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2011年12月15日 (木)

愛と赦し 2

  
  
愛の心に憎しみはない


愛の問題は、人間世界にとって重大なる問題であります。

神は愛なりといって、愛の心そのものが神そのものである、とさえいい切っている人もあるのです。

ところが仏教的にいえば、この愛というものも、業の中にいれてあるのであるのでして、一概に愛と呼ばれている心の状態もなかなか複雑になってまいります。

愛というのは、合、相という言葉と同じ意味をもっておりまして、自と他とが一つに合する働きをする時に起る心の状態であります。

ですから、神のみ心は、すべてのすべてを生みなしたみ心なので、神の中には自と他という区別が無いわけであります。

そこで神は愛そのものである、ということになります。

そのような神のみ心は、分生命(わけいのち)、分霊(わけみたま)である人間のうちにも働いておりまして、愛したい愛されたい、愛さずにおられない、という想念が湧いてくるのです。

そしてこの愛の心が、縦に天に向けられた時、魂の内奥に向けられた時には、神への信仰、神への愛となり、横の線、つまり人類社会にむけられた時には、人類愛となるのであります。


このような、信仰心と、人類愛の二つの面にははっきりと愛の心が働いていてさえすれば、この地球界には、不幸やあやまちが生まれてこないのですが、ともすれば愛は執着の想いを伴いやすく、愛の心の流れが、把われの想いで、一つの想いに止まってしまうのです。


さあ、こうなりますと、愛することが苦しみとなり、愛されることが重荷となってきまして、そこに不幸や悲劇が生まれてくるのであります。

愛と憎しみとは裏表だ、愛の強い人は憎しみもそれだけ強いのだ、などという人もいますが、それは誤りでありまして、愛と憎しみとは、全然種類の異なった想いで、愛は神のみ心の本質的な心であり、憎悪は、神の中には無い、いわゆる実在的でない想いであり、やがてはこの地球界から無くなりきってしまう、消えてゆく姿的な感情想念であります。

ですから、愛の心から憎悪の想いは絶対に生じるわけがないので、愛の心は常に光に充ちているのです。

ところがどうも、あんなに愛していたのに裏切った憎い奴、という式に、自分の愛が充たされぬと、相手を憎んでしまうのが、世の常の人の想念には多いようです。

これは愛する、ということが、光を他に与えることである、という神のみ心、つまり原則を知らないからなのであります。

神様はすべてを与えっぱなしに与えつづけております。

神様は与えつづけて、何ものからも、その報いを受けようとはなさっていません。




    

        「愛と赦し」 五井昌久 白光出版小冊子より







 

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