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2012年10月30日 (火)

新しい波動 新しい人類 2

  

地球と人類が大変貌する時がくる


キリスト教では、最後の審判ということをよく言います。

キリスト教ばかりでなく、地球の最後ということはあらゆる宗教で言っています。

それはどういうことかというと、今までの地球人類の在り方が代わるということです。

仏教では劫(こう)といいますが、一つに周期がありまして、その最後の劫にお釈迦様やイエスさんが生まれた頃もみな入っているわけで、その劫の終りにかけて、地球と人類が大変貌するという時期があるわけです。

それを最後の審判という。

その後に新しい人類が誕生する。

といっても、今までの人類が全部死んじゃって、全然形の変わったのが出るというのではなくて、今までの地球人類の考え方、人生観、宇宙観というものがまるっきり変わってしまう。

もっと言い換えれば、肉体波動が霊妙な波動に変わるという、そういう時代が来るのです。

必ず来るのです。

来る手前に、どうしても一つの関門を通らなければならない。

それは古い皮を脱皮しなければならない。

今までの生き方を変えなければならない。

そういう時期が今なんです。

最後の審判として、三分の二滅びて、残った者だけが立派な人間になるか、半分だけ残って半分が滅びるか、あるいは三分の一が滅びて三分の二が残るか。

あるいは十分の一が滅びて、十分の九が残るのか。

あるいは滅びなくて済むのか。

それはこれからの人間の生き方によって決まるわけです。

最後の審判というものを大過なく、災い少なく、人類の痛み少なく乗りきってゆこうというために、神々はいろんな人を天下しているのです。

お釈迦様もそうだし、イエスさんもそうなんだし、いろんな聖者が出ています。

私には、“消えてゆく姿で世界平和の祈り” という方法と、宇宙子波動生命物理学という科学を神様が授けてくれているわけです。

その運動を続け、その科学を完成することによって、地球人類が苦しみ少なく乗り越えて、新しい人類として生まれ変わってゆく、新しい人類に成長してゆく、新しい波動の世界に住み慣れてゆく、ということになるわけだし、そうさせなければならない、と思ってるわけです。




最後の審判と祈りによる世界平和運動



ですから私どもの提唱している祈りによる世界平和運動というものは、最後の審判を、願わくば無傷で、誰も苦しませないで越えてゆきたい、そうしなければならない、という運動なのです。

皆さんの一人一人の使命、天命というのは大変に重要なわけです。

ところがなかなか重要というように考えられない。

日常のゴタゴタ、目の前に迫っている枝葉のことが大事なことのような気がして、永遠の生命を体得する、いわゆる新しい優れた人類に生まれ変わるというようなことは、頭にはないわけです。

大体がこの世の中の、現われている出来事をうまく処理できればいい、というような考えで宗教に入る、あるいはこの世界平和運動に入る、というくらいなんですね。

そしてだんだん判って来た人や、熱心な人が本当に身を挺して、祈りによる世界平和運動をやっている、という形なんですね。

私はそれでもいいと思うのです。

一般の人が家庭をそのままやっていて、現われてくる小さい細かい出来事のことをうまく処理するために祈りをしている、ということでもいいと思うのです。

祈りの筋は同じですから。

やっぱり “世界人類が平和でありますように” という時には、救世の大光明に入ったことになります。



やがては本当のことが判ってくる


どういう祈り方をしていても、どういう想いで祈ってもいいけれど、やがてそれが慣れてきて、本当のことがわかってくると

“ああ自分はこの世にとって大事な者なんだな自分はつまらなそうな人間に見えるけれども、実はつまらない人間ではなくて、世界を本当に平和にするための菩薩の一人なんだ、天使の一人だったんだ”

ということが自覚されてくるわけなのです。

肉体人間としての自分は菩薩でないかも知れない、だけれども、世界平和の祈りをすることによって、凡夫が、一般の大衆が菩薩に変わってゆく。

天使に変貌してゆくわけです。

もっと言い換えれば、菩薩や天使と合体して、この地球人類を救う大きな役目を、自分が担っているということになるのです。


世界人類が平和でありますように

日本が平和でありますように

私たちの天命がまっとうされますように

守護霊様ありがとうございます

守護神様ありがとうございます


といっている祈り言は、知らない間に、自分を高い高い波動の世界に運びこんでいるのです。

皆さんが気がつかなくても、そうなんですよ。

      





          『天の心かく在り』 五井昌久 白光出版



  


新しい波動 新しい人類 1

  
  
以前読んだ本で、「思いをカタチに変える」渡邉美樹著の中に自分が何をしたいかの前に自分がどういう人間になりたいのかが大切であると書かれていました。

子どもが生まれたときに親はまず、どんな人になって欲しいかで名前を付けたりします。

優し子になって欲しいという願いを込めて優子、心の美しい子になって欲しいと心美(ことみ)太く逞しく健康になって欲しい健太・・・・・・

名は体を表わすと言いますが、その人の性格と名前は不思議なことに一致してくるものなのです。

それは自分自身がその名前を心に刻印したり、周りからインプットされるようになるからです。

「あたはは美しい」「あなたは美しい」「あなたは美しい」・・・・・・

意識すればするほど、名前の通りになろうとするのです。

反対に面白い話がありまして

中身はいい加減なことや悪いことをしているのに好印象を与えようと

「愛夢(あいむ)」という社名の会社を立ち上げたのだそうです。

いい社名ですよね(笑)

しかし名と体が伴っていないので宇宙の法則(自然の法則)から外れてしまい、当然のことながらすぐに潰れて(淘汰された)しまいました。

これは「アイム」という社名と行動のエネルギー合致しなかったからなのです。

だから「アイム」も定着しないしお客さんも親しみを持てなかった。

磁場を作ることが出来なかったのです。

そしていくら良い名前(社名)で騙そうとしても

うさんくさそうな男が出て来て

「こんにちは、愛夢(アイム)の○○です」

と言われても社名とその本人とを照らし合わせて

ミスマッチならば

笑ってしまいますよね。

でもその人の心が社名に伴っていれば

ゴリラのような顔をした人が

「愛夢(アイム)の○○です」

と言っても

その波動は伝わって来るのです。

 

私たちは何をしたいか?

何をすれば儲かるか?

何をすれば人に認めてもらえるか?

よりも先に

自分がどういう人になりたいか!

が大切なのです。

人に役立つ人になりたい

人を救える人になりたい

人に親切にして感謝される人になりたい

人に夢を与えて元気になってもらえる人になりたい

自分の特技を活かして人に喜んでもらいたい

2番目の

人を救える人になりたい

が発展して

医者になる、消防士になる、弁護士になる、先生になる、警察官になるが出て来るのです。

まず最初に生まれてすぐにどういう人になって欲しいかと同じように

どういう人になりたいか があるのです。

最初の動機はそうだったのに時間が経つと忘れてしまいます。

「あなた名前は優子なのに、ちっとも優しくないじゃない!」

「人を救う、国を善くするために政治家になったのに今では利権ばかりを考えている」

・・・・・・・・・・・・・・・・

どこかで歪んでしまったのですね。




原点は、一番大切なのは

これから人類は何をしていくのかではなく

どういう人類になってゆくか

個人的にどういう人になって

どう生きていくかだと思うのです。


それが基本となって新しい地球が出来てゆく

愛に溢れた人がたくさん現われれば、愛の星となり

エゴの塊のような人がたくさん出現すれば、地球は崩壊へと向かう(ほんの一部の人しか残らない、この後の日記で詳しく書いてゆきます)

子どもたちの教育でも

私思うんですけど

まず最初に

「なにになりたいか?」

「なにをしたいのか?」

「どれだったら出来そうなのか?」

「興味の持てそうなのはなんなのか?」

などで進路を導いていくよりも

「あなたはどういう人になりたいですか?」

「どういうことに生きがいを感じますか?、感動しますか?」

で導くのが正解だと思うのです。

どういう人になるか?

は最終のゴールです。

「なにになりたいか?」

はプロセスなのです。

人間はゴールを目指して動かないと長続きしないのです。

生命(いのち)が活き活きとしてこないのです。

途中の中途半端な目標では、モチベーションは下がってしまうのです。

目標を持つことの大切はそこにあるのです。


では、地球人類の最大の目標とはなんでしょう?

地球人類だけでなく、宇宙全体の目標とはなんでしょうか?

宇宙全体の目標とは、神(宇宙神)の願いでもあります。

これ以上ない、これ以上大きな目標はありません。


それが世界平和の祈りなのです。





世界人類が平和でありますように

日本が平和でありますように

私たちの天命がまっとうされますように

守護霊さまありがとうございます

守護神さまありがとうございます


無限なる愛

無限なる調和

無限なる平和



  


 

2012年10月29日 (月)

太陽と雲 2

  

  

 太陽と雲


私は、海外でも国内でもいつも“我即神也”“人類即神也” を太陽でたとえさせていただいています。

自分が一番信じていること、大切にしていることは、皆一人一人の中に神と一体の素晴らしい魂が存在しているということです。

肉体を持つ人間だから、時に神とかけ離れたことを思ったり、言ったり、行動してしまうかもしれないけれど、それは太陽にかかる雲のようなもので、別の次元に存在しているものなのです。

雲は太陽の存在を隠すことは出来ても、太陽自身を汚せないし、侵すことは一切出来ないように、私たちの中にある魂は何からも汚されたり侵されたりすることはないのです。

しかし、私たちの思いや行為が雲のように、魂の美しさや光、愛と赦しを隠してしまうことはあるのです。

今まで、私は太陽だけを見ていきたいと思っていました。

そして、雲の間の隙間をどう作っていくのか、隙間作りがテーマだと思っていました。

それは自分自身の中に存在する雲の隙間作りもそうですし、自分が出会う周りの人々も、たとえ雲にびっしり覆われていても、その中に隙間を見つけて、その人の本来持つ素晴らしさ、輝き、愛を見出し、それとつなげることを考えてきました。

自分たちの生き方、思考パターン、コミュニケーション、行為・・・・それらの中にどうやって隙間を作り、人間本来神たる姿をより引き出し、お互いに見出し、感じられる方法を見つけ出せるのか、実践していけるのか。

自分自身の実験を通して、常にその視点で活動していました。


ですが、最近になって雲にフォーカス(注目)する大切さも周りから教わりはじめました。

太陽に目を向けていると、その横にある雲には一切目がいかなかったのです。

そこを見る必要がないと思っていましたし、一度掴んでしまうと、そこに意識を向けてしまうことで、かえって自分の太陽を曇らせてしまうと思っていました。

しかし、雲を見ることによって、雲の大きさ、形、色を把握することが出来、何よりもそれを受け入れ、受け止めることが出来るということを知りました。

雲は流れつづけ変わりゆくからこそ、現状のありのままの姿を見つめ受け入れること。

そこに何の批判、非難、評価もせずに、ただ、今、こういう雲が自分の周りを流れていると知ること。

そしてその雲もまた、必ず消え去り動いていくということ。

それをも踏まえて太陽を見ることこそ、何の不安も恐怖もなく太陽の光をしっかりと受け止めることが出来るのだと思いました。

言い換えると、我即神也に意識が集中しすぎて、そこだけを掴もうとすると、日々自分の中に出てくる想念や行為を受け止めず、大切な学びや成長を見逃してしまうことがあると思ったのです。

自分の中に生じた思い、考え、行動が、時に雲のように消えてゆく姿となって現われたら、批判、非難せずに、それもしっかり見つめ受け止めること。

すると雲から学び取れる光もたくさんあるのだと感じました。

隙間作りは、太陽ばかりを見ていても出来る訳ではない。

逆に、そこにある雲を受け止めて理解し、初めて作れるのだと感じたのです。

これからも自分と人の太陽をもっともっと見出していけるよう、精進していきたいと思います。




                西園寺由佳 さん



   

太陽と雲 1

  
  
人間の本質(正体)は、神であり、宇宙そのものであり、愛そのものなんだけれど、肉体(物質)を持ったときから、神の波動(エネルギー)と肉体波動が違い過ぎて隙間に汚れが溜まった、それが業であり、カルマであったのです。

それらは潜在意識に溜まり、幽界という迷いの世界をつくった。

今その幽界が肉体界にそのまま現われてきている。

それが前の日記で述べた、“やるせない”状況を産み出しているのです。

やるせないことが続くとそれが実体だと思ってしまう。

この続きが将来も続くのだと思ってしまう。

そして未来は暗いと思ってしまう。

しかしそうではない、人間は本来神性そのものなので

それが今は顕われていないんだ。

それは、太陽(神性)を雲が覆っているようなものなんだ。

雲を掴まずに、太陽だけを見ていれば雲は通り過ぎて行き

そして残るのは、人間の本質である太陽(神性)だけなんだ。

ということなのです。

しかし、太陽ばかりを見て、雲を完全否定するのにも無理がある。

雲(マイナスとします)にも形があり、色や厚さもあり個性があります。

人間、長所と短所があるように

長所だけを見て、短所は見るな!

そうすれば短所はいつの間にか小さくなって消えて無くなる。

そうかもしれませんが

同時進行で短所もまったく見ないのではなく、ちゃんと向き合って直す方向へ努力することも大切だと思うです。(あくまでも長所を主に見ることが大事です)

今から西園寺由佳さんの文章を抜粋しますが

そのことが書いてあるのです。

私も相手の太陽の部分(神性)だけを見ていればいいんだと思っていました。

しかし自分や相手の雲(覆っている業、カルマ、マイナス想念)も、しっかり見た上で消えてゆく姿を実践していきたいと思っています。



   

「現われはやるせないけれど・・・・」

  

  
私は月に一回行なわれる調和波動気功セミナーに毎回出席しています。

そこには同じ気功を実践している仲間(ハーモニー)の人たちが集い、一ヶ月の間に起った出来事、体験(消えてゆく姿など)などを発表し、そのスピーチに感動したり、お互いに刺激を受けてまた、次の月まで頑張ろうという会なのです。

私もとても楽しみにしていて、日々の日常生活などでめげそうになった(落ち込みそうになった、折れそうになった)心を建て直しているのです。

そこは、同じような波長(波動)の人たちが集まった天国のような磁場があるのです。

「ああ、ここへまた帰って来ることが出来た」

みんな(ハーモニー)に会うとホッとするのです。

自分のことを理解してくれる人がたくさんいる

それだけで癒されるんですね・・・・・。

そして極めつけは、みんなのメンター(人生の師匠)である于先生の講演です。

先生は難しい話からは入ることはなく、みんなをリラックスさせるために笑いから講演が始まります。


ダジャレであったり、冗談であったり、ユーモア、ジョークの連発です。

みんなが笑い、リラックスし始めてから本題に入ってゆきます。

先日于先生のお話しの中で

「現われはやるせないのだけれど・・・・・」

とおっしゃっていてその言葉がずっと心に残っていました。

今まさに、やるせないことが蔓延していますよね。


何をするにも やるせない

当り前のことが当たり前に出来ていなくて やるせない

人間関係がしっくりいかなくて やるせない

政治家も経済もわけがわからなくて やるせない

今の現状にこの “やるせない” を付けると見事にみんな

ピッタリくるのです(笑)電球

ハーモニーの人のスピーチの中にある人が今自己啓発のために簿記の教室に通っているときの様子を話してくださいました。

教室では簿記の講師の先生が生徒(社会人)に挨拶をしてもほとんどの人が挨拶をし返してこないそうです。

「みなさんこんにちは、これから授業を始めます」

と言っても、誰も

「よろしくお願いします」を言わない。

「これで授業を終わります」

と言っても

「ありがとうございました」

もない。

みんな心に余裕が無いのでしょうか?

当り前のことが出来ないようなそんな “やるせない” エネルギーが流れているのだろうか?

この先生も やるせない と思うのです(笑)。

先生も仕事としてやっているわけだから、挨拶が返ってこなくてもやるべきことはやるのだと思うです。

しかし、そこには潤いがありませんよね。

物事は、人間関係は、挨拶に始まって、挨拶に終わる。

基本的なことだと思うです。

その基本が疎かになることから段々と調和が乱れてゆく (無限なる調和!)


このハーモニーの人が偉い!のは、たった一人であっても

大きな声で

「よろしくお願いします!」

「ありがとうございました!」

「先生さようなら」(これはないか)

と言っているのだそうです。

みんなが変な顔で見ようと

周りから浮いていようと

そんなことは気にせずに・・・・。



でも、今現われて来ていることは

やるせない ことばかりなのは事実です。

なんとなく気が滅入るエネルギーが充満しているのも確かです。

だからハーモニーの人たちもめげそうになる。

でもそれに負けてしまっては

自分が自分でなくなるので

必死で 頑張っています。

頑張るという言葉は好きではないけれど

やはり自分で自分に気合を入れないと

マイナスの やるせないエネルギーに負けてしまうのです。

このまま、自分は、家族は、仕事は、日本は、人間は、地球は、・・・・・・・どうなってしまうのだろう?

みんなが不安になっているエネルギーが、また やるせない エネルギーを産んでいます。

だがしかし、ハーモニーの人たちは 真理を識っているので

立ち直ることが出来るのです。

周りの人が落ち込んでいても

孤軍奮闘、元気で(一時的に落ち込んでも)いられるのです。

真理を識っていること

それと

自分で自分の波動調整が出来るのです。

自分で自分の心のコントロールが出来る。

これは自分で言うのも変ですが

凄いことなのです。

素晴らしいことなのです。

次回、11月18日(日)、大阪心斎橋、中国料理店の大成閣にて健・美・食の会が行なわれます。


調和波動気功法

http://homepage2.nifty.com/hmwave_goldendoor/index.htm


最近、セミナーのお知らせをしていませんでしたが、今回はなぜか読者のみなさんにお知らせしたくなりました。

詳しくは調和波動気功のホームページをご覧になってください。

そして是非、ご自分でご自分のエネルギーを整えるメソッドを身につけてください。

やるせない 自分を脱するには自分の波動をスッキリ爽やかにしてゆくしかないのです。

そのためには調和波動気功法は、必要不可欠なものだと思います。

それから同時進行で頭でも真理を会得していくことが大切です。


今現われてきているものは

どういう性質を持っているのか?

本質が何で本質を覆っているものは何なのか?

私たちは何に振り回されいるのか?

そのことを

“頭でしっかりと理解する”ことが大切です。

頭で理解して、体(行動)で実践する

人は理解出来ないと行動に移すことはしません。

だから真理を論理的にしっかりと説明出来なければ

ダメだと思っています。

次の日記で、人間の本質とそれを覆っているものについて

非常にわかりやすい文章を見つけましたので

ご紹介します。

よかったらお付き合いください。


    

2012年10月28日 (日)

地球世界への感謝の言葉について

  
  
  
地球世界への感謝の言葉は、私たちの心や体を自然界と一つに繋ぐ素晴らしい方法です。

日常生活の中で、あるいは大自然の中で、また、心の中で唱えても、声に出して唱えても、一人あるいは大勢で一緒に唱えてもいいのです。

感謝の言葉は、折々、心に浮かぶ自由なものでいいのです。

心からの言葉であれば短いフレーズでもかまいません。

道を歩く時、「大好きな大地さんありがとう」 と思ったり

朝の空気を吸う時、「愛しい水さんありがとう」 と思うだけでもいいのです。

瞬々刻々、私たちの周りの世界や、私たち自身の肉体の細胞の感謝の波動を送る習慣を身に付けることが出来たらどんなに素晴らしいことでしょう。





           

            地球への感謝


人類を代表して、私たちを取り巻く大自然に心より感謝を捧げます。


 海さんありがとう  大地さんありがとう  山さんありがとう

植物さんありがとう  鉱物さんありがとう  動物さんありがとう

空気さんありがとう  天象さんありがとう  太陽さんありがとう

水さんありがとう   食べ物さんありがとう 肉体さんありがとう







  
もっと詳しく知りたい方へ━

★ 感謝の心こそ、この傷ついた地球を癒すエネルギーです。真に感謝が湧いた時、地球上の生きとし生けるものと一つ一つになり、地球にハーモニーが広がります。そのことについて深く知りたい方は『地球を癒す人のハンドブック』(西園寺昌美著/白光出版本部刊/定価1、365円)をぜひお読みになってみてください。


★ 今や地球の環境破壊は深刻です。人類はもう自己の発する想念と地球との深い関わりに気づかなければなりません。地球に対する感謝の大切さ、地球感謝行についてさらに知りたい方には、『かくて地球は甦る』(西園寺昌美著/白光出版本部刊/定価1、575円)がおすすめです。


   

   

地球を癒すための方法 3

 
  
質問:私たちの想いや言葉には、すごい力があるのですね。でもこのことは頭では分かっても、想いや言葉を常に愛と感謝で満たすには、よほど気をつけなければなりませんね。


 
そうです。 想いや語る言葉に注意するのはとても大切なことです。

またその他に、地球世界感謝の言葉を書くこともいいでしょう。

例えばこの地球感謝マンダラは、この自然界のすべてのものに感謝の波動を送るとても効果的な方法です。

それは同心円状に一つ一つ手書きで感謝の言葉を綴ったものです。

感謝の言葉を書くことによって私たちの本心はさらに開発されますが、マンダラそのものも光を発し、この自然界にエネルギーを送るのです。

現在、動物や植物、大地や空気などの自然が虐げられ、破壊されつづけていることに憤りを感じる人々が大勢います。

そして、それに対してなす術もなく見守ることに苛立ちすら覚えています。

そんな人たちにぜひ知ってもらいたいことがあります。

私たちが語り言葉や、発する想い、そして感情にはエネルギーがあるということです。

そのエネルギーは自然界に振り撒かれ影響を与えます。

ですから、自然破壊に対して憤るということは、実は自然を守ることにはならないのです。

人類の所業に罪の意識を覚えることも世のためにはなりません。

口角泡を飛ばして相手を罵ることも、何の解決ももたらさないでしょう。

本当にこの自然界を救うことが出来るのは、愛と感謝に満たされた言葉や行為によって生まれるポジティブなエネルギーだけなのです。

私は出来るだけ多くの方に、地球世界に愛と感謝の波動を送るこれらの方ほを体験していただきたいと願っています。

そしてそれらを通して自らの人生も変わってゆくという素晴らしい事実を知っていただけたらと思っています。

またそれが人から人へと伝わってゆき、この素晴らしいエネルギーが地上を覆い尽くすことを心から願っています。



  

   『地球を癒す人のハンドブック』 西園寺昌美 白光出版



 

地球を癒す方法 2

  
 
質問: どうやってその愛と感謝の波動を送ればよいのですか?


 

最初は練習が必要です。まず、私たちの細胞の一つ一つから、私たちの行為から、愛と感謝の波動が溢れ出るような新しい習慣や考え方、行動を身に付ける必要があります。

そのためには、言葉の力を使うことをお勧めします。

なぜなら、言葉は物を創り出す根源的な力を持っているからです。

言葉によって自らを高め上げ、私たちの奥に潜んでいる宇宙根源の響きに意識を合わせてゆくのです。

この方法が、本来私たちが自然界のものと生命を一つにしているという遠い記憶を蘇らせる一番の方法なのです。

そのためまずは、愛と感謝に溢れた言葉を作り出してみましょう。

例えば、道を歩く時、こう言ってみてください。

「愛する地球さん、私を支えてくださってありがとうございます。

顔を洗う時は、「お水さん、あなたはなんて素晴らしいのでしょう。あなたのおかげでさわやかになりました。あなたがなかったら私たちは生きてゆくことが出来ません」

私たちがこのように思い、語る時、調和した労わりのエネルギーが徐々に私たちの中から溢れてきます。

そしてその素晴らしいエネルギーが私たちの見るもの触れるものに振りまかれるようになるのです。

そしてそのエネルギーはその対象物に留まらず、広く私たちを取り巻くすべてのものに運ばれてゆきます。



 

     『地球を癒すためのハンドブック』 西園寺昌美 白光出版



  

地球を癒すための方法 1

  
  
 
質問: 今多くの人々が人類の自然破壊や動物虐待に心を痛めていますが、何をしたらいいのか分かりません。私たちは何が出来るのでしょうか?



 
一番大切なことは、地球や自然に対して私たちの愛と感謝の波動を送ることです。

私たちの愛と感謝のエネルギーは、傷つき汚れた動植物、水などの自然界すべてのものを変えます。

私たちの愛と感謝は自然界のものたちのエネルギーを高め、本来備わっている復元力を引き出します。

なぜなら私たちは、人間であろうが、動物であろうが、鉱物であろうが、海であろうが、みな宇宙の一員なのですから。

私たちの肉体を通して流れ出す響きは宇宙のすべてのものと共鳴し合い、一つに融け合ってゆくのです。

私が愛と感謝を捧げることの大切さを力説するのはそのためです。



  
  

    『地球を癒す人のハンドブック』 西園寺昌美 白光出版



   

それぞれの大自然の役割り

 

質問: なぜ宇宙にはそんなにたくさんの神々の法則が存在するのですか?



宇宙にはそれほどたくさんの要素から成り立っているからです。それぞれがそれぞれの法則に従いながら、大宇宙の運行の一翼を担っているわけです。

それを知る一番いい方法は大自然の中に身を置くことだと思います。

私たちが海や山や雲や動植物などと出会う時、それぞれの持つ神の響きに触れることが出来ます。

そして人は時に、そうした自然のうちに一つに強く惹きつけられることがありますが、それは心がその自然に宿った神の法則や働きを求めているからなのです。

例えば心が慈しみを求めている時、人は太陽の光を浴びたり、波の音を聞きたくなったりします。

そして自己を高める峻厳なる愛に触れた時、人は山に向うことでしょう。

山岳地帯に足を踏み入れると、私たちは空気の違いに気づきます。

研ぎ澄まされた風、身も心も引き締まるような空気、そびえ立つ木々・・・・すべてのものが峻厳なる愛の波動を送ってきます。

しかし峻厳であっても決して私たちを厭い拒む響きではなく、自ずと山の持つ気高さだけが感じ取れます。

私たちは心の奥底で、この厳しさが拒絶の響きではなく、気高い愛の響きだということを知っているのです。





   『地球を癒す人のハンドブック』西園寺昌美 白光出版



  

山のどんなところが彼らを惹きつけるのでしょうか?

  

 
質問:今のお話しを聞いて、私たちが波の音を聞くとなぜ心が安らぐのかということがわかりましたが、山をこよなく愛する人もいます。山のどんなところが彼らを惹きつけるのでしょうか?



山に惹かれる人たちはちょっと独特の価値観を持った人です。彼らは世俗的な喜びだけでは満足できず、自らを高めるためにあえて自らに困難を課そうとするのです。

彼らが山に登るのは、究極的には自我を捨て去り真の自己に出会いたいという強い願望からくるのです。

高い山に登るのは、決して容易ではありません。不注意で軽率な態度を取れば、転落の憂き目に遭うことにもなりかねません。

たった一歩に意識を集中するということは、一歩一歩を意識するということでもあります。

自ずと山に対する畏敬の念が芽生えます。

山の波動はいつも峻厳であり、人を慈しむ海や太陽のような暖かく包み込む波動ではないのです。

慈しむ愛も峻厳なる愛も、共に大切な愛です。

人類にとって、慈しみの愛だけでは足りません。

また峻厳なる愛だけでも不十分です。

慈しみの愛と峻厳なる愛とが互いに作用し合い、調和してはじめてこの世の愛は完成するのです。


山の持つ峻厳なる愛の響きは宇宙の調和に深く寄与しています。

自然界のものすべては神の法則に色分けされた働きをしながら宇宙法則の秩序の中に組み込まれています。

海も、大地も、風も、雨も、みなそれぞれに違う神の法則のもとに働いているのです。





   『地球を癒す人のハンドブック』西園寺昌美 白光出版



  

海を見ているとなぜ癒されるのでしょうか? 2



  
自然界と人間との関係


  
質問:私たちは海へ出掛け、波の音を聞くと安らぎを覚えます。人はなぜ海に惹かれるのでしょうか?


それは海が私たちに生命の波動、宇宙根源の響きを思い出させてくれるからです。寄せては返す波の音は、宇宙の響きそのものを伝えています。

私たちがすっかり忘れ去っていた、しかし心の奥では求め続けていた響きがそこにあるのです。

波は自然の動きそのもので、人工的なものは一切加えられていません。

海自体が自然のエネルギーそのものであり、そのエネルギーが波の動きや音となって私たちに伝わってくるのです。

そのリズムは私たちの肉体の中にも存在しています。

今日(こんにち)、ほとんどの人が多くのストレスや心配事を抱えて生きています。

その中で心や体のバランスを保ってゆくのは容易なことではありません。

もし、私たちが自分たちだけの力で傷ついた肉体や心を癒そうとすれば、それこそ途方もない努力を積みかさねなければならないでしょう。

しかしそんな時海に行けば、海は人々をその胸に抱き取り、宇宙が奏でる調和の響きに戻してくれます。

それが海の持つ役目の一つでもあるのです。

たとえるなら私たちは大海の一滴。

大宇宙の営みの中の一つの生命です。

どんな一滴でも海より生じ宇宙に還ります。

そう考えると、今の人類は宇宙と一つであるという感覚を失ったまま生きているといえます。

宇宙の律動を忘れ去ってしまったのです。

でも、波の音を聞くだけで人は心の故郷に帰ることが出来ます。

心の故郷、それは宇宙の律動、そして神の響きそのものなのです。

人は、波の音を通してそれを思い出すのです。

私は宇宙の一員、神から分かれた生命だったのだと。

宇宙にはさまざまな波動が流れています。

しかし、宇宙本来の根源の波動は平和と調和に満ちたものです。

そして、この世のいろいろな宗教がその宇宙根源の波動を伝えようとしています。

たとえばキリスト教の聖書には

「太初に言(ことば)あり」というくだりがありますが、この言とは宇宙根源の波動のことです。

アメリカインディアンの教えの中にも同じものがあり、彼らの打つ太鼓のリズムにその響きを感じ取ることが出来ます。




    

  『地球を癒す人のハンドブック』 西園寺 昌美 白光出版



  


  
    

海を見ているとなぜ癒されるのでしょうか? 1

  
  
  
私は大阪の都会?に住んでいるので海からは遠く、旅行先で見るくらいでほとんど触れることがありません。

しかし数年前に、私のメンターである于先生に

「海を見に行かれたらいかがですか?」と言っていただき、一人車で和歌山の海を見に行きました。

ただ防波堤に座ってぼ~と見ているだけでしたが心の中がなにか浄化されていくのを感じました。

今考えていること、ひっかかっていること(ストレスでしょうか?)が海の中に溶け込んで

「どうでもいいや」・・・・・・。(笑)

決して投げやりになるのではなく

そんなことも小さなことに思えてきたのです。

今想えば

癒されていたんですよね。

今回、ある小冊子を読んでいて、合点がいきました。わーい(嬉しい顔)電球

次の日記でご紹介します。


   

2012年10月26日 (金)

はじめから悟っている自分 4

  
  
  
神のみ心のなかに入る祈り


悟るためには空にならないといけないけれども、空になることは非常にむずかしい。

また小智才覚でなんにも思わないということもむずかしい。

この現象世界では、想いにとらわれてしまいます。

とらわれてはいけないということも、空になるということもなかなかむずかしいことなので、私はどうしたかというと “消えてゆく姿” を使ったわけです。

この頭のなかで、いいと思うことも、悪いと思うことも、あいつはいやな奴だと思うことも、他からおかされることも、自分から出てゆくことも、すべて真理に反することはみんな消えてゆく姿なのです。

あるものは神のみ心だけなのです。

いやなことがあったら、過去世からの業想念が今現われて消えてゆくのだ、消えてゆく姿だ、と神さまのみ心の中へいやなことを持ったままで入ってしまいなさいというのです。

神さまのみ心のなかに入るにはどうしたらいいか、そこには祈り心がほしい。

祈り心といってもどういうことかわからない。・・・・・・・自分と人類は同体で、自分というものは人類の中にあり、人類は自分の現われなのです。

人類が自分でもあるのです。

だからほんとうは自分が人類の中に入りこんでしまわなければいけない。

それにはどうしたらいいか。

人類すべてが平和でありますように、幸福でありますように、本体が現われますように、というので “世界人類が平和でありますように” という祈り言(ごと)が出来たのです。


そして “日本が平和でありますように、私たちの天命がまっとうされますように” という祈り言がつづいたわけですが、“私たち” というのは自分たち一家だけではないのです。

私たちを含めて無限の数です。

いわゆる世界人類(宇宙人類)です。

ですから、世界人類の天命がまっとうされますように、ということと同じなんです。


そういう祈り言をすると、つねに自分は人類の幸せを願う心でいっぱいになっているわけです。

一人の人間が三十数億(その当時の地球人口)の幸せの中に生きているわけです。

そういう大きな大きな自分になってゆく。

いいかえれば、神のみ心の中にそのまま入っているということです。

“世界人類が平和でありますように” という祈り心で、神さまのみ心の中に入ってしまうわけです。

入る時は自分の持っている業想念 ━ 誤った想い、把われる想い ━ もそのまま持って祈るのです。(初めは○○のバカ野郎!世界人類が平和でありますようにでもいいのです。私の勝手な解釈ですが)

そうすると、自我欲望にまつわる、いろんな小智、才覚、もろもろの間違った想い、人からおかされる想いというものが、みんな世界平和の祈りで一緒に消えてゆくわけです。

これを何回も何回もくりかえして祈り、だんだん深くなってゆくと、しまいには業想念がスッカリ消えるわけです。

初めは深く入れないかもしれない。

しかしみんな練習ですから、だんだん深く祈りの心のなかに入ってゆくうちに、いつのまにか、自分の幸せだけ願っていたことが、ほんとうに、世界が平和でなければいけないナ、というふうにだんだん心が強まってくる。

そうすると、自分の心がサバサバとしてくるのです。

心が青空のように晴れわたってくる。

こういう境地はやっぱり悟りの境地なのです。

お釈迦さまはそういうように悟ってくるのだ、という一番のもとを説いているわけです。

それをわれわれが、お釈迦さまの心を了解し、悟って、現代的にはこういうように説きあかそう、といって

“消えてゆく姿で世界平和の祈り” という生き方を発見したわけです。(昭和43年4月)




 「空即是色」━般若心経の世界 五井昌久 白光出版


 


世界人類が平和でありますように

日本が平和でありますように

私たちの天命がまっとうされますように

守護霊さまありがとうございます

守護神さまありがとうございます







  
追伸

上の文章で

入る時は自分の持っている業想念 ━ 誤った想い、把われる想い ━ もそのまま持って祈るのです。(初めは○○のバカ野郎!世界人類が平和でありますようにでもいいのです。私の勝手な解釈ですが)


を少し補足しておきます。


私は偉そうにさも悟ったようなことを書いているのですが、真理をかなり勉強しているつもりの私ももちろん腹が立って感情的になることがあります。

それを「こんなことを想っちゃいけない」「自分はなんて情けないことを想ってしまうのだろう」とずっと責めていました。

しかし最近、それは違うとわかったのです。

肉体を持っている以上はしかたがないんだ。

肉体を纏っている時点で、「いろんな想いが湧いてくるのはしようがないことなんだ」 と割り切ったのです。(するとかなり楽になります、自分を責めないから)

そして腹が立ったままでいいから、あいつ頭に来るなぁ、しゃくにさわるなぁと想ったままでいいから、その代わりにすぐに世界平和の祈りを祈って打ち消そうとしたのです。

あいつのバカ野郎!は確かにマイナスの言葉です。でも湧いて来るものを押さえようとしてもまた出てきたり、誤魔化すことになる。

それならば、小さな業(マイナス)を出す代わりに宇宙のもの凄いプラスの言葉を言えばいい

だから

「○○のバカ野郎!世界人類が平和でありますように」

「オレは頭に来ているんだ、世界人類が平和でありますように」

「いつまでも調子に乗ってるんじゃないぞ、世界人類が平和でありますように」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

何回も何回もこれを心の中で繰り返すのです(笑)

すると アラ不思議

憎いあいつが憎くくなくなってくるのです(笑)

世界平和の祈りのエネルギーってそれくらい凄いのです。

すさまじい光なんです。

これをやっているといつかは、前のマイナスの言葉は出て来なくなる。

そうやってだんだんと自分のものにしていけばいい。

愛深くなっていけばいい

自分のことが好きになれる自分になればいい・・・。

そう思うのです。



  


はじめから悟っている自分 3

    
 
悟りを開くということは


そこで考えなければならないことは何かというと、肉体の生活をよくしよう、肉体生活の幸せを得よう、ということは二の次、三の次であって、いちばん大事なことは、悟りを開くということなのです。

これがほんとうの幸せを得ることなのです。

悟りを開くということはどういうことか、というと、自分の本体、自分の本質をハッキリ体覚することです。


その本質は何かというと、神のみ心である、唯一なる神、絶対者のなかにそのまま生きている自分であるということ。

それがわかりさえすればいいことなのです。

それをわかるにはどうしたらいいかというと、頭の中で右往左往して、これは損だこれは得だ、こうしなければ、ああしなければ、と思いまどうこころ、小智才覚をなくすことなのです。

そこでお釈迦さまは、“空” になれといったのです。

空になって、空になったところから自分の本体が現われてくるのだ、阿僧祇劫(あそうぎこう)から生きている、永遠に生きている自分がそのまま現われてくる。

だから空にならなければいけない、といったわけです。

本体の自分の現われを閉ざして、少しずつたまった知識とか、たまった経験とかでは力は出てくるが、空になって出た力とはまるきり違ったもので、消えてゆく姿で、諸行無常の力なのです。

そこで、色即是空といった。

空になると、神さまの力がそのまま現われてくる。

そして空即是空とひらけて、空になって現われてきた物事、事柄というものは、すべて本体、神のみ心から出てくるものだから、素晴らしいものなんだ、だからそうなりきりなさいよ、と般若心経を説いたのです。


お釈迦さまは悟りを開いた時にそれがわかったわけです。

そしてそれを弟子たちに教えたわけです。

直接、お釈迦さまに教わった人は、現在、生まれ変わって生きています。

皆さんのなかにも随分います。

お釈迦さま時代にきいた時にわからなかったことが、今日になってだんだんわかってきた人も随分あります。

もちろん、皆さんも何べんも何べんも生まれ変わっているわけですよ。

世界平和の祈りをほんとうにわかる人は、そうとう古い魂で、何べんも生まれ変わっているのです。


なんども生まれ変わり、霊的体験、肉体的経験におけるいろいろな体験を加えていきますと、ああ、この肉体の世界というものはただたんに消えてゆくんだナ、ほんとうに在るのはお釈迦さまと同体である、仏と同体である自分なんだナということを、だんだん悟ってゆくわけです。





  
   「空即是色」━般若心経の世界 五井昌久 白光出版



  

はじめから悟っている自分 2



  
無限億万年の昔から悟っている仏


法華経の如来寿量品に、お釈迦さまは菩提樹の下ではじめて悟ったのではなくて、永遠の昔から仏であって、つねに衆生(しゅじょう)を教化して仏道に入らしめていたとありますが、これについて説明していきましょう。

お釈迦様は断食したり、身体をいためたり、いろいろ苦行しまして、最後に、苦行は悟りの因ではない、といって菩提樹の下であけの明星をみて悟ったわけです。

ところが悟ってからどういったかというと、三十何歳で悟りを開いたのではない、自分は無量阿僧祇劫から、つまり、無限億万年の昔から悟っている仏なんだというんです。


ちょっときくとおかしいですね。

三十何歳で悟りを開いたのに、悟りを開いてみたら、自分は三十何歳で悟りを開いたのではなくて、昔のむかし、無限億万年のむかしから、いわゆる生命を得た時から悟りを開いたものだ、というのですね。

矛盾するようでしょう。

これはどういうことかといいますと、いつも私が申しておりますように、この肉体に現われている人間というものは、あなたと私とかいうものではなく、あなたであり私であるものの一つの生命の現われとして、肉体人間として生まれてきているのです。

だから私もあなた方もすべてほんとうは、神さまのみ心のなか、仏さまそのものの姿で生きているのです。

ふつうこの真理がわからないで、五十歳の誰某、三十何歳の誰々と、迷いのなかの、業生のなかの波に合わせて生きているのが人間であると思っているわけです。

それが私でありあなたであると思っているわけです。

ところがほんとうは、神のみ心、真実の自分が地球界に働きをひろげるために、地球界を開発するため、開拓するために、仮に肉体界に現わしている自分なのです。


お釈迦さまはそれがわかったわけです。

だから三十何歳で悟りを開いたのではなくて、阿僧祇劫(あそうぎこう)以前、いいかえればどんな数を積み重ねてもはかりしれないくらいの昔の無限年間の前から悟りを開いているということは、自分の本体は仏そのものであり、神そのものであるということなのです。


そうお釈迦さまは悟った、そこでみんなにわかるように阿僧祇劫前から悟っているのだと説明しただけなのです。

現代流にいえば、永遠の流れというものは大生命、一なるものがいくつにも分かれて、さらにそこから分霊魂魄(ぶんれいこんぱく)としてこの肉体界に宿っているのです。

ですからもとの自分、ほんとうの自分というものは直霊そのもの、神そのものであるというわけです。


これがわかればいちばんいいのです。

肉体界で何歳で死のうと、どうなろうとそんなものはなんでもない。

消えてゆく姿。

泡沫のようなものなのです。

時間がたてば忘れてしまうものなのです。

ところが永遠の生命というものは、無限時間永遠に生きているものですから、それは忘れようも、消えようもない、実在するものなのです。

なんの誰がしという名前で現われているものではなくて、生命そのもの、自分そのものが永遠に生きているんです。

それでしかも永遠に生きているというものは個性をもっているのです。

ただ、唯一の神のみ心は働きとしてはほうぼうに分かれている。

その働きの源というものが本体なのです。

Aであり、Bであり、Cである働きのもとにいるわけです。

ですから神のみ心にそのまま入る、全託すると、肉体界の想いというもの、あるいは幽界の想いというもの、霊界の想いというものが、つまり小我が全部なくなってしまって、神そのものが現われてくる。

神のみ心が行動となり、教えとなってゆくわけです。


そういうことの出来る人は、神さまのみ心そのままであるから、今、悟ったのではなく、永遠に生きている自分であり、神そのもの仏そのものの自分であり、初めから悟りを開いている自分であるということになるのです。

法華経の寿量品はそれをいったわけです。





     「空即是色」 ━ 般若心経の世界 五井昌久 白光出版




  


はじめから悟っている自分 1

  
  
  
人が亡くなった時に聞く、私が一番嫌いな言葉は

「○○さんが永眠しました」 なんです。

永遠に眠って、その後意識が戻ること無く、肉体が無くなった時点で、魂、心も無くなる。

そんなイメージ、響きがある。

まだ他界しました。往生しましたの方がずっといい。

他界は、肉体界の他に霊界や神界があることを想像させるし、往生(おうじょう)とは、生きて往くと書きます。

永眠とは反対に真理を含んだ言葉です。

しかし、これらの言葉をわからずに簡単に、喪中のハガキに書いたりします。

ほんと

「おうじょうしまっせ!」(笑)

人間とは、宇宙神から分かれた分け御霊であり、神さまそのものなのです。

仏さまそのものなのです。

宇宙そのものなのです。 だから生命はとんでもなく長く生きている。

金星などの進化した星に居たこともあるし(御釈迦様のように)最近の子供たちは、親たちを目覚めさせるために金星よりももっと進化した星から来ている魂もあるそうです。

そして地球で何回も何百、何千、何万回も生まれ変わっている魂たちもいる。

だから今私は54歳ですが、途方もない時間(永遠)プラス54歳なんですね。

みなさんも同じです。

ということは、生まれたときは、神の直霊だったわけだから、その時点でもう悟っているわけです。(すべてのことがわかっているという意味)

その後、いろんなところ、いろんな星を経験して、旅をして、悟っていたことを忘れていたけど、みんな思い出せば、究極の真理(我即神也、人類即神也)もわかっているのです。

だが、しかし長い間の長旅でそれを忘れてしまった。

お釈迦様はそれを思い出せ!とおっしゃったのです。

そのことが「般若心経」には書いてあるのです。

我即神也、人類即神也には、宣言文と印をいうのがあります。

この印を組むと、自分が何者であったかが強烈な宇宙からの光を浴びることによって思い出されるのです。

人類即神也は、自分だけでなく他の人に光がいくのです。

そして同じように自分が何者であったかを思い出すことになる。

地球上にはそうやって次元上昇をするための準備をコツコツとしている人たちがいるのです。(まだまだ少ないですが)


話しがまた逸れてしまいました(笑)


それでは、五井先生の「空即是色」から“はじめから悟っている自分” はじまり、はじまり~



  


  

2012年10月24日 (水)

自分をおかすものは何もない 3

  

  
すべてが有難いになる


念を押しますが、怒りなら怒り、貧乏なら貧乏が有難いのではありません。

消えてゆくんだから有難いのです。

借金をどんどん返してゆくんだから有難い。

また、借金が一つへった、借金がまたへった、ああ、だんだん自分の借金がへって有難いなァ、これで本当の姿、本心が現われるんだな、とこういうのだからね。

そこまで来ることが極意なのです。

それをみんな目指している。

ところが今まではただ言葉だけだった。

ところが現在は、私のような人がいて

「さあ、引き受けますよ」

といっているんだから、有難くないことがあったら

「先生有難くない」って、ここへぶつかってくればいい。

そしたら有難くしてやるからなんだって(笑)。

そういうふうにやればいいでしょ。

だから何があったって、驚くことはない。

どんな嫌なことがあっても、瞬間です。

一日か二日か三日。

一ヶ月か二ヶ月、一年か二年か三年か五年か十年か、大したことはないです。

ジーッとしていればいいんだから。

過ぎてごらんなさい。

大したことないから。

最後の死ぬ一瞬に

「ああ、よかったな、神さまが迎えて来ていて有難いなぁ」 だったら今までのことは全部消えてしまいます。

八十歳で死ぬとして、七十九年十一カ月三十日何時間苦しんでも、最後の最期の一瞬に、弥陀三尊が迎えに来て、守護神さんが迎えに来て、サァいらっしゃい、いい所にゆくんですよ、といって連れていってくれれば、それで有難いもの。

そういうもんなんですよ。

あとの過去なんかどんなに苦しんでも、なんでもないですよ。

今、苦しんだことを思い出してごらんなさい。

皆さん、苦しいですか?

苦しかない。

なんだか楽しいような気がしてしまう。

「ああ、よく私はあれを抜けて来た。私も案外偉いんだなぁ」

なんて思うでしょ。

人間本性は善で、光明だから、どんなに辛い想いを思い出しても、思い出した時には辛くないのです。

思い出した時にはみんな美化されてしまうのです。

どんなに自分をいじめた奴でも、思い出して憎らしいというより、ああ、ああいう人もあったなぁ、あれによって私も磨かれたなぁ、ぐらいになってしまうんですよ。みんな美化されてしまう。

人間の性は善で光明なんです。

インテリなどがよく、これをやってはいけない、いい。

あいつが悪い、これがいいとやっている人がいる。

それをやっているうちは絶対に悟れないことを保証します。

そんなものはみんな消えてゆく姿ですよ。

だから、のん気に、明るく、その日その日を感謝で生きてゆく、という基本的な言葉になってしまうのです。

世界平和の祈り一念で生きていれば、守護霊守護神さんがうまくやってくれるのです。

自分にあんまり関心を持ちすぎると、つまり自分の業、想いに関心を持つと、業の浮き沈み、流れに関心を持ちすぎて、本当の自分ではなくて、業を追いかけて、自分はどこだ自分はどこだ、とだんだん真実の自分から離れていってしまう。

そんなものはどっちでもいい。

出るべきものは出るし、出ないものは出ないし、消えるものは消えるんだから、一度突っ放してしまって、世界平和の祈りの中に入ってしまうのです。

そうすると朗らかになるし明るくなるし、恐れはなくなる。

何があっても怖くない。

何があっても怒らない。

何があっても嫌でない。

なんでも来い ━ そういう気持ちにならなきゃだめよ。

何が来たって自分を犯すものは何もないのだから。

自分を犯すものは自分の想いだけしかないんだ。

自分に想いがなかったら、なんにも犯されない。

そのつもりでいてください。(昭和33年3月27日)


  
    
     「空即是色」 五井昌久 白光出版



  

自分をおかすものは何もない 2

  

いけない いいではない


この世の中には、本当にいけないとかいいとかはないんです。

ふつうの人はすぐ、これをやってはいけない、あれはやってもいい、といいますが、いけないいいではなくて、やる時にはやってしまうんです。

わかりますか。

そこで私は消えてゆく姿という教えを説いているのです。

いけないとかいいとか言ったって、やってしまうのですよ。

そこで親鸞さんや法然さんが、あれだけ学問もし、修行をした人が、いけないいいじゃなくて、それは仕方がないんだ。

業因縁(ごういんねん)なんだ。

その業因縁を自分ではとれないから、阿弥陀さまにあげちゃった。

それが世界平和の祈りでもあるのです。

いいですか。

いけないとかいいではなくて、そうなってくるのですよ。

それを今までの宗教家がよく知らないのだ。

それでこれをやってはいけない。

あれをやってはいけない、お前はいけない、こう言っていた。

私はそこをよく知っている。

いけないいいの問題ではなく、現われてくるものは現われてくる。

消えてゆくものは消えてゆく。

うつるものはうつる。

それはすべて神さまのみ心、自分の本心が現われるためのものだから、どんなふうに形が悪く出ようと、善く出ようと、有難いのだ ━ とこういうのですよ。

わかります?


いけない、いいがあっては有難くないのですよ。

やっちゃいけないことをしてしまった。

自分はだめだと思うでしょう。

どんな悪い行ないが現われても、どんな嫌なものが自分に現われても、出て来ても、それはいい悪いではなくて、そうなっているんだから、ああそれは消えてゆく姿だ、だから有難いんだ。

消えてゆく姿自体が有難いのではない。

消えていったあとから、本心が出てくるから有難い。

雪が降ってじめじめしたけれども、お天気でお日さまが出て来た。

ああ雪のあとお日さまが出て有難い。

くもりのあとは有難い。

必ず晴れるわね。

雨が降ってもあとは晴れる。

雨ばかり降っていたら大水になってしまうからね。

それで晴れた時に有難いと思うでしょ。

雨が降れば必ず晴れることは決まっているんです。

だから、晴れたら晴れたで有難い。

くもったらくもったで有難い。

雨が降ったら降ったで有難い。

溺れたら溺れたで有難い。

そこなんですよ、そこが宗教の極意なんです。

私はどんな苦しいことが来ても、ふつうでいえば嫌いなことが来ても、なんとも思わない。なんにも思わない。

来るものは来る、とさえも思わない。

来たものはみんな受けている。

逃げようなどと一つも思っていない。

嫌いもいいも、なんにもありはしない。

そこまでいかないと、だめなんだ。

そこまでゆくと五井先生になる。

今、首を切られても有難い、というところへくるのが一番。

いいことがあったから、先生有難い。

悪いことがあったら、先生ちょっとだめだなァ(笑)

消えてゆく姿を出さないでくれ、なんていうのがあるけれど、循環しているから仕方がないのですよ。

だから私は前のもの、過去世のものを責めようと思わない。

どんなにヘンな業をもって来ても、このバカヤローって責めはしない。

仕様がないなァと思ったって、これは消えてゆく姿なんだからね。

それによって消えてゆくだけ開いてくるのですよ。

また何か出てくれば、また開いたんだから、また出ればまた開いてくるのです。

だから悪いものが出てくることは消えてゆくのだから有難いんですよ。

悪いものを積んでゆくのでは有難くないですよ。

消えてゆく姿というものがあると、すべて有難いということになるんですよ。

消えてゆく姿がないと、何かみじめになってしまうのです。

自分がみじめですよ。

またまたこんな心を起こしちゃった。

また把われちゃった。

なんて私はだめなものだろう ━ となる。

ところが消えてゆく姿なんだから、消えてゆくに従って、どんどん本心が現われてくるのだから、有難いんですよ。

だから貧乏しても有難い、病気をしても有難い、へんな嫌な感情が出ても有難い、怒りの想いが出ても有難い。



 
   
             「空即是色」 五井昌久 白光出版



  


  

自分をおかすものは何もない 1

  
    
どんなことが自分の身に起っても、それらをすべて、心から感謝で受け止めることが出来る。

そんなことが本当に出来たならどれだけ素晴らしいことでしょう。わーい(嬉しい顔)

悟るとは、そういう心の状態になることなのです。

地獄のような所に居ても、自分の心境が天国ならば

それは、天国に居ることと同じなんです。

全く同じ状況に立っていても、ある人は悲観的に受け取り、もう一人の人は歓喜で受け取っていれば、それは心境以外の何ものもないのです。

心の中がすべてのすべてです。

本当はマイナスって無いんですよね。

宇宙はすべてプラスの波動(エネルギー)で出来ている。

マイナスに思われるようなことも、それは人間が勝手にマイナスだと思い込んでいるだけで、不調和なもの、病気や貧困、事故・・・あらゆる不幸も実は悪いものが消えて、善くなってゆくためのプロセスなのです。

では、プロセスが不幸なのか?

雨が降ってはかなわないって人がいるとします。

遠足に行くのに、楽しみにしていたのに雨が降ってしまった。

「ああ、なんて自分はついていないんだろう、不幸なんだろう、神さまのバカバカ」って恨んでる。

でも遠足が次に延びただけで、次の週には行なわれた。

それは、雨の後に晴れたからなんですね。

「止まない雨はない」

どんなに激しく降っていたっていつかは必ず止みます。

そして自分とは反対に雨が降るのを望んでいた人もいるはずです。

雨が降るのが止むことがわかっているからありがたい。

降った後に晴れるからありがたいのです。

雨だけではなく、雪が降った後も数日後には必ず晴れる。

雪には雪の役割もある。

だからありがたい

どんなことがあってもその後は善くなってゆく(晴れる)からありがたいのです。

そう考えると、すべての出来事が自分を成長させるために存在していることがわかります。

嫌なことを言う人もしかけてくる人も

反面教師になる人も、模範になる人も・・・・・。

本当の幸せって

どんなことがあっても幸せに感じることですよね。

それも無理やりに感じるのではなく(笑)

頭で考えてそう思おうとするのではなく

無理やりではなくて、心からそう思うには

訓練、想いの習慣を変えることが必要です。


何か起るたびに今まではマイナスに受取っていたことを

「そうじゃないんだ」

「これは消えてゆく姿なんだ」

「消えた後は必ず善くなっていくんだ」

と何回も何回も練習するのです。


今までそんな練習ってしてなかったから(笑)

いきなりは無理です。

だから徐々に変えてゆけばいいのです。



自然に

自分がやるのではなく

守護霊、守護神さまがやってくださるのです。

肉体の自分が出来ることなんて

ありゃしない。

自分の守護霊守護神さまと相手の守護霊守護神さまが話し合うのです。

そして相手の守護霊がその人にメッセージを送るのです。

「もうやめなさい」

とか

「いい加減で仲良くしなさい」

とか

あるいは急にあなたに親しみを覚えはじめるかもしれない。(守護霊がそうさせる)

そうやって段々と調和がとれてゆく・・・・。

次の文章では消えてゆく姿がなぜありがたいのかを五井先生のご著書の中から抜粋します。

これを体得すれば、どんなことがあっても大丈夫! 不動心でいられます。

でも、人間は本来、平常心、不動心なのです。

そのことを思い出せばいいのです。



  

天地の通りをよくしよう 3

 
    
 
空を飛び越えて前進する世界平和の祈り
 


そういうふうに、自然に行なったことが普通の人間がやる何倍もの力になって現われてくる。

のんきに自然にやっていることが、素晴らしい力になって現われてくる。

それはどういうことかというと、自分の想いが全部神さまの中に入って、神のみ心のままに、というんでまかせているでしょ。

“どうぞ自分の肉体でもなんでも全部お使い下さい、み心のままに”

と全部自分の想いをなくしてしまう。

それが空というんだね。 


すると肉体幽体のゴタゴタしている小さなチッポケな働きの想いではなくて、大生命、大宇宙の動きと一つの働きの力がズーッと入ってくるんですよ。

自分が自分が、自分がやるんだ、自分の力で・・・・と力むと、天からくる力、神と通じている穴をふさいでしまう。

どうぞおまかせします。と開くと、大生命から要するに実相から光が肉体に流れてくる。

そうすると、人がわからないようなことも全部わかってくる。

要するに神秘力があらわれてくるわけです。

それを無為にしてなせ、自然法爾、空っていうんですね。

だから空なんてむずかしいものじゃない。

何も坐禅観法しなければ空になれない、というものじゃない。

空というと、何もないような気がするでしょ。

何もない、というのはどういうことなのか。

ある雑誌に、神道の人が仏教の禅をけなしているんです。

禅などをやっているとみんなタヌキ坊主になってしまう。

何故かというと、空になれ、なんて坐禅をしているけれど、空になんかなりっこない。

何もなくなることはないんだ、そんなこと出来ないじゃないか。

だからみんなタヌキ坊主になっちゃって、変な坊主がたくさん出来るんだ、というようなことを書いている。

それを見て、アー、一知半解なことをいうな、と私は思った。

自分が出来ないからといって、人も出来ないもんじゃない。

出来る人があるかもしれない。

自分に出来ないことを、人も出来ない、と思うのは浅はかなんです。




禅の空というのはどういうのかというと、肉体のほうの想いが何もなくなることなんです。

一度、自分の想いを全部放棄してなくなって、無くなりっぱなしになると、空即是色(くうそくぜしき)になるんです。

色即是空(しきそくぜくう)の色というのは、“もの”という意味です。

本当の姿と偽の姿がまざっている“もの”です。

その色が即是空で空になると、今度は空の中から、空即是色になって、空は即ち光なり。

色が本当の姿の現われだけになる。

神さまの智恵、本当の働きがスッとでてくるんですよ。

空になって自分の想いを全部投げ出した途端に、大神さまの光がそのまま入ってくるんです。

パッとひらめいてわかる場合もある。

今すぐひらめかなくたって、やがてだんだん現われて、いつの間にか、自然法爾に神のみ心のままに動いている自分になるかもしれない。

そこで、色即是空、空即是色と二つつながっているんです。

その一番いい易しい方法は何か、というと世界平和の祈りなんです。

何故、世界平和の祈りがいいかというと、世界平和の祈りというのは、自分のことを思っているんじゃない。

世界が平和でありますように、みんなが平和でありますように、大調和しますように、という想いが

“世界人類が平和でありますように” という祈りでしょ。

大神さまのみ心というのは、世界人類が平和であるということです。

神のみ心が現われるということは、世界中のありとしあらゆる生物がみんな調和して生きること。

それが大神さまの大調和の姿が現われることです。

つまり世界人類が平和になることは、大神さまのみ心そのままが現われていることなんですよ。

だから “世界人類が平和でありますように” と祈ることは、大神さまと一つになるということなんです。

今にだんだんわかってきます。

 “世界人類が平和でありますように”と人類愛の深い心になると、空になったと同じなんです。

空をとびこえて、空即是色なんです。

往相(大生命に昇っていく姿)と還相(神さまの光と共に菩薩行として帰ってくる)が一つになってしまう。

それが世界平和の祈りなんです。

だから空、空というと、いかにもむずかしそうだし、無為にしてなせというとむずかしいそうだけれども、神さまのみ心の中に全部入っていさえすれば、それは空即是色で、無為にしてなせということと同じになるわけです。

自然に自分のやったことが神さまのみ心に叶った。

神さまがそのままやっていることになるというんですよ。

それはどうやったらいいかというと、世界平和の祈りをそのままつづけていると知らない間になってくるのです。



  
  
        「空即是色」 五井昌久 白光出版



  


  

般若心経(空即是色) 8

  
  
  
真理というものは、何回も何回も何回も繰り返し自分の脳裏にインプットしないとすぐに忘れてしまうのです。

それは、人間が真理から遠ざかって三界を輪廻転生(りんねてんしょう)してきたからです。

三界とは、霊界の低いところ、幽界、肉体界です。

人間は、地球上に誕生してすぐのときには、神体(神界)がそのまま肉体(肉体界)に降りてきていて、神我一体であったのが、神体と肉体の波動が違うのでそこに隙間が出来、幽界をつくってしまったのです。

だから死んでから神界に戻ることは難しくなった。

霊界の高いところまで行けば、もう肉体を持って生まれることはないのだけれど、低いところから下は、迷いの世界なのです。

自分が何者であるのか? 死んだらどうなるのか? なんのために自分が存在しているのか?

それらがわかっていなければ(魂が)、神界へは行けなかったのです。

そのことがわかるまで私たちは生まれかわり、死にかわりをして修行をしていたのです。


ここまで読んで、肉体に何回も生まれ変わるのだったらそれも良いではないか?

「私は、今の地球上での生活も結構楽しいですよ♪」

という人もおられる思います(笑)。

私もどちらかというとそういうタイプです。

苦しいことや嫌なこと、辛いことがあっても乗り越えていくことに生きがいを感じていたりします。

決して肉体を持って生まれることが悪いわけでないのですが、幽界、霊界の低いところは別として、霊界の高いところ、神界は、それはもう別世界なのです。

年をとらない、自分のなりたい年齢になれる、どこへでも好きな所へ自由に行ける、気候は春と秋しかなく快適に暮らせる、周りは善い人ばかりで、犯罪やいじめや争いごとなどはもちろんない・・・・・・・・・・まさに天国ですね。

肉体に慣れてしまったから、肉体界でもいいやと思いますが、波動の粗い肉体を持つというのは、実に不自由なものなのです。

鎧(よろい)を着ているようなものです。

自由自在心とは?

今まで重たい荷物を背負っていたのが、無くなって軽くなった。

視界が悪かったのが、急に見えるようになって明るくなったとでもいうのでしょうか?(不幸、マイナスが一切無くなる)

とにもかくにも肉体を去った後、神界へ行ける人は幸せな人なのです。

そして、必要とあらば又肉体界に生まれることもあります。

しかしそのときは、迷った人間ではなく、迷った人を救う菩薩行をするためなのです。(お釈迦さまやキリストさまのような役割ですね)


ここでもう一度、真理に戻りますが、私たち人間は本当の自分は、神界(天国)に居るのです。

それが実体です。(消えないもの、永遠のもの)

そして同時に霊界、幽界、肉体界にも住んでいる。

しかし神界以外は、実体のない仮の姿、消えてゆく姿なのです。

波動の粗いものはやがては消えてゆき、宇宙の波動である細かい、細か~いエネルギー体だけが残るのです。

それだけが永遠に生き続ける。

細かい波動体とは何なのか?

それは魂、心です。

肉体が滅びても(死んでも)心は残る、意識は残るのです。

死んだら意識が無くなる、自分という個性が無くなると思っていたのは、大きな間違いだったのです。

そして本当の喜び、幸せとは本当の自分とつながることです。

神界にいる、神である自分とつながることなのです。

「自分は神だなんてだいそれたものではない、ただの肉体人間なんだ、死んだらなにもかもがなくなるんだ」


とほとんどの人が、今思っていますがそれは、肉体界しかあると思っておらず、肉体界に起る現象を実在のものと見ているからです。

不完全な姿を実際にあるものだと見ているからです。

そこに人間の不幸がある。

それらの不完全な不幸は、人間が自分が何者であるかを忘れ、自分と他人は別なんだと敵対し愛から離れた日々が潜在意識に溜まり(カルマ、業)、幽界という磁場(エネルギーの世界)をつくったために出来たものです。

潜在意識に溜まったもの(幽界)は、時間を経て肉体界に現われるのです。

それが今、私たちが見ている現象です。

しかしその現象とは、過去のものが写ってきているだけで、写ってしまえば消えてゆくのです。

なぜならば、実体のない、幻だから・・・・。

私たちは実体のない、幻、消えてゆく姿を見て

実在しているんだ、大変な事になってしまった、病気になった(消えてゆくのに)、貧乏になった(消えてゆくのに)、死んでしまった(魂は永遠なのに)そして憎んでしまった、妬んでしまったと脳裡に浮かんだことをつかまえて右往左往、大騒ぎをしている。

それらは、幽界が汚れているからです。

潜在意識の中(個人も地球人類も含め)がマイナスでいっぱいになっているからです。

幽界を浄めることは、肉体人間には出来ないのです。

自分たちがつくってしまった、汚してしまったものだけど、肉体人間は微力、いやなんの力もないのです。

霊界におられる守護霊さま、神界におられる守護神さましか幽界を浄めることはできない。

幽界を浄めないと地球は破滅するのです。

だから肉体人間は、どうしようもないんだ。

後は神さま(守護霊様、守護神様)にお願いするしかないのです。

守護霊守護神は、私たちが寝ている間にも守りに守ってくださっている。

幽体に溜まった潜在意識を夢に出させて浄めて、肉体界(顕在意識)に現われないようにしてくださっている。

だから大難が小難で済んでいるのです。

だけど私たちはそれを知らないから、ちっとでも都合の悪いことが起きると不幸だ不幸だと叫んでいる。(存在も知らずに、感謝もせずに)

これくらい人間はなんにもわかっていないおバカさんなのです。

しかし、今私たちの目の前に現われているものが実体のないものであるとはにわかに信じがたいと思います。

悪いものは消えてゆくんだから掴まずに気持ちを落ち着けて観ていればいいんだと言われても、やっぱりあわててしまいます。(これまでの思い込みで)

でもつかんでしまうとなかなか消えないのです。(消えようとしているのに)

だから、私たちの見ているものは、消えるために現われたんだ。

現われたら後はきっと善くなるんだ。

と信じることが大切なのです。

長くなりましたが、お釈迦さまは般若心経の中でそれを言っておられるのです。

色即是空の色はもののことです。

色とは色素のこと、物にはすべて色がついている。

この色とは、神性と動物性の入り混じった人間のことをいっているのです。

見えているのは動物性の汚れた部分です。

人間は本来、汚れたところなんて無いんだ、見えてはいるけど実体は無いんだ、不幸に見えるものも無いんだ、貧乏も、病気も、死も無いんだ、無いんだ、無いんだ、無、無無無無無無無無無無無無無無無無・・・・・・・・すべて一切のもの(色)を無いと否定しているのです。

否定し否定し否定し切っって空になった後に残るものはなにか?

空になった後で見える景色は、なる前とは全然違うのだそうです。

すべてのものが輝いてみえる・・・・。

そして顕われてくるのは、空になりきった完全、完璧な自分です。

神そのもので、慈愛にあふれた素晴らしい自分がいるのです。

肉体界に自らの神性を顕すことになるのです。

それが空即是色なのです。

空の後に出てくるのも色なのですが

この色は色即是空の最初の色とは違うのです。

真実の色、しいていうならば色のない光です。(白光)

白光の世界とは、神界のことです。

お釈迦様は真理のわかる弟子の舎利ほつに言ったのです。

「舎利ほつよ、今おまえが見ているものは実体(真実のもの)ではない、だから見えるもの(現象)、聞えるもの、その他のもの(五感)を一切無いと思え、そして感じない世界へ入って行け、そこに本当の世界があるのだ、そこに行けばこの世の苦しみは無くなる、心を静めろ、心の奥深くへ入って行け(統一)、そして仏(神)と一体となるのだ」

とおそらくこう言ったと思うのです。

私たちは感じるものを本物だと思っています。

しかし本物(神界)は、感じないところにあるのです。

五感(第六感その他の感じるものも含む)を越えたところにあるのです。

だから(余談ですが)、目に見えるUFOは偽物です。

本当のUFOは、神界にまで意識がいった人でなければ見えません。

肉眼(五感)で見えるのは幽界のオバケのいたずらなのだそう
です。




   


  
世界人類が平和でありますように

日本が平和でありますように(もちろん各国の祈りがあります)

私たちの天命がまっとうされますように

守護霊様ありがとうございます

守護神様ありがとうございます



 
追伸

今回の日記で世界平和の祈りの中に守護霊守護神への感謝が入っている意味がわかっ
ていただけたと思います。
わーい(嬉しい顔)

  


2012年10月23日 (火)

ユダヤ人のジョーク集 2


   
◆ ある若者が、年とった大金持ちのソールに、どうしてそんな莫大なお金ができたかを聞いた。

ソールは、老眼鏡をはずしながら、しんみりと語り出した。


「1923年は、ちょうど、大恐慌の真只中で、オレのポケットには五セントしかなかった。 そこでこの五セントでリンゴを一個買って、一日かけて磨き、その日には10セントで売ることができた。
次の朝も、売上げた10セントで2個のリンゴをまた買い、それを磨いて、夕方には20セントで売った。 このように毎日、磨いては売り、こつこつと努力を重ねて、一ヶ月後には、一ドル60セントにもなった。

そんな地味な努力を毎日、何日も懸命に続けたのだ。

そしたら、ワイフの親父が急死して、200万ドルが転がり込んだのさ」


(地道に努力したからと、その結果、大金持ちになったと思わせておいて、最後のパンチ・ラインで見事などんでん返しを食らわせている)






◆ アメリカン・インディアンが、腹ばいになって地面に耳をつけている。

そこへ2人のカウボーイが、やってきて、その一人が相手に言った。

「おい、あのインディアンを見ろよ!」

「うん」

「見てみろ! 耳を地面にあてて、東西南北、何マイル先でも、あいつにはきっといろんな音が聞えるんだぜ!」

そのとき、インディアンはやっと頭を持ち上げて

「幌付きの馬車が、2マイル向こうにいる。馬は白と茶の2頭、親子3人連れで家財道具を積んでいた」

と言うのを聞いたカウボーイの一人が、びっくりして

「驚いたね! このインディアンは、幌馬車がどこにいるのか、その馬の数や色、それに何を積んでいるのかまで分かるんだ。すごいなぁ!」

と言うと、インディアンは答えた。

「やつら、30分前におれを轢いて逃げたんだ!」




(インディアンに並外れた超能力があるかのように思わせておいて、最後のパンチ・ラインで意外な出来事をばらす。そのでんでん返しが愉快だ)






「頭がよくなるユダヤ人のジョーク集」 鳥賀陽(うがや)正弘著 PHP新書



  


  
   

ユダヤ人のジョーク集 1

 
  

気の効いたユーモアやジョークは、その場を一瞬で明るい雰囲気に変えてくれます。


本来ならそこは“楽しい場”であるはずなのに、固い話や真面目な話が相手の批判、非難に発展し誰かと誰かが議論を始めた。

互いに感情的になって言い争いになり険悪な雰囲気になった。

その場にいたみんなが緊張しだしたときは、エネルギーが硬直して流れにくくなっています。

息が詰まったようになりますよね。

川の中に大きな石が置かれて、水の流れを妨げたようになっている。

そんなときに「プッ」と吹き出すようなジョークは、小さな爆弾のように爆弾、大きな石を砕き、スーッと流れるようになる・・・・・。

今、雨が降っていて家の中に居るのですが、中にずっといるとやはり自分のエネルギーが中にこもってしまうんですよね。

だんだんとしんどくなってくる。

だから時々窓を開けて外の空気を入れてやると、スッキリ爽やかになってくるのです。(エネルギーが流れる、風水はこの原理です)

人間は光の波動体、光は流れているのです。

流さずに溜めるからストレスになり、病気のような状態になるのです。

私もジョーク術を磨いて人を明るく出来るようになりたいと思っています。

でも

人を笑わす前に自分が楽しみたい わーい(嬉しい顔)

そしてそのおすそわけをみなさんに出来たらいいなと思います。

では、今読んでいる本の中から

ユダヤ人のジョークをご紹介します。

ユダヤ人はお金儲けの天才ですが、そこにはジョークを交えることで人間関係を善くしようという意図があります。

そしてどんなに深刻な状態、状況になってもジョークで明るく乗り越えようとする強い精神があるのです。

ユダヤ人の人から学ぶことってたくさんありそうな気がします。

みなさんもご一読されてはいかがでしょうか?


楽しく学べるっていいですよね。
わーい(嬉しい顔)手(チョキ)

 

 「頭がよくなるユダヤ人ジョーク集」 鳥賀陽(うがや) 正弘著PHP新書


  

2012年10月22日 (月)

天地の通りをよくしよう 2

  

  
ここのところなんだか、いろいろ書いてしまっているので般若心経(空即是色)の連載が中途半端みたいになっていますが(笑)、空というのは、空になったから(悟った)からといってそこで終わったわけではなく、宇宙は無限にあるように、空の奥にはまたその奥の空があって、無限次元に空はあるのです。

だから本当は、連載は終わること(結論が出るということ)はないんですね。

私の今回の目的とは、人間の素晴らしさ、神々しさ、奥の深さを知っていただければそれで十分だと思うのです。

人間は、自分はダメなんだ、人間なんてくだらない生き物なんだと誤解しているところに不幸があるのです。

実にもったいないことだと思うのです。


人間とは何ぞや?はこれからもずっと書き続けてゆくのですが、みなさんの心が明るくなるような、元気が出るような文章を心がけてゆきますので、どうぞよろしくお付き合いください。


では、今回は人間はどうして宇宙そのものなのか?

哲学者である中村天風さんは

「月を観ている今の自分は月よりも大きな存在なのだ」

と言っておられましたが、名言だと思うのです。

月を包み込むように客観視出来ている自分はとてつもなく大きいのです。(犬が見る月と人間が観る月は全然違うのです)

宇宙の中に自分が居るのではなく、自分の中に宇宙が在るのだということがわかる文章を五井先生のご著書「空即是色」の中から抜粋します。


前回の続きですが、一旦流れが途切れたので、天地の通りをよくしよう 1 をもう一度読んでからこれを読んでいただけたらもっとわかりやすいと思います。





大生命の至上命令に忠実か



そこで、宗教というのは、その流れを勝手に動いている想いを、一遍大生命の法則の中に入れる。

どうしたら入れるかといったら、まかせるよりしようがないでしょ。

自然に朝起き自然に夜ねむる。

何時にねむろう、何時に起きようと、いかにも自分で寝て自分で起きているような感じがするけれども、起きるのなんて、スーッと自然に目が覚めるんですよ。

自然にねるんです。

あんまり把われて、ねようねようとしていると、かえってねむれなくなっちゃう人が随分あります。

だから自然に動いて、自然にねているような形、自然に心臓が動き、自然に肺臓が動くと同じように、人間の考えも自然に湧いてくる。

それを自然法爾というんですよね。

無為になせ、ということもそうです。

自然に行動が行なわれてくる。 しかもその行動、智恵はその時最も適したもので、人をも自分をも生かしている、というようなことになる。

普通ですと、何も考えないで出来るとは思わない。

ところが私の体験ですと、今もズーッとそうなんだけれども、しようと思わなくとも出来るんです。

普通うしろに目がある人はいないでしょ。 ところが私はうしろにもあれば横にもある。

うしろから誰かが歩いてきたかがわかるんです。遠くのほうで思っている。

誰が想っているのかわかる。どうしてわかるか。

私の肉体の眼は近眼です。

前のほうに座っていらっしゃる人の顔があんまりよく見えないぐらいです。

ところがわかる。

昔修行中、歩いていると、うしろから誰がくるかわかる。

だから突然振り向いて “やあーしばらく” なんてやられるから向こうはびっくりしちゃうんですよ。

遠くに駅がある。すると電車から誰が降りてくるかわかるんです。

それで落ち合って “ヤアまってたよ”なんてことになるんです。

向こうは知らないんだからびっくりしますよね。

どうしてそういうことが出来るか、というと、無為にしてなせ、なのですよ。

地球科学で電磁場というのがあります。つまり電気が流れるとそこにはかならず磁場と電場が生じるのですね。

それと同じように人間の想いというのは、幽体という磁場つまり想いの波の流れる場所があって、そこに想いが一杯あるわけです。

肉体にも磁場があり、霊体の磁場、神体の磁場もあるわけです。

神体の磁場というのは、ズーッと大きく宇宙大に広がっているのです。

そうすると神体の磁場で大生命からの光が流れて、それが働きとなるわけです。

それが霊体を通り幽体を通り肉体にスーッと流れてくれば、神のみ心がそのまま伝わっているわけです。

神さまの行ないが素直にそのまま出来るのです。

それが霊体まではくる、幽体でもってクチャクチャと思っていると、想いが一杯につまっているから、光が入って来ないんですよ。

光が屈折してしまう。 ズレちゃう。

そうすると幽体肉体に溜まっている、詰まっている想いが出て来て、無為にしてなさないで、ああしよう、こうしよう、といつもいつも思い巡らせながらやっているトンマな生き方になる。

この自分の幽体で思っている想いを、神サマーって神さまの中へ投げちゃうわけね。

そうすると、想いが守護霊守護神の霊体神体を通して、自分の神体の中に入っていく。

神体に入っていくと、いうなれば穴があくわけだ。

通りがよくなる。

すると神体の磁場で行なわれている命令が生命の動きが、スーッと肉体まで通っていくわけです。

そうなると、例えば歩いていて知らないうちに左に一歩踏み出したら、うしろをものすごい速さで自動車が通り抜けて行った、とか、会いたい人がある。

何となくこっちの道を行きたいな。 スッと行くと、会いたいと思う人にパッと会っちゃう、というようなこと。

三人の人に会いたい。しかし一人一人会っていたんじゃ時間がない。

ところが、Aの所もBの所もCの所も行かないで、用のないDの所へゆくと、なんのことはない、Dの所へAもBもCも来ているじゃないですか。

そこで三人の用が一遍に足りてしまう。

そんなことを随分したことがあります。




 

           「空即是色」 五井昌久 白光出版



  

人間は天地を貫く光の波動体なのです。

  

  
人間というのは、“天と地を貫いている光の柱なんだ”とここで何回を書いているのですが、これは樹を見るとそれがもっとわかりやすいんですね。

大樹を見て感動する、なんだかとても安心するのは、人間の本当の姿(真理)を見ているからなんですね。

大樹は、天(宇宙)に向って真っ直ぐに伸びている(天地を貫いている)、そして宇宙からの霊気を吸って、樹の幹や枝葉にエネルギーをゆき渡らせてそのエネルギーは根っこから地球の中心へと流れてゆくのです。(これが引力です)

そして、宇宙から吸収したエネルギーを酸素というエネルギーに変えて地球の生きとし生きるものを生かし支えているのです。

なんという神々しい姿でしょう。

人間と違っていることは、樹は酸素というプラスのエネルギーを振りまいているのに、今人間(ほとんどの)はマイナスのエネルギー(言葉や想念)を振りまいてしまっているということです。

だから今、地球上はおかしなエネルギーに包まれているのです。

おかしなエネルギーというのは、肉体にくっついている幽体が汚れているからです。

今、肉体界は幽界が現われているのです。


人間にくっついている幽体が、新たな世界をつくってしまった。

それが幽界なんですね。

目にはみえないけれど人間には想念(過去世を含めた)という垢がついてしまっている。

目に見える垢はお風呂に入って体を洗えば落ちるけど、マイナスのエネルギーは洗っても消えないのです。

その汚れが何層にも何層にも積み重なってくると、嫌~な感じの、暗い陰湿な雰囲気の人間になってしまう。

神様からの光が入りにくくなっているのです。

そこで神様(守護霊守護神)はこのままでは、昇天してしまったり(光が入らなくなるので)、人が違ってしまったり、魔が差すことをしてしまうので、光をあてて波動調整を図るのです。

エネルギーの汚れている人間が光を浴びると

マイナスのエネルギーが浮かび上がってきます。

浮かび上がってきたものが現象であり

マイナスのエネルギーが出ないと、出て、消えていかないと、膿は出てしまわないと

物事は好転しないのです。

風邪をひくのは、“神様からの贈り物”なのだそうです。

体の中から毒素を出そうとしている。

毒素がこれ以上溜まらないように

咳や熱や鼻水を出して浄化をしているのです。

人間は浅はかな考えで、風邪はやっかいなもの

迷惑なものだと思い込んでいる。

しかし風邪をひいて、食欲がなくなって食べ物が食べられなくなる。

下痢をしたりすることは、断食をしたのと同じ状態になっているのです。

断食をするとなんでいいのかというと

断食をしてなんで病気が治ったりするかというと

今まで中の力がいろんな食物をこなすために分散して働いていた。

だから力が弱くなっている。

それが断食をしますと食物に対する働く力が全面的に働くのだそうです。

働きが強くなり、エネルギーが治すところ(不調和なところ)に集中するから悪いところが治ったりするのです。

身体が霊化するんですね。

動物性の身体が、動物性(物質性)が無くなって(空っぽになることによって)、そこに神様からのエネルギーが入りやすくなる。

だからお腹一杯ではなく、空腹のほうがいいのです。

空がいいのです(笑)。

これから人間はどんどん小食になり、断食をするように徐々になっていきます。

食べ物でエネルギーの補給をしなくても宇宙からのエネルギー(霊要素)で人間は十分に生きられるからです。

食べないと体が弱る

食べないと死ぬ

というのは間違いです。

食欲のないときは

“今、食べてはいけない”というメッセージなのです。


また、話が横道にそれてしまいました(笑)。

ですから人間は、宇宙から戴いたエネルギーを滞ることなく流しつづけ、想いを溜めないようにし、マイナスの言葉を吐かないようにすることで、あの大樹のように“神々しく”生きれるようになってゆくのです。


病気もいつの間にか治り、不調和なものも気がつけば無くなっている。

それは宇宙から、天からのエネルギーがそのまま写って来ているからです。

宇宙は大調和だからです。

神界がそのまま肉体界に降りて来ている。

そうなるためには、天地の流れをよくすることが大切です。

人間本来の姿になることが大切です。

天地を貫く光の柱になることがなによりも大切なのです。

天と地を貫く光の柱になり、その宇宙のエネルギー(光)を横に流してゆくということは人類に光を振りまいてゆくことになります。

するとたくさんの人が光を浴びることになる。

光を浴びた人は、いつの間にか垢が取れて、本来の人間に目覚めてゆく。

神性が顕われてくるのです。

だから一人でも多くの人が光の柱になって地球を人間を浄化しなければならい。

今、求められているのは、救われる人ではなく

救う人(祈る人)なのです。

救う人、天からの光を降ろせる人の器がなければ、十分に光は降りてこないのです。

天から光が降りて来る ┃ それを体の中心である下丹田(へそ下3.5cm)のところで横 ━に流してゆく。(自然に流れるのですが)

その姿がキリストの真理です。

十字架です。

縦横十字の中心に自分(人間)がいるのです。

漢字とは本当に見事に真理を現わしているのですが

天と地は漢字の 一 です。

天と地を貫いた真の人間とは

王 という字になっています。

本来ならば、天と地を貫いた真実の人間が

王となり、国を司り、政治(まつりごと)を行なうべきなんですね。

真実の人間になるためには

どうしたらいいのか?

それは、宇宙と共鳴する、宇宙の光を肉体という器に一杯に入れることが出来る、祈りしかないのです。

祈りとは、いのちが生き生きするということ

いのちがのり出すということです。


人間がまともになるためには、迷いの世界から脱するためには祈りしかないのです。

最近、もう祈りしかないなぁって実感しています。

祈りが自分を救い、人類を救っていける

唯一の方法(メソッド)なのです。

これから祈りの重要性をもっとわかりやすくお伝えしていければいいなと思っています。




世界人類が平和でありますように

日本が平和でありますように

私たちの天命がまっとうされますように

守護霊様ありがとうございます

守護神様ありがとうございます



無限なる愛

無限なる調和

無限なる平和






 追伸

天と地を想像して、“自分は天と地を貫いている光の柱なんだ”とイメージしてみてください。

なんだか意識が変わったような気がするはずです。

エネルギーが変わったことがわかるのです。

一瞬浄化されたようになります。

それは、宇宙からのエネルギーがたくさん入ってきたからなんですね。

意識を変えたいとき、プラス思考になりたいとき、シャキッとしたいとき(笑)はやってみてください。

そのときのあなたは光輝いているのです。
ぴかぴか(新しい)



  

  

2012年10月21日 (日)

天地の通りをよくしよう 1

  
  
  
何も考えないこと よく考えること


 
宗教の極意に空とか、“無為にしてなせ”と老子の言葉があります。

無為というのは、こうしようと思ってするんじゃない、ああしようと思ってするんじゃない。

そのまま自然法爾(しぜんほうに)に無為にしてなせ、ということです。

どういうことが空であり、どういうことが無為にしてなすことなんだろう。

自分がしようと思わないで出来ることがないじゃないか。

自分が考えるからこそ出来るんだ。

だから自分が何も考えないで出来ようがないじゃないか、と思うわけですね。

それは本当に人間というものをよく知らないからです。

人間を本当に知ってくると、肉体の中に現われてくる想いというもの ━ 頭の中でゴチャゴチャと思う。

ああ今日はよい天気だろうか、雨は降りはしないかしら。

今家で誰がどうしているだろうか、とこう思う。

そういう想いと人間の生命(いのち)がそのまま法則に従って動いていくものとは違うんですよ。

例えば、今ここで話をきいているから、何も思いませんね。

だけど普通の場合は、家を出ると、家はどうなっただろう、ガスに火をつけっぱなしで来たかしら、どうかしら、と今思ったってどうしようもないことを思っているわけです。

人間はどうしようもないことを思っているわけです。

人間はどうしようもないことのほうを余計に思っているじゃないですか。

例えば来年子供が高校へ行くんだけれども、今どうしようと思っている。

今とやかく思ったってしようがない。

必要な時にその活動を開始すればいいわけでしょ。

だから大体頭の中の想いのほうは、本当の実体の身になるものが出てこないで、かすばっかり出てくる。

それなのに考えなきゃしかたがないと思っているわけ。

ところが達人になりますと、老子まではいかなくても、相当な人になれば、一日中いちいちガチャガチャ思わなくたって、そのままでスースー生きられるようになる。

それはどうしてかというと、生命の力というのは自然に動いているからなんです。

心臓が自然に動いているように、肺臓が自然に動いているように、胃腸が自然に動いているように、自然に動いているんです。

心臓の鼓動を自分で決めるわけにはいかない。

肺を自分で動かすわけにはいかない。

大生命の力が小生命になって動かしているわけです。

だからあらゆることが、本当は自然に動くのが原理なんですよ。

大神の生命の法則にのって動いているわけ。

その原理を知らずに、あたかも自然に動いているんじゃなく、自分で動かさなきゃ動かないような感じがしている。

子供なら子供の教育は、こうしなきゃ、ああしなきゃ、というわけで、あんまりかまいすぎて弱くしちゃったりする。

かまった人が善くなるかというとそうでもない。

野放しに放っておいても、丈夫になってピンピンしている子供もあるし、お金をかけて栄養だ栄養だとやっていても、弱い子もあるわけです。

人間がいちいち頭で考えて育てていいものならば、そうして育てた子供は必ず丈夫になって、必ず偉くならなければならないけれども、野放しにしたほうが丈夫になる場合があるし、それが多いかもしれない。

そうすると頭で考えてガチャガチャやったことが、果たして良いことか悪いことかわからないでしょ。

だからこの頭で考える想いというものと、人間の本然の姿、いわゆる大生命から来ている生命との動きというものとは違ってくるんです。

しかし本当は違っちゃいけないんです。

けれども人間が違わせちゃう。

それを業(ごう)というんですよ。

神の法則として動いている大生命の流れからはずれたことを、勝手にやっているのを業というんですよ。



     
       

         「空即是色」 五井昌久 白光出版



 

本来人間に備わっているもの

  
 
ずっと般若心経の世界(空即是色)のことを書いてきましたが、連載を続けていますと、プレッシャーがかかってきます(笑)。

次はどんなことを書こうか?だとか、もっとわかりやすく伝えるにはどうしたらいいか?だとか・・・・そして読んで下さっているみなさんもわからないところ、理解出来ないところも出てきていると思うのです。

人間は、つまってしまうと先へ進むのが嫌になるのです。

つまってしまうとつまらなくなるんですね(笑)。

ですからここでちょっと私も一休み、五井先生の文章を「空即是色」白光出版の中から引用させていただきます。

これを読んでいただいたら、後につづく日記も一気にわかりやすくなると思うのです。

人間とは目に見えるだけの薄っぺらい存在ではない・・・・それがわかっていただければ幸いです。




 



本来人間に備わっているもの


いつも申しますけれど、誰でも人間というのは肉体だと思います。

なぜ肉体だと思うかというと、五感の眼、耳、鼻、舌、触覚、この五つの感覚でしか見ていないからです。

ところが本当の人間というのは、無限の感覚があるわけなのですね。

五感以上の六感もあれば、7感もあれば、ずうっと深い感覚があるわけです。

たとえば、犬は、ご主人が帰ってくる。それも門の遠くのほうにいても、もうワンワンと吠えてパッと門のところにとんできましょ。

目にも耳にも、なにも聞えも見えもしないような時にとんできます。

あれは六感なんですね。

人間が感じている五感以上のものを持っているわけ。

なぜ六感が備わっているかというと、犬は頭を働かせて、ああしたら得をするだろう、こうしたら得をするだろうと考えていません。

本能のまま、生かされているまま生きているわけでしょう。

だから五感以上のものが備わっているのです。

人間にも本当は六感も七感も備わっているのだけれども、自分の肉体の想いで、目に見えなければ見えないし、聞えないものは存在しないし、さわらなければわからないと、もう思いこんでいるわけ。

生まれかわり死にかわりして思いこんでいるわけです。

そのために五感以上の感覚がないわけですよ。

本当は直覚といって、すべてを心でサッとわかってしまうものが誰にでも備わっているわけなのです。

直覚を持っているということが、神さまの世界から、神界も霊界も幽界もずうーっと通って肉体界に同時に人間というものは存在するということなのです。

この五感の世界の肉体の人間と、幽体を持った人間と、霊体を持った人間と、神体を持った人間とが肉体に生きていながらも、そのまま一直線につながっているものなのです。

肉体がなくなるということは、その肉体の感覚のところだけがなくなって、あとは在るわけですよ。

神界、霊界、幽界の人間はそこに生きているわけです。

そういうわけでしょう。

ところがふつうの場合には、肉体だけのほうに重きをおいて、上を見ないのですよ。

そこでいろいろな聖者が現われて説いた。

「肉体想念を空にしなさい」とお釈迦さまはいう。

老子さんは 「無為にしてなせ、こうしようと思ってするのではない。あれをしようと思ってするのではない。そうやって小智才覚で、こうだああだと利害だけの、この現象世界のことだけを思っているのでは、本当の世界が自分のものにならないのだ」 と説くわけです。

イエスさんは、「生命(いのち)を捨てざれば命を得ず ━ 自分の生命を得ようとすれば、本当の命が失われてしまう。生命を捨てようと思えば本当の命が自分のものになる」 といって、やっぱり肉体の生命というものをつねに捨てさせることを教えているわけです。

肉体に把われないことを、みんな教えているわけです。

なぜそういうふうに教えるかというと、肉体に把われている以上は、永遠の生命というものがわからないのです。




         

          「空即是色」 五井昌久 白光出版




  

2012年10月19日 (金)

般若心経(空即是色) 7

  

  
地球は今、どういう時期にあるかというと今までとは次元の違うまったく新しい星、新星(神性)に生まれ変わろうとしているんですね。

今は、七劫と言って、七番目の時期にあるそうです。

劫というのは、波動(エネルギー)が変わることをいうのだそうです。

地球は今まで6回のエネルギーの転換期があった。(6回滅びてきた)

七というのは宇宙の数字、宇宙の数字というのは、“完成”を意味します。

一週間、潮の満ち引き、ラッキーセブン、七転び八起き(七回転んで八回目に成功ということは七回転んだ時点で成功です)・・・・・・七が完成(区切り)を意味する文字はたくさんありますよね。

宇宙は、すべて七で構成されている。

地球は今、その七劫目なのです。

完成とは何が完成することなのか?

それは、玉石混交した玉(神様の世界)と石(神様から離れたものが産み出した汚れた世界)の世界から石が消えて、本当の神様の世界(神界)、愛に溢れた世界が完成する、顕われるということです。


金星は太陽系の星の中で最も進化した星なのだそうですが、金星もかつては地球のように幼い(精神的に)星であった。

そこから大人?の星へと移行(アセンション)したのです。

地球は、これから大人の星になろうとしている。

それは宇宙の法則で約束されているのです。

ただ、そのときに人間の意識が大人の意識、つまり宇宙(神)意識になっていなければ、えらいこと、大変なことになるのです。

これから地球上には、宇宙から波動の細かい、しかも強い光が降りて来ることになる。(もう来ていますが)

その強い光を浴びて、それに耐えられなければ、肉体が消滅してもっと幼い星に修行に行くことになるのです。

するともっと厳しい試練、修行が待っているのです。

「まだ、真理(自分が何者なのか)がわからないのか!」

と魂がわかるまでずっと修行が続くのです。


このままでは、地球上の人間のほとんどが残らないそうです。(目覚めようとしていないから、真理に巡り合えていないから)

そうならないために、人間一人一人を守って下さっている

守護霊守護神が必死になってそれを伝えようとされているのです。


“病気になるのは、悪いことばかりではない”

それは、病気になることによって、大切なことに気づくからです。

身体を顧みず、無茶をしていたことを反省するきっかけになるかもしれない。

やさしくしてくれる家族の愛、人の愛のありがたさを実感するのかもしれない。

死の境地をさ迷うことによって霊的になにか目覚めるのかもしれない。

病気をしている人の顔はなぜか憑きものが取れたような、スッキリした表情になっているときがあります。

病気とは、神様がくれた波動調整なのです。

病気をしなかったら、大切なことに気づかなかったとしたら

それ(病気)はその人にとってかけがえのないものになります。

地球上に起っている天変地変も、地震も台風も洪水も飢餓も

個人的な、不幸と言われる病気や倒産や貧困も・・・・・

それらは、マイナスではなく、プラス(神様の愛、真理)に気づくための方策なのです。

すべは、プラスから出たマイナス(ではないのですが)なのです。

守護霊守護神の 愛のムチ!なのです。

究極の真理を識るとは自分が、人間が神そのもの、宇宙そのものであることに気づくことです。

そのために、今地球上、そして個人上にいろんなことが起きています。

自分を、地球をグローバル(宇宙的視野)にみていくといろんなことがみえてきます。


地球人類は、今、目覚め(空即是色)のときにきているのです。


 

2012年10月18日 (木)

般若心経(空即是色) 6

  
  
 
人間界の世界だけを見ていると、人間ってほんと馬鹿ばっかりだと思ってしまいます。(無限なる叡智)

ニュースを観ても、警察官が乱暴をしただとか、親子で殺し合いをしただとか、国の代表者が人気取りのために他国の領土に足を踏み入れただとか、自分を守るため、感情(欲情)を満たすため、自国の国益?のためには、愛のある行動からかけ離れたことを平気でしてしまう。

神性の顕われていない人間とは、もうどうしようもないバカもバカ、大馬鹿なのです。

そんな大馬鹿者を私は、我即神也、人類即神也と言っているのではありません(笑)。

我即神也とは人類即神也とは、神性の顕われた本当の人間の姿をいっているのです。

今の地球上では、残念ながら神性がまだ顕われてはいないのです。

それどころか人(霊止)=神ではなく、幽界のおばけちゃんに取り憑かれて動物性(感情)が勝って現れているのです。

人間とは、神と動物の間といいましたが

今は動物よりの人間がたくさん出現しています。




だがしかし、これが人間の本当の本性ではないのです。

人類だけではありません。

他人事ではありません。

今現われている自分自身も残念ながら常に神性が顕われているとはいえない。

確かにときどきは、天使のような優しい気持ちになれることもある。

感動して美しい涙を流すこともある。

だがしかし、すぐに不純な、不潔な、だらしのない、怠惰な想念が自分を襲って来る。人の悪口を言ってしまったり、嫉妬や妬みも多く、人の幸せを素直に喜べない、マイナスのことばかりに目がいって、そのまま口に出してしまう、ズルイことを考えて楽をしようとする、いつもお金が欲しいと思っている、異性にもてたいと自分の容姿ばかりを気にしている、死ぬのが怖くて、病気になることが怖い、自分を守るために責任を他人に押し付ける、損か得かばかりを考えている、自分さえよければ他人はどうでもいいと思ってしまう
・・・・・・・・・・・・・・人間の醜さ、愚かさをあげたらきりがないほどあります。



肉体の人間とはどうしようもない、手がつけられないほど大馬鹿になってしまった。

今日、朝ドラを観ていたら、だいたいの人間ってほんと自分のことしか考えていないんだと思う(すべての人がそうではありませんが)、自分の周りがそんな人間ばかりだったら生きていることに絶望して、こんな世界なんて無くなってしまえばいいのにってそう思ってしまう人が出てきても無理はないと思う。


このまま何も変わらなければ、本当に地球人類は終わってしまうのだと思うのです。

だがしかし

真実はそうではない

今の人間界は、今まで神のみ心を離れていた間違った想念、幽界に溜まったものが溢れ出ているだけで人間の本性は、神そのものなのです。

本当の人間とは、完璧(パーフェクト)で完全で、愛に満ち溢れて、慈愛そのもので、みんなが仲良くしていて、天使そのものなのです。

だから今現れているのは、カルマや業が消えてゆこうとしているプロセスなのです。

消えてゆこうとしているのをつかまえて、悲観したり、絶望視している。

だから、傍観していればいい。

悪いものが消えて、消えてしまえば後は善くなってゆくんだと心を落ち着かせて祈りながら客観的に観ていればいいのです。

肉体界も幽界も消えてゆく世界です。

実在してるのは、神の世界である神界だけ(しかし神界は目にはみえません)

般若心経でお釈迦様は何を説いているかというと

今目の前に現れているのは、実体のあるものではないんだ、本物ではないんだ、永遠のものではないんだ、永遠でないものは幻なんだ、人間は幻を見ているんだ、無いものをあると思い込んでいるんだ。

肉体もそれが本体ではなく、目にみえない心が本体(実際にあるもの)なんだ

心に肉体という器を纏っているだけで

肉体(物質)というものはないんだ

目に見えるものを実体(実際にあるものだと)だと思っていては

悟ること(自由自在心になること)も安心立命することも

生老病死の苦しみを超えることも

幸せになることもできないんだ


とないないづくしで

目に見えるものを

一切否定しているのです。

想いも同じです。

肉体の頭で考えていることは

次々に脳裡を襲って来る想いとは

すべて神からかけ離れた

人の思いであったり過去世からの想念行為の結果であったり、幽界のオバケちゃんのいたずらであったりがグルグル廻っているのだ


本体(本心)から来ているものではない!


だからいちいちこの想念はどこからやって来るのかなんて考える必要もない!


無いものなんだ、消えてゆくものなんだ(無念無想で何も考えていない状態“空”が本当の人間の姿なんだ)

無いんだ、無いんだ、無いんだ、無いんだ、無いんだ・・・・

無い無いづくしなのです。

人間が神性そのもの

神そのものになるためには(人間が本来の姿を取り戻すには)

一切の目に見えるもの、聞えてくるもの、浮かんで来るものを

否定しなければならないのです。

余計なものを一切、切り捨ててゆく

そうすると後に残るのは実体のある神界という世界だけ・・・・。

お釈迦様はそうなるために

般若心経を説いたり

宇宙と一体なるために

統一を教えたのです。


ただ

 
私たちは、目に見えているものを

「無いんだ」といきなり切り捨てることは難しいのです。

だって実際に目に見えているものを“無い”とは思えない。

だから無いとは思えなくても

消えてゆくんだと思えばいい(それだったら理解出来る)

五井先生は、“消えてゆく姿”で

わかりやすく

真理を説いてくださっているのです。



  


2012年10月17日 (水)

般若心経(空即是色) 5

  
  
今回は、地球に人間が出来た(天下った)ときの話をします。

神様(宇宙神)は、地球という星に自分(神)の分霊である人間を創った。

人間とは肉体という器を纏った存在であり、そこに神の魂(心)を入れた。

最初、人間は神そのものであり、キリストがおっしゃったように

“言(ことば)はすなわち神なりき”

人間の話す言(ことば)は、美しく、神そのものの、神性そのものだった。

だがしかし、天から届く宇宙からのエネルギーの波動は細かく、肉体人間の波動は粗いのでそこに人間の想念というエネルギー(ほとんどがマイナス)が溜まっていった。

これらは次第に力を持つようになり、これが幽界という世界をつくった。

幽界は元々あったものではなく、神が創造したものではなく、人間がつくってしまった実在しない(これから消えてゆく、幻の)世界なのです。

肉体人間の器は、別々に存在しているために、次第に自分を守るために、本来は兄弟姉妹であるのに、人間同士が敵対するようになり、神の心(つまり愛)を失っていった。

この神様のみ心を離れた心をキリスト教では“カルマ”といい、仏教では“業(ごう)”と言ったのです。

そして人間の話すことばも神から来た、本来の光の言(ことば)ではなく、枝葉のついた歪んだ言葉(ことば)になってしまったのです。


そして以前にも書いたように、神様が宿っている人(霊止)から、感情という動物性を持った人間(神と動物の間と言う意味)になっていったのです。

しかし、これは神様が地球に地上天国を創ることに失敗をしたわけではなく、初めからのご計画だったことを付け加えておきます。

神様(宇宙神)の計画とは、神性を失ってしまった人間が、人になってゆくために目覚め、進化してゆくことを望んでいるのであり、人間のさ迷った世界(幽界)を顕わすためではないのです。


神様(宇宙神)は宇宙人類の幸せを願っているのです。

なぜならば、それは神は“愛そのもの”だからです。

か~あ

み~い


一度、血迷ったかにみえる人間が、真理に目覚め、愛に目覚め

本来の姿を取り戻してゆく

そこに人間の本当の美しさがあるのです。


人間は生まれたときは、神の子、天使の子そのものであるが

段々とカルマや業が増えてきて神性を失ったかのような状態になります。

それをはぎ取ってゆくのがこれからの人間の“大仕事”なのです。

人間として生まれてきた

天命(ミッション)なのです。

神界(天界)、霊界以外の世界は実在しない世界なのです。

幽界は人間がつくった世界、肉体界も消えてゆくのです。

目にみえる波動の粗い(エネルギーの粗い)世界は、やがては消えてゆく。

そして残るものは、波動の細かい、宇宙の波動である神界だけです。

霊界(低いところ)と幽界が消えて、神界がそのまま肉体界に降りて来る。

一番最初に、地球に人間が天下った時と同じ世界が出来る。

しかし、全く同じなのではなく、幽界という世界、感情の世界を乗り越えた以前よりも強く逞しくなった(進化した)星に生まれ変わるのです。

目に見えるものは、実在しているように見えるけれども、それらはすべて幻です。

人間の肉体も実在しているように見えるけれども実は、無いものなのです。

消えてなくなるものなのです。

消えてどうなるかというと魂(本心)だけが残るのです。

光輝いた“本心”だけが残る。

これだけが実在するものなのです。

未来永劫、絶対に消えないもの

本心とは、神様(宇宙神)のみ心だからです。

目にみえるものは、みんな消えてしまう

そして光輝いた心だけが残る。

心がすべてのすべてです。

肉体は、消えてゆくもの

だから幻です。

仏教では、肉体のことを現身(うつしみ)をいいます。

肉体界のことを現世(うつしよ)といいます。

神体(神界)が写ってきているという意味です。

それを邪魔しているのが幽界です。

しかし幽界がきれいに浄まってくると神界がそのまま肉体界に現われてくるのです。


般若心経の中の

 色即是空、空即是色とはこのことが書いてあるのです。



  

般若心経(空即是色) 4

  
  
  
今、AKB48とか少女時代であるとか、それを真似たグループとかが出てきて、そこにはやっぱり何人か輝いている人(オーラが強い)がいるので、人気の奪い合いのようになっています。(このジャンルの知識はほとんどないのですが)

でも今のその子たちを見ていて思うのは、もうしばらくしたら「忘れられるんだろうなぁ」ということです。

今は「かわいい」「きれい」「かっこいい」「素敵!」・・・でちやほやされているけれど3年も続くことはまずない。

へたをすると1年、もっと早く消えてゆく人もいる。

しわくちゃのおばあさんの昔の写真をみて、びっくりすることがあります。

“うわッ絶世の美女”・・・・・・だった。(昔逢っていたら惚れてたかも)

おばあちゃんにもこんなにきれいで美しい時期があったのか?(失礼!)

それが今は、どのおばあちゃんも同じにみえる。

「わたしゃ昔は、美人ですごくモテたんだよ」

と言われても写真なしではとても信じられないし

そんな話(自慢)はあまり聞きたくはない(笑)。

このことは

「源氏物語」を彷彿とさせます。

つまり目にみえるものとはどんなものでも変化し消えてゆくのです。

今生まれたばかりの赤ちゃんも50年経てばおっさんになり、100年経って生きているとは限らない。

スカイツリーの100年後はあるかどうかはわからないし

1000年後にはほぼ間違いなく消えているでしょう。

“形あるものは必ず消える”

これは宇宙の法則なのです。

私たちが見ている夜空の星の光は、何万光年も昔に放った光です。

だからその星はもう存在していないのかもしれない。

宇宙も星も常に新陳代謝(進化)をしているからです。

滅びて(真実は滅びているのではない)は生まれ変わり、消えてはまた違う物質に代わったりする


消えたからといってそれは滅びたのではなく、目にみえない波動(エネルギー)に代わっただけなのです。

人間の目にみえない波動は細かく、目に見える物質は、波動が粗いので見えるだけなのです。


つまり消えるとか消えないとか、見えるとか見えないとかは問題ではなく

そのものが持っているエネルギーがどう変化(進化、成長)したかが問題なのです。

人間もそうですよね。

死んだことが問題なのではなく、魂がどう変化(進化、成長)したかが大切なのです。

話を少し戻しますが

光源氏は、目にみえるもの(自分の容姿や女性との関わり)に心が奪われて魂を磨こうとしなかった。

だから年老いたときに何も残らなかった。


感情(欲情)に流されて、欲望を満たすことだけにやっきになっていた。

人を不幸にしたとかではなく、自分が一番不幸だったのです。

でも、人間のすごさとは、そのままでは終わらないということです。

死ぬ間際に “反省して”

今度生まれ代わったときには、これまでのような生き方はやめよう

人を心から愛せるようになりたい!

もっと真剣に人生を生きてみたい!

そう思ったとしたら

次回に生まれ変わったときには、以前とは全然違う

文字通り 光輝いた ぴかぴか(新しい)

光源氏がいるのかもしれません。

だから今の現状のその人を見て

あれこれ批判などは出来ないのです。

みな進化、成長してゆくためのプロセスなのです。

その人それぞれにとっていろんなプロセスがある。

私たちは、いろんなプロセス(段階)を持った魂の人たちと共存しているのです。

地球という星は、玉石混交(神と動物が交り合った)した魂が交流し、魂を磨き合う“場” なのです。


  


 
  

般若心経(空即是色)3

 
   
  
本題に入る前に、ちょっと関連した話をしたいと思います。

今から10年ほど前だったと思うのですが、映画で「源氏物語」を観ました。

吉永小百合さんが紫式部の役で、光源氏の生涯を書きとめていくようすが描かれていました。

観終わった後の私の感想は、ファン(源氏物語の)の方がおられたら申し訳ないのだけれど、なんら感動するものがなく。

なぜ、「源氏物語」が世界で高く評価されているのか?が理解出来ませんでした。

原文を読んだわけではなく、深く研究したわけでもないのでうかつなことを言ってはいけないとも思うのですが

内容はといえば、光源氏というプレイボーイがいて手当たり次第に女性を口説いていった。

容姿端麗(イケメンですね)であったためにほとんどの女性は源氏に墜ちていった。

モラルもなにもなく、父の妻(義理母)までも性の対象とした。

だがしかし、年老いてくると、昔の姿はなく、女性も離れていき、最後は寂しい余生を送ることになった。

人間の愚かさ、はかなさ、むなしさ・・・・そういうものは見事?に描かれているのだれど

魂が震えるような、心が揺さぶられるような、感動に涙するようなことは描かれてはいないのです。

これだったら私が知っている知人(友人)のプレイボーイ(武勇伝?)となんら変わりがない。

そして、やはり変わりがないのは、色欲に走った人の末路は、今も昔も悲しいのです。(私も走りかけたことがあるので偉そうには言えませんが)

感情に走って、そのときだけの欲望を満たすと必ず後で後悔することになる。

自分が後悔するだけでなく、人も巻き込んでしまう(感情の渦の中に)、そして恨みを買い、それが自分に返って来るのです。

人は、「死んだ人の霊」は怖いっていうけど

実は、「生き霊」の方がずっと怖い場合があるのです。(生き霊の方がエネルギーが強い!)

女性は、男性の浮気をすぐに見破ると言いますが(反対もあります)

それは、実際に魂がその現場に行ってみているのです。

ただそれが、事実としては現実離れをしているために“カン”であると思い込んでいたり、なんとなくというあやふやなもので強くは主張できてはいない。(相手を信じたいと言う気持ちも残っている)

気持ちがそこに行っていれば、肉体は行かなくても、魂はそこへ行けるのです。

行けないと思っているから(思い込んでいるから)行ってないと思っているのです。

だからときどき、その現場に行ってもいないのにその場の様子がわかるときが誰にでもあるのです。

「誰がみていなくと、お天道様(神様)は天からしっかりと観ているんだよ」

というのは、人同士においてもいえるのです。

人の想念(念力、エネルギー)とは、決してあなどってはいけないものなのです。

また本題に入る前に話が終わってしまいましたね(笑)。

ただ本題(空即是色)に入る前に、もっとわかりやすくするために関連した話をふっておいた方がいいと思っているのも確かです。

気長にお付き合いいただけたら幸いです(笑)。



 

2012年10月15日 (月)

般若心経(空即是色) 2

  
    
先日、義理父の一周忌のときに、年下の親戚の人が「般若心経の書いてある意味が知りたい」と言っていたのですが、そのときに私は

「般若心経は、いろんな人がいろんな解釈をしている、だからどれが正しいか判断が難しい」と言っていると別の人が

「自分の考えに合った人の解釈を参考にしたらいいんと違うかな?」と言い、結局はどうしたらいいのか?はうやむやになってしまいました。

せっかくこの人が宗教心を持とうとしているのに中途半端に答えてしまい、かといって私の敬愛する「五井先生の本がいいよ」と薦めるのも違うと思ったからです。

それは五井先生のご著書も高い、高~い教えだからです。

難しいとかそういうことではなく前世でどれだけ修行をしていたか?どこの星から来ているかで、わかるわからないかが決まるからです。

人はみな大宇宙からの分け御霊(みたま)であってそういう意味では同じなんだけれど、魂の古い、新しい、どこの星に居たか?があるのです。

お釈迦様は金星の人なんですが、金星の人にも霊位(れいい)というものがあります。

みなさん精神性は高いのだけれど、お釈迦様は又、別格なのです。

それはあの汚れた波動体(エネルギー体)である地球に天下って、たくさんの人たちを浄めた人なのですから金星の人たちでも躊躇するような大仕事だったのです。

「あんたは偉い!」

と金星の仲間たちからも一目も二目も置かれて尊敬されているのです。

今は、お釈迦さまが直接教えていた頃の弟子たちも生まれ変わって、他界、進化した星からたくさん降りて来ているそうです。

そして、その頃にはまだわからなかった般若心経を

「懐かしいなぁ」と読んでいるに違いありません。

その人(魂)たちは、すぐに理解出来るのです。(この世的に年齢とか勉強しているとかしていないとか関係なく)

五井先生のご著書も面白くて面白くて、わかるから楽しくて楽しくて

幸せを感じているのだと思うのです。

だからどうしてもわかる人とわからない人がいるのです。

今はわかる人がどんどんとわかっていけばよいときなのです。

わかる人が先にわかってその真理の光を天から降ろし、横に振り撒いてゆく

そうするとわからなかった人もその光を浴びて次第に目覚めてゆく

真理が拡がってゆくのはピラミッドなのです。

三角形の頂点から下へ向って拡がってゆく

だから順番があるのです。

霊位の高い人(偉いとかそういうことではなく役割りです)が先に目覚めるのです。

ですからちょっと宗教心が出てきても

おかしな宗教や哲学、教えであれば

かえって目覚めるのを邪魔することになります。(遅くなってしまう)

同じようにその人の心境(心経)に合ったものでないといくら良書であっても、チンプンカンプンだと縁(五井先生との)が遠のいてしまいます。

もし縁があるとしたのならもっと違う時期、違う場所で結ばれると感じたのです。

そんなこと、私が判断することではないのだけれど

余計なおせっかいは、自己満足にすぎません。

人のためにならないのは、どの世界でも同じなのです。


また本題から逸れてしまいましたね(笑)。

次からは真剣?に「空即是色」について書いていきます。


 


  

般若心経(空即是色) 1

  
  
  
面白い!という文章はどうしたら書けるのかな?というのが私のブログを書いていく上でのテーマでした。

人は面白くなければ、振り向いてもくれない、本当の事でもただ難しいことを書きならべていても、面白くなければそこに時間を費やすのは、時間の無駄!

だったら面白いって何なんだろう?

私なりの定義は、「興味深い」ことそして「役に立つこと」だと思うのです。

興味深いことでもそれがマニアック(特殊)なものだったら使えない、使えないとそのうちに忘れてしまう。

人は面白い!を瞬時に判断する。

これは興味深いことなのか? すぐに使えるのか? を

映画と同じですよね。

ある映画を観てものすごく感動した。

この感動をすぐに誰かに伝えたい!

おすそわけしたい!

そして感動を共有したい!

それが本当の“面白い”だと思うのです。

お腹を抱えて笑うのは、面白いのには違いないのだけれど

私の路線ではないように思います(笑)。


知っていて、そのうちに役に立つかもしれない

というのがこれまでの私のブログだったような気がします。

今は“即、完成品”でないとダメなんですね。

興味深くて、すぐに使えてすぐに役に立つ


「ねェねェ今日のグッドムーンのブログ読んだ?

どう思う?

この間こんなことがあったんだけど、今思うとそういうことだったんだよね。

だからこうすればいいんだよね」

というような会話がどこかで聞えてこなくては

それは良い文章ではない(今の時代は)

そう思うのです。

私の書いていることは、3次元と4次元をつなぐ内容です。

今まで聞いたことがないようなことを書いている。

不思議な知らない世界のことが書いてある。

だから4次元のことを主に書いてもダメなんです。

ちんぷんかんぷんだから・・・・。

3次元(目に見える世界)でなんでこんなことが起るんだろう?

その奥はどうなっているんだろう?

と3次元と4次元がつながって

「なるほど!」

とストンと

腑に落ちることが書いていないと

そしてすぐに実践出来る(役立つ)ことでないと

消化不良を起こす

モンモンとしたままになってしまう

人は疑問だらけの中で生きています。

でも答が見つからないので

そのままにしている。

そして今日もまた疑問が出て来るのだけれど

追及している暇(時間)がない

追求は専門家にまかせて

取り合えず、動かないと、そして仕事をしなければおまんま(ご飯)を食べてゆけない。

しかし、放っておいてよいことと

放っておいてはいけないことがあります。

人任せにしないで自分で答を見つけていかなればいけないこと

それを放っておくと心のストレスになります。

自分で答を見つけていかなければいけないこと

それが真理です。

魂の叫びです。

本心が何を望んでいるのか?

なにを解明していかなればならないのか?

それがわからないと死ぬに死にきれない

それくらい真理って大事なものなのです。

真理って宇宙の法則だと思うのです。

私たち人間は、小宇宙です。

地球そのものだし、大宇宙から分かれた分霊でもある。

だから宇宙のこと、宇宙とは何なのか?

がわかっていないと自分のこともわからないし

人のこともその他のことも

な~んにもわからない

お釈迦様は「空になったときから第一歩が始まる」

とおっしゃっておられます。

空とは宇宙と一体となるということです。

宇宙と合体すれば、人間本来の力が初めて使えるようになるのです。

金星のひとたち?はお釈迦様のように悟った人たちばかり住んでいます。

精神性(神性)の高い、愛深い人たちです。

お釈迦様は金星の人です。

般若心経は、金星出身であるお釈迦様の教えが書かれている。

だから宗教とは宇宙を示す教えと書くのです。

般若心経は、お釈迦様が優秀であった一番弟子の舎利ほつだけに説いた教えです。

たぶん、「舎利ほつよ、この説法は今はお前以外に誰も理解出来ないだろうけれど、地球が新しい進化(精神的に)した星に生まれ変わるときにはきっとたくさんの人がわかるようになるだろう。そのときまでは長い年月を要する。そしてきっとこれは(般若心経)は人類の道標となるであろう」

と言われたのだと思うのです。

般若心経は、これまでにたくさんの仏教学者、宗教者、哲学者によって解読されてきたようですが核心をついているものは極少だったようです。

それは、宇宙(神)意識の人でないとわからないからです。

肉体意識を超え、宇宙意識になった人

神我一体となった人でないと般若心経は解けないのです。

話は長くなりますが(笑)

先日、義理父の一周忌の法要がありました。

そのときに、お坊さん(ご住職)が般若心経(原文とは違うのですが)を読んでおられました。


そして経文を読みながらみんなで一緒に唱えていたのですが、終わった後である親戚の人が

「般若心経に書かれている意味が全然わからない」「出来たら理解したい」

と言っていました。

そして先日観たテレビでは、お坊さんが被災者の人たちに般若心経の写経を薦めていました。

何が書いてあるかはわからないけど、なんだか気持がスッキリとし落ち着いてくる。

それはその通りだと思うのです。

意味がわからなくても、宇宙の高い響き(波動、エネルギー)が肉体を浄めてくれているのです。

しかしこれまでは、それでよかったかもしれませんが、ちゃんと理解しないと面白くないのです(笑)。

わからないとそれ以上に興味も湧かないし、実生活で使えないと意味がない。

私は、今こそお釈迦様の教え(般若心経)が生かされるときがやってきたように思うのです。

般若というのは深い智恵、大智恵と意味だそうです。

ですから般若心経というのは深い智恵の本当の教えなのです。

般若心経には、これから人間が覚正(悟って)してゆく姿が描かれています。

これから2012年から2015年の間に人間の内(心の中)で起こる変化が書かれています。

そして真理がズバリ書かれています。

本当の世界のことが書かれています。

人間が神(仏)へと移行してゆく姿が書かれています。

人間が本当に識りたがっていることが説かれています。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

これから私なり(ほとんどは五井先生の受け売りですが)にアレンジして今風、私風に述べていきたいと思います。

興味のある方は、どうぞお付き合いください。


 

2012年10月14日 (日)

神様(守護霊)が伝えたいこと 4

  
  
  
あの世のためにもなる生き方


 
だから私はよくいうのです。

この肉体に生きている間は何もしなくてもいいから、あの世に行ってまで人の世話かけるな。

あの世へ行ってまで世話かけるのが一番いけないことです。

この世でなんにもしなくていいから、せめてあの世にも生命があるんだナ、死んでも生命があるんだナ、という気持ちをもって、守護霊さん守護神さんにすがっていなさい、というのです。

守護霊さん守護神さんにすがっていれば、何事もしないどころではなくて、すがっているような人は、何かしら人のためにしなければいられないのです。

自然に人に親切にしたり、ニコニコしたり、ああなんて感じのいい人だナって思われて、この世の中に、やわらかい雰囲気、温かい明るい神さまのみ心をふりまいてゆくわけですから、人のため、世のためになっているわけです。


おじいさんおばあさん、あるいは病人で何か事柄としては出来ない人もありましょう。

そういう人たちは、一生懸命守護霊守護神にすがりながら平和の祈りをしていれば、平和に祈りをしていること、守護霊守護神に感謝していることそのままがこの世にためになり、あの世のためになるわけです。

だからそういう生き方をしなさい、と私は説くわけです。




    

        「空即是色」 五井昌久 白光出版



  

神様(守護霊)が伝えたいこと 3

  
  
霊障(れいしょう)というもの

 

もう一つの質問 「霊障の病と長いこといわれてきましたが、どういうものなのでしょうか」という問いに答えましょう。

霊障というのは、迷った想念が肉体にかかり、おぶさっている状態をいうのです。

余計に荷物(迷った人の想い)を背負ったようで、そこだけ重いわけです。

それが頭に来れば頭が変になるでしょう。肺に来れば肺病になるでしょう、というようにさわっている。

それが霊障というのです。


どうしてそのようなことがあるかというと、自分の肉体などない、死んだ後の世界などあるものか、人間は肉体があるうちが生きているので、肉体がなくなれば死んでしまうのだ、無になるのだ、死んだ者に魂などあるものか、と思って死にます。

要するに、いかにも仏教を説いているようだけれど、そういう人は唯物論者で、実は何も知らない、本当のことは何にも知らない人が死にますと、死んだら生命(いのち)がないと思っているのにあるでしょう。

想いが返ってくるのだから。

そうするとああ俺は死ななかったのかと思うわけです。

じゃ生きかえったのかナと思う。

けれども肉体はないわけです。

幽体があるけれど肉体はない。

だから体は肉体感覚とは違うわけです。

なんだかしっかりしないんだナ。

そうすると思い出すのはどこかというと、自分が昔住んでいた所とか、親しい人とかを思い出すのです。

それでスーッと親しい人の所へ来るわけです。

自分の妻なり夫なり、子孫なりの所へ来るのです。

そして一緒にくっついてしまうわけです。

くっつかれた人は重くなってしまう。

そういうのが何人もあれば大変です。 重態になるわけです。

私たちがそれを見ますと、ああ誰々がいるな、というので気合いをかけたり、柏手を打ったりして浄めるわけです。

ところが執念深く何十年来もついているのは、一遍や二偏ではとれない。

うっかりすると、その人まであの世に逝ってしまうことになるのです。

だから少しずつ少しずつはなし浄めてゆくのです。

新しくついたものなら、パッと浄まります。

そういうものなんですよ。




   
         「空即是色」 五井昌久 白光出版



    

神様(守護霊)が伝えたいこと 2

  
  
  
・・・・こうやってみていますと、この世界には、まだ神様ということも、なんにもわからないでいる人間が生きている。

生まれて七十、八十になって死んでしまう。

それでおしまい。

一寸も疑問を起こさない人がいますね。

生まれて食べて、働いて死んじゃうわけですよ。

「何? 霊魂? 神さまなんかいらないや、そんなもの。ふつうに食べて生活していればいいじゃないか」  っていう人がたくさんいる。

そういう人が年をとって、七十になり八十になり、サア心細くなってくる。

若い者たちに、早くじいさん、ばあさん死なないかって、こういわれてしまう。

みんなからは嫌われ、それで自分は行くところがわからない。

そしてそのままおしまいになってしまう。

肉体に執着して、死にたくない、死にたくない、とやっている。

若いうちに全然無駄に過ごして来たから、最期になると苦しみます。

こういう人たちがどれだけいるかわからないんですよ。

私たちが話をしても

「霊魂? バカな、そんなもの」 なんていう。

バカなっていったって、自分で知りもしないで、バカもへったくれもないでしょ。

私はいつもいうんだけれども、バカな、と否定していえることは、自分が全部、世界中をくまなく見て歩いてなら “ない” と否定も出来るかもしれませんが、自分が日本のはしっこにいるだけで、宇宙人はいないとか、霊魂がないとか、自分がなんにも探してみないで “無い” なんていうことは、これは実に非科学的であって、バカのバカの大馬鹿の骨頂なんですよ(笑)。

あるというのは、その人が実際に見たんだから、他の人が無い無いといったって、その人にとってはあるのでしょう。それは否定できません。

霊魂なんてない、昔の話だ、などという人をみると、私は可哀想だと思う。

死ぬ時は騒ぐだろう。 死んでから、なんにもない野原を自分一人でふらふら歩いて、どこまで言っても自分の行き先がないのだから。

本当に唯物論者の死んだ先は哀れですよ。

いい行ないをして、いい人であったとしても、守護霊守護神と離れているのですから、無いと否定し切っているから、現われないのです。

自分だけで野原を歩いている。

行けども行けども野っ原、林の中、田んぼの中、なんにもない。


そういうところばかり歩いてゆくのですから。

それでこりてこりて、はじめて助けを呼ぶ。 そして最低の線から修行させられるのです。



  

          「空即是色」 五井昌久 白光出版



  

神様(守護霊)が伝えたいこと 1

  

  
私の両親は、とてもいい人です。(自分の親のことをいうのも変ですが)

明るく、朗らかで、人に迷惑をかけるわけでもなく常識的に生きている。

しかし、「このまま歳を重ねて死んでしまっていいのだろうか?」

という疑問は残るのです。
・・・・・・・・・・・・・・・・

それは真理を識らないから・・・・・。


自分とは(人間とは)何者で

自分はどこから来て、(死後)どこへ行こうとしているのか?

なんの目的のために生まれ、生きてきたのか?

そういったことを何度かは考えたかもしれないけれども、真剣に追求していないことは確かです。

自分の親であっても、何をしようとどんなことを考えようと

それは自由です。

しかし(自分の親も含めて)あまりにも刹那的に、あまりにも行き当たりばったり(目に見える現実だけを見て)で生きてる人が多いと思うのです。

死の直前に来たときに

ほんとうに満足し切って、別の世界(他界)に移行出来るのか?

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

これからは今まで疑問?だったことがどんどん明らかになってゆく時代に入ってゆきます。

後廻しにされていた“真理” が真剣に語られるようになってゆきます。

そのときまで、両親が肉体に生きていてくれたらいいなぁと漠然とではあるのですが、願う今日この頃です。


ところで今、「空即是色」という五井昌久先生のご著書を読んでいます。


そこに現代人?日本人? 地球人? 人間の生き方(想念)が書いてあるのです。

ごく普通の人たち、一般の人たちというのは、どういう想念で生きているのか?

人の心の中は、どうなっているのか?なんてわかりません。

そこに、足を踏み入れてはいけないからです。

心の中は“聖域”であって親であろうと子であろうと親友であろうと恋人であろうと、夫婦であろうと

絶対に入っては(干渉しては)いけない世界なのです。

しかし、個人的には入っていかなくても、群集心理というか、今の地球人の平均的な考えは、知っておくことは必要だと思うのです。

久しぶりに本の中から心に響いた文章を抜粋してみます。

秋は、自分の人生を振り返るのに(見直す)のに、絶好のチャンスです。 手(チョキ) わーい(嬉しい顔)

次の日記から書いていきますので、よかったらご一読ください。わーい(嬉しい顔)



   

2012年10月12日 (金)

恨みっこなし

  
  
  
自分が誰かに理不尽でとんでもないこと、傷つけられるようなことを言われたとする。

当然、相手を憎み、恨むことになる。

そして、どうしてそんなことを言われるんだろう? 言われなくてはいけないんだろう?

そしてもう少し突っ込んで、「あの人とはどんな因縁があったのだろう?」

と考える。

しかし、答はなかなか出ては来ないのです。

そして真理に照らし合わせてみると、そこに答はある。

それは自分では自覚はしてはいないのだけど、前世で自分がその人にひどいことを言っていたのです。 していたのです。

それが今生になって返ってきた。

これが真理です。

これが宇宙の法則なのです。

だから、相手を許すのではなく、前世で自分がやってしまったことを反省し

「ああ、昔私はあの人にひどいことを言っていたんだなぁ、それが返ってきたんだなぁ、自分が蒔いた種だったんだなぁ」

「ごめんなさい」

と前世でしてしまったことを相手に詫び

そして今生でされたことは、当然のこととして受け止め

「これで恨みっこなし」

“きれいさっぱり水に流してしまいましょう”

にするのです。


真理は凄い! どんな難問もひも解いてくれる。


だから人間は真理を識り


学ばなければならないのです。

“真理”は生きることを楽にしてくれます。

苦がないことを教えてくれるのです。


  


人と人間は違います。

  
  
  
人と人間の違いを書く前に、霊とは何かを説明します。

霊とは、なにか目にみえない魂のことのように思われていますが

霊とは、ズバリ神様のことなのです。

では、幽霊も神様なのか?

といえば、そうなのです。

しかし幽霊というのは、幽界にいるオバケちゃんでさ迷っている霊のことです。

人間に悪さもしかけてくる不良霊、取り憑いてきて感情的にさせる感情霊、動物霊ともいわれています。

でも幽霊本人が自分の魂はもともと神様から来たものなのだ!と自覚をしていないだけで、神様そのものなのです。

霊界を飛び越えて、神界へも行ける。

本当の自分は神界(天界)に居ることを忘れてしまっているという意味では私たち肉体人間と同じです。

さて、霊とは神様のことであると言いましたが

人とは霊止(ひと)という意味です。

霊、つまり神様が止まっている、宿っているという意味です。

だから

「あの人(霊止)は」

というのは、神様って言っているのと同じです。

では


「あの人間は」・・・・・・・・・・・・・・



響きが違いますよね。

なんだか人に比べて劣るような響きがあります。

実は、人間とは今の地球人を実にうまく表現した言葉(文字)なのです。

人が神ならば人間は何なのか?

人間とは動物と人の中間にいるという意味です。

動物というのは、人とは違うのです。

人は宇宙神の光が直接降りて来ている直霊であり、動物は神様が創った被造物(作品)です。

神が宿っているのは人だけなのです。

動物とは神の被造物(作品)であり、物事を考えたり創造する力は持っていない。

しかし人は創造していく力を持っているのです。

人間とは、この神性と動物性が入り混じった人たちということなのです。

だから人間にも神様のような人もいれば、言葉は大変悪いですが、犬畜生(いぬちくしょう)と言って動物にも劣ると思われるような人もいるのです。

人間とは、いえ人間界とは、人と人間が玉石混交した世の中になっているのです。

今はどうかといえば、悲しいかな、人(神性が顕われている)よりも動物性の混じった人間の方が圧倒的に多い状況です。
 

しかし悲観することはありません。

これから人間はどんどん人(霊止)になってゆくのです。

今からそうなってゆきます。

人間から動物性が消えてゆけば神性が顕われて来るからです。

これは、赤ちゃんが成長してゆく様子を見ればわかりやすいのです。

赤ちゃんは、神の子そのものであり、神界からの光をそのまま顕しています。

だから美しく輝いています。

愛おしくかわいい!

「このまま変わらずに居て欲しい!」

親だったら誰でもが思います。

しかし成長するにつれて、垢がついてくるのです。

前世の因縁であったり、今生でのマイナスエネルギーであったり

その美しい神性に泥を被ってしまうのです。

これがカルマと言われるものであったり業(ごう)といわれるものです。

これらのカルマや業をはぎ取っていかなければならない。

そうでないと人間はいつまでたっても不完全なままになってしまうのです。

だがしかし

人間の心(魂)の叫びは

「早く人(霊止)になりたい!」

なのです(笑)。

でも、指をくわえているだけで勝手に人間が人になっていくわけがない。

神様は、人間の努力を見ておられます。

神の国が出来るには、人間が動物性を絶ち切って、幽界を浄め、神性を顕してゆくことが必要なのです。

 
今回はこれくらいにしておきます。



  

2012年10月11日 (木)

宇宙に貯金をする

  
  
  
映画、「祈り」は村上和雄先生の人生経験に基づいて(ベースに)放映していたのですが、物理学者になられた経緯には、幼い頃のおばあさんからの教えがありました。

それは、「貯金には2つある。普通にする貯金と宇宙にする貯金だ。宇宙に貯金をすると必要なときにいくらでも降りて来るんだよ」

だったそうです。

それから村上先生は、宇宙の神秘(法則)に魅かれるようになったのです。

私たちは自分たちの将来、老後のためには貯金はしますが、宇宙に貯金をしようとは思いません。

この場合の貯金とは、“天に宝を積む”ということです。

実際に、宇宙にはお金を積むことなんて出来ない。

だったら何を積むのか? 宝とは何なのか?

それは宇宙が一番望んでいることですよね。夜

宇宙は、宇宙全体が調和し、平和になり、愛に溢れた世界になって欲しいと望んでいる。

それは、人間とまったく同じ思いなのです。

人間も地球が平和であり、調和し、愛の星になって欲しいと願っています。

でも、地震や津波など、不調和なことが訪れたときにだけ平和を祈り、その時以外は祈るのを忘れてしまっているのです。

宇宙(進化した星の人たちも)は絶えず祈っています。

しかし人間はそこに意識を合わせていない。

だから不調和なことが起るのです。

たくさんの人が心を込めて一生懸命に祈ると波動(エネルギー)が変わってきます。

宇宙の調和した波動と波長が合って来るのです。

これが本当の、“天に宝を積む” ということです。

最高の陰徳です。

誰が見ているわけでもない。

誰が聞いているわけでもない。

しかし平和を祈る祈りは確実に天に届いている。

そしてそれが還って来るのです。

宇宙に刻印したものは必ず還って来る。

それが宇宙の法則なのです。

祈ると宇宙からの無限のプラスのエネルギーが私たちの器(肉体)に降りて来ます。

するといつの間にか波動調整が行なわれるのです。

不調和なもの

病気であるとか、貧乏であるとか、人間関係であるとか

人間の力ではどうしようもないようなことも

宇宙の叡智で整って来るのです。

私たち人間はなんのために生まれて来たのか?

それは祈るためです。

祈ることを忘れてしまっていたのです。


そして祈ることが天命であることを多くの人が知ったとき

そして多くの人が祈り始めたとき(エネルギーが変わって)

人間と地球が救われるのです。

個人も人類も

平和は

真の幸せは

祈ることから始まるのです。





世界人類が平和でありますように

無限なる愛

無限なる調和

無限なる平和



  

人間ほど神秘的なものはないのです。

  
  
先日、「祈り」という映画を観に行ってきたのですが、そこで物理学者の村上和雄先生という方が

「人間の細胞一つが出来のには、一億円の宝くじが100万回連続して当たることに等しい」

とおっしゃっていました。

それくらいとてつもないことなのです。

ましてや人間はその細胞が60兆もある。

私は物理であるとか科学であるとか専門的なことはさっぱりわかりませんので、この数字を聞いてもただ驚くよりほかはないのですが、人間がボウフラのように勝手に出来たのだとか、チンパンジーが進化して人間になったのではないことはわかります(笑)。


なんらかのとてつもない力(サムシング・グレート)が働いて人間は誕生している。

それが大自然なのか?神なのか?宇宙なのか?

それはわからないけれども、肉体人間には及びもつかない、とてつもないなにか(こればっかりですが)が働きかけていることだけは確かだと思うのです。


人間の頭でわかっていることといえば、サハラ砂漠にある一粒の砂ほどもないのだそうです。

宇宙は神秘なことだらけ、その中の一員である地球人間は、自分のことすらもわかっていない。

自分が何者で、どこから来て、何が目的で生まれてきたのか、そしてどこへ行こうとしているのか?

な~んにもわかっていないのです。

なのに一端(一人前)にわかったようなフリをしている。

神様(サムシング・グレート)からすれば、“ちゃんちゃらおかしい奴ら”だと思うのです。

進化した星の先輩(金星等)からは“幼い兄弟”と呼ばれてるのだそうです。

ほんとその通りだと思います。

私たち人間は、もっと謙虚に

「何~にもわかっておりません、神様教えてください」

ってお願いすればいいと思うのです。

宇宙に溶け込まないと宇宙のことはわからない

自分のことも他人のこともわからない

これからどうなっていくのかさえもわからない

そして肉体を持って生まれることがどれだけ偉大なことかもわかっていない

自分が生まれてきた確率が天文学的な数字なのに

宝くじが当たることが奇蹟だと思っている(笑)

自分自身が生まれてきたことが

超、ちょう~奇蹟なのに・・・・・・。

人間一人が生まれるのには

とてつもないエネルギーを要していると思うのです。

それくらい神様の愛が込められているのです。


そう思えば自分のことを愛おしく思い

他人のことも

「この人は凄い人なんだ、尊い人なんだ、神から選ばれた人なんだ」

と祝福出来るのです。

私は人間として、この地球に生まれてきたことを

嬉しく、ありがたく思うのです。涙

そして神様(サムシング・グレート)に感謝するのです。





 世界人類が平和でありますように

 無限なる愛

 無限なる平和  

 無限なる調和



  

2012年10月10日 (水)

人の目を見てはいけない!

  

「目は口ほどにものをいう」というが、目に写っているものというのは、ほとんどの人の場合、光輝いた神性ではなく、その人の幽体(幽界)が写っているのです。

いつも言っていますように、人間は肉体界だけではなく、幽界、霊界、神界にも同時に住んでおり、そして肉体だけではなく、目には見えない幽体(オーラ写真に写る)、霊体、神体も纏っているのです。

そして、目に写っているものは、悲しいかなほとんどの人は神界(神体)ではなく、迷いの世界、感情の世界、想いの世界、潜在意識の世界、幽界(幽体)なのです。

幽界とは、亡くなった人が死ぬ前に「自分は死んでも行く世界がない」と思い込んでいる人で、浄まった世界である霊界や神界に行けずに、さ迷っている世界です。(人間の想念がつくり出した世界)

ここには、不良霊(悪さをします)、感情霊がうごめいていて汚れているのです。

世の中が今、おかしくなっているのは、浄まった神界、霊界(高いところの)が降りてきているのではなく、人間のマイナス想念(業、カルマ)がそのまま肉体界に写ってきているからです。

幽体とは自分の中の幽界が肉体にくっついているのです。

目はその幽界がまともに顕われているのです。

反対に、赤ちゃんは天使と言われるように神界がそのまま肉体に降りてきている。

だから目は澄み切っているし、赤ちゃんの笑顔を見た大人は誰もが癒されるのは、赤ちゃんの神性を見ているからであり、不快になるのは汚れた幽体を見ているのです。


浄まった人の目はきれいであり、神性が顕われており、光輝いている。

その人は常に自分が浄まるように、光輝き続けられるように自分で自分の波動調整をしているのです。(調和波動気功法)


だがしかし、そのような人はまれであり、よって目をまともに見るということはその人の幽界に入って行くことになる。(まともに見ると倒れてしまいます)

よって

「目をしっかりと見なさい」とか 「目を見て話をしなさい」 というのは違っていることであり、私は相手の人の目の少し上を見て、目から外すようにしている。

こうすれば相手の幽体を見ることはなく、相手の人はちゃんと目を見てくれていると感じてくれる。

眉間のしわ(第3の目)も同じであり、見ていると暗い気持ちになるのはそのためです。

自分を守るためにも相手の人の目はまともに見て(見つめる)はいけない!


目力(めじから)なんていらない、それは念力です。(今出現している霊能者といわれるほとんどの人は念力です)

念力は人間の生命力を弱らせます。(そんなものに頼ってはダメです)

宇宙の無限のエネルギーとは違うのです。


私たちは、幼子のような“純粋な目”に戻らなければならない。

そうでないとこのままずっと人の目をまともに見ることは出来ないのです。

その人の顔、目を見ても

なんら汚れたものが写らない姿

世の中がそんな人たちでいっぱいになればいいですよね。 わーい(嬉しい顔)




世界人類が平和でありますように ぴかぴか(新しい)

無限なる愛

無限なる平和

無限なる調和



  

2012年10月 7日 (日)

今日書いたツイート(つぶやき)



    
出来るだけ日記は毎日書こうとは思っているのですが、私はブログやツイッター、フェイスブックにかけるエネルギーはほどほどにしておこうと決めています。

子どもがお母さんに「ゲームは一日2時間までだからね!」と注意されているのと同じですね(笑)。

注意してくれる人がいないので自分で決めていくしかありません。

インターネットもやはり波動(エネルギー)の世界なので長く居ると元に戻すのが結構大変なのです。(いろんな人の想念エネルギーを受けます)

そこでどうしても片寄ってしまう。

ツイッターに時間とエネルギーを費やせば、ブログはお休みになってしまいます。

祈ったり、印を組んだり、本を読む、家族と話をする。

それらの時間も実に貴重なのです。(要はバランスですね)

そこで、今日は、ツイッターに書き込んだつぶやきをここに載させてください。

ブログの方は毎日たくさんの人が覗いてくださっているのですが

ツイッターはさっぱりです(笑)。

どうすれば受けるのか? 読んでもらえるのかが、わかっていません(泣)。

これから試行錯誤しながらボチボチやっていこうと思っています。

では、今日は、ツイート(つぶやき)でご勘弁を!



  
1.NHKの朝の連ドラ、「純と愛」面白いですよね。特に指導員の桐野さんの凛とした態度や言葉が響きます。「犬が飼い主を選べないように、私たちも上司を選べないだけよ」これってネガティブに聞えるけど、他人に意識を向けるのは止めて、自分の心を整えることに集中しなさいってことなんですね。
 


2.「そんな青臭いことを聞く暇があったら、きちんと自分の欠点を見つめ直しなさい」「自分をいつも正しいと言っている人間は、成長をやめたと言っているのと同じです」/ 指導員、桐野さん/ みんな自分が正しいと思っているから、人間関係や世の中がおかしくなるんですよね。人間よもっと謙虚になれ!
 


3.なんでもないようなことに幸せを見出したり、いろんな気づきを得られる人って素晴らしい人だと思う。他の人よりもずっと充実した日々を送っている。
 


4.悲しいことや悔しいこと、腹立たしいことがあるから不幸せなのではない。その感情の渦の中に入ってしまうから不幸だと思ってしまうのだ。感情の波(波動、エネルギー)を客観的に観れるようになれば、不幸は無くなる。




5.余計なことを考えずに、他人が言ったことも気にせず、どんなこともすぐに水に流せて、あっけらかんとしていられる人は、それだけで凄い才能を持った人だと思う・・・・。 世の中には余計な事ばかりを考え、自分で勝手に不幸?(被害妄想)をつくり出している人があまりにも多い。
 


6. ツイッターやつぶやきを自分の不幸、ストレスのはけ口にしている人は、発信した倍の不幸、ストレスを受け取ることになる。それは時間が経過しないとわからないだけで確実にやって来る。これが宇宙の法則なのです。反対にプラスのポジティブなエネルギーを発信するとやはり倍になって還って来るのです。
 


7. 泣きごとを言うな!みんな言わないだけで十分苦しいんだ!泣きごとを聞くとそれを受け取ってプラスに転じるまでにかなりのエネルギーが必要になる。言う(書く)必要はないではないか、人に迷惑をかけるな!自分の中の不調和なエネルギーは自分自身で処理をしろ!いつまでも甘えるな!




8. みんなの代表となれる人は、政策であるとか、派閥、誰に支持されているだとかはどうでもいい。そんなことよりも、その人自身が愛深い人であるのか?自分のことよりも人が幸せになることを優先させられる人なのか?なのです。それはその人の発しているエネルギーをキャッチすればわかるのです。




9. 一番怖いのは、自分を認めさせようという、自我です。これが増幅するともっと認めさせよう、もっと褒められ、絶賛されたい!という欲望が強くなる。自分を非難する人を攻撃し、自分だけが正しいと思い込み、一番大切な調和、平和、愛を壊してゆく。政治家をみる時は自我をみればその本性はわかる。



10. マイナスのエネルギーを発信(書いている)している人に、同調、同情してはダメです。同調すると自分もそのエネルギーに巻き込まれるだけでなく、その人にもエネルギーを与えてしまう。益々マイナスが強くなる。冷たいかもしれないけど、放っておきましょう。相手にされなくなるといつかは気づくのです。



11. 不快なメールを受け取った場合、私は見なかったことにするために履歴を消してしまいます(笑)。返事を書こうとすると腹が立った状態で書くことになり、そのエネルギーは相手に伝わる。返事について何か言ってきた場合は、「ああそうなの届いていなかったみたいだけどなぁ」ととぼければいいのです。




12. 今の混沌とした世の中をなんとか元気に生き抜いて行くためには、どれだけ自分の中にマイナスを入れないか、なのです。流す(エネルギーを)、外す(マイナスと同調しない)、消す(マイナスを消してプラスを発する)。これが人間の正しい姿なのです。(調和波動気功法)




13. マスコミというのは、テレビでも新聞でもその他出版社でも、視聴率、売れることをまず考える。今はネガティブの人の方が多いので、暗いニュース、情報が流れている。そしてそれをみた人が益々ネガティブになってゆく。世の中が善くなってゆくためには、ネガティブなものには同調しない!がいいのです。



14. ツイッターは本音の世界、ブログは本音と建前の中間の世界、フェイスブックは建前の世界、本音ばかりだと角が立つし、建前ばかりだとつまらない、結局ブログのようなものが世界を変えてゆくのかな?と思っています。(私だけの考えですが)



15. 人は結局最後には、愛深い、愛そのものの人についてゆくのです。それは人はみな魂で一つにつながっているからです。愛深い人は、人の魂を感動させ、喜ばせ、魂を引きつける力が強いのです。



16. 自分が本物にならないと偽物なのか?本物なのか?の区別がつきっこないのです。自分で何でも瞬時に正しく判断がつけれないことほど、むなしいことはありません。自分が何者なのか?どうしたら本物(本者)になれるのか?それを追求してゆくことがなによりも大切なことだと思います。


  





  






2012年10月 4日 (木)

霊界にいった子供達 

  
  
今、テレビのニュースを観ていたら、子どもさんを殺された親御さんが事件の真相を求めてチラシを配っているという場面を観ました。

私も人の親として身につまされます。

まして息子さんの名前と私の息子が同じ名前だったので、観ていて辛くなりました。涙

このような事件が起らないような世の中になって欲しい!

それは子を持つ親として切実な問題です。

そしてそれと同時に親御さんの心情として真理がわかれば多少なりとも心が晴れるのではないかと思うのです。

人間とは肉体界だけに生きているのではない。

肉体界だけではなく幽界、霊界、神界にも同時に生きている。

死ぬ(肉体界を去る)ということは、肉体界を卒業して他の世界に行くということなのです。(仏教で他界というのはそういうことです)

魂、心に肉体という服(器)を着ている。

だから肉体の死とは、服を脱ぐ、服がボロボロになった、着る必要がなくなったので脱ぎ捨てるのと同じです。

服を捨てたからといって、いのちまで無くなる人はいません。(いのちは永遠です)

だから“肉体人間の死” に対して

はっきりとした認識(知識)を持つことが大切なのです。

「自分の子供は肉体界を去っただけで生きている。それも今は霊界で元気に暮らしているんだ」

そうわかっただけでどれだけ救われるでしょう。


私は、もう死というものがどういうことなのか?人間がはっきりとわかっていい時期が来ていると思うのです。(分かっている人もいますが)

そしてそれが一部の人だけではなく、“ほとんどの人が理解している世界”

そうならないと本当の意味での地上天国は来ないのです。

人間が一番恐れている“死” というものを正しく理解出来ている世の中。

そのためには人間は信じる信じないに関係なく

真理を追究すべきだと思うのです。

ご紹介する本は、子どもさんを亡くされた親御さんが

「自分の子供はどこかで生きているような気がする」

「子供がなにかメッセージを送って来ているようだ」

というところから調べているうちに

子どもが元気に霊界の学校で勉強をしているのがわかったという実話です。

目に見える世界を生きてゆくには、目にみえない世界のことがわかっていないと地に足を付けて安心して生きていけないのです。

それは灯りの無い道を歩くのと同じです。

3次元(肉体界)とは、ほんの少しのことしかわかっていない世界なのです。

宇宙のほとんどが目に見えない世界なのと同じように

本質、真実は、人間の目(肉眼)ではみえないのです。

子どもさんがお元気な人も、おられない人も

死生観を知る上でも良い本だと思います。

ご一読をおススメします。




 『霊界にいった子供達』 1・2 村田 正雄 白光出版



   

祈りとは

  
  
 
何度も同じことを書くようですが、祈りとは本来のいのちが生き生きと輝いてくるためにするのです。

肉体という器を纏っていると、自分が神界(天、宇宙)にいることも、本心がそこにあることも忘れてしまっています。

だから本当の自分らしく生きるためには、一度宇宙に自分の想念(思っていること、考えていること、プラスの考えも)のすべてを返してしまえばいいのです。

「なんでこんなことを想ってしまうのだろう?」

「どこからこんな考えが浮かんで来るのだろう?」

「なんていやらしい気持ちを持っているんだろう?」

「どうしてマイナスにしか考えられられないんだろう?」

「なんでもっと愛深くなれないんだろう?」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


肉体の人間は次から次へと頭の中をいろんな想念が去来するのです。

それをいちいちつかまえて

「良い、悪い」と判断しているのが

私たち肉体人間なのです。


肉体人間は、本来の人間のほんの一部に過ぎない。

そしてマイナスもたくさんつかまえてしまっている。

肉体人間は小我(こが)の自分です。

それを宇宙大の大我(たいが)の自分にするのです。

小我の自分を宇宙に返してしまって

宇宙で洗濯をしてもらって

大きな自分(大我)になって還って来る。

すると今までの自分(小我)とは、全く違った、思いもつかないほどの

大きな大きな本当の自分になって還って来るのです。

小さな小さな自分を大きな大きな宇宙という溶鉱炉に入れて

ちっちゃな自分を燃やしてもらうのです。

肉体人間というのは本来持っている力のほんの数%も出せていないと言います。

それは神界(天、宇宙)の力が出ていないということです。

本来の力を出すために祈りをするのです。

本当の自分と出会うために祈るのです。

そして宇宙と一体となるということは

宇宙からの光を自分の肉体を通して降ろすということです。

するとこの光は、横に拡がって地球人類を目覚めさせてゆくのです。

縦に降りた光が横に拡がってゆく

これがキリストの十字架であり、真理です。

人間とはそのようにとてつもなく

素晴らしい存在なのです。

宇宙そのものなのです。

神そのものなのです。


たくさんの人が祈ることにより、地球意識は臨界点を超えて宇宙(神)意識へとシフトしていきます。

それが早くなるか遅くなるかはみなさんの祈りにかかっているのです。




宇宙と一体となる言霊


世界人類が平和でありますように

無限なる愛

無限なる平和

無限なる調和

「すべては完璧 欠けたるものなし 大成就」


我即神也

人類即神也


 
 
私の書いていることがもっとわかるようになる本があります。

私のメンター(人生の師匠)である于寿明先生のご著書です。

人間にとって必要なことが書いてあります。



宇宙天使からの贈り物です。わーい(嬉しい顔)


「調和波動気功法」 于寿明 三晃書房

「無限なる癒し」  于寿明 星湖舎

「無限次元への誘い」 于寿明 星湖舎

「無限なる幸せを体得する方法」 于寿明 星湖舎

「無限なる勇気」   于寿明 星湖舎




電子書籍もあります。


  http://utoshiaki.wook.jp/detail.html?id=207092



  


  

法然さんという人

  
  
  
本当に悟った人というのは、肉体人間の愚かさを徹底的にわかった人です。

法然さんもそんなお坊さんでした。

法然さんは、その当時の学問を徹底的にやり抜き、天才と言われた人でした。

3次元を一生懸命に生きた人だからこそ

「人間では駄目だ、救われようがない」 と悟ったのです。

徹底してわかることも悟ると言います。

ダメだということでも徹底してわかれば、道が見えてくるのです。

それは、あることがわかることによってまた違う道が見えてくるからです。

そしてそれは、

「仏さま(神様、宇宙)と一体になることしか、人間は救われないんだ」

ということです。

こうなれば強いです。

一方を徹底的に否定するということは、ある一方を徹底的に肯定するということです。

みんなどうしていいのかわからないのは、徹底的にやっていないから、否定も肯定もどちらも出来ないのです。

神様を信じていいのかも信じなくていいのかもわからない。

自分を信じていいのかも信じてはいけないのかも

人を信じていいのかももちろんわからない

どちらを選んだらいいのか、どうすればいいのかもわからない

どんなことも徹底的にやらなければな~んにもわからないんです。

肉体を持っているということは、3次元を徹底しろということなんですね。

3次元(目に見える世界)と4次元(目にみえない肉体界とは違う世界)はつながっているのです。

徹底するというのは、3次元の終りまで行って突き抜けるということです。


法然さんはそれ(その当時の学問)をやった。

そしてハッキリとわかったこと(真理)を人々に伝えていったのです。

それが信仰というものです。

みんながやりたくても出来ないことを代表してやってくださったんですね。





 

追伸

私たちは、法然さんがやったような学問は、魂的にはもう卒業しているのです。(この日記を読んでくださっている人は)

だから法然さんが安心して仏さまとつながったように、宇宙と繋がればいい時期に来ているのです。

3次元的な修行はもう終わりに近づいているのです。(ご自分ではまだまだだと思われているかもしれませんが)


  

一生懸命に生きている人だけがわかる

  
    
人間はもの凄い力(叡智)を持っているのに、それを知らない(信じていない)ために大損をしているのです。

目に見えるものしか信じない、自分には肉体の自分しか見えないから、肉体の自分だけが本当の自分だと思っている(思い込んでいる)。

しかし実際は肉体の他に幽体もあれば霊体、神体を持った自分もいる。

幽体はビル一棟、霊体は地球よりも大きく、神体に至っては宇宙大なのです。

本当の自分は宇宙そのものなのです。

悟るというのは、心(本心)と吾が一体となること。

本心とは宇宙(天)にあり、吾とは肉体人間の自分です。

天と自分とが合体した姿なのです。

宇宙と合体すると宇宙のあらゆる叡智が流れ入って来る。

すると宇宙は無限なので、無限なる力、無限なる幸福、無限なる健康、無限なる若さ、無限なるいのち・・・・・・が思いのままになる。


人間とは本来そういうものなのです。

そうなるために生まれてきたのです。

人間はみなそうなりたいと思っている。

しかしそのメソッドを知らない・・・・・。

今は、先日お伝えした『祈り』が映画化されたりしてメソッドが紐解かれてようとしている時期なのです。

肉体人間は微力です。

あまりにも弱く、(無限なる力!)

そしてあまりにも愚かです。(無限なる叡智!)

否定的な言い方をするようだけど

肉体人間の力だけでは自分も救われないし、人も地球も救えない。

どうでもいいことばかりを考え、どうしようもないことをしてしまい、どうしようもない状態まで陥ってしまっている。

でも、そんな状態になってもまだ

「自分さえ良ければ、他人や地球はどうなってもいい」とさえ思ってしまう。(悪の心があるのです)

肉体人間はどうしようもないバカなんだ。

肉体人間では、地球はもうダメなんだ。

と徹底的にわからないとダメです。

徹底的にやった人というのは、肉体人間のむなしさを思い知っているのです。

徹底的にやっているから、一生懸命に生きているから、死にもの狂いで頑張っているから、肉体人間の限界がわかる。


この限界までいかないと過信してしまうのです。

「自分(肉体人間)は捨てたものではない」

「自分(肉体人間)は凄いのだ」


・・・・・と。


私のブログを読んでくださっている人というのは、本物を追求している人たちです。

一生懸命に生きている人たちです。

そして、本物(真理)とは何か?

を真剣に探そうとしている人たちです。

そうでないとこんな面白くもない(自分で言ってはダメですね)、得にもならない(今のところ)ブログを読むわけがない(笑)。


これからの日記では、宇宙と一体となるにはどうしたらいいか?を書いてゆきます。



  

2012年10月 2日 (火)

祈り (映画)

  
  
 
祈りとは、生命(いのち)がのり出すという意味です。

だから祈るといのちが活き活きとして来る。

本来の素晴らしい自分に戻ってゆくのです。

そして、祈りとは私たちの故郷である宇宙の願いでもあります。

宇宙(サムシング・グレート)は何を望んでいるか?

それは、宇宙が平和であり、愛に溢れていることであり、調和が取れていることです。

宇宙が進化し続けるには、愛と調和と平和が必要なのです。

宇宙の一部であり、宇宙そのものである人間(小宇宙)が

宇宙の意思であるこれらの言霊(祈り)を唱えると

宇宙との共鳴を始めます。

そして不調和なものが調和してゆくのです。

病気が治るのもその一つです。

病気とは、気(エネルギー)が病むということ


そのエネルギーの状態が癒され、整ってくると自然と病気のような状態も良くなっていくのです。

今までは波動(エネルギー)は目に見えないので、祈りの効果を科学的に証明することが出来なかった。

だから信用しない人の方が多かった。

しかし、アメリカ等の医療機関が病気の治療に“祈り”を使い始めたのです。(日本はそういう意味では遅れています)

この情報を聞いて、私はびっくりしました。

とうとう祈りが広まる時期がやって来たか・・・・と。(もう少し先だと思っていたからです)

そして、この時期に、 『祈り』 という題名の映画が完成しました。

明日、私は大阪の十三という街にある映画館に行って観て来ます。

この情報は、明日観た後で、みなさんにお伝えしようと思ったのですが

善い情報、素晴らしいお知らせは、一分一秒でも早い方がいいと思い直し、ここにお知らせします。

みなさんの街でも上映されるのかな?わーい(嬉しい顔)カチンコ

その前にyoutubeで監督の白鳥哲さんが、祈りについて、映画について語っておられました。

この映画がきっかけとなり、祈りが益々、ポピュラーになっていきますように祈りたいと思っています。




世界が平和になる日は必ず来ます!


 
世界人類が平和でありますように

無限なる愛

無限なる調和

無限なる平和





映画 「祈り」 メッセージ

  
http://www.youtube.com/watch?v=VV5ePw96N8E



映画 「祈り」 予告編



http://www.youtube.com/watch?v=TpRrVeXh4yM&feature=relmfu



映画 「祈り」 白鳥監督と対談

http://www.youtube.com/watch?v=J9Mzk87ZZ3c&feature=relmfu


  








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