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2013年2月 8日 (金)

イエスキリストの愛 1


    

人間を一番苦しめて不幸にしているのは、他人でもなく

自分を取り巻く環境でもなく

心が捉われて、縛られていることによるのです。

人は、もっとお金があったら、健康であったら、人間関係がうまくいっていれば、周りの人が優しい人ばかりだったら・・・と外に幸せの原因を求めます。

しかしお金がたくさんあってもそのお金を狙ってくる人がいたり、たくさんあればあるほど、心とのバランス(勘定と感情)を取ることが難しくなるのです。

そしてたとえ今健康であってもいつ病気になったり、突然、死が訪れるかは人間にはあずかり知らぬ、コントロールできないことなのです。

人間関係も、自分がいくら愛情を注いでも、いつ誰にうとまれ、裏切られ、離れていかれるかわからない不条理な不安定な関係なのです。

このような状況になるのが嫌なので、辛いので人間は、執着します。

お金に、健康に、家族に、友だちに、恋人に・・・・・それらが離れていくのが怖いのです。

怖いからそれを掴んで放そうとはしない。

すると心は がんじがらめ になってしまう。

肉体という器の中で小さくなって、縛られたような状態になってしまう

本来の人間とはもっと自由に

もっとおおらかに

生きているはず・・・・

しかし、何かに捉われていると

楽しくないのです。

嬉しくないのです。

幸せを感じないのです。

だがしかし、楽しくないのも

嬉しくないのも

幸せでないのも

誰のせいでもない

自分で自分をそうしているだけなのです。
 

自分が貧乏だと思わなければ(想いをつかまなければ)貧乏ではない

自分が不幸だと思わなければ、それは不幸ではない

不幸だと思う気持ちが不幸にしているのです。

どんなにひどいことを他人から言われようと

信頼している人から裏切られようと

自分の中に執着する(守ろうとする)気持ちがないのならばそれは

罵声でも裏切りでも

なんでもないのです。

人は幸せになるために

「強くなりたい」 と思う

どんなことがあっても動じない不動心を手に入れたいと願う

人は、心が平安でなければ決して幸せを体得することはできないことを心の底では知っているからです。

聖者である イエスキリストもお釈迦さまも老子様も

言葉は違うけれど同じことをおっしゃっています。

「幼子のようになりなさい」 (イエスキリスト)

「空になれ」 (お釈迦様)

「無為になせ」 (老子様)

幼子のように無邪気で天真爛漫になりなさい(捉われることをやめなさい)

空になるとは、頭の中を空っぽにして、心の中に宇宙を住まわせなさい

無為になせ とは「何々のためにしようとするな」 わかりやすくいえば、「頭で計算したり考えて行動するな!」

という意味です。

今の人間(大人)は逆のことばかりをやっていますよね(笑)

心が何かに捉われひっかかっているから

掴んでしまっているから

なかなかその状況から脱することが出来ない

せっかく現われて、消えていこうとしているのに

消えて 善くなっていこうとしているのに

つかんでいるから

なかなか消えない

そして消える寸前のものを

またつかんで苦しんでいる

苦しいのはその状況ではなく

掴んでいる心が苦しいのです。

イエスキリストもお釈迦様も

そんな人間を十分に理解していた

人間とは、心が常に縛られている

肉体の中でがんじがらめになっている(本当は霊体、神体があるのに)

だから、自分を守ろう守ろうと必死になっている

自分を守るためにはどんなこともしてしまうという心の弱さを持っている

人を信じる、助けることよりも 人を裏切り、自分が助かることを選んでしまう

そんな人たちが地球人なんだ ・・・・・と

人間は自分で自分のことはわかっていないけれど

聖者たちは、わかっていたのです。

肉体人間の弱さを 熟知していた

だからどんな目に遭っても

ひどい仕打ちをされても

裏切られても

赦すことができたのです。

人間は真理を知らない

自分がどういう存在なのか(何者なのか)?

本当の自分はどこにいるのか?

どこから来て

どこへ行くのか?

なんのために生まれてきたのか?

真理をわかっていない

わかっていないから

自分という 我 にしがみついている

そんな人たちを

私は責めることは出来ない

人間のそれらの “醜い姿” “感情” “想念”を 

業といいます、カルマともいいます。

人間は悲しいかな

この業を背負って(業の中で)生きているのです。

光輝く美しい魂にこれらの業がくっついている。

私たちは、業の奥の美しい光を見ずに、泥を被ったその人を見て

「あいつはなんて奴だ!」

と批判、非難しているのです。

他人だけではなく

業を被った自分を見て

「自分はなんてダメな奴なんだろう」

「なんてひどいことを想ってしまう悪い奴なんだろう」

と他人も自分も責めているのです。

イエスキリストは責める気持ちも違うと言った。

責める気持ちも人間が真理がわかっていないからなのです。

そして肉体という体を纏った以上

そうなるのもいたしかたないとわかっていたのです。

だから人間を赦した

本当に人を赦すとは

真理を理解していないと絶対に出来ないのです。

人間のこと

宇宙のこと

宇宙(神)と人間のこと

すべて(宇宙の仕組み)がわかって

はじめて 自分自身を識ることができ

相手を識ることができる

自分を赦し、相手を赦すのは

真理がわかっているから出来ることなのです。

私たちは幸せになるためにも

真理を一刻も早く識らねばならない

そう

私は、切実に思っています。



おススメ本

      『神と人間』 五井昌久 白光出版



  


  

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