« 想いは重いのです。 1 | トップページ | 今こそ、お釈迦様、キリスト、老子様に学ぼう 1 »

2013年9月12日 (木)

想いは重いのです。 2

 

 
問 ・・・・・という題のご法話の中で、先生が 

「この世の不幸や災難はすべて過去世からの各人の想念行為によるのであって、神の子そのものである生命体は少しも苦しんでいないし、不幸でもない。不幸であり、災いをうけているのは、各人の想念(おもい)だけなのである」

と書いていらっしゃいますが、苦しんだり災いをうけたりするのは想念だけである、というのはどういうことでしょうか?

この世のなかの苦しみ、不幸というものは、何が不幸なのか、何が苦しみなのか、というと、肉体にまつわる想念が苦しむのであり、想いが不幸なのです。

いつもいいますが、眠っている時には、どんな病人でもどんなに貧乏な人でも、想いがそこにないから、全然なんでもない。 それでも生きています。

心臓も肺臓も動いているから、寝ているということは死んでいることではありません。

生きているけれども、想いが消されている場合には、なんの苦しみもない、貧乏もない、病気もない、なんの考えも感じもない。

しかし、想いがよみがえると、病気があり、貧乏があり、苦しみがある。

つまり想いが不幸を感じ、想いが病気をし、想いが貧乏を感じるわけです。

想いが勝手につくっているのです。

生命体そのものはそういうことに関係なく肺臓を動かし、心臓を動かし、いろいろな活動をしているわけです。

お釈迦さまはインドのカビラの王子でした。 若い頃いろんな遊びもしたし、楽しみもした。

ところがちっとも楽しくない。 そしてある時病人を見せられ、老人を見せられ、いろんな不幸なことを仙人によって見せられたわけです。

それで、「ああこの世はいやだな、どうしたらこの世の苦しみというもの、老人になって醜い姿をさらす。病人になって醜い姿をさらす、貧しいこと、老いること、病気のこと、死ぬこと、そういう苦しみからのがれることが出来るか」 といって家を出て、修行をするわけです。

そして悟りをひらいたことはどういうことかというと、想いが苦しくなければ苦しくはないんだ、ということがわかったのです。

人間の苦しみは何かというと、想いが苦しんでいるんであって、生命そのものは苦しんでいない。

生命そのものは仏(神)なのだ、生命そのものの流れは仏の姿なんだ。

だから、座禅観法して空になって、その想いから解脱しさえすれば、その人の光輝く人であって、貧乏でも苦しくない、病気でも苦しくない、ということを悟ったわけです。

お釈迦さまはそこで座禅観法、今いう祈りを教えたのです。

そしてなかの仏を出せ、想いが邪魔するのだから、想いをすべてなくし、消してしまって空になればいいんだ、と終始一貫 “空” を説いたのです。

そして、どうしてその想いというものは、そのような境遇になり、いやな想いとして現われてくるのかというと、過去世の因縁がめぐってきて、今の苦しみになり、今の不幸になり、幸せにもなり、いろいろの境遇にもなるわけですけれども、それはあくまでも業生の世界のことであって、どんなに幸せそうに見えても、どんなに不幸そうに見えても、それは実際にあるものではないのだ、過去世の想いの波が伝わって来ているのだ、(お釈迦さまは消えてゆく姿とはいわないが)

だから、その想いにさえ把われなければ、人類は不幸ではないのだ、ということなのです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


 


   「質問ありませんか?」 五井昌久 白光出版




 

 

« 想いは重いのです。 1 | トップページ | 今こそ、お釈迦様、キリスト、老子様に学ぼう 1 »

コメント

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/160971/53233352

この記事へのトラックバック一覧です: 想いは重いのです。 2:

« 想いは重いのです。 1 | トップページ | 今こそ、お釈迦様、キリスト、老子様に学ぼう 1 »

最近のトラックバック

2017年5月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31      
無料ブログはココログ