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2013年3月28日 (木)

人間が嫌いになりそうになったときに読む文章とは?

  
     
私は基本的に人間が好きなのだと思う。

しかし、人から予想もされないようなマイナスの言葉を吐かれたり

「この人はいい人だ」 と思っている人から思ってもみない信じられないようなことを言われたりしたら

やっぱり落ち込むのです。

人間不信、そしてその人を批判しそうになるのです。

人に期待をしてはいけない

人の感情に振り回されてはいけない・・・・

周りの人は、どんな人でもいつかは消えてゆく

目にみえるものは、人でも物でもすべては、消えてゆく姿なのです。

実体のないものなのです。

あるのは、実在するのは

自分の心と神(サムシング・グレート)しかないのです。

私たちは感情で生きてしまっている

美しい、かわいい、好きだ、嫌いだ、嬉しい、悲しい、苦しい、悔しい、楽しい、腹が立つ・・・・・・そんな上辺のことばかりに振り回されて生きているのです。

しかしそれらのものは時間が経てばいつの間にか自分の心から消えているのがわかります。

消えてゆくものなのに

まぼろしなのに

どうしてそれらを追いかけるのか?

感情(まぼろし)を追いかけているうちは絶対に幸せにはならない

人を気にしていては

心の安住はないのです。

幸せになるためには、人とはどうやって接していけばいいのだろう?

感情に振り回されないようにするにはどうしたらいいのだろう?

それには、他人(外)を見るのでなく

心を鎮めて

自分の中の神をみるしかないのです。

そこにしか本物はないからです。

ここで私が人間関係で落ち込んだときにいつもひも解いて読む2つの文章をご紹介します。

人を嫌いにならずに愛しつづけるにはどうしたらいいか?

 

それは、自分が強くなるしかないのです。

強くなるには、自分の本心(神)に出会わなくては

強くなれないのです。

なぜならば、本当の自分(神)は強く、たくましいからです。

  
 
 

・ 正岡子規は 「さとりとは、いかなる場合にも平気で死ぬことかと思っていたのは、まちがいで、さとりとは、いかなる場合にも平気で生きていることであった」 といっている。

全くその通りであって、完全に生をまっとうすることによって、はじめて死をもまっとう出来得るものである。

生を逃避することによって、死への恐怖を拭い去ることは不可能である。

生への恐怖を乗り越えることによって、死への不安はまったく無くなる。

生と死は別なものではなく全く一つのものである。


  

  

・ 私は釈尊の次の言葉が好きである。

「沈黙しているものも非難され、多くを語るのも非難され、少しを語るのも非難される。世に非難されない者はいない」

この世に生ある限り、何をしても人は非難の目、嫉妬の目をもって他人を見つづけるのである。 人の目を気にして生きていたならば、自分の身が持たない。天の目を気にして生きてゆくことだ。



          「日々の指針」  西園寺昌美 白光出版


  




  

 

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