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2013年10月31日 (木)

神性

 


第一印象が大切だとか、見た目が大切というけれど、それはあくまでも相手に爽やかな明るい印象を与えたりするために大切なのであって(プラスのエネルギーを与えるということ)、それでその印象を基に、その人の人格や人柄や性格までも決めつけてはいけないのです。

今の若い人は特に、その人が善い人であるのか?悪い人であるのか? をすぐに決めつけたがる傾向があるそうです。

「あいつは最高です。あいつは神です」

「あいつは嫌いです、あんな奴は死んでしまえばいい」

大した根拠もなく、二極分化してしまう、ちょっとした出来事だけで相手を判断してしまう。

そしてたいがいが批判、非難になる。

相手を褒めるよりも悪口を言っている方がずっと多いのです。 無限なる許し!

今の地球が混沌とし、争いが絶えないのはそのせいかもしれません。

進化した宇宙人から観ると

「なんと幼い兄弟たちよ」

なのだと思うのです。

精神的に未熟なのです。

子どもなのです、幼いのです。

その根本原因は、究極は真理を知らないからだと思います。(我即神也 人類即神也)

自分は何者なのか?

そして相手の人は何者なのか?

それがわかれば、一気に人間は大人(精神的な)になってゆくのです。

参考図書

「我即神也」 西園寺昌美 白光出版

 










私たち人間は、時に先入観や自分の偏見で物事を見たり、判断したり、人を批判したりします。

さらには無意識で判断していることもあり、私自身、そんな自分に気づくことがあります。

初対面の人に出会った時などは、自分がこれまでに知っている人たちの中から分類分けをし、勝手にこの人はこういう人だろうと推測したり、相手の雰囲気や、時に服装や喋り方で、苦手かもしれないとか、性格が合わなさそうと思ってしまうことがあります。

しかし有り難いことに、その自分の予想が大幅に覆(くつがえ)されることがあります。

自分が苦手かもと勝手に思っていた人が、予想とは全く違い、意気投合すると、最初の印象というものは当らないこともあることを実感するとともに、そのように無意識に人を判断している自分に対して驚きを持ってしまうことがあります。

いつの間にか、自分の経験から予想したり、憶測するということが働いてしまうのです。

しかし人は一人一人本当に違うからこそ、その予想が外れるのです。

そうすると、自分の未熟さ、勝手な先入観に気づくことが出来ます。

また時に人から勝手に枠にはめられて見られていることに気づきます。

その人の知っている過去の友人や知人の情報の中で、一番近いものに当てはめて、無意識に分類分けされていたりします。

人間にはいろんな可能性があり、無限の才能に溢れているのですが、いつの間にかパターンで分けたり、分類したりしているのです。

そしてそれが繰り返されて、自分はこういう人間なのだ、という枠を自分自身にもはめてしまったり、周りが当てはめる枠の中で生きてしまうことがあると思います。

人は一瞬一瞬成長をし、常に変化し、変化しつづける可能性をたくさん持っていますが、私たちの偏見や過去の経験が自分や相手の可能性を抑えてしまい、その人の神性を見出し、引き出すことをしなくなってしまうのです。

過去に把われず、また未来に期待し過ぎずに、今という瞬間、自他の神性、可能性をどれだけ見出していけるのか、ということが大切なことと思います。

それは一瞬一瞬、どれだけ自分や相手と純粋に向き合って生きていけるかということにかかってくるのだと思います。

いつも目の前にいる相手や自分に、無限の可能性をもって向き合うということを、もっと体現したいと思うこの頃です。

我即神也  人類即神也

        

               西園寺 由佳さん(白光誌 11月号より)





 

 

2013年10月30日 (水)

神秘的なものと魔界的なものは違うのです

 

神秘的なものとは、本物の世界である神界から来たものであり、人を感動させ、魂を高めるものなのです。

しかし神界に行く途中で幽界があり、そこにはさ迷ったオバケちゃんが住んでいます。

そして、人間に取り憑いたり、驚かせたりして楽しんでいるのです。

この違いを見抜く力を審神(さにわ)というのですが、幽界のオバケちゃんも巧妙化してきまして、人を騙すのがうまくなっているのです。

あやしい霊能者などを、常識的な人は問題にしないのですが、これだけ世の中が混沌とし、やるせないことが多くなってくると、魔界的(奇蹟的)なものを神秘的なものと履き違えて、信じてしまう人も多いのです。

本物とは、地味で、そうやすやすと、奇蹟を見せることはありません。

人間の魂の成長を第一とするからです。

悠長なのです。

時間をかけてゆっくりと慎重にするのです。

それを人間は我慢できない

即効性のある、ご利益のある、感情を喜ばせるものに惹かれます。

これからもそのような魔界的なものがたくさん現われてくるように思うのです。

だがしかし、それも悪いものが消えてゆく姿であり、やがて人間はみな審神(さにわ)が出来るようになる(本ものになる)

一度はひっかかりかけても、すぐに戻ればいいのですが、中にはやはり吸い込まれてゆく人もいるのです。 無限なる真理!

にせものは、陰湿な暗い印象があります。

そして、自分の本心とは決して共鳴しないのです。

本心は神だからです。

見た目に騙されてはいけません。

神さまは、奇蹟(神秘力)を見せることはめったにないのです。

本物を見抜く力よりも、にせもの(魔界的なもの)に惑わされないようになりましょう。

そうすれば本物は自ずと見えて来るのです。

 




「わたしもとうとう三十五キロになってしまったよ」と五井先生がおっしゃったことがありました。昼夜も分かたず、世界の業のお浄めに身を挺しておられる先生のお体は痛々しいほど痩せておられました。
...

 「先生、浅丘ルリ子と同じですね」と思わず軽口をたたいてしまいました。「他の教団の教祖はみんな、でっぷりと太っているのに、なぜ先生だけが鶴のように痩せ細って・・・・」と言いかけると、先生は、「住んでる世界が違うよ」とおっしゃいました。(3/12)

 肉の身をこの地上に置きながらも、先生は常に神界の住者として、神そのものとして地上に大光明を放っておられたのです。大光明と引き替えに世界の業を引き寄せて浄め続けておられたのです。

 ところである時期、目を瞠(みは)るような霊能力を駆使して話題になった、今は亡きG教団のT師のことを、ある講師が講師会で五井先生にお訊ねしたことがありました。

 先生は、「わたしの足元を見渡しても、そういう人は見当たらないよ」とだけおっしゃいました。

先生は神界の住者ですから、先生の足元ももちろん神界であるわけです。その足元にもいないのですから、T師は神人ではないということになります。五井先生のお立場上、「わたしの足元」という婉曲的な言い方をなさったのでしょう。

 ちなみに霊能力に優れた村田長老はT師のことを「幽界の魔王」とはっきり言い切っていました。このように神人でもない幽界の住者が、この世で宗教教団の教祖として君臨して、それなりに真理らしきものを説いているということは、なんと恐ろしいことでしょう

 T師から霊能力を与えられた人が、訳の判らない古代語のような言葉をペラペラと口にしたそうですが、T師は幽界の生物を自由自在に操って、相手の背後に付けてしまう魔王だったのです。まさに霊(幽)能恐るべしです。

 またS教団の教祖だったO師は、あちらの世界で、弟子と共にせっせとお札(さつ)を数え続けているそうですが、そこがどういう世界であるかは説明する必要はありませんね。


 なお講談や浪曲でお馴染みの大政、小政、森の石松・・・・という錚々(そうそう)たる子分を擁する清水次郎長一家は、思ったよりいい世界に行っているそうです。「所詮、俺たちは人生の裏街道を行く渡世人」という開き直りがあったのかもしれません。

 しかも決して堅気の人たちには迷惑をかけなかったという点で救われがあったのではないでしょうか。しかしあちらの世界でも相変わらずシマ(縄張(なわばり))を荒らしたとか、荒らされたとかやっているということですから、決して高い世界ではないことは確かなことです。



  

感情を直感(本心)と間違えて話している人が多いのです。



よく

「私はお腹の中に何にもないからきついことを言ってもそれは気にしないでね」

とか

「あなたの為を思って言っているんだから」 とか

「私はお酒に酔うと本音が出るのよね」 と言っている人がいますが、それは無責任極まりないと思うのです。

そして地位の高い人、上司などは、多少人を傷つけることを言っても許されるというような風潮もあります。

そしてこれらの人は、理性を抑えて話すのではなく、感情のままに話していることが多いのです。

つまり感情の世界(幽界)にいる魔界の生物(感情霊、動物霊)に取り憑かれているのです。

よくその人の顔を観察すると、きつねに似ている印象を受けることがあります。

ちょっと油断をし、感情を喜ばせることに波長が合ってしまうと誰もがなりやすい現象です。

そうならないためには、たゆみない祈り(世界平和)で神界とつながっていることと、自分の理性(常識)で抑えることが大切です。

頭の中を去来する、表面的なもの(感情)をつかまえて、そのまま話(放って)してはいけないのです。

それが肉体界を無事に、大過なく乗り切ってゆくメソッドなのです。

 

霊能力がついて来た人にいわれたお言葉。「己の心をふりかえって、たとえ間違いがなく、自分は真理の言葉をしゃべっていると思っても、一度は押えて、自分の言葉として話すことである。そうしないと和を乱すことがある。

心すべきことは、...

 一、和を乱さぬこと
 一、相手を痛めぬこと
 一、自分の言葉として消化して、やわらかくいうこと
 一、謙虚になること
  このように、自分を充分訓練しなければいけない」

■地位も財産も自分には関係ない。いかに愛にみちて、さわやかに生きるか。明るい気持で生きられるか。それが問題なのだ。

■人間は自分の心で自分を満足させなければいけない。自分以外にばかり心をむけていると、悲しまなければならないことが多いからね。

■人間というのは心の持ち方次第でどうにもなるものだ。いかに幸福そうな環境に住んでいようと、その人が幸福だと思っていなければ、幸福じゃない。その反対に、貧乏の中にあっても、その人の心が幸せでみちていれば、その人は幸せなんだ。

私など、どんな苦しみに会おうと、みんな楽しみにかえてしまう。どこにいこうと、私にとってはそこは天国さ。私にとって、不幸とか苦しみなんていうのはないんだ。

■人の悪口をいうということは、自分を強く見せたい、自分をよく見せたいからである。羨望の想いが悪口となる。

■いいことばかり追い求めていてはいけない。その場その時置かれたところで、一生懸命生きる、ということが神のみ心に一番かなった生き方である。





 

2013年10月29日 (火)

基礎学力は大切なのです。

 

基礎体力がなければ、歩いて自分の行きたい所へも行けません。

身体に基礎的な力があってこそ、それをベースに走ったり、スポーツをしたり、山に登ったりいろんな可能性が拡がってゆくのです。

私は、偏差値重視の教育は好きではありませんが

基礎学力は必要だと思うのです。

勉強が出来なくても、あるいはしなくても社会で生きていける、現に小学校しか出ていなくても、田中角栄さんや松下幸之助さんのように立派になった人がいるではないか?

というのは違うと思うのです。

それらの人たちは、学校で学問を学ばなくても、自分で独学で基礎的な学力を身に付け、そこに自分にしかない哲学を付加していったのです。

もの凄い勉強量だったと思います。

“教育を受けられる人や大学に行っている人に負けたくない”

という反骨精神が強かったのです。

そして、その人たちもきっと言うと思うのです。

人として生きて行く為には、学問が大切だ、読み取る力が大切だ、世の中のしくみを知ることが大切だ、人と話すのでも一般常識と同じように学力がいるんだ

そのためには、中学卒業程度の学力って必要だと思うのです。

「勉強が嫌いだ」 というのならしなくていい

勉強以外のことで頑張ればいいんだ

一芸に秀でたならば、それはすべてに通じる

たしかにそうかもしれません。

しかしそう言っていた人たちも、どこかでは勉強の大切さを感じ

途中からでもやり始めるような人が

立派になっていっているような気がするのです。

“ 人生は一生勉強 ”

人生を豊かに送ってゆくためのメソッドの一つが基礎学力なのです。

どうすれば、子どもたちはやる気になるのか?

勉強の大切さがわかるのか?

進学校で有名な灘高校の名物先生である橋本先生は、宇宙の話をされたそうです。

そして、グローバルなお話しと共に興味深い話をされた、そこから奥深く入ってゆく面白さを伝えたのです。

奥深く入ってゆくとそこには無限大の宇宙があるのです。

興味深いこと、面白いことがわかれば生徒たちは勝手に動き出します。

そしてそこから生まれた目標があれば

東大に入ることは、プロセスになるのです。

目標に行く途中で東大がある

したいことをしようと思ったら東大に入ることが一番近道だった

結果的にそんな道が出来ていたのではないでしょうか?

もちろん橋本先生は、生徒たちを東大に入れようなんてこれっぽちも思っていない。

これが本当の教育だと思うのです。

大切なこと、人生の奥深さを伝えること・・・・・・

そこから興味深いことや面白いことを自分で発見させる

指導者という人は、そのきっかけをつくるだけ・・・・・

基礎学力と共に

教育ってなんだろう? と思ったのでした。

下記に橋本先生の授業の様子を記載します。

なにかのヒントになれば幸いです。

尚、文中の橋本先生は、今月10月11日にご逝去されました。

101歳でした。合掌!


 

-子供たちの学力低下が深刻な今こそ、橋本先生の教育手法に学ぶべし-

 今年6月10日の、灘校の橋本武先生による「銀の匙教室」紹介文の続編です。『確か3ページ目に良い事が書いてあったのになぁ』と残念に思っていましたが、その『週刊ポスト』(昨年3月某日号)関係記事の3ページ目のコピーが最近見つかったのです。
 そこで今回は、同ページの内容を中心に紹介していきたいと思います。

 戦後間もなくの荒廃した世情を憂えた橋本先生は、「こんな時代に生徒たちに夢と希望を与える授業とは何か?」と思い悩み、たどり着いたのが、中勘助の名作『銀の匙』を3年間かけて読み進めていく授業法なのでした。
 テキストとして『銀の匙』を採用した理由を、橋本先生は次のように語っています。
 「主人公の成長と重ねて読めるし、美しい日本語があった。新聞連載されていたので一章が短く、数字が振ってあるだけで章名も付いていない。各章に生徒に表題を付けさせれば、親しみある自分の作品に変わっていく。授業にぴったりだと。」

 『銀の匙』は(明治10年代頃の)東京下町が舞台です。関西にある灘校の生徒にはなじみのない言葉や方言がそこここに出てきます。そこで物語を読み解く手助けとして、ガリ版刷りの手書きのプリントを用意して生徒たちに配りながら、橋本先生は文庫本を手にしてその部分を朗読し、ポイントとなる箇所を丹念に説明していくという授業スタイルを取ったのです。

 橋本先生は生徒たちが退屈しないように、脱線できる仕掛けも用意していました。前編でも紹介した、教え子の一人の現日弁連事務総長の海渡雄一氏は回想しています。
 「『銀の匙』の中に寿司屋のシーンが出てくるんだけど、そこで先生が『魚偏の漢字は678あります。集めてみましょう』という課題を与えた。で、図書館に行って調べたり、寿司屋で包み紙をもらったりしてね、魚偏のノートを作って。」

 また文中に「ねずみ算」という言葉が出れば、橋本先生は黒板にねずみの絵を描きながら、次のように続けました。
 「正月に夫婦のねずみが子を12匹生む。2月にはその子どもが12匹ずつ子を生む。では合わせて?」と訊ねます。生徒が「98匹」と答えると、「では、このペースでいくと、12月には?」。
 考え込む生徒たちに先生はしたり顔で教えます。「276億8257万4402匹。正解の人は?」

 時には紙袋から取り出した、赤や青や色とりどりの駄菓子を全員に配って、主人公の心情を追体験させました。橋本先生は配り終わると、ざわつく教室を制するように、「もういっぺんこの部分を読みます。食べながらでいいので聞いてください。」といいます。

のは、主人公が駄菓子屋で飴を食べる場面でした。
 
 「飴のなかのおたさんは泣いたり笑ったりしていろいろな向きに顔をみせる。青や赤の縞になったのをこっきり噛み折って吸ってみると鬆(す)のなかから甘い風が出る。」 (『銀の匙』前編 十三)

 私立である灘校は中高6年一貫校で、6年間の教育方針が教師の裁量に任されているといいます。自由である反面、「結果が出なければ責任を取らなければならない」(橋本先生)という厳しさがあります。

 しかし「銀の匙教室」を始めた昭和25年入学組の生徒たちは6年後、15名東京大学に合格し、見事な結果を示したのです。昭和24年は、東大合格ゼロだったことを考えると大躍進です。
 そして3代目の昭和37年入学組は、私立校として初めて東大合格者数日本一の132名合格の快挙を成し遂げたのです。
 だが橋本先生は、「私の力なんか何も関係ない。東大を意識した進路指導をしたこともない」と控え目です。

 では、橋本先生が生徒たちに植え付けた一番の財産とは何だったのでしょうか?
 「“学ぶ力の背骨”です。国語力のあるなしで、他の教科の理解度も違う。数学でも物理でも、深く踏み込んで、テーマの神髄に近づていこうとする力こそ国語力です。それは、“生きる力”と置き換えてもいい。」

 まさにこれですよね、国語力とは。そして教育の神髄とは。英語で教育を「education」(エデュケーション)といいますが、語源は「educate」という動詞にあり、この言葉には「引き出す」という意味があります。
 橋本先生の「銀の匙教室」を体験した生徒は千人余にも上るそうです。先生は、彼ら生徒たちが潜在的に有していた「学ぶ力」「生きる力」をうまく引き出し、有為の人材として世に送り出したのです。
 橋本武先生こそは、「日本一の教育者」と言っていいのではないでしょうか。

 その橋本先生は、今年百歳を迎えられました。先生の近況を最近のNHKが番組で取り上げたようです。
 橋本先生は現在でも、朝5時に起床し、午前中は家事をこなし午後には文化教室の教壇に立ち、夜7時に夕飯を食べた後は、深夜1時まで勉学に励んでいるというのです。先生は、「人間には寿命とか年齢による限界というものはないのだ」ということを、身をもって示しておられるようです。

 橋本武先生の益々のご健勝とさらなるご長寿、心よりお祈り申し上げます。

 (大場光太郎・記)

参考・引用
『週刊ポスト』(昨年3月某日号)<教育再考>伝説の灘校教師の「奇跡の教室」
関連記事
『「銀の匙」と灘校名物国語教師』




  

2013年10月25日 (金)

少し前の時代に、日本には凄い人がおられたのです。


   

地球がアセンション(次元上昇)をしてゆく上で、絶対に欠かすことの出来ない人物として、私は五井先生を一番に挙げるのです。

みなさんにはなじみがほとんどないと思いますが、日本を、いや地球を代表する大聖者でした。

えっそんな人がいたの?

歴史で習ってないよ(笑)

そうおっしゃるかもしれませんが、知る人ぞ知る、もの凄い人(霊止)なのです。

五井先生は、大正5年に生まれて、昭和24年に神我一体を経験し、覚者となり、「世界人類が平和でありますように」という世界平和の祈りを提唱し、その祈りは、今やピースポール等を経て、世界中に広まっています。(昭和55年8月帰神(逝去))

しかし、五井先生の教えがあまりにも高過ぎた(ほんとは易しいのですが)のと、広く浸透する時期がまだ来ていなかったために極一部の人にしか知られていないのです。

かえって海外の方(国連など)が、関心が高いくらいです。

私は最近、五井先生の凄さ、偉大さを常々思い知らされていまして、このことをどうやって伝えればいいのか?

思案にくれているのです(笑)

五井先生は、宇宙神から「世界平和の祈り」 を地球人類に広めるように授かったのですが、この祈りというのは、宇宙の悲願なのです。

今まで地球に降り立った、イエス・キリストもお釈迦さまも老子様もすべての聖者がこのことを目的に進化した星から地球に天下って来たのです。

ですから五井先生の後ろには、キリストもお釈迦さまも老子様も、金星の長老も、弥勒如来様もみんながついて応援しているのです。


「このような素晴らしい祈りに、応援して来ない聖者は聖者ではない」 と五井先生はおっしゃておられたそうです(笑)

五井先生の五井とは、五聖者が五井先生の中に居るという意味だそうです。

ですから、五井先生がご講話される時には、この五聖者が入れ替わり立ち替わりして、五井先生の器を使ってお話をされるのです。

私は、直接お聞きしたことはないのですが、五聖者が五井先生の中にいらっしゃることは、ご著書で確信出来たのです。

お釈迦様・・・「空即是色」 小説 「阿難」

キリスト様・・・・「聖書講義」

老子様・・・・「老子講義」

これらの著書は、お釈迦さまやキリスト様、老子様ご本人でないと絶対に書けない内容です。

聖者たちがほんとうに言いたかったこと、伝えたかったことがそっくりそのまま書かれているのです。

なぜ、そんなことがわかるのか? って(笑)

そうですよね、確信するのにはなにか裏付けがいりますよね

しかし、理屈ではないのです。

読んでいて、これを書いているのは “ご本人だ”  と心が感じるのです。

 

今、地球を覆っている波動が細かくなっています。

宇宙の波動に近づいてきているのです。

ですからこれらのご著書(空即是色、聖書講義、老子講義)を読まれて

ビンビンに感じる人がかなりおられると思います。

アセンションの始まり(プロローグ)は、五井先生のブームをきっかけに始まるというのは、もう神界では、約束されていることなのだそうです。

神界の出来事が、地球に降りて来るのです。

神界とは、地球の未来を指すのです。

五井先生がご存命のときには、大聖者の働きをされていました。(今ももちろんあちらの世界で浄められています)

業を浄めておられたのです。

業とは、地球人類が作ってしまった、負の遺産です。

マイナスのエネルギーです。

キリスト様もそうですが、業を浄める人がいなかったら地球はもうとうの昔に崩壊していたのです。

過去6回、アセンション(次元上昇)に失敗して、そのつど地球は滅びていました。

しかし今回は違います。

7とは、宇宙の数字、完成(アセンション)を意味します。

下記の文章で、五井先生の凄まじさ、偉大さ、愛の深さを感じていただけたら幸いです。
 

 

この世に生を享けたものには必ず「消えてゆく姿」があります。魂を磨き霊性を高めるためには、どうしても過去世の遣り残しを今生で果さなければならないからです。
...

しかし例外として五井先生のような霊覚者には、「消えてゆく姿」は全くなく、あるのは「消してゆく姿」だけでした。昼夜を分かたず世界の業を一身に引き受けてお浄めなさっておられたのです。肉体的な現われとしては腹部の激痛でした。

 先生は「包丁で腹を切り裂かれるような痛み」とおっしゃっておられました。

また間断なく出る痰は時には気管を塞ぐことがありますが、その時は苦しみをじっと耐えて、霊的な呼吸をすると痰が切れるとのことでした。あえて医者が病名をつけたとしたら「気管支喘息(ぜんそく)」でしょうか。

 したがって睡眠もまとめて一時間、二時間おとりになることはなく、五分刻み、十分刻みとおっしゃっておりました。まさに十字架上のイエス・キリストです。
 「イエスは一昼夜だったけれど、わたしは十年間だよ」と。

 五井先生の状態を見かねた故斉藤長老の発意で、全講師(約二百名)が一つになって、たとえ一日でも二日でも五井先生の身代わりにさせていただけたら、ということを進言しました。

ところが五井先生のご返事は、「二、三分と持たないで全員が悶絶してしまう」とのことでした。世界の業の凄さ、それをお受けになっている五井先生の器の偉大さをあらためて知らされたことでした

 「夜通し痛み続け、明け方になってちょっと楽になる。その時みんなだったら、あー今日もこれから痛みが襲ってくるんだろうな、嫌だなあと思うだろうけれど、わたしは決してそうは思わないよ。

昨日は昨日で終わった。今日こうして新しい一日を与えて下さった。わたしの身体を使って世界を浄めて下さる神様ありがとうございます。これがわたしの光明思想だよ」
 というお言葉をお聞きしたことがありました。

 ある時、先生が次のようにおっしゃいました。
 「今出た痰は白人がインディアンを虐殺した時の業が痰という形で消されていって、次に出た痰はローマの兵士がキリスト教徒を迫害した時の業が消されていったんだよ。

わたしの痰には一つ一つ物語があるんだよ。いずれこの物語を一冊の本にしようと思ってね。題名は『歎異抄』*(たんにしょう)ね
 五井先生の冗談にはまいりました。


*歎異抄 浄土真宗の開祖、親鸞の語録。



   




  

2013年10月23日 (水)

心を明るくする光明思想徹底行

 
 
台風が近づいて来て、一体どうなるんだろう? また被害が出るのか? 台風だけではなく日本はどうなっていくのか? 世界は大丈夫なのか? 地球は? いやそんなことを考えている場合ではない、自分の仕事は? 家族は? 貯金が少ないのに将来は大丈夫か?・・・・・

と心配事に意識が合ってしまうと、マイナスのエネルギーはどんどん増幅し、いろんな心配事に波及をしていくのです。

そして心の中はマイナスのエネルギーでいっぱいになってしまいます。無限なる光!shine

人間はどんな状況になっても

「絶対に大丈夫なんだ」 「夜明け前が一番暗いんだ、これを過ぎれば明かりが見えて善くなってゆくんだ」 「神さまは人間を不幸にするはずはないんだ」 「今現われているのは、プラスから出たマイナスなんだ」

と気持ちを明るい方に向けておくことが大切なのです。

しかし、今地球はマイナスのエネルギーに覆われているので、自分で意識的にプラスのエネルギーを心に注入していかないとすぐにマイナスのエネルギーにさらわれてしまうのです。
 

ところで、宇宙はプラスのエネルギーで満ち溢れています。

素晴らしい! shine の素(もと)とは、宇宙のことです。

つまり宇宙はいつも晴れている、地球を覆っている雲の上はいつも晴れています。

その青空に意識を合わせるのです。

下記に記した無限の言霊は、宇宙の言葉をすべて網羅したものです。

宇宙は7という数字で成り立っています。

7 が宇宙の数字なのです。

その7の7倍である49の言葉で宇宙のすべてのプラスのエネルギーが集約されているのです。

この49の言霊を7回繰り返すと、心の中で化学反応があらわれます。

奇跡が起こるのです。

私は奇跡とは、心の中のマイナスがプラスに転じることだと思っています。

いくらお金がたくさんあったとしても、心がプラスのエネルギーで満たされていないと、それは不幸なのです。

調和がとれていないのです。

愛が足りないのです。

心が平和ではないのです。  無限なる愛、無限なる調和、無限なる平和!

“明るくなる” とは理屈ではありません。

明るいの明は、お日さまとお月さまが調和した姿です。

愛の姿です。

すべてはエネルギー(波動)なのです。

人間ももちろん光の波動体です。

今は、その光がくすぶっている、隠れている・・・・・・  無限なる光!shine

だから、光明思想徹底行によって心を本来の光の波動体にしてあげればいいのです。

心がすべてのすべて

心がプラス(明)に転ずることによって、現象が明(プラス)に転じてゆくのです。

心を明るくする努力をしましょう♪

それが光明思想徹底行なのです。

 

 


世界人類が平和でありますように

無限なる愛

無限なる調和

無限なる平和

無限なる光

無限なる力

無限なる英知 

無限なるいのち
 


世界人類が平和でありますように

無限なる幸福

無限なる繁栄

無限なる富

無限なる供給

無限なる成功

無限なる能力

無限なる可能性

世界人類が平和でありますように

無限なる健康

無限なる快活

無限なるいやし

無限なる新鮮

無限なるさわやか

無限なる活力

無限なる希望

 

世界人類が平和でありますように

無限なる自由

無限なる創造

無限なるひろがり

無限なる大きさ

無限なる発展

無限なるエネルギー

無限なる感謝

 

世界人類が平和でありますように

無限なる喜び

無限なる美

無限なる若さ

無限なる善

無限なるまこと

無限なる清らか

無限なる正しさ

 

世界人類が平和でありますように

無限なる勝利

無限なる勇気

無限なる進歩

無限なる向上

無限なる強さ

無限なる直感

無限なる無邪気

 

世界人類が平和でありますように

無限なるゆるし

無限なる栄光

無限なる気高さ

無限なる威厳

無限なる恵み

無限なる輝き

無限なる包容力




 

 

2013年10月21日 (月)

人も人間も神の子なのです

 
 
人と人間は違うのです。

「あの人は」

というのと

「あの人間は」

というのでは全然響きが違いますよね。

あの人というほうがやさしく上品に聞こえます(笑)

それもそのはず、人というのは、神さまのことなのです。

人は、霊(ひ)が止(と)まるという意味

霊とは神さまのことなので、神が宿ったのが人(霊止)なのです。

神という響きは

か~あ

み~い

というように愛と同意語なのです。

ですから 「あの人は」 というのは 「あの愛に溢れた神さまは」

なんですね。

一方、人間とは、その神(人)と動物の間にいる状態(境地)の人のことをいいます。

動物とは感情のこと

人は神さまのいのちがそのまま宿っているのですが(神の分霊)

動物とは神さまが創った被造物なのです。

そして理性がなく感情のままに生きています。(理性のあるかしこい動物もいますが)

つまり、パーフェクトな神さまと不完全な動物の間にいるのが人間という意味です。

しかし不完全な人間は、やがて完全な人(霊止)へと進化してゆくのです。

そして人間が人になるというのは、神性が顕われて、神になるということです。

人間が進化し、神性が顕われると人(神)になる

たとえ今の状態が

動物性しか現われていない、凶暴、極悪、冷酷、非情な、人間性のかけらのないような

どうしようもない人であっても

その人は神なのです。

神の子なのです。

私たちは、その人の奥にある神の子を見ずに、表面に表われている悪魔の子を見ているのです。

しかし悪魔の子は、どんな人間にも存在せず、必ずいつかは時を経て、動物性が消えて、神の子になるのです。(その時がアセンションの完成です)

いや元は神の子なのです。

だから、私たちはその人の動物性を見るのではなく、神性を見なければならないのです。

神の子であることを識
らなければ、いつまでも神の子なのか? 悪魔の子であるのか?で苦しむのです。

人間神の子が真理です。 真実なのです。

人を批判、非難するというのは、人間神の子を否定しているということです。

どれだけ自分に都合が悪く、憎い相手であっても

まして、それを口に出して悪く言ってはいけないのです。

その人の品格(人格、霊格)が下がるのです。

悪口を言えば言うほど

その人は、真理(真実)から外れていくのです。

そしてみんなを嫌な気持ちにさせるのです。

それは宇宙の法則から外れるから

マイナスのエネルギーが充満するからです。

五井先生にとって、どんな人も神の子にみえるのです。

私もそんな境地になりたいと思うのでした。




 

今は亡き会員のIさんには一つの悩みがありました。その悩みとはご主人に「二号さん」、つまり愛人がいることでした。ある日の聖ヶ丘統一会で、Iさんは手を挙げて質問しましたが、それは質問というよりも悩みを訴えるという感じでした。

 あの女の所為(せい)で自分たち夫婦がしっくりいかなくなった。あの女さえいなかったら・・・・と相手の女性のことを責める言葉を言い続けました。Iさんの質問にお答えになった五井先生のお言葉の中で、今でも忘れることのできないお言葉があります。

 「あんたは、さっきから『あの女、あの女』と言っているけれど、わたしはその言葉が気にいらない。あんたにとっては『あの女』かもしれないけれど、その女性だって同じ神の子です!」




 
 

2013年10月20日 (日)

守護霊、守護神について

 

今日、調和波動気功法のセミナー(ムーン・リバー・スター)が行なわれまして、その中でハーモニー(気功仲間)の人が

最近、知り合った人に 「守護霊守護神のことを教えて欲しい」 と言われたのだそうです。

その方は神さまは何か遠い存在だと思うのだけれど

守護霊、守護神は、身近に感じていたようなのです。

そこでそのハーモニーの人が “守護霊守護神に代わってあなたに語る” という小冊子をその方に差し上げたところ、大いに納得され感動されたのだそうです。

私も時々、ひも解いて読むのですが、守護霊守護神の愛が伝わってきて、何度読んでも感動するのです。

ここでも(ブログ)何度もご紹介していますが、最近読み始めた人にも是非、読んでいただきたく掲載させていただきます。

よろしくお付き合いください。


 

守護霊守護神に代わってあなたに語る



 

1、私は日頃あなたが思っていること、考えていることそのすべてを把握し、そしてその希望をすべて成就させるよう願っている。

決してあなた一人だけの望みではない。

あなたの望みは常に私の望みなのだ。

 

2、自己の希望を実現しえないで人生を終わってしまう人の何と多いことか。
 
彼らは私の存在を少しも認めようとはしなかった。
 
私はどんな時でさえも常に彼らの側にあり、彼らの望みを達成し得んが為に彼らを見守り導いてきたつもりでいる。
 
希望の成就は肉体個人一人で出来るものではない。
 
常に守護霊、守護神と共に歩んでこそ成就する路なのだ。
 
それが真実の人生の路なのだ。

 
 

   

 

3、出来うる限り明るく陽気に振るまいなさい。




4、私はあなたがいかなることをしようとも、決してあなたに罰を与えない。
 
私はただ、すべてを許すのみである。

そしてあなたのその罰を私が代わりにしょってあげているのである。
 
その代わりあなたは “消えてゆく姿で世界平和の祈り” を繰り返し繰り返し祈ればよい。

自分自身を深く信じなさい。

 

 

 

5、私はあなたにあえていいたい。
 
出来る限り明るい言葉や思いやり深い優しい言葉を常に、極力心がけて努力して使うようにし、光明思想の本を一日一回は読み、人の心を感動させるようなニュースを聞き、人と語り合う時には人の心を豊かに楽しませるような話題をあえて選び、明るいことのみを語るようにしてほしい。

そして暗いニュース避け、病気の話や人の不幸の話は出来るだけ口にしないことである。

 

 

6、羨望の心が湧くのも致しかたない。
 
嫉妬心にもだえるのもまたこれ仕方がないではないか。
 
そして人の幸福を妬み人の不幸を心ならずも喜ぶのもまた致しかたない。
 
人の心は感情によって左右されるものであるから、感情を無くさない限りこのようなことはすべて人の心の中に起こり得る現象である。
 
この世は物質肉体の世界、完全なる霊なる世界と違って不自由な束縛ある世界、よくないことだと充分にわかっていながら、正しいことではないと充分に理解していながら、神から反している行為だと充分に納得していながら、やはり現れてくるのが現実なのである。
 
おさえる必要はない、出すだけ出すがよい。

だが、出来るだけ人に迷惑がかからないように出してゆくのだ。
 
相手にまともにぶつからず、声を出して私にぶつけなさい、私にどなりなさい、私に非難をあびせかけるがよい。
 
私はあなたの心が充分にわかるだけに、あなたが愛しくて可哀相でならない。
 
私の大きな翼であなたを包んであげよう。
 
癒してあげよう。
 
心の中にある鬱憤をすべて私に吐きすてるのだ。
 
私が聞いてあげよう。
 
私が代わって祈ってあげよう。
 
あなたがあなた自身で祈れる時がくるまでは。

 偽善者 になるよりはよほどよい。

 

7、不調和な状態を一刻も早く自分の心の中から一掃せよ。

 

8、

あなたの内部の奥にじっとひそんで隠されている部分、秘密、嘘、葛藤、情欲・・・・それらのすべてを私は知っている。

私の前には何の隠しだても無用である。

ただ裸になることだ。

私にとっては肉体人間の弱さなどは百も承知の上だ。

だからこそ私というものが必要なのだ。

私の支えを必要とするのだ。

朝な夕なに私の名を呼びなさい。

 

9、

大自然の修復作用が発揮出来るよう大自然に代わって祈れ。

 

10、

あなたの希望を実現する場合、まだこの世の中に何の手ががりも見出せず、皆目何も無いところから全く新しい希望、この世に打ち出すそのきっかけを創造(つく)り出すのは、いうまでもないこの私である。
  
常に私の存在を忘れず私の名を呼びなさい。守護霊、守護神同士でお互いに交流し合うからである。

 

 

11、

人の悪を聞くために耳があるのではない。
 
人の悪を語るために口があるのではない。

人の悪しき姿を見るために目がついているのではない。

 

 

12、

相手を解放してあげると自己の束縛から解放される。

 

 

13、

すべてを見知っている私の前ですら未だ嘘、偽りでもって自分を覆いつくし、隠しだてをするつもりでいるのか。

情けない。

私はすべてを許そうと思っているのに。

私は(宇宙の法則)から絶対なる権限を与えられている。

あなたのすべてをゆるし、あなたのすべてを愛するのが私の働きである。

 

14、

あなたが私から離れてどこへ逃げようとも、隠れようとも、またどんな罵詈雑言(ばりぞうごん)をあびせかけようとも、それでもなお私は常にあなたの側を離れず、怪我がないよう、苦しまないよう、痛まないよう、見守りつづけているだけである。
 
私はあなたに嫌われていても、それでも尚あなたが愛(いと)しいし、愛しつづけているのである。

 

15、

私は肉体を持ちあわせていないので常にあなたの内部に働きかけ、内部の力を増し、調わせ、そのエネルギーを外界に現わし、そして出来るだけあなたの思うようになるよう、成就するよういたらしめているのである。

 

 

 

16、

私はあなたが暗く沈んでいる時、今まで以上に強い希望の光を投げかけている。
 
あなたが自分自身を傷つけ悲しみに浸っている時、すべては許されるのだという真理の光を送り、あなたに語りかけているのだ。
 
そして私の慈愛の光によって次第にあなたが真理に目覚めはじめ、その暗く果てしない入り組んだ道から脱け出してゆくあなたを見た時、私はあなた以上に天の神に感謝しているのだ。

 

 

17、

私は常にあなたに真理を語りつづけている。
 
あなたの心が全智全能の創造主と同じような強い力を握っているのだということを。
 
あなたは自分の心で、自分自身を幸せにも不幸せにもすることが出来るのだということを。
 
自分自身を、傷つけ暗く悲しいものだと思ったら、その通りの人生が展開されてゆくであろうということを。

そして自分自身を神の分け生命として認め、明るく大いなる希望をもってゆくならば、またその通りの人生が展開されてゆくであろうということを。
 
心はすべてのすべてである。
 
なぜならば、心は自分自身の運命の支配者であるからだ。

 

 

18、

私はあなたがいかなる苦悩、いかなる悲哀、いかなる絶望にあろうとも、必ずあなたを幸せにしようと心をくだいて見守りつづけているのである。

私の働きはあなたの真の幸せに導くこと以外の何ものでもない。

 

 

19、

 
私はあなたにお願いがある。この世は物質的肉体がすべてではなく、本来霊なる世界の写し世である、という事実を自覚してほしいのである。
 
霊的自我に目覚めたその時から、もはや何ものにもしばられぬ自由自在なる世界が、あなたの目の前に展けてくるのである。

それは無限の可能性を秘め、自分の思う通りになる世界となるのである。

 

 

 

20、

あなたは常に幸せを願うのだ。
 
あなたは常に神の無限なる能力を信ずるのだ。
 
あなたは常に調和を愛するのだ。
 
私はあなたのその望みにむかって全精力を傾けて、その実現のためにわがエネルギーをフルにあなたの心の中に注ぎこんでいるのだ。
 
だが、あなたの望みが常に暗く悲しく絶望的であるならば、その方向にむかってわがエネルギーを注ぎ込むことは、不可能である。
 
あなたの考えが明るく積極的な希望に満ち溢れたものに変わるよう、エネルギーを注ぎこむのであるが、そのエネルギーの消費量は並大抵ではない。
 
もともと+(プラス)の考え方を更に+(プラス)の方向に導き、この世に実現可能にせしめることは、宇宙の法則通りに実に簡単で無駄なエネルギーを消失しないものであるが、-(マイナス)の思考を+(プラス)に方向転換させることは、前者の何万倍ものエネルギーが消失されるものである。
 
 
常にあなたの考えを+(プラス)の方向に向けて生きて下さい。

 

 
 

21、

頭のよくない人ほど中途半端な聞きかじりをし、自分の知識をひけらかしたがるものである。

頭がよくないから善悪の批判力が無くすべて受動的に自分に吸収してしまうため、その人の潜在意識の奥にすべてそれらの中途半端な知識は溜めこまれてしまう。
 
さて、本人が病気になったり、挫折したり、失敗したりした時、これらの中途半端な知識が次から次へと頭を擡げ(もたげ)はじめ、自分自身の下らない知識で自分自身をがんじがらめにしばりつけ、また、自分自身の暗い思考力で自分自身を暗示にかけてしまい、どうしようもなく救われがたき状態においこんでいってしまうのである。
 
浅はかというより他にいいようがない。
 
知識ならどんなものでも入れていいというものではない。
 
本来ならば自分の心が勇気づけられ、希望に満ち溢れ、生きることの幸せが鼓舞(こぶ)されるような知識なら徹底的に入れこめよ。

自分の心を暗く不安恐怖に陥らせる知識は意識して取り払うべきである。

 

 
 

22、

“自分だけ悟ればそれでよい” という考え方は多分に利己的なわがままな生き方である。

これを出来るだけよい意味にとるとすると、人に真理を押しつけがましくするのは、たとえその教えがどんなに素晴らしくても、そこで必ず人の自由を縛りつけてしまうものであるから、よくないということであろう。

だが神のみ心からみたならば、真理を一人でも二人でも出来るだけ多くの人達に知らしめた方が積極的な善なる徳のある生き方なのである。

また何回も何回も重ねて自分の口を通して真理を語るということは、逆に、更に自分自身の潜在意識の中に改めて真理を吹きこむ形となり、自分の信念がまたここで更に強固に絶対的なものとなってゆくのである。

真理は何度も何度も繰り返し繰り返し語れば語るほどよい。

 

 

 

23、

旧き自己を捨て新しき自己に 蘇(よみがえ)るのが世界平和の祈りである。

どうにもならない自分をしっかりそのままつかんでしまった上、私はこんなにも悪い人間ですといわんばかりに、自分の悪を強調しても、誰も救われはしない。

むしろどうにもならない自分を一旦神の中に捨ててしまって、すべてを神の中に投げ入れていまうと、宇宙の法則にのっとった生き方が示されはじめる。

 

24、

あなたの長い間にわたる苦しみは私にはわかっている。
 
あなたの悲しみや痛みも私にはすべてわかっている。
 
そして更に今あなたの上に投げかけられている不安恐怖、今のあなたの立場ではどうしようもないのもわかっている。
 
私はいつでもあなたの心の叫びを聞き、訴えを聞き、その問題解決が一刻も早からんことを願い奔走しているのである。
 
だがあなたはこの私の心を知ってか知らないでか、常に自分自身の肉体の力でのりこえようともがいている。
 
だがよく聞いて欲しい、もはや肉体界でトラブルが現われはじめたということは、もう何年も、いや何千年も前に幽界で現れていたことを。

幽界で浄めることが全くできなかったが為に、この肉体界に現れはじめたのであるということを。

そのためにはまず幽界を浄め去るのが先決である。

それが出来るのはこの私である。

霊なる力で、霊なる光で、幽界を浄めれば、自ずと肉体界のすべてのトラブルは自然に解決されるものである。

私に頼りなさい。私を信じなさい。あなたが夢をみているその時ですら、私は闇を光に変える働きをあなたの為にしているのです。

あなたはあなた一人で生くるに非ず、私の生命と共にあって生くるなり。

 

 
 

25、

今あるとるにたらない小さな小さな幸福にさえも、神の与え給いしごほうびだとして感謝せよ。

 

26、

私は “神の子” であるという徹底的なる自覚がいかなる災いからもあなたを防ぎ、いかなる不幸からもあなたを脱出させる。
 
災いにも不幸にも絶対に波長が合わないからだ。

27、

私に徹底的に素直たれ。


 

2013年10月18日 (金)

自分や他人の悪いところに把われていてはダメなのです

 

自分や他人の悪いところを掴まえて、「自分はダメなやつだ、情けない」 と思ったり、「あんな悪い奴はいない、あんな奴は死んでしまえばいいんだ」

と悪い悪いとずっと思っていると、自分ではどんどん落ち込んで行くし、他人への憎悪はつのっていくばかりです。

そして想ったことは、エネルギーを帯びているのでその通りになってしまう。

自分って人間ってほんとうに悪くてダメな奴ばかりなのでしょうか?

悪くない人もいれば、ダメでない人もいるということなのでしょうか?

それとも時には悪くてダメで、しかしある時には良くて素晴らしい交ざり合ったものなのでしょうか?

性善説と性悪説があるけれど、ほんとうはどっちなのか?

それをほんとうにわかっている人は極僅かなのです。

真実(真理)がわかっていないから人間はさ迷っているのです。

人間は神の子なのか? 悪魔の子なのか?

しかしこのことを議論してもしかたのないことです。

それは神さまがいるのか? いないのか? を議論するのと同じこと

目に見えないものを信じるか信じないのかは、その人の前世(過去世)での経験によります。

前世で神さまを知っている人は、その存在がわかっているのです。

しかし、本当は人間はみんな神の子なんだけれど、ずっとずっとそれがわからずに輪廻転生してきた人は、誰に何を言われても信じられないのです。

グッドムーンはどっちなのか?

私はもちろん、神さまを信じています。

理屈ではなく、いると思っているのです。

それでいいのだと思います。

そして神さまは完全円満です、パーフェクトです。

だってこの無限なる宇宙を創った人?だから完全でないはずがない

・・・・・・

だったら人間は?

人間も同じだと思うのです。

だがしかし、今はその完全が顕われていない

だけど、時を経てきっとその完全(神の子)が顕われて来る

そのことも理屈ではなく、私はそう信じているのです。

信じるのは勝手です(笑)

人に自分の考えを押し付けたり、迷惑をかけなければ

何を思おうとそれは個人の自由です。

だったら黙っていればいいじゃないか?

と言われるかもしれませんが(笑)

そうはいかないのです。

真理を知らない人がたくさんいるのです。

それで不幸でもないのに、勝手に不幸になってしまっている人がいるのです。

マイナスでないのにマイナスを掴んで不幸になっている人もいるのです。

病気や貧乏は消えてゆくものなのに、それを掴んで病気や貧乏になっている人があまりにも多いのです。

真理がわかれば、このようなマイナスの現象は、一瞬のうちに消え去ってしまうのです。

それくらい人間の想い、想念、つまり心は重要なポイントを担っているのです。

心が、想いがすべてのすべてだからです。

想いさえ、心さえ真理を識ってしまえば人間は幸せになれる


完全円満になれる、安心立命できる

人間は今、自分が何者であるかを識る時期に来ているのです。




一番大事なことは、神さまは完全円満である、この世の中は神さましかないんだ、ということ。

人間は神さまの子なんだから、完全円満なんだ、ということです。

間違いなく完全円満なのです。

そういう風に先生いうけれど、戦争になったり、年中争っているのは完全円満じゃないでしょう?

それは想いなんです。 神さまを離れた想いがそこにあって、それが映って現われているだけなんです。

現われている中で、完全円満じゃない不完全なものを把えて、争いの波の中で、いくら良くしようと思ってもだめなんです。

たとえば一家なら一家を見ても、夫を悪い夫と見ていて、いつまでも夫が悪いんだと思っている以上は夫はよくならない。

子供なら子供をよくしようと思って、子供が悪いんだ悪いんだ、と思っている内は子供はよくならない。

何故ならないかというと、自分が悪いのを掴んでいるからです。

袋をかぶせて縛っておいて、袋をぬげぬげというのと同じで、袋を脱げないでしょう。

真っ暗のところで、暗いぞ暗いぞ、と言っていたって明るくなりはしません。

電気をつければ明るくなります。

つまり明るい方ばかり見なければいけないんです。

だから夫なら夫の悪いものを掴んでいたら、絶対に夫はよくならない。

妻なら妻の悪いものを掴んでいたら絶対によくならない。

病気を掴んでいればよくならない。

なんでも掴んだらよくならない。 つかんだらだめなんです。

何故だめかというと、つかんだら離せないからです。

金が欲しい時に、金、金、金と金の想いばっかりつかんだらだめです。

金のほうで逃げます。

なぜかというとそれは恐怖だからね。 完全円満を認めてないんだから。


 


信仰もここまでくれば

 

神さまの完全を認めている人は、仮に40度の熱が出たって平気です。

そんなの問題にしません。 何故問題にしないかというと、完全円満ということを知っているから。

40度の熱が出てもそれは消えてゆく姿と思って恐れない。 消えるに決まっているからからね。

病気を怖がって、ああ病気だどうしようどうしようと思う人と、ああ病気なんか消えてゆく姿、私は完全円満(神の子)だから間もなく消えてゆく、神さまありがとうございます、そういうように思える人と、どっちが得でしょう。

どっちが幸せかといったら、病気なんか平気のほうが幸せですね。

同じ貧乏の人でも、神さまを知らないで、ああ貧乏でどうなるのだろう、家中みんな飢え死しちゃうんじゃないか、一家心中でもしなければならないか、と思っておびえている人と、ああ神さまは愛なんだら、神さまは完全円満なんだから、絶対に自分たちは一家心中なんてなることはない、飢え死にすることは絶対にないと思って、のん気に歌を歌って暮らしている人と、どっちが幸せかというと、心の平和のほうが幸せでしょう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

   「素直な心」 五井昌久 白光出版

 

2013年10月16日 (水)

微妙な波動と粗雑な波動の違い


 
  

一日、24時間はみな平等に与えらているけれど、その24時間をいかに使うのかは個々人に任されています。

私は、幸せとはこの24時間をどれだけ有効に過ごしたかによって決まると思っているのです。

寝る前になって、あるいは次の日の目覚めのときに

「ああ、いい一日を過ごすことが出来たなぁ」

「感動的な出来事があって幸せだったなぁ」

「よし、今日一日も充実した一日にしよう!」

と決意して毎日を過ごしてゆくことこそ心がワクワク嬉しくなる瞬間なのです。

そのためには、一瞬一瞬を大切に丁寧にプラスの波動で積み上げてゆくことが大切なのです。

マイナスのエネルギーは一瞬にして入ってきます。

油断も隙もありません。

そして一瞬にして私たちの心の中を占領し、内と外を真っ暗にしてしまうのです。 無限なる光!

だから私たちは、いつも明るく光り輝いている、いつも無限のエネルギーに溢れている

いつも愛で満たされている、そんなとてつもなく大きな存在(サムシング・グレート・神)につながっていなければならないのです。

つながっていないと一時もまともには生きていけないのです。

つながっていなくても生きてゆけるんだと想っていることは

傲慢以外の何ものでもないのです。

私たちは生きているのではなく

生かされているのです。

宇宙(サムシング・グレート、神界、神)につながっていると、宇宙の微妙な繊細な波動と一体となるのです。

すると、まるでスローモーションのように物事が動いてゆくのがわかります。

波動が繊細になり、一コマの中にたくさんのエネルギーを入れることが出来るからです。

映画 「スパイダーマン」 で主人公が喧嘩を売られて殴りかかってこられた時、相手のパンチがスローモーションのようにゆっくりと見えたのがそうなのです。

パンチとパンチの間に細かい粒子を入れることができるのです。

自分の波動が細かくなると、いろんなものが見えるようになるのです。(肉眼だけでなく心眼です)

グローバルな視野とは、全体を視るというのではなく、細部を奥深く視れるということです。

奥深く入ってゆくとそこは、宇宙につながっているのです。

無限小に入ってゆくと、そこは無限大なのです。

意識を集中させて、奥深く入ってゆくと自分は宇宙とつながっていることがわかるのです。

ですから、ヴァイブレーション(波動)を細かくしていけば、宇宙がみえるのです。

未来がみえるのです。

スローモーションになるから余裕が生まれ、物事が点ではなく線になるのです。

間(魔)が入らなくなるのです。

事故や病気や災難が未然に防げるのです。

線は未来へつながっているから何が起こるかがわかるのです。

本来の力が出てきて、すべてがパーフェクトに調ってゆくのです。

それくらいヴァイブレーション(波動)を調えることは素晴らしいことなのです。

実は、私が実践しているのがその

波動調整、調和波動気功法なのです。

世界平和の祈りを祈り、印を組むと、ヴァイブレーション(波動)はいくらでも細かく、しかも強くなってゆきます。

そして本来の素晴らしい自分に還ってゆくのです。

  

調和波動気功法

http://www.harmony-wave.jp/
 




 

ヴァイブレーションについてもう少し詳しく説明してみましょう。

ヴァイブレーションが低い次元より高い次元のほうが勿論よいことは言わずもがなのことです。

と同時に、荒く粗雑なものより細かく微妙なほうがどれほどよいか計り知れません。

微妙な波動を発している人は、未然にいかなる不幸も事故も病気も最小限に防ぐことも可能なわけです。

譬えていいますと、漫画がとてもよい例です。

ディズニーの動物アニメ(漫画)のように、常に優れた最高の作品は、観客に感動と感激をもたらしてくれます。

画面の美しさ、リアリティー、迫力、正確さ、細かい微妙なところまで行き届いた神経、観察力は傑出しています。

現実との区別がつかないくらい素晴らしいものです。

それに比べて三流、または低いレベルの映画会社が作り出す映画は、同じ動物のアニメであっても余りの違いに驚くばかりです。

ディズニーが描くアニメは、ライオンの物語りにしても、そのライオンの動く動作、表情、獲物を集中してほえながら飛びかかってゆくその雄々しい姿・・・・等、一つ一つの動作が実に細かく微妙なのです。

それは一コマ一コマの描写が動作をわずかに変化させただけのものだからです。

・・・・・・・ライオンの一瞬の出来事を何百のコマに描きつづけるのです。

そして、その何百のコマを映写することによって、ライオンが獲物を見つけ飛びかかってゆく瞬間が実に見事に映し出され、あたかも本物そっくりのリアリティーに迫るのです。

これこそ粗い波動ではなく、細かい微妙な波動と言えます。

要するに一瞬の間にたくさんの情報(コマ)が入っているのです。

ところが低いレベルのフィルムになりますと、ライオンが飛びかかる瞬間は、二コマか三コマの動作で終りにしてしまいます。

最初の一コマはライオンが土を蹴り、宙に舞い上がる瞬間。 二つ目はライオンが大きな口を開き切っているところです。 そして三つ目はもう獲物をくわえている動作です。

これは、荒々しい粗雑な波動としか言えません。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

微妙なヴァイブレーションには、一瞬の出来事に百コマ以上の微妙な動き、変化、権威、集中、輝き、感情、威厳、周りの風景、他との関係の情報がたくさん盛り込まれております。

ヴァイブレーションが細かく微妙なほど現実的にすべての状況を適格に判断できるのです。

ヴァイブレーションが荒く粗雑ですと、動作のみに終り周りの状況を把えることが出来ません。


 

 

     「次元上昇」 西園寺昌美  白光出版



 

食は、人を良くする

 

お腹が空いているときというのは、意識が

「食べたい」

「空腹をなんとかしたい」

という欲求に向いているので、他のことに意識が行かないのです。

そしてイライラしてきて、感情的になっている

だから集中力が散漫になる

失敗をする、イライラするので喧嘩になる

喧嘩にならなくても険悪な雰囲気が漂うようになる

ほとんどの人が空腹を他のことで紛らわせて自分の心をコントロール出来たとしても

その中のたった一人の人でも

「いつまで待たせるんだ、早くもってこい」

「えったったこれだけしか出てこないの? 高い会費を払っているのに、ぼったくりじゃないか」

「早くスピーチを終わらせてくれ、俺はお腹が空いているんだ」

と感情的になっていたとしたら

その場は一瞬にして、ピリピリとした雰囲気に包まれるのです。

それくらい人間一人のマイナス?のエネルギーは凄まじいのです。

だから食事時の司会者、進行者、主催者は全体を観て、食べ物を十分に適切にタイミング良く提供することを心がけなければなりません。

イベントでもそうです。

イベントの内容だけを充実させることに神経を使って

食べることは、二の次、三の次にしてしまっては、必ず不満が出るのです。

イベントでは、弁当が肝心なのです(笑)


人はいろいろなことを考えています。

十人十色、それぞれの頭はいろんな世界に行っているのです。

お金のことを考えている人

恋人のことを考えている人

仕事のこと、過去のこと、未来のこと、これから始まるイベントのこと、誰が来ているのか探している人、帰りたいと思っている人・・・・・・・・・

みんなの心を一つにすることは難しいけれど、感情を消して心を穏やかにすることは出来るのです。

それが食事なんですね。

食事の食は、人を良くすると書きます。

食事をすることでみんなの心がリラックスし和やかな雰囲気になるのです。

その場がよいエネルギー(波動)になるのです。

今、人間は食べ過ぎなのだ! 腹八分いや六分目くらいでいいんだ

一日二食でいいんだ

朝は食べなくていいんだ

三つの口で山のように食べるから癌になるんだ

などと少食になる傾向にあります。

これはとてもいいことだと思うのです。

人類は必要以上に食べて、大量に食べ物を廃棄してきました。

しかし、空腹状態を自らが選んでコントロールするのと(ダイエットや健康を考えて)

「今日は、ダイエットや健康のことは忘れて、しっかり食べるぞ」

という時があるのです。

人間メリハリが大切です。

食べる気が満々のときに

まずい食事が出てきたり、冷めたスープが出てきたり、スピーチが長かったり、量が少なかったりしたら、その会(イベント)は成功とはいえないのです。

旅行に行ってもそうですよね、どんなに景色の良い所に泊っても、温泉が気持ち良くても、サービスが行き届いていても、食事がいま一ならば、それは良い旅であったとはいえないのです。

最後は、「あの食事は良かったよね」 になるのです。

食事をあなどることなかれ

それがいろんなイベントを主催してきた、私の感想なのです。(失敗もたくさんしました)

その失敗談を、来年中学校時代の同窓会をする幹事の友人と話していたら

「いいヒントをもらえた」

と友人は言ってくれたのです。

同窓会ではみんなが話すことに夢中になって食べることが疎かになります。

せっかくのホテルの食事が冷めてしまいます。

残ってしまいます。

そこで


「みなさん学生時代を思い出してください。これから給食タイムを設けます。みなさん今は食事に専念してください」

と言おうと思っているんだ。

「これだったら押し付けにならなくていいだろう?」

・・・と

私はこの友人の心配りに感動したのでした。(私の失敗がこれで生かされたとも思ったのでした)

きっと来年の同窓会は大成功に終ると思います。

 





  

 

 

2013年10月14日 (月)

人々に必要な賛嘆や感嘆の言葉

  

私たちが褒められて嬉しいのは、表面的な感情を喜ばせてくれるからではなく、もっと本質的な奥からの魂の喜びだったのです。

反対にお世辞や、歯の浮いたような褒め言葉は、本心から語っているのではないのですぐにわかりますし、言っている人の人格をうたがいます。

ただ、褒めればいいというものではない。

褒めるというのも難しいものだと思います(笑)

私はその人との関係を良くしようと相手のよいところを探そうとすることがあります。

そしてそれを見つけて言おうとするのですが

それがその人が喜んでくれるとは限りません。

「あなたはこんなところが素晴らしいですね!」

「凄い才能ですね!」

「笑顔が素敵ですね!」

言いたいと思っていても

照れて言えないこともある

言って誤解されることもある

だから無理に言葉にすることはないと思うのです。

言うにはタイミングというものがあります。

考えて言うものではないのです。

ただいつもいつでも褒められるように

その人の良いところを探すことを続けている必要があると思うのです。

そのためにはその人の悪い所(欠点)を見ていては、見つけることが出来ません。

人はどうしても長所よりも短所に目が向きます。

自分にも他人にも・・・・・

人は心から褒めてくれる人が好きなのです。

大好きなのです。

だがしかし他人は褒めてくれるとは限りません。

だからその前に自分で自分を褒めてあげることが大切だと思うのです。

 





 

ここでまた再び同じことを繰り返しましょう。 あなたのたった一言が人を傷つけ、人を怒らせることが出来るならば、またその逆にあなたのたった一言が人を喜ばせ、癒すことも出来るはずです。

人に語ろうとする言葉はすべて自分に語るべくして語る言葉であると、その真理が理解できたならば、何故に人に向って憎々しい言葉や毒々しい言葉、刺(とげ)や針のある言葉を使えるでしょうか。

決して使えるものではありません。 自分そのものに語る言葉は、自分自身を喜ばせるもの、鼓舞するもの、勇気づけるもの、幸せに導いてゆくもの、自分自身が平和になるもの、平安と安らぎ、愛に満たされるものであるに違いないのです。

自分自身を満足させる賛嘆の言葉や感嘆の言葉こそが人々には必要なのです。

なぜ一般の人々は自分自身が人々からほめられたいか、称えられたいか、尊敬されたいか・・・・。

それはかつて自分自身の本心が神そのものであり、その神であった頃の世界、生活を思い出させてくれるからであります。

それらの言葉は、人々の心を喜ばせ、励まし、勇気づけてくれるものです。

その言葉を聞くことによって、かつて自分が神そのものであった頃の真理そのものを思い出してゆくのです。

それは全く自然です。

神そのものの自分は否定的な言葉を聞きたくもないのです。

あなたはここではっきり思い知ることが出来たでありましょう。

自分の語る言葉は、自分の表面意識としては、そして世間の常識としては、相手に向けて語られる言葉であったにせよ、すべては自分自身に向けられ、自分自身に対して語られている言葉であることが判ったと思います。

 
 

           「次元上昇」 西園寺昌美  白光出版



 

2013年10月13日 (日)

自分の語る言葉はすべて自分に向けられている



 
 
言葉は言霊といわれるように、エネルギーを持っている、宿っているということはなんとなくわかるのです。

だがしかし、すぐに自分に返ってくることがないので過去に言ったことはもう忘れているのです。

山に向って叫んだ言葉がこだまで戻って来るように

「ああ、この間言った自分の言葉のエネルギーが今、返ってきたのだな」

とすぐにわかれば

マイナスな言葉はうかつには発しないのですが、言葉のエネルギーはまるで生き物のように目にはみえない影絵のように私たちの肉体にくっついている幽体にピッタリと張り付いています。

そして同じような言葉を発すると何重にもなって大きな想念エネルギー体になって残っているのです。

そして相手のエネルギーがそのエネルギー体に触れると一気に共鳴して現象に現われるのです。

プラスのものはプラスに共鳴し、マイナスはマイナスに共鳴する

これは宇宙の法則なのです。

自分がマイナスの想念を溜めていて、相手と接するとそのマイナスのエネルギーが爆発するのです。

だから大げんかは、そのときだけに、端を発したわけではなく

長年の蓄積(又は過去世の蓄積)と言えるのです。

「私の方には何の非もなかった、悪いのはすべて相手だ」

ということはあり得なのです。

言葉を発しなくても、想念や態度や雰囲気でも自分のエネルギーは伝わります。

しかし言葉はそれにまた大きな力を加えてしまうのです。

とどめを刺してしまうのです。

だから自分の語る言葉には大いなる責任が伴うのです。

 



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

人は常に自分の発する想念、自分の語る言葉が、第一の働きとして、まず自分自身に向けられていると判断し、理解してゆかねばなりません。

それを多くの人々、いやほとんど全員が自分の想念や言葉は自分以外の他の人のために発せられ、語られるとばかり思っていました。

自分に向けられていないと思うからこそ、悪いこと、残酷極まりないこと、人を傷つけることが平気で言えるのです。

他の人に発した言葉は本来、自分に向けて発していたということを知るに至ると、全員がマイナスの言葉を発することに絶対に躊躇するに違いないのです。

なぜならば、そのようなひどい言葉を自分自身に対しては絶対に言えないからです。

恐ろしくて言葉に出せないのです。

だがしかし、同じひどい残酷な言葉も他に向けられるとなると、自らの心の中に何の怖さも何の不安も何の躊躇もないのです。

まるで刃のように鋭く相手を目がけてすっ飛んで行きます。

相手はこれではたまらない。 何の準備も用意もしていない全く無防備の状態のところへ、突然に人を切り刻む刃の言葉が飛び込んでくるから、たまったものではありません。

その言葉の持つ威力は凄まじいものです。

相手を怒らせます。 そして相手を打ちのめし、相手を病気にさせ、相手を不幸に陥れるその結果、相手に与えられたのとすべてそっくりのものが一つも残らず自分へと還ってくるのです。

この法則をもっと端的にズバリと言い換えれば、自分が今、想念し、その想念を言葉に発しようとするものはすべて、自分に向って想念し、自分に向ってその言葉を発するという意味になるのです。

そうなれば、自分にとって一つの言葉さえ、おろそかに出来ないものなのです。

要するに、これからの人類はすべて全く頭を切り換えて生きてゆかねばならないのです。

どういう切り換えが必要かと言うと

自分の語る言葉はすべて自分自身に語られている ということであります。

たとえ、自分の夫や妻、あるいは自分の子供や姑に語る言葉であってさえも、自分の口をついて出る言葉はすべて一切、自分に向けられて語られるべき言葉なのです。

そうなると、何と恐ろしいこと、恐ろしいこと・・・・・・。

自分の口から出た言葉がすべて自分自身に語りかける言葉であるということになれば、否定的言葉を口にして語るということは慎まなければなりません。

いや、じっくり吟味し、選択し、慎重に選び抜かれた善なる光明なる言葉でなければなりません。

いかなる場合といえども、決してマイナスの言葉、否定的な言葉、残酷な言葉、忌み嫌われる言葉、暗黒的な言葉を使わないでしょう。

いや、使えないでしょう。

なぜならば、すべて自分の語る言葉は自分自身に向って語られているからです。

このようにして、人類一人一人は、言葉の使い方を、長い長い途方もなく長い間に本末転倒してしまいました。

誤った使い方をしてきてしまったのです。

この誤りは、人類にとって最もひどい過酷な世の中を築き上げてゆくもとになってしまいました。

人類は今、自分たちが使う言葉によって滅びの道を一直線に歩んでいるのです。

どんどん底なし沼の中に落ちてゆくのみです。

真理を教えるのも、正すものもいません。

人類一人一人が真理に目覚め、自らが気づくまで、どんどん底なし沼に落ち込んでゆきます。

救われどころではありません。

人類一人一人の発した言葉が周りにあるすべてを引きつけて、今生に作用し、現象面に引き起こすのです。

地震も災害も病気も天変地異も戦争も・・・・・・すべてです。

ここにおいて、人類一人一人は心して真理に目覚めなければなりません。

真剣に悔い改めていかなければならないのであります。

 

    「次元上昇」  西園寺昌美  白光出版





 


2013年10月11日 (金)

私たちは今、騒々しい中を生きている

 

私たちが住んでいる 地球という “場所” とはいったいどんなエネルギーが流れているんだろう?

エネルギー、雰囲気、波動、空気、磁場、影響力のあるところ・・・・その場を表わすにはいろんな言葉が使われますが目にはみえないので、自分の居る所がどんなエネルギー体になっているのかはわかりにくいのです。

そしてそのエネルギーは場所を変えることでもどんどん変わっていきます。

先ほどの場所は、静かで波動も良かったのに、この場所はなにか居心地が悪い、気持ちがイライラしてくる・・・・・

このようにして私たちは目にはみえないエネルギーの中で暮らしているのです。

先日書いた日記の中の 「答は自分の内に 2」(9月30日投稿)で、 西園寺里香さんが今のエネルギー環境の状態を 「騒々しい」 と書かれていました。

そうなんです、この 「騒々しい」 状態が今の私たちを取り巻く環境なのです。

例えば、秋の夜長に静かに本を読みたいなと思っているとします。

ところがお隣から騒々しいロックの音楽が流れてくる

「気にしないでおこう」 「本に集中しよう」 としてもその騒々しい音は耳にこびりついて来る。

そして 「耳栓をして音が入らないようにしよう」 としても今度はその僅かな音にも敏感になってしまうのです。

そうなっては場所を変えなければ気持ちが落ち着きません。

しかし場所を変えたところで、また違う騒々しさに出会うことになるのです。

こうなったらイタチごっこですね。

自分がどんな環境にいようと不動心でいられるようにならないと

または、まったく鈍感な人になってしまうかにならないと解決しないのです。

これは人間関係でもまったく同じです。

よく職場の環境を他人(ひと)のせいにする人がいますが、不平不満を言う人はどこに行っても愚痴を言っているのです。

でも、私たちを取り巻く環境は確かに騒々しいです。

マイナスの想念波動で溢れかえっています。

感謝をしている人より、不平不満、愚痴、人の悪口、誹謗、中傷を言っている人の方がずっと多いのです。

だから益々、取り巻く環境は騒々しくなる

五感にはわからない、音には聞こえないけれどざわざわしたエネルギーが充満しているのです。

だから少々の感動する出来事や、嬉しいメール、小さな幸せ、期待していなかったサプライズ、楽しいこと・・・・これらのプラスの現象もすぐに消え、忘れ去っていきます。

「さっき嬉しいことがあったはずなんだけど、なんだったかな?」

と思い出そうとしても

幸せをプレイバックしたい、蘇らせたいと思ってもマイナスが強くて忘れてしまうのです。(何か損をした気持ちになりますよね)

今は、プラスよりもマイナスが勝っている

プラスのエネルギーよりもマイナスのエネルギーの方が強いのです。 無限なる光!

それが 「騒々しい」 という言葉でうまく表現されています。

私たちの外は確かに騒々しいです。

耳をふさぎたくなるような、そして重苦しい雰囲気が漂っています。(どこか遠くへ行ってしまいたいような衝動に駆られます)

だがしかし、私たちの内(心の中)まで騒々しくしてはいけないのです。

それは

心の中は “聖域” だからです。

誰にも犯されない、誰も入っては来れない

神さまでさえも 個人個人の聖域には立ち入ることは出来ない

許されない場所なのです。

その  “聖域” を地獄にするか天国にするかは日頃の想念にもかかっているのですが、自分が自分の聖域を

「このような場所にしたい」 と思えばその通りになるのです。

しかし、自分ではそのような騒々しい場所にしたくないと思っていても

「現実は違うじゃないか」

「俺(私)は静かな場所がいいのにどうしてそうなっているんだ」

とおっしゃるかもしれません。

しかしそれは、自分の中に騒々しくてもしかたがないという隙を作ってしまったのです。

聖域を守るガードが弱かったので、やすやすと入り込まれてしまったのです。

または、騒々しいのもたまには悪くないという気持ちがあったのかもしれません。

だがしかし、もうそんな中途半端な気持ちでは自分(個人)も人類を立ちゆかないところまできているのです。

自分の 聖域を創ることです。

自分だけの世界を創ることです。

自分が創った世界は、周りが調和し平和であり、愛に溢れています。

すると、自分が変わると周りはいつの間にか変わっていることに気づくのです。

自分が先です。

他の人は放っておけばいいのです。

自分だけが立派になればそれでいいのです。

他の人も一緒になんてやさしいことを考えなくても、想わなくてもいいのです。

人はあなたによって感化されてゆくのです。

自分が立派になれば、他人も立派になってゆく

自分が幸せになれば 周りも幸せになってゆく

自分を愛せば 他人も愛せるようになってゆく

それが真理なのです。

そして 自分の中の “聖域” “神域” を創ってゆくメソッドが

世界平和の祈りであり、印を組むことであるのです。

 



「無限なる癒し」 于寿明 星湖舎

「無限次元への誘い」 于寿明 星湖舎

「無限なる幸せを体得する方法」 于寿明 星湖舎

「無限なる勇気」 于寿明 星湖舎



 

 

 

 

 

2013年10月10日 (木)

プロセス(日頃の想念)が大事なんだ 2

 

プロセスが結果を左右する


 

幸せな人生を築き上げてゆきたいと志す人たちは、直観力を身に修めてゆかなければなりません。

そのためには、日頃の生き方が大事です。

日頃の想念こそ、自分の人生を左右する、幸、不幸を分かつ一大原因なのです。

人類にとって物が何で必要なのでしょうか。 物そのものが必要であると同時に、物が完成するそのプロセスがもっと大切である、ということを人類に気づかせるために、教えるために物が必要となるのです。

すべての物事において、原因はもとより、プロセスもまた結果を左右するということに気づいてゆかねばなりません。

プロセスそのものも結果を導いてゆくのです。

一瞬一瞬のプロセスに自分の人生がかかっていることに気づかねばなりません。

一瞬一瞬の想念こそが自分の人生そのものであることを知らねばならないのです。

否定的想念や言葉は、これからは死語にしなければならないのです。

決して想ってはならないし、語ってはならないのであります。

それを人類一人一人が完全に守れば、自然破壊や天変地異は避けられます。

一人一人が自分の想念に責任を持てば、世界は必ず平和になるのです。

人類はみな、健康になるのであります。

一瞬一瞬のプロセスに愛があればよいのです。

愛を与え、感謝を注げば、それでもう充分なのです。

決して難しいことではありません。

大変なことでもなければ、面倒なことでもないのです。

ただただ自分の語る言葉に愛を与え、感謝を注ぎ込めば、すべては完璧にうまくゆきます。

完全に調ってゆくのです。

幸せで、平和で、調和に満ちた人生が結果をしてもたらされてくるのであります。

 

世界人類が平和でありますように

日本が平和でありますように

私たちの天命がまっとうされますように

守護霊様ありがとうございます

守護神様ありがとうございます

  
         「次元上昇」 西園寺昌美  白光出版




 

 

プロセスが大事なんだ 1

「結果がすべて」

とか

「終わりよければすべて良し」

とか

「結果オーライ」

などと言いますが、私は結果よりもプロセスの方が大切だと思っています。

すごい結果を出したとしても、それが一生懸命な努力の積み重ねでなければ

ほんとうの喜びも湧いてこないと思うのです。

そして結果ってなんでしょう?

人の評価でしょうか?

自分が何かを考えてそれがある人の評価を得た

たまたまそのある人がそれを強く欲していた

ある人は強い影響力も持っていた

だから他の人もそれにつられて

「いいものだ」 と評価しているに過ぎないのかもしれない

人の評価なんていいかげんなものです。

その人の物差しで計っているからです。

一方、プロセスが大事なんだ

努力や一生懸命にすることが大切なんだ

と言いましたが(言ってきましたが)

やはり無駄な努力や、間違ったエネルギーの注ぎ方もあると思うのです。

だから目的意識が大事なんですね。

「自分はなんのためにこれをしているのか?」

「今やっていることが将来、自分にとっても世の中にとっても役にたつ、有意義なことなのか?」

それを絶えず自問自答する必要があるのです。

自問自答することで

「方向性が間違っていないか、ずれていないか?」

「今の時流に合っているか?」

もわかるのです。

そしてその質問とは誰に対してするのか ですが

それは自分の本心との対話なのです。

「神との対話」という本がありましたが

この本の神とは自分の守護霊守護神のことなのです。

そして守護霊守護神とは自分自身でもあるので (このことは説明が長くなりますので別の機会にお話しします)

結局は自分との対話なのです。

自分との対話の中で

「これだ、これしかない!」

と直感でヒラメイタならば

それはどこの誰がなんと言おうと、反対されようと他人の言うことは聞かなくていいのです。

信頼している人、偉い人、その道のプロであろうと聞く必要はないのです。

自分の中の神(本心)がそう言っているのだから間違いありません。

ただ問題はその答がどこから来ているか?

なのです。

宇宙(神界、本心)からなのか?

幽界のオバケちゃんの仕業(しわざ)なのか?

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

本物なのか? にせものなのか?

それを見抜く力を 審神(さにわ)と言います。

今、人間はこの審神力が弱っているから、迷ってばかりなのです。

相当しっかりしている

足に地が付いている

自分を持っている

そんな人でも本当の審神が出来る人は、この世にはほとんどいません。

なぜならばそんな人は肉体を纏っていないからです。

神界に居たり、進化した星に居たり、守護霊守護神になっています。

だがしかし人間は審神が出来なければちゃんと生きていけないのです。

天に向って真っ直ぐに歩いていけないのです。

この世(3次元、肉体界)もまともに生きていけません。

そのための叡智(審神力)は、神様は授けてくださっています。

メソッドはあるのです。

それが世界平和の祈りを祈ることであり(守護霊守護神と一体となる)、印を組んで

宇宙と一体となることなのですが

それだけではありません。

ただ宇宙とつながれば、それでいいというものではないのです。

宇宙と縦につながるだけでは、人間は完成しないのです。(人間も人類も幸せにはなれないのです)

縦と横のエネルギーが調和して交わらないとキリスト様のおっしゃる十字架(真理を顕わす)にはならないのです。

その横のエネルギーが、私はプロセスだと思っています。

それも宇宙からの縦のエネルギーを入れつつ、横に流してゆくのです。

宇宙の調和な平和な愛に溢れたエネルギーを取り入れ、そしてそのエネルギーを保ったまま3次元(地球上)に流してゆくのです。

愛(真・善・美)の伴った行動でなければ、それは本物(神)ではないのです。

プロセスの中に愛(真・善・美)が入っていなければそれは、間違った結果を生みます。

結果が出ればいいというものではないのです。

いいプロセスはいい結果を生む

しかし、その結果は人から評価されるものではないかもしれない

でもいいじゃないですか

それが本心(神)から来たものであるのなら・・・・・・

それが自分を信じるということだと思います。

 

 

2013年10月 9日 (水)

平和に暮らすことと、平和に生きることは違うのだ 2

 

五井先生が提唱した “世界人類が平和でありますように” のスローガンは、世界人類が平和に暮らせることではないのです。

世界人類が平和に生きることです。

平和に暮らせることとは、戦争がなく、人種差別がなく、病なく、貧なく、飢餓なく、すべてが充分に調って安定した状態で暮らせることを言います。

だが、世界人類が平和に暮らすことは即、平和に生きられることでしょうか?

否です。 平和に暮らせるということは、あくまでも物質的、表面的に安定した状態を指しています。

平和に生きるということは、精神的、内面的な生き方を指しています。

人類はたとえ平和に暮らせても、人類一人一人の心の中に不平不満がなくならなければ、決して平和には生きられません。

心の中に憎しみ、憤り、悲しみ、怒りがあれば、決して平和には生きられません。

平和に暮らすことは出来ても、平和に生きることは出来ません。

このように平和に暮らすことと、平和に生きることとは、大きな違いがあるのです。

そして多くの人類はみな、世界平和を望み、平和に暮らすことを望んでいますが、それは平和に生きることへの熱望ではありません。

平和に暮らせることへの切望です。

しかし心の何ら平和を望まない生き方よりはまだ積極的な望みと言えるでしょう。

人類の大半は、人類の平和よりも個人の平和、個人の幸せ、個人の成功、個人の繁栄、個人の健康のみを探究しているのです。

世界の平和を望んでいるのはわずかの人々ですが、それさえも世界人類が平和に暮らせることであります。

この平和に生きることこそ、真の個人人類同時成道の道であります。


     「次元上昇」 西園寺昌美 白光出版

 

平和に暮らすことと平和に生きることは違うのだ 1

 
個人的に平和に暮らそうとしたのなら、たくさんのお金があってセキュリティーを万全にすればある程度は安全に暮らせるし、不自由することもない。

しかしそれは物質的、表面的なものであって、心が平和を感じること、幸せを感じるのとは違うのです。

反対にお金は少ししか持っていなくても、心が通い合う家族や友人にたくさん囲まれていたり、周りから慕われ、尊敬されていて、自分自身も常に感謝の気持ちを持って生きている人は、平和に生きている人だと思うのです。

要は、心が何に満たされているかです。

心がどこまで真理を体得しているか? 真理(真実)を識っているかです。

心の琴線に触れる経験(感動)をどれだけしているか?です。

ちいさな出来事にどれだけ喜びを見出すことが出来るかです。

私は、人の幸せとはどれだけ自分自身のことを

「僕(私)は幸せだなぁ」 と思えるかだと思うのです(笑)

それが平和に生きることなのではないでしょうか?

私たち人間は、幸せになるために生まれてきました。

平和に生きるために地球に降り立ったのです。

神さまはそうなるように、人間を導いてくださっています。

神さまの願いは人間を平和に、幸せにすることなのです。

自分の分身である人間を幸せにしたくないと思う人(神)なんてどこにいるでしょう?

私たちは遠慮することはないのです。

幸せに暮らすなんてちっぽけな生き方です。

幸せに生きる生き方をしましょう

その方がずっとずっと素晴らしい人生になります。

私はそう思います。

 

2013年10月 7日 (月)

自分が与えるものは自分に戻ってくる

  

自分が苦しんでいるとき、「自分はこれでいいのか?」 と焦っているときというのは、自分自分、・・・自分のことしか考えていないときなのです。

狭い範疇で物事を見ている、自分のことしか見えていない

苦しいのは、ガンジガラメに小さく固まった自分の想念に、エネルギーが悲鳴を上げているのです。

エネルギーが動いていないのです。

生命エネルギーが活き活きとしていない状態です。

人のために生きている人とは、人の分まで生きているので大きな働きをしているのです。

自分のことしか考えていない人よりも家族のことを考えている人、家族だけではなく、友人知人のことを思い遣っている人、友人知人だけではなく日本のことを想っている人、日本だけではなく世界の平和を願っている人の方が、ずっとずっとエネルギーは大きく使われ生かされ、流れているのです。

世界の平和を祈っている人は、自分の幸せだけを願っているのではなく、世界が平和でなければ自分の幸せはないと思っている。

友人や知人が平安な生活を送っていなければ自分の平安にはならないと思っている。(自他一体感)

だから自分の時間も他人の時間もない

人が困っているのなら、自分に出来ることはないかと自分の時間を使おうとする。

3次元的に目に見えることで助けることが出来なければ、相手の天命を祈ることはできるのではないか

と常に自分に出来ることを考えている

いや自分は今それどころではない

自分がちゃんとしてから、お金持ちになってから、子供が自分の想う通りになってから、いろんなことが整ってから、なんの心配も無くなってから、病気が治ってから・・・・・・・・

そうしていつまでも自分ばかりを優先していたら、いつまでたっても素晴らしい自分にはなれないのです。

自分ばかりに目を向けずに、同時に人のためにもなることを考えてみる、時間を割いてみる、人が喜ぶことを出来る範囲でやってみる

そうすれば、自分の魂が喜んでいることがわかるのです。

相手ばかりではなく、自分自身が満足していることがわかるのです。

それが充実している生活なのだと思うのです。

目に見えない形で、人を幸せにすることが出来るもの・・・・

それが世界平和の祈りなのであります。








自分が与えるものは自分に戻ってくる

 


人類一人一人はすべて、自分の人生を自分自身の想念で築き上げているのです。

自分の想念波動が自分の現実を創り出しているのです。

自分の想念波動が世界平和の祈りあり、我即神也、人類即神也の宣言であり、印であると、自分の上に無限なる繁栄そのものしか現実化しないのです。

仮に否定的想念、暗黒思想を発したとしても、光明なる想念や言葉で、それらの否定的想念、暗黒思想を消し、浄めている限り、自らの人生に何ら否定的な現実を引き起こすわけがないのです。

“自分が与えるものが自分に戻ってくる” のが、宇宙の法則です。

人類はこの法則からいくと、何をさておいてもまず、人類のために、または人のために自分を捧げ、祈る以外にないということが判ってきます。

人のために尽すこと、人のために自分の時間を割くこと・・・・・それらの結果は、すべて自分のためになることです。

自分がますます幸せに平安に導かれてゆくのです。

こんな素晴らしい人生を歩んでいると、自分自身がいかに崇高な魂の持ち主であったかに気づくのです。

自分の霊性が高く立派であり真理が理解できたが故に、このような輝かしい道を歩んでゆけることが出来るのです。






            
「次元上昇」 西園寺昌美  白光出版



 

2013年10月 5日 (土)

ハーモニー ・ ウェーブィング ・ モーション 

  


調和のとれた波の動きを調和波動といいます。

そうです ハーモニー ・ ウェーブィング  ・ モーション が私の実践している

調和波動気功法なのです。

なんとも心地良い言葉の響きではありませんか(笑)


私は最近、目に見えるもの、見えないもの

すべてのすべてが全部、 波動なのだなぁと強く感じているのです。

波動とは波のことですが、目に見える海の波はもちろん

空気も風の流れも言葉の響きも波であることがわかります。

私たちは目にはさやかに見えねども波動を感じ取っているのです。

・・・・・・・・・・・・・・・・

そして、心地良い やさしい 愛の響きのある波動を

「波動が良い」 といいます。

この場合の波動とはエネルギーという言葉に近いですね。

そして波動はもちろん言葉でもあります。

私たちは感動すると声がふるえます。

それは心の動き(感動)が声に伝わっているのです。

私が最近、感動したのは

朝ドラ 「あまちゃん」 で鈴鹿ひろ美役の薬師丸博子さんが

潮騒のメモリーを歌った時でしょうか

歌声が聴こえてしばらくすると涙が出てくるのです。(ビデオで何回も観たのですが、観るたびに泣けてくるのです)

それはドラマのシーンと重なってストーリィーに感動しているのかと思っていましたが、そうではなく、きっと薬師丸博子さんの心の美しさに(内面に)感動したのです。

薬師丸さんがこれまでに、そして今どんな心境(境地)で生きて来られたかは知りませんが

薬師丸さんの“生きざま” 想念、日頃想っていることの響き(波動、ヴァイブレーション)が歌に乗せられて、波になって私たちの心に伝わってくるのです。

画面からも、プラスの波動(善いエネルギー)もマイナスの波動(悪いエネルギー)も必ず伝わっているのです。

それは、その人の心の魂の響きなのです。

そして私たちの今の環境とは、この響き(ヴァイブレーション)がつくり上げているのです。(個人も人類も)

だから

私たちはもっとこの自分が放つ

ヴァイブレーションを高めていく必要があるのです。

責任を持つべきなのです。

もっと繊細に もっとやさしく もっと愛をこめて・・・・・・

言葉と言葉の間に、祈りと共に細かい思いやりの優しい波動を入れていく

行動と行動の間に、祈りと共に宇宙のプラスのエネルギーを入れてゆく

間と間の間に魔(マイナスのエネルギー)をいれない・・・・(時間を大切にする)

それが今を大切に

丁寧に、人間として正しく生きて行くことなのではないでしょうか?

ちょっと真面目に難しいことを言い過ぎたかもしれませんが(笑)

私たちは、宇宙からの素晴らしいエネルギーを戴いて生きています。

そしてそのエネルギーを受取った後に発散しているのです。

私たちは、多くの場合(ほとんど)、プラスのエネルギーをマイナスに代えてしまっているのです。

そのエネルギーの質によって自分の周りの環境も創っているし

その波紋は拡がって日本から世界、宇宙へと響いているのです。

悪い想念であればそれが響きとなり悪を誘発し

善い想念であれば、善いエネルギーが響いてゆき善き出来事を生む

悪い想念はそのまま吐き出すのではなく

一旦は宇宙に返して(宇宙の溶鉱炉で溶かしてもらって)

そこからまた美しいエネルギーを戴き直して

善いエネルギーに代えて出していくことが大切です。

そうしないと地球はますます汚れてしまうのです。

想念エネルギーで真っ黒になってしまうのです。(それが地球の破滅です)

そうならないために一番にしないといけないのは

私たち一人一人の想念(心の中)を浄めることです。

心(内)を浄めて、調和させてそれを言葉にしたり、行為するのです。

私たちは本来、神そのものであります。

そして光の波動体、エネルギー体そのものなのです。

肉体の奥には、細やかな繊細なやさしい愛に溢れた響きがどんな人にも必ず流れています。

それを加工せずにそのままを出すことが大切なのです。
 



ハーモニー ・ ウェーブィング  ・ モーション 
 

何回も読んでいるうちになんだか

温かい、幸せな気分になって来ますね

響き(ヴァイブレーション)とは理屈ではなく

言葉以前の神のひびきなのです。

神(愛)を顕わすために私たちは存在しているのです。

 



世界人類が平和でありますように

我即神也

人類即神也





宇宙天使からの贈り物

「調和波動気功法」 于寿明 三晃書房


調和波動気功法

http://www.harmony-wave.jp/



オーラ・オーラ

http://auraaura7.com/




 




 

 

 
 

2013年10月 2日 (水)

潜在意識と顕在意識

 
 
私たちが今想っていることとは、たった今想っていることではなく、前世のそのまた前世の、前、前、前世の想いが潜在意識に蓄積されたものが、顕われてきているのです。

だから今自分に対して怒っている人、嫌っている人がいるとします。

そんな怒るような内容でもないのに、嫌われようなこともしていないのになぜか感情的になられているとします。

それはその人とは過去世で何度も何度も会っていて、その度にいがみ合いののしり合ってっきたのです。

仇同士ですね。

だから相手にしてみれば、「顔を見ただけで胸くそが悪くなる」(言葉が悪くてすいません)

会うたびに潜在意識にあった記憶が少しずつ思い出されてくるんですね。(無意識に)

だから少々ご機嫌を取ろうが、相手の喜ぶことをしようが利き目がない。

そんな相手が自分の周りには必ず居ると思った方がいい

だから昔から「男が外に出ると7人の敵がいる」(7人どころではありませんが)

と言われているのです。

どんなにいい人であっても、人に恨まれることを今生では一切していなくても

少なくとも7人はあなたを気に入らないという人がいるのです。

それが家族の人であったり、家族よりも一緒にいる時間の長い会社の同僚、上司、部下だったらたまりません。

それを解消するためには上手くいくようにするためには、潜在意識(過去の記憶)を消してゆくしかないのです。

自分の潜在意識も相手の潜在意識も幽体に溜まっていて、幽界という世界にあるのです。

ここが汚れているから肉体界がおかしくなっている

だがしかし肉体人間には潜在意識=幽界を浄めることなんて出来ない

そこで私たち人間の悟った霊である守護霊、神様である守護神様に潜在意識を浄めていただくのです。

守護霊守護神に感謝をし、想いを向けていると守護霊守護神は守りやすくなり、消しやすくなり、やがて肉体界も整ってくる。

だがしかしすぐには消えないかもしれない

すぐに人間関係が解消されないかもしれない

そこで肝心なのは

「もうこの関係は今生では(生きている間)は修復不可能かもしれない」

と一旦はあきらめてしまうのです。

あきらめるとはあきらかにするということであり

一旦、「過去世で俺は散々その相手にひどいことをしてきたんだ、許してくれなくても致し方ない」

とあきらめてしまえば、どうにかしようという焦りや執着がなくなるのです。

すると、なんとか仲良くしよう、自分のことをわかってもらおうとする想いが離れて気持ちがぐっと楽になるのです。

先ずは、自分を解放してあげるのです。

そうすると、気持ちが明るくサバサバしてくるのです。

他人(家族)は関係ない

相手が自分を見て暗い顔をしても関係ない、無視をされても関係ない

自分は太陽になるんだ

自分は自分らしく明るく振る舞えばいいんだ

という気持ちになって

ある意味開き直るのです。

するといつも相手に関係なく自分は光り輝いている

そんな姿を見て

相手の人は気持ちが解けてくるのです。

相手の人に光が入るので、癒されるのです。(北風と太陽ですね!)

守護霊守護神に潜在意識を消して、浄めていただく (ある意味他力本願)

自分は、太陽になって光輝く (自力)

自分が太陽(光そのもの)になってゆく方法

それが祈りであり、印なのです。

この2つによって人生(人間関係)は良くなってゆくのです。


 

 

真のリーダーに求められること



  
私は、同級生を交えた交流会(飲み会)を結構頻繁に行っている(主催している)のですが、誰でも呼ぶというのではなくやはり人選をしています。(ほんとうは誰でもが参加できる場にしたいのですが)

そこで、誘うのを止める人とは
 

1.酔うと絡んでくる人(酒癖が悪い)

2.下ネタばかりを言う人(女性が嫌がる)

3.言葉が荒くその場の雰囲気を悪くする人(調和がとれない)

4.暗い人(つまらなそうな顔をする人)

5.その場にそぐわないと思われる人(直感で決めています)

などです。

私は8人くらいで一つの話題を共有出来るくらいの人数が好きなのですが、その中に上記の条件の人がいるとほとんど台無しになります。(エネルギーがサラサラと流れないから)

終った後で

「ああ楽しかったなぁ」

にはならないのです。

しかし、中にはストレスを一杯溜めて、その場(飲み会)で発散させようとして参加する人も確かにいると思うのです。(意識的ではないかもしれません)

その場で喧嘩が始まったり、雰囲気が悪くなったりするのはいけませんが、その人の話にちゃんと耳を傾けて、スッキリさせてあげるのも幹事(リーダー)の役割なのではないのか?

とふと思ったのは、下記の文章を読んだからです。

その文章の中に

「不満などの感情を歓迎し」 とあったのです。

普通は他人の不満(マイナスのエネルギー)などを受けるのはご免こうむりたいものです。

人の不平不満、愚痴を聞くことほど嫌なことはありません。

しかしその人は、言わずにはいられない、持ったままでは我慢したままでは、消えたわけではないのでそれはいつかはマグマのように爆発(噴火)するのです。

話すとは、放すという意味で話すことでエネルギーを出し、その人なりに波動調整をしているのです。

そうやって自分をなんとか保っているのです。

放さず(話さず)にいるとその場では起こらなくても(怒らなくても)場所を代えて爆発するのです。

だったらこの場(飲み会)で、小さくしたり、消してあげることはできないものか?(浄化ですね)

それが、自分には出来ないのか?

そう思ったのでした。

世界平和の祈りを祈っていると、そこがどんな場であってもそこには滝のような光のシャワーが流れるのです。

人の持っているストレス、不平不満、病気のような症状、ひっかかってる何かが

なんだかしらない間に

さわやかな気分になるのです。(それが楽しい場であるということです)

祈り、印にはそれほど凄い、素晴らしいパワーが宿っているのです。

気の合った者ばかりの集まりは集まりとして大切に育てながら

また違った飲み会(交流会)をしていきたいと思ったのでした。


そしてそこが過去の思い出話だけではなく未来の希望について語り合える場になれば最高ですよね。

そのために私は、マイナスを掴まずに  “
常に光(プラス)を掴み、発信しつづける人” になるんだと誓ったのでした。

 
 

西園寺由佳さんの手記より



8月にアメリカで “リーダーシップ” をテーマにした合宿が行われました。

・・・・・・・・・・・・・・そこには性別、年齢、国籍が異なる多様なメンバーが12名集まり、リーダーシップというテーマを元に、対話を通して学ぶ機会が与えられ、いろいろなことを学ばせていただきました。

・・・・・・・・・・・また主催者の一人はスケープゴートについて研究する年配の精神科医でした。

スケープゴートとは、生け贄(いけにえ)とか、身代わりという意味だそうですが、集団の中である人が不満や不快感を抱くと、集団の中の他の誰かがその不快感を押しつけられたり、こうむったりすることもすることもスケープゴートと呼ぶそうです。

そのため、今回の集まりにおける対話の中で、個々の不快感や不満がどのように表現され、出されているかも、主催者側では意識しながら見つめながら進行していきました。

この合宿で学ぶことは多かったのですが、その中でも大きな学びの一つが、このスケープゴートという意識でした。

ある集団の中で対話が行われていて、一人あるいは数人に不快感や不満が湧いてきた場合、その不満を集団内の対話の中でどれだけ出せる状況をつくれるかが、とても大切な鍵となります。

その環境がつくられていないと、個人は集団を離れて、その集団の外で不満を言い始めます。

集団の外で悪口や不満大会が始まってしまうのです。

だからこそ、リーダーシップを取る人は、そういう見えない心の状態や、特に不満などの感情を歓迎し、どれだけ集団の中で話せる環境をつくれるかが大切であると意見が出ました。

また、ルワンダで大量虐殺が再び起こるのではないかという不安をずっと抱えながら閣僚会議に参加している女性は、何よりも希望がすべてだという話をしていました。

希望があれば、人は動き、前を向いて生きていける。

その希望をどれだけ与えられるかがリーダーなのだと。

それはまさしく昌美先生がいつもおっしゃっている、リーダーとは常に光を掴み、発信しつづける人だということを思い出させてくれました。

個人の中にある闇をどれだけ引き出し、その場で出せるか。

また、その後はどれだけの希望と光を信じ、進めていけるかということが求められるのが、リーダーであるということを、この合宿で強く感じました。

“リーダーのリーダーのリーダー” とは何かを考えながら、この合宿に参加しましたが、

“世界人類が平和でありますように” という祈りが常に心の中に響きつづけていること・・・・・・・というとてもシンプルなことが一番重要であるように思いました。



   世界人類が平和でありますように



          

 

              白光誌 10月号より



 

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