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2013年6月29日 (土)

「やるだけやってみたのだが・・・」 はないに等しい

 

結構、耳の痛い言葉だとは思うのですが、私も含め(私の周りの人)、こういった人はかなり多いのです。

企画もアイデアも戦略も素晴らしい! なのになぜかうまく行かない それは、とことんまでやらないからです。

やっていないからです。 とことんやるまでに途中で疲れ果ててしまったのか? 最後のエネルギーがどうしても湧いて来ないのか? 目的意識が希薄なのか?

根性論を出すつもりはありませんが、最後はやっぱり熱意なのです。

熱意とはエネルギーなので、とことんまでやって沸点までいかないと、科学反応が起きない。

よって液体は気体にならない。

期待(気体)通りにはいかないのです(笑)。

感動という科学反応もそうですよね。

そこには熱い想いがそうさせるのです。

自分の熱い想いが伝わって相手が感動するのです。


私は今までにとことんまでやって結果を出してきたこともありました。

だけど、いつも一生懸命で手を抜かないでとことんやっているかといえば

そうでない時もありました。

そして今までの経験でわかったことは、とことんまでやらないと、徹底してやらないと今までやってきたことは無いに等しいのです。

それではあまりにももったいない

後で必ず後悔することになります。

今やっていることは、「とことんやってみよう!」

今回、「日々の指針」 を読んで改めてそう思ったのでした。

 

 

1. 人は何か事に当たると 「やるだけやってみたのだが・・・・・」 と必ずいう。

が 「やるだけやってみたのだが・・・・」 の解釈では、私にとっていえば全く中途半端なやり方であって、何もやっていないのと何ら変りはない。 そればかりか、何の進展の兆しもない。

とことんまでやらなければ、どんな道も開かれない。 とことんまでやる意思さえあれば、どんなに固く閉ざされている門も、重い鉄の扉も、一筋の光が入るくらいの隙間が生じてくる。

ほんの少しでも開いたら〆たもの。 あとは忍耐強く時の来るのを待つのみ。 必ず自分の思った通りの道が、期待しつづけた通りの道が開かれる。

 

   「日々の指針」  西園寺昌美  白光出版





 

 

 

 

今必要なのは自分を叱ってくれる人なのです。 2

 
 
 

1. 人間は、本来、どんな人に対してでも、一つになれる。 その為には、己というもの、我というものを自分の中から、自分の枠からはずさなければならない。 そうすることによって、はじめて相手の人の心が手にとるごとく、自然に読みとれるようになれる。

他の人の心がわかった時、はじめて本当の自分を知ることが出来る。

 

1.苦しみを背負って生きているのは、あなただけではない。 時折、仕事に重荷を感じているのもあなただけではない。 何もかも捨てきって自由に生きられたなら等と考えているのも、あなただけではない。 老若男女すべて殆んどが大差なく、同じような苦しみを背負って生きているのが、この世の常だ。

その中にあって、その苦しみを抱え込みながら、人類の為に生きようとしている人こそ、輝いている人なのだ。 世界平和を祈る人々は、祈っているうちにその抱えこんでいる苦しみがだんだん少なくなっているのに驚くのである。

そう、そうなのだ。 個人の苦しみなど忘れて、人類の為に勇気をもって働きかけるならば、苦しみなど難なく消え去ってしまうものである。

 

1.騙された、裏切られた、と人を恨むでない。 騙された君が悪いのだ。 裏切られた君が悪いのだ。 騙した相手が悪いのでも、裏切った相手が悪いのでもない。 ただただ君の前生の消えてゆく姿なのだ。 ここで騙されることによって、前生の因縁がその人を通してやっと消えていこうとする時に、またもや、騙した相手が、裏切った相手が悪いと思いこんで、恨んだとしたら、消えてゆくどころか、またここで再び二重の罪を背負わなければならなくなる。

これは真理を知らない人の落とし穴である。 真理を知ろうとしない人は、気の毒なことに、いつまでたっても一生裏切られの人生を歩んでゆくより仕方がない。


 



  

         「日々の指針」 西園寺昌美  白光出版








感想
 

書いていてあまりにも凄い真理なので、書くことを一瞬だけ躊躇したのです。

今までの、3次元での常識では計れない次元を超えた4次元、多次元の考えだからです。

物事を解決しようとしたら同じ目線では決して解決出来ないのです。

これまでの肉体という限られた頭の意識ではどうにもならないのです。

宇宙意識、神意識になって自分の意識を上げてこそ可能になるのです。

だからここに書かれていることは今までの、一般常識ではありません。

常識を超えた非常識ではなく、超常識なんですね。

これからは超常識が当り前の考えになっていきます。

そうなることによって地球人類の意識の次元が上昇するのです。

そして地上天国(地球が神界になる)が訪れるのです。

   

  

今必要なのは、自分を叱ってくれる人なのです。

 
 
人間はある一定の年齢になると、おかしなことを言っていても、していても、叱って正してくれるありがたい人は少なくなってゆくのです。(これは不幸なことだと思うのです)

他人のことはわかっても自分のことを客観的に観ることは難しい

だから絶えず、自分はこれでいいのだろうか?

常識を外れていないだろうか?

他人から見て奇異な行動を取っていないだろうか?

お天道様(本心)に対して顔向けできないことをしていないだろうか?

と一日に一回は内省することが大切だと思うのです。

それか人生の指針などが書かれた書物を時々ひも解くのもいいと思います。

今日も、「日々の指針」 西園寺昌美著 の本を読んでいたら

ドキッとする文章に出会いました。

みなさんにもきっと共通する箇所があると思います。

よかったらお付き合いください。

 
 

. 何故、君は人を頼るのか。頼ったからこそ裏切られたのだ。人に頼るものではない。

又人に頼ったところで何の解決策もありはしないのだ。あるように思えるのは、結果が一時的に解消されたにすぎない。永遠の解決ではない。人に頼っただけ自分の力が失われてゆくのに、君は気づかないのか。人に頼る心が湧いたら何故自分自身に頼るように持っていかないのか。それだけ自分に自信が持てないからか。依頼心ほど人間を駄目にすることはない。自分の本心に頼れる自分になれ。




 

1.あなたの秘められた可能性を発揮するチャンスは、今なのだ。今をおいて他にはない。何をそんなに躊躇しているのか。何をそんなにこだわっているのか。何が一体あなたを即行動に移さないようにしているのか。

ためらう必要はない。 さあ、今すぐ、この場において、あなたが考えていること、したいこと等は、即行動に移してゆくことだ。

実際行動に移してゆくその途中に、その間に、すべてが整ってゆくのだ。考えている間中は、実際問題何も出来ない。



 


1. あなたは今、何を感じて何を見つめて生きているのであろうか? そして何を考えて生きているのであろうか? 明日のこと? それとも将来のこと? 或いは過ぎ去った過去の出来事? 人それぞれあらゆる生き方を考えているに違いない。

自分の前に現われてきた目先のことばかりにのみに想いや考えをむけないで、つねに二年三年後の近い将来の楽しい出来事を設計し、夢見、心に描いて生活してゆくと、本当にその夢が思ってもみなかったように実現する。

心がつねに楽しい将来のことを想い描くため、今、目の前に現実として覆いかぶさってきている種々の苦しみや悩みや悲しみに、心が把われることがなくなると、その悩みは自然と通りすぎて消えていってしまう。

常に心を転換させることが、生きてゆく一つのコツでもある。(果因説)

 

  

        「日々の指針」 西園寺昌美  白光出版




  

 

 

2013年6月28日 (金)

元気が出る言葉集 2

 
 


1. 人の悪口をいうということは、自分を強く見せたい、自分をよく見せたいからである。羨望の想いが悪口となる。(五井昌久)




 

1.正岡子規は 「さとりとは、いかなる場合にも平気で死ぬことかと思っていたのは、まちがいで、さとりとは、いかなる場合にも平気で生きていることであった」 といっている。

全くその通りであって、完全に生をまっとうすることによって、はじめて死をもまっとう出来得るものである。

生を逃避することによって、死への恐怖を拭い去ることは不可能である。

生への恐怖を乗り越えることによって、死への不安はまったく無くなる。

生と死は別なものではなく全く一つのものである。




 


1.私は釈尊の次の言葉が好きである。

「沈黙しているものも非難され、多くを語るのも非難され、少しを語るのも非難される。世に非難されない者はいない」

この世に生ある限り、何をしても人は非難の目、嫉妬の目をもって他人を見つづけるのである。 人の目を気にして生きていたならば、自分の身が持たない。天の目を気にして生きてゆくことだ。


 

 


1.非難を笑い捨て去ることが出来るくらいの大物の器になりなさい。

 



 

1.私が語ること、想うこと、表わすことは、すべて人類のことのみ。人類の幸せのみ。人類の平和のみ。人類が真理に目覚めることのみ。

故に、私個に関する一切の言葉、想念、行為に私心なし、自我なし、対立なし。

すべては宇宙そのもの、光そのもの、真理そのもの、神の存在そのものなり。

地球上に生じるいかなる天変地変、環境汚染、飢餓、病気・・・・これらすべて「人類即神也」を顕すためのプロセスなり。

地球上で繰り広げられる戦争、民族紛争、宗教対立・・・・これらも又すべて「人類即神也」 を顕すためのプロセスなり。

故に、いかなる地球上の出来事、状況、ニュース、情報に対しても、又、人類の様々なる生き方、想念、行為に対しても、且つ又、小智才覚により神域を汚してしまっている発明発見に対してさえも、これらすべて「人類即神也」を顕すためのプロセスとして、いかなる批判、非難、評価も下さず、それらに対して何ら一切関知せず。

私は只ひたすら人類に対して、神の無限なる愛と赦しと慈しみを与えつづけ、人類すべてが真理に目覚めるその時に至るまで、人類即神也の印を組みつづけるのである。
(人類即神也の宣言文)

 


 

1.
上士は道を聞いては、勤めて之を行わんとし、中士は道を開いては、存するがごとく亡きがごとく、下士は道を聞いては、大いに之を笑う。 笑わざれば、以て道と為すに足らず。(老子)




  


1.どんな聖者、賢者でも肉体人間の愚かさに出会うと怒りを爆発させたくなることはあるそうです。 そんなときは相手の天命を祈るとよいのです。 天命を祈るというのは、その人の幸せを願う最高の愛の行為なのです。 天命を祈ることでその人と自分の両方の魂が救われるのです。そしてそのときの怒りは祈ると同時に不思議と治まっているのです。

「○○さんの天命がまっとうされますように」


 

 

 




 

元気が出る言葉集 1

  

この世の中を生きていると、落ち込むことがあるのです。

それも不思議なことに自分が成長すればするほど、強くなればなるほど試練というものはやってきます。

まるで

「お前は強くなったのだからもっと強くなれ!」

とでもいうように、これでもかこれでもかと神様は次々に試練を課すのです。

私にとって一番堪えるのは

やはり人間関係ですね。

人間ほど不可解なものはない

仲良くなったかと思えば

ある日突然敵になり(ほとんどは嫉妬ですが)

理解してくれていると思っていても

結局は

全然わかってくれてはいない

期待をすれば裏切られ

愛しても愛しても

その愛は通じるかどうかはわからない

しかし愛することを止めることは

「人間をやめますか?」

に等しく

どんなことがあろうとも愛することを

放棄することはできないのです。

私は、切羽つまってどうしようもなくなったときに

人間不信に陥りそうになったときに

いくつかの切り札を用意しています。

このいくつかの切り札を馳駆することによって

溜飲を下げることが出来るのです。

そして落ち着いてきたら

またいつものような平常心に戻ることが出来る。


私だけではなく、みなさんもきっとここぞというときに思い出し、乗り越える言葉があると思うのです。

「乗り越えられない試練はない」 というのは、乗り越えるための知恵や言葉は準備されているということです。

自分にとって座右の銘は何なのか?

どこにその知恵は潜み隠されているのか?

それを見つけ出すのも人生の醍醐味ではないでしょうか?

今日はここで

人間関係に詰まったときの

私の切り札をご紹介します。(試練の度に増えていくようです)

読まれていて意味不明な文章もあるかもしれませんが

いくつかはきっとわかっていただけると思うのです。

よかったらお付き合いください。

  

あなたは創造主 7

 

あなたは創造主

 

何故かというと、人間は神様の子で、自分が創造主なんです。

自分の運命を作るのは自分なのです。

誰も他の人が自分の運命を創ってくれるわけじゃないんです。

自分の運命はすべて自分が創るんです。

どんないいことも、どんな悪いことも、みんな自分が創ったことで、ただ、ここに悪いことが現われてきた場合には、過去世の因縁として、これを自分の中に入れておかないで、消えてゆく姿で世界平和の祈りの中へ送りこんでしまえばいい。

だから悪が現われたり、不幸が現われたり、自分の中にいやな想いが現われたら、過去世の因縁として、パッと切りはなさないといけない。

それで消えてゆく姿にして、お祈りの中へ入れてしまう。

今の自分はいいことばかり、明るいことばかり、真のことばかりを思うんです。

その一番最上のいいことが、

世界人類が平和でありますように

日本が平和でありますように

私たちの天命がまっとうされますように
 

という言葉に現われている、そういう想いなんです。

コトバは即ち神なりき。

だからそれを言葉に現わすと、言葉通りの運命が自分に現われてくる、こういう簡単な原理です。

あまりむずかしいことはないんですよ。

人間が立派になるのも、運命がよくなるのも、あまりむずかしいことはない。

ただひらすら、ひたむきにたゆみなく、あきないで、世界平和の祈りをしつづけていれば、必ずよくなるに決まっています。

それは、法然、親鸞が南無阿弥陀仏といえば必ずその人たちはいい所へ行く、といって教えたのと同じであって、それがもっと現代的にわかりやすく、しかも意義がハッキリととれるように説いているのが、世界平和の祈りなんです。

ですから、この道をまっすぐ進んでいきましょう。





 
     
『内なる自分を開く』 五井昌久 白光出版





  



あなたは創造主 6

 


自分の中からいいことばかり出す



 


皆さんは世界平和の祈りを知っていますね。

だから自分が罪を作っているとか、自分が悪いことをしているとか、ということを一切帳消しにしなければいけません。

もし誤って人を恨んだとするならば、ああそれは過去世の因縁がここに現われてくるんだから、ああ申し訳ない、そんな心を起こしちゃいけないんだ、神様有難うございます。

どうかあの方の天命がまっとうされますように、とパッとかえてしまう。

悪い想いが出、悪い行ないが出るその前に、即座に、神様にあやまちゃって、世界平和の祈りの中に入ってしまう。

そうやって、常に常にいいものばっかり、いいことばっかり、自分の中から出すんですよ。

悪いことはどんどん消えてゆく姿にして、あとはどんどんいいことばかり思う。

自分がなりたいようなこと、人がなってもらいたいようなことを思うのです。

一番なってもらいたいことは、世界人類が平和であること、自分の天命がまっとうされることです。

それを皆さんは気がつかないで、知らないうちに、世界人類が平和でありますように、日本が平和でありますように、私どもの天命がまっとうされますように、といって、一番自分の望むことを唱えているわけです。

それが毎日毎日、朝、昼、晩、歩いていても、電車に乗っていても、お便所の中でも、食事の時でもいつでも、世界人類が平和でありますように、とやっていますでしょ。

これはただ事ではない、大変ことなんですよ。

大変に徳を積んでいることなんです。

 





「内なる自分を開く━本心開発メソッド」 五井昌久 白光出版







  

あなたは創造主 5

 
 
自分自身をまず信ぜよ
 

そこで一番いいたいことは、神を信ずるとか、五井先生を信ずるとかいうことより先に、自分自身を信じること。

これが先なんです。

自分自身には力があるんだ、自分は神の子なんだ、自分は神の分生命だから、悪いことがある道理がない。

あったとすれば神様と離れていた時、過去世の自分の想いが消えてゆく姿として現われているんで、知らない前の業が現われているんで、神様を知って、自分が神の分生命だと知ったその日からは、本当は業はないんです。

それを信じなければいけません。

神様の世界は完全円満であって、自分は神の子だから、素晴らしい能力があるんだ、ということを信ずることなんですよ。

ところが信じられないでしょ。

そういわれても信じられないから、信じて行なっている私のような人がいます。

先覚者という、先にわかった人、ああ神と自分は一つであるということがわかって、能力が発揮できた人、能力が出た人を、ああこういう人がいるんだな、それじゃこの人のいうこと、やることを信じよう、とこういうことになるわけです。

自分で自分の力を信じられる人は、誰も頼ることはない。

自分で生きられるわけです。 自分の中の神様を出せばいいんだからね。

結局、我を信ぜよ、とか宗教を信じろ、というのは、各々の自分の力を出させるために、宗教団体があり、教祖だとか、会長だとかがあるんです。

自分自身でどんどん力が出せれば、誰もいらないんです。

自分でやったらいいんです。

自分では出せない、と思ったら、じゃ五井先生を信じよう、五井先生のいうことは間違いないことだから信じよう、と信じればいいんです。

まず、一番に自分を信じる、ということなんです。

自分が神の子であって、無限の力を持っているんだ、ということを信じることがまず第一なんだけれども、出来ないから先に力を出した人を信じる。

その生きてきた道を信じる、その人の書いたもの、その人のしゃべることを信じて、ああそうなんだ、自分はやっぱり神の子なんだな、神の分生命なんだな、もしここに不幸や病気や災難が現われているとするならば、それは過去世の因縁が、神様の子であることを知らなかった時の想いが、神様を離れていた時の想いが、現われてきて消えてゆく姿なんだな、とこう思うんです。






「内なる自分を開く━本心開発メソッド」 五井昌久 白光出版





あなたは創造主 4

 
 


無限の能力がある
 

どっちが本当かというと、あるほうが本当なんです。

何故ならば、本体は神だから、神様のいのちをそのまま持っているんだから、いくらでもいくらでも、出せば出るんです。

天にありますから、引き出せばいくらでも出てくるんですよ。

それを引き出さない。 自分はもうこれきりでダメだ。

チョボチョボと出して、それでもって、私はダメです、ダメです、私は出来ません、ってなんでもかんでも、やらないうちから出来ません、とか、やりもしないで出来ません、といっています。

案外、やれば出来るんです。

戦争中、力のない女の人が空襲の時、いくらでも力を出しました。

戦争中はいろいろ苦しい想いをして、寝る時間も寝なかったり、食べるものもあまり食べなかったり、それでいて、今以上、力仕事を平気でしていたんです。

ところが今は食べるものはたくさん食べて、栄養はたくさんつけて、充分に寝ていながら、昔よりズーッと力がないんですよ。

ないんじゃなくて出さないです。

一旦緩急、事あると力が出てくる。 事があると力が出るということは、力があるということで、出し惜しみしている。

出し惜しみじゃなくて、力があることを忘れているんです。

自分に能力、才能、力がある、智恵もあるということを再び思い出すために、お祈りをするんです。

自分は神様の子であり、神様の分生命である、ということを思い出すために、一所懸命お祈りするわけです。

 

どういうものがお祈りかということを説明すると、本当は千億万の力がある、素晴らしい力があるということを忘れている。

何が忘れさせているかというと、自分の肉体にまつわる想いなんです。

肉体のほうにある想いがダメだダメだと思うんです。

 

だからこの想いをどんどん毎日毎日神様のほうへ入れていく、それもお祈りの言葉にのせて入れておきますと、邪魔がなくなる。

邪魔がなくなるに従って力がどんどん出てくるわけです。

○○さんでも、私の所へ来た時には、唯物論者から脱け出して、ちょっと心霊科学などをやっただけでなんにも知らないわけですよ。

知らないから力がない。

ところが私のところでだんだん研究をして、自分の力を開いていったわけです。

なんにもなかったのが霊能が出てきた。

絵がかけないのが絵がかける、字もうまくなる、すべてが向上してくるわけですね。

ないものだったら向上しっこないでしょう。

あるから向上するわけです。 それは○○さんばかりじゃない、誰でもみんなあるんですよ。

皆さんはおそらく、百万の力があったとしても、出しているのは、たった三か五なんですよ。

百万分の三か五ぐらいの力しか出していないんです。

それで自分では一端(いっぱし)やっているつもりなんです。

 

「内なる自分を開く━本心開発メソッド」 五井昌久 白光出版




 

 

あなたは創造主 3


 

わかっていることの得

 

ここに五井昌久という肉体があります。

肉体の私は皆さんと同じようです。 皆さんより微妙です。

皆さんの心がわかったり、運命がわかったりしますから、普通の肉体より上等は上等なんですけれども、やっぱり肉体は肉体です。

ですから肉体は一つの道具なのです。

本当の五井先生は何かというと、神界にいるわけです。

本当の皆さんはどこにいるかというと、やっぱり同じ所にいるんですよ。

神界にいるんです。 神様の中にいるんです。

それが皆さんはわからない。 私はわかっている、その違いなんです。

わかっているということは、大変に得なことです。

わからないということは、大変に損なことなのです。

自分に十億も百億ものお金があるのに、財布の中に千円しか持っていないと、千円だ千円だと思って、小さく細かくケチケチ使うわけです。

実際は百億持っているのに、知らないから千円しか使えない。

ところが私は無限億万円持っていることを知っているんです。

だから平気なんです。 お金にも把われない、なんにも把われない。

お金に譬えたけど、力にしても能力にしても、素晴らしい力、能力を持っているのです。

けれど自分は知らないで、少しの能力しかないと思っている。

思い込んでいるから出せないんですよ。

あると思っている人は出せるんです。

 

 
 

  「内なる自分を開く━本心開発メソッド」 五井昌久 白光出版





 



 

あなたは創造主 2

 


本ものとニセもの


いつもいいますが、人間というものは、簡単にいえば二つになっているのです。

なんの何某(なにがし)という自分と、本心本体、神そのものである自分という、二つです。

どちらが本ものであるかというと、神様である自分が本ものです。

よく、人間は神様になれっこないとか、人間だから仕方がない、といいます。

しかし本当の人間というものは、神人というものは、神と全く一つなんです。

ということは、この世の中に現われているものの中で、神様がお創りにならないものはないんです。

本当のものは、全部神様がお創りになった。

それに神様の生命エネルギーを人間は持っていますから、そのエネルギーを使って人間が創ったものがある。

それは何かというと業(ごう)なのです。 (業とはカルマともいい、人間のマイナス想念が消えずに残っていて人生に影響を与えているもの)

神様の中には、悪いものは一つもあるわけはない。

神様は全体で、完全円満、大調和です。

人間はその神様の分生命だから、調和そのままなんですよ。

ところが実は、この世の中というものは、悪はあるし、不幸災難もあるわけです。

どうしてそうなっちゃったのか。

それは人間が肉体に入ってきてから、神様の力を忘れてしまったのです。

自分の本体を忘れてしまったのです。

そして自分は肉体の人間だ、五尺何寸の人間だ、私とあなたは違う、AとBとは違うというふうに、みんな別々に考えているわけです。

今でもそうでしょ。 みんないのちが通い合っていることがわかりません。

形が別だから、あの人と私とは違うと思っています。

ところが底を探りますと、みんな一つのいのちに結ばれています。

そこであらゆる宗教は、みんな人間は兄弟姉妹だと、みんな一ついのちに帰一するわけです。

みんな神様のみ心の中にあるわけです。

そういうことがわからないとダメなんです。

 

 

  「内なる自分を開く━本心開発メソッド」 五井昌久 白光出版




 

 

 

あなたは創造主 1

 

「人間は、本来持っている力のほんのわずかしか出せていない」

よくいわれる言葉ですが

本当にそうなのです、人間はほとんどの人は肉体の自分だけが自分だと思っています。

思い込んでいます。


しかし、そうではなく

本当の本来の力はもっと奥の方からやってくる。

人間は、肉体という体の他に幽体、霊体、神体という体(ボディ)を纏っている。

肉体という体は、170cm、65㌔だとしても、幽体は、ビル一棟分あり、霊体は地球大にあり、神体は宇宙に拡がっている。

だから

「自分には無限の可能性、無限の力、無限の叡智があるんだ」

と信じれば信じるほど神界(宇宙)からの無限のパワーが肉体の自分に降りてくるのです。

これをやっている人を天才というのです。

天才は、特別な人に与えられた能力ではなく

すべての人間に与えられた力なのです。

違いといえば

自分の中の無限の可能性を信じているか

いないかに過ぎない

だから

自分自身を知ることが大切なのです。

自分自身がいったい何者なのか?

がわかっていないと

人間とは何ぞや

がわかっていないと

非常にもったいない生き方をしてしまうのです。

今日、私は五井先生の本の一遍を読んで心の底から無限のパワーが湧いて来るのを感じました。

たくさんの人たちが、このこと(人間の無限の可能性)を知ることで、世界は一変する。

素晴らしい世の中が訪れると確信したのです。

人間とは創造主なのです。

あなたは創造主なのです。

 

2013年6月24日 (月)

笑い飛ばされてこそ、本物なのだ 2




老子講義より

 

上士は道を聞いては、勤めて之を行わんとし、中士は道を開いては、存するがごとく亡きがごとく、下士は道を聞いては、大いに之を笑う。 笑わざれば、以て道と為すに足らず。

上士というのは勿論上等の人、上位の心の人という意味ですが、そういう人は、道を聞くと、どのようなむずかしい行為でも、勤めてこれを自己の行為に現わそうとするが、中士は道を聞いても、判らないところでも、判ったような顔をしてみたり、頭では理解しながらも、なかなか行為に現わそうとする努力をしなかったりする。

それは道に対する信というものがあまり深くないからで、この人たちにとっては、道というものが、自分の都合次第では存在するようにも思えたり、存在しないものに思えたりするのである。

ところで下位の人になると、道を聞いては、そんな道がなどというものが存在するものかというように、大笑いに笑とばしてしまう、というのであります。

そして老子は、そういう下級の人に大笑いされないようでは、道というには足りない、といっているのです。

こういうところは、老子時代も今日の時代でも少しも変っていません。

今日の宗教者がいくら口をすっぱくして神の存在を説き、神の道を説いても

「そんなものがあるものか、神様があるのなら、何故こんな不公平な世の中を造ったんだ。口惜しかったら、こんな苦労しなくとも楽に食えるような世界をつくってくれ、あなたたちのいうような、神の道なんていうのは、私たちには用はないよ」

などという人々がかなり多いのであります。

老子は神の存在ということと、神のみ心の在り方というものを、ここでは道という言葉だけで説いております。

そして、この道ということが判るのはむずかしいことなので、そうやすやすと理解できるものはない。

だから、現象世界の利害損失のみに追われているような、下級な志の者には理解しがたく、そんな話を聞いたって、一文の得にもならない、と馬鹿にされて大笑いされるものなのだ、道というものはそんなものなのだ、といっているわけです。

実際この世の大半の人々は、利害損得ということが、先ずその想念の先に立つのでありまして、宗教信仰しているような人々でも、自己の現世的な利益を保証して貰いが為の信心であったりすることが、多いのであります。

ですから老子のいうような上志の人は実に少ない人数しかないのではないかと思われます。

しかし信仰の最初は中志であっても、その信心をつづけてゆくうちに、いつの間にか上志の人と同じレベルの心境に到達している人々が、世界平和の祈りの同信には非常に多く存在するのです。

神などあるものか、それよりは飯だ、というような下級な想いの人々でも、医者に見放された病気などのなると、溺れるものは藁をも掴む、というように、神信心の想いをむけることもあるのですから、現在下級のように見えている人でも馬鹿にしてはならない。

人はみな神の光のひとすじなのだ、と私は常にいっているのであります。

   



       「老子講義」 五井昌久 白光出版




 

 

笑い飛ばされてこそ、本物なのだ 1

 
 

自分の意識が高まって、目的意識が高くなればなるほど、信念が強くなればなるほど、なぜか周りの人の評価は下がってゆくのです。

それは周りの人たちの意識があなたについていけないからなのです。

人は自分が理解出来ないと相手を攻撃してくる、批判、非難してくる。

そして繊細な人は攻撃されるとショックを受けて途中で止めてしまうこともある。

攻撃や批判、非難をマイナスに取ってしまうからなのです。

しかしそれはマイナスでもなんでもないのです。

人に話して簡単に理解をされるようでは

まだまだ本物ではない

本物とはそんな薄っぺらいものではない

もっともっと奥の深い

目にもみえなくて

耳にも聴こえなくて

感じるものでもなくて

しいていえば

本物とは

心の琴線に触れるような

温かい、ふんわりとした

微妙なバイブレーションなのです。

その本物を伝えようとしても

その意識にまでいっている人でないと

その波動(エネルギー)は理解出来なのです。

しかし理解されないからと諦めてはいけない

本物を追求することをやめてしまってはいけないのです。

諦めたり、止めたりすることは

自分の成長を止めることになる

人は成長することを止めると

生きていけなくなるからです。

宇宙が日々進化しているように

小宇宙である私たち人間も日々本物に向かって前進しているのです。

その途中で、自分を理解してくれる人が少なかったとしても

いや、いなかったとしても

それは自分の進化(神化)向上とは一切なにも関係ないことなのです。

周りの人から

「そんなバカな話があるか」

と笑われるくらいでないと本物とはいえないのです。

私が人に理解してもらえなくて落ち込みそうになったときにひも解く本があります。

「老子講義」 五井昌久 白光出版

私はこの本が大好きで、もし海に流されて漂流して孤島にたった一人で住むことになって

一冊だけ本を持ちこんでもいいとなったら

間違いなくこの本を選ぶのです。

私にとって最高の指南書なのです。

今日はその本の中から抜粋します。

 

 

 

2013年6月17日 (月)

睡眠とはどういう意味があるのだろう?

 

起きているときは、肉体界だけにしか働いていないが、寝ている時は、霊界でも働いている。

だから脳は、起きているときよりも眠っているときの方が活発に使われているんだ。

何~んてなんのこっちゃわかりませんよね(笑)。

それから霊要素・・・・、人間は固形の食物(物質)を食べなくても、宇宙からのエネルギー(霊要素)があれば生きていけるのです。

というより、3日寝ないで霊要素が入って来ない状態を続けると、人間は死んでしまうのだそうです。

食べ物なら、7日食べなくても水さえあれば、なんとか生きていられます。

それくらい霊要素は人間にとって無くてはならないものなのです。

仙人がエネルギーの高い水(カスミ)を食べて生きていたというのもうなずけます。

断食をして、腸を休めると、人間は霊化(神さまの体に近くなる)するのです。

すると、精神も落ち着いてくるし、体調も良くなってくる。

エネルギーが食べ物を消化する方に向かわずに、精神と体を整えることに使われるようになるからなのです。

無理に断食をしたり、食べる量を急に減らすのは危険ですが、徐々に少食にしてゆくのは、これからの精神文明への移行を考えると必要なことだと思うのです。(ダイエットにもなり理想的な体質になる)

私たちは寝ることで疲れが取れたり、元気を取り戻すことから睡眠の大切さはわかっています。

しかし、どういう仕組みになっているかは、ほとんどわかっていないのです。

それは目にみえるところからしか睡眠を捉えていないからです。

目にみえる肉体界からだけをみていたら、わからないことだらけなのです。

死とはなにか、死の状態と睡眠の違いはなにか?

寝ているときは私たちは肉体を離れてどこへ行っているのか?

起きている時の脳と、寝ている時の脳とはどういう働きをしているのか?


興味深いですよね。


 

睡眠、死の両方共に、霊魂の肉体離脱には変わりありません。

睡眠と死とは、霊線で肉体と霊魂が結ばれているか否かで区別されるもので、両方共にその状態が誠によく似ているものであります。

眠りの方は、肉体の後頭部より、肉眼では見えませんが、霊眼でみると極めて細い、一本の絹糸のような透明で伸縮自在な霊線で、霊魂と肉体とが結ばれていて、そして魂が肉体を離脱して、遠く離れた友人や縁者に会いに行ったり、また霊界のいろいろな階層に行って、働いたりなどするものです。


肉体を離脱した魂は、その人の現在の霊位に相応した、霊界の修行の場へ移行します。霊界で霊波動を受けて、現世で付けた想念(よごれ)を洗い落とすのです。

そしてその生命の洗濯と同時に、引き替えに与えられるものは、霊要素であります。この霊要素は三日連続で与えなければ、たいていの人は死んでしまいます。

霊界での働きを終えて、夜明けと共に霊体身に、霊体波動の中に記録された状態が、未明の夢として、私たちの意識の中に、明らかに残る場合もあります。


学者たちの研究によると、夢の時間の方が、昼間のたいていの時間より、頭脳が活発に動いていたとか、海馬溝といわれる脳の部分が、夢の時間にはいちじるしく働いているといい、その海馬溝は記録の場といわれる、等の発表がしてあるのは、

私が守護の神霊に教わったことと、一脈相通ずるものがあるのです
それはどういう事かといいますと、頭脳というものは、人間の進化にとっては、一番大事な所であることは誰でも知っております。

その大事な頭脳の働きが、夢を見ている時が、最も活発に働いているということは、人間の進化のための一番大きな働きを、夢の時間にしているということになって来ます。

そしてもう一つ面白いことは、脳の海馬溝といわれる部分が記録の場であって、しかも夢を見る時に、最大の働きをしているということです。

これは私の説の裏づけをしてくれたようなものであります。過去からの想念波動の蓄積は、その脳の海馬溝といわれる所にあるので、この海馬溝は幽界霊界神界という、他の階層との波動の交流点であるのです。

ですから想念波動の記録は、その交流点を通して幽界から肉体頭脳に、肉体頭脳から幽界に、あるいは霊界神界にと、交流してゆくのであります。

そして眠らされている時の肉体意識は、この交流の妨たげをしない無意識状態なので、神霊界の光明を肉体頭脳に流し入れ、肉体頭脳に蓄積されている業想念波動の記録を、夢と画いて消し去ってゆくのであります。

そういう働きが急速になされるので、その時その働きを司る肉体頭脳の一部、つまり海馬溝が活発に働くということになるのです。

こういう作業を行なっているのは、守護の神霊方なのであります。このように睡眠というものは大事であり、夢という状態で業想念波動が浄められてゆくことのありがたさは、とても筆舌にはつくせないご恩であるのです。




       



                   五井昌久







補足です。(祈っている人限定ですが)

寝る前にスッキリして寝ると、守護霊守護神は、守っている人間を専属で浄めなくてもいいので、よそで働けるから、親(魂の)孝行をしていることになる。

人類へ貢献していることになる。

と聞いたことがあります。

みなさん、寝る前には、祈り込んでスッキリして寝るようにしましょう。

自分の波動(エネルギー)は自分で整えるようにしましょう。(波動調整)





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2013年6月13日 (木)

霊能的な人、知性的な人 2


 

霊能的な人、知性的な人

 
 

霊能的な人は、肉体界以外の世界を常に感じているので、霊界や神の存在をはっきり認識することができるのですが、その反面、普通の人が感じ得ない、幽界の波動を感じて、種々な病に侵されたり、恐怖感に襲われることが多かったり、感情の変動が激しかったりして、人目にはなんとなく変な人にみられることもあり、気分屋とみられたりすることがあるのです。

霊能的でない人は、神の姿や霊界の姿をみることができないので、体験的な神の認識や霊界の存在の認識に欠けるのであります。

ですから理論的にわかりながらも、神のみ心にすっぽり飛び込んでゆく、全託の道にはなかなか入りこめないのです。

そこで神のみ心を自己の行きつく目標として、着々と自己の心の向上を計ってゆく道を進んでゆくのです。





 

霊能的な人々に必要なこと


 

霊能的な人のほうが早く悟り(安心立命)の境地に入りやすいように思われますが、そう割り切ることは出来ません。

なぜなら、霊能的な人には幽界の波動の邪魔が多くあり、神のみ心と波長を合わせる非常な妨げとなるのです。

第一に感情の波を乱されるということ。

急に怒りっぽくなったり、悲しくなったり、淋しくなったりする一方、なんだか自分が偉い人物に思われてきたり、人を劣等視する想念の波を受けたりするのです。

だから、精神の安定が保たれず、宗教精神のうちで一番大事である、調和の精神を乱すことが多くなるのです。

宗教精神とは大調和の精神が根源のものであって、それが愛、誠の行為として現わされるものなので、調和の精神に欠けていたら、他のプラス面が大割引されてしまうのです。

    

           「日々の祈り」 五井昌久 白光出版




 

 

霊能的な人、知性的な人 1

 

毎日、神さまであるとか守護霊守護神であるとか霊、幽界、神界とか不思議なことを書いているグッドムーンという奴は、かなり変わった奴、いろんな目にみえないものがみえたりする霊的な奴なんだろうなぁとみなさんは思っていらっしゃるのでしょうが、私はいたって普通であり、決して霊(神さま)を感じたりしてはいないのです。

見えないし、感じてもいない、だが神さまがいらっしゃることは間違いないと思っているし、幽界や霊界、神界(天国)もある、守護霊守護神の存在も信じています。

これは理屈ではないんですよね。

「なんであるとわかるのか?」

と言われても

「あると思うからあるんだ」

としか言いようがない。

そのうち科学的にも証明されたり、3次元(肉体界、この世)に亡くなった人が現われてきてみんなが納得されるようになるのでしょうが、それまでは自分の心の中であると思っていればいいわけです。

それならばなぜ、ブログに書いているのか? と聞かれたら

それは、目にみえない世界(4次元、多次元、幽界、霊界、神界)のことがわかっていることの方が全然わかっていないよりも

俯瞰的(宇宙的視野で)に、世の中がみれるようになり、宇宙の真理がわかることで楽に楽しく、安心して生きて行けるようになるからです。(私がそうだったから)

その安心感を楽しさを是非、みなさんにも体得していただきたい。

それだけなのです。(それが幸せにつながるからです)
 

この世には、霊的な人がいます。

幽界のおばけちゃんがみえている人がいます。

「みえるというのは、なかなか大変なんですよ」

とある人が言っていましたが、本当に大変だと思います。

一方で、全然みえない、感じない人もいる

だから、神さまも仏さまもそんなものはあるはずがないと全然神仏を信じない人もいる

人間ってほんとに十人十色、いろんな人がいるのだなぁ

と思うのです。

どちらがいいとはいけないけれど

霊能的な人というのは、神さまにも通じやすい代わりに、幽界のオバケちゃんにも影響を受けやすい。

感情的な人や、「この人ちょっと変わっているなぁ」という雰囲気を醸し出している人は、やはりその影響を受けているのです。

一方、まったく受けていない人もいる。

知性的というのだそうですが、そういう人もなんだか人として面白くないなぁと思うのです。

神秘的なものに一切興味がない というのも現実的過ぎて、幅がないような気がします。

だから道の探究って大切なんでしょうね。

「人間とは肉体(肉体界)だけではない、奥には何かある、ありそうな気がする」

という探究心が、そして本物(神)を真直ぐに求めて行こうとする姿が尊いと思うのです。

それは、霊能的であるとか、知性的であるとか関係なく
 

人間が最後にたどり着く、道だと思うのです。



  

2013年6月12日 (水)

想っていることは、心ではないのです。

  


 
心(本心)というのは、私たち人間の元(宇宙)から流れて来る直のメッセージ(神智)であり、想念とは、その心を覆っている雲のようなもので、ネガティブな想念は黒雲となり私たちの心を暗くするのです。

つまり心は太陽であり、想念は雲なのです。

私たちは常日頃、心にひっかかってきている雲を心だと思っている。

そして雲(想念)を捉えて、大騒ぎをしている。

「私の雲(想念)はなんて醜いんだ、こんなことを想ってしまっている」

「あいつはなんて悪い雲(想念)の持ち主なんだ、あんなに悪い奴(雲)はいない」

みんな太陽(本心)を見ずに、想念や雲をつかまえてそれを本心だと思っている。

だからいさかいが絶えないのです。

人間関係がうまくいかないのです。

なにをやっても想念(雲)が邪魔をして面白くないのです。

スッキリしないのです。

心と想念を別にして、区別しないと誤解が誤解を生むのです。

雲や想念は、太陽の光を強くすれば、一瞬で消えて無くなる。(そのために祈りがある)

またはじっとしてれば太陽の前をいつかは通り過ぎてゆく

消えてゆく姿です。

私たちは、太陽を見ずに、幻を太陽だと思っていた。

太陽をしっかりと見るには、雲を越えなければ、見えてこない。

つまり想念、感情を超えたところに本心はある。

想念を静めて、気(エネルギー)を鎮めて

これは想念なのか?

これは本心なのか?

しっかりと見極めることが地に足を着けて生きてゆく上でとても大切なことなのです。

 

本心開発の加護を願え



 

人間の生命を肉体だけに限定して考える誤り、想念を把えて心であるとする誤り、この誤りを一日も早く改めなければ、人間世界を真実の世界にすることは出来ません。

「人間よ、想念を静めて本心をみつめよ。ひたすら神(守護霊、守護神)を呼びつづけ、本心開発の加護を願え。さすれば、その人は自由自在心を得ん」 と私はいいたいのです。

守護霊はあなたの頭の上に、守護神はそのまた上に、あなたの本心開発のために、真剣になって過去世からのあなたの誤った想念行為の波動を、光の波で浄めつづけているのです。

守護霊守護神に感謝しつづけていれば、必ず神霊の存在があなたに感得出来るようになるのです。





   
        「日々の祈り」 五井昌久 白光出版





  

2013年6月10日 (月)

悟りとは 2


 

悟りとは



悟りとは、本心と自分とが全く一つになるということなのであります。

迷ったり、怒ったり、恨んだり、妬んだり、哀しんだり、恐れたり、執着したりする想念というものを、ハッキリ、自分ではない、と思い定めることなのです。

自分とは、神と一つである本心そのものあり、もろもろの想念は、過去における自分の迷いの足跡が、今現われて消えてゆく姿である、と思い定めることなのであります。

自分が自分の創造主であることを知ること。

つまり自分が神の使命達成の一員として、神の世界から天降って、この地上界に神の生命をはな咲かせつつある者であることを知ることなのです。






 
本心そのままで生きている人

 

悟りとは、自己の本心を光り輝かせること。

生命をさわりなく生かしきれる状態をいうのです。

悟りといっても、様々と段階のあることで瞬間的に、自己の本心を現わしたり、生命を生かし切ったりすることも悟りでありますが、常に変りなく、本心そのままで生きぬいている人があるとすれば、その人は釈尊(お釈迦様)と同じような正覚を得た人というべきでしょう。

本心そのままで生きている人の状態は、どのようかと申しますと、

慈悲深く、喜怒哀楽に迷わされず、すべての恐怖なく、他人の本心と想念をも、はっきりと区別してわかり、おのずと人々の想念を浄めている、といったような人になるわけです。

神は光であるので、本心そのままで生きている人は光輝いている人であります。

 

         「日々の祈り」 五井昌久 白光出版



  

 

悟りとは  1

 
  
私たちは、ちょっと閃いたり flair 、今までにわからなかったことがわかったり、物事を冷めた目で見て、諦めに似た心境になったときなどに 「世の中なんてそんなものさ」 など達観したような気分になって

「私は悟った!」 などと言ったりしますが、本当に正覚を得たお釈迦様からみたら、「なにを寝言を言っているのだ」の世界だと思うのです。

悟るとは宇宙、天界、神界にある本当の自分(本心)と肉体人間の吾が一体になることであり、宇宙の無限の叡智が地球上の自分の器に降りてきた状態をいうのです。

神そのもの、仏さまそのものの姿ですね。

地球が誕生してから、気の遠くなるような時間が経っているのにその中で地球で紆余曲折を経て正覚を得た(キリストのようにそのまま降りて来た人は別として)人は、数えくらいしかいないのに、その人たちと同じように簡単に、悟ったというのは、あまりにも自分を知らないと思うのです。

だがしかし、自分の中の業想念、カルマを守護霊守護神の助けを借りて浄め、欲望、執着を少なくし精進していけばそのような状態に近づくことは確かだと思うのです。
 

なんのために悟るのか?

というと自由自在心になるためなのです。

肉体という器に閉じ込められたようになっている心を解き放ち、把われを無くし、生命が生き生きとしている状態・・・・・・。

それが悟る目的なのです。

今迄に数えきれないくらいの修験僧が正覚を得て悟ろうと挑んだが、なかなか悟れなかった。(そんな人たちが幽界や霊界の低いところにたくさんいるのです)

しかし、今の時代になって、黎明期に入って、物質文明から精神文明に移行し、地球の完成期である、七劫という次元上昇の時期にきて

人間は、突然のように悟り始めるのです。

それは、もちろん伏線があってのことですが、エネルギーが高められ、機が熟した時期になるからそうなるのですが、

今後お釈迦様のような魂(天使)の人がどんどんと現われ、そのエネルギーに触れた人も急に目が覚めたように覚正し始める。

それがこれから始まるのです。

本当の悟るとはどういうことなのか?

「日々の祈り」 の中から抜粋致します。


私たち人間はどんな人でも、たとえ今がそれどころではない、ひどい状態であったとしても、悟りの境地になることを心の底では必ず求めているのです。

 

 

 

人間はいろいろな体(ボディ)を持っているもの

    

人間で一番神秘的だと思うのは、心と体がどうつながっているのか?

だと思うのです。

今何かを思っているのは、体のどこの部分がそう思わせているのか?

心臓なのか? 頭なのか?

それとも肉体と心は別なのか?

人間とはそんな基本的なこともわかっていないのです。

心とはどこからやってきたのか?

心と体はどこで合体したのか?

体が無くなると(死ぬと)、心はどこへ行くのか?

私たちが住んでいる肉体界とは別に目にみえない世界があるのか?

あまり深く考え過ぎる必要はないとは思うのですが(笑)

肉体の死とはどういうものか?

肉体とは波動の粗いエネルギー体であり、心は波動の細かいエネルギーで出来ている。

その波動の隙間に、いろんなものが溜まっている(潜在意識、業想念)世界、体(ボディ)がある

それが幽界(幽体)なんだ。

幽界(幽体)は汚れている。

汚れているから世の中も自分の体もおかしくなっている。

その幽界(幽体)を浄化させてスッキリ爽やかになることが個人も人類も幸せにしていくことなんだ。

ということはしっかりと押さえておく必要はあると思うのです。

死をいたずらに恐れるなかれ!

スッキリすることに意識を向けよう!


 

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人間はいろいろな体を持っているもの
 

人間でも動物でも、形の世界に現われ出でるまでには、種々な波動の変化をもって現われてきているのであって、人類は、その波動の変化のいちじるしんもので、微妙きわまりない波動から、肉体的な粗雑な波動になるまでの、何段階もの波動の世界を通って、現在この地球界に肉体人間として現われているのであります。

これを宗教的にいえば、人間は肉体界に存在しながら、同時に幽、霊、神の各界に生きているのだ、ということなのであります。

人間は死んでからあの世に行くと、今日までは思われてきていましたが、実は、肉体に存在するままでいつでも、神界、霊界、幽界という各界にも存在しているので、改めて死を恐れたりすることはないのです。

   

        「日々の祈り」 五井昌久 白光出版





 

 

霊力と霊能力の違いについて教えてください。 2



霊力と霊能力とを間違える人がいますが、人の心がわかったり、当てものをしたり、

運命の予言をしたりするのを、霊力と解釈していますけれど、それは霊能力なのです。

一つの能力なのです。

霊能力がすぐれている人が人格が高いかというと、そうでないのです。

ところが霊力のすぐれた人は人格が高いのです。

霊力というのはいいかえれば、霊の光、根源の光です。

神のみ心の光が強い人がやっぱり人格が高いのです。

たとえあてものをしたりすることがうまくたって、それが偉いということにはならない。

そんじょそこらの行者はみんな当てものがうまいですよ。

財布の中にいくら持っているか、なんてチャンとわかるんです。

なぜわかるかというと、肉体波動のそばにいる幽界の生物が、幽界と肉体界と波動が

近いから、透して見えるのです。

ところがズーッと高い所にいる神さまは、わざわざそんな低い所を見ない。

その人がいかに生きるべきか、どうしたらその人を立派に出来るかということを見るわ

けです。

わざわざ降りれば見えますよ。 けれどそんなことは必要ないから、高いところからその

人に光を当ててやる。

そしてその人に力をつけてやる。

ところが低級の霊能者というのは、力をつけてあげるのではなく、その人に出来ないこと

をチョコチョコと教えて、相手を屈服させて、自分の支配下におく、子分にしているのです。

霊力が強くて、霊能力の素晴らしい人もあります。

霊力が強くても当てものなどわからない人もあります。

ですからこういうことがいえるのです。

信者が一杯いる教祖があながち偉いとはいえない。

普通の人でいい影響を社会的に或いは周囲に与えている人がいます。

その人は霊力があるわけです。

霊力というのは要するに人格の立派なということで、そういう人が偉いのです。

いくら当てものがうまく、これをこうやれば儲かるといって当たって儲かったとしても、

それを教えた人は神さまでもなんでもない、偉いのでもない、勿論そういう当てものよう

なことが出来て偉い人があります。

祈りつづけていて、霊能力が出て、人の心が分かったり、予感、予知力が出来たりする

人があるとします。

そうした神秘力が得られたといって、いばってしまってはだめなのです。

そういうことではない。

人間の立派さというのは何かというと、人格が立派になることなのです。

いつもいいますが、おのずから和んでくる。

おのずから人の心が優しくなってくる。

その人と一緒にいると、おのずから勇気が湧いてくる。

何か親しい懐かしい気持ちが出てくる。

そういう力を持つことが霊力が強いということなのです。

人に与える好影響が強ければ強い程霊力が強いんです。

「お前の息子さん、三年先に大病するよ、気をつけろ」 といわれて、二年たった、

あと一年だ、どうしようどうしようと私にききにくる人が随分います。

これはいい影響を与えていません。

三年間脅しつづけたんだから、悪い影響しか与えません。

わかっていたって、いわないで知らん顔していて、しらないうちに霊力で光を与えていて、

大病でなくなるようにやっておいて、やがて現われた時に救ってあげる、という人のほう

がいちいち予言して、おどかして自分の力を示そうなんていう人より、ずっと立派ですね。

「神と人間」(五井昌久著 白光出版)には簡単に書いてありますけれど、

よくわかるように書いてあります。

皆さんは霊能力のある人よりも、霊力の立派な人格のすぐれた人になることです。

人格がすぐれていると同時に、霊能力があればそれに越したことはないのです。

それを間違えてはいけない。

だから霊能力だけを磨こうとして、統一などしてはいけない。

人格を立派にするために祈るわけです。

人格が立派というのはどういうことかというと、愛が深いこと、調和した人間であること、

勇気があること、簡単にいったらそういうことです。

そうなるように全力をもって近づかなければいけませんね。

 

 

 「質問ありませんか?」 五井昌久 白光出版





 


 

 

霊力と霊能力の違いについて教えてください。 1

 
 


巷にもインタネットの世界にも、スピリチュアルなものが結構あります。

スピリチュアルとは精神的な。霊的な。宗教的な。という意味だそうですが、人間が目にみ

えない世界に興味を持つことはいいことだと思うのです。

目にみえるもの(こと)は目にみえないものの影絵である。

目にみえないもの(魂や心)を美しく立派にしてゆくことで目に見える世界を素晴らしいもの

にしてゆく。

という純粋な気持ちでスピリチュアルなものを求めていけばいいのですが

途中から、「人々の称賛を得たい」 「いい生活をしたい」 「権力を得たい」 などと邪な想

いが出てくると、幽界の低俗な霊(幽霊)が感応してきて、いつの間にか憑依されることに

なるのです。

巷にある、ネットにあるスピリチュアル系のほとんどがそうだとはいいませんが、近づかな

い方が無難だと思うのです。

それよりも3次元(目にみえる世界)を一生懸命に生きてゆく。

その方が余程、よっぽど尊いことなのです。

そして、3次元と4次元、つまり目に見える世界とみえない世界はつながっているのです。

3次元を一生懸命に生きていると、自然と4次元がわかるようになるのです。

相手の心を察するようになってくる、わかってくる(洞察力)

直観力が冴えてくる (神智、インスピレーション)

人の魂(精神的な)の成長が自分の喜びになる (愛が深くなる)


これらは人間の持っている素晴らしい叡智であり、霊力といわれている力です。

霊とは神さまのことであり、霊能力とは違うのです。

霊能者と霊覚者が違うようにどう違うのかを五井先生の本の中から抜粋してみます。

私たちは、元々神の子なので、霊力はどんな人にも備わっているのです。

ただそれをどう顕わし、どう使ってゆくかが大切なんですね。


 

 

2013年6月 9日 (日)

愛のある雰囲気を

 
 

元来、人間の想念というものは肉眼には見えませんが、各種の波状をえがいて、その人の周囲から流れ出ているもので、その人の長い間(過去世からの)想念の蓄積が、その人の雰囲気となって他に伝わり、あるいは様々な環境を運命を創り出しているものなのです。

そうした雰囲気が霊眼者には、光とみえたり、黒雲のようにみえたりするのです。

ですから、そうした想念の波動をみれば、その人がどの程度の魂的高さをもっているか、常にどのような行為をしているかがわかるのです。

常日頃から愛念で生きている人の魂は光を放っています。

愛が深いということは、本心が顕われている証拠であり、神の心の働いている証であるのです。



         

        「日々の祈り」 五井昌久 白光出版

 

 

感想

雰囲気というを科学的に判断するのにオーラ撮影があります。

オーラを観ると、人間とは肉体だけではないんだなぁということがわかります。

そこに写っているのは、幽体であり、その幽体は目には見えないけれど、なんとなく明るいとか暗いとか、なつかしい、嫌だ、側に行きたい、近寄りたい、仲良くなれそう、なんとなく虫が好かない・・・・・など五感(視、聴、嗅、味、触)を越えた感覚を醸し出しているのです。

大きさは、普通家一軒分の大きさがあり、オーラの大きい人は、ビル一棟分くらいの大きさがあります。

ですからオーラ(幽体)の大きな人がデパートに行くと、そこに居る人たち全員の想念の影響を受けるといえるのです。(又は自分の想念が全員に与えている)

人ゴミの中へ行くと疲れるという疲れるとは、憑かれるという意味なのです。

急に感情的になったり、気分が沈んだり、または急に明るくなったり、楽しくなったりするのは、他人の幽体が肉体の脳裡に影響していることが多いということは知っておいた方がいいと思うのです。

そして、自分が自分であるために、ぶれない自分であるために他人のマイナスの影響を受けないためにも、自分自身のエネルギーを整える(波動調整という)ことが大切であるということです。

そして心の中は、いつも愛のエネルギーで溢れている人になる。

そんな自分でありたいと思っています。





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2013年6月 8日 (土)

わかると面白い 5

 

ああこれは消えてゆく姿だな、自分はこんな悪い想い方のくせや、行ないのくせがあるけれども、こんなわがまま、こんな怒り心があるけれども、それはみんな消えていったんだな、あ、出てきた、けれど消えたんだな、また出た。また消えたんだな、と世界平和の祈りと共にやっているうちに、どんどん減って、未来へ向かって悪いものが出て来ない。

未来へ向かってこんど出てくるものは何かといったら “世界人類が平和でありますように” というような尊い人類愛の想いが、そこにいっぱい、あふれ出てくるわけです。

愛の想いは完全円満なのだから、完全円満の姿がだんだん出てくるわけです。

消えてゆく姿で世界平和の祈り、というのを、つづけて実行していればしているほど、その人の現在の心も明るく輝いてくるし、未来も完全になってきます。

しまいには絶対完全な人間になるのです。

たいがいの場合、それをいくら教わっても自分はだめなものだ、しゃくにさわる、とか、こんな不幸になって、こんな貧乏になって、こんな病弱になって、とこういうように思う。

思うなといっても、思ってしまうのだから、しかたがない。

思うのも因縁因果なので、思うように出来ているのだから。

だから、思ったら、すぐその場で、ああ先生に教わったのはここだな、と、消えてゆく姿だ、世界人類が平和でありますように、神さまお願い致します、

と素直にやると、それだけ減ってゆくのです。

私の教えは、実にやさしくて、人をとがめるわけでもなければ、自分をとがめるわけでもない。

人間を自然の姿に還そうというわけです。

自然の姿は何かというと、春になれば芽がふき花が開き、夏になれば緑しげり、明るく太陽に照りはえる、というように自然に運行しているものです。

肉体の生命もみんなそのように自然に運行しているんです。

その運行を自然にさせないものは何かというと、神さまから離れた想いなんです。

その想いが勝手に自分の運命を作っている、神さまの次元としての運命と、自分の想いで作った運命とが、別々になっちゃってる。

だからみんな神さまにまかせて、消えてゆく姿で、世界人類が平和でありますように、とやっていけば、だんだん自分勝手な想いが消えてしまって、光一元の生命そのものの自分と、生まれかわってくるわけです。

生命一元の自分になりきってしまえば、なんにも悪いことは出て来ない。

把われることもなくなってくる。

そうすれば、その人は平和になります。

一人の人間が本当に平和になれば、その影響は地球界に及ぼします。

宇宙に及ぼすのです。

そういう人が多くなれば、世界はいやでも平和になるのです。

その先達として、皆さんが世界平和の祈りを一生懸命やっていらっしゃるわけなんですね。

だから、皆さん一人一人が平和の気持ちになれば、それだけ世界平和に役立っているんです。

自分が平和な気持ちにならなければ、世界平和に役立っていないのです。

もし平和な気持ちがなかったら、ますます、一生かけて、二生かけてもいいから、消えてゆく姿で世界平和の祈りをやりつづけるのです。

必ず平和な気持ち、平和な心が、得られます。


                  

                   
終り

 

   「質問ありませんか?」 五井昌久  白光出版

 

ほんものとにせものを区別する法


  

ほんものとにせものを区別する法


 

やたらに人を信じてよいというものではない。

やたらに人のいう通りに行動してよいというものでもない。

相手の本心と業想念をよく区別して、相手の業想念のなかにひきずりこまれてしまってはいけない。

そうした本心と業想念の区別をつける最もよい方法は、先祖の悟った霊である守護霊さんと、その上にいて常に守護霊に光を送っている守護神さんにつねに感謝の心を送っていると、守護の神霊の側から、その人の心にむけて、その区別を直感的にか、他の人を介して必ず知らせてくれるものである。

もしそれでもだまされたり、ひっかかったりする時は、それこそ過去世からのその人との業因縁がそこで消え去っていったもので、それも、自己の本心を輝かすために必要なことであったのだ、と思い、世界平和の祈りを祈りつづけることである。

 

      「日々の祈り」 五井昌久 白光出版

 

 
 

感想

もしそれでもだまされたり、ひっかかったりする時は、それこそ過去世からのその人との業因縁がそこで消え去っていったもので、それも、自己の本心を輝かすために必要なことであったのだ、と思い、世界平和の祈りを祈りつづけることである。
 


のところは多分ほとんどの人が、納得できないのだと思うのです。

守護霊守護神さまに頼んでいれば、騙されずに済むのに、なんで助けてくれないことがあるのか?

理屈が通りませんよね。

それは、過去世で自分が相手を散々騙してきた場合は、いくら守護霊守護神さんでもかばいようがないのです。(仏教では因果応報という)

この世は、あの世で自分がやってきたことへの清算が行われているんだ。

今自分がされていることは、すべて自分がやっていたことが返ってきているのだ。

ということです。

例えば、今、旦那さんに泣かされている妻がいるとします。(昨日ビッグダディの奥さんのことをテレビでやっていましたが)

観ていると可哀想ですね。

なんでそこまでやられなければならないのか?

なんの罪もないのに・・・・

と。

しかし今やられているということは、前世でやっていた側だったのです。

それを相手の魂が覚えていて、仕返し?をして来ている。

それが証拠に、奥さんは案外と相手のことを恨んでいないのです。(お父さんに対してもそうです)

そして心が洗われて魂が磨かれて美しくなった。(仏さまのような心境になっています)

うちの奥さんも感動して泣いていました。

守護霊守護神にお願いしていると自分のやっていたことの百分の一、千分の一になるのです。(祈っていない人でも随分おまけをしてもらっているのです)

それでも消せない分は自分で受けるしかない。

本当はそれくらいで済んでありがとうございます。

なのですが、人間はちょっとでも自分に不都合な事があると、相手を恨み、自分の運命を嘆き、神も仏もあるものか!なんて神さままでも恨んでしまう。

まったく肉体人間というものは勝手なものだと思うのです。(真理を勉強していると)



  

 

 

わかると面白い 4

 

そこで、守護霊さん守護神さんお願いいたします。

世界人類が平和でありますように、私共の天命がまっとうされますように、と素直に自分では出来ないことを、みんな神さまに差しあげてしまう。

それが善いことも悪いこともですよ。 善いことはオレがしたんだ、悪いことは人のせいだというのじゃない。

善いことも悪いことも自分ではなし得ない。

肉体の人間として生まれてきたその前から、分け生命として分かれてきた時からの因縁、想念や行為がまわりまわって、今日ある肉体の生活として現われている。

ですから、今日ある姿は、今作ったものではなく、今の自分が作ったものでもないのです。

今食べたものが今すぐ栄養になるのではなく、ある時間がたって栄養になってくる。

それと同じように、あらゆるものは、過去世からズーッとつながってきて、今現われてくるんで、今いいことを想えば将来に現われるんです。

今、自分の想念が悪いとする、自分の生活が悪いとする、環境が悪いとする、体が悪いとする。

これは過去世からつながってきた、原因結果がそこに現われて、病弱に現われているのかもしれない。

気が弱く現われているのかもしれない。

短気に現われているかもしれない。

貧乏な環境に現われ、不幸な環境に現われているかもしれない。

しかし、それは今の自分そのものじゃないのです。

過去世からの自分の想いがそこに現われて、消えていこうとしているんですよ。

それを掴まえて、私がいい悪いとか、立派だとか立派じゃないとか、悲しいとか憎らしい、とやっているわけです。

過去世のものが流れて来て、現われてくるんだから、いくら掴またって、現われてくるものは現われてくるんです。

結果として現われてくる。

だから現われた結果にとらわれたってしょうがない。

今の自分はどうしたらいいかというと、今思ったこと、今やったことが後の自分の運命を良くするか悪くするかなんですから、今までの悪い想いのくせ、悪い環境があるその上に、私はだめなもんだ、私の環境はなんて不幸だろう、私は病弱だ、とつかんでいたら、また悪い波が重なってしまう。

その想いの波から抜けなければならない。

抜けるためには、それにとらわれてはいけない。

想いにとらわれてはいけないわけです。

そこで、空とか無為とかいうのです。

見ざる聞かざる言わざるもそうなんです。

しかし、そういうことをいっても、なかなか普通の人には出来ないから、ここに現われてきたものは、過去世の因縁の結果として出てきたもので、現われたら消えるんだから、今消えてゆこうとしているのです。

そして神さまが処理して消してくれるんですよ。

だから、現われたら、ああこれは消えていくんだな、と消す先を神さまの中へ持ってゆく。

神さまといってもどこにあるかわからないから、人類の一番の目的であり、願いである

“世界人類が平和でありますように” という言葉に働く大光明圏、救世の大光明のなかに、祈り言葉とともに持っていってしまうのです。

守護霊さん守護神さんお願いします、と持っていってしまう。

すると、ハイヨ引き受けたと、もともとは人は完全円満なんだから、その悪いと思っている想いを、みんな消してくれるわけです。

そうすると、それだけ消えちゃうわけです。それだけ消えると未来に現われる悪いものが減ってくるのです。


            

         
               
つづく


   

        
「質問ありませんか?」 五井昌久 白光出版




  




 


わかると面白い 3

 

短気が出たら出たでいい、臆病が出たら出たでしかたがない。 感情が激する時はしかたがない。 その時はどうしようもないんだから、そういう時に、ああこれは消えてゆく姿だな、ああすべてこの世に現われているものは、みんな変化変滅していく。

常時そのまま変わらないものは一つもない。

みんな変わっていく。

自分はだめだ、だめだと思っているうちは、だめだ、いけないという業がまた入ってくるわけですから、いたずらにだめだだめだと思うより、いけなかったな、しまったな、と思ったら

『あッこれは消えてゆく姿だ、どうか神さま消してください、一日も早く消して下さい、どうかあの人の天命がまっとうされますように、私に天命がまっとうされますように、世界人類が平和でありますように』 順序はどうでもよいから、そういう祈り言にして、神さまのみ心の中へ、想いをどんどん送り込んでしまうのです。

神さまは完全円満なんだし、善なんだし、大光明なんですから、神さまに消せないものはないわけです。

善いものは善いものでそのまま生きるし、悪いものはそのまま消えてゆく。

だから善悪ともども神さまの中に送りこんで、消してもらう。

そういうふうに自然に教わったわけです。

それで消えてゆく姿で世界平和の祈りという教えが出来たわけです。

そこに見ざる聞かざる言わざるもない、こらえるもなければ、我慢するもない。

ああ消えてゆく姿なんだなあ、ありがとうございます、世界人類が平和でありますように、私がますます立派になりますように、愛深き私にならしめたまえ、とか、いろんな言葉で自分の願望をつけ加えてもいいから、みんな神さまの中に入れてしまうわけです。

すると、神さまのほうで、その人に一番適当な生き方をさせるのです。

肉体を持っている人間というものは、罪悪深重(ざいあくじんじゅう)の凡夫でして、親鸞がつくづく、心は蛇蝎(だかつ)の如くなり、罪悪深重の凡夫だ、と嘆いたのがよくわかる。

もう相当悟りすましたような立場にいても、何やかやといろんなことがひっかかってくる。

まして一般の人はひっかかり通りなんです。

何かしら心がとらわれている。

だから肉体を持っている人間というものは罪悪深重の凡夫だ、ダメなものだ、ということがわからないとだめなのです。

いつもいっていることですが、心臓を動かすことも、肺臓を動かすことも、肉体の頭では出来得ない。

心臓の止まった死骸に向かって、心臓よ動けといったって動かない。

肉体から魂がぬけたら、どうしようもない。

自分のことも人のことも何事もなし得ない。

だから、肉体を持った人間というものは無力なものだなあ、ということがハッキリわからないと、悟りにはいかないのです。

自分でなんとか出来るんだ、という想いがあるところからは、本当の悟りも生まれてこないし、安心立命も生れてきません。

肉体は不完全だからです。

不完全なものがいくら力んだって、完全にはなりっこないのです。

だから不完全な肉体というものを、一度、肉体人間じゃどうしようもないんだな、とあきらめる。

さてそれでは、なし得るのはどなたかというと、守護霊さんであり、守護神さんであり、大神さまであるわけです。


   

                  

                つづく
 

      「質問ありませんか?」 五井昌久 白光出版




 

 

2013年6月 7日 (金)

わかると面白い 2


 

質問 見ざる聞かざる言わざる、つまり諸々の不浄をきかず、というようなことがありますが、先生のみ教えをうけたまわるようになって、これに疑問が出ております。

見ざる聞かざる言わざるでいい場合もありますけれど、いわなきゃならん場合も起るんじゃないかと思うのです。

例えば、人が危険にさらされている。その時に何気なしに 「危い!」 って声が出ます。

これは神様の声じゃないかと思いますが、しかし大変失敗する時がある。 かえって先様の気持ちを害するようなことがある。 こういう場合どうしたらよろしうござましょうか?




 

昔から言われていることですが、見ざる聞かざる言わざるということはどういうことかというと、見た想いに把われず、聞いた想いにとらわれず、言った言葉にとらわれず、すべてのものにとらわれないことがいいのだ、ということです。

大体、道とか宗教の教えというものは、すべて想いがとらわれないということを主にしているわけです。

想いがとらわれなくなると、神さまからそのままくる行いが出来る。

この世の中では、テレビ、ラジオはいつもいろんなニュースを報道している。

どこどこで強盗があった、火事があった、殺人があった、と嫌なこと暗いことを聞くまいと思ったって聞えてくる。

新聞を見れば、誘拐があった、事故があった、アメリカがどうだこうだ、見まいと思ったって見えてしまう。

ともかく、見ざるも聞かざるもありゃしない。

今は、文明文化が発達して、マスコミというものが発達してますと、こちらが好むと好まざるとにかかわらず、強制的に見せられる、聞かされる、いわされる。

だから見ざる聞かざる言わざるというのは、本当はいいかもしれないけれども、実際問題としては通用しないわけです。

そこで私は、見てもいい、聞いてもしかたがない、いってもしかたがない。

しかし、あらゆるものはいいことであれ、悪いことであれ、それは消えてゆく姿なんだから、その想いにとらわれていてはいけない。

いくらいい言葉をいって、それに人が感動したとしても、それにいつまでもとらわれていたんじゃ進歩がないんだし、また悪い言葉をいっても、しまったと思って

「しまったしまった、私はなんて悪い人間だろう、なんでこんなことをいったんだろう」 といつまでもとらわれていたんでは、それはかえって業が積もるんだから、いってしまった悪いことはしかたがないから

「あー悪かったな、これは消えてゆく姿なんだ、もう再びいいますまい、ああこれで業が一つ減ったんだ」

というふうに思いながら “世界人類が平和でありますように、あの人の天命がまっとうされますように” というようにいいなさい。

そういうように想いが出た時、想いにとらわれそうになる時に、それを消えてゆく姿として、平和の祈りの中に入れさせてしまうような教えに転換させたんです。

それはどうしてかというと、私は昔とても短気でしてね、ものすごい感情家だったんです。

私は大体、本質は芸術家ですから、いいものはいい、悪いものは悪い、嫌なものはもう我慢出来ないように嫌だったりね。

青年の頃はそういう性質をもっていました。

だから、これじゃいけないな、こういうことじゃいけない、なんとかしてこの短気を押え、この感情に敗けないようにしなきゃいけない、というような気持ちが随分強くありました。

なんとかして立派になりたい、感情にとらわれない人間になりたい、愛一念の人間になりたい、と思いつづけていたわけです。

それで聖書も読めば、仏教の経典も読んだり、宗教の書、修養書など手あたり次第に読んだり、坐禅観法をしたりいろんなことをやったのです。

そのうちに、とらわれまいとらわれまいとしたんじゃ、かえってとらわれるんだなということがわかったのです。

短気だから短気をなおそう直そうだけじゃだめなんだ。

感情にとらわれちゃいけない、とらわれちゃいけない、というと恐怖心が起ってしまう。

それではだめなんだから、どうしたらいいかというと、とらわれを消してくれる何かがなければいけない、それを見つけることだと思った。

それは神さまだと思ったのです。

                      つづく




   「質問ありませんか?」 五井昌久 白光出版




 

 

わかると面白い 1

  

私は今、まだ携帯で頑張っております(笑)。

かといってスマホを否定しているわけでもなく、自分にとって充分メリットがあることがわかれば移行しようとは思っているのです。

ただ理解せずにすぐに飛びつくのは嫌だ、するとNHKで初心者のスマホ入門らしきものを放映していたので、妻と一緒に興味深く観ています。

結局は費用対効果ですよね、かけたお金に対してどれくらいの見返りがあるのか?

後で後悔しないのか?

満足感を得られるのか?

私の書いているブログもそうだと思うのです。

もしつまらないものだったら時間をかけた分だけ無駄になる

次からは他のブログを読もうということになる。

だから面白くて、興味深くて、ためになって、使えなければいけないのです。

この中で一番難しいのは面白いってことだと思うのです。

いくら善いことを書いていたって、クスッと笑ったり、うなずいたり、心が明るくなったり、つまり感動がなければ人は化学反応を起こさないのです。

アクションを起こさない。

次の行動に移らない。

それだったら書いている意味がない。

私の目標は、面白いブログを書く、それに尽きるのです。

最近少しずつ面白くなってきたのではないか?

と自認しております(笑)。

そう思わないとやってられないこともありますが

書くことが楽しくなってきているのです。

それに対して数字は正直ですね。

コメントは全然ないですが(笑)

アクセス数は毎日のように伸びています。

後は、みなさんの心をどれだけ離さずに掴むかですよね!

私の書く文章や、抜粋するものって世間一般から言うとかなり難解、堅い、そんな話聞いたことがない・・・・のだと思うのです。

それをそのまま載せると、肩が凝ってしまう、頭が痛くなってしまう、だからユーモアや冗談が必要だと思うのです。

私は大阪人でお笑いの地域に住んでいますが、まだまだ勉強中です。

徐々に面白くしていきますので、どうか長い目で見守ってやってください。

では、長くなりましたが、五井先生のご著書から「質問ありませんか?」から私が選んだ面白いを抜粋します。

五井先生の文章がみなさんにとって面白いのか?

それはわかりませんが、わかると面白くなるのもまた事実なのです。

この世に住んでいるとクエスチョンが一杯です。

わからないことが多すぎる

だから面白くないし、楽しくない。

この世の仕組みがわかるようになれば、絶対に面白くなります。

よかったらお付き合いください。

 

かなり難解だとは思いますが、読んでみてください。

 

タイトルを読まれて、偉そうに、お前は本当にわかっているのか?(笑)と言われそうですが、実は私もこの文章を読んで、ビビっているのです。

正直、まだ経験していない部分もあるのです。(経験して実体験してはじめて本物ですよね)

なのに

こんな凄い文章をブログに載せていいのかな?

・・・・・と。

自分の運命も人の運命も簡単に人に語るものではないし、人生相談も安請け合いをして受けるものではないと私は思っているのです。

どうするかという結論は、どんな結果になったとしてもその人自身が決めることであり、周りの者が 「こうした方がいいんじゃない」 と思ってみてもかなり後にならないと善し悪しはわからないものなのです。

たとえば、夫がひどい人なので離婚を勧めた、そしてその後に知り合った人がいい人に思えたのでその人との再婚を勧めたら、前よりもずっと性根の悪い人だった。

だが、男運は悪かったけれどそれによって強くなり魂が磨かれ、子どもを育てるために必死に働いて事業を起こし、今では立派な女社長さんになった。

そして、思わぬ出世をしただけでなく、苦労したお陰で人の気持ちがわかる人格者となり、多くの人から慕われるようになった。

などというのは、まさしく災い転じて福となすであり、しかし、この女社長がここまで上り詰めなければ、離婚は失敗だったわけです。

世の中には、このような万事塞翁が馬のような事例が星の数ほどあるのです。

何が良くて何が悪いなんて、肉体人間の頭ではわかりようがないのです。

どんなに人生経験を積んだ人であっても、頭の良い人であっても、他人の人生はわからないのです。

ただ下記の文章を読んで、自分の運命を未来がわかっている守護霊様、守護神様に一任することが一番よいのだということがわかるのです。

自分で出来ること、自分でわかることは一生懸命に努力する。

しかし未来のこととか運命のこととかどうしてもわからないことは

神さまに預けて、一任して

どうか神様、あなた様のいいようにしてください、私は一切文句は申しません(笑)。

これでいいと思うのです。

だって魂の親である守護霊守護神さまが私たちを悪いようにされるはずがないからです。

それを信じることが信仰だと思うのです。

それは宗教を超えたものであり、その信念、信仰があればその人に宗教は必要無いのです。

人間が真に自立(精神的に)をするとき、地球上のあらゆる宗教は消滅するのです。



  

自己の大半定まっているような運命を、最大限に開運し得る方法があるのです。それは常に自己の全想念を神のみ心の中に投入して、世界平和の祈り一念で生活することなのであります。

神の光明によって、幽体に蓄積されている業想念が浄められますと、そこに新しいその人の、神のみ心そのものの運命が開かれてくるのです。


・私の観ずるところでは、運命は定まっていて、しかも定まっていない、ということが出来るのです。それは一応は定まっている、しかしその運命は変化せしめることも出来る、ということなのであります。

私の経験では、人間が肉体人間的な生き方だけで生きている場合には、運命は変らないが、守護の神霊につながる想念行為をすれば、その運命は善い方向に修正され得るものだ、ということを確信できるのです。
...

たとえ自分の善意の行為を、相手が悪意で受けたとしても、お互いの過去世の業因縁が、光によって消されてゆく姿なのだ、と世界平和の祈りの中に投げ入れてしまえば、

そこで過去世からの相手との業因縁が、救世の大光明の中ですっかり消されてしまい、その人も相手も、そこで大きく運命が修正されてゆくのであります。

これが禍い転じて福と為す、知らぬ間に運命を修正してしまう、光明思想、世界平和の祈りの生き方なののです。




運命は過去世の因縁因果によって現われて来るのです。                                          
 

運命の80%は決っていて、あとの20%の力で、その運命を変えてゆくのだと私は説いています。

その20%というのはどういうことかというと、20%未知の世界がある、これから作り上げていく世界がある、というわけです。20%の出発点から、100%、1000%と、今までの業を超えて、すっかり業を消滅して、新しい世界を作る窓口という意味です。

80%まっくらだけど、20%光がさす所がある。それを窓口として、跳躍台として、無限に自由自在の世界に出る、ということなのです。

生まれた時から運命は決っている、という言い方は、因縁因果の波の中で決っているということですが、因縁因果を超えた人というのは、因縁とはなんの関係もなく、自由自在に生命を生かしてゆける

...
そういう人間になる道が、20%の光の道としてあるわけです。20%の自由性がある。20%のところに何があるかというと、守護霊守護神が厳然として存在していて、人間の運命を変えてゆく。幸せにしてゆくのです。

一日も早く、本当の人間の、神の子の姿を現わすように、20%の光明をさし込む窓口に守護霊守護神がいて、引っ張り上げてくれるわけです。




         
               五井昌久


 


                 

 

2013年6月 6日 (木)

世の中は変わろうとも、基本は愛なのです。


 

携帯電話が出たときは、「じぇじぇ」 と驚き、その携帯でメールが出来るようになって、「じぇじぇじぇ」 と戸惑い、 なんとか使いこなしたかと思えば、今度はスマホ、後、数年したら電車の中はどんな景色になっているんだろう?

と興味は尽きないのですが、私はこれから世の中は、私たちがこれまでに身に付けてきた余分なもの(精神的、物質的なもの)を剥ぎ取っていく時代になってゆくと思うのです。

便利さを求めて、快適さを求めて私たち人間はどんどんと贅沢を身に付けていった。

その結果食べ過ぎて、メタボになり、知識を詰め込みすぎて頭でっかちになって、なにがなんだからわからなくなった。

・・・・・・・

人間はもっとシンプルでいい、もっと単純でライト(明るい、軽い)でいい、余計なことを考えるから、贅肉を身に付けるから頭が重くなり、体が重くなり、鈍くなり、そしてややこしくなるのです。

私は、今スマホに夢中になっている若い人が、スパッと携帯をゴミ箱に捨てる(タバコをやめるときのように)ときがやってくるように思うのです。(決してスマホを否定しているわけではありません)

朝ドラの「あまちゃん」を観ていると面白いですよね。

同じ17歳でも、一方は東京に出てアイドルになろうとしている、また一方は、東京を捨てて、地方(田舎)で目立たない海女さんになろうとしている。

しかし、東京にあこがれてスターになったとしても、心は自分の故郷にあると思うのです。

「私はここ(故郷)の良さを確認するために旅に出るんだ」 (かっこいいですね!)

と、都会、海外に行く人がいる。

だがしかし、みんな最後は原点、源流に帰ってゆく・・・・・。

人間にとって一番大切なもの

それは、感動すること、愛を伝えること、愛を育てること

時代はいくら様変わりしても

原点は同じなのです。

この話を本で読んでそう思ったのです。

交渉は 「鯉取りまあしゃん」に学べ。

 

「鯉取りまあしゃん」 とは、上村政雄氏という実在の人物だ。

孫正義の出身県である佐賀県と福岡県の県境を流れる大河・筑後川で、独特の漁法によって鯉を取る名人である。

火野葦平や開高健の小説やエッセーの題材に取り上げられたことでも知られている。

鯉取りまあしゃんが、真冬の筑後川でどのようにして鯉を取っていたのかを紹介しよう。

まず、漁をする数日前から肉やうなぎなど栄養価の高いものを摂り体調を整える。

当日はまず河原で焚き火をして、そこで体から汗が噴き出るくらいまで体を温めるのだ。

その後に川に入り、水底にもぐり横たわる。

すると体の温かさを求めて、鯉が横にやってくるのだ。

まあしゃんはそれを優しく抱き、そしてそのまま陸に上がってくる。

これが鯉取りまあしゃん」の漁法だ。

この方法で、一度に両手と口で3匹を取ることもあったという。

孫正義は社員に交渉の極意を説くときに 「鯉取りまあしゃん」 のようでなければいけないと説いていた。

交渉の前に、じっくりと準備をし、交渉相手が自然とこちらと合意したくなるように交渉するのだ。

孫正義にとって交渉とは、相手を説得することではない。

相手から慕われるためのプロセスなのだ。




 

     「孫正義」 名語録 三木雄信 ソフトバンククリエイティブ





 

2013年6月 5日 (水)

私のブログによく出てくる五井先生とは?


 
タイトルにあるように、私のブログは、五井先生と昌美先生の回し者か?(言葉が悪いですね)、宣伝マン(この方がいい)なのか?と思われるほど、頻繁に登場しています。

グッドムーンのブログは興味深くて、面白い?んだけど、どうも宗教臭い? 説教じみている、個人を崇拝し過ぎている、そこのところがひっかかって時々読むのが嫌になる?

そうではないでしょうか?(笑)

そこで五井先生の説明をさせていただきます。

あくまでも私の私見ですので、そのつもりで読んでください。

私は、地球上で悟った人というのは、イエス・キリスト、お釈迦様、老子様、それから五井先生だと思っているのです。

他にもおられるかもしれませんが、宇宙には霊位といって神様の位があるのです。

この4人の方は並外れた覚者です。

その4大覚者のうちの一人が日本におられた、それも1980年まで肉体界に生きておられた五井先生です。

14年前(1999年)まで、私も五井先生の存在を知りませんでした。

しかし、ある人の縁で五井先生のご著書を読んでびっくり、私の本心にビンビンとその文章(言霊)が響いてくるのです。

こんな経験は初めてでした。

「五井先生って一体何者なんだろう?」

その疑問は徐々に溶けていったのです。

五井先生は、33歳で神我一体になられたのですが、神我一体というのは、我(欲望)というものが一切無くなって、お釈迦様のいう 完全 空 になってそのまま五井昌久という器に神様(宇宙神)が降りて来たのです。

ですから五井先生の体は個人のものではなく、神さまが人間に真理を語る媒体となったのです。

問題は本物か偽物かですよね。

世の中には、神我一体ではなく、幽界のおばけちゃんと一体になっている宗教者がたくさんいます。

だから宗教というものが乱れているし、信用していない人も多い。

私も宗教は嫌いでした。

どの宗教も信じていなかった。

それはその宗教をしている人が胡散臭かったからです。

その人=宗教 ですよね。

私は宗教(真理)があるとしたら自分の心の中にそれはあると思っていたのです。

答は外にあるのではなく、内にある。

ただ、五井先生のご著書には、私の内にある答が書いてあったのです。

直観で

「五井先生は本物である」

と思いました。

そして、それ以後、?????? は一切ありませんでした。

「言っていること、書いてあることがわからない理解できない」

とか・・・・。

今までに、疑いを一切持たなかったわけではありません。

しかし、すべてが腑に落ちるのです。

私の本心とつながるのです。

そして、言葉、文章よりも五井先生の行ない、言動行為に一切の不純なものがないのです。

行ないがご立派なのです。(生意気ですいません)

光そのもの、愛そのものなのです。

私は、五井先生のユーモアが大好きなのです。

五井先生のお人柄、ご人格を下記の文章からくみ取っていただけたら幸いです。

 


五井先生は、東京は下町の浅草にお生まれになったチャキチャキの江戸っ子でした。話し方は歯切れよく、しかも早口でしたので、話のテンポも軽快で、話の内容の素晴らしさもありますが、長時間うかがっていても決して飽きるとか退屈するということはありませんでした。

特に下町特有の地口(じぐち)が随所に出てくるので、江戸っ子にはたまらない魅力です。渥美清が演じたフーテンの寅さんこと、車寅次郎の口上などはまさにその典型と言えるでしょう。

私も江戸っ子で、若き日の五井先生の住んでおられた浅草区の隣の下谷(したや)区の生まれでしたから懐かしさも一入(ひとしお)です。(現在は浅草と下谷が一つになって台東区になりました)

 その上、時折でる冗談が見事に決まって皆を笑わせ、心を和(なご)ませるその...
話術は絶妙としか言いようがありません。人間技(わざ)ではなく、まさに神技です。

 このたび白光真宏会の本部に定められた富士聖地(静岡県富士宮市人穴)は、五井先生在世中に取得された土地です。この世的にいえば会の土地ですが、波動を変えて神霊波動で見ると、聖地一帯は仙人の修業の場だと聞きました。

 私はさっそく先生にお訊ねいたしました。「何人ぐらい修行しているんですか?」
 五井先生のお答えは、「千人(仙人)くらいかな」
 私もかなり冗談を口にするタイプですが、五井先生には全く歯がたちません。

 五井先生が冗談をおっしゃる時は、冗談専門の神様がいらして、その神様が五井先生を通して冗談をおっしゃるのだそうです。「その神様は多くの神々の一番上段(じょうだん)(冗談)にいるんだよ」

 このことについて五井先生講話集4『明るい心』で次のようにお話しなさっておられます。
 「先生の話には冗談がありますが、あれは神様でしょうか、と聞いた人がいますが、冗談の神様というのもあるんですよ(笑) 神様といっても多うございますよ(笑)

大神様というのは、在りてあるまま、そのままなのです。光なのです。大生命なのです。大智慧、絶対者なんです。それが働きに現われる時には、守護神としてあらわれるんですよ。だから守護神はたくさんいるのです・・・・」

 五井先生という器は空ですから、神様が自由自在にお使いになれます。
 「わたしはスピーカーみたいなもんよ。神様が入れ替わり立ち代わりわたしの身体の中に入ってきて働かれる。今度はわたしの番だよって、次の神様が入って来られて話しをされる。

例えばキリスト教についての質問があると、キリスト教関係の神様がわたしの身体を使って答えてくださる。仏教についての質問だと仏教関係の神様がちゃんと答えてくださる。わたしは気楽なもんよ」とおっしゃいました。



           

               
五井昌久






 

  • 死の意味がわかってはじめて人間は安心立命する。


    私はこのブログの中で死は、悲しいものでも、淋しいものでも、辛く、苦しい、そして暗いものでもなんでもないんだ。

    その逆なんだ!と何度も書いてきたのですが、どこまで伝わっているかは、甚だ疑問なのです(笑)。

    それは、人間が生まれ変わり死にかわりしている内に、死に対する間違った見識、恐怖が植え付けられているからだと思うのです。

    五井先生の文章を読んでいると、死というものが実感として伝わってくるのです。

    私が書いたものは、自分でいうのもなんですが、伝わりにくい(笑)。

    それは五井先生が死後の世界を熟知されて、本当のお言葉で語っておられるからだと思うのです。

    私は、そこまでわかっていない。

    やはり真理を語るには、パワーが必要なのです。

    実際に知っていることに勝る真実はないのです。


     



    ・人間にとって、死という文字ほど恐ろしく嫌な文字はあるまい。ところが実際は、死という状態は、その当人にとって絶望で迎えなければならぬような状態ではないのだ。

    と言うより、死というものが、今日まで誰にでも思われているような、暗い悲しいものではなく、新しい生であり、生命が新しい階層に進んでゆく状態なのである。だから死という状態は、異なる波動の世界への誕生であって、実は死という文字のふさわしくない状態なのである。

    宗教者や心霊研究家のなすべき仕事は、この死という文字を、明るい軽やかな文字に書きかえてしまうことにあるのだ。

    この世とあの世とが自由に交流でき、あの世とこの世の人とが楽しく話し合え、顔を見合わせることの出来るような時代が来たら、どんなにこの世の人々の心が明るくなり、生命のびのびと生きてゆかれることであろうか。

    ...
    人間の心から死の重圧を取り除くことは、死後の世界の真相をすべての人々に知らせることであり、人間の日常の想念行為が死後の世界において、いかに重大なる要素となるか、という事を知らせることである。

    そういう事実がわかる時代が、やがてやって来る。それは宗教と科学の一致したところからやって来るのである。
    それまでは、すべての人々に祈り心の大事なことを教え、祈りによる世界平和運動を拡大して、この地球界の滅亡を防ぎつづけてゆかねばならない。



                   

                        
    五井昌久




     

    幽界、霊界のことがわかっていないと正しい判断は出来ない。


    人が人を裁くことは出来ないというのは、人間とは薄っぺらいものではなく、底知れず深いものである。

    だから表面的なことや、脳裡に浮かぶ感情的(可哀想だとか、憎いという)なことで判断してはいけないということです。

    感情で判断すると、「もう十分反省しているんだからかわいそうじゃないか」 とか、「いいや、あいつは反省してもすぐに同じことを繰り返すよ、また被害者が出たらどうするんだ、おまえが責任を取れるのか?」

    など、どちらが正しいかがわからなくなるのです。

    そして押しの強い方、弁の立つ方に決まってしまう。

    しかし、どちらに転んでも、釈然としないものが残る。

    だが、しかし五井先生のお話しは納得が出来るのです。

    神界(宇宙)から人間観を説いているので、源流には愛があるのです。

    それが、死刑賛成論であっても、罪人の魂を考慮しているからです。

    人間は魂レベル(次元を上げないと)で判断をしないと、同じ意識レベルでは、にっちもさっちもいかないのです。

    だから人間はもうアセンション(次元上昇、意識上昇)する時期に来ているのだと思います。

     




    表面上のおきれいごとでは、この世の人は救われませんね。たとえば宗教家の死刑廃止論というもの、あんなきれいな心になったものを、死刑にしてはかわいそうだという。真理からみれば死刑にしないほうがかえってかわいそうなのです。

    自分の犯した罪を死刑で払ったほうが、死刑を受けるということで罪業が消えますから、あちらの世界へ行って、そんなに苦しまなくてすむのです。死刑を受けないで赦されたら、また悪いことをするかもしれない。悪いことをしないまでも、心の中はいつまで犯かした罪業感が晴れやしません。

    魂の奥は納得していません。だから幽界へ行ってさんざん罪滅しをしなければならない。浄まるために苦業をさせられたりする。

    現在の人間の段階においては、死刑はあったほうがいい。ただ本当に殺人したことがわかった場合である。誤審はさけなければ...いけない。それがわからない宗教者は、まだ浅薄なる宗教論、人間論に把われているんじゃないかナ。



              

                    
                       五井昌久




     

    あなたは運命を変えられる。


    占いというのは、裏がないからうらないというそうです。

    過去世から何の意識改革をしてこなかった人は、過去世からの延長線上として占いは当たるのでしょうけど

    自分自身で科学反応(脳内反応)を起こして、過去を捨て、未来を強くイメージ(果因説)した人は、運命を変えることができるのです。

    だから当たるも八卦、当たらぬも八卦というのは、要はやっぱり想念、気の持ち方なんですね。

    私は占いは大嫌いです。 虫唾が走ります。

    それは、過去世によって未来を断定したように語るからです。

    運命は自分で創ってゆくものであって、運命に翻弄されてはいけないのです。

    しかし今の自分をつくってくれたのは、過去の自分です。

    感謝します。

    だが、しかし、それを大事に育ててゆく気持ちはサラサラないのです。






    運命は過去世の因縁因果によって現われて来るのです。

    運命の80%は決っていて、あとの20%の力で、その運命を変えてゆくのだと私は説いています。

    その20%というのはどういうことかというと、20%未知の世界がある、これから作り上げていく世界がある、というわけです。20%の出発点から、100%、1000%と、今までの業を超えて、すっかり業を消滅して、新しい世界を作る窓口という意味です。

    80%まっくらだけど、20%光がさす所がある。それを窓口として、跳躍台として、無限に自由自在の世界に出る、ということなのです。

    生まれた時から運命は決っている、という言い方は、因縁因果の波の中で決っているということですが、因縁因果を超えた人というのは、因縁とはなんの関係もなく、自由自在に生命を生かしてゆける

    ...
    そういう人間になる道が、20%の光の道としてあるわけです。20%の自由性がある。20%のところに何があるかというと、守護霊守護神が厳然として存在していて、人間の運命を変えてゆく。幸せにしてゆくのです。

    一日も早く、本当の人間の、神の子の姿を現わすように、20%の光明をさし込む窓口に守護霊守護神がいて、引っ張り上げてくれるわけです。




                  五井昌久



      



     

    想念特集(ちょっと難しいけど読んでみてください)

      
     

    想いってなんだろう? 頭で考えるのが想念で、心で考えるのが本心?

    脳裡には、なんでいろんな考えが浮かんでは消え、また浮かんで来るのだろう?

    私たちは肉体の頭で考えているのだろうか?

    目にみえない心で感じて考えているのだろうか?

    何も考えない無念無想とはどういう境地なのだろう?

    考えることを一切止めたら、直感だけで生きていけるのだろうか?

    相手のことを悪く想ってしまう自分をなんとかしたいのですが・・・・

    ある人が私に言った言葉が許せなくて、ずっとその残像が残っているのですが、それはどういうからくりになっているのですか?

    想いをコントロール出来ないのですか?

    どんなことがあってもプラス思考でいられるためにはどうしたらいい?

    今想っていることは、私の本心なのだろうか? 本心ではないのだろうか?

    群集心理って何?

    例えば周りの人がネガティブだったらその想念は写る(移る)の?

    マイナス想念を入れないためにはどうしたらいい?

    すぐに怒ってしまう自分の想念をどうにかしたい!

    想念想念っていったいなんなんだ!

    想念に対する疑問って尽きないですよね。

    では、今まで誰も教えてくれなかった想念について特集を組んでみました。

    全部は解消されなくても、かなり腑に落ちるところもあります。

    なんらかのヒントにはなると思うのです。



    ・人類というものは個人個人の集まりであって、海をへだてた国々の人々の間でも光の波、想念の波は伝わり合うのです。それはテレビと同じなのであります。

    この事実が、人類を滅亡にでも平和にでも、人類の運命を運んでゆく、重大な一つの真理であることを、人類は悟らなければならないのです。

    ・個人個人の体は、肉体としてはお互いが離れてあるように見えますが、想念波動の世界ではお互いが結び合い、交流し合ってお互いに影響を及ぼし合っているのです。

    一個人の想念波動は、一瞬一瞬の間にも、地球を経巡っているのであります。そしてそれと同時に、すべての人類の想念波動は、自分の上に流れて来ているのであります。

    ・私は人間の想いを、想念波動といっているのです。何故そこに波動という言葉を付けるかといいますと、人間の想いというのは波の動きのようになって、この地球を常に経巡っているのです。

    人間の想いは、例えどんな細かいことでも、この地球や宇宙を巡り巡っていくわけなのです。

    皆さんが今想っていることは、そのまま波動となって、世界を駆け巡るのです。そしてその想いと同じような想いをお供につれて、再び自分の所へ返ってくるのです。

    例えば相手をやっつけてやろうという想いを出した場合、自分に返ってきて、自分に向けられる想いは倍加された、やっつけてやろうという想いになってくるのです。それが行動に移ってくると、思いもかけない人からいじめられたり、たたかれたりするような事態が起ってくるのです。

    もう一つの例をとってみますと、どんなお金でも欲しい、という想いを出していた場合、一時うまい具合にそのお金が入ったとしても、いつの間にかそのお金は、誰かに取られていってしまうのです。

    ・人間は想念波動の大事なことを知らずにおります。口に出る言葉以上に、時には世界を動かしてゆくのが、想念波動です。想念というものは、言葉や行為に先がけて起こるもので、その想念が起った時には、もうその言葉を言い、行為をしたと同じだ、ということなのです。

    想念波動を常に浄らかに、神に通じるものにしてゆくように、指導してゆくのが、宗教者の天命であるわけです。イエスさんはそこのところが実に厳しく、想うだけでも実行したと同じだというのです。

    私は想念と行為の間に、消えてゆく姿という教えを入れて、守護の神霊の加護によって、でき得る限り業想念を消していただき、悪い想念がそのまま行為に現われぬように、世界平和の祈りを行じることをすすめているわけなのです。

    ・自分の出している想いの波は、瞬時にして自分の磁場を巡って、宇宙に流れているのだという事を知る事が、今日以後の人間の生き方の第一歩となるのであり、宗教と科学をつなぐ第一歩でもあるのです。




    心は本心、つまり神の心一つしかないのでありまして、私たちが通常、心と呼んでいるものは、想念にすぎないのであります。想念はすべて業でありまして、因縁因果によって生じるのであります。

    ・私は一つの心、つまり神の直霊から分霊として働いている心を、本心と呼んでいまして、その本心の周囲を何重にも巡っている波動(ひびき)を、想念と呼んでいるのです。

    神のみ心に素直につながっている心だけを心と呼び、神のみ心を離れた心の波動は、全て想念と呼んでいるのです。

    ... ・想念波動とは、電波や光波や音波よりももっと微妙な、精神宇宙子の波動なのであります。
    想念波動の渦はそれぞれがエネルギーでありまして、そのエネルギーは人間の肉体に働きかけて、人間にその想念波動の通りの行為をなさしめるのです。

    その想念波動が争いや妬みの暗い汚れたものであれば、働きかけられた人間はそういう行為をするのであり、愛や善意の光明波動であれば、愛の行為になってくるのであります。

    光線よりももっと微妙である想念の波動は、直接に脳髄に入りこんで来るのであり、神経系統のあらゆる所にも沁みこんで来るのです。




      

                
                   
    五井昌久



     
     

    2013年6月 4日 (火)

    根底に愛がなければこれからの事業は失敗する。

     



     
     
    今、就活中の息子がソフトバンクを受けてみると言っていて、私も孫さんがどういう人物な

    のか?興味があり 本で調べてみたと先日ブログで言っていたのですが、これから本物の

    時代がやってくることに伴い、トップの人がどういう想念でいるのか?

     日頃何を考えているのか? が大きなポイントとなるのです。

    寄らば大樹 ではないけれど的確な選択をしていかないと時代を読み、

    人を読んでいかないと、時代は益々厳しくなってゆく、アベノミクスで好景気になると浮か

    れているのは、一部の人たちだけであり、政策を講じれば講じるほど、裏目裏目の結果が

    出て来ると思うのです。



    生き残ってゆくためには、自分が本物にならなければならない。

    そして本物(本者)を見る目を持たなければならない(審神という)

    私が孫さんが素晴らしいなぁと思ったのは、経営哲学の根底に愛が流れていたからです。

    だから人の心を打つ、感動させる

    人は感動してそしてその人について行こうと思うのです。

    私は 「孫正義名語録」の中で特に2つのエピソードに感動しました。

    想念の根底に愛があるとなぜ大丈夫なのかというと

    宇宙が味方するからです。

    宇宙の法則に乗るからです。

    宇宙の法則に乗ると、宇宙(神)は、無限のエネルギーで応援するからです。

    だから大丈夫なのです。

    個人的なことですが、私は息子が大会社に入ることを希望しているのではないのです(笑)。

    愛に溢れた人の波動が流れる中で仕事をすることで息子の魂が磨かれると思うからです。

    人間はいい環境(波動)の中で育つに越したことはないのです。

     




    地球の反対側の小さな女の子を微笑ませることができればそれに勝る幸せはない。


     

    孫正義がブロードバンド事業を開始するはるか以前のインターネットの黎明期から言って

    いる。

    志を最も純粋に伝える言葉の一つ。 株主総会などのスピーチの最後をこの言葉で締めく

    くることも多かった。

    この言葉は、孫正義の 「志」 が 「情報革命を通じて、地球の反対側にいる人の思い

    や、その知恵と知識を一瞬にして共有し、国境や人種を超えて、一人ひとりが新しい可能

    性に挑戦できる社会を作っていくこと」 であることを示している。

    ソフトバンクグループはデジタル情報革命の舞台である情報産業分野事業を行なっている

    が、デジタル情報革命でただ利益を上げることを目的としているわけではない。

    最後の目的は、あくまでも人類の幸福なのだ。

    ソフトバンクのソフトウェア流通事業、出版事業、ポータル事業、通信事業など自社として

    展開する事業だけでなく、2012年に孫正義が社会に投げかけた 「光の道」 や 「デジタ

    ル教科書」 などの提言も、究極的にはこの言葉に集約されている。

    これらがすべてが 「デジタル情報革命を通じて人類の知恵と知識を共有する」 ということ

    では共通しているのだ。






    お前はいい目をしている。



    ソフトバンク創業直後の人材採用のときに、孫正義が使っていた言葉だ。ソフトバンクがま

    だ無名のベンチャー企業だった頃は、人材の確保が非常に困難だったという。

    それも当然と言えば当然で、パソコンは黎明期でまだ一部のマニアのものと思われていた

    時代だったし、アメリカ帰りの20代の社長が経営する会社に入社するのは勇気がいること

    だっただろう。

    当時はパソコンを触ったことがある人を採用することすら難しく、まったくパソコン経験のな

    い人材を異業種から採用していたのだ。

    そのときの採用基準が、いい目をしているかどうかだったという。

    孫正義が面接をして目が輝いているかを見るだけで、「お前はいい目をしている」 と言っ

    て、その場で採用を決めていたらしい。

    これがソフトバンクに入社するための最低限の条件だったのだ。

    現在では、ソフトバンクグループには数多くの新卒・中途の入社希望者がやってくる。

    また、社員も増えた。

    しかし最近、ツイッターで孫正義は 「優秀な社員の共通点は」 と聞かれて、「目が輝いて

    いること」 と同じ回答をしている。

    今でも、この言葉は生きているのだ。

     

      「孫正義名語録」  三木雄信 著 ソフトバンククリエイティブ

       おススメ本 「宇宙が味方する経営」 伊藤忠彦 


     

    ちょっと難しいけど読んでみてください。 2


     
    余計なことを考えずに直感のままに生きて、それがすべてうまくいったらどれだけ素晴らしいだろうと思うのです。

    話は少しずれますが、イチローなど超一流の選手は、素晴らしいプレーを行っているときは、何も考えていなし思ってもいない、無念無想です。

    仏教では、空 というのですが、頭が空っぽで天に通じた状態(境地)のときに人間は、神我一体になるのです。

    そして肉体界だけではなく、霊界神界の素晴らしい力を使うことが出来る。

    それは、昨日ご紹介した「守護霊守護神に代わってあなたに語る」 でもわかるように霊界、神界の叡智を、守護霊守護神の協力のもとに得られるのです。

    “火事場のばか力” は普段は自分はダメだダメだ、金も力も何もないダメな奴なんだとひ弱な気の弱い人が、土壇場に立たされて九死の状態になったときは、心が無になって想念が消え、天に通じて思いもしないような凄い力が出ることをいうのですが、人間というのは自己限定をしていて肉体以外に体は無いと思っているのです。

    だから30キログラムを持つのがやっとだと信じて疑わない、しかし無になったときには何トンという石を持ちあげたり、子どもを助けようとして華奢な女の人が奇跡のようなことを起こすことがある。

    車椅子に乗っていてもう何年も歩いていなかった人が 「火事だ~」 という声に驚いて走り出すことがある。

    不可能を可能にする素晴らしい力が潜んでいる、・・・・・いや最初から不可能なんて存在しないのです。

    人間とはいらない余計なことさえ考えなければそのまま神人であり、天才人なのです。

    神人であるとはすなわち、心の中は穏やかで、平和そのものであり、調和の取れた人であり、愛に溢れた人であるのです。


    本来の人間とは、真・善・美を顕わす人(霊止)なのです。


    無限なる愛、無限なる調和、無限なる平和


    世界人類が平和でありますように


    我即神也

    人類即神也

     

    ・神界には世界完全平和が出来上っていて、幽界には悲惨なる状態が画かれているのであります。そのどちらの状態をこの世に現わしたら良いかは、人類そのもののこれからの想念行為によるのです。

    ですから人々は常に、すでに世界完全平和の出来上がっている神界の様相を、この世に写し出すことに全力を注がねばならぬ、と私はいうのであります。
    ... キリストが「神の国のみを想え」と言っているのも、同じことなのです。

    ・私たちは肉体界の出来事は、すべて神霊幽の三界から送られてくることを、よく知っております。
    愛や美や誠意は、すべて神霊の世界から送られてくる波動であり、恨みや怒りや妬みや恐怖は、すべて幽界から送られてくる波動であることを、私たちは知っているのです。

    ・今日までの地球科学も、ただ単に肉体人間としての智恵能力によって、なされたものではありません。すべての発明発見というものは、守護の神霊から送られてきたひびきを肉体側がキャッチして、いわゆるインスピレーションによってなされたものなのです。

    ですからあらゆる科学の成果は、すべて神のみ力が働いてなされているものなのですが、自我の想いが今日の原水爆のように、人類を滅亡させる武器にまで、仕立ててしまったのであります。これは科学の罪ではなくして、地球人類の業想念のためなのであります。

    ・肉体の人間はいつも考えてから行うけれど、霊界では考えてから行うのではない。スパッとそのまま行うのです。行いと考えがサーッと一瞬同じ。

    だから肉体においても、本当にすばらしい人はスーッと自然に動き、自然に行い、自然に言葉を吐き、神我一体になってゆく。それを自由自在心というのです。
    ...

    ・この世の金や財産をいくら持っていても、肉体の生命がなくなれば元に還ってしまう。後に何が残るかというと、日頃の習慣の想い、自分の持っている想念の波動によって新しい世界、あの世の世界を創ってゆくわけです。

    ・神を離れた誤てる想念というのは、本当は神様のひびきを現わすための肉体なのに、その神霊のひびきを忘れてしまって、肉体だけを別に離して考えるから、生命はそこにだんだん枯渇してゆきます。生命エネルギーがなくなって来ます。

    やがては滅びるという事になります。それは天変地変で滅びるか、戦争で滅びるか、どちらにしても生命エネルギーがなくなって来るから、枯れてしまうわけです。


                      

                    五井昌久

     

    2013年6月 3日 (月)

    守護霊守護神に代わってあなたに語る

     

     

     私は定期的にこの「守護霊守護神に代わってあなたに語る」をブログに掲載しているの

    ですが、以前よりも今の方がずっとみなさんに分かっていただけるようになったと感じて

    います。

    それは、地球がそして人間が霊化してきて、神さまに近づいてきているからです。

    私たちの本当の親は肉体人間の親ではなく、守護霊、守護神(先祖の悟った霊)なのです。

    魂の本当の親は私たちに何を伝えようとしているのか?

    どうすれば幸せになれるのか?

    私はこの27の教え(メッセージ)を読むたびに、胸が熱くなるのです。

    それは守護霊守護神が愛そのものだからです。

    神の慈愛そのものだからです。

    か~あ

    み~い

     





    1、私は日頃あなたが思っていること、考えていることそのすべてを把握し、

    そしてその希望をすべて成就させるよう願っている。

    決してあなた一人だけの望みではない。

    あなたの望みは常に私の望みなのだ。

     

    2、自己の希望を実現しえないで人生を終わってしまう人の何と多いことか。
     
    彼らは私の存在を少しも認めようとはしなかった。
     
    私はどんな時でさえも常に彼らの側にあり、彼らの望みを達成し得んが為に彼らを

    見守り導いてきたつもりでいる。
     
    希望の成就は肉体個人一人で出来るものではない。
     
    常に守護霊、守護神と共に歩んでこそ成就する路なのだ。
     
    それが真実の人生の路なのだ。

     

     

     

    3、出来うる限り明るく陽気に振るまいなさい。
     

    4、私はあなたがいかなることをしようとも、決してあなたに罰を与えない。
     
    私はただ、すべてを許すのみである。

    そしてあなたのその罰を私が代わりにしょってあげているのである。
     
    その代わりあなたは “消えてゆく姿で世界平和の祈り” を繰り返し繰り返し祈ればよい。

    自分自身を深く信じなさい。

     

     

     

    5、私はあなたにあえていいたい。
     
    出来る限り明るい言葉や思いやり深い優しい言葉を常に、極力心がけて努力して使う

    ようにし、光明思想の本を一日一回は読み、人の心を感動させるようなニュースを聞き、

    人と語り合う時には人の心を豊かに楽しませるような話題をあえて選び、

    明るいことのみを語るようにしてほしい。

    そして暗いニュース避け、病気の話や人の不幸の話は出来るだけ口にしないことである。

     

     

    6、羨望の心が湧くのも致しかたない。
     
    嫉妬心にもだえるのもまたこれ仕方がないではないか。
     
    そして人の幸福を妬み人の不幸を心ならずも喜ぶのもまた致しかたない。
     
    人の心は感情によって左右されるものであるから、感情を無くさない限りこのようなことは

    すべて人の心の中に起こり得る現象である。
     
    この世は物質肉体の世界、完全なる霊なる世界と違って不自由な束縛ある世界、

    よくないことだと充分にわかっていながら、正しいことではないと充分に理解していながら、

    神から反している行為だと充分に納得していながら、やはり現れてくるのが現実なのである。
     
    おさえる必要はない、出すだけ出すがよい。

    だが、出来るだけ人に迷惑がかからないように出してゆくのだ。
     
    相手にまともにぶつからず、声を出して私にぶつけなさい、私にどなりなさい、

    私に非難をあびせかけるがよい。
     
    私はあなたの心が充分にわかるだけに、あなたが愛しくて可哀相でならない。
     
    私の大きな翼であなたを包んであげよう。
     
    癒してあげよう。
     
    心の中にある鬱憤をすべて私に吐きすてるのだ。
     
    私が聞いてあげよう。
     
    私が代わって祈ってあげよう。
     
    あなたがあなた自身で祈れる時がくるまでは。

     偽善者 になるよりはよほどよい。

     

    7、不調和な状態を一刻も早く自分の心の中から一掃せよ。

     

    8、

    あなたの内部の奥にじっとひそんで隠されている部分、秘密、嘘、葛藤、情欲・・・・

    それらのすべてを私は知っている。

    私の前には何の隠しだても無用である。

    ただ裸になることだ。

    私にとっては肉体人間の弱さなどは百も承知の上だ。

    だからこそ私というものが必要なのだ。

    私の支えを必要とするのだ。

    朝な夕なに私の名を呼びなさい。

     

    9、

    大自然の修復作用が発揮出来るよう大自然に代わって祈れ。

     

    10、

    あなたの希望を実現する場合、まだこの世の中に何の手ががりも見出せず、

    皆目何も無いところから全く新しい希望、この世に打ち出すそのきっかけを創造(つく)り

    出すのは、いうまでもないこの私である。
      
    常に私の存在を忘れず私の名を呼びなさい。守護霊、守護神同士でお互いに交流し

    合うからである。

     

     

    11、

    人の悪を聞くために耳があるのではない。
     
    人の悪を語るために口があるのではない。

    人の悪しき姿を見るために目がついているのではない。

     

     

    12、

    相手を解放してあげると自己の束縛から解放される。

     

     

    13、

    すべてを見知っている私の前ですら未だ嘘、偽りでもって自分を覆いつくし、隠しだてを

    するつもりでいるのか。

    情けない。

    私はすべてを許そうと思っているのに。

    私は(宇宙の法則)から絶対なる権限を与えられている。

    あなたのすべてをゆるし、あなたのすべてを愛するのが私の働きである。

     

    14、

    あなたが私から離れてどこへ逃げようとも、隠れようとも、またどんな罵詈雑言(ばりぞうごん)

    をあびせかけようとも、それでもなお私は常にあなたの側を離れず、怪我がないよう、

    苦しまないよう、痛まないよう、見守りつづけているだけである。
     
    私はあなたに嫌われていても、それでも尚あなたが愛(いと)しいし、愛しつづけている

    のである。

     

    15、

    私は肉体を持ちあわせていないので常にあなたの内部に働きかけ、内部の力を増し、

    調わせ、そのエネルギーを外界に現わし、そして出来るだけあなたの思うようになるよう、

    成就するよういたらしめているのである。


      

     

    16、

    私はあなたが暗く沈んでいる時、今まで以上に強い希望の光を投げかけている。
     
    あなたが自分自身を傷つけ悲しみに浸っている時、すべては許されるのだという真理の光

    を送り、あなたに語りかけているのだ。
     
    そして私の慈愛の光によって次第にあなたが真理に目覚めはじめ、その暗く果てしない入

    り組んだ道から脱け出してゆくあなたを見た時、私はあなた以上に天の神に感謝している

    のだ。

     

     

    17、

    私は常にあなたに真理を語りつづけている。
     
    あなたの心が全智全能の創造主と同じような強い力を握っているのだということを。
     
    あなたは自分の心で、自分自身を幸せにも不幸せにもすることが出来るのだということを。
     
    自分自身を、傷つけ暗く悲しいものだと思ったら、その通りの人生が展開されてゆくであろ

    うということを。

    そして自分自身を神の分け生命として認め、明るく大いなる希望をもってゆくならば、

    またその通りの人生が展開されてゆくであろうということを。
     
    心はすべてのすべてである。
     
    なぜならば、心は自分自身の運命の支配者であるからだ。

     

     

    18、

    私はあなたがいかなる苦悩、いかなる悲哀、いかなる絶望にあろうとも、必ずあなたを

    幸せにしようと心をくだいて見守りつづけているのである。

    私の働きはあなたの真の幸せに導くこと以外の何ものでもない。

     

     

    19、

     
    私はあなたにお願いがある。この世は物質的肉体がすべてではなく、本来霊なる世界

    の写し世である、という事実を自覚してほしいのである。
     
    霊的自我に目覚めたその時から、もはや何ものにもしばられぬ自由自在なる世界が、

    あなたの目の前に展けてくるのである。

    それは無限の可能性を秘め、自分の思う通りになる世界となるのである。

     

     

     

    20、

    あなたは常に幸せを願うのだ。
     
    あなたは常に神の無限なる能力を信ずるのだ。
     
    あなたは常に調和を愛するのだ。
     
    私はあなたのその望みにむかって全精力を傾けて、その実現のためにわがエネルギー

    をフルにあなたの心の中に注ぎこんでいるのだ。
     
    だが、あなたの望みが常に暗く悲しく絶望的であるならば、その方向にむかってわが

    エネルギーを注ぎ込むことは、不可能である。
     
    あなたの考えが明るく積極的な希望に満ち溢れたものに変わるよう、エネルギーを注ぎ

    こむのであるが、そのエネルギーの消費量は並大抵ではない。
     
    もともと+(プラス)の考え方を更に+(プラス)の方向に導き、この世に実現可能にせし

    めることは、宇宙の法則通りに実に簡単で無駄なエネルギーを消失しないものであるが、

    -(マイナス)の思考を+(プラス)に方向転換させることは、前者の何万倍ものエネルギー

    が消失されるものである。
     
     
    常にあなたの考えを+(プラス)の方向に向けて生きて下さい。

     

     
     

    21、

    頭のよくない人ほど中途半端な聞きかじりをし、自分の知識をひけらかしたがるものである。

    頭がよくないから善悪の批判力が無くすべて受動的に自分に吸収してしまうため、

    その人の潜在意識の奥にすべてそれらの中途半端な知識は溜めこまれてしまう。
     
    さて、本人が病気になったり、挫折したり、失敗したりした時、これらの中途半端な知識が

    次から次へと頭を擡げ(もたげ)はじめ、自分自身の下らない知識で自分自身をがんじが

    らめにしばりつけ、また、自分自身の暗い思考力で自分自身を暗示にかけてしまい、

    どうしようもなく救われがたき状態においこんでいってしまうのである。
     
    浅はかというより他にいいようがない。
     
    知識ならどんなものでも入れていいというものではない。
     
    本来ならば自分の心が勇気づけられ、希望に満ち溢れ、生きることの幸せが鼓舞(こぶ)

    されるような知識なら徹底的に入れこめよ。

    自分の心を暗く不安恐怖に陥らせる知識は意識して取り払うべきである。

     

     
     

    22、

    “自分だけ悟ればそれでよい” という考え方は多分に利己的なわがままな生き方である。

    これを出来るだけよい意味にとるとすると、人に真理を押しつけがましくするのは、

    たとえその教えがどんなに素晴らしくても、そこで必ず人の自由を縛りつけてしまうもので

    あるから、よくないということであろう。

    だが神のみ心からみたならば、真理を一人でも二人でも出来るだけ多くの人達に知らしめ

    た方が積極的な善なる徳のある生き方なのである。

    また何回も何回も重ねて自分の口を通して真理を語るということは、逆に、更に自分自身

    の潜在意識の中に改めて真理を吹きこむ形となり、自分の信念がまたここで更に強固に

    絶対的なものとなってゆくのである。

    真理は何度も何度も繰り返し繰り返し語れば語るほどよい。

     

     

     

    23、

    旧き自己を捨て新しき自己に 蘇(よみがえ)るのが世界平和の祈りである。

    どうにもならない自分をしっかりそのままつかんでしまった上、私はこんなにも悪い人間で

    すといわんばかりに、自分の悪を強調しても、誰も救われはしない。

    むしろどうにもならない自分を一旦神の中に捨ててしまって、すべてを神の中に投げ入れ

    ていまうと、宇宙の法則にのっとった生き方が示されはじめる。

    24、

    あなたの長い間にわたる苦しみは私にはわかっている。
     
    あなたの悲しみや痛みも私にはすべてわかっている。
     
    そして更に今あなたの上に投げかけられている不安恐怖、今のあなたの立場ではどうしよ

    うもないのもわかっている。
     
    私はいつでもあなたの心の叫びを聞き、訴えを聞き、その問題解決が一刻も早からんこと

    を願い奔走しているのである。
     
    だがあなたはこの私の心を知ってか知らないでか、常に自分自身の肉体の力でのりこえよ

    うともがいている。
     
    だがよく聞いて欲しい、もはや肉体界でトラブルが現われはじめたということは、もう何年

    も、いや何千年も前に幽界で現れていたことを。

    幽界で浄めることが全くできなかったが為に、この肉体界に現れはじめたのであるというこ

    とを。

    そのためにはまず幽界を浄め去るのが先決である。

    それが出来るのはこの私である。

    霊なる力で、霊なる光で、幽界を浄めれば、自ずと肉体界のすべてのトラブルは自然に解

    決されるものである。

    私に頼りなさい。私を信じなさい。あなたが夢をみているその時ですら、私は闇を光に変え

    る働きをあなたの為にしているのです。

    あなたはあなた一人で生くるに非ず、私の生命と共にあって生くるなり。

     

     
     

    25、

    今あるとるにたらない小さな小さな幸福にさえも、神の与え給いしごほうびだとして感謝せよ。

     

    26、

    私は “神の子” であるという徹底的なる自覚がいかなる災いからもあなたを防ぎ、

    いかなる不幸からもあなたを脱出させる。
     
    災いにも不幸にも絶対に波長が合わないからだ。

    27、

    私に徹底的に素直たれ。



     

    ちょっと難しいけど、読んでみてください。

     

    私たちの心の中(心境というのでしょうか?)は不思議なもので、いろんな想いが交錯しているのです。

    素晴らしい人や話に感動して、心が洗われて聖者になったような気分になるときもあれば、悪魔のささやきがあって、「なんて自分はくだらないことを想ってしまったんだろう?」自分は悪魔なのか?と自分の境地を嘆くのです。

    しかし、悪い想いが出るということは、悪いものが出てしまったのだから、後はきれいな心になるんだとも思えるのです。

    言いたいことを言って(相手を責めたり、誹謗中傷などではなく)心の中の膿を出してしまって、「あースッキリした」 ということがあります。

    まったく心の中とはどうなっているのか?

    そして次から次へと想いが湧いてくる元となっている潜在意識とは一体なにものなのか?

    心をコントロールしようとしても得体の知れないモンスターと戦うようで、どうにもつかみどころがない。

    これはもしかして、心には幾つかの扉があってそこを探って奥深く入って行かないとわからないように思うのです。

    いつも私が申しておりますように、私たちは肉体がすべて肉体界がすべてだと思っている。

    しかし真実は肉体の他に幽体、霊体、神体という体も同時に纏っているのであり、それぞれに目にみえない世界、幽界、霊界、神界があるのです。

    本当の自分は肉体にあるのではない、神界にいる神体が本当の体なんだ。

    今、自分の脳裡を巡っている想いというものも、光輝く本心を覆っている雲みたいなものなんだ。

    そういう予備知識を持ってこれからご紹介する五井先生の文章を読んでいただけたら、少しは腑に落ちるのではないか?と思うのです。

    という私も完全にわかっているわけではありません。

    しかし、心がわからないと自分自身のこともわからない、他人のことも理解出来ないと思うのです。

    真理の勉強は奥が深いのであります。

     


    「肉体の症状に現われたり、想いに出たりした時は、もうそれは病気が治っている時であり、業想念が消えてしまった時なのです。それを間違えて、雑念が出て来たり、業想念が出ていると、自分はだめだな、と思うけれどそうじゃない。もう消えてしまって、本心はその時光輝いているのですよ」

    「ということは先生、現われて来たことに心が動くか動かないかに差がある、ということでしょうか?」「そういう問題とは違うね。人間には肉体の他に、大別すると神体、霊体、幽体という体がある
    ...

    神体、霊体は光り輝いているけれど、幽体にたまっている汚れが、肉体界に完全なる現れの出るのを邪魔しているわけ。この幽体に汚れがあっても、肉体界に今現れていない場合がある。そういう時は、肉体界のほうはなんでもなく感ずる。スッキリしているような気がしているわけですネ。

    一方、肉体は苦しみ悩んでいるけれど、幽体の中に汚れが何もない場合もある。幽体にはなくなったけれど、肉体の頭の中には、想いとして残っているのです。そうすると自分はだめだなと思う。ところが、幽体にはもうその根はないのだから、後続部隊がないのだから、消えてしまっている、

    もうすでに過去のことですんでしまったこと、悪くなりようがない、というわけですよ。それを私はアッサリと現われて来たものはすべて消えてゆく姿、これからよくなるのだ、と説いているんです」

    五井先生ご指導の一駒--青年が来てまじめに問うた。「先生、人生とはなんでしょうか?生きるということはどういうことでしょうか?」「今、あなたにいうことは、頭でそう深刻がって考えるよりも、まず自分の肌で人生とは何かを感じ、

    生きるということはどういう価値があるか感じとることです。体ごとぶつかることをすすめたい。くわしい話は講演会でしましょう」と答えられた。そのあとで「私が青年の頃は、頭でいろいろと考えるより肌でじかに人生を感じたものですよ。少年の頃から人の家で奉公してたり

    独立して商売をしながら勉強していましたからね。悠長に考えるひまがなかった。それに、知識欲を満足させるということだけでは、私は満足できなかったのでね……」とはたの者にもらされていた。







    感想

    どうですか? ちんぷんかんぷんでしたか?(笑)

    これを説明するには、悪いものを食べて、下痢や嘔吐があって、一番しんどいときとは、もう身体の中がスッキリしているんだという状態に似ていると思うのです。

    ただ下痢や嘔吐で体力が落ちている、まだ最後の痛みが残っている、だから最悪の状態だと思う。

    しかし、その後には、痛みも嘘のように無くなり、表面に現われていたジンマシンのようなものも跡形もなく消えて、かえって身体が以前よりも浄化されたような、強くなったような気持ちになる。

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・

    だから捉われないことが大切だと思うのです。

    想いとは相手の心と書く、自分の想っていることのほとんどは、本心ではなく周りの人、縁のある人からの思いが写って来て、それが自分の思い、考えだと思っているのです。

    人の想いを背負っている、だから想いは重いのです(笑)。

    それから潜在意識に溜まった想いが出てくることもある。

    しかしそれも過去世や以前想っていたことが、蓄積されていた想いが出ているだけなのです。

    今の自分とは関係がない。

    ですからどんな想いが(善い想いも悪い想いも)出て来ても、それに捉われないことが大切なのです。

    サラッと流す、想いをつかまえない、大きく広げない、プラスの方向へ想いを向ける、それを自分の理性でやろうとするのだけれど、なかなかできないのです。

    それはいろんな想いが湯水のように湧いてくるから・・・・・。

    そこで想いをどこかに昇華(消化)させないと消えないんですね。

    自分の想いよりもずっと大きくて、一瞬にして消してくれる偉大なもの(宇宙)へ投げ入れることによって、心が洗われるのです。

    それが祈りなんですね。

    祈りというのは、いのちがのりだすという意味です。

    いのちが生き生きとしてくるのです。

    仏教でいうと、南無阿弥陀仏がそうだし南無妙法蓮華経もそうなのです。

    これらの言霊が想いを浄化していたのです。

    もちろんこれらの言霊でもいいのですが

    今、一番エネルギーの強い祈り言葉が

    世界人類が平和でありますように

    なのです。

    この言葉を唱えると

    天で浄化されて

    肉体に還ってくるのです。

    綺麗な心になれるのです。

    スッキリするのです。

    幸せな境地になれるのです。

     

    2013年6月 2日 (日)

    今日のツイート


     
    昨日から今日にかけて思いっ切りツイッターでつぶやいています(笑)。

    今までは、五井先生や西園寺昌美先生のお言葉、有名人の名言などを引用することが多かったのですが、最近やっと自分の言葉も半分は占めるようになってきました。

    これからは、自分の言葉をもっと発信してゆきたいと思っています。

    私のつぶやきの中には、自分でいうのもなんですが今までに読んだ本や学んだ真理がちりばめられている。

    書いている最中にも、私の脳裏、いや心かな?には、走馬灯のように蓄積された文字という生きものが浮かんでくるのです。

    「弾けたぁ~」 という感覚なのでしょうか?

    湯水のごとく湧いて来るのです。

    いい文章なのか? 人の心を打つ文章なのか?はわかりません(笑)

    今はただ直感に任せて、マイナスと誤解されそうなものを除いて

    書きまくっています。

    今日はツイート(つぶやき)デーですね。

    よろしければ、お付き合いください。




     

    1.解決方法を何十、何百通り並べるよりも、「あなただったら大丈夫だよ、大丈夫、大丈夫」の言葉の方がずっとずっと、相手の人の精神的な力になっているのです。

     


    2.感情をあなたにぶつけて来る人は、モヤモヤしているのであなたに感情を消してもらおうと、スッキリしたいという願望からそういう行動になるのです。そして、ぶつけていい人とぶつけても消えない人がよくわかっている。なぜ自分ばかりと嘆くことはありません。その人の役に立っているのです。


     

    3.他人の言っていることを気にすれば気にするほど、その想念は自分に絡みついてくる。しかし何事もなかったかのように振る舞うと一瞬にして消え去る。要は自分の心次第なのです。

     


    4.スピリチュアル系の人で信用出来るか出来ないかの見分け方は、3次元の一般の仕事を持っていてそこで人に信頼されているか?です。スピリチュアル一本で生計を立てている人は、まず信用しない方がいい。それはそれ一本になると世間の人の気持ちがわからなくなるからです。(浮世離れしてしまうんですね)

     



    5.3次元でやっていた仕事の延長が引退後の老年での生き方となり、死後の世界の基礎となる。だから仕事や、生活態度は非常に大切なのです。なにかのときにそのときの癖が出て来ます。人間は死んだら終り、だから何をしてもいいではないのです。

     



    6. 過去の結果が現在、未来の原因が現在。今を大切に、現在が大事。一瞬一瞬を光明思想で明るく、笑顔で、優しい言葉で、礼儀正しく謙虚で、思いやりを。(調和波動気功法)
    http://www.harmony-wave.jp

     



    7.現在を正しく生きることにより未来が開ける、すると現在と未来のベクトルは上向きになり、過去も変わっていることに気づく。意識を未来に向けよう、そして現在を大切にしよう。(果因説)

     


    8.「ああ、そうだったのか」とわかるのは、ずいぶん通り過ぎてから解ればいいのであって、今現在は、あまり深く考えずにべストと思うことに集中していればいいのだ。

     


    9.「果報は寝て待て」とは、思い煩うなということであり、「どうだったかな?」「どうなるのかな?」と未来へ不安な想念を送ると成るものも成らなくなるのだ。人事を尽したのなら天命を信じて忘れて(寝て)しまった方がいいのです。

     


    10.大きな高い目標を持つと小さなどうでもいいことは気にならなくなる。そういう意味でも目標、目的を持つことはいいことだと思うのです。

     


    11.宇宙は波動で出来ている。そしてみんなつながっている。あなたも私も素粒子レベルではみんな溶けて同化しているのです。それを個別にあると思い込んでいるのが地球人なのです。進化した宇宙人から見るとどうかしているんですね(笑)。アインシュタインはそのことを言っていたのです。

     



    12.「精神的にも物質的にも物おじしない人になりなさい」 / これは人に対しても、お金に対しても恐れるな、逃げるな、卑屈になるな、堂々として生きよ!ということだと思うのです。

     


    13.何かを思う、考えるというのは、何かを期待し、計算(勘定)をすることに他ならない。だから人は思った通り(計算通り)にいかないと腹が立つ、人のせいにする。何も考えず期待しなかったら、すべての出来事を自然体で受け止め、そして喜びで受け取ることが出来るのです。

     


    14.お釈迦様は、「頭でごちゃごちゃ考えるな!あの青空のように空になれ!」とおっしゃった。キリストは幼子のようになれ!老子は無為になせ!昔の聖者はみな同じことを説いていたのです。

     



    15.すっきり爽やかな心境とは、想いがないということ、想いは重いので、溜まるとしんどくなるのです。これがストレスです。想いとは気(エネルギー)なので、気が病むと病気のような症状になるのです。想いがスッキリしていれば、病気にはならないのです。


     

    16.あまり神経を使い過ぎる必要はないけれど、自分のやっていることが人に迷惑をかけていないか?と常に気を配ることは大切だと思うのです。それでなくても無神経でいたらいつの間にか気がつかないところで迷惑をかけてしまっているのです。

     



    17.優先順位をどうつけていいかわからなくなったら、一番にそれは相手の人(みんな)の魂が喜ぶことなのか?2番目に自分の魂が喜ぶことなのか?を考えてみればいい、そのどちらでもないのなら、それはどれを選んでもどうでもいいことなのです。

     


    18.会いたいと思う人がいても、会う縁(必要)がない人とは、なぜか会わずに疎遠になってゆく。また会いたくないと思っていても縁のある人とはなぜか切れない。切れない人とは、なにかの因縁生があって消さなければならない何かがあるのです。そして消えれば(解決すれば)会う事は無くなるのです。

     


    19.「本当の美人というのは、そばに別の美人がきて、人がいくらほめようと、ちっとも気にしない人。中美人というのは、たえず競争心を持っていて、他の人と自分を比べ、他の人が美人といわれると張り合う」それと同じように、本当に偉い人はスーッと澄んでいるのです。/五井昌久

     




      

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