« 想いのすべてを宇宙に投げ入れよう! | トップページ | 霊覚者とは »

2013年8月15日 (木)

本心と業想念

 
 

私たちは、相手の気持ちを確かめるために

「それは、本心で言っているのか?」

と尋ねたり、場合によっては相手を責めたりするのですが

人間の思っていることのほとんどは、集合意識などの人の想いであり(または過去世の想念であり)、本当の心、本心から出た言葉ではないのです。

キリストの言う

「罪を憎んで人を憎まず」 とはこのことを言っているのであり

ひどいことを言ってしまっている(言わされてしまっているといった方がいいかもしれません)

その人本人には

なんら責任はないのです。

本心とは別のものがあって

その別のものにコントロールされてしまっている・・・・・

そうだったとしたら(そうなのですが)

とても相手を責める気持ちにはなれないのです。

本心とつながるとは簡単なことではなく

つながった人を覚者、聖者

悟った人というのです。

本心は、神界にあるのです。

肉体界、幽界、霊界を通り抜けてその先の神界までいかないとたどり着けないのです。

ですから覚者、聖者意外は

みんな罪悪深重の凡夫です。

罪深い人たちなのです。

人間なんて50歩、100歩

たいした違いなんてありはしない

もちろん、そのまま(凡夫)ではいけないのですが(そのために世界平和の祈りがある)

我即神也、人類即神也に至るまでは

そのプロセスとして

どうしようもないくらい馬鹿な人間があるのです。

だから馬鹿のままではいけない

そこから出発して

限りなく神に近づいていこうとする

その努力のプロセスが尊いのです。

美しいのです。







 本心と業想念


普通の人は、心は一つしかないと思っているのですが、私は一つの心、つまり神の直霊分霊として働いている心を本心と呼び、その本心の周囲を何重にも巡っている波動(ひびき)を想念と呼んでいるのです。

たとえば、本心の働きによって生命が滞りなく素直に活動していて、肺臓も心臓も胃腸も丈夫でいたとします。

そこへ癌で死んだ知人があったりすると

 “ああ私も癌になりはしないか” とふいっと思います。

このような本心の働き生命の働きを、ちょっと疑うような心の動き、そうした心の動きを、私は心と呼ばずに業想念と呼んでいるのです。

もっと端的にいえば、神のみ心に素直につながっている心だけを、心と呼び、神のみ心を離れた心の波動は、すべて想念と呼んでいるのです。

     

         「日々の祈り」 五井昌久 白光出版




  

 

« 想いのすべてを宇宙に投げ入れよう! | トップページ | 霊覚者とは »

コメント

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/160971/52891446

この記事へのトラックバック一覧です: 本心と業想念:

« 想いのすべてを宇宙に投げ入れよう! | トップページ | 霊覚者とは »

最近のトラックバック

2017年6月
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30  
無料ブログはココログ