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2013年4月29日 (月)

安易なるものを退けよ

  
  
私たちはつい、五感を喜ばせてくれるもの、つまり肉体を喜ばせるものに執着をし、目に見えるものだけに評価をし、上辺だけのことに一喜一憂し幸せを見出そうとしている。

しかしそれは本当の心(本心)を魂を喜ばせていることにはならないので、後で虚しさだけが残るのです。

だからいくら他人に絶大なる評価をしてもらっても、たいした努力もしないで成功しても、運よく?宝くじに当たっても、総理大臣になったとしても、地位が上がって目立つことをやっていても・・・・何をやっても面白くないのです。

昔の言葉で、“いとおかし” とあるのですが、それは大変趣(おもむき)がある、心が動かされるという意味であったと思うのです。

本心が喜ぶ、心の琴線にふれる、魂が震えるような感動を覚える・・・・・。

このようなことが本当の喜びであり、幸せにつながってゆくのだと思うのです。

だがしかし

今は安易に五感だけの喜びに走っている人が多いように思うのです。(こんなことを言うとなんだか年寄り臭いかな?)


今、世間は浮かれて必死で五感を喜ばせようとしている。

みんなが評価している場所(観光地)や海外や行楽地に行くことが幸せだと思っている。

しかし、そこには本当の安らぎ、喜び、幸せはないことはみんなわかっているのです。

本当の喜び、幸せを見つけるにはどうしたらいいか?

それにはまず、安易なものをまず、退ける

そのことも大切なことだと思うのです。

  

  

安易なるものを退けよ
 

自分が読んでいる本が、はたして自分の魂を喜ばせ、精神を純化させてくれるものであろうか、今、聴いている音楽は自分をいかにプラスにしてくれているか、ということを、若い世代の人々は常に思考してみる必要がある。

自己の精神問題に怠惰なる人は、しらずしらずに、自己を地獄の世界、不幸の世界に陥れている。

口あたりのよいもの、耳ざわりのよいもの、そうしたものには安易に飛びこんでゆけるものだが、安易に読めるもの、安易に聴けるものにこそ、一応気をつけて、自己の心に訊き正してみるとよい。

自己の精神にプラスとなるか、マイナスになるか。

肉体欲望(五感)の満足だけで、精神(魂)に不満足のものは、これは退けてみることが必要である。

        


        「日々の祈り」 五井昌久 白光出版




  

  

本心そのままで生きている人

 
 
突然ではありますが、人間とは何を目指して生きているのかと申しますと、というより私自身が今、何をしようとしているのかを申しますと、本来の姿である自分を現わそうとしているのです。

どういうことかといいますと、今の自分は、未だ本当の自分を顕わしてはいないのです。

今の自分とは、肉体界にいる肉体想念を持った自分です。

いつも申しておりますように、本当の自分とは肉体界にはいないのです。

本当の自分は神界にいる。

神界とは、天界であり、仏界(仏教でいうと)であり、また宇宙でもあります。

目に見える世界が肉体界であるわけなのですが、宇宙には目にみえない幽界もあり霊界も神界もあるのです。(本当はもっと多くの無数の世界がある)

自分はどこからやって来たかといいますと、目に見えない世界、神界からやって来たのです。

しかし長い間、肉体をまとっている(着ている)と肉体世界にどっぷりと浸かってしまって、自分は肉体界にしか生きていないと思い込んでしまう。

だから肉体だけの知恵、想念、そして力しか出てこない

肉体だけの知恵、力なんてたかがしれているから、大したことも出来ないし、すぐに行き詰まってしまう。

そして、「自分にはもっと凄い素晴らしい力があるはずだ!」 と叫ばずにはいられないのです。

だがしかし、自分が肉体界だけではなく、幽界、霊界、神界にも同時に住んでいて、幽体、霊体、神体も同時にまとっていることを知らないので、宝の持ち腐れをしてしまっているのです。

私たちの本心は、神界から

「本当のお前はここにいるんだよ、ここの意識を合わせてごらん、素晴らしい叡智(神智、インスピレーション)がやって来るよ」

とささやいてくれているのです。

本心とつながると素晴らしいことになるのです。

どうなるのかって?

それはこの後の文章を読んでください(笑)

 

本心そのままで生きている人
 
  
 

悟りとは、自己の本心を光輝かせること。生命をさわりなく生かしきれる状態をいうのです。

悟りといっても、種々と段階のあることで瞬間的に、自己の本心を現わしたり、生命を生かし切ったりすることも悟りでありますが、常に変わりなく、本心そのままで生きぬいている人があるとすれば、その人は釈尊(お釈迦様)と同じような正覚を得た人というべきでしょう。

本心そのままで生きている人の状態は、どのようかと申しますと、

慈悲深く、喜怒哀楽に迷わされず、すべての恐怖なく、他人と本心の想念をも、はっきり区別してわかり、おのずと人々の想念を浄めている、といってような人になるわけです。

神は光であるので、本心そのままで生きている人は光り輝いている人であります。



 

悟りとは

悟りとは、本心と自分とが全く一つになるということなのであります。

迷ったり、怒ったり、恨んだり、妬んだり、哀しんだり、恐れたり、執着したりする想念というものを、ハッキリ、自分ではない、と思い定めることなのです。

自分とは、神と一つである本心そのものであり、もろもろの想念は、過去における自分の迷いの足跡が、今現われて消えてゆく姿である、と思い定めることなのであります。

自分が自分の創造主であることを知ること。

つまり自分が神の使命達成の一員として、神の世界から天降って、この地上界に神の生命をはな咲かせつつある者であることを知ることなのです。

 
       「日々の祈り」 五井昌久  白光出版



  

 

虚しいとき、心が晴れないときは空を見よう

  

 
ゴールデンウィーク真只中の今、時間はたっぷりあるのだけれど、普段やれないことができる絶好のチャンスなのだけれど、なにもやる気がしない、なぜか体と心が重いのです。

それは何か原因があるのか?

みんながそんな心境だから、自分もそうなってしまっているのか?

群集心理なのか?

たとえそうだったとしても、それに流されてしまってはいけないのです。

どこかで断ち切らなければならないのです。

そんなときにふと、本棚に手を伸ばして本を開いてみるとそこに自分の求めている文章が載っていたのです。

私と同じような心境になっている人って結構多いと思うのです。

ここに抜粋しますのでよかったらお付き合いください。

  

 

不安の心多い人の為の祈り

 

不安の心多き人、暗い心の人たちは、常に天を仰ぐことを実行するがよい。

天からはいつも陽気が降ってくる。

たとえ雨や曇りの日であっても、天に心をむけることが大事である。

天に心をむけると、いつの間にか心が軽く明るくなるものである。

そして次のように祈るとよい。

“神様、どうぞ私の心に愛を充実せしめ給え、どうぞ、私を愛深い私にならしめ給え” と。

その祈りを毎日かかさずつづけていることは、細かい種々な願い事をする神まいり、仏まいりより、はるかにはるかに、その人を高い境地に導いてくれるものである。

祈りとは、まず自分の心を空っぽにすることである。

それまでの自分をひとまず捨てて、神だけを自分の心に住まわせることである。

願いごとは、すべて後まわしにすることである。

神だけを自己に住まわせれば、その人の願いごとは、すべて叶うのである。

        「日々の祈り」 五井昌久 白光出版

 



 

 

2013年4月27日 (土)

人間は元々幸せなのです。

 
   
NHKの朝ドラ「あまちゃん」は、東京から三陸の海辺に移り住んだ母子とおばあちゃんの物語りだけれど、その場面には父親の存在はほとんどないのです。

父親はタクシーの運転手で真面目に仕事をし、家族を大切にし経済的にも裕福ではないにしても苦労もさせることなく一家の大黒柱として生きてきた。

それが突然、妻から「離婚して」 と言われ、かわいがって育ててきた娘からも 「パパはいなくても大丈夫!」 という態度を取られる。

嫌がられているというよりも 自分が “必要とされていない” というもの悲しさ、虚無感が夫には漂っている。

浮気をしたり、家族をないがしろにしたツケが回ってきたとすれば納得も出来るだろうが、原因が釈然としない。

妻は自分から離れたがり、娘は自立しようとしている(喜ばしいことです)、だからもう自分の居場所はないのだ。

「いったい自分の人生とはなんだったのか?」

そう考える中年男性は多いと思う。

そして、妻も子どもも離れていき、再婚をしなければ、最後は一人で暮らしてゆくことになる。

友だちが居たとしてもそれは、たまに会うくらいであり、生活を共にするということではない。

孤独死というのは、ごく普通の人にありえる姿なのです。

晩年をたった一人で生きてゆく

周りに話す相手もいないかもしれない・・・・・。

なんだか暗い話になってきましたが(笑)

だからといって私は、常に人に囲まれている人、自分を愛してくれている人が傍に居る人、そして肉体が移行(死ぬ)ときにたくさんの人に見送ってもらえる人が幸せな人だとは思わないのです。

反対に、誰にも看取ってもらえない、家族も友だちも周りにいない人であったとしても、心の中の心境(境地)が豊かであれば、それは孤独ではないのです。


境地とはそれほど大事なものなのです。

 

人間は自分の死ぬ時期がわかるそうです。

何月何日、時間まで正確にわかるのだそうです。

だったらそのときに合わせて

自分の身の周りのものを整理し、お金もどこかに寄附をして、生まれてきたときが裸であったように身軽になって死を迎える準備をすればいいのだと思うのです。

お釈迦様は80歳で亡くなったのですが、たくさんの弟子や信者がいたにもかかわらず、死に場所は人里離れたところで迎えました。

弟子たちに、自分を追うな!と言い残し、老いた体に鞭打って死に場所に向かった。

その屍(しかばね)は河の流れに身を任せながら、小舟に浮かんでいたそうです。

お釈迦様は、今でいう孤独死だったのですが、決して一般的にいわれている孤独ではなかったのです。

お釈迦様は、肉体の死というものがわかっておられた。

肉体を離れて魂は、天界(仏界・宇宙)に行くことを知っていた。

お釈迦さまが生まれ育った金星に戻ることがわかっていたのです。

人間も同じなのです。

肉体の死とは、他の世界に行くことを意味するのです。(だから仏教では肉体の死を他界という)

人間の苦しみといわれる生老病死も死後は無くなって、自由自在心になれる世界に行くことができる、肉体という牢獄からの解放だということがわかれば、死は喜ばしいことに変わるのです。

生きること、老いること、病気になることの苦しみもすべて死への恐怖から起こるのです。

死への恐怖、不安が解消されれば、人間の不幸はなくなるのです。

家族から見捨てられる、家族から必要とされなくなる、家族から愛されなくなる

これらは、すべて死への恐怖と重なるのです。

そして自分は何者ともつながっていないという淋しさも加わってくる。

しかし人間は一人で生きているのではないのです。

孤立しているのではないのです。

人間とは、とてつもなく大きな偉大なもの(サムシンググレート=神)から分かれた分霊(わけみたま)なのです。

太陽の光のように、光はいろんなものを照らしているけれど元は一つの光から出ている。

人間はサムシンググレートであり、サムシンググレートは人間である。

私たちも肉体という器は、自分と他人というように分かれているように感じるけれども元は一つなのです。

みんな一つにつながっている(空のように)

だから私たちは決して一人切りではないのです。

孤立してるのでも孤独なものではないのです。

人間は大きな大きな、とてつもなく大きな何か(サムシンググレート)に守られている。

そして宇宙のありとあらゆるものとつながっている

そして肉体を放れたら、宇宙(神界、仏界)に還るんだ

そのことがわかれば、肉体界でたった一人になっても淋しくなんかなくなるのです。

終りよければすべて善し

とはこのことではないでしょうか?

私たちは幸せになるのではなく

元々幸せなのです。


生まれたときから

そして

死んだ後もずっと幸せの中にあるのです。



  

みんなつながっていることがわかり幸せな心境になれる素晴らしい絵本をご紹介します。



ボクの扉 ヤマカミ ヨーコ  絵本

てんしが ぼくの へやに やってきた ヤマカミ ヨーコ (電子書籍)

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自分のイメージしたものにエネルギーは注がれていきます。
自分が想像した未来は創造されていきます。
誰の心にも、素晴らしい“ 未来 ”を創りだしていくパワーがあるのです。

yokoyoko3951.wook.jp  (電子書籍)


  

 

   

2013年4月26日 (金)

幸せとはなんだろう?

  

皆さんは今、幸せを感じていますか?

そして、いったい何が幸せなんだと思っておられますか?

お金がたくさんあっても、信頼出来る友だちが周りに居ても、家族が健康で、子どもが良い子であっても、自分の心が満たされていないとやりきれない空虚感があるのです。

満たされない心とはいったい何なのだろう?

心とはいったいなんなんだろう?

どうすれば、スッキリ爽やかになれ、青空のように晴ればれとした心境になれるのだろう?

・・・・・・そうなんです。 

幸せとは目に見える状況、環境ではなく、心の状態、境地をいうのです。

ただ、お金がないと生活していけない、健康でないと働けない、人間関係がうまくいっていないと楽しくない・・・・・それも事実です、大切なことです。

そしてそうなるためには、やはり、心を整えることがもっと大切なのです。

心はすべてのすべて、心を中心に世の中は回っているからです。

自分の心の中が外に現われるからです。

私は心を整えながら、同時進行で現状を善くしてゆくことを調和波動気功法で学びました。

そしてそのことをお伝えしてゆくためにライフコンサルタントを始めることになりました。

みなさんは、相談するというのは、相談者から答やアドバイスをもらうことだと思っておられませんか?

ほとんどの人がそうだと思います。

しかし、本当の答は、ストンと腑に落ちる答は自分の中にあるのです。

私はただ、それを引き出すお手伝いをするだけです。

本当のコンサルとはそういうものだと思っています。

だがしかし、私はただ鏡になるだけではなく、いろいろな経験を積んできましたので、これらの実体験は皆さんのよき相談者になれると思っております。

ここへ来られて、スッキリ晴れやかな幸せな気持ちになっていただければ幸いです。

幸せとはそういうものなのです。



 


 
追伸

近日中に、ホームページを作成します。以前にも作ろうとしていたのですがその時には時期尚早だったのだと思います。

 

調和波動気功法

http://www.harmony-wave.jp/




  

2013年4月22日 (月)

自然とはなんとも神秘的なのです。

  

昨日、調和波動気功法の「健・美・食」 のセミナーがあって、そこで司会者のSさんが興味深い話をしてくださいました。


その内容とは・・・・

着物でさくら色を染色する場合、さくらのエキスを使うのだがそれは花びらではなく、樹の幹の方らしい。

樹の幹に傷を付け、そこから樹液が出てくる(樹液が染料となる)

しかしその樹液とは、さくらが咲く4月頃ではなく、3ヶ月も前の1月なのだそうだ。(スピーチはここまで)

私たちを楽しませてくれるピンク色の美しい花びらは、ずっと前から準備されていて文字通り   “機(樹)が熟した” ときに白い花びらにピンクの色素が染められてゆくのだろう

咲いた頃に樹液を採っても、くすんだ濃い色に変わっているのだと思う。

自然の摂理、法則は神秘的で、ただただ畏敬の念を抱くばかりだ

そして、私たちは桜の花びらが散ると ものの哀れを 感じる

自分の人生、人間の一生をほんの一瞬しか生きることのない虚しいものと捉えているからだ

それが人間を刹那的にし、ネガティブにしている原因ではないのか?
 

だが人間は、一瞬のうちに突然散ってしまう花びらではなく、永遠の幹なのです。

何回も何十何百、何千、何万回も輪廻転生(咲く散るを繰り返し)をし、樹に年輪があるように幹はたくましく太くなってゆく、屋久島の縄文杉は樹齢4000年といわれているが人間はその比ではなく永遠の生命体なのです。

すると私たちは大自然に驚愕し、畏敬の念を抱くのですが、私たち人間はもっともっと神秘的で、神性そのもの、宇宙そのものだったことに気づくのです。


私たちはいったいどこで生まれたのか?


私たちは何者なのか?

私たちはいったいどこから地球へ来たのか?

花びら(肉体)が散った(死んだ)後は、どこへ行くのか?

みなさんはこのような神秘を知りたいと思われませんか?

地球人が進化するとは、このような神秘的(真理)なことが

あきらかになるということなのです。

もうそのことがわかっていい時期(機が熟した)に来ていると思うのです。

宇宙の神秘、宇宙法則がわかる著書です。

是非、宇宙の真理にふれてください。


そして、是非、次回の調和波動気功法セミナー(5月26日(日)ムーンリバースター)にいらしてください。 happy01

 
 

無限なる癒し 于寿明 星湖舎

無限次元への誘い 于寿明 星湖舎

無限なる幸せを体得する方法 于寿明 星湖舎

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2013年4月21日 (日)

ほんとにすいません

 
  
このブログの読者のみなさん、長い間ブログをサボっていて、ほんとに申し訳ありません。

実は私の中(心の内)で、レボリューション(革命)というか、今までにない変化が起こっていましてその間は、ブログのことはほとんど忘れていたのです。

その変化とは、文章にはしにくいのですが、新しい自分に今なりつつあるのです。

 

ちょっとしたことで不安動揺していた自分

人のエネルギーの影響を受けてそれに惑わされていた自分

目の前に現われた現象、出来事にこだわっていた自分

 

そんな自分が嫌で強くなりたい、変わりたいと常に思っていたのですが

それが “なりたい自分” になりつつあるのです。

私は奇蹟とは

目に見える状況が大きな変化をすることではなく

心が大きく変わることが

本当の奇蹟だと思うのです。

今までマイナスのことだと思っていたことが実はプラスであったことがわかったとか

嫌で嫌でしかたがなかった人が、大好きになったとか

それって宝くじが3億円当たるよりも素晴らしいことだと思うのです。

だって3億円が当たっても幸せになるとは限りませんが

心の豊かさは幸せになれるからです。

私は今、その永遠の幸せを手にしようとしている。

詳しいことは述べれないのですが、そのエネルギー(幸せの)だけでもみなさんに伝わればいいなと思っています。

これから、ブログをまた再開していきますので

変わらぬご愛読をよろしくお願い申し上げます。

                       

                             グッドムーン



  




  

2013年4月12日 (金)

学校教育はこれでいいのだろうか? 3

 
 
三つの根本問題

 

それでは人間及び人類全体の根本問題とはいったいなんなのでありましょう。

それは
 

1. この肉体人間に宿っている生命、いいかえれば、肉体人間としてここにこうして現われている生命の本質というものは何なのか


2. 人間生命というものは、いったいどこからきて、どこへ行くのか

3. 地球人類がここに生活している目的はいったい何であるのか


 

この三つの大きな問題を根本にしての教育があり、人生観がなければ、地球人類の進化はいつかは止まってしまい、滅亡の淵に追いやられてしまうことは必然であると思うのです。

この重大な三つの問題をなおざりにしておいて、人間を教育しようと思っても、人類の平和を築き上げようとしても、肝心な根本の思想が確立していないのですから、善い教育ができようはずもないし、人類が真実の平和世界の軌道を進むわけにもゆかないのは理の当然なのです。

現在どこの国でも問題化している、青少年の不良化も、前述の三つの根本問題を世の大人たちが真剣に考え、その道に向かって突き進んでゆくようにしないことには、到底解決できないことであります。

 

この三つの問題は、個人的には懸命に探究している人々がおりますが、各国家が、国の教育方針としてこの問題に取り組んでいない現在は、教育機関の総体的な地位を占める、国家の認可している学校教育が、この重大な根本問題には一歩も手を触れられぬ状態になっております。

     
        「人類の未来」 五井昌久  白光出版



  

 

学校教育はこれでいいのだろうか? 2

 

 

生命の教育

 

人がこの世に生まれてきて、十五歳になり二十歳になり三十歳になり四十歳になる。

食べて着て遊んで、そして学問をして就職する。

やがて結婚をして、親となり祖父となり祖母となり死んでゆく。

人によってその生活環境はそれぞれ異なっていても、生まれてきて死んでゆくということにおいては何人たりとも変わりはない人生なのであります。

この地球世界にいったい人類は何をしにきたのでしょう。

何の目的もなく意思もなく、肉体人間という生命体が、突然に生まれ、そして、増加してきたのでしょうか。

自分自分がそれぞれ勝手な生活をして、百歳にも満たずに死んでゆく。

それで一人一人の人生は全部終了してしまう。

それだけの生活にいったい何の意義があるのでしょうか。

善いことをした、悪いことをした。

そうした一人一人の人間の行為も、死んでしまえばそれまでであって、その人自身が悔むことも喜ぶことも、死を境にしてすべて無くなってしまう、ということで、人間は真実の満足が得られるものでしょうか。

現代の世相をみていますと、幼稚園から大学まで、入試入試で親子共々追いまくられ、ただただ学校へ入れるだけで、幼年期から青年期までの一番大事な期間を、その時々の試験問題を頭で覚えこもうという、永遠の生命からみてなんの関係もない、その時ばったりの記憶力の練習で過ごしてしまっている状態です。

そして大学へ入ると、ひと先ずほっとして、何か解放感を覚えて、今まで遊べなかった分を一斉に取りかえそうとする。

破目をはずして遊びたい気分になる。

しかし期末期末のテストがあるから、その時だけはまたまた、頭にだけ積め込む勉強をはじめる。

人間にとって最も大事な問題である、人間は如何に生きねばならぬものか、ということも、人類とはいったいなんのためにこの地球世界に生まれ出たものなのか、という大切なことも、学校では一切教えてくれないのであります。

学校で教えることは、生活の技術的なことであり、生徒のほう一日も早くこのつまらない学問の縛りから脱け出たい、という気持ちで一杯なのです。

これはもちろん一般論で例外はいくらでもあることですが、一般的にみると、こういう工合いになっております。

人間はいったいなんのために学問をするのか、学問知識をつけて、よい就職をし、この世でのより高い地位を獲得する為にするのでしょうか。

それも確かに必要ではあるでしょう、しかしそれだけでよいのしょうか。

そこがはっきりしていないことが、人類が真実の平和生活をつくりあげられない、大きな原因なのであります。

人間にとっても人類全体にとっても、一番大事な問題を何も教えないで、枝葉のことばかり教えこむことより、根本問題を先ず教えて、その根本問題を中心にして、枝葉末節的な学問技芸を教えこむようにしない限りは、立派な人間はそう育まれてゆくわけはないし、従って人類が真の目的にそった生き方をしてゆけるわけでもないのです。

     


             「人類の未来」 五井昌久  白光出版





  

 

学校教育はこれでいいのだろうか? 1

   

今の学校教育はこれでいいのだろうか?

なんて、難しい評論家みたいなことを書いていますが、私は個人的に学校の先生方と接する機会があるので特にそう思うのかもしれません。

先生方だけではなく、親も子をどう導いていけばいいのかわからない

今問題になっている体罰も、生徒の自殺があってからクローズアップされたわけで、なかったら “体罰は教育に必要なもの” としてまかり通っていたのです。

みんな何が正しくて何が間違っているのかわからない

心に基軸(物差し)になるものがないから、みんなそれぞれの想念で生きているのです。

想念とは、過去世を含めた自分だけの想いの世界のことです。

境地といっていいのかもしれません。

人間には心の境地がそれぞれに違うのです。

昨日書いたブログにお釈迦様が人間を十種類(仏・菩薩・緑覚・声聞・天上・人間・阿修羅・餓鬼・地獄)に分けておられます。

だから、みんなそれぞれ違う世界に住んでいるのです。

そして、他人の心の中には、誰も入って行くことができない。

それは自分の心の中とは“聖域”であるからです。

天国であっても地獄であっても、それは他人が干渉することはできないのです。

その人間がどれだけ馬鹿でも

神さまであろうとそこに入って矯正することができない・・・・・

心の聖域は自分だけのものだからです。

そして地球界、肉体界とは、いろんな境地(十種類)にいる人たちがお互いに接し、共生しているのです。

人間は死ぬと同じ境地の人のいる場所(大きく分けて神界、霊界、幽界)に行くのだそうです。

これが仏教のいう他界です。

しかし今生では、いろんな心の世界に住んでいる人が一緒に暮らしているのです。

いろんな魂たちが玉石混交している世界

それが今の地球です。

当然、先生方にも仏(心境が)、菩薩級の人もいれば、餓鬼、地獄の人もいる。

ハレンチ先生もいれば、幽界の動物(不良)霊にに憑かれている尊敬できない先生もいる。

人格は関係なく、勉強が出来るだけで先生になった人もいるのです。

もちろん素晴らしい人格者の先生方もたくさんおられます。

それこそ玉石混交です。

だがしかし教育の仕方は、それぞれの先生方に任されている。

授業の仕方などは、チェックしている場合はありますが

担任の先生方などの

人間教育は任されているのです。

人間が育っていく上で一番大切な人間教育をそれぞれに任している

それは何故か?

それは、校長先生も教頭先生(先生だけでなく誰もわかっていない)も人間の基礎の部分を何もわかっていないからです。

「人間はなんのために生まれてきたのか?」

「人間はどこから来てどこへ行くのか?」

「人間は何を目標に生きて行けばいいのか?」

生徒たちが疑問に思っているこれらのことを誰も答えられない

3番目の

「何を目標に生きて行けばいいのか?」

と生徒が質問すれば

進学校の先生は

「そんな余計なことは考えなくてもいい、いい大学に行くことを目標にすればいいんだ」

と答えるでしょう。

それでは答にはなっていない

でもその大切な哲学、思想を

棚に上げてしまっているのです。

いい大学に入るという目的を持った学校、甲子園などスポーツで目標を持っている学校はなんとか学校組織としての “カタチ” は保っているけれど、それ以外の学校は、どうやって生徒たちを指導していけばいいのか、わからなくなっている。

いや、いい大学(偏差値の高い)に入ってもその先の目標のない子どもたちは、精気を失っています。

だからテレビCMなどで予備校は、「目標大学に入った先を考える」 と言っています。

ようやく、今のままではいけないと気づき始めたのです。

「何のために目標を持つのか?」

それは、人間が今一番考えないといけない問題だと思うのです。

これまでは、考えなくても生きてはいけた(しかしこれからは通用しない、本心が放っておかない)

でも、ただ生きて行けただけなのです。

そこには中身がなかった

空洞だったのです。

お釈迦様のおっしゃる 「空」 ではなく

迷いのいっぱい詰まった業想念(カルマ)の空(そら)です。

だから暗雲が漂っていた

真理を紐解くことで 

晴れわたった

綺麗な空になるのです。

子どもたちは真理に素直です。

素直とは素(もと)と直につながっているということです。

素(もと)とは宇宙のことです。

宇宙とは真理そのものなのです。

今こそ、真理を伝える学校教育が必要だと切に思うのです。


 

 

 

2013年4月11日 (木)

この世は波動で出来ている 2

 

・・・・・・土台、この肉体そのものが、やはり、原子、電子、微粒子と奥に入りますと、波動になってしまいますので、精神も肉体も波動である、ということができるのです。

そこが一番考えなければいけないところで、五尺何寸という確固たる物質体にみえる肉体も、常に変化変減し、波打っている波動からできているという科学の証明は、この辺で、人間の宇宙観を根本的に変えなければいけない、という時期にもはや立ち至っているということを明らかにしているのです。

釈尊が人間は顚倒夢想(てんどうむそう)している、つまり、逆立ちしているのだ、といったのは真理でありまして、肉体が人間ではなくて、霊なる人が肉体波動として、この地球界に現われている、ということなのであります。

いいかえますと、真実の人は神仏の体でありまして、宇宙の微妙な波動の世界にいて、この物質地球界を進化させるために、肉体人間という粗い波動の世界に天下ってきているのである、ということなのです。

ところが、現在の肉体人間は、肉体世界だけを実在とみていて、他の波動圏のことも、神霊の世界、人間の本体の世界のことも全く知らずに過ごしているのです。

これでは、この地球世界がこれ以上の進化を遂げることはできず、ただ単に物質文明文化を今日まで栄えさせた、ということだけで滅亡していってしまうのです。(このことは、個人の人間が真理を知らずにただ刹那的に生きてしまうことに通じる)

それでは、大宇宙を主宰している、宇宙神(心)のみ心に合致しないことになります。

宇宙神のみ心は、あらゆる波動の世界を進化させてゆくご計画なのですから、進化というのは、その波動圏に住みながら、神のみ心そのものの高い広い微妙そのものの波動圏に行き来できる心をもつようになることなので、アメーバーから種々進化して動物になり、人類にまで進化してきたこの進化を、今度は心の世界の進化にむけかえてゆく、ということで、物質の世界と心の世界とが縦横十字に大調和して、神のみ心が全き姿をそこに現わされることになるのであります。


       「人類の未来」  五井昌久 白光出版




  

  

この世は波動で出来ている 1

  

波動というのを、エネルギー、といってもいいし、気でもあるし、生命、心、魂でもいいと私は思うのです。

目に見える肉体や物質はエネルギーの粒子の粗い波動でできている

一方、目に見えない空気や電気などは、細かい粒子であり、心はもっと細かい粒子でできているのです。

その超細かい波動体に、肉体という粗い波動を纏うわけですから、エネルギーが全然違うのです。

その隙間(ギャップ)に溜まっていったのが業(カルマ)なのです。
 

「人間とは、本来、人(霊止)であり、神の子であり、神は愛そのもの(か~あ み~い)であり、完璧、完全(パーフェクト)なんだ」

「しかしそれを忘れてしまった人間は、自分を肉体人間だけだと思ってしまい、自分を不完全な者だと思ってしまっている」

「不完全な自分や他人を責め、自分と他人を違う者だと思い、壁をつくり、自分を守るために相手を攻撃し、自我欲望に走ってしまっている」

「だが、それは一時的なものであり、やがて人間は真理に目覚め、自分は何者であるかを知り、地球に生まれてきた本当の目的(天命)を知ることになる」

人間を説明するのは、本当に難しいのですが、五井先生のご著書などからわかりやすい文章を抜粋し、これからもペンを進めていきたいと思います。



  

     

人→人間→人 2


 
聖者の出現は何を意味するか?
 



人間というのは、実に複雑にできているもので、一口に人間といいますが、その心の種類は数知れないのであります。

虎とかライオンとかいいますと、その形の差も少ないし、その性格的なものもそう差異はあまりないようです。

ところが人間となりますと、姿形は他の動物と同じように、そうたいした差異はありませんが、心の相(すがた)というものには、非常に数多くの種類段階があります。

姿形だけが同じだからといって、釈尊(お釈迦様)やイエスと強盗や殺人犯人などを、同じ種類に入れてよいものでしょうか。

釈尊やイエスといわなくとも、シュバイツァー博士やヘレンケラー女史のような聖者と低劣極まる詐偽漢とが同じ種族ということができましょうか。

そこのところをよくよく考えて下さい。

同じ人間という種族の中に、これ程の大きな差異をもつものを一つにして入れてあるということは、いったいどういうことなのでしょう。

釈尊などは、人間を十種類(仏・菩薩・緑覚・声聞・天上・人間・阿修羅・餓鬼・地獄)に分けて説明していますが、私は、人間という一種族に釈尊、イエスの高さから、強盗殺人犯という低劣なものまでの、数知れぬ種類があることそのものに、私は人類が無限の進歩を遂げつつあるものであり、現在は急速にその進歩がなされようとしているのである、という証明が成り立つと思うのであります。

人類世界に、釈尊やイエスをはじめ数多くの聖者賢者が出現していることは、現在人類全般が、弱肉強食、自己保存の本能の動物的な生き方にふり廻されているように見え、人類の精神進歩はもう駄目なように思われていますが、実はそうではなく、それは人類が進歩しきっていない過程の姿であって、各聖者賢者たちのような心に必ず人類全般が成り得るのだ、ということを示しているのであります。

一人の人間が達し得た境地というものは、必ず誰も彼もが達し得る道なのあります。

それは科学の普及と同じなのですが、心の問題は、科学が普及される時間より、非常に多くの時間が必要なのです。

人間が、神性をそのまま発現して、自我欲望を超えた神のみ心を、この世界に発現した、いわゆる聖者賢者という人は、一人や二人ではなく、今日までにかなり多く存在したのでありますから、その人たちのたどってきた道や、その人たちの心のひびきが、今日の世界にひびきわたっていることは確かなことなのです。



 

 
         「人類の未来」 五井昌久 白光出版



  


    

  

人→人間→人  1

 

タイトルの 人→人間→人 なんのことかわかりませんよね(笑)。

以前にも何回か書いたことがあるのですが、実は人と人間とは違うのです。 

人とは、霊止(ひと)という意味です。

霊というのは、神様のことで神様が止まっている、宿っているという意味です。

神社が神さまの社(やしろ)、住んでいらっしゃるところという意味と同じです。

だから人とは神さまそのものということなんですね。

人は元は神界という非常に細かい波動(エネルギー)の世界にいた。

神さまだから神さまの波動にあった世界にいたのです。

神界(天国)とは、平和で調和された愛に溢れたパーフェクトな世界です。

聖書によると羊とライオンがじゃれ合っているような、今の地球とは全然違う争いごとなど一切無い素晴らしい世界なのです。

その神界の住人であった神霊が地球という波動の粗い星に天下ったのです。

つまり目に見えない細かい波動体の神霊が肉体という粗い物質波動の肉体を纏うことになったのです。


最初は、神さま=人として地球上で暮らしていたものの、しばらくすると自分が神であったことや進化した星にいたことも忘れてしまい、肉体波動の方に慣れていくようになった。

自分と他人、味方と敵、好き、嫌い、憎い、恨み、自我欲望、喜怒哀楽など・・・・・神界にいた頃にはなかった感情というもの芽生えてきた。

この感情が動物的な部分として、人(霊止)の心に植え付けられ、何回も生まれ変わり死に変り(輪廻転生)しているうちに段々と蓄積されていった。

本来の光輝いた本心を覆っている雲のようなものを、仏教では業(ごう)といい、カルマと言ったのです。

そして人は、カルマによって徐々に動物的(感情的)になっていった。

そして人は、動物(感情)と人(神)の間に位置するようになったのです。

それが人間です。

神さまの部分と動物(自我欲望)を併せ持った存在

これが今の人間(肉体人間)の姿です。

ただ、人間にも神さま(仏さま)に近い人と、とても神さまには思えない、犬畜生(言葉は悪いですが)極悪非道の人間もいるのです。

今、地球上にも私たちの周りにも

玉石混交した色んなタイプの種類の人間がたくさんいます。

そんな人たちが一緒に住んでいる。

だから私たちは人間を

神と観ればいいのか? 悪魔と観ればいいのか、わからなくなってしまうのです。

性善説も性悪説もそうして出来たのだと思うのです。

しかし真相は、人間は元は神だったのです。

神というのは、宇宙の創造主のことです。

私たちはあらゆるものを創造(クリエート)出来る素晴らしい存在だったのです。

その神が自らが進化するために

神の姿を地球上に現わすために、天下った(神界から降りて来た)

いったいなのために?

それは

細かい波動を粗い波動の場所に現わすことでより宇宙が進化向上するからです。

私たち人間の目的とは宇宙の目的と同じです。

進化向上です。

そのために私たち人間は魂を成長させるために地球上に生まれてきたのです。


だから


人→人間→人 なのです。

これから私たちは人間から人になろうとしている。

元の姿に戻ろうとしている

それもあらゆる魂の修行を積んで・・・

以前地球上に降りて来たよりもずっと成長して・・・・
 



「今、悪い人に見えるのは、泥(業)をたくさん被っているだけなんだ」


このことがわかると

どんな人を見ても

神さまに見えてくるから不思議です(笑)。

ただ人間には段階がある

業、カルマを被っている状態によっていくつかの魂の状態に分かれるのです。

それをお釈迦様はわかりやすく説いてくださっています。

しかし、業という泥を被らなくなればみんな同じなのです。

みんな人間は神の子

人(霊止)なのです。

地球がまったく新しい進化した星になるというのは

人間が人(霊止)であったことを自覚したときなのです。

   

2013年4月 9日 (火)

みなさんありがとうございます。

     
  

ブログ読者、友人、知人のみなさ~ん、今日(4月9日)の私の誕生日にたくさんの人にメッセージのお祝いをいただきありがとうございました。

いくつになっても(55歳)誕生日は嬉しいものです。わーい(嬉しい顔)

調和波動気功法をやっているお陰で、この間はあるおじさんから

「君はもう40歳になったのか?」

と聞かれたり

スポーツジムでは、ある測定機で10代の記録を出したり、年々若返っているようです。


これからは、エネルギーがフレッシュになって生命(魂)が活き活きするような情報も流していこうと思っています。


これからも、どうぞよろしくお願いします。わーい(嬉しい顔)

  新しい調和波動気功法のホームページが出来ました。

 是非、覗いてみてください。

   http://www.harmony-wave.jp/



  

想念と波動 2

  
普通の人たちは、肉眼や肉耳で見たり聞いたりしたことだけが、本当のことだと思っていますが、この世界のひびき(波動)の中で、肉眼や肉の耳で、見たり聞いたりすることは、ほんの僅かなものでしかないのです。

ちなみに、肉眼で見える、いわゆる可視光線というものは、どの程度の波動であるかというと、390ミリミクロンから780ミリミクロンの間の波長という、今の科学でわかっている波動の種類、波長のうちの、取るにも足りぬ程の僅かな部分なのであります。

ですから普通の人は、この世界を流れている波動の取るにも足りぬ僅かな部分を見たり聞いたりして、他の大半の波動の流れを “無い” と簡単に片づけてしまっているのです。

地球の科学は、現在非常に進んでいまして、ラジオやテレビのように空間を流れている波動を利用しまして、遠くの状態を、眼前に再現することができるようになってきていますし、眼にも耳にも触れぬ種々な波動を捉えて、地球世界の生活を、より便利に、より価値あるものにしようとしています。

しかしその反面、この宇宙を流れている波動の利用の仕方一つで、他人の想念を、自分の思う通りの想念に変化せしめることのできる方法が、現在ソ連の科学陣によって考えられている、ということで、この方法が完成して悪用されたら、ソ連の思い通りに世界人類が動いていってしまうかも知れないのです。

それ程、この宇宙を流れている波動というものは、利用価値の広く高いものなのであります。

皆さんの一瞬一瞬の想念というものも、この宇宙をそのまま波動となって流れているのでありまして、同じような波動は次第に大きく一つになって、その想念波動を出した人にも、同じ想念波動をもつ各国の人々にも、感応してゆくのです。

それは恰も、電気に感電するのと同じ原理なのですが、人々にはわからないだけなのです。

電流は物質的な流れであり、想念波動の流れは精神的なものですが、いずれも法則的には等しいものなのです。

遠くにいる人の想念が、自然とうつってきたり、噂をしているとその人が現われたりすることはよくあることです。

それは想念波動の流れの交流によるのです。

雰囲気などというのも、すべてその人やその場の想念波動を感じることをいうのです。

霊能的な特殊な人は、普通人の感じない想いを感じたり、遠隔地の人の様相がわかったり、人の心の中がわかったりするのですが、それはどういうことかと申しますと、普通の人は、この体というのは、科学的にいうと、電流が流れている磁場のようなもので、電流を想念の流れと置きかえて考えてみますと、普通の人は、この磁場が、3重の円くらいの広さだとして、この人の想念の流れは3重の円をぐるぐる廻わりしながら、他の磁場へ伝わってゆくのに、霊能的な人の磁場は、5重にも8重にも大きく広がっていまして、この人の想念の流れは、普通人の想念の流れより、急速に他の磁場に、自己の想念波動を伝えるのであります。

そして反対に、他の磁場の想念波動をも、急速にキャッチするのであります。

そこで、普通人のまだわからぬことを、いち早く知ったり、世の中の出来事や、人の運命などを未然に知ったりするのです。

従って他の人の想念波動の影響も受けやすいということになるのであります。

                                 つづく

         
          「人類の未来」 五井昌久 白光出版





  
  

 

想念と波動 1

  
私たちは、いつも何かを想っている。

しかし、この想いとはどこからやって来るのか?

どこから湧いて来るのか?

そして、想いとは、相手の心と書く

だから自分が今、想っていることとは、自分の本心が思っていることだと思い込んでいるが、誰か他の人の想いや地球上の集合意識などが脳裡に入り込んでいるのです。

例えばテレビの受信器は、目に見えない電波をキャッチして、画像や音声をテレビジョンに映し出している。

それと同じように目にみえない想波は電波と同じように私たちの脳裏にも魂にも入って来ているのです。

プラスの想念もマイナスの想念も入ってくる。

だがしかし、地球上の人類の想念は今、かなりたくさんの人がマイナス想念になっているから、無防備(無意識)でいるといつの間(魔)にかネガティブになってしまうのです。

自分で自分の波動調整(エネルギー調整)をしていかないと

人の想念や幽界にさ迷っている霊魂の影響を受けて、魔が差してとんでもない行動をとったり、言ったりしてしまうのです。(だから意識的に生きなければならないのです)

自分が自分でなくなるんですね。

人間はもっと目にみえない世界に意識を向けて、目にみえるものとは、目にみえないものの影であることを知って

この世は99.999%は目にみえないものであり、後の0.00001%が見えるものなのです。


それくらい目にみえない世界の影響が大きいのです。

なのに私たちは目に見えるものしか実在していないと思っている。

見えないものは無いんだと無視をしている、避けて通っている

だから、わからないことだらけなのです。

不思議なことだらけなのです。

見えることだけにしか意識がいっていないから

0.000001%のことしかわからない

わからないから不安になる

正しい判断も出来ないし、安心して生きていけないのです。

「オレは世の中のことも宇宙のこともだいたいはわかっているんだ」

と言う人も

宇宙規模でいえば

サハラ砂漠の無数にある砂の一粒もわかっていないのです。(人間はもっと謙虚になるべきなのです)

反対に

「宇宙のことなんてわかるはずはないではないか」

とおっしゃるかもしれませんが

人間は宇宙に意識を合わせて

そこから宇宙の叡智を得ることができるのです。

お釈迦様は、肉体というちっぽけな意識を捨てて

宇宙意識になりなさい(空になりなさい)と説かれたのです。

そうでないと人間は、肉体という小さな枠の中で

牢獄の中で生きていかなければならない

生命生き生きと生きていけない

昨日は、お釈迦様のお誕生日(4月8日)でした。

お釈迦様は、地球上の人間に

「早く宇宙(神)意識になりなさい」

そして

「幸せになりなさい」

と言っておられように思うのです。

今日は、人間の想念がどうなっているのか、波動とはなにかをわかりやすく説明してくださっている五井先生の文章をご紹介します。

宇宙のしくみとは単純で簡単なのです。

しくみがわかれば、自分がどうすればいいのかがみえて来るのです。


  

 

2013年4月 7日 (日)

親は海になれ!


  
私が人間愛で一番感動するのは

自分のことは置いておいて(決して犠牲にはなっていない)相手の人が幸せになるには

どうしたらいいのか?

そのためには自分はどうあるべきかを一生懸命に考えて、それを実行している姿を見た

ときなのです。

以前書いた日記で

「トンビ」 というドラマがそうだった(愛を描いていた)と述べました。

「トンビ」というのは、鷹と言われた息子とトンビと言われた父が旅をするという物語りな

のですが、あらすじを簡単に申しますと

父母、息子の三人の家族にある日最大の試練がやってきた、父の職場の運送屋に遊

びに来ていた幼い男児が職場を走り回ってそこにあった荷物に触れ頭の上に落ちてき

た、瞬間母は息子をかばい、その犠牲になって母は死んでしまった。

父はそのことを隠し、仕事をしながら子育てをしていった。

父子の生活は大変で、そこには周囲の人たちの協力がなければ出来るものではなか

った。

息子、旭は反抗期を迎え

父はどう育てていけばいいのかわからず、不器用ながらも一生懸命に体ごと息子にぶ

つかっていった。

幸いにも息子には、父だけではなく自分を愛してくれるたくさんの人に囲まれ、ある時は、

父に反発しつつも真直ぐに育っていった。

父は、お寺の和尚さんに

「お前は海になれ」

「海になって旭(むすこ)に淋しい思いをさせないようにしろ!」

「雪が降って来てもお前はそれを溶かしてやるんだ」

と言われたことを胸に刻み

そのことを守り通してきた


月日が流れ、旭(あきら)が人の親になって父の元に帰ってきた。

父は

「偉そうに子育てをしようとするからいけないんだ」

「親なんて子どもよりもちょっとだけ長く生きているだけなんだ」

「自信を持っていうが子育てなんて失敗の連続だ」

「だけどよ、旭」

「一つだけ親がどうしても子にしてやらなければいけないことがあるんだ、それは子ども

に淋しい思いをさせないってことなんだ」

「淋しいっていうのは、雪みたいにチロチロチロチロ降り積もって、いつの間にか心を

ガチガチにするんだってよ」

「だから親は海にならないといけねえ、海になって笑ってなきゃいけないんだ」

「海には雪は積もらねえから・・・・って和尚が言ってた」


「オレにそれが出来ていたかどうかは別としてよ」


しばらくして旭の口が開いた。



「オレはね、自分を不幸なんて思ったことなんて一度もなかったんだよ」

「いつも普通に温かかったから・・・・」

「だから親父は、オレの海だったんだと思うよ」・・・・・・・

「ありがとうお父さん」


ここで、ドラマは終わるのですが

もうダメですね(笑)

涙、涙です。

大切なのは、立派な親になるのではなく

親とはどうあるべきものなのか?を考えて

親になろうと努力することだと思うのです。

そのためには、自分の利害損得を捨てなければならない

自分が犠牲になるのではなく

自分も生かしながら

人に尽してゆく

それが出来るのが人間です。

だから

「人間は素晴らしい!」 と思うのです。

    

人類の未来 2

   

・ 生命とはいったい何なのか、生命とはいったいどこから来てのであるのか、人類の指導者たちが、謙虚な心になって、まずこの根本の問題にたち向かい、この解明をしながらの世界政策でなくては、とても人類世界の平和は望めるものではありません。

生命が肉体を去れば一人の人間は肉体の死を遂げます。人類全体から生命が去れば、肉体人類は直ちに死滅します。こんなわかりきった事実を、人類は実は、はっきり認識していないのです。

認識がはっきりしていれば、なぜ最大の関心を、肉体界を去った生命そのものに向けようとはしないのでしょうか。

一人の生命が去るということは、やがて今現存する人類のすべての生命が、肉体を去ってしまうということであります。

30数億(今は71億)の今この地球上にある肉体人間は、百余年の間には、すべて死骸となり、それらの生命はどこかへ立ち去ってしまうのです。

このような最も重大なことには、さして関心も持たず、ただ単に今現われている肉体世界の幸不幸、利害損得だけに重大関心を向けているこの肉体人間という者を、皆さんはおかしな者である、とは思われませんか?

百余年後には、今生存しているあなた方のすべてが、この肉体世界にはいなくなってしまうのです。

たかだか百余年間の否平均7、80年間の、幸不幸、利害損得が、いったいなんだというのでしょう。

真実の問題は、実はその先にあるのであり、その生存期間中の内面生活にあるのだということを指導者も大衆も殆ど知らないのであります。

生命こそ真実の人間であり、生命こそ真の存在者である、と私ははっきり言明します。

そうした生命の行方を一向に探究しようとせず、肉体の死によって、その個人の生命も消滅し去ったというような浅薄な考え方で、世界に真実の平和を築こうと思ったり、人類の真理を表わそうとしたとて、でき得るはずのないことは明々白々であります。

ですから私は、生命の探求さえしないで、世界人類の政策を考えているような人々の寄り合いである現陣容では、地球世界は滅亡するより仕方がないと思うのです。

 

 

・ 大生命(神)なくして、小生命(人間)の存在はありません。そんなわかりきった原理がわからなくなったところから、人類世界の悲劇は始まったのです。 

あなた方一人一人の現在の運命も、世界人類の現在の運命も、すべて、人間の想念行為が、神を離れたことから起こっているのです。

それを無明から生まれた業(カルマ)というのです。

この業想念の働きは、人間自身が、人間とは肉体だ、人間とは自我欲望があるのが当り前なのだ、と思っている以上は、消え去ることなく循環してゆくものなのであります。





  
        
            
「人類の未来」 五井昌久 白光出版





  

人類の未来 1

  

最近の私は、感受性がかなり強くなっているようなのです。

テレビのドラマを観ては感動で涙し、息子が就活で内定を頂いたと聞けば周りの人への感謝で涙し、歳のせいか涙腺がかなり弱くなったようです。

しかしそれだけではなく、真理にも素直になって五井先生のご著書を読み返しても以前読んだはずなのにたくさんの新しい発見に自分でも驚いているのです。

ビビッーというよりも、心の琴線にふれて内から沁み出してくるような

「こんな凄いことが書いてあったんだなぁ」

「これは絶対に伝えたい」

それはもう書かずにはいられないほどの衝動にかられます。

私がブログを書こうと思うのは、内(本心)からの強い突き上げのあるときなのです。

出来るだけ自分の言葉、文章で伝えたい

しかし、本で読んだ感動は、私なりにアレンジしてしまうと違うものになってしまうので、それはそのまま載せた方がいいと思うのです。

最近の私は、真理(真実、本当のこと)をどうやってわかりやすくみなさんにお伝えしようかということで頭がいっぱいになっているのですが、それはみなさんが真理を求めておられるのを感じるからなのです。

「自分は何者なのか?」

「人間とはどういうものなのか?」

「自分はどこから来て、死んだらどこへ行くのか?」

「これから日本は、世界はどう変わってゆくのか?」

「自分の根幹をどこに置いて、なにを目指して(目標)いけばいいのか?」

「なぜ、病気になるのか?」

「業(カルマ)とはなんなのか?」

「目的意識はなぜ持たなければならないのか?」

「勉強はなんのためにするのか?」

「神様は本当にいるのか?」

「頭脳をかけめぐるこの想念とかいったいどこから来るのか?」

「前世はあるのか?」・・・・・・・・・・・・・・・・・

神秘的なことも含めてたくさんの疑問があるのに

学校でも教えてくれない、先生も知らない、もちろん親も知らない

これだけインターネット(電脳世界)が発達してどんな情報でも入ってくるのに、真理に対してはほとんど情報がない、あったとしても胡散臭い(笑)。

本当なのか、嘘なのか、信憑性に疑問が残るのです。

私が書いていることは、みなさんすべてが正しいとは思っていないでしょうけど、どこか魅かれるところがある。

ほんとうのような気がする。

そんなところではないでしょうか?

私はこれから私がビンビンに響いたこと、体験したこと、本を読んで感動したことなどを、このブログにぶつけてゆきたいと思っています。

私が響いたことは、みなさんにもきっと少なからず共鳴することだと思うからです。

では、今日は「人類の未来」 五井昌久著の本から抜粋します。


  
 

2013年4月 5日 (金)

余計なことを思わなければ幸せになれる

  

五井先生のお言葉に

「悟るって難しいことじゃない、余計なことを思わなければいいんだ」

とあるのですが、ほんとうにその通りだと思うのです。

赤ちゃんが無邪気で無垢で、光輝いて、かわいいのは

なにも余計なことを考えていないからです。

子どもがかわいい時期から、生意気でかわいさがなくなってくるのは

子どもが自分でいろんなことを考え始める時期からです。

赤ちゃんや幼い頃は光はそんなに強くない代わりに、業(過去世から積もり積もった想念の垢のようなもの)も少ししか出ていない。

しかし自分で物事を考えられるような年頃になってくると、過去世からのいろんな想念も加わって光輝いていた心に垢が付いてくるのです。(心に垢がついたものを魂という)

生意気になるのはこの頃からです。

心とは本心のことで、本心は一切の汚れもないのです。

心に垢が付くと魂になります。

だから 「魂を磨け!」 が正しいのであって

「心を磨け!」 というのは違うというのがわかります。

 

ちょっと哲学的になりますが

私たちはこの魂を磨くために生まれてきたのです。

前世よりも今生の方が魂が浄まった状態

魂が磨かれて

心がスッキリ爽やかな状態が人間がほんとうに目指すことなのです。

ところで

私たち人間が一番幸せだった年頃とはいつだったと思われますか?

それは10歳前後なのだそうです。(個人差はありますが)

光も強く、そして余計なことを考え始める直前が10歳なのかもしれませんね。

幸せとは自分を取り巻く環境のことではないのです。

心の状態をいいます。

余計なことを思わず

ただ本心の赴くままに

直観だけで生きている

生命が活き活き輝いている心の状態

それが本来の人間の姿なのです。

人間が幸せになるためにはどうしたらいいか?

お釈迦さまやキリストや老子は同じことをおっしゃっています。

「空になれ、空になって頭を空っぽにしろ」 (お釈迦様)

「幼子のようになりなさい」 (イエス・キリスト)

「無為になせ」 (老子)

最後の老子さまの「無為になせ」 は何々のためにとか計算してしようとするな という意味です。

しかし私たち人間はこのすべてと逆のことをしている(笑)

余計なことばかりを考えている

どうでもいいことをどうのこうのと思案している

心の中にいつもなにかにひっかかっているものがある

心ががんじがらめに縛られている


だから、いつもモヤモヤしている
 
だからいつまでたっても幸せになれない

客観的に人を観ていると

「ああこの人は随分余計なことを考えているな」

「自分の想念で自分で自分を苦しめているな」

という人がたくさん居ます。

苦しいのは、しんどいのは、幸せでないのは

目に見える状況ではなく

魂の状態なのです。

人間は肉体ではなく

心がすべてのすべてだから(心が主で肉体は従)

心が自由自在でないと

解放されていないと

心がすっきりと晴れていないと

何をやっても満たされないのです。

心がすっきり晴れるとは、何も思わない、余計なことが何も浮かんでこない状態です。
 

総理大臣になろうと大統領になろうと大会社の社長になろうと大富豪になろうと・・・・この世的にどんなものを手に入れようと、心がすっきりしていないと絶対に楽しくないのです。


幸せ感は得られないのです。

 

何のとらわれもない

ひっかかるものがない

ひっかかってきても

すぐに放つことができる

それが本当の幸せです。

ひっかかってくるものをすぐに放てるのが、幸せになるためのメソッド(方法)なのです。

私たちは幸せになるために生まれてきた

神さまは人間を幸せにしようとなさっている

そのためには人間から神さまのみ心に飛びこんでいけばいい

神さま(宇宙)に波長に合わせればいい

宇宙と一体になればいい

宇宙意識になればいい

そのためには肉体意識を捨てるのです。

なにかを捨てなければなにかを得ることは出来ない

今こそ、肉体意識を捨てて

宇宙(神)意識へ移行するときなのです。

私たちは起きているときにほとんどが

肉体に意識を置いている

肉体という物質の限られた3次元だけに意識を置いている

だから殻を破れない

苦しみや悲しみや妬みや嫉妬や、感情の世界から抜け出せないのです。

感情をつかんでいるうちは幸せになれない

感情を超えないと安心立命した世界はないのです。

そのためには意識を変えるしかない

意識を変えるために

宗教があった

宇宙意識になるために宗教があった

宗教とは

宇宙を示す教えという意味なのです。

3次元意識から4次元、多次元意識になるということです。

お釈迦さまやキリストは、次元を上げないと意識を上げないと

苦しみからは抜け出せないと説いた

今のままの意識ではダメだと説いた

3次元(意識が肉体界だけ)にいるから苦しいのです。

ほんとうは宇宙に意識が合わせられるのに

意識が肉体のままでいるからしんどいのです。

日本の宗教では宇宙意識になるために

法然さん、親鸞さんが

南無阿弥陀仏を唱えた

日蓮さんが

南無妙法蓮華経という念仏を唱えることを伝えて

たくさんの人々を救った

南無阿弥陀仏とは、仏界にいる悟った仏さまと一体にならしめたまえということです。

意識を仏界、神界(宇宙)に置くことで意識という次元を上昇させたのです。

宇宙には、病気もない、死もない、老いもない、貧困もない、悲しみ、苦しみ、妬み、嫉妬、人間界にある感情などは一切無いのです。

今こそ人間は宇宙意識になることが大切なのです。(宇宙に本心がある)

余計なことを考えず

宇宙に意識を合わせることが大切なのです。

そのためには祈りが必要です。

宇宙と一体となるための

宇宙に飛びこんでゆくための

一体となれば、宇宙意識が肉体意識へと入ってくる

すると生きてゆくために必要なすべての情報が

宇宙から流れ入ってくるのです。

それが悟ったという状態です。

心(本心)と肉体の吾が一体となった状態

そこには、余計なことを考え、思うというものは一切ないのです。

今、私たちは肉体だけに意識を置いている

宇宙への意識は0(ゼロ)です。
 

それを少しずつシフトしていけばいい

肉体を90%

宇宙を10%

肉体を80%

宇宙を20%

肉体を50%

宇宙意識を50%

肉体を20%

宇宙を意識を80%

宇宙にシフトをすればするほど楽になってゆく

余計なことを考えなくなる

宇宙からの無限のエネルギー、智慧が入ってくる

頭が空っぽになって、そこに宇宙の叡智が入ってくる

お釈迦様のおっしゃる

空とは、頭をただ空っぽにするのではなく

そこに宇宙の叡智でいっぱいにするということなのです。

一休さんの素晴らしい智慧、直観は、宇宙の智慧、叡智のことだったのです。

宇宙と共鳴する一番エネルギーの強い言霊

それが

世界平和の祈りなのです。

 

世界人類が平和でありますように

May peace prevail on earth.




   



  

 

2013年4月 3日 (水)

信頼出来る人とは?

 
   
インターネットの発展によって人とのつながりが多くはなってはいるのですが、その分一人の人に対しての誠意が希薄になってきているように思うのです。

先日、日経新聞にマナーについて記事が載っていました。

Aさんという人が就職のことでBさんという人にお世話(推薦をしてもらった、口を利いてもらった)になったのだそうです。

しかし、Aさんは紹介された会社には就職出来ず、別の会社に勤めることになった。

にもかかわらずAさんは菓子折りを持ってBさん宅を訪問し

「その節はお世話になりました。ご紹介いただいた○社へは採用されませんでしたが、お陰さまで別のところに決まりました。お手数おかけしました、ありがとうございました。」

と言ったそうです。

BさんはAさんの言動に感動し

「この人は信頼出来る人だ」

と思ったのだそうです。

Aさんの人柄やBさんの温かくなった気持ちを想像し、読んでいる私も幸せな気持ちになりました。

ほとんどの人は無事紹介してもらったところに決まればお礼に行こうと思うのでしょうが、ダメだった場合はかなりキチンとした人でも電話1本で済まそうとすると思うのです。

それを自分の足を運んで、相手の人の顔を見て誠意を伝える。

大切なことは

メールよりも電話

電話よりも実際に会うことが

相手には気持ちは伝わるのです。

Aさんは、Bさんが紹介してくれることに対して紹介先の会社に働きかけてくれたこと、自分を信頼してリスクを背負って引き受けてくれたこと

つまり相手の気持ちを慮っていたから余計に

「メールや電話では済まされない」

と思ったのだと思うのです。

Aさんの誠意はBさんに伝わり、そこに信頼関係が生まれました。

どんな時代になってもこのような誠意(マナー)は大切だと思うのです。

今日、東京で就職活動をしている息子から

「最終面接で内定をもらったよ」

という嬉しい連絡がありました。

親である私のなんのコネもなく、自分の力でよく頑張ったと思います。

しかし、その影では息子の先輩達の協力があったりだとか、友だちの応援、そして就活に悩む相談に乗ってくれた私の後輩(Cさん)のお陰もあるのです。

その後輩は、大手の人材派遣会社の人事部の人だったのですが、相談に乗ってくれている間に息子を気に入ってくれて

「よかったら自分の会社で働いてみないか?」 と誘ってくれたのです。

息子は

「お父さんの後輩の人だからそう言ってくれたんだよ」と言っていましたが

内心は嬉しかったようです。

 

「お陰さまで」

っていい言葉ですよね。

善い事があったのは、決して自分だけの努力や力ではない。

自分の周りの人たちや目に見えない力(サムシング・グレート)が働いて、その力が陰になってくれて、表面(現実)に現われたのです。


「お陰さまで」

「ありがとうございます」

という言葉は自然と出てくるのです。


「まだ受けたいところがあるから」

という息子の就職活動はまだ終わっていないようなのですが

本決まりになったら

「Cさんにちゃんと報告しろよ」

と言おうと思っています。

本当の誠意のある人間であって欲しいと思うのです。



  

 

  

2013年4月 1日 (月)

親は子に寂しい想いをさせてはいけない

   
 

先々週に終わったテレビ番組で「とんび」というドラマがありました。

妻がずっと観ていて

「すっごく感動するよ、お父さんも観てみたら」

というので一緒に観はじめたのですが

ほんとにそうなのです。何度録画を観直しても涙があふれてくるのです。

なにが感動するのかといえば、親の愛、人間愛です。

お父さん役の内野聖陽さんの人柄かもしれませんが温かいエネルギーが伝わってくるのです。(つくづくドラマはキャストだなと思います)

物語の内容は割愛しますが、最終回で内野さんが旭(あきら)という一人息子に語った言葉が、最高に感動しました。

 

親は、子よりも偉いものでもなんでもない

ただ子よりも先に生まれてきただけなんだ

子育てをしようなんて思わなくていい

俺の子育てなんて間違ってばかりのことをやってきた

だけどありがたいことに子どもは自分の力で立派に育ってくれる

お前は自分の力で育ったんだ


お父さん役の内野さんである「やっさん」はそう言っていました。

ほんとその通りだと思うのです。

私も息子に対して子育ては失敗ばかりをしていたと思うのです。

しかし、息子は私の知らないところでいろんな経験をして

しっかりと育ってくれています。

子に影響を与える期間というのは、限られた極短い時間だと思うのです。

その短い時間の間に

親は子になにをしてあげればいいのか?

「やっさん」 はそれを教えてくれたのです。

「やっさん」の愛は、親子愛だけでなく

人類愛に通じると思うのです。

私がそう感じた「やっさん」の台詞をご紹介します。

「やっさん」が子育てに悩む息子あきらに話す言葉です。


 

「一つだけ親がどうしても子にしてやらなければいけないことがあるんだ、それは子どもに淋しい思いをさせないってことなんだ」

「淋しいっていうのは、雪みたいにチロチロチロチロ降り積もって、いつの間にか心をガチガチにするんだってよ」

「だから親は海にならないといけねえ、海になって笑ってなきゃいけないんだ」

「海には雪は積もらねえから・・・・」

 

 


追伸

文章だけではあのドラマの感動は伝えられないのが残念なのですが、心が寂しさでガチガチになった人は心が固まったままで凍ったままで人生を歩いていけなければならないのです。

また別の番組で、小さい頃にお母さんに愛されていないと感じたまま大人になった女優が出演していました。

お母さんは有名な作家で忙しくて、子どものことをかまってやれなかった。

褒めてもらおうとテストでとった100点をみせても、お母さんが喜んでくれそうなプレゼントをしても冷たく反応される。

しかし母は決して娘を愛していなかったわけではなく、影では見守っていたのです。

応援もしてくれていた、もらったプレゼントも大切にしていた。

ただそれが娘には通じていなかった。

心に雪が積もった後でそのことを知っても遅いのです。

娘は後でそのことを知ったが冷え切った心を溶かしてくれる親はもういない(亡くなっている)。

だから自分で自分を温めるしかないのです。

人間の不幸って自分を温めてくれるものがないこと、温めてくれるのが何であるかを知らないことだと思うのです。

人間のほんとうの親は、肉体界の親ではありません。(肉体の親は仮の親です)

肉体界では親であっても

魂(心)の親、本当の親は、守護霊守護神なのです。

だから守護霊守護神のことを知れば、肉体の親への執着はなくなります。

親への感謝の気持ちはあっても恩は感じても

親から 「愛してもらいたい」 「温めてもらいたい」 という気持ちは薄れてくるのです。

しかしそのことがわかる前は

やっぱり海になってくれる人が必要なのです。

親は、子になにが出来るか?

それは、淋しい想いをさせない

心を凍らせないように

冷えないように

目を離さず観ていることです。

そして

言葉はいらない

抱きしめてあげればいいと思うのです。

人間は愛されていることがわかれば、それだけでたくましく生きていけるのです。

 

 

 

 

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