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2012年6月29日 (金)

もっと自立した生き方を(前日記からのつづき)

 
  

ですから、私は自殺した人たち、いじめられた人たち、苦しい立場に置かれて悶々としている人たち、自分の怒りの持って行き場のない人たちに

“甘ったれるな” と本当は言いたいのです。

“何を甘ったれているのだ” と。

自分の悩みを打ち明けられる人がいない。

自分のことをわかってくれる人がいない。

自分は孤独で寂しい。

だから自分の命を絶つなどとは、本当に甘ったれています。

もっと自分自身を深く見つめ、自分自身とはどういうものか、もっともっと勉強し、もっともっと本を読み、宗教家や哲学者や先駆者の話を聞き、議論すべきなのです。

自分自身を知ろうともせず、自分の寂しさ、自分の苦しみから逃れるために、尊い命を絶つということはナンセンスです。

日本人特有の精神の在り方です。

日本人というのは、集団で生活し、グループで行動します。

ですから一人では何の意見も言えない。良いことも悪いことも一人では出来ない。

・・・・・・・中略・・・・・・・・・・・・


これから世界はどんどん開かれていきます。

いろいろな人たちとの交流が頻繁に行なわれるようになります。

そういう時に日本人の立場として、もっともっと自立しなければいけないし、もっともっと大きな人間として生きていかなければいけないと思うのです。

私は21世紀を担う若者に対して大きな期待を抱いております。

私は熱き心をもって若者に本当の真理を教えていきたいのです。

日本の子供たちの間から自殺という行為を無くしてゆきたい、というのが私の信念であります。

そのためには、まず指導者である教師や両親や先輩たちが自分自身の生き方を改めて問うてみなければいけません。

私たち経験豊富な大人でさえ、誰かに愚痴を言ったり、他人の命令に従って生きているのではないでしょうか。

強い人間になる、真実の人間になる、本当に力のある神の子として生きるためには、真理を知ること以外に何もないと思うのであります。




   

         「教育の原点」 西園寺昌美 白光出版



  

自分の問題は自分で解決すべきもの 3

  
     
欧米人は、自分自身であるべき個性、個人の自分というものを大切にしているのです。

さらけ出さないのです。

私たちは夫婦関係においても、すべて打ち明けていくのが本当の夫婦だと錯覚しております。

しかし夫婦だとしても自分自身の本質というものは決して相手に分かるわけがない。


ましてや自分自身でも分からない部分、自分でも自分のことがはっきりわからない部分があります。

そういう部分を、たとえ夫や妻や一番親しい人に打ち明けても本当に理解してもらえるわけがないのです。

すべてを信頼し、すべてを任せ切れる夫でさえ、自分の本質というものを分かってもらえるはずがないのです。

それを分かってもらえるだろう、分かってもらって当然だという考えから夫婦の不調和やトラブルや離婚問題が起こるのです。


要するに、一番根本の生き方は、自分で自分の問題を解決する、自分で自分の運命を決定する、ということです。

しかしそれが自分で出来ないので、自殺へ走ってしまうのです。

大人でさえ、酒にまかせて愚痴を言ったり、同僚にはけ口を求めたりして、心の悩みをどんどん吐き捨てることによって、心の負担を出来るだけ軽減させるようにもっていきます。

しかしそれは本当の解決策になっていないのです。

それは一種の逃げであって、自分で自分の問題に対して決断を下す強い心にならなければ、本当の解決を得ることは出来ないのです。

まして青少年はなおさらです。

 人生というもの、生きるとは何かを学んでゆく青少年たちを指導する教師や両親は、もっともっと自分を知らなければならないのです。

その子供たちに信頼されるべき人たちが、自分自身がいかなるものか分かっていない。

人間とはどういうものか、その根本が分からず、子供たちの相談に乗るから、子供たちは生きる自信を失い、本当にくだらないことで尊い命を失っていくのです。

受験の失敗、恋愛の失敗、いじめ・・・・など、自殺の原因はつまらないことです。

これは自分の命の尊さが分かっていないからです。

自分の命というものは宇宙全体を動かしている大生命の一部分であることが分かっていない。

自分がいなくなっても宇宙の運行は行なわれていると思っていますが、とんでもないことです。

自分というものは宇宙を動かし、大調和に向って進化せしめている存在の一部分であるのです。

それを子供たちに教えるために、両親や教師がもっともっと自分自身を知らなければいけないのです。

問題の解決というものは、自分自身の力によって為すべきもので、決して他人に頼るものでもなく、他人から教わるべきものでもなく、他人から命令されるものでもないのです。

もちろん分からない部分はトコトン突き詰めて質問し、議論してもよいのです。

あるいは、あらゆる宗教家、哲学者、心理学者、両親、先輩たちに聞いてもいいのです。

しかしその問題を理解し、自分なりの解決策を見出してゆくのは、あくまでも自分自身なのです。




       

        「教育の原点」 西園寺昌美 白光出版 




  

自分の問題は自分で解決すべきもの 2

  

 
欧米人はあくまでも自立しています。

子供の時から自立するように育てられています。

これが日本の教育との根本的な違いであります。

日本人は自立が出来ないのです。

自分の責任を自分で負えない部分があります。

他人のアドバイス、他人の命令に従っていくほうが楽なのです。

自分で決定すると、自分で責任を取らなければならない。

親や教師や友人、あるいは哲学者や宗教家から

「こうすべきだ、こうしたらいい」 という一つに決定的なアドバイス、解決策を与えてもらい、それに従うことによって、自分の苦しみから逃れてゆく。

これは “自分の人生は自分で築いてゆく” という一番根本的な生き方から外れてしまっているのです。

アメリカ人たちは、

「日本人というのは考え方が甘い。 個人が本当に個人であるのは、他人に言えない部分があるからであって、それを明かすことは自分の存在を危険にさらすことになる」

とまで言っているのです。

最後の部分というのは誰にでも打ち明けることはしない。

自分が決めるべきことであるのです。

それを誰でも教育によって学んでいるのです。

自分で決断を下す時、どう下したらいいか分からない、どうやって結論に導いていったらいいか分からない。

だから両親の話を聞いたり、宗教家の話を聞いたり、哲学者の話を聞いたり、あるいは議論を戦わせたりする。

そして最後にそれらをまとめ上げ、自分なりの考え方によって解決していくのです。



  

  
         「教育の原点」 西園寺昌美  白光出版




  

自分の問題は自分で解決すべきもの 1

  

   
私は今、「教育の原点」 西園寺昌美著を読んでいるのですが

まったく同感し、忘れないうちに心に刻んでおきたいという素晴らしい文章がありましたので、こうして日記に書き写し、またみなさんと共有しようと思いました。

日本人は、素晴らしい、日本から世界を変えてゆく・・・という私の考えに変わりはないのですが

全肯定するわけではなく、日本人という性質は、人の考え、人の気持ちを重視し過ぎて自分というものがないがしろにされていると思うのです。

協調性があるといえば言葉はよいですが、それは一歩違えば、“甘え”“依存” になります。

そしてそれが自立出来ない人になってしまうのです。(無限なる可能性!)

私は、人間としての究極の目的、最終的な目的とは“自立”だと思うのです。

個人においても、国家においても、地球人類という大きな単位になっても

“自立”出来ていなければ

絶対に幸せではないのです。

宇宙に無数にある星は、絶妙の間隔を保って光輝いています。

決して寄り添って、依存しては存在していません。

人間も星とまったく同じだと思うのです。

人間が真に自立出来たとき

至福のときを迎え

それと同時にアセンション(次元上昇)は起きるのです。


  

2012年6月28日 (木)

人類即神也の宣言文

  
  
 
私が語ること、想うこと、表わすことは、すべて人類のことのみ。人類の幸せのみ。人類の平和のみ。人類が真理に目覚めることのみ。

故に、私個に関する一切の言葉、想念、行為に私心なし、自我なし、対立なし。

すべては宇宙そのもの、光そのもの、真理そのもの、神の存在そのものなり。

地球上に生じるいかなる天変地変、環境汚染、飢餓、病気・・・・これらすべて「人類即神也」を顕すためのプロセスなり。

地球上で繰り広げられる戦争、民族紛争、宗教対立・・・・これらも又すべて「人類即神也」 を顕すためのプロセスなり。

故に、いかなる地球上の出来事、状況、ニュース、情報に対しても、又、人類の様々なる生き方、想念、行為に対しても、且つ又、小智才覚により神域を汚してしまっている発明発見に対してさえも、これらすべて「人類即神也」を顕すためのプロセスとして、いかなる批判、非難、評価も下さず、それらに対して何ら一切関知せず。

私は只ひたすら人類に対して、神の無限なる愛と赦しと慈しみを与えつづけ、人類すべてが真理に目覚めるその時に至るまで、人類即神也の印を組みつづけるのである。




 


  
感想

この宣言文はもの凄いエネルギーが宿っています。

読んでいるだけで魂が浄化されます。

だから本来は解説などはいらないのです。

でも、このままだとあまりにも光が強過ぎるので(文章も理解出来ないと思われるところもあるので)、あえて補足をさせていただきます。

地球人類は、今、精神的な次元上昇(アセンション)をもうすぐ迎えようとしています。

地球が“幼い星” から“大人の星” に生まれ変わろうとしている、まさしく過渡期(プロセス)なのです。

過渡期には、いろんなことが起きます。


地震も震災も(個人的には病気や事業の失敗なども)

それらは大切なこと(真理)に気づくために起っていることです。

人間も精神的に本当の大人になるために

様々な経験をさせられているのです。(守護霊守護神によって)

それは、人間が神そのものであることに気づくためのプロセスです。

プロセスにはいろんなことが起ります。

それは人間の感情においてもです。

心はみんな一つにつながっているのに (アセンションではつながっていく)

人それぞれの役割があって、立ち位置、環境があって

それぞれの想念があり

その想念が、別々の自分独自の世界を創っているのです。

今、宇宙から波動の細かい光が降りて来て(従来より)

祈りによるエネルギーが強くなるにしたがって

人間の今までの業(カルマ、マイナスのエネルギー)があぶり出されようとしています。

悪いものが出て、消えてゆこうとしているのです。(これを消えてゆく姿という)

善いものが顕われるためには、悪いものが出てしまわなければなりません。

今がまさしく

その時なのです。

他人が血迷ったように支離滅裂なことを言う

理不尽なことを言う

感情を爆発させる・・・・・・・


自然現象などによる天変地変(地震や震災など)だけでなく

人間の中でも

化学反応(消えてゆく姿)が起っているのです。

大切なことは

この化学反応(消えてゆく姿)を見て

一喜一憂してはいけないのです。

振り回されて

同化してはいけなのです。

ただ傍観者になって

自分の私心を入れず

世界平和の祈りを祈り

人類が一日でも早く目覚めることを

願い

大難が小難になることを

願い

人類即神也の印をただ黙々と組みつづけるだけでいいのです。

今の状態だけを見ていると

他人を見ていると

腹も立ちます。

赦すことなど出来ません。

日本の状態も、地球世界もどうなるのかと不安です。

しかしそれは、本来の姿ではないのです。

今私たちは、不完全な姿を見ているのです。

プロセスを見て

未来を予測してはいけません。

今のその人を見て

その人を判断してはいけないのです。

人類即神也の宣言文は

もの凄い

究極の真理が書かれています。

私は、人を批判しそうになったとき

そして自分を責めそうになったとき

この宣言文を何度も読み返し

唱え返し

心に刻むようにしています。


そこには究極の真理が書かれています。

そこで、まず、頭(肉体)が納得するのです。

そして何度も真理を唱えることで

心が反応を始めます。

すると不思議なことに

怒りなどの感情がきれいに消えているのです。


みなさんもまず真理を頭で理解してください。

そしてこれから起る地球の未来(地上天国)をイメージしてください。

その後で今の状態(プロセスであること)をハッキリと把握してください。

そして安心してください(笑)。

どんなことがあっても

絶対に大丈夫(パーフェクト)なのだと・・・・・

それは人間は

神そのものだからです。


人類即神也

 


すべては完璧

欠けたるものなし

大成就





  

2012年6月27日 (水)

己を知る

  
  
戦いはまず敵を知ることから始めよ、とはよくいわれることである。

太平洋戦争においてわが国が負けたのも、米国の力をよく認識していなかった、相手をよく知らなかったからだといわれている。

それもたしかに一理であろう。 大事なことである。

しかし、敵を知る前に、本当は、もっと大事なことがあるのではなかろうか。

それはつまり、まず “己を知る” ということである。

己をかえりみるということである。

敵を知ることもむつかしいけれども、己を知るということは、もっとむつかしい。

しかし、敵を知らなければ、勝負は定まらないとしても、己を知らなかったら、戦いには必ず敗れる。

連戦連敗、その敗因はわが身にありである。

世事全般(せじぜんぱん)、これと全く同じことがいえると思う。

みずから不都合を生み出している場合が、案外に多いのである。

敗因われにありという悔いをおたがいに残さないために、己を知る心がけを、いかなる場合も失いたくないものである。





       「道をひらく」 松下幸之助 PHP出版






 
感想

“己を知れ” とはよく言われることだけれども

自分とはいったい何者なのか?

どうしようもない馬鹿者なのか?

神聖なる天使なのか?

赤ちゃんや幼いこども見ていると

「天使そのもの」 であることはわかるのだけど

大人になっていくにつれ

そうは見えなくなる(笑)

天使のような子を見て

「このまま大きくならなかったらいいのに」

とは、誰しも思うものです。

松下幸之助さんは

己を知り得たのか?

自分は何者なのかがわかったのか?

それはご本人ではないのでわかりませんが

ご自分のことを

「自分(人間)とはいったい何者なのか?」

と探究しつづけたのは確かです。

私はこの探究しつづけることが

なによりも大切なことだと思うのです。

自分が何者なのかがわからなくて

追求もしないで

ただ生きているだけなんて

非常におかしいと思うのです。

宇宙の進化した星の先輩たちは

地球人のことを

「幼い兄弟たち」(精神的に幼いという意味)

と呼んでいるそうです。

「自分が何者でどこへ行こうとしているのかわからないで、毎日をよく生きていられるなぁ」

と不思議がっているそうです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

でもそれも時期があるのですね。

私たち人間は

やっと探究を始めました。

そして幸之助さんのように

自分が何者であるかを

つかみかけています。

自分が何者であるか?

それがハッキリとわかったとき

すべての悩みは解決されるのです。

それが本当の

アセンション(次元上昇)のとき

なのです。



 
世界人類が平和でありますように

我即神也

人類即神也



  

2012年6月26日 (火)

心の声に耳を傾ける 2

  
  
  
世界最大の投資持株会社であるバークシャー・ハサウェイの筆頭株主であり、同社の会長兼CEO(最高経営責任者)を努めるウォーレン・バフェット氏がネブラスカ大学の学生たちにした話を最近読み、とても印象に残りました。


それは

「私は君たちと何ら変わりません。・・・・私は君たちより裕福かもしれませんが、お金はたいした問題ではありません。・・・・もし君たちと私に何らかの違いがあるとすれば、私は毎日朝から晩までこの世で一番好きなことをしている、ただそれだけのことでしょう」というものです。


私を含め多くの人たちは、“○○のために” という生き方を無意識のうちにしています。

お金のために働き、将来よい会社に入るためによい大学に入り、病気を治すために病院に行き、子どもにお弁当をつくるために早く起きる・・・・。

自分の一日を振り返り一つ一つの行動について考えてみると、その行動のほとんどが “○○のために” という想いに裏打ちされていることが分かります。

つまり、自分の未来のためのことを今しているのであります。

そのため多くの場合、その行為には苦しみや我慢が伴うのだと思います。

今したいことをしているのではなく、近い将来に必要と思われることのために行動しているからであります。

今、この瞬間を生きているのではなく、近い将来のために今の瞬間を使っているのであります。


それに対して、ウォーレン・バフェット氏は朝から晩まで自分の好きなことをしているのです。

“○○のために” するのではなく、自分が好きなことを好きなだけやりながら生きているのです。

彼のような生き方は理想的な生き方ですが、多くの人は自分一人で生きている訳ではないので、家族を養うため、会社をきちんと経営するためにやりたくないこともしなくてはいけないでしょう。

つまり、彼のように、自分の持ちうるすべての時間を好きなことをすることだけに費やして生きることはなかなか出来ないと思うのです。

しかし時には自分の心が求めることのみに耳を傾けてあげて、“○○のために” することを少し休憩し、自分が欲することをすることも大切だと思います。

何故ならその心の声こそが自分の天命に気が付くヒントとなるからです。

心の声を聞く機会つくることは、自分の内なる進化を起こすチャンスなのです。

私たちはお金を稼ぐために生まれてきたのではありません。

家族を養うために生まれてきた訳でもありません。

よい会社、よい大学に入るために生まれてきた訳でもありません。

私たちはより高い意識を持つ人間へと進化するために生まれてきたのであります。

自分の人生の中でさまざまな経験を積みながら、自分の内に存在する無限なる可能性、無限なる愛、無限なる光に気が付くために生まれてきたのであります。

にぎやかな子どもたちが寝入り、私は今とても静かな時間の流れる中に存在しています。

この空間の中で私は今から気持ちを落ち着かせ、自分たちの未来のためではなく、自分のために、自分がやりたいことをしようと思います。


 
         世界人類が平和でありますように



              西園寺真妃




  


心の声に耳を傾ける 1

  
  
「誰々の為に」

「家族の為に」

「○○の為に」

この、為にという言葉は、私は好きではありません。

幼い頃

勉強をしない、言うことを聞かない私に

母は言いました。

「お父さんやお母さんはね、あなたたち兄弟(兄が居ました)のために一生懸命に働いているのよ」

「だからあなたもちゃんと言うことを聞いて、勉強しなさい!」


幼心に反発していました。

言いなりになって

勉強が出来ることだけでしか

認めてくれないのか?

親はこどものためにではなく

自分のために生きているんだろう?

子どもをダシに使わないで欲しい!

「大人(親)は嘘をついている」

「大人(親)はズルイ!」

と思っていました。(かなりませていましたね)

人の為にが、偽りと書くように

そこには、押し付けがましい、強制されたような

重苦しさがあるのです。

「もっと自由に、自分の思う通りに生きていきたい!」

それは昔も今も変わっていない心境です。

今生を生きてゆく為には

もちろん制約はあります。

生活のために働かなければならないし、理不尽なことを言われても

生活を守るためには我慢をしなければならない

しかし、我慢はあくまでも

自分自身のためだけにするのであって

他に転嫁してはいけないのです。

そしてその我慢も

いつまでも我慢にしておくのではなく

もっと大らかなもの

自由なものへと

転化していかなければならないのです。

この転化が

進化だと思うのです。


物事を観る目が変わる

変わることによって

自分が創り出している世界が変わるのです。

自由自在心の人は

どれだけ制約の強いところであっても

楽しく、朗らかに

大らかに生きてゆくことが出来る人なのです。


みんなそうなりたいと思っているはずです(笑)。


そうなるためには


どうしたらいいか?


それは自分の本心に耳を傾けることです。

本当の自分と対話することです。

本当の自分とは神である自分です。

「神との対話」というベストセラーになった本がありました。

神との対話とは

まさしく

自分自身との対話なのです。


自分自身と対話すること

耳を傾けることが

どれだけ素晴らしいことか


次の日記で

西園寺 真妃さんの手記をご紹介します。

よかったらお付き合いください。


  

2012年6月25日 (月)

日々の指針

  
  
  
1.自分が自分をどう思うかによって、幸、不幸のすべてが決まる。


1.人類はみな究極の真理に出合った時、本来、不幸の原因など何もないことに気づく。


1.自分を不幸と思う人は必ずや自分が常に否定的想念に占領されている人たちである。


1.自らの内に神の存在を感じられるようになると、不安や不幸は消え去る。


1.自らに内在せる神の光は常に自らの行く手を照らし、歩むべき道を示し、自らを輝かしい未来へと運んでくれている。


1.無知なる者は自らが自らを敵にする。


1.何も出来ないと老いをいじけてはならない。

  老いてしか出来ないことを楽しもう。





      

                           西園寺昌美   白光誌7月号より



   

2012年6月22日 (金)

悔い改めは永々と時間をかけてするのではない




いつ迄も悔いてばかりいては、悪を把えていることになるのですから、その人の神性が表面に表われることが出来ないのです。

悔いも改めも同時に瞬間的にするのであって、永々と時間をかけてやるのではありません。

自分が悪い悪いといつまでも思っていることは、けっして神様のお喜びになることではありません。

神の世界には悪はないのですから、自分の悪でも、人の悪でも、悪い悪いといつまでも掴んでいるようでは、その人は神の世界から遠ざかったいることになるのです。

悪を掴むのは自己なり人なりその悪を消し去るために、一度掴むだけなのです。

それが自己の場合には悔い改めとなり、他人の場合には赦しということになるのです。




  
        「日々の祈り」 五井昌久 白光出版






感想

自慢話が嫌がられるのは、その人が過去の栄光に捉われている、掴んでしまっているということです。

捉われる、掴むとは、例えば太陽が流れる雲をつかんで、その光が地上に届かないような状態なのです。

光輝いている本心を分厚い雲が覆ってしまっている。

その場は重苦しい空気が流れます。

聴いている方もエネルギーを受けて、固まってしまうのです。

嫌だというのは、その行為だけでなくエネルギーのことなんですね。

大切なのは、今であり、未来なのに・・・・・。

同窓会をしても、過去型の人、未来型(未来型にも悲観型もありますが、ここではプラス思考の人)の人に分かれます(笑)。

未来型の人は、未来の光をみているので輝いています。

そして、若く見える。わーい(嬉しい顔)

捉われていないとエネルギーが停滞せずにサラサラと流れているのです。

50代の人でも

エネルギーが流れていれば40代、いや30代にだって見える。

流れていないと60歳代にも見えます。

その差は大きいですよね。

人は見た目ではなく

その奥のエネルギーを観ているのです。

どんなことにも(善いことでも悪いことでも、成功したことでも、失敗したことでも)捉われないで


掴んでも、すぐに放つ

済んだことは忘れてしまう(笑)

そして、前だけを見て進化してゆく

それが自由自在に生きてゆく

最良のコツなのです。
わーい(嬉しい顔) 手(チョキ)



   

2012年6月21日 (木)

把われのある人とない人 2


  
あるお坊さんが、他の坊さんと旅をしていて、ある川にさしかかった時、その川を渡り悩んでいる女性のいるのに気づき、そのお坊さんが、私の背に乗りなさいといって、その女性を背負って川を渡ってしまい、渡りきるとその女性を背からおろして、さっさと歩きだした。

それを見ていた他の坊さんが、おまえは坊主のくせに何故女性を背負ったのだ、女性の体にふれるなどとは実にけしからん行為だ、と非常に怒って、その坊さんをなじった。

するとその坊さんは、平気な顔をして、

「わしはもう背中から女性をおろしてしまったが、おまえはまだあの女性を背負っておるのか」

といって大笑したという話があります。

心に把われのある人とない人との差をはっきり示した話です。





  「日々の祈り」 五井昌久 白光出版





感想


この頃の時代の仏教は、規律が非常に厳しく、女性と親しげに話しただけで即、破門だったそうです。

しかし、年頃の坊さんたちは、自然に湧いてくる欲望を抑えきれず、感情をもてあましていた。

そんなときにこのような事があった。

なじった坊さんは正々堂々と女性の体に触れ、川を渡りきった連れの坊さんが羨ましくてたまらなかったのだと思うです。

それが激しい嫉妬となり、寺に帰ったなら和尚さんに告げ口をし、破門にしてもらおうとさえ思ったのかもしれません。

現象面で言えば、背負った坊さんは規律を破った人です。

しかし問題は、目に見える現象ではなく、心の問題なのです。

把われているか、いないか?

何の把われのない人は

自由自在心

自由人なのです。

本来の人間の

素直な (自然な)

姿なのです。



   


 
  

把われのある人とない人 1

  
  
実は、私は昨日仕事で失敗をしてしまい、そのことで頭の中がいろんな想念でグルグルと回り、なにをするのでも うわの空 になってしまったのです。

想いがそのこと(失敗したこと)から放れないのです。

あのときにもっと慎重にしておけばよかった。

自分は悪くない、相手のミスだ。

失敗したことで周りは自分をどう思うだろう?

何をするのでも心がそこから放れないのです。

結果

忘れ物をする、鍵をつけたまま家を出ようとする、明日のことや先のことに対して消極的になってしまう(自信を無くしている)

簡単な確認作業もできない

だから

つまらないミスを重ねる

うっかりミスをする

「ああ、今日はダメだ、このままの状態だともっと大きな失敗をするかもしれない」

そう思った私は、今日の計画を取り止めて、家に帰ることにしました。

失敗したという過去は、変えれない

だから反省をしたらあやまちを認め、謝り

もうそのことは忘れ

スパッと気持ちの切り替えをしなければいけない!

と強く思うのですが

思えば思うほど

把われてしまうのです。

そして気持ちのイライラは人にも伝染します。(周りの人もイライラし始めました)

「ああ、まだまだ修行が足りないなぁ」 

と思ったのでした(笑)。

そして改めて把われることを克服する大切さを痛感したのです。

もっとあっさりサッパリした人間になりたい!

私にとっての

魅力的な人とは

あっさり、サッパリ、素早い切り換えの出来る人をいうのです。

どんなことがあっても把われずに

きれいな川を流れる水のように

サラサラと生きることができたら

どんなに楽しく、幸せでしょう♪



五井先生のご著書である

「日々の祈り」を読んでいたら

把われのある人とない人 という文章を見つけました。

今の私の心境にピッタリだったので

恥をさらけ出し(笑)

抜粋することにしました。

「人に善く見られたい、思われたい」

というのも把われですよね。


“つまらないプライド” も捨ててしまいたいです。げっそり



   

2012年6月20日 (水)

真の霊能の条件

  
  
  
愛が深いということは、魂の清さ高さを端的に現わしているからです。

自己を深めたい、人を救いたい、人のために働きたい、人の世のために全力を挙げたい等々、常に自己の力を他に捧げたい、という愛の心が根本になって、開発された霊能であることが第一です。

だがいかに深い愛を持っていても、霊視、霊眼、霊言を審判もせず、ただやたらに信ずるようではいけないのです。

霊能があったからといってすぐ有頂天になったり、すぐに人に告げてみたりする軽率さでは、守護神はその人に及第点を下さらないのです。

もしその人に深い洞察力がなければ、出てくる霊能を否定し尽すことです。

否定して否定して否定し尽しても、どうしても消えぬ霊視であり、霊言だったら、それは真実のものと判断すべきです。





       「日々の祈り」 五井昌久 白光出版






 
感想

霊視とか霊眼、霊言とかは、宗教関係の人や霊能を得たいという人以外は関係ないことだと思われるかもしれませんが

そうではないのです。

私たちは日常生活を送っていて、いろんな人に接し、いろんなエネルギーを受けています。

人間の想念というのはつながっていて、私には私の考えがある、あなたとは違うと思っていますが、なんらかの影響を与え合っているのです。

人間は肉体だけでなく魂といわれるエネルギー体をまとっています。

オーラなどの写真を撮るとわかるのですが(あやしいオーラ写真は撮らないでください)、身体の周りを色のついたエネルギー体が写っているのがわかります。

大きい人で、ビル一棟分があるのですが、機械に写っているのはその一部です。

人は肉体だけでなく幽体というエネルギー体でもあることがわかるのです。(霊体、神体はとてつもなく大きい)

人間が接するとは、このエネルギー体が重なり合っていることをいうのです。

だからマイナス想念の人が近くにいると自分まで憂鬱になるのです。

エネルギーも受けるし想念も受ける。

想うという字が相手の心と書くのも

自分が想っているつもりでも、いつの間にか相手の思いをもらって、自分の考えだと思ってしまっていることを示しているのです。

私たちはそんな玉石混交(ぎょくせきこんこう)の中で、たくさんの人の想念がごちゃまぜになっている中で生活し、思考し、行動しているのです。

魔が差す、考えられないことをしてしまう・・・などは

いろんな想念に振り回されてしまった結果なのです。

その人たちを笑う、馬鹿にすることは出来ません。

私たちもいつそのような波に波長が合ってしまうかもしれないからです。

罪を憎んで人を憎まずとは、そういうことなのです。

私たちはそのような業(マイナス想念、カルマ)に波長を合わさずに

神界(本当の自分の居る場所)と波長を合わせ続け

生きてゆくことがなによりも大切なことなのです。

お釈迦様は常に本心に自分の心を合わせるために

座禅観法を薦めたのです。

本心に自分の意識を合わせていれば

他の波にさらわれ

狂うことはありません。

これが神我一体

人間の悟った状態なのです。(まともな、正常な)

話がとても長くなってしまいました。

私のお伝えしたいことは次回につなげていきます。




  

誤った霊能 2

  

  
  
真の霊能と魔境的、迷いの心の幻覚、幻聴とは違います。

魔境とは、まず最初に自己の力を誇示したいとか、自己の都合のよいようにその力を使いたいいう想念でなった霊眼、霊聴、霊言のすべてをいいます。

そうした想念が魔境的想念なのでありますから、そうした想念、統一でなった霊能は、全部一度打ち消してもとの普通人に還らなければいけません。

それは例えば霊眼に仏菩薩の姿がみえ、霊聴に神と称しキリストと名のってきこえてきても、これはダメなのです。

何故かというと、自己利益的欲望では、絶対に神仏の真の力をいただく境地にはなれないからです。

魂の開発向上には少しも役立たぬばかか、ついに自己の身を滅ぼし、他人の魂を傷つけ、ゆがめてしまうようになるのです。




 

         「日々の祈り」 五井昌久 白光出版



感想


邪宗教の人、あるいはあやしい人?からなんらかの話を聴いたとき、ほとんどの人は、

直観で

「おかしい!」 とわかるものです。

自分の波動(エネルギー)がよほど、常軌を逸していなければ、共鳴することはないのです。

そういう意味では、そんなに心配をすることはないのですが、本文にあるように自己の力を誇示したい、注目されて崇拝されたいという気持ちは人間ならば誰しも持っているものなのです。(多かれ少なかれ)

それを自制心や良心に照らし合わせて

「いけない、いけない」 と我に帰るのですが、

この

「いけない、いけない」 が弱いと邪な邪宗教にのめり込んでしまう可能性があるのです。

欲がその人を狂わすのですね。

この状況を観て、私たちを守ってくれている守護霊守護神は、もちろん、インスピレーションを与えて、自分のかわいい子孫を危機から避けさせようとされるのですが

騙される?偽物をつかませるのも、

「いい経験になる」 と一旦はつかませるように持っていったりするので

神の愛は人間の浅はかな知恵では推し量ることはできないなぁと思うのです。

私の周りにも

「それはちょっとあやしいのではないかい?」

とか

「やめといた方がいいと思うよ」

という状況にある人はいるのですが

手を引っ張って

「目を覚ませ!」

というわけにはいかず (かなり危ない場合は言いますが)

静観しているのです。(もちろん、ただ観ているだけではなく、その人の天命がまっとうされることを祈りつつですが)

でも、そのような道にいかないにこしたことはありません。

そのコツとは

魔境的(幽界)な世界に興味を持たないこと

神秘力を得たいと思わないようにすること

3次元をおろそかにしないこと(現実から逃げないこと)

・・・・・・・・・・・・などがありますが

本文にありますように

聴こえてくる幻聴を一切否定し、相手にしないことです。(本物にみえても)

神様はそのような形で、私たちにメッセージを送ってくることはないからです。

ハッキリと示すことはないからです。

幽界の魔境の生きもの(不良霊)たちが面白半分でちょっかいを出してくるのです。

それにひっかからないようにするには

そのようなものに波長を合わせない

“凛とした”人として正しい 生き方をしていることが

なによりも大切なことだと思うのです。


  


 


  

2012年6月19日 (火)

誤った霊能 1

  

  
オウムの事件がクローズアップされると「宗教って怖い」「マインドコントロールされる」というイメージが人々に植え付けられます。

キリスト教や仏教も、キリスト様やお釈迦様の教えが弟子たちによって改ざんされ、宗派も分れて本来のものではなくなっているものがあり

間違った教えも横行している。

信者の人たちも何を信じていいのかわからなくなっている。

人々の宗教離れが進むのもやむおえないことだと思うのです。

しかし、人間はなにかにすがりたい、助けて欲しいという魂の叫びがある。

そして、そこにつけ入ってくる輩(ヤカラ)がいるのです。

私は、宗祖となる人が愛に溢れ、純粋に人を救いたいという純朴な心から生まれた正しい人?であればいいと思うのですが

目立ちたい!

人から立てられたい!

お金が欲しい!

権力を持ちたい!

人を思い通りに動かしたい!

などと

愛からかけ離れた人が間違った神秘力(念力)を使って、人を動かしている姿をみるのです。

周りの人間が未熟な場合は、このような誤った霊能者に騙されることがあるのです。

ここで私は本当の世界(神界)につながる前に、幽界という迷いの世界を通らねばならないことをお伝えしたいのです。

肉体界→幽界(迷いの世界)→霊界(波動の細かい世界)→神界(天国、本心のある本当世界)

間違った宗教、思想は、本当の世界(神界)まで意識が至った人ではなく、不良霊の居る幽界に意識を合わせてしまった人たちが、幽界のヤカラにもて遊ばれている状態なのです。

今は特に気をつけなければなりません。

本ものを装った、偽物がたくさん現われているからです。

本ものと偽物を見分けるコツ?は何か?

それは、その人が愛、一元であるか?どうかだけなのです。

愛に溢れた人のエネルギーは観る人がみればわかります。

「この人は立派なことを言っているが本心からではない」

と直観でわかるのです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

そのためには、自分を磨いておかないと審神(さにわ)をすることはできません。

結局は自分次第ということになりますが

自分が確立される前に騙される?惑わされる?こともあり

なかなか難しいものなのかもしれません。

私は自分させしっかりしていれば(自立していれば)

宗教はいらない

と思っているのですが

それも私の片寄った考えなのかもしれません。


そこで誤った霊能とはというタイトルでみなさんにお伝えすることも必要だと思うのです。

興味のある人はお付き合いください。



  

ピンとくる

 
  
  
人間の身体の仕組みは、実に複雑にそして実に巧みにできている。

神のみがなし得ることかもしれないが、人口衛星の構造がいくら複雑だと言ってみても、所詮、人体の神秘さにはかなわない。

見方によっては、宇宙の広大さ、神秘さが、そのまま人間の身体に再現されていると言ってもよいであろう。

それほどに複雑で、それほどに大きい。

にもかかわらず、足の先を針の先でちょっとつついても、頭にすぐにピンとくる。


すみずみにまで神経がこまかくゆきとどいて、どんなところおどんな小さな変化でも、間髪を入れず頭に知らせる。

だから機敏にして適切な行動もとれるわけである。

人と人とが相寄ってつくった組織。 商店、会社、いろいろの団体。

一番大きいのが国家の組織。

それらの末端をちょっとつついても、すぐにピンとくるかどうか。

間髪を入れずの反応が示せるかどうか。

合理化といい生産性の向上といっても、本当はこの間髪を入れずの反応が示せる体制から生まれてくるのである。

本当の意義はこのピンにある。

 おたがいに、もう一度思いをめぐらしたい。

会社も商店も、そして一番大事な国家についても。






     「道をひらく」 松下幸之助 PHP出版

 


 


感想

真剣に生きている人は、物事を突き詰めて、深く入ってゆくので本質がわかるようになるのです。

それが

見方によっては、宇宙の広大さ、神秘さが、そのまま人間の身体に再現されていると言ってもよいであろう。

に現われていますよね。

人間という存在の神秘さ、そしてとてつもなく大きな無限の可能性を見つけたとき、人間は宇宙そのもの、神そのものであることがわかるのです。

幸之助さんの思想は、宇宙観になって人間を見つめていたんですね。

そして自分が創った会社に全身全霊で情熱を注いだ。

だからほんのちょっとした変化にも気づくことができた。

幸之助さんは、天から地球を観て

「人間よ、もっと感性を磨け、そして自分が創った会社、商店、そして国家を大切にしてくれ」

と叫んでおられるのが、私には聴こえて来るようなのです。

私たちは今こそ、五感を超えた直観力(本当の、本来の力)を身に付けるときが来ているのではないでしょうか?




   

   

2012年6月18日 (月)

含蓄のある名言を載せてみました。

  
  
  
私たちは、この世で大きいことはできません。小さなことを大きな愛をもって行うだけです。平和は、笑顔からはじまります。あなたに出会った人がみな、最高の気分になれるように、親切と慈しみを込めて人に接しなさい。あなたの愛が表情や眼差し、微笑み、言葉にあらわれるようにするのです。私は、どんな人にあっても、まずその人の中にある、美しいものを見るようにしています。この人のなかで、いちばん素晴らしいものはなんだろう?そこから始めようとしています。そうすると、かならず美しいところが見つかって、私はその人を、愛することができるようになって、それが愛のはじまりとなります。(マザー・テレサ)
 




世の中で一番楽しく立派なことは、一生涯を貫く仕事をもつことです。世の中で一番みじめなことは、人間として教養のないことです。世の中で一番さびしいことは、する仕事のないことです。世の中で一番みにくいことは、他人の生活をうらやむことです。世の中で一番尊いことは、人のために奉仕して、決して恩にきせないことです。世の中で一番美しいことは、すべての物に愛情をもつことです。世の中で一番悲しいことは、うそをつくことです。(福沢諭吉)





  
金が尊いのは、それを正しく得ることが難しいからである。さらに、正しく得たものを正しく使うことが難しいからである。(アンドリュー・カーネギー)



 

明日、死ぬと思って生きなさい。永遠に生きると思って学びなさい。幸せとは、あなたが考えることと、あなたが言うことと、あなたがすることの、調和が取れている状態である。 … 重要なのは行為そのものであって、結果ではない。行為が実を結ぶかどうかは、自分ではどうなるものではなく、生きているうちにわかるとも限らない。だが、正しいと信じることを行いなさい。結果がどう出るにせよ、何もしなければ、何の結果もないのだ。(マハトマ・ガンディー)



 
  
良い時も、悪い時も、同じ態度で接してくれた人だけ信じられるんだ。そういう人と、一生つきあっていきたい。(落合博満)




  



寛容と思いやり

  
  
おもいやりと寛容、この二つの心は人類にとって最も大切な心である━。

寛容というのは一口にいって、ひろくいれる寛大な心ですが、この心は愛の心の一つの現われなのです。

愛の心はおもいやりという風にも現われますし、寛容、赦しというようにも現われます。

思いやりの心は愛の心が細かい心づかいになって、相手の想いの波に同調しながら光を入れてゆく、ということですから、こちらから相手の心のなかに入ってゆくわけです。

寛容のほうは相手の心、想いをこちら側に受け入れて、自己の心のなかで消化させてしまうことであります。

 この二つの心があれば、たいがいの人は、その人には好意を持ち、その人の愛を受け入れるでしょう。


 


    「日々の祈り」 五井昌久 白光出版




 
感想

この文章を読んで、おもいやりと寛容の違いがハッキリとわかったような気がします。

というより、おもいやりとは、 寛容とはどういう心の状態か?

がわかったのです。


おもいやりとは相手の心に同調しながら光を入れて浄めてゆくことであり、寛容とは、相手の想念を受け入れて自分と同化させて一緒に消化させるということ。

消化と浄化とはどう違うか?

それは同じだと思うのです。

どちらも相手の想念をきれいにする

ただ相手と同調(波長を合わせる)してからか、自分の中に同化させてから清めるかの違いです。

ここの波動の奥深さがあります。

相手の人によっておもいやりが必要なのか、寛容さが必要なのか?

それはエネルギー(波動)がわからないと区別がつかないのだと思うのです。


   

正義と寛容との調和

  
  
正義心の強い人は、自己の正義心に照らして、どうしても不正や悪を憎む想いも強いようです。

だが、どういう立場にあろうとも、憎悪の想念をもつことは、自己の神性を汚すことなので、そうした想念があっては、神のみ心をこの地球界に現わすことを妨げる結果になってしまうのです。

正義心というのは、やはり神のみ心の現われで、この世をよいものにするためには、絶対に必要な心なのですが、正義心の他に真の愛の心の現われの一つである、寛容という美徳をかねそなえないと、この地球界に完全なる神のみ心を現わすことができません。

正義感というのは、とかく裁く心を伴いやすいのですが、寛容の心も、ともすると悪や不正を見逃しがちになります。




    

          「日々の祈り」 五井昌久 白光出版



 

感想


最近、『怒らない技術』 という本を読んだのですが、確かに怒らないためには、怒りとは何かを分析し、その状態に自分がならないようにするためのテクニック(技術)は必要だと思うのです。

でも最終的に大切なのは、大きな心、包容する心、つまり寛容の心だと思うのです。

「自分とあいつは違うんだ」 というところから対立は始まります。

それを寛容という大きな心で包み込んでしまえば

相手と一体となれば

そこには憎しみもなにも無くなると思うのです。

自他一体感とでもいうのでしょうか?

自分と相手が合うことを愛というのです。

そのような心境になれたとき

最高の至福感が訪れるのだと思うのです。


   

愛することを止めるな

  
  
妻や夫や恋人や子供たちが、いつでも素直に自分の愛を受け入れてくれるものではありません。

愛されていると知りながら、かえってその愛を裏切るような行為をしてしまうことがよくあるものです。

愛されれば愛されるほど、どこまで愛してくれるか試してみたいなどと思う、恋人や子供がよくあるものです。

愛しても愛しても、自分の心を素直に受けてくれない時などは、全く愛することの非哀を憎んでしまったりしたら、せっかくの神のみ心が現わせぬことになってしまいます。

愛することが哀しい時があっても、やはり愛しつづけることが大事なのです。

愛することそのことが神の光なのです。


  

      

            日々の祈り 五井昌久 白光出版





 
感想


愛は忍耐といいます。

忍耐の忍とは心の上に刃(やいば)を置く

それくらい厳しいものなのです。

巷で言われている愛は

とても愛と言えるようなものではなく

自己愛がほとんどです。

自分が相手を愛する代わりに相手にもより以上の愛を求める

自分の愛が通じなければ、すぐに憎しみに変わる

そんなものは愛でもなんでもないのです。

いつも申しておりますように

愛とは神のような無条件の

与えつづける

見返りを求めないのが本当の愛なのです。


神=愛

か~あ

み~い


なのです。



  

進め進め、進まざれば魂は死の道に止まる

  
  
 
やたらに自己限定して、自分はダメなものなり、と思って、自分で何事もやらないで、虚無的な投げやりの気持ちになっていることが一番いけないことなのです。

人間にはたゆみなき前進があるのみなのです。

人間は後退することを赦されておりません。後退すれば、それだけ、より以上前進せねばならぬようにできています。

少しづつでもよい、前進に前進を重ねてゆく時、その人はそれだけ立派になっているのですし、本心が輝いてくるのです。

怠惰な想いや、虚無の想いに把われて、人間の本性であり、たゆみなき前進の心を忘れてはなりません。

進め、進め、進まざれば魂は死の道に止まります。

心を広く、心を大きくして、自己の置かれた立場で全力を挙げて生きぬいてゆく人々こそ、神の子として称えられる人であります。





       
「日々の祈り」 五井昌久 白光出版


 

 
感想

休みの日に、ほとんど寝てしまって、事前に「○○をしよう!」「溜まっている△△をやってしまおう」と計画を立てていていたのが、計画倒れに終わってしまったときなど

「ああやっちゃった」

「もったいなことをしてしまった」

と自己嫌悪に陥るのです。げっそり

そんな中でも、ちょっとでも何か善いことをしたり、人の役に立つことをしたりしたら

心が安心するのです。

だから

人間は後退することを赦されておりません。後退すれば、それだけ、より以上前進せねばならぬようにできています。

の文章は身に沁みます。

厳しいけど、人間は宇宙と同じで常に進化し続けないと生命を維持することが出来ないのです。

生命は生きてはいても死んだも同然の状態になるのです。

怠惰であったり虚無の想いは何の前進も生みません。

そのつけは必ず回ってきて

次の日にはその分も余計に進化しないと追いつけなくなる。

こんなことを書くと

生きることがしんどくなる人もいるかもしれませんが

人間は死んだ後も魂は生き続けて

他の世界

幽界、霊界、神界に行ったとしても同じなのです。

どの世界でも進化しつづけていかなければならない。

私は、ねばならないという言葉は嫌いですが(笑)

これはもう宇宙の法則だからしかたがないのです。

武田鉄也さんの亡くなったお母さんが武田さんに言っていた言葉があります。

「休みたいとかサボりたいとか、そんなことを想ったときは 死ね!」



愛情に溢れた親だからこそ

子に言える言葉なのです。

そう想ったら(マイナスや怠惰な想い)

苦しいのは自分なのです。

みなさんもしんどいとき、休みたいとき、ダラ~としたいときもあると思います。(私にももちろんあります)

でもそれは、少しだけにしといて

「さぁ、もう休憩は終わった、頑張ろう!」

と気合を入れていきましょう!



  

2012年6月14日 (木)

大阪本町ヒーリングカフェ開催のお知らせ

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みなさんこんにちは、グッドムーンです。

以前に、気功サロンをしていましたが、今回久しぶりにライフカウンセリングを行うことになりました。




ブログを読んでいただいているのみなさんと実際にお目にかかって、これから素晴らしい交流が出来てゆくことを楽しみにしています。わーい(嬉しい顔)

「人生を明るく生きていこう」が私のポリシーです。わーい(嬉しい顔)指でOK

どんなことでもお気軽にご相談ください。



オールマイティなカウンセラーを目指しています(笑)。


日時:7月15日(日)AM11時~PM6時

場所:大阪本町カフェウィーン

場所、料金等の詳細は下記リンクを参照ください。
 


本名、篠崎 朗(シノザキ アキラ)で出展しています。


篠崎携帯 080-1444-0018

http://www.facebook.com/events/476984258994589/#!/events/476984258994589/

  

2012年6月12日 (火)

おろそかにしない

  
  
  
人から何かを命ぜられる。

その命ぜられたことをその通りにキチンとやる。

そこまではよいけれど、そのやった結果を、命じた人にキチンと報告するかどうか。

命ぜられた通りにやって、その通りうまくいったのだから、もうそれでよいと考える人。

いや、たとえ命のままにやったとしても、その結果は一応キチンと報告しなければならない、そうしたら命じた人は安心するだろうと考える人。

その何でもない心がけ、ちょっとした心くばり方のちがいから、両者の間に、信頼感にたいする大きなひらきができてくる。

仕事には知恵も大事、才能も大事。

しかし、もっと大事なことは、些細と思われること、平凡なことはできないというのは、本当の仕事をする姿ではない。

些細なこと、平凡なこと、それを積み重ね積み重ねきて、そのうえに自分の知恵と体験とを加えてゆく。

それではじめて、あぶなげのない信頼感が得られるというものであろう。




 

  「運命をひらく」 松下幸之助 PHP出版





感想

仕事ができる人、出来ない人の違いはどこにあるのか?

それは仕事に対する真剣度、真面目度、物事を俯瞰的に観れること、知識、判断力・・・・様々な能力が要るように思うが

実は、仕事とは誰がやってもそれほど大差があるものではないと思うのです。

では、どこに違いがあるか?

それは古くから仕事のノウハウとして云われている。

ホウレンソウ

報告、連絡、相談

この3つなのです。

誰にでも出来る、この3つ

簡単なことではあるのだけれど

簡単なだけにおろそかにしてしまいがちです。

報告・・・めんどくさい、明日でいいや、当日になるともういいや

連絡・・・上記と同じ(笑)

相談・・・すぐに相談すると「自分で考えろ」と言われたことがある。そしてしだいに報告、連絡もおっくうになる。

結果、コミュニケーション不足になって信頼関係が崩れてゆく。

なんでもかんでもホウレンソウを行なうかは別として、情報は共有しておかないときめ細かい仕事は出来ないのです。

どこかで小さな穴が空いてしまう。

そのうち大きな穴になってしまう。

取りかえしのつかない事態に発展する。

「報告しといた方がいいかな?」

と自問自答するときに


「めんどくさい」



「でもキチンと報告しといた方がいいよな」

で後から大きな違いになって来るのです。


私は、今、細かいことをキチンとすることの大切さ

ファジー(あやふや)なものをハッキリしていくことの大事さ


を痛感しています(笑)。

小さなことがキチンと出来ないと(波動を細かく、エネルギーを細かくしていかないと)

点は線にはならないのです。

線が交差して立体になってはいかないのです。

カタチになっていかないのです。

カタチにならないと具現化していかないのです。

つまり、成功すること、成就ことはないのです。



  

2012年6月11日 (月)

責任を知る

  
  
自分に全く関係のないところで、自分に全く関係ないと思う事が起って、だから自分には全く責任がないと思うことでも、よくよく考えてみれば、はたして自分に全く責任がないと自信をもっていうことができるであろうか。

人と人とが、かぎりないまでにつながりあっているこの世の中の中に、自分とは全然関係ないといえることが、本当はあると思われないのである。

キリストは、その時代の見も知らぬ人びとの責任も、すべてわが身に負い、そのうえに、後の世につづく数知れぬ人びとの責任をも、その気高いまでの魂で、一身に引きうけた。

おたがいに、そこまで求めるのはとてもムリ。

キリストなればこそである。 

しかしせめて、自分に責任あると思うことまでも、他人のせいにすることだけはやめにしたい。

犬や猫は、自分が悪くても、自分の気に入らなければ、平気で同類にかみつき、傷つける。

 人間と動物とは、天地自然の理によって、ハッキリちがっている。

そのちがっていることの尊さを、みずからけがすことだけはやめにしたいと思うのである。





         「運命をひらく」 松下幸之助 PHP出版




  

カンを働かす

  
  
  
剣を持って相向かう。

緊張した一瞬、白刃がキラめいて、打ちこむ、はねる、とびすさる。

目にもとまらぬ早わざである。

そこに理屈はない。 相手の刃が右手から来た、だからこれを右にはねかえそう、などと一つ一つ考えて打ち合っているのではない。

目に見えぬ気配から、からだ全体にひらめく一瞬のカンで、トッサの動きがきまってゆく。

しかもそれは、理屈で考えた以上の正確さ、適格さを持っているのである。


カンというと、一般的には何となく非科学的で、あいまいなもののように思われるけれども、修練に修練をつみ重ねたところから生まれるカンというものは、科学でも及ばぬほどの正確性、適確性を持っているのである。

世に言われる科学的な発明発見の多くのものは、科学者の長年の修練によるすぐれたカンに基づいて、そのカンを原理づけ、実用化するところから生み出されている。

つまり、科学とカンとは、本来決して相反しないのである。

 要は修練である。 練磨である。 カンを働かすことを、もっと大事にして、さらにつみ重ねたい。






       「道をひらく」 松下幸之助 PHP出版






感想 

う~ん、さすがに深いですね~

私は、幸之助さんのおっしゃるカンがすべてだと思っています。

日常生活を送っていると枚挙にいとまがなくいろんなことが起り、そして即決断を迫られる。

そういう意味では昔のサムライも今の現代人も変わりはないと思うのです。

決断を間違えると全然違った結果が待っています。

だから人間は

「あ~だ、こ~だ」と考える。

考え過ぎることで迷路に入って行く(笑)。

考えずに一瞬で正しい判断が出来たら

どれだけいいだろう

って思いますよね。


私が調和波動気功をやっているのは

この直観力、カンを養う、研ぎ澄ますためだと

改めて思ったのです。

直観力はどこから来るのか?

それは、一休さん(アニメ)を見ればわかるのです。

心を鎮めて

心の奥深いところに入ってゆく

するとそこには本当の自分(本心)が居るのです。

そこは神界(天国)でもあり宇宙でもあるのです。

お釈迦様が 「空になれ!」 とおっしゃったのは

宇宙とつながれ! 本心とつながれ!

ってことだったんですね。

宗教とはお釈迦様(キリスト様もそうですが)が元祖です。

宗教とは宇宙を示す教えという意味です。

宇宙とつながれば

直観力は思いのまま

自由自在に生きてゆけるのです。




宇宙(本心)とつながる祈り言霊


世界人類が平和でありますようにぴかぴか(新しい)

日本が平和でありますように

私たちの天命がまっとうされますように

守護霊様ありがとうございます

守護霊様ありがとうございます



 
参考図書


「無限なる幸せを体得する方法」 于寿明 星湖舎

正しい、瞑想、統一の仕方(メソッド)が書いてあります。

電子図書もあります。


調和波動気功法に関する書籍

http://utoshiaki.wook.jp/detail.html?id=207092




   

  

2012年6月10日 (日)

中国人が感動する日本のトイレ 3

  
 
こうした話を早稲田大学大学院で学ぶ朱麗丹(23歳)と雑談中にしていたところ、彼女はこの歌詞の別の部分に感動したと話してくれた。


「私はおばあちゃんと孫娘の関係に心を打たれました。おばあちゃんに優しくしてもらったのに、都会に出ておばあちゃんになかなか会えないのは中国人もまったく同じなんですよ。

中国でも田舎から都会の大学に進学したり都会で仕事をしたりしてしている人は帰省するのが大変だから。 この歌を聴いて祖父母を思い出しました。

田舎の家族を思い出した中国人はすごく多いと思います。

ああ、日本人も中国人も同じなんだなと思いました」


朱はまた 「日本には 『音姫』 という女子トイレに設置されている機械がありますよね。

私、あれを初めて見たときにものすごく感動したんです。いつか中国に広めたい」 とも話した。

「音姫」は TOTOが1988年に開発したトイレ用擬音装置で、トイレの音を擬音(水が流れるような音)で消してくれる製品である。

デパートやオフィスなどの主に女子用トイレに設置されていて、音を消すために水を2回流さなくて済む。

「日本人の羞恥心や細やかな心遣い、エコの考えが生み出した、まさに日本ならではの商品だと思う。子ども用の椅子とか化粧台とか、日本のトイレに感動する中国人は本当に多いんですよ」


朱はそう力説した。


翻って、中国のトイレの汚さは凄まじい。

北京五輪や上海万博以後、猛スピードで改善されてはいるが、

「トイレが汚いから中国旅行には絶対行きたくない」 という日本女性はまだ大勢いる。

場所によってはドアがない。ドアがあってもカギを閉めない、悪臭がひどい、汚物が床や壁に散乱している・・・・・・・と、その汚さ具合を挙げたら切りがない。

筑波大学大学院を修了し、現在は四川省に帰国している楊光輝(24歳)も、汚いトイレが当たり前のところから東京に出てきたときの思い出を語ってくれたことがあった。

「日本に来たばかりの頃、駅のトイレに入るといつでも、どこでも紙が置いてあることにびっくりしました。中国では最近でこそ公衆トイレの入り口に共用の紙が設置されるようになりましたが、それまで紙はありませんでした。

個室には今でもありません。日本では公園のトイレでさえきれいで、写真を撮ってブログにアップしたこともありました(笑)」


 中国人が日本に来ていちばん感動することがきれいなトイレ、というのは彼らの正直な感想だ。





「中国人エリートは日本人をこう見る」 中島恵 日経プレミアシリーズ



  



中国人が感動する日本のトイレ 2


  
いちばん感動したのは、きれいなトイレ


人が見ていないところでも掃除する、その代表格といえるのがトイレだろう。

2010年、日本では植村花菜の 『トイレの神様』 という歌が大ヒットした。幼い頃、トイレ掃除が苦手な自分に、同居しているおばあちゃんが、トイレにはキレイな女神様がいて、毎日キレイにしたら女神様みたいにべっっぴんさんになれる、と教える歌だ。

両親や学校の教師からトイレ掃除にまつわる話を聞かされて育った日本人にとって、美しいメロディと歌詞はストンと心の中に入ってくるものだった。


「トイレ掃除をするとお金に恵まれる」

とか

「トイレを掃除すると出世する」

といった話は今も世代を問わず日本で語られる。

仏教ではトイレ掃除をして陰徳を積めば必ずよい報せが現れるといわれているし、「経営の神様」といわれた松下幸之助もトイレ掃除に励み大成功した。

そんな日本人の思いを体現したような歌

『トイレの神様』 は、日本人だけでなく多くの中国人の心をもとらえていた。

発売後、在日中国人留学生などが 『洗手間的神明』(トイレの神様)と中国語のタイトルと歌詞をつけ、インターネット上に書き込んだところ、中国でも大きな話題となった。

2010年7月に開催された上海万博で中国語の字幕つきで植村花菜が歌ったときには、多くの中国人が感動して涙を流したといわれている。

上海の外資系化学メーカーで働く楊鵬程(26歳)も10年の夏頃、インターネットでこの歌の中国版を偶然聞いた。

楊は出張で東京に来たことはあるが、日本人と本格的に接触した経験は一度もなく、日本についての知識もほとんどない普通の中国人青年だ。


「トイレに神様がいるなんていう発想自体、奇想天外で中国人にはとても考えられないことでした。しかも、なんでわざわざいちばん汚いトイレの中にいるの?(笑)って不思議に思った。

でも、日本に留学している友だちから話を聞いて合点がいきました。(たとえ本人たちが意識していなくても)日本人にとって、いつも身近に神様の存在があり、困ったときにはいつもその神様にお願いするんだと。

それに神様はトイレだけでなく、大切にしているモノとか木とか岩とか、いろんなところにいるんだと聞きました。

その話を聞いてとても驚いたし、日本という国に興味を持ちました」


                 
                        つづく





「中国人エリートは日本人をこう見る」 中島恵 日経プレミアシリーズ




  
   

中国人が感動する日本のトイレ 1

  
  
 
今、私が読んでいる「中国人エリートは日本人をこう見る」には、日本のトイレを見て感動した中国人の話が載っています。

私たちは、トイレとは綺麗なもの、綺麗で当り前、綺麗でないとダメ!と思っている人が大半だと思うのですが

中国の人にはそれがとてつもなく素晴らしく感動的なことであるということなのです。

感動は連鎖します。 中国の人が感動した話を聴いて、またこちらも感動する。

すると当り前だと思っていたことに対し、感謝の気持ちが湧いて来る。

この繰り返しをすれば人間の想念は、どんどん綺麗になっていくと思うのです。

次の日記から、私がこの本を読んで一番感動した文章を抜粋します。

みなさんも是非、買って(笑)読んでみてください。

きっと中国の人たちに対して親しみを感じると思います。



   


人間の本質 2

  
  
 
人間は根本として、一なる神より分けられたる生命体であります。

動植物、鉱物等もすべて一なる神の生命の働きを根本にしているわけでありますが、人間は神の生命の働きを、自己自身が自由に使いわけ得る能力を与えられていて、自己の運命を自己自身が自由に創り得る存在者なのであり、本来神の被造物ではなくして、神自身の能力を内部に持った神の子なのであります。

ですから人間自身が欲するならば、神のみ心の内奥までも探り得るし、神と一なる心境にまで到達でき得る者なのですが、現在では、そうした心境まで到達した人はごくわずかでありまして

大半は神と動物、自由者と被造者との混合者としてこの世に生きているのであります。




   「日々の祈り」 五井昌久 白光出版 以下「霊性の開発」より



  


人間の本質 1

 
  
 
五井先生の本の文章をそのまま載せては、あまりにも光が強すぎて、まぶしくてわからないと思うのです。

だから私が薄暗いところに立って(笑)、光と影(暗)の橋渡しをしている。

そう思って最近日記を書いているのです。

今、人間は目覚めのときに来ている、本心が目覚めたがっている、本物とはなにか? 真実とはなにか? 自分とはなにか? を知りたがり、求めている。

だから私のような、真理を追究している者が必要なのだと思います。

そう書くとなにか偉そうに聴こえるかもしれませんが

私も試行錯誤しています。

わからないことがたくさんあります。

みなさんと同じです。

しかし、みなさんよりも少しだけ、真理に足を踏み入れていることは確かです。

次に書く “人間の本質” は、凄い、素晴らしいの一言に尽きます。


みなさん、どうぞ人間の本質とは? に触れてください。



  


   

  

愛のある雰囲気を 2

  

   
元来、人間の想念というものは肉眼には見えませんが、各種の波状をえがいて、その人の周囲から流れ出ているもので、その人の長い間(過去世からの)想念の蓄積が、その人の雰囲気となって他に伝わり、あるいは様々な環境や運命を創り出しているものなのです。

そうした雰囲気が霊眼者には、光とみえたり、黒雲のようにみえたりするのです。

ですから、そうした想念の波動からみれば、その人がどの程度の魂的高さをもっているか、常にどのような行為をしているかがわかるのです。

常日頃から愛念で生きている人の魂は光を放っています。

愛が深いということは、本心が顕われている証拠であり、神の心の働いている証であるのです。


      

         「日々の祈り」 五井昌久 白光出版


  

愛のある雰囲気を 1


   
雰囲気というのは目にはみえないけれども、とても大切なもので、人間は頭で判断しているように思うけれども

雰囲気、波動、エネルギー、勘・・・などで最終的には判断していることが多いのです。

それは五感を越えたところにあるのですが、普通は感じたとか想った、なんとなくなど表面的なもので判断します。

でも本当にそれらの感覚が正しいのか、間違っているのか?はわかりません。

本心であるのか?

業想念(マイナスの想念、人の想念、潜在意識など)であるか?

の違いですね。

本心から来ているものは、神界にいる自分から出たメッセージなので仏教では、審神(さにわ)と言われているようです。

本物(神から来ているもの)なのか?

偽物(幽界のおばけちゃんがいたずらしている)なのか?

これらが入り混じっているからややこしくなっているのです(笑)。

“人間とは神と動物(感情の生きもの)との間にあるから人間というのだ”

これは今の人間の姿を見事に表した言葉だと思うのですが

どうしたら審神(さにわ)が出来るようになるのか?

正しい間違っているの判断が出来るのか?

本物、偽物の区別がつくようになるのか?

自分を含めた相手の人が今どんな状態なのかがわかるようになるのか?

それがわかるようにならなければ

つまり波動(エネルギー)、雰囲気の種類が読めるようにならなければ

面白くもなんともないのです。

ただ、生きているだけになっている。

ほとんどの人は雰囲気とかはなんとなくはわかる

でも、そのバイブレーション(響き)まではわかっていないのです。

では、わかるようになるにはどうしたらいい?

それは一番波動(バイブレーション)の細かい宇宙に自分の波動を合わせていくしかないんですね。

またまた、わけのわからない話になってしまったでしょうか?(笑)

それでは、次の日記で雰囲気について五井先生のご法話をご紹介します。



   

 

2012年6月 9日 (土)

自他を生かすもの

    

愛とは、自分の生命をいかすと同時に、他の生命をも生かすものでなければなりません。

愛することによって、自分の生命がいきいきとし、愛されることによって、その人の生命がいきいきとしてくるものでなければなりません。

自他の生命がいきいきとし合うようでなければ、それは真の愛とはいい得ないのであります。

ところが現実は、愛するという名目の下に、相手を縛り、自己の生命の自由をも縛りつけている恋愛や、親子愛が、いかに多いことでありましょう。

自己が楽しむために人を愛そうとしても、それは愛ではありません。

それは自己主義の業想念であります。

自分というものがその人のなかにあることは、もうすでにその人を愛から引離しているのであります。




  
       「日々の祈り」 五井昌久 白光出版





 

感想

愛にもいろんな種類、段階があります。

私が今、行なっている愛とはどんな愛なのだろうか?

昔の自分よりも進化しているのだろうか?

またまたちょっと堅いかもしれませんが(笑)

今の私は、以前の私よりも

相手のことを考えて行動は出来るようになってきていると思っています。

以前の私はひどいものでした。わーい(嬉しい顔)

特に恋愛(そう呼べるものではないかもしれませんが)に関しては

相手の人に自分を好きであって欲しい、愛してもらいたい

そればっかりだったように思います。

だから欲求が満たされないと心は乱れていました。

感情的になっていたのです。(だから悲惨な?結末ばかりでした)

本当の愛とは

相手の心を縛らないこと、自由にさせることだ

ということに気づいてからは

そのことだけに意識を向けるようにしています。

だから自分が逢いたくても、感情を満たしたいと思っても

そのことによって相手の心、生命が縛られるのならば

逢わない方がいいときがあるのです。

これは友人関係においても、他の人間関係においても一緒だと思います。

3次元的にも

あの人は自分と会うことによってなんらかのメリットがあるだろうか?

今の自分にはなにができるだろう?

それは目に見える利益ということではなく

魂の成長という意味です。

だからお互いに無益ならば逢わない方がよい場合があるのです。

目的も無く逢うくらいだったら

家で1人で静かに本を読む

その方が有益な時間を過ごせることもあります。

トキは金なり

時間は大切です。

その判断がつくようになれば、神さまが使いやすい器になっているのだと思うのです。


  


本心そのままで生きている人

  
  
悟りとは、自己の本心を光輝かせること。

生命をさわりなく生かしきれる状態をいうのです。

悟りといっても、種々と段階のあることで瞬間的に、自己の本心を現わしたり、生命を生かし切ったりすることも悟りでありますが、常に変りなく、本心そのままで生きぬいている人があるとすれば、その人は釈尊(お釈迦様のこと)と同じような正覚を得た人というべきでしょう。


 本心そのままで生きている人の状態は、どのようかと申しますと、

慈悲深く、喜怒哀楽に迷わされず、すべての恐怖なく、他人の本心と想念をも、はっきり区別してわかり、おのずと人々の想念を浄めている、

といった人になるわけです。

神は光であるので、本心そのままで生きている人は光輝いている人であります。



  
 
        「日々の祈り」 五井昌久 白光出版



 

  
感想

 私はこの「日々の祈り」の本の中にある文章を書き写し、そして勝手に感想を述べさせてもらっているのですが、この本の内容の素晴らしさには、驚愕しているのです。

まだ、世間の人は真理をほとんどわかっていません。という私も勉強中であります。

これから五井先生のご著書は、世間に出てゆく時代になるそうですが、それは地球の波動(エネルギー)が変わって、真理が伝わりやすくなるからなのです。

今、五井先生の本を読まれてもピン 電球 わーい(嬉しい顔) と来なかった人が、或る日突然!

「なんなんだこの本は、凄いことが書いてある」 と気づく日がやって来るのです。

私はその日が来るのが(もうやって来ているかもしれませんね)楽しみでしかたがないのです。
 

ここに書いてある本心のままで生きている人

多分、みなさんもこのように本心で生きている人を素晴らしい!と思い、自分もそのような生き方をしたいと思っておられることでしょう。

“自然体” って言葉があります。

普通いわれる自然体って、自分らしく、素直な人ってところでしょうが

本当の意味の自然体とは、本心(神のみ心)がそのまま肉体という器に降りて来ている人のことを言います。

神性が現われている人

心に何の邪心のない人(幼子のような人)

ああだ、こうだと考えない人

直観(本心、神からのインスピレーション)のまま動いている人

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

これから地球の波動(エネルギー)は変わり

このような人ばかりになります。

そして本当の平和、愛一元の世界が訪れる。

ワクワクせずにはいられませんよね。わーい(嬉しい顔)


世界平和の祈りはそのような世界(神界が地上に顕われる)

が早く訪れるように願う祈りなのです。

祈り無しでは絶対に平和は訪れることはないのです。



 

世界人類が平和でありますように ぴかぴか(新しい)

日本が平和でありますように

私たちの天命がまっとうされますように

守護霊様ありがとうございます

守護神様ありがとうございます



  

悟りとは 2

  
 
  
悟りとは、本心と自分とが全く一つになるということなのであります。

迷ったり、怒ったり、恨んだり、妬んだり、悲しんだり、恐れたり、執着したりする想念というものを、ハッキリ、自分ではない、と思い定めることなのです。

自分とは、神と一つである本心そのものであり、もろもろの想念は、過去における自分の迷いの足跡が、今現われて消えてゆく姿である、と思い定めることなのであります。

自分が自分の創造主であることを知ること。

つまり自分が神の使命達成の一員として、神の世界から天降って、この地上界に神の生命をはな咲かせつつある者であることを知ることなのです。






       「日々の祈り」 五井昌久 白光出版



  

悟りとは 1

  
人は、なにかわかったような気がしたときや閃いたような気がしたときに

「悟った」と簡単に言ったりしますが、悟りとは、普通の人間がそう簡単になれるような境地ではなく

心を鎮め切って、奥深くに入り込んでいかないといけるものではないのです。

悟りの左は、りっしんべん、心ですが本心を表しています。

そして右の吾とは、肉体人間の自分こと

つまり、天にいる本当の自分と肉体界にいる自分が一つになった状態が悟った状態なのです。

私たちは肉体界だけにしか、自分はいないと思い込んでいます。

しかし、本当の自分とは、地上のこの世界にいるのではなく、天界(天国)にいるのです。

その天界にいる自分に逢うためには、心の奥深くに入っていかないと逢うことはできないのです。

お釈迦様が座禅観法させ、精神統一させたのも肉体意識を越えて宇宙(神、仏)意識になるためだったのです。

肉体意識を越えるとは、どういうことなのか?

それは感情を越えるということです。

私たち人間の神性(神である部分)を隠蔽しているのは、感情なのです。

感情が人間が神の姿(神性)を顕わそうとするのを邪魔しているのです。

人間の美しさとは、悲しみなどの感情を乗り越えようとしている姿にあるのではないでしょうか?

その姿は凛々しく、輝いて見えます。

私たちは、この神性を顕わしていくこと、つまり悟った状態を出来るだけこの肉体界に顕現していくことが、この地球界に天下ってきた目的なのです。


ちょっと話が硬くなってしまいました(笑)

それでは、五井先生による 悟りとは

次の日記からご紹介していきます。



  


家庭運をよくするための祈り 2

 
  
家庭運の悪い人は、一旦は悪いのが今生の運命なのだ、と諦めてしまって、その諦めから再出発することが肝要です。

一旦スッカリ諦めてしまうと、人間は案外気が楽になるものです。

よくしよう、よくしようとリキんでいるから苦しいので、とにかく一旦諦めてしまって、自分の想念を、なんらかに集中させてしまうのです。

そのなんらかは、神さまが一番いいのです。

 ━ 自分を生み、育ててくださった神さま、どうぞ、あなたさまのいちばんいいように、私の運命をすすめて下さい。

私は今、どうしようもないのですから、あなたさまにすべてをおまかせいたします ━

と神さまにおまかせする気になって、そうした祈り言を、朝、昼、晩のひまある限り祈りつづけるのです。




    
       日々の祈り 五井昌久 白光出版







 
感想

諦めるというのは、無責任に責任を放棄するという意味ではなく、そのことから意識を放つという意味なのです。

以前、ガンになった人に対し、「患者よ、ガンと戦うな!」という本が出版されたことがありました。

その意味とは、自分はガンであるというところから意識を放せということだったのです。

ガン細胞とはやっかいなもので意識をすればするほど、その細胞に力を与えてしまうのです。

一番良い方法は、そこから意識を離し、違うことに意識を向け、エネルギーを注ぐことなのです。

といっても人間とは弱いものでガンになったのに忘れろ!気にするな! なんて出来ません。

忘れること、気にしないことは難しいけれど、少しなら意識を外すことは出来る。

その意識をどこに向けたらいいのか?

何に向けたらいいのか?

それは、人間の原点であり、人間のほんとうの親である、神さまに向けましょうというのです。

いつも言っていますように、肉体人間の力なんてたかが知れています。

また他の人を頼ろうとしても自分とたいして変わりません。

他の人でどれだけ優秀な人でも肉体界で生きているだけです。

しかし、神様は違います。

肉体界だけでなく幽界、霊界、神界(宇宙)に通じているからです。

オールマイティ(完璧、完全)なのです。

だから肉体人間の自分ではどうしようもないんだ と一旦は諦めてしまって、自分の想念をすべて神様に預けてしまうのです。

このことを全託といいます。

そして神さまにすべてを預けた後に

神さまから送られて来るメッセージに対し

素直に従ったらいいのです。

神さまのいいなりになるのは嫌だ

なんて人いますか(笑)

神さまとは人間とかけ離れた人?ではないのです。

というより自分が神そのものなのです。

人間は神さまから分かれた、分け霊(みたま)なのです。

だから自分で自分(本当の自分)に頼るということなんですね。

話がちょっとややこしくなりました(笑)。

要は自分を客観視することでしょうか?

そして自分が何者であるのかを知る。

そして本当の自分(神)に全託する。


 

世界人類が平和でありますように ぴかぴか(新しい)



  

家庭運をよくするための祈り 1

  
  
私たち人間というのは、寝ても覚めても

「なにかいいことはないかな」

「どうしたらもっと良くなるだろう」


と考えているのだと思うのです(笑)。


日々を改善して、向上していこうという気持ちは大切だけど

向上心も一歩間違えれば

欲になります。

欲は、心を醜くします。

欲の塊の人を見ては

「ああはなりたくはない」

と想い。

自分の心の中に

欲望を見つけると

自己嫌悪に陥って

取り除こうとする。

この向上心と欲との

住み分けって

難しいのかもしれませんね(笑)。

さて、今回のタイトルは

家族運をよくするための祈り ですが

私もなにを隠そう、家族との折り合いが悪い時機がありました。

妻ともそうだし息子ともそうでした。

そのときは

「なんとかしよう」

「このままではいけない」

「どうすれば良くなるのか?」

そのことばかりを考えていて

毎日がしんどく

おもしろくない生活を送っていました。


そんなときにふと目にした文章が

“あきらめてしまえばいいんだ”

だったのです。

自暴自棄にならず、やけくそにもならず

ただ、今の状況を自然体で

ありのままに受け止める

よかろうと悪かろうと


“じたばたしない”


この心境になって

随分楽になったと思います。

今、家族運、仕事運、人間関係運・・・・・その他運のことで悩んでいる人がおられたら

次の日記(日々の祈り 五井昌久著から抜粋)を読んでみてください。

きっと

スーッと楽になると思いますよ。
 わーい(嬉しい顔) ぴかぴか(新しい)


  
  


  
 

2012年6月 8日 (金)

中国人エリートは日本人をこう見る 3

 
  
中国文化で昔から残っていて、良いもの

それは親を敬うこと、老人を大切にすることだそうです。

震災があって、原発の問題が世界中を震撼させたときに

多くの中国人が母国に帰ったのは

自分の意思もあるのだろうけど親の心配があったのだそうです。

中国に住む親がニュースを聞いて

「今すぐに返って来い!」

と言われたら

日本人は

「そんなことを言ったって仕事を残して帰る訳にはいかない」

と大多数の人が拒むだろうけど

中国の人は

親に背くことはいけないことだと教育されているのだそうです。

理屈抜きに親の心情をおもんばかる

中国に残された素晴らしい思想だと思うのです。

また中国人は日本人が理解できないことの一つとして

失敗した人に対する厳しさ、冷たさです。

日本のホームレスの人に話を聞くと

かつて事業に失敗した人

仕事を失った人

魔が差して家族を捨ててしまった人

罪を犯してしまった人

などが家族にも会えず、寂しい余生を送っているということです。

近くに家族が住んでいるというのに会いに行けない

それは


「ダメな自分には会う資格がない」

「会おうとしても拒まれる」


という事情があるようです。


確かに、日本人は親に対しても身内、他人に対しても厳し過ぎると思うのです。

日本には敗者復活という制度がない

失敗した人は再度挑戦しても恐らくダメだろうという烙印を押される。

「失敗する可能性が高いのならやらない方がましだ」

これでは日本人は委縮して

伸び伸びと大らかに明るく生きていくことなんて出来ないですよね。


中国の人には日本人にはない大らかさがあるのです。

大陸的な性格というか

小さいことを気にしないというか

「失敗しても次があるじゃないか」

という不屈の精神がある。

そして前述したように

親を敬う、大切にする風習がある。

事業に失敗した親であろうと

魔が差して家族を一時的に捨てた親であろうと

罪を犯してしまった親であろうと

自分を産んでくれた

この世に送り出してくれた大切な親です。


“どんな親であっても親には変わりがない”


日本人はその大切なことを忘れているように思うのです。


また、中国人の不思議の中に

病院で寂しそうにしている日本人が居るのだそうです。

家族がいるのに

あまり見舞いにも来ない

最初来ただけで

後は知らんぷり

老人に聞くと

「私はお金をあまり持っていないから家族が寄りついてくれない」

と言ったのだそうです。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


あまりにも悲しいですよね。涙

これだけ、世界から尊敬され、絶賛されている日本人が

親をないがしろにしている

お金の有無で親を判断している(成功者かそうでないか)

確かに日本が小さな国であるにもかかわらず

ここまで発展したのは

厳しい市場があったからです。

いい加減な気持ちで起業出来ない

失敗したらなにもかも失う

その覚悟、精神があったから、失敗も少ない。

借金国にもなっていない・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


でも、あまりにも厳し過ぎますよね。

日本人に自殺者が多いのも

その辺に原因があるのではないかと思うのです。(自分を責め、人も責める)

日本も日本人も素晴らしい!

それは確かなことです。

世界中が認めています。

だがしかし

改善の余地がないかと言えばそうではない(たくさんある)

私たちはもう一度

顧みてみる必要があるのではないでしょうか?


「これでいいのか、自分も日本も」


この本を読んで強くそう思ったのでした。



 
「中国人エリートは日本人をこう見る」 中島恵 日経プレアシリーズ


  


中国人エリートは日本人をこう見る 2

  
  
日本人の考え方、思想、思考には、実は、中国の影響を大きく受けている。

昔、寺子屋では、「師曰く(しいわく)・・・・」(先生はこうおっしゃっている)と

孔子、孟子、老子などの中国の賢人、偉人の思想を学んだのです。

私も老子の宇宙的な視野、思想に今でもかなり影響を受けています。(老子講義 五井昌久著)

今の日本人が世界でも常識的?なのは、昔中国から入って来た、この中国の思想が広く根付いていることにあるのです。


中国思想は、日本人の模範であったのです。

しかし中国は、広大な領土を守るため、自分達や家族の命を守るために、倫理を捨て、思い遣りなどの人間性を無くしていった。(無限なる愛!)

その最たるものが、文化大革命だったのです。

経済的に国を発展させるために政府は、情(愛)を断ち切った。

精神文明から物質文明へと移行して行った。

恐怖政治を行なった。

そして益々、国民は人間性、神性を無くしていった。

だがしかし、中国人の心の中には、潜在意識の奥には

孔子、孟子、老子・・・・などの倫理観、思想が脈々と生き続けていたのです。



それを想い出してくれたのはなんだったのか?

誰だったのか?



それは日本人だったんですね。

中国人は、日本の文化からそれを学んだ

今の若い中国人80后(1980年代生まれ)、90后の人たちは、日本のアニメ、一休さんやくれよんしんちゃん、サザエさん、その他日本のドラマを観て育ったのだそうです。

そこで日本の文化を知ると同時に

忘れかけていた愛を学んだ。

“自分や身内さえよければ後はどうでもいい” という危険?な思想が

「間違っていたんだ」と気づき始めたのです。


中国人のある留学生はアニメ、くれよんしんちゃんのお母さん(みさえ)がビニール袋から汁が漏れて道路を歩いていたことを近所の人に謝って回っている姿を見て感動したのだそうです。

今の中国では人に迷惑をかけることに対して

「申し訳けない!」

「ごめんなさい!」

という意識がなかったのだそうです。


中国人の全員がテレビを観ているとは限りません。

タイトルにあるエリートの人しか影響を受けていないのかもしれない。

しかし中国人の日本や日本人に対する意識、印象は確実に

好転してきているのです。(かつては反日感情を持つこと、日本に敵対することを善しとしてきた)


そして日本人の精神を学ぶことで中国という国を建て直そうとしている。

インターネット、テレビなどの媒体は

世界を身近にし、距離を縮めています。

ビルゲイツは

「世界を一つにするため、平和にするためにインターネットを造った」と言っています。

平和の音が今まさに聴こえてくるようです。

地球は、確実に善くなって来ている

人間の意識が高くなって来ている

エネルギー(波動)が細かくやさしくなって来ている・・・・・・・・・・・・



そう実感しています。




世界人類が平和でありますように



 「中国人エリートは日本人をこう見る」 中島恵 日経プレミアシリーズ


 

  
 

2012年6月 7日 (木)

中国人エリートは日本人をこう見る 1

  

  
本っておもしろいな、素晴らしいな、と思うのは

大げさかもしれませんが、読み終わった後で世界が変わってしまうからです。

今まで自分のものさしで観ていた世界が、考え方が変わるだけで

そのものさしがグッと拡がる、小さな田舎町に居た自分が大きな街へも行けるし、地球のあちこちにも行き、宇宙にだって行ける。

視野が拡がると同時に、気持ちも拡がり

それが他人に対しても大らかな、優しい、寛大な気持ちにもなれる。

本は自分を成長させてくれる私にとってはなくてはならないものになりました。

最近は、本の紹介や解説が多いのですが

並行して自分の世界観も書いていきたいと思っております。



さて、今読んでいるのはタイトルにあるように

「中国人エリートから見た日本人」 です。


この本は、最高におもしろいです。

これから地球世界が善くなっていくためには

人口が一番多い中国人(13億4000万人)の思想、意識が変わらなければならないのです。

中国とは、世界の中心という意味があり

経済では、2010年に日本を抜いてGDP(国内総生産)は、アメリカに次いで第2位になりました。

いずれはアメリカも抜いてトップになるでしょう。

しかし、その実態は中身が乏しく人口が多いので結果的に数字が上がっただけなのです。

中国人全体の生活水準が上がったのではなく格差も大きい。

今の中国は突っ走っているだけ、お金を追いかけているだけで心がないがしろにされている。

心が空洞化しているんですね。

モラルや倫理に欠けている。

そんな中国人が日本や日本人を見て

「私たちはこのままではいけない」

「日本人のようにならなければならない」

と感じ、思っているのです。

日本人のどこにそんな見習うべきところがあるのか?

私たちは今の日本の姿は当たり前だと思っていますが

他国の人から観たら

素晴らしいと感じていることがある。

自分ではわからないことが

客観視(外から観ている)が出来る中国の人たちや他国の人たちが

語ってくれることで

再認識出来るのです。

しかし、善いところばかりではない(笑)

前の日記でも書いたように

今の日本人は

良い意味での

ハングリー精神を失っている

そして打たれ弱くなっている


私はこの “日本人は打たれ弱い” と指摘されたところが

心に突き刺さりました。

平和ボケしてくると

平穏無事に過ごしていると

外からの力、エネルギーに負けてしまうことがあるのです。

中国の人から観たら

不思議でしかたがないそうです。

「こんなに善い国に住んでいるのになんで自殺なんかするんだろう?」・・・・・・・・・・・・・・・

それは、日本人が真面目すぎるところにも原因があるようです。

「○○でなければならない」

「○○とはこうでなければならない」

「こうでなければ生きている資格がない」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


責任感が強いのは良いことだけど

真面目なのはいいけれども

強過ぎると

自分や他人を責めてしまうのです。

もっと大陸的に

もっと大きな心になれたら

もっともっと日本は善くなる


そして中国やその他の国も

日本の影響を受けて善くなっていく・・・・・・


「100匹目の猿」というベストセラーの本がありました。

100匹目の猿がサツマイモを海の海水につけて食べたら

日本中の猿が一斉に同じ行動をし始めた


人間の意識は、別々に存在しているように見えるけれども

本当は一つにつながっているのです。

この本は、中国人の意識が変わり始めていることを教えてくれています。

意識が目覚め始めているのです。(もちろん善い意味で)

一部の人の意識が変わると他の人にも必ず影響を与える

カタチ上は中国は世界の中心ではあるけれども

潜在的にその意識を変えるのは

日本人がターニングポイントを握っている

でもそんなことはどうでもいい

地球世界が善くなって行くのなら

誰が、どの国が先導していくかはどうでもいいと思うのです。

世界を変えるのは国でも

大統領でも、政治家でもない

一人一人の個人であるのです。

個人個人が国を超えて影響を及ぼし合ってゆくのです。

中国の人から教えられることもたくさんあります。

人はいろんな人と交わることで気づき、成長していきます。

これから日記で日本の素晴らしさ

中国人の意識について

書いてゆきます。

よろしくお付き合いください。


 


「中国人エリートは日本人をこう見る」 中島恵 日経プレミアシリーズ




  

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