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2012年9月27日 (木)

人間はとてつもなく大きいのです。

  

  
肉体界以外に、目に見えない幽界、霊界、神界(本当はもっとたくさんの世界がある)があり、そこにも同時に住んでいるということは、当然、肉体界で肉体を纏っているのと同様に、幽界には幽体、霊界には霊体、神界には神体という“体”も存在しているのです。(この場合の“体”とは、波動体、エネルギー体と思ってもらえればわかりやすいと思います)

しかし、肉体しか目には見えていないので自分は肉体であり、それ以外の“体”はないと思い込んでいる。

今、一部で流行り?のオーラ写真は、何が写っているかというと、肉体にくっついている幽体が写っているんです。

だいたいタマゴ型をしていて自分の体の5倍くらいが写っているがそれはカメラがキャッチしている範囲のものであって、本当はもう少し大きい。

幽体は普通小さな家一軒分くらいですが、大きい人だとビル一棟分くらいあるのです。

私たちは人と人との距離がある程度離れているとそんなに影響は受けないとい思っているが幽体の大きい人がデパートに行くとそこに来ている人たちほぼ全員のエネルギーを受けるわけです。

だから、疲れないわけがない(笑)。

疲れるとは、取り憑かれるの意味であり、人の想念エネルギーをもらってしまうわけです。

マイナスのエネルギーは下に溜まります。

想いは重い、だから特に足が疲れるのです。(年齢を重ねると足から弱っていくのはこのためです)

それだけではなく、想い(考え方)ももらうのです。

想いは相手の心と書くように、いつの間にか周りの人の思いが自分の想いになってしまっている。

これが一番やっかい(怖い)なのです。

自分が自分でなくなってしまう。



先日、調和波動気功法のセミナーで、最近の印象に残った出来事をみんなに報告する時間があるのですが、そこであるハーモニー(気功仲間)の人が体験談をお話ししてくださいました。

その人は英語の塾の講師をされているのですが、普段は子供たちの“自立”に理念をおき、それに沿って教育をされておられます。

ある日行なわれた子供たちによるスピーチ大会で教え子の子供が極度の緊張のあまりブルブル震えていたそうです。

その時

「なんとかしてあげたい!」という気持ちから言ってはいけない(その人の中では)一言を言ってしまったのだそうです。


「私が居るから大丈夫!」


 言った後でハッとしたのだそうです。


これはここに来ていたたくさんの講師の人の想いをもらってしまったのだ・・・と。

「私が居るから大丈夫!」を言ってしまうと子供は先生を頼るようになり、自分でなんとか乗り越えようとしなくなる。(可能性がある)

そして余計にパニックになってしまうのだそうです。

そのときはそこまではいかなかったそうですが、その人は大いに反省されていました。



私たちは自分の本心、自分のしっかりとした信念を持ってしゃべっている、考えていると思っています。


しかしエネルギーで見るとそれが違うとわかるのです。

私は幽界、霊界(低いところは汚れている)に影響されない神界(本心)としっかりとつながっていたいのです。

そうでないといつも自信のないまま、人の想いで生きていかなければならないからです。





 追伸

タイトルは人間はとてつもなく大きいでしたね(笑)。

霊体は、地球の大きさ分あるそうです。

神体は宇宙大・・・・。

想像出来ませんね(笑)

つまり自分の意識が宇宙を向き、そこに波長を合わせると自分の体(エネルギー体)は宇宙と同じになるということです。

そしてその中には当然他人も入っている。

人のことが本当にわかるとは、自分が宇宙大になったときです。

それ以外は上辺のことしかわかっていないということですね。


私たちは今こそ、肉体意識から宇宙意識へと移行(シフト)するときなのです。

それが自分の幸せにもなり地球、宇宙のためにもなるのです。





世界人類が平和でありますように


無限なる健康、無限なる若さ、無限なるいのち



  


 

  
 

2012年9月26日 (水)

恐怖心を無くすには

  
   
恐怖心を無くすには、現われている現状をどうにかするのではなく、先に恐怖心を取り除くことである。

子供が怖い夢を見た時、母親のすることとは、ただ子供を抱きしめるだけである。

子供は母の大きな愛に包まれることによって、恐怖心から少しづつ離れてゆく。

そして夢の内容がどうであったかは、いつの間にか忘れてしまい、母親の胸の中で安らかに眠っている。


大人も同じことであり、まず本当の親は誰なのか? であるが、幼い頃は肉体人間の親がその役割りを果すが、肉体人間の本当の親とは、守護霊、守護神であり、その又、親は宇宙神である。

落ち込んだときに、大自然、空、海を見たら大きなものに包まれている心地になってなんだか癒されたような気持ちになるのは、大きなものと合体したからだ。

肉体人間の小さな自分が合体することによって大きな大きな自分になっている。

正確に言えば、元々大きな自分が小さな自分を抱きしめている。

自分で自分を癒しているのです。

現われてくる現象とは、現われれば消えるものであり、消えるまで待つしかないのです。

その間はずっと、母なる宇宙に身をゆだねるのが一番いい方法なのです。

宇宙と合体して、宇宙と波長を合わせる方法・・・・・。

それは世界平和の祈り、宇宙究極の言霊を唱えるしかない。



「世界人類が平和でありますように」

「すべては完璧、欠けたるものなし、大成就」



この言霊を唱えるといつの間にか宇宙の自分と共鳴しているのです。

そしてなぜか安心感が湧いて来るのです。

問題解決は、心が安定した後で行なえばいいのです。


   

2012年9月24日 (月)

本当の自分は神界にいる

  

  
神界(本心のあるところ)にいる自分がそのまま、肉体界に真直ぐに降りてくればいいのです。

神界というのは、完璧(パーフェクト)なのです。

悩みもない、迷いもない、悲しみや苦しみもない。(お釈迦様のいう生老病死を超えた世界です)

神様の世界です。

本当の自分はその神界にいる。

肉体界にいるということは、肉体界という不完全な世界と、神界、霊界、幽界がチャンポンになっている場所にいるということです。


私たちは肉体界に居るのと同時に幽界、霊界、神界にも同時に住んでいるのです。


ときどき、神界からの強烈な光が射して、我に還る(本心に戻る)ことがある。しかしほとんどは隣にある幽界(迷いの世界)の世界の中に入っています。


肉体界に来るまでには、霊界、幽界(ほんとはもっとたくさんの世界がある)を通って来なければならない。


つまり、霊界、幽界の波動(エネルギー)を受けるわけです。

昔のテレビは電波事情が悪かった。

テレビ局で話している人の姿が、家庭にあるテレビジョンに写るまでに、なんらかの電波障害を受けて、画像が乱れたりする。(受信器に写っているのが肉体界の自分です)

真直ぐの棒が水の中に入れると水という媒体を通しているので、歪んで見えるとの同じです。

きれいなものがきれいなまま降りて来ない、真直ぐなものが真直ぐに顕われて来ない。

どうしてそうなったかというと

人間の想念(マイナスの想い、妬み恨み、不安、不満、悲しみ、怒りなどの)が幽界という世界に溜まりに溜まっているからです。


幽界というのは、肉体界にくっついている、想いの世界、想いが蓄積された世界です。

自分が発した想いというのは、消えるのではなく、その残像は残っている。

汚れた想念は、汚れたまま幽界にあるのです。

そしてその幽界が時間を経て、肉体界に現われて来ている。

今は、残念ながら肉体界は幽界と化しています。

肉体界と幽界が合体しているのです。

だから、肉体界を善くしようとしたら、幽界を浄めなければならない。

想いの世界、迷いの世界、潜在意識の世界を浄化しなければ、現象界(肉体界)は決して善くはならないのです。


幽界が浄まれば、幽界という世界が無くなれば、神界がそのまま肉体界に降りてくるのです。


私たちは今、目にみえない幽界という世界をどうしたら浄めることが出来るのか?

真剣に考えねばならない時期に来ているのです。





世界人類が平和でありますように


我即神也

人類即神也

 
すべては完璧、欠けたるものなし、大成就!



 
 

2012年9月22日 (土)

光の波動体

  

人間の正体は、光の波動体なのです。

波動とは、細かい細か~い粒子が集まったエネルギー体です。

肉体という物質も、目にみえない心もすべては、波動です。

于先生のご著書には波動についてこのように書かれています。

波動とは?

海の流れ、風の流れ、水の流れ、すべての流れの調和のとれた動きをあらわしたものである。 調和波動気功法 于寿明著 三晃書房

なんのこっちゃわからない(笑)

私もはっきりとわかっているわけではありません。

しかし、なんらかの “宇宙の意思”が働きかけて

一人の人間が創られている。

その素になるのは、光の波動体であるのは確かなようです。

しかし、人間によって、光の輝き方が違っています。



光輝いている人


光ったり、光らなくなったりする人


光の少ない人 (無限なる光!)


光というのは宇宙から縦に入って来るのです。

人間の頭のてっぺんには百会(ひゃくえ)といってチャクラがあります。

赤ちゃんの百会は柔らかくて、ペコペコですよね。

宇宙(神)を意識すれば意識するほど

神界(本心)を意識すればするほど

光は、百会を通し、人間という肉体の器に入ってくるのです。

だから本来(素晴らしい)の人間とは

天地を貫く光の波動体なのです。

人間は、天を見ずに横ばかりを見るようになった。

そして、光を失って暗闇の中を生きるようになってしまった。(もう一度無限なる光!)


だから、なにもわからなくなってしまった。(無限なる叡智!)


今こそ、私たち人間は本来の人間の姿に戻るときがきているのです。


宇宙を意識して

宇宙と共鳴して

天地を貫く光の波動体となる。

ピッカピッカに輝いて

眩しいくらいの・・・・。


そうなれば、地球の夜明けも近いのです。わーい(嬉しい顔) ぴかぴか(新しい)



  

2012年9月21日 (金)

わかるということ

  

   
わかるというのはどういうことかというと、今わかったわけではなく、過去世においてすでに知っていたということです。

私が人間のいのちとは永遠で、死んでも生き続けるのだと言っていることも、死後の世界へ行って見てきたわけではない。

そして本を読んで、「ふ~んそんな世界があるんだろうな」と頭で納得したわけでもないのです。


私も幼い頃、死ぬのが怖かった。

「自分が死んだら心はどこへ行くのだろう?」「心(魂)は消えて自分という存在は無くなってしまうのか?」

本気で不安になっていました。

だけど誰にそんなことを質問しても答えてくれないとわかっていたのでずっとクエスチョン????でいました。

それがある日突然、交通事故に遭ったことをふと想定していて、「自分の肉体が無くなったとしても、この心は無くならないのだ」とわかったのです。(多分思い出したのだと思います)

わかったのか?ひらめいたのか?インスピレーションなのか?

理屈ではないのです。

ただ自分の奥底から強く湧いてきたものっだったので、自分にとっては絶対的なものなのです。

大げさに言えば、自分の周りのすべての人が「人間は死んだら終りだ。死後の世界もない」と言っても

「いや、ある」と確信を持って言える。

それは何の裏付けもないものだけど、本当にわかった、腑に落ちるとはそういうものだと思うのです。(魂がわかったものでなければ、それはすべて偽物です)

だから自分だけの世界のことだから、人に強制しようとも思わない。

わかってもらいたいもないのです。

信じない人がいてもいっこうにかまわないのです。

だって魂が経験したことでないとわかるはずがないからです。(霊位の話をしましたが魂には古い、新しいがあってよその星(進化した)に行った経験が無く地球だけで輪廻転生をしている魂は真理を知らないのです)

今80歳のおじいさんはトータルすると宇宙に誕生してから10億年と80年だったとする。

3歳の子供でも1000億年と3年であれば、魂は3歳の子の方が古く、潜在意識では、真理を知っているのです。

地球人間には、わかる人もいればわからない人もいる。


真理だけでなく、巷でも信じられないことがあったり、理解出来ないことがあると

「なんでそんなこともわからないんだ!」と怒っているのが、今の世の中なのです(笑)。

今の自分(人間)というものは、昨日、今日つくられたものではない。

だから人間は、グローバルで宇宙単位で観ないとわからない。

そんなの肉体人間にわかるはずがない。

だから、わからなくてもいいのです(笑)。

わからないことが問題なのではない。

わかろうと努力しないことが問題なのです。

求めれば、真理はどこにいても見えてくるのです。

真理を探究しないと

宇宙(神)と一体化して本当の姿を顕していかないと

人間は救われないし進化向上していけないのです。

宇宙の法則から外れてゆくのです。


  



 

守護霊、守護神について 2

  


守護霊守護神に代わってあなたに語る (西園寺昌美)

   
    
1、私は日頃あなたが思っていること、考えていることそのすべてを把握し、そしてその希望をすべて成就させるよう願っている。

決してあなた一人だけの望みではない。

あなたの望みは常に私の望みなのだ。

2、自己の希望を実現しえないで人生を終わってしまう人の何と多いことか。
 
彼らは私の存在を少しも認めようとはしなかった。
 
私はどんな時でさえも常に彼らの側にあり、彼らの望みを達成し得んが為に彼らを見守り導いてきたつもりでいる。
 
希望の成就は肉体個人一人で出来るものではない。
 
常に守護霊、守護神と共に歩んでこそ成就する路なのだ。
 
それが真実の人生の路なのだ。

   

 

3、出来うる限り明るく陽気に振るまいなさい。

4、私はあなたがいかなることをしようとも、決してあなたに罰を与えない。
 
私はただ、すべてを許すのみである。

そしてあなたのその罰を私が代わりにしょってあげているのである。
 
その代わりあなたは “消えてゆく姿で世界平和の祈り” を繰り返し繰り返し祈ればよい。

自分自身を深く信じなさい。

 

 

5、私はあなたにあえていいたい。
 
出来る限り明るい言葉や思いやり深い優しい言葉を常に、極力心がけて努力して使うようにし、光明思想の本を一日一回は読み、人の心を感動させるようなニュースを聞き、人と語り合う時には人の心を豊かに楽しませるような話題をあえて選び、明るいことのみを語るようにしてほしい。

そして暗いニュース避け、病気の話や人の不幸の話は出来るだけ口にしないことである。

 

6、羨望の心が湧くのも致しかたない。
 
嫉妬心にもだえるのもまたこれ仕方がないではないか。
 
そして人の幸福を妬み人の不幸を心ならずも喜ぶのもまた致しかたない。
 
人の心は感情によって左右されるものであるから、感情を無くさない限りこのようなことはすべて人の心の中に起こり得る現象である。
 
この世は物質肉体の世界、完全なる霊なる世界と違って不自由な束縛ある世界、よくないことだと充分にわかっていながら、正しいことではないと充分に理解していながら、神から反している行為だと充分に納得していながら、やはり現れてくるのが現実なのである。
 
おさえる必要はない、出すだけ出すがよい。

だが、出来るだけ人に迷惑がかからないように出してゆくのだ。
 
相手にまともにぶつからず、声を出して私にぶつけなさい、私にどなりなさい、私に非難をあびせかけるがよい。
 
私はあなたの心が充分にわかるだけに、あなたが愛しくて可哀相でならない。
 
私の大きな翼であなたを包んであげよう。
 
癒してあげよう。
 
心の中にある鬱憤をすべて私に吐きすてるのだ。
 
私が聞いてあげよう。
 
私が代わって祈ってあげよう。
 
あなたがあなた自身で祈れる時がくるまでは。

 偽善者 になるよりはよほどよい。

7、不調和な状態を一刻も早く自分の心の中から一掃せよ。

 

8、

あなたの内部の奥にじっとひそんで隠されている部分、秘密、嘘、葛藤、情欲・・・・それらのすべてを私は知っている。

私の前には何の隠しだても無用である。

ただ裸になることだ。

私にとっては肉体人間の弱さなどは百も承知の上だ。

だからこそ私というものが必要なのだ。

私の支えを必要とするのだ。

朝な夕なに私の名を呼びなさい。

9、

大自然の修復作用が発揮出来るよう大自然に代わって祈れ。

10、

あなたの希望を実現する場合、まだこの世の中に何の手ががりも見出せず、皆目何も無いところから全く新しい希望、この世に打ち出すそのきっかけを創造(つく)り出すのは、いうまでもないこの私である。
  
常に私の存在を忘れず私の名を呼びなさい。守護霊、守護神同士でお互いに交流し合うからである。

 

11、

人の悪を聞くために耳があるのではない。
 
人の悪を語るために口があるのではない。

人の悪しき姿を見るために目がついているのではない。

 

12、

相手を解放してあげると自己の束縛から解放される。

 

13、

すべてを見知っている私の前ですら未だ嘘、偽りでもって自分を覆いつくし、隠しだてをするつもりでいるのか。

情けない。

私はすべてを許そうと思っているのに。

私は(宇宙の法則)から絶対なる権限を与えられている。

あなたのすべてをゆるし、あなたのすべてを愛するのが私の働きである。

14、

あなたが私から離れてどこへ逃げようとも、隠れようとも、またどんな罵詈雑言(ばりぞうごん)をあびせかけようとも、それでもなお私は常にあなたの側を離れず、怪我がないよう、苦しまないよう、痛まないよう、見守りつづけているだけである。
 
私はあなたに嫌われていても、それでも尚あなたが愛(いと)しいし、愛しつづけているのである。

15、

私は肉体を持ちあわせていないので常にあなたの内部に働きかけ、内部の力を増し、調わせ、そのエネルギーを外界に現わし、そして出来るだけあなたの思うようになるよう、成就するよういたらしめているのである。

 

 

16、

私はあなたが暗く沈んでいる時、今まで以上に強い希望の光を投げかけている。
 
あなたが自分自身を傷つけ悲しみに浸っている時、すべては許されるのだという真理の光を送り、あなたに語りかけているのだ。
 
そして私の慈愛の光によって次第にあなたが真理に目覚めはじめ、その暗く果てしない入り組んだ道から脱け出してゆくあなたを見た時、私はあなた以上に天の神に感謝しているのだ。

 

17、

私は常にあなたに真理を語りつづけている。
 
あなたの心が全智全能の創造主と同じような強い力を握っているのだということを。
 
あなたは自分の心で、自分自身を幸せにも不幸せにもすることが出来るのだということを。
 
自分自身を、傷つけ暗く悲しいものだと思ったら、その通りの人生が展開されてゆくであろうということを。

そして自分自身を神の分け生命として認め、明るく大いなる希望をもってゆくならば、またその通りの人生が展開されてゆくであろうということを。
 
心はすべてのすべてである。
 
なぜならば、心は自分自身の運命の支配者であるからだ。

 

18、

私はあなたがいかなる苦悩、いかなる悲哀、いかなる絶望にあろうとも、必ずあなたを幸せにしようと心をくだいて見守りつづけているのである。

私の働きはあなたの真の幸せに導くこと以外の何ものでもない。

 

19、

 
私はあなたにお願いがある。この世は物質的肉体がすべてではなく、本来霊なる世界の写し世である、という事実を自覚してほしいのである。
 
霊的自我に目覚めたその時から、もはや何ものにもしばられぬ自由自在なる世界が、あなたの目の前に展けてくるのである。

それは無限の可能性を秘め、自分の思う通りになる世界となるのである。

 

 

20、

あなたは常に幸せを願うのだ。
 
あなたは常に神の無限なる能力を信ずるのだ。
 
あなたは常に調和を愛するのだ。
 
私はあなたのその望みにむかって全精力を傾けて、その実現のためにわがエネルギーをフルにあなたの心の中に注ぎこんでいるのだ。
 
だが、あなたの望みが常に暗く悲しく絶望的であるならば、その方向にむかってわがエネルギーを注ぎ込むことは、不可能である。
 
あなたの考えが明るく積極的な希望に満ち溢れたものに変わるよう、エネルギーを注ぎこむのであるが、そのエネルギーの消費量は並大抵ではない。
 
もともと+(プラス)の考え方を更に+(プラス)の方向に導き、この世に実現可能にせしめることは、宇宙の法則通りに実に簡単で無駄なエネルギーを消失しないものであるが、-(マイナス)の思考を+(プラス)に方向転換させることは、前者の何万倍ものエネルギーが消失されるものである。
 
 
常にあなたの考えを+(プラス)の方向に向けて生きて下さい。

 
 

21、

頭のよくない人ほど中途半端な聞きかじりをし、自分の知識をひけらかしたがるものである。

頭がよくないから善悪の批判力が無くすべて受動的に自分に吸収してしまうため、その人の潜在意識の奥にすべてそれらの中途半端な知識は溜めこまれてしまう。
 
さて、本人が病気になったり、挫折したり、失敗したりした時、これらの中途半端な知識が次から次へと頭を擡げ(もたげ)はじめ、自分自身の下らない知識で自分自身をがんじがらめにしばりつけ、また、自分自身の暗い思考力で自分自身を暗示にかけてしまい、どうしようもなく救われがたき状態においこんでいってしまうのである。
 
浅はかというより他にいいようがない。
 
知識ならどんなものでも入れていいというものではない。
 
本来ならば自分の心が勇気づけられ、希望に満ち溢れ、生きることの幸せが鼓舞(こぶ)されるような知識なら徹底的に入れこめよ。

自分の心を暗く不安恐怖に陥らせる知識は意識して取り払うべきである。

 
 

22、

“自分だけ悟ればそれでよい” という考え方は多分に利己的なわがままな生き方である。

これを出来るだけよい意味にとるとすると、人に真理を押しつけがましくするのは、たとえその教えがどんなに素晴らしくても、そこで必ず人の自由を縛りつけてしまうものであるから、よくないということであろう。

だが神のみ心からみたならば、真理を一人でも二人でも出来るだけ多くの人達に知らしめた方が積極的な善なる徳のある生き方なのである。

また何回も何回も重ねて自分の口を通して真理を語るということは、逆に、更に自分自身の潜在意識の中に改めて真理を吹きこむ形となり、自分の信念がまたここで更に強固に絶対的なものとなってゆくのである。

真理は何度も何度も繰り返し繰り返し語れば語るほどよい。

 

 

23、

旧き自己を捨て新しき自己に 蘇(よみがえ)るのが世界平和の祈りである。

どうにもならない自分をしっかりそのままつかんでしまった上、私はこんなにも悪い人間ですといわんばかりに、自分の悪を強調しても、誰も救われはしない。

むしろどうにもならない自分を一旦神の中に捨ててしまって、すべてを神の中に投げ入れていまうと、宇宙の法則にのっとった生き方が示されはじめる。

24、

あなたの長い間にわたる苦しみは私にはわかっている。
 
あなたの悲しみや痛みも私にはすべてわかっている。
 
そして更に今あなたの上に投げかけられている不安恐怖、今のあなたの立場ではどうしようもないのもわかっている。
 
私はいつでもあなたの心の叫びを聞き、訴えを聞き、その問題解決が一刻も早からんことを願い奔走しているのである。
 
だがあなたはこの私の心を知ってか知らないでか、常に自分自身の肉体の力でのりこえようともがいている。
 
だがよく聞いて欲しい、もはや肉体界でトラブルが現われはじめたということは、もう何年も、いや何千年も前に幽界で現れていたことを。

幽界で浄めることが全くできなかったが為に、この肉体界に現れはじめたのであるということを。

そのためにはまず幽界を浄め去るのが先決である。

それが出来るのはこの私である。

霊なる力で、霊なる光で、幽界を浄めれば、自ずと肉体界のすべてのトラブルは自然に解決されるものである。

私に頼りなさい。私を信じなさい。あなたが夢をみているその時ですら、私は闇を光に変える働きをあなたの為にしているのです。

あなたはあなた一人で生くるに非ず、私の生命と共にあって生くるなり。

 
 

25、

今あるとるにたらない小さな小さな幸福にさえも、神の与え給いしごほうびだとして感謝せよ。

26、

私は “神の子” であるという徹底的なる自覚がいかなる災いからもあなたを防ぎ、いかなる不幸からもあなたを脱出させる。
 
災いにも不幸にも絶対に波長が合わないからだ。

27、

私に徹底的に素直たれ。






  

守護霊、守護神について 1

  
  
 
最近、ツイッターを書くのにはまっていて、自分の考えもストレートに書いてもいるのですが、西園寺昌美さんや五井先生のお言葉を書き、そこにも自分の感じたことを書き加えています。

昌美先生や五井先生は、悟った人であり、神界からの光をそのまま、言葉や文章に降ろしているので、その文字や文章そのものが光輝いているのです。

そこには、肉体界の汚れたエネルギーは無く、読んでいるだけで心が浄化されるのです。

本来ならば、私の一言など加えない方がいいに決まっているのですが、地球の今の波動の中では光が強過ぎて眩し過ぎるので、よって理解も難しいものになっているのです。

真理が浸透して、当り前のように真理が語られるようになり、真理のバイブルとして五井先生の本が絶賛されるようになるのは、もう少し先のようです。

私が前もって宣伝?することで少しでも早くブームが来ればいいなと思っています。

今日もなにか光輝いた言葉を書きたいなと思っていると、ふと、守護霊、守護神が私たち人間に言いたいことを書いてみたいと思いました。


人間というのは、神に対しては、抵抗、反発がなぜか強い人がけっこう多いのですが、守護霊、守護神には、ずっと親しみを感じるようです(笑)。

私の母もその一人で、神様の存在は信じていないのに

「自分は、ご先祖に守られているような気がする」

とか今はちょうどお彼岸ですが

「守ってもらうためにもお墓参りは行かないとね」

と言っているのです。

だから神様と守護霊、守護神の間にかなり距離があるんでしょうね。

神とは、いろんな神様がおられるのですが

大神様、宇宙神は法則の神です。

宇宙全体を司る私たち人間とはかなり離れた(心理的に)存在であるのは確かです。

法則の神は、人間をかわいそうだと思って助けたり、法則を変えたりはしません。

例えば、雨が降らずに人間が困っている

ここで雨を降らせて助けてやろうとか、きょうは反対の方向から太陽を昇らせてみるかなどをやっていては途端に宇宙は壊滅するからです。


宇宙は寸分の狂いもなく運行しているのです。

冷酷であるとか、厳しいとかの次元ではなく

ただ宇宙が進化し続けるために存在しているのです。

人間を創ったのもこの法則の神なのですが

人間を進化させるために守るために宇宙神が使わしたのが

守護霊守護神なのです。

肉体人間は、右も左もわからない、明日何が起こるのか、どうしたらいいのかも皆目わかっていない。

暗闇を歩くようなものだ。

その暗闇に光を照らして導いてくれるのが守護霊守護神なのです。

そして私たちが直感、インスピレーションと感じているのはすべて守護霊、守護神からによるものです。

法則の神、宇宙神はそんなことはしないのです(笑)。

私たちが

願いを叶えてくれない神様に対し

「神なんているものか!」

と言っているのは法則の神のことなんですね。



ここまで読んでいただいて

守護霊守護神についてもっと知りたいと思ってもらえたら嬉しいです。

守護霊守護神の存在を知ると

がぜん、生きやすくなるからです。

目にみえない世界のことがわかるようになって安心するからです。


守護霊守護神の愛を感じて自分も愛深くなれるからです。

そして宇宙神のこともわかるようになるのです。

それが本当に悟った状態です。

悟るとは、宇宙(神)のことがわかるようになることです。

宇宙のすべてのすべてが自分の中に存在するということです。

宇宙の中に自分が存在するのではなく

自分の中に宇宙がある。

そのためには、まず、守護霊守護神が人間をどのように導こうとしているのか?

何を伝えようとしているのか?

守護霊守護神の心がわかるようになることが大切です。

私が時々、ふと思い出して読みかえしている小冊子があります。

この中に宇宙神、守護霊守護神からのメッセージが凝縮されています。

守護霊守護神とは、人間にとって本当の親です。

心の親、魂の親・・・・。

肉体人間の親は

肉体界だけの仮の親に過ぎません。

残念ながら、人生の師匠(メンター)ではないのです。

肉体人間の親は、心配はするけれども

子供がどうしたらいいのか?

の答がわかっていません。

だから右往左往しておろおろするだけです。(否定しているのではありません)

親とは、この世界へ産み出してくれた(きっかけをつくってくれた)ありがたい存在(恩人)ですが、魂を向上させてゆくことと、親の存在は、あまり関係がないのです。(中には立派な親もいるかもしれませんが)

魂の成長に必要なのは自分自身と守護霊守護神との関係です。

親の存在は、友達や影響を受けた知人レベルなのです。

なんだそれくらいの存在なのか?

とがっかりするかもしれませんが

必要以上に親子関係に執着するからおかしくなるのです。

二十歳を過ぎたら、互いに干渉しない方がいいのです。


守護霊守護神は、子ども(人間)を自立させようとします。

それが本当の幸せに通ずるからです。

肉体人間の親は、情を絡めてしまうのです。

ほとんどの親子関係は、歪んだものになっているといっていいでしょう。


そのこと(本当の愛とは)がわかるためにも守護霊守護神が人間に

どうしても

伝えたいこと

真意を聞いてください。




追伸

今の地球の状態、今の自分の環境、状況はすべて幽界(迷いの世界、潜在意識の世界)が影響しています。そのことを意識して次の日記(守護霊守護神に代わってあなたに語る)を読んでください。


 

 



  

  
 

2012年9月20日 (木)

霊位(れいい)について

 
  

今日、最近通い始めた美容院にカットに行ってきたのですが、髪形を「どのようにしますか?」と聞かれて「お任せします」と答えました。

そしてカットが始まり、「ちょっと切り過ぎかな?」と思ったのですが、帰ってから鏡で見直してみるとちょうどいいくらいの長さになっていました。

いかにも、「カット(散髪)しました」風でもなく自然に整っている。

カットが終わった時、「ちょうどいいな」と思うのは、ほんの数週間後では、もう伸びすぎになり、すぐにまたカットしたくなるので、そこを見越して、心持ち短めにカットしてくれている。

しかも短くなったことが自分も人も感じない。

ここが美容師の人の腕のみせどころですよね。

つまりすぐに完璧を求めるのではなく、余白、余韻を残した方がかえって心は満足するものだと思うのです。

 
私もブログを書き終わった時に

「う~んよい出来だ!」と自己満足を感じることより

みなさんに、「なんだかよくわからないけど、心に響いた」と感じてもらえる文章を書いていこうと思ったのです。

これから書く霊位もみなさんが聞き慣れない言葉だと思うです。

でも、きっと思い当たるふしはあると思います。






霊位について

  
世の中(地球上)にはいろいろな考え方の違う人がいるのではなくて、いろんな霊位の人がいるのです。

それは、その人の意識が神界(天国)にあるのか?霊界(浄まった世界)、幽界(迷いの世界)、肉体界(今は幽界が現われている)のどこにあるか?なのです。

いろんな想いの世界(自分の世界)を持った人が玉石混交、入り混じって同じ肉体界に共存しているのが今の地球であり日本なのです。


これらの人たちが地震に遭ったとして、意識が神界にある人は、災難という波長に合わないので、なぜかその人だけ助かったりする。

幽界の人は合ってしまうわけです。

プラス思考の人(徹底的な)は、プラスと共鳴し合い、マイナス思考の人はなぜか同じような人が集まってくるのです。

死ぬとどうなるかというと、全く同じ波長同士が一緒に住むことになる。

お金を毎日数えている人は、そういう人たちばかりの世界へ行くわけです。


肉体を持って、今地球に住んでいるということは、実はありがたいことなのです。

いろんな人を見て、自分を顧みることが出来る。

成長出来る要素がいっぱい詰まっているのです。

死んでも、魂(心)は永遠に生き続ける。

だったら生きていても、死んでも同じじゃないか?

って思うかも知れません。

しかし、死んだら同じ人格?人柄?思想、思考の人ばかりの世界へ行くことになる。


そんなの面白くないですよね。

たぶん、退屈極まりない・・・。

私はご免こうむります(笑)。

多少しんどいこと、辛いことがあっても

こちらの方がいいです。わーい(嬉しい顔)


  


2012年9月19日 (水)

徒然なるままに

  
    
昨日、思いつくままに書いたのですが、みなさんも結構興味深く読んでいただけたようです。

私の私観かもしれませんがみなさんの心の奥底では、わかっていること、つまり魂が知っていることをブログに書いてゆくことは、自分の役割なのではないかと思うのです。

でも、あまり意識をし過ぎず、リラックスして書いていけたらいいなと思っています。(そうでないと続きませんよね)

そして梅ちゃん先生を観ていてふと思ったのですが(笑)、起承転結を考えず、結論を急がず、次の日も日記を又読みたいと思うような


または、つづきはなくあくる日にはまったく違うことを書くかもしれません(笑)。

ほんと自分勝手に、気ままに書いてみます。

私はどうも連載が苦手なようです(笑)。



では、タイトルは毎日変えますが、グッドムーンのきまぐれ日記、今日から始まり始まり~




今日は、聖者について書いてみます。




地球が誕生してから、何度か存亡の危機があったが、そのたびに聖者が舞い降りてその危機を救った。

その宇宙天使がお釈迦さまであり、キリストであった。

危機的状況とは、現象的なことではなく、心の救済であったことは言うまでもない。

人間の苦しみとは地震や飢餓に遭うというような現象面にあるのではなく、ほとんどは心の苦悩なのだ。

生老病死、人間は生きていても老いても病気になっても死んでも、つまりいついかなるときにも、もがき苦しんでいる。

その想念が不調和な現象を引き起こし、循環を繰り返してゆく。

これを繰り返してゆくと人間のマイナスの想念エネルギー(業、カルマという)が沸点を越えて地球が破滅するのだ。


魂を救うとは、同じ次元で考えていてもどうしようもない。

地球人よりも精神的に抜きん出た、成熟した魂が救済にあたらないと救われようがないのだ。

そこで、宇宙神は、救済のために天使を送った。

前に述べた、釈迦、キリストである。

お釈迦様は、自分の天命を菩提樹の木の下で悟った。

明けの明星(金星)をみて、

「私はあの星から地球人を救うためにやって来た」

のだ・・・・と。

だからお釈迦さまの教えとは金星の意識なのです。

肉体は地球にあっても、意識は金星にある。

宇宙の進化した意識を遅れている地球に降ろして、地球人を救う。

それが宇宙神の計画だったのです。

そしてその時代、時代に、宇宙の真理を伝え、浄化を行ないたくさんの魂は救済された。

しかし、地球人類全部を救済するところまではいかなかった。



そして今の地球が末期的状態であることは確かです。

人間が神であることを忘れ、肉体人間だけが自分だと思っている。

「人間には神性が宿っている」というと

「そんなバカことがあるか」と思っている。

だから自我欲望のまま、感情を喜ばせ、好き勝手に生きていいものだとたくさんの人が思っている。

その間違った想いのエネルギーが今の地球を創っているのです。

でも、宇宙神は、人間が間違った方向へ行って危機的状況になることなど、お見通しだったのです。

金星もかつては地球のように、幼い星だった。

そのときも金星よりも進化した星から宇宙天使がやって来て、金星は救われたのです。

歴史は繰り返す

宇宙の歴史は繰り返されるのです。


今日はこれくらいにしておきます。


明日はまったく違う話になるかもしれません(笑)。



  


 

2012年9月18日 (火)

ここだけの話

  
  
久しぶりに今の地球の現状と未来を書いてみたいと思います。

ところで私はブログを書き続けているのですが、そこで一日約百人の人、mixiなどで20人くらいの人が毎日読んで下さっているので、そんなにたくさんの人から知られているほどではなく、影響力も少ないと思われます(笑)。

だから結構思い切ったことを書いても大丈夫だと思うのです。

冒頭に述べたように今、地球人類がどうなっているか?どういう方向へ行くのかは、ほとんどの人は知らないと思いますし、私が述べることも、誰かから聞いた情報であるとか、調べたわけではないのです。

直感というか、心の奥底から流れて来ているものというか


それだからこそ、こうしてここに書いていけるのだとも思うのです。

アナウンサー(NHKの)が淡々と原稿を読むように、感情を入れずにただ浮かんだままを書いていきたいと思います。


2012年に次元が変わる(アセンション)だとか、人類が滅亡するだとか、大地震があってほとんどが生き残れないだとか、そういう憶測が一部の人の間では話題になっているようですが、私は時期的なことであるとか、起こりそうなこととかには興味、関心はありません。

そういうことに一喜一憂すること自体が自分らしくないと思うのです。

しかし、冷静に観ていると、地球に降り注いでいるエネルギー(波動)は、かなり細かくなって来ているようです。

夜空に輝く無限の星があるように、宇宙は常に進化し続けている。

それが宇宙の法則です。

地球も例にもれず、まったく違う星へ移行する準備が進んでいます。

それは精神的に幼い星から大人の星への移行です。

おとなであるということは、愛が深くなる。

愛の次元が上昇するということです。

神が愛であるように

進化するとは、愛が深くなることにほかなりません。

今、地球は愛に溢れた星になろうとしているのです。

宇宙の法則としてそれに見合った波動(エネルギー)が降りて来ている。

愛に溢れた人は、その波動を心地よく感じ、よりいっそう愛深くなる。

しかし、自我欲望にまだしがみついている人には

決して心地よい波動ではないのです。

闇が光に照らされると一瞬で明るくなり、闇は無くなりますが

闇をかぶった人には光は眩し過ぎるのです。

そして自分の醜い部分が焙りだされる。

それが不調和な形となって、病気のような状態になったり、事業がうまくいかなくなったり、人間関係がこじれたりするのです。

しかし、本人はどうしてそうなっているのかがわからない・・・・。

波動が汚れていた今まででは、上手くいっていたのに

誤魔化しが利いたのに

それが通用しない・・・・・・。


そういう意味では、意識がついていけていない人には混乱の時代となります。

個人だけでなく、地球規模においても、波動調整の意味で

地震や災害などの天変地変はまだまだ続くでしょう。

エネルギーが汚れていたら光を射す(地震のときは地面を割って光を入れるのです)

自然の摂理として浄化しようと働くのです。(台風などはそうですよね)

そのときに災難に巻き込まれる人とは

意識がそのままの人なのです。

2015年くらいに多分、地球の大掃除があると思います。

人類が今の意識のままだと99.999%の人がいなくなるでしょう。

肉体意識から宇宙(神)意識へシフト出来なかった人たちです。

その人たちは、どこへ行くかというと

目覚めさせるために、愛(神)に気づかせるために

地球よりももっと遅れた星へ行くことになるのです。

そこでは、今よりもずっとずっと苛酷な人生が待っています。

人間は死んだらおしまいではないのです。

魂は、永遠に生きつづけて、進化する方向へと向います。

宇宙と人間は同じだからです。

これが私のいつも言っている

人間は神そのものなのです。(まだほとんどの人は気がついていませんが)

これから地球に降り注ぐエネルギーは益々細かくなります。

そこに波長を合わせないと苦しくてしかたがなくなるのです。

宇宙と波動を合わせるにはどうしたらいいか?

それは、これも私がいつも言っていますように

宇宙の願い事と意識を合わせるのがいいのです。


世界人類が平和でありますように


世界人類とは、地球人類だけのことではないのです。

宇宙すべての人類のことを言っているのです。

この言霊を唱えるだけで

肉体意識から宇宙意識へと変ることが出来る。

宇宙からの波動と一体になれるのです。

祈っている人と祈っていない人の差がこれから

顕著に現われてきます。

祈っている人は、粗い波動と共鳴せずに

すべてが上手くいく

宇宙の法則に乗れるからです。

祈っていない人は

宇宙の法則から益々外れてゆく

粗い波動(大難)と波長が合ってゆく

これからは、祈っている人が益々輝いて、整ってゆくので

祈っていない人もそれを見て祈り始めるのですが

泥を被った量は半端ではなく(笑)

理屈ではわかったとしても

なかなか祈れるところまではいきません。(無限なる可能性!)

しかし、春になって雪解けが少しずつ始まるように

光を少しずつ浴びて、心の奥底では確実に解け始めているのです。

アセンションがいつであるとか?

地球人類が何人残れるだとかはどうでもいいことです。

今出来ることを一生懸命にやり続けることしかないのです。

3次元的なことも目にみえない世界のことも

私はブログを通して真理(我即神也、人類即神也)を伝えていきたいと思っているのですが、もっと積極的に人の居る所にも出向いて行かないといけないと思っています。

書いているだけではなかなかスピードに乗らないからです。

やっぱり人と人との直の触れ合いに勝るものはないですよね。


これからまだまだいろいろなことが起こると思います。

それに対して

自分がどう対処していくかは

個人個人にまかされています。

人間を創った神様でさえ

選択は人間に任せているのです。

だって神である人間に

「ああしろ、こうしろ」とは言いませんよね(笑)。




徒然なるままに、書き連ねてみました。


なにかを感じていただけたら幸いです。


ご静読ありがとうございました。







追伸

最近、ツイッターでたくさん真理をつぶやいています。(それでブログがあまり書けていないこともあるのですが)

本名の篠崎 朗で書いていますのでよかったら覗いてやってください。

 





  

2012年9月16日 (日)

コブクロの 「蕾(つぼみ)」は最高です!

  
  
  
于先生のレッスンで、先生から3回も聴かせていただきました。

イントロが鳴ったとたんに

「うわぁ~沁みるなぁ」と感じるのです。

歌詞は、悲しくせつなくもあるのだけれど

誰に認められるわけでもないのだけれど

それでも健気に、しっとりと

そして逞しく生きてゆくことの尊さを描いています。


今、なかなか伝わらない真理(笑)を

これからも頑張って伝えていこうとする

自分への応援歌のような気がするのです。わーい(嬉しい顔)


みなさんも自分の中で人々に伝えていこうとしている大切な何かがある人は


きっと共鳴する曲だと思うです。

一年の休業からコブクロさんは復活しましたよね。

病気をされたり、声が出なくなったり

苦労があったからこそ

心に響く素晴らしい音楽が生まれるんだ!

そんなことを思わせる名曲です。

よかったらお付き合いください♪

  


http://www.youtube.com/watch?v=TfUVtF9AW34



  

2012年9月14日 (金)

一休和尚の遺言 3

  
 
  
小坊主の一休さんは、大人たちが次々と突きつけてくる難題を少しも騒がず、抜群の集中力とトンチで切り抜けます。

彼は今から約600年前に生まれ、88歳という当時としては、ケタ外れの長息きをしました。

さすがの一休さんも「平常心でいられない」 「楽しめない」 「ばく然とした不安がある」 「なんとなく無気力で元気が出ない」 等など、人生の苦しみ、悩みにさいなまれた時がありました。

けれども 「不思善悪(ふしぜんあく)」

つまり、もの事の善し悪しにあまり厳しくこだわり過ぎない、ありのままをありのままに見て、認めてしまう、常に気を楽にする。

という事を悟ったようです。

気分を楽にすると必ず同時に元気が身体に湧いて来ます。

不安や心配や焦りの中では決して生まれない知恵や創造力が気分を楽にした時に湧き出て来ます。

難問が難問にみえなくなります。

しんぱいをやめたとたんに健康がもたらされます。

みなさん、厳しい状況が続きますが、こんな時ほど、物やお金がなくても平常心でいることが大切なのではないでしょうか。


  

一休和尚の遺言 2

  

一休和尚の説話の一つに、遺言の話があります。

一休さんは、亡くなるときに一通の封書を寺の弟子たちに残しました。

「この先、ほんとうに困ることがあったら、これを開けなさい」

と言い遺しました。

何年かたって、寺に大変な難問題が持ち上がり、どうしようもないので、弟子たちが集まって、その封書を開いてみると、そこには

「 しんぱいするな なんとかなる 」

と書いてありました。

とたんに弟子たちは一同、大笑いの内に落ち着きと勇気と明るさを取り戻し、難しい問題を解決できたという話です。



  


一休和尚の遺言 1

  
  

宇宙の法則というのは、すごくシンプルです。

それは、心の中のもの(心境)がそのまま、そと(現実)に現われるということ。

絶体絶命のピンチのときに、上手く切り抜けるか、そのままダメになってしまうのは

ピンチのときの機転であるとか、対応の仕方(テクニック)ではなく、いかに落ち着いていられるかなのです。

でも、そんなとき人間は

「どうしたらいいか?」

を考えてしまいます。

頭はパニックになっているので

ますます混乱する

そして

「もうダメだ~」

になってしまう

心の中は

「もうダメだ~」

だから

現われてくる現象も

「もうダメ~」

になってしまうのです。

絶体絶命になったときどうしたらいいか?

例えば自分が運転をしていて

対向車が自分の車に突っ込んで来たとします。

まさしく

「もうダメだ~」

ですが、そのときにハンドルをどうしようとか

相手の車はどっちにハンドルを切ってくるのか?を考えるのではなく

「絶対大丈夫!」

を連発して言うのです。

「絶対大丈夫!絶対大丈夫!絶対大丈夫!絶対大丈夫!」

「神様助けて!神様助けて!神様助けて!」

でもかまいません。

意識を現状から外し

プラスのエネルギーの方に向けるんですね。

宇宙は波動(エネルギー)で出来ています。

目に見えるものも、見えないものも

すべては波動(エネルギー)なのです。


悟った人というのは、この宇宙の法則をよくわかった人なのです。

一休和尚もそんな人だったのですね。

では、私が大好きな一休和尚の説話をご紹介します。



  


2012年9月13日 (木)

フェイスブックのイイネ!を考案した人 2

  
  
自分の本質を探す



フェイスブック(インターネットのソーシャルネットワークサービスの一つ。実名を公開して、ネット上でさまざまな人と交流できる)に四年間務めた、フェイスブックを利用する人にはおなじみのlikeボタンを(「いいね!」ボタン)を考えられた方である。

皆様こんにちは。

私の名前はリアといいます。

大きな山脈のあるコロラドで育ちました。

私はスノーボードが大好きです。

大学では、コンピュータープログラマーになることを目標に勉強し、卒業後、マイクロソフト社に就職しました。

やがて大きな幸運と恵まれた人間関係を通して、フェイスブックに転職しました。

そこで四年間働きましたが、そこでの体験は「凄い」の一言に尽きるものでした。

私はフェイスブックでの仕事を心から楽しみました。

ところが二年前、自分には何か他にすることがあるのではないかという感覚を覚えはじめたのです。

とは言え、それが何なのかはっきり分かりませんでした。

そこで、自分に幾つかの問いかけをしてみました。


私の才能とは何か?

私の本質とは何か?

私が熱中できるものは何か?


私はフェイスブックで仕事をしながら、こうした問いかけを自分にしていましたが、そのときは全く何のイメージも浮かびませんでした。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

その後職場を去ったが、その時にはまだ自分が情熱を燃やせるもの、自分の才能について分かっていませんでしたが、私はある公共の場のビジョンを描くようになりました。


それは、自分と同じように、こうした疑問を模索している人たちが一緒に集い、お互いに学び合い、お互いを刺激し合い、意見の交換をし合い、この世界で自分たちが本当にすべきものを見出すためにお互いに助け合う場でした。


私はフェイスブックを去ってから数ヶ月後に友人の助けを得て、サンフランシスコに場所を借りることが出来ました。


そのドアには次のような表札を掛けました。


ザ・ハピネス・インスティチュート(幸福研究所)。

こうして私たちは、自分を本当に輝かせるものを一緒に模索しようとする情熱的な仲間を募ることになったのです。


ところで、このハピネス・インスティチュートを開設しても、私は未だに同じ問いかけをしていました。


私の才能とは何だろう?

私の本質とは何か?

私が情熱を傾けられるものとは何だろう?


・・・・・・・・・・・・・・



興味深い話はこの後も続いていくのですが、リアさんは、現状に満足するのではなく、自分と向き合って、徹底的に本心を追求していったのです。

それでも簡単には答は見つからない。

模索という言葉はさ迷っているという印象がありますが、そうではありません。

模索して、「これでいいのだろうか?」「これは本質(真理)をついているのだろうか?」と何度も何度も、深く掘り下げていかないと心の奥底から納得する答は見つからないのです。

もしかしたら永遠に答って見つからないのかもしれない。(次から次へと課題がやってくるからです)

見つかってしまったら進化が止まってしまうからです。

見つけることが目的ではなく

模索し、追求し続けること(努力すること)が尊いのです。


本当の幸せとは、逃げずに徹底的に自分と向き合った人にしかやってこないのです。


なぜならば、本当の自分とは、心の奥深いところにいるからです。

本当の自分とつながったのならば、自分が何者で

なんのために生まれて来て

どこへ行こうとしているのかがわかるようになるのです。

人類は今、真理の探究をすべきときにきているのです。

真理の探究(自分は何者であるか?)を怠ると、宇宙の法則から外れてしまうのです。(無限なる幸せ)

自分も人類も滅亡してしまうのです。(無限なる光!)




我即神也

人類即神也



  

フェイスブックのイイネ!を考案した人

  
  
  
フェイスブックといえば、実名で交流するというのが一番の特徴だけど、イイネ!でお互いに認め合うというシステムがある。

最初はなじみがなかったけど最近は、ほんとに イイナ(イイネ)!と感じたときだけに付けるようにしている。

ただ、イイネの源がどこから来ているのか知らなかったし、知らなかったといって追求していなかった。

先日ある小冊子を読んでいたら、考案者のことが書いてあって、イイネ!がLike(好き)!!ということがわかった。

なるほど、「あなたの撮った写真が好きです」 「私はあなたの考え方や文章に好感が持てます」 って意味なんですよね。

だからむやみやたらに相手に好印象を与えようと(自分を売り込もうと)、媚びを売ろうとベタベタ、イイネ!票を投じることはない。

自分の感性でいいんだと思ったのです。

ところでこの考案者のリア・バールマン(女性)という方ですが、今はフェイスブックを辞めて、独立している。

凄い会社に入ったのに、「自分の本当にやりたいことは、ここにはない」と自分に疑問を投げかけ、本当にやりたいこと、すべきこと、魂が喜ぶことを探し見つけることが本当の幸せだと思い、それを追求することの出来る会社を立ち上げたのです。


これは“人間共通のテーマ”だと想うのです。


いい学校を出た、いい会社に入った、いい嫁さん(婿さん)をもらった、子どもにも恵まれた、家も買った、出世もした、地位も名誉も得た。


だけどこれで本当にいいのだろうか?

形だけは幸せに見えているだけで

本当の幸せ感は一つも味わっていない。

魂が震えるような、感動をまだ経験していない。

心の底から湧いてくる高揚感もない。

なによりも心の奥底から

「お前の生き方は間違っている」

と聞えてくる。

しかし、そこに耳を傾ける(心の声を聞く)勇気がない。

だからいつも不完全燃焼をしている。

まわりもそうだから

「これでいいのだ」

といつの間にか妥協してしまう。




ほんとうにこれでいいのでしょうか?

こんな怠惰な、いい加減な生き方を

自分も人類もしてきたから

地球っておかしくなっているのではないでしょうか?

自分とは何者なのか?

自分は何のために生まれて来たのか?

どこから来て、どこへ行くのか?

それが基本だと思うのです。

それがわかっていなくて

それを追求しないで

なにが “我人生” なのでしょうか?

リア・バールマンさんの生き方を通して

自分の生き方を考えてみたいと思います。


小冊子の中からインパクトのある文章を抜粋します。

読み取ってください。


  


  

2012年9月 7日 (金)

余裕を感じる人になるには 2

  

 
心くばりとは、心の余裕の表れです。

精神的に余裕があってこそ、人にも自分にも心をくばれるもの。

すべてを受け入れ、思いやりを示すことのできる人には、まさに心の余裕を感じます。

忙しすぎると余裕がなくなり、相手や自分が見えなくなってしまいますね。

物事を見きわめたり、本質をつかむときにも、心のゆとりは欠かせません。



どうやったら、その余裕をもてるのでしょう。

物質的、経済的に豊かなことも、大きな要因でしょう。

でも、 「なによりも大事なことは、心構え」 だと思います。


老子は、「足るを知る者は富む」 といいました。

これに由来する 「足るを知る者は常に楽しく生きられる」 という言葉もあります。

「満足することを知り、欲張らなければ、誰でも苦痛から解放され、心が安定して余裕ができる」 ということです。

いつも足りない、もっと欲しいとねだってばかりいたら、ゆとりを感じるどころではありませんよね。

そんなときは、ぐっとハードルを下げてみましょう。

少ないものでも、実はこれで十分に足りていると考えられるようになります。

今あるものを生かしながら、やりくりができるよう、工夫してみるのです。




時間が足りないときは焦ってしまって、心の余裕を奪われてしまいますが、その場合でも、まだこれだけ使える時間があると、残っている時間に注目しましょう。

そしてその中で、どうすれば間に合うか考えるのです。

そうすれば、ムダな動き、優先順位の低いことはバッサリ捨てて、肝心なことだけに集中するという選択もできるわけです。





世界に誇れる日本人の心くばりの習慣 34 三枝 理枝子 中経出版




  

余裕を感じる人になるには 1

  
   
     
「もう、一時間しかない」

「まだ、一時間もある」


「余命、半年しかない」

「まだ、半年も生きることが出来る」


「誰も自分のことをわかってくれない」

「自分自身は自分のことを一番よくわかっている」


「ケガをして片手が使えない」

「左手は使えないが右手は使える」


「病気で死にかけている」

「まだ生かされている」


「仕事が辛い、もうやめたい!」

「仕事をしたくても出来ない人がいる自分は恵まれてる」


これはまったく同じ状況の人の心理状態なのですが

とらえかた一つでポジティブにもなり、ネガティブにもなる。



以前、仕事関係で老人ホームに行ったときに

エレベーターにこんな文字が貼ってありました。

「幸せは自分自身が決めるもの」

その頃の私は仕事にやりがいのなさを感じ、何か満たされないものを感じ、毎日を刹那的に生きていました。

心の隙間を埋めるものを探していました。

そのときにこの張り紙を見つけたのですが、しばらく茫然とこの張り紙の前に立っていたことを覚えています。

文章の真意はわかっていなかったのですが


心の隙間を埋めるものは

幸せとは

外にはない

自分の内(心の中)にある


と直観したのだと思います。

心の中を良い状態にしておくこと

そうしていれば、どこから突いても

良い心の状態が中から溢れてくる

心の中の整理整頓と

スッキリ爽やかになるクリーニングぴかぴか(新しい)を続けること
(調和波動気功法)

そういう心の状態になることが

幸せになるってことじゃないのかなぁ

と思います。

幸せは、周りや外にあるのではない

心の中にあるのです。


 
    

2012年9月 6日 (木)

鈍感力を磨こう 2

     

波立ちやすい心を鎮める


明るく前向きで、クリエイティブな考えをする人でも、心が波立っているときは、判断を誤ったり失敗したり、ネガティブ思考になってしまうことがあります。

人はささいなことで、心の平静さを失ってしまいがちです。

平静で前向きに生きていくためには、「鈍感力」が必要だと私は思っています。

「鈍感力」とは、作家の渡辺淳一さんによる造語です。

小泉純一郎元首相も「鈍感力が大事だ」 と発言されて、話題になった言葉です。

鈍感というと、あまり良い響きではありません。

心くばりで求められる心の動きをキャッチする敏感な神経と同時に、「鈍感力」も実は同じくらい欠かせない力なのです。



世の中には、ここぞというときに限って、実力を出せなくなる人がいます。

それは、緊張、不安、迷いなどで心が乱れ、力がまとまらず、成すべきことが成せなくなるからでしょう。

実力があるのに、もったいない話ですが、自分の力を出し切って最善の結果を導くためには、どんなときでも冷静にふるまえる強い心が必要なのです。



私はなにか予想しないことが起きても、アワアワと取り乱し、心が波立つということがありません。

それは、「動じない心=鈍感力」を鍛えてきたからです。

鈍感力をもつと、どんなピンチのときでも動じなくなります。



不動心が自分を強くする


では 「鈍感力」 をどうやって鍛えればよいのでしょうか。

嫌なこと、自分の人生にとって重要でないことに対しては、過敏にならないようにします。

不安のタネやネガティブなこと、気が沈むことにはあえて、鈍感になるのです。

「敏感」 は大事ですが 「過敏」 になってはいけません。

敏感が過ぎる=過敏になると、ちょっとしたことで落ち込んだり、不快になったり、苦しんだりしてしまいます。



嫌なことがあっても、「しょうがないな~」 「まあいいか・・・・・」

と受け流し、静かで安らかな状態の自分を思い出し、そのイメージに身を委ねます。

そのイメージをくり返すうちに、心が平穏であることを当り前に思えるようになり、どんな出来事でもドーンと受け入れられる包容力がもてるようになります。

むやみに傷つかず、自分を守り、さらに成長させるためには、鈍感さも必要なのです。


静かな、動じない心は、本当に強い心です。

強い心を持っている人は、どんなときでもまず、人への思いをはせることができます。



湖面が波立っていては、空に浮かぶ月を映し出すことができないように、心が波立っていては、相手を映し出すことはできません。

湖面がシーンと静まり返って初めて、正しくクッキリとした月を映し出すことができるのです。

落ち着いた動じない心でいつも過ごすことができれば、人にも優しくなれますし、自分をいたわる心くばりにもなるのです。




「世界に誇れる日本人の心くばりの習慣34」 三枝理枝子 中経出版



   

鈍感力を磨こう 1

  

  
世間一般では、「空気が読めない人」 「鈍感な人」 に対しての評価は高くありません。

人の気持ちを一瞬で察して

相手の人が「○○して欲しい」という前にしてあげる。

それがさも素晴らしいことのように言われているが

私から言わせれば

「自分で出来ることは自分でやれ!」「相手にそこまで要求するな!」

と思うのです(笑)。

サービス過剰というのでしょうか?

人は神経が過敏な人と鈍感な人とどちらの人と一緒にいたら落ち着くのかというと後者の少し鈍感で大らかな人だと思うのです。

人は自分の心の中を読まれるのを厭います。

心の中はいつも愛で溢れていて、いつ見られても美しいとは限らないからです。

時には相手の行動にイライラしてなんとか言葉に発しないで我慢をしているときがある。

それをそのまま相手にキャッチされたら・・・・。

「今、私のこと○○だと思ったでしょ?」

「あんたが想っていることは私にはとんとお見通しなんだからね」・・・。

これが自分の奥さんだったら悲鳴をあげます げっそり

「ヒェ~」

さあ、あなたは敏感な人、鈍感な人どちらをパートナーに選びますか?



なにもどんなことにも鈍感な方がいいと言っているのではありません。

何人かが集まってそのうちに2人が、議論を戦わせてその場の雰囲気がギスギスしているとします。

なのにその人は

「何があったのみんな難しそうな顔をして」とキョトンとしている。

それをみてその場のみんながプッと吹き出した。

これがいい鈍感力です。

でもそれだけではなく、気分が悪くなって青ざめている人がいると、その人はちゃんとキャッチして

「大丈夫、気持ち悪いの?」と気づいてあげれる人

そんな人が素敵な鈍感力を持った人だと思うのです。

次の日記で「鈍感力の魅力」について書いた本から抜粋します。

よかったらお付き合いください。



  

2012年9月 5日 (水)

警官の涙 3

  
  
  
警官の涙は、2でいちおう完結のつもりだった(日記上は)のですが、みなさん興味深く読んでくださったので、もう少し続きを書いてみたいと思います。

もし、自分の愛する家族が誰かの手によって殺害されたなら・・・・。そんなことは考えたくもないのですが、当然、加害者が憎い、厳罰にして欲しいとそのときは思うと思うのです。

しかし時間が経つにつれ、事件のことも犯人のことも忘れて(赦して)しまいたいという感情もきっと芽生えてくるのだと想像するのです。

心の中を憎しみという感情で一杯にすることが辛くなるからです。

光(愛、赦し)を求めるからです。

どうしたら人間は、憎しみを赦しに変えることができるのか?

出来ないのか?

その辺の人間の心理状態を、本文からもう少し探ってみましょう。






「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんして下さい、坊ちゃん。そんな事をしたのは怨みがあってしたのではありません。逃げたさの余り恐ろしくて気が狂ったのです。大変悪うございました。何とも申し訳もない悪い事を致しました。しかし私の罪のために私は死にます。死にたいです。喜んで死にます。だから坊ちゃん、憐れんで下さい、堪忍して下さい」

子供は無言のまま泣き続け、警部は犯人を引き起こし、二人が歩きはじめると群衆は左右へ分かれて道をあけた。

すると突然に 「全体の群衆」がいっせいにすすり泣きをはじめた。

と同時にハーンは、犯人をつれて歩く警部の顔に涙を認めて大きな驚きをもった。  ・・・・・・・・・・・・・・前日記までの続き


「私は前に一度も見た事のない物、めったに人の見ない物、恐らく再び見る事のない物、即ち日本の警官の涙を見た」

群衆が引き上げていくなか、ハーンは

「この光景の不思議な教訓を黙想しながら」一人その場に立ち続けていた。

ハーンは、この場には「罪悪の最も簡単なる結果を悲痛に示す事によって罪悪を知らしめた容赦をしないが同情のある正義」があった。

犯人には 「死の前に只容赦を希(ねが)う絶望の悔恨があった。

・・・・・中略・・・・

大いなる罪を犯した者がまちがいを悟り後悔しているんだなと、反省してみずからの行為を恥ずかしく思っているんだなと心から理解できたとき、人道にもとる凶悪犯人への怒りが消えて、その代わりに罪に対する悲しく哀れな気持ちでいっぱいになる ━ ハーンが目撃したのは、まさしくそうした日本人の心情倫理が息づくさまであった。


日本人がしばしば口にする 「罪を憎んで人を憎まず」 の言葉が、単によき理念を表す格言としてあったのではなく、日常の実際的な状況のなかに生きる倫理観としてあったことが、ハーンが語ったこの明治期の一エピソードからひしひしと伝わってくる。


このような日本人の心情倫理は今なお健在だろうか。

昨今のテレビ報道でしばしば耳に入るのは、

「どうか犯人を死刑にしてください」

「生涯、けっして許すことはできません」

といった犯罪被害者遺族たちの声である。

もし私が親兄弟姉妹を殺害されたとすれば、同じような言葉を吐くかもしれないと思う。

それは、現在の社会ではハーンが目撃したような場面を体験することが、

「けっしてない」とすらいえる現実と深くかかわっているのではないだろうか。

今では、犯罪者(の思い)と被害者遺族(の思い)が接点をもつことは許されない。

犯人に心からの「反省と悔恨」があると人づてに聞いても、身体で感じ取れる直接性を得ることはできない。

言葉だけ・・・・との思いから、いっそう受け入れられない気持ちが強くなるばかりだ。 とすれば、遺族たちはどのようにすれば、罪人への憤怒の情から罪への悲哀の情へと移り変わることができるのであろうか。

また罪人はどのようにすれば、自らの「容赦を希う絶望の悔恨」を被害者遺族に伝えられるのだろうか。


ハーンが目撃した明治期の警部の 「はからい」 のような実際的な契機はなくとも、「罪を憎んで人を憎まず」 の気持ちは今なお日本群衆のものであり、当事者もまた、やがては日本群衆の気持ちに同化していく ━ 私にはそう信じられる。


犯人が死刑になろうが恨み続けようが、亡くなった者は帰ってこないけれども、人は死ぬと神となり仏となり、この世の一切の善悪を超えた存在となる。

こうした鎮魂への思いが強ければそれだけ 「罪を憎んで人を憎まず」 の平穏なる気持ちへ至ろうとするのではないだろうか。

死者の供養に一切を許していこうとする日本人は今も健在だと私は思う。





 なぜ世界の人々は「日本の心」の惹かれるのか 呉 善花 PHP


  

2012年9月 3日 (月)

警官の涙 2

  

  
明治26年(1893)6月7日正午、四年前に熊本で警察官を殺害して逃亡した強盗犯が、福岡で捕えられて熊本へ護送されてきた。

殺された警察官は、地元の人々からの人望がとても厚い人物だったという。

そのためだろう、熊本駅前には多数の群衆が押し寄せ、一帯はきわめて穏やかではない雰囲気に満ちていた。

その群衆の中に、当時、第五高等学校(現・熊本大学)で教鞭をとっていたラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の姿があった。

ハーンはいったい何が起きるのだろうかと不安な気持ちを抱いていたようだった。

列車が到着すると間もなく、一人の警部に背中を押されるようにして、後ろ手に縛られ首をうなだれた犯人が改札口から出てきた。

警部が犯人を改札口の前に立ち止まらせると、群衆はいっせいに前の方へ押し出てきたが、しかし静かに見守るような様子であった。

そのとき警部が大声で呼んだ ━ と、ハーンはそこで見た光景を次のように書いている。

「『杉原さん、杉原おきび、来ていますか』

背中に子供を負うて私のそばに立っていたほっそりとした小さい女が 『はい』と答えて人込みの中をおしわけて進んだ。これが殺された人の寡婦(未亡人)であった、負うていた子供はその人の息子であった。

役人の手の合図で群衆は引き下がって囚人とその護衛と周囲に場所をあけた。

その場所に子供をつれた女が殺人犯人と面して立った。

その静かさは死の静かさであった」

警部はその子に向かって、低いがはっきりした声で話しかけた。

「坊ちゃん、これが四年前にお父さんを殺した男です。あなたは未だ生まれていなかった。あなたはお母さんのおなかにいました。今あなたを可愛がってくれるお父さんがないのはこの人の仕業です。御覧なさい、(ここで役人は罪人の顎に手をやって厳かに彼の眼を上げさせた)よく御覧なさい、坊ちゃん、恐ろしがるには及ばない、厭でしょうがあなたのつとめです。よく御覧なさい」

ハーンが見ていると、その男の子は母親の肩越しに犯人の顔を恐れるように見やった。

それからすすり泣き、涙を流しながら、恐れを追い払うようにしてしっかりと、眼をそらすまいと力を込めているかのように犯人の顔を見つめ続けた。

そのとき「群衆の息は止まったようであった」とハーンは記す。

犯人はみるみる顔をゆがませると、突然身体の力が抜けたかのように倒れこみ、地面に顔を打ちつけ、声を震わせて叫ぶように言葉を放った。

「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんして下さい、坊ちゃん。そんな事をしたのは怨みがあってしたのではありません。逃げたさの余り恐ろしくて気が狂ったのです。大変悪うございました。何とも申し訳もない悪い事を致しました。しかし私の罪のために私は死にます。死にたいです。喜んで死にます。だから坊ちゃん、憐れんで下さい、堪忍して下さい」

子供は無言のまま泣き続け、警部は犯人を引き起こし、二人が歩きはじめると群衆は左右へ分かれて道をあけた。

すると突然に 「全体の群衆」がいっせいにすすり泣きをはじめた。

と同時にハーンは、犯人をつれて歩く警部の顔に涙を認めて大きな驚きをもった。



 

  なぜ世界の人々は「日本人の心」に惹かれるのか 呉 善花 PHP



 


   
感想

ここまで読んでいるとまるでそのときの状況が目に浮かぶようです。

このような場面は私はもちろん経験したことはないのですが、罪人の中には心から家族の人にわびたいという気持ちを持っている人も多いのではないかと思います。

以前、私は警察の人から「根っからの悪者はいないんですよ」と聞いたことがあります。

それは本当だと思うのです。

何かのきっかけがあってその人の人生が狂ってしまった。

もちろん狂う前に矯正しなければならないのはもちろんですが、生身の人間とはそんなに強くないことは、この群集は「百も承知」 だったと思うのです。

もし自分が犯人と同じ境遇で育っていたら自分もそうしていたかもしれない。

もう少し気持ちが強かったら、逞しかったら、そうはなっていなかっただろう。

群衆の人たちはいろんなことを考えていたのだと思うのです。

その群衆の想念(おもい)がその場では交錯していたんでしょうね。

でもほとんどが両者に対して同情的(愛深い)だったと思うのです。

いかにも日本らしい場面だったと思います。



  

警官の涙 1

  
    
私は、今、なぜ世界の人々は「日本の心」に惹かれるのか 呉 善花 PHPを読んでいるのですが、改めて日本人の心の美しさと素晴らしさを再確認しております。

著者である呉 善花(お・そんふぁ)さんは1956年生まれの韓国人女性です。83年に来日してから日本人に魅せられて外国人がどうして日本に惹かれるのかを研究している人です。

それが本になったわけですが、私も知らなかった日本人と外国人の心温まる交流、触れ合いがたくさん書かれています。

これからご紹介する文章は、小泉八雲(本名ラフカディオ・ハーン)が観た光景が書かれたものなのですが、昔の人(こういう言い方はおかしいですが)は、物事の本質がわかっていたように思うのです。なにが大切で、どうすれば自分が美しく生きられるかを知っていた。そのためには、誰がなんと言おうと常識をくつがえすこともした。

そして周りもそれを受け入れる度量があったことが推測されます。

もっと詳しく言えば、罪人を目覚めさせるためには、職責をかけてもやり遂げたというのでしょうか?

人一人の魂を浄化させるというのは大変なことです。

罪を犯した人が、罪の意識もないまま、死刑になっていったとしたら、それは本人にとっても被害者、被害者家族にとっても不幸な事だと思うのです。

罪人が、心の底から罪を詫びたとき、被害者の家族の人は本心から許すことは出来なくても、どこかしら心の整理ができるのではないでしょうか?

不幸な出来事があった、そのことをずっとひきずって生きてゆくことは、罪を背負って生きてゆく罪人と同じく重たい心境なのです。

話に出てくる警官は、罪人の魂の浄化と被害者家族の心の整理をさせるために今の日本の常識では考えられない行動に出たわけですが、周りに居てこの状況を目の当たりにした人は

嵐の後に、スッキリしたエネルギーを感じたと思うのです。

みんなが感動の涙を流した。

しかしその涙は、犯人に対する怒りや憎しみや被害者家族を憐れむというような汚れた涙ではなく

“罪を憎んで人を憎まず”という

人間愛のきれいな涙なのです。

キリストの愛の言葉を彷彿とさせるのです。

前置きが長くなりました(笑)。

それでは、「警官の涙」 お付き合いください。わーい(嬉しい顔)



   

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