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2011年12月31日 (土)

来年のテーマは “自立” 

  
   
  
いつの新聞に載っていたかは忘れたが、某有名大学のラグビー部がひしめく強豪私立大学を破って全国大会で勝ち残っているそうだ。

練習時間は短く、設備も私立大と比べて貧弱、でも短い時間の中での集中力や作戦面(頭脳プレー)では他校に負けてはいない。

喉から手が出るほど欲しい有望選手もセンター試験、一般試験をクリアしないと入って来ない。

しかしそんな厳しい状況の中で一番の強みは、自立している選手が多いことだそうだ。

高校時代にキャプテンをしていた人が何人もいる。

人を導く人(リーダー)は人よりも“自立した人”でなければならない。

それは人が寄りかかってきたとき、人を助けようとしたときに自分が一人立ちしていなければ、支えたり助けたり出来ないからだ。


本人たちもそれを自覚していて、目標は “一人一人の自立” だそうだ。

自分が与えられた役割をしっかり果たす。

そして尚且つ、俯瞰的(ふかんてき)にゲームを把握する。(人のフォローも出来る)

こんな人がチームに一人いるだけでもかなり心強いのに複数いれば、監督のやることなんてほとんどないと思う(笑)。

私は自立した人とは、“冷静に判断できる人” だと思っている。

目にみえない力は、確実にチームに影響を与える。

私はキリストの言ったこの言葉が好きだ。

今、世の中に求められているのはこういう人ではないだろうか?
 



 「100人の人にパンを配るより、ほんの一瞬でいいから冷静でいなさい」




  



  

2011年12月29日 (木)

絆は強過ぎたら鎖になる 3

  
  
  
「過剰な絆を切断する勇気」・・・・中江有里さんのコラムの内容を広げていくとエンドレスになりそうです(笑)。

それくらい絆の中に潜んでいる愛と欲望(執着)の問題は根が深い。

人間は欲望(執着)が強ければ強いほど、自分の首を絞めるように苦しくなっていく。

この執着と愛を混合するから余計に苦しいのだ。

「私はこんなに愛しているのになぜあなたはわかってくれない」・・・・こんなフレーズの歌がどれだけ多いだろう(笑)。


私は性格があっさりした人が好きだけど、それはものごとにこだわらない、把われない、執着心の少ない人なのです。(私自身の理想像でもあります)

竹を割ったような(サザエさんのような)素直で真っすぐな人、昨日のことはもう忘れている、お腹に中にな~にもない、切り換えが早い、それでいて話をしていると話題も豊富でためになり、勉強になり、一緒にいて楽しい♪

そんな人がこれからモテル人になっていくのだと思う。

ところで過剰な絆を切断する勇気とはどういうことだろう?

このままだと益々相手が絆を深めようとしてくる、だからその前に過剰な部分を傷が大きくなる前に遮断してしまうということか?

恋愛なら彼女のやきもちが過剰だとする、行動やメールをチェックされる(笑)、他の女性に対し警戒心が強い、何度も愛を確かめられる・・・。

こんなときに

「そういうことは止めろよ」と言うのか?

そうすれば相手は

「冷たくなった」 「嫌われた」

と思わないか?

いや、そんなことも覚悟の上の切断なのだろう。

こちらの意図を説明した上で、相手の理解が得られないのなら

「あなたとは縁がなかったということで」 という覚悟もいるのだと思う。

“痛みの伴わない改革はない”

なんだか政治家が言っているみたいだけど

関係を改善していくには、現状を変えるためには改革が必要なようです。

それも相手にそれを求めるのではなく自分の考え方を変えるという変革です。

ここで本の内容の推測をしてもしかたがありません(笑)。

興味があるので私も読んでみることにしました。本目

みなさんもいかがですか?



  
 
『タフラブという快刀』 信田さよ子著

ついでに面白そうなのでこの本も注文しちゃいました。

"ふりまわされない~会社、仕事、人間関係がらくになる7つの物語" 信田さよ子

 
  

絆は強過ぎたら鎖になる 2

 

  
今年を象徴する漢字が 「絆」 に決まった。

震災を経て、家族の絆を再確認した年でもある。

テレビや新聞で見聞きした家族の話に何度涙したか。これらの話は例が少ないからこそ美談になる。

ただでさえ危機的状況なのに、悪い話なんてとんでもない。

だけど強い絆は鎖にもなりうるのだ。

『タフラブという快刀』(信田さよ子著)は親子、夫婦といった家族関係に横たわる問題を浮上させる。

臨床心理士の著者は 「親子がこじれるのは当たり前」と指摘する。子どものことを我ことのように思う親は、実のところ親が子どもの中に入り込んで一体化しているともいえる。

自立を阻まれた子どもはやがて反発する。

いつだったか先輩俳優が

「我慢するのがうまくいくコツだよ」 と家庭円満の秘訣を語っていた。

それは家族間だけではなく、あらゆる人間関係にもいえる。

多少の我慢は必要としても、過度に耐えるのはよくない。

耐えて心を疲弊させすぎると、人生の質を自ら低下させてしまうからだ。

「タフラブ」とは手放す愛、見守る愛を指す。

タフラブという快刀を持ち、過剰な絆を切断するには、大変な勇気が必要だろう。

でも他者の目を気にする事などない。

それはお互いを自由にする愛の行動なのだから
 



 


 女優 中江 有里 さん(12月28日、日経新聞夕刊、読書日記より)



   



  

絆は強過ぎたら鎖になる 1

  
  
絆が大切なことは今年の流行語大賞にもなって当り前のことなんだけど、きずなも強過ぎたら、度を越したら鎖(くさり)のようにがんじがらめ、自由でなくなってしまうんです。

友だちから親友になろうと言い合っているとき、気楽に付き合っていた男女が急に意識し始めたとき、親が子を過剰に心配し始めたとき、自分の気持ちとは裏腹に相手の気持ちが離れていくのです。

こんなに辛いことってありませんよね。

私は今、高校時代の同期会の幹事をしています。

お互い思春期の多感な頃を同時期に過ごした仲だから驚くほどウマが合います。

この齢になって本当の友を得たような気持ちになるのです。

でも高校時代のように相手の心の中にずかずかと土足で入っていくことなんてできない。

「今からおまえん家に泊まりに行くからな」と気軽に言えない。

「俺、今悩んでいるんだ、一晩付き合ってくれ!」

なんて言えるはずもない。

そんなことを言ったらなんて勝手な奴、非常識な奴って思われてしまいます。


相手の心の中に入っていきたい、自分の気持ちもわかって欲しい、自分を受け入れて欲しい、そして愛して欲しい


と誰でも想うと思います。



でも、絆を深めるって相手の心の中に入っていって一体になることではないんですね。


今までは良い関係だったのにもっと良い関係、もっと深い関係、もっと強い絆を、と欲が出て来たときにうまくいかなくなることがあるのです。


強い関係を求めるとは、相手に要求をすることです。

「私はこれだけ想っているのだから、あなたも同じだけ、いやそれ以上に想い(愛情)を返してください」と要求してしまう。

相手はこれまで通りでよいと思っていたのに多くを期待されてしまう。

それが負担になる。




だから絆もほどほどでいいと思う。

お互いに自由に飛び回っていて、いざというときだけ助け合ったり、一部の時間を共有し合う。

本当の愛とは相手の心を自由に解放してあげることなのではないか?

最近そう思うようになったのです。

日経新聞に“読書日記” というコラムがあります。

女優の中江有里さんが素敵な文章(本の推薦文)を書かれています。

次の日記でご紹介します。

よかったら読んでみてくださいね。


  
  

  



2011年12月27日 (火)

ユーモアとおち

  
  
人間は緊張ばかりしていてはうまく生きていけない。

緊張と緩和のバランスが大切です。

大阪から東京の大学に行った息子は「東京人には話におちがないんだ」と言っていました。

話をしていて最後にプッと笑わせたり、「なるほど」と唸らせたりする。わーい(嬉しい顔)

だからそれまでのネタフリが生きてくる。

大阪人(もちろん全員ではありませんが)はおちを意識して話を始める。

オチが面白くないと思ったら最初から話をしない。

「ふむふむ」

「だから?」

「それでどうなの?」

「おち(結論)はどこにあるの?」

「えッないの?」

「ないんだったら今までの話はなんだったの?」

大阪人は手厳しい!(笑) げっそり

おちがなければ瞬間瞬間で笑わすしかない。

これをギャグという。

ギャグも最初は受けても何回もやっているうちに新鮮さがなくなり、笑わなくなる。

これを しらける という (説明はいらないですよね)

大阪の人が東京へ行って成功する可能性は高いが、東京の人が関西に来て成功する可能性は低いのだそうです。(ビジネスの世界でも)

たぶん東京の人の気質が大阪になじめないのだと思います。

厳しい時代ほどユーモア、リラックス、緩和が求められます。

真面目な話ばかりだと息が詰まってしまいます。

そのためにも落語を聴いたりお笑いを見て研究しようかな

いやいや研究なんて堅いですよね(笑)。


私はどちらかといえば真面目な方なので(自分ではそう思っています)

年末年始はリラックスしてみたいと思います。
わーい(嬉しい顔)手(チョキ)


   

  

2011年12月26日 (月)

生きていれば必ず光は射す

  

  
 日本では

 一年に三万人以上の人々が

 自死しているという


 多種多様な問題や困難を

 一人で抱え込み

 誰に語ることなく

 不安、悲しみ、怒りや憤り

 無念や絶望の波が

 来る日も来る日も

 尽きることなく寄せては返し

 何の解決策も見出せないまま

 ついに自らが自らの命を断つ


 苦しみは逃げるのではなく

 受け入れてゆくのだ

 たとえ極限の中でさえ

 生きていれば必ず一条の光は射す

 人間には 自分の天命を

 果す義務と責任がある


 昨今 不幸にして

 若い人たちの自死も増えつづけているという


 やりたいことがない

 生きる張り合いがない

 何をしてよいか判らない

 毎日が虚しい・・・・という


 が、そういう若者は

 自分から何も求めようとはしない

 未来の希望も人生の目的もない

 ただ、毎日が無意味に過ぎてゆくだけ


 仕事も幸せも生きる喜びも

 ぼんやりと待っているだけでは

 向こうから何も飛び込んで来はしない


 自分から求める心

 働きたいという意欲

 世のために貢献したいという想い


 何事も真剣に

 自らが自らに働きかけてこそ

 初めて  人生が運ばれてゆくのだ


 一人一人の生命ほど尊いものはない

 この地上に

 自分という人間は二人と存在しないのだ

 まさに生命の奇跡


 ゆったりと一生かけて

 自らを磨き高め上げ

 内なる神性を引き出してゆくことこそ

 人類一人一人に与えられている天命なのだ


 何も死に急ぐことはない

 天命を信じて人事を尽せばよい

 すると必ずすべてはよくなる すべては調ってくるものだ


 結果 大成就あるのみ






         西園寺昌美





  

2011年12月25日 (日)

波動について

  

  
波動って難しいものではなくエネルギーと思ってもらえたらいいです。

物をずっと見つめていると波を打っているのがわかりますよね。

例えば机も波動=エネルギーで出来ています。

もちろん私たち人間の心(精神波動)も体(物質波動)も波動というエネルギー体なのです。

今地球に降りて来ている波動(エネルギー)が以前と変ってきています。

3・11の大震災の後、そしてクリスマスの今の瞬間も波動はどんどん細かくなってきています。

それは粗い波動から細かい波動への移行です。

先日お薦めした、「フォトンベルトの謎」渡邊延朗著には地球の波動が確実に変ってきていることが書いてあります。

粗い波動から細かい波動になるとは、アセンションに向けての準備が進んでいるということです。

人間の精神状態に関係なく、宇宙は法則の通りに動いています。

太陽が輝き続けるのが宇宙の法則のように、宇宙の星が寸分の狂いもなく動き進化し続けるようにエネルギーはただ自分の役割りを果し続けているのです。

宇宙からの波動が細かくなるとは宇宙の波動がそのまま降りて来るということです。

宇宙の波動は愛と調和と平和の波動です。(だから宇宙へ行った飛行士は意識が変わるといわれています)

その波動が降りて来ているのに、人間の意識が肉体意識のままだったら歪が生じるのです。

覆っている黒雲に強い光が当たると雲が飛び散るように不調和なものが現われるのです。(しかしその後で青空が広がる)

それが人間単位、地球単位で現われてきています。

体が不調になる、病院に行く、しかしいくら検査をしても原因がわからない、人が怒りっぽくなる、なんで怒ったのか自分でもよくわからない。

地球規模では地震や豪雨、異常気象が起る、これも原因がわからない。

わかるはずがないのです。(今の地球の科学レベル(意識)では)

それは波動(エネルギー)調整だからです。

私たちは自分や地球に不調和なことが起ると必ずといっていいほどマイナスにとらえます。げっそり

この危機を乗り越えて来たという経験知がないからです。

でも地球より進化していて地球と同じ危機を脱してきた星(金星)などの宇宙人(神様)は魂が知っているのです。

その人たちがキリストであり、お釈迦様などの聖者です。

「人間よ心配するな、すべては悪いものが消えて善くなるためのプロセスなのだ」

「心と体を痛めるより意識を宇宙に合わせよ」


というのが本当の宗教なんですよね。

そうすれば宇宙から降りて来る波動と肉体人間としての波動の調和(ハーモニー)がとれてくるのです。

健康って本来の自分の波動(宇宙の波動)と肉体波動を調和させるということなんです。

病気って気(エネルギー)が病んでいる状態なのです。

エネルギーを整えることで体は調和してきます。

だから今意識を変える時期なのです。

肉体意識から宇宙意識へのシフトをする時期なのです。

私は本心(宇宙)に意識を合わせていないと苦しくてしかたがないです。

そのためにも世界平和の祈りを祈り、印を組み、マンダラを書いてきました。

私の言っていることは科学的にも証明されなければならないと思います。

でないと精神的(目にみえない世界の話)なことばかりを言っても人は信用しないからです(笑)。

宇宙から地球へと降りてきているエネルギーが細かくなっていることはスーパーカミオカンデ(ニュートリノ検出装置)からのデータでも明らかになってきています。

宇宙から今まで降りて来たことのないエネルギーが降り注いで来ている・・・・。

それが何を意味しているのか?

宇宙(神)は私たちに何を希望しているのか?

それを考える時期に来ているのです。

私の書いてあることはスピリチュアルな世界と思われているようですが、私には全くその意識はないです。

3次元を一生懸命に生き、4次元とつながることが自分の幸せになり人類の幸せになると信じているだけなのです。

アセンションもいつになるかなんて(時期)どうでもいいと思っています。

ただ勉強はしています。

もちろん自分のためですが

そしてその勉強の経験がみなさんの参考になればいいなと思っています。

たくさんの本がありますが

少しずつご紹介していきますね。(でもこの手のものはあまりたくさん読まない方がいいと思います)



 「フォトンベルトの謎」 渡邊延朗  三五館


  
  
 世界人類が平和でありますように ぴかぴか(新しい)

 無限なる愛

 無限なる調和

 無限なる平和



  

怒りの80%はただの自己満足にすぎない。

  
  
喜怒哀楽、感情を表わす4つの顔ですが身体に一番悪いのはなんといっても怒ですよね。(と私は思っています)

自分も時々俗にいう “切れる” ことがあります。以前に比べると格段には減ってはいるのですが、私の場合は相手を “赦せない” と瞬間的に思った、いや思う前に感じた瞬間にもう爆発している。

でも同じことがあっても切れるときと切れないときがある。(これが不思議です)

人間は感情を超えない限り幸せになれないと思います。

喜怒哀楽の喜ぶことさえそれに執してしまうと把われてしまうとエネルギーが流れなくなり、私たちは平常心を失うのです。

人間の機微を描いた作家の故向田邦子さんは、穏やかに過ごすコツとして、“はしゃぎ過ぎないこと” と言っています。


これらの感情は自分自身で克服していくものです。(心の中は人それぞれ違うからです)

自分はどういうときに感情的になるのか?悲しくなるのか?はしゃぎ過ぎるのか?怒りっぽくなるのか?

自分の心の中を探ってみるのです。

心の中は他人には絶対に入らすことのない聖域です。

心理学者であろうと親であろうと親友であろうと、どんなに偉い人でも決して入ってはいけないのです。

そして、それは同時に相手の心の中にも入ってはいけないことなのです。

相手が怒っている(感情的に)のはその人自身の問題です。

相手の人が自分で自分の感情を処理すべきものであって

あなたまでその感情を受け取る必要のないものなのです。

そのことがわからないと相手の感情の世界に巻き込まれてしまいます。(相手の世界にいつの間にか入っていることになるのです)

相手がどんなに怒っていても自分が冷静でいるためには

自分で自分の心の中を客観的に観れるようになることが必要です。

そして自分なりに気持ちの整理ができるようになること・・・・。

私はある本を読んでそのことの大切さを知りました。

この気持ちの整理作業をしない限り、心にはいつもモヤがかかった状態になりスッキリしません。げっそり

みなさんもよかったら参考にしてみてください。



 

  
  
  
怒りの80%はただの自己満足にすぎない


怒りを感じても、声を荒げず冷静に対処できるようになると、自分がそれまで行なっていた 「怒り方」が本当は自己満足のためにものであったことに気がつきました。

「おまえのためを思って怒っているんだ」 という人がいますが(━まあ、私もかつてはそう思っていた一人ですが)、本当に心から相手のためを思って怒ることができているのは親が子どもを叱るときぐらいです。

そうしたときの怒り方は、決して人を傷つけることはありません。

実際、優れた教育者は人を導くときに決して怒鳴りつけるようなことはしません。厳しい言葉を使っていても、それは叱責というより優しく諭すような口調で語られます。

特別な場合の怒りは別ですが、私たちが日常生活のなかで感じる「怒り」に関していえば、人前で怒鳴りつけるような怒り方をするのは、怒るほうの「自己満足」にすぎないのです。

人前で怒らなければならない理由などどこにもありません。もし本当に相手のためを思うなら、ほかの人のいない別室に呼んで怒ればいいのです。

人前で怒るというのは、怒っている自分を、あるいは怒られている相手を周囲の人たちに見せつけているだけです。

そんなことをしてもいいことは何もありません。

相手が素直に反省できないのはもちろんですが怒った自分自身もスッキリするどころか、不快な気分になるだけです。

しかも、この不快さは、その場だけでなく長く尾を引くことになります。

怒る人は、怒りをすぐに発散してしまうので引きずらなくていいとよくいわれますが、それは嘘です。

人一倍怒っていた私がいうのですから間違いありません。

たしかに、怒ったその瞬間はストレスが発散されるのでスッキリしたような気がするのですが、実際にはその後、揺り戻しのように不快な感情が戻ってきます。

しかもその不快感は何時間も続くのです。

実際、当時はよく妻にこういわれていました。

「怒るとあなたも嫌な気持ちがするでしょ。あそこで怒らないで我慢していれば、その場だけですんだのに。なまじ怒ってしまうから、まわりの人も不快にするし、あなた自身もそうやって嫌な気持ちになってしまうのよ」

そしてそういわれるたびに、たしかに不快な気持ちを引きずっていた私は「あんなに怒るんじゃなかった」と後悔していました。

それでも、怒りを抑えることはなかなかできませんでした。

植木等の「スーダラ節」という歌に「わかっちゃいるけどやめられない」というフレーズがありますが、まさにそんな心境でした。

頭ではわかっていても、自律神経のバランスが崩れてしまうと、冷静さも判断力も低下するので、感情の抑えが利かなくなってしまうのです。

そのため、怒鳴らずゆっくり話さなければと思っていても、感情を抑えてゆっくり話すということがなかなかできませんでした。

私のような怒りっぽい人間が怒らなくなるためには、もう一つステップが必要でした。

それは、自分の行動を客観的に見直すという作業。

つまり、怒ってしまったあとに、そのときの自分を分析するのです。

怒った原因は何か、自分のとった行動は問題解決になったのか、ならなかったとしたらどうすればよかったのか。

こうした自己分析と状況判断を何度か繰り返していると、怒ることが悪い結果しか招かないことが、頭で理解するだけでなく、心から納得できるようになります。

ここまで来れば、あと一歩です。

次にするのは、「明日は絶対に怒鳴らないぞ」というように目標を設定することです。

こうした具体的な目標が立っていると、カッときて怒鳴ってしまったとしても、「あっ、いま、おれ怒鳴っちゃった。こりゃ交感神経が過剰に高くなっているな」というように、そのときの自分の状態を客観視することができるようになります。

これがとても重要なのです。

なぜなら、人は自分がいまどのような状態にあるのか認識できると、その瞬間に交感神経が下がるからです。

たとえば、友達と時間を忘れて飲んで騒いで盛り上がっているようなときでも、誰かが「もうすぐ終電だよ」といった瞬間に、一気に現実に引き戻されテンションが下がってしまうことがあります。

これも、自分の置かれている状況を認識したことによって、興奮していた交感神経が低下した結果です。

でもこうした自己分析、状況分析は、あらかじめ予想していないとなかなかできません。

だから、「絶対に怒らないぞ」とか、「怒ってもゆっくり話すぞ」というようにあらかじめ目標設定をして「気をつける意識」を持っておくことが大切なのです。




  なぜ、「これ」は健康にいいのか? 小林弘幸 サンマーク出版




   

2011年12月24日 (土)

日々の指針

  
  
・ 「もう半分しかない」 と 「まだ半分もある」。「もう歳だからそんなことも出来ない」 と「まだそんなことが出来ないほど歳をとっていない」。
 「残りの人生最後の日」と「今日は私の人生の最初の日」。「もう明日はない」と「まだ明日がある」。「余生あと十年しかない」 と「余生まだ十年もある」。「足が動かない」 と「まだ手が使える」 この二通りの言い回しは、全く同じ状態でありながら、明と暗、プラスとマイナス、積極的と否定的な考え方に別れる。
 あなたなら一体どちらの考え方を日頃しているだろうか? もしすべてが暗く否定的な考え方だったら、随分毎日が憂鬱で息苦しく、希望の無い人生を送っているに違いない。直ちに想いを転換し、積極的な生き方、プラスのエネルギーの方向に展開させるべきだ。さすれば運命は上昇間違いなし。


 


       「日々の指針」 西園寺昌美 白光出版




感想

最近日記を書いていませんでした。それは本を読むことに夢中になっていましてパソコンを立ち上げる気持ちにならなかったのです。

本はやっぱりいいですね、特に人間の“生き様”を書いているものは、その人の人生がそのまま伝わって来ます。

自分一人では限られた経験、体験しか出来ないけど本にのめり込む?気持ちが入れば入るほどその人と同じ経験知を積める。

そしてその人が乗り越えてきた強さ、知恵なども身に付けることが出来るのです。

今読んでいる本は「この国は俺が守る」田中角栄アメリカに屈せず 仲 俊二郎 なんですが田中角栄という人を私は誤解していました。金権政治をやった人、お金に汚い人、悪い人というイメージを持っていたのですが、事実は全く違っていた。(本の内容をすべてうのみにするつもりはありませんが)

本当に日本のこと国民のことをこれまで真剣に考えていた政治家がかつていたか? そして今いるか?

私はキリスト様を彷彿しました。 キリストも誤解されて権力者によって抹殺された、十字架に架けられた、民衆もそれに煽られた。

人間って馬鹿だなぁ、正義はむなしいなぁと思わずにはいられませんでした。

政治って何をするかが問題なのではなく、その政治家の思想、心の中がどうなっているかが大切なんです。

自分がどうなりたいか? どう想われたいか?なんていう邪心が一切ない人でないと国や地方や人を導くことなんてやってはいけないと思うのです。

今の政治家にそんな透明感、本当の人間愛、人類愛があるかなのです。

角栄さんにはそれがありました。 だけどそれを疎んじる人も多かった。

そして疎んじた相手は力(3次元的な)を持っていた。

イブの夜にキリスト様の話になり角栄さんまでいってしまいましたが(笑)、私たちは幼子のような綺麗な、クリスタルな心にならなければならないと思うのです。

キリストは大人たちにおっしゃいました。

“幼子のようになりなさい”

心の中に汚れたものがないように自分を磨きなさいという意味だと思うのでです。

キリスト教はキリスト亡きあと、改ざんされてきました。 キリストが語っていないことまで聖書に載せられてきた。

そして真実と違う言葉は響かないので信心している人も

「あれっなにかおかしいぞ!」と疑問を持つようになった。

だけど確信がないので信心しているみなに合わせるようになった。

宗教と共に世の中もおかしくなっていった。

今年は2011年です。 来年はいよいよ世界が変わる2012年を迎えます。

誰かに聴いたのですが、もう今の瞬間は12年に突入しているのだそうです。

波動がどんどん変って来ている。

人類が目覚め始めています。

私が読んでいる本も意識を変えよ、もっと強くなって肉体意識から宇宙意識、神意識へと移行せよ!

と訴えているように思うのです。

そのために私たちは“時間”を与えられています。

準備、猶予期間です。その間に意識を上げていかなければならない。

これからもっと未曾有の出来事、予期せぬこと、信じられないことが次々に起ってきます。

でもそれは新しい星に生まれ変わるため、素晴らしい星になるためのプロセスなのです。

最も暗いときを経験しないと明るい時代はやってこない。

それを信じて突き進んで行く、不屈の精神がいります。

その心の準備を今私たちはしているところなのです。

そのためにはマイナスと思えるようなことを

「これはマイナスではない、プラスなんだ、プラスから出たマイナスなんだ」と思えるようになることがすごく大事なことだと思うのです。

そうでないとマイナスをマイナスに受取ってしまっては

その先の光を見なければ

地球人類は今までと同じ失敗を繰り返してしまいます。

地球人類は今まで6回アセンションに失敗してきています。

ごめんなさい、失敗ではありません(笑)

意識がアセンションする時期でなかったのです。

精神的にまだ未熟だった。

意識がまだ付いていっていなかった。

しかし今回は本当にアセンションが行なわるのです。

そのための最終的な試験が人類に与えられています。

その試験の答とは

私は

3次元的な自分の精神を鍛えること

そして4次元への祈りを捧げること

だと思っています。

今日の指針は

3次元的な自分の精神を鍛えること

にはまることだと思うのです。

想念、思考をばかにしてはいけません。

想念、思考が自分の世界を創り、そしてその世界が他の人に影響を与え家族を地域を、国を世界をそして宇宙を創っているのです。

私たちはまず自分の想念をプラスに転換することから始めなければならないと思います。



世界人類が平和でありますように

日本が平和でありますように

私たちに天命がまっとうされますように

守護霊様ありがとうございます

守護神様ありがとうございます




 
参考図書

「この国は俺が守る」 田中角栄アメリカに屈せず 仲 俊二郎 栄光出版

「フォトンベルトの謎」渡邊延朗・著  三五館 


  
 
  

2011年12月20日 (火)

愛と赦し 7

  

  
自分を赦し、人を赦す
 


そこで私は、自分を赦し、人を赦す、という教義を表面に発表したのであります。

自分で自分を責め裁いている限りは、その人に神の子の真実の姿は現われません。 

神の子の心というのは、明るく柔和で、そして自由な姿でなければなりません。

神は自由自在心であるのですから、神の子の人間も、自由自在な把われのない心でなければなりません。

自己の行動にいちいち把われているようでは、神の生命を生き生きと生かし切るわけにはゆきません。

私は人間のこの盲点を知りましたので、すべての業想念的、つまり本心や良心に反する想念は、みな実際にある神のみ心ではなく、消えてゆく姿なのだ、神の子の心はただ輝きわたっている光明心で、純真な自由な、のびのびとした明るい柔和な心なのだ、というように、すっぱり割り切って、自己の誤まちに対しても自分自身を責め裁かぬように教えはじめたのです。

こういう生き方をすることによって、良心的な人も自己を責め裁く、暗い気持ちを持たず、自己のもつ良い心の面だけ、光明心だけを認めて生活してゆけるわけになるので、一瞬にして、その人々の生活は明るく豊かな道に入ってゆくことになるのです。

そして、更に自己の想念を、世界平和の祈り言の中に投入してゆく方法もあるのですから、自己の想念行為の誤まりを認めたら、その想念行為を否定する想いで、これはすべて過去世からの業想念の消えてゆく姿なのだ、とはっきり割り切って、いつまでもその想念に把われている愚をおかさず、祈り言まで高めあげてゆくことが大事なのです。





 

       「愛と赦し」 五井昌久白光出版小冊子より






 
感想


文章はまだ続くのですが、忙しい人には長い文章は苦手になるようです(笑)。そこで途中ですが区切りのいいところで止めてみました。

さて、

「私たち人間の頭の中ってどうなっているんだろう?」

「どうしてこんなことを想ってしまうんだろう?」

「思おうとしてないのになんで次から次へと想念って浮かんでくるのだろう?」

と思いますよね。

それは、人間というのは肉体界だけに住んでいるのではなく、潜在意識の世界である幽界と霊界、神界にも、実は同時に生きているのです。

そして当然住んでいるということは幽体、霊体、神体という目にみえない体があります。(エネルギー体、波動体、心のこと)

肉眼で見えるのは肉体だけです。

想いというのは、肉体にくっついている幽体から流れて入ってきているのです。

幽体には過去世から想っていた想念がいっぱい溜まっています。

だから今想っていることは、前世での想念行為が出ているのです。

前世においてある人を憎んでいた、そして今生でもその人に会った(記憶はありませんが)

なんだかしらないけど、その人を見ると無性に腹が立ってきた。

だから今いじめてられている人は、前世でいじめられている人をいじめているのです。(ややこしいですね)

つまり自分がやっていたことが今生で返ってきているのです。

今現在と思っている今はほんとうの今ではない。

過去世が時間を経て現われてきているのです。

だから肉体界は現在ではないのです。

本当の現在はどこにあるかというと、霊界、神界にある。

なんだかわけがわからな~い げっそり

当然だと思います。

私も本当に理解するまでかなりの時間を擁しました。

誰もこんなこと言ってませんしね。(仏教では因縁因果で言っておりますが)

つまり早い話が、肉体の自分は本当の自分ではないということです。

苦しんだり悩んだり悲しんだり喜んだりしている自分は本当の自分ではない。

本当の自分は神界にいる。

神界にいる自分はどういう人かというと

肉体界の自分と真逆なんですね。

苦しみ悩み悲しみのない明るく朗らかな光輝いているのが本当の自分なんです。

でも肉体(肉体界)にしか意識がないから苦しんでいる自分が本当の自分だと思い込んでいる。

お釈迦様は、肉体に意識があるうちは悟れない、幸せになれない。

だから坐禅を組んで、頭を空っぽにして(空になって)仏界(神界と同じことです)とつながることを説いたのです。

神界には本当の自分がいる、これを本心ともいいます。

神界、仏界、天国、宇宙、サムシング・グレート、大自然、神・・・・いろんな言い方をしますが同じことなんです。


書いていてわかんなくなってきました(笑)。

みなさんは余計にわかんないですよね。

でも、少しでもなんなくでも 

人間とはなんぞや?

がわかっていただけたら大成功だと思っています。わーい(嬉しい顔)





追伸
 
「神と人間」五井昌久著 白光出版を読まれたら私の書いていることがもっと理解できると思います。


  
  

2011年12月19日 (月)

愛と赦し 6

  

人間神の子の生き方と良心的生き方

 

正義心と同じような心に良心というのがあります。 この良心のあるために、人間はどれ程悩むかわからないのですが、またこの良心のために、人間はやがて神の子の姿を、この地球世界に完全に現わすことができることができるのであります。

この良心という心は、正義心が他を責め裁くという欠点を伴いやすいと同じように、自己を責め裁きがちになるのです。

良心の強い人は、ちょっとした誤まちでも自分を責め裁いて、自己の心を暗くしますが、良心の光の弱い人はかなりの悪事をしても、恥じることも反省することもないのです。

とかくこの世の生活では、こうした良心的でない人の方が、社会的な高い地位をしめていたり、財産を多くもっていたりするものです。

それは、自己の行動に、これは善か悪かなどという、ためらいがないので、一直線に目的を達することができるからなのです。

良心的な人というのは、どうも、自己の行動に批判的な想いが多く、ああすればあの人に悪いし、こうすれば、あちらの迷惑になる、などと考えたりしているうちに、他の人に先を越されてしまったりするので、つい地位や財産が得られなくなってしまうのです。

神のみ心からみれば、良心的な方が良心的でない人よりよいにきまっているのですが、人間神の子の立場からみると、良心的なあまり、自己の心を責めたり裁いたりすることは、かえって、神のみ心を責め裁いて、暗いものにしてしまうことは、どうも、神のみ心の光明心、本心に反しているように思われるのです。

人間の本心は光明心なのですから、その光明心を暗くするような想いは、どんな理由があろうとも、これは本心に反することなのであります。

と致しますと、良心に忠実なために、自己を責め裁くということは、良心に忠実な点だけはプラスであっても、自己を責め裁いて、心を暗くするという点はマイナスになるということになります。



  


       「愛と赦し」 五井昌久 白光出版 小冊子より



 


 
感想

正義心が強すぎても、良心が過度であってもそれは自分や人を責めることになる。

“過ぎたるは及ばざるがごとし” はまことに真理であり、バランスというものが大切だなぁと思うのです。

私は以前、調和波動気功を始めた頃にメンターから

「あなたは真理(神、本心)にも素直だけど、業(神から離れたマイナスの想い、カルマともいう)にも素直ですね」

と言われたことがありました(笑)。

これには苦笑するしかないのですが、もういい加減で業を引きつける、つかんでしまうことからは卒業したいです。(みなさんもそうですよね)

これからマイナスを引きつけずにプラスのみを心の中に入れていく、私なりの方法をご紹介していきたいと思っています。

よろしくお願いしま~す。
わーい(嬉しい顔)

  



  

2011年12月18日 (日)

愛と赦し 5

  
  
 
愛とゆるし


白光の教義に、自分を赦し、人を赦し、自分を愛し、人を愛す。という言葉がありまして、愛と赦しというように二つに分けてありますが、赦しというのも、実は愛の心の一つの現われであるのです。

しかし、こう二通りに書き現わさぬと、はっきりわかりませんので、二つに分けたわけです。

そこで、愛(おもいやり)寛容(赦し)この二つの心を、私は人類にとって最も大切な心として教義に現わしているのです。

私は青年の頃は、正義の心が強く、自分の正義心に反する行為をする人々を、責め裁く想いが強かったのですが、宗教の道に本格的に入ってからは、そうした責め裁く想いが、まるでなくなってしまって、寛容というような心がそれに入れ代わったようになってしまったのです。

ところが、このおもいやりの心とか、寛容の心とかいうものは、生まれながらの素質によることが多いので、そういう心が大事だから、努めてそういう心になりなさい、といっても、言葉や文章でいわれたぐらいでは、なかなかそういう心になれるわけではありません。

だが、自己を幸せにし、人類の平和をこの地球界にもたらそうと思うならば、どうしても、正義心、おもいやり、寛容という、こうした心を根底にして生活しなければならないことになります。

自分だけが正義ぶって、他を憎んでいるようなかたよった想いでは、とても人類は平和にはなりません。

能動的、積極的な人には、よくこういう人をみかけます。

正義心だけを唯一なもののように思って行動していますと、自己と他の正義の考え方の相違があったりして、正義と正義がぶつかり合って、争い合い殺し合う、正義にもとる、神のみ心に反する結果を生み出してしまったりするものです。

個人個人の思想的なものにもそれがありますし、国と国との考え方にも、自分よがりの正義への道がありまして、お互いの正義が喰い違ってくるのです。


ですから、正義という旗印だけを先頭に立てての行動は、甚だ危ないものなのであります。

米国は米国なりに、ソ連はソ連なりに、自己の行動を正義化しているのをみても、肉体的人間同志がいい合いになっている正義の道などというのは、あまり当てになるものではありません。

何にしても、この世の相対的な考えというものの中には、どうしても、自分よがりの考えが入りやすく、神の声による行動が出来難いのであります。




    

        「愛と赦し」 五井昌久 白光出版小冊子より




  



2011年12月16日 (金)

愛と赦し 4

  
  
 
正義心に寛容を兼ね備えよ


この地球界からあらゆる平和を奪ってゆこうとしているのは、冷酷非情という業想念(カルマ)です。

冷酷非情というのは、神の光の届いていない状態です。

人間のうちなる神性が、業想念に蔽われつくして、光を外に出し得ない状態なのです。

自我欲望のために、平気で人を殺傷したり、陥れたりできる人は、神性隠蔽の最たる人です。

国家の指導者といわれる人には、意外という程、こういう人々が多いようです。

そこで、今日まで、なかなか真実の平和世界、調和した世界ができなかったのでありましょう。

自己の欲望達成のために、他を踏みにじり、傷つけてゆく、ということは、神の心、愛にそむく最大の業想念行為ですが、こうした人々や、国々を、恨んだり憎んだりしてしまっては、これまた、自らも業想念波の中に飛びこんでしまっていることで、折角の正義心が汚れてしまいます。

正義心の強い人は、自己の正義心に照らして、どうしても不正や悪を憎む想いも強いようです。

だが、どういう立場にあろうとも、憎悪の想念をもつことは、自己の神性を汚すことなので、そうした想念があっては、神のみ心をこの地球界に現わすことを妨げる結果になってしまうのです。

正義心というのはやはり神のみ心の現れで、この世を善いものにするためには、絶対に必要な心なのですが、正義心の他に真の愛の心の現れの一つである寛容という美徳を兼ねそなえないと、この地球界に完全なる神のみ心を現わすことができないのであります。

正義心というのは、とかく裁く心を伴いやすいのですが、寛容という心も、ともすると、悪や不正を見逃しがちになります。

そこで、この正義の心と寛容の心とが、うまく調和して現わさなければならないということになるのであります。

寛容というのは、一口にいって、広く容れる心寛大な心、というわけですが、この心は愛の心の一つの現れなのです。

愛の心は、おもいやりという風にも現われますし、寛容、赦しというようにも現われます。

思いやりの心は、愛の心が細かい心遣いになって、相手の想いの波に同調しながら光を入れてゆく、ということですから、こちらから相手の心の中に入ってゆくわけです。

寛容の方は、相手の心の波、想いの波を、こちら側に受け入れて、自己の心の中で昇華させてしまうことであります。

この二つの心があれば、たいがいの人は、その人に好意を持ち、その人の愛の心を受け入れると思います。




   
         「愛と赦し」 五井昌久 白光出版小冊子


  



感想

私も正義心が異常、いや尋常ではなかったので人との調和に苦労した時期がありました。(いや、実は今もしています)

正義心も強過ぎると自分を傷つけ相手にも相当なダメージを与えてしまいます。

寛容というのは、甘やかすのでなく人間の業の深さを知って、「神性に目覚めていない肉体人間ではしかたがないことなんだ」と相手の心境、立場なりをおもんばかることだと思うのです。

人は相手に神を求めることがあります。

人間として人間性(神性)のない人を激しく攻撃するところがあるのです。

でも一方では、「人間なんてしょせんどうしようもないものなのさ」などと自分の気持ちを誤魔化して投げやりになったりもするのです。

真実とは人間は本来神そのもので美しい心を持っているものである。

しかし神から離れた心に徐々に誤った想いが重なり、神性を覆ってしまった姿になってしまった。

だがしかし、ときには光が差して神性が現われて素晴らしい人になったりもするのです。

そのいろんな状態を観て私たちは一喜一憂をしているのだ。

ということがわからないと

人間というのはわからない、不可解なものだという考えが堂々巡りを始めるのです。

わからないということほど苦しいことはありません。

心の中にモヤがかかった状態なのです。

だから人間は真理の探求を怠ってはいけないのです。

それは生きるということを放棄することになります。


またまた堅い話になってしまいました(笑)。

これから先の話も興味深いのでよかったらお付き合いくださいね。わーい(嬉しい顔)



   


  

愛と赦し 3

  

  
神を愛する心
 


愛とはそうした神のみ心であって、人間は愛の行為によって、神のみ心と一つになり得るのであります。

その愛の行為のうちで最も高いとされているのが、神を愛する心、信仰心なのであります。 

神を愛するというのは、どういうことかと申しますと、神の実在を信じそして仰ぐと共に、神のみ心を行為にうつして生活してゆくということであります。

神のみ心の最大のものは、万物に光を与える、すべてのものを生かし切るということなのです。

そこで、神を愛する人間は、万物に光を与えるような想いを抱き行為をしなければならないということになるのであります。

真の愛に裏表はないのです。

只、光明一元の心なのです。

愛の裏が憎しみだなどとは、全く愛の本質を知らぬ虚言であるのです。

如何程愛して裏切られたとしても、裏切られたことは、自己の過去からの業想念の消えてゆく姿として起ったことであって、相手を恨む何ものもないのであります。

愛が恨みに変化したとしたら、その愛は、愛と呼ぶべき性質のものではなく、自我欲望の想念行為であったというべきです。

私の詩集 『いのり』 に “愛することは” という詩があります。

あの詩の中で、

愛することが哀しい時があっても

友よ 愛しつづけてゆかなければいけない

あなたの愛がたとえ地上に燃える焔(ほのお)であっても

神はあなたの愛が天上界のものであると知っている


という一節があります。 この地球界で真の愛を行ずることは、全くむずかしいことです。

この地球界の愛情には、悲しみがつきまとうものです。 

妻や夫や恋人や子どもたちが、いつでも素直に自分の愛を受け入れてくれるものではありません。

愛されていると知りながら、かえってその愛を裏切るような行為をしてしまうことがよくあるものです。

愛されれば愛される程、どこまで愛してくれるか試してみたい、などと思う、恋人や子供がよくあるものです。

愛しても愛しても、自分の心を素直に受けてくれない時などは、全く愛することの非哀を感じるのは誰しものことです。

しかしそれだからといって、愛することを止めてしまったり、相手を憎んでしまったりしたら、折角の神のみ心が現わせぬことになってしまいます。

愛することが哀しい時があっても、やはり愛しつづけることが大事なのです。

愛するというそのことが、神の光なのです。

愛は時には、焔(ほのお)のように燃え盛る情愛となって現われる時もあります。

しかしそうした時でも、常に神のみ心の中に自己の想いを一つにするような祈り心になっていれば、その人の愛は真の愛から離れることはないのです。

『神と人間』 という著書にも書いてあるように、愛がもしも愛情という形で流れてゆくような時があったとしても、愛から全く離れた、冷酷という、光の無い想いよりも、そうした愛情の方が神の光を現わす機会が多いと思うのです。




   
          「愛と赦し」 五井昌久 白光小冊子より



 


  

感想

自分の愛を相手の人は素直に受け取ってくれない

それどころかその愛が本物なのか試してみる

人間の心理の複雑さ、お釈迦様は人間の心を「へびのようだ」(蛇蝎のごとく)のようだと言っておられますが(笑)

ほんとその通りだと思うのです。(無限なる愛)

曲がりくねって屈折して訳がわからない げっそり

女心と秋の空どころの騒ぎではありません(笑)。

わからないと言えば話は長くなるのですが以前、NHKの朝ドラで「ちゅらさん」をやっていましたよね。

主人公の国仲涼子が介護ヘルパーの役をやっていました。その介護先で体が不自由な夫人に献身的に介護をしていたのですが、明るく接していて仲良くなったのにある日突然冷たくされるようになった。「自分が何か気分を害することを言ったのか?」いくら聴いても言ってくれない、そしてその態度は頑なになるばかり。それでも恵里(えり)は精神的にぼろぼろになりながらも介護を続けた。 最後になってようやく真相を教えてくれたのは介護されている女性の夫だった。
その真相を聴いて私は愕然としました。
「あなたのことが好きになってしまいそうで怖かった、介護が終わってあなたと別れる時に辛い想いをするのが嫌だった、だからあなたのことを嫌いになろうと思ったの」
なんという身勝手なんでしょう。自分を守るためにここまでやっていいものか? 相手を苦しめてもいいのか?
でも人間の心理ってこういうものなのかもしれません。
私は素直なので(笑)とてもこの心理は理解できませんでした。
しかし人間界で生きていくためには
「こういうこともあるんだ」と知っておかなければ穏やかにすこやかに生きてはいけないのです。
素直って素(もと)に直って書きますよね。
素って宇宙のことなんだそうです。
宇宙にそのまま真っすぐにつながっている人を素直っていう。
素直な人って邪心(よこしまな心)がないから生きていくのが大変なんです。(自分で言うなよ)
でも本当です。 だから素直な人は経験を積んで強くならなければならない。
しかし愛を失わないで、愛することを続けていかなければならないミッションがあるのです。

ちょっと話が堅くなってきましたね(笑)。

では、この辺で終りにしときます。
わーい(嬉しい顔)


  

  

2011年12月15日 (木)

愛と赦し 2

  
  
愛の心に憎しみはない


愛の問題は、人間世界にとって重大なる問題であります。

神は愛なりといって、愛の心そのものが神そのものである、とさえいい切っている人もあるのです。

ところが仏教的にいえば、この愛というものも、業の中にいれてあるのであるのでして、一概に愛と呼ばれている心の状態もなかなか複雑になってまいります。

愛というのは、合、相という言葉と同じ意味をもっておりまして、自と他とが一つに合する働きをする時に起る心の状態であります。

ですから、神のみ心は、すべてのすべてを生みなしたみ心なので、神の中には自と他という区別が無いわけであります。

そこで神は愛そのものである、ということになります。

そのような神のみ心は、分生命(わけいのち)、分霊(わけみたま)である人間のうちにも働いておりまして、愛したい愛されたい、愛さずにおられない、という想念が湧いてくるのです。

そしてこの愛の心が、縦に天に向けられた時、魂の内奥に向けられた時には、神への信仰、神への愛となり、横の線、つまり人類社会にむけられた時には、人類愛となるのであります。


このような、信仰心と、人類愛の二つの面にははっきりと愛の心が働いていてさえすれば、この地球界には、不幸やあやまちが生まれてこないのですが、ともすれば愛は執着の想いを伴いやすく、愛の心の流れが、把われの想いで、一つの想いに止まってしまうのです。


さあ、こうなりますと、愛することが苦しみとなり、愛されることが重荷となってきまして、そこに不幸や悲劇が生まれてくるのであります。

愛と憎しみとは裏表だ、愛の強い人は憎しみもそれだけ強いのだ、などという人もいますが、それは誤りでありまして、愛と憎しみとは、全然種類の異なった想いで、愛は神のみ心の本質的な心であり、憎悪は、神の中には無い、いわゆる実在的でない想いであり、やがてはこの地球界から無くなりきってしまう、消えてゆく姿的な感情想念であります。

ですから、愛の心から憎悪の想いは絶対に生じるわけがないので、愛の心は常に光に充ちているのです。

ところがどうも、あんなに愛していたのに裏切った憎い奴、という式に、自分の愛が充たされぬと、相手を憎んでしまうのが、世の常の人の想念には多いようです。

これは愛する、ということが、光を他に与えることである、という神のみ心、つまり原則を知らないからなのであります。

神様はすべてを与えっぱなしに与えつづけております。

神様は与えつづけて、何ものからも、その報いを受けようとはなさっていません。




    

        「愛と赦し」 五井昌久 白光出版小冊子より







 

愛と赦し

  
  
いいかっこうをするようですが

私は人間の存在する意味とは、なんのために自分や他人や宇宙があるのだろう?という答は

愛を学ぶことだと思っています。

人間の進化とは愛が成長することです。

愛にもいろんな段階があると言われています。

地球が地球人類が幼い(精神的に)と言われているのは(進化した宇宙人たちに)愛が未熟だということだと思っています。

愛っていったいなんなんだろう?

前に日記で愛は神であり神は愛であると書きました。(か~あ み~い)

愛の本質がわかれば宇宙がわかる

宇宙がわかればすべてのすべてがわかります。

ちょっとたいそうになってきましたがここからは私の知識?の範疇を越えます。

私の尊敬する五井先生に愛について語っていただこうと思います。

何回も何回も何回も読んでも新しい発見がある文章です。

何回かにわけて書いていきますので

興味のある人はお付き合いください。(無理をして読まないでくださいね)


次の日記から本文を書いていきます。




  
 

人と人間は違うのです。

  
  
 
人間の悲しみ、苦しみって人間というものがなんなのか?がわかっていないことから始まります。(偉そうに書いていますが私も見失ってしまっています)


その答がわかればいらない気苦労はしなくて済むのです。

人間とは神様と動物の間という意味です。

神聖な神の子としての自分と、神様から離れた動物性、つまり感情を持った自分がいる。

みなさんも気づいていると思うのですが自分の中に神性(ピュア)な部分と嫌な部分不純な部分がありますよね。

日常生活を送っているとこの両方の部分が顔を出すのです。

それを自分や他人に観て一喜一憂している。(素晴らしい!嫌な奴だの繰り返しです)

人間とは玉石混交(ぎょくせきこんこう)、玉(光輝いている)と石(くすぶっている)が混ざり合った存在なのです。

私たちはこの玉の部分だけを観ていればいずれは玉(神性)だけになるのですが、玉を観ずに石を観ているのです。

つまり神性の現れている長所、素晴らしいところを観ずに、業の現れているマイナス面ばかりを観ている。

だからマイナス面ばかりが力を得て大きくなってしまっているのです。(自分の心の中で)

子どもを良い子に素晴らしい子に育てるには褒めて認めてやることが大切なんだと最近言いだしました。

子どもは認めてもらう褒めてもらうことによって自分に自信が付きます。

「自分は素晴らしいんだ!」

「無限の可能性、能力があるんだ!」

と思い込みます。

そして自分が逞しく思え、自分のことが好きになるのです。

そうなると他人から

マイナスを吹きこまれそうになってもくじけません。

「そんなことないよ、自分は素晴らしいんだ!」

とはね返します。

それが本当の強さなのです。

どんなマイナスにも動じないのが

本当のプラス思考です。

話が長くなってしまいましたが(笑)

人間と人とは違うでしたよね。

人は霊止(ひと)という意味です。

霊とは神様のことです。

つまり神様が宿っているのが本当の人間姿なんですね。

人間は宇宙神の光から分かれた直霊です。

だから宇宙神そのもの、神そのものなんですね。

創造主です。

動物は宇宙(神様)が創ったものではあるのですが

被創造物です。

つまり自分で自分の世界を創ったり出来ないのです。

これから人間は人へと進化していきます。

それがアセンションの本当の意味です。

金星などの進化した星の仲間入りをします。

そのプロセス(過程)として人間の中の動物性が消えていっているのが今の状態なのです。

動物性が消えるときには、嫌なこと、見たくない姿、辛いこと、悲しいことも起るでしょう。

でも五井先生の詩にあるように

私たちは愛することを止めてはいけないのです。

もうすぐそこに光が見えています。

後もう少しの辛抱です。

日本人は忍耐強いと言われています。

日本から世界を変えていきましょう。

祈りによって地球をを神の星に変えていきましょう。

愛がいっぱいの星にしていきましょう。



か~あ

み~い




世界人類が平和でありますように

日本が平和でありますように

私たちの天命がまっとうされますように

守護霊様ありがとうございます

守護神様ありがとうございます

  
  
  

愛することは

  
  
人をずっと愛すること、いや愛しつづけるって難しいですよね。

男女間もそうですが親子でも友人でも職場でも

最初はうまくいっていたとしてもなにかがあると急に冷めきった関係になったり身に覚えが無くても嫌われていたりそれがいつの間にか無視、いじめになったりする。

「わけがわからな~い」げっそり

ということになったりします。

それだけではなく自分がその人たちに対し以前のように普通に接することが出来なくなるのです。

昔のあの親しみはどこへ行ったんだろう、自分の笑顔はどこへ行ったんだろう?と今度は自分への不信感へと変わっていくのです。

そしてあれほど自分が大好きだったのに

嫌いになってしまいそうになる。(危ない危ない)

最近書いたツイッターブログには人を愛するより前に自分を愛することが大切なんだ。

自分を好きにならなければ人を本当に好きにもなれないんだ。

があります。

愛については深いし私のテーマでもあるので、これから書いていこうと思っていますが

ある詩に心が惹かれました。

愛することを止めたくなったとき、自暴自棄になりそうになったとき

勇気づけられます。

よかったらお付き合いください。


 


愛することは


愛することが哀しい時があっても

友よ 愛しつづけてゆかなければいけない

あなたの愛がたとえ地上に燃える 焔(ほのお)であっても

神はあなたの愛が天上界のものであることを知っている

愛は神のみ心そして地上の光明

愛することは深い喜び

愛することは深い哀しみ

この世のいのちの流れの中で

縁(えにし)美しく花開くは

人と人との愛の交わり


国と国とが愛し合えない非哀の時代にあっても

せめて人と人とは愛し合わなければいけない

人はみな神のいのちに分れ

本来一つのもの

私とあなたは一つのいのち

私たちの愛の心が

光明となって国に充つる時

それは世界の平和を導き出してゆくことになるのだ


友よ

愛して心哀しい時があっても

愛しつづけていなければいけない

その愛はやがて

輝かな喜びとなってあなたにかえってくるに違いない

神があなたを愛していてくださるように

あなたの愛も相手を柔かく包んでいるに違いないのだから



    

    五井昌久 (詩集 『いのり』 より)




  


  




2011年12月14日 (水)

軽く受け止めて、流す、外す、消す

  
    
どの本に書いてあったのかは忘れたのですが

ある男がパーティに招かれて会場に行った。するとそこはフォーマルスーツを着た男性と

着飾ったドレスの女性ばかり、だが男はジーンズにトレーナー姿だった。

招いた男は「しまった」と思い、その男のところへ行ってこう言った

「すまんすまん君にこのパーティの内容を言っていなかったね」とバツが悪そうに謝った。

しかし男は別段気にする風もなく周りを見渡して「ほんとだ俺だけ違う格好をしているね」

と言って笑い飛ばし、その場に居た人たちと談笑を始めたんだそうです。

実話なんだそうですが、なんという器の広さなんでしょう。

普通ならば会場からすぐに立ち去り、招いた友人を責め、招待状にその旨を書いていな

かったことを責め、確認を怠った自分を責めていたでしょう。

しかしこの人は自分に自信があった、そしてそれだけでなく自分のことが好きだったんで

しょうね。

周りの目なんか気にしない、周りから失笑を受けても自分がみじめになんかにもならない。

なにか突き抜けた感じがします。

こういう人を

“自由自在心” というのだと思うのです。

こんなふうに生きられたらどんなに楽で素敵でしょう。

ここまでいかなくても

ツイッターで書いたように

軽く受け止めて

そしてサラリと流すことは出来そうです。

相手は重たいものを背負っています。

そのまま受け取ってしまっては自分も重たくなる。

そんな人が何人もいたら潰れてしまいます(笑)。

だからほんの少しを受け取って(5%くらいでしょうか)

後は流して行くのです。

流すだけではそのエネルギーはどこかへ行ってまた迷惑をかけてしまうので、消してしまう

のです。(世界平和の祈りで)

するとそのエネルギーはプラスの光のエネルギーとなって重たい人のエネルギーを軽くし

ます。

私は世界平和の祈りを祈り消す方にばかりに意識が行っていたのですが、受けて流すこと

にはあまり気にかけていませんでした。

ところがこれだけ世の中が混沌とどんよりしてくると来るエネルギーの量が凄まじく簡単に

流れなくなってきたのです。

祈りだけではすぐに流れなくなってくる。(そして溜まってくる、それがストレスです)

そこで軽く受け止めることが必要になってくるのです。

真面目な人は全部受け取ってしまいます。(だから良い人は早く死ぬと言います)

一方、いい加減な人はすべてをスルー(相手にしないつまり無視)してしまう。

どちらもだめなのです。


軽く受け止めるのもそこに明るくぴかぴか(新しい) が加わればよりベターですね。




世界人類が平和でありますように

日本が平和でありますように

私たちの天命がまっとうされますように

守護霊様ありがとうございます

守護神様ありがとうございます







追伸

調和波動気功法では、「流す、外す、消す」です。

 軽く受け止めるというのはありません。

私が進化(成長)して軽く受け止めるが出来るようになったなら

本来の「流す、外す、消す」が出来るようになるのだと思っています。

調和波動気功法

http://homepage2.nifty.com/hmwave_goldendoor/


   
  

2011年12月12日 (月)

愛と愛情は違う

  
  
 
子どもと接していてつくづく思うのは

子どもを甘やかしてはいけないなぁ、頼らせてはいけないなぁということです。

子どもは幼い頃は愛情をたっぷりと与えなければいけませんが自分で出来ること、自分自身でやらなければならないことまで手を出してやってあげるとするとそこに依存心ができます。

「自分でやるよりも人にやってもらった方が楽だ」そう思ってしまったら元(ゼロ)に戻し、自分でやらせるようにするのは至難の業です。

愛情と愛が違うのは、愛情は相手を自立させにくいのに対し、本当の愛とは厳しいものだと思います。

貧しい国を助けるのも、弱っている人を助けるのも、そこに“自立”が見えていないとかえってその人を弱らせることになる。

冷たいと思われるかもしれないけど本人のためには厳しい方がいい場合が多いのです。

でもそれって辛いですよね。

嫌われる可能性がある。

いや嫌われ役になる覚悟がいります。

今回も日々の指針から抜粋します。





 
・ 外部からの援助は人間を弱くする。自らの手で自らを励まし、何事にも屈することなく、勇気づけようとする精神こそ尊いものである。
人の為によかれと思って援助の手を差しのべる時は、余程の読みが必要である。相手の自立の気持ちを失わせるようであっては、かえって援助がマイナスとなって働いてしまうからである。人生は自分の手によってしか開けないものである、ということをよく知ることである。




  

        「日々の指針」 西園寺昌美 白光出版



  


   

心に肉体を纏っているのが人間なのです。

  
  
 
まず最初に心、魂というものがあってそれを覆っている(まとっている)のが人間なのです。

心に肉体という服を着ている。

服が無くなっても心は残るのです。

そして時期を経てまた肉体を纏って肉体界に生まれ変わる。

肉体界にいないときは幽界、霊界、神界の世界でちゃんと生きています。

そのことがわかっていないので

肉体界を去ったら(死んだら)もうおしまいだと思っている。

先日、義理父が亡くなって喪中のハガキを妻が頼んできたのですが

そこには、永眠とかかれていました。(暗く重たい感じがしますよね)

「しまった!」と思ったのですが

この永眠という言葉ほど誤解されることはありません。

お義理父さんはちゃんと生きているのに・・・。

眠ってなんかいないのに(笑)

でも一般的には

肉体の死は

永遠の生命が無くなるということなんですよね。

これだけ情報が発達しているのに

まだ世の中の意識はそうなんだとちょっとびっくりしました。

人類は今、真理を知る時期に来ていると思います。

以前は、真理の本を読むことはなかった、手にすることも、目に触れることもなかったと思います。

しかし人類はほんとうのこと(真理、真実)を求めていると思います。


日々の指針は真理に目覚めるための“往復ビンタ”(笑) と言ったら

言い過ぎかもしれませんが

「いい加減でしゃんとしなさい!」

「いつまでも自分を誤魔化すな!」

「甘えるな!」

「目覚めなさい!」

と語っているように思えてしかたがないのです。

「喝ーっ」パンチちっ(怒った顔)

を入れられているようです。

少し怖いかもしれませんが(笑)

勇気のある人はお付き合いください。




 

・ 時間がない、お金が無い、才能が無い、力が無いなどと下らない言い訳をしても、なんの足しにもならない。すべては自分の至らなさの言い訳にすぎない。自分の本来持てる力を充分に発揮しきれず、何もかも中途半端で放り出し、あきらめきってしまった人の最も体(てい)のいい弁解にすぎない。
自分は愚者です、といっているのと同じである。


 
 

・ あなたの人格が向上し、進歩し、更に今より一層高まるよう、毎日努力していかなければならない。それが為にはよい本をたくさん読むことである。その中で最もよい本は真理の書である。毎日、真理の書に親しんでいれば、決して誤った道を選ぶことはなくなる。 「神と人間」五井昌久著は人類に幸せをもたらす光の書である。




 

・ 正岡子規は 「さとりとは、いかなる場合にも平気で死ぬことかと思っていたのはまちがいで、さとりとは、いかなる場合にも平気で生きていることであった」といっている。
全くその通りであって、完全に生をまっとうすることによって、はじめて死をもまっとう出来得るものである。
生を逃避することによって、死への恐怖を拭いさることは不可能である。
生への恐怖を乗り越えることによって、死への不安はまったく無くなる。
生と死とは別なものではなく全く一つのものである。



・ 騙された、裏切られた、と人を恨むでない。騙された君が悪いのだ。裏切られた君が悪いのだ。騙した相手が悪いのでも、裏切った相手が悪いのでもない。ただただ君の前生の消えてゆく姿なのだ。ここで騙されることによって、前生の因縁がその人を通してやっと消えていこうとする時に、またもや、騙した相手が、裏切った相手が悪いと思いこんで、恨んだとしたら、消えてゆくどころか、またここで再び二重の罪を背負わなければならなくなる。これは真理を知らない人の落とし穴である。
真理を知ろうとしない人は、気の毒なことに、いつまでたっても一生裏切られの人生を歩んでゆくより仕方がない。


 


・ すべて苦しみの元は、その人の心の中にある。一切の自己弁護を避け、我の想いを捨て、正しく自分を見つめれば、その苦しみの原因があざやかに心の表面に浮かび上がってくる。原因がわかれば、後は悩まず、悔まず、消えてゆく姿として世界平和の祈りに入れ、神に感謝するのみである。すると不思議なくらい安らぎを得られるのである。




・ 人は何か事にあたると「やるだけやってみたのだが・・・・」と必ずいう。が 「やるだけやってみたのだが・・・・」の解釈では、私にとって全く中途半端なやり方であって、何もやっていないのと何ら変りない。そればかりか、何の進展の兆しもない。
とことんまでやらなければ、どんな道も開かれない。
とことんまでやる意志さえあれば、どんなに固く閉ざされている門も、重たい鉄の扉も、一筋の光が入るくらいの隙き間が生じてくる。
ほんの少しでも開いたらもう〆たもの。
あとは忍耐強く時の来るのを待つのみ。必ず自分の思った通りの道が、期待しつづけた通りの道が開かれる。





 



     『日々の指針』 西園寺昌美 白光出版




  



  

2011年12月11日 (日)

薬も、運動も、食事療法も・・・・

  

  
テレビを観ていると健康食品や身体、美容に関するコマーシャルばかりが目に付きます。

「健全な魂に健全な肉体が宿る」の言葉の通り、精神があって肉体がある。

心が主、で肉体は従

人間とは心に肉体を纏っているのです。

もちろん精神ばかりに意識がいって、肉体をないがしろにしてはいけません。

食べることも肉体のケアも大切です。

しかし、あまりにも肉体、つまり目にみえることばかりに意識がいって、心がなおざりにされていないでしょうか?

精神と肉体のバランス(調和)が取れて初めて健康体といえるのだと思います。


ストレスが溜まると身体にも影響を及ぼす


身体と精神はつながっているのです。


ストレスは溜めないようにしようとしても次々にやってきます。

溜めない努力をするよりも溜めても流せるようになる。(流せるようになるためには心を鍛えなければ流せないと思うのです)

流すだけでなく消すことも出来るようになる(祈りによって)

そうでないと流すだけではよそ(他の人の所)へマイナスの汚れた想念エネルギーがいくだけです。

除霊ではな浄霊が必要なのです。(清めること)

でなければ地球はいつまでたっても美しい次の次元(アセンション)へ行けないのです。

前置きが長くなりました(笑)。

西園寺昌美先生の日々の指針から今日もっとも頷いた指針の一つをご紹介します。







1. 薬も、運動も、食事療法も、鍼も、灸も、マッサージも健康を維持してゆく為には、ある程度必要かもしれない。

が、一度び不安や恐怖心が湧き上がって来たら、果たして今まで続けて来た健康療法で乗り越えることが出来るであろうか。

身体を鍛える前に、心や精神を鍛える訓練をするほうが先決である。

つねに小さな些細なこと、取るに足らないことにさえ、いちいち自分の心が傷つき、イライラさせられ、心配や不安にかられていたならば、健康療法などなんの意味もなさない。

まず、どんなことが身のまわりに起っても、自分の心を痛めず、傷つけず、それに対して常に適切な対処が出来るように、心を養う必要がある。

心が常に一定し、明るく光明に輝いていさえすれば、身体はいつも何もしなくても健康そのものなのである。

肉体のコンディションはまず、心に起因しているものだということを知ることが大事である。




 
     『日々の指針』 西園寺昌美 白光出版



  

心に響く日々の指針 2

  
  
  
・ あなたは一体、一日どれくらい真理探究のための時間を割いているであろうか。長い人生において、一回の心理の探求にも目をむけない人間は、長生きする理由がどこにあるであろうか。生きているということは、生かされているということにある。めまぐるしい仕事や雑事から逃れて、一人端座(たんざ)して、己の心に語りかける必要がある。
自分はなんのためにここにいるのか? なんのために生きているのか? 夫の為? 妻の為? 子供の為? 果してそれだけでよいのであろうか。
何か少しでも人の為に、社会の為に役立っているであろうか?
思い悩んでいる友に手をさしのべただろうか? 今まで果して何回、人様の為に尽してあげたことがあったであろうか? それでそれが少しでも判ったら、生きている価値があると思ってよい。 世界平和の祈りには、そのすべてが含まれている。





 

・ 宇宙の波動と自己に宿る生命のエネルギーを共鳴させることにより、肉体の緊張や疲れをやわらげると同時に、物事に集中させる力が湧き上がってくるものである。自然に帰れ。 自然とともに生きよ。 自然の中に神は宿っている。

 

 


・ おしゃべりの人や話し好きな人は、相手の話を本当に聴いてはいない。たとえ聴いていたとしても、ただ形ばかりで真意ではない。聴いているようにみえて、実は自分の話のことを考えているにすぎない。聴くという行為は相手の心と一つになって考えることなのである。
もしそれが難しかったら、まず相手の人を理解してあげることが、聴く人にとっても最も大事な行為なのである。





 

・  なぜ人間には二つの耳と一つの口があるのだろうか? それは自分の話すことの二倍聞くためである。 目はなぜ前の方についているのだろうか?
それは自分が常に未来に向いて突き進んでゆくものであって、決して過ぎ去った後を振り返って生きるものではないということだからである。



 

 
・ どうしてあなたはそんなに物を欲しがるのですか? あれも欲しい、これも欲しい。 家も建てたい、車も欲しい、レジャーを楽しむお金も欲しい。何故、今日もまた無事生かされていることに、あなたは満足しないのですか? もしすべてが叶えられたとしても、明日生きる保証がなければ、すべてが虚しいものとなってしまう。神様はあなたが本当に必要とするものであれば、必ず与えて下さるものです。
神に行かされていることに深く感謝すべきであって、決してあなた自身の力で生きているのではないのです。



 



    『日々の指針』 西園寺昌美 白光出版



  



    

心に響く日々の指針

 
  
  
久しぶりに『日々の指針』 という本を読んでみました。

なんだか心がスッキリしていなかったので読み始めると 「ドキッ」とすることや「ハッ」とすることの連続です。

心が洗われる想いがしました。

いくつか書いてみますね、よかったらお付き合いください。






・ 一人でいるから孤独なのでない。家族の中にあっても友人の中にあって、恋人といてさえも孤独な人は結構いる。 孤独とは心が充たされない状態をいう。一人で住んでいても何らかの人の為に役立っている人々は、心にいささかの孤独感もない。孤独になりたくなければ、どんなことでもよい、人の為に尽すことだ。




・あなたはどんな人から侮られ、馬鹿にされても平気です。人は皆勝手気ままなもの、いつも自分のご都合次第に、機敏に動くものということを知っています。人がどう思おうと、自分自身が信念をもって生きていさえすれば、どんな些細なことにでも心を動かされることはありません。世界平和の祈りこそ、どんな人も絶対に文句のつけようのない素晴らしい生き方です。誇りをもって生きることです。



・神さまはこうおっしゃっている。

「何故あなたは一人でそんなに嘆き苦しんでいるのか。あなたの小さな心では到底その重荷を背負いきれるものではない。あなたの器が大きくなり、自分一人で背負いきれるようになるまで、私が肩代わりしてあげよう。
さあ、すべてを私に任せなさい。 あなたはもうその悩みについて、その悲しみについて、その苦しみについて一切忘れなさい。
考えることを一切放棄しなさい。私がみんな背負ってあげよう。その代わり必死で真剣に世界平和の祈りを祈りつづけなさい。
朝から晩まで今日一日、心の中に迷いが生じないように一所懸命祈りつづけなさい。 明日は大分楽になっている筈である。一筋の光があなたの行く手を照らし始めたのです。 安心なさい。」




・心の中を全開せよ。 一分の隙もなく全開せよ。 隠し事は一切認めるな。汚い心も、醜い心も、憎しみの心も卑しい心も、すべて持ったまま大きく全開せよ。 そうそれでいいのだ。 安心するがよい。 他の人の心をみてみよ。あんなによい人だと思っていた人が、あんなに立派な人だと思っていた人が、あんなに多くの人から尊敬され慕われていた人々が、心のすべてをオープンにしたら、皆どうということはない。
多かれ少なかれ、誰しも同じ醜い心を持っているものだ。
どんぐりの背くらべだ。
貴君だけが劣等感にさいなまれる必要もない。 人間はみなそんなもの。
強いていうならば、自信のない人達のほうが善人なのかもしれない。



・あなたはあなたの持てる全エネルギーを、くだらない競争心や野心などに浪費せず、自己完成にむかって全面的に使用すべきである。あえて人の上に立とうとせず、自らの才能を磨き、それを完成させるようにもってゆくべきである。



・いくら素晴らしいからといっても、他人の脱ぎ捨てた衣服を着て、果たして自分にピッタリと似合うであろうか? やはり自分自身の体型にあった衣服を着るのが一番好ましい。物真似は愚の骨頂である。自分の心からしたいこと、好きなことをやる。それでよいのである。何故、他人の目を意識しなければならないのか。自分自身に確固たる自信を持て!
自分に自信がないから、人の物真似をしたり、他人の目を恐れるようになるのである。自分とはこの世にたった一人しかいない存在なのである。神様が降してくださった尊い生命なのである。本来の自分自身にもどろう。





  

             『日々の指針』 西園寺昌美 白光出版



  


  

2011年12月 8日 (木)

清めるとはどういうことか?

  

 
清めるとはどういうことか?

清めるとは汚れたエネルギーを光に昇華するということです。

くすんだ、汚れたエネルギーを消して、光輝くエネルギーに代えていく

それが出来るのは、我のない(自分というものがない)

純粋でピュアな

愛一元の人でないと出来ません。

今の地球には汚れている場所がたくさんあります。

その中でも日本は世界と比べると少ない方です。(これを波動がよいといいます)

私たちは祈りによってこれらの汚れた地を浄めることができるのです。

祈れば磁場が出来ます。

光の柱が自分の家を中心に広がっていくのです。(主に自宅で祈れば)

ここに地球の波動事情を書いた文章があります。

みなさん、みなさんの祈りで少しでも日本のいや地球の、いや宇宙の波動を清めてください。


 

西園寺


カリヴァン先生とこうやって対談できて本当にうれしいと思いますし、カリヴァン先生のミッションは、ここに行けば苦しみがあるとか、すごい悲しみや怒りのカルマがあるとか、ご自分で感じられるわけで、そこを癒してくれれば、そこを通った人たちは、その波を受けないで済む。

人によっては偶然(無意識)にある特定な場にかかると急に悲しくなったり、苦しくなったり生きているのが嫌になったり死にたくなったりしてしまう。

それはちょうどその場が何かの事故で人が死んだとか、殺されたりとか・・・・・という場合、その亡くなった魂がいまだ浄まらずに事故現場を浮遊しているため、ある人がちょうど殺されたところを偶然通ると、そのカルマを受けて急に軽い病気になったり事故にあったりする。


このようにカルマを持っている土地がまだ世界じゅうにいっぱいありますが、カルマを清めることによって、そこに住んでいる人たちとか、そこを通り過ぎる人たちも清められていく。

だから目に見えない部分のミッション、魂を地道に清め、苦しみを清めていく。

そういう尊いミッションは人類を平和にしていくし、その心を通して私たちは学び取り、一人ひとりが自分の言葉とか行動に気をつけていけば、世の中に平和が訪れてくるのではないかと私は思っています。



 『ハーモニック地球ヒーリング』 西園寺昌美 ジュード・カリヴァン


 

追伸

祈ることによって私たちはいつの間にか、自分でも気づかないうちに


純粋でピュアで

愛一元の人になることができるのです。





世界人類が平和でありますように

日本が平和でありますように

私たちの天命がまっとうされますように

守護霊様ありがとうございます

守護神様ありがとうございます

  


   

 

地球に降り立つ魂たちへ

  
  
 
なんのために祈りが必要か?

私自身が人にちゃんと説明しなければ、いや出来なければいけないと思うのですが、どんな人にもわかりやすい、そしてその人の心に響くにはどういえばいいのだろう?

そんなことを考えていた私に明確な答が見つかりました。


それはどういうことかと申しますと


私たちの地球は汚れています。

それはエネルギーが痛んでいるのです。

エネルギーは漢字で書くと 気 になるのですが、気が病んでいる状態、まさしく病気の状態です。

そしてそこに新しい魂たちが降りたって来ます。

かつてお釈迦様、キリストが降り立ったように

地球を救うために立派な魂たち(子どもたち)が生まれて来るのです。

その子たちは私たちと全然違います。(笑)

私たちは地球で何回も輪廻転生(生まれ変わり死に変り)しているので魂に業やカルマをたくさん背負っています。

だからちょっとやそっとの光を浴びただけでは真理に目覚めない。(無限なる光)

しかし地球を救うためにこれから生まれてくる魂たちは、ほとんど悟った状態なのです。

普通の子どもは幼い頃は天使でも年齢を重ねる毎に昔のカルマが現われて業を重ねて多重人格になり、神聖さが失われていきます。

これから生まれる魂たちは地球での輪廻を経験していないので業がないのです。

純粋無垢、赤ちゃんの魂のまま大人になります。

そんな新しい世代が地球を救っていくのです。

しかしそんな魂が地球に降りようとしても、あまりにも地球が汚れているために

苦しくてしかたがない

地球の波動と合わないからです。

これでは十分に神聖を発揮して光を振りまくことが難しくなります。

だがしかし

今の地球には世界平和の祈りを祈って印を組んで、マンダラを書いて、地球を清めに清めている人たちがいます。

この尊い人たちが臨界点を超えたとき、一気に素晴らしい魂たちが光のシャワーのように降り立って来るのです。

私たちはこの魂たちが降りやすいように

安心して降りれるようにしていくミッション(役割り)があるのです。

そのことをわからせてくれる文章があります。

よかったらお付き合いください。









西園寺

これからの時代は、そういった立派な魂の人たちが世界におりてきて、新しい時代を築き上げていく。そのためにはそういう高いレベルの魂が地上におりやすいように、私たちはできるだけ地上を清めて清めて、マイナスのネガティブなエネルギーをできるだけ少なくして、新しいピュアなエネルギーを迎えて、世の中を大きく変えていく。そういう時代を私は夢見ていますし、現実にそうなると確信を持っています。





カリヴァン

 私たちはパイオニアとして、地上を清めて、次の世代の人たちの道をつくるために、この世に生れてきたのだと思います。






『ハーモニック地球ヒーリング』 西園寺昌美 ジュード・カリヴァン



  

   

2011年12月 6日 (火)

自分が素晴らしい人間であることがわからないと

  
  
  
人間が自分とも他人ともうまくいかない原因は、自分自身のことをしらないからです。

自分は馬鹿なのか? 利口なのか? 卑しいものなのか、尊いものなのか?

神なのか? 悪魔なのか? 愛すべき人なのか? 憎むべき人なのか?・・・・・・

自分自身のことがわかっていないから他人も自分と同じようにいいかげんに粗末にあつかってしまう。

すべては自分自身を知ることから始まるのです。

私は人間とは神聖なるものである。

神そのものであると言っていますが、神というとなにかファジーなつかみどころがないように聞こえます。

神でなくてもいいんです。 自分が宇宙の一部であると思っていい、宇宙の一部であるということは宇宙そのものです。

しかし宇宙によって創られた創造物ではありません。(人間以外の動物、植物、鉱物・・はすべて創造物である)

私たち人間には叡智があります。

愛があります。

思考から、形のないものから、形のあるものを創っていけます。

私たちは創造者、クリエイターなのです。

自分の世界を創る力がある。

そして自分の世界を拡げて他にも影響を与えることができる。

自分の心の中が平和で、愛に充ちているならば

自分の世界は愛一元となり、そのエネルギーは他者にも影響を与えてゆく。

自分が平和で幸せになればみんなが平和で幸せになれる。

そんな素晴らしいことが書いてある本があります。

そこから、西園寺昌美さんとカリヴァンさんという方の対談を抜粋します。



 

カリヴァン

2500年前に老子が次のように語っています。

「世界に平和をもたらすのであれば、まず国家に平和がなければならない。国家に平和をもたらすためには都市、町に平和がなければならない。町の平和を築くためには、近隣との平和を築かねばいけない。近隣に平和を築くのであれば、家庭に平和が必要である。家庭に平和を築くためには、心の平和が必要である」




 
西園寺

私も老子を尊敬し、特に五井昌久著『老子講義』(白光真宏会出版)の本を通して、日頃から老子の言葉に親しんでおります。今の老子の言葉は全くそのとおりです。

自分自身の心を平和にするにためには、まず自分自身を尊敬し信頼することです。 自分には無限なる可能性、無限なる能力が備わっている。

温かい愛もある。

自分が本当に素晴らしい人間であることがわからない限り、自分自身の心の中に平和がもたらされることはないと思います。





 『ハーモニック地球ヒーリング』 ジュード・カリヴァン・西園寺昌美 ヒカルランド 

併せて 『神と人間』五井昌久著 を読まれたらいいと思います。 (人間の基本的なことが書かれています)





    

 

2011年12月 5日 (月)

「必ず良くなる絶対大丈夫!」

  
  
今、地球は、そして日本は一時的にマイナスのエネルギーで覆われています。

だから意味もなくしんどくなったり、感情的になりそうになったり、なにか悪いこと(悪いものが消えて善くなってゆく、消えてゆく姿なんですが)が起りそうな予感がしたりします。

でもそこで自らがマイナスの波動を発してそれを引きつけてしまうか、又は、「いやこの心境や目の前の出来事は善くなるためのプロセスなんだ」と思うのはそれこそ、雲泥の差です。


という真理がわかっているつもりの私も油断しているとついついマイナスの想念エネルギーにさらわれそうになるときがあります。げっそり

そんなとき、ほんとにタイミング良くハーモニー(調和波動気功の仲間たち)からメッセージが届くのです。

ありがたいことです。


このメッセージの元は世界平和の祈りの提唱者である西園寺昌美さんのお言葉です。



「必ず良くなる絶対大丈夫!」の確信が未来を引き付け、周りの皆が変わる。
「自分一人でも変わらせて見せる」



この中の「必ず良くなる絶対大丈夫!」を何回も連呼してみてください。(心の中でいいです)

身体の中からも心の中からも元気と勇気が湧いてきます。

今の状態が気にならなくなります。(今悪いことが起っているのは悪いものが出てしまわないと良いものが現われないからです)

未来に明るい光が見えてきます。

みなさんも是非やってみてください。わーい(嬉しい顔)

 
世界平和の祈りと一緒にすると効果てきめんです!
わーい(嬉しい顔)



 
世界人類が平和でありますように

日本が平和でありますように

私たちの天命がまっとうされますように

守護霊様ありがとうございます

守護神様ありがとうございます



  
 

2011年12月 4日 (日)

仕事の本質とは?

  
  
  
仕事をしている人にとって仕事とは何か?

なんのためにやっているのか?

お金を得る、稼ぐことってどういうことなのか?

仕事とは楽しいものなのか?

それともお金をいただくのだから

楽しくなくて当然なのか?


結構考えちゃうんですよね~

最近、仕事って一生懸命にやらないと面白くないことには気づいてきました。


一生懸命にやる、すると要領をつかんだり、精度があがってきたり、失敗が減ってきたり・・・・そこに面白さが見えて来る。

面白くなると楽しくなる♪

だったら仕事って辛いものではなく楽しいものなんじゃないか? って。

楽しくなるように自分で持っていくことがいいんじゃないかな?

と思い始めていたのです。

自分の世界なんだから

楽しくやろうと嫌々ながらやろうとそれは自分で決めればいい。

どちらでも自分で自由に選択できるなら

人に遠慮しないで人がどう考えているかは気にしないで

自分の思う通りにしたらいい。

そうですよね。

そこで

『そうなんだ!』わーい(嬉しい顔)電球

と頷く本のある文章を発見しました。

この本の著者は、仕事のプロです。

だから厳しくもあり、鋭くもある。

そんな人がこんなことを言っているんだという驚きもありました。

みなさんはどう想われますか?

本文から抜粋します。









ぼくにもやらせてもらえませんか?


さて、今年も海の家が始まり、さっそく入り浸ってますが先日ある出来事を見ていて、ビジネスの本質を学ぶことができました。

その日も、さる海の家でビールジョッキを片手にぼんやりしていたとき、あるお客さんのお子さん、小学校高学年と低学年らしき男の子2人がビーチサンダルを取り合うゲームを始めました。

砂浜にサンダルを立てて埋めます。

これがゴールです。 10メートルくらい距離を置いて、ゴールとは逆に向いて腹ばいになります。

「よーい、ドン」の合図で腹ばいから立ち上がり、一気にゴールに向かい、ビーサンを取れば勝ち。

弟の方が得意らしく、何回やってもお兄ちゃんは勝てません。

単純なルールなのに、見ているこちらも楽しくなってくる、面白いゲームです。

と私と一緒に笑いながら見ていた店のオーナーが、「ぼくもやらせてもらえませんか?」と子どもたちに話しかけ、許可をもらいました。

やってみると、当り前のことですが、大人のオーナーの1人勝ちです。

一切手抜きをせず、しかも何回もやって、そのたびに勝っています。

要するに、兄弟に対して何か教育的なことをしてみせる、ということではなく、自分がやって楽しみたいのでした(笑)。

ひとしきり楽しんだ後は子どもたちと一緒に海に入り、身体全体についた砂を落とします。

そしてオーナーはそのままバーカウンターに入って、仕事に戻りました。

よく見てみると、このお店、他のスタッフも、暑くなってくると、定期的に海に入って身体を冷まして、また仕事に戻ります。



 
すべてが遊び、すべてが仕事


これを見ていて、思いました。

ビジネスの本質はここにあるなあ、と海の家をやっている彼らのとって、ビジネスの目的は、お金ではなく、自分たちが楽しむことである、と。

もちろんガソリンとしてのお金は必要です。

仕入れなきゃいけないし、スタッフに給料を支払わなければならない。

でもそれは結果であって、目的ではない。

お金儲けなら、もっと効率的なやり方があります。

来客もその日のお天気次第、しかも夏の2ヶ月だけの営業、ビジネスとしてはあまり良い条件とはいえません。

それでも彼らにとって、この店にいてやることは、すべてが遊びであり、同時に、すべてが仕事なのです。

これが彼らのモチベーションであり、ビジネスの目的となっているのです。

そしてこのことは、海の家に限ったことではなく、すべてのビジネスの目的だろうと思います。

まず、やっている自分たちが楽しまなければ、楽しくJOYを感じることができなければ、ビジネスをやる意味なんて、ないと思います。



 
ビジネスチャンスに気づく57の法則 阪本啓一 日経ビジネス人文庫



  

    

2011年12月 1日 (木)

人は感動したときに幸せを感じるものなのです。

  

  
私はノンフェクション(真実)の感動する話を聞いたときに魂が震えるような気持ちになります。

これが幸せ感だと思うのですが、それはどういう内容なのかと申しますと利害関係を超えた人類愛や肉体人間の常識を超えた奇蹟の出来事などです。

そこには人間の素晴らしさ、神性が現われているから・・・

「人間って凄いなぁ、素晴らしいなぁ、神そのものだなぁ、捨てたものではないなぁ」

と希望が湧いてくるんですよね。

では、私が感動したノンフェクション(真実)の話、白光誌の中から抜粋します。







永田勝太郎博士と鎌田實博士との対談から



鎌田 僕は最近 『アハメドくんのいのちのリレー』という絵本を出しました。

どんな話かというと、六年前に12歳のパレスチナの少年がイスラエル兵に撃ち殺された。

ところがその後、兵士に殺された息子の臓器を、敵国の心筋症の子供を救うためにそのお父さんが差し出したんですね。

僕は去年現地へ行って、そのお父さんに直接聞いてみたんです。

「何十年間も憎み合ってきた民族同士で、しかもあなたは大切なお子様の命を奪われた。それなのに、なぜそんなことができるんですか」。

するとこんな答が返ってきたんです。

「海で溺れている人がいたら、泳げる人間は飛び込むだろう。その前に溺れている人の国籍や宗教は何かなんて聞かないだろう」と。


永田  それをさらりと言えるのが、また凄いですね。




この下りに、私は感動を覚えた。

人は、高い意識が現われた真実(ノンフェクション)の本を読むことにより、知らないうちに理屈を超えて感動できるものなのである。

真理の本ばかりでは、難解でなかなか心の中に浸透しにくいが、そうした真理の本や哲学書、倫理や道徳の本と同時に、ノンフェクションの本をひもといてゆくと、自然に心が開けてきて、ついに崇高な真理が魂に響いてくるものである。

真理の本のみでは、知性で理解できても、感情的になかなか受容しにくいものである。


同じく永田博士と鎌田博士の対談からもう一つ、V・Eフランクル博士の素晴らしい果因説(かいんせつ)の生き方を示した実話を、皆様方とシェアしたいと思う。


ドイツのナチス政権下に生きたフランクリン博士は、家族と共にアウシュビッツ収容所に連れてゆかれたという。

そこで愛する妻と子どもたちと両親は、ガス室に連行され、あるいは飢餓で命を失ったが、彼はどんな過酷で悲惨な状況に置かれても、決して生きることをあきらめることなく、常に希望を失わなかった。


・・・・・


またアウシュビッツでチフスに罹った先生は高熱を発しました。

本人は医者だから自分の予後(よご)が分かる。

今夜寝てしまったら、私は明日の朝、死体になっているだろう、 と。

だから自分の脚をつねりながら、眠らないようにしていたというんです。

 一方、頭の中では何を考えていたかというと、自分は米軍に救出されてウィーンへ帰る。

そして『一精神医学者の収容所体験』という本を書き上げ、それが世界的なベストセラーになってカーネギーホールに呼ばれると考えた。

そのホールを埋め尽くす聴衆を前に講演を終え、大喝采を受けている自分の姿を想像していたというんです(笑)。


今夜死ぬかもしれないという、その最中にですよ。

・・・・・・




その後、彼はどうなったか。

彼はついにアウシュビッツを出て、自分の果因説の通りに生き抜いたのである。

人間は自分が思い描いたり、計画していることは、本来、何でも実現、成就できるものである。

ただし自分自身で疑わなくばのことであるが・・・・・。

人はみな、常に自らの思考想念をある明確なる目的達成のために注ぎ、自らの生命エネルギーを使用すべきなのである。

枝葉の諸々の想いに把われたり、苦悩や哀楽に執着したりして、無駄なエネルギーを使用すべきではない。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



  白光誌 12月号より 西園寺昌美




  


仮想世界から実世界へ

 
    
  
 
かつて


ケイタイ電話も インターネットも 電子ゲームも

ネットから生まれた善意の革命も ツイッターも ネット犯罪も サイバーテロもなかった


それらは今 善い面も悪い面も 国境を超えて広がっている



かつて

家族皆で夕食を囲み

今日一日あったことを共に語り合い 慰め合い 励まし合い

時には笑いくずれる瞬間があったことが懐かしい



そのころ皆誰でもが

真剣に仕事や勉学に励み

辛い経験を乗り越え

知恵と体験と自信を身に付けた

自らの尊い人生を築いてゆくために 切り開いてゆくために・・・・



が 今日は汗と労働力なくして

ゲーム感覚でお金を儲け

億万長者となる者もいるし

顔が見えないため犯罪が横行する


知恵なし コミュニケーションなし 労働なし 良心なし

まるで無機質



朝から夜中まで


インターネットの中に存在する

金、カネ、 金‼ の世界

一見富者でも心は貧者、いや極貧


夢も希望もなく

真の喜びも幸せも失い


ただ孤独あるのみ


インターネットの世界は

現実ではない  永遠でもない

すぐに風化する 陳腐化する 役に立たなくなる



もっと有意義で価値あるものに

自らの生命エネルギーを注ぎ込むべきものを・・・・・


自らの選択、決断、決定により

自らが下す価値のな人生

生きる意味のない人生

不毛の人生



人は誰でも

自分自身にとって最高の生き方を

目指して生きるべきもの

もっと真剣に自分と向き合う時間を取るべきもの


自分をごまかしてはならない

自分を裏切ってはならない

もっと自分自身を大切に

自分を信じるのだ


すると自分の中にこそ

すべて存在することに気づくのだ


人は誰でも

人と人とのつながりの輪の中でこそ生きられるもの

決して孤独の世界では生きられるものではない

バーチャルの世界にどっぷり浸り切ると

そこに真の人との結びつきは得られない

勇気をもって実世界へと脱け出すことだ


大金は奪えても

知恵や経験 自信や信念は

決して誰も奪い取ることは出来ない


正しい選択、判断を下し

失敗を恐れず 安易な道を選ばず

知識より知恵を身に付けることだ



神意に沿った大道を生きることこそ

今生に生れてきた

生きがいというものであろう


人類即神也





  西園寺昌美 



  


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