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2013年9月30日 (月)

答は自分の内に 3




私の生命 神の生命

 

では、なぜ祈らないとそれを忘れてしまうのでしょうか。

なぜ印や呼吸法を行わないと思い出せないのでしょうか。

それはきっと、まだ私たちが住んでいる世界が騒々しいからです。

騒々しい環境の中で物事を見ているのです。

きっと過去の自分、物質世界という限定された想いの中で生きていると、本来の自分を見失ってしまうのです。

祈りや印やマンダラに集中している時、私たちの心は静まり、本来の自分の姿にようやく気づくことが出来るのです。

私たちは何度もこれを経験しています。

それが本来の自分の姿、神の生命であるということに気づいているのです。

その私たちが他を見た時、愛深い人になろうと思わなくとも、もうすでに愛深い存在であります。

その私たちが大自然に触れた時に、感謝しようとあえて想わなくても感謝しています。

そこには神そのもの、愛そのものの自分しかないからです。

ですから、私たちは過去を手放さなければなりません。

過去は忘れなければなりません。

昌美先生は先月号のご法話の中で

「いい行ないをし、いい言葉を世界に放つことに比べたら、過去にしてしまったことは、水蒸気の一滴にも値しないほど微々たる否定的なカスです」

と述べておられます。

過去を掴むのは簡単です。

習慣になっているので、努力せずとも簡単に過去のことは出てくるからです。

でも努力が必要であっても光明思想に徹し、本来の神そのものの自分を内に見つけなければならないのです。

そうしなければ、鍵はいつになっても見つからないのです。

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西園寺里香さん





 

答は自分の内に 2


 

本当の自分とつながる方法

 

では、どうしたら自分の未来の姿と向き合うことが出来るのでしょうか。

それは、祈りや印、呼吸法なの行を行なうことです。

行を行なっていると、オドオドしている自分、自己否定している自分、自己批判している自分が消えていきます。

目の前の状況に翻弄され、本来の自分とつながらないでいると、限定された自分が顕れてきます。

でも祈りや印や呼吸法などをしていると、そんな自分と同時に神の生命が流れている自分の存在も確信できるのです。

自分が意識を向けるほうに想いは拡大し、顕れてきます。

過去の自分がふっと顕れると、一瞬の隙にそのエネルギーは襲ってきます。

でも印を組んでいる最中、祈っている最中、マンダラを描いている最中に、過去の自分が顕れることはあまりありません。

そんな隙は少しもないからです。

ですから、行を終えた後は、別人のように安定し、生命がいきいきとします。

暴飲暴食や感情の乱れ、疲労感・・・・・そのような感覚がうそのように消えているのです。

そしてさわやかな気持ち、清々しい気持ち、深い感謝の気持ちが湧き上がってきます。

私たちは本来神様の中で生きているのです。


 

 

答は自分の内に 1

人はみな、上手くいっていない原因はどこにあるのかがわかっているのに、そこに真っすぐに目を向けようとはせずに目をそらし別のことをして誤魔化して生きている。

今は、そのツケが何倍にもなって返ってきているように思うのです。

教育現場でも政治でも経済でも企業でも個人でもみんなみんな

「これではいけない」

「なにかがおかしい、狂っている」

「どこかがずれている」

と思いながらも

誰も何もいわないことをいいことに

本心(真理)から外れた生き方をしているのです。


自分の中に答はあるのに自分を見つめるのが怖いために、他人(外)をみて、「あっこれいいなぁ」 と真似ばかりをしている。

だから人の目が気になってしかたがない、だからいつまでも自信が持てない。

もういい加減で、中途半端に生きることはやめなければ、自分も人類も大変なこと、取り返しのつかないこと(滅亡)になると思うのです。

ではどうしたらいいかというと本当の自分とつながることが大切なのです。

しかし、つながるメソッド(方法)はあるのだけれど、つながろうとすることを邪魔をする力(業、カルマ、マイナスの想念エネルギー)があることも確かなのです。

ほんとうの自分にちょっとでも触れると、生きていることがこんなに素晴らしいことだったのかが実感出来ます。

自分の素晴らしさがわかります。 自分が尊い存在であることもわかります。

そして愛深い神様のような存在(神性)であることもわかるのです。

それは理屈ではなく波動、響き、エネルギーが教えてくれるのです。

宇宙の波動が 「あなたはこんなに素晴らしい人なんですよ」

と教えてくれるのです。

その瞬間が人間にとって至福の瞬間です。

これから3回にわたって今書いたことの根拠を説明いたします。

西園寺里香さんの文章から抜粋します。






今年のSOPPに出席されたユダヤ教のラバイとお会いした時に、面白い話を伺いました。

その話が印象的だったのか、ここで紹介させていただきます。

これはアメリカのスピリチュアルリーダーのウェイン・ダイアーさんの真理のたとえ話です。

ある時、男性がアパートの鍵を開ける時に、うっかり鍵を落としてしまいました。

不運にも辺りは真っ暗で、いくら探しても見つかりません。

その男性がふとアパートの外に目を向けると、明るい街灯があったので、その下で鍵を探すことにしましたが、一向に見つかりません。

通りがかった人が 「何かお探しですか?」 と尋ねてきたので、その男性は 「鍵をアパートの玄関の前で落としてしまい探しているのです」 と答えました。

すると、通りすがりの人が不思議そうな顔で 「アパートの前でなくした鍵を、なぜここで探すのですか?」と聞きました。

するとその男性は 「暗いところより、明るいところで探したほうが見つかりやすいからです」 と答えた、という話です。

この話は馬鹿げているように思えますが、実は私たちも同じようなことをしているのです。

私たちは、本当に目を向けるべき所、答を導き出せる所には意識を向けずに、簡単に答が得られると思う場所、つまり自分の外ばかりに目を向けているということです。

でもそこでは、本当の答えや気づきは得られないということです。

本当の答というのは、困難に思えても、苦しいプロセスであったとしても、暗闇のアパートの側、つまり自分の中にあるということです。

自分の人生に起こるあらゆる出来事は、自分自身が作り上げたものであります。

それを人に解決してもらうことは出来ません。

真っすぐ自分の内面と向き合って、自分の本来の姿を見つけなければならないのです。

ダイアーさんのたとえ話はそれをわかりやすく伝えていると思いました。




 



  

2013年9月29日 (日)

消し去りたい過去を消す印の凄さ

 

どれだけ意識を未来に向けたいと思っても、エネルギーを明るい未来にだけに注ぎたいと思っても

過去のことが気になってなかなかそうは出来ないのです。

意識のうちの半分以上は昨日あったことなどの過去のことなのです。

「昨日失敗してしまった」

「昨日、相手を傷つけることを言ってしまった」

「昨日、あの人にこんなことを言われた」

その昨日が消えずに蓄積されたのが潜在意識に一杯溜まっていって、消えずに大きな塊になっているのです。(トラウマという)

そして時々その過去のトラウマが見え隠れしながら自分の脳裡に浮かんでくる。

何年も前に失恋したこと、受験に失敗したこと、事故を起こしたこと、病気で入院し手術をしたこと、大失敗をして会社を首になったこと、人を傷つけてしまったこと、友人と絶交したこと、親しかった人が亡くなったこと・・・・・・・・それらがまるで生きている生き物のように突然活動を始めるのです。

「過去に戻ってやり直したい」

「あの時の言葉を取り消したい」

そうは想っても過去を消せるわけではなく、忘れることも出来ず

だがしかし時間は未来へと流れていくので、過去を引きずったまま今を生きるしかないのです。

個人だけではなく人類もおなじようなトラウマを背負って生きています。

それが戦争となり、紛争となり、国同士が仲良くできないでいる

そしてそれが原因で天変地変(異常気象、地震、竜巻、台風、津波等)が起きる

地球上の異常な出来事は、人間のマイナス想念エネルギー(妬み、嫉妬、怒り、悲しみ・・・)の結果なのです。

このまま行くと自分も人類も滅亡の道を行くしかないのか?

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そうではないのです。

個人を人類を救うために印が降ろされたのです。

この印というのは、「我即神也」 「人類即神也」 「地球感謝行」 「光明思想徹底行」 などでそれぞれに意味があるのですが、これらの印は、宇宙神とつながっているので、宇宙からのエネルギーが降りて来るのです。

宇宙には時空がありません。

時間と空間を超えているのです。

だから印を組むと過去や過去世にまで光が行って、過去の想念出来事を浄化する、つまり消し去るのです。

バックトゥーザフューチャーのようにタイムマシンに乗って過去をさかのぼり過去を変えなくてもいいのです。

もう過去について悩まなくてもいいのです。

印は潜在意識を光に変えるのです。

過去の暗雲を光のみに変えるのです。

すると今まで自分のことを嫌っていた人が

急に親しくしてきます。(奇蹟ですよね)

それは自分だけではなく相手の記憶(過去の出来事)も消し去るからです。

過去にあったもめごと、いざこざ、誤解、誹謗、中傷などが消えるのです。

だから印は凄い、素晴らしいのです。

こんなことが本当に出来るのか? と思いますよね。

でも、印がないと潜在意識である過去を浄めないと、想いの世界、蓄積所である幽界を浄めないといつまでたっても浄まった世界である霊界や神界は地上に降りて来ないのです。

そのために、神様(宇宙天使)が人間に授けた最高のプレゼント(消しゴム)が印なのです。

この印は、誰に断ることもなくだれでも自由に組むことが出来るのです。

是非、宇宙からの最高のエネルギーを体感してください。

 

「無限なる癒し」 于寿明 星湖舎 

「無限次元への誘い」 于寿明 星湖舎 

「無限なる幸せを体得する方法」 于寿明 星湖舎 

「無限なる勇気」 于寿明 星湖舎 


 

これらの本には、印のことはもちろん宇宙と一体となるメソッドが書かれています。

まさしく宇宙天使からの贈り物なのです。



 



 

浮気ではなく本気はやめよう!

 

最近私は、なにか神秘的なこと真面目なこと、真理ばかりを書いてきましたが、実生活の私はごく普通の人間なのです。

普通の家庭を持ち(妻、息子<東京の大学に行っています>)、会社勤めをしています。

ただ違っているのは、調和波動気功を実践(本心開発)し、真理を追究、探究し、こうやって真理の伝達を行なっているくらいです。

だから友人も多くごく普通の話をします。

そして最近感じるのは、家庭を捨てて他の女性(男性?)に走っている友人が多いということです。(ちょっと露骨ですね)

私も聖人君子ではないので、過去においては浮気もしました(かあちゃんごめん!)、人に言えないようなこともやってきました。

だから心情的には、その気持ちはわかるのです。

だけど浮気まででなんとか踏み止まることをしたことが今となっては良かったと思っているのです。

家庭までは捨てなかった、そこまで思い切ったことが出来なかったというのが正解なのかもしれません。

やってしまった人は、思いっ切りがよかったのか?

浮気ではなく本気になって純粋過ぎたのか?

それを否定することは簡単です。

「おまえ何やってんだ、非常識だろう?」

「そんなことやって家族がかわいそうだと思わないのか?」

「おまえのやってきたことはいつかは返ってくるぞ」

私も散々説教じみたことを言ってはきましたが

どれも違うような気がしたのです。

そして、友人の心には響かなかったようです。

友人だけではなく、家族を捨てて他の異性に走っている人はいくらでもいます。

それをただ、悪い行いとして非難してもあまり意味がないのです。

だからといって友人として放っておくわけにはいかない(おせっかいかな?)

今度、言ってみようかな? という言葉があります。

今生ではこのままいくかもしれない

でも今度生まれ変わってきたときには、おまえは今の奥さんと同じ立場になるんだよ。

やったことはかならずやり返されるんだよ

今生で家庭を持つということは

その場を調和に導いていくという努力が大切なのです。

波長が合うとか合わないとか、性格がどうだとか、好きとか嫌いとか、気にくわないとか・・・・そんなことではなく、どんな相手であっても、またどんな相手が自分の目の前に現われたとしても、自分のこの世の原点(基本)は家庭なのです。

家庭を調和に保つことができなければ、職場でもどこへ行っても調和に保つことはできないのです。

反対に家庭を調和に保てる人、いい家庭を築ける人は、どこへ行ってもうまくやっていける人だといえるのです。

この世に生まれてきた目的は、世の中を世界を調和にするためです。

愛で溢れさせ、平和にするためです。

そのための基本が家庭なのです。

だからどんなに仕事が上手くいっても、お金がいっぱい入ってきても、たくさんの人に尊敬されても

家に帰って、殺伐としていた(不調和)のならそれはなんにもならないのです。

土台がしっかりしていないと砂上の楼閣だからです。

そのことをタイミングをみて言ってみようかな と思っています。(奥さんはまだ離婚をせずに待っているので)





 


 

 

魅力とは?

 

「あの人は魅力的だ」

「あの音楽には魅了される」

・・・・・・

人は魅力的な人に魅かれ、魅力的なものを欲する

ではいったい魅力とはどういうことなのか?

先日の調和波動気功法のセミナー(健・美・食の会)で于先生が

「魅力とは業消しのことです。

鬼を未(打ち消す)力、悪魔をやっつける力を持った人が魅力的な人なのです」 とおっしゃっていました。

魅力のある人をチャーミングともいいます。

チャームとは、幸運・魔除けという意味があるそうです。

つまり幸運、幸せになるには、魔を消さなければならない、もっと詳しくいえば人間のマイナス想念(業)を消さなければ、ほんとうのプラス、平和、愛、調和は現われて来ないのです。

魅力的な人と会うと、なんだか自分の心が浄化されたような気分になります。

自分の中の汚れた部分が洗われたような気持ちになります。

そうなんです、魅力的な人とは人の想念を浄める力を持った人なのです。

人の中の悪魔を取り除いてくれる、魔除けのようなお守りのような人なのです。

人のお守りのような人になるには、魅力的な人になるには

自分が光輝いていないと他人を浄めることはできないのです。

しかし、相手の業想念(マイナスエネルギー)を取って、それで自分も汚れてしまっては本末転倒です。

だから、自分はいつもどんなときも、いくら他人の業(マイナス)をかぶってもすぐに綺麗になれる力を持っていなければ、ほんとうに魅力的な人、いつでも、いつまでも魅力的な人にはなれないのです。

魅力とはオーラが輝いていることにもつながります。

私たちは、いつでもオーラが美しく、素晴らしく、輝いている魅力的な人でありたいものです。


そのためには、私たちは無限に光り輝いているもの(宇宙・神)とつながっていることが大切なのです。

 

 

オーラは生命力 2

  

いかなる人でさえも自分を一目見て、「吾は神を見たる」 と思わず思わせるためには、一体どうすればよいのでしょうか!

いかなる人でさえも異口同音に 「吾は神を見た」 と感じ思わせるためには、一般の人々とどこか全く違っていなければなりません。

しかも男も女も老いも若きも子供も赤子も、かつまた知識人であろうとなかろうと、その他、政治家、宗教家、芸術家、実業家、いかなるジャンル、いかなるレベルを問わず、

「吾は神(光)を見た」 と思わず思わせるためには、一般の人たちと一体どこが違っていなければならないのでしょうか。

まずここではっきり言えることは、すべての人たちの心を成る程と納得させるためには、外見がすべて調っていることでは決してないということです。

多くの称賛、名誉、権力、富、財産を得、有能で賞も受けた政治家、宗教家、知識人、教育者、芸術家であったにせよ、彼らに対して、世の中のすべてのジャンル、すべてのレベルの人たちが 「吾は神(輝き)を見た」 とは思えないでありましょう。

たとえ外見上すべてのものを修めた人であってさえも、その人の内面的な部分が個人的に好きでない人たちも存在するわけです。

すべての人間を魅きつけ 「吾は神(光の輝き)を見た」 と思わず思わせるその力は、魂のみです。 オーラです。 光です。

この人間の奥底より発するオーラこそすべての人たちに思わず 「吾は神を見た」 と思わせるものです。

このオーラはどんな人にも必ず存在しています。

そのオーラの光の輝きが人々の心を奪うほどの、人々の心を把えるほどの、人々の心を魅了するほどの、そして人々の心を癒し、かつまた人々の心を感動させ奮い立たせるほどのものであれば、すべての人たちは思わず、 「吾は神を見た」 と確かにそう思うのであります。

その光り輝いた人を見ただけで、瞬間的に、老いも若きもみな、神と思うのです。

白光、黄金、紫金に光り輝くオーラ。 人々の心を慈しみ、愛、喜びで包み込むオーラ。

人々の心の束縛を解き放ち、自由に生きる力を与えるオーラ。

一瞬の間に人々の罪をゆるし、汚れを潔めてしまうオーラ。 人々の否定的思考を瞬時に消し去るオーラ。

その光は物質世界に存在し得ない色です。

オーラに輝く聖なる人は存在するだけでいいのです。

何の行為も必要ありません。 説教も言葉も必要ないのです。


 

    
        「次元上昇」 西園寺昌美 白光出版




 
 



 

 

オーラは生命力 1

 
私は、気心の知れた友人と語り合うことが今一番の喜び、幸せを感じる瞬間なのですが、なぜその場が楽しいかというとその場のエネルギーがサラサラと流れているからなのです。

そして滞ったくすんだエネルギーを流してくれる

それは、まるで滝の側(そば)に行って自分の汚れた想念を洗い流してくれる場にいるような感覚なのです。

特に今、同窓会が盛んなのは、昔の若かった頃の自分(活き活きとしていた)に戻れるからだけではなく、その頃から溜まった淀んだ想念エネルギーを洗い浄めてくれるからなのです。

昔の仲間というのは、利害関係がありません。

今、その友人たちと一緒の職場にいることはめったにありません(笑)

だから頭でいちいち考えてしゃべる必要がないのです。

遠慮なく自分の素をさらけだせるのです。(あまり出し過ぎてはいけませんが)

その場限りの逢瀬で、滞ったエネルギーがサラサラと流れるのです。

うだるような暑さの日に、冷たいビール、炭酸飲料水を飲んだときの喉越しのようなものでしょうか

さっぱりすっきりするのです。

だから今、同窓会や昔の友達との交流が盛んなのです。(それだけ想念が汚れている)

しかしそれだけでは、その場は善い場、エネルギーの素晴らしい場にはならないのです。

誰かが滝のような役割り、掃除機の役目をしなければ魂の浄化にはならないからです。

その役割りの出来る人とは、オーラが大きく人の想念を流せる器の人です。

幹事をしている人、みんなを纏めるパワーを持っている人はその器なのです。

しかし、何度もやっているうちにそのオーラ(自分の生命力)も汚れてきて(疲れになります)、何度も繰り返し行うことは困難になります。

つまり前回の集まりはたしかに楽しかったけど、終った後の疲れが半端ではないので、もうやろうという気にならないのです。(本当は、やる前にもやっている最中にも想念エネルギーは来るのです)

そのしんどいエネルギーのほとんどは幹事さんに行くのです。

リーダーといわれる人がみんなのエネルギーを被るのです。

みんなが又やって欲しいと思っていても

幹事のエネルギー(オーラ)が回復していないとまたやろうという気にはならないのです。

だから普通は、同窓会の開催は4年毎とか、10年ぶりとかになります。


私はオーラ(生命力)とは、その人の人柄や人徳や元気さ、行動力や器の大きさだと思っていました。

確かにそれもあるのですが、オーラ(潜在意識)が人の目に見えないように

いくら行動や態度が素晴らしくても

その人の想念が汚れていては、人の心は動かないのです。

つまりその人に感動しないのです。

愛を感じないのです。

「心に愛がなければどんなに美しい言葉も相手の心に響かない」(聖パウロの言葉より)

にあるように、響きや感動とは目に見えることや言葉ではない

・・・・・・・・・・・・・・

では、何が私たちを感動させるのか?

それはその人が持っているオーラなのです。

生命力なのです。

その人の生命(いのち)がキラキラと光り輝いているかどうかなのです。

人はその人の言葉に感動するのではなく

オーラ(生命力)の美しさに感動するのです。

言葉以前の輝きです。

オーラを美しく、輝かせるためには

オーラ(潜在意識)を常に浄めていなくてはなりません。

魂(オーラ)がくすぶったままだと他人だけではなく、自分自身も感動出来なくなるのです。

それは生命力が弱っているからです。

光が弱くなっているからです。

祈る、印を組むというのはオーラを輝かせるためにするのです。

人間が人間らしくあるために

いや神そのものになるために祈り、印を組む

それがほんとうの目的意識です。

ただ目的もなく祈り、印を組むのではありません。

そのことがはっきりとわかったのでした。


 

 

2013年9月28日 (土)

オーラについて

 
 
オーラとは何かというと雰囲気なんです。

そしてオーラは肉体にくっついている幽体のことです。

幽体とは、自分の想っていることが溜まっている(潜在意識)ボディのことで、このボディが汚れていると人に嫌な、あの人にはなんだか近づきたくないという雰囲気を醸し出してしまうのです。

このオーラは見えないのだけれど、五感に近いので、嫌な変な臭いがしたりして感覚でわかったりするのです。

他人は人を何で判断するかというと理屈ではなく、実はこのオーラで決めているのです。

いくら話が上手く、プレゼンが完璧だったとしても

「あいつは何か虫が好かない」

「暗い感じがする」

「若いのに覇気が感じられない」

とかいう理由でうまくいかないことがあります。

人間とは肉体だけがボディ(体)ではないのです。

幽体もあれば霊体もある、そして宇宙大の神体も同時に纏っている

ただ見えているのが肉体だけなのです。(オーラ写真では幽体が見える)

人間は幽体が浄まっていないと活き活きと生きていくことができなのです。

浄まっていると輝いてみえるのです。(実際の肉眼ではなく)

それはエネルギーがサラサラと爽やかに流れているからです。

人間とは光の波動体であり、光の粒子が滝のように流れているのが正常な人間の姿なのです。

芸能人がスターと言われているのも、その人は輝いていたわけです。

しかしたくさんの人に注目され、いろんな人の想念波動(エネルギー)を浴びると、影響を受けてくすぶってしまうのです。

だからいつまでも輝きつづけることは難しいのです。

オーラ(幽体)を浄めて輝きつづけ、そして生命が活き活きとするためには、どうしたらいいか?

それは、宇宙と共鳴し、宇宙の無限のプラスのエネルギーを取り入れればいいのです。

宇宙と共鳴するには、宇宙が望んでいることを言霊にすればいい

それが世界平和の祈りなのです。

宇宙(宇宙神)は、宇宙すべての生きとし生けるものの平和と幸せを望んでいる

それをそのまま言葉にしたのが世界平和の祈りです。

世界平和の祈りとは宇宙(神)の祈りなのです。

宇宙と一体となる祈りなのです。

世界平和の祈りを祈ると肉体にも幽体にも宇宙のエネルギーが流れ、汚れた幽体(潜在意識)を浄化するのです。

そして、エネルギーは気のことなので、病気も無くなるのです。

病気とは気が病んだ状態をいうのです。

気(エネルギー)が整ってくると、病気という状態が無くなるのです。

祈り、印を組むと波動調整が出来るのです。

近い将来、みんなが祈り、印を組むようになるので病気も無くなっていくのです。(お医者さんもいらなくなり薬も病院も無くなる、だからお金が無くなることにつながります)

アセンションするというのは、人間のオーラが素晴らしく美しくなることでもあるんですね。

素晴らしい時代の到来がもうすぐそこまでやって来ているのです。

 

世界人類が平和でありますように

日本が平和でありますように

私たちの天命がまっとうされますように

守護霊様ありがとうございます

守護神様ありがとうございます


 

 オーラ・オーラ

http://auraaura7.com/



 

お金がなくなる日

 

人間の欲には、物欲、食欲、独占欲、金銭欲、色欲(性欲)などがありますが、人間に欲があるうちは、地球も人類もアセンション(次元上昇)することはないのだそうです。

次元上昇とは、人間が欲を捨て愛に生きることであり、セパレート(分離)した魂(心)は、ユニティ(融合)される時代になるということです。

人間があらゆる欲を捨てて、愛を選択するのに足かせとなるのは、お金です。

先日、妻の影響で、「半沢直樹」という今話題になっているテレビドラマを観ていたのですが、

いくら半沢氏が正義感が強く、正しいことをやっているとしても、相手を激しく攻撃したり、恨みを晴らすという行為は、観ていてスカッとするような気は一旦はするのですが、私はやはり後味の悪さを覚えるのです。

銀行の世界、金融の世界は、多かれ少なかれあのドラマと似たような世界なんだと聞くと、やはりお金そのものが無くならないと人間の心は浄化されないのだと強く確信したのでした。

みなさんもお金というものが存在しない世界というのをイメージしてみてください。

「お金が無くてどうやって暮らして行くんだ」

という疑問が先に立ってイメージしにくいかもしれませんが、田舎ではそれに近い生活が出来ているのです。

水は地下水、電気はソーラーにしているところも増えています。

米、野菜は田んぼ畑で作ると、ほとんどお金無での生活は可能なのです。

前回にも書いたのですが、人間は霊化してくると宇宙からのエネルギー、つまり霊要素が入って来るので、お腹が空かなくなるのです。(食欲が少なくなる)

同じく霊要素は、物欲や金銭欲も減退させ、みんな食べていければ贅沢な暮しはいらないと思ってゆく

精神的にも感情的になることが減り、穏やかになっていく(それにつれて気候も安定するそうです)

そして世の中から金融関係、飲食関係、医療関連(病気も無くなってゆく)の仕事が激減し、多くの人が職を失うこととなる。

東京や大阪などの大都会からは、職(食)にあぶれた人が地方へと帰って行き、田舎で自給自足の生活を始める。

もうその頃には経済も完全に停滞し、政府も地方に大きなコミュニティー(小集落)を作るようになり、そこでお金が流通しなくても、人間同士が助け合って物々交換をするようになる(愛の交流が行われる)

お金はもはや人間にとって必要なものではなくなる

これが私が描いた未来像なのですが、あながち絵空事ではないのです。

それは、地球は今、アセンションの時を迎えており、アセンションを果した星というのは、お金は存在していないのです。

どういう経緯でお金が無くなっていくのか?

ハードランディング(急に突然無くなるのか)なのかソフトランディング(徐々にそうなっていくのか)はわかりませんが、神さま(宇宙天使たち)がお金があっては、人間は絶対に覚正しないとわかっておられるので、地球が上昇するために無くす方向へ動いておられると思うのです。

そういった意味ではお金が無くなるのは、自然の摂理なのです。

ものごとは、そして未来の地球は、今現在の状況を見て考えるとどこへ行くのかがまったくわからないのです。

だがしかし、地球が完成する(アセンション)することは、天の摂理で決まっていることなのです。

今地球は、七劫を迎えています。

お金が無くなるとは、地球が生まれ変わるという大イベントのほんの一部分にしか過ぎないのです。

これから私たちは地球規模いや、宇宙規模でグローバルな視野で地球人類や世の中を観ていくということが必要なのです。


 



 



  

2013年9月27日 (金)

自分はいったい何者なのか? 3

 
 

人間は崇高なる存在

 

人間が本当に識らなければならないことは、自分の本性に対して畏敬の念をもたねばならない、そのことなのであります。

人間は決して弱きものでもなく、不完全なるものでもありません。

人間は完全にして完璧なものであるという認識をもって、自分自身を見つめ直していかなければなりません。

初めから自分自身に対して畏敬の念をもって接するのです。

自分の中にいかに不完全さが存在しようと決してそれを認めず、自らの本性、輝いた神そのものを認識し見つめてゆくべきものなのです。

人間の多くは、業生のみの己を見つめ、決して本心の自分、輝いた自分、神そのものの自分、完全円満なる自分を認識する眼をもってはいません。

まず自分自身を尊敬し、愛し、そして自分自身を畏敬の念をもって認めてゆくことから始めるのです。

“我即神也” このたった四文字の中にすべての真理が含まれ、人間そのものが言い尽されているのであります。

自分が神なら “人類即神也”、人もまた神です。

人間即神そのものなのです。

自分自身に畏敬の念をもって接すると同時に、すべての人間に対して畏敬の念をもって接していかなければならないのです。

人間そのものは、宇宙の神性の現われであり、宇宙神の働きを現わすために存在しているのです。

宇宙と地球の大調和のため、大進化のための素晴らしい働きを担っているのです。

人間本来、誰もが持っている直観力をますます磨き高め上げ、宇宙の神霊と交流しつつ自らの意識を高め、宇宙神そのものの存在を自らの上に完全に開示していかねばならないのです。

直観力は、知識や学問からはなかなか得られるものではありません。

直観力は宇宙意識に自らを託すことによって得られてゆくものです。

人間は実に崇高なる存在です。

宇宙神そのものの偉大なる働きを共に担って生きていく天命があるからです。


 
 

      「次元上昇」 西園寺昌美 白光出版

 

                       

 

自分はいったい何者なのか? 2

 

オーラの輝き

 

“汝自身を知れ” の答え

人類を知るためには、まず第一に自分自身を深く認識していなければ、解るものではありません。

あらゆる時代を超え、またあらゆる国境、民族、人種、宗教を超えて、ずっと人類につきつけられている問題、 “汝自身を知れ”。 

その答えは、簡単に容易に見出されはしませんでした。

過去何千年、何万年と歴史を重ねて繰り返されてきた “汝自身を知れ”。

かつまた過去、歴史を通してあらゆる聖者賢者、偉大なる人たちによって語り、言い表わされてきた “汝自身を知れ”。 だがしかし、それでもなかなか人類一人一人に理解されてはいませんでした。

キリストや仏陀、ソクラテスやカミュ、ニーチェ、カント、ダンテ・・・・・その他あらゆる時代に出現した宗教者、哲学者、神秘家・・・・・・。

だが、端的に容易に説明する者はいませんでした。

ここに来て遂に、その答は簡単にして容易に人類の前に示されました。

“汝自身を知れ” とは、“我即神也” “人類即神也” のことだったのであります。

自分たちのことを勿体ぶり、回りくどく説明されても全く理解できないでいた人類は、ここに来て、真の自分自身が理解でき得る時が来たのです。

自分とは神そのものであります。

この唯一無二の答が天からもたらされたのです。

“汝自身を知れ” という課題は、常に時代から時代へと引き継がれ、語り継がれ、探究しつづけられ、歴史を超えて繰り返されてきました。

この問題は深く掘り下げれば掘り下げるほど、自己を認識することの難しさを物語っています。

今まで何故このような簡単にして容易な答が見出されずにいたのでしょうか。

それは、人間は自分の本性から余りにも遠くかけ離れた存在になっていたためであります。

自分自身そのものを理解するためには、非常に難しい、しかも遠い道のりが必要だと錯覚してしまっていたのです。






    
      「次元上昇」 西園寺昌美 白光出版


 

 

 

自分はいったい何者なのか? 1

   


今、自分が知りたいことは、インターネットでほとんどを知ることができる。

「あまちゃん」の最終週はどうなるのか?

「半沢直樹」はどうして出向させられたのか?

知りたいこと、疑問に思ったことは、瞬く間に解決され、私たちがストレスを感じることは、以前よりは軽減されているのかもしれません(笑)

そして人間はどうしたら幸せになれるのか?

人間とはいったい何者なのか?

どこから来てどこへ行こうとしているのか?

死んだらどうなるのか?

ベールに隠されていたこれらのことも探せば、どこかに書いてある・・・・・・

しかし目の前にいくら答が書いてあっても

自分が強く求めていなければ

「フーンそうだったのか、でも今の自分はそんなことよりもお金が欲しい」

「彼女が欲しい」

「何か面白いことが起きて欲しい」

などと本人にしてみればどうでもいいことなのです。

たぶんそんな心境の人はここには読みに来てはいないと思うのですが、真理は後廻しなのです。

だがしかし、人間はいつかは真理に巡り会わなければならないようになっているのです。

その人にとって今は時期ではないだけです。(真理を探究するという)

しかし、多くの人たちにとって今はどういう時期であるかというと

真剣に生きている人が、世の中や自分の “生き方” に疑問を持ち始めているのです。

自分はいい大学も出た、いい人を見つけて結婚もした、子どもも順調に育ってくれている、・・・・子育ても終わった、不景気だけれどもなんとか仕事もうまくいっているし、このまま老後を迎えてもなんとか人並み以上の生活は出来る、思えば過去はなかなかいい人生だった、そこそこの人生だった・・・

だから自分は幸せなんだ

幸せなはずなんだ

心配事もほとんどない

周りの人は 「お幸せですね」 って言う


自分でも不幸せではないと思う

だが、なにかが違う

絶対に違う

幸せだという実感がない

感動がない

生きているという喜びがない

心が満たされていない

魂(本心)が納得していない

自分や家族だけが物質的に満たされている状態

それだけで幸せと言っていいのだろうか?

他の人、世の中の人は幸せなんだろうか?

幸せを感じているのだろうか?

日本は、世界はこのままでいいのだろうか?

自分はなに一つ知らずに生きて来た

病気になったらどうしよう

妻が先に死んだらどうしよう

いや自分が死んだら妻は悲しんでくれるだろうか?

死ぬのは怖い

だから病気にもなりたくない

死んだらどうなる?

自分という存在は永遠に無くなるのか?

死んだら家族とはもう逢えないのか?

このままいたずらの年齢を重ねて年老いていくのは嫌だ

不安な気持ちで毎日を過ごしていくのは嫌だ

なにも識らずに肉体を離れて、他の世界に行っていいのだろうか?

無目的に生きる人生に、生きる意味はあるのだろうか?

過去ばかりを振り返り、過去にばかりエネルギーを注いでこれでいいのだろうか?

自分のミッションはなんだったのか?

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

誰か本当のこと(真実)を教えてくれっ!

これが一般の人たちの普通の感情だと思います。

このようにいつかは、真理を渇望する時期が来るのです。

私はその時期が以前よりもかなり早まって来ているように思うのです。

それは今は、波動が細かくなって(宇宙のエネルギーに近づいている)

目覚める準備が出来ている人が増えているのです。

だからそれにつれてこのブログのアクセス数も急増しています。

これからもみなさんが読んで

ビビッと来るような、そんなブログを心がけていきたいと思っています。



 

 

直観力を高めるために 2

 

直観力を高めるために
 

 

このように我々は、たくさんの人々の想念波動に取り巻かれて生きているのです。

これらの波動を見分ける手段はあくまでも自分の直観力にかかっています。

直観力とは、五感を超えた感覚です。

味覚、聴覚、視覚、嗅覚、知覚を超えた天のひらめきです。

常識を超えた世界からやってくるメッセージです。

常識に把われると、必ず失敗します。

得か損か、高いか安いか、良いか悪いか、効率的か否か、新しいか古いか、きれいか汚いか・・・・・。

これらの観念をいや基準を超えたところからやってきます。

これらのメッセージは、ひらめきは心に直に訴えかけてきます。

その物を手にした途端に気分が悪くなったり、嫌になったり、不安にかられたり、不吉な感覚に襲われたら即、やめるべきです。

また、手にして心が明るくなったり、踊りたくなったり、ワクワクしたり、晴れがましい気分になるものなら、よい波動のものです。

これらの直観力をもっと鋭く完璧に身につけるには祈る方法があります。

祈りは生きていく上で、一番大事な心の栄養素を得る手段です。

自らの人生を大調和に、幸せに、平安に導いてゆくものです。

真の真理に目覚めさせてくれるものです。

祈りを通してこそ、今生の人生が輝かしいものに導かれていくのです。

祈りこそ世界中に撒き散らされている暗黒破壊思想エネルギーから身を守る唯一の方法です。

そのためには、まず第一に自分の想念に気をつけることです。

自らが放つ想念と波長が合う、周りの想念を引き寄せてくるからです。

自らの放つ想念が光明思想のみ、世界平和の祈りのみの人たち、我即神也、人類即神也の宣言と印のみの人たちは、宇宙神よりの無限なる光、エネルギー、パワーに完全に波長が合い、無限なる喜び、歓喜、幸せ、成功、繁栄、健康が自分の人生の上に起こってきます。

自分自身の放つ光明思想が自分の人生に素晴らしいものを引き寄せてくるのです。

祈っている人は、必ず一人残らず幸せになります。

平和になり、素晴らしくなるのです。





世界人類が平和でありますように

日本が平和でありますように

私たちの天命がまっとうされますように

守護霊様ありがとうございます

守護神様ありがとうございます






        
「次元上昇」 西園寺昌美 白光出版




 

 

 

直観力を高めるために 1

 

私たちの周りにはありとあらゆる想念波動が取り巻いている。

人もいろんなことを考えているし、物にも想念が宿っている、そして場所を移動すればそこにもそこに住んでいた人の想念波動がある。

そしてそのたびに、それらのエネルギーに振り回されて、躁になったり鬱になったりする。

私が調和波動気功法をするきっかけになったのは、不動心の自分になりたかったからなのです。

感情想念に振り回されない本当の自分になりたかったからなのです。

そのことを心の奥底でずっと求めていた・・・・・。

そして于先生に出会い、調和波動気功法を知り、祈りを知り、印を組み始めたのです。

そして今、私は何事にも動じない、振り回されそうになっても(振り回されかけても)

「いやいやこれはほんとうの自分ではない、ここでほんとうの自分に還れば違う自分にならなくても済むんだ」

と自分をコントロール出来るようになったのです。(これほど嬉しいことはありません)

客観的に、肉体の自分を天のほんとうの自分が観れるようになったのです。

人間の幸せとはなにかというと

魂(心)が動じずに不動心でいられることなのです。

不動心になると、波動がわかるのです。

波動というのはエネルギーのことなのですが、神波動なのです。

その神波動は心を静めていないとわからないのです。

宇宙はすべて波動で出来ています。

人間の心も体もすべて波動です。

物も動物も植物も鉱物も、木々も海も山も大自然も、天象(太陽、月、星々)、天気も空気もすべては波動なのです。

そのすべてを司っているのが、宇宙神なのです。

その宇宙神と波長を合わせることによって、すべてのものと一体となれるのです。

神波動に触れるというのは、宇宙の琴線に触れるということです。

本当の幸せとは宇宙のエネルギーと一体となることなのです。

一体となると、心の奥底から無上の喜びがこみ上げて来るのです。

そのために世界平和の祈りを祈り、印を組む

人間が幸せになるためには

それしかない・・・・・

それを今、私は断言します。





調和波動気功法

http://www.harmony-wave.jp/


オーラ・オーラ

http://auraaura7.com/



 

 

 

2013年9月26日 (木)

物には魂が宿る 3

真理を知らないが故の不幸

今まで、人類の多くはみな、こういった想念の法則を知らぬまま、人々の想念に巻き込ま

れ、翻弄されながら人生を歩んできました。

もし人々がそれらの物を手に入れたいと思った時、その物の持つ因縁や想念、怨念を知る

ことが出来たならば、あるいは感じることが出来たならば、自らの人生をなまじ不幸へと導

かれないですむのであります。

真理を知らない人々はみな、こういった執着や怨念、否定的想念が刻み込まれた物を所

有することによって、知らないうちに自分の人生を狂わせてしまっているのです。

真理を知っている人たちは、それらの物を無意識に拒否する直観力が培われています。

それらの物を手にした時、無意識に自分の心が波立つのです。

気持ちが悪い。 何か暗い感じがする。 ゾッとする。 不安に陥る。 急に腹立たしくなっ

たり、怒りたくなる。 淋しくなったり、悲しくなる・・・・・など、自分の心の変化に気づくので

す。

すると、自分の本心がこれらの物を買いたくないとか、必要ないとか、もっとよいものが後

で見つかる・・・・・等と拒絶してしまうのです。

だがしかし、真理を知らない多くの人々は、利害損得に振り回され、手に入れたり、買った

りしてしまいます。

買ったあとでも、おかしい、嫌な感じがする、不吉な感じがする、といったメッセージが自分

の感覚を通して届いているにもかかわらず、高いお金を払ったのだからとか、いまさら返す

わけにもいかないとか、姑息な心で自らの運命を誤らせていってしまうのであります。

このように、自分たちの周りのすべての物には、種々様々な人類の想念が込められている

のです。

もちろん、土地の因縁、動物や植物の因縁、水や食物の因縁も同様です。

人類は決して自分一人では生きてはいけない存在なのです。

多くの人々、大自然、生きとし生けるものと調和し、共生して生きていくことこそ、真に生き

る意味、価値があるのであります。

昨今、大地の汚染、空気や水の汚染、自然破壊、種の異変、病原菌の発生・・・・等、様々

な現象が起こっています。

これらも突きつめてゆけば、すべて人類一人一人が放った無責任な想念波動の結果に相

違ないのです。

いよいよ人類一人一人がどうしても真の真理に目覚めなければならない時にまで至ってい

るのです。

目覚めなければ滅びる以外にないのです。

真理に目覚めた者は必ず救われます。

なぜならば、そういった否定的想念、暗黒的想念の波動を見極める直感力が大いに養わ

れているからです。

そればかりではなく、自らが放つ波動が神の波動、光の波動であり、強力なるパワー、エ

ネルギーを持ち、宇宙神の光の一筋そのものであるため、いかなるマイナス波動からも決

して影響を受けないのです。

自らの放つ想念、光、エネルギーにより、自らの運命が悪くなるのを見事に完璧に防げる

のです。

さらに、究極の真理、我即神也、人類即神也の宣言をし、印を組む者は、自分を取り巻くい

かなる想念さえも浄めてしまう偉大なる力を発揮していくのであります。

だからこそ、彼らの人生はよくなるのです。

よくならないわけはないのであります。

必ずよくなる、もっともっとよくなる。 もっと完璧に、幸せにに、平和になる。そして何事も

調和してゆくばかりです。

だがしかし、周りを見てみると、気の毒にも、不幸せな人々ばかりです。

彼らは不幸や災難、苦悩に取りつかれ、もっともっと悪くなり、もっともっとひどくなる一方で

す。

いかにもがこうと、あがこうと、そういった想念から脱け出すことの出来ない状況に追い込

まれてゆくのです。

彼らは真理を知らないがために、自ら不幸な人生を選んでいると言えるのであります。

   

            「次元上昇」 西園寺昌美 白光出版







 

 

物には魂が宿る 2



物にこもる想念と、直観力
 



すべての物は想いが込められている

人は物に生命(いのち)を込めます。

母親は料理をつくる時、子供や夫を思って一生懸命つくります。

自分のつくる料理を通して自分の真心を伝えてゆきます。

もっと大袈裟に言えば、生命を込めるのです。

また、自分の大切な宝石に自分の生命を託します。

結婚指輪などには、お互いの心や生命が込められています。

また死んだ人の形見には、その人の想いや生命が込められているのです。

我々は日常生活において、多くの人々の真心や想いや生命が託された物を使用していま

す。

絨毯(じゅうたん)、机、椅子、鍋、花瓶、置物、洋服、茶碗・・・・・。

人の手でつくられた物すべてに、その人の想念が入り込んでいます。

自動車、電車、飛行機、バス、自転車・・・・。

こういった乗り物も多くの人々の想いや心が込められているのです。

それらの乗り物をつくる人々がみな、感謝と喜びを込めてつくるならば、事故などを起こす

頻度も少なくなるはずです。

だが、つくる人々が毎日、激しい恨みや怒り、不平不満、悲しみなどの否定的想念を出し

ていたならば、それらの否定的想念の波動が乗り物にも入り込んで、事故を誘発します。

ですから人々は、その想念の在り方を認識して買い物をする必要があります。 宝石を買

う時、仮にその宝石が新しいものならともかく、人の所有するものであったならば、その所

有者の想念や因縁がそのまま波動として宝石に蓄積されています。

どうしても宝石を手放さなくてはならなくなった人たちの怨念や執着、苦悩や悲しみが刻み

込まれているのです。

そういった宝石を身につけた人は、それらの宝石によって、運命が操られてゆきます。

次から次へと不幸や災難に出会ってゆくのです。

宝石にそういった多くの人々の暗黒的な想念がこもり、蓄えられているからです。

また、絵画や置物も同じです。 絵や置物の中に作者の気迫が込められているものがあり

ます。

作者が真の芸術を理解できずに自らの名誉欲、金銭欲、権力欲などの想念によって作品

を作り上げていくことにより、その作品は真の芸術性からはずれた不調和な荒々しい波動

を蓄えてゆきます。

こういった強い波動のものを気の(想いの)弱い人が買うと、負けてしまうときがあるので

す。

絵の強さ、置物の気迫に翻弄(ほんろう)されやすく、この絵のかかっている部屋、置物の

置かれている場では、常に金銭や虚栄心などが原因となって争いが絶えなかったり、夫婦

喧嘩や親子の対立が生じたりして、調和が乱されていってしまうのです。

なぜならば、それらの持つ波動につい巻き込まれていってしまうからです。

また家を買う時、マンションを借りる時なども同じです。

そこに、土地や家の因縁、前に住んでいた人たちの想念波動が宿っているからです。

運命が順調で幸せであった人たちでさえ、こういった土地や家にまつわる想念の強い、

因縁の深い物件を買うと、それらの想念に操られ、翻弄されて、運命が乱されてゆきます。

突然、病気になったり、失敗や挫折に追い込まれたり、不幸に見舞われたりするのです。

それらは、そういった想念のなせる業(わざ)です。

だがしかし、こちら側に常に祈りがある場合は、必ずそれらの想念を祓い浄め、決して悪

い運命へと巻き込まれることはないのです。

逆にそれらの因縁を超えて素晴らしい運命へと転換させるだけの力が祈りには備わって

いるのであります。


 

 「次元上昇」 西園寺昌美 白光出版




 

 









物には魂が宿る 1

   

私が、これからは、経済はもう発展しない、物質文明から精神文明へと移行すると思っている

のは、物を粗末にして、壊れたからとか型が古くなったからという理由ですぐに新しい物に買

え換えるというのは、日本人の性質(性格的)に合っていないように思うからです。

「もったいない」 という感覚は、ほとんどの日本人に沁みついていて、その原点とは

“物には、魂(心)が宿っている” ということがわかっているからなのです。

長年お世話になって自分や家族をいろんな場所に、安全に運んでくれた愛車(あいしゃ)がも

うかなり耐用年数が過ぎて、走ることが車にとっても苦痛なんだと感じることがあって、新しい

車と入れ替えるときなどは

「長い間、ありがとう、ご苦労さまでした」 と車に向って手を合わせたくなるのです。

動物など生き物だったら、家族同然に思っている人も多いのだけれど物に対しても自分の体

の一部に感じるのです。

それは、自分が手に触れ体に触れることでその物にもエネルギーが入るのです。

それも自分と同じエネルギーなので、持っていて心地がいいし、愛おしくなるのだと思います。

高度成長のとき、好景気のときというのは、“消費は美徳” などといわれ、使い捨ての時代

でもあったのです。

しかし、人間はそんな考え方、時代が おかしい と思っていたのです。

だからいくら政府や国が

「もっと物を買ってください」 「お金を使わないと経済が停滞します」

と言っても

それじゃあ、と 物を粗末にしたり、捨てたりは心情的に出来ないのです。

それは今迄の反省があるからです。

「あのときにもっと大切に扱えばよかった」

「簡単に捨てて申し訳なかった」

私は、物を大切にしていく文化になって、それに伴った経済発展はよいと思うのですが、無理

に経済を動かすことは違うと思うのです。

今はもうすでに供給過多になって、物をたくさん作り過ぎています。

「近い将来、お金は無くなる」 というのが私の持論なのですが、そのことは又違う機会に述

べるとして、今日は、物には魂が宿るについて、西園寺昌美先生の
ご著書から抜粋していき

たいと思います。

 

2013年9月23日 (月)

真理の探究 3

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

昔の私がそうであったように、世界の人々の大半が、人間とは肉体そのものであり、精神とは肉体の中に存在する、ある機能の働きである、と思っている。

人間とは五十年、六十年、この社会に生存していて、後は灰になり無になってしまうものと思っている。

死んでしまえばそれまでのもの、と思いこんでいる。

はたして人間は肉体の滅亡をもって、最後の終止符になるであろうか。

私は即座に、否(いな)と答える。

なんとなく偶然にこの世に生まれ出て、食べたり飲んだりして肉体を維持し、ただなんとなく、社会生活を営んで、妻をめとり、夫に嫁し、子を生み育て、そして死んでゆく、人類の大半はこのような生活を繰り返して、今日にいたっているのであるが、それでは済まない、何か漠然とした不安な想いが、その大小にかかわらず、人々の胸の中に去来しているのではなかろうか。

このような生き方ではあまりにも無意義であり、無目的でありすぎる。

このような生き方の他に、何かある。 何があるかわからない。

わからないが、またわかろうと積極的に思わない。

こうした想いが一般人の心であって、その中の少数の人たちが、そのままでは済まされずに、社会改革に乗り出し、思想活動に加わり、また一方の少数人は自分自身の心の内面に立ち入って、深く突きつめ、神(真理)を知り、霊を知るにいたる。

ともに現況における心の苦しみを突き破ろうとしての動きなのである。

大衆は流されているのである。

時間の動きとともに、人類業生の烈しい渦の中を右に左に流されてゆくのである。

その場、その時々の喜怒哀楽、渦をつかんでいったい何になろう。

それが、こよなき歓喜のように見えたとしても、渦は、はかなく消えてゆくものである。

形あるもの、それは形なきものの影である。

形あるそのままで見えるようでは、その人は救われない。

形あるものの形のもを変えて、社会改革を実現したとしても人類は救われない。

形、型、組織、制度、と形の世界、物の世界のみに固着した眼をもった思想は人類を滅ぼしこそすれ、救うことにはなり得ない。

人間とは肉体だけではないのである。

神、すなわち宇宙に遍満せる生命が、その創造せんとする力が、個々の人格に分けられたもので、しかも横においてつながり合い、協力し合って、その与えられた力を、縦横に、自由無礙に発揮し、形ある世界に、完全なる神の姿を画き出そうとしている者である。

神とは宇宙に遍満する生命の原理、創造の原理であり、人間とは神の生命を形ある世界に活動せしめんとする神の子なのである。

このような、神と人間との関係を知り得たならば、この現象世界のいかなる変動の中にあっても、動揺せぬ生き方ができるようになるのである。

そこで各章にわたって、でき得るかぎり詳しくこの関係を書き綴るつもりである。
 

 

             「神と人間」 五井昌久 白光出版




 


 

真理の探究 2

 

はしがき
 

古代より幾星霜、人類は完全なる平和を夢み、希求し、熱望しつづけてきた。

争いなく、恐怖なく、悲しみなき愉悦そのもの世界、貧なく、病なく、別離なき世界。

こうした願望は、釈迦、キリスト、マホメットを始め、世代、世代に幾多の聖者を育て、芸術家の名を残さしめ、思想家、政治家、学者、発明家と、縦に横に大きな広がりをみせつつ現代にいたった。

現代こそ文明文化の華開き、あらゆる思想も泉も枯らしたと思われるほどの世界である。

さて、こうした文明文化の世にいたったのに、この現代世界の人々は依然として、完全平和から遠く、闘争あり、恐怖あり、悲哀あり、老病貧苦あり、別離ある、不安定の生活状態に息づいているのである。

これはいったどうしたということなのであろう。

形の世界における古代と現代との状態は、天と地ほどの差異があることは、考える余地のないほど明らかで、文明開化は生活様式の便を極度に利益したのである。

その便利さだけをみれば現代に生活する人々は、天国浄土に生活する幸福を感じなければならぬはずである。

しかし現実はどうであろう。

生活状態の進化は確かに肉体的活動を容易ならしめ、安楽感を与えてはいる。

だがそのような安楽感では、人類世界のもっている不安定を消しとめる力とはなり得ない。

形こそ違え、いつくずれるかも知れぬ精神の不安を日々味わいつづけていることにかけては、非文明の時代と少しも変わりがないのである。

ガス、電気、水道、汽車、自動車、飛行機、欲するものはほとんど金力をもって手に入れることができ、欲求を充たすことができるこの現代の生活が、どうして非文明時代と同じように、不安定な精神状態に人間を置くのであろう。

それは、現代の生活も古代と等しく、確固たる基盤を持たぬ生活であり、明日にも一瞬に破壊される生命の危機にさらされる生活であることである。

戦争、天災、病苦、そして生活の不平等、それに最も根本的な、肉体滅亡への恐怖、これらの問題を解決しなければ、いかに表面的な生活状態の改善がなされても、一向に人類の幸福はもたらされぬのである。

とはいえ、戦争、天災、病苦、死苦、それらの諸苦を消滅しうることがはたして可能であろうか、可能であると私は答える。

先哲、釈迦、キリストはそれらの諸苦を超越し、みずからの体験をもって弟子を教え導いたのであり、弟子たちはその教えをいい伝え書き伝え、それが仏典となり、聖書となって、現代に至るまでの精神界の光明となり道標となってきたのである。

仏典といい、聖書といい、ともに人類救済の原理が書かれているのであって、その説かれたる通りの行いを人類のすべてが行ずれば、必ず地上天国が実現するのであるが、人類はこれらの教典を単に精神の糧としたのみで、行いにまで及ばすに至らなかった。

いいかえれば人類のほとんどが、二聖者の真意を解し得なかったのである。

しかしこれらの聖者の及ぼした影響は、人類の心の底に深い根をおろし、しだいに強い光となって現われようとしているのである。

人類の業因は、今まさに大きく自壊し、真理の光が燦然と輝き出でようとしているのである。

真理(神)につらなる者は残り、しからざる者は滅びるという聖者の言葉の実現を前に、私は神(真理)と人間の関係、霊、魂魄、生前、死後などにつき、でき得るかぎり詳しく述べ、人間生活の在り方、幸福生活への真の導きを書きつづることとする。



 

       「神と人間」   五井昌久  白光出版




 

 

真理の探究 1

 
 
一生懸命に仕事をすることは当たり前、家庭を持ったとしたら、家族を大切にして子育てをちゃんとしていくのも当たり前、そして自分や自分の家族だけではなく地域や日本や、世界、地球のことを考えることも当たり前

しかし人間として当たり前のこと普通のことをやっている、それだけでは、人間の本心を満足させて、生き生きと生きてゆくことは出来ないのです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・それは、本質的なこと、基本的なこと、原理原則的なこと、つまり原点がわかっていないから

原点がわかっていないと足が地に着かないのです。

今起っていることはすべて原点から発しているので

目の前に起きていることの意味(原因)がわかないので右往左往してしまうのです。

貧乏になれば不安になり、失業すれば落ち込み、病気になれば動揺し、人間関係がまずくなれば仕事をするのが嫌になる、悪口を言われれば怒り狂う、相手を責め、自分を責め、精神が休まる暇もない、生きていることに疲れてしまう

当たり前にやっていたことがいったいどんな意味があるのか、ちょっとしたことでもろくも根底から崩れ去ってしまう。

それくらいメンタル(精神的なこと)は大切だと思うのです。

目に見えることって、目にみえない精神が土台になって成り立っているのです。

人間もそうです。

心が主で、心に肉体という物質が纏っているのです。

だから心が安定していないと、心が真理(本当のこと、目にみえないこと)をわかっていないと真っ暗な中を明かりを灯さないで歩いているようなものなのです。

真っ暗なので今自分がどこにいるのかわからない

どれくらい歩けば、明かりが見えてくるのかもわからない

どこから来てどこへ行こうとしているのかもわからない

今、自分がここで倒れて死んでしまったら、死後どうなるのかもわからない

まっくらなので、みんな自分のことで精一杯で人を助けるような余裕もない

それにも増して、自分は何者でなんのために生まれてきたのかもわからない

??????????

疑問だらけ、謎だらけでただ人と同じようなことをしていれば

取りあえずは安心だ

それで本当にいいのでしょうか?

ただ朝起きて、会社(学校)に行って、会社のために働き、家族の為に働き、自分のささやかな趣味に唯一の楽しみを見出し、子どもを成人させ、社会に送り出し、孫が生まれて、孫の成長だけが楽しみになり、やがて年老いて死んでゆく

それだけで本当にいいのでしょうか?

なにもわからないまま肉体を去っていいのでしょうか?

そんな刹那的な、張り合いのない、歯応えのない生き方で生きているといえるのでしょうか?

私は真剣に生きている人は、決してそこで満足していないと思うのです。

「これではいけない、自分はなんにもわかちゃいない」

「なんとかしなければいけないんだ」

「このまま死んではいけないんだ」

と心の叫びを感じているはずなのです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

私がこのブログを書いているのは

そう感じている人、一生懸命に生きている人に対しての

メッセージなのです。

私は、「神と人間」 (五井昌久著 白光出版 )を読んで、そのメッセージを受け取ったのです。

真理の追究、探究をしなければ

“人間として生きている意味がないんだ”

なぜ真理が必要なのか?

なぜ真理を識らなければ人間は成長(進化)できないのか?

そのことがわかる文章を「神と人間」の はしがき から抜粋します。

よかったらお付き合いください。



 

 

2013年9月22日 (日)

守護霊の応援を得ると名作家になれる

 
私も、時々ブログを書き終わった時に、読み返してみて、これは自分が書いた文章ではないな(笑) と思うときがあるのです。(あまりにも上手く書けているので)

ほとんどなにも考えずに、勝手に手が動いて、スーッと書けたときは、うだるような暑さのときにキンキンに冷えた三ツ矢サイダーを飲んだ瞬間のような清々しさがあるのです。(だからやめられない)

神さまはときどき、肉体人間の器を使って、霊界の波動(エネルギー)を降ろすことがあるのだと思うのです。

そして人間に、「肉体界だけがこの世ではないのだよ」 と教えておられると思うのです。

だがしかし、霊界の神様に使われている人と、幽界のオバケちゃんにもて遊ばれている人がいるのです。

世界平和の祈りを祈っていると、迷いの世界である幽界と波長が合うことはないのです。

そのことを改めて認識した、下記の文章でした。




五井先生の教えは別名「守護霊、守護神教」とも言えるほど、守護の神霊の存在とその守護のあり方を詳しく、判り易くお説き下さっています。守護神(一体)と守護霊(正守護霊一体と副守護霊二体)が四六時中、守護の任にあたっておられるのです。

 私たちがいつもいつも守護の神霊に感謝をし続けていれば、その守りはますます強固になっていきます。ついには守護の神霊との一体化という形になります。その時の状態を「不動心」というのだと五井先生から教えて頂きました。つまり守護の神霊との一体化イコール不動心ということです。

 専属の守護の神霊の他に、時に応じて「背後霊」という形で別の神霊が応援して下さることがあります。

 フィリピンの有名な心霊手術師のトニーは手術の際にメスを一切使わず、しかも傷跡ひとつ残しませんでした。「トニーの背後には霊界の外科医がついているんだよ」と五井先生はおっしゃいました

つまりトニーの手が、粗い肉体波動から微妙な神霊波動となって患者の身体の中に入っていって、患部を手術していたのです。

 かつて作家の山岡荘八が書いた『徳川家康』がベストセラーになりましたが、そのとき五井先生は、「ベストセラーになるのは当然だよ。あれは徳川家康が自叙伝を書いたようなものだね」とおっしゃいました。つまり徳川家康が山岡荘八の背後で、山岡荘八の体を使って執筆していたのです。


山岡荘八は太平洋戦争当時、報道班員として鹿児島県の特攻基地の知覧(ちらん)で多くの神風特攻隊を見送っていたので、戦死した隊員の慰霊のために戦後、知覧に特攻平和観音を建立(こんりゅう)した信心深い作家でした。

 故村田正雄長老は『私の霊界通信』(第一巻~五巻)という名著を残されましたが、五井先生は冗談ともつかず、「あの本は、とてもきめ細(こま)かな優しい文章だろう。


村田さんを使って女神様が書かれたんだよ。だいたい村田さんがあんな上手な文章書けるわけがないよ」とおっしゃいました。



  

2013年9月21日 (土)

地上天国は成るに決まっている 3

 
 

そうなるためにどうしたらいいか、といったら、世界平和の祈りをやるんです。

偉いとか偉くないとかいうのはないんです。

お前が偉くて向こうは偉くない、私が偉くて相手が偉くない、というのはない。

それは業の消えてゆく姿だけなんです。

消えてしまえばみんな同じなんです。

・・・・・・・・・・・

金星の長老とあなた方が大変な違いだというのは、業の世界、想いの世界(幽界、肉体界)を見て

「これは大変だ、比べようも何もありゃしない」 といっているわけです。

比べようもない。 向こうは何も全くないんだから、見通し見透かし、なんでも自由自在。

ところがあなた方は自由自在でないかというと、自由自在なんです。

知らないだけなんです。 想いで自由自在でないと思っているだけなんです。

自分の業想念、自分の想いが邪魔して、自由自在でないと思っているんです。

長い習慣で、自分の想いが 「だめだ」 と思いこんでいるんです。

自分はだめだと思い込んでいるのを、思い込むまい思い込むまいと思ったって無駄でしょ。

思い込んでいるんだから。

潜在意識の奥の奥まで、自分は肉体の人間だ、と思い込んでいるんだからね。

神様じゃない、と思っているんだからね。

自分は神様から程遠い人間だと思う想い、キリストや仏陀とまるで違った人間だ、と思っている想いだけが、神様じゃないんです。

だから、その想いを持ったままで、世界平和の祈りの中、神様の中に入ってしまう。

いつでも入ってしまう。 そうすると、その想いがだんだんだんだん神様の光によって消されてゆくんです。

消されて大神様の光と本心の光とがパッと合う。

そういう時に本当に悟るんです。 光ったという感じになるんです。

・・・・・・・・・・・

自分がキリストであることを、知っているか、知らないか。

自分が神の子であることを知っているか、知らないかだけの違いが、ここ(地上界)の違いになってくるんですよ。 そういうものなんですよ。

その極意を楽々と出来るのが 「世界平和の祈り」 なのです。

だからうまず弛まず

「自分はもうすでに神様の中に入っているものなんだ、神の子なんで、光輝いているに違いないんだ!」 と思っちゃうんですね。

思って、自分の平安の心、光明の心を乱す想いをすべて消えてゆく姿にするんです。

どんなに怒りの想いが出てこようと、どんな妬みが出てこようと、どんな恐怖が出てこようと、それはみんな消えてゆく姿。

なんでもかんでも消えてゆく姿であって、あるものは神様と一つに光だけなんです。

神様はいくつにも分かれている。

太陽の光線のように分かれている。

その光線の一つ一つだからね。

光線が独立しているわけではないでしょ。

光線の上を見れば太陽でしょ。

さかのぼって太古の自分を見れば、太陽なんです、神様なんです。

いつも中の自分というものを見ていれば、太陽になってしまう。 神様になってしまうんです。

だからこそ、自分のいろんな業想念というものを、そのまま持って

「神様! 神様!」 と入ってゆくんですよ。

全身の力で入っていたらいいです。

声に出さなくたっていい。 心の中でいつも 「神様と自分は一つなんだ、自分は神様と一つなんだ」 と思えばいい。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


 



  
     
「神様にまかせきる」 五井昌久 白光出版




 

地上天国は成るに決まっている 2


いくら押したって、突いたって、何にもならない。

片方は宇宙大に拡がっちゃっているから、みんな吸収しちゃうわけです。

そして天地一体になって、宇宙一杯に拡がっちゃうわけですから。

宇宙一杯に拡がるというのは、想いがない、ということなんです。

この世は相対的でしょ。

陰陽に分かれて相対的です。

この地球界はその相対がさらに細かい相対に分かれたわけです。

それが元の相対、イザナギ、イザナミの昔に還ると二つだけです。

それをもっと昔に還れば大神様一つになるでしょ。

それと同じように、地球界において要するに絶対者になれるわけです。

それは全部想いをなくしてしまう。

空になってしまう。

神様の中に入れてしまうということです。

植芝先生はそれが出来たんです。

だから相手がかかってきた時に、後ろを向いていたって、どこを向いていたって同じことです。

私がこうやっていて、向こうから誰が来ても 「ああ誰が来た」 とわかります。 後ろも前もありゃしない。

遠くのほうにいるタロベエさんはどんな人か、わかっちゃうでしょう。

アメリカにいる人のことを見るのに、目で見ているわけじゃない。

何も見ていない。 それからあなたの後ろについている人は、こういう人だ、とすぐにわかります。

何故わかるかというと、宇宙全体に拡がるという意味と同じなんです。

時間、空間がなくなってしまう。 それはどういうことかというと、元の世界に還っているということです。

神様の中に入っている。 神道的に言えば天御中主大神の中に入っているわけですね。

大神様の中に入ってしまうわけです。

大神様からいろいろ分かれた神々があります。 神々があって、要するに金星の長老のように、地球界の救済のためにいろんな聖者を送っている元締めがいます。

その元締めと、この地球界で働いている人と差があるか、というとないんです。

差があるようでないんです。

金星の長老と五井先生とには差があるかというと、ないんです。

同じものなんです。

金星の長老と大神様と違うかというと、同じものなのです。 わかりますね。

難しいみたいだけれど、難しくないですよ。

五井先生と斎藤さんと違うか、といったら違わない。

斎藤さんとあなた方が違うかといったら違わない。 全く違わない。 みんな神々なんです。

これが真理なんですよ。

神々というものはそういうものなんです。 私とあなた方と違いやしない。

一つも違わない。 違うのは何かというと、想いだけなんです。

想いが勝手に 「違う」 と思っているんです。

その想いを全部、世界平和の祈りの中へ投げ出してしまえば、同じになってしまいます。

全部、五井先生になっちゃう。 全部、金星の長老になっちゃう。

全部、天之御中主大神になるんです。 それが神道の極意なんです。

それを私が一生懸命説くわけです。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

  
     
 「神様にまかせきる」 五井昌久 白光出版





 

 

地上天国は成るに決まっている 1

  

最近、また五井先生のご著書を書き写しているのですが、私の感覚としては、

「こんなに凄いことを、世の中のほとんどの人が知らないことを、サラッと文章にしている本は他にはない。 これが世の中に広まっていないのはあまりにも勿体ない、自分がこれらの本の存在を伝える役割にあるとしたら喜んでその役割を果たしたい」 なのです。

人間の潜在意識の奥の奥で眠っている真理(宇宙の摂理)をひも解いた本があるのに、多くの人はその本に手を延ばして取ろうとはしない。(大きな本屋さんにも置いてあります)

それは、五井先生のご著書は、神界の波動なので、肉体人間波動には合いにくいからなのです。無限なる愛!

真理が高過ぎて、シンクロ(共鳴)しないのです。

あと数年もすれば、肉体人間の波動(エネルギー)が細かくなって「五井先生ブーム」 がやってくるそうなのですが、今は時期尚々なのです。

では、ブームが来るのを待っていればいいかといえばそうではなく、このブログで真理に慣れ親しんでもらって


本を手に取りやすくなったり、いざ本を読んだときにストンと腑に落ちるように準備が必要なのです。

「こんなにわかりやすく今まで謎に想っていたことを教えてくれる本はないですよ」

「これを読めば、目からウロコ??????あらゆる不安が無くなりますよ」

「自分が何者で何処から来てどこへ行くのかがわかりますよ」

「いのちが永遠であることがわかりますよ」

「死が怖いことではなくなる」

「今までマイナスに思っていたことが実はプラスであったことがわかりますよ」・・・・・・・・・・・・・・・

言いたいことはたくさんあるのだけれど

こうしてみなさんに私が本を読んで特に響いた箇所のダイジェスト版を掲載することで、五井先生や真理に興味を持って頂けたなら幸いです。

今回も凄いことが書かれています。

地球はもうすぐ素晴らしい星に生まれ変わろうとしているのです。(かなり近未来に)

しかし、安倍総理も宗教家も学者も誰も言ってはいません。(マスコミには出ていない)

だからみんなそんなことが起るとは思ってもみないのです。

しかしみなさん夜空に浮かぶ星を見てください。

宇宙(人間も)が進化し続けているのはわかりますよね。

無数にある星の中には、地球よりもずっと進化している星がある。

地球が今、なんらかの節目を迎えていることも感じておられる人も多いと思うのです。(天変地異などで)

自分の目を意識を自分や家族など狭い範疇で向けないでください。

自分や家族の幸せだけではなく、日本や世界が平和になること

そして地球だけではなく宇宙にも目を向けてください。

そうすれば、いろんなことがわかってくるのです。

意識を拡げるだけで、人間は無限大に大きくなれるのです。

そのことがわかる五井先生の文章をご紹介します。


 

 

 地上天国は成るに決まっている 


 

今、世界を見渡しますと、私たちが出てこないで、世界平和の祈りもやらないで、なんにもやらないでこのままいけば、二年ともちません。

この地上世界は武力と武力との争いとなり、あらゆる兵器を使っての戦いとなるでしょう。

平和の祈りもなく、守護霊守護神が働かなくて、そのまま放っておけば大国同士の戦いとなり、終りです。

ところが、一巻の終わりになるようには出来てないんです。

過去世、何べんも何べんも地球界は滅びているのです。

天変地異や戦争で滅びて、今、七劫まで来ているんです。

七というのは完成の意味ですからね。 七劫で完成して、地球が天国になることになっているのです。

これは神さまのみ心では成っているんです。

そのために守護神が働いていて、地球に働きかける訓練を重ねて、今日に至っているんですね。

それで私たちも何べんも何べんも生まれ変わって、神様に楽に使えるような、一番使いやすいような肉体要素を作らされているわけです。

私ばかりじゃないですよ。

いろんな人が何べんも生まれ変わって、肉体要素が霊要素とピタッと合致するように、微妙に働けるように、細かい神様の光と同化するような、そういう想いの人たちが随分出来ているんです。

皆さんも世界平和の祈りを毎日重ねてやっていますと、知らないうちに霊化していって、神様の心がすぐわかる、あるいは知らなくとも神様のみ心の中へ入ってゆくんです。

たとえば自動車が来ても、フッとよけてしまうとか、災いを自然に避けられるような動きになってくるのです。

その一番の達人が植芝盛平先生です。

合気道は宗教の極意です。 先生が言っていることで、いい言葉があるんです。

「私は相手の目を見ない。 なぜなら見ると相手に吸収されてしまうから。 私は相手の身体を見ない。 身体に想いがとらわれるから。 私は相手の剣を見ない。 見るとその中に吸収されてしまうから」 というのです。

では何をしているのかというと

「私は相手を見ない。ただ後ろをむいて立っているだけだ。 相手が私の中にみんな吸収されてしまうんだ」 というんです。

大変な、すごい言葉ですよ。

それを実際にやっているでしょ。 相手がエイッとやっただけで、相手がすっ飛んでしまう。

なんのことはない。 それは何故かというと、自分の中にみんな同化してしまうからです。

敵なんかないんですよ。 自分の中にすべてが入ってしまうんです。 向こうは相手と見てやってくるでしょ。 ところが、こっちは大きくなって宇宙大に拡がってしまうわけなんです。

拡がってしまう、ということは問題にならないというわけでしょ。

けし粒がいくらぶつかってきたって、なんでもないでしょ。

あなたにホコリの小さいのが一つぶつかってきたって、なんでもないでしょ。

ホコリがついて倒れちゃう人はないです。

それと同じことです。

 

       神様にまかせきる」 五井昌久 白光出版



 





 

2013年9月20日 (金)

真理とは? 3



肉体人間として一所懸命やる、ということに肝がきまって努力していて、しかも幽界や霊界がわかってくればいいでしょう。

怠けて頼ろうという気があったらば、幽界を知り霊界を知ることが、かえって災いになるのです。

うまい具合に奇蹟が現われないか、なんかうまいことがないか、なんてばかり求めていると、ちょっと、幽魂の声をきいた。

うまいことおだてられて、いい気持ちになって乗っているうちに、変になってしまう場合があるのです。

何か声が聞こえたり、見えたりする必要はないんだ、そんなことをしなくても、一所懸命肉体の生活をしながら、神さまの中に入っていれば、中から直感的に神の智慧がわいてくるのです。

「ああ神さまと一緒だな」 とか 「自分の運命は大丈夫だ」 ということが自然にわかってくる。

永遠の生命というものを自然に覚得していくようになるわけです。

外から何も感じる必要はない。 中から感じてくればいいのです。

内から湧いてくるというものがある。

智慧や力がわいてくる、という形になってくるのだ一番いいのです。

永遠の生命を得る、ということはやはり自分が感じなければ、話でわかるというものではない。

初めからわかる人は素直です。

それからあとは話でわかるというより、素直ということです。

素直に人の話をきいているとわかってくるんです。

だから相手にわからせるよりも、祈ることです。

わからないということは、真理を業想念が厚く覆っているからなのですから、業想念を払うための世界平和の祈りをして、その人の天命がまっとうするように祈っていると、光が入って行って、自然に業想念がとれます。

そうしますと、向こうでかえって質問して来たり、こちらがなんとかくいったことばすぐわかってくるようになるわけです。

だから、言葉でわからせるということは二の次として、祈りで光を与える。

世界平和の祈りの大光明を与える、流しこんでやるということが永遠の生命を悟らせる第一だと思います。


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「質問なりませんか?」 五井昌久 白光出版




  

 

真理とは? 2

 

それが守護霊守護神の存在がハッキリわかってから、ずっと優しくなった。

「なんだ、自分がやっているのも自分がやっているんじゃなくて、うしろの人(守護霊守護神)がちゃんとやってくれているんだな」 ということがわかったから、自分自分というのがなんだか可笑しくなった。

けれども、只神さまにすがって、自分は何も努力しないで、神さま神さまって神さまにすがっているような人間は愚かなもので、意気地がない者だと思うのです。

やはり自分で努力して、要するに人事をつくすことによって、天命が初めて開く、或いは自分は神の分生命である。

だからこの天命を果さなければこの世を終るわけにはいかないんだ、というように天命を信じてそして一所懸命人事を尽す。

とにかく人事を尽さないことには神のみ心は開かないのです。

神秘力が現われる、或いは奇蹟が現われるということは、ニッチもサッチもいかない、一所懸命やってもどうにもこうにもならない。

絶対絶命だというところまで一所懸命やった時に、パーッと開くのです。

それを安易に苦労もしないでご利益があるというような気持ちだったら、一生ご利益がありません。

何故かというと、この地球の人間として生まれてきている以上は、肉体人間として一所懸命、自分の全力を尽してやることがどんな商売をやってもいいのです。

商売をやろうと芸能をやろうと、何やろうとそこに いのち をかけてやっていることが、やはり尊いことなのです。

“何やろうと” いったって、強盗やスリをやってもいいということではありません。

普通常識でやっていいことは いのち をかけてやってゆくことが大事なのです。

これは当たり前の言葉なのだけれども、宗教をやろうとすると、自分が努力もしないで、只神さま、仏さまとおまいりしたりして、すがってゆく、というようになる。

それなら宗教などないほうがよい。

そうではなくて、自分は一所懸命やっている、しかし弱くてどうにも出来ないとか、何か足りないものがあるなァと足りないものを足して頂こうと、入ってゆく形。

これは本当の神さまに通じていくのです。

自分で精一杯やっても、みんな足りないのです。

肉体人間では何事もなし得ないんだ、けれど一所懸命やっていることが立派なことなのだな、ということがわかると、そこにはじめて神への道が開けるのです。

「ああ肉体人間じゃ何事もなし得ないんだな、神さまがわが内にあって為さしめ給うのだ」 ということなのです。

そこまでくると本当の信仰になるのです。

それを私はすすめているわけなのです。




  

    「質問ありませんか?」 五井昌久 白光出版

 

真理とは? 1




真理とは何か、簡単にいうと、人間の神の分け生命である、しかし想念の世界において生まれかわり死にかわりするけれども、本心は光り輝き自由自在なものなのだ、ということです。

それを信ずれば、信じただけで永遠の生命を覚得したことになるのです。

というけれど、信じることがむずかしい。

“見ずして信ずるは幸なり” という言葉がありますが、私は見ずして信じたほうです。

私は大体、二十何才まで、霊界があるとか幽界があるとか全然思わなかった。

霊媒には随分会いましたが、くだらない感じがするのですね。

暗い変な妖しげな顔をした人が多いのです。

私は知性的であり、直感的なのです。

両方がうまくまざっているのです。

ですから変な霊媒のお婆さんでも馬鹿にしない。

人のいうことは素直にきくのです。

素直にきくけれども信じはしないのです。

大体妖気のただよったようなお婆さんだったから信じなかったのでしょう。

やっぱり人格が高潔で立派な人がいえば信じましょう。

湯川秀樹がいったら本当だろう、小泉信三がいったら本当だろうというようになる。

ですから人格というものが大事なのですね。

いつも明るい正しいあの人がいうのだから本当だろう、という人間にならなければ信じないわけです。

少年から青年期にかけて私が会った人たちというのは、あまり上等でなかったのかもしれないけれど、幽界のことも霊界のことも信じなかった。

そんなことに関係なく、神の存在は子供の頃から信じていた。

宇宙大自然の不可思議なる動きは、何か叡智ある存在が動かしているにきまっている、ということは信ずるとか信じないとかいう言葉でなく、信じていた、思いこんでいたのです。

ここに人間が生きていることは神さまによって生かされている、と思っていたし、神さまから生命を与えられているということを、何んの不思議も、なんの疑問もなく思っていました。

そういうように思っている人は随分います。

けれども反面そう思えない人が随分います。

神を信じているというのにも二通りありますネ。

青年時代の私は、神さまは人類に力を下さり、生命を下さっている。

しかしあとは関係ないんだ、という信じ方。

つまり、神は完全なる理想像であって、神さまから生命が来たことは間違いない、万物は神によって成っていることも間違いないけれども、この人類を、自分自身を立派にするには自分の努力以外にない、と思っていたのです。

自分が一所懸命努力し、自分が一所懸命勉強することによって、神さまみ心をここに現わすことが出来るのであって、神さま神さまとすがっていれば神さまが助けてくれる、なんて私は全然思っていなかった。

だから自分でなんでもかんでも一所懸命にやらなければ、と思って、実行していました。

それだけでは足りないのだけれど、それが非常によかった。

その考え方に加えて、いざとなれば、神さまは絶対に正しいものの味方をして助けてくれるんだということが加わり、法則にのりさえすれば神のみ心そのままを現わすことが出来るんだ、ということが加われば、なおよかったけれど、なかった。

だから、若い時は随分けんかもしました。

自分が正しいと信ずることは、上役であろうがなんだろうが、ぶつかっていって、くびになるのを覚悟でもって、刺し違いするくらいな気持ちでぶつかっていった。

そういう激しいものがありました。






      
「質問なりませんか?」 五井昌久 白光出版



 

 

 

2013年9月17日 (火)

閑居して不善をなす

  

暇を持て余している人は忙しくしている人を羨ましく思い、忙しい人は、時間が欲しくて余裕が無くて、忙し過ぎて時間に追われるようになると心までを亡くしてしまう。

人間ってつくづく勝手でやっかいなものだと思います。

忙しくしている人に暇な時間(余計な時間)を与えるとろくなことを想ったり考えたりしてしまうので、神さまが思考する時間をわざと与えないような環境に置いているのではないか?と思うのです。

ただそれで、忙しくしている人の精神状態(心の中)がよい状態であるかといえばそうでもなく、イライラした状態で仕事をしたり、感情的になった状態で仕事に取り組んでいてもそれは、自分自身にも周りにもいい影響(波動)を与えてはいないのです。

反対に暇な人は、どうしても考えすぎる時間が多すぎるので、周りのマイナスのエネルギーを受けやすくなります。

どちらにしても、心を正常に保つことは難しいと思われます。

間があるというのは、間(魔)が入りやすく、そこで魔が差してしまうのです。

幽界のオバケちゃんの遊び道具にされてしまうのです。

人間は起きているときは、どうしてもマイナスの想念を受けます。(寝ているときは魂が霊界、神界に行っているので大丈夫なのです)

昔の信仰深い人は、なんまいだ、南無阿弥陀仏と日頃から、念仏を唱えて仏(神)と繋がることで間(魔)を入れないようにしていたのです。

そうして自分を正常な精神状態に保ってきたのです。

しかし今は、お葬式のときにしか、唱えたり祈ったりしていません。

ということは、神(本心)から、ずっと離れっ放しになっているのです。

ほんとうの自分(本心)から離れて、違う自分になってしまっている。

その変わってしまった別人の自分の姿をみて

「ああ自分はダメだ、情けない」

と思い込んでしまっている。

世界平和の祈りを祈ったり印を組むのは、自分を正常に保つということなんです。

無限のプラスのエネルギーとつながるということです。

本来の素晴らしい自分に還るということなんです。

やってみなければ何事もわかません。

一度やってみて、スッキリすれば、いかに自分がマイナスをかぶっていたか(受けていたか)がわかるのです。

人間はエネルギーがスッキリしないことには、幸せ感を感じることは絶対にないのです。

それは、人間の本体は、光の波動体(エネルギー体)だからです。


肉体も心も大自然も宇宙も・・・・・・・・・・・・・・・・


すべては波動で出来ている

波動(エネルギー)がすべてのすべてなのです。




印の組み方

 
http://www.byakko.or.jp/4_method/in.html



 




 

  

2013年9月16日 (月)

あなたは自分が好きですか? 愛していますか? 4

 

今のあなたはそんな暗黒の波長に合わせる必要がどこにあるのでしょう。

あなたの心はもうすでに永遠に光輝く無限なる神の波長と一つにつながっているのです。

何も汚され毒され犯されることのない神の座に位しておられるのです。

今更、何を恐れおののいているのでしょう、今更何を迷い何を為さんとするのでしょうか。

今までのあなたの生き方は誤解からきていたのです、錯覚に端を発していたのです。

ですが、今は違います、今は全く前のあなたではない、誤解や錯覚の世界に生きるあなたではありません。

今のあなたは真理の世界に生きぬく人なり、世界平和の祈りを祈りつづける真理の人なり、真理をこの世に運ぶ人なり、真理をこの世に知らしむるべき人なり、今のあなたは誤解や錯覚の世界から完全に脱けきって、未だ真実の世界に真理の世界に生ききれぬ人々のために、真理を伝え歩く光輝く神の子なり。

祈りを知った今のあなたは何も間違ってはいません。

誰からも非難されることはありません。

誰からも足をひっぱられてひきずり落とされることはありません。

皆から尊敬され慕われ賞賛されるだけです。

今のあなたは正しい道、輝かしい道、真実の道、真理の道、神の光輝く道を歩みはじめているのです。

それでも未だ自信のない人たちは、あなたの遺伝子の中に組み込まれているすべての光明思想を、今から一つ一つ自分の生きいている現実世界に引き出してゆくことです。

今のあなたなら必ず出来ます。

何か今願うこと、欲することがあるならば、自分の中に内在しているそのものに語りかけてください。

世界平和の祈りを祈りながら自分の心から欲する願いがこの世に降ろされるまで、自分の中に内在している全知全能なる力を呼び出し、引き出すのです。

まわりから襲いくる否定的な暗黒思想に惑わされず、断固として内在している輝かしいパワー、エネルギーを引きつけ、引き出してゆくのです。

あなたは神の子です、あなたは完全です、あなたはあらゆる才能の持主なのです。

今更何をためらう必要がありましょうか、人のもの、他人のものを引き出すには躊躇(ためらい)があるでしょうが、自分の中にあるものを引きつけ、引き出し、呼び醒ますのに誰に遠慮がいりましょうか。

さあ、しっかりと自分の内面をみつめるのです、自分の心の中を、自分の心の中の秘密の扉を開くのです。

固く閉ざされた扉の中に無限なる可能性が、無限なる力が、無限なるエネルギーが、無限なる才能がぎっしりと存在している自分の中に目を向けるのです。

開かれた後、あなたは永遠の幸せ、永遠の若さ、永遠の健康、永遠の生命が甦ってくるのです。

あなたは自らの手であなたの永遠なる幸せをこの世にしめしてゆくのです。

      「果因説」 西園寺昌美  白光出版


 

 

あなたは自分が好きですか? 尊敬していますか? 3

  

自らを信じ愛そう



ここで結論に入ることにします。

まずあなたにこう問いかけてみたいと思います。

 

あなたは今の自分をいとおしく抱擁することが出来るでしょうか。

あなたは自分を心から尊敬できるでしょうか。

あなたは今の自分を心から信ずることが出来るでしょうか。

あなたは今の自分を心から慈しみ愛することが出来るでしょうか。

あなたは今の自分の性格を素晴らしいと感じておられるでしょうか。

あなたは今の自分に秀れた才能があると思っておられるでしょうか。

あなたは今輝いておられるでしょうか。

あなたは今ポジティブな生き方を貫いておられるでしょうか。



もし今のあなたの答がノーであると思うならば、あなたは自分に対して完全に誤解をしておられる証拠です。

それは本来でない自分を自分と思い込んでいる錯覚です。

「人間は本来、神の分霊であって、業生ではなく、つねに守護霊守護神によって守られているものである。 この世の中のすべての苦悩は、人間の過去世から現在にいたる誤てる想念が、その運命と現われて消えてゆく時に起る姿である」

 と五井先生が 「人間と真実の生き方」 の中で説いていらっしゃるように、人は本来神の子であって業生ではない、これが本来のあなた自身の姿です。

業生の自分、汚れた自分、罪の子の自分は、本来のあなたではありません。

それは人間の過去世から現在に至る誤てる想念が現われては消えてゆく姿です。

今のあなたがこの消えてゆく姿である業生の自分を把えて、それを本当の自分であると思い込んでいるのは錯覚です。

今のあなたがどんなに憎しみに燃えていても、どんなに怒り狂っていても、またどんなに激情に流されても、虚偽の姿をみせていても、それは本来のあなたではないのです。

それをみて本来の自分は、神の子にはほど遠い、汚れた罪深い救われがたい者であると誤解していたならば、あなたはいつまでたっても永遠に幸せを自分のものにすることは出来ません。

自分を責め裁き、自分を軽蔑し、自分を虐げ、自分をごまかし偽りつづけている生き方は間違っています。

それは本来のあなたではない、この世の中全体を覆いつくしている暗黒思想の影なのです。

その波長にあなたの心の波長を合わせてしまったのです。



                                      
つづく

  

        「果因説」 西園寺昌美  白光出版





 





 

 

あなたは自分が好きですか?愛せていますか? 2


  
 誤解と錯覚のために人生を無駄にしていないか
 

ここでモーパッサンの意図としては、女の内に潜んでいる虚栄心とか見栄の醜さ、いやらしさをいやというほど描きたかったのに違いありません。もし彼女がその時貧しい夫から新しい洋服を買ってもらった唯そのことだけに満足し、感謝してさえいれば、こんなにみじめて耐えられないほどの不幸な一生を辿ることはなかった筈です。

だが彼女は新しい服にもう一つ自分をさらに美しく飾りたてる宝石が欲しいと願った、その時から二人の人生は全く予期しない暗い道へと転落していったのです。

モーパッサンは、誰の心の中にも潜む心の弱さと同時に、この虚栄心のもつ破壊力のすごさを表現したのだと、以前の私はそう理解していました。

しかし今の私の感じ方は昔とは少し違ってきています。

私がこの作品で把えたのは、誰しもが簡単に陥ってしまう誤解と錯覚というテーマです。

金持ちの女友達が宝石を彼女の前にとり出し、どれでもよいからあなたの好きなものを持っていってよいといった時、彼女はダイヤモンドの首飾りを手にしました。

その時、彼女の頭の中には、あの金持ちの女友達がまさか偽りの宝石を自分の前に出してくれたのだとは、思いもよらなかったのです。

考えも及ばないのです。

頭から本物であると誤解してしまっていたのです。

本物に違いないと錯覚を起こしてしまっていたのです。

このように事実とは全く違ったように見たり聞いたり、感じたり思い込んだりしてしまうことによって、引き起こされる不幸なことは実にこの世には多いものです。

読者の皆様方も誰しもが一度や二度は誤解や錯覚による過ちを犯してしまったり、感情を害したり害されたりしてしまった経験をお持ちになっているに違いありません。

蜃気楼もまた錯覚の一種です。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

我々はこのようにして我々の尊い一生を、誤解と錯覚のために無駄に送ってしまっているのです。

自分の中にすでに内在している輝かしい全知全能なるものを見ようとせず、蜃気楼のようにそれを、外にはるか遠くのほうに自分の欲するものが存在すると信じ込み、追い求めようとしているのです。

それがそもそもの錯覚なのです。

自分の不幸や苦しみを他のもので癒せるとそう思い込んでいる錯覚。

また神に願いごとをかなえてもらったり、病気を治してもらったり、自分の欲することは何でもきいてもらえると信じ込んでいる錯覚。

また自分の前に起こってくるあらゆる不幸や災難、苦しみや悲しみなどの一切を自分の責任だとは認めずに、すべては他人のせいだと思い込んでいる錯覚です。

またこの世は名声や栄誉、お金や権力が絶対と思い込んでいる誤解、一流校を出なければ一流人でないと思い込んでいる錯覚。

神に仕える人や聖職についている人が清き立派な人と信じきっている誤解。

このようにして例をあげればきりがないほど我々一人一人の心の中に、さまざまな誤解に惑わされ、あらゆる錯覚に陥った生活を、自然とまわりから強いられて生きているのです。

人類全体がここで一気に真理に目覚めない限りこの生き方はさらに、子から孫へ孫から曾孫へと永遠に続いてゆくことでしょう。



           「果因説」 西園寺昌美 白光出版




 

あなたは自分が好きですか?愛していますか? 1


  
ほんとうの自信というものは、どんなことがあっても失うことのないものであり、そしてたとえ今の自分がどんなに情けない自分であっても自分で自分のことをとことん信じ、そして愛せるかだと思うのです。

周りの人は無責任なことを言います。

平気で傷つけるようなことを言います。

それでもってその言葉に責任を持たないのです。

そんな理不尽な、いいかげんな言葉なのにそれを信じて、大切な自分を信じないとはどういうことなのでしょう?

それは自分というものが何者なのかがわかっていないからなのです。

自信を持ってしかるべき、それに値する素晴らしい人間(真理)であると知らないからなのです。

無知というのは罪つくりです。

だれも教えてくれないから知らなくてもいいんだ

では、ありません、これから自分が自信を持って堂々と輝きながら生きてゆくためには、真理を知ることは絶対に必要なのです。

真理を知らなくては、ほんとうの自信は芽生えて来ないのです。

私たちは自分を誤解して間違って生きているのです。

そのことがわかって頂けるためには、順を追って核心(真理)に迫っていく方法がいいと思うのです。

もう前に何回も掲載したモーパッサンの首飾りですが、ここからがスタートです。

よろしくお付き合いください。



 

モーパッサンの首飾り

 

安月給の家庭などに案外垢ぬけした美しい娘さんがいるものだが、彼女もそんな一人だった。

持参金もなければ、遺産の目当てもあるわけではない。

いわんや、金持ちの立派な男性に近づき、理解され、愛され、求婚される、そんな手づるのある筈もなかった。

結局、文部省の小役人と結婚してしまった。

もとより着飾ることなど出来ようもなく、簡単な服装で間に合わせていたものの、内心では、零落(れいらく)でもしたような気がして、自分が可哀想でならなかった。

彼女は自分がどんな贅沢をしても、どんな洗練された生活をしてもいいように生れついているのに、と思うにつけ、いつもいつも寂しくて仕方なかった。

今の自分の住まい、環境、一切が気にいらなかった。

彼女には晴れ着もなければ、装身具もなかった。

実際、何一つ持っていなかったのだ。

そのくせそんなものばかりが好きだった。

自分はそんなものをつけるために生まれついているような気さえしていた。

それ程までに彼女は人に喜ばれたり、羨まれたりしたかったのだ。

人を惹きつけ皆からちやほやされたかったのだ。

ところがある日の夕方、夫は妻を喜ばせるために意気揚々と帰ってきた。

手には大きな角封筒を握っている。

それは大臣官邸で行なわれるパーティの招待状であったのだ。

だが夫の期待に反して、彼女は、喜ぶどころか、さもいまいましいげにその招待状を放り投げ、不平そうに言った。

「これ、あたしにどうしろとおっしゃるの! 私に何を着て行けとおっしゃるの!あたしにはよそ行きがないでしょう。だからそんなおよばれには行けないわ」

夫は、途方にくれ、それでもなお妻が喜ぶことを考え、彼の貯めてあった貯金を全部はたいて新しい洋服を買ってあげたのであった。

ところが、喜んでいた妻が、パーティが近づくにつれて浮かない顔になってきた。

夫は妻にそのわけをきいてみた。

「だって、あたしつらいわ、装身具ひとつないなんて、宝石ひとつないなんて、身につけるものが一つもないなんて、あんまりだわ、考えたってみっともないじゃないの。あたし、いっそそんな宴会なんて行きたくない」

と応えたのであった。

夫はきらびやかな宝石よりも、美しく咲いている本物の花でも差すように言ったが、彼女は聞かなかった。

そこで思案した揚句、彼女のお金持ちの友達から借りることに気がついた。

早速彼女は友達の家へ行き、事情を話した。

友達は、大きな宝石箱を取り出すとそれを彼女のところへ持ってきて、蓋を開け、

「さあ、好きなものを選んで」

と言った。

彼女は見た、まずいくつかの腕輪を、つぎに真珠の首飾りを。 それについで金と宝石をちりばめた見事な細工のヴェネチア製の十字架を。

そして彼女はダイヤをちりばめた首飾りを選んだのであった。

宴会の当日になった。 彼女は大成功だった。

彼女は他の誰よりも美しかった。 上品で、優雅で、愛嬌があり、歓喜に上気していた。

男という男が彼女に眼をつけ名前を尋ね、紹介してもらいたがった。

大臣官房のお歴々も彼女と踊りたがった。

彼女は快楽に酔いしれながら、男たちから受けるお世辞、賞讃、彼女の身うちに目ざめてきた欲情、女心にとってはこの上もなく甘美なこの勝利、こうしたものから生まれた一種の至福につつまれながら、彼女は夢うつつで踊るのだった。

家に帰って、首飾りが失くなっているのに気づき、二人は驚愕した。

彼女が行ったあらゆる所を二人で探しまわったが、とうとう首飾りは見つからなかった。

二人は女友達から借りた首飾りと同じものを見つけ出すため、あらゆる宝石店を探し廻った。

ついに、同じ首飾りがみつかった。 値段は三万六千フランだった。

彼女は手紙を書き、ありったけの品物を担保に入れ、高利貸をはじめあらゆる金融業者と関係を結んだ。

こうしておのれの余生を台なしにし、果ては自分たちの身に襲いかかる暗たんたる生活を思うにつけ、今更ながら空恐ろしい気分になるのであった。

彼女が首飾りを返しに行くと、金持ちの女友達は、

「困りますわ、もっと早く返していただなくては。だって、あたし入用だったかもしれないでしょう」

だが、彼女はその首飾りが替え玉であることに気づかなかった。

二人は住まいも屋根裏に間借りをし、貧乏暮らしの辛さを思い知らされるのであった。

美しかった肌も爪も荒れ放題、長屋のおかみさんみたいな格好で、どこへでも出かけ、そのつど恥ずかしい思いをしても、なるべく値切っては、苦しい財布から一銭でも守ろうとした。

かくしてこのような生活が十年間続いた。

十年目に高利の利息から利に利を積んだ借財まで一切合財返済した。

美しかった彼女はまるでおばあさんみたいに変身してしまった。

貧乏所帯が身について、骨節の強い頑固なおかみさんになっていた。

髪もろくろくとかさず、スカートがゆがんでいようが平気であった。

さて、ある日曜日のこと、彼女がシャンゼリゼを散歩していると、相変わらず若くて美しい子どもづれの金持ちの女友達に出会った。

彼女が声をかけると、昔の美しい面影をまるで失ったその変わりように、友達は初めは真実、彼女とは気づかなかった。

「貴女ずいぶん変わったわね」

それから彼女は、借金も返し終わったことだし、思いきって今までのいきさつを一切友達に話した。

すると友達は、

「貴女は新規にダイヤの首飾りを買ってわたしのとかわりにしたとおっしゃるのね。まあ、どうしましょう、わたしのは模造品(まがいもの)だったのよ、せいぜい五百フランくらいのものだったのよ・・・・」

                  モーパッサン『首飾り』より




 

心を強くする 2

 

お釈迦様と悪口男ぴかぴか(新しい)

あるところに

お釈迦様が多くの人たちから

尊敬される姿を見て

ひがんでいる男がいました。



「どうして

あんな男がみんなの尊敬を集めるのだ。

いまいましい」



男はそう言いながら、

お釈迦様をギャフンと言わせるための

作戦を練っていました。



ある日

その男は

お釈迦様が毎日

同じ道のりを

散歩に出かけていることを知りました。



そこで男は散歩のルートで待ち伏せして

群集の中で口汚くお釈迦さまを

ののしってやることにしました。



「お釈迦の野郎

きっと、おれに悪口を言われたら、

汚い言葉で言い返してくるだろう。

その様子を人々が見たら

あいつの人気なんて

アッという間に崩れるに違いない」



そして、その日が来ました。



男はお釈迦さまの前に立ちはだかって

ひどい言葉を投げかけます。


お釈迦さまは

ただ黙ってその男の言葉を

聞いておられました。



弟子たちは 悔しい気持ちで

「あんなひどいことを言わせて

おいていいのですか?」

とお釈迦さまにたずねました。



それでも、お釈迦さまは一言も言い返すことなく

黙ってその男の悪態を聞いていました。


男は一方的にお釈迦さまの悪口を言い続けて疲れたのか

しばらく後、その場にへたりこんでしまいました。



どんな悪口を言っても

釈迦さまは一言も言い返さないので

なんだか虚しくなってしまったのです。



その様子を見て

お釈迦さまは

静かにその男にたずねました。



「もし他人に贈り物をしようとして、

その相手が受け取らなかった時

その贈り物は一体誰のものだろうか」


こう聞かれた男は、

突っぱねるように言いました。



「そりゃ、言うまでもない。

相手が受け取らなかったら

贈ろうとした者のものだろう。

わかりきったことを聞くな」



男はそう答えてからすぐに

「あっ」

と気づきました。



お釈迦さまは

静かにこう続けられました。


「そうだよ。

今、あなたは私のことをひどくののしった。

でも、私はその罵りを少しも受け取らなかった。

だから、あなたが言ったことはすべて

あなたが受け取ることになるんだよ」






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自分で言った言葉は

回り回って

自分に帰ってくるもの


幸せをつかんだ人に

「おめでとう」と言うと

「おめでとう」と言われるような

幸せがやってくる。



良い言葉を使うと

自分や周りに良い影響を与える。



逆に

悪い言葉を使うと

自分だけではなく周りにまで

悪い影響を与えてしまう。



人の口は

恐ろしく無責任なもので


噂とか陰口を言う人もいれば


図太い神経の持ち主で

目の前にいる相手に向かって

直接ひどいことを言う人もいます。



自分を非難されるようなことを言われたら

たいていの人がダメージを受けます。


傷ついて落ち込んでしまったり

腹が立ってイライラしたり

することも、あるでしょう。



でも、お釈迦さまは違いました。



人前で恥をかかされることを言われても

ちっとも動じません。



その場を立ち去ることもせず

じっと相手の話を聞いているのに

口応えもしません。


それでいて

まったく

傷ついたり怒ったりしないのです。


お釈迦さまは

相手の言葉を耳に入れても

心までは入れず

鏡のように跳ね返しました。



ですから、まったくダメージを受けないのです。



言葉は時として

人の心を傷つけることのできるナイフになります。


しかし

心がナイフより固くて強ければ

痛くもかゆくもないのです。


ひどいことを言う相手を責めても

仕方ありません。



それより

自分のやるべきことをやったり

自分の心を強くする方が

簡単で効果的なのです。





 






 

心を強くする 1



“鏡の法則” というのがあって、自分が不動心で相手の言動に動じなければ、相手の人は自分が放ったエネルギーをそのまま受け取ることになるんだ。

そして、相手に言い返したり、説教をして「そんなことを言ってはいけないよ」と諭すようなことを言わなくてもいいんだ

ということが、わかっているようで、実はハッキリとはわかっていなかったのです。

今の自分はいったい誰が創っているのか?

それは、周りの人が自分に対しての 評価で作られていることがあります。

「おまえはダメな奴だ」

「おまえは仕事が出来ない」

「おまえは暗い、とっつきにくい」

「オレはおまえが嫌いだ」 
無限なる光! shine

言葉で直接言われなくても

そう思われているのではないかという不安でも思い込みでもいつの間にか

自分でダメな自分を作り上げてしまうのです。

相手の毒りんご(マイナスのエネルギー)を受取ってはいけない

自分で勝手に毒りんごをイメージして想像(創造)して、自殺行為(自己嫌悪になる)をしてはいけない

とは思いつつも

心を強くしていくことを怠けているといつの間にか、自分というものは、弱くなっているのです。

自信を持つ、自信を無くす、自信を持つ、自信を亡くす、自信を持とうとする、自信を失いそうになる

みんな、どんな人でも毎日がその繰り返しだと思うのです。


自信満々に生きている人なんていないのです。

強そうに見える人ほど、実は人一倍弱かったりするのです。

肉体人間なんて50歩、100歩です。

「男は優しくなければならない、でも逞しくなければ(強くなければ)生きてはいけない」

というCM(コマーシャル)が昔テレビから流れていましたが(かなり古い!)

優しさと強さのバランスが必要なのです。

そしてほんとに愛深くなろうとしたのなら、強さは絶対に必要不可欠なものだと思うのです。

自分が強ければ、鏡になれるからです。

鏡にならないと相手の人は自分の愚かさに気づかないのです。

自分が強くなって鏡になることが相手の為にもなることがやっとわかったのです。

次の日記でご紹介します。




 




  

2013年9月13日 (金)

今、私たちの前に現われていることとは? 2

 

妙好人因幡の源左の言行


 

妙好人因幡の源左という人は、文字も読めない無学な農民なのですが、その言行は、あたかも名僧智識の如きであったといわれます。

源左が鳥取の紙商竹田屋で金を受取り、これを懐にして山根に帰るさ、いつものごとく

「なんまいだぶなんまんだぶ ようこそようこそ」(ようこそはありがとうございますという意味)

と念仏を称えながら歩いていると、うさんな男に後をつけられた。 彼は出獄したばかりの前科者であったというが、源左が店から金を取ったのを見ていた。

御熊坂の峠にさしかかる頃、いよいよ様子がおかしいのを知って、源左はその男に振り向いて
「おらぁ持っとるむんに、お前にゃあ欲しいものがあって、ついて来よんなはるか。欲しけりゃあげもしようが、まあ如来様のことを話さしてつかんせ」

そう云って連れ立って、法話をしいしい遂に村まで来た。

男は源左の人柄に手の下しようがなかった。

かくも夜になったので源左はその男を自分の家に連れて来た。

早速家内の者に食事を仕度させ、遂にはその晩は泊めてやり、あたり前のようにもてなした。

そうして翌日は弁当をもたせ、幾許(いくばく)かの金をもやり、人目につかぬように朝早く立たせた。 男は源左を拝んだ。━

源左のこれらの逸話を読んでいると、良寛さんやミリエル僧正の姿が、ほうふつとして浮かんでくるようです。 まったく同等の心境のようです。 たいした者だと胸を打たれ、思わず、有難うございますといいたくなってしまいました。
 


                    *

或る日、草を背負って帰ってきた源左は、あやまって川に落ちて血だらけになった。

近くにいた友達が驚いて起してみると、源左は血の出ている片手をかかえ、「ようこそようこそ」 といっている。

友達があまりに不審に思うて、 「おまえだん、傷しとって何が有難いだいのう。」 源左は 「片腕折れても仕方がないに、ようこそようこそ」 と感謝していた。


 
                    *

源左の長男が死に、引き続いて次男が死に、災厄が重なった。 願正寺の住職が 「爺さん、仏のご慈悲に不足が起りはせんかいのう」 と尋ねると、源左は

「有難うござんす、御院家さん、如来さんからのご催促でござんす。之でも往生は出来んか、之でも出来んかと、ご催促でござんすわいなあ。 ようこそようこそなんまいだぶ」

どんなに不幸や災難があっても、自己の宿縁と諦め、私流にいえば、消えてゆく姿として、如来様の慈悲による本心開発のためのものとして感謝しつづけて生きる、この源左さんの心に感涙させられます。

世界平和の祈りの同信にも、この心境に近い人々がでてきていることを私は有難いことに思っています。

    


           「生きている念仏」 五井昌久 白光出版




 

 

今、私たちの前に現われていることとは? 1

 
今、私たちの前に現われていることとは、過去世のことが現われているのです。

夜空に輝いている星は、今光っている星の光ではなく、何万光年も前の光です。

だからその星はもうないのかもしれません(不思議ですね)。

ですから今目の前の出来事は、ほんとうの今ではなく過去の出来事なのです。

今、病気であるのなら、それは過去(過去世)で病気になるような原因をつくっていた。

ある人と人間関係がうまくいっていないのなら、過去世でその人と一悶着(ひともんちゃく)も二悶着もあったのです。

ですから、今すぐになんでもかんでも解決しようとしても、すぐにはどうにもならないことも多いのです。(焦ってはだめです)

これからの未来を善くしようとするためには、今が大切です。

過去の結果が現在、未来の原因が現在、今を大切に、現在が大事。(調和波動気功)

今、自分にとって不都合なことが現われているというのは、過去(過去世)においてその原因を自分が必ずつくっているのです。

しかし、過去世がそっくりそのまま還って来ているのではなく、守護霊、守護神のご加護によって、大難が小難におまけをしてもらっている。

例えば自分が今、理不尽にも、たいした理由もないのにある人に殴られた。

それは過去世においてもっとひどい暴力を振るっていたか、相手を殺していたのかもしれません。

それが、一発殴られただけで済んだ(笑)。

これで過去の因縁生は、消えたんだ、清算できたんだ。(恨みっこなしなんだ)

これからはうまく行くんだ。

そして善いことがあったのなら、これは自分の力ではない、守護霊さん守護神さん(神さま)が善いことを授けてくださったんだ。

と、悪いことが起ったら、これは消えてゆく姿なんだと理解し、善いことも自分の人徳などとは思わず、目に見えないなにか偉大なお方(サムシング・グレート、神さま)に感謝する。

そうすればなにが起っても、感謝の気持ちしか湧いてこないのです。

私は、未だ、完全にはそのような境地には至っておりませんが

真理を理解し、日常生活を真理に照らし合わせていくうちに

「ほんとうにそうだよなぁ ありがたいなぁ」

と思えるようになってきているのです。(これはほんとうに有難いことなのです)

五井先生のご著書の 「生きている念仏」 を読むと益々その想いがつのるのです。

またいくつかの妙好人の人たちの実話をご紹介したいと思います。



  

 

2013年9月12日 (木)

人間の目的とは? 2

  
問  私は二度大学受験に失敗し、三度目に目的の大学に入りました。大学で勉強してゆくうちに、人間の生きる目的がなんであるかということがわからなくなってしまったんです。

それで結局、無我の境地になることが目的だ、ということがわかって来たんですが、そうなると、こんどは、自分が学校で勉強していることが何の為にしているのか、わからなくなって来たんです。どうしたらよろしいでしょうか?

 
 

答  それは無我でもなんでもないんだね。 無我であるならば、自分の環境が学校へ入って学問をする環境にあれば、それをそのままそれを生かして学問してゆくものです。

無我というのは、自分の我が無くなることなんだから、これがどうだ、ああだって考えるうちは無我でもなんでもないわけね。

人間の目的は何かというと、置かれた環境は神さまが置いてくださったんだと信じて、その場で一所懸命やるということが人間の目的です。

それをもっと詳しくいえば、神さまのみ心をお互い二十何億に分かれて、この地上界に花咲かせる、神さまのみ心を現わすために、自分は生まれてきているんです。

神さまのみ心を現わすためには、その場に置かれたら一所懸命、真剣にやらなければだめなのです。

便所掃除の役に当ったとする。

こんなつまらないことっていうけども、やる事柄がつまってつまらなくてもいいんです。

生命を一所懸命に生かす、一所懸命働くというのが、神さまの目的を達成する第一段階なんですね。

それがわからないと、どんな理屈をいってもだめです。

学問の殿堂、大学に入ったら、学校の勉強を一所懸命やる。 商売をしているなら商売を一所懸命やる、家庭の主婦なら主婦の仕事を一所懸命やる。 そうすることが神さまのみ心なんです。

神さまのみ心というのは、観念の意味で頭でもって、あっちこっちと、とやかくするんではなくて、頭も体も一緒です。

一緒に一つのことにぶつかってゆくわけですよ。

ぶつかってゆくのに手の届かないところにぶつかってゆくのではなくて、自分の置かれた環境をそのまま一所懸命やる。 それ以外にないですね。

そうすると、知らない間に、たとえば誰かに会って “君そんなことをしているのか。こっちへいらっしゃい” って引っ張られたり、或いは誰かから “それは駄目だから、こっちにしろ” っていわれ心が動いて、そちらへ行ったり、その場その場で心が動いてゆく。 それでやってゆくわけですね。

置かれた環境がどんなに悪かろうと、又心が動いて行ったところが悪かろうと、そこで一所懸命やるんです。

一所懸命さえやっていれば、必ずその環境を突破して、目的にだんだん近づいてゆくんです。

一所懸命やらないで理屈ばっかりいっている人が、一番愚かですね。

理屈ばかり頭でこねまわしていて、ちっともその与えられた環境で一所懸命にならない人、そんな人ほど愚かなものはない。 神さまはそれを一番嫌います。・・・・・・・・・・・


      「質問ありませんか?」 五井昌久 白光出版

 

人間の目的とは? 1

 
 

目的や目的意識を持つことは大切だけれど、その前に大事なことを忘れてしまっているんですね。

それは、今、与えられている仕事を一生懸命にするということ、それが自分のやりたかった仕事でないにしても、副業で本職ではないにしても、アルバイトであったとしても

与えられた仕事というのは、必ず意味があって、その仕事を懸命にすることによって、次の目的が見つかるようになっているのです。

手を抜くとか、サボるというのは、それらのチャンスをみすみす逃していることになる。

どれだけ才能がある人であっても、いい加減に仕事をしている様子を見たら

スカウト、ヘッドハンティングなどをしようとしている人も

首を傾げると思うのです。

「うちに来ても一生懸命にやってくれるのだろうか?」 ・・・・と

神さまに認められる人は、人からも認められるのです。

神さまに好かれる人は、人にも好かれるのです。



 

今こそ、お釈迦様、キリスト、老子様に学ぼう 2

  

生命の素直な流れを邪魔するもの


 

私がよく、無為にして為す、という老子の教えを説いていますが 「何にも考えないで一体何ができるのですか」 とすぐ反問してくるひとたちがいます。

そこで私は逆に問いかえします。

「あなた方は、いちいち頭で考えて、心臓を動かしたり肺臓を働かしたりするのですか、人間の五臓六腑をはじめ諸器官は、いちいち頭で考えなくとも、その役目のままにその働きをしているではありませんか、頭で考えたり、想いがとまどったりすれば、かえって諸器官の働きを邪魔してしまうではありませんか」

智慧というのもそれと同じことで、頭脳の想念をあれやこれやと動かすことによって、かえって、真実の智慧の出てくるのを妨げてしまうのです。

実際に私のこれまでの宗教的霊的の体験によりますと、人間というものは、この肉体という体の他にいくつもの微妙な体のあることが判るのです。

そして一番深いところにある体というより心といった方がよいところから、神の子本来の智慧能力が常に流れてきているのであります。

それが縦に流れて参っておりますのを、自己の頭脳を駆け巡る意識想念の小さな範囲でしか考えられない肉体我が想念の波を張り巡らしてしまって、縦に流れてくる、神智をさえぎり曇らせてしまうのであります。

日頃なら学んでおります学問知識というものの中には、人類の進化の為になるものもありますが、人類の進化を現在の状態にとどめてしまうようなマイナスの面もあるのです。

それが肉体人間の頭脳では、はっきり区別できないのです。

例えていえば、人間というものは、この肉体というものが自分自身であって、この肉体にまつわる能力を増進させ、肉体の個我を充分に発揮させることによって、意義ある人生が送れるのだ、だからいかなる個人といえど個人個人の考えが大事なのであるから、すべての人が各自の意見を述べあって、この社会構成をしてゆくべきで、特別の人の意見というもので社会をひっぱっていってはいけない、というような、民主主義的な学説があります。

一応もっともなように聞こえますが、よく考えますと、肉体的な個人というものは、殆どの人々が自己の肉体的生活環境を守ろうとして社会生活を営んでおりまして、自己や自己にまつわる損得勘定に一番敏感なのであり、自己の得になっても損になることは望まないわけです。

ですから利害が相反し対立するような場合は、お互いが自分の方の意見を主張し合って、常に対立抗争する形になります。

個人個人の誰でもが自己の損得を基準にした主張をし合うわけですから、どうしても多くの対立抗争を生み出します。

それを地位や権力のある人々が、自己の側にひき入れようと、権謀術策を講じます。

そして、人数の多い側、権力の強い側の主張が通ってゆくわけで、個人個人が自我を主張し合ったようでいて、結果はその主張を入れられない人々が多くでてくるわけです。

  

       「生きている念仏」 五井昌久 白光出版



  

 

今こそ、お釈迦様、キリスト、老子様に学ぼう 1

 
「空になれ」 (お釈迦さま)

「幼子のようになりなさい」 (キリストさま)
 
「無為にしてなせ」 (老子さま)

この3大聖者たちは、言葉は違えど、まったく同じことをおっしゃっていたのです。

余計なことを考えるな!

頭で考えるな!

我をなくせ!

スッキリしろ!

無邪気で陽気になれ!

神(仏、宇宙、サムシング・グレート、大自然)と一体となれ!


大昔からこれらの聖者たちは、口をすっぱくして宇宙と一体となる必要性を説いてきたのですが、一体となる素晴らしさは説いて、人間たちもそうなりたい、そうありたいと思ってはみたものの、自分を取り巻く業想念(マイナスのエネルギー)の凄まじさに、ほとんどの人は呑みこまれてしまったのです。

そしてこれらの教え(宇宙を示す教えを宗教といいます)を横に置いておいて、まずは

「飯だ」

「酒だ女だ(男だ)」

「金だ」

「地位だ名誉だ」

などと自我欲望、感情(勘定)を満足させるものに自分の意識を持っていったのです。

しかし、それがほんとうの幸せでないことは自分が一番よく知っている。

このまま欲望に走ることが幸せに結びつかないことはみんな気づいているのです。

ほんとうに幸せになるとは

物質的なことが整うこと

感情が満足されることではなく

心が自由自在になるということなのです。

そのことを聖者たちは知っていた

だから自由自在になる必要性を説いた

だがしかし、必要性は説いてはみたものの

自由自在になる方法は、難しかったのです。

お坊さんのように坐禅観法しても、悟れる人はごく僅かだった。

幼子のようになれたり、無為になれたのも、ほんの僅かな人だった

だから未だに、多くの人間は不幸(という想念)を背負っているのです。 無限なる幸せ!

だがしかし、日本に五井昌久という人が神我一体になって

易しく、悟れる方法を説いたのです。

それが世界平和の祈りです。

自分の汚れた想念を無限のエネルギー体である宇宙(神界)に投げ入れて、そこから綺麗になった想念エネルギー(究極のプラス)を頂き直すのが祈りです。

今はそれに加えて、印、マンダラというツールもあるのです。

お金も一切かからない(ツールを会得するまではかかりますが)

あえて宗教に入る必要もない

誰かに教えを請うて、弟子になることも必要ない(自分で出来ます)

自分で自分の波動(エネルギー)調整が出来る

そして自由自在心になれる

今が一番、よい時代なんだと私は思うのです。

自由自在心とは

空になること

幼子のようになること

無為になすこと

です。

今私たちは自由自在に生きる時代にいるのです。


この後にご紹介するものは、みなさんを自由自在心に誘うためのツールです。

宇宙天使からの贈り物です。

是非、ご活用ください。

 

「調和波動気功法」 于寿明 三晃書房

「無限なる癒し」 于寿明 星湖舎

「無限次元への誘い」 于寿明 星湖舎

「無限なる幸せを体得する方法」 于寿明 星湖舎

「無限なる勇気」 于寿明 星湖舎




電子書籍もあります。


http://utoshiaki.wook.jp/detail.html?id=207092





調和波動気功法

http://www.harmony-wave.jp/
 


オーラ・オーラ

http://auraaura7.com/
 


健康になる気功教室

http://orientalwind.info/


 


 

想いは重いのです。 2

 

 
問 ・・・・・という題のご法話の中で、先生が 

「この世の不幸や災難はすべて過去世からの各人の想念行為によるのであって、神の子そのものである生命体は少しも苦しんでいないし、不幸でもない。不幸であり、災いをうけているのは、各人の想念(おもい)だけなのである」

と書いていらっしゃいますが、苦しんだり災いをうけたりするのは想念だけである、というのはどういうことでしょうか?

この世のなかの苦しみ、不幸というものは、何が不幸なのか、何が苦しみなのか、というと、肉体にまつわる想念が苦しむのであり、想いが不幸なのです。

いつもいいますが、眠っている時には、どんな病人でもどんなに貧乏な人でも、想いがそこにないから、全然なんでもない。 それでも生きています。

心臓も肺臓も動いているから、寝ているということは死んでいることではありません。

生きているけれども、想いが消されている場合には、なんの苦しみもない、貧乏もない、病気もない、なんの考えも感じもない。

しかし、想いがよみがえると、病気があり、貧乏があり、苦しみがある。

つまり想いが不幸を感じ、想いが病気をし、想いが貧乏を感じるわけです。

想いが勝手につくっているのです。

生命体そのものはそういうことに関係なく肺臓を動かし、心臓を動かし、いろいろな活動をしているわけです。

お釈迦さまはインドのカビラの王子でした。 若い頃いろんな遊びもしたし、楽しみもした。

ところがちっとも楽しくない。 そしてある時病人を見せられ、老人を見せられ、いろんな不幸なことを仙人によって見せられたわけです。

それで、「ああこの世はいやだな、どうしたらこの世の苦しみというもの、老人になって醜い姿をさらす。病人になって醜い姿をさらす、貧しいこと、老いること、病気のこと、死ぬこと、そういう苦しみからのがれることが出来るか」 といって家を出て、修行をするわけです。

そして悟りをひらいたことはどういうことかというと、想いが苦しくなければ苦しくはないんだ、ということがわかったのです。

人間の苦しみは何かというと、想いが苦しんでいるんであって、生命そのものは苦しんでいない。

生命そのものは仏(神)なのだ、生命そのものの流れは仏の姿なんだ。

だから、座禅観法して空になって、その想いから解脱しさえすれば、その人の光輝く人であって、貧乏でも苦しくない、病気でも苦しくない、ということを悟ったわけです。

お釈迦さまはそこで座禅観法、今いう祈りを教えたのです。

そしてなかの仏を出せ、想いが邪魔するのだから、想いをすべてなくし、消してしまって空になればいいんだ、と終始一貫 “空” を説いたのです。

そして、どうしてその想いというものは、そのような境遇になり、いやな想いとして現われてくるのかというと、過去世の因縁がめぐってきて、今の苦しみになり、今の不幸になり、幸せにもなり、いろいろの境遇にもなるわけですけれども、それはあくまでも業生の世界のことであって、どんなに幸せそうに見えても、どんなに不幸そうに見えても、それは実際にあるものではないのだ、過去世の想いの波が伝わって来ているのだ、(お釈迦さまは消えてゆく姿とはいわないが)

だから、その想いにさえ把われなければ、人類は不幸ではないのだ、ということなのです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


 


   「質問ありませんか?」 五井昌久 白光出版




 

 

想いは重いのです。 1

 

私が好きな言葉で五井先生の

「悟るって難しいことじゃない、余計なことを想わなければいいんだ」

というのがあるのですが

私たちは、四六時中起きている間ずっと余計なことばかりを考えつづけているのです。

相手が自分のことをどう想っているのか?だとか

もっとお金が欲しいなぁ

モテたいなぁ

綺麗になりたい

痩せたい

美味しいものが食べたい

あいつが腹が立つ

ああ、お腹が空いた

なにか面白いことはないかなぁ

このCMに出ている子かわいいな

どれもこれも自分の感情を満足させることばかり

そしてどうにもならないことやどうでもいいことばかり

そして挙句の果ては、マイナスを掴んで悩んだり迷ったり、落ち込んだりしている。

もし、これらのことを何~にも想わなかったらどれだけ楽に、爽やかに生きることができるでしょう。

なんでこんなに余計なことばかり脳裡に浮かんでくるんだろう?

それは、今生での過去や過去世から潜在意識に溜まったものが押し出されて出て来たものもあれば、集合意識もある、縁のある人の想念が移ってくるものもあれば

幽体(幽体は肉体にくっついていてビル一棟分くらいの大きさがある、幽体をオーラともいう)にひっかかってきた身近な他人の想念もある。

だから脳裡にはありとあらゆる想いが交錯しているのです。

一方、本当の自分は神界にあるのですが、そこからの本心のメッセージも届くのですが、頭がごちゃごちゃしていては、その本心も届いては来ないのです。

本当の自分、本心の自分は完璧で、神そのものであり、とてつもなく素晴らしいのにそれを邪魔しているのが、これらの想念なのです。

人間は、想念に振り回されているうちは、絶対に幸せにはなれないのです。

私には、ある時期にW先生というメンター(人生の師匠)がいてくださっていたのですが、そのW先生は、私が余計なことを想い、言うたびに


「あなたはああだ、こうだが多すぎます」

「それはどうでもいいことです。想いは重いのです。想わない努力をしなさい」

そして

「もっとスッキリしなさい!」

とおっしゃっておられました。

その意味が今はとてもよくわかるのです。

「悟るって難しいことじゃない、余計なことを想わなければいいんだ」

の悟るってことはどういうことなのか?

悟るというのは、本心と肉体の吾(我)が一体となって

神我一体になるということです。

ほんとうの素晴らしい自分が肉体に降りて来る

ほんとうの自分とは、余計なことを考えたりしないのです。

マイナスを掴むことは一切無いのです。

マイナスを掴まなければ不幸はないのです。

病気も、死も、貧乏も、倒産も、痛みも、妬みも嫉妬も、苦しみも悲しみも(生老病死)・・・・・・

幸せになるためには、想いを放さなければならない

想いを放して、自由自在心になるために

世界平和の祈りを祈るのです。

祈りしか、自由自在心になることはできないのです。

人間が幸せになるために

「世界平和の祈り」 が生まれたのです。
 
 

世界人類が平和でありますように

日本が平和でありますように

私たちの天命がまっとうされますように

守護霊様ありがとうございます

守護神様ありがとうございます




 

 

2013年9月11日 (水)

調和波動気功法セミナーのお知らせ

  

久しぶりに調和波動気功法のセミナーのご案内を致します。

最近私は、波動(エネルギー)のことをブログに書くことが多いのですが、私が毎月参加している調和波動気功のセミナーはほんとに波動が素晴らしいのです。

それは、参加される調和波動を学んでいる人(ハーモニーといいます)が常に祈ったり印を組んだりしているので、自らの波動調整を行なっているからなのです。

私は毎月、この会(他にも水の会、森の会、ムーンリバー・スター、ゴールデンドアがあります)に参加しているのですが、心身共にリフレッシュ出来ます。

みなさん、是非、今回の健・美・食の会に参加されて、調和波動の素晴らしさを体得し、そして私(グッドムーン)に会いに来てください(笑)。



      健・美・食の会

       

日   時:2013年9月22日(日)  12:00~16:00
         
会   食:             12:00~13:30
講 演 会:            14:00~16:00

場   所: 
中国料理大成閣 (大阪 市中央区東心斎橋)
       06-6271-5238


会費:8,000円 (中学生以上)
    4,000円 (小学生4~6年生)


参加ご希望の方は、私グッドムーン(本名篠崎 朗)までご連絡ください。

携帯 080-1444-0018




 
調和波動気功法   http://www.harmony-wave.jp/


 



  

死について

 


今、みんなが知りたいことは、死について、死後の世界について詳しくわかりたいと思っていると思うのです。

自分がどこから来て、どこへ行こうとしているのか?

その根本のこと(原理原則)、肝心なことがわかっていないから、なんとなく生きてしまっているのです。

自分を誤魔化しながら、人をだましながら

「自分の知る世の中なんてこんなもんさ」 と、な~んにもわかっていないのに、一端にわかったつもりでいる。

そして積極的にわかろうとする人も少ない。 無限なる可能性!

だから、進化した宇宙人(天使)たちに

「幼い兄弟たち」 と評されているのです。(バカにされているのではありません精神的に幼いという意味)

宇宙全体のことがわかると肉体人間の死がどれだけ部分的なものか、取るに足らないものであるのかがわかるのです。(おおげさに悲しむものではないということです)

ミクロの世界(肉体界)を生きるには、マクロ(宇宙)が観えなければ、知らなければ、うまく生きてはいけないのです。

この世でもあの世でも安心立命して、不動心では生きられないのです。

今、私たちは死を、宇宙を、そして真理を正しく知る時期に来ていると思うのです。




個人が病気になって死ぬとか、自動車に轢かれて死ぬとかいう場合と、戦争の犠牲になって死んでゆく場合、或いは集団で災害にあって死んでゆく場合とか国家の犠牲になって死んでゆくような場合とがありますが、どういう違いがありますか?
 

個人で死ぬ場合には、個人の波だけで死ぬんですけれど、国家的、集団的な、たとえば大地震にあって死んだとか、戦争で死んだとかありますね。

たとえば長崎に原爆が落ちて皆死んだというのは、個人の業を含めて、国の業を消してゆくわけなんです。

そうすると罪一等を減じられて、業がズッと減って、たとえば個人で死んだら下の段階に行くのが、上にゆくんですよ。 そういうことになっている。

守護霊がそういうふうにしたほうがいい、と思うと、守護霊がそこに集める。

長崎で原爆にやられなくても、個人的にその人が死ぬ運命にあるわけネ。

病気なら病気で死ぬ運命にあるんです。

だけど同じ死ぬなら、罪一等を減じられたほうがいいと、そこに集められて、個人の業と国家の業を一緒にして消してゆくのです。

だから国のために死んだとか、国の犠牲になって死んだとかいうのは、個人的に死ぬよりは、ズッと霊界の地位はよくなるんです。 そういうもんなんですよ。

特攻隊の人が死んでゆくでしょう。 あれなんか本当に国に捧げています。

中には嫌だなァと思っていった人もあります。

そうするとその人は神界にはいかないんです。 いっぺんそういう想いの世界にゆくけれど、やはり国家のために死んだから、しばらく幽界で浄められてゆくと、パッと上にあがります。

だから死に方にも二段階も三段階もあります。

亡くなる時には、ゆうゆうと神さまに感謝して、世界平和の祈りを祈りながら亡くなれば、その人は悪い所には絶対いかないですよ。

世界平和の祈りはこの世に生きていて役に立つし、死んでからも役に立つんです。

それは何かというと、世界人類という、大きな絶対界と同じようなものでしょ、地球としては絶対界と同じような想いで死んでゆくんだから。

「コトバは即ち神なりき」 というのは、想いもそうなんですよ。

ことばというのは想いなんですから、光がことばで、光から想いになって、想いが言葉になるんです。

想いは言葉なんです。 話す言葉もことばです。

だから姦淫しようと思えば姦淫したと同じだ、とイエスがいいますね。

思ったことはみんな現われてくるんです。

ことばは即ち創造主なんだね。 そこで悪い想いをした時には、その想いはすぐ世界平和の祈りの中に入れて消してしまいなさい。

消えてゆく姿だなァと思って、祈りにかえてしまいなさい、と私はいうわけです。

悪いものをしなまま認めていますと、潜在意識に入って現われてくる。

だからあのヤロウ、嫌な奴だな、やっつけてやろうかな、と思った時に、そのまま思ったままでいると、いつかやっつけることになるんですよ。

その時やっつけなくても、どこかでやっつける。 そうすると自分がやられるわけ。

思った時には、これはいけないな、消えてゆく姿だな、世界人類が平和でありますように、その人の天命がまっとうされますように、とやると消えちゃって、あべこべに光が入ってくる。

いつでも私たちの教えは、煩悩即菩提といって、悪い想いが出た時にすぐに光にかえる祈りをするわけね。

それを年中やっていれば、いつの間にか自分が光一元になってくるから、いいことをやろうとか、やるまいではなくて、自然にいいことをするようになっちゃうんですよ。

だから、世界平和の祈りを一度でもやって、こういう会に入ってやる習慣がついていることは、皆さんもう大変な得なんですよ。

こんなに易しくて、すぐ心が明るくなるような教えというのは、他にないんですよ。

みないじめられるんですよ。 お前の心を直して出直せ、ということになるでしょう。

大概そうなるわけ。

出直したんでは間に合わないから、出直さないでやらせようというのが私の教え。







        「質問ありませんか?」 五井昌久 白光出版




 

 


宇宙法則に乗る

 

 私たち人間は自分の想いというものを自分ではうまくコントロールできないのです。(ある程度は出来る人はいますが)

こんなこと想いたくもないのに、想ってはいけない、想ってはダメなんだと思えば思うほど、頭の中を走馬灯のように想いが駆け巡る。

いっそ頭なんて無くなってしまえばいいのに、とさえ思ってしまう。

このように想いというのは自分ではどうしようもないのです。

「スッキリしたい」

「あの青空のように澄み切った何もない心になりたい」

と誰でもが思うのです。

ではどうしたら想いを消してスッキリすることができるのか?

祈りとはそのためにあったのです。

世界平和の祈りとは、スッキリ爽やかになるためにするのです。

世界平和の祈りを祈るのは宇宙法則に乗るということだったのです。

私たちは、日本人、地球人である前に宇宙人であったことを忘れています。

無限にある星の中には地球よりもずっと遅れた(精神的にも文明的にも)星があります。

その星の人たちにとって、地球人は、進化した星の宇宙人なのです。

宇宙の法則には乗り切ってはいないけど(笑)、あこがれの宇宙人には間違いないのです。

自分が宇宙人であると自覚すれば、自分がどうすれば宇宙の法則に乗れるのかがわかるのです。

宇宙法則に乗る大切さもわかります。

いまこそ、私たちは宇宙(神)と共鳴して、苦しみや悲しみ(喜怒哀楽)を超えて感情を超えて、本来の自分に戻る時期に来ているのです。


幸せになるとは、宇宙の法則に乗ることだったのです。

 

 

問 宇宙法則というのはどういうことでしょうか。
 

宇宙法則というのは根本は大調和ということです。 調和にむかって進むことは宇宙法則にのったことです。

怒りの心でぶつかってゆく、相手を恨む、相手を憎む、或いは嫉妬する。

そういうのは自分がいかに正しくても宇宙法則に外れているのです。

自分が正しいことをしている、相手が悪いことをしている。 だからあいつは憎らしい、あんなやつはこの世にいる必要はない、殺してしまえばいい、と思ったら、その人の行いは正しくても、その想いは正しくない。 宇宙法則に外れている。

いかに自分が正しい立場にあっても、怒りを発して想いを乱したら、自分の心が乱れます。

自分の心を乱すということは、宇宙法則に外れたことなのです。

宇宙法則にのるということは、いつも心がスッキリと青空のように晴れやかであるということです。

自分の心も、人に与える波動、いわゆる雰囲気も調和しているということが大事なのです。

口ではいうけれど、なかなかいつもそういうようになりませんね。

そこで、自分が正しいのに、相手が悪いのだ、このヤロウがいるからこの世の中は悪いのだ、あんなヤツは死んじまえばいい、とたまたま思います。

思った場合に “しかし、これは消えてゆく姿なんだ” と思って、世界平和の祈りに切りかえるわけです。

世界平和の祈りをすると、どんな人でも宇宙法則にのることになるんです。

どうして宇宙法則にのるかというと、世界が平和になることは神さまのみ心だから。

神さまのみ心がそのまま宇宙法則なんです。

ですから、世界人類が平和でありますように、と思えば、自分の中の消えてゆく姿の想いが起っても、それは神さまのみ心の中で、大光明の中で消されてゆくわけです。

自分の中にいろんな想いが起ります。

想いを起すまいと思ったら、かえって苦しくなってしまいます。

ところが普通の宗教では、悪いことを思ってはいけない、怒りの想いを出してはいけない、妬みの想いを出してはいけない、ずるい心を起してはいけない、臆病な想いを出してはいけない、というわけです。

いけない、いけないばかりで、どうしたらいいかわからないのです。

そこで私は、どういうかというと、地球界にいる人では、怒りも出るでしょうし、妬みも出るでしょうし、怖れも出るでしょうし、いろいろな業想念が出るにきまっている。

出てくるのがいけないのではなくて、いけないのは初めからわかっているのだから、いけない想いを神さまのみ心の中で消してもらう。

み心の中で消してもらうにはどうしたらいいかというと、世界平和の祈りをなさい、といって、消えてゆく姿で、世界平和の祈りにしてしまうわけです。

あんまり、これじゃいけないこれじゃいけないと想うと、自分がせまくなって縮こまってしまいます。

もちろん、間違ったことも思うのだから、これはいけないと思ったら、いけないと思うのが正しいのであって、いけないと思ったら、それを世界平和の祈りの中に入れて、そして神さまに消して頂く。

そうするといつもいつも宇宙法則にのっているわけです。



   

       「質問ありませんか?」 五井昌久 白光出版



 



 

 

何でもいいから小さな喜びや楽しみを見つける

  

同じことが起こっても、それに対して、喜びを感じる人となにも感じない人がいます。

自分中心に生きていて、我が強くて、ちょっとやそっとのことでは、驚かず、人からは冷静に見えるけど、不満要素の多い人(マイナス思考の人)は、自分から幸せを遠ざけているのです。

極貧の生活を味わった人は、10円を拾っただけで幸せを感じるかもしれない。

九死に一生を得た人は、生きていることの有り難さを実感するでしょう。

病気を長く患った人は、健康の有り難さが身に沁みます。

いじめの中で育った人は、人に優しくされると涙が出ます。

人は不調和な状態(不幸?)になるとになると、調和した状態、愛のある状態がどれほど有難いかに気が付くのです。

だったら、人は感動するためには、常に不調和な状態がなければ感じられないのかというとそれは違うのです。

調和した、満たされた、整った、何の変哲もない、普通の、当たり前の、いつも通りの・・・・そんな状態であってもそれにどっぷりと浸かるのではなく、気持ちが怠惰になってしまうのではなく、自分で自分に感動するように自分を持っていくのです。

つまり、感動を習慣化してしまう

意図的にそんなことをするのは、おかしいのかもしれません。

自然体でないのかもしれません。

しかし、心を野放図にしておくと、無防備にしていると

自分の周りに渦巻いているマイナスのエネルギーに巻き込まれてしまうのです。

周りのエネルギーは、マイナスのエネルギーが強いのです。

それはみんなが不満を持って不安な気持ちで

「お金が欲しい」

「健康になりたい」

「人から羨ましがられたい」

「人から褒めて欲しい」

「認めて欲しい」

「美味しいものを食べたい」

「なにかいいことないかな?」

「あいつが羨ましい、それに比べて自分は」

・・・・・・・・・・・と想っているからです。

不満分子が充満しているので、プラスのエネルギーと共鳴しにくくなっているのです。

反対にすぐにマイナス分子と共鳴してしまうのです。

そして

「自分は不幸なんだ」

「自分はダメなんだ」

「自分は満たされていないんだ」

と想ってしまうのです。

想いとは相手の思いであり

本心とはかけ離れた業想念なのです。

そうなると、益々幸せは遠ざかってしまう

すぐそこに幸せはあるのに

生かされていることが幸せなのに

必要なものは与えられているのに

生きていくための要素(空気、水、自然・・・)は充分に整っているのに(足るを知る)

満たされていることに感謝せず、満たされていないものを見つけているから

不幸なのです。

不感症になってしまうのです。

幸、不幸は自分のくせで決まるのです。

日頃の習慣で決まるのです。

感謝するくせ、小さなことに喜びや楽しみを見出すことを意識的にしていると、心に科学反応がたくさん起きるのです。

「ああ、ありがたい」

「なんて自分は幸せなんだろう」

「嬉しい!」

「楽しい!」

「ありがとう!」

このようなプラスの言葉が自然と心の中から溢れ出してくるのです。

私はこれが幸せなのだと思うのです。

心の中を常に感謝で一杯、感動(喜び、楽しみ)にすぐに反応するような状態にしておくことが、心のメンテナンスなのです。

それには努力も必要です。

それは自分だけの自己満足ではほんとうの幸せ感は得られないからです。

たとえば、飼っている犬を散歩に連れていく

犬は散歩が大好きであなたが玄関に来るのをずっと待っているとする

あなたは面倒臭いけど、疲れているけど、行く気になれないけど

愛犬が喜ぶのならと重い体を持ちあげて散歩に出掛ける

愛犬は嬉しさで光輝き、プラスのエネルギーを振りまくことになる

犬に対してではなく、人間に対しても相手が喜んでくれることをするのは

地球に宇宙に、絶大な貢献をすることになるのです。

そしてそのエネルギーは自分に還ってくることになります。

プラスのエネルギーは与えないと還っては来ないのです。

そして小さな喜びや楽しみを見つけることを続けていると

やがて大きな喜びや楽しみにつながっていくのです。

小さな喜びや楽しみは私たちの周りに溢れています。

あなたの愛を待っている人がいます。

ちょっとした心遣いがマイナスをプラスに変えるのです。

小さい秋 小さい秋みーつけた♪

ではないけど

小さい喜び、小さい楽しみ見つけてみませんか?


 

2013年9月10日 (火)

私たちは何のために生きているのか? 2


  

霊力と霊能力の違いを教えてください。
 

霊力と霊能力とを間違える人がいますが、人の心がわかったり、当てものをしたり、運命の予言をしたりするのを、霊力と解釈していますけれど、それは霊能力なのです。

一つの能力なのです。

霊能力がすぐれている人が人格が高いかというと、そうではないのです。

ところが霊力のすぐれた人は人格が高いのです。

霊力というのはいいかえれば、霊の光、根源の光です。

神のみ心の光が強い人がやっぱり人格が高いのです。

たとえあてものをしたりすることがうまくたって、それが偉いということにはならない。

そんじょそこらの行者はみんな当てものがうまいですよ。

財布の中にいくら持っているか、なんてチャンとわかるんです。

なぜわかるかというと、肉体波動のそばにいる幽界の生物が、幽界と肉体界と波動が近いから、透して見えるのです。

ところがズーッと高い所にいる神さまは、わざわざそんな低い所を見ない。

その人がいかに生きるべきか、どうしたらその人を立派に出来るかということを見るわけです。

わざわざ降りれば見えますよ。 けれどそんなことは必要ないから、高い所からその人に光を当ててやる。

そしてその人に力をつけてやる。

ところが低級の霊能者というのは、力をつけてあげるのではなく、その人に出来ないことをチョコチョコと教えて、相手を屈服させて、自分の支配下におく、子分にしているのです。

霊力が強くて、霊能力の素晴らしい人もあります。

霊力が強くても当てものなどわからない人もあります。

ですからこういうことがいえるのです。

信者が一杯いる教祖があながち偉いとはいえない。

普通の人でいい影響を社会的に或いは周囲に与えている人がいます。

その人は霊力があるわけです。

霊力というのは要するに人格の立派なということで、そういう人が偉いのです。

いくら当てものがうまく、これをこうやれば儲かるといって当って儲かったとしても、それを教えた人は神さまでもなんでもない、偉いのでもない。

勿論そういう当てもののようなことも出来て偉い人があります。

祈りつづけていて、霊能力が出て、人の心がわかったり、予感、予知力が出来たりする人があるとします。

そうした神秘力が得られたといって、いばってしまってはだめなのです。

そういうことではない。

人間の立派さというのは何かというと、人格が立派になることなのです。

いつもいいますが、おのずから和んでくる。 おのずから人の心が優しくなってくる。 その人と一緒にいると、おのずから勇気が湧いてくる。 何か親しい懐かしい気持ちが出てくる。

そういう力を持つことが霊力が強いということなのです。

人に与える好影響が強ければ強い程、霊力が強いんです。

「お前の息子さん、三年先に大病するよ、気をつけろ」 といわれて、二年たった、あと一年だ、どうしようどうしようと私に聞きにくる人が随分います。

これはいい影響を与えていません。

三年間脅しつづけたんだから、悪い影響しか与えません。

わかっていたって、いわないで知らん顔をしていて、しらないうちに霊力で光を与えていて、だんだんその大病なるものを大病でなくなるようにやっておいて、やがて現われた時に救ってあげる、というほうがいちいち予言をして、威かして自分の力を示そうなんていう人より、ずっと立派ですね。

“神と人間” には簡単に書いてありますけれど、よくわかるように書いてあります。

皆さんは霊能力のある人よりも、霊力の立派な人格のすぐれた人になることです。

人格がすぐれていると同時に、霊能力があればそれに越したことはないのです。

それを間違えてはいけない。

だから霊能力だけを磨こうとして、統一などをしてはいけない。

人格を立派にするために祈るわけです。

人格が立派というのはどういうことかというと、愛が深いこと、調和した人間であること、勇気があること、簡単にいったらそういうことです。

そうなるように全力をもって近づかなければいけませんね。

 

        「質問ありませんか?」 五井昌久 白光出版




  
 

 

私たちは何のために生きているのか? 1

  

すいません、最近毎日のように日記を書く習慣が付いていたのに、ここ2、3日は書けずにいました。

毎日覗きに来てくださった方、本当にすいません。

今日からまた、書いていくように致します。

ところでタイトルの “私たちは何のために生きているのか?” ですが、3次元的に言えば

お金持ちになるため

いい暮らしが出来るようになるため(そのために勉強をしていい学校に入る)

地位と名誉を得て、人から尊敬されるため

これらのことが幸せであり、これらから外れると落ちこぼれと云われた時代もあったのです。(今もそれを固く信じてる人がいます)

しかしいくら3次元的に目に見える世界で成功したとしても、肉体界以外の世界(神秘的な世界)がわかったり、物事を深く知り、そこから溢れ出る感動を味わえなければ、それは魂(心)が決して満足しないのです。

それは、魂(心)が主で、肉体が従だからです。

肉体をいくら主にしようとしても、肉体は心に纏っているものだから、どれだけ上辺の肉体や感情を満足させても、むなしさだけが残るのです。

本当の感動とは、感情(五感、肉体)を超えたところにあるのです。

ですから、人間の真の幸せとは、どれだけ感動を得たか? たくさんの感動を体験をしたか? 魂の琴線に触れることが出来たか? によると思うのです。

私もほぼ毎日、日記を書いていますが、何の感動もなしに人に訴える文章などは書けないのです。

感動があって、始めて日記も書けるし、“生きている” という実感が湧いてくるのです。

そして、何のために生きているか? ですが、私は自分が立派(人格が)になるために

自分が成長するために生きていると思っています。

そして、人間とは霊そのものなのです。

霊とは神様のことです。

人間とは霊が先にあって、そこに肉体(物質波動)という器を纏っているのです。

だから霊的になるとは、本来の自分(神)に近づいて行くということ

霊力なども、人間には元々備わったものだったのです。

霊的になるとは、魂が神に近づくということ

神に近づくとは人格が立派になって、神格になるということです。

霊的になることと、人格が立派になり、愛深くなることはイコールなのです。

これから人間はどんどん霊化していきます。

たくさんの人に思わぬ霊力が顕われてきます。(祈っている人の中から)

そして、地球は新しい星に生まれ変わるのです。(仏教でいうところの七劫)

地球が完成するのです。

次の日記でそのことをわかりやすく書かれた文章をご紹介します。

よろしくお付き合いください。

 

2013年9月 6日 (金)

霊的なパワーなどに興味を持っては危険です!

  

パワースポットの場所に行って、そこでジンジンに感じた。

身体が震えた、感動して涙が溢れてきた、神様の声が聞えた・・・・・

これらはすべてにせものなのです。

神界から来ているものではないのです。

本心から来ているものとは違うのです。

ほんものはそんなに簡単にわかるものではないのです。

どういうことかと申しますと

人間は、肉体というボディ(体)の他に幽体、霊体、神体を纏っています。

そして肉体界にも幽界にも霊界、神界にも同時に住んでいるのです。

だけれど、肉体しか目には見えないのでその他の体、世界はないと思っているのです。

そして肉体と幽体はくっついていて常に幽界の影響を強く受けています。

幽界は潜在意識の世界でもあり、迷った霊たちが浄まった世界である霊界や神界に行けずにさ迷っている世界でもあるのです。

この幽界の霊魂たちが肉体界の人間たちに悪さをするのです。

自分たちには、器(体)がないので肉体界の人間の体に乗り移って(憑依して)その人間をコントロールしようとしている。

だから感じるのは幽体であり、幽界がうつって来てるのです。

幽界のおばけちゃんの仕業なのです。

肉体界→幽界→霊界→神界(本心)

霊界や神界(本ものの世界)は、波動(エネルギー)が細かいので肉体人間には感じないのです。

本当の自分がいる神界は幽界からずっと奥の感じない世界にあるのです。

ですからほとんどの人がパワースポットなどに行ってまたは、霊的なもの(石やアクセサリーの類い)に触って感じるものなどは全部違うのです。

五感に感じるものはすべて幽体、幽界です。(だから目に見えるUFOもすべて幽界のおばけのいたずらです)

ほんものはずっと奥にあります。(ほんもののUFOは宇宙意識まで行った人でないと見えません、肉眼ではないのです)

だから、まともな人、常識的な人は

「パワースポットに行って来た」

「霊的なパワーを感じた」

「あそこには、神様が住んでいる」

といった類いの言葉にはすごい違和感を感じているのです。

幽界のおばけちゃんの気配を感じているのです。(言っている本人は真剣ですが)

それは、聞いた人が幽界の重苦しい、嫌な雰囲気のエネルギーを受けるからです。

全然爽やかな感じを受けていないのです。

だから変な奴と思われています。(人は人を雰囲気で判断するのです、これはかなり正しいのです)

中にはほんとに波動(エネルギー)が善くて、浄まったところもあります。

しかし、感じるのではないのです。

わかるのです。

感じるのは五感です。

わかるのは、本心です。

わかるのは、感じることではないのです。

本物とにせもの(幽界)を区別することを審神(さにわ)というのですが

これが出来る人は、ほとんどいません。(悟った人だけです)

だから面白半分で、パワースポットなどに行ってはいけないのです。

パワーのある石などに関わってはいけないのです。

オバケちゃんの餌食になって面白いように遊ばれるだけです。

憑依されると取り返しのつかないことにもなりかねません。

まともな人(普通の人)から敬遠されるだけです。

霊的なパワーなんて持とうとするのが間違っているのです。
 

霊的なことに興味のある人は是非読んでみてください。
 


 

誤った霊能


 

真の霊能と魔境的、迷い心の幻覚、幻聴とは違います。

魔境とは、まず最初に自己の力を誇示したいとか、自己の都合のよいようにその力をつかいたいとかいう想念でなった霊眼、霊聴、霊言のすべてをいいます。

そうした想念が魔境的想念なのでありますから、そうした想念、統一でなった霊能は、全部一度打ち消してもとの普通人に還らなければいけません。

それは例えば霊眼に仏菩薩の姿がみえ、霊聴に神と称しキリストと名のってきこえてきても、これはダメなのです。

何故かというと、自己利益的欲望では、絶対に神仏の真の力をいただく境地にはなれないからです。

魂の開発向上には少しも役に立たぬばかりか、ついに自己の身を滅ぼし、他人の魂を傷つけ、ゆがめてしまうようにもなるのです。


           「日々の祈り」 五井昌久 白光出版




 

 

 

私にとって神様はサムシング・グレートなのです。

私はこのブログ(日記)に、神様はもちろん、守護霊、守護神、祈り、宗教、宇宙、幽界、霊界、神界、因縁、過去世、前世などそれこそ、宗教臭いことをバンバン書いています(笑)。

それはもう、私のことを他の人がどう思ってもらってもいいという覚悟があるからなのですが(友人も何人かは読んでいると思います)、

私にとって、「グッドムーンは変な奴」 と思われるよりも、私の本心が感じる(命ずる)ままを書くことのほうがずっと自分に正直に生きることになるからです。

今は、まだ神様に対して抵抗が大きいがいつかはきっと通じる日がやってくる。

そして99人の人が、神様のことを書いたことに対して違和感を覚えたとしても、たった一人でも共感し、感動しそれをきっかけに世界平和の祈りを祈ってくださるようになるのならそれに勝る喜びはないのです。

私の場合は、神様という言葉? 言い方?については、全く抵抗も違和感もなかったのですが、わかってもらえる方法を考えてもいいと思っています。

何故、人は神を嫌うのか?

いや、「神様」 と言っている人を嫌うのか?(こちらの方が正解かもしれません)

それは神様というのは、一体なんなのか? 漠然としてハッキリしない、誰も見たことがない(私もそうです)

誰も見たこともないのに、その存在を信じたり、有難がったり、感謝したり、畏敬の念を持つのはおかしいのではないか?

困った時の神頼み~ぃ? なんじゃそれ

 わけのわからないものに頼らず自分でなんとかしろ、甘えるな!

というのもわからないでもないのです。(いやむしろわかります)

そして、神だの仏だの言っているひとたちがどうも胡散臭い、暗い、依存心が強い、しつこい、ずうずうしい、自分が正しいと思っている、人の弱みにつけ込んでくる・・・・・・。

だから宗教は嫌いなんだ、だから神様も嫌いだ!

まったく同感です。

私もこういった宗教は大嫌いです。

誤解されるのがよく理解出来るからです。

私は胡散臭いにせものの宗教をやっているつもりはないのです。

本物の宗教をやっているのです。

宗教というのは、宗(もと)の教え、もとというのは、宇宙のことです。

宇宙を示す教えが本当の宗教であり、宇宙というのはすべてのすべてです。

お釈迦様は、菩提樹の木の下で明けの明星(金星)を見ていて気づき(悟り)ました。

「自分は金星に居たんだ」 と・・・・・・。

その瞬間から金星の高い意識がお釈迦様の器に降りて来たのです。(そして金星の高い教えで、多くの地球人類を救ったのです)

そこから仏教という宗教が始まった。

しかしお釈迦様が天界に帰られた後で、弟子たちが自分たちの都合のよいように改ざんしてしまったのです。(キリスト教も同じです)

だから本物の宗教もあれば、歪んだ宗教もあるのです。

私たちは歪んだ宗教(たくさんあります)を見て

「おかしい!」 と思っているのです。

また正しい宗教であっても信者さんたちが間違って解釈すればそれは、歪んでしまうのです。

私は宗教は外にあるものではなく、自分の内(心の中)にあると思っています。

誰がなんと言おうと自分が信じているものが自分なりの宗教(宇宙)なのです。

神様も同じです。

神は外にあるのではなく、自分の心の中に在るのです。

そして私にとって神以外の言葉で一番、ピンとくる言葉は

サムシング・グレート

なにか偉大なもの・・・・・・。

なにかとてつもなく偉大なものが私の心の中にあり

守ってくれている

そして私の魂を成長させてくれている

感動を与えてくれている

生きる喜びを与えてくれている

その存在がありがたいのです。

だから私にとって

サムシング・グレート様ありがとうございます。

なんです。

何かわからないけど

どこのどなたかはわからないけど

とてつもなく大きく偉大なものを感じるのです。

そしてその偉大なものに思わず

ありがとうございます と言わずにはいられない

それが私にとっての 神様 の存在なのです。
 

ところで話が長くなりましたが

五井先生の神様についてのご説明があります。

神様というものをわかりやすく説いておられます。

どうか、ご参考になさってください。



 

「先生ちょっと質問があるのですが?」という青年の声に、食事に向おうとされていた先生は、快く引返えされ「なんだね、なんでもいいから質問してごらん」といわれた。

「友だちにリーフレットを見せたら、大変いいことだ、だけれど、神さまありがとうございます、がないともっといいと思う、というのです。この言葉をぬかしたリーフレットは作れないものでしょうか?」

「神さまありがとうございます、がいやだったら、大生命ありがとうございます、でもいいし、大自然の生命よ、ありがとうございます、でもいいよ。


しかし、人間といわず万物は生きているというより、生かされているのだし、お互いに生かし合っているわけでしょ。世界人類の平和を祈り、幸福を願うという心は、生かされているもの、大生命、神さまに、また生かし合っているものに感謝する、という気持から本当にわいてくるんじゃないかな。

そういう意味でもあることを、友だちに話してあげなさい」





 

 

2013年9月 5日 (木)

波動がいいってどういうこと? 2


 
問 聖ヶ丘の土地というものは、浄まっていて、光があるというのはどういうことですか?


 

答 

年中、大勢で祈っている場所というのは、自然に浄まるんです。

何故かというと、霊団の光が余計に入ってくるからです。 それで土地が浄まるんです。

だからたとえば悪い想いを持っていた人が住んでいた家というものは、後々までもその土地は暗い濁ったものなんです。

そこで私たちは方角とか何とかいうより、その土地が汚れている、前に住んでいた人達の想いが汚れていると、土地を買いたいんですがと相談された時、止めなさい、その土地はダメですよ、ということがあるんです。

聖ヶ丘は、世界人類が平和でありますように、と世界平和だけなんです。

外のことは何も考えていない。 世界平和の祈りだけで使っているわけです。

世界平和の祈りというのは救世の大光明ですから、その光がそのまま聖ヶ丘では輝いているわけです。

天と地をつなぐ柱が立っているのと同じです。

皆さんが聖ヶ丘に来た時には、光の柱の中に坐ってお祈りしているのと同じなんです。

ですから聖ヶ丘に黙って坐っているだけでも浄まるんです。

ですから常に自分の家でも世界平和の祈りをしている、そういう人達が住んでいれば、その家は輝きますよ。

霊眼の人が見れば、皆さん方の家というのは、ふつうの家よりも光輝いていると思うんですよ。

毎日の生活の中でも、皆さんが光輝くためにはどうしたらいいか、平和の祈りをしていれば、平和の祈りをしている器である肉体は、輝いているわけですよね。

ただ前生の因縁というものがありますから、平和の祈りをつづけていても、全部、すっかり光になりきるまでは、過去世に因縁が出て来て、病気になることもあるでしょう。

たまたま不幸が出てくることもあるでしょう。 しかし世界平和の祈りをした人としない人とでは、天と地の差があるんです。

世界平和の祈りをしていれば、同じ業が出るんでも、少しづつ出てくるわけです。

光のほうが強いからパッと消えますからね。

光がない人はまともに受けるけれども、光が強い人は十が三というふうに縮まりますからね。

そういうわけで業想念がつまっていても、世界平和の祈りをしている人は、現われてくる場合にはズーッと軽く済んでゆくわけです。

それが運命の修正っていうんですよ。

だから、いつでもなんでもいいから、世界平和の祈りをして、自分の心を安心立命させて、光輝かせておけば、その人も幸福になるし、知らない間に世界人類の為に尽しているんだ、ということになるんです。



  
     
「質問ありませんか?」 五井昌久 白光出版



 

 

波動がいいってどういうこと?1

 

「あそこは波動がいい」

とか

「エネルギースポットの場所がある」

とか巷ではみんなが言っていますが波動とは一体なんなのでしょうか?

波動とは、エネルギーのことです。

宇宙は光のエネルギー(波動)で出来ているのです。

ただ地球は、業想念エネルギーで汚れているので暗く燻っているところも多いのです。(光が少ない、弱い)

地域によっても波動の違うところがある。

それは昔からの地域性もあるけれど、住んでいる人の想念が影響しているのです。

マイナス思考の人がたくさん集まったところは、通り過ぎる時に

なんだが気持ちが重たくなります。無限なる光!

一方プラス思考の人や、宇宙と共鳴する祈り言葉を唱えている人の居る場所は、光輝いていて、その場所に行くと空がどんより曇っていたとしても

なにか清々しい、晴れやかな気持ちになるのです。

観光地も、光を観に行く地(場所)という意味ですが、そこを浄めた人がいたのです。

偉いお坊さん(悟った)であったり、先日から書いております、妙好人であったりした人はいつも輝いていたのでその場所も自然と浄まっていたのです。

浄まった場所というのは、光がたくさん降りていた。

波動(エネルギー)がいいとはそういう場所をいうのです。

場所だけではなく、祈っている人は波動のいい人ということになります。

プラス思考の人も多少は光ったり波動もよかったりするだけれど、祈っている人とは比べようもないのです。

世界平和の祈りを祈ると宇宙神と直結するのです。

宇宙神の光がそのまま入って来るのです。(宇宙神のみ心と共鳴するからです)

光の大光明霊団がその人に付くのです。

だから

線香花火と、日本一大きな花火くらいの違いがある(笑)。

だが、しかし、そんな光輝いた場所も光を降ろし続けていかないと光が弱くなってしまうのです。

せっかくの観光地も段々すたれて行くことになる。

世界遺産などになってたくさんの人が訪れるということは、マイナスの想念エネルギーの影響を受けて、光のスポットではなくなるところもあるのです。

私は、波動の善い所はもちろん好きですが、自分が波動の善い場所になろうと思っています。(常に祈り続けているとそうなれるのです)

私の側に居る人は、いつの間にかみんな明るくなる、元気になる、清々しい気分になる・・・。

それには、私が光の柱の波動体になって、滝のような存在になって、掃除機になって、人の想念を浄めて

周りのマイナスエネルギーをすべてプラスのエネルギーに変えていくような器になることが必要なのです。


行くところ、行くところが浄まって、光輝く場所(エネルギースポット)に変わってゆく。

たくさんの人がエネルギースポット(本当の意味の)になれば、地球は一気に浄まって、次元上昇(3次元から多次元へ)された素晴らしい星に生まれ変わるのです。

祈りによって世界を変えられるのです。

祈りなしでは、個人も地球も救われないのです。

次の日記でご紹介するのですが、世界平和の祈りの総本山?が東京の聖ヶ丘というところにありました。

その場所は、光輝いていたそうです。

五井先生の著書にそのことが書いてあります。

光輝くとはどういうことなのか? (間違って理解している人が多いのです)

わかっていただければ幸いです。


 
 


世界人類が平和でありますように

日本が平和でありますように

私たちの天命がまっとうされますように

守護霊様ありがとうございます

守護神様ありがとうございます

 

 

 

2013年9月 4日 (水)

本当に素晴らしい人とはきっとこういう人をいうのでしょう 2

 

不動心であるとか平常心の人がいると言っても、自分を泥棒呼ばわりされたり、いわれのない暴力を振るわれたりして、果して何人の人が平静に保つことが出来るでしょう?

おそらく、皆無と言ってもいいと思います。

人間智では考えられないからです。

相手を責めるでもなく、一つ前に日記に書いた宇右衛門さんのように、今自分が相手にやられていることは前世で自分が相手にしていたことなんだと、自分が前世で盗んでいたに間違いない、相手を咎めていたに違いない

だから今逆の立場になって現われているんだ

それも信仰に対して一切の疑いの余地がないのです。

100%因果応報(仏教の教え)を信じている

自分が原因を作って(過去世において)、それが今報いとして自分が受けている。

だから今生では、何の記憶もなくても、濡れ衣であったとしても、冤罪であったとしても、潔くそれを受けている。

なにもそこまでしなくても、自分の過去世にまで責任を持たなくてもいいのではないか?

そう思いますよね。

だがしかし、日常生活を送っていると、理不尽な事が多いのです。

割の合わないこと、頭では理解できないこと、納得できないこと、許せないこと・・・etc が

まかり通っているのです。

だから苦しんでいる(特に人間関係)、なんとかしようとしている、解決策、気持ちの切り替え方法が見つからなくて悩んでいるのです。

それは、物事を単発で短いスパーンで見てしまうからです。

前世を加えて観て観なければ、現われる現象の因果関係は、絶対に理解出来ないのです。

納得出来ないのです。

そして、真理をひも解いて納得出来たとしても、そこからもう一つ自分の意識を上げて、水に流すこと(相手や自分を赦す、消えてゆくものとして流してゆく)が大切なのです。

そしてその後は何事もなかったかのように明るく振る舞う。(素晴らしい!)

今の人間たちに求められている “生き方” はこれだ!
 

と思っているのは私だけでしょうか?

いいえ、皆さん自分がそうありたいと思っていると思うのです。

どんなときにも不動心でありたい、どんな人も愛せるようになりたい

それは人間共通の願いなのです。

私は宗教というカタチではなくても、真理を知るということは

人間にとってとても大切なことだと思うのです。

では、もう一つ宇右衛門さんの心温まる出来事を本の中から抜粋致します。

 





或る年の冬、宇右衛門の息子の嫁で、わがまま気ままの一家の手に負えぬ女が、宇右衛門の物の言い方が悪いといって、庭にあった横槌を取って舅に投げつけました。

その槌は宇右衛門の額に当ってたくさんの血が流れました。

側にいた温厚な息子もさすがに腹を立てて、お前のような女房は離縁すると門口へ引き立てて行きますと、宇右衛門はびっくりして、我が子の袖を引きとめ

「この親父が悪いのだ」 と言って謝ります。

息子は 「とんでもないお父さんが悪いのではない。 お父さんに手をあげるようなこんな不幸な嫁は、切り刻んでも腹の虫が納まりません。 何故お父さんは、こんなわがままな嫁をとめるのですか」 と申しますと、宇右衛門は涙を流しながら

「うちでさえ辛抱の出来ぬわがままな嫁がよそへ嫁入って一日も辛抱できるはずがない。 この家を追い出されては、この嫁の身の置き所がなくなってしまう。 おれさえ辛抱すれば大事にならず納まるだ。 不心得嫁を貰ったのはそちの不幸せ、私の因縁の悪いせいじゃ、何事も勘忍せよ」

とかえって息子をなだめ、お仏壇に参りお光をあげ、念仏を唱えて明るい顔をしていました。

流石の嫁もこの宇右衛門の深い愛に感激して、大いに後悔してあやまり、その後はうってかわった孝行な嫁となったのであります。━


この話なども、全く恐れ入ってしまう程、み仏の心に徹しています。

私の常に説いている、すべては過去世の因縁の消えてゆく姿、ただ在るのは神仏のみ心だけなのだ、という真理そのままの生き方をこの宇右衛門さんはしているわけです。

それがわざとらしくするのでもなく、気張ってするのでもなく、その場、その時々の出来事を、自然に光明化してゆく、無為にしてなす、という行為を、宇右衛門さんはいつの間にか体得してしまっていたのであります。





          
「生きている念仏」 五井昌久 白光出版



 

2013年9月 3日 (火)

本当に素晴らしい人とは、きっとこういう人をいうのでしょう。

 

妙好人とは、学問知識から宗教の門に入ったのではなく、先達の説法を聴聞しつづけ、たゆみなき称名念仏のうちに阿弥陀仏(仏さま)と一つになった人々のことを言います。

妙好とは、もと蓮花の美わしさを敬称しての言葉ではあるが、それを人間に移して、その信仰の美わしさに喩えたのである。



 
み仏のままに
 



妙好人宇右衛門さんの話
 
 

宗教の道は理屈でもなければ、上手な言葉のやりとりでもない、只神仏のみ心に沿った行いにある、と私はいつでも申しますが、浄土門に多い妙好人たちの生き方は、如来様のみ心のそのままの生き方で、私は常にその行動に強い感動をおぼえるのです。

またその妙好人の話を書いてみたいと思います。

兵庫県揖保郡太子町北村というところに、2百年前に、宇右衛門という馬子がおりましたが、この宇右衛門は、若い頃は力自慢で乱暴な人でしたが、或る時念仏の説法を聴聞しているうちに、後生の一大事、という阿弥陀如来の本願を聴かされ、非常に興味をもって念仏門に入ることになりました。

そして次第に心改まり、唱名念仏絶ゆることなき、昔とは別人の柔和にして不言実行の信者となり、馬子をやめて、農業に精を出し、かりそめにも人と争わぬ、法のまま生くる生活を身心に行じるようになりました。

太子町太田より南、山陽線に沿って山戸というところがあります。

この村の某という者が、亡父17回忌法事の記念に仏壇を買い、宇右衛門にこの礼拝を頼みました。

宇右衛門はその家を訪ね仏壇を礼拝して帰りましたが、その後で大変な問題が持ち上がりました。

それはその某が金25両を仏壇の引き出しにしまっておりまして、いよいよ入用だという日になってあけてみますと、その金子がありません。

仏壇の前に行った者は、家内の者か、宇右衛門しかおりません。 盗人の入った風もありません。

そこで某は女房に向い 「 宇右衛門さんは正直な念仏者ではあるが、凡夫だからふと盗み心が起こったのかも知れん。」 と話しますと、女房も同感したので、某は急いで宇右衛門の宅へ参り実はかようかようでと、さも言いにくげに申しました。

大抵の人ならこんな疑いをかけられたら、腹を立てて怒鳴りつけてしまうところですが、宇右衛門は怒るどころか、その話を聞き終わるなり、どうもすまぬことを致しました、といいながら、25両の金を渡してその罪をわびました。

さてその後、その人の隣の人が用事があって大阪へ行き、その人の息子の家に立ち寄り、四方山の話のついでに宇右衛門が、仏壇の引き出しから金を盗んだことを話しました。

息子はびっくりして、その金なら実は私が大阪に来る時に持ち出した、実に宇右衛門さんに済まぬことをした、と急いで山戸に帰り、両親に打ち明け、その足で宇右衛門の所へ行き、重々詫びながら25両を返しますと、宇右衛門はかえって気の毒そうに、それでは前生でお借りしておりませんでしたか、と言ってその金を受取りました。━

宇右衛門のこの素直さはどうでしょう。 現代の人からみたら、馬鹿ではなかろうかと思われますが、何事が出てきても、過去世の因縁現われと思いこみ、すべての出来事事柄を、過去世と結びつけていて、今生だけの出来事とは思っていないのです。

自分の顕在意識(あらわれいしき)では判らないが、すべては阿弥陀如来様のみ心によって現われてくることなので、その事柄が如何に自分に都合の悪い事柄であろうと、素直に受け切って生きてゆく、という素晴らしい生き方を、何気なく当然のこととして行じている、この宇右衛門の素直に徹した姿は光り輝く尊いものです。

現代人の人の生き方の習性は、自分のした間違った行為でも、何んとか言いぬけて、自己の損にならぬように、という、今生の瞬間瞬間、利害関係で動いているそういう人が多いのです。

天と地の差です。

これが白隠ほどの学問修行を積んだ人なら又別格ともいえるでしょうが、馬子上がりの百姓爺の学問知識のない人の行為なのですから、宗教の道は百知は一真実行に及ばず、という守護神の言葉がよく判ります。

妙好人宇右衛門には、そうした種々の話があります。 もう2、3書いてみましょう。

 

   「生きている念仏」 五井昌久 白光出版



 

 

肉体人間はみな50歩、100歩なのです。 2

  

肉体人間の無力さ

 

大衆は全く何も判らないのであります。 大衆ばかりではありません。 判ったような顔をしている知識人や政治家たちの大半も、やっぱり何にも判らないのであります。

みんなが何んにも判らないままに、自分たちの希求する世界平和の夢から、業想念の闘争不調和の波の中に巻き込まれて、人類最後の大惨事に叩き落とされようとしていいるのであります。

私たち肉体人間には、何にも判りはしないのです。

いくら利口そうな口をきいていても、一番肝腎な生命という根本問題について、生命が一体何処からきて、何処に去るのか、生命とは一体何であるのか、ということの片鱗さえも知っていないのです。
 

一番大事な問題が判らない人たちが集って、国政がどうの、世界がどうの、といっているのですから、一般大衆が、どうしてよいか戸惑うのも無理がありません。

私がこうして今この一文を書いているのは、こうした時勢において、一般の人々は一体どういう生き方をしたら、安心立命の生活ができるか、ということを知って頂こうと思うからで、国政を批判しようとか、現実の政治問題をとやかく言おうと思っているわけではないのです。

現実の国政をどうすればよいかを、ここでとやかく言っても何にもならないからです。(それは今の時代も全く同じだと思います。 グッドムーン)

私の役目は、みなさんに神を知らせ、人間の本体を知らせることによって、世界人類を平和な幸福生活に導き入れることが出来る、という原理方法を説くことにあるからです。

そのためには一度、肉体人間の無力さということを改めて皆さんに知って頂かなければと思って、今迄の事実を書いたわけなのであります。

現今程、平和世界が熱望されながら、その人類の意思に反して、地球人類潰滅の方向に突き進んでゆきつつある時代はありませんし、肉体人間の何人にも、その運命の歩みを阻止する力があるように思われません。

今日までのいつの時代でも肉体人間は、自己や自国を先ず守ろう、あるいは他より優位に立とうとする自我欲望の想念故に、争いつづけてきているのであり、強者が弱者を抑圧しつづけているのであります。

そして最も弱者であり、無権力である庶民大衆は権力者たちよりも先に、自己の無力なることを悟り、人間以上の力、神への信仰によって、自己の精神の平安を得ようとしていたのであります。

日本においては法然、親鸞による浄土門他力信仰(南無阿弥陀仏の唱名)の道が、こうした庶民大衆の最も善き安心立命への道であったのです。

浄土門信仰の道には、時の権力者も入信してはおりましたが、真の信仰者は権力者の座をすでに離れかかっている者や、離れ去った者、あるいは世の中のすべてに無常感を抱いた者たちであって、自己の力に依存している者たちには浄土門の真の教えが判らなかったのです。

肉体人間としての自己の力に依存している者にとっては、神仏の力は余分のものであって、神仏の方に想いをむける余地はないのであります。

ですから、自己の力の無能なることを知る程度が強ければ強い程、神仏に想いをむける程度が強くなってゆくわけで、肉体人間の力を全否定し去った者の神仏信仰は、全託の境地になり得るのであります。

その点、現代の世界の指導者たちは、科学の力に依存し過ぎて、神仏に向う想いを阻止している傾向が強いのです。

神仏に向う想いが弱ければ、そこに業想念の波動が強く働いて、その政治や政策が、神のみ心である、大調和大平和の方向に進んでゆこう道理がないのであります。

他国を敵と見ながら、どうして世界が平和になることがありましょうか、それは指導者たちが、神仏を知らぬ無智から起こっているのです。

      

    「生きている念仏」 五井昌久 白光出版





 

 

肉体人間はみな50歩100歩なのです。 1

 

消費税をどうしたらいいか?とか、原発がどうだとか?TPP、政治がどうだとか?評論家の人や専門家の人が議論しているのを観ていると、誰も何が良くて何が悪いかなんて本当は判っていなのだな、

みんな自分の研究勉強、詰め込んだ知識の中で言っているだけで、グローバルに宇宙的な視野に立って地球にとって人類にとって、未来にとって何が大切なのかがわかっていないのだと思うのです。

それも、自分の立場で

「これを言ってはまずい」 とか 「これを言ったら後で面倒なことになる」 とか計算をしながら言っているので、わからない上に計算(勘定、感情)が加わってくるので、余計にややこしく観ている方にはさっぱりわからなくなるのです。

物事には必ず一長一短があるので、消費税なども上げると余計に経済が停滞するという意見ももっともであり、しかし上げないと国の借金を未来に先送りすることになるだから今は決断しなければならないんだ。

でもその上げた分がちゃんと有効に使われるのか? 信用出来ない、だからやっぱり上げるべきではない。

もうなにがなんだかわからなくなるのです。

人間同士の言い合い、感情的に議論している姿を見ると

「人間ってつくづく愚かだなぁ、バカだなぁ」 (私も含めてですが)と思うのです。

そして今、地球ではシリア情勢などの深刻な事態になって来ています。


この世の中を解決する方法は、お釈迦さまやキリストなどの聖者が現われて

強烈なリーダーシップを発揮し(人間の先頭に立って)

地球世界をきれいに洗浄してくれないことにはどうにもならないのか?

人間にももう無理なのではないか? とさえ思ってしまいます。

しかし、そんなことを期待したり、諦めてしまってもしかたがありません。

では、どうしたら世の中が善くなるのか?

それは、人間がお釈迦さまやキリストのように、肉体意識から宇宙意識へと意識をシフトさせて

聖者になってしまえばいいのです。

それはただの絵空事でもなんでもなく、人類は今、意識を上げるという過渡期に来ているのです。

そうなりなさいという啓示として、日本でも天候不良(竜巻)や天変地変などの気象の変化を見せて

「気づきなさい」 と促しているように、私には思えてしかたがないのです。

人間(肉体人間)は確かに、どうしようもないお馬鹿さんです。

しかし、意識が肉体だけにあるからであって、その意識を広げて幽界を通って霊界、神界まで行けば、お釈迦様、キリスト様などと同じ意識体(エネルギー体)になれるのです。

しかし意識がそこまで行くには

いったん自分たち人間は大馬鹿者なんだ というところへ行かなければ

そこからどうしたらいいのか? が出て来ないのです。

人間ではもうダメだ、このままでは自分も地球人類も滅亡してしまう

 どうしたらいい?

人間智を超えたもの?

神様(仏様)にすがるしかないんじゃないか?

そのことが本当にわかって

今まで自分が身に付けてきた学問をすべて捨てて

仏(神)に全託したのが法然、親鸞さんだったのです。

全託すると、肉体の意識が無くなって、神意識が代わりに入ってくるのです。

中途半端に

「自分はたいしたものだ」

「人間(肉体)は素晴らしい、凄いんだ」

と思っている以上は全託出来ないのです。

「ふん 神なんかに頼らなくても自分は大丈夫だ」 と思ってしまうからです。

全託といっても、自分で何も努力もせずに

「神様お願いします」

ではないのです。

自分で出来ることは精一杯、一生懸命にやって

自分ではどうしようもないことだけを

神様にお願いする

それが本当の全託なのです。

全託する方法はいつも言っていますように

祈り、印、マンダラです。(これらは自分が神性を顕わすためのツールです)

「自分はどうしようもない人間なんだ」

で終わるのと

「自分はどうしようもない馬鹿だ、だったらどうしたら馬鹿でなくなるのか?」

とではそれこそ雲泥の差なのです。

今私たちは、馬鹿でなくなる方法(メソッド)を考える時期に来ているのです。


馬鹿と聖者は表裏一体だったのです(笑)。


 

 



 

 

2013年9月 1日 (日)

本心と業想念を区別せよ 3

 
現代に生きる親鸞の心

 

人類が、肉体人間の想念行為をもってして、世界が平和になり得ると思っていたら、これはとんでもない思い上がりです。

自分は物質にも恵まれ、その上善いことをしているのだから、何も殊更に神仏にすがる必要はない、と思っている個人と同じように、自分の国は世界平和実現のために軍備による力をつくっているのだ、といっている国があったら、これは実に思い上がった考え方です。

世界平和と軍備とは全くなんらの関係もありません。

個人にしても国家民族にしても、神のみ心を中心にしての活動でない限り、一時はその個人、その国家民族が栄えているように見えましょうとも、やがてはその反対の現象が必ず起るものです。

それは世界の歴史をみていれば自ずから判ります。

自己や自国家の力を過信していると、やがては谷底の運命がその個人その国家の前に待っていることになるのです。

それは業生世界の必然性だから仕方がないのです。

しかしそれを人類全般に及ぼしてしまってはたまりません。

そのたまらない運命が今や全人類が謙虚な心で、自己や自国の在り方をはっきりみつめ、神のみ心にそむいていないか、人類愛の政策に反しはしないかを考えてみなければならないのですが、なかなかその実行はでき得そうもありません。

眼の前の出来事や、政策のやりくりに追われてしまうからです。





         

          
「生きている念仏」 五井昌久 白光出版





 

 

業想念と本心を区別せよ 2

 

神仏だけを相手にする


 

親鸞は、悟りとか救いというものは、業想念の波を相手にして、いいの悪いのといっていたのでは、いつまでたっても、成就するものではない、この業想念波というものを、一切相手にしないことによって、はじめて悟りとか救われの道とかに入り得るのだ、ということが判っていたのです。

業想念波を相手にしなければ、相手にするものは、神仏よりなくなってきます。

神仏だけを相手にしていれば、自分もいつの間にか神仏と等しいものになってくるのは必定です。

そこで、幸いに法然上人という偉大なる師が現われて、自分よりも先に、そうした原理を説いて、念仏一念の生活に大衆を導き入れているのを知り、すっかり感動して、弟子入りして、法然の教えを一歩進め、自己を一般大衆と同じ立場に落して体験としての易行道の教えをひらいたのであります。

法然門下には傑出した人々がかなりいたのですが、親鸞のように、自ら一般人のように妻帯して、俗人と同じ立場に身を置くほどに易行道に徹した人がいなかったようです。

この辺が親鸞をして今日まで不朽の名を残さしめている所以でありましょう。

大衆は身近な行為の人として、親鸞に親しみをおぼえているのであります。







       
「生きている念仏」 五井昌久 白光出版




 

業想念と本心を区別せよ 1

 
 
私の心の中っていったいどうなっているのだろう?

と誰でもが思っていると思うのです。

やさしい、愛に溢れた想いがあるのかと思えば、妬みや嫉妬など自己嫌悪に陥ってしまうほど汚い想いもある。

かなりの格差がある。

いったい自分はいい人なのか?

悪い人間なのか?

それは心の中というのは、仏教でいうところの業想念と本心とが入り混じっているからなのです。

本心とは、神界にあるところの自分の本当の心であり、神のみ心とイコールなのです。

だから愛に溢れ、調和し、平和を愛し宇宙神の意識と同じなのです。

そのような崇高な意識と人間が作ってしまったマイナスの業想念が一緒くたになっているのが、心の中なのです。

コップの中に水が入っているとするとその中の水は、きれいな水ばかりではない、前世の汚れた水も、今入ったばかりの自分の想念もいっぱい溜まっているのです。

そしてその想いが次々に湧いてきているのです。

だからそんなことを想いたくもないと思っていても

自分が望むような想いが湧いてこない(そして自分や他人の想いを責めている)

肉体人間の自分では、想いはコントロールすることは至難の業なのです。

このことは大昔から人間を悩ます種でありまして

そのことを解決するために

聖者が進化した星(金星など)から天下って、教えを説いたのです。

それが本来の宗教の姿です。

宗教というのは、宇宙を示す教えという意味であり、次元の違う金星などの高次元の教えでしか地球の人類を救うことは出来なかった。

ということは、人間は、今地球を渦巻いている業想念という3次元の今の意識(肉体意識)では、とうてい救われないということができます。

今、人間は、同レベルの業想念の渦の中で物事を解決しようとしているのです。

そのことは、法然上人がおられた800年前も同じでした。

その頃(鎌倉時代)のたくさんの人々を救ったのは、法然さん親鸞さんという2人のお坊さんだったのです。(あえて2人に限定します)

南無阿弥陀仏は、みなさんがお葬式のときなどに唱えたりする浄土宗の念仏ですが、はっきりとした意味もわからずに唱えていると思うのです。(私もそうでした)

法然さんがはっきりと悟ったのは、人間には業想念と本心があって、この区別がつかないことには、人間は絶対に悟ることができない、安心立命しない、幸せにはなれないということだったのです。

法然さんはその当時、ありとあらゆる学問の勉強し、人間が生きたままの状態で成仏する(幸せになる)にはどうしたらいいか?を徹底的に探究したのですが、最後に辿り着いたのが、「南無阿弥陀仏」をただひたすらに念じることだったのです。

南無阿弥陀仏とは、仏(神・宇宙)と一体となるための祈りだったのです。

宇宙と一体となる祈りを祈ることで意識が波動が宇宙と同体になるのです。

宇宙意識になることで、いつの間にか業想念が消え去り、本心だけがつながり、安心立命し、心が整って、パーフェクトになるのです。

近未来に、たくさんの人が宇宙意識になっていきます。

大昔にも、法然さんや親鸞さんその他の信者の人たちのように僅かの人たちは、正覚を得たのですが、地球が完成(次元上昇)する時期には、その頃には比べようもないくらいの人々が悟りの境地(覚正)に達するのです。

それは、世界平和の祈りが世界に広まることで実現するのですが、そのことが昔の日本の宗教(浄土宗)、法然さん親鸞さんから学ぶことができるのです。

世界平和の祈りは、南無阿弥陀仏をもっとわかりやすく全人類に広めるために生まれた念仏(祈り)なのです。

次の日記からその文章を抜粋しますので、よろしくお付き合いください。


 

 

  

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