊さんが、おまえは坊主のくせに何故女性を背負ったのだ、女性の体に触れるなどとは実にけしからん行為だと、非常に怒って、その坊さんをなじった。

するとその坊さんは、平気な顔をして、わしはもう背中から女性をおろしてしまったが、おまえはまだあの女性を背負っておるのか、といって大笑いしたという話があります。

心に把われのある人とない人との差をはっきり示した話です。

 

     「日々の祈り」 五井昌久 白光出版

 

 

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