« 2013年2月 | トップページ | 2013年4月 »

2013年3月28日 (木)

人間が嫌いになりそうになったときに読む文章とは?

  
     
私は基本的に人間が好きなのだと思う。

しかし、人から予想もされないようなマイナスの言葉を吐かれたり

「この人はいい人だ」 と思っている人から思ってもみない信じられないようなことを言われたりしたら

やっぱり落ち込むのです。

人間不信、そしてその人を批判しそうになるのです。

人に期待をしてはいけない

人の感情に振り回されてはいけない・・・・

周りの人は、どんな人でもいつかは消えてゆく

目にみえるものは、人でも物でもすべては、消えてゆく姿なのです。

実体のないものなのです。

あるのは、実在するのは

自分の心と神(サムシング・グレート)しかないのです。

私たちは感情で生きてしまっている

美しい、かわいい、好きだ、嫌いだ、嬉しい、悲しい、苦しい、悔しい、楽しい、腹が立つ・・・・・・そんな上辺のことばかりに振り回されて生きているのです。

しかしそれらのものは時間が経てばいつの間にか自分の心から消えているのがわかります。

消えてゆくものなのに

まぼろしなのに

どうしてそれらを追いかけるのか?

感情(まぼろし)を追いかけているうちは絶対に幸せにはならない

人を気にしていては

心の安住はないのです。

幸せになるためには、人とはどうやって接していけばいいのだろう?

感情に振り回されないようにするにはどうしたらいいのだろう?

それには、他人(外)を見るのでなく

心を鎮めて

自分の中の神をみるしかないのです。

そこにしか本物はないからです。

ここで私が人間関係で落ち込んだときにいつもひも解いて読む2つの文章をご紹介します。

人を嫌いにならずに愛しつづけるにはどうしたらいいか?

 

それは、自分が強くなるしかないのです。

強くなるには、自分の本心(神)に出会わなくては

強くなれないのです。

なぜならば、本当の自分(神)は強く、たくましいからです。

  
 
 

・ 正岡子規は 「さとりとは、いかなる場合にも平気で死ぬことかと思っていたのは、まちがいで、さとりとは、いかなる場合にも平気で生きていることであった」 といっている。

全くその通りであって、完全に生をまっとうすることによって、はじめて死をもまっとう出来得るものである。

生を逃避することによって、死への恐怖を拭い去ることは不可能である。

生への恐怖を乗り越えることによって、死への不安はまったく無くなる。

生と死は別なものではなく全く一つのものである。


  

  

・ 私は釈尊の次の言葉が好きである。

「沈黙しているものも非難され、多くを語るのも非難され、少しを語るのも非難される。世に非難されない者はいない」

この世に生ある限り、何をしても人は非難の目、嫉妬の目をもって他人を見つづけるのである。 人の目を気にして生きていたならば、自分の身が持たない。天の目を気にして生きてゆくことだ。



          「日々の指針」  西園寺昌美 白光出版


  




  

 

2013年3月27日 (水)

若人へ、老年へ 2

  
 

1. りりしき若人よ、、天にはばたけ。 大空に舞い上がれ。

一心に天の声を聞け。 親の言うことにも、先生の言うことにも、大人の言うことにも、一切耳を傾けるな。 みんな異口同音に自分に都合のよいように、学校に都合がよいように、社会に都合がよいようにしか語らないからだ。

親は子供を親の都合のよいように育てようとする。 よい学校、よい社会、果たしてそれが本当に子供の為なのか、まことにもって疑わしい。

ましてや子供が大いなる志を立て、親に反する道を歩もうとするならば、親は逆上し、裏切られたと勘違いし、嘆き悲しむ始末である。

全くナンセンスな話である。

若人よ、天の声を聞け、直感力を養い、神の真理を現わしてゆけ。だが親の恩は決して忘れるな。
 

  

2. 若者達の向上心のプロセスとして、スターのような存在に誰でもが憧れる。人々の心を一身に集め、仰々しく振舞い、花々しく目立つことは、若者の心を躍らせる。

だが、最も目立たない平凡なこと、当り前のことの中に光った人達がいることを、あなたは決して見逃してはならない。 本当に多くの人から尊敬され、愛され、慕われている人というのは、花々しいスターの座にはいないものだ。

いつも一見貧しく汚れた中に、つまらない小さな目立たない仕事をコツコツと喜んでしている人達がいる。

彼等は人の嫌がる仕事を好んでしている心の清いスターである。

 

  

3. 昔の若者達は自己目標の達成に幻滅を感じたり、失望したりして哲学や宗教の道に入ったものであるが、今日ではそんな自己を深く真剣にみつめる人が少なくなったような気がしてならない。

何かしらしっかと足が大地についていず、いつもフワフワと上辺のみに気をとられて、揺れ動いているように思えてならない。 だが私は幸せなことに、世界平和の祈りを根底にすべてを人類の為に捧げ尽している、立派な若者達をたくさん知っている。

世の中は確実に平和と調和の方向へ導かれてゆくことであろう。

そして人類は完成へと近づいてゆくことであろう。 私はそれを信じて疑わない。 私は地球破滅の予言をくつがえすために、神からこの地に降ろされたのである。

  

 
  

4.人間は生れ、そして成長し、体験し、老い病み死する。 この繰り返しである。

人間は永遠に生きつづけてゆかねばならない。 肉体が変滅しても、その奥にある魂はなお継続して生きつづけてゆくのである。

個人にやどる不死の生命は偉大である。 肉体が消滅したならば、これで何もかもすべてが終わると思ったら大間違いである。 過去に積みあげてきた想念、言語、行動すべてを背負って、未来にむかって歩み出すのである。

真理を知って生きないと、これは大変なことになる。 真理を知らないで、真面目に努力し忍耐し、生きている人がいるが、それは報われない生き方である。 何よりも先に、真理を知ることが大事である。

 


 

5. 成熟と老いとは全く異質なものである。 老いとは肉体に関することであり、成熟とは精神に関する問題である。 老いることはいとも簡単なことで、時間がたてば誰でもがみな年をとる。 が成熟というのは内なる成長をさすのである。 老いても成熟していない人はたくさんいるし、また若くして成熟している人もいる。



 


6. いつまでも役立っていたい、という人間の潜在的欲求は、死ぬまでどんな人にでもあるものである。 歳をとったとからとか、動けなくなってしまったから、といってお年寄りが自分自身で出来ることまでも取ってしまっては、生きる望みを奪ってしまったと同じことである。

誰しもが老いてゆくものなのであり、老後とは若い頃の生き方が問われる時でもある。 人のために役立つことを無上の喜びとして生きて来られた方の老後とは、多くの人々に囲まれ慕われ大事にされる老後であろう。





7. 最後のもう一歩というところで、多くの人はたいてい業の重みに負けてしまう。 その時最後の力をふりしぼって突き進んでゆけば、必ず道は開ける。





   
「日々の指針」 西園寺昌美 白光出版

 

 

若人へ、老年へ 1

     
  
私は高齢の両親とも、高校の同窓会の役をやっている関係で、親子ほどの年齢差のある人たちとも、そして同年代の友人とも交流があります。

つまりいろんな年代の人と接しているのですが、みんな自分がこれからどう生きていけばいいのかがわかっていない人が多いのです。

目的を失っているのです。

こんなことを書くと、「お前は何様だ」 「お前は何がわかっているんだ?」

という反感がかえってきそうなのですが、私も日々反省、日々気づくことばかりなのです。

というより死ぬまで勉強だと思っているので、私自身も含めて

我(本心)に帰るような、大切なことに気づくような

ちょっと怖いけど(笑)

弛んだ心に

喝ーッ を入れてくれる

厳しい

ありがたいお言葉が必要だと思うのです。

今は

自分が間違った方向へ行こうとしているのに

「お前それは違うだろう」

「なにやってんだ!」

とハッキリと叱ってくれる人が少なくなっているのです。

逆恨みをされるくらいなら黙っていたほうがいい

さわらぬ神に祟りなし 

へたなことを言って嫌われたくない

というように

本当に本人のことを思って真剣に叱ってくれる人がいないのです。

だから自分で自分を叱って

叱咤激励して

波動(エネルギー)調整

軌道修正をしなければならない

私は、自分がだらけているな

自分の心に間(魔)が入りそうになっているな

と感じたときに

西園寺昌美さんの

「日々の指針」 を読むようにしているのです。

読んだ後で

頭をハンマーでガツンと打たれたようにもなるのですが

その後で

温かい 愛のエネルギーが私に心に響いてくるのがわかるのです。

愛のムチ というやつですよね。(優しく諭されても気づかない)

今日はその中から

若い人や老年の方へ

ちょっと厳しい苦言を掲載してみたいと思います。

若い人や老年の方だけでなく

すべての年代の人にも通じる苦言です。

苦言といっても苦しいのではなく

良薬口に苦し(りょうやく口ににがし)

の方が正解かもしれません。

よかったらお付き合いください。





  
  

2013年3月25日 (月)

前世があって今がある 2

 
 

・・・・・・・・・・・・よく自分が悪いとか人が悪いとか、ああだこうだと云うけれど、それは自分が悪いんでも、人が悪いんでも、なんでもなくて、前生の因縁がそこに現れてきて、いろいろなことになっているのです。

恋愛事件でもそうだし、知り合いになってお金を貸して、それで損をしちゃうこともそうだし、商売でつっかえることもそうだし、だまされることもそうです。

みんな過去世の因縁がそこに現われて決算しているのです。

前生の借金をみんな返してゆくわけです。

たとえば前生で結婚は出来なかった、という人がありますね。

結婚が出来なくて 「ああ、あの人と結婚したいしたい」 と思って死にますね。

その人が今生に生まれてきて、やっぱりあの人と結婚出来ず、そしてAという人と結婚しちゃったとします。

ある時、その前生のあの人とパッとどこかで会うんです。

すると無性にこの前生の人のところへいきたくなったり、もらいたくなったりするんです。

すでに結婚しているのに、結婚している夫や妻以上にあの人が好きになったりして、それでいろんな痴情事件というのが起きます。

しかしそれはその人が悪いわけでも、向こうが悪いわけでもない。

夫が悪いわけでも、妻が悪いわけでもないんです。

ところがふつうの宗教ですと、夫が浮気をしたとします。

すると 「奥さんのサービスが悪い、それは奥さんが旦那さんにやさしくしないからだめなんです。あなたの心の影ですよ」 というくるわけです。

「あなたが悪いから旦那さんが浮気をする」 と云うんですね。

しかし、奥さんがとても立派で立派で、旦那さんに仕えて仕えて仕えていても、それでもなおかつ浮気をする旦那さんもいるんですよ。

もし 「奥さんのサービスが悪くて、奥さんが大事にしないから、いろいろ遊んだりするんだ」 というならば、奥さんが旦那さんをもっともっとひどい目に会わせていても、浮気もしないで、真面目に仕えている人もたくさんいます。

「それはどういうことなんだ」 と云うことになりますよ。

今生のその人だけのやり方が悪いんじゃなくて、過去世の因縁があって、たまたま夫以外に、前の世で知り合った人が現われてくる。

そうすると、向こうにもサービスしなきゃ悪いような気が、潜在意識的にあるんですね。

それでいろいろと事件が起こるんですよ。

だけどその事件そのものは、やっぱり消えてゆく姿なんです。



 

      
 「永遠のいのち」 五井昌久 白光出版




 

感想

ふつう自分たち家族を捨てて、お父さんやお母さんが他の人のところへ走ったら、子どもたちは捨てた親を憎みます。

そしてそのことで自分の心が苦しみ、苦労したとする。

当然、子は捨てた親を恨むと思います。

無理もないことです。

しかし、そんな話は自分だけではなく、案外多いことに気がつく。

人を恨んで生きることは、自分の首を絞めて生きているのと同じです。

いのちが生き生きとはしていないのです。

どういう風に自分の心にけじめをつければいいのか?

親の気持ちがわかるような年齢になれば赦せることもあるかもしれないが、赦せないかもしれない・・・・・・・。

私はやはり、前世というものがあって今生とは、前生の続きが肉体界で演じられていることを知ることが大切だと思うのです。

赦すとか赦せないとかの前に

お父さんやお母さんの過去世では、こんなことがあったんだ、そうだったんだということが客観的、大局的にわかれば

自ずと

「そうだったんだ」

「自分たちを捨てたとか、愛情がなかったからではなかったんだ」

「人間の性(さが)としてどうしようもなかったんだ」

「お父さん(お母さん)が悪かったわけでなかったんだ」(罪を憎んで人を憎まず)

という気持ちになることが大切だと思うのです。

人間とはどういう生き物なのか?

人間とはなんなのか?

その根本的なことがわからなければ

私たちは、感情のみで物事を判断することしかできないのです。

だから、人間の真理を描いた(ひもといた)著書を読むことはとても大切なことだと思うのです。

 

 

前世があって今がある 1

 
  
「前世なんてあるものか?」という人もおられると思うのですが、私は “ある” ということを前提として話を進めてまいります(笑)。

私の中でどうしても人間の心理というか、相手の気持ちが理解できない、不可解だと思うことがいくつかあるのです。

その中でも、私の友人の多くは、なぜか家庭運が悪い、というより自分から悪い状況にしていっていると思われるのです。

ほとんどの友人は、この日記を読んでいない、そして少し脚色し、誰だかわからないようにして述べてみたいと思うのですが、私の友人達は、理性よりも感情に重きをおいているようなのです。

職場で知り合った若い女性と恋愛?し、奥さんと子どもさんを捨ててその女性と一緒になってしまったり、高校時代に付き合っていた昔の彼女を忘れられず、捜し出しやっぱり家族を捨ててその彼女と一緒に暮らしていたり、常識?では考えらない行動を起こしているのです。

感情としては理解できたとしても、そこまでやるか?

浮気までで止められなかったのか?

自分の欲望を満たすために、自分の家族だけではなく、相手の夫や子どもたち、相手の両親にまで迷惑をかけていいものか?

一時はその気持ち(一緒に暮らしたい)になったとしても理性で抑えらないものか?
 

私には、友人の我儘、気持ちの弱さでこのようになってしまったと映っていたのです。

相手の幸せ(魂の成長)を願うのであれば自分の感情を抑えるのが、男(大人)というものではないのか?

もし、会社などにバレてしまえば、まずいことになりはしないか?(本人はそんなことはあまり気にしていないようなのですが)

家族だけではなく、仕事や社会的な地位まで捨てれるものなのか?

妻などに話すと、私の友人は完全に “女性の敵” になってしまいます。

「子どもがかわいそう」

「年老いた親に心配かけて最低!」

「理性というものがないのか?」

でも、本当にそうなのだろうか?

人間には理性で抑えようとしても、どうしようもない運命というものもあるのでないのか?

私は友人の前の家庭、前の奥さんも知っているので

新しくできた家族(今の奥さん)のところへ訪れようという気にはなれません。

友人は来て欲しいみたいです。(やっぱり寂しいのかな?)

不惑の年齢(40歳前後)と言われ

迷っている人が多いのです。

ごく普通の家庭を築いている人のほうが少ないくらいなのです。

当の本人はきっと悩み苦しんでいるのではないのか?

今はそうではなくても、時が経つと後悔したりするのではないのか?
 


いったいなにが真実なのだろう?
 

そんなときに五井先生のご著書を読んで

「ああ、そうだったのか」

と合点がいったのです。

といっても

友人の新家庭には行けませんが(笑)

友人の気持ち(境地)が少しはわかったような気がします。

     

2013年3月21日 (木)

勉強は自分のためではなく、世の中のためにするものである 2

  
 
原文

  

一軒の家を守る者あれば、過分の働きをなしたる手柄もののやうに称すれども、この人はただの蟻(あり)の門人というべきのみ。

生涯の事業は蟻の右に出づるを得ず

学問の道を首唱して天下の人心を導き、推してこれを高尚の域に進ましむるには、

特に今の時をもって好機会とし、この機会に逢ふ者は、すなわち今の学者なれば、学者世のために勉強せざるべからず

 

 

訳文

マイホームを持ち、守る者があれば、並以上の働きをした立派な人のように言うが、この人たちはただ蟻の弟子というくらいのものだ。

生涯やったことも、蟻を超えることはできない。

学問の道を先頭に立って唱え、天下の人心を導いて、さらにこれを進めて高いレベルに持っていくには、とくにいまの時期が大きなチャンスである。

だとしたら世の中のために努力しないわけにはいかないだろう。

 

  

蟻のような一生で満足してはいけない

第九編にあたるこの文章は、福沢諭吉が故郷の友人に送ったものだ。

「蟻の門人となるなかれ」 とは、ただ働いて死ぬだけの蟻のような一生を送るな、という意味である。

もちろん自分の家族を持って、その人たちのために一生懸命働くことは尊いが、それだけのために生きるのだとしたら、人間に生まれたかいがない。

人として生まれたからには、世の中をよくするような生涯の事業に、自分の一生を賭けることがあってもいいのではないか、と福沢は言っているのだ。

人はどこかで自分の力を世の中に役立てていくことが、生まれてきた使命ではなかろうか。

私はNHKでやっていた 『 プロジェクトX 』  という番組が好きで、子どもと一緒によく見ていた。

黒部ダムや青函トンネルをつくった人たちのすさまじい記録や新幹線を開発した人の血がにじむような努力など、無名の人たちが一生懸命自分たちの職務に尽し、そのおかげで今の日本が出来上がっていったのがよくわかる。

『 プロジェクトX 』 のようなDVDを見て、刺激を受けるのもいい。

実際、『 プロジェクトX 』 を見て、「病気で苦しむ人たちを救うためにお医者さんになるんだ」 と決意し、一生懸命勉強を始めた子どももいた。

勉強する目的が 「自分だけいい生活をする」 「自分だけいい会社に入る」 「自分だけ高い給料をもらう」 というだけでは、今ひとつ盛り上がらない。

「世の中の役に立つ人になる」 → 「そのために勉強するんだ」 という動機づけは、奮い立つきっかけになる。



  

      
       おとな 「学問のすすめ」 斎藤 孝 筑摩書房





  


  

勉強は自分のためではなく、世の中のためにするものである 1


  
年をとって、老人とよばれるような年齢になったときに

自分は何のために生まれてきたのだろう?

自分は世の中に対し、人に対し何をしてきただろう?

残りの余生をどう過ごしたらいいのだろう?

自分は肉体を離れたときに、どうなってしまうのだろう?

などというような疑問を持ったまま死んでしまうのは

なんとも情けないことだと思うのです。

確かに家族は守った、仕事もそれなりにして会社にも貢献した

友だちも何人かはいる

経済的にもなんとか老後もやっていける

人間としては平均点はいっていると思う

しかし、厳しい言い方かもしれませんが

この人たちが素晴らしい最後(死)を迎えるとは

どうしても思えないのです。

それなりに真剣に生きてきたかもしれない

誰に迷惑をかけることもなく

精神的にも経済的にも自立していたかもしれない

しかし、それだけでは神さまは合格点はくださらないのです。

死後に、霊界、神界(天国)には、導いてはくださるけれど

霊界、神界の光は眩し過ぎて耐えられないのです。

それは、魂が美しいまま移行したわけではないからです。

肉体の死は、まだプロセスだからです。

魂は永遠に生きつづけているので死ぬ直前であっても魂を磨こうという意思がなければ

霊界や神界につながっていかないからです。

3次元的に当り前のことをやっていただけでは

そこで自分の人生が THE End (ジ・エンド) だと思っているだけでは

3次元と4次元、多次元はつながっていかないのです。

3次元と4次元多次元はらせん状につながっています。

3次元の終りは4次元の始まりであり

4次元につながるような “生き方” をした人でないと安らかに移行はできないのです。

それは、死後の世界を知っていなければならないということではありません。

人として、人間として

「この生き方でいいのだろうか?」

「もっと自分のことだけではなく、社会や世界に貢献できることはないだろうか?」

「自分はこの世のこともあの世のこともほとんどわかっちゃいない、もっと知るにはどうしたらいいのだろう?」

こういった自分自身に対する疑問に逃げず避けず

向上心を持って、正面から挑んでゆくことが大切だと思うのです。

目標を持つこともそうですよね。

なんのために勉強をするのか?

なんのために自分は生きているのか?

そのためには自分はどうすればいいのか?

ただ平々凡々に生きていただけでは絶対に魂が満足しない

本心が満足しないようになっているのです。

それまでは、肉体の死は訪れるようにはなっていないのです。

私たち人間は今、真剣に死や “生き方” を考える時期に来ているのではないでしょうか?

ある本を読んでいて

そのことを痛切に感じたのでした。


 
  

 

2013年3月20日 (水)

死んだらどうなるのだろう? 最終章


  
 世界平和の祈りは最大の供養



  

唯物論者は死んだらそれまでだ、霊界なんかあるものか、と否定しています。

ないと思っている人が亡くなりますと、ないと思っていても意識は出てくるんです。

意識のほうは肉体にうつっているだけで、幽体があります。

幽体という体、肉体と同じ構造があるのです。

しかし幽体などあると思っていないから、その人に体はありっこない。

そうした意識が戻ってくると、ああ死んだんじゃなかったんだと思うのです。

けれど体がない。

それで肉体のほうに戻ってくるわけです。

たとえば浅草に住んでいたら浅草の自分の家に戻ってくる。

そして妻や子に憑いちゃうのです。

その体を自分の体だと思って生活するわけです。

憑かれた人はたまりません。

肺病で死んだ人だったら肺病になったり、中気でなくなった人だったら中気になった形になってくるわけです。

あるいは癌になるとか、なってくるのです。

同じ家に同じ病気が続くというのは、そういう想いがくっついてくるからです。

憑かれた人が信仰が深ければ、ああ、すべては消えてゆく姿だな、神さま有難うございます、世界人類が平和でありますように、と祈っていますと、くっついたままでズーッと神界へ行くわけです。

神界の光に照らされて、だんだん迷いがさめてくる。

ああ霊界なんてないと思って死んだんだけれど、実はあったんだな、神さまはあったんだな、と目覚めます。

そうするとスパッと離れて一人立ちできるようになるんです。

ですから皆さんが世界平和の祈りをしていることは、いつも信仰深く生きていることは、自分にまつわる先祖の霊魂や知人の霊魂が一緒に浄まっていることだ、と思ってください。

  

 
      「永遠のいのち」 五井昌久 白光出版




  

 

死んだらどうなるのだろう? 5

 
 生を見つめ死を見つめよ
 

皆さんは安心していればいいのです。 人間は最後は死ぬのです。

肉体世界では肉体を離れることが一番最後であると同時に、一番大事なことです。

ですから肉体を離れる時に、一番いい心境で離れられるように、若い時から練習しなければいけないです。

十歳や十五歳でそんなことは思えないでしょうけれど、少なくとも三十過ぎたら、あの世のことを考えて、あの世の境涯をよくするために、自分を磨かなければいけません。

武士とは死ぬことと見つけたり、と葉隠武士道ではいっているけれど、やはり大事な言葉です。

死というものがあって、死んだ世界でもって立派になるという心が必要です。

現代の社会が悪くなったのは、死後の世界をあまり考えなくなったからです。

昔は死後の世界を考えていたのです。

文明文化がすすみ、知識学問がすすんでくると、唯物学問になってしまって、死後に世界を考えなくなったので、人格が地におちたのです。

ところがこの頃は、またやはり心霊世界のことを知らなければならないような状態になって、いろんな宗教が盛んになってきているんですね。

やはり人間は死後の世界というものを考えないと、本当の立派な人間にはならない。

うちへきている皆さん方は、死後の世界をかなり知っているほうです。

聞いて知った耳学問、本を読んで知った文字学問であるけれども、実感を同じように信じています。

信ずるということは真に知ったことと同じです。

汝の信ずる如く汝になれ、ということなのです。

霊界があるな、神界があるな、と思う人は霊界なり神界なりへ行く、ああ五井先生が神界にいらっしゃるというんだからそのだろう、と信ずるひとはそのままその世界に行くのです。

あなたの場合などは、素直にやっているから、間違いなくいい所へ行って、自分のいい所だけが残るのです。

皆さんも考えてごらんなさい。

自分の一番いい性格、自分の一番快い状態、それがそのままいつまでも続いたら、こんなにいいことはない。

こんな生き甲斐のある、快いことはない。

それは消えてゆく姿で世界平和の祈りをやっているから続くんであって、なんにもなければ続きやしません。

少なくとも祈りをしている人たちは業が消えてゆくわけです。

     


   「永遠のいのち」 五井昌久 白光出版






  

 

死んだらどうなるのだろう? 4



一番いい心境がつづく世界
  

あなたが肉体を離れるような場合は、守護霊守護神さんを思っていますし、五井先生がちゃんと応援していますから、邪魔なものをピーッと一遍にきれいにしてしまうんです。

きれいにしてあの世へゆくのです。

そうするとAさんというものが全然変わってしまうのです。

そして、あなたがいつも一番いい境地というのがありますでしょ。

統一をしていて一番いい気持ちになっているとか、愛が深くなっている時もありましょ。

そうしたあなたの一番いい状態がそのままずーっと続くんです。

それからもう少し霊界に続いていると、その境地がもっとひろがってゆくんです。

もっともっと愛も深くなるし、光も強くなってゆくし、自分がグーッと拡大してゆくのです。

現在のあなたの心境は玉石混交で、つまらないないなと思うこともあるでしょうし、家内が子どもが・・・・・何やっているんだと思うこともあるでしょうし、あのヤロウと思うこともあるでしょう。

それがあなたが霊界に行く時には、そういうものが全部消えてしまうんですよ。

だから、あなたの一番快い状態、一番いい状態が霊界に行ったら続く、とこう思いなさい。

霊界というのはそういう所です。

おわかりになるでしょ。

だから安心していらっしゃい。


   

    「永遠のいのち」 五井昌久 白光出版



  

 

死んだらどうなるのだろう? 3

  
 

悟った状態

  

神界にいますね、それは光輝いています。 

仏のそのままなのです。 霊界へきて少し薄れるわけです。

幽界にきますと、幽界というのは地球界の想いがいっぱい溜まっています。

前生の想いも記録されています。 ですから、幽界にきてそれらの想いに邪魔されて光がボケてくる。

肉体界へ入ってくると、さらにボケてしまう。

けれど本心の光はこの肉体にきているわけです。

そこで、ボケたものを取るために、いつも消えてゆく、消えてゆくとやっているわけですね。

自分なんかダメだという想いも、人が憎いと思う想いも、なんとかかんとか思う想いもみんな消えてゆく姿、と思っていますと、邪魔なものが浄まり離れていくのです。

邪魔なものがはげていって、しかもこちらはいつも神さまを思い、平和の祈りをしていますから、自分で穴をあけて、ズーッと光を通しやすくしているわけです。

悟った状態になるというのは、霊界の光の度合いも、神界の光の度合いも、肉体界の光の度合いも同じようになっていることなのです。

そうしますと、肉体界にいながら、仏菩薩(ぶつぼさつ)ということになるわけです。

仏菩薩になってしまえば、疑問もなんにもないし、自分の本体にこともそのままでわかるのです。

しかしなかなか仏菩薩にならない。

少しずつ汚れがあるわけです。

その汚れたものを加えて、今のあなたならあなたという人があるんです。

しかし赤ん坊の時、五歳の時、三十歳の時よりも、今のあなたのほうがズーッときれいになっているのです。

赤ん坊はきれいに見えるでしょ。

何故赤ん坊はきれいに見えるとかというと、本心の光が少ししか出ていないのですが、その代わり業も少ししか出ていないのです。

だんだん成長すると光がだんだん余計に入ってくる。

余計に入ってくると同時に、業も消えてゆく姿として余計出てくる。

二十歳くらいになるとズーッと多くなるわけです。

両立するわけですよ。

そこに業をつけ加えたり減らしたりしながら、だんだん年をとって80歳になる。

Aさんも70何歳かで私の教えにふれましたね。

いつも消えてゆく姿で世界平和の祈りをしている。

だから、前の業がどんどん消えていってしまって、あと僅かだけ残っているわけです。

僅かだけど、想いとしては今までの過去のことがある記憶にあるから、人間はこうだ、肉体だなとこう思っている。

話としては、霊界があり、神界があって、亡くなればあの世に行くということもわかっているけですね。

それでいて邪魔するものがまだあるのです。

それが今のAさんなんです。

       「永遠のいのち」 五井昌久  白光出版




 

 

死んだらどうなるのだろう? 2

 

 
質問

霊界のことをお尋ねしたいと思うのですが、肉体がなくなってあちらへ行くということは、何が行くんだろうな、想いが行くんだろうか、幽体をつけたままの本心が行くんだろうか、と考えるんです。Aという男が赤ん坊から今80歳というおじいさんになっていますけれど、この私というものが肉体がなくなってもあるのかどうか。

そのへんのところがよくわからないんですが・・・・・。

 

 
本心と肉体界

 

そういう疑問を持つのは当たり前でしょう。ところが本当をいいますと、本心というのはどこにあるのかというと、この肉体のなかにも続いてありますけれど、物質のなかにあるわけではないんです。

テレビ放送局のスタジオで踊っていると、それがテレビのブラウン管に映ってきて、テレビのなかで踊っているように見えますね。

本当の人間(自分)というのは天にあって、頭の梵(ぼん)の座(これは一番大事なところなのですが)これが天につながっていまして、梵の座に天が映ってきているのです。

どういうようになっているかといいますと、形は目に見える肉体の形をしていますけれど、実は波があるのです。

大まかな粗い波動があるのです。

本心という奥の最も微妙な神のみ心のなかからひびいてきて、地上界に肉体として映っている。

肉体として映っている前に、幽界に映っているし、その前に霊界に映っているし、それよりも前に神界があって神界に映っている。

もっとこまかく何段階もあるんですけれども、一応四つ分けておきます。

その四つ世界に本心のほびきが映ってくるわけです。

その四界の向こうに本心があるわけなんです。

その本心の光、ひびき、波が発せられてきて、この肉体界に映っているわけです。

それですから、本心の光もこの肉体界の光も同じことなのです。

太陽の光がどこにも照っているでしょ、それと同じ。

テレビが東京で放送していても、市川(千葉)でやっていてもほとんど違わない。

うんと遠くなれば少し違ってきますが。

しかし、神界から肉体界へはズーッと同じ光が通っているわけなのです。

神界から霊界・幽界・肉体界を貫いて通っている。

そして肉体界にきて働いているわけです。



   「永遠のいのち」 五井昌久 白光出版



  

死んだらどうなるのだろう? 1

  

親父に、死後の世界の話をするにしてもそれはそれ相応の準備もしなくてはいけない、タイミングも計らなければならない

そして、親父当人がそのことを本当に知りたいと思っているのか?もわかっていなくてはならない

だから簡単に

「そうだ、死後の世界のことを知らせよう!」

とはいかないのです。

私自身は、死後の世界(幽界、霊界、神界)を見てきたわけでもない、守護霊、守護神さまに会ったことがあるわけでもない

ましてや神さまにもお会いしたこともないのです。

なのにこれだけハッキリと文章に出来るのはなにかというと

目には見ていなくても、“死後の世界はある” “神さまはいらっしゃる” ということが心でわかっているからです。

「おまえは見て来たのか?」

「行ったことがあるのか?」

「会ったことがあるのか?」

こう聞かれた時に

「見たこともないし会ったこともないよ」

「でも存在していることは確かなんだ」

と答えるのです。(聞かれたことはありませんが)

見たことも、会ったこともない

だけれど

“ある” “居ると信じている(守護霊守護神)”

それで十分だと思うのです。

“ある” と信じている自分を信じるとでもいうのでしょうか?

そんな自分が相手にちゃんと死後のこととか守護霊守護神の存在を知らせることができるのか?

そんな一抹の不安は確かにあります。

だからそこは自分の信を深めていくしかないと思うのです。

五井先生のご著書を何回も何回も読み返す

理解できるまで、自分の言葉になるまで頭にたたき込む

つまり3次元的な努力です。

人にわかってもらおうと思ったら

安心立命してもらおうとするのなら

自分の魂に沁みるまで

勉強することが大切だと思うのです。

勉強に関しては、多分この世もあの世もないと思うのです。

人間の魂、心は “永遠に生きつづける”

このことは私にとって真実なのです。

他の誰かがそんなことはない

死とはそこで終りなんだ

肉体の死と共に魂も終わるんだ

と言ったとしても

私はそうは思わない

ただそのことを体験で知らせるのではなく

信じる力で信じてもらう

目にみえないことを

それも体験していないことを伝えることって難しいと思います。

しかし信じてるということは

わかっていることと同じです。

見てきたことと同じなのです。

信じるとは自分の直観を信じるとはそれくらい強いパワーがあると思うのです。

今、何回も何回も五井先生の文章を読み返しています。

読むたびに自信が深まっていくから不思議です。

そして

いつかは父に話そうと思っています。


 

 

2013年3月18日 (月)

永遠のいのち(死ぬこともおめでたい) 2

 
 

生きること 死ぬことの中で

━ 死ぬこともおめでたい




 

人間の一番重要なことは、生まれてくることと死ぬことです。

これ以上重要なことはまあない。

それからいかに生きるかというのが問題になりますが、生に始まって死に終わる。

これは人生の重大問題です。

生まれてくる時は生命を受けたという喜びがありますが、死ぬ時はみんな喜ばない。

大体が泣きます。

目に見え手にも触れなくなるわけですから、みんな悲嘆にくれるわけです。

ところが、大きな意味の人生の本性、永遠の生命的な本性からいきますと、生まれてくることも、あの世へ行くことも本当はおめでたいんです。

ただ、おめでたくない生き方もある。

それはどういう生き方かというと、心の中にいろいろな業想念、例えば迷いの想い、恨みの想い、肉体に執着する想い、この世に把われている想いがたくさんあり、その想いのままに生きていると、あの世へ行くことが嬉しいことじゃなくなる。

実際にあの世に行って苦しみますから。

わけても霊界のあることを信じないで、否定していて、肉体が亡くなればそのままでもう人生は終りだ、死んだら生命があるものかという想いのままであの世へ行けば、一番不幸せです。

死後の世界を否定しているのですから、意識が甦れば肉体の世界に甦ったと思うわけです。

そこで肉親や知人の肉体にまつわってきて障(さわ)りになったり、あるいは闇夜のなかを歩いてみたり、生命のないところをうごめいている。

それは一番恐ろしいことです。

ところが、みなさんのように、神様の存在も、霊界のあることも知っていれば、死ぬことなんかちっとも恐ろしくない。

高校から大学へ行き、大学を卒業して社会人になると同じように、死はこの世の役目を果たして一段階進歩することであって、ちっとも悲しむことじゃないんです。

だから、この世の生命がないとわかっているのに、ただいたずらに注射を打ったり、なんとかして命をとりとめようとしていることは、余計病人を苦しませているだけであって、肉体人間の人情としてはわかることですが、本当をいえば、逝くべきものはいかしめなければいけない。

それをひきとめているというようなことが随分ある。

お医者さんにすれば当然のことですが。

赤ちゃんが生まれようとするのに、もっと遅くなれ遅くなれ、いつまでもお腹に居ろ居ろといって押えている人はありません。

たいがい早く無事に生まれますようにといいます。

それと同じように、あの世へ行くのも赤ちゃんがこの世に生まれてくるのと同じような状態に思わなきゃいけないんです、本当は。

赤ちゃんが生まれておめでたいと同じようなおめでたさになるためには、この世に生をうけている間に、永遠の生命と一つになって、神さまのみ心を心として、あの世にいっても自由自在に働けるようになっておく必要があるわけです。

それにはどうしたらいいかというと、常に心の中で、ああ、神さまはいらっしゃるな、いつも守っていてくださるな、守護霊守護神さんがちゃんと守っていてくださる、こうして永遠の生命として自分の中にあるんだ、と頭の中で知っているだけでもいいんです。

普通の場合は神さまを形の上でつかめないから、頭の中で知っていてもあの世で役立ちますから、そういうことを常に心に描いて生きていれば、亡くなった先でも自由な生活ができて、悪いところへは行きません。

光明燦然たる世界へ行くんです。

皆さんのように、平和の祈りをして守護霊守護神たちに感謝している人は、絶対にあの世で苦しむことはありません。

これは私が保障します。

生き生きとした生活が出来るんです。

だから、もし友だち、法友のなかで亡くなる人があっても、それをあまり悲しまないで、どうぞ永遠の生命のなかにつながりますように、どうぞあちらでいい生活が出来ますように、あの世で天命が果せますように、そういうように祈ってあげて、それでさっぱりしていたほうがいいのです。

だけど、 “死ぬものは死ねばいい、あれは消えてゆく姿でもう行っちゃったんだ” なんて人情も愛情もない冷たい態度であっさりしたことをいわれても困るから、人情として泣く時はないてもかまいません。

ただ、 よくおかわいそうっていうけれど、そうじゃないです。

“ああ、あの世で新しい自由自在ないい生活が出来る出発だ、おめでとう” という、永遠の生命を認識した気持ちで送ってあげるといいと思うんです。




       「永遠のいのち」 五井昌久 白光出版





 

永遠のいのち(死ぬこともおめでたい) 1

 
私の父は、今80歳なのですが、最近弱冠精神が不安定です。

原因は、体調不良による死への恐怖があるようなのです。

父は、無宗教なので(それはいいのですが)、死への準備が出来ていないのです。

だからお医者様から

「癌が見つかりました」

「糖尿病です」

「血圧が高いですね」

と言われることがそのまま死への恐怖に直結するのです。

人間は病気で死ぬのではなく、寿命で死ぬのだ。

死は人間が決めるものではなく、神様が定めるものである。

死とは永遠の眠りではなく、新しい 生 への誕生である。

だから死とは、誕生と等しく喜ばしいことなのだ

これらの真実が何一つ知らないまま肉体の死を迎えていいものか?

真実の 死 を知っている息子の私は父に

真実を伝えるべきではないのか?

最近の父を見るにつけ

そう思うようになったのです。

父だけではなく

死を正しく理解している人は非常に少ない

だから肉体界は恐怖に覆われていると思うのです。

みなさんが正しい死生観を会得されることを望みます。

死をしっかりと見つめないと

生をまっとうすることはできない

そう思うからです。



 

 

 

2013年3月14日 (木)

次元を変えて観る

 
 

親というのは、木の上に立って見るというように、少し離れたところから、それも全体がよく観えるように、高いところから子どもを見るのです。

これは他の子と同じように客観的に観るという意味もあるのだけれど、高いというのは次元が違うという意味がある。

低い意識に合わすのではなく、そことは違う高いところに自分の意識を持っていく。

それが本当の大人であり、親であるのです。

幼い子どもというのは、無邪気でかわいいのだけれど知能でいうとチンパンジーと変わらないのだそうです。

だから感情を抑えたりせずにそのまま露骨に出します。

うんちが出て気持ちが悪かったら泣き、お腹が空いたら泣き、欲しいものがあれば泣き、お母さんが自分の方を向いてくれなかったら泣く・・・・・

その時点では、大人とは比べようもないくらい知能は低次元です。

親はそのことを知っているので、まともには相手にしない

波長を低次元に合わそうとはしないのです。

「何でかわからないけど泣いているな、今手を出したら泣き癖がつくからしばらくは放っておこう」

「多分ぐずっているだけだから、気を紛らわせてやろう、そうだブランコに乗せてみよう」

そうやってまともに子どもの感情の波長と合わさずにうまく折り合いをつけるのです。

だから子どもがまだ未熟で親が上から観れているときは、まだいい。

しかし、その余裕がなくなったときは

かわいさ余ってになってしまう

感情に対しまともに感情で受けてしまうと

相手の次元に自分も合わせてしまうとその感情の渦はますます大きくなってしまうのです。

これは親子関係だけではなく、すべての人間関係でもいえる

という私も最近つい感情を爆発させてしまいました(小爆発ですが)

風邪をこじらせて体がだるかったときに、相手の人が細かいどうでもいいことで絡んできたのです。

いつもだったら笑って対処していたのですが、その日は波長が合ってしまい、相手の人に自分の怒りの感情をぶつけてしまいました。

後から原因を考えると明らかです。

私の心の中にイライラの因子があり、それと相手の因子が共鳴したのです。

なぜ同じことを繰り返してしまうのだろう?

なぜもっと冷静になれないのだろう?

いつになったらこの感情というやっかいなものから卒業できるのだろう?

私をいつもスッキリさせていない原因は明らかにこの感情を処理出来ていないところにある。

そのことはわかっているのです。

随分前からわかっているのです。

しかしどれだけ考えても

心理学などのいろんな本を読んだところで

どうしてもわからなかった

自分の心のコントロールができなかった

それがある本を読んでいたら スーッとわかったのです。

ここから先は私自身の解決法になるのでみなさんに適応するかはわかりませんが

私なりの解決法を書いてみます。

それは、冒頭にあったように自分の意識を3次元(肉体界)に置くのではなく

多次元(神界・宇宙)に置いておき、そこを意識し続けて低次元に降りて来ないようにするのです。

それしかないのです。

そして、また感情のエネルギーに共鳴しそうになったなら

「いやいやそうではない、自分は神界に共鳴しているだ、つまらないことに意識を合わせてはいけない」

と意識的にそれを行なうのです。

人間には癖があって感情的なる人は

「そうなってはいけない」 とどれだけ意識をしていてもどうしても思いの癖に負けてしまう。

「ダメだダメだ、合わせてはいけない!」

と抑え込むのではなく

「意識の次元が違うから共鳴するはずはないんだ」

と思うこと、信じ切るが大切なのです。

お釈迦様や、キリストは人間たちにどれだけひどい、理不尽なことをされても

決して感情的になることはなかった

キリスト様は、弟子に裏切られて磔(はりつけ)になっても決して人間を恨むことはなかった。

それは、キリスト様は、私たち人間と違う意識の場所に居たからです。

お釈迦様は金星から天下って来られた方です。(金星は、太陽系で一番精神的に進化した大人の星です)

キリスト様も地球とは比べようもないくらい進化した星からその星の意識のまま天下って来られたのです。

地球を浄化しようとするのなら、地球と同じ意識では決して救うことできない。

私たちも、3次元での生活を心穏やかに、人間関係を調和したものにしていこうとしたら周りの人と同じ意識でいてはどうにもならないのです。

どれだけ怒ることが虚しいことであり、お互いになんのメリットもないとわかっていても、意識が低次元にあれば、同じことの繰り返しなのです。

では、意識を高く持つには

そしてその意識を常に意識しつづけるのはどうしたらいいか?

なのですが

私には、世界平和の祈りがあるのです。

宇宙と共鳴し、神界と波長を同じくする祈りがある。

自分でいうのも変ですが、祈っている人と祈っていない人の波動(エネルギー)は全然違うのだそうです。

自分の3次元のことも整っていないのに、世界人類(宇宙人類)の平和を祈れる人は、菩薩なのです。

愛そのものの人です。

神界からの光がそのまま肉体に降りて来ている

天地を結ぶ光の柱になっている

そしてその光は周りに振り撒かれ業やマイナスのエネルギーを消している

私はそれをしているんだ

人類の平和に貢献しているんだ

と等身大の自分を認めることにしたのです。

その素晴らしい自分は肉体界とは決して共鳴したりなんかしない

こんなことを書くと随分生意気な奴だと思われるでしょうね。

私も書いていて、 ハラハラします(笑)

もう明日から誰も読んでくれなくなるんじゃないかって

しかし、過大評価とか過小評価ではなく

今の自分を等身大で観ることはとても大切なことだと思うのです。

冷静に自分を客観視すると前述の文章のなるのです。

祈りとはそれほど素晴らしいものなのです。

祈りでしか自分も地球も救われない

その祈りを自分はやっているんだ

だからつまらないことで、自分の気持ちが乱れることは、ほんとにもったいないことなのです。



  

世界人類が平和でありますように

日本が平和でありますように

私たちの天命がまっとうされますように

守護霊様ありがとうございます

守護神様ありがとうございます


 参考図書

「永遠のいのち」 五井昌久 白光出版









  

 

2013年3月11日 (月)

金メダルを取るのは目的ではなく、目的はその向こうにある 2

 

金メダルを取れなかった理由

  

ラフティングと競技をご存知でしょうか?

ラフティングというのは川の急流をボート(ラフト)で下るというスポーツで、年々競技者が増えてきています。

六人一組で行なうチームプレイなのですが、他のスポーツがそうであるように、日本人は体格やパワーの面でどうしても外国勢に劣ります。

そこで日本はチームワークで勝負しようという話になり、技術面を磨き上げ、実際に技術的には世界トップクラスになったのです。

ところが、世界大会ではいつもいいところまで行くのですが、優勝まではなかなかたどり着くことができません。

もはや技術面では限界がある。 鍵は技術ではなく、メンタル部分なのでは?

そう考えた監督の紹介で、ラフティング日本代表チームをキャプテンとして率いていた池田拓也さんのコーチングを担当することになったのです。

池田さんはとても素直でやる気を感じさせる方でした。

ただし、キャプテンとしてどうチームをまとめていくかの焦点が定まっていなかったのと、ビジョンが弱いために、優勝した時のイメージがリアルに描けていなかったというのが最初に感じたところです。

「金メダルを取ってどうするのか?」 「何のためにとるのか?」 「何がしたいのか?」

そこが本人の中でもはっきりしていないことが原因のようでした。

そこをじっくり聞いていくと、彼の最終的な目標というのは

「自然環境や川の大事さをラフティングや講演を経て伝えていきたい」

ということだとわかったのです。

ほんやりとしていたものを言語化し、表面化させることで彼は変わりました。

金メダルというのは目的ではなく、目的はその向こうにある。

金メダルはその目的のための通過点なのだ。

と彼が認識したのはそれだけなのですが、どうやってキャプテンとしてチームをまとめていくか自分の中で軸ができたようなのです。

セッションは半年間続きましたが、池田さん率いる日本代表は2010年の世界大会で初優勝しました。

 
 
 
  

   日本人にしかできない「気づかい」の習慣 上田比呂志




    

金メダルを取るのは目的ではなく、目的はその向こうにある 1

  

目的意識を持つことはとても大切なことである。

そのことはわかっていても、ただなんでもかんでも安易に目的を掲げればいいというものではない。

たとえば、タイトルにある 「金メダルを取る」 ことを最終の目的にしてしまったら、もし仮に取れたとしたら、その後に目標は失ってしまうのです。

そして多くの場合は取れないのだけれど、「銀」 であったり 「銅」 であったりした場合に自分の心にどう折り合いを付けるのか?

どう納得させるのか?

人を納得させるより、自分の心に ストン と落とすことの方がずっと大切なのです。

実際に、「金」を目指していて、銀に終わっても大喜びをしている人もいれば、「金以外は意味がない」 と途方に暮れている人もいる。

観ている者からすると、明らかに大喜びをしている人の方が幸せに見えます。

それは、自分の心がどこに意識を置いているかだと思うのです。

金メダルの向こうに意識を置いている人は、金メダルはあくまでも通過点であるので、取れなかったとしてもちょっとした手違いくらいで終わっている。

オリンピックが終わっても目的は消えていないのです。

“目的を追いかける旅” はまだまだ続いているのです。


私たちは、自分が生き生きとするためにも目的を持たなければならない。

目的がなければブレてしまうし、自分を磨くこともできない

磨くことが出来なければ、魂の成長もない

魂の成長がなければ生きている意味がないのです。(宇宙法則から外れる)

私は、人に目的を持つことの大切さを伝えていきたいのです。(特に若い人)

そのためには、自分が大きな目的を持ち

ブレない自分にならなければならない

そして成果と共に、目的を持てたことによる喜びを感じ

その喜びを伝えていきたいのです。

自分が感じたこと(体感したこと)しか相手には伝わらない

たくさんの体感、感動を得たいと思っています。

大切なのは、目的を達成させることではなく

目的という意識を持つことだと思うのです。

意識とは目的の向こうにあるのです。



  

2013年3月 7日 (木)

世界にアピールしたい日本人の「ほめられ下手」 2

  


「日本人が世界に誇れること」 をテーマにこの本を執筆しているわたしですが、不思議なジレンマを感じることがあります。

日本で20年間生活して、日本人のほめるべき、評価されるべき多くの点について日本人に話すと、必ず否定されてしまうからです。

日本人は、非常に 「ほめられ下手」 です。

しかしわたしは、この 「ほめられ下手」 なところが、むしろ、日本人の大切な長所だと思っています。

“威張らない日本人”  “調子に乗らない日本人”  が、わたしの目から見て、とても美しく映るのです。

例えば、日本の治安のよさをほめると、「でも、アメリカの方が住みやすいじゃありませんか」と反論されます。

また、日本人の男性の忍耐力や芯の強さを評価すると、「でも、アメリカの男性のほうが優しいでしょう」 という反応が返ってきます。

こういう反応に接して、初めのうちは、「日本人は、自分の国が嫌いなのだろうか?」 と思ってしまいました。

しかし、日本語の語学力が深まるにつれ、それらのコメントの裏にある、ある種の美意識に基づいた話術に気づいたのです。

つまり、一見否定的な日本人のコメントは、謙遜して相手を持ち上げながら会話を上手に継続させる話術の一つだったのです。

この 「威張らない、相手を持ち上げる」 姿勢は、世界に向けて、胸をはってアピールしてほしい日本人の長所だと思います。

そう確信したのは、7年間続けている現在の仕事を通してです。

わたしは、インド、中国、香港、台湾、レバノン、ドイツ、イタリアなど、あらゆる国から訪れるビジネスマンのためのサービスアパートメント業を通して、延べ7000人の外国人たちに接してきました。

一方では、多くの国々を、営業活動のために訪問してきました。

そうした仕事の中で、日本国内でも、海外でも、日本についてコメントやスピーチをしばしば求められてきました。

この意味では、わたし自身、一種の 「なぞ」 と思われている日本人の人間関係のつくり方やビジネススタイルを説明する役割を担ってきたつもりですが、そうしたときにいつも外国人に話すのは、「日本人の謙遜こそが、日本人の長所であると確信している」 ということです。

日本人は、一見すると 「ほめられ下手」 に見えます。

しかし本当はほめられ下手なのではなく、相手を敬うという “心のあり方” から相手のよいところを見ようとする姿勢が生まれて、謙遜する話し方になるのです。

この点は、グローバルステージで活躍する世界中のビジネスパーソンが学ぶべき点だと思います。

日本人はもっと自分たちの会話のあり方、コミュニケーションの仕方に自信をもったほうがいいのです。


  

「日本人が世界に誇れる33のこと」 ルース・ジャーマン・白石 あさ出版

  

 

追伸

私がここまで読んで感じたことは、謙虚、謙遜する気持ちは素晴らしい、それは自分も相手も生かすからです。

でも謙虚であること、謙遜がいき過ぎると、卑下まんになってしまうのです。

卑下慢とは、自分がダメであることを自慢することです。

若者言葉でいうと、自虐ネタでしょうか

自分を徹底して貶めるのです。 これは一見相手を責めるのではなく、自分だけをおとしめるので中にはそれを聞いた人は優越感に浸って気持ちの良くなることもあるのかもしれません。

しかし自分自身をバカにするということは自分の神性、素晴らしさを否定していることになるのです。

自慢と卑下慢を比べた場合、自慢は鼻についてみんなのひんしゅくをかうので注意されたり無視をされて自分で修正しやすいのですが、この卑下慢は注意しにくく気づきにくいのだそうです。

本人は気づいていなくても、どちらもしまいには、聞くのが耐えられなくなってくる。

周りから人がいなくなってしまいます。

人間は自慢も卑下慢もせず、

「生命そのままにスーッと生きていたらいいのになぁ」 と思うのです。


 

 

世界にアピールしたい日本人の「ほめられ下手」 1

 
  

日本人というのは謙虚というか欲がないというか、自分で自分の欠点ばかりを探している。

ある就活中の若者が

「私は口下手で、頭の回転が鈍くて質問にも他の学生のようにスッと答えられないんです」

と言っていたがそれは私からすれば

それは慎重で謙虚だということであり、思ってもいないことをすぐに口に出していい加減な答を早く出すよりも、熟考し一つ一つ噛みしめるように出る誠意のある心のこもった言葉の方がずっと素敵だと思うのです。

なのにそれが長所なのに欠点だと思っている。

これって非常に非常にもったいないことなのです。

日本人はアメリカに戦争に負けてから劣等感を植え付けられてきました。(日本人はイエスかノーかをハッキリ言わない、働き過ぎなど)

長所を欠点だと思い込まされてきました。(でないと優秀な日本人が世界を圧巻するから)

それを未だに背負っているところがある

そして、アメリカナイズされたやり方が正しく新しく素晴らしいと刷り込みされてきた。

しかし、それが違うということを日本人からではなく、外国人から指摘されているのです。

日本人は奥ゆかしいので自分で自分を素晴らしい!なんて言わない(笑)。

外から言われて、初めて気付きはじめたのです。

気くばり、気づかいで有名なあのディズニーも日本の繊細さ奥の深さにはどうやっても追いつけないといわれています。

他の追随を許さないほどの違いがあるのです。

別格なんですね。

私は前の日記で、10人中8人の日本人は素晴らしい神性を顕わしている。

それを外国の人が認めていると書きました。

それを読んだ人は

「そんなにいないよ、10人中2人の間違いだろ」

と言うと思うのです。

確かに今の日本には相手のことに気づかいの出来る人、気くばりの出来る人、常識的な人は減ってきたようにも思います。

そんな余裕はない、みんな自分のことで精一杯だ

だから他人に意識を向けていないんだ

しかし、今は確かにそうかもしれない、忘れているのかもしれない

だがしかし、そんな人たちでも

困った人、苦しんでいる人がいたら

すぐに助けてあげられる優しさはずっと持ち合わせていると思うのです。

外人さんが道がわからなくて困っている

そんなときは、ほとんどの日本人は

「なんとかしてあげたい」

と思うのです。

街で迷子になって泣いている子どもがいたら

「かわいそうにお母さんはどこにいるのだろう?」

とすぐにでも探してあげれると思うのです。

それは、日本の文化が助け合いの文化であり、日本人の心にしっかりと根付いているからです。

日本人は奥戸の自分たちつまり表面ではなく奥深くにいる本当の自分をもっと追究し、意識をし、その奥にいる自分を表に引っ張り出すことをすればいいと思うのです。(本心開発)

日本人が自分で自分をダメだと思っていること

しかしそれは日本をよく知る外国の人には素晴らしいと映っている

そんな文章をご紹介します。



   

 

2013年3月 5日 (火)

日本人は売り込まないのになぜ信頼されるのか 3

  

ここに、日本流ビジネススタイルが成功する理由があります。

自分から売り込みをしなくても、相手の話を聞くことが信頼に通じ、パイプができてくるのです。

相手の話をじっくり聞き、ニーズを探りながら最善の方法を提案しようという日本のビジネススタイルは、一見地味に感じられます。

積極的に自己アピールし、ダイレクトな交渉で仕事を獲得するようなスタイルからすると目立ちません。

だから、海外で

「わたしたちのほうが圧倒的にすぐれていますよ。値段も10%安くしますよ!」

などという押しの強い営業を展開している企業を見ると、自分たちも同じようにやらないと負けてしまうのでは、と不安になるかもしれません。

でも、それでは逆効果です。

本人自身は自覚していないかもしれませんが、その、相手の立場に立って話を聞き、信頼を獲得したうえで、相手のニーズに合った提案を構築する手法は、戦略として非常にすぐれているのです。

他国の経営者のなかには、

「日本企業の奥ゆかしいやり方こそが、実はべストファーストステップだ」 と認識し、その手法に学ぼうという企業もあります。

わたしも、これまでの経験を踏まえ、日本の営業スタイルを世界の標準にすべき 「best practice(最善の方法)」 だと思っています。

ですから、日本のみなさんには、どこへ行ってもそのやり方を貫いてほしいのです。

日本人が、ビジネスのうえで相手との信頼関係を重んじるのは、物事を短期的にとらえていない証拠でしょう。

信頼の置けるビジネスパートナーとして、長期的に取引をしていきたい、それがお互いのメリットになるのだから、という意図があるように感じます。

しかし、外国にはそうではない企業が少なくありません。

長期的なパートナーシップを築こうというより、仕事は獲ったもの勝ちという競争意識が強いのです。

だから、依頼内容を深く検討せず、とりあえず 「できます」 「安くなります」 「早くできます」 などと言って、仕事を獲ってくる。

それができるかどうかは後から考えればいい、という発想です。

でも、たとえ仕事は受注できても、相手の満足いく仕上がりにならず、自社の評価を下げることになってしまったら、継続的な営業活動になりません。

長いスパンで見て、そういうスタイルの企業がうまくいき続けるとは思えません。

こうした視点からも、時間をかけて信頼関係をつくり、それを壊さないように慎重にビジネスを積み重ね、べストを尽そうという日本企業のやり方は、ビジネスの原点ともいえる、

「best practice(最善の方法)」なのです。



  

      
「日本人が世界に誇れる33のこと」 ルース・ジャーマン・白石







追伸

「人の話を聞く」 の聞くとは、気(エネルギー)が来るという意味だそうです。

相手の人から想念というエネルギーが来る、それを受け止めるというのが聞くということなのです。

カウンセリングでもコンサルタントでも雑談でも、まずは自分が何をしゃべるかよりも相手の話を聞く、エネルギーを受け止める。

そしてその人が今、何を考えているか? どうしたいのか? を徹底的にヒアリングすることが大切なんです。

自分のことを理解してくれる、興味を持ってくれることほど嬉しいことはありません。

それから人は心の胸襟を開いて、そこから本当のコミュニケーションが始まるのです。

今はコミュニケーション能力であるとかプレゼン能力が不可欠であるとか言われていますが、

私はヒアリング能力の方がもっともっと大切だと思うのです。

それが出来るのも、日本人の素晴らしい能力だと思うのです。

 
  

 







 

 

日本人は売り込まないのになぜ信頼されるのか 2


 

日本人は売り込まないのに、なぜ信頼されるのか 




私は営業の仕事がとても好きです。お客様の企業を訪問し、仕事を獲得することが主な業務内容ですが、外国企業の営業場面を見る機会に恵まれることがよくあります。

そしてここでも、日本のやり方との違いに驚きました。

諸外国の一般的なセールス方法は、自己アピールから入ります。

ひととおり挨拶を終えたら、自社の商品資料を見せながら、いかにその商品が他社と比較してすぐれているか、お客様にとってどれくらいメリットがあるかをアピールします。

要するに、「この商品が必ず御社の役に立つ」 と、スタートの瞬間から主張するのです。

そして、最終的に 「だから買ってください!」 と相手を説得し、商談を成立させようとします。

自分をアピールするというスタイルは、異業種交流会や各種勉強会などでも同じです。

たくさんの人たちに自分を印象づけるため、名刺交換をしながら、自分は何ができるか、やってきた経歴や実績をアピールします。

そこでは、いかに、自分はあなたの役に立てる人間であるか、すごいビジネスマンであるか、と思わせることができるかが問題なのです。

ところが日本人は、まったく正反対のアプローチをします。

日本人は自分や、自社を売り込んだりせず、まず、相手の情報収集をしようとします。

相手はどんな会社なのか、どれくらいの規模で、何人ぐらい働いているか、どんな理念をもち、何を目指しているか。

主力商品はどんなもので、どういう顧客がいるか・・・・。

そういったことを、初回の訪問時に、時間の許す限り、相手から聞き出そうとします。

つまりアピールから入るのではなく、ヒアリングから入るのです。

これは外国人にとって理解しにくいスタイルです。

私も最初は、

「え、どういうことなんだろう? これでは商品のことをわかってもらえないし、売れるはずがない」 と疑問に思っていました。

しかしわたしはリクルート時代、トップ営業マンといわれるような先輩でもあるスペシャリストから、日本式営業テクニックを教えてもらい、ようやくその人の営業のコツをつかむことができました。

先輩は、ともかく相手の話を聞いて、自分たちの商品のアピールをいっさいしないことだ、と言うのです。

ひたすら相手の話を聞いているだけです。

しかしそうしているうちに、何が生まれるか。

しばらくして、ようやくその意味がわかりました。

相手のなかに 「信頼」 が芽生え、相手が興味しんしんでわれわれの会社のことを聞いてくるのです。

向こうが、われわれの商品について聞きたがるのです。

 この人はわたしの話に耳を傾けてくれる。わたしの会社に興味をもってくれている・・・・そういう意識が、相手に対する信頼につながり、単なる取引先ではなく、パートナーだと思ってもらえるようになるのです。

そしてこちらの話も聞いてみたいと思うようになるのです。



  


  
「日本人が世界に誇れる33のこと」 ルース・ジャーマン・白石 あさ出版

  

  

日本人は売り込まないのになぜ信用されるのか? 1

  

昨日の日記で日本人はもっと自分が日本人であることに誇りを持って、そして自信を持ってビジネスにおいても私生活においても送って欲しいと書きました。

今、日本を絶賛する本もたくさん出ています。

外国人だからこそ、日本の良さが客観的に観てわかるのだと思うのです。

すべての外国がそうだとはいえませんが、旅行などに行くと周りの目が自分のバッグを狙っているのがわかります。

隙あらば「取ってやろう」という雰囲気が漂っています。

だから安心して住めないし気が抜けないのです。

日本に来た外国人がまずびっくりすることとは、自動販売機が街に設置されていることや地方に行くと無人の野菜売り場があることです。

これらは、お互いにそんなことはしないよねという信頼関係からなりたっている。

もし自販機が荒らされたり、お金を置かずに持ち帰ったとしてもそれは

「しかたがない」 というあきらめがあるのです。

置いたからには、自分にも責任がある。

だけどもうそれに懲りて置くことを止めることもしない。

「取るからには余程のことがあったんだろう」

「取って満足したのなら、後は無くなるんだ」

という性善説の上になりたっているのです。(全員がその考えとは限りませんが)

日本人は、お人よしなだけではない

責任感も人一倍です。

震災のときに東京の街が地震で揺れているときに

宅配業者の人は時間指定の荷物を最後まで届けたそうです。

怖くなって仕事を放棄しても誰も責めないのに

ビルが揺れている最中に

「すいません、荷物が遅れてしまいました」

と言って謝っていたそうです。

荷物を受け取った外国人は

ひっくりかえって驚いた。

「日本人はそこまでやるのか」・・・・・・と

それから震災の時に家から流れ出したお金も次々と届けられた

誰も見ていないから

そのお金をかすめても絶対にバレないとわかっていながら・・・・・

そんなニュースを海外の人が聞いて

そして日本を知っている外国人の人に

「ほんとに日本とはそんな国なのか?」

と確認を取って

ますます、日本が尊敬されるようになってきた。

今、世界中の人が日本人に対して畏怖と尊敬の念で見ているのです。

「自分たちもそうでありたい」

「どうしたら自分たちも日本人のようになれるのか?」

私は驕りではなく

私たち日本人は外国に学ぶことも確かにあるとは思うのですが

まずは最初に

日本の良さを再認識して

日本人であることに誇りを持って

そして 「日本式の生き方」 を自信を持って貫いていけばいいと思うのです。

外から学ぶ必要はない

なぜなら

外の人たちは、日本から学びたがっているのだから

日本が素晴らしいのは行動や心だけではなく

文化や言葉や文字も素晴らしい

日本の文化は素晴らしい歴史の元に成り立っています。

日本ほどいろいろなニュアンスで言葉を伝える国はない(感謝を伝える言葉は非常にたくさんある)

日本の文字は象形文字で字がそのまま絵になっている

そして日本人の気質は

ほんとに繊細でやさしくて

すべてを包み込む大らかさがある

地形も海の側にすぐに山がある地域は日本しかないそうです。

四季があり、豊かな自然に囲まれている。

日本は世界の代表なのです。(それが証拠に九州はアフリカ、四国はオーストラリア・・・日本は世界の縮図だそうです)

霊(ひ)の国なのです。

霊とは神様という意味です。

神さまがたくさん宿った国が日本です。

日本から世界は変わってゆく

素晴らしい星に変わってゆく

私はそう確信しているのです。

長くなりましたが(笑)

次の日記で、日本式のビジネスが認められている、正しいやり方だと支持されているという文章を抜粋します。 

ビジネスにおいても経済においても日本は世界をリードしているのです。

  

 

 

2013年3月 4日 (月)

なぜ海外に行きたがるのだろう?

     

海外に行った人でみなさんが異口同音で言うのは

「日本を出て初めて日本の良さがわかった」

なのです。

日本の中にどっぷり浸かっていると日本の素晴らしさ日本人の思い遣りの心がわからない。

当り前だと思っているから気づかないのです。

外国と日本はどこが違うのか?

それは、心の繊細さ、優しさ、愛の深さです。

日本人は、自分のことよりも先に相手のことを慮(おもんばか)る

相手の立場に立ってそれから自分の行動を考える

相手が主体であって、自分は従なのです。

もちろん日本人全員がそうだとはいえない

しかし、10人中8人はそういう人たちなのだそうです。(外国人曰く)

だが、日本以外の国はそういう人は極端に少ない

その国のエネルギーとは、そこに住んでいる人たちの波動で決まるのです。

波動とは心の動きです。

人間一人の波動圏とは、無限大に大きいのですがとくに肉体にくっついている幽体のエネルギーは人にも影響を与えやすくその範囲は、ビル一棟分もあるのです。

オーラ写真などを撮ると肉体を覆っている目にみえないエネルギー体が見えます。

それが幽体なのです。

その幽体が重なり合って人間は生きている

人のエネルギーをまともに受けるのです。

だからマイナスの想念を持っている人のエネルギーを、いつの間にか受けているのです。(もちろんその逆もある)

なぜだか急に憂鬱になった、なんだか急に腹が立ってきた

周りのせいにしてはいけませんが、人の影響は確実に受けている。

そのエネルギーを受けながらも自分の心をコントロールしてゆくことが実に難しいのです。

だが、日本人はその能力に長けている

我慢する能力が圧倒的に強いのです。(外国人の6倍あるそうです)

感情的になりそうになっても、それを我慢をして気配を消すこともできる。

だから治安にしても世界一住みやすい国になっている。

そこを脱け出して? 海外に行くというのは

性格の良い子を、環境の悪い地域に放り込むのと同じです(笑)。



一旦その波動圏に入ってしまうと自分の波動を崩さずに生きてゆくことは難しい。

その地域に波動を合わさないと生きていけなくなるのです。

だからその地域の波動体になってしまう。

帰国するとまるで人が違ったようになっている。

海外に行く(長期で)人はその覚悟が要るのです。

「日本の良さを世界に広めるんだ」

「サムライスピリット」を書いた神田ロムさんのようにハッキリとした目的意識を持った人は、どんな境遇、環境の中でも生きていける。

しかし、

「日本よりも外国の方が自由で楽しそうだ」 

「おまけに英語を身に付ければ将来仕事にも役立つ」

それはかなり甘い考えだと思うのです。

英語力は、日本に居ても本気で取り組めばいくらでも上達する。

波動(エネルギー)というものをあまり軽く考えない方がいいのです。

   

面白い話があります。

日本から海外にお寿司の店が出店された。

当初は、日本人職人の腕が繊細なのでその国の人たちから絶賛された。

しかし、しばらくすると味が落ちてきた。

正確にいうと雑になったのだそうです。

鮨を握るときは、指先にまで神経を行き届かさなくてはならない

つまり心の波動(エネルギー)が指先から鮨に伝わるのです。

おばあちゃんのおにぎりがなぜか美味しいのと同じですね(笑)。

その細やかな優しい波動が海外で生活すると荒削りになるというのです。

ですから、寿司職人の人は、一年で入れ代わるそうです。

たぶん、職人の人も早く日本に帰りたいのだと思うのです。

「あーやっぱり日本の空気は違うなぁ」

「もう行きたくないなぁ」

が実感だと思うのです。


今、世界の人々が日本に憧れている。

それは日本人のスピリット(心)に感動しているのです。

そんな素晴らしい国に住んでいて、なんで外へ出ようとするのか?

「理解出来ない」 と外国の人は言っている。

今こそ、日本人は自分の国に誇りを持って

日本の良さを身に付けて

もっともっと磨きをかけて

そのマインドを世界に発信してゆくべきだと思うのです。





  

参考図書

 「サムライスピリット」 神田ロム 幻冬舎

「日本人が世界に誇れる33のこと」 ルース・ジャーマン・白石 あさ出版

「世界に誇れる日本人の心くばりの習慣34 三枝理枝子 中経出版

なぜ世界の人々は「日本の心」に惹かれるのか 呉善花 PHP



 

  

« 2013年2月 | トップページ | 2013年4月 »

最近のトラックバック

2017年3月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31  
無料ブログはココログ