わかると面白い 2
質問 見ざる聞かざる言わざる、つまり諸々の不浄をきかず、というようなことがありますが、先生のみ教えをうけたまわるようになって、これに疑問が出ております。
見ざる聞かざる言わざるでいい場合もありますけれど、いわなきゃならん場合も起るんじゃないかと思うのです。
例えば、人が危険にさらされている。その時に何気なしに 「危い!」 って声が出ます。
これは神様の声じゃないかと思いますが、しかし大変失敗する時がある。 かえって先様の気持ちを害するようなことがある。 こういう場合どうしたらよろしうござましょうか?
答
昔から言われていることですが、見ざる聞かざる言わざるということはどういうことかというと、見た想いに把われず、聞いた想いにとらわれず、言った言葉にとらわれず、すべてのものにとらわれないことがいいのだ、ということです。
大体、道とか宗教の教えというものは、すべて想いがとらわれないということを主にしているわけです。
想いがとらわれなくなると、神さまからそのままくる行いが出来る。
この世の中では、テレビ、ラジオはいつもいろんなニュースを報道している。
どこどこで強盗があった、火事があった、殺人があった、と嫌なこと暗いことを聞くまいと思ったって聞えてくる。
新聞を見れば、誘拐があった、事故があった、アメリカがどうだこうだ、見まいと思ったって見えてしまう。
ともかく、見ざるも聞かざるもありゃしない。
今は、文明文化が発達して、マスコミというものが発達してますと、こちらが好むと好まざるとにかかわらず、強制的に見せられる、聞かされる、いわされる。
だから見ざる聞かざる言わざるというのは、本当はいいかもしれないけれども、実際問題としては通用しないわけです。
そこで私は、見てもいい、聞いてもしかたがない、いってもしかたがない。
しかし、あらゆるものはいいことであれ、悪いことであれ、それは消えてゆく姿なんだから、その想いにとらわれていてはいけない。
いくらいい言葉をいって、それに人が感動したとしても、それにいつまでもとらわれていたんじゃ進歩がないんだし、また悪い言葉をいっても、しまったと思って
「しまったしまった、私はなんて悪い人間だろう、なんでこんなことをいったんだろう」 といつまでもとらわれていたんでは、それはかえって業が積もるんだから、いってしまった悪いことはしかたがないから
「あー悪かったな、これは消えてゆく姿なんだ、もう再びいいますまい、ああこれで業が一つ減ったんだ」
というふうに思いながら “世界人類が平和でありますように、あの人の天命がまっとうされますように” というようにいいなさい。
そういうように想いが出た時、想いにとらわれそうになる時に、それを消えてゆく姿として、平和の祈りの中に入れさせてしまうような教えに転換させたんです。
それはどうしてかというと、私は昔とても短気でしてね、ものすごい感情家だったんです。
私は大体、本質は芸術家ですから、いいものはいい、悪いものは悪い、嫌なものはもう我慢出来ないように嫌だったりね。
青年の頃はそういう性質をもっていました。
だから、これじゃいけないな、こういうことじゃいけない、なんとかしてこの短気を押え、この感情に敗けないようにしなきゃいけない、というような気持ちが随分強くありました。
なんとかして立派になりたい、感情にとらわれない人間になりたい、愛一念の人間になりたい、と思いつづけていたわけです。
それで聖書も読めば、仏教の経典も読んだり、宗教の書、修養書など手あたり次第に読んだり、坐禅観法をしたりいろんなことをやったのです。
そのうちに、とらわれまいとらわれまいとしたんじゃ、かえってとらわれるんだなということがわかったのです。
短気だから短気をなおそう直そうだけじゃだめなんだ。
感情にとらわれちゃいけない、とらわれちゃいけない、というと恐怖心が起ってしまう。
それではだめなんだから、どうしたらいいかというと、とらわれを消してくれる何かがなければいけない、それを見つけることだと思った。
それは神さまだと思ったのです。
つづく
「質問ありませんか?」 五井昌久 白光出版
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