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2011年12月18日 (日)

愛と赦し 5

  
  
 
愛とゆるし


白光の教義に、自分を赦し、人を赦し、自分を愛し、人を愛す。という言葉がありまして、愛と赦しというように二つに分けてありますが、赦しというのも、実は愛の心の一つの現われであるのです。

しかし、こう二通りに書き現わさぬと、はっきりわかりませんので、二つに分けたわけです。

そこで、愛(おもいやり)寛容(赦し)この二つの心を、私は人類にとって最も大切な心として教義に現わしているのです。

私は青年の頃は、正義の心が強く、自分の正義心に反する行為をする人々を、責め裁く想いが強かったのですが、宗教の道に本格的に入ってからは、そうした責め裁く想いが、まるでなくなってしまって、寛容というような心がそれに入れ代わったようになってしまったのです。

ところが、このおもいやりの心とか、寛容の心とかいうものは、生まれながらの素質によることが多いので、そういう心が大事だから、努めてそういう心になりなさい、といっても、言葉や文章でいわれたぐらいでは、なかなかそういう心になれるわけではありません。

だが、自己を幸せにし、人類の平和をこの地球界にもたらそうと思うならば、どうしても、正義心、おもいやり、寛容という、こうした心を根底にして生活しなければならないことになります。

自分だけが正義ぶって、他を憎んでいるようなかたよった想いでは、とても人類は平和にはなりません。

能動的、積極的な人には、よくこういう人をみかけます。

正義心だけを唯一なもののように思って行動していますと、自己と他の正義の考え方の相違があったりして、正義と正義がぶつかり合って、争い合い殺し合う、正義にもとる、神のみ心に反する結果を生み出してしまったりするものです。

個人個人の思想的なものにもそれがありますし、国と国との考え方にも、自分よがりの正義への道がありまして、お互いの正義が喰い違ってくるのです。


ですから、正義という旗印だけを先頭に立てての行動は、甚だ危ないものなのであります。

米国は米国なりに、ソ連はソ連なりに、自己の行動を正義化しているのをみても、肉体的人間同志がいい合いになっている正義の道などというのは、あまり当てになるものではありません。

何にしても、この世の相対的な考えというものの中には、どうしても、自分よがりの考えが入りやすく、神の声による行動が出来難いのであります。




    

        「愛と赦し」 五井昌久 白光出版小冊子より




  



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