« 2013年4月 | トップページ | 2013年6月 »

2013年5月31日 (金)

あなたの遺伝子の中に一切の英知が・・・3

 

自らの内にある英知に目覚めよ


 

あなたには、才能がないのではありません。 あらゆる面に秀でた才能が、もう既にあなたの遺伝子の中に組み込まれているのです。

あなたは、美意識がないのではありません。 研ぎ澄まされた美に対する感覚が、もう既にあなたの遺伝子の中に組み込まれてあるのです。

あなたは、記憶力が悪いのではありません。 もう既に何でも吸収できる記憶力が、あなたの遺伝子に備わっているのです。

あなたは、芸術感覚がないのではありません。 情緒豊かな芸術性に富んだ能力が、もう既にあなたの遺伝子の中に潜んでいるのです。

あなたには、理数系の能力がないのではありません。 緻密な理数系の才能が、あなたの遺伝子に組み入れられているのです。

あなたには、文化系の能力がないのではありません。情緒豊かな文化系の才能が、あなたの遺伝子に組み入れられているのです。

あなたは、運動神経が鈍いのではありません。 素晴らしい運動神経が、もう既にあなたの遺伝子の中に組み込まれているのです。

あなたは、健康を保つことが出来ないのではありません。 強力なる自然治癒力が、既にあなたの遺伝子の中に組み込まれられているのです。


このようにして、今のあなたが、自分の肉体を構成している何億、何十兆の細胞の一つ一つに、神が大いなる英知を組み込んでくださておられる、その事実に気がつかねばなりません。

その英知をそのまま放っておいては勿体ないのです。

その英知を目覚めさせなければ、自分自身に対して申し訳ないことです。

誰もが、この素晴らしい驚異的な事実に、一日も早く、いや一刻も早く目を開かなければならないのです。

人類70億の人々が皆、この真理に目覚めなければならないのです。

さもなくば、あなたの人生は無駄骨に終わってしまいます。

あなたの天命は完うできずに、この世をさ迷い歩く哀れな一生となるでしょう。

こんな素晴らしい無限なる能力が一人一人の遺伝子に組み込まれているというのに、それには一瞥(いちべつ)を加えずに見過ごしてしまっていたのです。

今からでも決して遅くはありません。

この不可思議なる身体、崇高なる肉体、緻密にして神秘なる器、この肉体一つをとってみても、我々の力ではどうあがこうとも、何一つ自分の意思で動かすことも、新しく造り出すことも出来ないのです。

すべての内臓を動かすことも、血液の濃度を一定に保つことも、食べ物を栄養に変えて、そのかすを大小便として出すことも、我々の知識や力では何一つ出来得ません。

身体一切のことは、すべて身体の中の組織に任せる以外に何の方法もないのが現状です。

   つづく

 

         「果因説」 西園寺昌美 白光出版




 

 

今日のツイッター

 

 
個人の人間関係においても、国家間の関係においても今一番欠けている大切なものは、コミュニケーションだそうです。

人間は、相手を知れば分かり合える。

だけど分かり合おうとする行為をしなければ、そこで止まってしまうのです。

分かり合える手段は、会話です、対話です。

コミュニケーションです。

以心伝心というのは、十分なコミュニケーションを行なった上で生まれて来るものであり、対話を怠ったり、おろそかにしたり、投げ出したり、逃げ出したりして、生まれるものではないのです。

昔、虫が好かない、嫌な奴だと思っていたけど話してみたらいい奴だった。

先日、高校の同期の飲み会である友人が語っていました。(思春期の頃は感情で相手を判断しがちなのです)

そして良いコミュニケーションとは、活発な会話であるとは限らないのです。

相手を思い遣る愛は、ときには一方的であるかもしれない(話す方と聞く方が分かれる)

そしてまたある時は、その時には答えの出ない対話なのかもしれない。

しかし、確実に相手の人の心にプラスのエネルギーが沁み渡っているのです。

それが本当のコミュニケーションだと思うのです。

 


 

1.人間には乗り越えられない試練は、絶対にこないのであって、そういうことから言うと、落ち込んでどうしようもない状態というのは、無いことになる。どこかに余裕はあるのです。そこから這い上がって行くのは自分しかないわけで、相談に乗って同情するのは、いらないおせっかいなのです。


2.試練というのは、その人が乗り越えて強くなるために来るのであって、他の人が介入してはいけないのです。だから相談に乗ったとしても、アドバイスや答はいう必要はなく、ただ相手の鏡になって否定も肯定もせずに「うんうん」と聴いていればいい。受け止めてあげればいいのです。


3.すると相手の人は、鏡に映った自分の姿を客観的に観ることができる。鏡の奥に本心、そして答が映っているのが見えて、そこから本心や答を引っ張りだそうとする。この引っ張り出す作業が解決の秘訣です。だから鏡にならずに自分の意見、考えを言うのは、自分が感謝されたいという 我 なのです。



4.ほとんどのコンサルタントと言われる人は、相手の鏡にならずに、自分を押し出している。引き出さずに、押し込んでいる。だから相手の中の神性が出て来ない。「死ぬ、死ぬ」と叫んでいる人はまだまだ余裕があるのです。ですからそんな人は放っておくか、鏡になってただ聴いてあげるだけでいいのです。


5.壮絶な人生を送った人の話を聴いていたら、「よく乗り越えたなぁ」「よく死のうとしなかったなぁ」 と感心するのですが、本人は案外あっさりして、明るいことに気づきます。そしてその人が強く逞しく、そして以前よりも美しくなっていることに気づく。つまり魂の成長がその人を神々しくしたのです。


6.相手がかわいそうだと相談に乗っているもののほとんどは、自分がいい人に想われたい、相手をもてあそびたいという不純なものであり、そこから男女の醜い、嘘の交際が始まる。そしてそれは愛ではなく感情(勘定)だけの付き合いなのでいずれ終焉を迎える。


7.嘘の関係を続けると、相手が間違っていても、正すことが出来なくなる。それは自分の心が歪んでいるのに、正論をいうのは、後ろめたいからだ。不幸とは、目の前の現象ではなく、心の状態をいうのであり、正しいことをはっきりと云える(いざというときには)環境そして人間関係は大事だと思う。


8.「あの人は冷たい人」 と肉体人間の相手からはそう想われていても、そして去って行ったとしても、その人の守護霊守護神(魂の本当の親)は、あなたに感謝しているのです。本当の愛を貫くことは孤独なのです。しかし本当は孤独ではないのです。


9.「あの人は冷たい人」 と肉体人間の相手からはそう想われていても、そして去って行ったとしても、その人の守護霊守護神(魂の本当の親)は、あなたに感謝しているのです。本当の愛を貫くことは孤独なのです。しかし本当は孤独ではないのです。



10.相手から感謝されたい、感情を満たしてあげたい、という安っぽい、軽い感情(勘定)はかならず後から、そのしっぺ返しが待っているものであり、元の状態に戻すのにかなりの時間が必要なのです。それは、汚れた水をきれいな水に戻すのに、莫大な水量が必要なのに似ています。



11.解決方法を何十、何百通り並べるよりも、「あなただったら大丈夫だよ、大丈夫、大丈夫」の言葉の方がずっとずっと、相手の人の精神的な力になっているのです。




12.泣きごとを言ってくる人は情に溺れているのです。同情(感情移入)したり、深い仲になってしまうとあなたも溺れることになる。人を救うには、自分は岸にいて浮輪を投げるのが一番の得策です。「同情は禁物」とはそういうことです。



13.感情をあなたにぶつけて来る人は、モヤモヤしているのであなたに感情を消してもらおうと、スッキリしたいという願望からそういう行動になるのです。そして、ぶつけていい人とぶつけても消えない人がよくわかっている。なぜ自分ばかりと嘆くことはありません。その人の役に立っているのです。





2013年5月30日 (木)

あなたの遺伝子の中に一切の英知が・・・・2

 

あなたの遺伝子の中に一切の英知が組み込まれている

 

生きてゆく上で最も重要なこと

 

あなたの遺伝子の中には既に、あなたの一生を貫き通して生きぬくための全智全能なる偉大なる働き、芸術、知恵、健康、繁栄、幸福など一切が組み込まれています。

今のあなたの一つ一つの遺伝子の中にはっきりとプログラミングされているのです。

現在のあなたにとって、それを理解することが、この世を生きてゆく上で最も重要かつ大事なことなのです。

それこそ、生まれた時から、あなたの欲するもの、願うもの、すべてが組み込まれています。

ここにおいて、あなた自身に内在するそれら一切のもの、英知、健康、才能、能力等を一生を通して、あるいは人生の過程において、引き出し、この世に現わしてゆくことこそが、人間としてドラマチックな人生を展開させてゆく最高の方法なのです。

外にそれらを見出そうとして探し求めても得られるものでもなければ、人から与えられるものでもありません。

ましてや神や天が授けるものでもありません。

もう既にあなたの中に、遺伝子の中にはっきりと組み込まれて存在しているのです。

それらを自分の人生の上にうまく引き出してゆくか否かが、人それぞれの運命の決定的な分岐点となってゆくのです。

成功 ━ 失敗、 繁栄 ━ 衰退、 幸福 ━ 不幸、 健康 ━ 病気、これら一切のことは、すべて自分の責任において生じたものであって、他を恨むことも、他を責めることも許されないことです。

何故ならば、不幸にしても、病気にしても、孤独にしても、苦悩にしても、本来自分の欲せざることが、現に自分の目の前に生じてしまっていたら、それは、自らが自らの遺伝子に組み込まれている一切の才能を自分の上に引き出すことをしなかったか、あるいは、自分に内在しているそれら一切の全智全能なる英知を認めることなく、理解することなく終わってしまったかのどちらかだからです。

・・・・・・(中略)・・・・・・

空に舞う鳥たちをみてください。 美しいきらびやかな羽をひろげてスイスイ舞い飛ぶ小鳥たちそのものも、その形、その色、その飛び方、えさの捉え方、これら一切を誰から教わることもなく、自然に遺伝子の中にプログラミングされた、約束通りの生き方を示しているに過ぎません。

蝶の卵が幼虫となり、それがさなぎとなって蝶に生まれ変わる、これらの一生を通して、実に偉大なる働きが遺伝子に組み込まれているのです。

彼らは、別にむつかしいことを考える必要はないし、頭を必要以上に使うこともありません。

おおよそ努力を要求されることもなく、ただ自然にとけ込み、自然界の一部分となって、生かされているのです。

ところが人間となると、単純にいかないのです。

これら大自然界に生きる動物、植物、鉱物、一切と違って自然に生きていません。

すべてのことをわざわざ複雑にからませ、入り組ませて生きています。

知識のみが先行し、肉体がそれに付いてゆけない状態がほとんどなのです。

我々すべての人間に内在している素晴らしい感受性、直観力、危険な毒物に対する的確な反応、動作、美意識などなど、内のみの要求に自然に任せていれば、苦労もなく、失敗もなく、自然に通り抜けていけるものを、なまじの知識や経験で判断を下すため、自然に逆らい、直観に逆らい、反応を鈍らせ、思いもかけない方向へと自らを導いてゆきます。

その結果、不安で不幸な道へと自らを追いやってしまうのです。

あなたの中に、あなたの遺伝子の中に、一切の英知、全智全能なる力が既に組み込まれていることを、ここで改めて認識していただきたいと思います。

これは特別な人、たとえばノーベル賞を貰った人などの遺伝子について説いているのではありません。

偉大な科学者の遺伝子、偉大な政治家や実業家の遺伝子、偉大な芸術家の遺伝子が特別なのではありません。

彼らは自らの中に既に組み込まれているあらゆる才能を、自らが認め、自らの上に、この世に現わしたに過ぎないのです。

これらの偉大な人々の遺伝子も、我々普通一般の人々の遺伝子も何らの差異もありません。

ただ、これらの遺伝子に組み込まれている一切の英知を認識し、それらを実際に自分の人生の上にどれだけ引き出して使ってゆくか、否かの違いだけなのです。

偉大なる科学者や芸術家たちは、皆それに気づいて、理解し、努力して、それらの才能を自らの中から引き出して導いていった結果なのです。

ですが、我々は、それら一切の英知が内在していることに気づかず、現われている肉体がすべてのすべてだと思い込み、信じ切っているため、あくせくあくせく、働いても働いても、努力しても努力しても努力しても、忍耐に忍耐を重ねても、自分の思うようにならない人生を繰り返しているのです。

さあ、今これから、あなたの中に眠っている一切の英知を認め、それを目覚ましてゆくことが、あなたが置かれている今の環境、今の立場、今の状態、今の苦労から脱け出してゆく最善の方法なのです。

 

      

            
「果因説」 西園寺昌美 白光出版

 

あなたの遺伝子の中に一切の英知が・・・・ 1

  

私がブログを書く上で目標にしているのは、どのブログを読んでも、何年も前の日記でもプラスのことしか書いていない、元気の出る要素しか含まれていないという風にしたいと思っているのです。

世の中はマイナスのエネルギー、マイナスの想念で溢れている。

そしてプラスとマイナスを交互に繰り返すので、元気になったり落ち込んだり、嬉しかったり、怒ったり、穏やかになったかと思えば、心を荒立てることがある。

日本国民、総、鬱(躁うつ)状態、なんて書いたらマイナスを書いたことになりますよね(笑)。

ずっとハイテンションというのも困るけれど、マイナスの要素があってもそれを跳ね返すだけの強さは必要だと思うのです。

切り換えですよね。

それには真理がわかっていないと無理なのです。

根本に、自分は素晴らしいんだ、人間とは無限の可能性を秘めた生きものなんだ、どんな不可能も可能にする無限の可能性を内に持っているんだ、そのことを信じれば信じるほど、内なる英知は溢れ出てくるのだ・・・・・と。

このことがわかっていると、切り換えが出来るのです。

躁状態から、平常心へすぐに戻れるのです。

今までの癖で、最初は時間がかかるかもしれませんが

習慣になって身についてくるといつも自信にあふれた明るい自分になれるのです。

だから私は気休めのその場しのぎの癒しはしたくはない、心の底から元気になっていただきたいのです。

これからその根拠となる真実を「果因説」の中から抜粋します。

この本を読んでいるとほんとに、心が洗われて、浄化されて、内にある神性が光輝いてくるのです。

元気になるとは、こういうことだと思うのです。

内なる神性が顕われてくることが元気の源なんだ!

それでは、みなさん自分の本性(本当の姿)を知って、揺るぎない元気を会得してください!

  

2013年5月29日 (水)

放課後の音楽室

 

昨日、于先生(私のメンター)のレッスンがあり、レッスンの合間にこのCDを聴かせていただきました。

聴いた瞬間に、身体がしびれるような感動が走り、ずっと求めていた音楽と出逢ったような心境になったのです。

どこかで聴いたことのあるような、ずっとずっと昔に聴いていたような

宇宙の果てで流れていたような・・・・・・。

タイトルをみて、高校時代の校舎を思い出しました。

私は、大阪の新設府立高校の一期生出身、それも箕面の閑静なところにある森と緑に囲まれた、最高の環境に育ちました。

一期生ということは上級生はいない(風通し抜群!)、なにをするにも自由自在(クラブも自分たちで作った)、パソコンもスマートフォンもなかったけど、心は満たされて幸せだったあの頃・・・・・・。

その頃の時代は時間がゆっくりと流れていました。

実にのんびりとしていたのです。


その頃と比べて今の私は何をそんなに急いで、何に焦っているのだろう?

この曲を聴いていたら そんな声が聞えてきたのです。


私は選択科目で音楽は取らなかったけど

あの頃の音楽室の雰囲気はきっとこの音楽がぴったりだったと思うのです。


母校というのはいいですね。

母のような学校

卒業してもずっと見守ってくれている

そして誰もいない放課後の音楽室

そこから流れて来る癒しの音楽♪



http://www.youtube.com/watch?v=MIi2M93JiDk




 

成功者は果因説を実践している。


  

世の中が不況のときや、悪い実績が続いたりすると、このままでは倒産してしまうのではないかという否定的なことを思い、それを気に病む人がいる。
しかし、そのようなことが心を占めていると、その心が本当にその否定的なものを招き寄せてしまう。すべて人生は
心に描いた通りになる。
どのような厳しい状況に置かれようと、否
定的なことを心に浮かべるべきではない。
まじめに前向きに努力していけば決して悪いことがあろうはずがないと確信して、常に堂々と明るく進まなければならない。(稲盛和夫:京セラ・KDD創業者)



 
facebookなどで、著名人の名言・格言・いい言葉という学びのページがあるのですが、私は毎日読むのを楽しみしていて、響いたものはツイッターなどに転送しています。

今日の名言は、稲盛和夫さん、稲盛さんは、経済界だけに活躍しているのではなく、思想家、哲学者、宗教者(仏教)でもあり、「生き方」という著書は、世界中の人々に多くの感銘を与えました。

稲盛さんの何が原点になっているかというと、愛が根底にあると思うのです。

自分のしていることが、自我欲望でしているのではないか? 驕ったところがあるのではないか? 人様のためになっているか?

常に心を浄化させて、本心(愛)に沿った生き方をされている。

本心というのは神界(天界、宇宙)にあるのだから、宇宙の法則から自分の考えが外れていないかが最大のチェックポイントなのです。

本心に忠実に生きることを実践していると、宇宙というのが、プラスのエネルギー、愛のエネルギー、神様、仏様の素晴らしいエネルギーで成り立っているということに気づく。

宗教というのは、宇宙を示す教えという意味であり、お釈迦様もキリスト様も宇宙観を唱えているのです。

宇宙にはプラスのエネルギーしかないのだ。

すべては、無限なる愛、無限なる調和、無限なる平和、無限なる叡智、無限なる光、無限なる生命、無限なる繁栄、無限なる成功、無限なる富、無限なる供給・・・・・・

人間は宇宙そのものであり、小宇宙である。

だから失敗や、貧困や倒産や、悪いことなどあり得ないのです。

それを引きつけてしまっているのは、人間の否定的な想念に他ならない。

稲盛さんは、経営を実践しているうちに、宇宙法則(真理)を確信されたんですね。

この文章を読んでいると、果因説そのものであることがわかるのです。

心の中をプラスのエネルギーで一杯にしていれば、現実はその通りになる。

マイナスのエネルギーで一杯にしていれば、それもまたその通りになる。

どちらも人間の想像(創造)した通りになるのです。

凄くシンプルですよね!

しかし今まではその法則が判らなかった

知らなかった

だがしかし、その法則を知った私たちは果因説をこれから当り前のように実践してゆく

そう思ったのでした。

  
 
   おススメ図書

   「果因説」 西園寺昌美  白光出版

   「生き方」 稲盛和夫 サンマーク出版


 




  

 

2013年5月27日 (月)

日々の指針

    


1. 今生における人生の主人公は、自分自身である。


1. 誰も愛せず、信頼できない人は、誰からも愛されず、信頼されない。



1. ああだ、こうだと理屈をこねる時間は勿体ない。その分、祈り、祈り、祈りこめ。


1. 自らの一挙手一投足には、必ず自己責任が伴う。


1. 何度失敗しても絶対に諦めるな!! 必ず成就するという信念を持て。


1. 生命そのものは、ただそこに存在するだけで偉大な働きをしている。自らの思考こそが邪魔なのだ。



1. 今こそ真のリーダーが求められている時代はない。

 神人こそが新たな道を示す真のリーダーとして、あらゆるジャンルから迎えられ、求められてゆく時代の到来である。

 





     

           西園寺 昌美  白光誌 5月号より





 

感想


今回の感想は

1. 生命そのものは、ただそこに存在するだけで偉大な働きをしている。自らの思考こそが邪魔なのだ。

についてです。

実は、つい先日街を歩いていたのですが、そのときに知り合いの人がやっている美容室(カットをしてもらっている)に行こうかどうしようかと考えながら目的地へ向かっていたのです。

その美容室は月曜日がお休み、その日は火曜日なのでやっている。

「急だけど出掛けたついでに電話してみて空いていたら行こうかな?」

「それとも明日にしようかな?」

「だけど、もう一週間先でもいいかな? そんなに髪も伸びていないような気もするし」

などと、どうでもいいことをああだこうだと想いを巡らせていたのです。

そんなときに道中で、ふと、Aさんという知り合いの人に出会って

「ごめんなさい、実は財布を忘れて出てしまって、お金がいるんだけど、貸していただけませんか?」

と言われたのです。

その方は、絶対に信用出来る人で、近々又お会いする事になっていたので、私は心快くお貸ししたのでした。

するとその時点で、私の中で美容院に行くという選択肢は無くなり(残金が少なくなったので)、スッキリとした気持ちで目的地へと向かったのです。

するとその帰りに、美容院にいるはずのBさんにばったりと出会い

びっくり

「あれっ今日、お店お休みではないですよね?」

と尋ねると

「月、火曜日と連休で休んだのです」

という答が返ってきて

「じゃあ、明日、予約していいですか?」

ということになり、わずか1時間くらいの間ですんなりと事が進んだのです。

お金をお貸ししたAさんには後日

「あの時は助かりました」 と感謝され

Bさんにも出逢って、迷うことなく次の日に美容院に行った。

結局、ああだこうだはなくてもすべては、上手くいくように整っていたのです。

こんなことで、と大げさだと思われるかもしれませんが

別の選択肢もあったわけです。

お金を貸してくれと言われても、自分はもしかしたら入用になるかもしれない

「すいませんが、お貸しすることはできません」 と断り(かなり意地の悪いケースですが)

今度は、「あー貸してあげればよかったかな?」と後悔の悩みが加わって

いいや、電話してみよう、今日は美容院に行くことになっていたんだ

と気を取り直して、連絡してみたら

お休みだった。

「自分はなんてバカなんだ」

とまたまた自己嫌悪に陥るという結末もあるのです。

いかにああだこうだがいらないものであるかがわかります。

私たち人間は、思考が邪魔をしている事に気づかねばなりません。

みなさんの中には良い思考と悪い思考があるんだとおっしゃるかもしれません。

しかし思考とは、やはりいらないものなのです。(思慮分別心はいらない)

スッキリ爽やかなときとは

何も考えていないのです。

澄み切った空のような境地なのです。

それが人間の本来の正常な?姿なのです。

今回の指針を読んで改めてそう思ったのでした。


 

 


今日のツイート

  

ツイート(つぶやき)とは、ショートブログと言われているそうです。

だからブログの一種であるわけですね。長い日記だと起承転結に気をつけないといけませんが(ほんとうはそこまで考えていませんが)、短いとふと浮かんだことをそのまま書いてみて、「うんなかなかいい出来だ」 と偶然にそのときの心境が素直に出せる場合があるのです。

だから面白い!

今回のツイートは、昨日行われた調和波動気功法(ムーンリバースター)のセミナーで私のメンターである于先生がおっしゃっておられたお言葉もちりばめてみました。

今の世相や気をつけるべきこと、そして私の感想なども入っています。

よろしければ、お付き合いください。 happy01



 

1. 真剣になることと、深刻になることは違う。真剣とはエネルギーが集中することで光が見えてくる。一方、深刻になると気持ちがネガティブになって光が見えて来ない。自分が今、深刻になっていないかチェックしてみよう。そして、どんなときにユーモア、明るさは必要なのです。

 

2. 自分がその人の理解者になることは出来なくても、受け入れる器になることは出来る。その人は受け止めてくれるだけで癒されるのです。愛とは受け入れる心をいうのです。だから寛容な心が必要なんだと思います。
 


3. エベレストの山頂に着きました。世界最高の気分です。皆さん、本当にありがとう。これ以上ないぐらい疲れていますが、80歳でもまだまだいける。ヒマラヤが眼下に見えて美しいです。頑張って、頑張って、頑張って、たどりつきました。(三浦雄一郎:80歳でエベレスト登頂)
 


4. 頑張ってという言葉は好きではないけれど、三浦雄一郎さんが言うと全く嫌味には聞えない。それは感謝の気持ちがあるからだろう。我を張れるのは、自分だけの力ではないことを知っている。ほとんどの人の頑張ってには、感謝という謙虚な気持ちがない、自分一人の力でどうにかなると奢っているのだ。

 


5.今の株価の乱高下は、60%が外国人が介入しているものであり、企業の業績が良くなっているからではない。だからプロが投資目的でやっているのだ。素人が手を出すと必ず失敗する。短期で儲けようとするな!お金は汗を流して稼ぐべし!



6. 大阪の話だけれど、梅田などの一等地は、土地が高いのでテナントはガラガラ、少し外れたところは安いのでテナントは入っている。今の経済を現わしていると思う。気ばかりが先走って景気が良いように映っているが実際は、もう成熟しているのだ。お金を刷るよりも足元を固めることが大切だ。

 


7. スリムになろうとして、極端に食事を減らしたらストレスが溜まる。運動のし過ぎもよくない。だったら食事を適当に減らして、軽い運動をするのが良いことがわかる。どんなことでもほどほどがいいのだ。
 


8. 「ありがたい、ありがたい」と心の中で唱えているとほんとうにありがたいことが引き寄せられてくる。ありがたくない人に対しても同じように唱えていると相手の人が笑顔に変わってゆく。これはプラスを発すると倍になって返って来るという宇宙の法則なのです。

 


9. 学習することや研究することも大切だけれど、自分が発しているエネルギー(波動)をスッキリ爽やかに整えることの方がずっと大事なのです。それは宇宙全体に影響を与えることになるからです。(調和波動気功法)

 

10. 「己を知る、己に克つ、足るを知る」これは自分が何者であるのかを知る、感情に勝つ(乗り越える)、そして今の現状で十分満たされていることを知り、感謝出来るようになることをいうのです。この境地(心境)になれば人間は幸せになれるのです。
 



11. いくら外面(そとづら)が良くても、家に返って家族を泣かせていては、それは見せかけの良い人なのです。口先ばかりで面白いことやよいことを言っていても心の中が伴っていなければそれは本ものではない。しかし人は、外面、口先を信用してしまう。それを見抜く洞察力を養おう。

 


12. お金儲けだけをしているだけでは、人は付いていかない。一方で人の幸せのために活動したり、人類の幸福を祈る人でないと人も神様も及第点はくれないのです。
 



13. 自分がスッキリしていれば、相手は受け入れてくれる。それは理屈ではなく、スッキリしたエネルギーがわかるからです。人間(動物も植物も)は皆、スッキリした人が好きなのです。(調和波動気功法)
 



14. お腹一杯になるまで食べることをやめる。お腹が減っている時間を楽しむ(身体は喜んでいる)、ただし無理はしない。そして脂肪が燃えやすいように(目に見えないエネルギーに代えるために)軽い運動をする。こうすれば無理なく自然に理想的な身体になると思います。
 



15. 男女共に中年や老年の人が若い人が好きなのは、若い人を見ることで自分の鏡にしているのだそうです。だから若い奥さんをもらうと若返える、甦る(笑)。「鏡よ、鏡よ、鏡さん私は若いのだ!」と唱えれば(果因説)、細胞(エネルギー)はそのように働くのです。





 
調和波動気功法

http://www.harmony-wave.jp/


 
 

 





  

2013年5月26日 (日)

君は何を見、何を感じているか?


プロゴルファーの岡本綾子さんが、その昔ある銀行の社長さんにこう聞かれたことがあるそうだ。

「君はラウンド中、何を見、何を感じている?風の音、鳥の声は聞えているか?」 当時の私には試合中、大勢のギャラリーがコース内で交錯する姿がやけにせかせかして映っていた。

しかしこのお話しを伺い、鳥のさえずりが聞えるように。自然の中にぽつんといる私に置き換えることで、人の動きも気にならなくなり、視界が広がった。

と語っている。 

この話ともう一つ、以前読んだ本にやんちゃ盛りの子育てにうんざりしてストレスの溜まっていた主婦が、人に薦められて食卓の上にキャンドル(ろうそく)を灯すようになってから、心が和むようになり、イライラすることが激減したと書いてあった。

このように、どこに視点を合わすかによって住む世界がまったく違ってくるのです。

人間は、ついうっかり油断をしていると、マイナスに合わしそうになる。

しかし視点を拡げて見ると、プラスの要素が私たちの周りには溢れていることがわかる。

プラスに視点を合わせているとプラスの要素は心の中を占め始め、やがてマイナスは消えて無くなっていることに気づくのです。

人を観ていてもそうですよね。 その人のマイナスを観るのではなく、いいところを見つめそこから焦点を外さないようにすれば気づいた時にはその人のファンになっているかもしれない。

そんなことを思わせる岡本さんのエピソード(回想録)でした。

さぁ、これから外に出掛けるのだけれど、どこに焦点を合わせようかな?

みなさんはどこに合わせますか? sun  happy01



   


  

 

2013年5月25日 (土)

意識は現実を創造する力

   

今から書き写していくことを全文載せると、あまりにも今の世の中の状況(意識レベル)とは離れているために面くらうことになると思います。

ですから私が皆さんが受け入れられるだろうと思うギリギリの線で端折ったり、中略して、文章をつなげたいと思うのです。

書いている西園寺昌美さんには大変申し訳ないのですが、中途半端なのかもしれませんが、素晴らしいことを書かれているのです。

ほんとうは全文を載せたいのです。

しかし、あまりにも高過ぎて(意識レベルが)読んでいる皆さんが理解出来ず、反発するようでは本末転倒になるからです。

興味のある人は是非、全文を原文のまま読んで頂きたいと思っています。

端折っていても十分、宇宙の神秘、真理の素晴らしさ、は伝わると思います。






私は専門家ではないため科学の理論や用語はよく分かりませんが、宇宙子科学の交流をしているうちに、おぼろげながらもだんだん分かってきたことがあります。

意識やDNAについてよく考えてみると ━ まず肉体があり、耳があります。 その一つ一つのもっと奥深くへ入っていくと、すべて細胞、タンパク質で出来ています。

一人の人間は、60兆の細胞から成っています。 その細胞は原子で構成されています。

原子は素粒子の集まりです。

そして光子なども存在します。 そのようにしてとことんまでいくと・・・・・・それでも物質です。

DNAも物質ですし、素粒子も物質です。

しかし素粒子レベルで見ると全部がつながっているのです。

世界中つながっているし、宇宙空間にもつながっています。

そして、宇宙空間は宇宙子で満たされています。

宇宙子とは何か。 宇宙神そのものです。 宇宙神そのものとは何か。 

それは大自然であるし ━ ですから大自然そのもの、宇宙そのものを “神” の総称とする科学者もいます。

要するに、私たちの肉体も、一つ一つ全部つながっているのです。

北朝鮮にも韓国にもアメリカにも中国にも全部つながっています。

しかし、想いが3次元の世界、空間、時間、物質に把われて、多くの人は分離を意識しているため、“意識は行っていない” “救われない” “私は何も出来ない” “私は命令に従ってやるだけだ” と思っているのです。

意識は創造する力です。 意識は現実なのです。 これをよく覚えていてください。 意識は現実です。

自分が思ったことは必ず現実に映されるのです。 これは宇宙子科学で証明されつつあります。

思ったことは現実になる ━ 私は普段、宗教として 「想いはすべてこの世に映される」 「自分の感情は必ず自分に返ってくる」 「自分が激怒すれば激怒が返ってくる」 とお話ししています。

意識即創造力です。 意識は創る力であり、自分が意識したものが現実に現われる。

そして自分が創造したものは、必ず自分が体験することになるのです。

自分が体験するためにそれを現わしたのです。

ここが大事なところです。 固定観念につながっている科学者や物理学者は、このことが分かっていません。

感情が大事、意識が大事なのです。 ・・・・・・(中略)・・・・・・・“つながっている” という状況について、宗教的にお話しいたします。

皆様にも体験があるはずです。

ある方に電話しようと思った時に、相手からかかってくる。それはこちら側の “電話したい” という意識を相手がキャッチして “電話をしよう” と思ったのです。

こちら側が行動する以前に、意識が素粒子レベルでこの宇宙空間を伝って、相手に届いているのです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(中略)・・・・・・・・皆様方は創造者です。 しかし、多くの人は自分を創造者だとは思っていません。

創造者イコール宇宙神、またはイエスや仏陀といった方々が創造者で、その方々に対して自分は普通の肉体人間だと思っている。

それを傍観者というのです。

ただ見ているだけ、言われたことをするだけ。

意識の中では誰もが批判も喜びも歓喜も賛同も表わしているのに、自分からは動こうとはしないのです。

しかし、皆様方は自分から動こうとしています。

自分は世界を変えられると思っています。 神人が思うことは地球のことのみ、人類の幸せのみ、人類の平和のみでしょう! 自分が思うこと、言っていることは必ず現実に現われます。

そして必ず自分はそれを体験するのです。

自分が創造者なのですから。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    

          西園寺昌美 白光誌 6月号より




  

アインシュタインは自分は天才ではないと語っている。

  

アインシュタインは20世紀でもっとも優れた科学者であると言われているのですが、自分では天才ではないと言っている。それは正直な気持ちだと思うのです。

ただ違ったのは、宇宙(天、本心)と波長を合わせるのがうまかった。

そして天から叡智だけではなく、ユーモアというセンスも降ろして来た人です。

舌を出して笑っているお茶目な写真を見られた人も多いと思います。

アインシュタインは、人とはユーモア(ジョーク)という余裕がないと、人生が楽しくないよと言っているような気がします。

そしてユーモアの中に大切なこと(真理)をちりばめて語っている。

今読んでいる本 「アインシュタイン150の言葉」 からわたしが選んだ言葉をご紹介します。

 
 

1.あなたはほんとうにそう思っているんですか?他人によって永遠の幸せが得られるなんて。いくらその他人が最愛の男だったとしても。 私は、自分自身の経験から、男というものをよく知っています。だって、私もその一人なんですから。男に期待しすぎてはいけません。このことは、私にはよくわかっています。


2.人は海のようなものである。あるときは穏やかで友好的。あるときはしけて、悪意に満ちている。ここで知っておかなければならないのは、人間もほとんどが水で構成されているということです。


3.海は、形容しがたい壮大な姿をしています。とりわけ、日が沈む瞬間は。そんなとき、自分が自然に溶け込み、ひとつになるように感じます。そしていつも以上に、個人という存在の無意味さを感じるのです。それは幸せな気分です。



4.蝶はもぐらではない。でも、そのことを残念がる蝶はいないだろう。



5.ああ、悲しいかな。エゴと競争心は、公共性と義務感より強い。


6.ある偶然の出来事を維持しようとする不幸な試みを結婚という。
 


7.異性に心を奪われることは、大きな喜びであり、必要不可欠なことです。しかし、それが人生の中心事になってはいけません。もし、そうなったら、人は、道を見失ってしまうことでしょう。



8.どうして、自分を責めるんですか?他人がちゃんと必要なときに責めてくれるんだから、いいじゃないですか。


9.わたしは、先のことなど考えたことがありません。すぐに来てしまうのですから。


10.なぜ人は、仕事をいうものを、ひどく深刻に考えるのでしょう。不思議です。誰のために? 自分のためにでしょうか? 人はすぐに死んでしまうのに。同世代の人のため? 後世の人のため? そうではないでしょう。やはりわからないままです。



11.死はいずれやって来る。それがいつかなんて、どうでもいいじゃないですか。


12.それでも、永遠なるものに関心を抱くのがいちばんいいでしょう。というのは、それのみが、人間社会に平和と平穏を回復させる精神の源だからです。


13.いかなる問題も、それをつくりだした同じ意識によって解決することはできません。


14.精神を大切にするというのなら、それとつながっている身体も大切にしなければなりません。


15.熱いストーブに1分間手を乗せてみてください。まるで1時間くらいに感じられるでしょう。ところが、かわいい女の子といっしょに1時間座っていても、1分間くらいにしか感じられません。それが、相対性というものです。
 


16.人間の邪悪な心を変えるより、プルトニウムの性質を変えるほうがやさしい。
 

 

17.過去、現在、未来の区別は、どんなに言い張っても、単なる幻想である。

 

18.われわれは何も知らない。 われわれの知識のすべては、小学生と変わらない。

 

19.わたしたちが体験しうる最も美しいものとは、神秘です。これが真の芸術と科学の源となります。 これを知らず、もはや不思議に思ったり、驚きを感じたりできなくなった者は、死んだも同然です。

 

20.驚異というべきは、この地球上の、わたしたちが生きる環境です。

 

21.常識とは、18歳までに身につけた偏見のコレクションのことをいう。

 

22.わたしには、特殊な才能はありません。 ただ、熱狂的な好奇心があるだけです。




  

 

 

いちいち善悪を比較するな



相手が悪い、自分は善い、と相手と自分をいちいち比較しているような想いでは、とうてい真実に相手を愛することはできないもので、相手も自分も、悪いも善いもすべて守護霊守護神の神愛のなかに投入することの練習が一番よい方法なのです。

自分のほうが善いと思ったところで、過去世からどれほど間違ったことをしていたかは、現在の自分にはわからないのであって、自分のほうが善い、と思うその想いは、ごく最近の出来事によるだけのものであるので、過去世からのその人の行為の何兆分の一かもわからないのです。

善い悪い等はいちいち自分で判断して、人を責めたり、自分を裁いたりするものではないので、自分は瞬間瞬間を神のみ心に波長を合わせつつ行為していればよいのであります。




     「日々の祈り」  五井昌久 白光出版




感想

上記の文章を読まれて、半分あるいは3分の一くらいは納得出来て、 「なるほど!」 と思いなんだかスッキリしたような気持ちになるのだけれど、後の半分、または3分の2は、なんのこっちゃ全然わからない、だから結局スッキリしないんだ(笑)という人がたくさんおられると思うのです。

だからグッドムーンの日記を読むのはもうやめた(笑)

そんな人も絶対におられると思うのです。

守護霊、守護神、過去世、神のみ心・・・・学校や家庭で先生や親は教えてくれませんよね。

だが潜在意識の中では、その言葉を知っている、わかっている、だから頭ではわからなくても、心で察知しようとされているのだと思うのです。

魂には刻まれている言葉、懐かしい昔聴いていたような言葉の響き、それが何回も読んでいるうちに急に想い出す時期が来る!

そういうつもりで長~いお付き合いをお願いする次第なのであります(笑)。

自他を生かすもの

  
 

愛とは、自分の生命をいかすと同時に、他の生命をも生かすものでなければなりません。

愛することによって、自分の生命がいきいきとし、愛されることによって、その人の生命がいきいきとしてくるものでなければなりません。

自他の生命がいきいきとし合うようでなければ、それは真の愛とはいい得ないのであります。

ところが現実は、愛するという名目の下に、相手を縛り、自己の生命の自由をも縛りつけている恋愛や、親子愛が、いかに多いことでありましょう。

自己が楽しむために人を愛そうとしても、それは愛ではありません。

それは自己主義の業想念であります。

自分というものがその人の想いのなかにあることは、もうすでにその人を愛から引離しているのであります。

 

          「日々の祈り」 五井昌久 白光出版



 
 

感想
 

わたしたち人間は、愛というものの本質がわからないうちに恋愛をし、子を愛するとは、どういうことなのかがわからないうちに親になってしまう。

だから恋愛で傷つき、親子関係でいさかいが起こり、人間関係でもぎくしゃくする。

いったい人を愛するとはどういうことなんだろうか?

わたしは、人間が生まれてきた目的とは愛を学ぶことだと思っているのです。

愛とは合いと同意語であり、一体となること、自分の心と相手の心が一つにつながることをいうのです。

自他一体感を得たときに、感動が生まれ、愛が生まれる。

幸せとは、この感動している状態をいうのです。

だがしかし、恋愛をしていてもこの感動という感覚は、一瞬で過ぎ去り、親子関係でも子が親の思い通りに行っているときだけ、親は一体観を観じ、お互いに自我と自我のぶつかり合いの状態になると、かわいさあまって憎さ百倍、とても愛とは言えない心境になるのです。

そして愛とはいったいなんなのか?

愛するとはどういうことなのか?

を思い悩むのです。

愛とは、一体観を得ることではあるのだけれど、相手の心を束縛し、縛りつけるものではない。

相手の心の中に自分という存在が見え隠れするのは、もうそれは愛でない。

五井先生は、そうおっしゃっているのですが、わたしたちが考える愛とは、束縛愛、自分を愛して欲しい、自分だけを見て欲しいという全く逆の偏った愛なのであります。

愛が欲しいといいながら、その反対のことをやっている。

だからいつも苦しんでいる。

愛することに疲れたみたい、嫌いになったわけじゃない♪

松山千春さんの 「恋」 という歌のフレーズなんですが、愛することが苦しみであったり、疲れてしまってはいけないのです。

違うのです。

人間が進化向上するとは、生まれてきたときよりも愛のレベルが上がっていることをいうのです。

最初は、自己愛、我儘なひとりよがりの愛だった、愛とはとても呼べるものではなかった、それが思い遣りの愛に変わり、寛容の愛になり、慈愛に変わっていった。

愛が進化するにつれて自分が益々輝いていった。

自由自在心になっていった

幸せを感じるようになっていった

そして周りも輝き始めた

自分も他人も輝いている

夜空に輝く星のような姿・・・・・。

それが真の愛だと思うのです。


  

 

2013年5月24日 (金)

人間とは宇宙の一部であり・・・・

 
  
今、わたしはアインシュタインの『150の言葉』という本を読んでいます。

アインシュタインは科学者として優れていただけではなく、類まれなユーモアの持ち主でもありました。

笑い転げて楽しみながら読んでおります。

みなさんにも是非、ご紹介したいのですが、その前にアインシュタインの人間論、宇宙論を知っていただきたいと思うのです。

アインシュタインはなぜ天才と言われたのか?

それは、宇宙(天)と意識がつながっていたからなのです。

だから凡人では思いもよらぬ発想ができた。

では、アインシュタイン150の言葉からご紹介します。

 

人間とは、わたしたちが宇宙と呼ぶ全体の一部であり、時間と空間に限定された一部である。 わたしたちは、自分自身を、思考を、そして感情を、他と切り離されたものとして体験する。

意識についてのある種の錯覚である。

この感覚は一種の牢獄で、個人的な欲望や最も近くにいる人々への愛情にわたしたちは縛りつけるのだ。

わたしたちの務めは、この牢獄から自らを解放することだ。 それには、共感の輪を、すべての生き物と自然全体の美しさに広げなければならない。

実質的に新しい思考の形を身につけなければ、人類は生き延びることができないだろう。


 

日々の指針

 
 

1.人類は一人残らず、一刻も早く本来の神聖なる道 「人類即神也」 に立ち還るべきである。

 

1.本来、人類は幸せそのもの。 世界は平和そのもの。 地球は安寧そのもの。 宇宙は完璧そのものなり。
 
 

1.自らの思考は、それが善であれ悪であれ、常に周囲に投影され、自らに返ってくる。



1.宇宙神は人類の意識の進化創造のため、肉体と地球を与えてくださっておられるのだ。

 

1.戦争は戦争でもっては決して止むことはない。憎悪も憎悪でもっては決して消えることはない。
 


1.人は何を信じるか否かによって、運、不運が定まる。
 

1.原因結果の法則は、誰にでも平等に働いている。 果因説は、原因結果の法則から自由になる道である。

 

                   西園寺昌美さん 白光誌 6月号






感想

人生は、一瞬一瞬の決断の連続であり、その瞬間になにを選択するかは、そのときの心の中のものが決断に現われる。

決断を間違えればそれは即、間違ったカタチになって現実に現われるからほんとに心の中をいい加減にしていたらいけないと自省するのであります。

原因、結果の因果律は、かなり時間が経って現われるように思うけれども実は瞬間に現われていることも多いんですよね。

私は心の中に描いていること、イメージしていることが未来(結果)だと思うのです。

だからポジティブな明るい未来を描いていればそれは、すぐに現われるものと時間を経て現われるものに分かれるだけのことで必ず受け取ることになる。

何をイメージするにしても使うエネルギーは同じなのです。

だったらポジティブにイメージ(創造)した方がいいに決まっていますよね!

今月の指針を読んでそう思ったのでした。

 

2013年5月23日 (木)

モーパッサン『首飾り』より

  

以前にも、モーパッサンの『首飾り』 の物語りをご紹介したのですが、これを読まれた後の感想は、映画を観終わった後のように、人それぞれ感想はみなさん違うと思うのです。

私も前に読んだときと今とは微妙に感想が違っています。

読む毎に感じ方が違うのです。

ホントに不思議な小説です。

それだけ奥が深い、人間の感情、欲というのは千差万別だと思うのです。

主人公の女性が馬鹿だなぁ~と思うのは共通していると思うのですが、少なからず自分や周りの人とダブらせて見ているから、完全に客観視が出来ないし余計複雑な心境になるのだと思うのです。


さあ、あなたは今回はどんな感想を抱きましたか?

 

安月給の家庭などに案外垢ぬけした美しい娘さんがいるものだが、彼女もそんな一人だった。

持参金もなければ、遺産の目当てもあるわけではない。

いわんや、金持ちの立派な男性に近づき、理解され、愛され、求婚される、そんな手づるのある筈もなかった。

結局、文部省の小役人と結婚してしまった。

もとより着飾ることなど出来ようもなく、簡単な服装で間に合わせていたものの、内心では、零落(れいらく)でもしたような気がして、自分が可哀想でならなかった。

彼女は自分がどんな贅沢をしても、どんな洗練された生活をしてもいいように生れついているのに、と思うにつけ、いつもいつも寂しくて仕方なかった。

今の自分の住まい、環境、一切が気にいらなかった。

彼女には晴れ着もなければ、装身具もなかった。

実際、何一つ持っていなかったのだ。

そのくせそんなものばかりが好きだった。

自分はそんなものをつけるために生まれついているような気さえしていた。

それ程までに彼女は人に喜ばれたり、羨まれたりしたかったのだ。

人を惹きつけ皆からちやほやされたかったのだ。

ところがある日の夕方、夫は妻を喜ばせるために意気揚々と帰ってきた。

手には大きな角封筒を握っている。

それは大臣官邸で行なわれるパーティの招待状であったのだ。

だが夫の期待に反して、彼女は、喜ぶどころか、さもいまいましいげにその招待状を放り投げ、不平そうに言った。

「これ、あたしにどうしろとおっしゃるの! 私に何を着て行けとおっしゃるの!あたしにはよそ行きがないでしょう。だからそんなおよばれには行けないわ」

夫は、途方にくれ、それでもなお妻が喜ぶことを考え、彼の貯めてあった貯金を全部はたいて新しい洋服を買ってあげたのであった。

ところが、喜んでいた妻が、パーティが近づくにつれて浮かない顔になってきた。

夫は妻にそのわけをきいてみた。

「だって、あたしつらいわ、装身具ひとつないなんて、宝石ひとつないなんて、身につけるものが一つもないなんて、あんまりだわ、考えたってみっともないじゃないの。あたし、いっそそんな宴会なんて行きたくない」

と応えたのであった。

夫はきらびやかな宝石よりも、美しく咲いている本物の花でも差すように言ったが、彼女は聞かなかった。

そこで思案した揚句、彼女のお金持ちの友達から借りることに気がついた。

早速彼女は友達の家へ行き、事情を話した。

友達は、大きな宝石箱を取り出すとそれを彼女のところへ持ってきて、蓋を開け、

「さあ、好きなものを選んで」

と言った。

彼女は見た、まずいくつかの腕輪を、つぎに真珠の首飾りを。 それについで金と宝石をちりばめた見事な細工のヴェネチア製の十字架を。

そして彼女はダイヤをちりばめた首飾りを選んだのであった。

宴会の当日になった。 彼女は大成功だった。

彼女は他の誰よりも美しかった。 上品で、優雅で、愛嬌があり、歓喜に上気していた。

男という男が彼女に眼をつけ名前を尋ね、紹介してもらいたがった。

大臣官房のお歴々も彼女と踊りたがった。

彼女は快楽に酔いしれながら、男たちから受けるお世辞、賞讃、彼女の身うちに目ざめてきた欲情、女心にとってはこの上もなく甘美なこの勝利、こうしたものから生まれた一種の至福につつまれながら、彼女は夢うつつで踊るのだった。

家に帰って、首飾りが失くなっているのに気づき、二人は驚愕した。

彼女が行ったあらゆる所を二人で探しまわったが、とうとう首飾りは見つからなかった。

二人は女友達から借りた首飾りと同じものを見つけ出すため、あらゆる宝石店を探し廻った。

ついに、同じ首飾りがみつかった。 値段は三万六千フランだった。

彼女は手紙を書き、ありったけの品物を担保に入れ、高利貸をはじめあらゆる金融業者と関係を結んだ。

こうしておのれの余生を台なしにし、果ては自分たちの身に襲いかかる暗たんたる生活を思うにつけ、今更ながら空恐ろしい気分になるのであった。

彼女が首飾りを返しに行くと、金持ちの女友達は、

「困りますわ、もっと早く返していただなくては。だって、あたし入用だったかもしれないでしょう」

だが、彼女はその首飾りが替え玉であることに気づかなかった。

二人は住まいも屋根裏に間借りをし、貧乏暮らしの辛さを思い知らされるのであった。

美しかった肌も爪も荒れ放題、長屋のおかみさんみたいな格好で、どこへでも出かけ、そのつど恥ずかしい思いをしても、なるべく値切っては、苦しい財布から一銭でも守ろうとした。

かくしてこのような生活が十年間続いた。

十年目に高利の利息から利に利を積んだ借財まで一切合財返済した。

美しかった彼女はまるでおばあさんみたいに変身してしまった。

貧乏所帯が身について、骨節の強い頑固なおかみさんになっていた。

髪もろくろくとかさず、スカートがゆがんでいようが平気であった。

さて、ある日曜日のこと、彼女がシャンゼリゼを散歩していると、相変わらず若くて美しい子どもづれの金持ちの女友達に出会った。

彼女が声をかけると、昔の美しい面影をまるで失ったその変わりように、友達は初めは真実、彼女とは気づかなかった。

「貴女ずいぶん変わったわね」

それから彼女は、借金も返し終わったことだし、思いきって今までのいきさつを一切友達に話した。

すると友達は、

「貴女は新規にダイヤの首飾りを買ってわたしのとかわりにしたとおっしゃるのね。まあ、どうしましょう、わたしのは模造品(まがいもの)だったのよ、せいぜい五百フランくらいのものだったのよ・・・・」

                  モーパッサン『首飾り』より


 

2013年5月22日 (水)

いつもどんなときも絶好調!

  

イチローに憧れて、海を渡って大リーガーになった川崎宗則は、マリナーズでイチローと同僚になったのもつかの間、イチローがヤンキースに移籍して、取り残された形になった。

しかしそこでめげることなく、ブルージェイズという球団で奮起している。

打率2割3分3厘(5月21日現在)は、レギュラーを取るには厳しい数字だが、川崎は打ったり守ったりだけではなく、今やチームに無くてはならないムードメーカーになっている。

試合に出ても出なくてもチームメートを励まし、明るく振る舞うことでチームだけではなくファンからも親しまれ愛されている。

だから監督もつい使いたくなるのだろう。

そんな川崎が結果を出した。

20日、レイズ戦で三塁打を放って、チームの勝利に貢献した。

その川崎がこう言っている。

「グラウンドに立っている時に調子が悪かったことは一度もない。絶好調でも50打席ヒットがない時もある」

数字を一切気にせずに、一打席一打席に集中しているのだ。

「絶好調!」 と言って自分を鼓舞していたのは、今、DeNAの監督の中畑清さんだが、どんなに数字が落ち込んでいても決してマイナスを認めようとしないその姿は当時は画期的だった。

川崎が言うように、自分がどんなに調子のいいときでも、相手のピッチャー(投手)が良ければ打てないこともある。

それと反対に、調子が悪いときには、かえって開き直ることができ、肩の力が抜けて、自然体で打てたり、それによって結果が付いてくることもあるのだ。

芯に当ったいい打球が飛んでも、相手の守備が良ければ(ファインプレーで)アウトになる。

当たりは良くなくても、選手と選手の間に落ちるポテンヒットもある。

そもそも調子のいい時と、悪い時は背中合わせであり

聞かれている本人も

「なにが調子が良いであり、なにが調子が悪いのか」

なんてわかっていないのだと思う。

ただ言えることは、

自分で

「今はダメだ調子が悪い、なんとかしなければならない」

と思い込んでいるのが、あるはずもないスランプ(不幸)とやらを作り出しているのだと思う。

つまり、絶不調なのか、絶好調なのかは自分で決めれるのだ。

結果が出なくても

自分が絶好調と思っていればそうなのだし

絶好調を持続させていて

そろそろこの好調も終わりかな?

と思いそうになっても

いやまだまだ絶好調なんだと自分にいい聞かせれば

いつまでも

「絶好調!」 

なのです。
 

私にとっての好調とは

感情に振り回されることなく

心穏やかで

理由はないのだけれど(理屈ではなく)

「僕は幸せだなぁ」(笑)

と感覚で思えるときなのです。

そして少しずつでも自分が進化していると感じられる

手ごたえがある。(歯応えがあると言った方が近いかもしれない)

「生きている」 という実感がある、充実感がある。

それは目に見えてわかることではないのです。

目の前の現象は昨日と変わってはいない

だけれど、心の中の自分は確実に前へ進んでいる

それがいつの日か

忘れた頃に目に見える “カタチ” で現われてくる

それでいいのだと思うのです。


ブルージェイズの川崎もきっとそんな境地にあると思うのです。

だから目にみえる結果に

一喜一憂しない

人の評価に惑わされない

認めてもらおうなんて思わない

スランプなんて認めない

いつもいい状態であることを信じる

悪いことはすべて善くなるためのプロセスだと思える


結局そう思うこと、思い込むことが

自分にとって、楽だし(自分の心を縛りつけていないから)、一番いい精神状態だとわかっているのだと思うのです。

“自分の心をポジティブにコントロール出来る人” 

素晴らしい!と思うのです。



    

 

2013年5月20日 (月)

果因説━21世紀の意識改革 4



   

因果律と果因説の違い━過去→現在→未来か、 未来→現在→過去か




次にあげる因果律と果因説の違いは、「過去→現在→未来」という因果律の流れに対して、果因説の流れでは、 「未来→現在→過去」であるということです。

因果律では、現在起こることは過去の因が決めている、つまり 「過去→現在」という全体の流れがあります。

病気に例えると、「過去にしてきたさまざまなことによって、現在病気になることがすでに決まっていた」 というように、過去に起こった一つのことが原因となり、次々と玉突き式に結果となって、現在の病気が現われる。

そして現在の病気がまた新たな因となり、「現在→未来」 という流れに乗って、未来の結果となってゆく。

これが因果律の流れです。

この考え方でゆきますと、過去からやってくる病気に対して、現在や未来では何一つ打つ手がなく、ただ黙って受け入れるしかないということになります。

現在も未来も過去に起こったことから生じる必然であって、もし過去に別の選択をしていれば今病気にならなかったかもしれないが、過去に戻って過去の選択を変えることが出来ない以上今も変わらない、今が変わらなければ未来も変わらないということになります。

これでは、人間には全く自由意思がないということになってしまいます。

しかし果因説では、「未来→現在」という流れに乗って、未来の結果を先に創り出すことが出来るのです。

例えば、川は川上から川下へと流れています。

今現在自分は川の中にいて、傍に落ちていた葉っぱに希望や夢を、現実に現われるように書き込むとします。

それを放り投げます。

川下のほうに放り投げたら、その希望の葉は永遠に自分のところへは戻ってきません。

自分の手から放たれた瞬間からどんどんと川下のほう(即ち過去)へと流れ去っていってしまいます。

結果、その希望は自分の手には戻りません。

だからこそ投げる時には、必ず川上に向って(即ち未来の希望のビジョンを見て)、投げるのです。

その希望の葉は川上のほう、即ち未来へと放たれて、そこから次第に川下へと流れてゆきます。

そして今、ついに現地点の自分のところに、何年か、何ヶ月か、何日か前に投げ込んだその希望の葉が戻ってきて、自分の前を通り過ぎようとしています。

それを自分がキャッチすることにより、希望していたことが現実に顕現されるのです。

時間は未来から現在へとやってくるのです。

そして毎日のように、思い出すたびに繰り返し繰り返し希望の葉を何十枚、何百枚、何千枚、何万枚と未来に投げ込みつづけると、いつの日か、宝くじのようにそのうちの数枚が、必ず自分の前に現われ、現実となるのです。

従って、まさに今の瞬間、自分の未来に対する希望や輝かしい人生の設計図を強く思い描き、

「絶対大丈夫!」 「必ず出来る!」 「すべては可能である!」 「すべては完璧!」 「欠けたるものなし!」 「必ず成就する!」・・・・・・などという想いや言葉を繰り返すことにより、それが現実となって現われるのであります。

時間は未来から現在、現在から過去へと流れているのですから、今この瞬間、未来について思ったこと、考えたこと、語ったことの成就は、いずれ現在にやってくるのです。

ですから今現在、この瞬間、未来の希望を繰り返し、繰り返しインプットすることにより、それが次々に現在へと流れてくるのです。

そしてそのうちの数枚の葉(未来に投げかけた希望のビジョン)を、自分がキャッチする瞬間が必ず来るのです。

これが果因説です。

今までのような、過去の原因を突き止め、悪い種を一つ一つ暴き出し、それを排除しつつ上り詰めてゆくやり方は、過去のマイナス(川下)に意識が集中するため、目的達成が容易ではありません。

しかし、過去の因縁に由来する果因律に心縛られず、憂えず、今の瞬間、未来(川上)に向って自らの意識を高めるという果因説に切り換えると、自らに内在する素晴らしい資質が目覚め、人生は好転するのです。

    

         「果因説」 西園寺昌美 白光出版




 


果因説━21世紀の意識改革 3

  

 
因果律と果因説の違い━原因が先か、結果が先か



 

たとえばお金があれば私は幸福になれる。 愛する人にいつも寄り添っていられれば私は一生幸せである。

この場合、因果律でいくと、 「お金があれば」 が原因で、その結果が 「幸せ」 です。

「愛する人にいつも寄り添っていられれば」 が原因で、その結果が 「幸せ」 である、ということになります。

ところが私の説く果因説は、先に結果をイメージし、創り出すことによって、自ずと原因がそれに従ってくるという法則による方法なのです。

この法則でゆくと、結果は自分自身の心の中にあるということになります。

有限なる物質世界に焦点を合わせるのではなく、すでに心の中にある無限なるものに心の焦点を合わせてゆくのです。

私たちにとって、結果を先に創り出すことのほうがずっと簡単なのです。

なぜならそれらは私たちの心の中にすでに自分の素晴らしい資質として存在しているのですから。

私たちが本来持っている無限なる愛、健康、幸福・・・・・それらに心を合わせていれば、自然に原因がそれについてまわってくるのです。

私たちにとって結果が先なのです。

無限なる繁栄が先にあるのです。

無限なる調和によってすでに心の中が満たされているのです。

すると自分の心の焦点に合うように、自然に調和してゆくような環境が現われてくるのです。

まず、自分を認めることです。

今までは 「もう歳だからそんなことは出来ない」 と思うことが習慣になっていたかもしれません。

それを 「まだそんなことが出来なくなるほど歳をとってはいない」 という思いに切り換え、自分の素晴らしい資質に目を向けてゆくことです。

心の中に幸せが呼び覚まされていれば、その心の持つエネルギーによって、幸せになる原因となるすべてのものが、物質も、人間関係も、自然についてくるのです。

すべての結果は自分自身の中にある━因果律から果因説にシフトするには、まず最初にこのことをよくよく知る必要があります。

 
         
          果因説」 西園寺昌美  白光出版



 

 
感想

 

自分が出すエネルギーの量は決まっている、それだったらそのエネルギーをネガティブな暗い過去に注ぐか、ポジティブな明るい未来に注ぐかは人間の自由なのです。

誰もそれを咎めることも、勧めることもしない。

どちらを選ぶかは、自分で決めれるのです。

任されている

私は迷わずに後者を選びます。

時々、過去を振り返りそうになるけど、マイナスの集合エネルギーに呑みこまれそうになるけど、果因説を信じて、自分の無限なる力を信じて、打ち克ってゆきたいと思ってます。

もうネガティブになるのは、コリゴリです(笑)。

本来の明るい自分で居たいのです。

 

 



果因説━21世紀の意識改革 2

 

因果律がもたらす恐れや不安

 

なぜ人はこんなにも恐れを抱えたまま生きているのでしょうか。

それは自分の未来が見えず、いつ何が起きるか分からないと思っているためです。

そればかりか、自分はいつか過去にしたことの報いを受けると頑なに信じてしまっているのです。

これは 「原因があって後に結果が生じる」 という因果律に起因します。

この因果律という言葉をご存知の方は多くおられると思いますが、因果律とは、一切のものは原因があって生起し、原因がなくては何物も生じないという法則です。

例えば、結婚したので子どもが生まれた。妻が仕事を持ち忙しくなったため、すれ違いが始まった。

すれ違いが続いたため、夫が浮気をした。

夫が浮気をしたので離婚した。

これらは原因があって結果が生じているわけです。

この世の中に生じているさまざまな事柄はすべて、因果律をもって説明することが出来ます。

原因があって、結果がある。

過去に蒔いた種は、いつかは果となって現われる。

その結果がいつ自分の人生に現われてくるか、見えない未来に不安や恐怖を抱いてオドオド生きている ━ これが現代人の姿であると言えましょう。

恐れを抱いて生きている人の内面を見てみると、彼らは自分の欠点を掴み、自信を失い、劣等感を抱き、ネガティブ思考で生きています。

そして現実になってほしくないことを恐れるあまり、その通りの現実を自らに引き寄せてしまうのです。

そのような人々にも必ず長所や才能、また他の人にはない優れた部分があるにもかかわらずです。

人は誰も完璧なるものを内在させています。

誰もが内に本来の叡智、能力、美、直観、可能性等を備えているのです。

本来、欠点を克服することにエネルギーを注ぐよりも、自分の長所を最大限に活かすことのほうが、どれだけ人生が明るくなるか計り知れません。

先ほども挙げましたが、 「もう半分しかない」 と 「まだ半分もある」。

全く同じ状況でも、未来に目を向けるだけで人生は好転に向かうものです。

それを、失われてしまったものや自分の欠点、自分のネガティブな面に執着するあまりに、しなくてもよい嫌な体験や失敗を自らの意思で引き寄せ、その恐れの体験を繰り返しているのであります。

このように人々が不安恐怖にエネルギーを与えつづけ、それらを現実化させてきたことにより、人生に生じる現象はすべて因果律として処理されてきました。

人類は長い間、この因果律を何の疑いもなく受け入れ、それらに翻弄されて生きてきたのです。

しかし、20世紀まで続いていた因果律は、21世紀においては果因説へと移行してゆくのです。

この果因説を理解し、実践することにより、人々は真の幸せを見出してゆけるのであります。

なぜなら果因説とは、自分自身の内なる輝きや本来持っている資質、エネルギーを引き出し、それによって希望に満ちた自分の未来を創り上げてゆく方法であるからです。

この果因説は、過去の因縁因果の法則を超越して生きられる方法ですから、これが判れば、過去に縛られる必要が全くなくなるのです。

そして自分の現在、未来をいかようにも創り変えることが出来るのであります。

       
      「果因説」 西園寺昌美 白光出版



 




  




2013年5月19日 (日)

果因説━21世紀の意識改革 1

 
 
明日から月曜日ですが、なぜか前日の日曜日は憂鬱になるのです。

「明日からまた仕事だ、嫌だなぁ」

だがしかし、明日という字は 「明るい日と書くのね♪」

という昔の歌の歌詞のように(笑)

良いことがわかるとわかっていたらどんなに明日が待ち遠しく

前日がワクワク嬉しい気持ちでいられることでしょう♪

「明日は良くなるに決まっている」

「明日は明るいんだ」

それが果因説なのです。

果因説を自分のものにすればもうネガティブになる要素は無くなります。

これから 「果因説」 西園寺昌美著 から元気の出る文章を抜粋しますので

どうぞ思いっ切り元気になってくださいね。 happy01



果因説━21世紀の意識改革



平和な社会を創るための意識改革

20世紀において、この地球に平和な社会を創るため、また自らが幸福になるために、私たち人類が願い、目指してきたことは、戦争や貧困や飢餓をなくすこと、食糧を分配すること、科学技術を教え導く、政治・経済を発展させること、自然破壊を食い止めること・・・・でした。

そのために、過去多くの指導者や専門家たちが多岐にわたり出来る限りの方法を編み出し、努力を重ねてきました。

しかし、それらによって人類に真の平和や幸福がもたらされたことはありませんでした。

なぜならそれらは、対処療法に過ぎなかったからです。

人類は今、根本的な解決法を必要としています。

即ち意識改革を必要としているのです。

どんなに戦争を止めさせても、自然破壊を食い止めても、人類の意識が変わらなければ、また同じことが繰り返されてしまうからです。

人類の意識が変わり、自分に関わるすべての事柄をポジティブに捉えるようになれば、戦争も貧困も飢餓も、自然破壊もなくなります。

すべてが自然に調和へと導かれ、平和な社会が築きあげられてゆくのです。

しかし今現在は、多くの方々が、ネガティブな思考に把われてしまっています。

ここで、一人一人の思考がポジティブかネガティブかを知る指標として、いくつかの例を挙げてみたいと思います。

「もう半分しかない」 と 「まだ半分もある」

「もう歳だからそんなことは出来ない」 と 「まだそんなことが出来なくなるほど歳をとってはいない」。

「残りの人生の最後の日」 と 「今日は私の残りの人生の最初の日」。

「もう明日はない」 と 「まだ明日がある」。

「余生あと十年しかない」 と 「余生まだ十年もある」。

「足が動かない」 と 「まだ手が使える」。

この二通りの言い回しは、全く同じ状態です。

しかし明と暗、プラスとマイナス、積極的と否定的な考え方に分かれます。

あなたは日頃、一体どちらの考え方をしておられるでしょうか。

もしすべてが暗く否定的な考え方だったら、随分毎日が憂鬱で息苦しく、希望のない人生を送っているに違いありません。

そのような方が、今現在、この地球上に多くいるのです。

次に、なぜ多くの方が、否定的な考え方をしてしまうのか考えてみましょう。

それは心の中に、未来に対するさまざまな不安や恐怖が潜んでいるからです。

その不安や恐怖の第一は 「死への恐れ」 です。

自分はいつ死ぬのか、どんな死を迎えるのか、嫌だ、死にたくない・・・・・多くの人が死の恐怖と闘っていると言っても過言ではありません。

次に抱く恐れとは 「人間関係への恐れ」 です。

夫婦、親子、兄弟姉妹、友人、知人、隣人、上司、親戚関係など・・・・生きてゆく上で、人との関わりは欠かせないものであり、そのため誰もが幼少時からかなりの比重を人間関係に置いています。

さらに人々は 「病気への恐れ」、「老いることへの恐れ」、「不幸になることへの恐れ」、「貧乏になることへの恐れ」、「地位や名誉がなくなることへの恐れ」、「家族の絆をなくすことへの恐れ」 など、種々さまざまな恐れを抱えて生きています。

人々は自らの恐れを心の奥底にしまい込み、あたかもそれらを忘れ去ったかのように、日々振る舞っています。

しかし、それらはある日、突然表面化してくることがあります。

恐れたことが現実となって現われ、そして人はその恐怖が自分の心をますます占領してゆくことを恐れるのであります。

  

 

         「果因説」 西園寺昌美 白光出版

  



 



  

 

2013年5月18日 (土)

天職を生かす人 2

  
 

天職を生かす人


 
会社の仕事でも商売でも、芸術芸能、はてはスポーツの世界でも真剣にその技を競っている時には、その人々の生命はやはりいきいきとしているのであって、それはそのまま、人間の向上に役立つことにもなるのです。

なぜかと申しますと、何事にも真剣になって取り組むということが、生命を生かすことになるのであって、いいかげんな生き方をしていることが生命を死なせているということになるのです。

単に金銭のため、食生活のため、あるいは自己の権力拡張のためとかいう想いでやっている人々は、天職を果していないみじめな人というべきであり、いかなる仕事にでも全身全霊を打ちこんでやっている人は、天職をまっとうしている人というべきなのです。




 

今ある環境を生かす

 

人間には自分にはわからない天職というものがあって、私なども三十近くになるまで、自己の天命がどこにあるのかわからず、ただひたすら自己が置かれた環境を生かし切って、様々な仕事に精進してきたのであります。

人間はどこでどう変わって生活するようになるかわからないのですから、いかなる仕事も、いかなる人々をも馬鹿にしたりしてはならないのです。

自分の嫌な仕事だからといって、怠ったり、馬鹿にしていたりすることは、その時間だけ自己の生命を死なせているということであって、その人の真実の幸福をつかむことを、それだけ遅らせることになり、この世における苦しみは倍加してゆくことにもなるのであります。

 
 

 
どんな仕事にも真剣にたちむかえ
 

人間には、できるできないはひとまずおいて、何事にも真剣に取り組んでゆくということが必要なので、いいかげんな態度で世の中を渡ってゆこうとするぐらい嫌なことはありません。

与えられた職業はそれがどんな職業でありましょうとも、その人が永遠の生命をしっかり自己のものとするための一つの経験として与えられているものでありまして、その人に必要でない経験は現われてこないのです。

ですから、自己がおかれている環境に不満をもって、与えられた仕事を怠るようであったら、そうした経験を魂の底にしみこませられるまで、同じような環境を抜けることはできないのです。

どんなつまらなそうな仕事に対しても真剣に立ち向かわなくてはいけないということです。

   


        「日々の祈り」 五井昌久 白光出版




  

天職を生かす人 1

 
 

天職と一言で言ってもなんのことはわからないのです。

自分の性格に合った仕事のこと?

天から与えられた仕事のこと?

自然体で出来る仕事のこと?

好きなこと、得意なこと、才能を活かしていたらそれが職業になったということ?

自分が活き活きと出来る仕事のこと?

楽しんで仕事が出来ているということ?

趣味が高じて職業になった仕事のこと?

始めは嫌だったけど、続けているうちに好きになった仕事のこと?


みなさんも今されている仕事とは、それこそ十人十色、色々なプロセスを経て、心境の変化があって現在のお仕事になっていると思うのです。

そして誰でもが思うこととは

「今やっている仕事は、果して自分の天職なのだろうか?」

「他にもっと自分に合った天職があったのではないだろうか?」

「このまま今の仕事を続けていいものだろうか?」

「自分のことを認めてくれるところ、才能を活かせるところに行くことが幸せにつながるのではないだろうか?」

だと思うのです。

だがしかし、自分の意に反して

「もう嫌だ! 辞めて他に移りたい」 と思っている人ほど移る機会(チャンス)を失い、逆に「ここは良い職場だ、ずっとここに居たい」 と自分や家族が思っていても、心の奥底から 「他へ行け、他のところに行ってみろ!そこで魂を磨くのだ!」という声が聞えてきたりして、自分の意のままにはいかないものなのです。

何か目にみえない何かが自分の仕事をコントロールしているのではないか?

と思うほどなのです。

それは仕事とは魂を成長させるには、最高の舞台(ステージ)となるからです。

しかし肉体人間の自分が望んでいる仕事と、守護霊守護神が守っている人間たちにさせたい仕事はたいがい違うのです。

肉体人間の自分は、出来るだけ自分とウマの合う人のいるところで働きたいと思う。

そして楽をして稼げる仕事を求める

しかし、そんな甘っちょろいところでは、魂は鍛えられないと判断した守護霊・守護神は、その仕事に就かないようにあらゆる手段を使って阻むのです。

「面接は上手くいったのになぜか採用されなかった」

面接官の人になぜか嫌われた

面接の日に寝坊をしてしまった。(目覚まし時計が鳴らなかった)

なかなか面接場に到着出来なくて遅刻をしてしまった。(道に迷うようにコントロールされた)

後から考えてみると不可思議な出来事があったことに気づくのです。

そして自分の意に反して

「ちょっと違うんだけどなぁ」 というところにお世話になることになる。

しかし、やっているうちに

なぜ、この仕事、この職場でなければいけなかったのかがわかってくるのです。

そしてわかっただけではいけない

そこに全身全霊を込めて一生懸命に働くことをしないと次の舞台は用意されないのです。

嫌だ嫌だと逃げているうちは他に移っても

もっと嫌な思いをすることになる

それは逃げているからです。

逃げても逃げても追いかけてくるのです。

嫌なことを好きになるか、好きにならなくても一生懸命にやってその修行を終わらせないと次の仕事には就けないのです。

だから、天職とは職業の種類ではなく

どれだけ魂を込めて働くかにかかっているのです。

余計なことに意識を向けず一生懸命にやっていれば

それがそのまま天職になるのです。

無念無想になって一生懸命に仕事に打ち込んでいる姿は、神さまの姿をそのまま顕わしていて

美しく輝いているのです。

    

2013年5月17日 (金)

偉大な親、先生は子に果因説を語っている 2

  

「好きなものには何にでもなれる」

 

勉強せずとも叱らなかった母の口癖
 

イラストレーター みうら じゅんさん

授業中、教師の話をほとんど聞かず、宿題に手を着けようともしなかった小学校時代。

当然、成績は人に自慢できるものではなかったのですが、母は

「あんたはできる子。将来、好きなものには何にでもなれる」 と口癖のように言っていました。

「親が勉強しろと小言ばかり」 と嘆き合う友達の話が、私には信じられなかった。

家で漫画を読んだり、ずっとテレビを見ていたりしても、母から叱られた記憶など全くありません。

ギャグ漫画で知られる赤塚不二夫さんの作品にのめり込み、漫画家になる夢を抱きました。

しかし、小学校高学年になって石ノ森章太郎さんが書いた 「マンガ家入門」 を読み、「世の中はそんなに甘くない」 と思い知らされました。

繊細なペン運びの難しさや、あれほどの大家が作品を出版社に持ち込んでも採用を断られたといった現実を知り、自分には才能がないと諦めかけたのです。

「漫画家になろうと思えばなれる」 と繰り返す母に 

「簡単に言うな。分かってたまるか」 と反発しても 「そんなことを言うのは本当に好きでない証拠」 と取り合ってくれませんでした。

高校に入ってからは歌手の吉田拓郎さんに憧れ、ギターを始めました。

自室に閉じこもり、フォークやロックといった自分なりの楽曲を作っていたある日、作曲する際の音が漏れていたのでしょう。

母が台所で夕食の支度をしながら、そのうちの一曲を口ずさんでいるのを聞きました。

「恰好良く反体制の思いを込めたつもりなのに、母が歌うなんて」 と赤面した私に言った言葉も

「いい曲。音楽家になれる」 でした。

活発な性格の母は、車を運転する女性が少ない時代に免許を取得したり、洋裁の学校に通い始めたかと思うと教室を開いてみたり。

「物事を好きになれば、できないことはない」 と心から信じているのでしょう。

思いつきのように進学した美術大に在学中、月刊誌で漫画家デビューしたのも、その後に小説やCDを出版することができたのも、知らず知らず母の “呪文” にかかっていたから。

思いを否定されていたらどれも実現しなかったはず。

「何にでもなれる」 というのはある意味では真理。

頂点に立つことを義務付けなければ、好きなことを仕事にするのは難しい話ではないのかもしれない。

最近、母と旅行した時も

「あんたは、やればできる」 と励まされました。

もう55歳なんですけどね。

 



  2013年5月17日(金)日経新聞夕刊 学びのふるさと より抜粋



 
  

  
感想

 上記の文章の中で

頂点に立つことを義務付けなければ、好きなことを仕事にするのは難しい話ではないのかもしれない。

とあるのですが、私もまったく同感なのです。

なにも多くの人に認められているものだけが本物ではないと思うのです。

人に喜ばれ、必要とされ、ましてやそれが自分の好きなものであれば、神さまはきっと食べていけるようにはしてくださるはずです。

それは、人の役に立っているという宇宙の法則に乗っているからです。

これからは好きなことをやって生きていける時代になるのです。

なんと嬉しいことではありませんか



   

 

偉大な親、先生は子に果因説を語っている 1

  
 
偉大な人とは、自分あるいは他人が人間が神の子であることをわかっており(知識として知っているのではなく心で知っている)、そのことを周りの人に教えているのです。

だから絶対にポジティブな言葉しか出てこない。

「おまえは絶対に出来る子なんだよ」

「誰がなんと言おうと自分を信じなきゃダメだよ」

「思った通りの自分になれるんだよ」

「夢はあきらめなければ必ず実現するんだよ」

・・・・・・・・

これらの言葉を幼いときからずっと言われ続けた子どもは否定することを知らないので、エネルギーはイメージした方に流れつづけやがて目の前に現われるのです。

しかし、悲しいかな、これとは全く真逆のことをいうヤカラも存在するのです。

それが信じられないことに、親であったり先生であったりする

「なに?○○高校、△△大学に行きたい? なにを寝ぼけたこと言ってんだ、今の成績でいけるはずがないじゃないか?」

「アイドルになりたい?女優になりたい? ばかなことを言ってないでしっかり勉強しろ!」

ポジティブな言葉を言われてもネガティブな言葉の方がずっとずっと多く使われているのです。

だから成るものもならなくなってしまう。

自らが宇宙法則、成功法則の道から外れてしまっているのです。

周りも外れる手伝いをしてしまっている

そして、成功しそうになっている人の足を引っ張る人も出て来る。

人は他人が成功するのが面白くない

自分が成功出来ないのに、他人が幸せになることが妬ましいのです。(無限なる愛!)

こんな人間の性(さが)を書いていると少しネガティブになってくるのですが(笑)
 

今までは確かにそうでした。

だがしかし、本当は他人になんと言われようと

「私は誰が何と言おうと神の子なんだ、だから無限の可能性があるんだ」 

というくらいの強い信念が必要なのです。

火に水を浴びせかけられても

炎の方が勝つくらいの強い意思が要るのです。
 

これからは、自分が何者であるのかを気づいて

“神性” を顕わす人がどんどんと出て来る時代になってゆきます。

そして、誰も相手の可能性を否定しなくなる

褒めたたえることしかしなくなる

そうなればどんなに素晴らしい世の中になるでしょう。

今日の夕刊を読んでいて

そう確信(イメージ)したのでした。



 

  

 

2013年5月16日 (木)

今こそ宇宙意識になるときなのです。 2


  
・・・・・・

過去に力を与えないことです。

過去は何の力もないということを頭で知らなくてはいけません。

力があると思っているのは、自分自身が過去を引っ張り出して、それに力を与えて、その出来事を改めてひっくり返して楽しんでいるようなものです。

下らないことに力、エネルギーを与えています。

ですから、一言、言葉を発する前に 「我即神也の私が語る。 相手は人類即神也」。

我即神也が人類即神也に語るのだということを意識するのです。

ただ、相手はまだ真理をわかっていない場合もあります。

相手は本来、人類即神也であるけれど、まだ過去ばかりをほっくり返している場合、依然として理不尽なことを言われるかもしれません。

しかし、我即神也の自分は

「私を侮辱することによって、相手は浄まっていくのだ」 「私と対立することによって相手は満足して、その過去の因縁を消しているのだ」 と思うのです。

我即神也はすべて愛ですから、相手のいかなる想いも吸収して光に返すのです。

だから、傷つくことはないのです。

いいですか、そこが大事です。

相手から理不尽な言葉や、自分とは関係のない暴力的な言動を浴びせられても、我即神也は痛まない。

なぜなら次元が違うからです。

すべてを破壊し尽くすようなエネルギーが自分に向かってくるようだけれど、我即神也の自分は、どんな強い風でもカルマでも病気でも何でも浄めてしまう。

それが我即神也ですよ。

それなのに、相手のエネルギーと同化して、病原菌を自分のものにして病気になる。

相手の低次元レベルの感情に同化してはならないでしょう、それは。

同化するのはまだ低次元レベルでしょう。

しかし、皆様(神人)はすでに次元が違うのです。

皆様が相手に語る言葉は、相手を幸せにする言葉ばかりです。

ですから、皆様は幸せになるのです。

 
 

 

「果因説」 西園寺昌美 白光出版



  

 

今こそ宇宙意識になるときなのです。 1

 

人に対して、腹が立ったり、言われたことに対して憎くんだり恨んだりするのはなぜか?

それは同じ波動圏にいるからです。

だから相手の粗い波動(エネルギー)がそのまま入ってくる。

イエス・キリストは弟子に裏切られ磔(はりつけ)になった、お釈迦様も一番弟子の阿難の実兄に妬まれて何度も命を狙われた、3次元的にはずいぶん酷い目に遭っているのです。

だがしかし、彼ら聖者たちはそれらの人たちに対して

「しかたがない」 とは思ってはみても決して恨んだり憎んだりましてや仕返しをしてやろうなどとは露ほども思わなかったのです。

それはなぜか?

それはその人たちと決して同じ意識レベルにはいなかったからです

感情の域を超えていた(3次元を超えていた)

つまり肉体感情を超えて宇宙意識、神意識になっていたのです。

お釈迦様は地球よりもずっとずっと進化した星である金星から天下って来られました。

キリスト様もどこの星かは知りませんがそれこそ地球とは比較にならない程進化した星から地球人類を救うために降りて来られているのです。

だから地球人とは同じ姿形をしていても心の中(境地)は全く違っていたのです。

ですから、地球人の感情的な波動と合致することはなかったのです。

私たちが他人に対して心が動揺するのは、低レベルの意識の波長に合ってしまっているからです。

だからいくら、人間関係を円満にするhow-to(ハウツー)本を読んだところで行き詰まっていたのです。

一度は乗り越えられても、次にそれよりも少しでも高いハードルが来るともう乗り越えられなくなるのです。

そしてまた落ち込む、以前よりももっと相手を責め、自分を責める(情けないと)

私たちは何度、このあやまち?をくり返してきたでしょう。

もうまっぴらごめんだ

理不尽なことを言われることも

それに対していちいち腹立てることも

感情を乱すことも

後味の悪い気分を味わうことも

相手を責めることも

自分を卑下することも

それらは自分の意識が滞っているからです。

低いからです。

突き抜けていないからです。

私のような人はほんと多いんじゃないでしょうか?

次の日記で私が目覚めた文章があるのですが

自分が神意識(我即神也)になることですべては解決するのです。

自分が神である?

自分の意識が神と同じになる?

そんなバカな

と思われる方も大勢おられることは

百も承知です。

でも、これを読んで

「よし自分も意識を上げてみよう!」

「感情を超えてみたい!」

と思われる方が一人でもおられるとしたら

私は書かずにはいられないのです(笑)。

よかったらどうぞ、お付き合いください。


  

 

 

2013年5月15日 (水)

誰にも天命がある

 

誰にも天命がある


 

天から、または神から、自分に命ぜられた使命が必ずあるのだ、ということを心深く認識すうることを真剣になってやることをすすめたいのです。

人間の一人が、この地上世界に生まれてきたことが、なんの意味ももたないということは絶対にありません。

なんの意味もなく生まれてきたものであるならば、人が殺されることなど、なんでもないことになるのですが、人間の心の中には異常性格者を除いて、誰でもが人殺しは第一の罪悪であることを、理屈なしに思う心の作用をもっています。

人間はどうしてもお互い同士助け合って生きた方が気持ちがよく、人を傷つけ、損ねると気持ちが悪いように出来ているのです。

その気持ちは生命の根源からくるのです。



 

天命の道に入るには



 

私共のいのちは永遠に生きつづけているもので、天地を貫いているのです。

そのいのちの力を元として、私共の想念が生きかわり死にかわりしているのです。

いのちに本体は、その光を休みなく働かせつづけ、大神様の使命達成に尽しているのですから、私共が素直に、神(直霊)を想って、天命のまっとうされるよう祈りつづければよいわけなのですが、直霊と分霊、分霊と魂魄との間に過去世からの誤った想念が蓄積されているので、なかなか直霊まで新たな想念が通っていかないのです。

そこで守護霊守護神をお呼びし、直霊と肉体想念とが速やかに連絡出来るように直霊の光を直接、放射して頂くことの出来るように、周囲の業を浄めて頂くのです。

常に守護霊守護神に感謝の祈りを捧げていることが第一です。






         「日々の祈り」 五井昌久 白光出版





  

感想

久々に、神であるとか、守護霊守護神であるとか、直霊であるとか祈りのことを書いたのですが、3次元の普通の生活を送る上では、私たちはこれらのことは特に必要ではないと思っているし、学校や家庭、友だち同士との会話などで、気持ちがなんとなく神秘的になったときだけ

「自分は何かに守られているんだよね、守護霊とか守護神とかいるのかな?」

「神さまって存在するのだろうか?」

「人間って死んだらどうなるのだろう?」

と家族や他人と話すことがあったりして想いが天(縦)を向くのです。

ただ、このような神秘的なことを常に言葉にして発していると

「変なやつ」

「宗教臭い」

と噂され、敬遠されるのです。

天命なども言葉にするとなにか仰々しいひびきがあり

「自分には天命があるのだろうか?」

などは特別な心境になったときにしか考えないものなのです。

そんなことよりも

お金のこと、生活のこと、人間関係のこと、携帯をスマホに変えること(笑)の方に意識がいっているのです。(意識は横にいっている)

しかし、横を整えようとしたら、やっぱり縦(天)を向かないと整ってはこないのです。(縦横十字の十字架は真理を現わしている)

天に意識を向けて、天にいる自分の本心と相談(合体)して、そして霊界と神界におられる自分の守り神である、守護霊様と守護神様の協力を頂かないと

3次元(横の世界)は整ってはこないのです。

もし天を無視をして、3次元(肉体界)が整ったとしても、それは天と地を貫いたものではないので、つまり本物ではないので、すぐに消えてしまうのです。


横をずっと追求してもそれはマイナス━が大きくなるだけなのです。

私たちは、今こそ真剣に人生(天命)について考える時期が来ているように思うのです。

 

 

2013年5月14日 (火)

他の人を少しでも不幸にすることは犯罪です。

  
  
世界平和の祈り


  

最近、私は次のような文章を目にしました。作者はもうお亡くなりになったそうですが、ロバート・エバート氏という方です。

”・・・・・・・・他の人を少しでも不幸にすることは犯罪です。

自分自身を不幸にするのはすべての犯罪の始まりです。

私たちは幸せをもって世界に貢献する努力をしなければなりません。

それは今、自分がどんな状況であれ、問題(健康や悩み)を抱えていようが、関係ありません。

すべての人が幸せをもって貢献をする努力をしなければいけないのです。

彼は、人生で一番大切で素晴らしいことは、今より少しでも人を幸せにし、自分自身もより幸せになることだと書いていました。

そして、自分はそのことを以前から知っていたわけではなく、ここまで生きてきて、このように考えるようになったことに感謝していると最後に述べていました。

とてもシンプルなことですが、人を少しでも不幸にすることは犯罪なのです。

そして、自分自身を不幸にするのは、すべての犯罪の始まりなのです。

誰も望んで自分から不幸になろうとする人はいないと思います。

でも無意識に自分自身を不幸にしてしまうことがあるのです。

何気ない想い、考え方、習慣、何に意識を向け、何に時間を費やしているか。

ある人が自分に浴びせた否定的な言葉を、長い間心に刻み、それを摑みつづける。

人の前で、自分は何も出来ないといつも卑下してしまう。

感情に呑み込まれて、思ってもいない言葉を他人に吐いて後悔している。

自分がやりたくないことを、仲間に言われてしまう。

本当は体が疲れているのに、無理して笑顔で人と会う。

まず自分自身を大切にしない。

このような行為が問題であり、これがとても重要なことだと教えられます。

しかし、“世界人類が平和でありますように” ━ この祈りの言葉には、まさしく人が人として自分自身も他人も、より幸せにする思いが詰まっていると改めて実感するのです。

ロバート・エバート氏の言葉を反対に置き換えてみると、五井先生の思いが溢れているように思えました。

“不幸” を “幸せ” に、“犯罪” を “救済” にしてみると、それは個人人類同時成道であり、今より少しでも人を幸せにするのが救済であり、自分自身を幸せにするのがすべての救済の始まりなのです。

だからこそ、私たちはまず、自分の内なる神性に気づき、その何気ない習慣や日頃の小さな小さな行為の中に、より自分を幸せにする方法や、より人を幸せにする発想を取り入れ、そして世界平和の祈りのひびきを発しつづけることが本当に大切なことなのだと思いました。



         世界人類が平和でありますように

 

         西園寺由佳さん 白光誌 5月号より





 
感想

 

この文章を読んでいたら、「もう何も書くことはない」 ・・・・・・。

そのまま読んだ人の心にスーッと沁み込んで行くと思うのです。

人は、

「他人を傷つけずに生きていくことなんて出来ない」

とか

「自分では傷つけたつもりはなくても、相手が弱いので傷つくこともある」

とか

「自分の幸せのためなら、多少の代償はしかたがない」

とか言って

自分を正当化しようとするのです。

しかし、自分の本心は正直で

後で必ず、後味の悪さを感じることになるのです。

それは本心が苦しんでいるのだと思うのです。

人間は絶対に誰も傷つけずに生きてゆくことは出来るのです。

それは人間には必ず  “神性” が宿っているからです。

神さまの心が宿っている

だから自分もそして何人も、傷つけることなんて絶対にないのです。

だから人間だからしかたがないんだ

「俺はこれだけの人間なんだ」

「俺はこんな奴なんだ」

「俺はこんな生き方しか出来ないんだ」

「これが俺の生き方なんだ」

というのは甘えであることがわかるのです。

厳しいかもしれないけれど
 

「他人を少しでも不幸にすることは犯罪なのです」


そして他人を不幸にすることは自分を不幸にすることにつながります。


そこが原点だと思うのです。

ちょっと厳し過ぎますか?

でも自分に厳しくしないと

「生きている」

って感覚は無いと思うのです。

私はそう思うのです。

 



  
    

 

2013年5月10日 (金)

君は素晴らしい選手なんだ 2

 

解説

新聞のコラムの本文に入る前に解説をしておきます。今年のマスターズ(ゴルフ四大トーナメントの一つ)では、オーストラリアの32歳A・スコット選手が、アルゼンチンのA・カブレラとのプレーオフの末に優勝しました。まだ若い年齢ですが、オーストラリアの選手がメジャー大会で優勝するのは今回が初めてであの名手 故グレッグ・ノーマンも成しえなかった偉業だったです。私は、ゴルフの奥にある人間愛に心を打たれるのです。



 
スコットを救った言葉

 

29歳の誕生日を迎えた2009年の夏のことを、オーストラリアのA・スコットはどう記憶しているのだろう。

才能にあふれた若きゴルファーは、米PGAツアーをはじめ数々の優勝カップを手にし、30歳を前に富と名声を得ていた。

手にしていないものといえば、メジャー大会のタイトルくらいではなかったか。

ところがあの年、世界中のトップが集まる四大大会で彼は、ことごとく惨敗。

マスターズで予選落ちすると全米オープン、全米プロ選手権も決勝ラウンドへ進めなかった。

特に全米プロでは、初日、2日目のスコアが82、79。

彼の下にはわずか5人しかいなかった。

一時3位まで上がっていた世界ランクキングは秋が深まるころ、76位にまで落ちた。

よってその年の秋に行われたプレジデンツ・カップのメンバーに、世界選抜チームのリーダーだったG・ノーマンがスコットを推薦で選んだときは、誰もが首をかしげている。

2人は同郷で友人同士だから優遇されたのではないか。

ノーマンは批判にさらされた。

それに対しノーマンは、はっきりと反論することはなかったが、裏には明確な狙いがあった。

南アフリカ、南米、カナダ、フィジーのトップ選手と共に戦う中でスコットの力を引き出したいとの思いがあったのだ。

チームメートとなったアルゼンチンのA・カブレラも同様に手を差し伸べ、調子の悪いスコットと誰も組みたがらない中、進んでパートナーとなっている。

そして、リズムの悪さを引きずるスコットを

「君は素晴らしい選手なんだ」 と叱咤激励もした。

くしくも今年のマスターズでは、その2人が優勝争いを演じ、最後はプレーオフでスコットがメジャー初制覇を成し遂げたが、優勝後の記者会見で当時のことを尋ねられるとスコットは言った。

「きっと(あの言葉)忘れることはない」

09年当時の記事を読み返していたら、こんなコメントも出てきた。

チームの副キャプテンだったニュージーランドのF・ノビロが

「2、3年したら、この選手が正しかったことが証明されるはずだ」 と話しているのだ。

3年半後、スコットはついにマスターズを制しその言葉を証明した。

ノーマンとカブレラにようやく恩返しができた。

覇者の微笑みにそんな思いが見て取れた。 (米ゴルフウィーク誌ライター ジム・マッケイブ)
 



 

  

  

君は素晴らしい選手なんだ 1

  

私ごとで恐縮なのですが、私には忘れらない恩師がいるのです。

高校時代の一年、二年生の担任の先生です。

その当時、50歳手前だったので私たちは「ばあちゃん先生」と呼んでいました。

去年か今年くらいで確か米寿を迎えられたと思います。

その先生は究極の褒め上手で

私は事あるごとに

「あなたは素晴らしい人です! なんだって出来る 希望するどこの大学へも行ける やればすべてが叶えられる」

と超プラスの言葉を連発して浴びさせてもらったのです。

卒業後は、先生の意に反して勉強にも専念出来ず挫折し、そして大病を患ったりしておよそ理想とは程遠い人生を歩むことになりました。

しかし心のどこかで

「あなたは素晴らしい人です」 が鳴り響いていました。

何の根拠もないのに

何も特徴のない普通の生徒だったのに

何の片鱗も見えていないはずなのに・・・・

おそらく先生は私だけではなく、いろんな生徒(特に心配な)にこの言葉をかけておられたと思うのです。

自分に自信を失くした時、自暴自棄になりそうになったとき、他人にマイナスを言われてめげそうになったとき

「あなたは素晴らしい人です」

の言葉が

いつの間にか甦って私を助けてくれていたように思うのです。

「そうだ自分は素晴らしいんだ」

「だから大丈夫なんだ」

・・・・・・・・・・

そして、最近気づいたことがあるのです。

先生がかけてくださったこの言葉は、果因説の言葉だとわかったのです。

「あなたは今がどうであろうと素晴らしい人なんです」

「ゴールは保証されている」 

「絶対に大丈夫!」

「だから安心して思いっ切り生きていきなさい」

これらの言葉がすべて入っていたのです。

先生には生徒たちの神性が見えておられたのだと思います。

生徒たちの顔の奥にキラリと光る眩しいばかりの光が見えていた

そしてそれをそのまま生徒たちに伝えてくれた・・・・・。

先生によって救われた人は私だけではなく大勢いると思うのです。

私たちは先生の恩に報いるためにも

仮に相手の人の奥に神性がみえなかったとしても

業を被って、マイナスの面しか現われていなかったとしても

人間にはみな神性があるんだ

ということを信じて

褒めたたえることをしなければいけないと思うのです。

そうすればその人は自分で自分の中の神性を見つけることができるようになる。

自分で自分の素晴らしさに気づくのです。

教育とは英語で

education(エデュケーション)といいます。

eduは能力、cationは運ぶ、引き出す

私は能力とは神性だと思うのです。

神性とはその人の素晴らしさだと思うのです。

先生は

私の神性を認め、私が自らの神性に気づいて引き出せるように手伝いをしてくださった。

ほんとうにありがたい、素晴らしい愛を私に与えてくださいました。

 

最近、先生とお話しをしていません。

先生、米寿(88歳)は過ぎられたのかな?

お元気にされているかな?

久しぶりに電話をしてみようかなと思っています。

 

話が横道にそれてしまいました(笑)
 
それでは、次の日記で

私を

「素晴らしい!」 と言ってくださった先生を思い出させてくれた新聞のコラムをご紹介します。

   

  

2013年5月 9日 (木)

泥棒にも三分の理 2

  

 
迷惑な人なりに・・・・・

 

やたらと声の大きい同僚がいる。

いいやつだが、とてもうるさい。

先日、連れ立って中華料理店に入った。

耳をつんざく音がした。

酔客が大騒ぎしていた。

「すさまじい」。 眉をひそめると、同僚が妙な話を始める。

むろん大声で。

「ああいう人たちは子供の頃、周囲に無視された経験があるのです」

無視は悲しい。

ぼくに注目してほしい。

そんな思いが高じ、自然と声が大きくなる。

自分もそうだった、うんぬん。

「自己弁護っぽいが、筋が通っていなくもない」 と述べておいた。

東京のJR錦糸町駅で先月、男性が刃物で切りつけられた。

電車内で犯人の男が体が当たり、口論になった末の事件という。

都会の悲しさか、一言の注意が暴力を誘発することがある。

事件の記事を読みながら、大声の自己弁護を思い出す。

迷惑な乗客や酔客がいた場合、その人なりの理屈を想像してみるのもトラブル回避の一手かも、と思う。

しかも春。 異動・入社の春である。 慣れない他人の振る舞いに、イラッとしやすい季節なのだから。

実は、電車で迷惑千万ながに股にも、まっとうな事情があるらしい。

私が知る日本人の中で、一、二を争うがに股の後輩にある日、意を決して

「電車の座席でもそれか?」 と聞いてみた。

座ったまま後輩がうなずく。

「腰痛持ちはこの姿勢でないとつらくて」。

目からうろこが落ちる思いで、見事な開脚と呼べなくもないがに股を見つめた。

スマホをいじりつつ肘を押し当ててくるこの人はよほど腋(わき)が痛いのかな?

考えているうち、目的の駅に着く。

 




  2013年3月13日 読売新聞 のコラムより 地方部次長 清水 美明さん



 





  

2013年5月 8日 (水)

泥棒にも三分の理  1

  
  

「泥棒にも三分の理」 このことわざは、悪いことをする人にもそれなりの理由が少しはあるんだ。 という意味なのですが、いろんな捉え方があります。

私はする側ではなく、された側のことをいつも思うのです。

世の中には、凄い人がいるもので泥棒も神の子であり、今は悪役を演じているがそれもいろんな役がらがある中でみんなに嫌われるようなお役目をご苦労さま、ありがとうございます。

取られた私は恵まれているのでございます。

それで少しでも生活が楽になるのであれば、結構なことでございます。

と泥棒に対し敬意さえ払う人がいるのです。

私の祖母は、温厚を絵に描いたような人だったのですが、玄関に履き物が散乱していると

「こりゃー泥棒さんも驚かっしゃーたい」 (博多弁)

とさん付けにするのです。

どんなひとであっても、決して見下すようなことはしない

みんな悪いことをしようと思ってする人はいない

きっとそれなりに私たちにはわからない苦しい事情があるのだろう

もし、泥棒とはちあわせするようなことがあっても

祖母は

「なにか特別な事情があったとね?」

と聞いていたように思うのです。(そして泥棒は諭されたように事情を語り始める)

私はこんな祖母が大好きで

子ども心に

「私も祖母のように心の大きな人間になりたい」

と思っていました。

祖母のこの考えはどこから来ているのか?

宗教的なことからか?

祖母の祖先の教えだったのか?

その時代の環境だったのか?

それはハッキリとはわかりませんが(母に聴いても)

どんな人にも事情がある

今生のものか?

過去世のものだったのか?

だから、今だけの姿を見て

むやみやたらに人を批判、非難、評価してはいけないんだ

ということです。

これは、特別な教えを受けなくても

そう思うことは可能だと思うのです。

私も人を表面だけで判断するくせがあります。

「挨拶をしても返ってこない、なんという常識のない人だ」

「電車の中で大声で携帯で話している、どういう意識なんだ」

「子供が騒いでいる、親はなにをしているんだ」

「あの人はいつも暗い顔をしている、もっと明るく振る舞えばいいのに」

・・・・・・

私たちがイライラするこれらのことは

相手に問題があるのではなく

自分の捉え方に問題があるのです。

捉え方一つで自分の心はどうにでもなる

それも自分の見地からではなく

相手の立場になって見てみれば

納得することもあるのではないか?

相手の心の中までは入ってはいけないけれど

相手の日頃の言動行為から

少しは推測出来るのです。

それが観察力であり

観察力が鋭くなると

洞察力

つまり心が読めるようになる

私は、人間関係をしていく上である程度の 「洞察力」 は必要だと思うのです。

「なにか今日は元気がないな、なにかあったんだろうか?」

「顔色が悪いな、体調がすぐれないのかな?」

私たちは相手を観察することよりも

表面的な

相手が自分に何を言っただかとか

何をされた

つまり自分主導のことばかりを考えているのです。

だから大切なことを見逃してしまっている

心に少し余裕を持って

「なにか事情があるのかもしれない」

と相手主導になって

そう慮(おもんばか)るのも

人間の素晴らしさだと思うのです。

日本人はそれが出来る民族なのです。

そう思わせた文章を次の日記でご紹介します。


 

 

2013年5月 7日 (火)

果因説の実践法 2

 

果因説の素晴らしい事例


  

果因説について、周りの方々からも本当にわかりやすい教えだ、癒されたということを伺います。

これから果因説に基づいた世の中が出来たら、どんなに素晴らしいことか。

一人一人が素晴らしいことをイメージし、自らがそれを実行に移していき、そこには他人を恨むことも、未来に不安ばかりを持つ必要もないのです。

しかし、果因説をするためには、それを本当に信じる力と経験が必要なのだということもよく分かります。

それは少しずつ、少しずつ、培われていくものだと思います。

その例の一つで、なるほどと思うことが身近にありました。

それは去年、SOPPのために来日したオーシャン・ロビンスのお話です。

彼は奥様と喧嘩をした時、あるいは奥様に対して不満を持った時には必ず話し合いをするということを私に話してくれました。

それはお互いにそうであって、奥様もまた、オーシャンの言動で許せないこと、あるいは傷ついたことがあれば必ず話すそうです。

そして相手側は、必ず主張を聞く、傾聴するというのがお約束だそうです。

相手に対して、何かしらの不満を持った時は、それを言葉にして話しますが、話し合う前にもう一つ約束を二人はしているそうなのです。

それは不満を話すほうは、内容を話す前に

「未来には必ずあなたを許します。心から許し、すべてが消える時が来ます。消えるまで私は努力しつづけます。 でも、今はあなたに不満を持っています」

と言うのです。

そして、その瞬間の思いや考えを相手にぶつけるそうです。

今はこう思うから、あなたを許せない、あなたとは話せない、あなたとは一緒にいたくない、と・・・・・。

相手から否定的なことを言われ、相手を疑い、時には憎しみすら生まれる可能性のある発言だったとしても、その前に二人は果因説をしているのです。

必ずあなたを許す時は来る。

今現われているのはそのプロセスだと宣言しているので、相手は否定的な発言だけを掴む必要も、それを言われて未来に不安を抱く必要もないのです。

現われているのはプロセスであり、結果は先に伝えられているのです。

その結果を掴んだ上で、より早くその結果を引き出せるようにするための話し合いであり、喧嘩なのであるということが分かっているのです。

そして、そこに至るまで正直に自分の思いを伝え、ぶつけ、それと同時に未来への努力をしていくのです。

また、彼はこんなことも話してくれました。

不思議とこの方法を取るようになって、喧嘩が長続きすることがなくなった。

言われているほうも安心してそのプロセスを見守っていられるし、相手の主張に対しても、しっかりと耳を傾けることが出来る。

また、話す本人も、自分はいずれ心地よく相手を許し、愛する時が来るのは分かっている。

でも我慢するばかりではつらいし、それだけでは本当に消えないから、だから話して楽になるんだよ、と。

そして、話し合いをした上で、お互いが努力なり、対話なりをして、自分たちを見つめ直し、いざ、本当に相手を心から許せるようになったら、また最後にお互いに宣言するそうです。

「私はあなたを心から許します。今までの過去のすべても、そしてこれからの未来に対するすべてに関しても、許します」 と。

私は、二人は本当に素敵なカップルだと思っていましたが、それはこうやって日々の生活の中で果因説をし、未来の自分たちの像をお互いに認識し、掴み、そこを向いて日々を生きているからなのだと思いました。






果因説の習慣を身につける

 

彼らにとっては、たまたま行なっていた習慣だと思いますが、これは果因説の素晴らしい事例だと思います。

口に出して宣言し、自分たちで自分たちの未来像を見つめ合う。

すると、必ずその未来は二人に訪れるのです。

どんな困難があっても、問題を抱えつづけていても、常に支えつづけ、笑つづける二人が毎瞬あるのは、その果因説のお陰なのです。

このように、、身近な、小さなところから果因説を実行するのは素晴らしいことだと思います。

その習慣が自信となり、果因説で自分の未来を描き、降ろしていけるようになるのだと思います。

それこそが新しい時代の生き方なのだと思います。

過去への懺悔、過去の苦しみをいつまでも抱えて生きるのではなく、未来への不安と恐怖に日々悩み生きるのでもない。

消えてゆく姿なのだから過去はもう自分にはない。

また、未来は輝かしいもので、絶対に成就する。

時にいろいろなプロセスが訪れるかもしれないけど、それはあくまでも通り道であり、ゴールは必ず自分の前に訪れる。

過去と未来とその二つをこのように把えられれば、自らの神性を限りなく今生で現わしていけるのだと思います。

    

    

   我即神也 人類即神也

    「白光」 誌 5月号   西園寺由佳さん



  超おススメ図書です。

 
       「果因説」 西園寺昌美  白光出版



  
  

  

果因説の実践法 1

  

私たちの運命や一番難しい人間関係はなぜなかなか良くはならないのか? (無限なる可能性!)

それは、ネガティブなものをつかんでしまっているからです。

過去や現在の悪い状態をつかんで、これからの未来も同じようになるんだと思い込んでしまっている。

悪い状態をイメージすれば、それが未来に現われてくるのは宇宙の法則の通りなのです。

だからと言って明るい未来だけをイメージすればいいじゃないかと言われても今までの習慣からなかなかそれは出来にくい(無限なる希望!)

そして人間人類は、益々、ネガティブスパイラルに陥ってしまった。(無限なる光!)

だがしかし、過去からの悪しき慣習である因果律(原因があって結果がある)はもう終わったのです。

これからは新しい考え方、果因説(結果があって原因がある)の時代です。

これからの人類(特に真理に目覚めた人)は、果因説を当り前のように使いこなし、結果を出し、みなが真似て善いことしか起こらなくなる

そんな世の中になるのです。

ここにわかりやすい果因説の実践法をご紹介します。

冒頭にも述べましたように人間が一番苦手?としているのは、人間関係です。

それも家族、夫婦、親子ではありませんか?

どんなにお金があっても物質的に満たされていても、家族関係、他人との人間関係がうまくいっていないと 本当の意味での幸せにはならないのです。

家族関係がうまくいけば、どんなところでも上手くやっていける

といわれるほど家族とは因縁が深いのです。

みなさん、果因説を実践してまずは家族関係から改善していきましょう。


 

   

    

2013年5月 6日 (月)

地球の反対側の小さな女の子・・・


  

孫正義の 「志」
 



地球の反対側の小さな女の子を微笑ませることができればそれに勝る幸せはない。


 


孫正義がブロードバンド事業を開始するはるか以前のインターネットの黎明期から言って

いる。

志を最も純粋に伝える言葉の一つ。 株主総会などのスピーチの最後をこの言葉で締めく

くることも多かった。

この言葉は、孫正義の 「志」 が 「情報革命を通じて、地球の反対側にいる人の思い

や、その知恵と知識を一瞬にして共有し、国境や人種を超えて、一人ひとりが新しい可能

性に挑戦できる社会を作っていくこと」 であることを示している。

ソフトバンクグループはデジタル情報革命の舞台である情報産業分野事業を行なっている

が、デジタル情報革命でただ利益を上げることを目的としているわけではない。

最後の目的は、あくまでも人類の幸福なのだ。

ソフトバンクのソフトウェア流通事業、出版事業、ポータル事業、通信事業など自社として

展開する事業だけでなく、2012年に孫正義が社会に投げかけた 「光の道」 や 

「デジタル教科書」 などの提言も、究極的にはこの言葉に集約されている。

これらがすべてが 「デジタル情報革命を通じて人類の知恵と知識を共有する」 ということ

では共通しているのだ。

 

  「孫正義名語録」  三木雄信 著 ソフトバンククリエイティブ





  

感想
 

私が読んだ孫さんの名語録の中でこの文章が一番心に響いたかもしれない。

デジタル事業を起こそうとしている人は、人類の平和、幸せなんて二の次三の次で業績を

上げることにだけ必死になっているという印象があったのです。

だから自分はアナログにこだわった?(笑)

しかし孫さんの最終目的は、あくまでも人類の幸福にある

3次元(目に見える世界)での自分の功績や名声よりも、一人の人を感動させ喜びを与え

ることの方がずっとずっと尊いことを、そして素晴らしいことだということを、孫さんは知って

いるのです。

人って最後はお金では動かないのです。

感動で動くのです。

心が動いて

それから すべては始まるのです。




  

 

2013年5月 5日 (日)

愛することを止めるな

 
  

愛することを止めるな


 

妻や夫や恋人や子供たちが、いつでも素直に自分の愛を受け入れてくれるものではありません、愛されていると知りながら、かえってその愛を裏切るような行為をしてしまうことがよくあるものです。

愛されれば愛されるほど、どこまで愛してくれるか試してみたいなどと思う、恋人や子供がよくあるものです。

愛しても愛しても、自分の心を素直に受け入れてくれない時などは、全く愛することを止めてしまったり、相手を憎んでしまったりしたら、せっかくの神のみ心が現わせぬことになってしまいます。

愛することが哀しい時があっても、やはり愛しつづけることが大事なのです。

愛することそのことが神の光なのです。


 


  

           
「日々の祈り」 五井昌久 白光出版



  

2013年5月 4日 (土)

孫正義名語録 5

  
 

社長にビジョンは不可欠

 




「はからずも社長になりまして」 というような人間は社長に向いていない。

孫正義が社長という仕事について語った言葉。

「はからずも社長になりまして」 というのは、日本では大企業の就任会見などで一般的によく聞かれる言葉だ。

しかし孫正義は、そのようなことを言う人間は経営者に向いていないと切り捨てる。

社長の仕事は一般の仕事とはまったく違う。

将来の変化を見通し、新しいビジョンや戦略を作っていくのが社長の仕事だ。

こうした能力は、単なる社員として一生懸命仕事をしていれば身につくというものではなく、また社長になってから一朝一夕に身につくものではない。

社員には組織や上司という一定の枠がある。

しかし、社長とはその枠自体を作っていくのが仕事だ。

社長になりたければ、社員のときから 「将来の社会はどうなっていくか」 「もし自分が社長であればどうするか」 というように、自分を鍛えていくことが求められる。

さらに 「自分が社長になって、何をやるのか」 という 「志(こころざし)」 がすべての原点として最も重要だ。

孫正義にとっては、自分のビジョンも持てない人間が、会社の将来を決めることができるとは、到底考えられないことなのだ。

   

     「孫正義名語録」 三木雄信著 ソフトバンククリエイティブ



感想

人は何かを成し遂げるようと夢を持ちます。

だけど夢を現実にする人はごく限られた人だけになっている。(無限なる可能性)

それはなぜかというと夢を途中であきらめてしまうから・・・・。

持続させることが一番大切なのに、意思がモチベーションが続かないのです。

ここが一番人間が苦労するところなのです(笑)。

モチベーション(動機づけ)が低く弱いからなのか?

モチベーションの組み立て方が悪いのか?

モチベーションよりも感情を喜ばすことが強いのか?

夢、目標そのものが本心を喜ばすものではないからなのか?

様々な理由はあるだろうけど、孫正義さんは他の人よりも意思が強い、モチベーションが弱ることはほとんどないのだと思うのです。

だから想いが叶っている

これを言ったらお終いだけれど

「社長になるべきしてなった」

「社長になる器だった」

もう一つ付け加えるのなら

「社長以外になるものはなかった」

と云えると思うのです。

人は生まれ持ってなるべきものはもう決まっている。

生まれ落ちたときから運命は決まっているのだそうです。

大工さんなら大工さん

お医者さんならお医者さん

大工さんになる運命の人がお医者さんになることはない

またその反対にお医者さんになる人が大工さんにはならないのです。

ただ小さな大工さんになるのか?

大棟梁(大統領ではありません)になるのかはその人の努力次第なのです。

総理大臣になる人は決まっているんですね。

○は○△は△□は□にしかならない

家庭の奥さんは総理大臣になることは絶対にない

ただ悪い奥さんになるか

いい奥さんになるか

悪いお母さんになるか

いいお母さんになるか

は自分の努力でどうにでもなる

だから○が△や□にならなくてもいい

大きな○、△、□にだったらなれる

人間は決まった運命、職業、役割の中で大きくなる(成長する)努力を続けてゆくことが尊いことだと思うのです。

孫さんのビジョンでなくても自分なりのビジョンを持つ

ビジョンが叶うように努力をする

自分の器の枠の中で一生懸命に努力をする

それが大切だと思うのです。

 

 


 

 

孫正義名語録 4

 
 
 

フリーミアムで集客
 

 

コーヒーをただで配ったらどうね。みんな飲みにくるばい。

 

孫正義の父である孫三憲氏は、孫正義を小さなときから一人前の人間として扱い、経営的なことも質問していたという。

あるとき孫三憲氏は、街のメインストリートから一本入った路地に開店した喫茶店の集客に悩んでいた。

そのことを聞かれた少年時代の孫正義が、父親に向かって語った言葉だという。

孫三憲氏が実際にこの言葉通り、コーヒー一杯無料にキャンペーンを行ったところ、たちどころに店は客で満杯にあり、しかも客は、コーヒーを飲むだけでなくトーストやケーキなどの追加注文を当然のようにしたのだった。

この結果、喫茶店の経営は順調に軌道に乗ったという。

この話を私が聞いたのは、ソフトバンクがブロードバンド事業で最大2ヵ月間の無料キャンペーンを検討しているときだった。

孫正義にとっては、コーヒーがブロードバンドに変わっただけだったのだ。

このように、無料サービスでユーザーを増やし、付加価値のある高度なサービスを有料で提供するのは、現在では 「フリーミアム」 というマーケティング手法として知られている。

しかし孫正義は、その手法を何十年も前に独自に生み出し、実験し、成功を収めてきていたのだ。

 

     「孫正義名語録」 三木雄信著 ソフトバンククリエイティブ





  
 

感想

例えば、腕に自信のない料理人の人がこの 「フリーミアム」 をやっても後が続かないから意味がないのだけれど

「美味しいなぁ」 

「もっと宣伝すればきっと流行る店になるのになぁ」

という場合は思い切ってやればいいと思うのです。

「損して得取れ」 の格言のように

投資は絶対に大切なのです。

私は、自分でいうのもなんですが

自分への投資にはお金を惜しみません。

それも、本への投資は半端ではないのです。

ただ本も数が増えればかなりの負担になってきます。

そこで私はアマゾンを利用して、中古本を仕入れています。

本の状態が “非常によい” というものでも定価の3分の一以下で買える場合があります。(たまに評価に首をかしげる?物もありますが)

今はお金をそんなにかけなくても “自分に投資できる時代” なのです。

情報は、インターネットで世界中から入ってくる。

美味しいものもコンビニでシリーズ化(スイーツ、ご当地ラーメンなど)されて簡単に買える。

そういう意味では金持ちとそうでない人との格差は無くなってきているのです。

「損して得取れ」

または

「少ない投資で、大きな成果を上げる」

そこを目指してみてはいかがでしょうか?

それがこれからのビジネスを成功させるメソッド(方法)だと思うのです。




   

  

孫正義名語録 3


 

批判との付き合い方

 

高次元の批判は成果を高め、低次元の批判は忍耐力を高めてくれる。


 

これは孫正義がツイッターで書き込んだ言葉だが、常に孫正義が心がけている言葉なのは間違いない。創業者社長の中には、周りの意見や批判に耳を貸さないというワンマンな人も多いのかもしれないが、孫正義に限ってはそのようなことはまったくない。

社内でも社外でも、批判を聞く姿勢を崩すことはない。

そして、高次元の批判に対しては徹底的に議論を行う。

また、たとえ低次元の批判であっても、それを理由に発言が許されないということはない。

ツイッターでも、孫正義のところにはさまざまな批判が送られてくるが、そうした意見にも丁寧に応えようとしている。

こうした姿勢には、社内での会議でも同様だ。

実際に私が孫正義の意見に反対することは、特にブロードバンド事業の立ち上げ時期には多々あったのだが、徹底的に議論することが当然とされていた。

また、毎年の株主総会などでも株主からの質問が尽きるまで懇切丁寧に回答している。

この姿勢は、むしろ業績の悪い年の株主総会ほど顕著だ。

ソフトバンクが成長し続けているのは、孫正義が周囲のさまざまな意見を吸収しながら、 より高いレベルで事業をすることを目指しているからなのだ。


  

    「孫正義名語録」 三木雄信著 ソフトバンククリエイティブ





 
 

感想

これは私が一番耳の痛いことが書かれているのかもしれません。

私の書いていることは明らかに普通ではありません(今の世の中では)

もちろん自分では当り前のことを書いているつもりなのですが、世間一般ではタブーとされていることもどうも書いているようです。

1.宗教臭い (宇宙観を書いているつもりなのですが)

2.哲学的で思想がかたよっている(五井先生、于先生がよく出てくる)

3.結構強気で言い切っている (どこに根拠があるのか?と思われる)

たくさんの人が読んでくださっている中で批判や非難は多少あったと思うのですが、私の方で

「わかる人だけがわかってくれればそれでいいんだ」 と開き直ってそれらの意見、感想などは無視をしてきていました。

ちゃんと聞けば、「ああそんな考え方もあるんだ」 「なるほど、ひとりよがりだったなぁ」 と反省することもあったのでしょうが、それを聞くのが怖い、否定されることが嫌だ、という気持ちがあったのは確かです。

でも今は、「人がどう想っているのか?を聞く勇気?は出来てきたように思うのです。(受け入れるかは別として)

私がやっとそのような心境になりつつあるのに、孫さんは以前からずっとやり続けておられた、いやはやおそれいるばかりです。


  

 

 

孫正義名語録 2

 
 

交渉の極意
 
 

交渉は 「鯉取りまあしゃん」に学べ。

 

「鯉取りまあしゃん」 とは、上村政雄氏という実在の人物だ。

孫正義の出身県である佐賀県と福岡県の県境を流れる大河・筑後川で、独特の漁法によって鯉を取る名人である。

火野葦平や開高健の小説やエッセーの題材に取り上げられたことでも知られている。

鯉取りまあしゃんが、真冬の筑後川でどのようにして鯉を取っていたのかを紹介しよう。

まず、漁をする数日前から肉やうなぎなど栄養価の高いものを摂り体調を整える。

当日はまず河原で焚き火をして、そこで体から汗が噴き出るくらいまで体を温めるのだ。

その後に川に入り、水底にもぐり横たわる。

すると体の温かさを求めて、鯉が横にやってくるのだ。

まあしゃんはそれを優しく抱き、そしてそのまま陸に上がってくる。

これが鯉取りまあしゃん」の漁法だ。

この方法で、一度に両手と口で3匹を取ることもあったという。

孫正義は社員に交渉の極意を説くときに 「鯉取りまあしゃん」 のようでなければいけないと説いていた。

交渉の前に、じっくりと準備をし、交渉相手が自然とこちらと合意したくなるように交渉するのだ。

孫正義にとって交渉とは、相手を説得することではない。

相手から慕われるためのプロセスなのだ。

  

     「孫正義名語録」 三木雄信著  ソフトバンククリエイティブ







感想

漁をするとは、普通は人と魚との闘いですよね。

魚はお金になる、生活の糧になる、だから奪い取らなければならない

「いただきます」 は命をいただきますという意味で感謝を捧げるものなのだけれど

そのような気持ちでは大量(大漁)に魚を獲ることなんて出来ない

だから魚は物でしかないのです。

魚がいのち(生命体)ではなく、お金に見える

だからそこには愛がない

だから、地球の生態系が崩れている

「まあしゃん」の場合は、魚に対して精一杯の誠意がある

「ごめんなさい」

「いのちをいただきます」

という申し訳なさがある

その代わりに

「全身全霊で、身体を張って獲らせていただきます」

という謙虚さがあるのです。

自分の体温と魚が心地よいとする温度とが合う

合うは愛と同意語なのです。

昔はこのような漁法をする人がいたんですね。

人間はもっと生き物たちの対して

感謝と謙虚さが必要だと思うのです。

そしてそれは同時に人どうしの関係においても同じだと思うのです。





  

 

 

孫正義名語録 1

  

今、私は孫正義(ソフトバンク社長)の社長室長を務めた、三木雄信さんという方が書かれた「孫正義名語録」という本を読んでおります。

インターネットの世界、携帯電話、ITの世界で成功するのは難しいといわれる中で、抜群の強さを発揮しているその原動力にはどこに秘密、秘訣があるのか?

本を読み進めているうちに、私はその源流には 愛があると思ったのです。

「心に愛がなければ、どんなに美しい言葉も相手の心に響かない」 (聖パウロの言葉より) のように、人を動かし、何にも増して強く、最後に残るのは、愛そのものの人だと思うのです。

先日、友人(本好きの)と話をしていて、お釈迦様やキリストの言いたかったことって結局

「愛だよね!」 で話が完結しました。

時代が変わっても、いや変われば変わるほど、愛の重要度は増して、愛がなければそこには成功も発展も喜びも、人間の幸せはないと確信するのです。

その理由は一番勢いのある企業のトップの人が数々の名語録を残していて、それらの言葉が愛に直結しているからです。

人によってはそれ(孫さんの言動行為を)を愛と受け取らない人もいるのかもしれません。

冷徹だ、偽善行為だという人もいるのかもしれない

だけど、愛の薄い人には、人はついていかないのです。

人がついていかないと

一時的に業績は良くても、すぐに悪くなるのです。(悪は栄えない)

「数字は嘘をつかない」

とはそういうことです。

愛の深い人は、奥の奥まで読む力を持っているのです。

奥の奥がわかるから、人間の本心(愛)が読めるから

他の人には出来ないことも出来るのです。

昨今では、テクニックやマネーゲームに走る人

お金至上主義の人が増えているように思うのです。

だが、そうではない

本物の成功とは、経営とは、もっと優しくて泥臭くて、アナログ的な

人間的なものなのです。

そのことがわかる私の心に響いたいくつかの名語録をご紹介します。

よろしければお付き合いください。



  

 

2013年5月 2日 (木)

親の心がまえ

  
私の父は今、80歳、母は78歳で、お陰さまでまだまだ元気なのですが、最近父母の間で小ケンカが絶えなくなり、その仲裁に入ったりしています。

ほとんどがつまらないこと、取るに足らないこと、昔のことが原因で、母が昔父に受けた辛かったことなどを言い出したため(愚痴ですね)に、父が肩身の狭い想いをしているのです。

人間とは時間を持て余すと、未来に意識を向けるのではなく、過去に向かうのでしょうか?

いくつになっても目標を持つことは大事だなぁと反面教師にしています。

ですから、「まあまあお母さんそう言わずにお父さんの良いところを見て行こうよ」とか「お父さんもお母さんの愚痴を真に受けないで」 とかどちらが親か子かわからない状態です。

そしてどちらが親でも子でもどちらでもいいやという気持ちになって来ております。

親はこどもに還り(だから還暦というのですね)、子はそれなりに大人になってゆく。

つくづく親も子もないんだなぁ

人間なんてたいしたことはないんだなぁ

たいしたこともないのにお互いに期待し過ぎているんだなぁ

と思うのです。

だからと言って人間とはつまらないもの、ダメなものだと言い切ってしまっては

そこで成長は止まってしまうのです。

人間神の子ではなくなってしまうのです。

私は親子関係から、人間とはなんぞやという気づきを得ることが多いので、いつものようにここにみなさんに私が敬愛する五井先生の文章をご紹介したいと思うのであります。


 
 

親の心がまえ

  

神は人間の根本であり、人間そのものである霊の親であって、永劫に離れ得ぬものであり、人間の親子は、生命の親ではなく、生命の器である肉体における親子であって、肉体的における生命の活動が子自身においてなし得るようになれば、親とは全く別個の肉体人間となり得るのであります。

この相違をよく考えないと、親はつねに不幸になるのであります。

子は自分のものであると親が思っている以上は、子に対して執着が出るのは当然であり、子に対して自分の要望をかぶせ、自己の意思を強いようとする態度に出がちなのであります。

この執着を逃れる道は、親も子も生命においては兄弟姉妹であって、真実の親は神の他にはないのである、という真理を知ることなのであります。

 


子への執愛をこえる道

 
 

自分も子供も直霊から生まれてきた分霊(わけみたま)であり、一つの分霊の自分が、祖先の霊の分霊であるいいかえれば、ある祖先の魂の子である生命体を、自分の家に一時あずかって育てているのであって、それをうまく育てさせているのは、眼には見えぬが、その子の魂の親、ある祖先、つまり守護霊様がなさっているのであるので、自分がとやかくいわなくとも、その守護霊さんにお願いしてさえいれば、子の守護霊さんが、子のためにも自分のためにも、万事都合のよいように導いて下さるのだ、と信じることなのです。

そして自分の天命と子供の天命のまっとうされることを、守護霊守護神に感謝の想いで祈りつづけてゆけばよいのです。



       「日々の祈り」 五井昌久 白光出版




  

 

« 2013年4月 | トップページ | 2013年6月 »

最近のトラックバック

2017年10月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31        
無料ブログはココログ