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2013年5月 8日 (水)

泥棒にも三分の理  1

  
  

「泥棒にも三分の理」 このことわざは、悪いことをする人にもそれなりの理由が少しはあるんだ。 という意味なのですが、いろんな捉え方があります。

私はする側ではなく、された側のことをいつも思うのです。

世の中には、凄い人がいるもので泥棒も神の子であり、今は悪役を演じているがそれもいろんな役がらがある中でみんなに嫌われるようなお役目をご苦労さま、ありがとうございます。

取られた私は恵まれているのでございます。

それで少しでも生活が楽になるのであれば、結構なことでございます。

と泥棒に対し敬意さえ払う人がいるのです。

私の祖母は、温厚を絵に描いたような人だったのですが、玄関に履き物が散乱していると

「こりゃー泥棒さんも驚かっしゃーたい」 (博多弁)

とさん付けにするのです。

どんなひとであっても、決して見下すようなことはしない

みんな悪いことをしようと思ってする人はいない

きっとそれなりに私たちにはわからない苦しい事情があるのだろう

もし、泥棒とはちあわせするようなことがあっても

祖母は

「なにか特別な事情があったとね?」

と聞いていたように思うのです。(そして泥棒は諭されたように事情を語り始める)

私はこんな祖母が大好きで

子ども心に

「私も祖母のように心の大きな人間になりたい」

と思っていました。

祖母のこの考えはどこから来ているのか?

宗教的なことからか?

祖母の祖先の教えだったのか?

その時代の環境だったのか?

それはハッキリとはわかりませんが(母に聴いても)

どんな人にも事情がある

今生のものか?

過去世のものだったのか?

だから、今だけの姿を見て

むやみやたらに人を批判、非難、評価してはいけないんだ

ということです。

これは、特別な教えを受けなくても

そう思うことは可能だと思うのです。

私も人を表面だけで判断するくせがあります。

「挨拶をしても返ってこない、なんという常識のない人だ」

「電車の中で大声で携帯で話している、どういう意識なんだ」

「子供が騒いでいる、親はなにをしているんだ」

「あの人はいつも暗い顔をしている、もっと明るく振る舞えばいいのに」

・・・・・・

私たちがイライラするこれらのことは

相手に問題があるのではなく

自分の捉え方に問題があるのです。

捉え方一つで自分の心はどうにでもなる

それも自分の見地からではなく

相手の立場になって見てみれば

納得することもあるのではないか?

相手の心の中までは入ってはいけないけれど

相手の日頃の言動行為から

少しは推測出来るのです。

それが観察力であり

観察力が鋭くなると

洞察力

つまり心が読めるようになる

私は、人間関係をしていく上である程度の 「洞察力」 は必要だと思うのです。

「なにか今日は元気がないな、なにかあったんだろうか?」

「顔色が悪いな、体調がすぐれないのかな?」

私たちは相手を観察することよりも

表面的な

相手が自分に何を言っただかとか

何をされた

つまり自分主導のことばかりを考えているのです。

だから大切なことを見逃してしまっている

心に少し余裕を持って

「なにか事情があるのかもしれない」

と相手主導になって

そう慮(おもんばか)るのも

人間の素晴らしさだと思うのです。

日本人はそれが出来る民族なのです。

そう思わせた文章を次の日記でご紹介します。


 

 

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