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2012年10月22日 (月)

天地の通りをよくしよう 2

  

  
ここのところなんだか、いろいろ書いてしまっているので般若心経(空即是色)の連載が中途半端みたいになっていますが(笑)、空というのは、空になったから(悟った)からといってそこで終わったわけではなく、宇宙は無限にあるように、空の奥にはまたその奥の空があって、無限次元に空はあるのです。

だから本当は、連載は終わること(結論が出るということ)はないんですね。

私の今回の目的とは、人間の素晴らしさ、神々しさ、奥の深さを知っていただければそれで十分だと思うのです。

人間は、自分はダメなんだ、人間なんてくだらない生き物なんだと誤解しているところに不幸があるのです。

実にもったいないことだと思うのです。


人間とは何ぞや?はこれからもずっと書き続けてゆくのですが、みなさんの心が明るくなるような、元気が出るような文章を心がけてゆきますので、どうぞよろしくお付き合いください。


では、今回は人間はどうして宇宙そのものなのか?

哲学者である中村天風さんは

「月を観ている今の自分は月よりも大きな存在なのだ」

と言っておられましたが、名言だと思うのです。

月を包み込むように客観視出来ている自分はとてつもなく大きいのです。(犬が見る月と人間が観る月は全然違うのです)

宇宙の中に自分が居るのではなく、自分の中に宇宙が在るのだということがわかる文章を五井先生のご著書「空即是色」の中から抜粋します。


前回の続きですが、一旦流れが途切れたので、天地の通りをよくしよう 1 をもう一度読んでからこれを読んでいただけたらもっとわかりやすいと思います。





大生命の至上命令に忠実か



そこで、宗教というのは、その流れを勝手に動いている想いを、一遍大生命の法則の中に入れる。

どうしたら入れるかといったら、まかせるよりしようがないでしょ。

自然に朝起き自然に夜ねむる。

何時にねむろう、何時に起きようと、いかにも自分で寝て自分で起きているような感じがするけれども、起きるのなんて、スーッと自然に目が覚めるんですよ。

自然にねるんです。

あんまり把われて、ねようねようとしていると、かえってねむれなくなっちゃう人が随分あります。

だから自然に動いて、自然にねているような形、自然に心臓が動き、自然に肺臓が動くと同じように、人間の考えも自然に湧いてくる。

それを自然法爾というんですよね。

無為になせ、ということもそうです。

自然に行動が行なわれてくる。 しかもその行動、智恵はその時最も適したもので、人をも自分をも生かしている、というようなことになる。

普通ですと、何も考えないで出来るとは思わない。

ところが私の体験ですと、今もズーッとそうなんだけれども、しようと思わなくとも出来るんです。

普通うしろに目がある人はいないでしょ。 ところが私はうしろにもあれば横にもある。

うしろから誰かが歩いてきたかがわかるんです。遠くのほうで思っている。

誰が想っているのかわかる。どうしてわかるか。

私の肉体の眼は近眼です。

前のほうに座っていらっしゃる人の顔があんまりよく見えないぐらいです。

ところがわかる。

昔修行中、歩いていると、うしろから誰がくるかわかる。

だから突然振り向いて “やあーしばらく” なんてやられるから向こうはびっくりしちゃうんですよ。

遠くに駅がある。すると電車から誰が降りてくるかわかるんです。

それで落ち合って “ヤアまってたよ”なんてことになるんです。

向こうは知らないんだからびっくりしますよね。

どうしてそういうことが出来るか、というと、無為にしてなせ、なのですよ。

地球科学で電磁場というのがあります。つまり電気が流れるとそこにはかならず磁場と電場が生じるのですね。

それと同じように人間の想いというのは、幽体という磁場つまり想いの波の流れる場所があって、そこに想いが一杯あるわけです。

肉体にも磁場があり、霊体の磁場、神体の磁場もあるわけです。

神体の磁場というのは、ズーッと大きく宇宙大に広がっているのです。

そうすると神体の磁場で大生命からの光が流れて、それが働きとなるわけです。

それが霊体を通り幽体を通り肉体にスーッと流れてくれば、神のみ心がそのまま伝わっているわけです。

神さまの行ないが素直にそのまま出来るのです。

それが霊体まではくる、幽体でもってクチャクチャと思っていると、想いが一杯につまっているから、光が入って来ないんですよ。

光が屈折してしまう。 ズレちゃう。

そうすると幽体肉体に溜まっている、詰まっている想いが出て来て、無為にしてなさないで、ああしよう、こうしよう、といつもいつも思い巡らせながらやっているトンマな生き方になる。

この自分の幽体で思っている想いを、神サマーって神さまの中へ投げちゃうわけね。

そうすると、想いが守護霊守護神の霊体神体を通して、自分の神体の中に入っていく。

神体に入っていくと、いうなれば穴があくわけだ。

通りがよくなる。

すると神体の磁場で行なわれている命令が生命の動きが、スーッと肉体まで通っていくわけです。

そうなると、例えば歩いていて知らないうちに左に一歩踏み出したら、うしろをものすごい速さで自動車が通り抜けて行った、とか、会いたい人がある。

何となくこっちの道を行きたいな。 スッと行くと、会いたいと思う人にパッと会っちゃう、というようなこと。

三人の人に会いたい。しかし一人一人会っていたんじゃ時間がない。

ところが、Aの所もBの所もCの所も行かないで、用のないDの所へゆくと、なんのことはない、Dの所へAもBもCも来ているじゃないですか。

そこで三人の用が一遍に足りてしまう。

そんなことを随分したことがあります。




 

           「空即是色」 五井昌久 白光出版



  

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