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2013年2月28日 (木)

バランス感覚

   

人は生きている以上、必ず誰かと関わっている。

そしてその人たちとお互いに円満に、なんの不満もなく仲良くやっていけることなど無いに等しい、人間とは十人十色どころか、十人百色、いや千色、万色なのだ。

自分のことを100%わかって理解してくれる人など、千人に一人、いや万人に一人もいないと思っていい。

だけど、人間は自分をわかってほしいと望むのだ。

そして

自分が善かれと思ってしたことが悪意で取られることも日常茶飯事であるし、人とは関わり過ぎてもいけないし、距離を置き過ぎてもいけない。

メールを送るにしても、短文で 「了解しました」 では、味気ない。

しかし、そこに少しでも感情(勘定、計算のこと)を入れてしまうと「相手はどう想っているか?」などと腹の探り合いになってしまう。

いっそのこと、用件のみのそっけない奴で通そうかとも思うが、それでは相手の人は心を開いてくれることはない。(人と深く関わっていくことができない)

便利になったようで煩わしいことが多くなった昨今だと思うのは私だけでしょうか?(笑)

自分が書いた文面がどう解釈されるのか?がわからない、相手の表情が見えないのに、伝わりにくい文字だけが相手に届く

メールよりも電話、電話よりも直接その人と会って話す方がずっとスムーズにいく。

いや会っていても誤解されたり、うまく伝わらないことなど、いくらでもある。

お釈迦様は人間の心は蛇蝎(じゃかつ)のごとく と言っておられ、それはヘビやさそりのように毒を持っていたり、性根がひん曲がっているという意味なのです。

さすがのお釈迦様も人間の心の複雑さ、歪んでいるさまには開いた口がふさがらなかったと思うのです。

「なんでそういう風に解釈するかなぁ?」

天(真理)に対して素直ではないからなんでしょうね。

だから人間の心はつかみどころがない、わけがわからないものなんだ、相手に対してそんなところに気持ちがひっかかっていると身が持ちませんよ。そんな小さなわけのわからないところに意識を向けないで自分の本心のある広い、ひろ~い天(宇宙)に心を向けないさいと次の文章は説いているのです。






私は釈尊(お釈迦様)の次の言葉が好きである。「沈黙しているのも非難され、多くを語るのも非難され、少しを語るのも非難される。世に非難されない者はいない」この世に生ある限り、何をしても人は非難の目、嫉妬の目をもって他人を見つづけるのである。人の目を気にして生きいたならば、自分の身が持たない。天の目を気にして生きてゆくことだ。(西園寺昌美)





そして、この文章を読んで、ああ肉体人間なんて凡夫なんだ、たいしたことはないんだ、人間なんてバカなんだ。

と一旦は、気持ちが落ち着くのですが、それだけでは本当には気持は治まらないのです。

そこには、自分を内省するという行為が欠けているからです。

「人間なんてバカなのさ」 だけで終わると言い訳をしているのと同じなのです。

解決していないのです。

相手のせい、人間という存在のせいにしている。

自分を顧みることをしていない、相手を否定してそこで終わっている。

だから心の奥底では納得していない、心が消化不良なんです。

そこで出て来る言葉がこれなのです。





なぜそんなに人を許せないのか。なぜ毎日暗く、悶々として生きていかねばならないのか。どこにその原因があるのか。それは自分の心の中にある。自分自身を許せない自分がそこに存在しているから許せないのである自尊心が傷ついてゆくのがたまらず、みていられず、そのため人が許せないのである。原因はその人にあるのではない。自分の心の中にあるのだ。(西園寺昌美)


 

ああそうか、原因はすべて自分にあるんだ、悪いのは相手ではない、自分なんだとそこで反省する。そして自分を責める心境になる。

だがお釈迦さまがおっしゃっていたように、人間の心が蛇蝎(じゃかつ)のようであることも確かなのです。

私たちは相手の心に入っていってその蛇やトカゲのような心を矯正させることはできない。

だからあきらめも大切なのです。

想いに執着することほど苦しいものはない。

自分の心をあるときは奮い立たせ、またあるときはあきらめに近い心境で

「今はしかたがないんだ」 と気持ちを納得させる。

案外あきらめるとスッキリするのです。

あきらめるとはあきらかにするということ

やるだけのことをやったら後は天に任せて

そこ(どうにもならないこと)から想いを放つのです。

人間とはつくづくバランス感覚が大切だなぁと思うのです。
 

この文章を交互に読んでいると落ち着いてくるから不思議です(笑)。

  

  

 

2013年2月27日 (水)

今日のつぶやき

  

最近、またいろいろなジャンルの本を読むようになったのですが、人生の達人という人は、一般の人とどう違うのか?というと

同じ状況にあっても、考える角度や大きさや捉え方が違うのです。

コップに半分の水があるとすると

普通の人は、「もう半分しかない!」と焦ってしまうが、賢人は「まだ半分もある。大丈夫だ!」とまったく逆に捉えるのです。

決して賢人が他の人よりも能力があるわけではない。

だから考え方、捉え方、そしてその後のアクションが大切だと思うのです。

直観よりも先に

日頃から物事をポジティブに考えられているか?

ネガティブに見ていないか?

が肝要です。

考え方、捉え方をポジティブにするのは日々の練習、習慣付けでうまくなっていく

ネガティブになりそうになったら

「あっ違うそうじゃない」

「どう考えれば良かったかな?」

と仕切り直しをすればいいと思うのです。

 



  

1. まずはどんな相手にも好意を持つこと。大好きとまでいかなくても、「人にはかわいい、面白いところがある!」と思うことが必要です。そうすれば自然に、相手をもっと知りたくなってきます。/ 「世界に誇れる日本人の心くばりの習慣」三枝理枝子



 
2. 人の気持ちは、十人十色どころか “十人百色” に変化します。一度、なにかをしたからこれで終わりではなく、継続的に相手に興味をもち続けることが必要です。そうすれば、変化がわかりますし、異変を見逃すこともないでしょう。/ 三枝理枝子

 


3. ステージに上がった時は、自分が一番上手いと思うこと。そして、ステージを降りている時は、自分が一番下手だと思うこと。(エリック・クラプトン)/ いいですね~この謙虚さ、出るべきところと奥ゆかしいところのバランスがとれている。見習いたいです。


 


4. 失敗して落ち込んで会社を辞めたくなるというケースもあります。これも考え方を変えてみるといいでしょう。失敗するのが当然だ、世の中の90%は思うようにはならない、と考えればいいのです。ほとんどがうまくいくと思っているから、失敗すると落ち込んでしまうのです。/ 北尾吉孝


 



5. 私は「失敗しても後ろは振り返らない」と、いつも自分に言い聞かせています。たとえ失敗したとしても、「あっ、これは天命だ。天はここで自分に失敗をさせた方がいいと考えて、こうしてくれたんだ」と考えるようにしています。/ 「何のために働くのか」北尾吉孝著


 



6.努力もせずに愚痴を言い、文句を言う。そして、やる前から「できません」と諦めてしまう。これが一番いけません。「なせばなる」という前向きの考え方を持つことです。そして「なさねばならない」という強い意思を持つことが大切なのです。/ 「何のために働くのか」北尾吉孝 致知出版社




  

2013年2月26日 (火)

今回の日々の指針について

   

今回は情報についての指針が多く書かれていました。

そこで以前西園寺さんが書かれていた指針で思い出した言葉があるのです。

それは

1.情報において大切なのは、その量ではなく、情報に振り回されないことである。

でした。

今ほどインターネットが普及していない時期の言葉でしたが、私にはズシンと響いていました。

今はみんながスマホを常備するようになって益々情報過多になっているように思うのです。

知らなくてもいいことまで、そして知ってしまったら落ち込むような情報も多い。

必要な情報よりもいらない情報の方がずっと多いと思うのです。

私たちは知識と見識の違いを見きわめる必要がある。

なんでもかんでも感情を喜ばすものを知識として頭にいれて、そのまま感情に流されるのはあまりにも情けないと思うのです。

取り込んだ知識に、それをどう解釈するかという自分のスタンス(人格)を加え、それを自分なりの論(教養)まで育て上げ、そこにまた、立場や判断を加えていったものが見識になる。

知識とは上っ面の感情を伴うもの、見識、良識、教養とはもっと精査された深い考えに及ぶものです。

五感、感性(感情)を超えたところに物事の本質がある。

だから情報に流され、振り回されてはいけないのです。


 

参考図書

 あなたを幸せにする「スマートノート」 岡田斗司夫 文藝春秋

 
   

日々の指針

 

1. 与えられた情報よりも自分から探し求めた情報こそが真実なのである。

   与えられた情報をすべて鵜呑みにせず、自分の頭で必ず考えるべし。

  

1. 人は誰でも自分の語る言葉に全責任を負わなければならない。

  

1. 見識は人間をブレない方向へ導くが、知識は道を誤らせる危険性を持つ。

  

1. 人間は知識や情報を身につけるのではなく、見識、良識、教養を身に修めるべきであ
る。


  



1.原発について語るということは、少なくとも地球水準にまで個々人の意識を遡らせて考えるべき課題である。

  

1. 真の言霊は人類の生命力を生み出してゆく。

  

1. 日本は神性あふれる言霊の国である。

  


         「日々の指針」 西園寺昌美 白光誌 3月号より




 

  

  

2013年2月25日 (月)

十人百色 3

 
 
・・・・中学生のときにも経験があった。

当時の陸上の顧問は名物コーチで、彼女が赴任した学校の陸上部は、ことごとく飛躍的に成績を伸ばしていた。

卒業後 「なんで先生が教えると伸びるんですか?」 と聞いてみると、それは実に簡単なカラクリだった。

練習でタイムを測るとき、実はいつもスタートからすこし間をおいてストップウオッチを押していたと言うのだ。

練習ごとに伸びていく自分の記録に驚きながら、選手たちはそのまま成長し、全国大会に出場してしまった。

やる気や感情といったメンタル面が、身体へ確実に影響を与えていたのだ。


  
 
その後、ぼくは大学在学中に仕事をはじめた。

そしていろんなセミナーに参加するようになると、ふたたび驚かされることになった。

どのセミナーでも、どの人も、みんな同じことを言っていたからだ。

  

思ったことが起きる。

現実は自分が作り出している。

いいことを思うと、いい結果が生まれる。

紙に書けばさらに実現しやすくなる。

 
つまり 「思ったことは叶う」 と言う。 いい年をした大人たちが酒も飲まずに、真顔で夢を語っている。

聞いているこちらが照れてしまう。

ホントかよ。 ありえないと思った。

じゃあ七夕のとき 短冊に書いた願い事はどうなるんだ・・・・とぼくの心は斜めから見ていたが、半信半疑のまま、自分の夢を100個書き出したのは、もう20年以上も前の話だ。

100個にするために無理やり書き殴ったと言ってもいい。

「ホッチキスが欲しい」 といった小さなものから、

自分で噴き出しそうになるほどの大きなものまであった。

物から物じゃないものまであった。

今ではそのほとんどが叶っている。 その時、想像すらできなかった夢までも。

 左ハンドルの車に乗る。 これは書いた6ヶ月後に実現した。(実は買った40日後に事故で廃車になる。神様はまだお許しじゃなかったようだ)

海外旅行。 人生初の海外で、初の飛行機。 10ヵ月後に叶った。

秘書を雇う。 これは書いた2年後に叶う。

家を建てるという夢は4年後に叶った。

全国ラーメン食べ歩き。年収1億。 自分の本を出す。カフェを経営する。映画監督。

音楽の仕事に携わる。 親孝行する。 孤児院を開く。別荘を持つ。

宇宙旅行する。

カメラマンになる。 最強の友達に囲まれる。

などなど、書いて書いて書きまくった。

自分の本を出す。

これは少し大胆だった。 文章なんて書いたことがなかったからだ。

当時、自分が一番長く書いた文章というのが高校のときに読書感想文で、それすら妹が書いたものを写したくらいだった。

でも12年後に叶ってしまった。

絵を描いて海外で個展を開くというのも書いた。

筆を持つのは中学3年の美術の授業が終わったとき以来だ。

それも決して、学生時代、高い評価など受けたことがなかった。

そして1999年、ニューヨークのSOHOにて開いた個展は、僕にとって人生初の個展になった。

夢は紙に書かれた瞬間から、あなたに全力で向かってくる。

大きさは関係ない。

小さな夢より大きな夢が先に叶うこともあるくらいだ。

 イメージすればするほど、夢に近づくスピードは増すだろう。

ただ鮮明にイメージすればするほど、その先に死が見え隠れするかもしれない。

怖くなって視線を落とし、今をみつめたくもなる。

だから死とはなにか? 自分なりの結論を持っている人は強い。


 「やる気のスイッチ!」 山﨑拓巳 sanctuary books






 

  

十人百色 2

   

見る、触れる、聞く、味わう、嗅ぎ取る。

五感を使って未来と鮮明にイメージできれば、のぞみは叶う。

この法則を知っている人は多い。

でも、なぜほとんどの人は実行に移さないのだろうか。

ある友人は 「その向こうに死があるからだ」 と言った。

家を建てる。 10年、20年とどんどん古くなる。

子どもを持つ。 子どもが成人のとき、自分はいくつだろう?

50になれば、親が70過ぎだから、介護が必要かもしれない。

こんなふうに、未来のイメージをリアルにすることで、どんどん 「死」 がみえかくれする。

死との決着がついていないから・・・・未来を鮮明に描くことは怖い。

だからつい、視線は先の未来から、足元の今に戻されるのだ。

死は自分の存在すら消えてしまうこと。

それを受け入れるのは難しいだろう。

でも、執着を手放し、あきらめることならできるかもしれない。

人間は致死率100%なんだから。

「死」 について考えるのは、「生」 について考えるのと同じで、リアルに未来を描くために必要だ。

ぼくは輪廻転生を信じている。

何度も何度も生まれ変わりながら、学び、タマシイをみがいているんだと思うようにしている。

そしてもっとも自分をみがくことができるのが 「仕事」 だと信じている。

一体どこまでみがけるかな?

そう思うと素敵な未来がくることを、心からのぞめるようになる。



やる気スイッチ 

お墓参りに行く。







    「やる気スイッチ!」 山﨑 拓巳 sanctuary books







   

 

十人百色

  
  
人はそれぞれに違う思考、価値観、感性(感情)を持っていて

幸せを感じるところもみんな違うんだ とある人が言っていました。

幸せだけではなく、不幸だと思うところも、嬉しいところも、悲しいところも・・・・・

とくに感情を受ける箇所ってほんとにちがいますよね。

だけど結局は自分の狭い了見で判断する

自分の価値判断が正しいと思うから、そしてそれを主張するから人間関係がおかしくなるのだと思います。

自分の物差しを相手に合わせて

「うっ合わない、これは自分が相手に合わすべきなのか? 合わさなくてもいいのか?」

面倒臭いですよね(笑)

いちいち考えるのって

まさしく十人十色どころか、十人百色、いや十人千色かもしれない(笑)

それと少し関連しているのですが、当然人の死生観ももちろん違うのです。

人間は死んだらどうなるのか?

魂、心は肉体に付随しているものであって、肉体が滅びれば(つまり死)心も魂も無くなってしまうのか?

仏教のいうように、死は他界であって違う世界(幽界、霊界、神界)へ生きて往くのだ(往生ともいう)。

肉体と魂は別のもので肉体が無くなっても、魂(心)は永遠に生きつづけるのだ。

それぞれの説?を信じ切っている人と、

どちらかわからない

死んだときの記憶がないので、わかるはずもない(笑)

だけど、死というものが怖いことだけは確かだ

そして死と直結する 病気になることも怖いのだ

ほとんどの人は、わからない

死の先がみえない 

だから未来をイメージすることも怖いのだ

自分は段々年齢を重ねてゆく

体も弱ってくる

気力も衰えてくる

自分だけではなく 親も先に老いてくる (無限なる光!)

面倒もみなくてはいけない (無限なる愛!)

そんな未来しか見えていないとしたら

“明るい未来をイメージしてそこにエネルギーを注ぐ(果因説)”

なんてできないですよね。

私は、自分でいうのもなんですが

死はある時期からまったく怖くなくなった(いつの頃からかは覚えていませんが)

病気も怖くはない(若い頃に病気で死にかけたことがあるから)

老いていく辛さもない(年々若くなっていると思っているから)

両親の面倒はどうする(今のところ元気だし、その時はそのときだと楽観している)

しかし、それも十人千色、万色

人それぞれ状況も体験してきたことも、体験により、どう思考が変わったのかも違うのです。

私は、死生観は、人に言われてそれをなんとなく納得するのではなく、

自分で積極的に追及することが大切だと思うのです。

死と生きることとは直結しています。

死ぬこととは生きることなり

生きることとは死ぬことなり

だから未来を今をしっかり生きていこうとしたならば

自分なりの死生観を持つべきだと思うのです。

これから地球は、次元上昇して3次元から4次元へと突入します。

黎明の時代です。

幽界が無くなって、霊界、神界が地上に顕われて来る

死んだ人(魂)は、霊界、神界にいるので

霊界や神界で死んだ人(肉体界を去った人)が肉体界でも会えるようになってきます。

映画 「よみがえり」 の世界が現実のものとなる。

死んだ人と普通に会えるようになると 死は、今ほとんどの人が考えている死ではないということがわかるのです。

私はその日が近い(かなり)と思っているのですが

それまで私たちはどうしていたらいいのか?

そうなってからではなく真実は前倒しで知っておくのが正解だと思うのです。

準備不足解消 ではないけれど

備えあれば憂いなし ではないけれど

先のことがわかっていないと

地に足が着いた

不動の心で安心立命して生きていけないからです。

楽しいのも嬉しいのも

なにがあっても動じないのも

先が読めてこそ

わかっているからこそ

なのです。

そんなことを感じながら

私は今、未来を善くしていくためのメソッドとして、とても参考になる良本を見つけました。

死とは、明るいものである

自由自在心になれ、霊界、神界という素晴らしい世界への旅立ちである

だから未来は明るく素晴らしいものなんだ

安心して未来をイメージしてもいいんだ

という前提のもとで次からの日記を読んでいただけたら幸いです。

  
  
  

 

2013年2月22日 (金)

最悪ではなく、最良なのです。 2





災難にあったら 「業」 が消えたと喜びなさい

 

そして、その真我(本心)を包み込むようにして取り巻いているのが、「魂」 です。 真我が一糸まとわぬ純粋な裸身であるとすれば、魂はそれを覆う衣服に相当します。

その衣服には、それぞれの魂が経験してきた思いや行ない、意識や体験がすべて蓄積されています。

現世で自分がなしてきたもろもろの思念や行為もまたそこに付加されていきます。

つまり魂とは、それが何度も生まれ変わる間に積み重ねてきた、善き思いも悪しき思いも、善き行ないも悪しき行ないもみんなひっくるめた、まさにわれわれ人間の 「業」 が含まれたもの。

それが魂として真我という心の中核を取り巻いている。

したがって真我が万人に共通したものであるのに比して、魂は人によって異なっているのです。

子どものころ、母親から 「あんたは魂が悪い」 といわれた覚えがあります。

鹿児島では、根性が悪かったりひねくれた性格のことをそういうのですが、幼いながら私の魂のうちに、何かよくない業が含まれていて、それが私の心の一部をゆがめたり汚していた。

そのことが母の目には見えていたのでしょう。

では、魂に垢のようにこびりついているとされる 「業」 とはどのようなものなのか。

そのことについて深く教えてくださったのは、私が得度する際にお世話になった西片たんせつ老師でした。

もう20年近くも前の話になりますが、京セラが許認可を受けないままにファインセラミック製の人工膝関節を製造、販売したとして、マスメディアから非難を浴びたことがありました。

これはすでに許可を受けて製造していたファインセラミック股関節を、医師や患者の方々の強い要望があったために、膝関節部分に応用したという経緯があり、私としては不本意なところもありました。

しかし、私はとくに弁解をせずに批判を甘んじて受けようと覚悟しました。

私はたんせつ老師を訪ね、

「このところこういう問題があって、心労が耐えないのです」 というお話しをしました。

老師もこの問題については新聞などを読んで知っておられたようです。

あたたかい慰めの言葉をかけてくださるのかと思ったら、老師は開口一番、次のようにいわれたのです。

「たいへんでしょうが、しかたありません。生きていれば、苦労は必ずあるものです」

そして、続けざまに次のようにお話しくださったのです。

災難にあったら、落ち込むのではなくて喜ばなくてはいかんのです。

災難によって、いままで魂についていた業が消えていくのです。 それぐらいの災難で業が消えるのですから、稲盛さん、お祝いをしなくてはいけません」

このひと言によって、私は十分救われた思いがしました。

世間からの批判も、

「天が与えもうた試練」 と素直に受け取ることができたのです。

まさに、いかなる慰めの言葉にもまさる、最高の教えを老師は授けてくださり、私は人間が生きるということの意味、そしてその奥底に横たわる偉大な真理までを学ぶことができました。

        


           『生き方』 稲盛和夫 サンマーク出版


 



  



  

最悪ではなく、最良なのです。 1

  

昨日の、魂と心はどう違うのか?の続きで今日は、魂のことをより詳しく書いていくつもりなんですが、その前に汚れた魂が、守護霊、守護神によってどのように浄められているのかも併せて述べていきたいと思います。


私たちは自分にちょっとでも都合の悪いことがあると、そして結果が思った通りにならないとすぐに

「最悪だぁ~」

とか

「なんで俺がこんな目に遭わなくてはいけないんだ」

とすぐに被害妄想に陥ります。

そして人を恨み、自分の運命を嘆き、自暴自棄になったりする。

しかし、真実は 「最悪」 ではなく 「最良」 なのです。

詳しく説明しますと

今、自分の目の前に起こっていること(肉体界に)というのは、過去のことが写って来ているのです。

これは星で説明が出来るのです。

今私たちが見ている星の光は、今光っている光ではなく、遠い星であったなら何万光年も前に光った過去の光です。

だから今見ている星は無くなっているかもしれない(不思議な感覚ですが)

それと同じように肉体界とは、神界、霊界、幽界という目にみえない世界が写ってきているのです。

神界は未来であり、霊界が本当の今、幽界は過去の潜在意識の溜まった世界、そして肉体界は幽界に溜まった人間たちの過去の想念が写ってきているのです。

だから、仏教では、この世(肉体界)のことを写し世といいます。

今は、幽界がそのまま肉体界に写っているのです。(神界が写ってくれば地上天国になる)

幽界は、人間の想念行為が蓄積されたところ、マイナスのエネルギーがぎっしり詰まって汚れているのです。

今の地球は肉体界と幽界が合体している状態です。

幽界を浄めないと地球は破滅するのです。

それをさせまいと四六時中地球を浄めに浄めてくださっているのが

守護霊、守護神さまたちです。

守護霊は霊界から守護神は神界から幽界を浄めておられる。

そして同時に私たち肉体人間の幽体(魂)も浄めてくださっている

幽体に記憶されたものをそのまま肉体界に現わしては大変なことになるからです。

私たちは過去世に散々悪事を働いてきた(善いこともしてきたが)

人を殺したこともあれば、人を奴隷のように扱い、殴ったり、蹴ったりもしてきた

この世は、過去世が写ってきているので、殺した過去があれば殺され、殴っていれば、殴られるのです。(因果応報という)

それがそのまま写って来たら、大変なことになってしまう

肉体界で殺し合いが生じてしまう(今以上に)

そうならないために、守護霊守護神は、幽界に働きかけて過去の因縁生を消しているのです。(完全に消えない場合に大難が小難になる)

消すことによって大難が小難になっている(地震や津波も同じく小難になっている)

殺されるところが、殴られることで済んだり、大けがをすることが小さなケガで済んだりしている。

大病が風邪くらいでおさまったりしているのです。

すべてのすべてが小難になっている

これが真実なのです。

だから

「ああこれくらいで済んでよかった、守護霊様、守護神さまありがとうございます」

なのです。

そして、肉体界に現われるということは、それで根の部分は消えたことになる。

もう二度と繰り返されることはない。(他の因縁生は現われますが)

人間が本当に幸せになるには、どんなことが起こったとしてもそれがそのまま不幸ではなく、幸福から出た膿、小さなマイナスなんだ

この小さなマイナスはプラスに転じるんだ

だから小さなマイナス(小難)は有難いんだ

と心の底から思えるようになることなのです。


稲盛和夫さんは 「生き方」 の著書の中でそのことに触れておられます。

魂とは何か?と併せて読んでいただけたら幸いです。

 

2013年2月21日 (木)

心と魂はどう違うのか? 2

  

   心の中心に真理とつながる美しい 「核」 がある


 

私は、人間の心は多重構造をしていて、円心円状にいくつかの層をなしているものと考えています。

すなわち外側から

 

① 知性 ━ 後天的に身につけた知識や論理

② 感性 ━ 五感や感情などの精神作用をつかさどる心

③ 本能 ━ 肉体を維持するための欲望など

④ 魂   ━ 真我が現世での経験や業をまとったもの

⑤ 真我 ━ 心の中心にあって核をなすもの。真・善・美に満ちている

 

という順番で、重層構造をなしていると考えています。私たちは心の中心部に 「真我」 をもち、その周囲に 「魂」 をまとい、さらに魂の外側を本能が覆った状態でこの世に生まれてきます。

たとえば、生まれたての赤ん坊でも、おなかがすけば母乳を欲しがりますが、これは心の一番外側に位置する、本能(生命力)のなせる業です。

そして成長するにつれて、その本能の外側に感性(感情)を形成し、さらに知性を備えるようになっていきます。

つまり、人間が生まれ、成長していく過程で、心は中心から外側に向かってだんだん重層的になっていくわけです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・(中略)・・・・・・・・・・

ここで肝要なのは、心の中心部をなす 「真我」 と 「魂」 です。

この二つはどう違うのか。

真我はヨガなどでもいわれていますが、文字通り中核をなす心の芯、真の意識のことです。

仏教でいう 「智慧」 のことで、ここに至る、つまり悟りを開くと、宇宙を貫くすべての真理がわかる。

仏や神の思いの投影、宇宙の意思のあらわれといってもよいものです。

仏教では、「山川草木悉皆(しっかい)成仏」、すなわちありとあらゆるものには仏性が宿っているという考え方をしますが、真我とはその仏性そのもの、宇宙を宇宙たらしめている叡智そのものです。

すべての物事の本質、万物の真理を意味してもいる。

それが私たちの心のまん中にも存在しているのです。

真我は仏性そのものであるがゆえにきわめて美しいものです。

それは愛と誠と調和に満ち、 真・善・美を兼ね備えている。

人間は真・善・美にあこがれずにはいられない存在ですが、それは、心のまん中にその真・善・美そのものを備えた、すばらしい真我(本心)があるからに他なりません。

あらかじめ心の中に備えられているものであるから、私たちはそれを求めてやまないのです。

      『生き方』 稲盛和夫 サンマーク出版

追伸

魂については明日、続きを書いていきます。

  

 

  

心と魂はどう違うのか? 1

 

「心を磨く」 と 「魂を磨く」 どちらも言うのですが、心と魂の違いを知っている人は少ない

と思うのです。

かくいう私もハッキリとわかっていませんでした。

心(本心)は、私たち人間の本当の姿であり、光輝いた元の姿です。

魂とは、何回も生まれ変わり死に変わり(輪廻転生)している間に、心に業想念(誤った想い)

を付けた姿なのです。私がよく述べている幽体ですね。

ですから魂は汚れたものであり、心は純粋無垢汚れていないものですから

「心を磨く」 というのは違うのかもしれませんね。

私たち人間は、本心に過去世からの業を被った魂をまとい、そこに本能、感情、知識など

の今生のものを付けていったのが今の自分になっているのです。

人の業は、目にはみえないけれど、雰囲気、言動行為などでその人の魂の汚れ具合がわ

かったりするのです。

人に憎まれ口ばかり、悪口ばかりをいう人、人の道から外れたことをする人などは、業を

たくさん被(かぶ)った人と言えるのです。

そしてそれを隠そうとしても

「あの人なんだか雰囲気が暗いね」 とか 「感じが悪いね」 というのは、本心よりも魂の

方が見え隠れしている人なのです。

ただ魂が汚れているからといって、それを今のその人の責任にするのは違うのであって、

その人が知らない間(過去世)に付いてしまった汚れもあるのです。

汚れの少ない人は、幸せかもしれません、そして多い人は気の毒なのかもしれない

しかし、少ない人も魂の磨きを怠ればすぐに汚れてしまい

多い人も、「これではいけない」 と気づき精進すればいくらでも綺麗にしてゆくのは可能な

のです。

私たちはなんのために生まれてきたか?

それは、今生に生まれる前の自分よりも魂を成長させ、魂を磨き、輝かせて本心によりい

っそう近づけて死んでいく(肉体を離れていく)ことだと思うのです。

ところで今、私は稲盛和夫さんの 「生き方」 を読んでいるのですが、心と魂のことをわか

りやすく説明されている文章があります。

是非、みなさんにも読んでいただきたいと次のブログでご紹介します。

それでは、よろしくお付き合いください。



  

 

2013年2月20日 (水)

スッキリ爽やかになりましょう



 
私たちは絶えず何かを考えている、何かを思っている、そして思い、考え過ぎている。

頭はどういう状態がべストかというと、何も考えていない、青空のようにスッキリ澄み渡っているのが本来の正常な状態なのです。

そして本心がある宇宙からの直観のままに生きている状態・・・・。

それを邪魔しているのが、「ああだ、こうだ」 「どうしよう」 「なんとかしなければ」 という思慮分別なのです。

お釈迦様は、「空になれ」 「思い煩うな」 とおっしゃった。

そうすれば生命いきいき、幸せに生きられる。

  

ところで私が 「頭に浮かんくるもの、感じているものをノートに書き出しましょう」 というのは、書き出すことによって、もう考えなくてもいい状態をつくり出すということです。

書き出して、出したものを客観視して頭の中のゴミ(ほとんどがそうですが)も、良い考えもすべてを吐きだす

「これは大事なことなので出さなくてもいい(見られたら困るから)」 ではないのです。

スッキリすることが目的なので、いい想いも悪い想いもない

書いた後は、もう忘れていい(ノートが覚えてくれている)

頭を覚えるため、思うため、考えるために使ってはいけないのです。

頭は筒のようなものであって煙突です。

煙突が詰まっていたら、下で燃やした煙が天まで登って行かない、天(本心)まで通じない。

だから煙突の中は、なにもなければそれが一番いいのです。

ただ私たちは頭を空っぽにしたとしても、直接天に通じず、迷いの世界幽界に通じてしまっていることも多いのです。

だから正しい統一(本心と一体となること)をしないと

幽界のオバケちゃんにもて遊ばれることになる

幽界のオバケちゃんとは、死んだ後に霊界、神界に行かずに幽界をさ迷っている不良霊(動物霊、感情霊)のことです。

変な宗教家、変な思想家、変なスピリチュアル系の人たちが多いのもそのためです。(その人たちは総じて感情的です)

ですからお釈迦様は、安易な統一(瞑想)は危険だとおっしゃっている。

中途半端な瞑想はしない方がいい、めいそうが迷走になってしまう(笑)。

私は段階があると思っています。

まず本心と肉体人間の自分がつながりやすい状態にもっていく

それから深くつながる(統一)

本心(宇宙)とつながるにはどうしたらいいか?

宇宙の意識、意思(理念)と共鳴すればいい

それが祈りなのです。

祈りとはいのちがのりだすということ

本心とつながって、その本心が肉体にのりだすために祈るのです。

では祈り言はなんなのか?

それが

世界人類が平和でありますように  (May peace  Prevail on earth) なのです。

この世界人類とは宇宙すべての生命体をいいます。

先日、2月14日、バレンタインデーの日に、アメリカ・ニューヨーク国際連合本部総会議場において、国連総会議長主催のもと、SOPP(Symphony of Peace Prayers)が執り行われました。

http://webtv.un.org/watch/united-for-a-culture-of-peace-through-interfaith-harmony/2165451739001/


SOPPとは、宗教・宗派を超えて、共に世界の平和を祈る世界平和交響曲(シンフォニー)のことです。

その日には世界各国の旗を掲げ、参加者みんなで各国の平和を祈った。(開始より2時間35分後にフラッグセレモニーが行われました是非ご覧になってください)

その合い(愛)言葉が

世界人類が平和でありますように  (May peace  Prevail on earth)なのです。

この催しは、世界各国にインターネット中継されました。

世界平和の祈りは、国連の祈りになった

国連の祈りは地球人類の祈りになったのです。

この祈りを祈ると宇宙からもの凄い光が降りて来る

するとその光によって、私たちの脳裏を駆け巡る雑念、想念、業、カルマ、汚れたエネルギーは浄まってゆくのです。



追伸

始めは、頭をスッキリさせることがいかに大切なことかを書くつもりだったのですが、書いているうちに段々、核心に触れ書き終わった後に読み返すと「ずいぶんいろんなことを書いたなぁ」と自分でもビックリしています(笑)。

私たちが幸せになるには、真理を知らなければなりません。

しかしその真理をまだほとんどの人が知るところまでは至っていない。

今日、私が書いたこともほとんどの人はご存知なかったことだと思うのです。

真理を知ると、不幸が不幸でなくなる

マイナスがマイナスではなく、プラスだったことがわかる

真理とは素晴らしいものなのです。

これからも益々、真理を語っていきたいと思っております。




 

 

2013年2月19日 (火)

私たちは、好きになる努力をしているだろうか?


  
「人に好かれようと考えるより、人を好きになる」

それと全く同じ原理で嫌いな仕事も好きになろうと努力し、努力の結果、好きになった時点で

それは楽しいこと、嬉しいことに変わると思うのです。

私たちは受け身で仕事をしていないか?

人にも好きになってもらおうとしていないか?

相手(仕事)はどうであれ、自分から好意を寄せていけば

壁を無くして行けば、自ずと道は開かれると思うのです。

「あいつは気にいらない」

「この仕事は嫌だ、自分のやることではない」

と毛嫌いしていたら、自分の天職かもしれないのに、自分のべストフレンドかもしれないのに

そこでゲームセットになってしまうのです。

神さまは、人であれ仕事であれ

私たちになんの意味もない人や仕事を会わせたりしないのです。

きっとなにかがある

偶然ではなく、必然なんだ

仕事が与えれるということは、それがどんな仕事であっても

自分が成長する良い機会(チャンス)なのです。

そこを嫌がっていたら

また同じような経験をさせられる。

次に行っても同じ状況に必ずなるのです。

それはそこをまだ卒業していないから・・・・

待っていてもしかたがない

何も起こらない

好きになってくれないのなら

自分から好きになる

その精神でいいと思うのです。

 

「仕事をやり遂げるためにはたいへんなエネルギーが必要です。そしてそのエネルギーは、自分自身を励まし、燃え上がらせることで起こってくるのです。

自分が燃える一番よい方法は、仕事を好きになることです。

どんな仕事であっても、それに全力で打ち込んでやり遂げれば、大きな達成感と自信が生まれ、また次の目標へ挑戦する意欲が生まれてきます。

そのくり返しの中で、さらに仕事が好きになれます。

そうなれば、どんな努力も苦にならなくなり、素晴らしい成果を上げることができるのです。

つまり、「好き」 こそが最大のモチベーションであり、意欲も努力も、ひいては成功への道筋も、みんな 「好き」 であることがその母体になるということです。

「ほれて通えば千里も一里」 「好きこそものの上手なれ」 といいならわされてきたとおり、好きであれば、自然に意欲もわくし努力もするので、最短距離で上達していく。

人から見ればたいへんな苦労も、本人には苦どころか、楽しみとなるのです。
 

     『生き方』 稲盛和夫 サンマーク出版




  


人に好かれることを考えるより、人を好きになる

   

“人に好かれることを考えるより、人を好きになる” 私が大好きな言葉なのですが、不幸というのは、幸せと思う気持ちよりも「自分は不幸なんだ」 と思う気持ちの方が多くて強いのだ思うのです。

それと同じように仕事が嫌いだというのも、この仕事をしていて楽しい、やりがいがあるというよりも面白くない、楽しくないの方が多い。

だがしかしそれは個人差があって、ある人がその仕事は嫌だと思っていても、他の人は好きかもしれない。

あくまでも自分の想いが好きか嫌いかを決めている。

どんなことをするのでも楽しんでやれる人がいます。

ほとんどの人は嫌がっているのに、平気で鼻歌なんか歌いながら♪ ルンルン気分でやっている。

同じことをやっていながら

楽しみながらやっている人は幸せなんです。

嫌々ながらやっている人は不幸なのです。


だったら、楽しんだらいいんじゃないか?

それと同じように、人を好きになってしまえば、

「あんな奴嫌いだ!」

「あいつは性悪だ!」

もなくなってしまうのです。

どんな人でも必ずいいところはある

神さまは人間を悪にはつくっておられないのです。

長年の輪廻転生(りんねてんしょう)で生まれ変わり死に変わりをして

美しい魂に業を付けてしまっただけで

どんなに業にまみれた人でも

神さまは光を当てて、その人の神性が顕われるようにされている・・・

その瞬間を見逃さずに、その部分だけをみて

「この人はこんなところが素晴らしい!」

と神性を認めるのです。


だから見つけやすくするためにも

私たちは

“人に好かれることを考えるより、人を好きになる”

ことが大切だと思うのです。

人を好きになる努力をすることが大事だと思うのです。


 

 『無限次元への誘い』 于寿明 星湖舎




  

 

2013年2月16日 (土)

できることから少しずつ

 

人は、何か目標があってそれを達成できたときに無上の喜びを得る。

それは魂が喜んでいるのかもしれない

感動もそうであり、二人(又は複数)の魂が融け合って、一つになることを愛という

私は愛の行為が感動を生むものだと思っている

目標を達成できたときも感動と同じような高揚感がある。

だから私たちはその高揚感を味わいたくて目標を設定する

しかし達成できて、美酒を味わえる人は少ない

それは、モチベーション(やる気)が持続しないために達成までいかないからだ

だから問題はいかにモチベーションを保ちつづけるかにある

なにがあっても諦めないマインド(精神)

今日がダメでも

「明日又頑張ろう!」 という根気強さはどうしたら培えるのか?

養うことが出来るのか?

どんな動機づけをすれば、人はやる気スイッチがONになるのか?

そしてONにしつづけることが出来るのか?

私は、毎日20の目標をノートに書き出すことを始めた

その中には将来的に達成したい中長期的なこともあるが、簡単に達成出来る目標も書いてある
 

「今日は、文房具屋さんに寄って、ボールペンを買う」

ある日の目標には、それが20の中に入っていた

私は、すぐにペンをどこかへやってしまうので、いざ書こうとしたときに

「ペンはどこだ、ペンはどこへ行った?」 と探し回らなければならない

ちゃんと定物定位、整理整頓をしていればいいのだが、雑な私はその習慣がついていない

そこでペンがたくさんあったなら、探し回らなくても済む

ずぼらかもしれないが、書くことを楽しみにしている私にとって、それくらいの贅沢、無駄はあってもいいのではないか?
 

「いつどこを見渡してもすぐにペンが見つかる状態」・・・・


そんなイメージが浮かんだ

そう思った私は、ボールペンを買うことを決意(おおげさですよね)し、目標に掲げ(もっと大げさ)心斎橋に行った際にめでたくボールペンを買うことに成功したのだ。

ボールペンを手にしたとき、なんともいえない喜びが湧いてきた

「ああそうそう、ボールペンを買っておこう」

とその場で思い付いて買っていたのならたいした喜びもなかったと思う

しかし私は、動機つけをして、目標にまで高めあげ、そして行動を起こして、目標(ボールペン)を手にしたのだ。

それは

小さな小さな達成であるかもしれない

しかし目標が達成できたことには変わりはない

「はじめてのお使い」 という番組があったが計画を立て、今までに出来なかったことにチャレンジすることに意味がある、そこに親の愛が加わるからいっそう感動が広がる

人は難しいことにチャレンジして成功すれば喜ぶが、簡単なこと、すぐに出来ることには感動しない

だとすると感動が少ない人生になってしまう

どんな小さな幸せでも幸せを感じられるようにならないと

私たちは常時、幸せではいられないのだ

それと同じようにどんなに小さな目標でも達成できたときに喜べる人でありたい

その小さな喜びを重ねていくことによって

たくさんの達成感、幸せ感を味わい

自分に自信を徐々につけていき

大きな目標も成し遂げることが出来るようになるのだと思う

話しは長くなりましたが(笑)

20の目標の中に

是非、簡単に達成出来る、ハードルの低いことも掲げてください。

そしてどんなに小さな達成でも

自分で自分を褒めてあげてください

人は他人に認められ褒められるよりも自分で自分を認め褒めてあげることの方がずっとずっーと嬉しいのです。

魂が喜ぶのです。

「そんなことでは、これからの厳しい競争社会を生き抜いていけないよ」

と言う人がいるかもしれない

「いいじゃないですか、自分で自分に甘くしないと誰も甘やかしてはくれないでしょ」

私たちは自分に厳し過ぎるのです。

自分に厳しいから人にも辛くあたってしまうのです。

強くなるのはその後でいいと思うのです。

甘くするというのは、自分に寛容になるということです。


“やる気とは余裕のある心から生まれる”

そんなことを感じさせられた新聞のコラムをご紹介します。

 

      できることから少しずつ

先週、試験ではできそうな問題から手をつけるのが良いと指摘した。私は最初の設問から取り組む癖があり、それが大学受験で3年間浪人した一因だったと思っているからだ。

私は第一問が解けないと、そこで固まってしまい、先に進めなくなっていた。

「問題が解けないのは、自分に実力がないからだ」 と考えて、急激に自信がなくなり、次の問題に取りかかる気力もうせてしまった。

そのときの焦りの感覚は、今でも実感を持って思い出すことができるほどだ。

できそうもない問題は早目にあきらめ、解けそうな問題を探すのが良いのだが、これは脳科学的にも理にかなった判断なのだ。

脳の中に報酬系という仕組みがある。

私たちのやる気と関係しているといわれている脳のシステムだ。

報酬という言葉から連想できるように、やる気は心理的な褒美を実感したときに強くなる。

これは日常の体験を思い出すとよく分かる。

何かをして良かったなと思えたときは、またやってみようという気持ち、つまりやる気が生まれてくる。

逆に、何かをやろうとしたとき、ただ待っていたのではやる気は出てこない。

こうした心理は、試験でも、仕事でも、日常の生活でも同じように働いている。

やる気が出てこなくなっているときこそ、少しずつでもできそうなことをしてみると良いだろう。

   (国立精神・神経医療研究センター 大野 裕)日経新聞2月15日夕刊から

2013年2月15日 (金)

自分の天命(生き方)が何なのか?を知る 3

  
私は、今の学校教育でもただ

「目標を持ちなさい」とか「いい大学を出ないといい会社には入れないよ」とか「頭が良くなければロクな仕事につけないよ」

とかで勉強のモチベーションを煽るのではなく、目的を持つ本当の意味を伝え、目的を持つには自分はどういう人(人格)になりたいか?をまず、しっかりと定め、それに感動という心をコミットさせ、そして初めて想いが “カタチ” になり目標を持つことになるのだ。

そして目標を決めたからには、強くイメージしつづけることが大切なのだ。

目標が消えそうになったり、萎えそうになったらまた原点に戻って

「どういう人になりたかったのか?」 を確認しなさいと教えることが大切だと思うのです。

これらはセットになっていないとつながっていないと駄目だと思うのです。

目標にもストーリーがあるのです。

その人その人、人それぞれの物語がある。

しかし、ベースになるものはかわらない

ここから稲盛さんのエピソードの続きを書いていきます。



 

思わんとあきまへんなぁ━ この松下さんのつぶやきは私に、「まず思うこと」 の大切さを伝えていたのです。

ダムをつくる方法は人それぞれだから、こうしろと一律に教えられるものではない。しかし、ますダムをつくりたいと思わなくてはならない。(なぜダムが必要か?)

その思いがすべての始まりなのだ。(つまり愛、感動が先にあるのです)

松下さんはそういいたかったにちがいありません。

つまり、心が呼ばなければ、やり方も見えてこないし、成功も近づいてこない。

だからまず強くしっかりと願望することが重要である。

そうすればその思いが起点となって、最後にはかならず成就する。

だれの人生もその人が心に描いたとおりのものである。

思いはいわば種であり、人生という庭に根を張り、幹を伸ばし、花を咲かせ、実をつけるための、もっとも最初の、そしてもっとも重要な要因なのである━。

折にふれて見え隠れしながら私たちの人生を貫くこの真理を、私はそのときの松下さんのためらいがちなつぶやきから感じとり、また、その後の実人生から真実の経験則として学び、体得していったのです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(中略)・・・・・

企業経営でも、新規の事業展開や新製品開発などでは、頭で考えればたいてい、これは無理だろう、うまくいかないだろうと判断されることのほうが多いものです。

しかしその「常識的な」 判断ばかりに従っていたら、できるものもできなくなってしまう。

本気で何か新しいことをなそうとするなら、まず強烈な思い、願望を持つことが不可欠なのです。

不可能を可能に変えるには、まず「狂」がつくほど強く思い、実現を信じて前向きに努力を重ねていくこと。

それが人生においても、また経営においても目標を達成させる唯一の方法なのです。

     

         『生き方』 稲盛和夫 サンマーク出版



  

  

自分の天命は何なのか?を知る 2

 

  
イメージをして目的を達成させるにしても、そのイメージする力が弱ければ達成する可能性も低くなるのです。

だから毎日20の目標を書くというのは、何度も何度も心に刻印をすることになる、強くイメージすることになるのです。

すると何かヒントがあるとすぐに心が反応します。(アンテナを張っている状態)

この反応に素直(頭を空っぽにして)に従っていると

後は面白いように達成、成就に向かってベクトルは進んでいくのです。

これはまったく、果因説の考え方ですね。(詳しくは「果因説」 西園寺昌美さん著をご参照ください)

私は、目的を強く想う(イメージ)することの大切さを稲盛和夫著「生き方」を読んでわかりました。

本はほんとに、私に大切なことをたくさん教えてくれます。

人と人の触れ合いも大切ですが、私にとって本はかけがえのない存在なのです。

ここで稲盛さんが目標達成には、痛烈に想うことがいかに大切かを感じたというエピソードをご紹介します。

 

・・・・いいかえれば、その人の心の持ち方や求めるものが、そのままその人の人生を現実に形づくっていくのであり、したがって事をなそうと思ったら、まずこうありたい、こうあるべきだと思うこと。

それもだれよりも強く、身が焦げるほどの熱意をもって、そうありたいと願望することが何より大切になってきます。

そのことを私が肌で知ったのは、もう40年以上も前、松下幸之助さんの講演を初めて聴いたときのことでした。

そこで松下さんは有名なダム式経営の話をされた。

ダムを持たない川というのは大雨が降れば大水が出て洪水を起こす一方、日照りが続けば枯れて水不足を生じてしまう。

だからダムをつくって水をため、天候や環境に左右されることなく水量をつねに一定にコントロールする。

それと同じように、経営も景気のよいときこそ、景気の悪いときに備えて蓄えをしておく、そういう余裕のある経営をすべきだという話をされたのです。

それを聞いて、何百人という中小の経営者が詰めかけた会場には不満の声がさざ波のように広がっていくのが、後方の席にいた私にはよくわかりました。

「なにを言っているのか、その余裕がないからこそ、みんな毎日汗水たらして悪戦苦闘をしているのではないか。余裕があったら、だれもこんな苦労はしない。我々が聞きたいのは、どうしたらそのダムがつくれるのかということであって、ダムの大切さについて今さらあらためて念を押されてもどうにもならない」

そんなつぶやきささやきが、あちこちで交わされているのです。

やがて講演が終わって質疑応答の時間になったとき

一人の男性が立ち、こう不満をぶつけました。

「ダム式経営ができれば、たしかに理想です。しかし現実にはそれができない。どうしたらそれができるのか、それを教えてくれないことには話にならないじゃないですか」

これに対し、松下さんはその温和な顔に苦笑を浮かべて、しばらく黙っておられました。

それからポツリと

「そんな方法は私も知りませんのや。知りませんけども、ダムをつくろうと思わなあきまへんなあ」

とつぶやかれたのです。

今度は会場に失笑が広がりました。

答になったとも思えない松下さんの言葉に、ほとんどの人は失望したようでした。

しかし私は失笑もしなければ失望もしませんでした。

それどころか、体に電流が走るような大きな衝撃を受けて、なかば茫然と顔色を失っていました。

松下さんのその言葉は、私にとても重要な真理をつきつけていると思えたからです。


   「生き方」 稲盛和夫 サンマーク出版



  

 

自分の天命は何なのか?を知る 1

  

「あなたの人生の目的はなんですか?」

「なりたい自分の未来をイメージし続けたらその通りになるんですよ」

と言われても

その目的もハッキリしていない、なりたい自分もわからない

先日ある若い女性と話をしていたときに

その女性が言っていたのです。

「なりたい自分がイメージできない」

「目的がなんなのかがわからない」

だから目的を持つ以前の問題なのです。

もしかしたら、なぜ目的を持つ必要があるのか?

なのかもしれませんね

そこまで掘り下げないと原点に帰らないと解決しないのです。

なにが解決しないかというと目的もなく生きるということは人生を無駄に過ごすことになるからです。

目的というのは目先の目的ではなく、自分はどういう人になりたいか?という人格の目的なのです。

「人に愛される人になりたい」

「人の役に立つ人間になりたい」

「人の生命を救う人になりたい」

「人の苦しみを和らげられる人になりたい」

その気持ちをずっと持ちつづけていた

そんなときに身内の人が大きな事故に遭って救急車を呼んだ、そのときに救急隊員の姿を見た、懸命に命を救おうというその姿に感動した、救急医療の病院に運ばれて今度は医者の姿をみた、全神経を患者に注いでいるこの世的な損とか得とかを超越した美しい世界がそこにはあった、手術が無事に終わりそこで献身的な看護師さんに出逢った・・・・・。

人と人との出会いで感動があって、そこでなりたい自分をみつける。

出会いでなくても、素晴らしい本に出会って、そこでなりたい自分を発見する。

感動が先なのです。

そこでなりたい自分を強くイメージして、目的が決まるのです。

「儲かるから尊敬されるから医者になりたい」

「これからは訴訟問題が増えるから弁護士になろう」

「公務員は安定しているから」

「大企業でないと友だちに笑われる」

「給料がいいからここに決めました」

「休みが多くないと自分の趣味が活かせない」

「どこでもいいから就職したい」

・・・・・・・・

そんなことが目的になってしまっているから

入ってから悩むのです。

よその芝生が青く見えるのです。

ハッキリとした目標がないと、それに沿って自分を創っていかないとちょっとしたマイナスのエネルギーを受けただけで萎えてしまうのです。

今こそ、自分の目的をしっかりと作る必要があるのです。

そのためにはどうしたらいいか?

私は、本心(本当の自分が思っていること)を追求していくことしかないと思うのです。

本心開発ですね。

私たちの心には、いらないものが付いています。

雑念もそうですし、昨日のブログにもあったように、人の想いも受けます。

頭の中をスッキリさせて、仏教でいうところの “空” になって

本心からのメッセージ(神智)が入って来やすい状態にしていることがたいせつなのです。

ノートに書き出すというのは、いっぱいに詰まった頭から雑念を出すということです。

だから頭に浮かんだことを片っ端から書いていけばいい。

幼稚なことも、卑猥なことも、邪なことも、書いたことを読むに耐えないようなことも、自分の醜いことも、反対にやさしい自分、思いやりの深い自分も表われてきたりします。(他人に見せる必要はない書いたら捨ててもいいのです)

なんでもいい、なんでもいいからひたすら書いて書いて書きまくる

すると頭は空っぽになって風通しが良くなってくるのです。

スリムになった頭は、余分な贅肉が取れて天(本心)と直結するのです。

これが本当の頭が良くなった状態です。

みんながこの状態になれば、みんなが賢くなる

みんなが東大に入れるのです(笑)。

勉強の出来る人って

知らず知らずのうちに頭をスッキリさせる方法を自分なりに身に付けていると思うのです。

集中力しかり

切り換えが早いとか

余計なことに神経がいかないようにしている

目的を何度も心に刻印してる(何度もイメージする)

しかしこれは、偏差値が高いというのではなく

直観力が素晴らしい!という頭の良さなのです。

そういう状態になると自分が何がやりたいのか?

何をすれば生き生きするのか?

何を目的に生きていけばいいのか?

がわかってくるのです。(本心はそれを教えようとするから)

わかってくればしめたものです。

後はそれを強くイメージすればいいのです。

 「想いをカタチに変えよ!」 渡邊 美樹 PHP

 「スマートノート」 岡田斗司夫 文藝春秋

 「生き方」 稲盛和夫 サンマーク出版

 

  

2013年2月14日 (木)

どうしても好きになれない、嫌いな人いませんか?



  
いくら周りで、「止めなさい」 と言っても 「なんでそういうことをするんだ!」 「やめなかったら制裁を科すぞ!」 と言っても それでもやってしまう。

そんな国もあればそんな人もいる

その人の奥には神性が隠れている、今はそれが顕われていないだけなんだ、業をたくさん被っているだけなんだ

だから

「どんな人でも愛しなさい」

それがキリスト様の愛の深さではあるのですが

だからといって

「ハイ、そうします」 と出来るものではないのです。

もし、その人が家に居たとしたら、帰るのが嫌になります。

我慢できなくなります。

でも、私たちの周りにはそんな人が一人や二人はいるのです。

話の中に入って行こうとしても

どうしても入っていけない

仲良くしたくても

どうしても親しくなれない

言葉をかけようとしても

「言葉が出てこない」

近寄っていこうとすると

自分の相手にすることが

わざとらしく、ウソ臭くなってしまう

他の人だったら 自然に振る舞えるのに

その人だけはどうしても 相性が合わない

そんな人いませんか?

そんなときお釈迦さまやキリストさまはどうしたんだろう?

聖者のやる通りには出来なくても

それに近いことは出来るかもしれない・・・・


お釈迦様は、みんなに支持され、好かれ、愛されたわけではなかったのです。

むしろ、恨まれ、嫉妬され、憎まれることの方が多かった

お釈迦様の側近で十大弟子の一人であった阿難の実兄である提婆達多(だいばだった)は、自分が認められない苛立ちや嫉妬からお釈迦様を憎みその生命を何度も奪おうとした。

阿難は兄の反逆に心を痛めたのであったが、お釈迦様はいたって自然体であったのです。

近寄って、やさしく諭すわけでもなく、恨み返すわけでもなく

ただ離れたところから光を送っていただけなのです。

提婆達多(だいばだった)にとっては、お釈迦様の光は強過ぎたのです。

業の厚い人が強い光を受けると、昇天(肉体が滅びる)するか、または提婆にとってかえって真理から遠ざけることになる。

自然に悟らせることが出来なくなる、魂の成長にとってベストの状態ではないからです。

私たちは、性情の悪い人、つまり業(カルマ、マイナスの想念エネルギー)をたくさん被った人はどこかへ行って欲しい。

「私の近くへ来ないで欲しい」

そう想ってしまうことは悪いことだと思っていました。

「人とは上手く仲良くやっていかなければならないのだ」

「どんな人とでも明るく接することができないのは自分が未熟だからだ」

「人と合わせられなければダメなんだ」

そう思って自分を責めてきました。

しかし、お釈迦様やキリスト様は

どんな人であっても責めたりけなしたりは決してされなかったけれど

仲良くしようともされなかったのです。(それは誰に対してもですが)

つかず離れず 一定の距離をおいておられた

私たちは、親密になることが人間関係を良くすることだと思っています。

心を打ち解け、解り合えることが愛だと思っています。

しかし、そうではないのです。

神さまはどれだけ他の人間に害を与える人に対しても

抹殺しようとはされない

この世から消そうとはされない

やられている人を助けようともしない

じーっと見守っておられるだけなのです。

神さまは何をされているかというと

時期を待っておられるのです。

人間が本心に目覚め、愛に目覚め

本来の姿を顕わすのを

ただ、じーっと待っておられる


神は大愛なのです。

愛は忍耐なのです。

忍耐が愛なのです。

では、私たち人間はどうしたらいいのか?

それは無理をしてどうこうしようとするのではなく

早く相手の業が消えるように

天命を祈ってあげるしかないのです。

時期が来ないとその人が本心に目覚めることはないのです。

そのときにしか解り合える(仲良くなる)ことはないのです。

そのときまで、自分を責めたり、相手を責めたりするのではなく

普通に接していればいい

嫌がるでも避けるでもなく

普段のあなたのままでいいのです。

媚びへつらうことなどしなくていいのです。

相手に合わさなくてもいいのです。

無理に入っていこうとしたら

相手のエネルギー(波動)に合わそうとします。

悪口や陰口を一緒に吐かなくてはいけなくなります。

そんなことをしなくてもいいのです。

あなたはあなたのままで堂々と凛としていればいいのです。


 
     
お薦め本
  

     小説「阿難」 五井昌久 白光出版


 



  

 

 

頭の中を整理し空っぽにすることが幸せに・・・

  


私たちは、毎日、四六時中なにかを思っている。

「ああ嫌だ」 「なんか面白くない」 「退屈だ」 「やる気がしない」 「気分が悪い」 「もっとお金があればいいのに」

・・・・いろんな思いが頭の中を駆け巡っているのだけれど実はこれらのことは思っているのではなく感じているだけなのです。

それが証拠に、すべてが感情なのです。

つまり感じていること感情だけで生きている

感情に振り回されているといえば言い過ぎでしょうか?

そのときの気分次第で楽しくなったり憂鬱になったりする

そこには、何の根拠もない、ただ感情に流されて

受け取った感情によって気分を変えている

ほとんどの人がそうだと思うのです。

頭の中というのは、それほどファジーでボヤッとしていて、いろんなものが交錯している。

そして思いは想いとも書く、重いという意味もあるのです。

想いは相手の心と書きます。

つまり自分の思い(本心)だと思っていたのに、相手の影響を受けて、それが自分の思い(考え)だと思ってしまっているのです。

ややこしいですよね(笑)

人間は、肉体だけが自分だと思っているけれど、実は幽体という目にはみえない体(エネルギー体)も同時に纏っているのです。

肉体にくっついているシャツのようなものです。

幽体はだいたいビル一棟分の大きさがあり、大きなデパートに行くとその棟にいる人全員の想いの影響を受けるのです。

その中に非常に感情的になっている人がいたとしたら自分も理由(わけ)もなく腹立たしくなってゆくのです。

だけどそんなことがわかっていないものだから理由を他に探します。

「今朝、妻(夫)と喧嘩したからだ」

「あんなことを言って許せない」

「私がこんなにイライラしているのは妻(夫)のせいだ!」

そして怒りのエネルギーを増幅させていく

そして今度は近くにいる人をまたマイナスのエネルギーの渦に巻き込んでいくのです。

人間はこうして今の地球をつくっていったのです。 無限なる光!

だから、今地球も人間もこんなになってしまっている 無限なる光!、赦し!

これ以上感情に流されて、感情に振り回されて生きるのって嫌ですよね。

話を元に戻します。

私たちは日頃、思っている、考えていることは実は感じていることだったんだ、感情を掴んで思っている考えていると勘違いをしていたんだということです。

この感情、感じというのはやっかいです。

得体がしれない、実体がない、姿形がみえない、なんなのかさっぱりわからない

当り前です。

目にみえないんだから・・・・

この得体の知れない感情とやらを “カタチ” にしなければ

私たちはいつまでたっても 感情から脱け出すことは出来ないのです。

そしてこの感情の奥に、越えたところに本心がある。

私たちはこの 本心 が何か?がわからないから悩むのです。

迷うのです。

瞬時に即決できないのです。

私が最近しきりに

想いをノートに書き出してみましょうというのは

頭を駆け巡っている玉石混交(神性な部分とマイナス想念が入り混じっていること)とした想いを

相手の想いなのか?

自分の思い(本心)なのか?

を分けましょう

紙に書き出して、並べてみて

整理してみましょうということなのです。

冷蔵庫に何が入っているのかがわからなければ

料理のしようがないのと同じです。

冷蔵庫の中はぐっちゃぐっちゃにいっぱい詰まっていて

何が入っているのかわからない

だから

冷蔵庫から一旦全部取り出して

テーブルの上に並べてみるのです。

中には賞味期限の切れた肉が入っているかもしれない

かと思えば、新鮮な魚があるかもしれないのです。

紙に書き出して並べてみるといろんなことが見えてくる

潜在意識に眠った状態になっていた

本当の自分が見つかるかもしれません

「自分は心の底ではこういうことがやりたかったんだ」

という新しい発見があるかもしれない

書き出してみて

「これは自分じゃない」

というのがあれば

それは、本当のあなたではなく

人の想いなのです。

自分の思いと他人の想い

両方持っているから思い(想い)は重いのです(笑)

なにかを考えるだけで重たくなってしまうのです。

目的を持つって大切なことです。

しかし本心がわかっていないと目的の持ちようがないのです。

頭が混乱して、いつも感じているだけの状態

夢遊病者のような状態で 目的もなにもないのです。

自分を客観的に見つめる

そこから始めてみませんか?

あなたを幸せにする「スマートノート」 岡田斗司夫 文藝春秋



  

2013年2月13日 (水)

これからの時代に必要なのはアナログ的生き方なのです。

    
  
私が20の目標を手書きで書くことをブログでおすすめしてから、読者のある若い女性が早速実践してくれているそうだ。

いろんなことを発信しているのだけれど、本とかもお薦めしたりしているのだけれど、結構たくさんの人が読んでくださっているのだけれど、反応が見えないので時々メールで感想や心境などを教えてくださる人がいるのはありがたいことなのです。

また、頑張って書いていこうと思うのです。

さて、書くというには昔からあった風習で、和歌や短歌、俳句、詩・・・・なども日本人の情緒を豊かにしてきました。

そして人と人との心を繋ぐ手紙なども絶対に手書きが響きますよね。


日本語は象形文字で、
象形の象という字もなんだか象という動物を想像させるような雰囲気があります。

へたな字(絵)であっても心を込めて書けばそれは伝わるから不思議です。

メールやワープロは誰が打っても同じフォント(形)だからなんだか味気ないし

書き手の顔がみえてこないのです。

時代はどんどん便利になって、便利になりすぎて雑になっているような気がする。

私は、お世話になった人

大切な人

縁を感じる人

つながっていたい人

に手紙を書いてみようかな?

と思っています。

手紙に書くのはおおげさで

メールで出すにしても

雑にならないように(笑)(妻は返信メールのほとんどが了解しましただったので反省していました)

冷たい印象を与えないように

長文は苦手だけれど手書きで書くつもりで心を込めて送りたいと思います。

そのためにも心に感じたことを

象形文字(絵)にしていく練習は必要なことだと思うのです。

 

 

  心の玉手箱  手紙のセット

                   ジャズバイオリン奏者 寺井 尚子

根っからのアナログ人間である。携帯電話は持っているが、通話するだけでメールは使わない。

お世話になった人にお礼をしたり、時候のあいさつをする時は、できるだけ手紙を出すようにしてきた。

1998年、デビューアルバムを出したころ、お世話になった方たちに令状を書いた。

そのころから手紙を書く習慣が付いた。

ワープロの方がいくらでも書き直せるから便利だが、どうも心がこもらない気がする。

演奏ツアーで旅先にいる時でもレターセットを持ち歩き、いつでも手紙を出せるようにしている。

フランスのクレーンというブランドの便箋がお気に入りだ。

郵便局などでいつでも買える普通切手ではなく、記念切手を貼るようにしている。

たくさん使うから、100枚単位のシートを購入する。

一枚一枚なめたり、ぬらしたりして貼っていたなら大変なので、すぐに貼れるシール式の切手を使う。

ボールペンは3年ほど前に頂いたカルティエを愛用。

疲れないで書けるところがいい。

時間をかけて手紙を書いていると、いろんな出来事を思い出したり、以前は分からなかったことに気づいたりする。

一日の出来事をメモしておくようになった。

後でいろんなことに役立つからだ。

人生の中で、思い出深い手紙がいくつもある。

そのうちの一つがジャズバイオリンの第一人者として、第2次大戦前から長年にわたって活躍したステファン・グラッペリさんから届いたもの。

92年、2度目の来日公演の時、楽屋にお邪魔してあいさつさせていただいた。

伝説的なギタリスト、ジャンゴ・ラインハルトのグループのメンバーだったステファンさん。

当時、既に80代半ばだったが、素晴らしい演奏だった。

来日公演の後、ステファンさんにお礼の手紙を送ったら、思いがけず返事を頂き、とてもうれしかった。

コンサートツアーの旅先から出して下さったようだ。

万年筆で書かれたステファンさんの手紙。

真っすぐな文字が印象に残っている。

手紙には人格があらわれる。

心を伝えるのが手紙なのだ。

 
     日経新聞2月13日夕刊より



  
「世界に誇れる日本人のこころくばりの習慣34」 三枝 理枝子 中経出版

 「日本人が世界に誇れる33のこと」 ルース・ジャーマン・白石  あさ出版



  

  

2013年2月12日 (火)

原点に帰れば答はあるのです。




1.薬も、運動も、食事療法も、鍼も、灸も、マッサージも健康を維持してゆく為には、ある程度必要かもしれない。 が 一度び不安や恐怖心が湧き上がって来たら、果たして今まで続けて来た健康療法で乗り越えることが出来るであろうか。

身体を鍛える前に、心や精神を鍛える訓練をするほうが先決である。

つねに小さな些細なこと、取るに足らないことにさえ、いちいち自分の心が傷つき、イライラさせられ、心配や不安にかられていたならば、健康療法などなんの意味もなさない。

まず、どんなことが身のまわりに起っても、自分の心を痛めず、傷つけず、それに対して常に適切な対処が出来るように、心を養う必要がある。

心が常に一定し、明るく光明に輝いていさえすれば、身体はいつも何もしなくても健康そのものなのである。

肉体のコンディションはまず、心に起因しているものだということを知ることが大事である。



 
1. 人が一番恐れることは、自分の存在価値を失った時である。そこに居ても居なくても、誰からも相手にされず、無視されることは、耐えられない屈辱であり、こらえがたい孤独感である。

それを人に訴えても全く無駄なことだ。

何故ならば、原因は己にあるからである。

自分の態度や雰囲気が陰気であったり、人を拒絶するようなものであったりするからである。 誰からも愛され、好かれ、慕われる人間になる為には、極力明るく陽気に振舞うことである。


 

1. どうしてあなたはそんなに物を欲しがるのですか? あれも欲しい、これも欲しい。

家も建てたい、車も欲しい、レジャーを楽しむお金も欲しい。

何故、今日もまた無事生かされていることに、あなたは満足しないのですか?

もしすべてが叶えられたとしても、明日生きる保証がなければ、すべてが虚しいものとなってしまう。

神様はあなたが本当に必要とするものであれば、必ず与えて下さるものです。

神に生かされていることに深く感謝すべきであって、決してあなた自身一人の力で生きているのではないのです。

 

 


1. あなたの秘められた可能性を発揮するチャンスは、今なのだ。今をおいて他にはない。

何をそんなに躊躇しているのか。何にそんなに拘っているのか。何が一体あなたを即行動に移さないようにしているのか。

ためらう必要はない。 さあ、今すぐ、この場において、あなたが考えていること、したいこと等は、即行動に移してゆくことだ。

実際行動に移してゆくその途中に、その間に、すべてが整ってゆくのだ。

考えている間中は、実際問題何も出来ない。



 

 

1.一つに不安、一つの問題、一つのトラブル、一つの悩みに心が把われている時、又いつまでもそのことだけに心を奪われていると、解決どころか、ますますその不安、悩み、問題は自分の心の中で大きく成長していってしまう。

その一番の解決方法は、出来るだけその問題から心をそらすことに専念し、逆にその問題が解決された後の、未来の素晴らしいこととか、明るいこととか、楽しいこととかを心に描くように試みるのである。

すると、いつの間にかその問題は自然に解決されてゆく。

      『日々の指針』 西園寺昌美 白光出版




 

 

2013年2月11日 (月)

愛のげんこつは必要なのです

  

今、体罰問題が注目されていて、もちろん暴力はいけないけれど

もし仮に、相手(子どもであれ誰であれ)が間違った方向へ行こうとしているのなら、それはなんとしてでも正気に戻さねばならないのです。

先日、テレビで中年の男性が凛としたきれいな女性に 叱って欲しい、喝を入れて欲しいと冗談交じりに言っていましたが(笑) それはどこかに本来の自分とは違う人になっている自分の目(魂)を覚まさせて欲しいという願望もあると思うのです。

万引きをした息子を泣きながら拳骨で殴っている父親を見たことがあるのですが、その拳には愛がこもっていました。

私たちは、ある年齢を過ぎると本気で叱ってくれる人がいなくなるのです。

間違っていても、厳しく諭してくれる人、親父みたいに体ごとぶつかってくれる人がいないのです。

そうなると自分で自分を鼓舞し、軌道修正をするしかないのです。

私は、幸いにもメンター(人生の師匠)といえる人がいてその方の指導を受けているのですが、その他には本から学ぶことが多いのです。

気持ちがしゃんとしないとき、時間を無駄に過ごしてしまっているとき、怠惰になっているとき・・・そんなときに思わず手が伸びて 叱ってくれる本があるのです。

ちょっと厳しいかもしれませんが(笑)

よかったらお付き合いください。


  日々の指針

1.何故、君は人を頼るのか。頼ったからこそ裏切られたのだ。人に頼るものではない。又人に頼ったところで何の解決策もありはしないのだ。

あるように思えるのは、結果が一時的に解消されたにすぎない。永遠の解決ではない。人に頼っただけ自分の力が失われてゆくのに、君は気づかないのか。

人に頼る心が湧いたら何故自分自身に頼るように持っていかないのか。

それだけ自分に自信が持てないからか。 依頼心ほど人間を駄目にすることはない。

自分の本心に頼れる自分になれ。
 

1.すべての人間は “神の子” であるから、内に “無限の可能性” を秘めている。一度はこの世の常識に把われず、躊躇せず、臆せず、退かず、慮らず、自分のやりたいことを思いきりやってみよ。

自分のまわりをとりまいている常識がすべて足を引っ張っているのである。 その束縛から脱け出したならば、すべては難なく切り開かれる。

1.この世の社会的欲求(地位、権力、財産)を求めている人々は、その欲求を満たすことが出来たとしても、実際には地位や権力を持っている間だけ、金や財産を持っている間だけの満足しか得られないのである。

一旦それらのすべてを失った時、地位、権力、財産など人間社会の欲求を満たすことの空虚さを強く感じさせられるであろう。

イエスが言っている如く 「汝もし全世界の金を儲けるとも、明日に生命を失わば何の価値あらんや」である。


 

1.人生とはいろいろな人が出会い、交わり、多種多様な模様を織りなしてゆくようなものである。 だからこそ、人生は素晴らしいといえる。 人と人との出会いによって、あらゆる可能性が生じ、自分独自の人生模様を描いていけるからだ。

今からでも決して遅くはない。新しい人との出会いを心から楽しむのだ。彼らは何かを与えてくれる、新しい何かを。今までに無かった何かを。

いつまでも人を避けていては、よい人生が切り開かれるはずはない。

さあ、億劫がらず、面倒がらずに、何も躊躇せず、思いきって突き進んでゆくのだ、素晴らしい明日にむかって。常に新しいものを求めつづけて。



  
1.一人でいるから孤独なのでない。家族の中にあっても、友人の中にあって、恋人といてさえも孤独な人は結構いる。 孤独とは心が充たされない状態をいう。

一人で住んでいても何らかの人の為に役立っている人々は、心にいささかの孤独感もない。孤独になりたくなければ、どんなことでもよい、人の為に尽すことだ。




      

        
「日々の指針」 西園寺昌美 白光出版




  

高橋尚子さんはすごい!

  
 

「目標を持つことが本当に大切だなぁ」 と実感していたときに、フェイスブックを覗いていたら “人生と経営に役立つ名言・格言・いい言葉” に高橋尚子さんのこんな言葉が載っていました。




暗闇の中でも、夢を持つことで、ホントに1日1日を充実した時間を過ごすことが出来ました。なので、陸上に関係なく、いま暗闇にいる人や悩んでいる人、ほんとに1日だけの目標でも3年後の目標でも何でも目標を持つことで、すごく一歩一歩1日が充実すると思います。(高橋尚子)


早速ツイッターにも転記したのですが、生きている言葉というのは読んだ後で感動が生まれるのです。


高橋さんの実体験に基づく、真実の言葉だと思うのです。

体験して実感した言葉でないと人の心には響かないのです。

よく「目標は持つことは大切だ」と誰でもが言っているけど、持ったとしても、それを現実に実現させていくには、心をどうコントロールさせていけばいいのか?を言葉(文章)で伝えることは難しいのです。

それは、モチベーション(やる気)の保ち方、持続のさせ方が人それぞれ違うからです。

その人独自の目標の持ち方であり、成功話(サクセスストーリー)も、その人だったから出来たこと、辛くても諦めずに続けられたこと、状況や環境がみんな違う中で「こうすればいいんだよ」と言われてもやれるものではないのです。

そして、こんなにいいやり方(ノウハウ)なのに、みんななぜやらないんだろう? アレンジする必要はない、そっくりそのまま真似をすればいいんだ と言われてもその通りにみんながやらないのは、「成功したい」という結果よりも感動を求めているからではないのか?

自分なりのストーリーで自分だけのオリジナルのワクワクドキドキ感でないと面白くない、人のモノマネをして仮にうまくいっても楽しくないのです。

感動がないのです。(人は感動が伴わないと動かない)

自分だけの目標、自分だけのストーリー、自分だけの道をつくって自分だけのプロセスを経て成功へとつなげる。

そこに無上の喜びがある。

マラソンも自分の身体と相談しながら

「ここは飛ばすところではない、今は我慢のときだ」

「よしここでスパートをかけよう」

と目標を立てたり、迷ったり、失敗したり、決断しながらやれるのが楽しいのだと思うのです。

だから若い人よりも、人生経験を積んだ人の方が安定感のあるいい走りをするそうです。(若い人は自分の体力を過信して突っ走るのだそうです)

他人から指示をされた通りにして結果が出たとしても、どこか不完全燃焼に終わると思うのです。

他人から言われて(アドバイス)も、「いやそうではない、ここは勝負だ!」と自分で決めてやる、その代わり責任は自分が取る、非難されても甘んじてそれを受ける。

責任を取れる範囲で自分のやりたいことをする。

失敗すると辛いけど、喜びは倍増です。

私は、目標を持つことと

その目標を達成するためのモチベーション(やる気)を持続させることが大切だと思うのです。

目標を立てても、すぐに忘れてしまう、すぐにやる気がなくなってしまう、集中力が持続しない

続かないから結果が出ない

ほとんどの人はその繰り返しだと思うのです。

そこで私が実践しているメソッドをご紹介します。

毎日、20(無理があるなら15でも10でもよい)の目標を書く(自筆で)

ただこれだけです。

尚子さんが言うように小さな目標、すぐに達成出来る簡単なことから、3ヶ月後に実行していたいこと、3年先くらいに実現したらいいな、など、とにかく思い付くことを片っぱしから20書き出してみる。

ただし自筆でノートに書いていくのです。

書いてみると自分の心の中で何を望んでいるのかがわかります。

自分を客観視できる

「へえ~そんなことを潜在的に思っていたんだ」

と気づくことがあります。

そして書くというのは、指先から腕、上半身を使う、下半身も使っている体全体で書いているということです。

心と体はつながっているので心に目標がインプットされるのです。

そして、日本語というのは象形文字です。

へた絵を描いているのと同じなのです。

文字という絵を描く、毎日続けることで絵が心に刻印され、ノートには鉛筆の鉛やボールペンのインクが塗り絵のように何重にも重ねられていく、するとそれらの絵は立体感を帯びていき、ある日突然具現化するのです。(未来の明るい絵をたくさん描いているのと同じなのです)

毎日書くことで、もう達成されたような気持ちになる

そしてある日突然、いくつかの目標が簡単にハードルを越えていたことに気づく

これは毎日キャッチボールをしているのと同じなんです。

毎日続けてピアノの練習をしているのと同じなのです。

日本一ピアノが上手な人は、日本一ピアノの練習をしている人だと思うのです。

それと同じように目標を達成させるという練習(イメージ)をするのです。

毎日キャッチボールをしている人としていない人との差は歴然です。

要は、無理なく、負担を感じることなく、頑張らずに続けるという事です。

「継続は力なり」

小さな目標でも達成すると、それは奇跡なのです。

達成は感動です。

人間にしかできない、動物にはできない素晴らしい能力なのです。

その小さな目標達成(成功体験)をたくさん積み重ねていくと、いつの間にか3年後などの目標がもうすぐそこまで来ていることに気づくのです。

みなさん是非、毎日20の目標をやってみてください。

創造するには、想像(イメージ)すること、イメージし続けることが肝心なのです。




  参考、おススメ本

「スマートノート」 岡田斗司夫 文藝春秋

「果因説」 西園寺昌美 白光出版

 追伸

目標を書くことが面白くなってきたら、日常化されてきたら出来たこと、実現出来たことに○を付けてみてください。3つでも4つでもテストの点みたいにたくさん○が付いたら嬉しくなるのです。 益々、書くことが楽しくなっていきます♪

 
  

2013年2月10日 (日)

守護霊、守護神について 3

       



        守護霊、守護神に代わってあなたに語る



                          



1、私は日頃あなたが思っていること、考えていることそのすべてを把握し、そしてその希望をすべて成就させるよう願っている。

決してあなた一人だけの望みではない。

あなたの望みは常に私の望みなのだ。

2、自己の希望を実現しえないで人生を終わってしまう人の何と多いことか。
 
彼らは私の存在を少しも認めようとはしなかった。
 
私はどんな時でさえも常に彼らの側にあり、彼らの望みを達成し得んが為に彼らを見守り導いてきたつもりでいる。
 
希望の成就は肉体個人一人で出来るものではない。
 
常に守護霊、守護神と共に歩んでこそ成就する路なのだ。
 
それが真実の人生の路なのだ。

   

 
 

3、出来うる限り明るく陽気に振るまいなさい。

4、私はあなたがいかなることをしようとも、決してあなたに罰を与えない。
 
私はただ、すべてを許すのみである。

そしてあなたのその罰を私が代わりにしょってあげているのである。
 
その代わりあなたは “消えてゆく姿で世界平和の祈り” を繰り返し繰り返し祈ればよい。

自分自身を深く信じなさい。

 

 
  

5、私はあなたにあえていいたい。
 
出来る限り明るい言葉や思いやり深い優しい言葉を常に、極力心がけて努力して使うようにし、光明思想の本を一日一回は読み、人の心を感動させるようなニュースを聞き、人と語り合う時には人の心を豊かに楽しませるような話題をあえて選び、明るいことのみを語るようにしてほしい。

そして暗いニュース避け、病気の話や人の不幸の話は出来るだけ口にしないことである。

 
  

6、羨望の心が湧くのも致しかたない。
 
嫉妬心にもだえるのもまたこれ仕方がないではないか。
 
そして人の幸福を妬み人の不幸を心ならずも喜ぶのもまた致しかたない。
 
人の心は感情によって左右されるものであるから、感情を無くさない限りこのようなことはすべて人の心の中に起こり得る現象である。
 
この世は物質肉体の世界、完全なる霊なる世界と違って不自由な束縛ある世界、よくないことだと充分にわかっていながら、正しいことではないと充分に理解していながら、神から反している行為だと充分に納得していながら、やはり現れてくるのが現実なのである。
 
おさえる必要はない、出すだけ出すがよい。

だが、出来るだけ人に迷惑がかからないように出してゆくのだ。
 
相手にまともにぶつからず、声を出して私にぶつけなさい、私にどなりなさい、私に非難をあびせかけるがよい。
 
私はあなたの心が充分にわかるだけに、あなたが愛しくて可哀相でならない。
 
私の大きな翼であなたを包んであげよう。
 
癒してあげよう。
 
心の中にある鬱憤をすべて私に吐きすてるのだ。
 
私が聞いてあげよう。
 
私が代わって祈ってあげよう。
 
あなたがあなた自身で祈れる時がくるまでは。

 偽善者 になるよりはよほどよい。

 

7、不調和な状態を一刻も早く自分の心の中から一掃せよ。

 

 

8、 あなたの内部の奥にじっとひそんで隠されている部分、秘密、嘘、葛藤、情欲・・・・それらのすべてを私は知っている。

私の前には何の隠しだても無用である。

ただ裸になることだ。

私にとっては肉体人間の弱さなどは百も承知の上だ。

だからこそ私というものが必要なのだ。

私の支えを必要とするのだ。

朝な夕なに私の名を呼びなさい。

  

9、 大自然の修復作用が発揮出来るよう大自然に代わって祈れ。

 

10、 あなたの希望を実現する場合、まだこの世の中に何の手ががりも見出せず、皆目何も無いところから全く新しい希望、この世に打ち出すそのきっかけを創造(つく)り出すのは、いうまでもないこの私である。
  
常に私の存在を忘れず私の名を呼びなさい。守護霊、守護神同士でお互いに交流し合うからである。

 

 

11、

人の悪を聞くために耳があるのではない。
 
人の悪を語るために口があるのではない。

人の悪しき姿を見るために目がついているのではない。

 

 

12、 相手を解放してあげると自己の束縛から解放される。

 

 

13、 すべてを見知っている私の前ですら未だ嘘、偽りでもって自分を覆いつくし、隠しだてをするつもりでいるのか。

情けない。

私はすべてを許そうと思っているのに。

私は(宇宙の法則)から絶対なる権限を与えられている。

あなたのすべてをゆるし、あなたのすべてを愛するのが私の働きである。

 

14、 あなたが私から離れてどこへ逃げようとも、隠れようとも、またどんな罵詈雑言(ばりぞうごん)をあびせかけようとも、それでもなお私は常にあなたの側を離れず、怪我がないよう、苦しまないよう、痛まないよう、見守りつづけているだけである。
 
私はあなたに嫌われていても、それでも尚あなたが愛(いと)しいし、愛しつづけているのである。

 

15、 私は肉体を持ちあわせていないので常にあなたの内部に働きかけ、内部の力を増し、調わせ、そのエネルギーを外界に現わし、そして出来るだけあなたの思うようになるよう、成就するよういたらしめているのである。


 

 

 

16、 私はあなたが暗く沈んでいる時、今まで以上に強い希望の光を投げかけている。
 
あなたが自分自身を傷つけ悲しみに浸っている時、すべては許されるのだという真理の光を送り、あなたに語りかけているのだ。
 
そして私の慈愛の光によって次第にあなたが真理に目覚めはじめ、その暗く果てしない入り組んだ道から脱け出してゆくあなたを見た時、私はあなた以上に天の神に感謝しているのだ。




 
  

17、 私は常にあなたに真理を語りつづけている。
 
あなたの心が全智全能の創造主と同じような強い力を握っているのだということを。
 
あなたは自分の心で、自分自身を幸せにも不幸せにもすることが出来るのだということを。
 
自分自身を、傷つけ暗く悲しいものだと思ったら、その通りの人生が展開されてゆくであろうということを。

そして自分自身を神の分け生命として認め、明るく大いなる希望をもってゆくならば、またその通りの人生が展開されてゆくであろうということを。
 
心はすべてのすべてである。
 
なぜならば、心は自分自身の運命の支配者であるからだ。

 

 

18、 私はあなたがいかなる苦悩、いかなる悲哀、いかなる絶望にあろうとも、必ずあなたを幸せにしようと心をくだいて見守りつづけているのである。

私の働きはあなたの真の幸せに導くこと以外の何ものでもない。

 





19、


私はあなたにお願いがある。この世は物質的肉体がすべてではなく、本来霊なる世界の写し世である、という事実を自覚してほしいのである。
 
霊的自我に目覚めたその時から、もはや何ものにもしばられぬ自由自在なる世界が、あなたの目の前に展けてくるのである。

それは無限の可能性を秘め、自分の思う通りになる世界となるのである。

 

 

 

20、

あなたは常に幸せを願うのだ。
 
あなたは常に神の無限なる能力を信ずるのだ。
 
あなたは常に調和を愛するのだ。
 
私はあなたのその望みにむかって全精力を傾けて、その実現のためにわがエネルギーをフルにあなたの心の中に注ぎこんでいるのだ。
 
だが、あなたの望みが常に暗く悲しく絶望的であるならば、その方向にむかってわがエネルギーを注ぎ込むことは、不可能である。
 
あなたの考えが明るく積極的な希望に満ち溢れたものに変わるよう、エネルギーを注ぎこむのであるが、そのエネルギーの消費量は並大抵ではない。
 
もともと+(プラス)の考え方を更に+(プラス)の方向に導き、この世に実現可能にせしめることは、宇宙の法則通りに実に簡単で無駄なエネルギーを消失しないものであるが、-(マイナス)の思考を+(プラス)に方向転換させることは、前者の何万倍ものエネルギーが消失されるものである。
 
 
常にあなたの考えを+(プラス)の方向に向けて生きて下さい。

 

 
 

21、

頭のよくない人ほど中途半端な聞きかじりをし、自分の知識をひけらかしたがるものである。

頭がよくないから善悪の批判力が無くすべて受動的に自分に吸収してしまうため、その人の潜在意識の奥にすべてそれらの中途半端な知識は溜めこまれてしまう。
 
さて、本人が病気になったり、挫折したり、失敗したりした時、これらの中途半端な知識が次から次へと頭を擡げ(もたげ)はじめ、自分自身の下らない知識で自分自身をがんじがらめにしばりつけ、また、自分自身の暗い思考力で自分自身を暗示にかけてしまい、どうしようもなく救われがたき状態においこんでいってしまうのである。
 
浅はかというより他にいいようがない。
 
知識ならどんなものでも入れていいというものではない。
 
本来ならば自分の心が勇気づけられ、希望に満ち溢れ、生きることの幸せが鼓舞(こぶ)されるような知識なら徹底的に入れこめよ。

自分の心を暗く不安恐怖に陥らせる知識は意識して取り払うべきである。

 
 
 

22、

“自分だけ悟ればそれでよい” という考え方は多分に利己的なわがままな生き方である。

これを出来るだけよい意味にとるとすると、人に真理を押しつけがましくするのは、たとえその教えがどんなに素晴らしくても、そこで必ず人の自由を縛りつけてしまうものであるから、よくないということであろう。

だが神のみ心からみたならば、真理を一人でも二人でも出来るだけ多くの人達に知らしめた方が積極的な善なる徳のある生き方なのである。

また何回も何回も重ねて自分の口を通して真理を語るということは、逆に、更に自分自身の潜在意識の中に改めて真理を吹きこむ形となり、自分の信念がまたここで更に強固に絶対的なものとなってゆくのである。

真理は何度も何度も繰り返し繰り返し語れば語るほどよい。

 

 

 

23、

旧き自己を捨て新しき自己に 蘇(よみがえ)るのが世界平和の祈りである。

どうにもならない自分をしっかりそのままつかんでしまった上、私はこんなにも悪い人間ですといわんばかりに、自分の悪を強調しても、誰も救われはしない。

むしろどうにもならない自分を一旦神の中に捨ててしまって、すべてを神の中に投げ入れていまうと、宇宙の法則にのっとった生き方が示されはじめる。

24、

あなたの長い間にわたる苦しみは私にはわかっている。
 
あなたの悲しみや痛みも私にはすべてわかっている。
 
そして更に今あなたの上に投げかけられている不安恐怖、今のあなたの立場ではどうしようもないのもわかっている。
 
私はいつでもあなたの心の叫びを聞き、訴えを聞き、その問題解決が一刻も早からんことを願い奔走しているのである。
 
だがあなたはこの私の心を知ってか知らないでか、常に自分自身の肉体の力でのりこえようともがいている。
 
だがよく聞いて欲しい、もはや肉体界でトラブルが現われはじめたということは、もう何年も、いや何千年も前に幽界で現れていたことを。

幽界で浄めることが全くできなかったが為に、この肉体界に現れはじめたのであるということを。

そのためにはまず幽界を浄め去るのが先決である。

それが出来るのはこの私である。

霊なる力で、霊なる光で、幽界を浄めれば、自ずと肉体界のすべてのトラブルは自然に解決されるものである。

私に頼りなさい。私を信じなさい。あなたが夢をみているその時ですら、私は闇を光に変える働きをあなたの為にしているのです。

あなたはあなた一人で生くるに非ず、私の生命と共にあって生くるなり。

 
 
 
 

25、 今あるとるにたらない小さな小さな幸福にさえも、神の与え給いしごほうびだとして感謝せよ。

26、 私は “神の子” であるという徹底的なる自覚がいかなる災いからもあなたを防ぎ、いかなる不幸からもあなたを脱出させる。
 
災いにも不幸にも絶対に波長が合わないからだ。

27、   私に徹底的に素直たれ。








      「守護霊守護神に代わってあなたに語る」 西園寺昌美 白光出版



  
 

守護霊、守護神について 2

 

1.自分の愛する者たちを絶対に心から信じてあげなければならない。現在いかなる業生が現われていようとも、夫でも妻でも子どもたちでも、彼らの本性を信じてあげるべきである。

その信じた分だけ結果に必ず現われて返ってくるものなのである。

決して一つの欠点も認めてはならない。唯ひたすら本性の輝きと、隠れたる神の心とを見るよう心がけてゆけば、必ずやそれは応えてくれるものである。

まこと思ったことは必ず現われるの法則の通りである。

1.自分の失敗はもとより、夫(妻)の過去の出来事、子どもの欠点等をいつまでも心から離さず、そればかり認めつづけていると、また全く同じような失敗を呼び起こし、繰り返してゆくものである。

すべての失敗、出来事、欠点などはもうすでに去った過去のことである。

これから全く新しい明日が初まり、輝く未来が訪れようとしているのに、自らの心で自らの心をしばり、許さず、また自らの心で夫(妻)や子供の過去を批判し、また同じことを繰り返すのではないかと不安におののき、いつまでもその過去をひきずりこんでいては、真の救われは決して得られない。

どんな大きな失敗も欠点も過去のこと、もうすぎ去って消えていってしまったこと、思い切って心を転換し、自分の夫(妻)や子供のすばらしい未来に心をたくし、過去の出来事とは、はっきりと自らの意思でもって訣別すべきである。




1.子どもは天性、素晴らしい才能をもって生まれている。それを伸ばすか否かは、親の教育にかかっている。子どもの欠点ばかりみて、いつも小言やどなり声をあげる親と、長所を出来るだけ探してその長所をどんどんほめてあげる親とでは、後者の方がずっと子どもは伸びる。

どの子も長所短所は兼ね備えているものである。短所を認めず、長所を伸ばせば、子どもは理想的に育ってゆく。

1. 何をそんなに思い煩っているのだ。何もかも自分一人で背負うとするから混乱してしまうのだ。あなたは一番根本なることを忘れている。

それはどんな人にも守護霊様守護神様がついておられるということだ。そしてその守護霊様守護神様が必ずその人の運命をよくしようと、日夜努力し導いて下さっておられることだ。

あなたのすることといえば、ただその人の為に、その人の天命を祈ってあげさえすればよいのだ。

夫の為に妻の為に、愛するこどもたちの為に、友人知人の為に、両親、祖父母の為に、ただそれだけでよい。

だがあなたはその人の心をあまりにも思うあまり、その人の為をあまり考えすぎる為に、すべての責任を自分一人で背負うことが正しいと思いこんでしまっているのである。

その人の運命はその人でなければ切りぬけられないものである。

思い違いをするな! 思いあがるな!

      
        『日々の指針』 西園寺昌美 白光出版



  

守護霊、守護神について 1




真理を述べていく上で大切なことを忘れていました。

自分が何者で、本当の自分はどこにいるのか?

なんのために生まれて来たのか?

肉体に生まれる前はどこにいて、死んだらどこへ行くのか?

などを知ることも大切なことなのですが

私たちを四六時中ずっと見守ってくれていて、危機的状況のときなどに

光を送り、メッセージを送って救ってくれる守護霊、守護神のことです。

神さまには2種類あって一つは宇宙神という法則の神です。

宇宙の運行を司り寸分の狂いも起こさない

そこから私たち人間は一つの光として分かれているのですが(分霊)、宇宙神の法則がそのまま指導となると厳し過ぎてとてもではないけれど魂が成長することは難しいのです。

人間が雨乞いをしているのに雨を降らすわけにはいかない

太陽の光が強過ぎて人間が死にそうになっているのに、太陽をひっこめることも出来ない

人間の都合で動くことはしないのです。

それでは愛そのものである神は人間を救う事はできない

そこで宇宙神は、人間を守り、導く 2つ目の神として

守護霊、守護神をつけた(守護霊は2体、守護神は1体)

守護霊守護神は私たちの先祖の悟った霊(私たちの悟ったおじいさんおばあさん)で守護霊は霊界に守護神は神界におられるのです。

人間は肉体界だけではなく幽界、霊界、神界にも同時に生きているのであって

幽界というのは、人間の想念が作った世界でそこに潜在意識として想いが溜まっているのです。

肉体界には幽界の想いが写って現われてきているので、今地球や人間は混沌とした乱れた状況になっている。

神界とは本当の自分がいる場所であり、天国でありすべてが調和し整った、愛そのものの世界である。

神界がそのまま地上に降りてくれば地球は平和そのもの調和そのものになるのだけれど、幽界の汚れがそれを歪ませているのです。

肉体人間も地球とまったく同じ状態であり、人間は肉体の他に幽体、霊体、神体というエネルギー体を纏っている。

幽体は肉体にくっついており、この幽体(幽界)が肉体(肉体界)に絶えず影響を与えているのです。

神体(神界)→霊体(霊界)→幽体(幽界)→肉体(肉体界)


守護神は神界で守護霊は霊界から肉体人間を見守って(メッセージを送りながら)おり、同時に人間が汚してしまった想いの世界、幽界を浄めているのです。

守護霊守護神は、人間の本当の親であり、魂の親であり、肉体人間の親は肉体界で暮らすために結ばれた仮の親なのです。

本当の親ではないというと語弊があるかもしれませんが、肉体の親は魂(心)の親ではないので子どもの魂を救うことはできないのです。

神界、霊界からでないと本当に導くことはできない

神の子である人間を救える(成長させることができる)のは、宇宙神から選ばれた守護霊守護神にしかできないのです。

守護霊守護神とは、肉体人間でどれだけ立派と言われ、人格者と言われている人が束になってもかなわないほど素晴らしい人?魂たちなのです。

たとえば、大仕事をかかえている人間がいるとします。

その人には偉大な守護霊(仕事のことを司る霊)が守っている。

そして人類の発展に役立つ発明などを背後から指導(メッセージを送る)するのです。

こうして地球人類の様々な発展には守護霊の働きが必ず寄与していた。

人類の発展に大きく貢献した人は、背後にいるこの守護霊守護神の存在を知っていたのだと思うのです。

だがしかし、一般のほとんどの人たちはこの守護の存在を知らないし信じようともしなかった。

せっかく宇宙神がつけてくれた最高のプレゼントを受け取ろうとしなかったのです。

人間は

「そんなものいなくても自分の力(肉体人間だけの力)で生きていける」

「神さまなんていらない守護霊守護神なんていらない」

と突っ張って?(笑)いる人も多いのです。

だがしかし宇宙は、肉体界だけではないのです。

神界、霊界、そしてやっかいな幽界もある

守護霊・守護神の助けがなければ明日のこともわからない(守護の霊はわかっている)

明日のことがわからなければ、先を照らす光がなければ人間は一瞬たりとも生きていけないのです。

私たち人間が意識を天、┃に向ければ、そのプロセス(途上)には守護霊、守護神がおられるのです。

そして天からのメッセージを受けながら肉体界の ━ の生活を整えてゆく

天と地、┃ と ━ このエネルギーが交差してバランスが取れた、調和した姿が十字架、真理です。

キリスト教の、イエスキリスト様の真理とは十字架のことなのです。

だから私たちは意識を横に向けずに(横取りするのではなく)

┃に天に向けることが必要なのです。

天に向けるとは、守護霊守護神に意識を向けるということです。

自分だけではなく、守護霊守護神は、必ず人間一人一人に付いてくれている。

自分の子どもも自分の所有物ではなく

神さまからの預かりものなのです。

自分は本当の親ではない

本当の親とは、守護霊、守護神であり、宇宙神である。

肉体人間の親は、子どもに何が起こるのかもわからない

どう指導することが子どもの魂にとっていいことなのかもわからない

だから自分は余計なことをせず、余計なおせっかい、心配をせず

子どもの守護霊様、守護神様にお願いしていればいいのです。

それが子どもにとって一番いい方法なのです。(子どもは守護霊の導きによって宇宙法則に乗ることができる)

次の日記で守護霊守護神が人間に伝えたい真理を書いていきます。

西園寺昌美さんの本から抜粋しました。

私が子どものことで悩んでいるときに読んだ本です。

よかったらお付き合いください。



おススメ図書

 「日々の指針」 西園寺昌美 白光出版

「守護霊守護神にかわってあなたに語る」 小冊子 西園寺昌美 白光出版

「守護霊、守護神について」 五井昌久講話集 CD 


「神と人間」 五井昌久 白光出版

  
  

2013年2月 9日 (土)

きっと空も飛べるはず・・・・

  

イカが海上を30メールも飛んでいる(跳ねているのか?)のが、北海道大学の学生により発見されたそうだ。(初めはトビウオと間違えたらしい)

人間の大きさと比較したら、人間が300メートル以上も空中に浮いて移動することになるのか?

空を飛んでいるのではないにしてもこれはかなり楽しいことだと思う。

昔日本には飛脚(忍者だったという説もある)がいて、全国各地をもの凄い速さで飛び廻っていたのも、実は飛んでいたのかもしれないというロマンがある。

誰も見ていないところで山から山へとジャンプする・・・・。

想像するだけで楽しくなってくる。

人間は肉体が自分だと思っている、そして目に見える肉体界しかないと思っている。

イカも飛ぶ前は、水の中の海の世界しかないと思っていたはずだ、水の無い世界なんてあるはずがない・・・・・と。

だがしかし、水の上に出てみると、そこには美しい空があった、光輝く太陽があった。

体から水を吐きだすと体が浮いて空を飛んだ、水の中では考えられないくらいのもの凄い速度で

そこでイカは工夫を重ねてもっと速く、もっと遠くへ飛ぶ練習をしたのだ・・・・。

人間もイカと同じように思い込んで生きている。

常識、既成概念、固定観念に縛られて、窮屈に生きている。

もっと世界を拡げたら、宇宙的に心を拡げたら、潜在的に眠っている無限の可能性が華開くのに・・・・・。

私は今までの話しから天才アインシュタインの言葉を思い出したのです。

アインシュタインはおそらく肉体を持ったまま、神界までいったと思うのです。

別世界、別次元へ行って、そこから地球をみて 人間をみて

「なんて人間はいろんなものに縛られて生きているんだろう」

「なんでもっと自由になろうとしないんだろう?」

「ここに素晴らしい世界があるのに」・・・・・と。

ここでアインシュタインの神秘的な言葉をご紹介します。

よかったらお付き合いください。

 

「人間は宇宙と呼ばれる全体を構成する一部であるが時間と空間の枠に閉じ込められているために独立した自分が考えたり感じたりするものと理解する。

この理解は想念に生じた一種の幻像であって、我々の意識に対して牢獄のような作用をし、我々を自分の欲していることにのみに気を配ったり、身近の人々のみ愛情をそそぐようにしてしまう。
 
我々の使命は自分の意識をこの牢獄から解放し、すべての生物やすべての自然をあるがままの美しさで抱擁するまで自分の愛念の及ぶ範囲を拡げることである。

これは非常に難しい仕事で誰にも成就できないがその努力は自分を解放する道を歩むことであり、心の落ち着きをつちかうことである。」  

     
                 アインシュタイン



   

2013年2月 8日 (金)

イエスキリストの愛 2

  
イエスキリストが、十字架にはりつけになった時、自分をはりつけまでに追いやった人のために


“神よ、この者たちを赦し給え。彼らは真理を知らざるがためにこの罪を犯したのですから”


 という意味の言葉をいっています。

なんと深い、偉大なる愛の言葉でありましょう。これこそ真の愛であり、人間すべてを感動させる聖者の心であったのです。

私はこの言葉を想い出すと、涙が出てならないのです。

ああなんという高い心境であろう、なんという澄みきった言葉であろう、とおのずから心が愛に充ちてくるのです。

愛とは単に言葉に現わしていうだけのものではない。自己の生命全体が、相手の生命ととけ合って、はじめて生まれてくる感情であり、その純粋感情によって行なわれる行為こそ、愛の行為といえるのです。

   

           『日々の祈り』 五井昌久 白光出版




  




  

イエスキリストの愛 1


    

人間を一番苦しめて不幸にしているのは、他人でもなく

自分を取り巻く環境でもなく

心が捉われて、縛られていることによるのです。

人は、もっとお金があったら、健康であったら、人間関係がうまくいっていれば、周りの人が優しい人ばかりだったら・・・と外に幸せの原因を求めます。

しかしお金がたくさんあってもそのお金を狙ってくる人がいたり、たくさんあればあるほど、心とのバランス(勘定と感情)を取ることが難しくなるのです。

そしてたとえ今健康であってもいつ病気になったり、突然、死が訪れるかは人間にはあずかり知らぬ、コントロールできないことなのです。

人間関係も、自分がいくら愛情を注いでも、いつ誰にうとまれ、裏切られ、離れていかれるかわからない不条理な不安定な関係なのです。

このような状況になるのが嫌なので、辛いので人間は、執着します。

お金に、健康に、家族に、友だちに、恋人に・・・・・それらが離れていくのが怖いのです。

怖いからそれを掴んで放そうとはしない。

すると心は がんじがらめ になってしまう。

肉体という器の中で小さくなって、縛られたような状態になってしまう

本来の人間とはもっと自由に

もっとおおらかに

生きているはず・・・・

しかし、何かに捉われていると

楽しくないのです。

嬉しくないのです。

幸せを感じないのです。

だがしかし、楽しくないのも

嬉しくないのも

幸せでないのも

誰のせいでもない

自分で自分をそうしているだけなのです。
 

自分が貧乏だと思わなければ(想いをつかまなければ)貧乏ではない

自分が不幸だと思わなければ、それは不幸ではない

不幸だと思う気持ちが不幸にしているのです。

どんなにひどいことを他人から言われようと

信頼している人から裏切られようと

自分の中に執着する(守ろうとする)気持ちがないのならばそれは

罵声でも裏切りでも

なんでもないのです。

人は幸せになるために

「強くなりたい」 と思う

どんなことがあっても動じない不動心を手に入れたいと願う

人は、心が平安でなければ決して幸せを体得することはできないことを心の底では知っているからです。

聖者である イエスキリストもお釈迦さまも老子様も

言葉は違うけれど同じことをおっしゃっています。

「幼子のようになりなさい」 (イエスキリスト)

「空になれ」 (お釈迦様)

「無為になせ」 (老子様)

幼子のように無邪気で天真爛漫になりなさい(捉われることをやめなさい)

空になるとは、頭の中を空っぽにして、心の中に宇宙を住まわせなさい

無為になせ とは「何々のためにしようとするな」 わかりやすくいえば、「頭で計算したり考えて行動するな!」

という意味です。

今の人間(大人)は逆のことばかりをやっていますよね(笑)

心が何かに捉われひっかかっているから

掴んでしまっているから

なかなかその状況から脱することが出来ない

せっかく現われて、消えていこうとしているのに

消えて 善くなっていこうとしているのに

つかんでいるから

なかなか消えない

そして消える寸前のものを

またつかんで苦しんでいる

苦しいのはその状況ではなく

掴んでいる心が苦しいのです。

イエスキリストもお釈迦様も

そんな人間を十分に理解していた

人間とは、心が常に縛られている

肉体の中でがんじがらめになっている(本当は霊体、神体があるのに)

だから、自分を守ろう守ろうと必死になっている

自分を守るためにはどんなこともしてしまうという心の弱さを持っている

人を信じる、助けることよりも 人を裏切り、自分が助かることを選んでしまう

そんな人たちが地球人なんだ ・・・・・と

人間は自分で自分のことはわかっていないけれど

聖者たちは、わかっていたのです。

肉体人間の弱さを 熟知していた

だからどんな目に遭っても

ひどい仕打ちをされても

裏切られても

赦すことができたのです。

人間は真理を知らない

自分がどういう存在なのか(何者なのか)?

本当の自分はどこにいるのか?

どこから来て

どこへ行くのか?

なんのために生まれてきたのか?

真理をわかっていない

わかっていないから

自分という 我 にしがみついている

そんな人たちを

私は責めることは出来ない

人間のそれらの “醜い姿” “感情” “想念”を 

業といいます、カルマともいいます。

人間は悲しいかな

この業を背負って(業の中で)生きているのです。

光輝く美しい魂にこれらの業がくっついている。

私たちは、業の奥の美しい光を見ずに、泥を被ったその人を見て

「あいつはなんて奴だ!」

と批判、非難しているのです。

他人だけではなく

業を被った自分を見て

「自分はなんてダメな奴なんだろう」

「なんてひどいことを想ってしまう悪い奴なんだろう」

と他人も自分も責めているのです。

イエスキリストは責める気持ちも違うと言った。

責める気持ちも人間が真理がわかっていないからなのです。

そして肉体という体を纏った以上

そうなるのもいたしかたないとわかっていたのです。

だから人間を赦した

本当に人を赦すとは

真理を理解していないと絶対に出来ないのです。

人間のこと

宇宙のこと

宇宙(神)と人間のこと

すべて(宇宙の仕組み)がわかって

はじめて 自分自身を識ることができ

相手を識ることができる

自分を赦し、相手を赦すのは

真理がわかっているから出来ることなのです。

私たちは幸せになるためにも

真理を一刻も早く識らねばならない

そう

私は、切実に思っています。



おススメ本

      『神と人間』 五井昌久 白光出版



  


  

2013年2月 7日 (木)

目にみえない世界 3

  

私たち人間の心の奥はどうなっているんだろう?

宇宙は無限というけれど、人間と宇宙(神)との関係は何なのだろう?

自分たちはどこからやって来たのだろう?

そんなとてつもなく不可思議で素朴な疑問を一度は考えてみたとしてもその後は追求をやめてしまった。

そんなことより、飯だ、学校だ、仕事だ、お金だ、生活だ、恋愛だ、娯楽だ・・・・と目の前に現われてくることばかりに意識がいって、人間にとって根本的なこと原点を見つめることをしなかった。

一部の人たちは、宗教を紐解き、哲学を学ぶことでその謎(真理)を知ろうとしたが、お釈迦様、キリスト様などの聖者にしか本当の真理はわからなかったのです。

私たちが今、未来に不安を感じ、目の前に現われていることに翻弄され、自信を持って生きていけないのは、本当のこと(真理)がわかっていないからなのです。

それは肉体の頭で考えようとしているから・・・・

意識が肉体界から他へ行こうとしていないから・・・・

天(宇宙、縦┃)を見ずに、横 ━ ばかりを見ているから・・・・

目に見えることは、目に見えない世界という土台があって、そこから写って来るのです。

神界、霊界、幽界(潜在意識の世界)という目には見えない世界から肉体界へ写ってきている。

今、人間がつくってしまった(これも神のご計画であり失敗ではないのですが)幽界という世界が汚れに汚れているので、それが肉体界に写ってきている。

神界がそのまま真直ぐに屈折せず、歪まず降りてくれば、今にでも地上天国、素晴らしい星になるのに幽界がそれを阻んでいるのです。

前回の例えであったように、幽界という媒体が浄まれば、消えればスッキリと爽やかになるのです。(地球も人間も)

ところで前回のブログを読まれた方で疑問に思っていらっしゃる方がおられると思います。

それは

神界のプラスのエネルギーが降りてきているんだったら、なぜ、善いことがもっと起こらないんだ。

悲惨な事件や事故は全然減っていないじゃないか?・・・・って

そうですよね、そういう疑問ですよね。

それは地球(人間に例えてもいいです)というコップの水の中に幽界(幽体)という汚れが入っているとします。

そこに神界からのきれいなエネルギー(波動)が注がれるとする。

するとコップから溢れ出た水は、机の上のテーブルを汚すのです。

その汚れたテーブルが今の姿です。

その汚れが病気(のような症状)であったり、事業の失敗であったり、紛争であったり、事件、事故であったり感情の爆発など・・・・・・・であるのです。

光から焙りだされるように、色々な現象が起こっている。

だがしかし、テーブルの上は以前よりも確実に汚れが薄くなっており、コップの中の汚れ(幽界)が無くなれば、机上のテーブル(私たちの舞台)の汚れもなくなってゆくのです。

今は、業想念の燃えカスが出ているのです。

花火でいうなら、クライマックスシーンです。


どんなことが起こっても

「ああ、これで悪いものが消えて善くなっていくんだな」

と真理を理解していることと


目の前に現われた現象に捉われて

「もうダメだ、これから自分も地球もどうなっていくんだろう」

と不安になるのとでは (無限なる光!)

それこそ、天と地ほどの

雲泥の差があるのです。

想いがすべてを創ってゆく・・・・・

だから私たちは真理をしっかりとつかまえて

心がネガティブにならないようにしていかなければいけなんだ

と思うのです。



世界人類が平和でありますように



  

 

  

 

2013年2月 6日 (水)

目にみえない世界 2

  
私たちは、肉体界だけに存在していると思っている

だが肉体界は仮の世界で本当の自分の居場所は 神界にある

では神界とはどういうところなのか?

神界(天国・宇宙)は、人間の原点、源、故郷であり、ここから人間は別個の魂となり、色々な星に分かれていった。

つまり太陽の一つの光が太陽系のあらゆる星、万物に放射しているのと同じなのだ(同根異葉)。

精神的に進化した星(金星など)の人たちはこの真理をわかっており、常に万物との自他一体感=愛を感じており、精神的に遅れた幼い地球人はこの一体感=愛よりも対立を感じている。

神界とは、愛に充ちた世界だといえる。

本来は人間はここの住人であったのだ。

それが肉体という波動の粗い鎧(よろい)を身に纏うようにより、神界からの光が届きにくくなっていった。

そして、肉体界という仮の世界にのみ住んでいると思い込むようになっていった。

長い間の輪廻転生により、神(宇宙神)のみ心から離れていったのだ。(輪廻転生とは霊界の低いところ、幽界、肉体界の3界を生まれ変わり死に変わりすることをいう)


話を元に戻して

神界には本当の自分が居る、そしてそこは気候も穏やかであり(春と秋しかない)すべてが完璧に整い、もちろん争いごとなどもなく(聖書にはライオンと子羊が仲良く戯れている姿がある)、死も病気も貧困もない。

私たち人間は本来そこの住人であったのだが長い間の牢獄生活により忘れ去ってしまった。

だがしかし地球は今、セパレート(分離)の時代からユニティー(合一)の時機を迎えており、宇宙から地球へ降り注ぐエネルギー(波動)が違ってきているのだ。(神界のエネルギーになっている)

それによりたくさんの魂たちが、そのエネルギーに気づきつつあるのです。

最近、自分の波動(エネルギー)が変わってきた、それにつれて性質、心境も変わってきた

地球の雰囲気もかわってきた

人の様子も以前とは違う・・・・・

と感じている人は多いと思うのです。


人間の幸せとはいつも愛を感じ取れるということです。

他人との一体感を感じられることです。

それが感動です。

私たちは他人との一体感を感じるためには

私たちの故郷である神界、つまり宇宙との一体感を感じるようになることが大切なのです。

そこが原点だからです。

それを教えてくれた代表的な人物? いや魂が、イエス・キリストでありお釈迦さまでした。

キリスト様、お釈迦様の説く

キリスト教、仏教などの宗教は

なにを私たちに伝えようとしたのか?

宗教とは、宇宙を示す教えなのです。

キリスト様、お釈迦様は宇宙の高い教えを3次元の地球に降ろしてきたのです。

高次元のエネルギーでないと地球は救えないからです。

宇宙(神界)は、完璧な世界、穏やかな愛の世界

その宇宙観を自分のものにすることが本当の幸せにつながるのです。(神我一体)






追伸

宇宙のこと、神界のこと

目にみえない世界のことを書くのは

ほんと難しいです(笑)

でも大切なことなので、なんとかお伝えしていこうと思っています。



  

 

  

2013年2月 5日 (火)

目に見えない世界 1



今日は、神秘的な話をします。

私たちは目に見える世界、つまり肉体界にしか、存在するものはないと思っている。

だが空気が目にみえないように、みえない世界は存在しているのだ。

その世界とは大きく分けて、幽界、霊界、神界がある

幽界とは潜在意識、想いの世界、霊界は波動(エネルギー)が細かい世界、神界(天国ともいい)はもっと波動が細かく、本当の自分がいる世界です。

わかりやすくいえば、肉体界から神界にいくにしたがって波動は細かくなっている

微妙になりやさしいエネルギーになっていると思ってください

地球ができたとき、肉体人間として地上に降り立って間もないときは

神界にいる自分がそのまま地上に降りていたのです。

そのことを自覚していたのです。

例えば、自分は金星(その他の星)から地球にやって来たことを知っていた

ところが、肉体生活が長くなるとそのことを忘れて

自分は肉体だけでよその星から天下って来たことを忘れ去ってしまった。

肉体(物質)がそれぞれにあるために、お互いを別個のものと思うようになった(二元対立)

自分を守るために対立するようになったのです。

神界と違い肉体界は波動が粗いので、神界、霊界(波動の細かい世界)と肉体界の隙間に

神さまから離れた汚れた想念(業想念)が溜まっていった

この汚れた世界が幽界なのです。

幽界は想いの世界、潜在意識の世界、業想念の世界です。

今、肉体界は肉体界にくっついているこの幽界が現われてきているのです。

幽界が汚れているから肉体界は今、いろんなことが起こっている

神界がそのまま肉体界に降りてくれば

美しい神の国(天国)になるのに

幽界という媒体を通しているので

それが顕われていないのです。

水の中に真直ぐの一本の棒を入れるとします

その棒は上から見ると曲がって見えます。

歪んでみえるのです。

それは、水という媒体が入ることによって

棒が変形してみえるのです。

この水が幽界なのです。

棒が真直ぐに見えるようにするには

水を無くさなくてはならない

肉体界も幽界という汚れた世界を消してしまわないと善い世界、本当の世界は現われてこないのです。

今、現実に起きていること

いや現実ではないのです。

私たちが今と思っている今は今ではない(笑)

ここがちょっと難しいですね

例えば、今私たちが見ている星の光はたった今光ったものではありません。

遠い星の場合は、何万年も前の光が今届いているのです。

ということは私たちの目の前に現われている現象とは

過去のものなんです。

つまり肉体界に現われていることは、過去のことなんです。

何百年か何千年前に起こったことが再現されている

みなさんは

初めて行った場所のはずなのに

「ここには以前来たことがある」

と感じたことはありませんか?

それは今は過去が写っているということなんです。

そしてその再現されているものとは潜在意識でもあり想いが肉体界に写っているのです。

仏教ではこの世のことを “写し世” といいます。

タレントのイッコウさんが

「まぼろし~」

と言っているのは本当なんですね(笑)

ですから

このままだと私たちは幽界が写って来ている肉体界

過去の残骸にしか過ぎない肉体界にしか

生きていないことになるのです。

だったら本当の今とはどこにあるのか?

未来はどこにあるのか?

ですよね

本当の今とは、霊界なのだそうです

そして未来は神界なのだそうです。

私たちの天命とは

肉体人間として生まれてきた本当の目的とは

本当の世界である神界を肉体界に降ろして来ること

そして本当の自分(本心)を肉体界に顕わしてゆくことにあるのです。

今日はこの辺にしておきます。

明日続きを書いていきます。




おススメ図書

『無限次元への誘い』 于寿明 星湖舎

人類が地球に天下ったときの様子が書かれています。

2013年2月 4日 (月)

2月4日のつぶやき

   


私は、ツイッターではかなり適当なことをつぶやいています(笑)。

結構身勝手で、自分やごく一部の人にしかわからないだろうなぁ、ということを、つぶやくというよりも吐き出しているに近いかもしれない(但し、マイナスなことや人を傷つけるようなことは一切書いてはいません)

あとから読み直すと、

「なんだこの文章は、わかりにくいし面白くもなんともないなぁ」と赤面してしまいそうなのもあります。(書く練習をしているんですね)

それとここ(ブログ)に書いてあることとは、まったく違うのです。

ここは、よそ行きでちゃんと考えて書いております。

意見を求められても、責任を持って答えられるくらいの精度にしてあります。

でないと読んでくださっている人にも申し訳がないと思うのです。

魂を込めているといえば大げさかな?

でもそれくらいの気持ちなのです。

今日のツイートはmixi ではあまり評判はよくなかったのですが(笑)、テレビなどを観ていて感じたことを率直に述べてみました。

評論家の人のよう(当たり障りのない意見では)になっても面白くないし、かと言って自分の感情を入れると読んでいる人がしんどくなるのです。

それは感情というのは連鎖するからです。

たとえば、ある問題で私が怒り狂っていた、その気持ちをそのままつぶやきにすると読んでいる人もその感情を受け取るのです。(そういう意味ではネットは怖いです)

アナウンサーの人は絶対に感情を入れてはいけないというのは、アナウンサー(情報を伝える人)というのは、事実(事件)をそのままに伝えるだけで、立場は、ニュートラル(中立)でなければならないのです。

もし、自分の感情などの片寄った気持ちを伝えたのなら、受け取る人はその時点で心の中に異物が混入されていることになる。

真っ白なキャンパスにすでに色が塗ってあることになる。

怒りの感情ならば火に油を注ぐくらいのエネルギーになってしまい、小さな火種が大きな炎になる可能性を秘めているからです。(ネットの炎上もそうですよね)

だから今日はちょっと感情を入れ過ぎたかな?という時は、決まって評価は高くありません(笑)。

読む人が読む前に重たい、嫌なエネルギーを受け取ってしまうからなのでしょうね。

こうなるといい文章はなくなるのです。

どれだけ素晴らしい文章でもそこにはエネルギーが宿っているのです。

良い文章とは、その人がどれくらいスッキリと爽やかな気持ちで書けたか?

なんです。(エネルギーがすべてなんです)

ということで今日のつぶやきはあまり自信はありませんが

よかったらお付き合いください。





1.過去において自分がされたことをずっと根に思っているといつまでもその呪縛で自分が自由になれない、自分がされたことは過去(過去世)において自分がしていたことを今されているんだ、されて清算された、ご破算になった、終わったんだと思い、相手への恨みを消すことが大切なのです。
 


2.指導者は答を言ってはいけない、考えさせることが大切なんだ。安易に答をいうのは自分の力を示したいだけなんだ。本当に相手の成長を願うならば、相手の人が答を出すまで待たなければならない。愛は忍耐なのです。



3.お勉強が出来る人が指導者にすぐになれる、その構図がおかしいのだ。社会経験を積んでいろんなことを乗り越えて来た人でないと人を導くことは出来ない。そしてそれだけではなく自分のことよりも相手の成長を優先させることの出来る自我のない人、そのような献身的な愛の持ち主でないと人は育たないのだ。

 

4.いじめや体罰は確かにいけないし根絶させないといけないことだけれど、私は個人個人がもっと強くあれ!と思う。打たれ強い、打たれても正義で返すくらいの気骨が欲しい、今の人は線が細くなっているように思う。波を乗り越えることで人は強くなるのも確かなのだ。


5.人はやさしさと同時に強い精神も大切だ。



6.ほとんどの人は理屈や損得で動く、だから心を動かす前に頭(理屈)で「凄い、面白そうだな、やってみよう」・・・そしてやってみた、本当だった・・・そこからスタートする。それでも継続するかはわからない。人を動かすってそれくらい大変なことなのだ、忍耐がいることなのだ。だから作為的に人を動かすなんてことは出来ない。

 


7.「どうやってモチベーション(やる気)を保ちつづけるか?」・・・これは人間の永遠のテーマだけど、私はこのメソッドは自分自身のやり方しかないと思う。あればみんなそのやり方に従っていて解決済みだ。モチベーションを持続させるのは、自分の強い意思力と自分だけの目的意識を持つ意外にないのだ。

 


8.今あなたが上手くいっていないことがあるとすると、それは発想を変えなさい、考え方を変えなさいというメッセージなのです。「もう半分しかない」「まだ半分も残っている」・・・・。





 
 

2013年2月 3日 (日)

今日は節分

  
  
今日は節分で、各家庭ではお父さんが鬼の役になって豆をぶつけられているのでしょうが(笑)、この鬼とは人間の業想念(怒り、憎しみ、嫉妬、苦悩・・・・)などの感情です。

人間はこのような業想念にたくさん覆われていれば覆われているほど心の安寧がなく、不幸といわれているのです。

それらの業想念を外に追いやって、業想念とは反対のきれいな想念を心の中や家庭の中にに入れる(福は内)

それが幸せであると昔の人は、真理をよくわかっていたのです。

つまり幸せとは、目の前に現われる現象だけではなく、心の状態が穏やかで、乱れることなく調和し愛でいっぱいになることなのです。

その心の状態が、やがては外に現われてくる。

だから心の中をきれいにしておくことが大切なのです。

ところで、私たちは日常をいつも同じ心の状態で過ごすことは難しいですよね。

ある場所に行くとなにかしら腹立たしくなって感情的になる、その場所は商売を何をやっても上手くいかない(鬼門)、怒っている人たちの近くに行くと自分までその渦に巻き込まれそうになる・・・・・・。

それらは、場所場所によって、あるいは人間が感情を振りまくことによってその場のエネルギーが違っているからです。

しかしそのエネルギーは目にみえないのでわからない。

だがしかし、それらのエネルギーに惑わされなくて平常心でいたいけど、どうしていいのかわからない。

ほとんどの人はそんな状態だと思うのです。

人間の幸せとは自分の心を自由自在にコントロールすることではないでしょうか?

感情を超えることではないでしょうか?

結論をいうとそれは可能なのです。

コントロールすることを可能にするには、私は2つのことが必要だと思っています。

一つは、業想念というエネルギーの実体を知るということ

それからもう一つは、コントロールするメソッドを学ぶということです。

実体については本(果因説)の中からこれからもう少し詳しくご説明します。

学びについては、西園寺昌美さん著の「果因説」という本を読んでください。

「えっそんなことでいいの?」

と思われるかもしれませんが(笑)

それでいいのです。

真理とはそんなに難しいものではないのです。

誰にでも実践出来るものでなければ

それは正しいものではないと

私は思っています。

   果因説より
 

人類一人一人は毎日、不平不満、怒り、嫉妬、憎しみ、復讐、悲しみ、苦悩、恐れ、不安、葛藤などの否定的想念を発しています。

そして、それらの否定的想念に対して、誰もが何らの責任も持ちません。

皆がみな、思い思いに感情想念をぶっつけ、地上空間に垂れ流しの状態です。

その否定的感情想念のカルマはものすごい勢いの乱気流の渦となり、その空間、その場に消滅しないまま、漂っています。

その時、そこに居合わせた人々、通りすがりの人々は、その目に見えない乱気流の渦の犠牲となり、何らかの事故に巻き込まれたり、急に腹立たしくなったり、悲しくなったり、恐怖や不安感に襲われたりして、それらの波の影響を受けつづけているのです。

そういった、決して目に見えない否定的想念の乱気流を消滅させ、浄化している人々が、今生にはほんのわずかですが存在しています。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

         『果因説』 西園寺昌美 白光出版





  

2013年2月 2日 (土)

神ということ 2

 
  
日本人の中には、神という言葉を極度に嫌ったり、馬鹿にする人たちがいる。

この人たちは一体、神という言葉自体を嫌うのか、肉体人間以外の智慧や力や能力を無視しようとしているのか、どちらかなのであろう?

喰わず嫌いという言葉があるが、この人たちは喰っていながら嫌っているという感じなのである。

何故かというと、神という言葉自体を嫌おうと、肉体人間以外の智慧や力や能力を否定しようと、事実は肉体人間以外の力によって養われていることは、誰でも知っていることである。

人間生存に無くてはならなぬ空気でも水でも土地でも、一体誰がこれを創り出したのかということである。

そういえば、この宇宙には、人間を生かしている数えきれぬほどの、各種の要素がある。

太陽や月も勿論だが、酸素や水素や炭素や窒素やカルシウム、ナトリウム、マグネシウムや燐やその他種々の元素がそれである。

こういう元素を、それは私の智恵によってできたのだ。 というほどの馬鹿が人間の中にいるだろうか?

こういうどうにもならない事実を日常茶飯事にみせつけられていても、まだ肉体人間以外の智慧能力を否定しようとするなら、その人たちは底の知れない馬鹿者たちである、というより仕方がない。

それよりももっと根本的ないい方をすれば、私たちを生かしているというより、私たちそのものである生命というもの自体が、肉体人間誕生以前から存在しているのだし、生命のない人間など考えられもしないのだ。

そうした根本的な智慧や力や能力を、人々は神と呼んでいるのである。

だから神を嫌おうと、神の存在を否定しようと、人間は誰もが、神の子であり、神の生命の分け命なのである。

神は大宇宙そのものであり、大生命であり、大自然でもある。

しかし、どうしても神という言葉にひっかかる人は、大生命に対して感謝してもよい。

大自然に対しての感謝でもよい。

それができなかったら、太陽に対してでも、空気に対してでも、水に対してでもよい。

それもできなかったら、自分の体のどの部分にでもよい。

眼がみえてよかった、耳が聞えてよかった、手足が働いてくれてよかった、考えられる頭をもっていてよかった、等々、どこかに感謝する気持ちを持つことによって、いささなりとも、神とのつながりを得ていることができるのである。

誰にもなんにも感謝のできない人は、生きながらの死骸である。

しかし、神々はそういう人々まで救おうとして、世界平和の祈りによる大光明波動を地球界に放射しつづけているのである。

この地球界が一日も早く、感謝の心と感謝の心とで融け合うような、そういうものになるよう私たちは祈りつづけなければいられないのである。


          世界人類が平和でありますように

       『大生命の絵巻』 五井昌久 白光出版



  

 

神ということ 1

  
人間は、切羽つまってどうしようもなくなったとき、九死に一生を得ようとしたときに

どんな人でも

「神さま助けて!」

という

しかしそんな状態ではない 平和の状況のときには

「神さま? そんなものないし いらない」

という

なんという勝手な

なんと愚かなことでしょう

先ほどの日記にも書いたように

神さまの実体は誰もみたことがないと思うのです。

空気がみえないように

私たちの心がみえないように

みえるかみえないかはどうでもいいのです。

どっちでもいいのです。

だがしかし

姿かたち

あるとかないとか

はどうでもいいけど

感謝する気持ちとか

謙虚になる気持ち

が大切だと思うのです。

気持ちが愛であり

気持ちが感動を生む

人間は 食べるものが無くては 飢えて死んでしまうけど

それは肉体が滅びることだけど

愛が枯渇したら

心が亡びるのです。

心が亡びた状態で死んでゆくことほど

不幸なことはないのです。

神っていったいなんだろう?

生かされている私たち人間とは

いったいどんな存在なんだろう?

なんのために生きているんだろう?

そんなことをたまに考えてみることも

大切なことだと思うのです。

今、そんな時期に来ていると思うのです。


  

  

人間の誕生 2

・・・・・・・・・・・・・・・・

生まれるということは、実に不思議なことである。私がこの十一月の月に、日本の国土に男子として生まれてきたということの理由も意義も、その時は誰も判りはしない。

母親の体内に入る前に、何処にどうして何をしていたかも判りはしない。

誰も彼もそうである。

この人生は、こうした摩訶不思議な事態からはじまる。

草木が天地の恩恵によって生長し、花が自然に開くように、母親の体内で赤児自然に育ち、やがて生まれ、そして成長してゆく。

こうした不思議さを、一般の人はなんでもなくあたりまえに見過ごしてしまう。

赤児を母の胎内に宿し、そしてはぐくんでゆく原動力は一体何処から来ているのか、その赤児のいのちは、赤児以前には何処で何をしていたのだろう。

そうした疑問に蓬着すると、人間は黙さざるを得なくなる。

自力と もがく、その もがき がおかしなものになってくる。

自分で生きているのではない。

何か大きな力に生かされているのだ、と判ってくる。

そうして、どうしてもその大きな力(神)に謙虚にならざるを得なくなる。

その謙虚を根底にして

ああ、こうして生かされている いのち を無為に粗末につかってはいけない、と感じてくる。

生かされている いのち を、大切に有効に生かし切ってゆくことに真剣になりはじめる。

私もあなたもあの人も、みんな同じ大きな力(神)によって生かされているのだ。

お互いに生かし合い、生かされ合って神のみ心にお応えしなければならぬ、と思わずにはいられなくなってくる。

そこにお互いの生命を礼拝し、愛し合う人間の尊貴さが現われてくる。

人間のいのちは尊い。

人間の生活は尊い。

神の大生命をこの地上界に華咲かせ稔らせる人間の尊貴さ。

私はこの尊貴さを一人でも多くの人たちが認識して、生活して頂けることを祈って止まないものである。

    
            『大生命の絵巻』  五井昌久 白光出版



  

  

人間の誕生 1


  

この世のことも、宇宙のことも人間の頭脳でわかっていることは、広大な砂漠の一粒の砂ほどもない。

人間なんて肉体(物体)として観た場合はほんとにちっぽけな存在だと思うのです。

だからもっととてつもなく大きなもの、私たちを生かしてくれているもの

なにかわからないけれど、生きていくために必要なもの(水、空気、食べ物、大地・・・・・・)を与えてくださっている何かに

手を合わせて

「ありがとうございます」という感謝の心境になることは忘れてはいけないと思うのです。

「私は何にもわかっていない、常に何かに依存しながらでないと生きてはいけない」

「人にも物質にも大自然にも、それらのどれかが欠けたとしたら もう生きてはいけない」

「どこのどなたかは知りませんが、私を生かしてくださっている偉大なお方?」

「姿かたちはみえませんが、私はあなたに感謝しています」

「ほんとうにありがとうございます」

と、謙虚になる

その気持ちが大切だと思うのです。

人間の原点ってそこにある。

そこからすべてのことがスタートすると思うのです。

私たちは、その偉大ななにか(サムシング・グレート) 

にもっと意識を合わせて

そこと一体となって

生きていくことが大切なのではないでしょうか?

そんなことを強く思った文章をご紹介します。

私もこれまでに、大自然(神)に対して

「ありがたいなぁ」

と実感したことはありませんでした。

自分が今、生きていること

生かされていることに

特段、感慨はありませんでした。

神さまの存在は

漠然とは ある と思ってはいても

深い感動や感謝の気持ちは

そう強くは持っていなかった

しかし

やはりまだ漠然ではあるのだけれど(笑)

私たちを生かしてくれている

神(大自然・サムシング・グレート)の存在は

とてつもなく偉大(言葉では言い表せない)だと思うのです。

そんなことを

「あっ」

と気づかせて戴いた五井先生の詩をご紹介します。

みなさんにもその とてつもなく偉大なもの に触れていただけたら幸いです。


幸せとは、とてつもなく大きなもの を感じることが出来るようになる ことだと

私は思うのです。


  
 
  

2013年2月 1日 (金)

今私たちは、捨て去る時期に来ていないか?

  

私はmixiとフェイスブックをやっているのですが、内容といえばmixiはペンネームで日記とつぶやき、フェイスブックは自分ではほどんど投稿せず(名刺代わりかな?)他の人の掲載しているのを見てたまに、イイネ!を付けるくらいで無理に知り合いを増やして自分の輪を広げようとはしていません。

だからリアルタイムで双方向にキャッチボールの出来るスマートフォン(それだけの機能だけでありませんが)は、今のところ必要としていないのです。

が、しかし今はスマホの時代、無視は出来なくなりました。

私もスマホの良い所を見つけて買うだけのメリットがあれば考えようと思っています。

しかし、今いち、よくわからない(笑)。

私の場合は、ブログを書く時はパソコンのキーボードが打つのに慣れていて使いやすいのでPCをやめようとは思わないのです。

だからといってスマホを買うとなると2重にお金もかかる。

そしてスマホの費用対効果もクエスチョンがつく

掛けた費用の分だけ効果が期待できるか?

・・・・

そこですよね。

物(比較的高額な物)を買う時って、必要に迫られてか(去年クーラーが壊れたときは考える余地なし)、何が何でも欲しいという欲求が伴うものだけどそれがそうでもないんですよね。

私のような人(40代~50代の人は特に)は多いと思うのです。

そんなとき、私は調和波動気功法のセミナーでスピーチをされていたハーモニー(気功仲間)の人のエピソードを思い出すのです。

とても印象に残り、みなさんも経験された覚えが一つや二つあると思います。

mixiで携帯のままでいいのか?スマホにしようか?と迷っている人にみんなで意見を出し合うコミュニティーがあってそこで私が投稿した文章があります。(スマホとは事情が違うかもしれませんが)

世の中はもっとシンプルであっていいのでないか?

巷には、余計なものが溢れすぎていないか?

人間は便利さを追求しすぎてはいないか?

便利さがかえって不便に、かつ、ややこしくしていないか?

情報に振り回されていないか?

そう思うのです。



私の知り合いの人(女性)でこんな人がいたんですよ~
ドライヤーが壊れてしまって電器屋さんに行ったんですって、それまでのドライヤーの機能は強と弱、冷風と熱風だけだったけど軽くて使いやすかったそうです。 電器屋さんに行くと店員さんに多機能(マイナスイオンが出るとか・・・)のドライヤーを勧められて「値段もそう高くないしまあいいか!」 と買ってしまったんだけど、たくさんのいらない機能が付いてるから重いのなんのって
髪を乾かすだけなのに 今度は肩が凝って、凝って
使うのが嫌になったそうです。
今では、後悔しているのだそうです。
ね、なにか意味深な話でしょ
でも、私も使わず嫌いのところがあるのも確かです。
今度はちゃんと調査してから投稿しま~す。



    

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