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2013年4月11日 (木)

人→人間→人 2


 
聖者の出現は何を意味するか?
 



人間というのは、実に複雑にできているもので、一口に人間といいますが、その心の種類は数知れないのであります。

虎とかライオンとかいいますと、その形の差も少ないし、その性格的なものもそう差異はあまりないようです。

ところが人間となりますと、姿形は他の動物と同じように、そうたいした差異はありませんが、心の相(すがた)というものには、非常に数多くの種類段階があります。

姿形だけが同じだからといって、釈尊(お釈迦様)やイエスと強盗や殺人犯人などを、同じ種類に入れてよいものでしょうか。

釈尊やイエスといわなくとも、シュバイツァー博士やヘレンケラー女史のような聖者と低劣極まる詐偽漢とが同じ種族ということができましょうか。

そこのところをよくよく考えて下さい。

同じ人間という種族の中に、これ程の大きな差異をもつものを一つにして入れてあるということは、いったいどういうことなのでしょう。

釈尊などは、人間を十種類(仏・菩薩・緑覚・声聞・天上・人間・阿修羅・餓鬼・地獄)に分けて説明していますが、私は、人間という一種族に釈尊、イエスの高さから、強盗殺人犯という低劣なものまでの、数知れぬ種類があることそのものに、私は人類が無限の進歩を遂げつつあるものであり、現在は急速にその進歩がなされようとしているのである、という証明が成り立つと思うのであります。

人類世界に、釈尊やイエスをはじめ数多くの聖者賢者が出現していることは、現在人類全般が、弱肉強食、自己保存の本能の動物的な生き方にふり廻されているように見え、人類の精神進歩はもう駄目なように思われていますが、実はそうではなく、それは人類が進歩しきっていない過程の姿であって、各聖者賢者たちのような心に必ず人類全般が成り得るのだ、ということを示しているのであります。

一人の人間が達し得た境地というものは、必ず誰も彼もが達し得る道なのあります。

それは科学の普及と同じなのですが、心の問題は、科学が普及される時間より、非常に多くの時間が必要なのです。

人間が、神性をそのまま発現して、自我欲望を超えた神のみ心を、この世界に発現した、いわゆる聖者賢者という人は、一人や二人ではなく、今日までにかなり多く存在したのでありますから、その人たちのたどってきた道や、その人たちの心のひびきが、今日の世界にひびきわたっていることは確かなことなのです。



 

 
         「人類の未来」 五井昌久 白光出版



  


    

  

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