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2013年9月23日 (月)

真理の探究 3

 

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昔の私がそうであったように、世界の人々の大半が、人間とは肉体そのものであり、精神とは肉体の中に存在する、ある機能の働きである、と思っている。

人間とは五十年、六十年、この社会に生存していて、後は灰になり無になってしまうものと思っている。

死んでしまえばそれまでのもの、と思いこんでいる。

はたして人間は肉体の滅亡をもって、最後の終止符になるであろうか。

私は即座に、否(いな)と答える。

なんとなく偶然にこの世に生まれ出て、食べたり飲んだりして肉体を維持し、ただなんとなく、社会生活を営んで、妻をめとり、夫に嫁し、子を生み育て、そして死んでゆく、人類の大半はこのような生活を繰り返して、今日にいたっているのであるが、それでは済まない、何か漠然とした不安な想いが、その大小にかかわらず、人々の胸の中に去来しているのではなかろうか。

このような生き方ではあまりにも無意義であり、無目的でありすぎる。

このような生き方の他に、何かある。 何があるかわからない。

わからないが、またわかろうと積極的に思わない。

こうした想いが一般人の心であって、その中の少数の人たちが、そのままでは済まされずに、社会改革に乗り出し、思想活動に加わり、また一方の少数人は自分自身の心の内面に立ち入って、深く突きつめ、神(真理)を知り、霊を知るにいたる。

ともに現況における心の苦しみを突き破ろうとしての動きなのである。

大衆は流されているのである。

時間の動きとともに、人類業生の烈しい渦の中を右に左に流されてゆくのである。

その場、その時々の喜怒哀楽、渦をつかんでいったい何になろう。

それが、こよなき歓喜のように見えたとしても、渦は、はかなく消えてゆくものである。

形あるもの、それは形なきものの影である。

形あるそのままで見えるようでは、その人は救われない。

形あるものの形のもを変えて、社会改革を実現したとしても人類は救われない。

形、型、組織、制度、と形の世界、物の世界のみに固着した眼をもった思想は人類を滅ぼしこそすれ、救うことにはなり得ない。

人間とは肉体だけではないのである。

神、すなわち宇宙に遍満せる生命が、その創造せんとする力が、個々の人格に分けられたもので、しかも横においてつながり合い、協力し合って、その与えられた力を、縦横に、自由無礙に発揮し、形ある世界に、完全なる神の姿を画き出そうとしている者である。

神とは宇宙に遍満する生命の原理、創造の原理であり、人間とは神の生命を形ある世界に活動せしめんとする神の子なのである。

このような、神と人間との関係を知り得たならば、この現象世界のいかなる変動の中にあっても、動揺せぬ生き方ができるようになるのである。

そこで各章にわたって、でき得るかぎり詳しくこの関係を書き綴るつもりである。
 

 

             「神と人間」 五井昌久 白光出版




 


 

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