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2013年12月31日 (火)

「沈黙」を恐れない


 
フェイスブックを観ていると、結構私と同年代のおじさんおばさんが一人旅に出ていたり、青春切符で自由気ままな旅を楽しんでいるのです。

それに比べて若い人は、インターネットの世界でほとんど生きているので、自分と向き合う時間というものがどれだけ貴重で素晴らしいものであるかがわからないと思うのです。

私たちが若い頃は、インターネットは存在しておらず、現実世界と自分の中の脳内世界しか存在していませんでした。

そして頭で考えたこと想ったことをどう現実世界に現わしていくかだけを考えていればよかったのです。

その2つのバランスをうまく取ろうとしていたのです。

しかし今はその二つの世界に、電脳(インターネット)世界が入ってきた、それも他の2つの世界よりもずっと幅を利かせています。

それが証拠にほとんどの若い人は、電車に乗っていても注意深く、興味を持って車内を見渡すこともせず、移りゆく外の景色を車窓から見ることもせず、ただ何かに取り憑かれたようにスマートフォンに向き合っています。

心を亡くしているように見える

その様子が異様に見えるのは私だけでしょうか?

2つの世界を生きてきた私たち中年は、何かが違う、どこかバランスを崩していると察知して元の世界に戻ろうとしているのです。

2つの世界のうちの脳内世界、そこは自分と対話できる場所なのです。

脳と意識、心はつながっています。

肉体と心はつながっているのです。

静かな場所に行って、肉体の脳を静めることによって心が洗練され、魂が光ってくる

落ち着いてくる

そして

本当の自分とつながって、自分が今何をすればいいのか?

何が大切なことなのかがわかるようになるのです。

私たちは、いろんな経験を積んだり本を読んだり、ネットで知識を詰め込むことによって一端(いっぱし)の人間になったような気になっています。

知らないことはスマートフォンですぐにわかってしまうと思っている

だから持っていれば何も怖くない、大丈夫だ

だって必要な情報はすべてここ(スマートフォン)にあるのだからと思っている

しかし、私たちの知っている知識なんて宇宙から観ればほんの極僅かのことなのです。

サハラ砂漠にある無数の砂の一粒にも匹敵しないのです。

それなのに自分は、大概のことはわかっている、と錯覚しているのです。

思い違いも甚だしい

最近、人のことは、客観的に観れるので比較的よくわかるのだけれど

自分のことってほんとにわかっていないなぁ と実感しているのです(笑)

今の私の課題は

「どうすれば自分を客観視できるか?」

ということなのです。

それには、自分のことを客観的に観てくれている

周りの人に聞いてみるのもいいかもしれません

きっとあなたの守護霊守護神に代わって

いいアドバイスを頂けると思います。

しかし自分のために真剣にアドバイスをしてくれる人はそうはいません

だから 日頃の人とのコミュニケーションが大切ですよね!








「沈黙」を恐れない

 

 


最近、話をしたある学生さんとの会話の中で、印象に残っているものがあります。

私が、 「就職すると忙しくてなかなか旅ができないから、時間がある学生時代に、一人旅や長い旅に行くといいよ」 という話をしたら、一人旅は嫌だというのです。

「一人だと、ずっと沈黙で、なんだか間があり過ぎるって感じてしまうんです」

「間があり過ぎる」 という表現を面白く思うと同時に、「もったいない」 と思いました。

というのも、人間というのは、自分ではいろいろなことに精通しているつもりでも、実際には、それは微々たるものでしかありません。

「すべすべした小石やきれいな貝殻を見つけて夢中になってきたが、私の目の前には真理の大海が、依然として発見されることもなく横たわっていた」

こう語ったのはアイザック・ニュートンですが、いくらたくさんのことを知っていると思っていても、実際にはそれは海岸の一握りの石や貝でしかない。

知らないことの方が圧倒的に多いということでしょう。

旅に行き、実際にその土地を見て、そこにいる人々と話してみると、自分が持っていた先入観や聞いていた評判とは違う印象を持つ、ということは少なくありません、実際にいろいろな土地に行き、自分の目で多くのものを見て、そこにいる人たちと生の言葉を交わすと、それまで知らなかったことを知ることができます。

それでもなお知らないことの方が断然多いのですが

実際に自分の目で見、聞き、話すというコミュニケーションを通じて、自分の知らないことを吸収していく ことが、社会的な生き物として生まれてきた以上、幸せに近づける一番の道ではないかと思うのです。

もちろん仲間との旅もいろいろな意味で意義深く、行けるときにたくさん行っておいた方がいいと思いますが、ときには一人でじっくりその土地を味わい、その土地から得られるものを楽しむことも、非常に意義深いものです。

あり余る 「間」 を使って、行った先々の人々と接し、多くのものを吸い込んで再び自分と向き合う ━ それは自分の成長にとって貴重な機会になると思うのです。

考えてみますと、会話の中でも 「沈黙」 や 「間」 を嫌がる人は多いようです。

たとえば、人と話をしているときに、ふと会話が途切れてしまうことがあります。

特に相手がそれほど親密でない人とか、上司や先輩などの場合、とたんに不安になって矢継ぎ早に質問したり、急いで話題を変えようとする人がいます。

でも、沈黙は必要以上に怖がることはないのです。

相手の沈黙にも、たぶん何かの意味があるのでしょう。

相手が考えているときは、じっくり待ってあげる のも、一つのコミュニケーション方法です。

大事なのは、相手との阿吽(あうん)の呼吸です。

相手が何か考えているなと思ったら、沈黙を恐れずに、ゆったりとした心持でしばらく待ってみましょう。

矢継ぎ早に質問を重ねたり、イライラしないこと。

また相手が話したいと思えるような雰囲気を作ることです。

会話は、相手とのキャッチボールです。

キャッチボールで相手が受けやすい所にボールを投げ返すのと同じように、相手が考えたら待ち、相手に話したい様子があれば、興味深く聞く姿勢を見せる。

無理に話を盛り上げようとか、話を途切れさせないようにつなごうとは思わず、相手に呼吸を合わせていく ということが、会話のうえでは非常に大事なことだと思うのです。



 

・沈黙を恐れない。相手が考えているときは、じっくり待つ

・会話は相手とのキャッチボール。無理に話を盛り上げようとするのではなく、相手のと呼吸を合わせることが大事

     「話す力」  草野 仁  小学館新書






 

 

2013年12月30日 (月)

不安を超えるには


 
お金がたくさんあったとしても、人との心の分かち合いのほとんどない寂しい人と、お金はいつも不足気味だけれど、人との触れ合いも多く毎日充実した日々を送っている人とでは幸せ感はどちらがあるでしょう?

しかし仮に金銭的なことも心もある程度満たされている人がいたとしても死や病気への恐怖、そして老いてゆくことの哀しさは消すことは出来ません。

そしてもし、死を恐れることがなくなり、病気になることにもなんの不安も感じなくなり、老いてゆくことも平気になり、お金がなくてもなんとかなるさという心境になり生きていることがありがたくて、楽しくてしかたがないという境地になればどんなにか素晴らしいことでしょう!

そうなれば、どんな現象が目の前に現われたとしても、動じないほんとうの意味の不動心になるのです。

人間は不動心になることが幸せにつながるのです。

どうすれば物事に動じない人になれるのだろう?

どうすればいつも平穏な心でいられるのだろう?

それは人間、万人の願いだと思うのです。

私は、私たち人間の心の故郷である宇宙と意識がつながることが永遠の安住の地に着くことだと思っています。

私たちはどこから生まれどこからやってきたのか?

そこに答があるのです。

私たちは神の子です。

神とは宇宙のことです。

宇宙神ともいいます。

宇宙の子である私たちが

意識を天(宇宙)に合わせた時

なんともいえない安心感が得られるのです。

どのような不安恐怖も一瞬にして無くなる

だから意識を天(宇宙)に合わせ続ければいい

そのために祈り(世界平和の)をするのです。

祈ると生命が活き活きとして来るのです。

それは生命の源とつながるからです。

源からの波動(エネルギー)が肉体に響いて来るからです。

不安を超えるには、宇宙とつながるしかないのです。

宇宙は全ての源  もと です。

もとは素です。

だから素晴らしいとは宇宙とつながっているという状態を言うのです。


意識を宇宙に合わせましょう

そして永遠の生命とつながりましょう




 

世界人類が平和でありますように

 
我即神也

人類即神也

 





    不安をこえるには


 

職がなくなったらどうしよう、病気になったらどうしよう、親が死んだらどうしよう、夫を失ったらどうしよう、老人になったらどうしよう・・・・・思えばきりのないほど恐怖の種はあります。

それはいずれも自己の生命存続のための恐怖なのです。

金がなくとも、職がなくとも、食べなくとも生きていられる、という道があったら、どれほど心安まることでありましょう。

ところが現実の生活ではそうはいかない。

しかしこれを裏返しに考えてみると金があり職があり何の不自由がなくとも、死病にでもなったらどうでしょう。

心の安定はほとんどの人が失ってしまいます。

心の安定を得るということは、金でも職でも体の自由でもなく、永遠の生命を得るということにあります。

 

       「日々の祈り」 五井昌久 白光出版



 

 

話す力

    

今、私は「話す力」(草野仁著)という本を読んでいます。

昨日買って、もう読破しました。

興味深いことが書かれていて引きつけられました。

本の中で草野さんは、プロゴルファーの石川遼くんの “人の気持ちを動かすスピーチ” の素晴らしさについて書いています。

私も遼くんのスピーチには感動した者の一人です。

17歳で初めてツアーで優勝(出場選手のほとんどがプロの中で)したときのスピーチはほんとに感動的でした。

優勝インタビューで自分の勝利を喜ぶことよりも、一緒に回ってくれたキャディの人に感謝の気持ちを述べていたからです。

それもインタビューを受けている途中で呼び寄せていたのです。

そのキャディーの人はもちろん、周りのギャラリーもプロの選手たちもたくんの人たちが感動で涙を流していました。

それは、遼くんの心遣いの美しさに胸を打たれたのです。

まだ高校生なのに、優勝の余韻だけに浸っていても誰も文句は言わないのに・・・・

そしてあの有名な 「ハニカミ王子」 と言われるようになったのです。

彼の言動はつくったものではありませんでした。

遼くんは、コースを回っている時に途中で入るトイレで手を洗った後、鏡や洗面台に飛び散った水滴を綺麗に拭いてから出てくるそうです。

そのマナーの良さを見た人が、他の人に伝える、そしてまたファンが増えていく・・・・

当たり前のことが当たり前に出来る

そんなことで感心するなんておかしいと思われるかもしれません。

しかし当たり前のことがちゃんと出来ている大人が少ないのです。

そして大人のマネをする子どもたちもマナーが悪くなります。

遼君は、その当たり前のことが自然に出来ていると思うのです。

日頃の何気ない行為も言動も心の中のものが外に現われます。

言葉にももちろん現われるのです。

それが素晴らしい心を打つスピーチになる

スポーツも表現力が大切です。

特にプロはただ成績を上げることだけではなく、その競技の魅力、楽しさ、面白さ、奥の深さを伝えなければならない

魅力を伝えるには伝える人が魅力的でなければならない

爽やかでなければ伝わらないのです。

“話す力” は 爽やかで魅力的であってこそ、初めて活かされるのです。


2008年11月にプロゴルファーの青木功さんが紫綬褒章を受章され、受章をお祝いするパーティが開かれたときのことです。

私も参加しましたが、世界のAOKI と呼ばれる青木さんだけあって、スポーツ界のみならず、政界、経済界、芸能界などから多数のゲストが参加する盛大なパーティーでした。

パーティの途中で、若手ゴルファーを代表して石川遼選手、宮里藍選手が青木さんに花束を贈呈しました。

そのとき、二人から青木さんにお祝いの言葉も贈ったのですが、どちらも堂々としており、さすがだと感心しました。

特に、石川遼君は当時まだ17歳。 プロとして初めてのツアー優勝、しかも史上最年少優勝を成し遂げた直後で、 「天才ゴルファー」 としてまさに飛ぶ鳥を落とす勢いの時期でした。

彼はまったく物怖じせず、落ち着いた様子で、こんなことを話したのです。

「・・・・・青木功さん、このたびは紫綬褒章受章、おめでとうございます。

青木さんとは、日本オープンの際に一緒に回らせていただきましたが、そのとき

「風の重さ」 について、少しだけ話をさせていただきました。

もし機会がありましたら、『風の重さ』 について、もっともっと深く伺いたいと思っています。

これからも青木さんの近くにいて、勉強させてください。・・・・・」

17歳らしい、若々しく謙虚なメッセージでしたが、同時に10代とは思えないものでもありました。

非常に短い言葉の中に青木さんとの個人的なエピソードが入っています。

それも 「風の重さ」 という印象的な言葉で、多くの聴衆をハッと引きつけたのです。

ゴルフは風の影響を受けやすいスポーツです。

風が強い、弱いだけでなく、湿度や乾燥の度合いも影響します。

特に湿っぽい風は重く感じ、ボールの飛び方も微妙に違ってきます。

しかし熟練したプロゴルファーにしかわからない感覚かもしれません。

プロゴルフ界を背負ってきた超ベテランゴルファーと、次代を担う若いゴルファーの間でそんな会話があったのかと、ゴルフ通をうならせたのです。

会場は、 「さすが遼くん、やるねぇ」 と賛嘆の空気に包まれました。

どうやらそのメッセージはその場で頼まれたもののようですが、彼は試合後の記者会見でも疲れを見せず、常にわかりやすく正確に、何より真摯に答えようとする姿勢を忘れません。

どう話せば相手に伝わるかを、普段からきちんと考えているように思います。

考えてみますと、プロのスポーツ選手というものは、マスコミの報道を通じて、ファンにそのスポーツの魅力を感じてもらうことも大事な仕事です。

石川選手の活躍を見て 「ゴルフをやりたい」 と思う人が増えたように、そのスポーツの 「伝道師」でもあるわけです。

マスコミで伝えられる選手の言動も、そのことに大きく影響します。

若いのにそのことをよくわかっていて誠実な態度を崩さない彼は、まさに 「日本の宝」ではないかと、私は常々思っているのです。

ともあれ、ごく短い言葉の中に具体的なエピソードを入れるだけでなく、印象的な言葉を使うことで、聞く人をハッと引きつけた。そんな心憎いメッセージだったのです。

 

            「話す力」 草野 仁   小学館新書




2013年12月27日 (金)

最後はやっぱり人なんですね(ビジネス編)

   

今、私は縁があって母校の高校と関わりがあり、そこで先生方とお話し、現場の悩みをお聞きすることがあるのです。

それは昔では考えられなかったような驚くべき内容なのです。

私が見る限りでも、高校生の幼児化が見られます。(すべての学校がそうだとは思いませんが)

・ 授業を受ける態度がなっていない、席に着かない、授業を聞かない(私たちの頃も一部ありましたが)

・ 先生を友だちのように思い、接している(呼び捨て)

・ なんのために学校に来て、なんのために勉強をするのかがわかっていない(目的意識が希薄)

・ 挨拶など人としてのマナーが出来ていない


先生方は、「生徒たちもそうだが親がなっていない、非常識な親に育てられているから子どももそうなるんだ」

と言いますが、学校側がそう言って 親の責任にしていてもらちがあかないのです。

親に説教が出来ないのであれば、生徒をしっかり教育して立派にして、逆に親を目覚めさせてやる!ぐらいの心意気を持って欲しいと思うのですが

先生方も疲れ切っています(笑)

やることが多すぎるのです(いろんなことを兼務され毎日遅くまでお仕事をされています)

そこまで言えないのです。

そんな生徒たちがそのまま社会に出たらどうでしょう?

すぐにクビになるか、辛抱が足らないので辞めていくと思います。

会社もバカではないので最初からそんな生徒は雇いません。

しっかりした常識のある人を当然欲しがります。

だから大きな企業ほどいい人材は集まると思うのです。

それでも優秀な大学を出ているからといって使える人材だとは限りません。

間違って雇ってしまう場合もある

だから少なからず教育をし直す必要はあると思うのです。

会社も雇った限りは見捨てることはできません

人材を育てることも企業としての役割です。

親の教育(しつけ)が出来ていなかったつけが学校に回り、学校も教育し切れなったつけが企業に回り社会にもまわってきた・・・・・

決して本人の責任ではないのです。

親の責任でもあり、学校の責任でもあり、社会の責任でもある、みんなの責任です。

大人がしっかりしていないから大人が正しく立派に生きていないから、自分の生き方に自信がないからそれが子どもに伝染するのです。

自分のところの会社ではそんな社員はいない

だからそれでいいんだ ではダメだと思うのです。

すまされないと思うのです。

子どもは日本の宝であり、地球の宝であり、世界人類の宝です。

今からでも遅くはない、自分たちの生き方を見直して、正し

その姿を子どもたちに見せていこうではありませんか!


それしか方法はないと思うのです。

 

永遠に開発されないソフト

 

最近、私はコンサルティングの現場で、クライアント経営者に向け、こんなジョークを話ます。

「社長、今に 『世界で一番簡単な経営戦略』 『サルでもできる営業戦術』 『すごいマーケティング』 といったゲームソフトが開発され、ニンテンドーDSで使える時代になりますよ。

でも、いくらソフトが発達しても、まず永遠に開発されないのは、ヒトの問題です。

だから、使える人を採用すること、頼もしい人財に育てることが今後ますます経営の優勝劣敗を決めるようになります」。 ヒトの問題は、現代日本ではすでに深刻です。

学力はおろか、社会人としての基本的なセンスやマナーが身についていません。

会社は採用後数年、大学の代わりに教育しなければならない覚悟が必要です。

こんな話があります。
 


 

「お昼行ってきまーす」 が最後の言葉!?

渋谷109、若者に人気のファッションビル。 その中の某ブランド店長に聞いた話です。

アルバイトがお昼に出たまま午後帰ってこない。 午前中何か注意するなり叱るなりして、それが気に入らなくて午後いなくなってしまう、ということなら過去実際にあったし、理解もできるのですが、思い当たる節はない。

午前中は機嫌よく仕事をしていた。

物騒な昨今ですから、何かあっては大変と携帯に電話したところ、「着信拒否」! 八方手を尽してつかまえ、理由を聞いたところ 

「自分のイメージしていた仕事と違った」 と。 「商品ディスプレイの仕事がしたかったのに、倉庫から箱詰めされた商品を出すことばかりやらされる。 こんなのワタシの仕事じゃない!」

それにしても、挨拶も対話もなく、ぷい、といなくなってそのまま。

まるで学校の授業サボりのノリです。

「日本の教育がなってないんですよ」 と嘆く店長。

彼女もまだ、24歳なのですが。

 

   「ビジネスチャンスに気づく人の57の法則」 阪本啓一 日経ビジネス人文庫




 





 

 

ちょっといい話 (ビジネス編)

 

突然の雨に降られて

 

ある午後のこと、ランチを終えて、店を出た途端、大雨。

まるでそれまで我慢していたのが急に破裂したかのような 「大泣き」 といった感じの降り方でした。

「参ったなぁ・・・・」 とは思いましたが、約束があるので、そこでじっとしているわけにはいきません。

当分やみそうにない雨足です。

待ち合わせのオフィスまでは約20メートル 思い切って走り始めましたが、雨足ますます強く、頭を叩かれるような思いがします。

だんだんメゲてきました。 視界の隅にある店の庇(ひさし)が入ってくると、矢もたてもたまらず、その軒下に飛び込みました。

ここまで約一分。 すでに私はズブ濡れです。

やれやれ、参ったなぁ、と空を見上げながらハンカチで拭いていると、店のドアが開いて女性が顔を出し

「突然のことで大変ですね。 よろしければどうぞこの傘をお使いください」。

一瞬、私以外の誰かに向けて話しかけているのかと思いましたが、周囲を見回しても、誰もいません。

あらためて店を見てみると、女性用アクセサリーなどを商う小さなブティックです。

これまでここには来たことがないし、もちろん買い物をした覚えもありません。

私の目の前で傘を手にして微笑んでる女性スタッフとは初対面です。

こういうとき人間は、 「どうしてこんなことをしてくれるのだろう?」 と、 「サービスの動機」 を考えてしまいます。 ちょっと哀しいことですが。

でも、「どうして?」 などと聞くヤボはしなくて済みました。

彼女は断固とした姿勢で、キッパリ、という音がするくらいに、私の手に傘を渡してくれましたから。

お礼を言って、オフィスに戻りました。

 

ナチュラルな、顧客への愛

 

ミーティングを済ませ、すぐに私は傘を返しに行きました。

途中、スターバックスに立ち寄りチョコレートを買って。

アクセサリー店のくだんの女性は私がその日のうちに返しに来たことに驚き、お礼として用意したチョコレートを、そんなつもりではないから、と受取ってくれません。
 

現代日本では、毎日殺伐としたニュースばかりが飛び込んできます。

本当に暗くて気持ちが滅入る話ばかりなので、朝、新聞を開くことが怖いほどです。

テレビも、ニュースの時間が憂鬱になってきます。

街を歩いていても、いつどんな災難に遭うかわかりません。

それらの 「暗さ」 の底には、 「人間への不信感」 があるので、余計にしんどい思いがするのでしょう。

しかし、話をしていく中で、くだんのアクセサリー店の経営者は(彼女が経営者だとわかりました)、こころから顧客を愛しているのだなあ、とわかりました。

顧客、もっと言えば、人間そのものに対する興味、関心ですね。

彼女が売っている商品は女性が身につけるアクセサリーですが、それらのモノだけを売っているのではなく、そのアクセサリーを身につけることによって顧客の生活がハッピーになることを願っているとのことです。

その言葉に一ミリも嘘がないことは、傘の対応でわかると思います。

打算のない、ナチュラルな顧客への愛が彼女の行動の動機なのです。



ALL you need is Love 

「ALL you need is Love 」 ━ かつてビートルズは世界に呼びかけました。

理念としてはわかるけれど、では、具体的にどう実行すればいいの?と思っていましたが、今日、ようやくわかりました。

自分のお客さんを素直に、ナチュラルに愛することだと。

・ 店(オフィス)を自分で掃除する

・看板が汚れていないか、文字は遠くからハッキリ読めるかチェックし、不具合があれば直す

・お客さんに微笑みかける

以上のことをあなたもさっそく、今日から実行してみませんか?

 

   「ビジネスチャンスに気づく人の57の法則」 阪本 啓一 日経ビジネス人文庫





 

 

2013年12月26日 (木)

年賀状の一部だけでも自筆で書きましょう

 

25日までに出せば 元旦に着くと聞いて 昨日で9割方、今日の朝にあとの一割の分をポストに投函してきました。

私は宛名と裏面はプリンターで印刷しますが、裏面は余白を半分くらい残し、自筆でちょっとした想いを書いています。

もう何年も会っていない人、縁を感じる人、今年お世話になった人・・・・などを思い浮かべ頭をひねっているとその人と通じているのがわかるのです。

イメージをしているとその人の姿形が浮かんでくる

その人が何をしているのかはわかりませんが、私の魂が相手の人のところへ行っているのは確かです。

だから相手の人が私の書いた年賀状を読んだ瞬間、完全につながるのです。

自筆で書くということは、手を使う腕を使う体を使うということです。

体を使って相手をイメージして、気持ちを込めて書く、これが響かないわけがありません。

肉体と心はつながっているのです。

手(肉体)を使って相手を思い浮かべながら書く

それから日本の文字(漢字)は象形文字です。

絵を自分で書いているのと同じです。

そこにはフォントで整形されていない素の自分がいるのです。

へた絵であっても自分の思い(気持ち)が相手に見えるのです。

手(肉体)→自分の心→相手の頭(肉体)→相手の心

印刷や、メールではこうはいきません

一枚50円で心が通じ合える 

安いものだと思います。



 

 

2013年12月25日 (水)

死後の世界をわかりやすく説明してください 2


唯物論者のように、肉体界の物の面にのみ想いを固執していた者は、その想いが神の存在を認めぬ以上は、想念が形の世界、物の世界にこびりついていて、心が自由自在な楽な境界には出られないのです。

彼等は、いつまでも物の世界で争い合い、傷つけ合い、いがみ合って生活するより仕方がないのです。

ところが、真実に神の存在を信じ、しかも、神の慈愛の現われとしての守護神の存在、祖先の子孫への愛の現われとしての守護霊の存在を信じ得る者、そして、それらの神霊への感謝の念に生きる者は、よしやそれまでの行ないが、どのように悪いものであったとしても、死後は、はっきり守護の神霊の存在を確認することが出来、それらの守護の神霊の守り給うままに生活出来るのであります。

真に守護の神霊を一つに出来得るものほど幸せ者はありません。

その人々は常にそれら神霊の指導が受けられるのですから現在以上に業想念の増加する憂いはなくなるのであります。

あの世は、この世より、すべての速度の早い世界であります。

悪を想えば、すぐその悪の現われるように、善を想えば、すぐその善も現われるのです。

善のうちで、神を想う程、善なることはないのです。

何故なれば、神はすべてのすべてであり、完全なる能力者であるからです。

しかし、絶対神は、すべてのすべてであるが故に、個体としてその姿を現わされることはありません。

それ故、人間世界には、守護神、守護霊をして、守らせ指導するような方法がとられてあるのです。

最も微妙である絶対神と、人間の波長を合わせることより、自分に身近い守護霊に波長を合わせることの方が肉体身にとっては、ずっとやさしくて、早い時間で出来るのです。

守護霊と思いが一つになれば、守護霊は常に守護神のもとに想いを交流させているのですから、肉体身、守護霊、守護神と想いがつながり、やがて、自分の本体、直霊の光明がはっきり現われてくるのであります。

その時その人は、神界の居住者となるのであります。

それは絶対神と一つにつながっていることにもなるのであります。

そうしたわけで、私の教えの通りに行じておられる方が、地獄に落ちることは絶対にありません。

まして、世界平和の祈りを真剣にやっておられる人は、その行ないが、そのまま菩薩としてのものですから、霊界の上位あるいは神界にまでも到達することが出来るのであります。

今迄亡くなった人の中に、死後自分の境界を知らせてきた人がありますが、皆安らかに亡くなられ、安らかに境界に、その死後の生活を営まれております。






     「死んだらどうなるQ&A」 五井昌久 白光出版小冊子




 


 

死後の生活をわかりやすく説明して下さい 1

  

クリスマスが終わってこれからおめでたいお正月がやって来るのに、死後をテーマにするとは何事か! と怒られそうですが、年末にお亡くなりになる人が多いのも事実です(泣)。

なぜ年末に多くなるのかはわかりませんが(笑) 周りがメリークリスマス!おめでとう!と言っている時にご家族とかは複雑な心境ですよね。

身内や親しい人が亡くなると、自分に置き換えて死を真剣に考えます。

死んだらどうなるのか?

死後の世界はあるのか?

魂(心)は死後も生き続けるのか?

意識は無くなってしまうのか?

・・・・・・

少し前になりますが

臨床医が書いた

「人は死なない」 という本が話題になりました。

そしてもう少し前には

「千の風になって」 という歌で

私はお墓にはいません、眠ってなんかいません 千の風になってあの大きな空をふきわたっています♪

という歌詞が流れていました。

人間は、肉体界を去っても違う世界がきっとあるんだと薄々気づいているのです。

いのちは生き続けるんだと知っているのです。

しかし、あるんだ!と誰も声を大にして言っているわけではない

死後の世界を見てきたという人がいてもいま一信用出来ないでいる

新聞でもテレビでも、どこも報道しない それとなく伝わって来るだけです。

肉体を去っても いのち は生き続けるんだ

肉体にいたときと同じ意識が残るんだ

肉体界以外に他の世界があるんだ

神さまを想えば、霊界の高いところや神界(天国)にも行けるんだ

神界は肉体界のような苦悩も悲しみもない完璧な素晴らしい世界なんだ

そこに本当の自分がいるんだ

だから死は怖いものでもなんでもないんだ(神の存在を知っていれば・・・)

ほんとうは喜ばしいことなんだと 死ぬ前にわかっていればどんなにか安心していられるでしょう

生を生き切るためには死とは何なのか?を正しく知るべきだと思うのです。

学校でも家庭でも教えてくれない真実、真理

これからは、真理を知ることが当たり前になってゆくのです。

真理を知ると人間は神性を顕わしてゆくのです。

 


 

死後の生活をわかりやすく説明して下さい。
 
 




まず、私の体験として、死後の世界が絶対に存在するということを、最初に一般読者に申し上げます。

死んでしまえばもう終わりだ、という考え方が、まだ圧倒的に多い世の中ではありますが、私たちにとっては、死後の世界は、この肉体世界以上に、はっきりした存在であることが確実なのであります。

死後というより、この五感に感じられない世界が確実に存在するといった方がよいでしょう。

いつも申しておりますように、大きく分けて、幽界、霊界、神界という世界が、肉体界と異なる世界として現存することは真実なのであります。

私たちは、いつも、自分の想念のままの世界に住んでいるのですが、この肉体界では、その想いがある年月をへて、現実として現われてくるので、一寸目には、自分の想念のままに自分の世界が現われてくるとは思えないのであります。

このある年月が、過去世、つかりこの肉体身の、前の世における想念行為であることが多いから無理もありません。

しかし今生だけでも、自分の想念所業が、自分に帰ってきている場合も多いのです。

そこで肉体が亡くなった後の人間という者は、その人の想いが、非常に早く、その人の環境として現われる世界に居住することになるので、その人の習慣性となっている想念の世界に、その人はまず住まねばならぬことになっているのです。

つまり喧嘩ぐせのある人は、そうした人ばかり集まっている世界に、おしゃれの人は、そうした人ばかりの集まっている世界に、というように、同種類の想念の人が、そこに集まって生活するわけであります。

一口にいうと日頃からの自分の想念所業の中に、自分の生活が展開されるのです。

ですから、神を想わず、神のみ心を自己の生活に行じていなかった人々は、神の存在を感じぬ世界、愛のない、暗い、不完全、不円満、不調和な世界に自らを置くのであります。

そして、自己の生活に神仏の存在せぬということが、いかに不幸であり、不調和であるかを、その苦しさの中から感じさせられるのです。

何故かと言いますと、人間の本体は神そのものでありますから、自分の本体、本心が現われずに、その人が幸福感を感じ得るわけがないのでありますし、本体はどうしても現われずにはいないのであります。

その神の本体が、その本体を現わすためには、人間として現われている霊魂の周囲を取り巻いている業想念を、一日も早く消し去らなければなりません。

消し去るためには、その業想念が誤りであったということを、その人間に知らせなければなりません。

そうした神の働きが、うちからは良心となってその誤りを責め、外からは悪い運命となって、その誤りを指摘するのであります。

その姿が、肉体界以外の世界では、実にはっきり現われて、つまり、地獄といわれる世界となって、その人の生活はその世界の中で、苦悶の中に行じられ、今迄の想念所業の誤りを悟らせるのであります。   つづく


 

   「死んだらどうなるQ&A」 五井昌久 白光出版小冊子





 


どんな人も光り輝いて見える人は幸せなのです

 
ここのところ毎日ブログが書けるようになりました。

自分で習慣化させるために、12月25日のつぶやき(なにがし)などと書いていたのですが、それも必要なくなったようです(笑)

ただ私のブログは少々堅苦しく、哲学的でもあり、宗教的でもあり面白味に欠けるのであります。

自分でもよくわかっています。

だから日々のつぶやきだけは、他の文章と差別化させるために日常的なことを書こうと思ったのです。

だがしかし、私が王将の社長の事件や、猪瀬前知事のこと、政治や経済、芸能や紅白の感想などを書いたところで他の人と比べてたいした文章は書けないのです。

たくさんある思想の中の一つ、ありふれたことしか書けません。

それならば真理のこと、幽界、霊界、神界、目に見えない世界のこと、調和波動気功法のことなどほとんどの人が知らないことを書いていくほうがいいと思ったのです。

それならばオンリーワンになれます。

このようなことを自分の言葉で書いている人物はほとんどいないと思うからです。

ただ、いかんせん理解してもらおうとしても、三次元と四次元とのかい離が、まだあります。

エネルギーは四次元に近づいて来ているのだけれど、人間の意識はまだ追いついていない (エネルギーが先で現象が後なのは宇宙の法則です)

だから、たくさんの人が読んで下さっているのですが、まだほとんどの人は

ちんぷんかんぷん、何が書いてあるのかよくわからない と思うのです。

下記に書き写した今回の逸話も

今、人間関係に悩んでいて、人間嫌いになりそうになっていたり、不信感を持っている

しかしどうしても心の底から人を非難する気になれない、嫌いになれない

いったいこの心境は何なのか?

人間とはいったい 善なのか? 悪なのか?人にはどうして悪い人と良い人がいるのだろう?悪い人は、どうしようもないのか? 性善説はほんとうなのか?

悪い人、嫌いな人とどう接していけばいいのか?人間の原点ってどこなんだろう?と思い悩んでいる人には響くと思うのです。

でもほとんどの人にはピンとこないかもしれません。

それをピンと来るようにつなげるのが私の役目なのかもしれませんが(笑)

ところで

人間がみんな、悪い人も善い人も神さま仏さまのように見えたらいいですよね。

そうなれば絶対に人間が好きになれる・・・・・


人はみな、どんな人をも愛せるようになりたいのです。

心の奥底では 神さまのように愛深い人になりたいと願っています。

それは人間は神そのものであり 愛そのものだからです。

か~あ

み~い

私は最近、人を物体(物質)と見ずにエネルギー体として観るようにしています。

怒って感情的になっている人は、エネルギーが粗いのです  激しく動いている だから側にいたくない

何かに感動して魂が震え喜んでいる人は、同じく動いているのだけれど波動が細かく繊細でやさしいのです。

暗い人は、エネルギーもくすぶっている

明るく愛深い人は、温かい光を放っている・・・・・


そのようにしてみれば、姿形に惑わされずにすみます。

私たちは目に見える相手の姿に惑わされているのです。

見た目だけで、ジャッジ(判断)している

下記の老僧は、人の心の奥にある光だけを見ているのです。

その光はみんな同じ 美しく輝いた光なのです。

善い人も悪い人も関係ないのです。

そのように見える老僧は、凄い人だと思っていましたが実は幸せな人なのかもしれません

人間みんなが仏さま、神さまに見えるのですから・・・・・・


 
 

囚人たちの神性を拝んだ老僧


 

ある老僧が刑務所に講話にいった時、前に並んだ囚人たちを見て

「ああ仏さまたちがおかわいそうに、こんな姿でここにいなさる。 ああお気の毒な仏さま方」 といってハラハラと落涙されつづけたそうです。

すると囚人たちは、その老僧の真実こもった涙に、声をそろえて泣き出し、スッカリ心を浄められたということです。

この話などは、一言の説教も、一言の訓戒もせず、ただ囚人の中のみ仏の姿をみつづけた老僧の心が、囚人のなかから仏性を呼びさませしめたのであります。

人間すべて神の子、仏の子であります。

悪とは神仏を離れたマイナスであって、その人の本心のなかにあるのではありません。

悪や不幸はすべて消えてゆくより仕方のないものなのです。

          「日々の祈り」 五井昌久 白光出版




 

2013年12月24日 (火)

人間とは、神と動物の間という意味なのです

   

人間とはどうして人と間と書くのか?

間とは何なのか?

何の間なのか?

それはタイトルにもありますように パーフェクトな完全な神と不完全な動物との間に人間は存在しているという意味なのです。

当たり前ですが、不完全というのは、完全(パーフェクト)でないということです。

動物は人間を癒してくれたり、食べ物にもなっている、人間の生活にはかかせないかけがえのない有り難い存在ではあるのですが、人間のように智慧を出したり、想い(イメージ)を昇華させて形にしたり、発明発見、創造することは出来ないのです。

そして壮大な宇宙を創造しているのは、神です。

その神と同じ力が宿っている人間は、神の子です。

大宇宙の子、小宇宙が人間です。

しかし今のほとんどの人間は、まだパーフェクトには至っておらず、その途上です。

今いろんなことが起きていて、様々なプロセスを経て人間がパーフェクトになろうとしているのです。

間の動物性が取れて人になろうとしている

動物性とは、感情のことであり想いのことです。

想い、想念が汚れているので、神性が顕われてくるのを邪魔しているのです。

人というのは、ここで何回も述べていますが、真実の意味は 霊止 (ひと)です。

霊とは神霊のこと、神様のことなので、神様が宿った人が 霊止 なのです。

だから人(霊止)と人間は違う

人はパーフェクトであり神であり、人間はまだそこまでいっていない動物性(感情)と人(霊止)が入り混じった混合者なのです。

そして動物性(感情)は消えていくのです。

意識を宇宙(神)に向け、上に向けることでエネルギーは縦 ┃ に流れます。

天地を結ぶ光の柱になるのです。

そして人間の中心である下丹田(かたんでんというへそ下3.5センチ)からエネルギーは横 ━に流れていきます。

縦横エネルギーが交差した十字架の姿(パーフェクト)が、本来の人間なのです。

そのときに人間は、人(霊止)に変わる

神のエネルギーが肉体人間の器に降りて来るのです。

無限のプラスの宇宙エネルギーがたくさんの人間の器に降りて来て神人になりその数が臨界点(10万人の神人の誕生)を超えたとき

地球は、幽界から神界(天国)へ変わるのです。

それがほんとうのアセンション(次元上昇)です。

 

   人間の本質
 

人間は根本として、一なる神より分けられたる生命体であります。

動植物、鉱物もすべて一なる神の生命の働きを根本にしているわけですが、人間は神の生命の働きを、自己自身が自由に使いわけ得る能力を与えられていて、自己の運命を自己自身が自由に創り得る存在者なのであり、本来神の被造物ではなくして、神自身の能力を内部に持った神の子なのであります。

ですから人間自身が欲するならば、神のみ心の内奥までも探し得るし、神と一なる心境まで到達でき得る者なのですが、現在では、そうした心境まで到達した人々はごくわずかでありまして、大半は神と動物、自由者と被造者との混合者としてこの世に生きているのであります。

          「日々の祈り」 五井昌久 白光出版




 

 

どんなに悪そうに見える人もほんとうは天使なのです

 
 
私たちは、人を姿、形で判断してしまいます。

そして言動でも判断します。 

この人は悪い人だ、この人は汚い人だ、この人は毒を吐く人だ、この人は陰で悪いことをしている人だ

反対に

この人は善い人だ、この人は綺麗な人だ、この人は美しい日本語を話す人だ、この人は陰で陰徳を積んでいる人だ

まったく真逆な判断ですが、私たちは圧倒的に相手を批判、非難することのほうが多いのです。

余程のことがないかぎり自分に都合のよいことがない限り、相手を賞賛し、褒めることはしないのです。

もっと自分のことも他人のことも褒めて認めて賞賛してあげれば、魂が歓喜していくらでも伸びて成長し進化していくのに・・・・・

人間は相手の悪は認めても、真や善や美は認めようとはしないのです。 (無限なる愛!)

それが今の世の中をつくっているのです。

しかし、どんなにその人が悪く見えても心の奥深くに入っていくとみんな同じなのです。

美しく光り輝いた本心がある

その本心がある先は神界なのです。

波動の粗い肉体界を通ってすぐ横には潜在意識の汚れた幽界がある

そして、その奥には波動の細かい霊界(霊界には幽界に近い霊界と神界に近い美しい霊界があるのです)があり

またその奥の扉を開けると、眩いばかりに光り輝いた神界(天国)があるのです。

私たちはその人の奥にある神体を見ずに、汚れた幽体を見てしまっているのです。

そして、「お前は悪い奴だ」 と決めつけている

悪い人と善い人との違いとは、想念が汚れているか、汚れていないかの違いだけなのです。

そして、いつ善い人の想念が汚れるかもわからない

反対に、いつ悪い人の想念エネルギーが浄化されて綺麗になるのかわからない

だからそのときの瞬間だけを見て

「この人は善い人だ」 「悪い人だ」 と決めつけてはいけないのです。

いつ逆転するかわからないからです。

私たちは、想念がいつも神界とつながるように努力する必要があるのです。

それが自分のためでもあり人類が平和になるためのメソッドなのです。


 

  本体は神界にある

  

どのように悪そうに見える人でも、低俗そのもののような人でもその本体は神界にあって、光り輝いているのでありますが、その分霊がこの現象世界の現身(うつしみ)となるまでに、神界の本体の光の道から想念波動がはずれてしまってきて、人間として必要な、各種の要素が不調和になってしまったのです。

その不調和な想念波動が、憎悪とか、闘争とか、妬みとか、恐怖とかいう、この世に不幸をもたらす運命をつくりだしてきたのであります。

この世の人々は、神のみ光そのものである生命を、想念で汚しきってしまっていて、生命本来の働きを邪魔してしまっているのです。

そこで聖者賢者は、空になれ、といって、肉体頭脳を駆け巡る想念を消滅させようとしているのです。

 

      「日々の祈り」 五井昌久 白光出版



 

 

2013年12月23日 (月)

劣等感に悩む人、臆病な人、気の弱い人へのメッセージ


 
私は、今中学と高校の同窓会に関わっているのですが、ある友人と接したことでびっくりしたことがあったのです。

その人は○○のときの同級生なのですが、頭脳明晰、スポーツ万能、ハンサムでモテモテでした。

生徒会の役員にもなり、誰が見てもスターだったのです、輝いていたのです。

そして今も立派なお仕事をされています。

しかし、私がその頃の昔のことに触れると

「いや~実はあの頃の自分が恥ずかしいのです、穴があったら入りたいくらいです、意気がっていた自分を消したいくらいです」

と語っていたのです。

なにがあったのかはわかりませんが、どこかで恥をかいたのかもしれません。

誰かに諭されたのかもしれません。

つくづく人間は見た目ではわからないと思ったのです。

どんな人にも劣等感、臆病なところ、気の弱いところはあると思うのです。

そしてそれとは逆に、どんな人にも優越感、度胸のあること、気の強いところがある

面白いのは自分で思っている自分と人が自分に対して思っている印象とは違うということです。

どちらの自分が本当なのか?

それは誰にもわからないのです。

私も時々、自分の性格がわからなくなるときがあります(笑)

ということは性格というのも

日々瞬々刻々変わっていっているのではないでしょうか?

日々新生、新しい自分に生まれ変わっている

昨日よりも今日、今日よりも明日の方が成長している自分でありたいものです。

 

 

劣等感に悩む人、臆病な人、気の弱い人へのメッセージ


 



世間には、劣等感に打ちひしがれている人や臆病な人、気の弱い人が結構いるものです。

劣等感には、体型や顔の造作など身体に関するもの、経歴や家柄に関するもの、所持品や言葉のなまりに対してなど、様々なものがありますが、劣等感があると、それが常に災いして、人と対等に付き合うことが出来ないのです。

人に自分の意見を述べたいと思いながらも、劣等感が脳裏をかすめて

“ああ、自分はそれにふさわしい意見をいう柄ではないんだ” と躊躇してしまう。

たとえ、その意見が自分の体験から出た、相手に対して説得力のある良いものであったにしろ、くちごもってしまうのです。

“自分にふさわしくないことをするな。お前は他と競争する立場にない。黙っていろ。引っこんでいろ” と、自分で自分を制してしまう。

それを繰り返していくと、人との付き合いも億劫になり、自分の殻に閉じこもってしまうのです。

ですから、劣等感が自分の心を占めてしまうと、一生、正しい意見も言えない状況に自分自身を追いやってしまうのであります。

また、臆病な人というのは、何をするにも、どきどきびくびくおどおどしてしまう。

これは劣等感とは違って、自分に自信がない人です。

常に人に頼りたくなる。 人に頼ることが習い性になると、この、どきどきびくびくおどおどは一生取れないのです。

気の弱い人も同様です。

劣等感のある人も臆病な人も気の弱い人も、突き詰めてゆくと、皆マイナス思考です。

物事を悪く悪く判断してしまうのです。

そして、自分は人からこう思われているだろうと、自意識過剰におちいるのです。

逆に周りの人たちは、その人がこだわっている事柄をさほど気にとめていないのです。

ですから、劣等感に悩んでいる人、臆病な人、気の弱い人はまず、周りの人が自分に向けているだろうという想いを捨てなければならない。

人はそんなに暇でもなければ、あなたに興味を持っているわけではないのです。

あなたが優れた才能や、優れた発明発見をした人なら、周りの人は関心を抱くでしょうが、普通の人であれば、そんなに関心は抱きません。

あなたは一人で、困って、苦しんで、もがいているに過ぎないのです。

劣等感を抱いている人、臆病な人は一刻も早く、そういう状況から脱しなければなりません。

そのためには、逃げないことです。

何かをする時、自分を躊躇させようとする劣等感が脳裏をかすめたら、それを追い払って、勇気を持って逃げないで立ち向かってゆくことです。

それで失敗したり、恥をかいたり、屈辱を感じても、めげずに挑戦するのです。

何回も挑戦するうちに、それが武器になり、不安や恐怖がなくなって、人と自然体で付き合えるだけの強い自分に変わってゆくのであります。

劣等感に悩む人、臆病な人、気の弱い人は皆、その状況から逃げ出そうとする人です。

逃げ出すために、いろいろな策略を巡らし、逃げ出すための弁解を、自分自身で一生懸命して、自分の心を納得させて逃げ出してしまう。

そういう状況を作り上げているうちは、その劣等感からは一生、抜け出すことは出来ません。

勇気を持って逃げないで、突き進むことです。

突き進めば、必ず道は開けるのです。

勇気を持って自分を包み隠さず、正直な心でぶち当たっていく。

それがコツです。



 


     「明日を明るくするメッセージ」 西園寺昌美著


 




 

 

家庭運をよくするためには・・・・

 

諦めるというのは、自暴自棄になって投げ出すというのではなく、一旦心を、しがみついているものから放すということなのです。

「なんとかしよう、なんとかしなけばならない」 と右往左往している状態のときには名案も浮かびません。

想いをそこから外し、気分転換をして、忘れているときに

ふと いい考えが浮かぶものです。

それが、あきらめるとあきらかになるということです。

そして明らかになったところから出発すればいい

私も家族とうまくいっていない時期がありました。

一人息子とは、思春期の多感な頃、随分ぶつかって3年くらい口をきいてくれないこともあったのです。

そのときは

「どうしよう どうしよう なんとかしなければ」 と焦っていたのです。

焦った状態で接するから余計、ぎくしゃくします。

今はお陰さまで仲良くなったのですが、その頃の自分を顧みると心に余裕がなかったんだと思います。

相手を振り向かせてどうこうしようとしても肉体人間の自分の力ではどうにもなりません。

神さま(守護霊守護神)に動いて、働いて、どうにかして頂くには、神さまが働きやすいように自分でどうにかしようとする気持ちを放して、おまかせするしかないのです。

おまかせして、バトンを渡してしまうと神さまが一番いい状態にして下さるのです。

それを信じることが大切です。

なんでも自分でやろうとしないことです。

どうにもならないことは、おまかせしていいのです。



 



家庭運をよくするための祈り
 




家庭運の悪い人は、一旦は悪いのが今生の運命なのだ、と諦めてしまって、その諦めから再出発することが肝要です。

一旦スッカリ諦めてしまうと、人間は案外気が楽になるものです。

よくしよう、よくしようとリキんでいるから苦しいので、とにかく一旦諦めてしまって、自分の想念を、なんらかに集中させてしまうのです。

そのなんらかは、神さまが一番いいのです。

━ 自分を生み、育ててくださった神さま、どうぞ、あなたさまのいちばんいいように、私の運命をすすめて下さい。 私は今、どうしようもないのですから、あなたさまにすべてをおまかせいたします ━

と神さまにおまかせする気になって、そうした祈り言を、朝、昼、晩のひまある限り祈りつづけるのです。





           「日々の祈り」 五井昌久 白光出版





 

 

人間の本当の姿

 

私は難しいことはわかりませんが、猿やチンパンジーが進化して人間になったというのは、どうも腑に落ちなかったのです。

肉体的に見れば、猿と人間は似ています。

しかし中身は全然違うのです。

私は下記に書いてある

神の働きが地球界、物質界を創造し、魚類鳥獣などが住みついた後・・・・肉体界に舞い降りてきた という説が腑に落ちるのであります。

人間以外の自然や鉱物動物植物などは神様が造った被造物です。

しかし人間だけは、神様から分かれた分霊であり、肉体という器に神霊が舞い降りたのです。

人というのは霊止(ひと)と書くように、神霊が宿ったのが本当の人間なのです。

猿が進化して人間になったというより

神様が肉体という器に降りてきたのが人なのだという方が神秘的で

いいじゃないですか(笑)

私は絶対にそうだと思うのです。



 

人間の本当の姿



人間は大別して、神界、霊界、幽界、肉体界の四つの世界に住んでいるものであって、肉体界にだけ住んでいるものだと思っていると、いつまでたっても地上世界は平和になりません。

人間は、はじめから肉体界に住んでいたのではなく、神界に本住の地があって、つまり神そのものの中に分かれ住んでいたのです。

そして神の働きが地球界、物質界を創造し、魚類鳥獣などが住みついた後、人間は神の分霊として、その精妙なる光明体をまずすこし粗雑した幽体をつくり、次に肉体をつくり、そして霊体が幽体を乗り物として、肉体界に舞い降りてきたのであります。

ですから、人間は肉体界にいながらも、幽界に住み、霊界に住み、直霊としては神界にも住んでいるのであります。

           「日々の祈り」 五井昌久 白光出版




 

上役、下役、お得意先とどう接するか?

 

友だちやたまに会う人だったら、考え方やその人の言動と自分とが合わなくてもそのときだけ我慢すればいいのですが、家族よりも仕事場にいる時間が多い人などは、職場での人間関係がうまくいってないと、ほんとに辛い時間を過ごすことになります。

上司という人が、人格者で人としても尊敬できる人であればいいのですが、得てしてそうでない場合が多く

「なんであんな人が・・・そして仕事も出来ない人が出世出来たのだ!」 と思うことがあります。

仕事を一生懸命に納得してやりたいのですが、自分の考えと上司の考えが違っていて、どうしても腑に落ちない場合は、相手に言っていいものか? ここは我慢をして イエスマン に徹するのか?

そんなことにエネルギーを使ってしまう自分がホトホト嫌になるのです。

感情的にならず、相手も感情的にさせず、穏やかにその論点だけを冷静に話し合いたい、それが理想ですが、相手に話す時点でもうテンションは上がっており、話す前よりも上司との関係が悪化しないとも限りません。

そんなときは、自分で感情のコントロールを意識的にすることは勿論ですが、相手の人の守護霊守護神にお願いすればいいのです。

相手の人をコントロール出来るのは、その人の守護霊守護神だからです。

相手の守護霊さまにお願いすると

「おいおいこの人は冷静におまえに接してくれているんだからお前も穏やかにならないといけないよ」

と守護霊様からメッセージ(光)がいくのです。

相手と話しているその頭上では、お互いの守護霊、守護神さまたちが交流し話し合っているのです。

そのためには、相手の天命も祈ったらなお良いのです。

人間は、天命(ミッション)を果すために生まれてきた、その大切な天命を果すことを願って祈ってあげることは、その人の幸せを祈ることなのです。

最高の賛辞であるわけです。

すると相手の人の魂は喜びます。

まずは、目にみえないエネルギーを調えてから、相手と接するのです。





一度は相手の立場を尊重し、従順に相手の言葉を拝聴し、不審な点があったら、柔かな穏やかな態度で、その点についての説明を求め、それでも、どうしても相手の考えに誤りがあると思えたら、より謙虚な態度で、自分の考えを進言してみるとよいのです。

それで、相手が自分の言葉を受け入れなかったら、その時はそのまま引退って、その採決を神にゆだねてしまうのです。

「神様、どうそこの仕事が神様のみ心にかなうものになりますように」 そして相手の守護霊に向っても 「○○さんの守護霊さん、○○さんの仕事が○○さんの天命をはたす道でありますように」 と祈っていると、必ず善い方向に仕事は進んでゆくものです。

こうした生き方を真理に素直な生き方というのです。

       
          「日々の祈り」 五井昌久 白光出版




 

不動心になるには・・・

  

私は守護霊守護神のことをかなり頻繁に書いていますので、みなさんと比べて神霊を意識しやすいと思うのですが、見たことも会ったこともないので、すぐにその存在を忘れてしまうのです。

意識すればするほど、感謝すればするほど、守護霊さん守護神さんは人間を守りやすい、そして人間側は大事なメッセージを受け取りやすくなるのだそうです。

無意識になるためには、意識的につづけていくことで自然と無意識になります。

最近特に、私には守護霊守護神のご加護が必要だと感じているのです。

それは、下記に書いていますように守護霊さん守護神さんにしっかりとつながっていないと不動心になれないからです。

私の人生最大の目標とは不動心になることです。

無意識とは、意識の積み重ねである

そのことを肝に銘じて、意識をしていきます。







自己の根源と一体になる

不幸とは、業因縁に心が把われている状態をいうのですから、把われさえしなければ、不幸はないのです。

そうした把われから解脱するためには、どうしても不動心にならなければならぬのです。

直霊(神)と分霊(人間)とがしっかりつながって動揺しないでいる、この不動心の心になるには、やはり常日頃から、自分と神とは一体である、とか、常に守護の神霊が自分を守っていて下さる、ということを想っていることが大切なのです。

神仏を離れては決して不動心にはなりません。

不動心とはただ単なる度胸などというのではないのです。

自己の根源、真我と一体になり、不動の心になって、この業生の世界に、明るい光、神の光明を放射してゆかねばならぬのです。

      「日々の祈り」 五井昌久 白光出版




  

 

人間の未来は明るい

 

これはあくまでも私の考えなのですが、人間の幸せとは、いつも幸せであると感じ、思ったことがすぐに起こらないにしても確実に実現に向ってゆき、周りの人がみんないい人になり、お金にも困らなくなり、身体は健康そのもの、たくさんの友人に囲まれ、そして愛されている。

それが自分だけではなく、みんなが自分と同じ心境、環境になっていくことになればそれは最高だと思うのです。

現象は大事だけれど、現象が調う前にまず、自分の心が豊かで幸せ感に溢れていなくてはいけません、愛に溢れていなくてはいけないのです。

それは心の中のものが外に現われるからです。

今は、人間の心は荒み、人類の平和、調和、地球平和などは、とてもではないけれど絶対に現われないという様相に溢れています。

地球は破滅に向っていると思っている人も多いと思います。

しかし目に見える世界(肉体界)ではそう見えるのだけれど、実は違うのです。

エネルギーは波動ともいいます、宇宙から降りて来ている宇宙神の波動(エネルギー)は細かいのですが

守護霊守護神が地球の波動、人間の波動に合わせて波動を粗くしているのだそうです。

それによって神霊の波動が肉体人間の波動と近づいているのです。

神界(天国)と地上が近づいている

だが、宇宙からの細かい波動が地球の粗い波動に光をあてて焙りだしにしているのです。

それによって悪い現象が現われてきている(プラスから出たマイナス)

それが個人では病気であったり貧困であったりリストラであったりしている

だがしかしそれは悪い現象ではなく、善くなるためのプロセスなのです。

悪いものが消えてゆくとその後は善くなるのです。

そして今は、宇宙(神)が近づいてきている、守護霊守護神が近づいて来ているのです。

今がチャンス! 守護霊守護神とつながると宇宙神につながるのです。

そうなると宇宙のあらゆる叡智が入ってきます。

お釈迦さまやキリストさまのように聖者になれるのです。

聖者になるとどこがいいのかって?

それは冒頭に書いたような境地なり、環境が現われる

そして、地上天国が顕われ、幸せになるのです。

 

  霊と肉の波が近づいている
 

現在では肉体人間の波動が、霊的波動にかなり近づいているのである。

無限に微妙な神界の波動が、守護神守護霊としだいに波を粗くして、肉体人間の波に合わせてきているのであるから、肉体人間のほうから、常に守護の神霊への感謝行をつづけていれば、守護の神霊の波動と肉体人間の波動とが全く一つになり得るのである。

そうしたことが完成された時、その人の本心は全く開発され、神人といわれ、聖者といわれる、神我一体となり得て、神通力を自己のものとすることができるようになるのである。

世界平和の祈りは、こうした神人になる最も近き道であり、そして世界人類の真の姿を現わしめる、最短距離の祈りの方法なのである。

 

       「日々の祈り」 五井昌久 白光出版




 

 

2013年12月22日 (日)

不動心

 

私の最大の目標というのは、タイトルにある不動心になることだったのです。

恋愛をしては、恋愛感情に振り回されズタズタになり(笑)、仕事をしては仕事を取り巻く人間関係や環境などに振り回され、家族や友人、知人と一緒にいても感情的になって怒ったり、反対に感情をぶつけられたりして、その度に不快な気持ちになっていたのです。

自分で感情のコントロールが出来なかった。

コントロール出来なかったというのは、我慢が出来ずに爆発させた、短気だったというのではなく静めて流して消すことが出来なかったということです。

このことが私にとって一番辛かったのです。

感情をコントロール出来ないと良いことなど絶対に起きないからです。

恋人は離れていき、仕事では苦悩が続き、人間関係もぎくしゃくします。

そんなこを繰り返して

 「不動心になりたい」 

と心の底から思ったのです。

どんなことが自分に起こっても、感情想念に振り回されない自分、落ち着いた自分でありたい、そしてどんな人に対しても寛容でいたい許せる自分になりたい・・・・

そしてそんなときに出会ったのが、調和波動気功法であり、メンターである于先生だったのです。

最近、やっと感情をコントロールすることが出来るようになったと思います。(完全ではありませんが)

なぜかと言いますと幸せ感を感じることが増えたからです。

心がイライラしたりグラグラと揺らいでいるときは、安心感や幸せ感は感じないからです。

そして不動心でないと正しい判断もできないのです。

正しいという字は、漢字の一が天を示しているのですが

天(一)に止まると書くのです。

つまり天(本心)としっかり真っすぐにつながっていないと天からの光(メッセージ)が受取れないのです。


そして一番嬉しいことは、不動心になると感情を超えられるのです。

人間は感情を超えて初めて幸せになれるのだと思います。


      不動心


人間の不幸というものは、本心が業想念、誤った想念、つまり悲哀、憎悪、妬み、怒り、恐怖などにつつまれて現われ出ることの出来ない姿をいうのですが、不動心になりますと、本心が明らかに光を放っていまして、業の想念がこの本心をいつまでもつつんでいることが出来なくなるのです。

どうしてかといいますと、肉体人間の中にあります分霊の心が、天の直霊(神の心)としっかりつながってゆるぎない状態でいるからです。

この心を不動心というのです。

いかなる悲哀も、憎悪も、恐怖も、本心(直霊)としっかりつながっていさえすれば、必ず消え去ってゆくものなのです。

こうした業想念は、神仏からの実在の心ではなく、三界(肉体界、幽界、霊界の低いところ)をめぐって、消えてゆく幻影のようなものなのです。

 

     「日々の祈り」  五井昌久 白光出版


 

 

立場をかえてみる

 

たくさんの人がブログを書いていますが、人間は創造主(神)である、どんなことも自分の心によって自由自在に自分の人生を創り上げていける素晴らしい存在なのだ ということをズバリ書いている人は少ないと思うのです。

想いのエネルギーは凄い、イメージをすればその通りになるということは、知られています。

しかしそれは創造主で神そのものだからとは、言ってはいません。

つまり、人間というのは、念力はあるけれども神ではないという見解です。

神から造くられた被造物・・・・つまり動物と変りはない、ただちょっと動物よりも脳が発達しているくらいなのだとほとんどの人が思っています。

でも動物は感情はあるけれど、感動することはありません。

心を一つにして愛を顕わすことは出来ないのです。

明らかに動物とは違う

だとしたら

いったい自分とは人間とはどういう存在なのか?

何者なのか?

自分というもの人間というものをハッキリとはつかみ切れていないのです。

わかっていないのです。

この中途半端な、どっちつかずの意識が、自分を人間を迷わすものにしているのです。

自信をなくさせているのです。

寓話にある こうもりの話に似ています。

こうもりは、ある時は自分を鳥だと言い、またあるときには獣だと言い、周りを騙そうとします。

そして最後は自分でもどちらなのかがわからなくなってしまったのです。

そのつど立場を変えたのです。

人間もあるときは、自分を感情の動物だと自分を卑下し

またあるときは、愛深い荘厳な素晴らしい存在なのだと思うことがある

いったいどちらなのか?

立場をはっきりとしなければ、これから胸を張って堂々と生きてはいけない

と思うのです。

いったい自分はなにものなのか?

自分(人間)は動物と同等なのか?

いや神そのもの神性そのものなのか?

どちらかを選ぶのはその人の自由なのです。

そしてそのどちらにもなれるのです。


 


立場をかえてみる

 



肉体身としての被造物的人間が、いかにあがきもがいてみようとも、自己の定まった運命を変化せしめることはできないし、まして宇宙の運行を変えることなどできるはずもない。

ところが人間というものは、肉体としては被造物の側にあるのであるが、霊性としては、造物主の側にあるのである。

そして霊性の側の人間というものは、内面的には直霊、分霊、外面的には守護霊、守護神として宇宙の運行にもたずさわっているのである。

であるから、人間が、肉体人間としての側から、霊性の人としての立場に自己をおくことによって、いかようにも自己の運命を変化せしめることができるようになるのである。


    「日々の祈り」 五井昌久 白光出版




 

 

 

神は親なのです

 

神様は大租親なのですから、肉体人間の親以上に、人間の幸福を願っておられるのです。

人間に罰を与えて苦しめたり、弱い肉体人間をいじめたりすることは絶対にないのです。

神様に敬虔な気持ちになることは必要にきまっていますが、神様を恐れたり、神様は自分を遠くはなれたものであると思ったりする必要は毛頭ありません。

そうした神様の愛が守護神となり、守護霊となって、より身近にいて肉体人間が幸福な世界を創りあげるようにと、加護し、力づけていて下さるのです。

今、あなたの生活が不幸であるならば、それは神様が罰をあてているわけではなく、あなたが過去から現在に至るまで、真実の神を知らずして、神を離れた生活をしていたからに他ならないのです。

 

         「日々の祈り」 五井昌久  白光出版



 


今回は始めに五井先生の文章を書き写してみました。 私は冒頭の


神様は大租親なのですから、肉体人間の親以上に、人間の幸福を願っておられるのです。

を読んだときに胸が熱くなったのです。

肉体人間の親はもちろん大切です。 自分という存在をこの世に送り出してくれた生命の恩人です。

大事にしないといけないと思っています。

しかし、肉体人間の親が、人格者でなんでも知っていてオールマイティ(完璧)であるとは限りません。

それどころか反面教師のような親もたくさんいます。

自分も人の親ですがたいした者ではありません(笑)

最近は、親も年老いてきて、頼るというよりも頼られるようになってきました。

そして、私は親を大切には思っていますが、メンター(人生の師匠)であるとは思ってはいません。

それは自分が子どもにとってメンターではないことからもわかります。

だから必要以上に親を頼ったり、期待したりしてはいないのです。

頼られる親も困ると思うのです(笑)

だったら誰に頼るのか?

肉体界の親は、仮の親です。

本当の親ではないです。

肉体界では親であっても

霊界や神界(本当の世界)の親は、守護霊であり守護神なのです。

そして肉体界をまともに、しっかりと生きていくためには

目にみえない世界である幽界、霊界、神界に精通した神霊に頼るしかないのです。

これからどんなことが自分に起こってくるのかがわかっている

自分にとって何が一番大切なことなのかがわかっている

守護霊、守護神のご加護が必要なのです。(これは他力本願ではありません)

肉体人間では、子どもたちを本当に守ることは出来ないのです。

肉体人間は無力なのです。

肉体人間には目にみえない世界(幽界、霊界、神界)のことがわからないからです。

この世は、神界や霊界や幽界が写って来ている写し世(現し世)です。

今はとくに迷いの世界である幽界がこの世を占めています。

肉体人間だけの知恵ではとてもではないけれどもまともに生きてはいけないのです。

バランスがとれた生き方とは

肉体人間の親を大切にしながら、魂の親である本当の親である守護霊守護神といい関係(笑)を築いていくことだと思うのです。


 

 

把われのある人とない人

 

把われというのは、捉われ、囚われ、捕らわれとも書くように、非常に窮屈で心が縛られた状態を指す嫌な言葉であります。

宗教というのは、この把われを無くすというのを最大の目標としているところもあるくらい人間の心を縛りつけ苦しめるものなのです。

執着に似た響きがあります。

お金への把われ(執着)、物への把われ、子どもへの把われ、恋人への把われ、過去への把われ、悪いことへの把われ、善いことへの把われ・・・・・把れるというのは、それがどんなことであっても人間の心の自由を奪うのです。

人間は心がすべてのすべてなので、本能的に心が把われることを非常に嫌うのです。

そこで

悪いことに把われるのは、いけないとわかるけれど善いことに把われることが何故いけないんだといいますとそこに意識が集中して、これからやろうとしている大切なことに意識がいかないからです。

エネルギーが滞ってしまうからです。

エネルギーがスムーズに流れないと生命が活き活きとしないのです。

それで苦しくなってくる

私事ですが、私は同窓会の幹事をやっているのですが、無事に同窓会も成功に終わったとします。

次の日などに「さぁ終わったぞ、気持ちを切り替えて次のやるべきことをやろう」 とするのですが私の脳裏には昨日の同窓会のことがまだ消えずに残っているのです。

そして、あそこはもっとこうすればよかったかな?とか 食事はみんな食べてなかったなとかみんなの感想はどうだったのかな?だとか済んでしまったことなのに次々にいろんな想いが脳裡を駆け巡るのです。

それは想いは私の思いだけではなく、想いとは相手の心と書くように、みんなの想いが私に移って集まってきているのです。

誰がどう想ったかはわかりませんが、想いというのは空のようにすべてがつながっているのです。

相手の想いが、突然わかったりするのは、つながっているからです。

だから同窓会は、やっている最中が一番楽で、行なう前と終わった後が非常にしんどいのです。(でも、もちろんみんなが楽しんでくれたという喜びがあるから続けられるのですが)

そんなときは、早く忘れたい、人の想いのエネルギーから早く開放されたいと思うのです。

これも一つの把われです。

脳裡に浮かんだものを放てずに掴んでしまっているからです。

良い想い出であったとしても、すぐに消せなくてそこに意識がいき過ぎると心が把われて苦しくなるのです。

心がなにかに執着しそうになったとき、把われそうになったときは、祈りによって執着心や把われの心を消してもらえばいいのです。

すると把われている自分、しんどい自分がどんどんと消えていくのです。

下記の文章は、私が大好きな話の一つです。

読んでいて スカッ とするのです。

私もこのお坊さんのように、竹を割ったような スカッと爽やかな人間になりたいと思うのであります。

みなさんはいかがでしょうか?



把われのある人とない人




ある坊さんが、他の坊さんと二人で旅をしていて、ある川にさしかかった時、その川を渡り悩んでいる女性のいるのに気づき、その坊さんが、私の背に乗りなさいといって、その女性を背負って川を渡ってしまい、渡りきるとその女性を背からおろして、さっさと歩きだした。

それを見ていた他の坊さんが、おまえは坊主のくせに何故女性を背負ったのだ、女性の体に触れるなどとは実にけしからん行為だと、非常に怒って、その坊さんをなじった。

するとその坊さんは、平気な顔をして、わしはもう背中から女性をおろしてしまったが、おまえはまだあの女性を背負っておるのか、といって大笑いしたという話があります。

心に把われのある人とない人との差をはっきり示した話です。

 

     「日々の祈り」 五井昌久 白光出版

 

 

2013年12月21日 (土)

いちいち善悪を比較するな


 
人間関係で悩んでいる人のほとんどは

「自分は悪くない、正しいんだ、悪いのは相手だ」 とか 「理不尽なことを言われた 自分には100% 非はない」

と思っているようです。

昨日も実は、妻とその話をしていまして、妻は職場で一緒に働いている人に不満をもっているのです。

そして上記のようなことを言っていました。どうも理不尽なことを言われたようで怒っているのです。

私はふんふんと聞いていたのですが

妻は 「私は正義感が強いのよ」と自分は絶対に悪くないと思っているようです。(傲慢ですよね)

そして

「あなたのそういうところが悪いのよ、みんな傷ついているのよ」 と言ってやろうかしらと言ったので

私は

「相手のほんの一部しかしらないのにその人が悪い人だとか自分が正しいって思い込まないほうがいいよ、それに前世ではあなたはその人に随分ひどいことをしてきたかもしれないんだから長いスパンでみたらどっちが悪いなんて言えないんだよ」 と言ったのですが

妻は

「前世の話をしたらそこで終わってしまうじゃない、じゃあどんなに相手が悪くても何も言えないってこと?」と聞き返してきたのです。

そうではなく、相手に対して怒りを溜めこんだり爆発させるというのは、もの凄いマイナスのエネルギーの中に自分がいることになるのであって

それが一番いけないことなのです。

マイナスのエネルギーは自分も痛め、相手も傷つけるのです。


 




 いちいち善悪を比較するな

 



相手が悪い、自分は善い、と相手と自分をいちいち比較しているような想いでは、とうてい真実に相手を愛することはできないもので、相手も自分も、悪いも善いもすべて守護霊守護神の神愛のなかに投入することの練習が一番よい方法なのです。

自分のほうが善いと思ったところで、過去世からどれほど間違ったことをしていたかは、現在の自分にはわからないのであって、自分のほうが善い、と思うその想いは、ごく最近の出来事によるだけのものであるので、過去世からのその人の行為の何兆分の一かもわからないのです。

善い悪い等はいちいち自分で判断して、人を責めたり、自分を裁いたりするものではないので、自分は瞬間瞬間を神のみ心に波長を合わせつつ行為をしていればよいのであります。

 

      「日々の祈り」  五井昌久  白光出版



 

 

大事な場面でつい誰かに頼ってしまう人へのメッセージ


 
今日のこのメッセージを読んでいるとまるで今の自分のことを言っていただいているように思ったのです。

今、私は人生の岐路に立たされています。 どの道を選ぼうと自分の自由です。

ただどちらにしても自分で自分の責任を取らなければならない。

他人に頼るわけにはいかないのです。

だから必死です、ブログを書きながらも同時にどうするのかをハッキリさせなければならないと考えています。

一本で行くのか? 二足のわらじで行くのか?(あまり詳しくは言えませんが)

ただ言えるのは、必死で一生懸命に考えたことならば、どちらを選んだとしてもそれは正解だと思うのです。

いい加減に考えたり、人に聞いたりするから後悔する

「あのときに自分で決めておけばよかった」 ということになる

そんな人は多分どちらを選んだとしても後悔すると思うのです。

私は大事なことは全部自分で決めてきました。

人に大事なことを相談したことはありません。

すべて事後報告です。

そしてすべてに納得しています。

だから私は幸せ者なんだと思います(笑)

目の前に現われている現象は関係ありません

今の状況も関係ありません

要は、私の心が晴れ晴れとスッキリしているか?なのです。

心に不安でおどおどしたところがなければ

それが幸せなんだと思うのです。

幸せとは心が不動心であること

平常心であること

そして平穏で、あらゆることに感謝出来る心境にあることをいうのだと思うです。



自分自身の運命を他人に任せて、他人のコントロールのもとに生きてしまっている人。

この人ほど不幸せな人はないと思うのです。

例えば自分の運命をいちいち占い師に聞く。 予言者に聞く。 自分自身の運命をなぜ自分で責任を持って生きていかれないのですか。

生きようとしないのですか。 放棄してしまうのですか。

なぜ自分に自信を持たないのですか。 自分の人生ぐらい自分で決め、自分で導く。

その自信を持つことです。

それを自信が持てない、勇気がないからと、逃げ道をこしらえ、常に誰かに頼り、自分で築き上げるべき自分の人生を、それが宇宙の真理であるべきその道を他人に委ね、他人のコントロールのもとに生きていく愚かな人間の何と多いことか。

自分の運命を、自分の人生を他人に委ねて、他人のコントロールのもとで生きている人に幸せなど訪れるはずがない。

自分の人生を放棄した人に幸せなど訪れるわけがないのです。

幸せというものは自分で掴んでいく、自分で切り開いていくもの。

切り開くために真理を自分のものとしていくことです。

そのためには勉強しなければならない、努力もしなければならない、宗教の本も読まなければならない。

真理とは何かということを一生懸命理解しなければならない。

そういうことをして、人間というものは一人一人自分自身のレベルに合った幸せ、レベルに合った富を得、レベルに合った才能が発揮されていくのです。

なまじっか才能もあり富もあり権力もある人が、自分の未来を予言者や占師に決めてもらう。

他人の言葉で決めていく。 そういう人はいつも自分に自信が持てないから不安がある。

不安と恐怖の心の人がどうして幸せなど手に入れることができますか。

どこかの時点で、自分の人生は自分で導くのだという強い信念を持って、それを断ち切らなければならないのです。

自分の心と対座して、自分は正しい道を歩んでいるか、自分にふさわしい道を歩んでいるか、真剣にそれを考えてみるべき必要があると思うのです。

ゆめゆめ一度しかない尊い自分の人生を人のために失ってはならない。

放棄してはいけない。 人にコントロールされてもいけない。

強くなることです。

勇気を持つことです。

もし両親に強引に導かれようとしている若い人たちがあったら、若い人たちは自分の道を勇気をもって歩むことです。

両親は両親の道がある、子供は子供の道がある。

一人一人が自分自身でそれぞれ違った人生を築いて欲しいのです。

みんなが同じ道を歩めるはずがないのです。

人類60億の中でたった一人の自分の生き方は自分だけのものです。

どうぞ皆様方、自分の人生を豊かなものに、幸せなものにして下さい。

そして自分自身の価値ある人生を築いていっていただきたいものと思います。

 

   「明日を明るくするメッセージ」 西園寺昌美


 

 

幽界の存在を知ってください

 
  
自分の運命を変えて善くしていこうとするのなら、そして同時に世の中を変えて善くしていこうとするのなら、目に見えないボディ(幽体)と目にみえない世界、幽界を変えていかなければならないのです。

私たちは目に見えるもの、現象だけを変えようとしている、しかし目に見えるものはみえないものの影なので、みえない世界を変えていかなければ、現象(肉体)、現象界(肉体界)は変わっていかないのです。

ほとんどの人は、目に見える世界しかないと思っている。

だから目に見えるものにしか意識がいかない

だからなかなか善くなっていかない (無限なる善!)


私たち肉体人間を二六時中見守ってくれている守護霊、守護神はしきりにそのことに気づけと言っておられるのです。

「肉体界は実在の世界ではない、霊界(霊界の高いところ)、神界がほんとうの実在の世界なのだ」

「肉体は人間のほんの先っぽが現われているだけであり、本当の大きな偉大な自分は神界にいるんだ」

「人間よ、本当の自分本当の世界に目を向けよ!」

「本当の自分本当の世界に意識を向けたならば、そこから本来の叡智が生まれてくるんだ」

「私たち守護霊守護神に意識を向けることで、神界(本心)につながるんだ」

「特に幽界の存在を知れ! そこは迷いの世界であり、潜在意識の世界であり、そこを浄めることによって初めて、霊界や神界(天国)が肉体界に降りてくるのだ」

「私たち守護霊守護神は魂の親であり、肉体界の親は本当の親ではない、だから親子関係に執着するな」 

などということを知らせたくて知ってもらいたくてしかたがないのです。

本当の親である魂の親は一体、何を私たち人間に伝えようとしているのか?

西園寺昌美先生が守護霊守護神のご意志を私たちに伝えてくださっている言霊があります。

全部で 27 心に沁みる言霊です。

 

 守護霊、守護神に代わってあなたに語る




1、私は日頃あなたが思っていること、考えていることそのすべてを把握し、そしてその希望をすべて成就させるよう願っている。

決してあなた一人だけの望みではない。

あなたの望みは常に私の望みなのだ。

2、自己の希望を実現しえないで人生を終わってしまう人の何と多いことか。
 
彼らは私の存在を少しも認めようとはしなかった。
 
私はどんな時でさえも常に彼らの側にあり、彼らの望みを達成し得んが為に彼らを見守り導いてきたつもりでいる。
 
希望の成就は肉体個人一人で出来るものではない。
 
常に守護霊、守護神と共に歩んでこそ成就する路なのだ。
 
それが真実の人生の路なのだ。

 

 

3、出来うる限り明るく陽気に振るまいなさい。

4、私はあなたがいかなることをしようとも、決してあなたに罰を与えない。
 
私はただ、すべてを許すのみである。

そしてあなたのその罰を私が代わりにしょってあげているのである。
 
その代わりあなたは “消えてゆく姿で世界平和の祈り” を繰り返し繰り返し祈ればよい。

自分自身を深く信じなさい。

 

 

5、私はあなたにあえていいたい。
 
出来る限り明るい言葉や思いやり深い優しい言葉を常に、極力心がけて努力して使うようにし、光明思想の本を一日一回は読み、人の心を感動させるようなニュースを聞き、人と語り合う時には人の心を豊かに楽しませるような話題をあえて選び、明るいことのみを語るようにしてほしい。

そして暗いニュース避け、病気の話や人の不幸の話は出来るだけ口にしないことである。

 

6、羨望の心が湧くのも致しかたない。
 
嫉妬心にもだえるのもまたこれ仕方がないではないか。
 
そして人の幸福を妬み人の不幸を心ならずも喜ぶのもまた致しかたない。
 
人の心は感情によって左右されるものであるから、感情を無くさない限りこのようなことはすべて人の心の中に起こり得る現象である。
 
この世は物質肉体の世界、完全なる霊なる世界と違って不自由な束縛ある世界、よくないことだと充分にわかっていながら、正しいことではないと充分に理解していながら、神から反している行為だと充分に納得していながら、やはり現れてくるのが現実なのである。
 
おさえる必要はない、出すだけ出すがよい。

だが、出来るだけ人に迷惑がかからないように出してゆくのだ。
 
相手にまともにぶつからず、声を出して私にぶつけなさい、私にどなりなさい、私に非難をあびせかけるがよい。
 
私はあなたの心が充分にわかるだけに、あなたが愛しくて可哀相でならない。
 
私の大きな翼であなたを包んであげよう。
 
癒してあげよう。
 
心の中にある鬱憤をすべて私に吐きすてるのだ。
 
私が聞いてあげよう。
 
私が代わって祈ってあげよう。
 
あなたがあなた自身で祈れる時がくるまでは。

 偽善者 になるよりはよほどよい。

7、不調和な状態を一刻も早く自分の心の中から一掃せよ。

 

8、

あなたの内部の奥にじっとひそんで隠されている部分、秘密、嘘、葛藤、情欲・・・・それらのすべてを私は知っている。

私の前には何の隠しだても無用である。

ただ裸になることだ。

私にとっては肉体人間の弱さなどは百も承知の上だ。

だからこそ私というものが必要なのだ。

私の支えを必要とするのだ。

朝な夕なに私の名を呼びなさい。

9、

大自然の修復作用が発揮出来るよう大自然に代わって祈れ。

10、

あなたの希望を実現する場合、まだこの世の中に何の手ががりも見出せず、皆目何も無いところから全く新しい希望、この世に打ち出すそのきっかけを創造(つく)り出すのは、いうまでもないこの私である。
  
常に私の存在を忘れず私の名を呼びなさい。守護霊、守護神同士でお互いに交流し合うからである。

 

11、

人の悪を聞くために耳があるのではない。
 
人の悪を語るために口があるのではない。

人の悪しき姿を見るために目がついているのではない。

 

12、

相手を解放してあげると自己の束縛から解放される。

 

13、

すべてを見知っている私の前ですら未だ嘘、偽りでもって自分を覆いつくし、隠しだてをするつもりでいるのか。

情けない。

私はすべてを許そうと思っているのに。

私は(宇宙の法則)から絶対なる権限を与えられている。

あなたのすべてをゆるし、あなたのすべてを愛するのが私の働きである。

14、

あなたが私から離れてどこへ逃げようとも、隠れようとも、またどんな罵詈雑言(ばりぞうごん)をあびせかけようとも、それでもなお私は常にあなたの側を離れず、怪我がないよう、苦しまないよう、痛まないよう、見守りつづけているだけである。
 
私はあなたに嫌われていても、それでも尚あなたが愛(いと)しいし、愛しつづけているのである。

15、

私は肉体を持ちあわせていないので常にあなたの内部に働きかけ、内部の力を増し、調わせ、そのエネルギーを外界に現わし、そして出来るだけあなたの思うようになるよう、成就するよういたらしめているのである。

 

 

16、

私はあなたが暗く沈んでいる時、今まで以上に強い希望の光を投げかけている。
 
あなたが自分自身を傷つけ悲しみに浸っている時、すべては許されるのだという真理の光を送り、あなたに語りかけているのだ。
 
そして私の慈愛の光によって次第にあなたが真理に目覚めはじめ、その暗く果てしない入り組んだ道から脱け出してゆくあなたを見た時、私はあなた以上に天の神に感謝しているのだ。

 

17、

私は常にあなたに真理を語りつづけている。
 
あなたの心が全智全能の創造主と同じような強い力を握っているのだということを。
 
あなたは自分の心で、自分自身を幸せにも不幸せにもすることが出来るのだということを。
 
自分自身を、傷つけ暗く悲しいものだと思ったら、その通りの人生が展開されてゆくであろうということを。

そして自分自身を神の分け生命として認め、明るく大いなる希望をもってゆくならば、またその通りの人生が展開されてゆくであろうということを。
 
心はすべてのすべてである。
 
なぜならば、心は自分自身の運命の支配者であるからだ。

 

18、

私はあなたがいかなる苦悩、いかなる悲哀、いかなる絶望にあろうとも、必ずあなたを幸せにしようと心をくだいて見守りつづけているのである。

私の働きはあなたの真の幸せに導くこと以外の何ものでもない。

 

19、

 
私はあなたにお願いがある。この世は物質的肉体がすべてではなく、本来霊なる世界の写し世である、という事実を自覚してほしいのである。
 
霊的自我に目覚めたその時から、もはや何ものにもしばられぬ自由自在なる世界が、あなたの目の前に展けてくるのである。

それは無限の可能性を秘め、自分の思う通りになる世界となるのである。

 

 

20、

あなたは常に幸せを願うのだ。
 
あなたは常に神の無限なる能力を信ずるのだ。
 
あなたは常に調和を愛するのだ。
 
私はあなたのその望みにむかって全精力を傾けて、その実現のためにわがエネルギーをフルにあなたの心の中に注ぎこんでいるのだ。
 
だが、あなたの望みが常に暗く悲しく絶望的であるならば、その方向にむかってわがエネルギーを注ぎ込むことは、不可能である。
 
あなたの考えが明るく積極的な希望に満ち溢れたものに変わるよう、エネルギーを注ぎこむのであるが、そのエネルギーの消費量は並大抵ではない。
 
もともと+(プラス)の考え方を更に+(プラス)の方向に導き、この世に実現可能にせしめることは、宇宙の法則通りに実に簡単で無駄なエネルギーを消失しないものであるが、-(マイナス)の思考を+(プラス)に方向転換させることは、前者の何万倍ものエネルギーが消失されるものである。
 
 
常にあなたの考えを+(プラス)の方向に向けて生きて下さい。

 
 

21、

頭のよくない人ほど中途半端な聞きかじりをし、自分の知識をひけらかしたがるものである。

頭がよくないから善悪の批判力が無くすべて受動的に自分に吸収してしまうため、その人の潜在意識の奥にすべてそれらの中途半端な知識は溜めこまれてしまう。
 
さて、本人が病気になったり、挫折したり、失敗したりした時、これらの中途半端な知識が次から次へと頭を擡げ(もたげ)はじめ、自分自身の下らない知識で自分自身をがんじがらめにしばりつけ、また、自分自身の暗い思考力で自分自身を暗示にかけてしまい、どうしようもなく救われがたき状態においこんでいってしまうのである。
 
浅はかというより他にいいようがない。
 
知識ならどんなものでも入れていいというものではない。
 
本来ならば自分の心が勇気づけられ、希望に満ち溢れ、生きることの幸せが鼓舞(こぶ)されるような知識なら徹底的に入れこめよ。

自分の心を暗く不安恐怖に陥らせる知識は意識して取り払うべきである。

 
 

22、

“自分だけ悟ればそれでよい” という考え方は多分に利己的なわがままな生き方である。

これを出来るだけよい意味にとるとすると、人に真理を押しつけがましくするのは、たとえその教えがどんなに素晴らしくても、そこで必ず人の自由を縛りつけてしまうものであるから、よくないということであろう。

だが神のみ心からみたならば、真理を一人でも二人でも出来るだけ多くの人達に知らしめた方が積極的な善なる徳のある生き方なのである。

また何回も何回も重ねて自分の口を通して真理を語るということは、逆に、更に自分自身の潜在意識の中に改めて真理を吹きこむ形となり、自分の信念がまたここで更に強固に絶対的なものとなってゆくのである。

真理は何度も何度も繰り返し繰り返し語れば語るほどよい。

 

 

23、

旧き自己を捨て新しき自己に 蘇(よみがえ)るのが世界平和の祈りである。

どうにもならない自分をしっかりそのままつかんでしまった上、私はこんなにも悪い人間ですといわんばかりに、自分の悪を強調しても、誰も救われはしない。

むしろどうにもならない自分を一旦神の中に捨ててしまって、すべてを神の中に投げ入れていまうと、宇宙の法則にのっとった生き方が示されはじめる。

24、

あなたの長い間にわたる苦しみは私にはわかっている。
 
あなたの悲しみや痛みも私にはすべてわかっている。
 
そして更に今あなたの上に投げかけられている不安恐怖、今のあなたの立場ではどうしようもないのもわかっている。
 
私はいつでもあなたの心の叫びを聞き、訴えを聞き、その問題解決が一刻も早からんことを願い奔走しているのである。
 
だがあなたはこの私の心を知ってか知らないでか、常に自分自身の肉体の力でのりこえようともがいている。
 
だがよく聞いて欲しい、もはや肉体界でトラブルが現われはじめたということは、もう何年も、いや何千年も前に幽界で現れていたことを。

幽界で浄めることが全くできなかったが為に、この肉体界に現れはじめたのであるということを。

そのためにはまず幽界を浄め去るのが先決である。

それが出来るのはこの私である。

霊なる力で、霊なる光で、幽界を浄めれば、自ずと肉体界のすべてのトラブルは自然に解決されるものである。

私に頼りなさい。私を信じなさい。あなたが夢をみているその時ですら、私は闇を光に変える働きをあなたの為にしているのです。

あなたはあなた一人で生くるに非ず、私の生命と共にあって生くるなり。

 
 

25、

今あるとるにたらない小さな小さな幸福にさえも、神の与え給いしごほうびだとして感謝せよ。

26、

私は “神の子” であるという徹底的なる自覚がいかなる災いからもあなたを防ぎ、いかなる不幸からもあなたを脱出させる。
 
災いにも不幸にも絶対に波長が合わないからだ。

27、

私に徹底的に素直たれ。








                  西園寺昌美




 

12月21日のつぶやき(なぜ成功しないのだろう?)



たくさんの人がお金持ちになりたいと想っている

お金に苦労したくないと想っている(金持ちの人以外は)

そしてお金に困らないようにするために成功したいと想っている

しかし、『お金持ちになるための方法』 『成功するためのメソッド』 を書いた本は山のようにあるけれど、実際にそうなった人はあまりにも少ない、極僅かの人です。

そしてあいも変わらず、それらの本は出版しつづけ、セミナーにはたくさんの人が詰めかけているのだと思います。

成功するために本を読んだすぐ後はテンションが上がります。

書いてある通りにすれば必ず成功する、完璧だ!失敗するはずがない、失敗するほうが難しいんだ と思うほど納得するのです。

しかし、時間が経つとそのテンションは下がり始める

それはマイナス想念(エネルギー)が入ってくるからです。

それは心の声です。

「おまえには無理だよ」 「前にも同じようなことをしようとしたけどダメだったじゃないか」 「○○さんはきっと反対するよ」 「もし失敗したらどうするんだよ」 「そんなこと考えないで今のままでいいじゃないか」・・・・・・・・

そして、最初にイメージした、カラーでくっきりと写っていた写真が、白黒の写真となり、ピンボケした何が写っているのかわからない写真に変わってゆくのです。

ピンボケした写真をそのままにして一日が過ぎると、その写真さえもどこにいったのかわからなくなってしまう。

そこで、「あっいけないいけない、またモチベーションをあげなければ」 と又、本を読み返すのです。

しかしそれを何度も繰り返しているうちに疲れ果ててしまい、元の生活に戻ってしまう。

夢を追って、失敗を繰り返している人の典型だと思います。

では、成功する人そうでない人との違いは何か?

マイナスを入れてしまうか? 入れないでいるのかの違いだと思います。

そして信念の強さの違い

本を書いた成功した人というのは、絶対にやってやるという信念がもの凄く強いのです。

他の人と同じようにマイナスが入ってきてもそれに負けないだけの信念がある

マイナスの想いよりも信念のエネルギーの方がずっと強い

白黒写真になりかけてもすぐにカラー写真に戻れる

想像(イメージ)したものが創造へとエネルギーが集中されていくのです。

だからイメージするだけではダメなのです。

強くイメージするだけでもダメなのです。

次々に襲って来るマイナスの想念エネルギーと闘って、勝つだけのエネルギーを持っていなければならない

しかし、最初に成功した人たちは、異常なほどこの信念が凄まじかったけれど、自分はそこまで強くないとしたら、どうしたらいいのか?

それは、入って来るマイナスの想念エネルギーを消していくしかないのです。

周りの人のマイナスのエネルギーであったり、縁のある人の想念であったり、たくさんの人の想念エネルギーであったり、そして過去世から幽体に溜まっている自分の想念を消していかないと人間の頭脳には容赦なく、マイナスのエネルギーは入って来ています。

それを綺麗に浄めることが大切なのです。

一番やっかいなのは、やはり自分の想念エネルギーです。

過去からの想いが幽体に溜まって(潜在意識)

顕在意識として今、顕われて来ているのです。

だからそんなこと思いたくないと思っても思ってしまうのです。

想いとは実にやっかいなものなのです。

自分はダメなんだと過去に思っていたのなら

その想念は幽体に録音されていて、表面に新しい想いとなって顕われるのです。

いくらプラスの想い、ポジティブな想いを出そうとしても、次々に浮かんでくる過去からの想念を消さないと、またダメなんだという想いが新たに録音されてゆく

その繰り返しなのです。

過去を浄化しないと、今は善くならないのです。

私たちは想いが、前を向いていないでほとんどが過去を向いています。

「昨日嫌なことがあった」 「以前あの人にこんなことを言われたことがある」 「以前はこうだったから今回もきっとそうなる」・・・・・

目は前についているのに、未来は明るいのに

過去ばかりを見ている

だからエネルギーは未来に注がれずに過去に注がれ

ネガティブなものをまた創造してしまっているのです。

過去の想念エネルギーを消してゆく、そして明るい未来だけをイメージする

そうなって初めて、自分の想い(夢)が成就するのです。

一番難しいのは、自分の心を常にスッキリさせてマイナスのエネルギーを入れないことなんです。

マイナスの想念エネルギーはどこに溜まっているかというと、肉体にくっついている幽体です。

幽体(幽界)を浄めるためには、宇宙とつながって、宇宙の無限のエネルギーを入れてやればいいのです。

宇宙のエネルギーは無限です。それに対してマイナスのエネルギーは有限なのです。

人間が勝手につくってしまった、マイナスの想念エネルギー

たしかに凄まじく大きくなってしまったけれど所詮有限です。

消えてゆくものです。

その消えてゆくものを掴まずに

無限のエネルギーをつかみ、自分のものとするのです。

そして、幽界の上にある霊界、神界の力を借りる

霊界神界に住む、守護霊守護神の力を戴くのです。

自力(祈り)と他力(守護霊・守護神)で、肉体(肉体界)に縛り憑いているマイナスのエネルギーを消してゆくのです。

浄めていくのです。

幽体が浄まるとマイナスの想いがなくなってプラスだけになります。

マイナスの過去に意識が向かなくなる

そうなって初めてベクトルが未来に向く

イメージしたカラー写真がそのまま、肉体界に降りてくるのです。

祈り(世界平和の祈り)とは、過去(過去世)を浄化させるためにするのです。

有限のマイナスのエネルギーを無限のプラスエネルギーに昇華させるためにするのです。

いのちを活き活きさせるためにするのです。

宇宙とつながって、無限のエネルギーを肉体の器に入れるためにするのです。

宇宙と共鳴するためにするのです。

宇宙と共鳴するには、宇宙(宇宙神)の願いごとと意識を合わさなければならない

宇宙の願いごととは、宇宙全体が平和であること、愛に満ちていること宇宙人類が仲良く調和することです。

それが世界平和の祈りなのです。

世界人類の世界とは、地球人類だけではありません、宇宙人類のことをいうのです。

それほどグローバルな祈りなのです。

この祈りが人間と共鳴しないはずはないのです。

祈っていて、宇宙の無限のエネルギーが入ってこないはずがないのです。

 

世界人類が平和でありますように

日本が平和でありますように

私たちの天命がまっとうされますように

守護霊さまありがとうございます

守護神さまありがとうございます



 


 

 

2013年12月20日 (金)

困っても困らない

 

今の時代、明らかに情報過多である、情報が溢れている、だから全部に目を通すのはもちろん無理だし、その中で自分に必要な情報だけを抜き出すのは至難の業なのです。

私の好きな言葉で

“情報において必要なのは、その量ではなく、情報に振り回されないことである” があるのですが、ほんとにその通りだと思うのです。

自分に必要なものだけをネットから引き出す、それも簡潔に短い文章で、心に響くもの、すぐに取り入れて、結果が出るもの、そして心が豊かで幸せ感のあるもの

そんなものがあれば、誰もが飛びつくと思うのです。

人生のエキスがつまったもの、自分が経験しなくても経験したことと同じくらいの感動を覚えるもの

私はそんなブログを書いていきたいと思っています。

ところで

今日のタイトルは

“困っても困らない”

人間誰もが、この困った状況にあると思うのです。

お金には困っていないけれど、人間関係で困っている

反対に人間関係はうまくいっているけれど、お金がない・・・・

病気で困っている、仕事で困っている、子供のことで困っている、恋愛で困っている・・・・・・・困っていない人なんて絶対にいないと思う

でも

「困った困ったどうしよう」 と思い煩っている人と

人が困ったと思っていることも、「困った」 と思っていない、感じていない人もいるのです。

“ノー天気な人” かもしれませんが、普通マイナスだと思うようなことも

その人にとってはマイナスでもなくプラスでもない

なんでもないことに受けとめられる人です。

ちびまる子ちゃんの中に出てくる

山田くんみたいな人でしょうか?(笑)

そんな人は「困った」 がないのです。

その人を見ていても

困ったようにみえないのです(笑)

人によってこれほどまでに受取り方が違うのか?

と驚かされます。

以前テレビでやっていたのですが

昔の同級生が

「あの頃、君に嫉妬していたんだ、それで随分いじわるをしていじめてしまった、ごめんなさい」

と告白して謝っていたのですが

言われた当人は

「えっ俺っていじめられていたの? ホント?全然気がつかなかったよ」

と本気で言っているのです。

これなんかは、究極の困っても困らない人だと思うのです。

そんなおおらかな大きな人間になりたい

そう思うのです。

 

 

困っても困らない



 

ひろい世間である。 長い人生である。 その世間、その人生には、困難なこと、難儀なこと、苦しいこと、つらいこと、いろいろとある。

程度の差こそあれだれにでもある。 自分だけではない。

そんなときに、どう考えるか、どう処置するか、それによって、その人の幸不幸、飛躍か後退かが決まるといえる。

困ったことだ、どうしよう、どうしようもない、そう考え出せば、心が次第にせまくなり、せっかくの出る知恵も出なくなる。

今まで楽々と考えておったことでも、それがなかなか思いつかなくなってくるのである。

とどのつまりは、原因も責任もすべて他に転嫁して、不満で心が暗くなり、不平でわが身を傷つける。

断じて行なえば、鬼神(鬼でも神様でも)でもこれを避けるという。

困難を困難とせず、思いを新たに、決意をかたく歩めば、困難がかえって飛躍の土台石となるのである。

要は考え方である。

決意である。

困っても困らないことである。

人間の心というものは、孫悟空の如意棒のように、まことに伸縮自在である。

その自在な心で、困難なときにこそ、かえってみずからの夢を開拓するという力強い道を歩みたい。






              「道をひらく」 松下幸之助 PHP




 

12月20日のつぶやき(岐路に立ちつつ)

 

今、地球上にいる人間は、いろんな星からやって来ている人たちがいるのだそうです。

進化した星である金星(お釈迦さまやキリストさまがそうでした)の場合もあるし、地球よりも精神的に遅れた星から来た人たちもいる。

今の幼い子供たちやこれから生まれて来る子供たちは、地球の大人たちを目覚めさせるために金星よりもずっと進化した星からやって来ているそうです。

だから今の大人たちとは魂の高さが違うのです。(霊位という)

不思議ちゃん 宇宙人 と言われる人たちがそうです。

「この子たちは、自分たちと全然違う なんてピュアなんだろう?」 と光を浴びてショックを受けるのです。

この子たちは、進化した星から光をたくさんたずさえてやってきたからです。


そして進化した星からやって来る魂たちは、自分たちの意志で宣言をして地球にやって来ている。

宇宙というのは、波動の世界です。 

同じような意識(心)を持った魂たちが共鳴して同じような魂たちが集まっている。

高い魂たちが住んでいる星は、素晴らしい人(霊止)が集まっている、愛の深い善い人(霊止)ばかりが集まっている。

だから地球のような争いも嫉妬も妬みも怒りといった感情がなく、非常に居心地がいいのです。

ずっと温泉に浸かってるようなものです。

そこを天国(神界・天界)というのです。

しかし、その天国での生活が嫌で脱け出したい魂たちもいるのです。

「こんな刺激のない安心し切った生活はもううんざりだ、どこか遅れた(精神的に)星に行ってその星の進化に貢献したい」

そして

「そのためにはどんな苦労、試練も覚悟の上だ」

と決意し宣言するのです。

金星からやって来たお釈迦さまやキリストさまもそうでした。

その頃(中世)の地球は今よりもずっと人間の心が荒んでいて、目覚める人も少なく、教育も行き届いていなかったで高い教えを理解出来る人も僅かだったのです。

それでも懸命に真理を説いて回った。

このような聖者たちがいたから今の地球はまだもっているのです。

お釈迦さまやキリストさまは、同じ金星の魂たちから一目も二目も置かれているのだそうです。尊敬されているのです。

霊位というのがあるのですが、金星の中でも別格なのです。

それは、「あんなに汚れた地球に行った」 という勇気を讃えているのです。

誰もが嫌がるような苦労を承知で、それでもあえて行った

そのままずっと金星にいてもいいのに・・・・・

きっと

「あっぱれ!」

なんでしょうね。

そして今、お釈迦さまやキリストさまのような魂たちが地球上にたくさん降りて来ているのです。

それもやっぱり宣言をして

だから

今、私たちが悩んでいること、苦労していること、苦しいこと、嫌なことがたくさんあることは全部織り込み済みなのです。

わかっていたことなのです。

ただ、記憶を無くしているからわからないだけなのです。

もちろん地球上の人間が全員が全員そうではありません。

地球で何回も輪廻転生をして、神様がわからない人もいる

地球よりも遅れた(精神的に)星からやって来ている幼い魂たちもいる

そして、地球よりもずっと進化した星からやって来ている高い魂たちもいる

地球上には、このようないろいろな段階の魂を持った人たちが一緒になって暮らしているのです。

意識が違う、考え方が違う、感性が違う

だからすぐには判り合えないのです、噛み合わないのです、共鳴しないのです、理解出来ないのです、二元対立するのです、判り合えないからいらだって怒り狂う(感情的になる)のです。

でも進化した星からきた魂たちはそれをそのままにはできない

それは対立した魂を融合させて、愛に進化(変化)させることがミッションだからです。

だから人を愛そうとします。

どんなにひどい目にあっても、人を愛そうとすることをやめないのです。

そして安定を求めません、それは今まで居た星でもう散々経験したことだったからです。

もちろん、不安定な状態、不調和な状況を喜んでいるわけではない

誰でも苦しいのは嫌です、貧乏も嫌です、病気になるのも嫌です。

そんな状態のときは誰でも安定を求めます。

しかし、魂の奥底では、不安定(変化)を望んでいるのです。

不安定の中から何かを学ぼうとしているのです。

そして不安定を克服して、やっと安定になったとき(心も状況も)

至福のときを迎えるのです。

「地球に来てよかった」

試練や苦悩は過ぎ去ってみれば懐かしい思い出です。

「あの頃は確かに大変だったけど、結構楽しかったよなぁ」

と振り返ることが出来るのです。

だから今受けている試練をそんなに深刻に受取らないでください。

すべては、善くなるためのプロセスです。

魂を成長させるための神様からのプレゼントです。

プラスから出たマイナスです。

「自分は今の状況になることがわかって、受け入れて生まれて来たんだ」

「今の状況は自分にとってベストなんだ」

「魂が成長することが本当の幸せなんだ」

「だから必ず乗り越えることが出来るんだ」

と思うことが大切だと思うのです。

 

 

    岐路にたちつつ
 

動物園の動物は、食べる不安は何もない。 他の動物から危害を加えられる心配も何もない。

決まった時間に、いろいろと栄養のある食べ物が与えられ、保護されたオリのなかで、ねそべり、アクビをし、ゆうゆうたるものである。

しかしそれで彼らは喜んでいるだろうか。

その心はわからないけれども、それでも彼らが、身の危険にさらされながらも、果てしない原野をかけめぐっているときのしあわせを、時に心に浮かべているような気もするのである。

おたがいに、いっさい何の不安もなく、危険もなければ心配もなく、したがって苦心する必要もなければ努力する必要もない、そんな境遇にあこがれることがしばしばある。

しかしはたしてその境遇から力強い生きがいが生まれるだろうか。

やはり次々と困難に直面し、右すべきか左すべきかの不安な岐路にたちつつも、あらゆる力を傾け、生命をかけてそれを切り抜けてゆく ━ そこにこそ人間としていちばん充実した張りのある生活ともいえよう。

困難に心が弱くなったとき、こういうこともまた考えたい。

 

        「心をひらく」 松下幸之助  PHP




 

 

2013年12月19日 (木)

人と接することが苦手な人へのメッセージ

 
 
以前、ある人に言われて、今でも心に残っている言葉があります。

それは

「人にどう思われたいかは、いりません でもどう思われているかはチェックする必要があります」

でした。

どう思われているかはチェック出来ていたように思うのですが、よく思われたい、悪く思われるのは嫌だという気持ちが私自身強かったように思います。

だから長く接しているのにどうしても仲良くなれなかった人がいました。

そして打ち解けられなかった原因を、その人のせいにしていたのです。

「相手が心を閉ざしていたから自分も壁を作ったのだ」

「相手が感情的になって怒ってきたから、自分は近づきにくくなったのだ」

「相手のプライドが高いからとっつきにくかったのだ」

「相手は私のことが嫌いだったんだ、だから所詮仲良くは出来なかったんだ」

とすべてを相手のせいにしていたのです。

自分が裸の心になって、自然体になって相手の懐の中に入って行こうともせず

言い訳ばかりをしていた

「これではいけない」 と思いつつも

ずっと躊躇していたのです。

でも最後の最後になって、やっと心が打ち解けたのです。(私が職場を去るときでした)

それは私がプライドを捨てて、裸になって

相手の人にあることを相談したからです。

そのときの私は何も考えていませんでした。

とっさの相談だったのです。

するとその人はそれまでの頑なな態度を一変させて

笑顔でその相談に答えてくれました。

12年間親しく話が出来なかったのに

本音で話すことがなかったのに

あっけなく氷が解けたのです。

そしてわかったことは

相手が壁を作っていたのではない

自分が壁を作っていたのだ

ということだったのです。


巷には 「人付き合いの仕方」 という HOW TO本が山のように書店に積まれています。

しかし下記に書かれているような真理をズバリと突いた本は少ないと思うのです。

西園寺昌美先生の真理は、一読、厳しいのです。

読んでいるとあまりにも当っているので、逃げ出したくなるのです。

自分の欠点、いたらなさをズバリ突かれたような気持ちになるからです。

人間は、自分の弱味を突かれると守ろうとするからです。

言い訳をしようとするからです。

しかし、参りました、その通りです、という心境になるのも悪くはありません(笑)

自分の心に素直になると

スッキリするからです。

清々しい気分になるのです。

そして

「これまでのことはしかたがない」

「これから気をつけて、改めればそれでいいんだ」

という心境になったのです。


 

この世の中は人と人との交わりです。

ですから、人とうまく付き合うコツを学んでおくことも大事ではないかと思います。

まず人と接する場合、一番頭に思い描かなくてはならないことは、自然体に振る舞うことが出来るかどうか、ということです。

自然体ということは、簡単なようで、これほど難しいことはないのです。

自然体とは、自分自身を何も包み隠さず、相手の思うがままに見てもらおう、という態度です。

自分を大きく見せようとか、優秀な人に思われたいとか、誠心誠意の人に思われたいとか、心にそういう魂胆があると、初対面の人に対して自然体に振る舞えなくなります。

そうなると、相手に自分のことを正しく評価してもらえず、せっかく相手が自分の人生において欠かせぬ人物であったとしても、その人とのつながりを失ってしまうことになります。

ですから、人と付き合う場合、一番心がけなければならないことは、裸の心になってあるがままの自分をさらけ出すということです。

これが出来る人は大勢の友、いろいろなタイプの友を得ることが出来るのです。

友だちが多いとあらゆる面で助けを得ることが出来ます。

自分が困難な事態に直面したり、悲惨な状況に陥った場合、心から助けてくれるのは真の友なのです。

有能で知識欲のある人や、人を指導する立場の人は往々にして、慢心や偏見があり、どうしても自然体で人に接することが出来ないものです。

自分を偉そうに見せてみるとか、博学のように見せてしまうとか、自分がどういうものであるかを主張したがるものです。

それも自分のことを正直に語れば、相手の心を魅了するものですが、そこに偽りや虚飾があると、誰もその人を心から尊敬しませんし、友だちになることを嫌がります。

自分がどう思われたいかを気にする人は、もうその時点でいい友を得ることが出来ないし、自らの人生に自信を持って生きることが出来ない人と言えるのであります。

自分に信念があり、自分に実力のある人は、人からよく思われようとか、人にどう思ってもらいたい等という姑息な考え方が心に浮かばないのです。

大抵の人は、人と接した場合、無意識のうちに自分と比べてしまいます。

学歴や才能や知識などで、自分が優れていると思ったら、突然威張りたくなったり、自分が劣っていると思ったら、自信がなくなります。

そういう人はまだ人間が出来ていないのです。

本当に人間が出来ている人というのは、自分と人との比較を決してしません。

また自分に自信があるから、人の良い面をみようとします。

人からどんなふうに思われても、“自分はそれでいい” と弁解もしなければ、取り繕うこともしません。

取り立てて自分のやっていることを人に知らせようともしません。

“ただあるがままの自分を人に見てもらうだけで十分だ” と思っているのです。

ですから人間というものは、自分に対していい意味で誇りを持ち、威厳を持ち、自分を尊び、神の子としての自覚をもって生きなければならないと思います。

人間は誰も彼も、最終的には神の子の姿を現わします。

それが遅いか早いかの違いです。

前生の因縁によって遅い人も早い人もいますが、現在、自分が生きてゆく上で、一番戒めなければならないことは、自分自身を飾らず、裸の心をもって人と接することです。

どうぞそのように心掛けて人との尊い結びつき、縁を大事になさっていただきたいと思います。

   

       「明日を明るくするメッセージ」 西園寺昌美著



  
 

 

 

“今日は死ぬのにもってこいの日だ” 2


 

 
病気と共に生きるという、宇宙の法則に則った古代人の死生観

古代人たちは、病気になっても 『病気=死』 とは結びつけませんでした。 何故ならば、病院等が存在しなかったからです。 その代わり、メディスンマン(呪師 まじないし)や部族の酋長や祈祷師が、その病気の乗り越え方を教えていたのです。

彼らは病気を抱えながらも、自分で出来ることは出来る限り、自分で行なっていました。

食べることも、トイレに行くことも、また、外出することも・・・・・・。

病気の程度に把われることなく、自分で出来ること、働けることは、何でも自分でしていました。

病気と共にありながら、生活を送っていたのです。

全治する、しないにかかわらず、いわゆる病気と共存していたのです。

そして多くの場合、彼らは自然死を迎えてゆきました。 自らの死を悟った時、自然に食を断ち、水を断ち、そして自然に移行していったのです。

自らの死への意志が、自分にも家族にも周りの人々にも自然に伝わってゆき、当然のごとく受容されていたのです。

彼らの直接の死因は病気そのものではなく、その人の寿命で死んでいったのです。

人によっては、外出中に事故で死ぬ人もあれば、災害で死ぬ人もありました。

しかしいずれにせよ、昔の人は病気を抱えながらも自分の家で、自分に出来ることをしながら生活していました。

よほどの重病人でない限り、今ある病院のように、一日中寝かされっ放しではなかったのです。

死ぬ瞬間まで出来る限り人に依存せず、迷惑をかけず、何もかも一人で果していたのであります。

そして、そこには家族や社会とのコミュニケーションが、死ぬ瞬間まで存在していたのです。

それが、その当時の生き方においては、当然であったのです。

それ故、誰もがそれを当たり前のように行なうことが出来たのです。

そして死の二、三日前、あるいは一週間ほど前になると、みな自分の死の到来を直観していました。

そして、自らの肉体自体が自然と食を欲しくなくなり、遂には水さえも拒否するようになってゆきました。

彼らの意識は死ぬ瞬間まではっきりしていました。

大人も子供も淡々と死を受容していました。

精神的な苦悩が伴わなければ、肉体の死、それ自体も決して苦しいものではないのです。

その上、自らの肉体や家族に執着を持たなかったから、なおのことでありました。

このように、人の生死は、宇宙の法則の中で自然と行なわれていたのです。

それこそ、ネイティブアメリカンの教訓にあるように

“今日は死ぬのにもってこいの日だ” という心境だったのです。

     病気と生死について 『病気=死』の観念を覆す 西園寺昌美著


 



 

12月19日のつぶやき(今日は死ぬのにもってこいの日だ)

 

ネイティブアメリカンの人たちは、死ぬことをまったく恐れず、それどころか死の直前の当日に「今日は死ぬのにもってこいの日だ」 と言ったのだそうです。

死を喜んで受け入れていたのです。

しかし、私たち日本人は、死を必要以上に恐れている、そして死に一番直結していると思っている病気も極度に恐れるのです。

病気=死 しかし人間は病気で死ぬのではなく、寿命で死ぬのです。

なぜならば、私たちは生きている間に何度も病気をするからです。

風邪などを含めると50年生きてきたとして100回くらいは病気になっているでしょう。

その100回とも死には結びついていない、次の病気で死んだとしても101回に一回の確率です。あまりにも低いですよね(笑)

どれだけ重い病気に罹ったとしても死なない人もいるし、風邪などの軽い病気から死に至る人がいることからいうと病気は死の領域にはないのです。

反対に生の領域にあるのです。

 病気になったときに、なぜ自分は病気になってしまったのだろう?と自問自答する。

身体を酷使して大切にしなかったからか?

精神的にまいっていたのか?

抵抗力が弱っていたのか?

探せば見つかるはずです。

お医者さんにも家族にも見つけられなくても自分では思い当たるふしがあるはずです。

そして自分で自分の病気は治していく?

健康食品などを試してみる?

または病院に行く

昔の人は、医者もいない、病院もないという環境の中でどうやって暮らしていたのでしょう?

ほとんどは、自分の中にある自然治癒力で治していたと思うのです。

今は、熱が出たらすぐに解熱剤を飲む 熱で身体に溜まった毒素(マイナス)を消そうとしているのに、対処療法ですぐに熱を下げてしまう。

身体は楽にはなるけれど、根本から治ったわけではない、毒素は溜まったままだからです。

そしてその毒素は今度は違う病気(不調和な状態)になって現われる。

そうやって先送りしながら誤魔化しながら生きている

昔の人は、熱が出ても放っておいて3日間ほどうなされたとしても、次の日には復活して元気になっていたのです。

だから病気を生の領域だと捉えていた。

生きて成長していくために必要不可欠な試練と捉えていたのです。


私たちは、死を迎える心の準備が出来ていなければ、生を生き切ることはできないと思うのです。

病気になるたびに、死を直結させ怯える

死ぬことの意味もわかっていないので、病気になることが不安なのです。

死んだらどこへ行くのだろう?

死んだらおしまい、心(意識)も一緒に無くなってしまうと思っているので自分という存在が全く無くなってしまうと思っている

ほとんどの人はそうだと思うのです。

次の日記で古代人の死観について書いてみたいと思います。


そしてこれからも死について時々述べていきたいと思っています。

よかったらお付き合いください。



 
 

2013年12月18日 (水)

今、必要なのは果因説の考え方

 
  
私たちは、時間とは過去から現在、そして未来へと流れていくものだと思い込んでいます。

それは、人間が勝手に考え出した時間の流れの概念なのです。

私たちが住んでいる宇宙には、時間はないのです。

過去も未来も現在もない(時空を超えています)

だとしたら時間を未来から現在へと自由に流すことができるのです。

イメージトレーニングがあります。

スキーなどで自分がうまく滑っている姿をイメージし続けて

現地に着く、そしてそのイメージのまま滑ると、イメージ通りに滑れている

格段に上達しているのです。

これは、上手に滑っているという未来の形を先に創ってしまうということです。

宇宙は、人間の想像した通りに創造されていくという法則があります。

人間は創造主(神)であるからです。

思った通りの自分になれるのです。(マイナスなど邪魔をするものを入れなければ)

これからは時間の概念が変わっていきます。

それによって、みんなすばらしい未来を想像(創造)するようになります。

病気の人は、健康をイメージし、貧困の人は豊かさをイメージし、人間関係がうまくいっていない人は、みんなが調和している姿をイメージする

そんな素晴らしい世の中がやってくるのです。

果因説については、もう何度もここに掲載しましたが、今回も載せることにしました。

人間がこれから明るく生きていくためには、絶対に必要な考え方だからです。

みなさんも是非、明るい未来をイメージしてください。

時間は未来から今へとやって来るのです。

 

世界人類が平和でありますように
 

 

因果律と果因説の違い━過去→現在→未来か、 未来→現在→過去か

 

次にあげる因果律と果因説の違いは、「過去→現在→未来」という因果律の流れに対して、果因説の流れでは、 「未来→現在→過去」であるということです。

因果律では、現在起こることは過去の因が決めている、つまり 「過去→現在」という全体の流れがあります。

病気に例えると、「過去にしてきたさまざまなことによって、現在病気になることがすでに決まっていた」 というように、過去に起こった一つのことが原因となり、次々と玉突き式に結果となって、現在の病気が現われる。

そして現在の病気がまた新たな因となり、「現在→未来」 という流れに乗って、未来の結果となってゆく。

これが因果律の流れです。

この考え方でゆきますと、過去からやってくる病気に対して、現在や未来では何一つ打つ手がなく、ただ黙って受け入れるしかないということになります。

現在も未来も過去に起こったことから生じる必然であって、もし過去に別の選択をしていれば今病気にならなかったかもしれないが、過去に戻って過去の選択を変えることが出来ない以上今も変わらない、今が変わらなければ未来も変わらないということになります。

これでは、人間には全く自由意思がないということになってしまいます。

しかし果因説では、「未来→現在」という流れに乗って、未来の結果を先に創り出すことが出来るのです。

例えば、川は川上から川下へと流れています。

今現在自分は川の中にいて、傍に落ちていた葉っぱに希望や夢を、現実に現われるように書き込むとします。

それを放り投げます。

川下のほうに放り投げたら、その希望の葉は永遠に自分のところへは戻ってきません。

自分の手から放たれた瞬間からどんどんと川下のほう(即ち過去)へと流れ去っていってしまいます。

結果、その希望は自分の手には戻りません。

だからこそ投げる時には、必ず川上に向って(即ち未来の希望のビジョンを持って)、投げるのです。

その希望の葉は川上のほう、即ち未来へと放たれて、そこから次第に川下へと流れてゆきます。

そして今、ついに現地点の自分のところに、何年か、何ヶ月か、何日か前に投げ込んだその希望の葉が戻ってきて、自分の前を通り過ぎようとしています。

それを自分がキャッチすることにより、希望していたことが現実に顕現されるのです。

時間は未来から現在へとやってくるのです。

そして毎日のように、思い出すたびに繰り返し繰り返し希望の葉を何十枚、何百枚、何千枚、何万枚と未来に投げ込みつづけると、いつの日か、宝くじのようにそのうちの数枚が、必ず自分の前に現われ、現実となるのです。

従って、まさに今の瞬間、自分の未来に対する希望や輝かしい人生の設計図を強く思い描き、

「絶対大丈夫!」 「必ず出来る!」 「すべては可能である!」 「すべては完璧!」 「欠けたるものなし!」 「必ず成就する!」・・・・・・などという想いや言葉を繰り返すことにより、それが現実となって現われるのであります。

時間は未来から現在、現在から過去へと流れているのですから、今この瞬間、未来について思ったこと、考えたこと、語ったことの成就は、いずれ現在にやってくるのです。

ですから今現在、この瞬間、未来の希望を繰り返し、繰り返しインプットすることにより、それが次々に現在へと流れてくるのです。

そしてそのうちの数枚の葉(未来に投げかけた希望のビジョン)を、自分がキャッチする瞬間が必ず来るのです。

これが果因説です。

今までのような、過去の原因を突き止め、悪い種を一つ一つ暴き出し、それを排除しつつ上り詰めてゆくやり方は、過去のマイナス(川下)に意識が集中するため、目的達成が容易ではありません。

しかし、過去の因縁に由来する果因律に心縛られず、憂えず、今の瞬間、未来(川上)に向って自らの意識を高めるという果因説に切り換えると、自らに内在する素晴らしい資質が目覚め、人生は好転するのです。

    

         「果因説」 西園寺昌美 白光出版




 

引きつける

 
 

インターネットでブログを書くようになってから、私はかけがえのない大切な人と知り合うことが出来ました。

このサイトやmixiでブログを書きつづけているうちに、私のエネルギーが相手の人に伝わって引き寄せたのです。

そのうちの一人の人はある日突然、電話がかかってきて

「ブログを読みました、書かれていることに大変興味があります。夏季休暇で京都に行く用事がありますのでそのときにお会いできないでしょうか?」

というものでした。

調和波動気功法のセミナーのお知らせでブログに携帯番号を載せていたので直接かかってきたのです。

そして、実際にお会いして話をしているうちに初めてお会いしたとは思えないような懐かしさを感じたのです。(縁が深かったんですね)

その日は意気投合し、時間が経つのも忘れて語り合いました。

そして、その方は今では毎月于先生のレッスンを受けるため、調和波動気功法のセミナーに出席するために東京からやって来られます。(もう4年以上になります)

そして、ハーモニーの人たち(気功仲間)という盟友ができたこと、于先生のレッスンを受けられること、真理につながったことにとても感謝してくれています。

こんなに嬉しいことはありません。

これもインターネットが無かったら繋がらなかったかもしれないのです。

時期とタイミングとその人の意識のすべてが合わなければ出会うことはなかったと思うのです。

そしてその仲立ちをしてくれたのがこのブログです。

私の想念がブログに乗り移りインターネットを通して、その人に伝わったのだと思うのです。

これって凄いことですよね。

そしてなにより嬉しいのは、それによって感動が生まれたことです。

太陽の光線のようにバラバラになった光があることがきっかけになって溶け合い一つになったのです。

分かれていた魂が引き寄せられて一つに溶け合い魂が震えた

これは、私が感動を分かち合いたいという熱い想いから来ているのは間違いありません。

その想いがその人を引きつけたのだと思います。

 

また、新たな感動を求めて、出会いを求めて

私は、これからもずっとブログを書き続けていきます。

 

磁石は鉄を引きつける。 何にも目には見えないけれども、見えない力が引きつける。

しぜんに鉄を引き寄せる。

人が仕事をする。 その仕事をする心がけとして、大事なことはいろいろあろうけれども、やっぱりいちばん大事なことは、誠実あふれる熱意ではあるまいか。

知識も大事、才能も大事。 しかし、それがなければなければ、ほんとうに仕事ができないというものでもない。

たとえ知識乏しく、才能が劣っていても、なんとかしてこの仕事をやりとげよう、なんとしてもこの仕事をやりとげたい、そういう誠実な熱意にあふれていたならば、そこから必ずよい仕事が生まれてくる。

その人の手によって直接にできなくとも、その人の誠実な熱意が目に見えない力となって、自然に周囲の人を引きつける。

磁石が鉄を引きつけるように、思わぬ加勢を引き寄せる。

そこから仕事ができてくる。 人の助けで、できてくる。

熱意なき人は描ける餅の如し。

知識も才能も、熱意がなければ無に等しいのである。

おたがいに一生懸命、精魂こめて毎日の仕事に打ち込みたい。

  

         「道をひらく」 松下幸之助  PHP



 
  
調和波動気功法  http://www.harmony-wave.jp/



  
オーラ・オーラ  http://auraaura7.com/

 

 

過去を引きずって、悩んでいる人へのメッセージ

 
真理というのは、我即神也、人即神也、人類即神也、つまり人間は神の子というだけではなくそれを根幹としてたくさんの真理が付随しているのです。

他人を愛する前に自分を愛する

他人を赦す前に自分を赦す

というのも人間が健全に健康(心の健康)に生きていく上でとてもとても大切な真理なのです。

一般に善い人と言われる人は、他人の嫌なところ、ダメなところ、怠惰なところ、醜いところ、腹の立つところ、妬ましいところ、気に入らないところ、虫唾が走るところ・・・・・ありとあらゆる我慢できないところを見ながらもそれを無理に許そうとします、寛容になろうとします。

仏さまのような心になろうとします。

でも我慢すればするほど、許そうとすればするほど自分が偽善者になっていることに気づくのです。

そして我慢が溜まりに溜まって爆発しそうになる

そんなときは思いっ切り

相手を責めて思ったことをすべてぶちまけてみたい

犯罪者になってもいいから殴ってみたいという衝動にかられます。

でもそんなことはできないことはわかっている

偽善者になることほど苦しいことはない

偽悪者になるほうがずっと楽です。

善の部分を少し残して悪を演じて、あからさまに他人を攻撃する方が精神的には楽なのです。

しかし、心の奥底では善(神性)があるので、それも長続きはしない

偽善者の自分も偽悪者の自分もどちらの自分も

本当の自分のように思うけれど

本当の自分ではないのです。

どうすればいいのかわからなくなってきます。

そこで

善い心の自分も、悪い心がある自分も

偽善者、偽悪者の自分も

どんな自分であっても抱きしめてやるのです。

「今まで辛かったね、よく頑張ったね」 と労をねぎらってやる

全部を受け入れてやる

そうすると肩の力がスーッと抜けて

楽になっていきます

そして

やさしい気持ちになってゆく

自分が神様になって、小さな肉体人間の自分を抱きしめているような心境に変わっていきます。

大我の自分が小我の自分を包み込むようになる

そこには、自分にも他人にも寛大に寛容になっている自分がいるのです。


 

「過去を引きずって、悩んでいる人へのメッセージ」

 

あなたはあなた自身を赦さなければならない。

これは一番根本的な大事な真理なのです。

たとえあなたが過去にどんな罪を犯していたにせよ、それは過去のことであって、現在はそれとは全く無関係にあなたの人生が切り拓かれようとしているのです。

あなたはもっと自分自身を赦さなければならない、自分自身を寛大に見つめなければいけないのに、なぜそれができないのか。

それはあなたの心の中に、自分自身をどうしても罪の子、汚れた子、卑しい者、自分は他とは違っている者と信じている部分があるからです。

そうではないのです。 どんな人でも本来神の子であるのです。

消えてしまった過去に対して、なおかついつまでも、あなたの心の中にその傷を引きずって、罪を赦せないでいるのは愚かな生き方 ━ 。

その愚かさはあなた自身の人生においてのみならそれで結構、どんなに自分を傷つけ自己嫌悪に陥っても、あなた自身はそれでよい。

けれどもあなたの想いがあなた自身の影響にとどまらないところにもっと罪深さがあるのです。

自分を赦せない心が他人をも赦せない心に変わってきている。

自分を愛せない心が他人をも愛せない、愛するどころか憎しみに変わってきているのです。

だからこそ神は自分自身を赦し、自分自身を愛しなさいと真理を説いておられるのです。

自分を本当に愛せない人は人を愛せるはずがないのです。

自分を本当に赦せない人がどうして他人を赦すことができましょうか。

たとえみかけは他人を赦し愛するように見えても、それは偽善です。

あなたの本心から出ている行為ではない。 偽善行為そのものです。

世の中を見てごらんなさい。 

本当に人々を赦している人は、まず自分自身を愛し、自分自身を赦している人です。

自分をきびしく見つめ律する人、自分に過酷さを強いる人は、他人に対しても同じようなことをしている。

なぜならば自分が苦しみ自由を束縛され過酷に耐えているならば、他人に寛容になれるはずがないからです。

世間でよくいうように、心の正しい、自分をきびしく律する人は、他人に対してもきびしいのです。

真面目な人は真面目を好むのです。

ですから怠惰な人を嫌います。 赦せないのです。

努力家の人は遊び呆けている人を軽蔑します。

自分自身が頑張らなければ、勉強しなければ、と毎日毎日努力を重ね、自分自身を束縛lしているから、楽しむことは人間の本来の生き方ではないと狭い殻に閉じこもり、寛容の心を持ち合わせていないからです。

人生はエンジョイするためにあるのではない、自分を磨き立派にするためにあるのだと、遊びたい心、楽しみたい心を押さえ自分を束縛する。

それは純粋な磨き方ではないのです。

人間は本来自由であるのが本当の喜びであり、本来の幸せなのです。

自分を束縛し自分の自由を剥奪することは、ひいては他人の自分を律し剥奪することに等しいのです。

小さな完璧主義者になってはいけない。

大きな大きな心であらゆる人間を許容できる、そういう立派な自由人になることが大事なのです。

    
     「明日を明るくするメッセージ」 西園寺昌美著



 

 

12月18日のつぶやき(志を立てよう)

 
 
志(こころざし)と目標というのは、違います。

目標とは、目にみえることで実現したいことであり、志というのは、どういう生き方をするかという心のことですよね。

私は目標の前に志があってしかるべきだと思うのです。

自分が何をしたいか? ではなく自分がどういう生き方をして、どういう人間になりたいか?

人に必要とされる人間になりたい

愛される人になりたい

感動を与えられる人になりたい

という想いがあって

そのために自分は何をしてそれを実現するのか? を考える


私は今55歳なのですが、友人と話をしていても志を持っている人はあまりいないのです。

目標、願望は持っています。

「ゴルフがうまくなりたい」

「いつまでも健康でいたい」

「早く仕事を辞めて、好きな旅行を思う存分したい」

「老後のために充分なお金を溜めたい」

みなそれぞれいろんな目標を立てています。

目標を持つことはいいことです。

ないよりはあったほうがいいです。

でもちょっと寂しすぎやしませんか?

それは自分のことしかないからです。

人や社会との関わり合い、分かち合いがないからです。

そこには小さな感情、感動しかないからです。

志のない人と話していてもあまり楽しくありません。

過去の話か、健康の話か、趣味の話、家族などの限られた人の話、後はお金の話題くらいしか出てこないからです。

「私は世の中を善くしていきたいんだ 善い世界をつくっていくんだ」

「人類の幸福、平和に貢献したいんだ」

「そのために自分はこうしたいんだ」

それが志だと思うのです。

人間としてのミッションだと思うのです。

そんな高い志を持った歯応えのある人(笑)

と巡り会いたいと思う今日この頃です。

 

志(こころざし)を立てよう。

本気になって、真剣に志を立てよう。 生命をかけるほどの思いで志を立てよう。

志を立てれば、事はもはや半ばは達せられたといってよい。

志を立てるのに、老いも若きもない。そして志あるところ、老いも若きも道はひらけるのである。

今までのさまざまの道程において、いくたびか志を立て、いくたびか道を見失い、また挫折したこともあったであろう。

しかし道がない、道がひらけぬというのは、その志になお弱きものがあったからではなかろうか。

つまり、何か事をなしたいというその思いに、いま一つ欠けるところがあったからではなかろうか。

過ぎ去ったことは、もはや言うまい。

かえらぬ月日にグチはもらすまい。

そして、今まで他に頼り、他をアテにする心があったとしたならば、いさぎよくこれを払拭しよう。

大事なことは、みずからの志である。

みずからの態度である。 千万人といえども我ゆかんの烈々たる勇気である。

実行力である。

志を立てよう。 自分のためにも、他人のためにも、そしておたがいの国、日本のためにも。

    
          「道をひらく」 松下幸之助 PHP

2013年12月17日 (火)

人間はいろいろな体を持っているもの

 
 
私が、幽界や霊界、神界のことなど神秘的なことばかりを書いているとみなさんは、私のことを浮世離れをした現実世界に地に足をつけていない奴だと思うと思うのです。

私が読者であればそう思います。

ところが私はそうではなく現実生活を普通に送っている上で、目にみえない世界にも通じていこうとしているのです。

その目にみえない世界とは、本当の自分、本心のある神界のことです。

神界と通じることによって、本来の自分になれるのです。

妬み、嫉妬、悲しみ、恨み、つらみ、怒り、悲しみ・・・・などの感情を超えた不動心になることが私の目的です。

感情想念に振り回されない自分、どんなことにも把われない自由自在心の自分になりたくて真理を求め、そして調和波動気功法を知り、于先生に出会いました。

そして私は自分のことを

「宇宙一幸せ者」 だと思っています。(随分前からですが)

そして、その幸せのおすそわけをしようと、今までに得た知識、体得したものをみなさんに伝えようとブログを書いているのです。

私が体得したものは、目にみえない世界のことだけではなく、3次元的なこの世的なこともたくさん教わったのです。

いや、先生には目にみえない世界のことよりも、この世的なことを厳しく諭されました。 

それは、目に見える世界をしっかりと生きなければ、目にみえない世界のことは語れないからです。

地に足が付いていないのに天地を貫く、真理の話などできないからです。

要はバランスが大切なのです。

縦が┃が天からの目にみえないエネルギーとするのなら横は━目に見える3次元のエネルギーです。


この縦と横のエネルギーが交差する十字の中心に立ってこそ、バランスのとれた真の人間になれるのです。

だから、神秘的な不可思議な話をしてばかりではダメなのです。

天にも通じる中間の3.5次元的な、この世にも通じる話が出来なければ、真理の伝道師(メッセンジャー)にはなれないのです。

最近の私のブログは、神秘的なことと、現実的なことがほぼ交互に書かれていると思います。

神秘的なことばかりを書いていると、なんだか気持ちが悪くなり、現実的なことを多く書いていると神秘的なことが書きたくなるのです(笑)

しばらくはこのパターンで行ってみようと思っています。

これからもよろしくお付き合いください。






人間でも動植物でも、形の世界に現われ出でるまでには、種々な波動の変化をもって現われてきているのであって、人類は、その波動の変化のいちじるしいもので、微妙きわまりない波動から、肉体的な粗雑な波動になるまでの、何段階もの波動の世界を通って、現在この地球界に肉体人間として現われているのであります。

これを宗教的にいえば、人間は肉体界に存在しながら、同時に幽、霊、神の各界に生きているのだ、ということなのであります。

人間は死んでからあの世に行くと、今日までは思われてきていましたが、実は、肉体に存在するままでいつでも、神界、霊界、幽界という各界にも存在しているので、改めて死を恐れたりすることはないのです。


 

      「日々の祈り」 五井昌久 白光出版

 

2013年12月16日 (月)

12月17日のつぶやき(心ここにあらざれば)

 
 
私がAさんという人と話をしていて、Aさんにとって興味がある話だと真剣に聞いてくれてい

るという波動(エネルギー)がこちらに伝わってくるのですが、Aさんがつまらない話になっ

たと思って集中力がなくなってきたとしたのなら、やっぱりその波動はこちらに伝わってくる

のです。

態度では、「ふんふん、なるほど」 と聞いているように見えても 心ここにあらず はすぐに

わかってしまうのです。

ということは、私もそのような波動を出していたとしたのなら、相手の人にもわかってしまっ

ているということですよね。

反省点としましては、私も確かに相手の人が私にとって嫌な話であったり、聞きたくない内

容だったら、聞いているふりをしていることがあるのです。

そのときは、「嫌だなぁ」 とか 「早く終わらないかなぁ」 とか 「その話は嫌だから他の話

に話題を代えてやろうかな」 などと思っているのです。

つまり相手の話に集中しないで、自分の感情(嫌だという)に集中してしまっている

まさに 心ここにあらず です。

どんなに聞いているふりをしても、話題に合わせていても、態度に出していなくても

ひびきでわかってしまうのです。

その時点で相手の心は離れていきます。

「この人は 私の話を聞いていない 私を理解しようとしていない 失礼な奴だ!」 と

愛とは合い、相と同意語であり、2つや複数の魂が合一することであり、愛の反対は離反

していくことなのです。

人を愛し、人に愛してもらおうとしたのなら

相手の話に体を傾けるのではなく、心を傾け

集中して真剣に聞くようにすることが大切だと思うのです。

コミュニケーションの基本はそこにあると思います。

今、コミュニケーション力が必要だといわれていますが

それは、プレゼンテーション力や伝える力ではなく

聞く力のことではないでしょうか?

聞く力があってこそ、コミュニケーションが生きてくる。

伝えようとする前に、受取ることが大切です。

相手が何を求めているのか?

どうすれば相手の魂が喜ぶのか?

それがわからないと伝えようがないのです。

伝えても意味がないのです。

 

人間の存在というものは、その場所に肉体がいなければ、その人が存在しない、というも

のではなく、またその人の肉体身がそこにあるから、存在しているというものではなく、そこ

にその人の心のひびきが伝わってきているか、きていないかによって、その人がそこに存

在するかしないか、ということになるのです。

その人の心がそこになければ、肉体身がそこにあっても、その人がそこにいないのです。

大勢の人が同じ部屋にいたとして、その各自がお互いの家人や知人のことを思いつめて

いる時に、その人の心はその家人や知人の所にいるのであって、その部屋には単に形だ

けが存在しているだけで、その人の実体は、家人や知人の所にいることになるのです。

      

          「日々の祈り」 五井昌久  白光出版



  

 

転んでも

 

いろいろなジャンルの本を読んでいると、当たり前のことですが 「これは凄い、素晴らしいことが書いてある」 と思っていても読みつづけているうちに 「あれっそうかなぁ 違うと思うんだけどなぁ」 と感じる部分が出てくるのです。

 もちろん良いところだけを自分のものにすればいいのですが、だから書いている人のことを全面的に信じることは出来ないのです。

つまり、どこかに異和感、ブレを感じるのです。

人間が書いたことだからそれはしかたがないことです。 パーフェクトな人間はいないからです。(覚正し悟っていない限りは)

ただ、なんのひっかかりもなく、100%スーッと心に沁みてくる本もある。

それは私だけの私見ですが、五井昌久先生、西園寺昌美先生、于寿明先生のご著書です。

それは、天からのエネルギーがそのままストレートに本に降りて来ているからです。

神界のエネルギーが文章となって本に顕われている。

エネルギーが本物だから書いている内容も本物になるのです。

とすると書いている人がどのような境地(心境、意識)にあるか?なのですが

私は、稲盛和夫さんや松下幸之助さんも本物に近いものを感じるのです。

真理がスーッと入って来て、首をひねることがほとんどないからです。

私にとって良書とは、天の波動に近い純粋度の高いものなのですが

素晴らしいと思うのです。

稲盛さんも幸之助さんも宗教心が強いのです。

宗教というのは、宗(もと)の教えという意味で、人間の根本である心の教えなのです。

根本(宇宙)の根っこの話をしているのでブレることがないのです。

その他の本は、根っこ(宇宙)とつながっていることもあるし、つながっていないこともある。

これが真理がしっかり書かれているものと、ズレていて首をかしげる本との違いだと思います。(生意気なことを書いてすいません)

前置きが長くなってしまいました

さて、タイトルの 「転んでも」 に戻りますが、真剣に考えていれば、生きていれば、根っこにしっかりとつながることになるのです。

だから間違ったこともしないし、ブレることもないし、失敗することもないのです。

失敗するというのは、きついことを言うかもしれませんが真剣度が足りないのです。

どこかで油断しているのです。

お医者さんが難しい手術を失敗して患者さんを死なせてしまったときに

「あっ失敗しちゃった、でもしかたがないよね、人間だからミスすることもあるさ」

と言っては大変なことになります。

プロである以上、ミスや失敗は許されない

真剣度が足りなくて失敗やミスをしたのなら、真剣度を上げれば、失敗はしない、失敗はあり得ない、成功するということです。

物事には、失敗(思考錯誤)が必要なものと、失敗は許されないものとがあります。

人は、そこを見極めずに

許されないもの、何度も失敗できないものに対しても

「七転び八起き」

「失敗は成功のもと」

「失敗から多くを学ぶ」

「人間だからしかたがない」

「失敗している人を責めてはいけない」

と言うのです。

無駄なく成功する人とは

思考錯誤をするにも、真剣に思考錯誤をしているのです。


だから毎日をいい加減に生きてはいけない

一瞬一瞬を、怠惰に生きてはいけないのだと思うのです。

なにも緊張をして生きろと言っているのではありません。

リラックスすることもとても大切なことです。

真剣になることと緊張するのとでは違うのです。

そこの違いの機微が、しっかりとわかった人が成功する(宇宙法則に乗る)のだと思います。









「七転び八起き」 ということわざがある。

何度失敗しても、これに屈せずふるい立つ姿をいったものである。

人生は長い。 世の中はひろい。

だから失敗もする。 悲観もする。 そんなとき、このことわざはありがたい。

だが、七度転んでも八度目に起きればよい、などと呑気に考えるならば、これはいささか愚である。

一度転んで気がつかなければ、七度転んでも同じこと。

一度で気のつく人間になりたい。

そのためには 「転んでもただ起きぬ」 心がまえが大切。

このことわざは、意地汚いことの代名詞のように使われているが、先哲諸星(せんてつしょせい)の中で、転んでそこに悟りをひらいた人は数多くある。

転んでもただ起きなかったのである。 意地汚いのではない。 真剣だったのである。

失敗することを 恐れるよりも、真剣でないことを恐れたほうがいい。

真剣ならば、たとえ失敗しても、ただは起きぬだけの充分な心がまえができてくる。

 おたがいに 「転んでもただ起きぬ」 よう真剣になりたいものである。

   

               「道をひらく」 松下幸之助 PHP




 



 

12月16日のつぶやき(思わんとあきまへんなあ)

 


私事ですが、私はこれから今までの自分の在り方を一新して、まったく新しい仕事や生活

に変えてゆこうと思っているのです。

仕事も辞め、新しい仕事を自分で始める、サラリーマンから自営業者になる、そしてそれに

伴い生活も一変します。

そこで大切なことは何か?を考えたときに、これからどうするか?を考えるのではなく、

その前に自分がどうなりたいか?を強くイメージすることが重要だとわかったのです。

プロセスではなく、ゴールを強くイメージする

映像になるまでイメージし、夢(イメージ)か現実かわからなくなるくらいまで思いつづける。

すると、イメージは潜在意識(幽体)にインプットされるのです。

潜在意識というものは、時間を経て必ず顕在意識となって現実世界に顕われてくるのです。

そしてイメージをすると、現われてくるまでにどうしたらいいかというやり方が見えてくるのです。

ほとんどの人は、やり方を先に考えます。

しかし、自分の夢(目標)をしっかりと持って、イメージすることの方がずっと大事なことな

のです。

何をすればいいか? ではなく どうなりたいか?

想いが形をつくるのです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

そこで松下幸之助さんは有名なダム式経営の話をされた。ダムを持たない川というのは大

雨が降れば大水が出て洪水を起こす一方、日照りが続けば枯れて水不足を生じてしまう。

だからダムをつくって水をため、天候や環境に左右されることなく水量をつねに一定にコン

トロールする。

それと同じように、経営も景気のよいときこそ景気の悪いときに備えて蓄えをしておく、そう

いう余裕のある経営をすべきだという話をされたのです。

それを聞いて、何百人という中小の経営者が詰めかけた会場に不満の声がさざ波のよう

に広がっていくのが、後方の席にいた私にはよくわかりました。

「何をいっているのか。その余裕がないからこそ、みんな汗水たらして悪戦苦闘しているの

ではないか。余裕があったら、だれもこんな苦労はしない。

われわれが聞きたいのは、どうしたらそのダムがつくれるのかということであって、ダムの

大切さについていまさらあらためて念を押されても、どうにもならない」

そんなつぶやきやささやきが、あちこちで交わされているのです。

やがて講演が終わって質疑応答の時間になったとき、一人の男性が立ち、こう不満を

ぶつけました。

「ダム式経営ができれば、たしかに理想です。 しかし現実にはそれができない。

どうしたらそれができるのか、その方法を教えてくれないことには話にならないじゃない

ですか」

これに対し、松下さんはその温和な顔に苦笑いを浮かべて、しばらく黙っておられました。

それからポツリと

「そんな方法は私も知りませんのや。知りませんけども、ダムをつくろうと思わんとあきま

へんなあ」 とつぶやかれたのです。

今度は会場に失笑が広がりました。

答になったとも思えない松下さんの言葉に、ほとんどの人は失望したようでした。

しかし私は失笑もしなければ失望もしませんでした。

それどころか、体に電流が走るような大きな衝撃を受けて、なかば茫然と顔色を失って

いました。

松下さんのその言葉は、私にとても重要な真理をつきつけていると思えたからです。

 

 

寝ても覚めても強烈に思いつづけることが大切

 

思わんとあきまへんなあ━この松下さんのつぶやきっは私に、

「まず思うこと(イメージすること)」の大切さを伝えていたのです。

ダムをつくる方法は人それぞれだから、こうしろと一律に教えられるものではない。

しかし、まずダムをつくりたいと思わなくてはならない。

その思いがすべての始まりなのだ。

松下さんはそういいたかったにちがいありません。

つまり、心が呼ばなければ、やり方も見えてこないし、成功も近づいてこない。

だからまず強くしっかりと願望することが重要である。

そうすればその思いが起点となって、最後には必ず成就する。

だれの人生もその人が心に描いたとおりのものである。

思いはいわば種であり、人生という庭に根を張り、幹を伸ばし、花を咲かせ、

実をつけるための、もっとも最初の、そしてもっとも重要な要因なのである━。・・・・・・・・・
 




    
         
「生き方」 稲盛和夫  サンマーク出版






 

2013年12月15日 (日)

12月15日のつぶやき(中庸でいいんだ)

 
 
「あなたは○○さんのことが好きですか?」

「嫌いですか?」

「あなたは○○さんがいい人だと思いますか?」

「思いませんか?」

「あなたは□□のことに賛成ですか?」

「反対ですか?」

「あなたは△△の考え方を支持しますか?」

「支持しませんか?」

「あなたは、どっちがいいと思いますか?」

「AですかBですか?」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・私たちは毎日のようにいろんな選択を迫られています。

人に聞かれることもあるけれども、心の中で

「どちからに決めなければならない」

と思っています。

特に誰々が好きなのか、好きではないのか?

なんて考えたところで

「どうなんだろう?」 が正直なところだと思うのです。

例えば、思春期の男子が付き合っている女子に対して

「キスをしたい」 という衝動にかられるとします(笑)

雰囲気を察した女子は相手の気持ちを確かめようと

「私のこと好き?」 と聞きます。

そのときに正直に

「わからない」

と答えとしたら

100%キスは出来ない(笑)

そこで男子は

「あ、あたりまえじゃないか、す、すっ好きだよ」

と答える

しかし、それは目的を遂行するための嘘、誤魔化しであり

自分の気持ちなんてハッキリとわかっていない

「神との対話」という本(世界中でベストセラーになった)で、男女の恋愛関係は

「商取引と同じだ」 と神である守護霊が言っているのもうなずけるのです。


「○○さんと私とどっちが好きなの?」

「□□をしようとするのは、私を愛しているから?」

「私と仕事とどっちが大切なの?」

そういう質問をされたとき

答える時には

「どう答えたら、この商談はうまくいくだろう?」

と計算しています。

感情に対しては勘定を持って対処するのです(男も女も)

私たちは、自分の思考に対してもハッキリと決めようとするし

相手にも白黒つけさせようとする

しかし、自分でもはっきりと気持ちが決まっていることの方が少なく

だいたいが

「好きなところもあるし、嫌なところもある」

「いい人だと思うところあるし、ずるい人だと思うこともある」

「基本的には賛成だけど、すべて賛成かと聞かれるとそうではない」

「他に支持する人がいないので、しかたなく支持する」

「どちらがいいともわるいとも思わない」

が本音だと思うのです。

しかし、そんなことを言ってしまっては

「おまえは自分というものがないのか?」

「優柔不断だ」

「決断力がない」

「どちらなんだ、はっきりしろ、はっきりと」

と言われダメな奴だと思われてします。

だから、無理からでもどちらかに決めてしまうのです。

私は昨日、古くからの友人と人生を語り合っていたのですが、話し込んでいけばいくほど、相手の考えがわからなくなるのです。

「この人と自分の考えはまったく違う、だから判り合えない」

と感じたかと思っていたら

次の会話では

「すごく似ている、近いものがある」

と感じることがある。

友人との距離を遠くに感じたり、近くに感じたり

共感したり、反発したり

話せば話すほど

この友人は

「いったい、どういう人なんだろう?」 とわからなくなるのです。

だいたい人の心を心理学者のように切り刻んで分析することは意味のないことだと、私は思っているのですが

それにしても人の心の中というものは複雑で、いろんな想念が入り混じっていると思うのです。

それをその極一部分だけをみて

「あの人はこんな人だ」 と決めつけてしまうのは、非常に危険だと思うのです。

ほんの一部をみて全人格がわかったかのように決めつけ

そこに感情まで乗せて(好きか嫌いか)

相手に接してしまう、批判、非難、評価をしてしまう

無視をしたり、いじめたり、反対にすり寄っていったり、相手を絶賛したり

その人を神か悪魔かのように決めてしまっているのです。

物事の本質(真実、答え)は、中庸にあるのです。

好きと嫌いの間にあると思うのです。

賛成と反対の間にある

善い人と悪い人の間にある

AとBの間にある

決めなくてもいい、ジャッジ(判断)しなくていい、白黒つけなくていい、優柔不断と思われてもいい、「日本人はイエス・ノーがはっきりしない」 と思われてもいいじゃありませんか?

真実は中庸にあるのに、決めつけてしまっては心が不自由になるのです。

決めてしまっては、取り返しがつかなくなることがあるのです。

もともと、はっきりしたことの方が少ないのです。

「わからない」 ものは「わからない」 でいいと思うのです。

わかっていないものをわかったようなふりをする

いい恰好をする

しかし、わかったようなふりをして、無理にどちらかに決めた後で、実はそうではなかった、間違っていたのなら

そのほうがずっと恰好わるいのです。

「あんなに悪い奴はいない」 とみんなに吹聴した後で

「あんなにいい奴はいない」 ということがわかった

その反対もあります。

政治家を見ているとコロコロと変っているのがわかります。

まるで蝙蝠(こうもり)のようです。

コウモリも自分が鳥なのか、獣なのかをはっきりさせようとして墓穴を掘ってしまった。

どちらでもよかったのです。

ところで

今、中性の人がモテているようです。

男性的でもあり、女性的もある

男性的でもないし、女性的でもない

草食系でもなく肉食系でもない

たぶん、バランスがとれているので接している人は安心するのだと思うのです。

菩薩様は、男でも女でもないのだそうです。

これからは善いも悪いもなくなってゆく

二元対立がなくなってゆく

男と女もなくなってゆく

中庸なものだけが残って

すべてが融合されてゆくのです。

それが本当の平和なのだと思います。

平和とは心の中が平穏なことをいうのだと思います。

  

2013年12月14日 (土)

12月14日のつぶやき(物質的なものと精神的なものとの調和)

  

つくづく 「バランスが大切だなぁ」 と思うのです。

と言いますのは、いくらお金があっても心が満たされていないと幸せを感じないからです。

一方、友達が多かったり、愛する人が周りにいたとしても、お金がなかったり、夏だったらクーラー、冬だったら暖房機などがなく食べるものも食べられず、行きたいところへも行けないようなみじめな状態だったら、達観した人は別としてそれも幸せとはいえないのです。

心の中がなにかぽっかりと空いていて、虚しさを感じたり、何をしても心の中にひっかかる気になることがあって楽しくないというのは、どちらかのバランスがとれていないときだと思うのです。

今読んでいる本の中にこんなことが書いてありました。

大金持ちになった若い青年がセミリタイアして、ハワイのリゾートホテルに滞在しているときに、プライベートビーチで最高の夕日を見ながらも、100%ハッピーでない自分に気づいたのだそうです。

「多くの人が夢に見るような瞬間(とき)を過ごしているはずなのに、どうしてハッピーじゃないんだろう?」

そのマインドの不幸感は、その後も影のようにまとわりつき、若者をじわじわと苦しめた。

そして

「自分が人や社会と何も分かち合っていかいから不幸なんだ」 と気づいたのだそうです。

物質的に満たされても、精神的には満たされていなかったんですね。

今、多くの人が悩み、苦しんでいるのは、物質的な悩みと精神的な悩みのどちらか、あるいは両方が大きくなってしまって、バランスが崩れているのだと思います。

私は、すべての叡智がつまっている宇宙とつながることで、まず精神的なものが満たされ、そして徐々に物質的なものが調ってくると思っています。

同時進行が本当はいいのですが(笑)

順番としてはやはり精神的なことが先なのです。

でも、物質的なものが整っていなくても、不安はないのです。

「なんとかなる、大丈夫」

という安心感がある。

私は、この

「パーフェクトなものとつながっているから絶対に大丈夫なんだ!」 という安心感が大切だと思うのです。


 

                
 



皆さんは、何を求めて毎日を過ごしておられるのですか。物質的なものですか、それとも精神的なものですか。

精神的なものであれ物質的なものであれ、肉体という物質的なものの中においてのみ精神的なものを求めてみても、皆さんの求めているものの全ては得られないと思います。

好きな家に住むこと、好きな服を着ること、好きな物を食べること、好きな時間に好きなことをすることで人は全て満足できるでしょうか。

ここで、物質的なものを物質波動と呼び、精神的なものを精神波動と呼ぶことにしましょう。

この物質波動と精神的な波動との調和によって、はじめて皆さんの望んでいるものが得られるのです。

さあー、これから調和波動気功法が皆さんを新しい世界へと導いてまいります。

心をリラックスさせて、宇宙の法則の中に感謝を込めてはいっていきましょう。 では、ご一緒に・・・・・・。

調和波動気功法は、中国古来より今日まで伝えられている二千数種類ともいわれる気功法の中の一つであり、その範囲を越えたものでもあります。

非常に奥の深いものであり、また一方、誰にでもできる簡単なものでもあります。

          

         「調和波動気功法」 于寿明 三晃書房


 

 

 

2013年12月13日 (金)

霊能力を持った人には気をつけましょう

 

 
私のブログを読んでくださっている人は、神様であるとか、霊であるとか宇宙であるとか、神秘的なことを書いているので、グッドムーンという奴は、きっと不思議な霊能力を持ったあやしいヤツなんだろう? と思っている人も少なからずおられると思います(笑)

しかし、残念ながら私は霊(神)もみえないし、幽界も霊界も神界という世界も垣間見たこともないのです。

人の心もみえないしわからない(推測は出来ますが)ごく普通の人間です。

ただ、目にはみえないけれど、神様はおられると思っていますし、守護霊守護神からも守られていると信じています。

その信じる度合いがみなさんよりもほんのちょっと強いだけだと思います。

そして、霊能力に対して興味もまったくありませんし、持ちたいとも思ってもみないのです。

そういう力があっては、そのことに振り回されてしんどいと思うからです。

普通でいいのです(笑)

だがしかし、目に見えない力(神の存在)があることを信じるのはいいのですが、霊能力を持った人を信じるのは大変危険だと思います。

人の心が読めたところで何になるでしょう?

当て物を当てるのがうまくて、万馬券を教えてもらって金持ちになったところで何になるでしょう?

医者が治せない病気を、幽界(低い世界、迷いの世界)の邪な力を使った人に一時期に治してもらったところで何になるでしょう?

病気になって、医者にも見放され、藁(わら)をもすがる人は

「近くにいい霊能者がいるよ、どんな難病も治してくれるよ」

と聞くと、普段そのようなあやしげなものは大嫌い信じないという人でも

「ダメ元で試してみるか」 と頼って、治ったような症状になると(根本的には治っていない)今度は信じ過ぎて(過信)

「あの人は素晴らしい人だ、凄い力を持っている」 と絶賛しマインドコントロールされることになるのです。

病気を治すのは、ほんとうの魂の親である守護霊守護神が望んだことでない限り、許可を
もらったことでない限りやってはいけないことなのです。

病気になるのは、守護霊守護神がその人の魂の成長を慮って、計画してなっている場合があるからです。

病気になることによって、今までの生き方を反省し、心を入れ替えることもあります。

暴飲暴食をやめて、体を大切にするようになることもあります。

それまで冷酷、冷徹だった人が、迷惑を掛けた家族に対して感謝の気持ちを持つようになり人が違ったように愛深い温厚な人に生まれ変わることもあります。

病気そのものが悪いものではないのです。

病気になるには必ず原因があるのです、意味があるのです。

それを神様(守護霊)の意図を邪魔をして、勝手なことをする・・・・

とんでもないことです。

本当に病気を治す霊能者とは、守護霊守護神と対話の出来る霊覚者でなければならないのです。

お釈迦さまやキリストさまのような聖者でなければ許されないことなのです。(聖者であっても病気を治すことはめったにしません)

それは、お釈迦さまやキリストさまは、神そのものだからです。

人間の生命は神様に委ねられているからです。

ですから、神と直接つながった霊覚者でなければ肉体人間の私たちは間違った方向へ導かれてしまうのです。

今は、スピリチュアルブームで神秘的なもの、不思議な力を持った人に魅かれ、興味を持つ人が多いのです。

しかし危険なものが非常に多い

危険なものだらけです。

人格が伴った霊能者であるのか?

高慢でないか?

お金への執着が強くないか?

色欲が強くないか?

感情的ではないか?

嫌な雰囲気を漂わせていないか?

目がうつろでないか?

「自分は神様から力を戴いた」 などと言っていないか?

観察力でおかしなものは見極めることが出来ます。


自分は騙されないと過信してはいけません。

頼ってはいけません。

それよりも何よりも怪しいものには近づかないことです。

そんなものに興味を持つということは現実逃避をしているのです。

そのためには霊能とはどういうものなのか?を知っておいてよいと思います。

そしてそのようなものに興味を持っている人、持ちそうな人にアドバイスをしてあげてください。



霊能はどういう状態になると現われるか

 
 

それでは一体霊能というのは、どういう状態になると現われてくるのか、ということについて説明しましょう。

人間はいつも私が説いておりますように、肉体の他に幽体とか霊体とか神体とかいう体をもっているのであります。

そして、人間の想念波動が、常にどの体の中に一番多くの時間を巡っているかということによって、その人の人格が定まり、運命が定まってくるのであります。

その人の想念波動が常に神体の中を巡っている人は、高い人格者であり、神人合一の境地のいわゆる霊覚者にもなり得るのです。

そこで私は、いつでも守護霊さん守護神さんに感謝を捧げつつ、世界平和の祈りをしていなさい、と教えているのです。

守護霊さんは霊界にいて、肉体界にまでその光の波動を伸ばしてきているのであり、守護神さんは神界にいて、光明波動を肉体人間の波動に合わせてきているのであります。

そうして肉体人間の業想念を常に常に浄めているのであります。

そこで、浄められ守られている肉体側では、いつでもそうした守護の神霊の加護に感謝の想いを向けていれば、その人の想念はいつも霊界神界に往っていて、肉体界に、神界霊界の光明波動を導き入れやすくなってくるわけです。

ですから、その人の人格は自然と高くなってくるし、その人の運命もよくなってくるのです。

霊能者といわれる人は、自己が意識するとかしないとにかかわらず、幽界の波動や霊界(霊界でも低いところ)の波動を受けやすい肉体に生まれついているのであります。

そして、自己の霊能に気づきはじめますと、今度は、その想念そのものも、幽界や霊界にむかうことが多くなり、本格的に霊能者となってくるわけなのです。

そうした霊能があると気づいた場合には、いち早く、真の秀れた宗教者のところへ行って、自己の想念波動が、常に神霊の世界のみに集中されてゆくような指導を受けることが必要なのです。

一般の人の見えぬ世界が見えたり、運命の予見ができたり、病気を治すことができたりすることだけで、自分の人格が立派になったように思ったり、神様が自分にのりうつったように思って、高慢になったりする霊能者は、いつかは自分をも人をも傷つけ損ねてしまうのです。

一人の人間が生きているということだけでも神様の力が働いていることは事実なのですが、そういう意味でなく、神様が特別に自分に力を与えている、特別に神様の愛を得ている、ということを、単に霊能力があるということだけで思ってしまうことは実に危険なことなのです。

霊能力のあるということが、即、神様の力ということではありません。

霊能力があるということは、その人の肉体波動が幽質に近いので、幽界や霊界(の低いところ)の波動を受けやすい、ということなのであります。

幽界や霊界の波動の中には、人間各自の過去世の意識層(想念波動)や未来に起こってくる運命の波動もあるのであります。

そうした種々の波動を、自己のもつ幽質的機関がキャッチすることのできるのが霊能力となるのです。

そうした人々にはその背後には肉体界と幽界或いは霊界との交流を計ることを役目としている霊魂(人)や、単にそうしたことに興味を持っている霊魂(人)がおりまして、その交流を助けているのであります。

そうした背後の霊人の住んでいる世界の高低によって、その霊能者の人格の高さが定まってくるのであります。

これを逆にいえば、霊能者の人格の高低によって、その背後に働く霊人の高低が定まってくる、ともいえるのです。

ですから、霊能者が、その霊能力を誇りに思うだけでなく、常に人格の練磨に心掛け、常に神霊界へ自己の想念波動を向けているようにすれば、霊覚者にまでなり得ることもできるのです。

ところが巷間の霊能者と称する人には、人格的には問題のあるような人が多くて、高慢そのものであったり、怒りっぽかったり、心が狭かったり、物質欲や権力欲が旺盛であったり、女色に溺れやすかったり、というような、普通人よりも低い行為をみせる人が意外な程多いのです。

 

      「神は沈黙していない」 五井昌久 白光出版



 
  

12月13日のつぶやき(仕事、商売の基本は奉仕の精神)

 

25歳にして、ベンチャー企業を上場に立ちあげた人のことを先日テレビで紹介していました。
学生時代に起業してあっという間に大企業になった。

その会社(ジョブセンスというのだそうです)はネットによる就職情報サイトで、普通は企業やお店から掲載料を取っているのですが、この掲載料を無料にし、めでたく採用が決まったら成功報酬として手数料をもらう、たとえばこの手数料が2万円だったら、このうちの一万円を採用者にお祝い金として一万円を渡し、残りの一万円を会社の利益としたのだそうです。

まさしくみんなが喜ぶシステムを考え出したこの社長の中には、みんなに喜んでもらいたいという思いだけがあったのです。

採用者が決まらないのに掲載料を払わなければならない、決まらなければストレスが溜まります。

採用者もおこずかいが欲しいです(笑) スーツをクリーニングに出したり交通費を払ったり(くれるところもありますが)、履歴書も買わなければならない、結構お金がかかっています。

そこでお祝い金をもらえたらどんなに嬉しいことか、この人がどこかの会社の社長、経営者となったのなら、きっとこのサイトを利用すると思うのです。

みんなが喜んでから、それから自分の報酬を戴く

まさしく奉仕の精神!

お金は後からついてくる

こんな素晴らしいマインドを持った若き社長がこれからの日本を支えて行くのだと思います。

 

2013年12月12日 (木)

人間とは肉体人間だけではないのです。

 

最近、人間とは目にみえる肉体人間だけではないということばかりを取り上げて書いているのですが、みなさんも 「またか」 と呆れておられると思います(笑)

しかし、ここが一番大切なところでありまして、自分というものを 素晴らしい! と思うのか つまらない存在と思ってしまうのでは大変な誤解、違いがあるからです。

目の前に現われている自分や他人は確かにたいしたことはありません。

他人批判や自己批判をしてしまいます。

それが世の中がおかしくなっている、争っている最大の原因なのです。

下記にも書いていますように、人間とはそんな薄っぺらなクズのような存在ではないのです。

肉体の奥深いところにいる本当の人間は、神性そのもの神そのもの、愛そのもの、パーフェクトな存在なのです。

しかし今は、その神性が業を被って現われていないだけです。

それがわからないのは、目にみえている人間の姿しか見ていないからです。

その奥の素晴らしい自分を知らないからです。

なんともったいないことか と思います。

頭も肉体の頭しかつかっていない

本当の頭とは腹脳と言って、へその下3.5センチのところにある下丹田(かたんでん)にあります。

そこから後ろが宇宙(本心)とつながっているのです。(宇宙は上にあるだけではありません)

お釈迦さまは、坐禅観法で弟子たちに意識を下丹田に集中させました。

そこに本当の頭(心、本心)があるからです。

肉体の頭で考えることは、限度があるのです。

この混乱した肉体界と幽界、霊界、神界が交ざった複雑な世界を歩いてゆくには、肉体の頭だけではとても無理なのです。

霊界、神界にいる守護霊守護神の力を借りないととてもまともに生きてはいけないのです。

そのためには一刻も早く、真理を知ることです。

自分は何者であるか?

肉体界以外にはどんな世界があって、本当の自分はどこにいるのか?

肉体を去ったら、魂はどこに行くのか?

真理はたくさんありますが

まずは、自分の住んでいる肉体界がどんな世界でどういう位置づけにあるのか?を知ることが大切だと思うのです。



 



これをしよう、あれをしようと考えつつするのではない、ということは、この肉体の頭脳智に頼って為すことは、することが小さくて、たいして人の役に立つことはできない、ということなのです。

何故かと申しますと、肉体人間というものは、只単なる先端の現われであって、人そのものではないということなのです。

人の生命というものは、肉体身を先端として、奥深くずうーとつながっているものであって、その一番深いところは、宇宙神のみ心の中なのであります。

ですから、肉体身として現われている、一番粗い波動の現われ、一番速度の遅い波動の現われだけを自己そのものと思っていますと、その自己だけに想念が集中していますので、その粗い波動、スピードの遅い、遅鈍な在り方の中で、その範囲、その中だけの知識や智慧で思慮分別して、自分の生き方や人の生き方を判断するわけですから、どうせたいしたことができるはずがありません。

小さな、こせこせした生き方や考え方しかできないのは理の当然です。

それは丁度、世界というものの全体を知らない未開の国の人が、その国のしかも山奥の小さな土地だけの生活より知らないでいて、それだけをすべてとして他を顧(かえり)みないでいるとしたら、その人の知能程度は非常に低いものであることは当たり前のことです。

真の人の姿というものは、肉体身だけを人とみているような、そうした低い段階のものではなく、自由自在心をもつ生命そのものの存在者なのです。


 

     「老子講義」 五井昌久 白光出版

  

これから人は感動したことにしか大切なお金を遣わなくなるのです。

 

これだけ物が溢れて十分行き渡っているのに、「もっとお金を使え」 「使わないから景気が回復しないんだ」 と言われても日本人の気質からいって、そう簡単に消費できないのです。

車なども長年乗っていれば愛着が湧いてきます。

売っている人が 「お車」 と言ったり 自分でも 「愛車」 というくらいだから飼っている犬のようにかわいくなっていくのです。

モデルが替わったとか、燃費のいい車が出たとしても、長年乗ってお世話になった愛車をそうやすやすとは捨てられないのです。

日本人は元々物を大事にする国民です。

その大事な車を買う時も縁を大切にします。


「どこよりも安くします」と言われても

「以前買った時にお世話になったから」

「親身になって相談に乗ってくれたから」

「事故を起こした時に、保険屋さんよりも先に現場に駆けつけてくれたから」

と恩を大切にするのです。

物を大切にするのも、縁を大事にするのも、そこには愛や感動があるからです。

そのときにやさしさや愛情を感じた、感動したということがあるから

その代わりにお金を払うのです。

愛とお金の物々交換です。(愛は物ではありませんが)

愛という目にみえないエネルギーとお金という目に見えるエネルギーとの交換です。

人は目にみえない愛のこもったエネルギーが大好きなのです。

だからこれからは、愛のある人、思い遣りのある人、感動を与えられる人がお金持ちになってゆく時代になると思います。

 

私は、今ある多くの仕事やビジネスは、サービス業にシフトしていくと考えています。

仕事やビジネスは、つきつめて考えると、人と人の関わりです。

そこでは、単に物が受け渡されるのではなく、 「あなたに感動を感じてほしい」 とか 「あなたに最高の気分を味わってほしい」 などの、様々な想いも一緒に受け渡されているのです。

人は、その想いを味わった結果、お金を払います。

物が溢れるようになった今の時代では、ますます、この想いの部分が重要になってくることは間違いないでしょう。



        

      「大好きなことをしてお金持ちになる」 本田 健 フォレスト出版




 



 

12月12日のつぶやき(気を静める)



「1000人の人にパンを配るよりほんの一瞬でいいから冷静でいなさい」

これはイエス・キリストの有名なお言葉なのですが、その頃の時代(中世ヨーロッパ)は気の荒い、すぐに感情的になる人がかなり多かったのだと思います。

この世的に観ると、飢えた人々に食べ物を与えている人は、善い人であり静かにして何もしない人などは、評価も何もないのですが、神さまの立場からいうと冷静な人というのは、ほんとに有り難い得難い人だったのだと思うのです。

キリストは、人間の目に見える姿など問題にしていない、心の中をみているのです。

たくさんの人の中で、たった一人でも冷静な人がいるとそのエネルギーは側にいる人たちに好影響を与えるのです。

いつもは血の気の多い乱暴な人が

「 いつもの俺だったら腹が立って殴りかかっていくところなのになぜか血が騒がないんだよなぁ」

「なにをみんなあんなに騒いでいるのだろう? 感情的になっておかしいよね」

と人が変わったようになるのです。

それくらい冷静な人の影響力は大きいのです。

 

ところで私たちは、無意識でいるといつも気が上がっているのです。

感情的になりやすくなっている

意識が頭に行っている

怒ってる人を

「頭に血が昇っている」と言います。

頭で物を考えるのだからそれでいいのだと普通は思うのですが

肉体人間の頭という場所は、いろんな想いが交差しているところなのです。

想いというのは相手の心と書くように、人の思いなのです。

人が思ったことが、さも自分が思ったことのように移って来る

隣に座っている人が考えていることが自分に移って来るのです。

それ以外にも縁のある人の想い、たくさんの人の想い、日本国民の想い、世界中の人の想い、それに加えて、ひそんでいる潜在意識も浮かんできます。

だから頭というのは、いろんな人の想いが交差しているスクランブル状態なのです。

いろんな想いが湧いてきます、想いが駆け巡っているのです。

そして、自分の本心なのか、人の想いなのかがわからなくなっているのです。

そこでお釈迦さまは、自分の本心と業想念をはっきりと分けるために坐禅観法させたのです。

でも私たちは、そんなことをやっている暇もないし時間もない

ではどうすればいいか?

上がっている気(意識)を下げればいいのです。

調和波動気功法では、立っているときは足の裏、坐っているときはお尻の肛門を意識するようにしています。(椅子に座っているときも肛門でいいです)

わかりやすく言うと、足の裏とお尻の肛門に頭があると思えばいいのです。

足の裏、お尻の肛門は、体の最下点で、気も下がるし意識がしやすい場所なのです。

最下点を意識しているとなぜか余計なことを考えなくなります。

頭に意識がないので人の想いを受けないからです。

そして頭がすっきりしてくる

いかにいつも余計な想いが移って来ていたかがわかるのです。

人の想いのほとんどが感情です。

だから感情を受けなくなるので冷静になれる

冷静になれると本心とつながりやすくなるので

素晴らしいインスピレーション(直観、アイデア)も受けやすくなるのです。


意識を下げると

冷静になれる

冷静になると

平常心、不動心になる

正しい判断ができるようになる

いい考えも浮かんで来る

そしてまわりの人も落ち着いてくる


それに世界平和の祈りを加えれば、完璧ですね!(宇宙(本心)とつながるからです)

みなさんも是非やってみてください!



世界人類が平和でありますように

日本が平和でありますように

私たちの天命がまっとうされますように

守護霊さまありがとうございます

守護神さまありがとうございます

 





 

2013年12月11日 (水)

人間とは実に神秘的なのです

  

夢はなぜみるのかといいますと、実はみているのではなく、みせられているのだそうです。

実は私は今朝方、車を運転していて、人を轢いてしまった夢をみたのです。

ハッとして目が覚めたのですが、そのとき感じたのは

「ああよかった現実でなくて、これは多分夢で消してもらっていなければ本当に起きていただろう」

だったのです。

そして、消していただいたから(守護霊守護神によって)と安心するのではなく、警告と受け取り、運転には十分気をつけようと思ったのでした。

だから夢をみたのではなく、みせられたのであります。

夢をみているときの人間は、肉体から意識が離れ幽界、霊界、神界へと行っているそうです。

そしてそれらの世界で働いている、寝ている間にも魂は働いていて、起きると肉体に意識が戻ってくる。

しかし起きたからといって、魂(生命)は肉体だけにあるのではなく、やっぱり幽界にも霊界にも神界にもいるのです。

だけど、私たちは肉体界だけしかないと思っているから、他の世界のことがほとんどわかっていないのです。

私は、これから大事なこととは、私たち人間は、肉体だけではない、肉体界だけに生きているのではない、幽体、霊体、神体という体があるんだ、幽界、霊界、神界という世界があるんだ、本当の自分は神界にいて、そこから霊界、幽界を経て、肉体界に移って来ているんだ、ということをハッキリと知らなければいけない時期に来ていると思うのです。

もちろん3次元的なことも大切です。

仕事のこと、家庭のこと、人間関係のこと、お金のこと・・・・・・

しかしこれら目にみえることは、目にみえない世界の影絵なのです。

目にみえないものが見えるという形になって現われているのです。

みえないものが主で、見えるものが従なのです。

だから目にみえない世界が整えば、自然と見える世界は自然と整ってくるのです。

だから、目にみえない世界、本当の世界、未来永劫に消えない世界のことを知らなければならないのです。

目に見える世界だけを知ったところで、それは幻をみているようなものです。

消えてゆく泡をみているようなものです。

目に見えるものはすべて消えてゆきます。(肉体もあらゆる物質も)

今まで私たちは、目に見えるものだけを信じてきた

目に見えるものだけが実在しているもの、本物だと思ってきた

しかし、それは違うのです。

目にみえるものだけをみていたら必ずゆき詰まります。

説明がつかなくなる

わけがわからなくなる

それは宇宙全体のほんの一部を見ているにすぎないからです。

しかし、下記の文章にあるように

人間を形と考えないで、波動体、意志、意識、想念であると考えるとすべてのつじつまが合ってくるのです。

先に意志(心)があって、肉体があることがわかります。

意志がなければ肉体は動かないからです。

ちょっと難しいですか?(笑)

でも、とても大切なことだと思うのです。

 







人間は肉体だけのものではない

 
 

人間は神の分生命であり、太陽のような光そのものなのであります。

その光のエネルギー波動が、様々な階層をつくりなしていったのであり、その世界は神界と呼ばれる界もあり、霊界と呼ばれる世界もあり、幽界という波動の世界もあるのです。

そして、皆さんご存知のこの肉体界があるのです。

ですから、私共は肉体の世界に住んでいると同時に霊界にも神界にも住んでいることのなるのであります。

人間を形と考えないで、意志であり、意識であり、想念であると考えてみてください。

肉体自身は、意志をもち想念波動によって、動かされてゆくことは事実でありまして、意志も想念も無く、活動するということはありません。

人間はあくまで生命そのものであり、生命の働きが光の波になり、想念の波動となって、形の世界や運命をつくってゆくのであって、肉体はあくまで、光の波や想念波動によってつくられたものなのです。

それをどう間違えたか、肉体が人間だと思うようになってしまったのです。

    「神は沈黙していない」 五井昌久 白光出版

 

今年最後の調和波動気功法セミナーのお知らせ

 

最近、つくづく思うのは、感情を喜ばすことは、本当の幸せにはつながらないということです。

その瞬間瞬間、いっときの感情を喜ばせたところでなんになるでしょう?

感情とは、人間のほんのごく一部にすぎないのです。

先っぽの先端であり本質ではない、生命の琴線、生命の源に触れるものではないのです。

だから

あとには、虚しさが残るだけです。

心の中にぽっかりと穴が空くだけなのです。

そうではなく本当の幸せとは、魂、心が震えるような感動があることではないでしょうか?

いつも感動している、いつも感謝している・・・・・

そういう人は、永遠の幸せを手に入れている人です。

私は、毎月行なわれている調和波動気功法のセミナーに参加すると

このような心境になるのです。

「調和波動気功をやっていてよかった」

「ここに参加出来てよかった」

それは魂が喜んでいることに違いありません。

みなさんも是非、魂の高揚感を味わってください。

幸せになって 

「終わり良ければすべて良し」 で

この一年を終えてください(笑)



 

      『水の会』
 

開催日時: 2013年12月29日(日)

食事      12:00 ~ 13:30

于先生講演  14:00 ~ 16:00

開催場所: 中国料理 大成閣 (大阪市中央区東心斎橋)

※詳細は開催場所ページにてご確認ください

会   費: 8,000円

申込方法: 電話にてご連絡の上、3日前までにお振り込みください。

参加ご希望の方は、グッドムーン(篠崎 朗)までご連絡ください。

詳細をお伝えします。

携帯 080-1444-0018


 

調和波動気功法

http://www.harmony-wave.jp/


あなたを幸せに導く オーラ・オーラ
   
http://auraaura7.com/




 

      

12月11日のつぶやき(ストレス対処法)

 

これからご紹介するストレス対処法は、私が以前読んだ本(スマートノート 岡田斗司夫著 文藝春秋)に書いていたことと似ているのですが、すぐに実践出来て、すぐに結果がわかり、すぐにスッキリさわやかになるメソッドなので、みなさんも是非、やってみてください。

方法は簡単です。

何も書いていない紙を適当な大きさ(150字くらいは書けるくらいの)に切って


1.今できること

2.将来できること 

3.できないこと 


*自分の今やりたいこと、絶対にやりたくないことを2つに分けても面白いです、意外な発見があります。


を書いていく(何枚書いてもかまいません)

そして、机の上に種類別に3つに分けて、置くのです。


それから3.のできないことから読んでみる


そしてできないことは今、考えてもしかたのないことなのだから、考えるのをやめるのです。そして絶対に無理だと思うものは、キッパリ諦め、後の分はしばらく時間をおいて考えようにするのです。

となると、今できることと、将来できることに絞られてくる

今できることをやっていれば、将来できることも近づいてくるのです。

悩みというのは、頭の中で 1~3が “ジャグリング” しているのです。

つまり頭の中でシェイクされている、回っている、こんがらがっている、絡み合っている、組み合わさっている

だから3が30にもなり60にもなっている・・・・・

考えること、悩みがたくさんあると思い込んでいるのです。

ほんとうは3種類しかない、しかもそのうちの1つは今、考えてもしかたがないこと、時間が経たないと解決しないことなのです。

あとの2つは、今できることから実行していけば解決されていく

紙に書き出すだけで頭の中が客観視できるのです。

問題点がハッキリと浮き彫りになる

それもプラス面だけが残ることになるのです。(出来ないと書いた紙は捨ててしまいましょう)



ストレスへの対処法

 


私自身、ストレスは 「発散するもの」 ではなく 「克服するもの」 だと思っています。

私の克服の仕方は、「できること」 と 「できないこと」 を紙に書いていき、明確に分けるということです。

できそうなこと、またはそれに近づいていけそうなことは順次手を打っていけばいいですし、できないことは諦めるよりほかありません。

これは考えても仕方のないことです。 この両者を頭の中で混在させていると、できないことまで考えなくてはいけません。

ストレスとは、何かをしたいという願いが強すぎること、また、要求されていることに少しでも近づこうと考えすぎることで生み出されるに思います。

ですから、「できること」 と 「できないこと」 を明確に分けてください。

また、 「今できること」 と 「将来できること」 も分けるのです。 

そして、「今できること」 からひとつずつ実行していき、今できないことは、しばらく時間をおくか、場合によっては諦めることも必要です。

このように、自分のこと、家庭のこと、仕事のことなどカテゴリー別に整理していくのです。

けっして 「レベルを低くしろ」 「夢を持つな」 と言っているのではありません。

夢は夢として持ち続け、それに一歩でも近づくように努力して、あるレベルまではやる。

しかし、今はそのレベルまで到達できずとも悩まない。 こういう形で物事を進めていくのが、ストレスを克服するために大切なことだと、私はそう思って実践しています。



  

     
「タニタはこうして世界一になった」 谷田 大輔 講談社



 

2013年12月10日 (火)

12月10日のつぶやき(肩の力を抜け2)

 

あきらめるとあきらかになる
 

リラックスというのは、意識が集中し過ぎている肉体(頭)から意識を外すということです。

肉体(頭)から、意識を外すことがリラックスなのです。

先ほど書きましたように、リラックスしないと力を抜かないと本来の力も出て来ないし、本当の自然体になれないのです。

会議などで

「なにかよいアイデア、考えはありませんか?」  と聞かれて一生懸命に頭をひねってもよい考えは浮かんできません。

それは、肉体の頭しか使えていないからです。

霊界、神界にある自分のボディの霊体、神体が使えていない

なんともったいないことでしょう

神体の力が1000とすると肉体の頭の力(智慧)は1くらいのものです。


話を元に戻しますね(笑)

会議が終わって、議長の人が

「今日は、よい意見が聞かれませんでした、明日までに考えてレポートを提出してください」

と言われて家に帰り

会議のことなど忘れてお風呂に入ってリラックスしていると

「あ、そうだ ヒラメイタ!」 ということがあります。 flair

これは肉体(頭)から意識が外れて、神界(本心)とつながったからです。

本当の意味でのリラックスは、肩の力を抜くだけではダメなのです。

肉体と精神がほぐれてはじめてリラックス出来るのです。

だから

意識的に肉体から意識を外すことをしなければならない

会議での議題のこと、心配していること、忘れられないこと、解決していないこと、人間関係のこと、家族のこと・・・・・気になっているありとあらゆる考え事から意識を外す

考えないようにする・・・・・把われている執着から意識を外すのです。

大切なのは


「考えてもダメなんだ、肉体人間の頭ではほとんど解決しないんだ」

と気づくことです。

割り切ることです。

頭で考えて解決しているのならすべては解決しているはずです。

肉体の頭では答が出ないから智慧が出ないから悩んでいるのです、苦しんでいるのです。

だったらもっと賢い、素晴らしい叡智を持っている、神体の自分に考えてもらえばいい(笑)

もし、誰かに何かで訴えられて法律的なことで困ったことがあると

専門家(賢い弁護士さん)に相談するするでしょ

ちんぷんかんぷんの自分の頭で考えてもしかたがないのです。

もちろんすべてを神体の自分に頼れと言っているのではありません。

頭で考えて解決することは、考えてもいいのです。

だがしかし、ロクな考えしか湧いてきません(笑)

それは肉体の頭からは微々たる知恵しか湧いてこないからです。
 

考え事、心配事から意識を外すのにいい方法があります。

あきらめてしまえばいいのです。

「自分(肉体人間の)では無理だ、あきらめよう!」

と一旦、問題点から意識を外すのです

あきらめると、問題点から意識が外れるのです

頭(肉体)から放れるのです

そして、問題点は天に上がって、本心とつながる

本心とつながった問題点は賢い自分(本心)によって即、解決される

そして肉体の自分に還って来るんです。

だから

あきらめるとあきらかになるのです。

「人間あきらめが肝心だ!」

とはそういうことです。

諦めない(執着を外さないと)と明らかにならないからです。

心が自由自在にならないからです。

解決しないからです。

肉体人間のおバカな自分に頼るのではなく

神体人間の賢い自分に頼るのです。
 



肩の力を抜く (肉体的解決)

あきらめる (精神的開放)

すべてを天にゆだねる、祈る (成就)




世界平和の祈りを祈ると小我の自分が天に昇って大我の自分になって肉体に戻ってくるのです。






世界人類が平和でありますように

日本が平和でありますように

私たちの天命がまっとうされますように

守護霊さまありがとうございます

守護神さまありがとうございます





 

 

 

12月10日のつぶやき(肩の力を抜け)

   

緊張をして力むのと、リラックスするのとでは、リラックスすることの方がずっとずっとむずかしいのです。

緊張は、無意識に一瞬にしてなるけれど、リラックスするのは、意識的に気を鎮める努力(行為)をしなければ出来ないからです。

物事を一生懸命にすることはとても大切なことなのですが、力が入り過ぎて力んでやっていては、自分の中にある本来の素晴らしい力は発揮出来ないのです。

一生懸命にして効果が出るのは、リラックスして、集中して、一生懸命にしたとき なのです。

なぜ力んではいけないかといいますと

力むということは、肉体の限られた力しか出ないということです。

いつも申しておりますように、人間は肉体と同時に幽体、霊体、神体というボディを纏っています。

でも自分は肉体人間だけが自分だと思っているので肉体のパワーしか使えていないのです。

せっかく神体(宇宙大)や霊体いう大きな力があるのに、その先っぽの微々たる力しか使っていないのです。

リラックスをして肩(肉体)の力を抜くと肉体から意識が離れて、幽体、霊体、神体へと移っていきます。

大きくなっていきます。

すると幽界霊界神界の力が出てくるのです。

本当の自分は神界(天界)にいる

だから天界にいる本当の自分の力を降ろせた人を 天才というのです。

一流のスポーツ選手と三流のスポーツ選手の違いは、一流はリラックスすることが上手なのです。

余分な力を抜くから、いざというときに力を集中させることが出来る

だから試合直前の彼らは、びっくりするほどリラックスしています。

他の選手(三流)が一生懸命に、ボールを蹴っているときに、ストレッチをして身体をほぐしている。

イチローなどは、リラックス(力を抜く)の天才ですね(笑)

私たちは、つい力んでしまいます。

「なんとかしなくちゃ」

「うまくしゃべらなきゃ」

「良いところをみせなきゃ」

それも肉体の力だけでやろうとするので、力んでくるのです。

肉体の頭だけで考えてやろうとするので頭が固くなってくるのです(笑)

頭が凝ると、脳梗塞になってしまうので、その代わりにその横にある肩が凝ってくる

だから考えすぎると肩が凝ってくるのです。

力を抜け!と言われてもどこを抜いていいかわかりません。

どこに力が入っているかわからないからです。

そこで肩の力を抜けと言われたら肩に意識がいくので

抜きやすいのです。

上がっている両肩を降ろしてなで肩にしてやるだけでもいいのです。(坂本龍馬の写真を見るとびっくりするくらいなで肩なのがわかります)

その際に息を吐きながら降ろしてゆくと効果的です。

肩の力を抜く、リラックスすること

そして考え過ぎないこと

少し長くなったのでつづきは、あとの日記に書いていきます。




  

 

2013年12月 9日 (月)

12月9日のつぶやき(身体を冷やすな)

  
 

最近、特にわかってきたことなのですが(自分の中で)、人間は身体を冷やすのはよくないのです。

人間には基礎体温というのがあって、個人差がありますが、その体温を維持することが健康の秘訣なのです。

暑いときは、体温が上がり過ぎるので、汗を出して調整しようとする、寒いときは、血管を収縮させて血液の流れを早くして体温を上げようとするのです。

しかし夏はクーラーのかかり過ぎで体温が下がり過ぎることがあります。ほどよい冷えだったら基礎体温を維持できるのですが、冷えすぎて限度を越えると血液の流れが悪くなり、滞ってきます。

そして、身体が固まって氷のようになってしまう。

人間の身体の約70%が水だから当然といえば当然なのです。

エネルギー(生命力)というのは血管の中を流れる血のことです。

血管の中をエネルギーは流れるのです。

ストレスが(心配事)あるとこの血流に石を置くようなものなので、流れが滞って、病気になるのです。

気が病んだ状態です。

気=エネルギー=血流 なのです。

だから血が滞ることなくスムーズに流れている状態が健康体です。

病気のほとんどが血流によるものです。

血の流れが遅くなることによってそこに水溜まりが出来る血が淀んでくる、そして細胞が正常に働かないようになり、腫瘍が出来る。

反対に血の流れが良ければ、水がサラサラ流れている川の状態と同じなので病気になることはないのです。

だから病気の原因というのは、ストレス(精神的なもの)と血流の悪さなのです。

ストレスは心の持ちようで解決するとして(ここでは書き切れません)、身体だけでもストレスを与えない、負担をかけないようにしてあげなければなりません。

でないと心と身体の両方が悲鳴をあげてしまう。

私は、体温をさげることが身体に非常に負担をかけることだと思っています。

先ほど書きましたように、身体が固まってしまう、頑(かたく)なになってしまう

血流が悪くなるので新陳代謝(細胞の入れ替え)がスムーズにいかなくなる

抵抗力が無くなる、よって風邪などをひきやすくなる

風邪のひき始めに、葛根湯がよいと言われているのは、生姜などが入っていて身体を温めるからです。

身体を温める→抵抗力が高まる→予防が出来る

ですから出来るだけ、身体を暖かくして、冷えないようにすることが大切なのです。

そのためには、冷たいものを食べない、飲まないことも大切です。

水分を摂るときも氷を入れて飲むのではなく、生ぬるいくらいがいい

身体が冷え切っているときに誰も冷たいビールを飲みたいとは思わないでしょう。

それは、寒さでブルブル震えている愛犬を、氷が張った湖に投げ込むようなものです。

自殺行為です。(だからスポーツクラブなどのプールに暖をとらなくていきなり飛び込むのも非常に危険なのだそうです)

寒中水泳などは、身体の芯を十分に暖めた上で行なっているのです。

これからますます寒くなっていきます。

寒くなると身体が縮こまります、固くなります、身体が固くなると心まで頑なに(頑固)なってしまう。(心と身体はつながっているのです)

イライラして感情的にもなりやすくなるのです。

身体を伸びやかにしてあげましょう、自由自在にしてあげましょう

そのためには身体を冷やさないようにしましょう。




  

 

2013年12月 8日 (日)

謙虚であることが一番なのです。

 

 
真理の本を読んだりしてると今までにわからなかったことがわかったり(すぐに又わからなくなるのですが)して自分が賢くなったような錯覚に陥ることがあるのです。

そして生意気にも、テレビで評論家の人などが言っていることが違うんだよなあ、ピントがずれているんだよなぁと批判してしまうことがあるのです。

しかしそのような心境になっている自分というのは、決して善い状態(まともな)ではなく、邪な歪んだマイナスのエネルギーの渦の中に巻き込まれているのです。

そしてなにか自分自身が嫌な奴で、嫌なエネルギーを放っているのを感じるのです。(モヤモヤしたような感覚)

人と接していると、この生意気な自分がつい、出そうになりそうになるのです。

「あっそれ知ってる、それ違ってる、正しいことを伝えなくちゃ」 自分の中にある自我が顔を出そうとします。

そのままの自分(自我)を出していたとするのなら、それは凄く嫌な奴です(笑)。

聞かれてもいないことを唾を飛ばしながら得々としゃべっている。

得々としゃべった後では

知らないことでも知っているような顔をしないと今更カッコがつかなくなる。

そのうち自分で自分を騙すようになってゆく・・・・

日頃から真理のことを書いていると、つい書き過ぎてしまったり、自分でしっかりと把握出来ていないことも、調子に乗って憶測で書いてしまいそうになります。

そんなことをしても、ブログ(インターネット)もエネルギー(波動)なので、読み手の人には伝わらないのです。

不思議なもので私が理解している歩合でしか、みなさんには伝わらない。

私が100%理解して書いたことならば、かなりの割合で伝わり、真理の言葉を書き写しただけの30%しか理解していない文章なら、どれだけ素晴らしい文章でも読み手の人は、何が書いてあるかわからないつまらない内容になってしまう。

つくづく、波動(エネルギー)だなぁすべてはエネルギーだなぁと思うのです。

人と接する時も特に注意が必要です。

人よりも少し知っているだけでほとんどわかっているような態度(見栄を張る)は相手の人には、わかってしまうのです。

それはその人が出しているエネルギー(波動)でわかるのです。

これからは、目に見える姿、形(見た目)よりも、言っている言葉や内容よりも、醸し出すエネルギーで判断される時代がやってきます。

みんな目に見えないエネルギーがわかるようになってくるからです。

だからいつも謙虚であることが大切ですよね。

私も下記に書いてあるような上等な人になりたい(笑)と思っています。

 
 






知りて知らずとするは、上なり。 知らずして知れりとするは、病なり。 夫れ唯病を病む。是を以て病あらず。 聖人は病あらず。 其の病を病むを以て、是を以て病あらず。

 

知りて知らずとするは、上なり。 知っていることでも知らないような態度で、人々に接するにことはなかなかむずかしいことです。

知っていることは、ひょっとした時につい言葉に出てしまったり、その態度に現われてしまうものなのですが、上等な立派な人という者は、学問も見識を高いものをもっていながら、人々の話をよく聞き、人々のやっていることに少しの口出しもせず、真面目な態度で見ていて、当然自分の方がその話の内容もその仕事の事柄も、大きくは宇宙観についても、話している人や、仕事をしている人たちよりも、ずっとよく判っていながらも、判らないような態度で、素直にまともに、その人々に接している、というのであります。

これはできそうでできにくいことです。 知っている事柄には、つい口出ししたくなるのが人情でして、つい自分の見識をみせてしまいがちです。

それを素直に真面目に聴聞したり見聞したりしていて、その態度の中に、私は知っているのだが黙っているのだ、というような偉ぶった態度を少しも持たぬ、というのが上等な立派な人であるわけなのです。

その反対に

知らずして知れりとするは、病なり。 の人がこの世にはたくさん存在するわけです。

俗にいう知ったかぶり、のことですが、これは一つの病気であり、欠点である、というのであります。

ところがこの世の中では知らないことでも知ったようなふりをして、得々と演説してまわるような人が、意外に地位や権力や、金力を得てしまうようなことが多く、知ったことでも知らないように、自己を現わさない、いわゆる立派な人の方が有名にならないでいたりするのです。

政界に乗り出そうとするような人には、知らずして知れり、とする人が多いのでありまして、自分が出さえすれば、必ず政治が善くなるようあなことを言う人も随分あります。

こういう人は、一つ知っていることをあたかも十も二十も知っているように話したり、知らぬことでも決して知らぬとは言わずに、知ったような顔をして頷いたりするものです。見る人から見ればすぐに判ることなのですが、一般の人々は、こういう、いわゆるハッタリの人をやれる人とか偉い人とか思ってしまって、代議士に選んだりしてしまうのです。

人間というものはおもしろいもので、自分で知ったような判ったようなことを言いつづけているうちに、自分自身も騙してしまいまして、事実はたいして判っていないのに、もう深くわかってしまったように、自分自身も思いこんでしまうのです。

そうするとそれで自信がつきまして、自分は深い洞察力があり、実行力もある人物であると、自分に信頼感を抱いてくるのです。

そう致しますと、その態度に自信からくる落ち着きというようなものが備わってきまして、堂々たる人物らしくなってくるのであります。

ところが真実は、そう智慧も知識をあるわけではなく、自己欺瞞からきた自信なのですから、一寸むずかしい問題にぶつかってきますと、心が乱れてきまして、その本質がはっきり表面に出てきてしまうのです。

こういうような、自己欺瞞とその時々の運勢とに乗って世に出た人たちは、やがては必ず地に落ちる運命になってしまいまして、老後は悲惨な生活になってしまったりするのであります。

ですから老子は、知らずして知れりとは、心の病気だ、大きな欠点だというのです。

 

  

              
「老子講義」 五井昌久 白光出版




 

 

12月8日のつぶやき(足ることを知る者は富めり)


 
 
足るを知る は老子のあまりにも有名な格言なのですが、幸せであるか不幸であるかは、自分がどのような心境、境地にあるかで決まるのだと最近つくづく思うのです。

私事ですが、私はほとんど貯蓄も無く、老後の備えなど何もしておらず、なにか突発的にお金が要り用になったらどうするんだ? という経済状況なのですが(笑)

困った時にはいつもなんとかなっており、必要なお金はなぜか計ったかのように目の前に現われるのです。

この平然としていられる心境になったのは、調和波動気功に出会ってからであり、それまではいつもなにかの不安に付きまとわれていました。

そして


またまたわたくしごとですが、昨日は、中学時代の同期会の打ち合わせがあり、十数名の同期生が集まったのですが、縁のある人たちとの交流は私にとって至福の時間であり、それこそお金に代えられないのであります。

同じ時期、同じ学校に通っていたというのは、天文学的にも奇跡であり、中には親兄弟よりも縁が深い人がいるのだそうです。

縁があって同じ環境になった(同じ学校・学年)、しかしその当時は、縁の強さ、深さなど知るよしもなく、離れ離れになって、40年近くが経過して、再度再会した。

魂が喜ぶのは当然なのです。

私の携帯には、中学・高校の同期生の友達のアドレスで一杯です。

ほぼ毎日、そのうちの誰かとメールをし、会話をしています。

お金は無くとも、私の心は友達という宝で満たされているのです。

お金がたくさんあったとしても、周りに誰もいない淋しい環境であったとしたのなら、私の心は凍っていたかもしれません、貧しかったかもしれません。

そして自分は恵まれているなぁ、ありがたいなぁ、幸せだなぁと感謝の気持ちで一杯になるのです。
 

キリストさまのお言葉で
 

思い煩うな、空飛ぶ鳥を見よ 播かず 刈らず 蔵に収めず 


がありますが人間は、お金に執着し、よって必要以上にあくせく働き、溜め込み、またそれで満足せずに増やそうとしています。

お金もエネルギーなのです。 溜め過ぎるとバランスを取るために溜まったエネルギーは出て行こうとします。

しかし人間が出て行っては大変だと必死で抑えてしまう。

日本の経済がいくらアベノミクスで政策を打っても良くならないのは、出そうとしないからです。

流そうとしないからです。

川の水が滞っているのと同じです。

1500~1700兆円と言われる国民資産のうち200兆だけでも流通させれば一遍で健康体になれるのに

それを止めてしまってるのです。

人間でいうとうんちが出たがっているのに、我慢をして便秘(病気)になってるのと同じです(笑)。

なにも無駄なものでもお金を遣ってしまえと言っているのではありません。

お金は大切なエネルギーです。

要は使い方だと思うのです。

自分が成長するための投資のお金であったり、誰かが喜ぶ(魂がです)遣い方であったのなら

お金は喜ぶのです。

そしてまた、お金は喜ばせてくれる人のところに還って来る。(金は天下のまわりもの)

そういう遣い方の出来る人も

また

富める人 だと思うのです。





足ることを知る者は富めり
 
 
 

この言葉は、よく言われる言葉なのですが、人間の欲望というものには限りがありませんで、金が出来れば地位が欲しくなり、地位が欲しくなれば、もっと高くなりたくなり、最高の地位につけば、いくまでもその地位に止まりたいと、種々と権謀術策をして、心の休まる暇がありません。

ですから、足るを知るということは、実に大事なことだと思うのです。

どんなに貧しい生活をしていても、その貧の中で満足して、心を休んじていられる人は、富んでいるも同じ心の余裕というものがあります。

安心立命していられます。 想念を常に物質世界の中に置かずに、神のみ心の中に入れきっている人は、如何なる環境にいても、足ることを知る人であり、心富める者なのであります。

何故ならば、神は無限の富者であるからです。

 

         『老子講義』 五井昌久  白光出版




 

 

2013年12月 7日 (土)

12月7日のつぶやき

 
 
私たち人間は、人に評価されようとします。 自分のこと、自分のしていることが理解され、称賛され、拍手されることを望んでいるのです。

しかしこれまでの歴史がそうであったように、理想が高ければ高いほど、目的が大きければ大きいほど理解されがたくしばしば孤独になるのです。

それはすぐには達成できない目的だからです。

私の場合は、世界人類(地球人類だけではなく宇宙人類)の平和を達成させることですから、普通であれば、常軌を逸しています。 現実離れしているかもしれません。

普通は、自分の目の前に現われていることが良くなることしか考えません。

お金が入ってくること、地位、名誉、評価を得ること、病気が治ること、人間関係がうまくいくこと・・・・・・・

ただし、私も生身の人間ですから、宇宙的なグローバルな祈りの中に、同時に私個人の願望、希望幸せも勿論入っているのです。

世界人類が幸せ、平和になるということは、私自身も幸せ、平和になるということです。

ただ、自分だけが幸せであればいい、自分や家族だけがいい思いをすればいいというのではなく、全体の幸せがなければ個人の幸せもないということなのです。

自分のことばかりが脳裡にあって自分の欲望、願望、希望を達成するため、感情を満たすためだけに生きているのではあまりにも小さいではありませんか?

そんな自分勝手な我ままな生き方では、いつかはみんなに愛想を尽かされてしまい、友達を無くし仲間を無くし、一番大切にしていた家族までもが離れていってしまいます。

だがしかし

意識を宇宙大(世界平和の祈りで)に拡げると、すべてのものが自分の中に入ってくるのです。

宇宙の中には、自分の周りの人も入っている、日本の人たちも入っている、地球人類も、宇宙人類もすべてが入っている

まさしく自分の中に宇宙があるのです。

宇宙の中に自分がいるのではなく

自分の中に宇宙(すべて)があるのです。

そして

意識を宇宙まで拡げると(宇宙とつながると)

人間は、どこまでも進化向上出来るのです。

宇宙(神・本心)と一体となるとは

なんと素晴らしいことではありませんか?

だから私は、今は人に受け入れられなくても、何度も何度も真理を繰り返し述べ続けるつもりなのです。

人に笑われてもいいではありませんか

わかってもらえなくてもいいではありませんか

それが私のミッション(使命)だと思っているからです。
 



 
漢文

上士は道を聞いては、勤めて之を行わんとし、中士は道を聞いては、存するがごとく亡きがごとく、下士は道を聞いては、大いに之を笑う。 笑わざれば、以て道と為すに足らず。

 
 
 

上士というのは勿論上等の人、上位の心の人という意味ですが、そういう人は、道を聞くと、どのようなむずかしい行為でも、勤めてこれを自己の行為に現わそうとするが、中士は道を聞いても、判らないところでも、判ったような顔をしてみたり、頭では理解しながらも、なかなか行為に現わそうとする努力をしなかったりする。それは道に対する信というものがあまり深くないからで、この人たちにとっては、道というものが、自分の都合次第では存在するようにも思えたり、存在しないものに思えたりするのである。

ところで下位の人になると、道を聞いては、そんな道などというものが存在するものかというように大笑いに笑いとばしてしまう、というのであります。

そして老子は、そういう下級の人に大笑いされないようでは、道というには足りない、といっているのです。

こういうところは、老子の時代も今日の時代でも少しも変わっていません。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・





         
「老子講義」 五井昌久 白光出版


 

2013年12月 6日 (金)

正しい判断をするには、心が鎮まっていなければならないのです。

 
 
私が今、無人島に流されてたった一人切りになり、そこでたった一冊だけ本を持ちこむことを許されたとしたのなら、私は迷うことなく今読んでいる(何回も読み返している)この 『老子講義』 を選ぶのです。

私にとってこの本は最高の指南書であり、おおげさではなく宇宙の叡智がすべて詰まっていると思っています。

だから一人であっても孤独にもならないし淋しくならないのです。(すべてのものとつながるから)

もう何回読み返しているでしょう、読み返すたびに、新しい発見がある、新しい自分にまた出会うことが出来るのです。

さて、私たちは、常に正しいジャッジ(判断)を迫られています。

そして毎日、いろんな変化が起こっています。

変化するということは変化のたびに何らかの判断、決断をしなければならないのです。

しかし、そのジャッジが正しいのかどうかはわかりません。

わかっているのは、どちらかを判断したために全く違った方向へと物事が向って行くということです。

Aを選ぶのとBを選ぶのとでは、未来が違ってくるのです。

善い選択をしようと私たちは頭を使って考えます。

かと言って肉体人間の頭で一生懸命に考えたことが正しいことにつながるとは限りません。

いや、 「ああだ こうだ」 と頭をひねくりまわして出た結論というのは、間違っていることの方が多いのです。(私の経験からはですが)

かと言って、直観だけに頼るのも違うような気がする。

直観も間違えることがあるのです。(どこにつながってるかによって)

だったらどうやって正しいジャッジをしていけばいいのか?

それは、気を鎮めて平常心、不動心になればいいのです。(これが一番難しい)

正しいと言う字は、上の横線は天を示しているのですが、天に止まると書きます。

天に止まる、つまり天とつながって動かない自分(心)が不動心です。

落ち着いた自分、感情想念に振り回されない自分が本来の自分の姿なのです。

そうなってはじめて、正しい判断ができる

正しいメッセージ(啓示)が降りて来るのです。

そのためには、肉体の頭脳を駆け巡る業想念波動(ああだこうだと人間を迷わす想い)を消し去らねばなりません。

でないと心を鎮めて、平常心、不動心にはなれないからです。

世界平和の祈りを祈り、自分の想念(おもい)をすべて天に投げ入れると、天(宇宙)の叡智が、正しいメッセージが降りて来ます。

その正しいメッセージを正確に受け取れるのが、平常心、不動心なのです。

だから私たち人間は、正しいメッセージを受け取れる器(不動心という器)を整えていればいいのです。

 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

次の王という字でも、王の上の横線は天を示しているのですし、下の横線は地を示しているのです。

この意味を簡単に申しますと、天の理念を地に現わす為には、人が、縦横十字、つまり、理想と現実を調和させ、精神問題と物質問題とを融合させてゆく能力を持っていなければならない。

そうした能力を持っている人を、王というのであります。

ですから王となるためには、そうした能力をもった人、神の叡智を自己のものとした神人でなければなり得ないのです。

その王たるべき人が単なる世襲でなったり、権力欲でなったりしているのですから、世界が乱れるわけなのであります。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


 

        『老子講義』 五井昌久 白光出版



 

 

「私は100%悪くないんだ」 は違うのです。

 
 
今起こっていることというのは、過去や過去世からの自分の想念(想っていたこと)行為(していたこと)が時を経て、自分に返ってきているのです。

ただ自分では記憶がないので、一方的にやられていると想うのであります。

よく事件や事故などで

「なんの罪もないのに」 とか 「たまたまそこを通りかかっただけなのに災難を受けた」 とか言いますが、実はその背後には、過去世の自分の想念行為があったのです。


私事で言いますと(私は九州の大分出身です)、私は小学4年生のときに大阪に父の転勤でやってきました。 それまでの大分での生活は非常に楽しいものであり、学校が終わった後の我家には、いつもたくさんの友だちが訪れ、遅くまで遊び回り、天国のような生活を送っていました。

ところが大阪に来た途端、陰湿ないじめに遭い、子ども心に 「なんで自分がこんないじめに遭わなければならないんだろう? 自分がいったい何をしたんだろう?」 と何度も自問したものでした。

その答がわからないまま、月日が流れ、40歳くらいになった或る日、突然同窓会の開催を伝える手紙が来たのです。

「誰がそんな同窓会なんかに行ってやるものか! 絶対に行かないぞ!」とその手紙を破り捨てたのですが、なにか気持ちが釈然としません。

そしてある人(人生の師匠)にいじめられていた当時のことをお話しすると

「あたり前です、あなたは前世でその人たちを散々いじめていたのです、ひどいことをしてきたのです」

と言われたのです。

ハッとしました。

そして、気持ちが一挙にスッキリとしてきたのです。

30年間トラウマになっていたことが消えていったのです。

私は破り捨てた手紙をつなぎ合わせ、同窓会に参加することにしました。

自分の行為が正しくて、相手の行為が悪いのだから、自分が怒るのは当然だというような場合が随分ありますが、私のようにその人その人の過去世からの想念所業の判るものからみれば、その時には、確かにその人の方が正しく、相手方が100%悪いとしても、過去世からのお互いのやりとりを通算してみれば、正しいと思っている方にも、悪いところがたくさんあったので、相手方がその人に悪く当ってくる理由も随分とあるわけなのです。

    
          『老子講義』 五井昌久 白光出版



 

12月6日のつぶやき


 
人と人間

 

今私たちの周りには、いろいろな人格の人が住んでいるわけでありまして、ニュースなどで親が我が子を殺しただとかその反対に子が親をバットで殴ったなどを聞くと

同じ親子でも愛し合っている人たちもいれば憎み合っている人たちもいるという、そしてすぐ側にそのような性格を持った人たちが道を隔てて存在することに、私はしばしば考えさせられるのです。

「この世界っていったいどうなっているのだろう? 天国と地獄が同居している世界なのか?善い人と悪い人が交ざっている世界なのか?」

このようなことは私でなくてもみなさんも疑問に思われていると思います。

そしてその疑問を解かなければ、安心して? いや割り切って生きていけないような気がするのです。

お釈迦さまは、人間を大きく3つに分けたそうです。

1.神さまに近いかなりいい人 (天人)

2.普通の人   (人間)

3.鬼のような非情な人 (阿修羅)

これはかなり大雑把な分け方だと思うのですが、今の世の中は天人や人間が阿修羅のような人を非難しているように思うのです。

しかし阿修羅のような人がいつなにかのきっかけ(大病したり、九死に一生を得たり)で天人になるかわからないし、反対に天人だと思っていた人が実は阿修羅だったなんてことは、日常茶飯事的に起きているのです。

だから私たちは簡単に迂闊(うかつ)軽率に、人を批判、非難、評価してはいけないのだと思うのです。

神さまから観れば、私たち肉体を持った人間は、50歩、100歩大して変わらなのです。

ですから私は、1、の天人(上等な人間)になるよう、努力することは勿論ですが、一挙に突き抜けて、神さま仏さまと一体となる(神我一体)ことが大切だと思っているのです。

「自分が神さまになる、そんなバカな」

とおっしゃられるかもしれません。

しかし真実は、私たちは神から分かれた分霊(わけみたま)なのです。

人(霊止)なのです。

人とはいつも言っていますように霊(ひ・日・光)が止まった(宿った)という意味です。

霊とは神さまのことです。

神社も神さまが宿った社(やしろ)といういう意味ですが、私たち、人間もそうなのです。

わたしたち人間(人)は、今こそ、自分が何者で、どんな世界に住んでいて、自分や自分たちがこれからどうなってゆくことが大切なのか? という疑問を真剣に考え、そして答を導き出してゆくことが早急に求められていると思います。

だって、真理が何もわからないまま、ただ起きて、仕事をして、稼いで、気がついたら年齢を重ねていて、なにもたいしたものを得ないまま死ぬときに慌てふためいてこの肉体界を去ってゆくのでは、あまりにもせつないと思うのです。

人間はそんな薄っぺらいものではない

もっと気高く、もっと崇高で、もっと神性で、もっと素晴らしいものなのです。

その素晴らしい自分(人間)を追求してゆく

それこそが自分探しではないでしょうか?

 



人というのは、霊(ひ)の止まるところ、日(光)の止まるところという言葉で、神霊波動のそこに止まって働く者をいうのです。 現在一般に人間といわれている者と真実の人といわれている者とは、同じことに使われいますが、実は厳密にいうと全く同じ者ではないのです。

人とは、神霊波動そのものが、そのまま働いている姿につけられた言葉であり、人間とは、神霊波動(光)と業想念波動(迷)との混合された者につけられた名称なのであります。

ですから、人間は次第に浄められて真実の人となってゆくわけなのです。

そこで釈尊(お釈迦さま)などは、天人、人間、阿修羅(下等な人間)などという人の境界にそれぞれの名称をつけているのであります。





    
     『老子講義』  五井昌久  白光出版




 

 

2013年12月 5日 (木)

12月5日のつぶやき

上を向いて歩こう


 

先日、テレビを観ていたら陣内智則さんが地方のゴルフ場に行くのに飛行機に乗っていたときのエピソードを話していました。

あいにくゴルフ場周辺は雨が降っていて、せっかく楽しみにしていたゴルフも諦めざるを得ない、しかし取り合えずチケットも買っているので現場に向っていたそうです。

そのとき現場の飛行場に近づいて来て、窓の外を見るとなんと快晴だった。

「やったぁ 奇跡が起こったぁ 雲一つない これでゴルフが出来るぞ」 とはしゃいでいたら、隣にいた先輩芸人の宮迫さんが

「お前なに言うてんねん、雲の上は晴れているに決まっているやないか」 と呆れて言ったそうです。

と、いう笑い話なのですが、地上に住んでいると雲の上の景色は、めったに見るものではありません。

雲があるのが当たり前、雨や雪が降るのが当たり前、雷が鳴ったり、台風が来たり、私たちは常に天候に左右されながら生活をしています。

だからいつも晴れている、いつも雲一つない世界があることが信じられない

陣内さんの気持ちがわかるのです。

私たちは、黒雲が空を覆っていると憂鬱になります。 雨が降りそうになると「傘の用意をしないといけない」 とうっとしくなります。

雷が鳴ると 「落ちて来るんではないか」 と怖くなります。

大雨が降ると土砂崩れや冠水を心配し台風が来ると交通機関やいろんなことに影響を与えます。

それに暑い、寒い、暖かい、涼しいなどの気温が加わる(感情に影響を与える)

そして気象は、人間の感情に例えられ

気象と人間の気性は同意語でなのです。

「部長の雷が鳴った」 「涙雨」 「表情が曇る」 「スッキリ爽やか 気分晴々!」 「あの人が来ると嵐が来たようだ」 ・・・・・主に感情を表わしているのです。

私たちは感情と共に、感情の渦の中で生活をしている。

だがしかし、視線を上に向けてすぐ上に浮かんでいる雲の上は、いつも素晴らしい青空が拡がっているのです。

その上には雲もない、よって雨も嵐も雷も竜巻もないのです。

感情とは無縁のすっきり爽やかな世界が拡がっているのです。

そこはもう宇宙なのです。

宇宙は漢字で素(もと)と書きます。

だから素晴らしいという字は

素(宇宙)はいつも晴れているという意味なのだそうです。

私たちは目の前に現われた黒雲や雨や嵐に振り回されています。

意識が上にないために、横や下ばかりを見ているから、宇宙の素晴らしさがわからないのです。

宇宙からは、無限のプラスのエネルギーが降り注いでいます。

落ち込んでいるときに、大空を見ていると、ちっぽけなことに悩んでいる自分がばからしくなることがあります。

それは、宇宙の光が自分の心を照らしたからです。

闇を照らしたからです。

心の黒雲を消したからです。

反対に、マイナスのエネルギーは重たいので下に溜まるのです。

そのほとんどは人間の想念、想いです。

想いは重いのです。

だから私たちは落ち込んだときに知らず知らずのうちに下を向いてしまいます。

マイナスのエネルギーと共鳴するのです。

理屈ではないのです。

マイナスに共鳴するような行動をするから落ち込むのです。

プラスに共鳴するように行動すれば落ち込まなくて済みます。

それには、視線を地面と平行か、少し上を向ければいい

電車に乗っている時は、スマホばかりを見ず(視線は下になります、マイナスのエネルギーと共鳴します)、窓の外の空を見ればいい。

そうすれば、プラスのエネルギーと共鳴出来るのです。

要はどこに意識を向けるか? です。

仕事で外回りをして、会社に戻ってきた時

大空を見て、元気になって帰って来るか?

スマホを見て、憂鬱になって帰って来るか?

あなたはどちらを選びますか(笑)?

 

2013年12月 4日 (水)

把われない生き方


   

以前、財布や携帯を無くした(結局出てきたのですが)ことがあって、そのときはほんとに情けないほど無くしたことに把われていたのです。

財布のときは

「どこに置いてきたのだろう?」

「あすこまでは確かにあった」

「○○で食事をしたからそこかもしれない電話してみよう」

「そこでないとすると道で落としたのか? 通った道を辿ってみよう」

お金もそこそこ入っていたのですがカードや免許証が入っていたので

「カード会社に電話しなくちゃ」 「運転免許証は警察に届けるんだっけ?」

探しながらも、出てこないことを想定して余計に焦るのです。

携帯のときもそうです。

電話を鳴らして、誰かが出るのを待ってみたり、頭の中は

「どこで無くしたんだろう?」 でいっぱいなのです。

そうなると仕事も手につかない


「出てこなかったらデータは全部わからなくなる、あの人に連絡が取れなくなったらどうしよう」

悪い方に悪い方に考えてしまいます。

結局は、財布は食事のときに妻が自分のバッグに入れていて(一緒にいた息子の財布だと思っていたそうです)、妻のバッグの中から後日出て来たのです。(この時ほどエネルギーの無駄使いだったと痛感したことはありません)

携帯は、触った後に無意識に隣の椅子の上に置いていてある所から無事出てきました。

どちらも

「縁があれば(財布や携帯に)、そのうち出てくるさ」 と楽観していてもよかったことです。

寝て忘れていても結果は同じだったのです。

つくづく把われることの愚かさを思い知ったのでした。

現代人(もちろん私を含めて)もいろんなことに把われています。

今日テレビを観ていたら、スマホを歩きながら(ながらスマホって言うんですね)するのは危険なので

歩いているときは、スマホが作動しないようにすると言っていました。(スマホに目も心も奪われているんですよね)

現代人の方が昔の人より把われることが多くなったように思います。

メールをすぐに返さなければならない

IT機器を使いこなさなければいけない

コミュニケーション能力がなければ就職できない

英語が話せなければ、これからは通用しない

お金をたくさん持っていなければ生きていけない

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

把われとは、ねばならないという強迫観念のようなものです。

与えられていることに満足するのではなく

足りないもの(無いもの、無くしたもの)にばかり意識がいく

不幸とは、マイナスの想いに浸ってしまうこと、心が縛られることだと思うのです。

それがたとえプラスの出来事であったとしてもマイナスに捉えてしまう

なんでも悪い方に受取ってしまう・・・・・

端的に言えば、幸せになる方法とは、把われを無くすこと、少なくすることなのです。

幸せそうにしている人は、把われが少ないのです。

どうでもいいことには、意識を向けないのです。

把われがなくなったとき、人間は本当の自由を手に入れるのだと思います。

 


自らに把われない生き方


 

人類一人一人が力を与え エネルギーを注ぎ

頑なに信じてきた誤った法則に

人類自らが縛られ 苦しめられ 振り回されてきた

その報いを自らが招きよせ 引きつけ

ついには希望も光も望みもない生き方を

自らに強いてきた

もうこれ以上 同じ過ちを繰り返してはならない

これからは何事においても

自らに把われない生き方を実行することだ
 

過去に把われない

過ちに把われない

罪や罰に把われない

成功に把われない

失敗に把われない

常識に把われない

知識に把われない

情報に把われない

地位に把われない

権力に把われない

生に把われない

死に把われない

結婚に把われない

独身に把われない

結果に把われない

お金に把われない

ハンディに把われない

善悪に把われない

偏見に把われない



そういう把われない生き方が出来れば

人生最高にして自由自在である

 

               西園寺昌美



 


  

今年最後の調和波動気功法セミナーです。

  

 

今年も後わずかになりました。 自分にはなにか大切な役割りがあるのではないか?

自分はなにか大切なことをするために生まれて来たのではないのか?

そう思っている人は是非、このセミナーに参加して下さい。

目的意識がハッキリしてきます。

あなたのミッションはなんだったのか?

どうすればいいのか?

このセミナーが教えてくれると確信しています。



    『水の会』
 

開催日時: 2013年12月29日(日)

食事      12:00 ~ 13:30

于先生講演  14:00 ~ 16:00

開催場所: 中国料理 大成閣 (大阪市中央区東心斎橋)

※詳細は開催場所ページにてご確認ください

会   費: 8,000円

申込方法: 電話にてご連絡の上、3日前までにお振り込みください。

参加ご希望の方は、グッドムーン(篠崎 朗)までご連絡ください。

詳細をお伝えします。

携帯 080-1444-0018



調和波動気功法

http://www.harmony-wave.jp/

   

      

今、最も大切なこととは意識を天に向けること


    

人間の頭のてっぺんは、百会(ひゃくえ)と言って、赤ちゃんのうちは柔らかくてペコペコしています。

大人になるにつれ、固くなっていきます。

宇宙からのエネルギーはここから入って来るのです。

そしてそのエネルギーは60兆の細胞に行き渡り、細胞に活力を与えて、地球の中心へと流れてゆきます。

この流れがスムーズにいっている状態が健康体であり、すっきり爽やか輝いている姿なのです。

だから私たちは意識を天(本心)に向けて、天地を貫く光の柱であることを意識して、本心が肉体に降りて来るようにイメージすればいいのです。

だがしかし私たちは、意識を天、縦 ┃ に向けずに横 ━ に向けている、縦どりせずに横取りしているのです。

だから┃━交差せずに、横 ━ ばかりが拡がっているのです。

これがマイナスです。

天を意識すると縦にエネルギーが流れます。

すると縦横と十字に交差するのです。

これが十字架であり、プラスです。

縦横が交差する点はどこかというとへその下3.5センチにある下丹田(かたんでん)です。

ここに本当の脳(腹脳ともいう)があるのです。

肉体の頭は本当の脳(考える)ではないのです。

人間は肉体の頭で考えるからおかしくなるのです。

気を鎮めて、気(意識)を下丹田に集中させると頭が空っぽになって、スッキリしてきます。

そして天の気(エネルギー・叡智)が入りやすくなるのです。

私たちは、今こそすっきりさわやか、シンプルになることが大切なのです。


調和波動気功法

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オーラ・オーラ

http://auraaura7.com/

 

悩みは消える

   

人間は、目に見えるボディ(肉体)が無くなると、光の波動体となるのです。

目に見えるものも、目にみえないものも波動(エネルギー)で出来ています。

「あの人は輝いている」

「あの人は明るい」 という雰囲気(オーラ)を醸し出している人とは天からの光の波動があまり邪魔をされずに肉体に届いているのです。

悩みもそうなのです。 悩みとは悩みの種があるから悩むのではなく

闇が波のようにやって来ている状態をいうのです。

光が薄くなっている、少なくなっている

よって生命が弱っている状態です。

だったら光を強くしてやればいい

本来の美しく光り輝く波動体にしてやればいい(波動調整)

理屈ではないのです。

人間を肉体を無くした波動体であるとイメージすればわかりやすいと思います。

宇宙は99、999・・・%の目にみえないエネルギーと0.000001%の目にみえないエネルギーとで出来ています。

なのに私たちは目にみえないほとんど消えかかっている(消えてゆく姿)ものだけに目を向けている。

目を奪われている

執着しているのです。

 

では、心を明るくするには、悩みを消すにはどうしたらいいか?

それは、天地を貫く光の波動体に、強い光を注入してやればいいのです。(霊要素を入れる)

霊力を強くすればいいのです。

宇宙の無限のプラスのエネルギーを取り入れればいいのです。

それには、光明思想徹底行が最適です。

宇宙のプラスの言霊(エネルギー)がすべて入っています。

この言霊を唱えると、肉体に光の波動体に無限なる宇宙のエネルギーが注入されるのです。

すると、闇を光が照らすことになる(いつの間にか元気になる)

悩みとは闇の波だから消えて無くなるのです。

真理とは実にシンプルなのです。

7は宇宙の完成された数字です。

完成(完璧、パーフェクト)を意味します。

その7が7つ(49)集まったのがこれらの言霊なのです。

特に無限なる愛、無限なる調和、無限なる平和はエネルギーが強いのです。

毎日、朝晩7回繰り返して唱えましょう。(7×7×7)

いつの間にか悩みが消えて、明るくなっているご自分に出会えるはずです♪

 





世界人類が平和でありますように

無限なる愛

無限なる調和

無限なる平和

無限なる光

無限なる力

無限なる英知 

無限なるいのち
 

世界人類が平和でありますように

無限なる幸福

無限なる繁栄

無限なる富

無限なる供給

無限なる成功

無限なる能力

無限なる可能性

 

世界人類が平和でありますように

無限なる健康

無限なる快活

無限なるいやし

無限なる新鮮

無限なるさわやか

無限なる活力

無限なる希望

 

世界人類が平和でありますように

無限なる自由

無限なる創造

無限なるひろがり

無限なる大きさ

無限なる発展

無限なるエネルギー

無限なる感謝

 

世界人類が平和でありますように

無限なる喜び

無限なる美

無限なる若さ

無限なる善

無限なるまこと

無限なる清らか

無限なる正しさ

 

世界人類が平和でありますように

無限なる勝利

無限なる勇気

無限なる進歩

無限なる向上

無限なる強さ

無限なる直感

無限なる無邪気

 

世界人類が平和でありますように

無限なるゆるし

無限なる栄光

無限なる気高さ

無限なる威厳

無限なる恵み

無限なる輝き

無限なる包容力




 

 

12月4日のつぶやき

 
私たちは起きているときにいろんな事を想います。

昨日のこと過去のこと、未来のこと、他人のこと、自分のこと、気にかけていること、解決していないこと、・・・・・・・頭脳を駆け巡る頭の中っていったいどうなっているのだろう?

と不思議に想うのです。

そして、整理ができないまま常に、「ああだこうだ」 と考えている

頭というのは、無防備になっているので、その中は自分の本心だけではなく、近くにいる人の想いやたくさんの人の想い(群集心理)、そしてそれに加えて過去の想念(潜在意識)も浮かび上がって来て、スクランブルされている、ごっちゃごちゃになっている

それが、肉体人間の頭の中の状態なのです。

「今、自分の想っている考えていることのほとんどは、自分の本心からではない」

想いというのは相手の心と書くように、本心とは別のものなのです。

本当の自分とは、神界にいるのですがそこから霊界、幽界、肉体界に降りてくる間に光が弱くなって本心を曇らせ、本心とは違う相手の思いや潜在意識に溜まったものが頭脳を占めてゆくのです。

お釈迦さまは本心と業想念を分けるために、坐禅観法させたのです。

人間の本来の姿とは、脳裡には何も浮かばず、澄み切った青空のようなスッキリした状態なのです。

「ああだ こうだ」 と考えたり想い煩ったりせず

直観だけで生きているのが本来の私たちの姿なのです。

「頭で考えずに、どうやって生きて行くんだ?」

「想い悩むから人間なんだろう?」

と私たちは思ってしまいますが

本心以外の想いはいらないものなのです。

それは本心の中に必要なものがすべて入っているからです。

余計なものがないからです。

宇宙の叡智(愛)が一杯詰まっているからです。

守護霊守護神のメッセージが入っているからです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

本心につながるにはどうしたらいいか?

それは、肉体の頭脳を駆け巡るもの、人の思い、過去からの潜在意識を全部天に返せばいい、天は溶鉱炉です。

想いを溶かしてくれます。(それと同時に光が入って来ます)

そして汚れた想念をきれいに洗濯して必要な情報?だけを返してくれます。

それだけで充分なのです。

それ以外はいらないのです。

それ以外のものは人間を迷わすものなのです。

想いを天に返して

天の叡智を頂き直し、生命を活き活きさせるメソッドが

祈りなのです。


 

世界人類が平和でありますように

日本が平和でありますように

私たちの天命がまっとうされますように

守護霊さまありがとうございます

守護神さまありがとうございます


 

 

 

2013年12月 3日 (火)

12月3日のつぶやき

 

つぶやきと言えばツイッターになるのですが、140字にこだわらす自由に書いてみたいのです。

調和波動気功で培った知識や、これまでの私の経験談、観たもの読んだものの感想を書くことでみなさんに少しでも安らぎを得ていただけたら幸いです。

いつまで続くかはわかりませんが(笑)、タイトルに日付を入れて出来る限り毎日書いていきます。

お付き合い、よろしくお願いしま~す。


 

 ごちそうさん


NHKの朝ドラを観ていると、人間って小さいなぁ、どうでもいいことにこだわる生き物なんだなぁとつくづく想うのです。

物語りは、め以子が嫁いだ家庭の中にイザコザがあり、義理母のお静さんと義理姉の和枝がいがみあい、和枝がめ以子をいびり?妹の希子を自分の思い通りにしようとし、家の実権を握ろうとしているのが見てとれるのです。 和枝が悪役になって家庭を乱しているのですが、和枝だけではなくお静さんも一癖あって家族lがなかなか気持ちが一つになれない、仲良くなれないのです。

そんな小さな単位(家庭)の中で大将になってなんになるのだろう?

たかだか5人家族の中でみんなを手なずけたとして気持ちがいいのだろうか?

これが家庭の中でなくても学校のクラスであったり、職場であったり、どんな小さな単位であっても人間は争いを起きるのです。 ひいてはそれが大きな単位になってゆく・・・・

それが人間という性(さが)なのでしょうか?

自分の感情を満足させたい、自分の思い通りに人をコントロールしたい、そこにあるのは自分、自分、自分、自分、我、我、我、我・・・・・

人間は自分のことしか考えられなくなると世界を思いっ切り狭くしてしまうのです。

相手が傷つくとか? 相手がどう思うだろうか? だとか 相手が傷ついていないだろうか? だとか気を配ることが出来なくなる、

弱い者ばかり、言い返してこない人ばかりを攻撃するようになる(いじめ)

そのうちにみんなに嫌われて、淋しい人生を送ることになる

そういう人を見ていると、人間神の子なんて思えないのです。 無限なる愛!


しかし人間って、心の持ちようでどうにでもなると思うのです。

自分や家族にしか意識が向いていなかったのを隣の人、近所の人、地域の人、県の人、日本の人、世界の人・・・・・そうやって自分や家族の幸せだけを願っていたのを徐々に拡げてゆく

世界の人々の幸せを願うようになったとき、心は地球大に拡がっているのです。

小さな自分が大きな自分になっている

すると、家の中の主導権争いなんてどうでもよくなる

相手に主導権が移っても、気にしなくなる

相手のどうでもいいような言い分は大きな包容力で聞いてあげれるようになる

すると相手の人も張り合いがなくなって、勢いも落ちてくるものなのです(笑)。

要は、まともに相手をするから、相手も図に乗るのです。

頑張ろうとするのです。

もっと強くなろうとするのです。(欲望には際限がない)

相手が何を言って来ても

「世界人類が平和でありますように」

「○○(相手の人)さんの天命がまっとうされますように」

と心の中で唱えていれば

心は平穏でいられるのです。

相手の人は関係ない

自分の心の中が平穏であるかだけが重要なのです。

  

人生に突然たちふさがる変化を恐れることはない・・・・

 

 
1.人生に突然たちふさがる変化を決して恐れることはない。 変化はよりよい選択、決断を自らに強いる絶好のチャンスである。

 

                西園寺昌美(白光誌 12月号より)




ほとんどの人は突然想定外のことが起こるとそれをマイナスと把えてしまいます。

そしてそれが守護霊がよりよくなるために与えてくれたチャンスなのに、今の現状にしがみついてせっかくの好機を逃してしまうのです。

変化はマイナスではなく、天が与えてくれたプレゼント(贈り物)なのです。

人は、自ら進んで変化をしようとはしない

今のままでいい、慣れてしまうと現状がベストだと思ってしまうのです。

しかし宇宙が進化し続けているように、小宇宙である人間も進化しないと本当は生きていけなのです。

進化しないものは、滅びるのみです。

進化(変化)しないのは、宇宙法則から外れるからです。

守護霊は、常に守っている人間の成長のことを考えているので、変化は、人間にとって一番よい時期にやってくるのです。

しかしそのときに人間の勝手な考え、想いで守りに入ったり、損得勘定(感情)で考えてしまうと守護霊の意図とたところと違う選択をしてしまうのです。

そうなるとまた違う想定外の出来事を用意しなければならない

そのことを人間は “試練、苦悩、地獄、不幸” と呼ぶのです。

守護霊も出来ることなら一回で済ませたい

人間を迷わすことはしたくない

だがしかし、成長(変化)を止めることはできないのです。

悲しいかな、人間は土壇場の切羽詰まった状態にならないと自ら動こうとはしないのです。

でも人間側も

「このままではいけない」

「今のままでは自分は生命を生かしたことにはならない」

と心の奥底(本心)ではわかっているはずです。

肉体人間は弱いのでどうしても変化を受け入れるという勇気が出ない

そこで

その背中を押して決意決断するところまで持って行ってくれるのが守護霊なのです。

守護霊は指導霊(正守護霊と副守護霊が付いています)でもあるのです。

守護霊は人間の未来がわかっています。

明日、未来にどうなるかまでわかっているのです。

だからベクトル(方向性)をどこに持って行けばいいのかもわかっている

人間側は、自分で 「どうのこうの」 と頭をひねくりまわすのではなく

守護霊に意識を向けて、浮かんでくる雑念(想念)をすべて

世界平和の祈りに代えてしまえばいいのです。

祈りとはいのちがのりだすと言う意味です。

祈ると天にいる本心(守護霊、守護神とも)と一体となり、守護霊からのメッセージがはっきりと受け取れるようになるのです。

そのとき、変化はチャンスだったとわかるようになるのです。

 

 

2013年12月 2日 (月)

アンドロイド

  
アンドロイドとは、人間型ロボットのことで、一度死んだ人間の想念(データ)だけを残して、人間の都合のよいように動くようにつくられたロボットなのだそうです。

今、木村拓也主演で放映されています。

私は熱心に観ているわけではないので、荒筋もおおまかにしかしりません。

ただドラマの中に真実がちりばめられているのは、すごく感じるのです。

今の人たちに大切なことを伝えるメッセージに思えるのです。

このような啓示するようなドラマや映画は今、たくさん現われています。



昨日の放映で、天才物理学者の沫嶋黎士(アンドロイド)が講義の中で言っていた言葉が印象的でした。

1.人の想いは時空を超える

2.人の想いは未来を変えることができる

3.人の想いは過去の過ちさえ変えることができる




これらのことは人間は肉体界を去っても(死んでも)想念(心)が生き続けていることを現わしています。

想念の凄まじいエネルギーの強さを語っています。(過去や未来を変えることが出来る)

そして一番言いたいこと(このドラマが)とは、愛はすべてのすべてであり、ロボット(アンドロイド)や人間の想念さえも変えてしまうということです。

人間の都合でいくら残虐に造られたロボットでさえ、愛(神)の無限のエネルギーにはかなわないのです。

心に愛があれば、神風がふいて奇蹟は起きるのです。

それは、人間が造ったどんなものでさえ、神さま(宇宙)の範疇に入るということです。

どんなに時代は変わっても科学が進歩しても

基本は人間の想念(心の在り方)であり、一人一人の心の中が何で占められているか?

なのです。

それが目の前の現象を引き起こし、地球の姿になってゆく・・・・・・・。

今こそ、人間は愛に目覚めるときなのです。

愛(思い遣り)でしか、奇蹟(地球平和)は起こせないのです。


 


 

2013年12月 1日 (日)

神霊のマンションになる


  

肉体界にくっついて幽界があります。

そして肉体にくっついて幽体というボディ(体)もあるのです。

ただしこの幽界や幽体は波動が細かいので肉眼にはみえないのです。

そして心や魂にくっついて肉体があるわけです。

心がありきで、肉体が付属している

心がボディ(本体)としたのなら肉体はシャツ、下着です。

だから死ぬとは、シャツが古びてきたので捨てるのと同じです。

シャツを捨てたからといって、ボディまで無くなることはない。

ですから心がすべてのすべてなのです。(心は永遠に生き続ける)

そして、その一番大切な心の中を何が占めているかが肝心なのです。

心の中が迷いの世界のオバケちゃんで占められているか?

愛深い天使たちがたくさん居るのか?

それによってその人の人格、神格、わかりやすくいえば雰囲気が決まってくるのです。

テレビなどで尊大に振る舞って、妖気を漂わせ、人の心の中を当てたりしていているようなあやしい?人は、幽界のオバケちゃんにとり付かれているのです。

幽界は潜在意識、感情の世界なので、未来のことや心の中のことがわかるのです。

オバケちゃんは当てものが得意なのです。

常識的な人は、冷静なので、そのようなオバケちゃんを相手にしないのですが

「なにか面白いことはないか?」 「人に凄いと思わせたい驚かせたい」 「人の心をコントロールしたい」「お金持ちになりたい」 「自分や人の感情を喜ばせたい」 など感情(勘定)的な人は幽界の生物に波長が合いやすいのです。

そしてそのオバケたちに心の中を乗っ取られるのです。

しかし、周りの人たちはわからず、その影響を受けてしまうことがある・・・・・・。

審神(さにわ)という言葉があります。

神から来ているのか? 本物なのか? 守護霊守護神、そして宇宙神とつながっているのか?それとも邪な迷いの世界から来ているのか? を見極める力(能力)のことです。

私は審神力も大切だと思うのですが、下記の文章にあるように、自分の器(ボディ)を神さまが使ってくださる、使いやすい器にすることがなによりもやらなければならないことだと思っているのです。

そのためには小我(ちいさなつまらない自分)を捨て

大我(本来の素晴らしい自分)にならなければならないと思うのです。

小我の自分ではなにもできない、何が正しく何が間違っているか、何を選択すればいいのか、これから自分はどうすればいい人生が送れるのかさえも全然わからない、だから自信が持てない

このままでいるといつかは幽界のオバケちゃんにとり憑かれて、もてあそばれるのが関の山です。

小我のままだとそうなってしまうのです。

自分の考え自分の想念、自分が今まで蓄積してきた知識、常識、物差し、固定観念・・・それらの自分自分自分を一旦すべて神さまにお返しするのです。

小我の自分を、ダメな自分、どうしようもない自分、もしかしてそこそこやれる自分(笑)、肉体の力でもなんとかなると思っている自分、・・・・それらの善いも悪いもひっくるめて、すべての想念を神さまにお返しする、渡してしまう

すると小我の自分が天に上がって、そこで本当の自分(本心)と一体となって

また肉体という器に大我になって戻って来るのです。

すると見た目はいつもと同じでも今までの自分とはまったく違った素晴らしい自分になっている。

人間は本来持っている力の100万分の1も出せていない

人間には素晴らしい潜在能力が秘められているというのはそういうことです。

私たちはなんのために生まれてきたのか?

それは本来の力を、肉体界に顕わすためなのです。

神のみ心(愛)、自分の本心を地球上に顕現するためなのです。








私などこうやっておりますでしょ。 肉体はこれ神霊のマンションです。 いろんな神々がここへ来て、今日は私がこの体を使う、今日は誰って使う。 五井昌久という肉体に生まれた人が初めにいたわけですね。

その人は直霊と一つになっちゃって、神さまになりきってしまったわけですね。

そして、肉体を管理している霊魂がいるわけです。 それは五井昌久によって救われた人たちで管理人です。

そのまわりを守護の神霊が取り巻いて守っている。

このマンションは他の者が入ると困るものですから、神々だけしか入れないようにするため、守護の神霊がダーッと取り巻いて守っているわけです。

それでこのマンションを神さまに貸しているんです。

守護の神霊、あるいは神々に。

だからお釈迦さまも来るでしょう。 イエスさんも来るでしょう。 老子さんも来るでしょう。

イエスさんが来て 『聖書講義』 を書き、老子さんが来て 『老子講義』 を書くのです。

何も肉体の私が書くのではない。 老子が来てこう書け、というわけで書くわけですから、人の心を打つものが書けるわけですね。

『小説阿難』 (釈迦とその弟子の物語) を書いても、お釈迦さまが現われることもあれば、阿難が出てくることもある。

目蓮が出てきて 「私はこうだった」 というんで、書くわけですよ。

だからこの肉体は、貸別荘じゃないな、実際に役立っているから、やっぱりマンションだね。

みなさんも大きなマンションになりなさいよ。

小さな家賃一万円ぐらいで入れるマンションはないけれども、どうせ貸すのなら、一部屋何百万とか何千万のマンションにしなさい。

私は一部屋何千万ですからね。 だから会が成り立つわけです。

自分だオレだ、なんていう吹けば飛ぶような小さなものではなく、個人のナンノ誰がし、ナンノ誰兵衛といったって、そんなものはたかが知れています。

日本の総理大臣といったって何も出来ないでしょ。 地球の運命をどうか出来ますか、出来やしないでしょ。 自分の身のまわりだけで精々だ。

地球の運命とはあまり関係ないでしょ。 アメリカの大統領になると大分あります。

それだって真実の運命とは関係ない。

真実の運命とは誰が創るか、地球の運命は誰が創るかというと、一人一人の人間の想いが創ってゆくわけです。

アメリカの大統領が創るのではなく、中国首脳が創るのでもなく、人類40億(昭和40年頃)の想いが集まって、そのエネルギーに彼らは踊らされて創っているわけです。

踊らされるんでも、戦争になるような踊らせ方をしたんじゃいけないでしょう。

そこで神々が心配なさって、私のような体を使って、光を送っていらっしゃる。

神さまは全智全能ですが、肉体の私はマンションです。 間違えないでください。

これは偉くもなんともない。 偉いとするなら何が偉いかというと、神さまにまかせきりにして、自分の体をマンションにしちゃったことでしょう。

神さまに、何もかも無条件で差し上げます、どうか神さまのためにお使いください、とお返ししちゃった。

まあそれだけが偉いわけですね。 あとはなんにも偉くない。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

  
    

      『永遠の命』 五井昌久 白光出版




おススメ図書 『聖書講義』 『老子講義』 『阿難』 私が大きな影響を受けた人生の指南書です。
      



 
  

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