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2013年11月30日 (土)

過去の波動がここに現われている

  


  
今、アイソン彗星が話題になっていますが、星というのは不思議であり神秘的でもあるのです。

私たちが今、観ている星は遠い星だと何万光年も離れた星です。

つまり今観ている星の光は、何万年も前の光だったりする。

その星はもう存在していないかもしれない、だからその光は仮の光なのです。

それと同じように、今肉体界に写ってきているものは、過去世の残像です。

自分自身もそうだし、他人もそうだし、景色や建物もそうなのです。

現われては消えてゆくものなのです。

過去世において済んでしまったものが走馬灯のようにフィルムのように現在に写し出されているのです。

仏教において現世のことを写し世というのは、過去世、潜在意識の世界である幽界が時間を経て現世(肉体界)に現われて来ているということです。

「今は今じゃないか? 今は今でしょ(笑)」 とほとんどの人はそう思っています。

しかし真実は、肉体界、現在、今とは過去の残骸です。

仮の世界です、写し世です、写し出されたら後は消えてゆく姿です。

最後に最後に残るのは、魂であり心なのです。

自分という存在も100年もすれば跡形もなく無くなります。

今の景色も100年もすればその面影もありません。

形のあるものはすべて消えてゆく姿なのです。

だったら残るものはなにかというと

心です。

心がすべてのすべてなのです。

そして心は未来永劫、永遠に生き続けるのです。

心が主で肉体が従

肉体、肉体界は過去世のものが写って来ているだけでいつかは消えてゆく姿

そのことが本当にわかったとき、肉体や肉体界への執着が無くなって

本心のある神界へと意識が向くのです。

そのときが本当の自分に出会えるチャンスなのです。

 




       

私という肉体は5尺2寸(約157センチ)というもので、この肉体というのは皆さんの目に見えていますね。

目に見えているけれど、実はこれは本当にあるんじゃないんです。

過去の因縁をたどって、ここに現わされているんですよ。

だから今、生活して、今なんか考えている。 今、病気なら病気をしたとする。 それはみんな過去のものが現われて、いわゆる消えてゆく姿なのです。

この肉体生活を営んでいるということは、神さまのみ心を全うする、天命を果そうとすると同時に、過去世の因縁を果している、消えてゆく姿にしているわけです。

両方が同時に肉体として現われているんです。

ですから、今、現われている事柄に対して、なんだかんだと心配したって、苦労したって、なんにもならないわけです。

それはもう過去のものだから、単に消えてゆくだけなんですよ。

それもお腹が痛い、どうしようどうしようと、一生懸命おさえている。

不幸だ不幸だといっている。 しかしそれはどうしたって、心配したってどうしたって、それはもう過去にあるもんだから、過去のものが出てきただけだから、どうしようもないわけです。

映画の撮影を終わってしまって、フィルムが出来ている。 映画館やテレビで上映する、というところになっているわけです。

じゃあ、なんの打つ手もないのか、というとそうではなく、ただ一つあるのです。

それは何かというと、肉体の自分の力でやるのではなくて、守護霊さん守護神さんお願いします、と守護の神霊のほうにフィルムの修正を頼む ━ それだけしかないわけです。

だから我々がしなければならないことは、常に寝ても覚めても、守護霊さん守護神さん有難うございます、神さま有難うございます、といって、神さまの中へ入りこんでしまう、神さまと一つになってしまう。

一つになりながら、一生懸命、日常生活の消えてゆく姿をやっている。 それ以外にないんです。

それをハッキリと観念して純粋に純朴にそれを信じて、行なってゆくということが悟りなんですよ。

そうすると、今まで感じてなかった世界、神霊の世界もハッキリわかってくるし、いろんなことがわかってくる。




       
「永遠のいのち」 五井昌久 白光出版

 

2013年11月29日 (金)

お粗末な政界の姿

  

 

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政界をごらんなさい。 与党と野党に分かれていますが、野党がダメだダメだとさかんに突ついています。


どうして人のアラばかり突ついて、人の足を引っぱらなきゃいけないんでしょう。

そうしなきゃ自分が偉くならないと思うんでしょうかね。

自分の政権がとれないと思うんでしょうかね。

人間のみじめな低劣な姿を現わしています。

足ばかりを引っぱらなくて、自分たちのいい政策をかかげて、これでどうかって出せばいい。

人間はもっと立派になって、お互いにほめ讃(たた)えあって、お互いに尊敬し合って生きるべきものなんです。

それが国会を見ているとまるで引っぱりあいです。

長々と国会の討議をやっているのをテレビでみていますと、時間の浪費だし、国民の税金の浪費だなあと思います。

ああいう姿をだんだん改めるためにも、われわれ一人一人が立派になって、本心の世界の、神の救う姿をわれわれ自身が現わして見せなければならないわけです。

その先達として皆さんがあるんです。

世界平和の祈りの同志というのは、神さまの光の柱の中に入っているわけです。

神さまの光の柱の中に入って、永遠の生命の道にすっかり乗り切った人が、平和の祈りのあなた方なんですよ。

皆さんは他の人より立派で輝いています。

中には一般大衆の中に立派な人がいます。

けれどお粗末という人も随分あります。

何がお粗末かというと、心が我欲に満ちている。 自分のことばかり、自分の肉体生活のことばかり、損得勘定ばかりしか考えられない、そういう想いがお粗末というのです。





  

          「永遠のいのち」 五井昌久 白光出版




いつもでしたら、私の思想を書いてそれから五井先生のご著書を抜粋した文章を載せるのが今までのパターンだったのですが、今回は先に五井先生の文章を読んでいただくことにしました。

この文章は今から40年から50年前のものですが、驚くことに今の国会、政治の姿となんら変わっていないのです。

国民の代表と言われる人たち、公僕でなくてはならない人たち、自分の損得勘定(感情)があってはならないひとたち、自分の保身よりも国民のことを想う人たち、日本のことだけではなく地球世界を俯瞰的に観て、宇宙的視野に立って物事を決めて行ける人たちでなければならない人たちなのに、国民は真逆なひとたちばかりを選んでしまっている。

それは政治家だけではなく、私たち一人一人に責任でもあるのです。

どうすれば日本は善くなるのか? 他国のお手本として、リーダーとして立派な国民になり国になってゆくのかは、私たち一人一人にかかっているのです。

政治家に期待してもだめなのです。

国民の中から、一般大衆の中から天と地を結ぶ光の柱になる人が現われて、その光(無限のプラスのエネルギー)を日本中に、世界中に、いや宇宙中に流してゆけるような人が、本当のリーダーなのです。

まさしく、お釈迦様やキリスト様のような人です。

そのためには、我欲を捨て、宇宙と一体とならなければなりません。

宇宙と一体となるということは、万物と調和するということです。

愛に溢れた人になるということです。

そのような人が現われると周りは一変します。

その人が放つ光でみんなが目覚めるからです。

光を浴びた人々は、我欲くを剥ぎ取られるからです。

地球上に、たくさんのお釈迦様、キリスト様が現われれば、たくさんの光の柱が立つのです。

お釈迦様、キリスト様が現われるというのは、ある日突然、宇宙天使が降り立つと言う意味ではないのです。

一人一人普通の人間が真理に目覚めて、世界平和に祈りを祈り、印を組み

本来の自分の姿に近づいてゆくということです。

人間は本来、神の子なのです。

その姿に戻るだけなのです。

そうなれば自然と政治も善くなってゆきます。

経済も人間関係も、他国との関係も善くなってゆきます。

だから目に見えることに意識を向けるのではなく、目にみえない心を調えることに意識を集中することが大切です。(調和波動気功法)

 

世界人類が平和でありますように

日本が平和でありますように

私たちの天命がまっとうされますように

守護霊さまありがとうございます

守護神さまありがとうございます





 

調和波動気功法

http://www.harmony-wave.jp/


オーラ・オーラ

http://auraaura7.com/





 

ほんとうの自分って何処にいるのだろう?

  

ほとんどの人は肉体の自分、今鏡に映っている自分、そして周りにいるみんなに見られている自分が本当の自分だと思っています。

つまり目に見えている自分しかいないと思っている。

心というものも肉体にくっついているのであって、肉体が無くなれば(死ねば)、心も肉体と同時に消滅すると思っています。

だがしかし昨日もテレビで放映されていたのですが、脳(肉体)と心は違うのです。

肉体(物質)が無くなっても、肉体界を去っても、幽界、霊界、神界で生き続けるのです。(永遠の生命)

仏教で肉体界を去ることを他界というのも他の世界(幽界、霊界、神界)へ往くということです。

死ぬことを往生(おうじょう)するというのも、生きて往く(魂、心が)ということです。

人間は死ぬ(肉体界を離れる)と幽界へ行きます。

そして想念(心)の重さによって、幽界でとどまるか、霊界に行くか、神界に行くかが決まるのです。

つまり肉体界を離れるときに、スッキリしているかどうかです。

恨みが残っていたり、心残りがあったり、肉体(界)へ執着があったり、死後の世界のあることを理解していなかったら、霊界や神界へは行けずに迷いの世界である幽界でさ迷いつづけるのです。(そして肉体界に悪影響を及ぼす)

本当の私たちはどこにいるかというと神界にいるのです。

神界とは天国であり、本心のあるところであり、宇宙でもあります。

パーフェクトな素晴らしい自分がいる場所であり、すべてが調和し愛に溢れた場所なのです。

ですから本当の自分はそこにいて、そこから霊界、幽界を経て肉体界に降りて来ているのです。

どうして素晴らしい神界の自分がそのまま肉体界に降りて来ないかと言いますと、幽界(幽体)が汚れてしまっているからです。

何度も輪廻転生しているうちに、神界・霊界と肉体界の間の隙間(幽界)に業(カルマともいう)、つまり間違った業想念が溜まって、神界からの光が曇ってしまったのです。

人間とは天地を縦に貫く光の柱なのに、神界(宇宙)に意識が無く、横ばかり(他人や欲望)に意識が行って、光が弱くなってしまったのです。

今こそ私たち人間は、

「私たち人間は肉体界だけに生きているんではないんだ、本当の自分は神界にあるんだ、自分は天地を貫く光の柱なんだ、肉体界の出来事はすべて仮の世界での出来事で過去世のものが映って来ているに過ぎないんだ、消えてゆく姿なんだ」

「現われて来ているものに把われず、振り回されず、意識を本心のある天に向けていれば、天のエネルギーがそのまま入って来て、今の自分よりももっともっとすばらしくなるんだ、本当の自分になれるんだ、なぜならば自分は神の子だからだ」

ということに気づかねばなりません。

もうその時期に来ているのです。

意識を宇宙のまん中に向けてみてください。

きっと本当の自分がそこにいる感覚をつかめると思います。

そこからすべてのメッセージが届くのです。

そのメッセージは本当の自分からなのです。

 

 


宗教の道というのは、永遠の生命を自分のものにする道なのです。

肉体の人間というのは永遠ではなく、五十年八十年の生命です。

近頃長生きの人が増えましたけれど、大体百以下の生命です。

ところが実際の生命というのは永遠なのです。

永遠不滅なのです。 生き通しの生命なんです。

これは肉体にいるとなかなかわからない。

しかし霊覚を得たものにとっては、永遠の生命であることがわかるわけです。

私どもはつねに神々の生命と交流し、自分の本体がどこにいるかわかっています。

肉体でこうしてしゃべっている自分がおります。

しゃべらせている私もいるわけです。

ズーッとズーッと高い所に、五井先生がおって、白髪であごひげの長い先生がいるんです。

衣冠束帯(いかんそくたい)の恰好をしている時もあれば、白髪三千丈ではないけれど、眼光けいけいとした大きな先生もいるわけです。

よく村田さんの 『霊界通信』 に、霊界へ誰か行くと、白光燦然として光の中から五井先生が現われます。

五井先生って肉体に生きているのに、どうしてあっちにいるのかしら、と思うけれど、あっちにもいるんです。

あっちが本物で、こっちは偽物じゃないんだけれども、こっちは分生命なんですね。

向こうは神界におりますから、こうこうと輝いて宇宙世界を照らしているのです。

その神界の光波ズーッと肉体にきて、肉体界の代表として五井昌久という人がここにいるわけなのです。

いうなれば、天地をつなぐ光の柱です。 天と地をつなぐものの、今この私が中心になっているわけです。

皆さんも実は天地をつないでいるのです。

誰でも彼でも、天と地をつないでいるのだけれども、天の自分がわからない。

てんでわからない(笑)。

わかっている人も大分あります。 いわゆる消えてゆく姿の肉体生活にあんまり把われないということは、それだけ天の自分に還っているわけです。

肉体にいながらも、天の自分の中に住んでいる、そういう人が多くなればなるほど、この地球世界は立派になるわけです。


 

     「永遠のいのち」 五井昌久 白光出版





 



 

 

2013年11月27日 (水)

自分の幸せだけを願っていていいのか?

   

自分のことばかりを想っている人、自分や家族までの心配はするけれど、それ以外の人はどうなっても知ったことではないと想っている人

お金をたくさん欲しいと想っていて、「寄附をするなんてとんでもない」 と想っている人、自分の病気や将来に対する不安が常にあって関心がそこにしかない人などは

「自分だけの幸せだけではなく、日本人や世界中の人たち、宇宙人類の幸せを願いましょう」と言ってみても時期尚早なのです。

おそらく、一番最後に救われる人たちだと思います。(良い悪いとかではなく)

人間とは心がすべてのすべてです。

だから自分の心の中のものがじわりと外に出て周りの人や物に影響を及ぼすのです。

樹でいえば、酸素(プラスのエネルギー)を出しているか? 二酸化炭素(マイナスのエネルギー)を出しているかの違いです。

生まれてこのかた、自分よがりの自分のことしか考えていないしかもマイナスのエネルギーしか出していなかったとしたら、それは宇宙にとってなんの貢献もしていないのです。

恩を仇で返しているようなものです。

だがしかし、もしそんな人たちが

“世界人類が平和でありますように 日本が平和でありますように 私たちの天命がまっとうされますように 守護霊様ありがとうございます 守護神様ありがとうございます”

と宇宙と共鳴する世界平和の祈りを祈るようなことがあれば、その人の周辺は、宇宙の無限のプラスのエネルギーで漲ることになるのです。

自分は3次元的には、目に見える世界では、あまり貢献できなかった、世の中に恩返しが出来ていなかったという人がいたとするのなら

世界平和の祈り、印はこれまでの生き方を一挙に帳消しに出来るのです、マイナスをプラスに代えて何倍返しにも出来るのです(笑)

過去を消し、潜在意識を消し、未来を変えることが出来るのです。







“己が幸願ふ想いも朝夕の世界平和の祈り言の中” という歌のように自分の幸せを想わない人はありません。 自分の身体が丈夫でありますように、自分の家が幸福で仲良くいきますように、お金もないよりあるほうがいいだからあるようにと、そういう自分の幸せを想うのは当たり前です。

それと同時になにかしら人の世のために役に立ちたいという気持ちがなければ、人間の道を踏んでいるわけではありません。

この肉体の自分というのは、天の恩、地の恩、先祖父母の恩、あらゆる恩恵によってこの一つの生命体として生まれてきたわけです。

それをなんにもこの世に恩を返さないで死んでしまったら、生まれたことがマイナスになる。

それなのに、今の若い人たちの中には、親が勝手に生んだんだ、とか、俺はもう二十歳になったんだ、自分に命は自分の勝手にするんだ、ほっといてくれ、ってなことを言って我まま一杯して、イザ困ると親にすがってくる、そういう人が大分あります。

 

           「永遠のいのち」 五井昌久 白光出版



 

死ぬこともおめでたい

 


生きている中で 「あれは不幸だった」 「あのときは地獄図だった」 「自分ほど不幸を経験した者はいない」 「私は生きている間で善いことなど一つもなかった」 と不幸を認めて不幸を掴んでしまっている人というのは、プラスさえマイナスにしてしまうのです。

反対に

「あのときの苦労があったから今の自分はあるのだ」

「あのときの経験が自分を強く、そして愛深くしてくれた」

と思える人は心は天国にあるのです。

死に関してもそうです。

形のあるもの(肉体)は必ず無くなります、消えます。

それを不幸と呼ぶのなら、人間には幸せはないことになる。

死を不幸だと思っているからそのきっかけになると思っている病気になることも不幸だと思ってしまう。

死というものをちゃんと正確に捉えていないから、死ぬことがおめでたいことなのか、おめでたいことでないのかさえもわからない

肉体人間とはそんな基本的なこともわかっていないのです。

人間(自分)とは、どこからやって来て、どこへ行こうとしているのか?

人間(自分)とは一体何者なのか、神の子なのか悪魔の子なのか?

人間は死んだら何処へゆくのか?

死んだら心まで無くなってしまうのか?


もうそろそろこれらのことに気づいてもいい時期に来ていると思うのです。

そしてたくさんの人がこれらの疑問に気づき、本当の答(真理)を導き出したとき

地球という星は、まったく新しい星に生まれ変わるのです。

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人間の一番重要なことは、生まれてくることと死ぬことです。 これ以上重要なことはまあない。 それからいかに生きるかというのが問題になりますが、生に始まって死に終わる。

これは人生の重大問題です。

生まれてくる時は生命を受けたという喜びがありますが、死ぬ時はみんな喜ばない。 大体が泣きます。 目に見え手にも触れなくなるわけですから、みんな悲嘆にくれるわけです。

ところが、大きな意味の人生の本性、永遠の本性からいきますと、生まれてくることも、あの世に行くことも本当はおめでたいんです。

ただおめでたくない生き方もある。 それはどういう生き方かというと、心の中にいろいろな業想念、例えば迷いの想い、恨みの想い、肉体に執着する想い、この世に把われている想いがたくさんあり、その想いのままに生きていると、あの世へ行くことが嬉しいことじゃなくなる。

実際にあの世へ行っても苦しみますから。

わけても霊界のあることを信じないで、否定していて、肉体が亡くなればそのままでもう人生は終わりだ、死んだら生命があるものかという想いのままであの世へ行けば、一番不幸せです。

死後の世界を否定しているのですから、意識が甦れば肉体の世界に甦えったと思うわけです。

そこで肉親や知人の肉体にまつわってきて障りになったり、あるいは闇夜のなかを歩いてみたり、生命のないところをうごめいている。

それは一番恐ろしいことです。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

  

            「永遠のいのち」 五井昌久  白光出版


2013年11月26日 (火)

人間の頭の判断力というものはお粗末なものなのです。

 


テレビ番組の悪口をいうわけではないのですが、ある議題があってそれについていろんな評論家、知識人、著名人が喧々諤々(けんけんがくがく)自分の意見を述べ合っている人気番組があるのです。

しかし聞けば聞くほど入り込めば入り込むほど、お互いが我のぶつかり合いをしている、感情のぶつけ合いをしている姿しか映って来ないのです。

AさんがBさんに「この局面を乗り越えようとしたら小さなことに拘らず大局的に対処しなければならない、だからそんな小さなデメリットの少数意見など聞かず、C政治家の思う通り推し進めてゆくことがリーダーシップを執るということであり国民が真に求めていることです」

と言っていたかと思えば

「そんな大雑把な考えではダメだ、小さなことから大切にしていかないと後で取り返しのつかないことになる」 と真逆のことを言ったりする。

それも自分が気に入っている人がやることには、大まか(寛容)になり、気に入らない人には、感情的になって声を荒げ、必要以上に攻撃する。

もしC政治家が気に入らない人だったら、自分の考え(ポリシー)よりも嫌い(感情)が勝ってしまい、猛攻撃をしていたのではなかったか?

好き嫌いで決めているのではないのか?

とどのつまり最後は知識の比べ合いになり

「なんだそんなことも知らないで偉そうに意見を述べるな!」 になってしまう。

結局自分の都合のいいように、自分の物差しが一番正しいんだと押し付けているだけなのです。

誰も、俯瞰的に宇宙的に人類的に、調和的に平和的に愛を持って述べる人などいないのです。

つくづく 「肉体人間って本当にどうしようもない馬鹿なんだなぁ」 と思ってしまうのです。

そしてついうっかり人間神の子を忘れてしまいそうになります。無限なる光!

だがしかし 「この肉体人間はほんとうにどうしようもないお馬鹿なんだ」 が大切なのです。

肉体人間は欠陥だらけだ、どうしようもない

肉体人間だけだったら必ず地球人類は破滅する

自分も馬鹿だし他人も馬鹿だ、もう生きるのが嫌になった

だがしかし、完璧なものがあるはずだ

この素晴らしい地球や宇宙があるということは完璧な何かが存在するのではないだろうか?

そして自分の中にも他の人の中にも素晴らしいものが隠されているのではないだろうか?

完璧なものに意識を合わせれば自分もそのようになってゆくのではないか?

諦めるのはまだ早い!



肉体人間の自分に期待しているうちはダメなのです。

肉体人間の他人に神の姿を見出そうとしてもダメなのです。

業想念でコテコテになった人に神性(愛)を求めても無駄なのです。

この考えは、人間悪魔の子を述べているようですが違うのです。

一旦、もうダメだと諦めてしまうと気持ちがスッキリします。

そして切り替えが出来るようになります。(未練が無くなるのです)

あきらめるとあきらかになるのです。

だから、業の子と神の子を分けて考えなければ肉体界のことは解決しないのです。


 



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ところが結婚をしてから30年も経つけれど、私は主人のことがちっともわからないんですよ、と言って私に教えを乞いにくる人がおります。 30年も一緒にいてわからないのはおかしいようだけれど、実はわかったように思っているだけで、本当はわからない。 というよりもっと深く言えば、実は自分自身のことがわからないんですよ。 自分は一体どういうものかわからないのですよ。

いくつもいくつも心(想い)があって、いろいろ探ってみると、一体自分は気が弱いのか強いのか、気が長いのか短いのか、情深いのか冷淡なのか、わからなくなってくることがあるんです。

何が自分を判断するかというと、自分の好みとか自分の習慣の想いで、自分を判断し、人を判断するわけです。

習慣の想いは何かというと業想念という。

前の世、前の世の過去世からのいろんな想いや行ないがありまして、それが幽体に積もって習慣になり、習慣の想いというものが積り積もって業になるわけなんですね。

そういう目から観じますと、人間というのは業想念の、相対的な自分の善悪、いわゆる自分の都合で変わってくるわけ。

去年まで付き合って、あんないい人はいない、と言っていたのが、何かの都合で、自分に都合の悪いことを言ったり、やったりすると、あんな意地の悪い、あんな悪い人はいない、と言ってきますものね。

この間まで、褒めて褒めて褒めちぎっていた人を、今度はあんな悪い人はありませんと言う。

自分に都合が悪くなると、途端に悪くなっちゃうんですよ。

それほどに人間の頭の判断力というものはお粗末なもんです。

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「自分も光る人類も光る」 五井昌久 白光出版


肉体の自分、他人に期待をするな

 

まず、第一のポイントは自分が今どんな世界に住んでいるか? なのです。

ほんとうは幽界(潜在意識、迷いの世界)、霊界(霊界にも段階があるが下は少し汚れているが上部は浄まっている)、神界(浄まった世界天国ともいう)にも同時に住んでいるのだけれど、ほとんどの人が肉体界しかないと想っているので、肉体界だけが現実のようになってしまっているのです。

その肉体界はどんな世界かというと、まず、天(神界)があって地(肉体界)があります。

地は地獄なのです。ただし地獄だけではなく、神界や霊界や幽界が玉石混交した、つまり肉体界とは、神界の美しさもあるし、地獄のような醜い部分もあるのです。

私たちは心から感動したときなどは、自分が天使のように清らかに思えたり、人を憎んだり妬んだりしたときは、「私は悪魔の子か」 とがっかりするのです。

それは、肉体界だけに意識があり、肉体界の美しいところや醜いところに波長が合っているからです。

だから私たちはまず、自分も含めた肉体界の人間とはどんな人種、性格、人格を持ったものなのか?をハッキリと知らなければなりません。

肉体人間とは、潜在意識の中に、神の子から離れた醜い心(業想念)を持っており、過去世からそれが録音されていて、今流れてきているのです。

「こんなこと想っちゃいけない」 と思っても思ってしまったり、憎んだり、妬んだりしてはいけないと想ってもその気持ちが抑え切れないのは今ではなく、すべて過去からの蓄積なのです。(だから今の心境を嘆いてもしかたがない)

それがまた録音されて潜在意識となり、想いの世界が幽界となり、その幽界が汚れているから、その幽界にくっついている肉体界が壊滅状態寸前まで来ている。

今肉体界は、幽界がそのまま写って来ているのです。

幽界は肉体界と同じく不完全です。

そして肉体界に住んでいる肉体人間も当然不完全なのです。

だがしかし、私たちは人間神の子を信じないのに、自分や相手の人には神の子を求めるのです、期待するのです。

厳しいのです。

「あの人は私のことをわかってくれない」

「ついこの間まで私の味方だったのに・・・・」

「これだけ私が尽しているのに・・・・」

「裏切られた」

「傷つけられた」

「悪口を言われた」

「手の平を返された」

「理不尽なことを言われた」

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これは相手に対してだけでなく、自分にも浄らかな自分を期待するのです。

「自分は去年よりも成長した、だからこれくらいの苦難は乗り越えられるはずだ」

「自分は愛深い人間だ、だから人の悲しい姿を見ると放っておけない、他人事を我事のように思える」

そうやって自分を美化し他人を美化し、無理をする

しかし心が伴っていないので、ショックが大きいのです。

いっそのこと、自他共になにも期待しなければどれだけ楽になるか?(笑)

これまで地球上に現われた聖者賢者は、肉体人間に一切の期待などしなかったのです。

キリストさまが一番弟子に裏切られて磔になり殺されても、お釈迦さまが逆恨みされて何度も命を狙われても

肉体人間を一切相手にしなかった、恨まなかった、期待しなかった

それは肉体人間が不完全であることを知っていたからです。

最初から期待していなければ、感情的になって怒ることもありません。

「しかたがないなぁ」 しかないからです。

しかし、ただ一つ期待するものがあった

それは肉体人間に付いている守護霊守護神だったのです。

肉体人間はバカだけどなんの期待も出来ないけれど、その後ろ(上)に居る、守護霊は、悟っているなんでもわかっている、そしてその上の守護神は守護霊をサポートし守りを万全のものとしている。

肉体人間がその存在に気づき、一体となれば、肉体人間は途端に覚醒し、悟り、すべてを知り、文字通り、“神の子”になる。

今はそのプロセスなのだ。

守護霊守護神の存在(パーフェクト)を知らないから無理もないんだ。

不完全で当たり前なのだ

だからそのプロセスの不完全を見て、不完全さを嘆いてもなんの意味もないのだ。

ということなのです。

真理がわかれば、どんなことにも寛容になれるのです。

自分も他人も許せるようになるのです。

真理を知ること、守護霊、守護神と一体となることは、人間が真の幸福を掴むことなのです。



   

私などずいぶんいろいろな経験をしています。 先生のためなら命もいらない、なんて言ったって、なんかで都合が悪くなれば離れてしまい、どこかへ行っちゃったりする。

それでまたやがて都合がよくなって 「先生、どうもご無沙汰いたしまして!」 とやって来ます。

私は肉体人間など、悪いけれども、何にも信用していない。私が信用しているのは、守護霊だけですよ。 皆さんの本心と守護霊守護神は信用していますけれど、肉体の人間というのは業想念だからね、悪いことを言われてもなんとも思わない。 さんざん恩を着せた人が他で悪口を言ったとしても、それは当たり前、消えてゆく姿だと思っています。

別になんとも思わない。 あのヤロウこのヤロウ、くやしいなんて思わない。 もう始めから諦めているから。

あんまり肉体人間に期待しちゃダメですよ。友だちにも親にでも、なんでも期待しすぎると、しっぺ返しされますよ。
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自分に対しても、他人に対しても、肉体人間は業想念の人間だから、肉体人間には、一切期待してはならないのです。



 


   
「自分も光る人類も光る」 五井昌久 白光出版



 

 

2013年11月24日 (日)

今日の行ないが明日、明後日になって返ってくる

 

この目に見える肉体界というのは、善いものと悪いものが玉石混交した世界なのです。

そして、自分で自分が嫌いだと思っている性格も、あなたの嫌いな人も、不完全な姿が今目の前に現われているのです。

目にみえるものをどうにかしようとしたら、その奥に控えている目にみえない不完全なもの(幽界)を浄めなければどうにもならないのです。

それは目にみえるものは、みえないものの影だからです。

目にみえないエネルギー(幽界)が整ってから、目に見える現象が整ってくる。

そして、みえないエネルギーが整ったからと言って、それはすぐに結果になって現われてはこないので、焦ってはダメなのです。

たとえば、今あなたの風邪の症状がピークに達しているとします。 

高熱が出ている、咳が止まらない、鼻水が出る、身体のふしぶしが痛い・・・・・しかしそれは悪いものが出切ってしまう前の状態であり

出てしまえば後は良くなるのです。(夜明け前が一番暗い)

台風と同じですね、今がピークだとすると後は収まってゆくだけです。

それはもう治りかけているのです。(時期が来ないと治らないというのはそういうことです)

なのに、一番悪い状態を捉えて

「最悪だ!これからどうなるのだろう?」

と思ってしまうのと

「ラッキー、これでもう悪いものは出た、後は良くなるだけだ、前よりも善くなるんだ(強くなるんだ)」

と思うのでは雲泥の差なのです。

それは、マイナスを掴んでしまうとなかなか好転しないからです。

せっかく消えてゆこうとしているのに、しっかり掴んでしまっているからです。

これからいろんなこと(消えてゆく姿)が起こります。 その時に真理を掴んでいる人と知らない人では、天と地ほどの差が出てくるのです。

天とは天国であり、地とは地獄のことです。

心が天界にあるか、迷いの世界、幽界にあるかの違いです。

心がすべてを決めるのです。

「自分は幸せだ」 と思っている人は、取り巻く環境がどんなものであっても幸福な人であり

「自分は不幸せだ」 と思っている人は、どれだけ人や物品に恵まれていても幸せではないのです。

話を元に戻して、目にみえない世界(幽界)を浄めるためにはどうしたらいいかというと、光の世界(宇宙、神界)に自分の波長(波動)を合わすことしかないのです。

波動(ヴァイブレーション)を合わせることで自分は光の柱となります。

宇宙からの無限のプラスのエネルギーが入ってきます。

するとその光は自分の肉体を通して幽界を浄め、潜在意識、過去世が浄化され調って来るです。(もちろん守護霊守護神の協力を得て)

そのメソッドが世界平和の祈りであり、印を組むことなのです。

目にみえて現われていることは、目にみえないものの裏返し、表裏一体なのです。

意識を目にみえない世界に向けましょう(霊界、神界、宇宙)

そして、パーフェクトな世界に意識を合わせましょう。

するとあなたの周りは、やがてすべてが調って来るのです。

それが宇宙の法則(真理)なのです。






今生の行ない、今生の運命というものは、すべて過去世の行ないの裏返し。だから一日にたとえれば、その日にやったことが、やはり明日、明後日、しあさってに現われてくる。

だから一日一日が大事なのです。

朝起きた時に世界平和の祈りをして、皆が無事であることを祈って、それで始まる。

その日それでズーっとその世界平和の祈りの波に乗って仕事をして、また寝る時、世界平和の祈りで明日につなげてゆく。

毎日毎日、世界平和の祈りでつなげてゆけば、世界平和の祈りというのは、神様の目的なのですから、神のみ心がそのまま現われている世界なのだかえから、その中に毎日毎日入ってゆく、毎日毎日入っていることは、その人自身が光の中に入っているのだから、その人自身が必ずよくなるに決まっている。

それと同時に、世界平和の祈りの中には、隣の人も向いの人もみんな入っているのだから、その人たちも光の中に入っているわけです。

するとその人たちもよくなるに決まっている。 というふうに、すべての人が世界平和の祈りをしていれば、お金をやるとか物品をあげるとかするよりも、よほど光り輝く世界に導いてくるのですから、その方が愛でしょう。

    「自分も光る 人類も光る」  五井昌久 白光出版


 

2013年11月21日 (木)

大学に落ちただとかそんなことあまり大したことではない。






だから子どもの天命でも、どこにあるかわからない。 大学入試を落ちたために偉いお坊さんになるかもしれない。 高等学校に行かなかったために、素晴らしい発明家になるかもしれない。 神様のみ心というものは、どういうところに現われるかわからないんですよ。

だから現われてきた、目先の喜怒哀楽、目先の出世だとか、学校に入った入らない、そんなことはあまり大したことではない。

一番大したことは何かというと、しっかりと神様につながっていること。

どんな悪いことが出ても、ああこれは消えてゆく姿だ、私の本当の姿がこれによって現われてくるんだ、ああこれも消えてゆく姿なんだ、これで本当の姿が現われてくるんだ、というように、いつもいつも明るい希望、灯をこの中で、自分の中で照してることです。

いつもいつも自分が光輝かなければダメだ。 光り輝くのは明るい心です。

楽天的な大希望ですよ。 大きな希望を持ち、楽天的な気持ちを持つ。 これが人間が立派になるための易しい方法です。

暗い心があるならば、陰気な淋しい想いがあるならば、神様! ってすがりなさいよ。

ああ神様は愛なんだ、神様が私を悪くすることはない、とそう思うのです。

私は世界平和の祈りも何もない時に生まれて来た。 それで私は何をしたかというと、私は 「神様! 神様!」 って言ったんですよ。 神様有難うございます、神様有難うございます、神様有難うございます、神様有難うございます、朝から晩まで、神様有難うございます、だったの私は。

「どうぞみ心のままになさし給え。 どうぞ神様のいいように私をお使いください」 それだけだったの。

そうしたら神様は 「よーし使ってやる」 ということになったのでしょう。 それはハッキリ私に聞こえたわけだね。

それからいろんな苦労もしたけれども、ついに今みたいになった。 だから皆さんも、神様は愛であることを信じなさい。 絶対なる! 信ずる通りに汝になれ、というのは本当なの。 ただ信じればいいんです。

     「自分も光る人類も光る」 五井昌久 白光出版




 

 

自分の想いを投げ出して、運命を神様に任せたとき、光輝くのです。

 

大人の人間がなぜ幸せになれないかというと絶対なるものがないからです。

赤ちゃんやものごころがついていない幼子が幸せそうに見えるのは、絶対なるものがあるからです。

赤ちゃんや幼子は、自分では何も出来ない、だから母親にすべて全託なのです。

朝起きて、食べることから、おしめを代えてもらうこと、あやしてもらうことまですべてやってもらえる、泣きわめいても、うんちをもらしても、ミルクが遅いと怒っても

「かわいい、かわいい」 と笑顔で接してくれてすべての我儘を許してくれるのです。

こんな楽なことはない(笑)

赤ちゃんは信じ切っている、「この母親に任せておけば自分は絶対に幸せになる」・・・と

本当は、そんなことは想わないのだけれど(笑)

赤ちゃんの心境を代弁するとそうだと想うのです。

「私のいのちはすべてあなたにお任せしました、どうぞお母様のお好きなようにお使いください」

なにも出来ない赤ちゃんにとって、母親は神様なのです。

オールマイティ(完全)なる存在なのです。

だがしかし、赤ちゃんが成長し、物ごころが付いてくるようになると

母親がオールマイティ(神)でないことに気づき、頼ろうとすると 手のひらを返したように

「甘えるな、いい加減でもう自立しなさい」 (笑)

と言われるようになる。

あの幸せだった日々はなんだったのか? と途方に暮れるのです。

そして完全なるもの、絶対なるものを失った人間は、不安になるのです。

「これからどうしよう」

「自分はこれからどうなるのだろう?」

「私は誰かに愛されているのだろうか?」

そんなとき、幼い時に居た母親のように

「あなたは絶対に大丈夫よ、だって完全なる私がついているんだから、私はあなたにどんなことがあっても必ずあなたを愛し、守り続けます」

と言ってくれる人がいたら、どんなに精神的に楽になるでしょう。

守護霊様、守護神様とははそんな存在なのです。

自分の運命は神様は知っていらっしゃるのです。

だから自分でどうにかしよう、どうなるんだろう? とじたばたすることはないのです。

神様にすべてをお任せすればいいのです。


 

本文

神様は絶対なる愛なんです。

これを信じなきゃダメです。

私なんかこうなる間に、随分神様の愛を知ってきました。

ことごとに神様(守護神)の愛をよーく知り素晴らしいなァと思っています。

守護神は危うくなれば助けてくれる。 

溺れそうになれば引き上げてくれる。

まいりそうになったら絶対に助けてくれる。 

神様に全託して不幸になることは、絶対にないことを、私は自分で確信しています。

また私のところへ来ている人たちも、皆そうです。 

だから第一番になさねばならぬことは、神様は愛なんだ、神様は絶対に人間を不幸にすることはない、と断固として思うことです。

神様は絶対に人間を不幸にすることはないんだ。 

だから神様にすべてをあずけて、世界平和の祈りをしていればいいんだ。 

自分の運命は神様が知っていらっしゃるんだから、神様に協力して、世界人類の平和を願おう。 

そういう気持ちになると、その人はダーンと高くなってしまう。

どうか病気を治して、子どもの運命を・・・・とやっているのが、世界人類が平和でありますように、私どもの天命がまっとうされますように、と祈ると、ダーンと上にあがっていっちゃうんですよ。

世界人類の幸福を願う想いと、自分一人の運命の幸福を願う想いと、どちらが広いか、これは一目瞭然わかりましょ。 

世界人類が平和でありますように、という想いは崇高なる想いです。

その想いの中に、全部自分の運命を委ねるんですよ。 

そうしますと、自分の体から後光が射します。 

光り輝くのです。

 

        「自分も光る 人類も光る」 五井昌久 白光出版


 

 

2013年11月19日 (火)

心の持ちよう

 
 
私は今、体調を崩しているのですが(余り詳しくは書きませんがかなりしんどいです)その姿は、家に一緒にいる妻には見せていますが、他の人には、カラ元気であっても気丈に振る舞い、弱味を見せたくはないのです。

それは自分自身だけの問題であり、たとえ

「今、しんどいんだ」 「俺はもうだめかもしれない」 「このまま良くならなかったらどうしよう」 「仕事やめたいな」 と泣き言を言ったところで、相手の人はどうしたらいいかわからず、懸命に適切な慰めの言葉を探すのです。

相手に同情してもらって、気を遣ってもらっても相手には何のメリットもない、それどころかネガティブな気持ちが伝染して

「あんな強かった奴がああなるんだから自分も気をつけないとやばいなぁ」

「あいつ気功をやっているから病気なんてしないと思っていたのに」 (笑)

と思われることくらいのものです。

だったら、うその姿であっても現状の情報など流さず、会っても気丈に振る舞い

「あいつはいつも元気だなぁ」 「俺も元気でいよう」 と思われた方がずっといいのです。

メールでもツイッターでも自分の現状を語る手段はいくらでもあります。

ネガティブな情報もポジティブな情報も、流手の気持ち次第なのです。

自分が何かをやり遂げようとしている

そして今はそのプロセスにあるとする

その経緯を逐一、ツイッターなどで報告する

当然上手くいっていることの方が少なく、ネガティブな気持ちのつぶやきが多くなる、そして愚痴っぽくなってゆく

「おれは苦しいんだ」 「最悪!」 「頑張っているんだ」 「もうだめだ」 「あいつがいるから上手く行かないんだ」 「○○に嫌なことを言われた」 「体調も最悪、この先どうなることやら」・・・・・・無限なる光!

泣き言を書くことでマイナスを吐きだしてスッキリしたつもりだったのに、その言葉は返って来て自分の中にマイナスのエネルギーを植え付けてしまっている。

そして知らず知らずのうちにマイナスのエネルギーを振りまいてしまっているのです。


だから私はどんなことがあっても泣き言は言いたくないし、書きたくないし、見せたくもない

それは一切いいことなんてありやしないから

百害あって一利なしだから

下記の五井先生のお言葉を読んでそう思ったのでした。


 

或る日こういう質問をした人がいた。「先生、何故この世に迷いがあり、悪があり、苦しみがあるのでしょう。神が完全であれば、何故人間を迷わない、苦しまないように造らなかったのでしょう?」この質問はよくされるものであるが、その時、五井先生は次のように答えられた。


「それは心の持ち方ですよ。登山者は山に登る苦しみをへて頂上にたどり着く。その喜びはそれは大変なものです。その場合、苦しみは悪いことだろうか?その人にとってただ単に苦しいことか?あるいは喜びであろうか?楽しみであろうか?


或る人がお酒を止めようと思ってもお酒を止めることが出来なかった。その人はついに病気になってしまった。それが動機となって信仰の道に入り、病気も治るし、お酒ものむなんてコリゴリだと思い、ピタリと止まり、清らかな生活に入っていった。

この場合、この人にとって病気は悪いものでしょうか?その人にとって善なるものでしょうか?その人にとってよかったわけですね。よいからこそ守護霊さんがそう導いたわけです。赤ん坊が最初から大人のように大きかったら、育てる楽しみがなくなってしまいますね。

赤ん坊がだんだん大きく成長して、完全になっていく、というところに人生の妙味があるのだし、よいところがあるのです」

帳消しってありなんだ

 

少し前のNHKの朝ドラで 「ゲゲゲの女房」 がありましたが、ゲゲゲ(水木しげる)の奥さんは、夫の漫画が認められるまでは散々貧乏をし、辛い想いをしていたわけです。

今の人だったら、すぐに別れて実家に帰ってしまったり、他の人と再婚したでしょうが、この女房は夫を見捨てなかった。 夫の才能を信じていた、そして夫のことを尊敬し、好きだったのだと思うのです。

貧乏をした、辛い想いをしたということは不幸だったか?というとそうではなく、不幸?というマイナスよりももっと大きなプラス(幸せ)を感じていたから自分を不幸だとは思わなかったのだと思うのです。

私の友人で、奥さんと子供さんを捨てたやつがいるのですが、捨てられたことを不幸と捉え、ずっと友人のことを恨んで生きて行くのか?

それとも、別れたことがきっかけで素晴らしい人との出会いがあったり、新たな生き甲斐を見つけられたり、精神的に強く、そしてやさしくなったり、自立する喜びを感じたり・・・・・

「私と子供たちは捨てられたけど、その後の人生は素晴らしいものになりました。このことがなければ決して味わえない経験を積むことができました」 とマイナスをプラスに転じてくれたならどんなにいいだろう? と思うのです。

人間生きていると必ずと言っていいほど、辛いことがあるのです。想定外のことが起こるのです。信じていた人から裏切られたりするのです。

そのことをどう捉え、そしてそれをどうのように転じてゆくのか? 変化させてゆくのか?

どうマイナスをプラスに転じてゆくのか?

私の尊敬するお釈迦様は、奥さんと子供(のちにお父さんの弟子になる)は不幸にしたかもしれない、しかし仏さまになってその当時のたくさんの人々の心(魂)を救ったのです。

そしてその影響力は今も燦然と光輝き、響き渡っています。(地球上、そして宇宙に)

過去世で私たちは、散々悪事を重ねて来たのです。

そして今を生きている・・・・・。

私たちは今こそ、お釈迦様のように

「帳消しにする人生」 を歩むべきではないでしょうか?(笑)

私は、それが、世界人類の平和を祈ることだと確信するのであります。

 

世界人類が平和でありますように

日本が平和でありますように

私たちの天命がまっとうされますように

守護霊様ありがとうございます

守護神様ありがとうございます

 

神さまの中に入りきった

 

私が30歳まで、何も悪いことを一つも考えなかったかというと、そんなことはない。 きれいな女の子を見りゃ 「ああ デートしてみたいな、連れ立って映画でも観たいな、音楽でも聴きたいな」 と思ったことは随分ありますよ。

「ああ あのライスカレー食いたいな」 と思ったこともあるし、 「あの憎らしいヤツ、やっつけちゃおう」 と思ったこともありますし、人を殺しちゃった夢を見たこともありますよ。

「あのヤロウ憎らしい、やっつけてやるから思い知れ!」 と思ったら、人殺しそうになって追っかけたような夢も見たことがあるんですよ、前にね。 そういう風に、何も悪いことを思わないで生きてきたわけじゃない。

お釈迦さまだってそうです。 何も悪いことを思わないで、それで聖者になったわけじゃない。

何でもしたんです。 私よりよっぽどやったよ(笑)。 お釈迦さまは王様の子だけれど、占者が 「この王子はもしかすると出家するかもしれない」 と王様に言ったら、王様はびっくりして、この王子を宮中に止めておこうと思い、なんでもかんでも歓待して、美人をはべらせたり、ありとあらゆる王子のわがままを許したわけだ。

だからいろんなことをしてるわけですよ。 でもいくらそんなことをしても、魂が清いからあきちゃうわけです。

しかしやらなかったかというと、やったわけです。 ちゃんと奥さんも貰った。 それで奥さんも捨てちゃった、子供も捨てちゃった。 奥さんを捨てたり、子どもを捨てたりすることはいいことじゃないよ。

ちっともいいことじゃない。 だけどそれにもまして、仏になってみんなを救ったということがいいことでしょ。 だから奥さんを捨てたことや子供を捨てたことが帳消しになっちゃったんですね。

 

     「自由解脱への道」 五井昌久  白光出版



  

2013年11月18日 (月)

最悪はないんだ


 

私たち家族(私、妻、息子)と私の両親は、とても仲がよく、息子が小さい頃から、毎年のようにずっと一緒に旅行をして来ました。


息子が東京の大学へ行って距離的には離れてしまっても、夏休みの頃になると息子も旅行を楽しみにしているらしく、都合をつけて参加してくれています。

年老いた両親にとって息子夫婦と孫との旅は格別なものがあるようで、とても喜んでくれているので、これも 「親孝行かな」 と自負している次第です。

「これが最後のみんなとの旅行になるかもしれない」 それぞれにそんな感慨を持ちながらの楽しいひとときなのです。

しかし、旅行がスケジュール通り順調に進んでいくかといえば、まともに行くことのほうが珍しく、今回も2回キャンセルを繰り返しました。

原因は息子で、「ごめん、学校に提出するレポートを忘れてた、その日に出さないと単位をもらえない(卒業が危うくなる)」

「ごめん、その日に就職の2次面接と重なってしまった、他の日にして!」

もっと段取りよくすればいいのに、融通と利かせればいいのにとも思うのですが、息子は生真面目なところがあってこちらのアドバイスには耳を貸さないのです。

結局、私も妻も両親も予定を組み直して、やっと当日にこじつけたのです。

「おまえなぁ、いい加減にしろよ」 と言いたいところですが、誰も叱るようなこともせず、無事めでたく、楽しい旅行は終了しました。

そしていざ旅行が終わってみると、その日がベストだったように思うのです。

天気は抜群!(前の週は台風でした) 気候も最高! みんなの体調も良く(少し前まで父がしんどそうでした)

「この日が最高!」だと思えたのです。

もし違う日に息子を説き伏せて無理をして行っていたのなら、何か悪いことが起こっていたのかもしれない。

「もしかしたら、息子の守護霊様がそれを察知して息子を行けなくしたのかもしれない」

私たち家族は、何か大きな力(サムシング・グレート)によって守られているのではないか?

そう思えてならないのです。

大難が小難になり、良いことはもっといい状態にしてくださっている

だから、自分に都合の悪いことだと思うようなことがあっても、それは自分の狭い了見の中だけで判断しているのであり、本当はすべて良いようになるようになっているんだ。(宇宙法則に乗っているんだ)

と心から思えるようになったのです。

こうなると強いですよね、どんなことがあってもネガティブになることは無くなります。

幸せな気持ち、感謝の気持ちしか湧いてこなくなる

幸せとは現象ではなく、心の中がどうなっているかなのです。

心の中が宇宙の無限のプラスのエネルギーで満たされたとき、人間は本当の幸せを手に入れるのです。

 
たとえば 「どこかへ行きたい」 という時に急に客が来る。 それもいやな客が来ると、 「ああいやだな、なんでこんな時に」 と思うでしょ。 だけど頭から言えないから、仕方ないので、ジリジリしながら相手をしているうちに、とうとう行かれなくなることもありますね。

しかしそれは、その人が悪いんじゃなくて、何かの因縁があって、業想念があって、消えてゆく姿として向こうは消してくれていたわけです。

あるいはその人はその日どこかへ行かなかったほうがよかったかもしれない。 そういう風になっているんです。

すべてその場その場で現われる出来事を、自分の都合だけで、それもその場の都合だけで、いい悪いを考えたり、イライラするようなものは、すべて業想念なんです。

だからあくまで、この世の中で現われてくるいいことも悪いことも、みんな消えてゆく姿だと思わなければいけないんです。

それで何を思っていればいいかと言うと、世界平和の祈りをしていればいい。

自分は世界平和の祈りの中に入りこんでしまっていれば、業想念はどうこようと問題ではない。

どんな悪いことがあろうと、どんないいことがあろうと、いいことがあれば喜べばいいし、悪いことがあれば消えてゆく姿だと思えばいい。

もうすべてそのまま消えてゆく姿だと思えばいいです。

いちいち自己判断しないほうがいいんです。


 
  

        「自由解脱への道」 五井昌久 白光出版




 
 


2013年11月14日 (木)

自分にとって悪い人とは自分の中の悪を取ってくれている人なのです。

 

この世的に不可解なことは、自分がドラマの主役を演じていると思えばわかりやすいのです。

自分が役者をやっていて、「今度のドラマでいい人役を演じてもらえませんか?」 とオファーが来た。

自分的にはイメージも良くなるし、家族や周りからの評判もいいし、断る理由もなく引き受けた。

しかし、「自分はこんなにいい人ではない、いくら役がらだとはいえウソっぱいなぁ」

それに比べて意地悪な悪いやつの脇役の人のほうが気持ちがわかるし、やってみたい役柄だ。

ずっと “いい人” ばかりを演じている人は私生活でもそれを続けなければいけないし、ときには破目を外して、暴れてみたいこともある、しかしそれはなかなか難しいのです。

そして何年か経って “悪役” が舞い込んできたとき

そのオファーを喜んで引き受けたりする。

自分は知らず知らずのうちに自分がイメージした役がらを演じています。

いい人なのか? 悪い人なのか? ある人にとってはいい人だけど、別の人には悪い人なのか? 家庭ではいいパパだけど、外では怖い人なのか?

自分の中で “自分とはこういう奴だ、だからこの路線で行こう!” とはっきりとした確信もないまま 見切り発車 しているのです。(あまり自信がありません)

でも絶えず、自分はこの役柄でいいのか? もっと違う自分がほんとうの自分ではないのか?

もしもう一人、自分がいるとしたのなら、全然違うキャラクターをやってみたい!(ドラマでも私生活でも)

だれもが持っている願望だと思うのです。

だからもしかして、「こいつ最低だな」 「こんなやつ絶対に友達になりたくない」 「この人のような生き方は死んでも嫌だ」

と毛嫌いしている人に対しても、自分の中ではその要素は少なからず、持っているものなのです。

しかし、自分が演じたくても(私生活において)、やるほどの勇気はない、今まで蓄積してきたものを壊すこともしたくない、人格が変わったとも言われたくない

その人がその役を買って出て、引き受けてくれるのなら、あえて自分は、嫌われる役がらを演じる必要はない。

その人を見ているだけで、「ああよかった、今生での自分の役柄で無くて」 と胸をなでおろしているのです。

それが本音なのです。

もしかしたらその役がらを演じなければいけなかったのに、その人が引き受けてくれて自分の中の業(過去世から溜まったマイナスの想念エネルギー)を肩代わりして、全部背負ってくれているんだ、相手の人は自分の鏡なんだ。

そして見せてくれているんだ

ごめんなさい、悪役をやってくれて、ご苦労さま、ありがとう!

自分にとって会う人すべてに感謝し、自分の神性が顕われるために、魂が成長するために脇役に徹してくれている人たちに

「この人たちの天命がまっとうされますように」

「悪いものが早く消えて、その人が一日も早くいい人になりますように」

と祈れる自分は、ありがたいのです。

幸せ者なのです。

  


よくあるんですよ、「先生、この人はどういう人でしょう」 と名刺など持ってくる。

それで私が観ると、悪い人なんですね。 悪い人なんだけれども、その人には都合がいい人なんです。

それで私は 「この人は一般的から見ればとても悪い人で、いろんな悪いこともしてますよ。しかし、あなたにとっては、この人都合のいい人ですよ」 と教えるんです。

そうじゃないと間違えますからね。

たとえば、その人を 「ああこれはいい人ですよ」 と言いますね。

そうするとその人がまた他の人に紹介する場合もあるでしょ。 他の人とは悪い場合があるんですからね。 他の人は損しちゃうでしょ。

そうすると 「先生はいいと言ったけども、悪かった」 ということになってくる。

だから私は 「あなたにとってはいい人だけれども、他の人にとっては悪い人ですよ」 と、ちゃんと念を押しておくんです。

因縁の合う人はとてもいいんですが、因縁が合わなくなりゃ悪い人になるんですね。

何故かというと、因縁が業想念の結び合わせだからです。

ところがそれを超えちゃって、神さまの世界へ入って、自分が光体になっちゃっていると、肉体に仮に現われるだけです。

自分が光だということはわかっていながら、わざわざ肉体に現われて菩薩行をしているような人は、誰をも悪くみないです。

どんな悪い人を見ても 「ああ あれは悪いな、しかしあれは消えてゆく姿として悪いんだ」 というふうにあっさり見ちゃうんですよ。

ちょっとは思いますよ。 たとえば強盗殺人をした人がいたとする。

「あいつ悪いやつだな」 と思うでしょ。 その想いは勝手な想いで、この世の想いですから、それは消えてゆく姿なんですね。

そのようにたとえどんな人に会っても 「あ、その人は業想念が消えてゆく姿なんだ。 あの人が悪いんじゃないんだ。 人間は神の子なんだ」 「あ、それは業想念が消えてゆく姿なんだ」 と思えるようになると、自分のために都合が悪い人であっても、それは都合が悪い人ではないんです。

自分に都合が悪いように現われるのは、自分の業想念というものをその人がとってくれているんです。

 

      「自由解脱への道」 五井昌久 白光出版

 

2013年11月13日 (水)

抜け目のない人、抜けた人

   

今、中学時代の同期会のクラス幹事をやっているのですが、私の通っていた学校は公立だったので、勉強のえげつなく(関西弁)出来る人と、まったく出来ない人が入り混じっていたのです。

だからといって、出来ない子が授業が面白くないと教室であばれたり、先生に逆らったりすることも少なく(他校はあったようですが)、比較的穏やかな、平和な学校だったと思います。

私はといえば、出来る方でも出来ない方でもなく、ごく普通の公立高校へ進学しました。

しかし私の中で 「頭のいい子」 というのは、とっつきにくく、頭の中がなにか違うもので埋まっているのではないかという異和感があったのは確かです。

「自分は頭がいいんだ」 「たいがいのことは自分で解決出来るんだ」 「出来ない子と自分とは違うんだ」

とあからさまに言ってはいなくてもそんな雰囲気がその人から漂って来るので(考えすぎかもしれませんが)、親しく歩み寄って、仲良くしようという気にならなかったのです。

それよりも、勉強という枠からはみ出て個性的に生きている友人に魅力を感じていたのです。

そこには、「自分はこのままではいけない」 「どこかで自分を軌道修正しなければ」 「自分にはなにかが欠けている何だろう?」 という向上心が芽生えていて、その姿がけなげで、美しいとさえ思えるのです。

“人間はどこか抜けて足りないくらいがちょうどいい”

と思うのです。

そして

“自分で頭がいいと思っている人はかわいそうだ” と思うです。

それは、余程素直な人でないと真理(宇宙の法則)に巡り会うことは少ないと思うからです。





 


抜け目のない人、抜けた人
 
 

ふつうこの世で知恵のある人というのは、冷たい人が多いんです。

頭のいい人というのは抜け目がない。 「あの人は抜け目がない」 というのは悪い意味で使う言葉でしょ。

頭がよくてあんまり整っていると、人は付き合いにくい。 何故かというと面白くない。

いわゆる業で固まっていて、中の光が出てないから暖かく感じなくて、何か冷たい、ひんやりしたものを感じるんです。

ちょっと抜けたような人は、付き合いいいですよ(笑)。 みんなで喜んだりして、さては抜けてるな(笑)。 私だってそうですよ。 現象的には抜けたようなところがあるんです。

私はいつもこうやって話をするんでも、まじめに 「神さまというものは、光明燦然としていて、君のような ━ 」 (声つきも変わる) とやってたら、誰も聞きに来ないですよ。

「やだよ、先生の話は堅くて」 ところが時に抜けたような話をするでしょ。

それでお互いに抜けているもんだから(笑)共鳴するんですよ。

「全くだ」 という思うんです。 そこが手なんです(笑)。

本当に抜け目のない人というのは、あんまりいいもんじゃないですよ。

また抜け目のないような人は、ここへ話を聞きに来ないんです。

何故、話を聞きに来ないかというと、自分だけで何でも出来ると思うから。

「おれは抜け目がないんだ。 おれは頭がいいんだ。 なあにそんな人の話、聞かなくたっていい」 と思うんですね。

そういう人は憐れむべき人なんです。 この世では幸せじゃない、いつまでたっても神さまがわからない。

しかしここへ来るような人は抜け目があるから、どこかが抜けているから、抜けているところを足し増ししてもらおうとやってくるんですね(笑)。

どこか穴があいてたほうがいいんです。

そうするとそこへ神さまの光が流れ入ってくるんですから。

例えば、ここにまずい飲み物があるとします。 それをコップいっぱいに入れてしまうと、いっぱいだからもうあとは何も入らない。

ところがいっぱいでなく、いくらか抜けていると、何かいいものが入って来ます。

だからいつも自分の器というものは、からっぽにしておくほうが得なんです。

からっぽにしておいて、神さまの光を自分の中に入れとけば、神さまの光はそのまま働くでしょ。 それを私はいつも言うんです。

 

        「自由解脱への道」 五井昌久 白光出版




 

 

2013年11月10日 (日)

今、大切なことは自分も相手も批判、非難、評価しないこと・・・。

 

実は、自分の心が一番苦しいとき、もがいている時って、必ずと言っていいほど、自分を責めているか、相手の人を責めているときなのです。

責めるとは感情的(特に怒り)になっているのであり、相手のいい加減な態度や理不尽な言動にはつい、怒りたくなってしまうのです。

しかし真理を学んでいる私は、そうなっている心理状態は、本当の私ではなく、業想念というマイナスのエネルギーの渦の中に入っているだけであると気づくのです。

だがしかし、わかってはいるのだけれど、またついつい相手の姿を見て腹を立ててしまい

「自分はまだまだなぁ」 と軽い自己嫌悪に陥るのです。

この繰り返しを何度もやっているとほとほと嫌になり、私の最終目的である、「何があっても不動心」 はいつになれば達成できるのか?とも思ってしまう。

感情を完全に超えることは、自分を含めて肉体人間に果して、出来るのであろうか?

肉体を纏っている以上は、ある程度は致し方ないのか?

とつい妥協しそうになるのですが

ここが一番肝心なのです。

一切のマイナスを見てはいけないのです。

プラスのみに意識を合わせ

自分の相手の神性なる部分のみを見て日常生活を送ってゆくのです。

そうすれば自分のそして相手の素晴らしい部分(神性・神の子)だけが顕われて来る。

今まで人類はそれをしてこなかった、感情のおもむくままに、感情を露わにし、自分の、そして相手の欠点ばかりを探していた

そして、批判、非難、評価ばかりをしてきたのです。

いまこそ、自分の意識改革のときなのです。

自分が率先して意識改革をすれば、まず自分の苦しみから解放されるのです。

自分や人を責めることがなくなったときって、どんなに素晴らしいでしょう。

自由自在心です。

心に把われが無くなるのです。

きっと心の中に天国が顕われるのだと思うのです。

私はその時期は、もうそこまでやって来ていると確信するのです。

 

西園寺昌美 著「真理の法則」から・・・(あらゆる事柄の中に、優れた部分を

見出してゆく) 人類一人一人は今こそ心して自らを鍛え、真理の学びの場に自らを導く方向へと心を転換してゆかねばなりません。

人類一人一人が、いかなることがあっても決して他を批判し、裁かなくなった時、そしてそれを赦し、愛や慈しみに昇華してゆく時、そこに初めて平和が訪れるのです。


今現在、自分がどのような状況、環境の場にあろうとも、あらゆる事柄の中に優れた部分のみを見出し、そこにのみ注意を向け、そこにのみ意識を集中してゆくことです。

そして一切の不平不満、非難、批判、裁きを控えるのです。それだけでよいのです。それのみでよいのです。

そのことが徐々に出来るようになることによって、また出来たという達成感によって、初めて自らが自らを畏敬の念をもって見ることが出来るのです。

自分の意識の中に根深くはびこっていた不遜の念や不可能な想いや軽蔑する心は、そういった毎日の一歩一歩の光明思想の実践により、知らないうちに徐々に消え去っていってしまうものです。

なぜ自分の心に人を軽蔑したり、批判したり、裁くような想いが芽生えるのでしょうか。そのことに特に光をあててみれば、自ずと自分のことが判断できるはずです。劣等感の裏の優越感を・・・・。

人類すべてが、尊敬と讃美と感謝の言葉、想念、行為で世界を充たしてゆくならば、世界はすぐにも平和になってゆくのであります。
 
 

世界人類が平和でありますように ☆
 
 

May Peace Prevail On Earth ☆




 




 

2013年11月 9日 (土)

男女関係とはなんとも不可解なものなのです。

  
 
私は高校の同窓会の役員もやっていますし、同期会の幹事、そして同年代の飲み会をセッティング(少人数ですが)したりしている関係上、友達の夫婦間、親子間の問題を目の当たりにするのです。

その中でも最もやっかいなのが、男女関係でしょうか

50歳を過ぎ、もういい加減で落ち着いてくる年齢だと思うのですが、まだまだ青春の続きをしている人や、異性に対しての関心が衰えない人、それどころか若い時は真面目だったのに、熟年になってから目覚めてくる(取り戻そうとしているのでしょうか)人もいたりして、何がなんだかわけがわからない状況です。

若い多感な頃に猛烈な恋をした、そしてその恋は実ることなく終り、お互いに別々の家庭を持った。その家庭生活は、どちらかがうまくいっていない場合が多く、その不満を現われた相手で埋めようとしているのです。

そこで同窓会で再会した元彼女、元彼氏に惹かれるようになっていった

結構あるパターンだと思うのですが、ほとんどの場合は、何度か会っているうちに、目が覚めて

「これ切りにしよう」 とどちらかが言いだし、相手の方も無理にとは言えず元のさやに納まるのですが、前生での因縁が強ければ、理性も利かなくなるようなのです。

常識や一般論は通用しない、ましてや当人に罪の意識がない(そこまで言っては言い過ぎか?)

奥さん(旦那さん)や子供に申し訳ない、親や兄弟たちの人生まで狂わしているのに、わかっちゃいるけど止められない。

とうとうお互い、家族を捨てて家を飛び出して、一緒に住むようになっちゃった!

たぶんこの後の文章にも出てくるのですが、今の彼女(彼氏)というのは前生でかなりお世話になっていたか、恩を感じていたか、深い仲だったかしてその相手に尽さないとサービスしないと気が済まないようなものが潜在意識の奥にあったのだと思うです。

だから私が自分の物差しで語る常識論なんて全然通用しないのです(笑)

だったら放っておけばいいのか?

前回にも同じようなことを書いたことがあったのですが、前回とは少々私の気持ちも変わってきたようです。

男女間のいざこざも消えてゆく姿

前生の因縁が今、現われて(再現されて)消えてゆこうとしているのです。

どう落ちつくのかはわかりません。(結末は守護霊さま守護神さまのみぞ知る)

私は、友達として普通に接することしかできない(友達の天命を祈りつつ)

「へたな説教は、もうやめた」

と決めたのでした。

その理由?

それはこの後の文章を読んでくださいね。


 

 
  

たとえば前生で結婚出来なかった、という人がありますね。結婚が出来なくて 「あああの人と結婚したいしたい」 と思って死にますね。

その人が今生に生まれてきて、やっぱりあの人と結婚出来ず、そしてAさんという人と結婚しちゃったとします。

ある時、その前生のあの人とパッとどこかで会うんです。

すると無性にこの前生の人のところへいきたくなったり、もらいたくなったりするんです。

すでに結婚しているのに、結婚している夫や妻以上にあの人が好きになったりして、それでいろんな痴情事件というのが起きます。

しかしそれはその人が悪いわけでも、向こうが悪いわけでもない。 夫が悪いわけでも、妻が悪いわけでもないんです。

ところがふつうの宗教(宗教でなくても人生相談でも)ですと、夫が浮気をしたとします。

すると 「奥さんのサービスが悪い、それは奥さんが旦那さんにやさしくしないからだめなんです。 あなたの心の影ですよ」 というくるわけです。

「あなたが悪いから旦那さんは浮気をする」 と言うんですね。

しかし、奥さんがとても立派で立派で、旦那さんに仕えて仕えていても、それでもなおかつ浮気をする旦那さんもいるんですよ。

もし 「奥さんのサービスが悪くて、奥さんが大事にしないから、いろいろ遊んだりするんだ」 というならば、奥さんが旦那さんをもっともっとひどい目に遭わせていても、浮気もしないで、真面目に奥さんに仕えている人もたくさんいます。

「それはどういうことなんだ」 と言うことになりますよ。

今生のその人だけのやり方が悪いんじゃなくて、過去世からの因縁があって、たまたま夫以外に、前の世で知り合った人が現われてくる。

そうすると、向こうにもサービスしなきゃ悪いような気が、潜在意識的にあるんですね。

それでいろいろと事件が起こるんですよ。 だけどその事件そのものは、やっぱり消えてゆく姿なんです。



 

         「自由解脱への道」 五井昌久 白光出版



 

 

2013年11月 6日 (水)

人間は神の子なのです。

   

私は感情のコントロールが出来なくなった時に一番、しんどくなるのです。

だから私が調和波動気功法を続けている一番の要因は、

「自分で自分の感情のコントロールが出来るようになる」 これに尽きるのです。

そして最近私は、こう思うようにしたのです。

私の目の前に現われている人とは、すべて自分の分身、つまり私そのものなのだ。

太陽の光はいろんなものを照らすけど、その元となるのは、太陽一つしかありません。

私たちも、私とあなたというように分かれて、別々の違う人のように見えるけれど、元は神さまから分かれた分霊なのです。

一つの光(神)から分かれているのです。

私たちは、人でも物で動物でも植物、鉱物でも、別のものとして捉えると心が荒(すさ)んでゆくのです。

二元対立が心の壁を作って、愛が薄くなってしまうのです。

私たちが心から感動する時って、合一(ユニティ)したときです。

反対に離反(セパレート)したときには、悲しみの感情が芽生えます。

私たちの目に前に現われる人の中には、腹の立つ人がもちろんいます。

なんでこんなやつを愛さなければいけないのか?

「こんなやつ神の子でもなんでもないや」 って思うこともしばしばです。

でも自分の分身、もっと詳しく言えば、自分の過去世が自分の前に現われていると思えばもっとわかりやすいと思います。

過去世での未熟だった自分が今、成長した自分の前に現われている

「あの時(過去世で)どうしてそんなことしか出来なかったのか?」

「なんでもっと愛深くなれなかったのか?」

そのときの悔しさ、情けなさを見てしまっているのです。

だから腹が立ってくる

腹が立っているのは、相手に対してではなく、 過去世の自分の姿に なのです。


でも過去世の未熟だった自分を見て腹を立ててもしかたがないことですよね。

そんなことに拘らなくてもいい、把われないくてもいい・・・・

自分の中にすべての人は入っています。

宇宙の中に自分が居るのではなく、自分の中に宇宙があるのです。

だから他人はすべて自分の中にあるのです。

他人は自分自身であり、本当の自分は、神の子なので一切の感情も持ち合わせていないのです。

愛(神)そのものの自分が本当の自分なのです。

目の前に現われたもの(感情)は、すべて消えてゆきます。

神を顕わすために消えてゆくのです。

すべてのものは、消えるために現われたのです。

スーッとスムーズに消えてゆくためには、私たちはたたそれを

「消えてゆくんだ」 と ただ見守っているだけでいいのです。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

この世の中が本当によくなるために、一番邪魔になるものは何か。それは人間の感情です。

好きだ嫌いだ、いやだ、欲しい、嫉ましいなどという想いです。

これは邪魔なんです。 邪魔なんだけど、これがなかったら世の中は成り立たないんです。

むずかしいんですよ。 なけりゃ困るし、あっちゃ邪魔なんですから。

そこで感情の純化といって、感情が浄まってくるということが必要なわけです。

それにはどうするかというと、いっぺん今ある感情というもの ━ 自分の感情、ここに起こる感情、あるいは考える力、思考力、思慮分別、そういうものを一度なくさなきゃならない。

空にしなきゃならない。

そこでまた空が出てくるんです。 それではどうしたら空になるかというと、この感情、この考える力、あるいは憎いとか恨めしいとか思う想い、そういうものは、本心、仏さまの姿、神さまの心とは違うんだ、ということをはっきり認識しなければだめなんです。

仏さまというのは自由自在なものなのです。

自由自在になんでも出来る。

思う通りになる。 なんにも迷うこともない。 叱ることもない。 嫉むこともない。 そういうものが仏さまなんです。

 

人間一人一人は仏さまで神さま

 

人間というものはみんな仏さまなんです。 一人一人そうなんです。

誰も仏さまでないものはいません。 全部仏さまです。 言い換えれば神の子なんですね。

神の子でないものは一人もいない。 神さまから出てきた神の分霊でないものは一人もいない。 全部が神の分霊なんです。

その神の分霊が本当の自分なんであって、怒ったり、嫉んだり、恨んだり、叱ったりいろいろする、そういうものは業想念といって、神さまの子であることを忘れてしまった想いが積もり積もって、癖になり、習慣になって、怒ったり、妬んだりするんです。

そういうことをはっきりと認めなければだめです。

だから今、自分が腹が立って腹が立ってしようがない。

「あのヤロー、帰ったらひっぱたいてやんなきゃ」 と思っている。

その思っている時に ━ 思いながらでいいんですよ。

思いながら 「ああこう思っているのは業のほうの私だなぁ、私は本当は神さまなんだ、ちょっと思えないけど、神さまなんだ」 とやるんですよ。

腹が立っている時なかなかそう思えるもんじゃない。 こんちくしょう! と思った時

「私は神さまの子だ」 なかなか思えないけど、思えなくてもいい。 嘘でもいいんだ。

「神の子だ、と先生が言ったんだから、きっとそうだろう。神の子だ。 こんちくしょう。 神の子だ、こんちくしょう」 と家に帰ってから言いなさいよ。

そんうちに 「こんちくしょうは消えてゆく姿。 こんちくしょうは消えてゆく姿」 とやっているうtに、怒りが直っちゃう。 直らないまでも、だんだんだんだん薄くなってしまいます。

自分のところに出てくる自分の心を不安にする想い、いらだたせる想い、波立たす想い、心臓をパクパクさせる想い、そういう想いはすべて、消えてゆく姿なんです。

消えてゆかないものは一つもないんです。

みんな消えてゆくんです。

腹が立って腹が立っていくらも腹が立って、たくさん積もるように腹が立ってもいいです。

腹が立ったままでいいから

「消えてゆくんだ、消えてゆくんだ、消えてゆくんだ」 と言いながら帰りなさい。

そうすると、消えてゆくんだ思わないで腹の立ちっぱなしで行く人よりは、

「こんなに腹が立っても消えてゆくんだなァ、これは私に本当の心じゃない。 消えてゆくんだ、消えてゆくんだ、消えてゆくんだ」 とやっている人のほうが、業が現われてもわずかです。

「このヤロー」がわずかですんでしまいます。 しまいにはこんなにうすくなっちゃいます。

というようになるんです。 妬み心でも同じです。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


  「自由解脱への道」 五井昌久 白光出版






 

2013年11月 3日 (日)

抜群に切り替えの早い人は聖者なのです。

 

過去のことをキレイサッパリと忘れ去り、自分に対して不利益なことや失礼なことをしてきた人に対して、まるで何ごともなかったかのように振る舞うことの出来る人って、本当に素晴らしい!と思うのです。

反対に自分が迷惑をかけた相手に対して、すぐその場で謝ったのならば、次の日や次回に会ったときに改めて

「昨日(先日)は申し訳ありませんでした」 と再度謝らなくてもいいと思うのですが、相手の人がまだ根に思っている雰囲気があるときは、今後のことを考えて

謝る演技をするのです。(あまり心がこもっていません)

どんなこともその場で、スパッ スパッ と竹を割ったように

「ハイ もうおしまい!」 と 切り替えがお互いに出来てゆくのならどんなに気持ちのいいことでしょう?

お付き合いする人とはそんな人であってもらいたいものです。

私は五井先生と直接お会いしたことはありませんし、ご本人の存在を知ったときには、もう先生は逝去(帰神)されていました。

ですから、五井先生と講師の方との日常会話などが非常に羨ましくもあるのです。

尊敬する五井先生の側(そば)に居て、いろんなことが学べるからです。

今回の逸話からも切り替えの大切さを学ばせていただきました。


聖者とは人間として、素晴らしい人(霊止)なのです。


 

かつての聖ヶ丘統一会は、聖歌で始まり聖歌で終わりました。開会の時は「己(おの)が幸」、閉会の時は「世界平和を祈る歌」を斉唱していました。
...

 後年、ピアノ伴奏は若い女性の方が統一会ごとに交代で担当しましたが、五井先生ご在世中は二人のご年配の方が担当なさっておられました。第一月曜日はAさん、第二、第三、第四日曜日はBさんでした。

 五井先生ご帰神数年前のことです。第一月曜日を担当なさっていたAさんが、個人的な事情で急にお辞めになることになりました。そこで録音部のスタッフと相談し、これを機にBさんにもお辞めいただいて、若い人にお願いしようということになりました。

 このことが決まってから程なくして、五井先生からお呼び出しがかかりました。先生にお目にかかるなり、「なぜBさんをピアノの担当からはずしたのか?」と怖いお顔でおっしゃいました。

私は前述のいきさつを申し上げたところ、先生は、「Bさんの心の中は、いま淋しさでいっぱいだ。Bさんの家に行って、五井先生がピアノを続けて下さいと言っていたと伝えなさい」とおっしゃいました。

 愛深い五井先生には、人の痛みや淋しさがご自分の痛みや淋しさとなってお感じになられたのです。

 五井先生から厳しいお言葉を承って引き下がり、お部屋を退出して階段を下りている途中で、先生に申し上げなければならない他の用件を思い出しました。

厳しいお言葉の後だったので、一瞬のためらいもありましたが、勇気を出してもう一度階段を上がって先生のお部屋まで戻り、恐る恐るノックしました。

 お部屋の中から「ハイよ」といういつもの優しいお言葉が聞こえてきました。襖を開けたとたん、先生の柔和な笑顔が目に映りました。

「何だい?」という先生の応対に、私は戸惑いました。今しがたのあの怖い、厳しい先生はすでにそこにはなく、いつもの優しい先生がそこにいらっしゃったのです。

 私だったら、寸前の感情想念をそのまま残して相手に接してしまうと思いますが、五井先生には感情想念は全くありません。しかも、さっきはさっき、今は今、とはっきり分けておられるのです。

 「私は切り替えが早いんだ。パッパッと瞬間に切り替えることができるのだ」(『続々如是我聞』179)
 まさにそのとおりだったのです。

 私たちにとって感情想念ほど厄介なものはありません。人にはサッパリ、サバサバした人、いつまでも執念深く根に持つ人といろいろおりますが、誰しも多かれ少なかれある時間、感情想念を掴んでしまいます。

 五井先生は、「掴んだら掴んだでいいから、できるだけ早く掴んだゴミを焼却炉に放り込んでしまうことだ。その焼却炉は世界平和の祈りという大光明で、どんな業も焼き尽くしてしまう。燃えろ燃えろなんて言う必要はない」とおっしゃっております。

 ところで、ある心霊科学者がその著書の中で、「人間」のことを「高性能宇宙機」と表現していましたが、まさに至言です。もともと神であった私たち。地球に下って来てしばらくの間は神の全知全能を発揮していたのです。

自然治癒機能、未来予知機能、危険回避機能、正邪選択機能、真贋識別機能はもちろんのこと、瞬間切替機能も持ち合わせていたのです。神のお造りになった高性能宇宙機なのですから、あらゆる機能を備えているはずです。

ところが地球の粗い波動に馴れきってしまった人類は、次第に肉体そのものが人間であるという錯覚に陥って、今日のような不自由きわまりない、お粗末な人間に成り下がってしまったのです。

 そこで五井先生は、人類が神に立ち返る方法として「消えてゆく姿で世界平和の祈り」という不変の真理、不朽の真理をお説き下さったのです。

 かつて五井先生が直接ご指導下さった錬成会(一泊二日)は年に一度だけ受講できました。その折に、参加者一人一人に「霊性開発手帳」というものを下さいました。私たちは「通信簿」などと呼んでいました。

 神界、霊界、幽界の各界を便宜上各三段階、計九段階に分け、霊位と統一時の座を左の欄に、常時想念の動きを右の欄に設け、それぞれの欄の上限と下限を○でお示しになって、それを線で結んで下さいました。

これは一つの目安であって、卑下しがちな人には少しおまけして下さり、高慢な人には厳しい点がついていたように思いました。

 「常時想念の動き」の註には次のように書かれてありました。
 「常時想念の動きとは、常日頃の心の動きを明示するものである。或る時は幽界の思いを出すこともあろう。

しかし、消えてゆく姿で平和の祈りを瞬時になし得る者は幽界にはいない。思いの座がいかなる所にあろうと消えてゆく姿の実践と祈りに精進すれば、常日頃の想いも統一時の想念の座と一つになるであろう」

 「消えてゆく姿で平和の祈りを瞬時になす」ということは、まさに「瞬間切り替え」そのものです。

五井先生は見事な切り替えのお手本を私にお示し下さいました。五井先生にできたことは、私たちにもできるはずです。なぜならば私たちは毎日欠かさずお祈りをし、印を組んでいます。「我即神也の印」を組む毎に、限りなく神に近づきつつあるからです。











2013年11月 2日 (土)

地震を恐れるよりも先に、大地の恩に感謝せねばならない

 

私たちは、目の前に現われている現象に驚き、うろたえ、慟哭し、泣き叫び、感情的になり

「どうしてこんなになってしまったんだ」

「自分がどうしてこんな目に遭わなければいけないんだ」

「誰がどうやってこの責任を取ってくれるんだ」

と腹立たしさを何かにぶつけようとするのです。

そしてそれを人に向ければ人間関係が悪化し

物にぶつけると物は破壊され

心の中がいつまでも不調和でいると

その気性が、天に通じて気象が乱れ、地震や台風、竜巻、異常気象になってまた人間を苦しめることになる。

しかし天は、人間に天罰を加えるためにそうしているのではなく

天象の異常は、人間の心の中をそのまま顕しているのであり、人間の心が穏やかになれば、神界にある天国のように

地球は、春と秋しかない穏やかな気候になるのです。

そして今起こっている異常ともいえる気象も、決して悲観するものではなく

悪いものが消えてゆく姿であり、現われた後は、台風一過のように、浄化されているのです。

地球の波動(状態、エネルギー)は良くなっているのです。

私たちは、もういい加減でこのことに気づいて、自らの波動調整をしていかなければならないのです。

消えてゆく姿を出来るだけ小さく、大難を小難にすることが、人間には出来るのです。
 

地震を恐れるよりも先に、大地の恩に感謝せねばならない


目の前にあるものを恐れるより、目にみえないサムシンググレートに意識を向けて、感謝する、そんな気持ちが自然と心の底から湧き上がって来たとき

地球と、宇宙、そして自分の波動調整が行われるのです。



 

調和波動気功法

http://www.harmony-wave.jp/


高い建築物と、相次ぎ行交う自動車、ひびき合う騒音、人間はこうした中を、天の美しさを見失い、大地の広らかさを忘れて、押し流されている。

人間の築き出した生活の中に、自然は次第に置き忘れらていく。

天空に流れている自然の生命、大地に溢れている自然の慈味、そうした自然の生命が、人間生命の中に、流れ来り、融け入り、そして、1個の人間の深い味わいとなっていることを、文明開化の社会生活は、いつしか、人間から忘れ去らせようとしている。

天空は、晴雨というそれだけのためにあるのではない。

大地は農民のためにだけあるのではない。

天地は全人類のために一瞬も欠くことのできない絶対なる存在である。

天候に感謝しても、天空そのものに感謝する人は少ない。

まして、農民を除いて、日々大地に感謝して生きている人がどれ程いるであろうか。

天地なくして我々は生存することができない。

暴風雨、天変を恐れるようり天に感謝することである。

地震を恐れるよりも先に、大地に恩に感謝せねばならない。

人間は何よりも先に、天地自然の大恩に感謝し、父母に感謝し、自分に触れるすべての人々、事物に感謝すべきである。

そうした想いを根底にして、はじめて、文明開化の様々の恩恵が、真実の姿として生活に生きてくるのである。

神仏への信仰は、こうした心構えが、その最初の出発点であり、最後の帰着点でもある。

   

        「自然 大自然の絵巻」 五井昌久  白光出版




 

 

お天道様に感謝!

  


私が教えていただいた教えの中で、 「感謝は光です」 shine があるのですが、人が感動する時というのは、誰かが誰かに感謝の気持ちを持ったり、その感謝の想いがこちら側にも伝わってきたときのように思うのです。

特に私は肉親の感謝の愛に弱くて、すぐに涙もろくなってしまいます。

親子の情、夫婦愛などを見るにつけ

「人間に生まれてきてよかったなぁ」

「人間って素晴らしいなぁ」

と思うのです。

親は子に何の見返りも求めない無償の愛を行ない

子はそれに感謝する

それはあたかも、私たち人間が大自然そのものである お天道様に向って

「ありがとうございます」

と感謝している姿に似ているのです。

私たちは生きているのではない

お天道様によって生かされている

そう思う事によって宇宙からの無限のエネルギーが60兆の細胞に行き渡り、それらの細胞が光始めるのがわかるのです。

魂が喜んでいる

太陽と共鳴している

宇宙と一体となっている

宗教って誤解されている場合が多いけど

変な宗教も確かにたくさんあるけれど

宗教って

宇宙を示す教え

宗(もと)の教えという意味なのです。

お釈迦さまが明けの明星(金星)を見て、悟ったというのは

人間の素が宇宙にあるとわかったからです。

だから素晴らしいというのは、素(宇宙)が晴れていると書く

私たちの心も宇宙と同じようにいつも素晴らしく晴れていたいものです。

太陽さんありがとうございます。

地球さんありがとうございます。


大地さんありがとうございます。


すべての大自然さまありがとうございます。



 
日の出 日の入り

 

人間の生活にとって、大事なものはたくさんあるが、太陽はその最も大事なものの一つである、というより、最大のものである、といってもよい。

太陽がなくては、この地球界の生物は生きてゆくことができない、というそういう根本のことを除いて考えても、太陽は人間にとってなくてはならないものである。

私たちは暁の祈りを時折りしているが、暗い空が少しづつ明るんできて、太陽がその顔をみせはじめる時の爽快さ、美しさは、口ではちょっといい現わせない天与のものである。

そして、夕日の沈む時の空の美しさは、また格別なもので、日の出の輝やく美しさと違って、人の魂を休ませる、穏やかな愛のひびきを感じさせる。

先年、アメリカ東北部の、ある村でみた夕日の沈むさまは、今でも瞼に浮かんでくる。

北側の山脈(やまなみ)が濃い茶紫にかげって、東西に伸びた広い広い道の西の空が、いつまでも夕日にいろどられているさまは、ミレーの晩鐘(ばんしょう)をみるようで、日本の都会に住んでいる私たちが、観ることのできない雄大なロマンなのである。

日の出、日の入りのさまはともかく、太陽に対する人間の心は、感謝そのものでしかない。

「おてんとうさまありがとうございます」

と昔のお百姓さんが太陽を礼拝していたように、私たちも改めて、太陽にまともに感謝する生活をしてゆく必要がある。

それと同時に大地に感謝し、空気や水に感謝する、感謝の心を深めてゆくことが大事である。

宗教に入って、神界がどう、霊界がどう、ということを知ることも大切ではあるが、最も根本の生き方である、物事事柄に感謝する生活を、改めて自分のものにしてゆくことが必要なのである。

宗教の道は本来、素朴純情の道で、理屈で入ってゆく道ではない。

何もの何ごとに対しても感謝できるようになったら、その人は悟りを開いた人というべきなので、理論的にだけわかったからといって、その人の悟りが高められたといえない。

要はその人の行為がいかに、神のみ心に近くなっているかということが大事なのである。

     「自然 大生命の絵巻」 五井昌久 白光出版

 

本当の美人は、人の評価を気にしない

私が自分自身、どういう人物になりたいか? というと、どんなことにも把われない、惑わされない、一休さんではないけれど、いつも 「気にしない 気にしない」 と笑って過ごせるような境地(魂)になりたいのです。

そうなることが自分が幸せになることであり、人にもいい影響が与えてゆけると思うのであります。

今日、インターネットを覗いていたら、五井先生のお話しが掲載されていました。

「あっ なりたい自分はこれだ!」

と思わず合点がいったのでした。

その中で、本当の美人というのは、自分で自分を美人とは思っていない、そんな上辺なこと、表面的なことに意識がいっていない人をいうのだというのがあるのですが、女の人も男の人もほとんどの人は、美人と思われたい、かっこいいと思われたい、よく思われたい、素敵だと噂されたいと思っているわけです。

しかし、そう想ってしまった瞬間、周りの人からは

「鼻もちならぬ嫌な奴」 になってしまうのです。

それは、自分では隠しているつもりでも、雰囲気、エネルギーになって伝わってしまうからなのです。

自分の心の内を隠そうとしても相手にはわかってしまうのです。

だから自分の心境をいつもサバサバとあっさり、何もない状態にしておくことが大切なのです。

心に把われがないということは、本当に清々しい最高の心境なのです。

幸せとは周りの状況ではなく、心境なのです。

心の中がどうなっているかで、幸せ度は決まるのです。

心がすべてのすべてなのです。

 

 

■「浄まった魂というのはどういうのでしょうか」ときいた人がい

た。五井先生はこうお答えになった。「はたから見れば明るく無邪気で、自然に人のためにいいことができるような人。自分側からみるならば、いつもスッキリとしている、把われがないという状態ですね。

気取ったり、偉そうに見せかけるのは業がそれだけ出ていることです。一生懸命生きていればよい。人からなんといわれようと、あまり気にしないで、注意されたら、ああそうですか、ときけばいい。


丸山明宏だかがいいことをいっているね。『本当の美人というのは、そばに別の美人がきて、人がいくらほめようと、ちっとも気にしない人。中美人というのは、たえず競争心をもっていて、他の人と自分をくらべ、他の人が美人といわれると張り合う』

それと同じように、本当の偉い人はスーッと澄んでいる。あいつより俺のほうが……とくらべているようでは、まだまだ本ものではないね」

■「八方ふさがりでどうにもなりません」と或る人が先生にいうと、即座に「天があいているよ」と先生はおっしゃった。自分の左右と下ばかり見て、天まで目が向かなかった時で、その人はハッとした。




  

2013年11月 1日 (金)

人間の誕生

 
 
11月に入り、涼しさを通り越して寒くなって来ると、人は自然と意識が心の内に向い、そして心の中が荒廃し、愛で満たされていないとなんらかを使ってその空洞を埋めようとするのです。

人間は、その作業をしていかないと魂の抜けた腑抜け状態になるのです。

霊要素(れいようそ)が入って来ないと、本当は一瞬たりとも生きていけないはずなのです。

霊要素とは、宇宙からの無限のプラスのエネルギー、つまり愛のエネルギーです。

心の中が宇宙からの愛のエネルギーに満たされていないと、酸素ボンベなしで、8000メートル級の高い山にいるのと同じです。

霊要素が枯渇しているのに、未だに人間が生きていられるのは、神さまの恩寵といえるでしょう。

霊要素とは、どうすれば補給することが出来るのか?

それは、大自然(神)に対する感謝なのです。

私たちは、生きているのではなく、間違いなく生かされている。

それは大自然があるからなんだ

心の底からそう思えた時、荒廃した心の中に大自然の息吹きが入って来るのです。




草木が天地の恩恵によって生長し、花が自然に開くように、母親の体内で赤児は自然に育ち、やがて生まれ、そして成長してゆく。

こうした不思議さを、一般の人はなんでもなくあたりまえに見過ごしてしまう。

赤児を母の体内に宿し、そしてはぐくんでゆく原動力は一体何処から来ているのか、その赤児のいのちは、赤児以前には何処で何をしていたのであろう。

そうした疑問に蓬着すると、人間は黙さざるを得なくなる。 

自力ともがく、そのもがきがおかしなものになってくる。

自分で生きているのではない。

何か大きな力に生かされているのだ、と判ってくる。

そうして、どうしてもその大きな力(神)に謙虚にならざるを得なくなる。

その謙虚を根底にして、ああ、こうして生かされている いのち を無為に粗末につかってはいけない、と感じてくる。

生かされている いのち を大切に有効に生かし切ってゆくことに真剣になりはじめる。

私もあなたもあの人も、みんな大きな力(神)によって生かされているのだ。

お互いに生かし合い、生かされ合って神のみ心にお応えしなければならぬ、と思わずにはいられなくなってくる。

そこにお互いの生命を礼拝し、愛し合う人間の尊貴さが現われてくる。

人間のいのちは尊い。

人間の生活は尊い。

神の大生命をこの地上界に華咲かせ稔らせる人間の尊貴さ。

私はこの尊貴さを一人でも多くの人たちが認識して、生活して頂けることを祈って止まないのものである。

      「自然 大生命の絵巻」 五井昌久  白光出版

 

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