死ぬこともおめでたい
生きている中で 「あれは不幸だった」 「あのときは地獄図だった」 「自分ほど不幸を経験した者はいない」 「私は生きている間で善いことなど一つもなかった」 と不幸を認めて不幸を掴んでしまっている人というのは、プラスさえマイナスにしてしまうのです。
反対に
「あのときの苦労があったから今の自分はあるのだ」
「あのときの経験が自分を強く、そして愛深くしてくれた」
と思える人は心は天国にあるのです。
死に関してもそうです。
形のあるもの(肉体)は必ず無くなります、消えます。
それを不幸と呼ぶのなら、人間には幸せはないことになる。
死を不幸だと思っているからそのきっかけになると思っている病気になることも不幸だと思ってしまう。
死というものをちゃんと正確に捉えていないから、死ぬことがおめでたいことなのか、おめでたいことでないのかさえもわからない
肉体人間とはそんな基本的なこともわかっていないのです。
人間(自分)とは、どこからやって来て、どこへ行こうとしているのか?
人間(自分)とは一体何者なのか、神の子なのか悪魔の子なのか?
人間は死んだら何処へゆくのか?
死んだら心まで無くなってしまうのか?
もうそろそろこれらのことに気づいてもいい時期に来ていると思うのです。
そしてたくさんの人がこれらの疑問に気づき、本当の答(真理)を導き出したとき
地球という星は、まったく新しい星に生まれ変わるのです。
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人間の一番重要なことは、生まれてくることと死ぬことです。 これ以上重要なことはまあない。 それからいかに生きるかというのが問題になりますが、生に始まって死に終わる。
これは人生の重大問題です。
生まれてくる時は生命を受けたという喜びがありますが、死ぬ時はみんな喜ばない。 大体が泣きます。 目に見え手にも触れなくなるわけですから、みんな悲嘆にくれるわけです。
ところが、大きな意味の人生の本性、永遠の本性からいきますと、生まれてくることも、あの世に行くことも本当はおめでたいんです。
ただおめでたくない生き方もある。 それはどういう生き方かというと、心の中にいろいろな業想念、例えば迷いの想い、恨みの想い、肉体に執着する想い、この世に把われている想いがたくさんあり、その想いのままに生きていると、あの世へ行くことが嬉しいことじゃなくなる。
実際にあの世へ行っても苦しみますから。
わけても霊界のあることを信じないで、否定していて、肉体が亡くなればそのままでもう人生は終わりだ、死んだら生命があるものかという想いのままであの世へ行けば、一番不幸せです。
死後の世界を否定しているのですから、意識が甦れば肉体の世界に甦えったと思うわけです。
そこで肉親や知人の肉体にまつわってきて障りになったり、あるいは闇夜のなかを歩いてみたり、生命のないところをうごめいている。
それは一番恐ろしいことです。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「永遠のいのち」 五井昌久 白光出版
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