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2011年8月31日 (水)

最近気づいたこと 17

  
  
  
・ 子どものことは心配してもどうなるものではない、見守るしかない

 


・ 人員削減で4人でやっていた仕事が3人になるとかなりの負担増となる
給料が減った上に仕事量は増える、3人の中にサボる人が出てきたらもっとしんどくなる、だけど他人がどうだと考えずに自分に与えられた仕事を淡々とすることだ、暇を持て余して過ごすより忙しく動き回っている方が気持ちも身体も充実する、疲れとは力を出し切っていないときにやってくる。100%出し切れば翌日にはまた100%の力(エネルギー)が宿ってくる、力を抜いたりサボったりして50%しか使わなかったら次の日には半分の力しか入って来ない。 これから仕事が無くなる時代がやって来る、仕事があるだけありがたいと思う。



 
・ 本を読んでどれだけ納得しても実践していかなければ、納得した(頭でわかったこと)はなんの意味もなさない。



 

・ 今までは切羽詰まった(危機的状況)ときにしか気づきにくかった、しかし震災の後、仕事が順調に行っている人も真理に敏感になってきている、それだけ人々の波動が細かくなっているのだ。

 
 

・ 肉体人間の自分に出来ることは、他人に頼らず一生懸命にやり、肉体人間の自分ではどうしようもないことは神様に頼る、なにもかも自分でやろうとするからくたびれてしまうのだ


 

 
・ いろんな難しい問題が起こったとき、「もうダメだ」と諦めてしまうのと 「なにくそ!なんとかしてやる」 と思うのでは当然ながら雲泥の差、天と地ほどの差が出て来る、世界平和の祈りを祈っていると心の底から力が漲って来る。





  

       

偽善者になりたくない 9

  
  
   
自分自身、正直にまっとうに生きていきたい、古い言い方だけどお天道様をしっかり見て、堂々と生きていきたいと思います。

でも、嘘もつかなければならないときもあれば

自分も他人も誤魔化さなきゃいけないことも出て来る

そのときに

「しかたがないじゃん」

という気持ちと

「これでいいのか?」

という疑問が交錯するのです。

お天道様って神様であり、自分の本心のことですよね。

お天道様は、弱い人間を赦してくれるのか?

どうすれば苦しまずに生きていけるのか?

その問いは読んでいくうちに解けていきます。
 わーい(嬉しい顔)ぴかぴか(新しい)




本文

神のみ心と一つになって、悪いことは絶対にしない。

なんでも噛んでも真理のままに行なおうとすると、人間が窮屈になって、苦しくて生きてられません。

そこで阿弥陀様があるんですよ。

法蔵菩薩のような人があるんです。

あるいは親鸞上人みたいな人があるんです。

イエス・キリストみたいな人がいるんです。

人間は凡愚で、神様のみ心のままに行なえだろうから、サァ私の通りにおいでなさい。

私が代わりにあなたの悪いところを背負ってあげますから、みんな私と一緒にいらっしゃい ━ とこういうわけなんです。

それが阿弥陀様の法蔵菩薩であり、イエス・キリストのマリアであるというんですよ。

マリアさんが中に立って赦してくれるというのがありますね。

それと同じように、今は世界平和の祈りがみんな赦してくれるんです。

世界平和の祈りの中に自分がとびこんでしまえば、自分の至らないところを神様の中に入れてしまって、改めて至る人間にしてくれるんです。

そのかわり、世界平和の祈りを祈りながら行なう場合には、なんにも悔いなんかしないほうがいい。

そのまま行なったらいい。

そこで悔いたら、ハッキリと悪いこととわかったら、ああそれは消えてゆく姿だった、もう再び致しますまい、世界人類が平和でありますように・・・・って祈りの中に入ってゆくんですよ。

そういうやり方なんです。




「自分も光る 人類も光る」 五井昌久 白光出版



  


断食、少食療法

 
 
 
人間というのは本来、宇宙からエネルギー(霊力、霊要素)を戴いているので食べ物からのエネルギーはほとんど無くても生きて行けるようになっているそうです。

少食、あるいは断食をしても生きて行ける。

癌という病気の漢字は、3つの口で山のように食べるからという意味です。

私たちは本来必要とするもの以上に摂っていたのではないのか?



「今、地球上には70億の人がいますが、そのうち10億人が飢えて亡くなりそうになっていて、その他の10億人は、食べ過ぎによる病気で亡くなろうとしています。 地球を天国にするために、ぜひ食べ物を分け合っていきたいというのが私の願いです」  


           森鍼灸院 院長 森美智代さん白光誌9月号より


この記事を読んだとき、私たちは本当に真剣に考える時期が来ているのだと思いました。(食べ物を含め資源、地球環境のことも)

手記を書かれたのは、脊髄小脳変性症という難病を見事乗り越えて克服した人です。

15年間1日に青汁一杯で過ごしているそうです。

現代医学では信じられないことだけど心身はいたって健康、医学的検査でもすべて異常なし

 “断食、少食療法” 調べてみようと思います。

甲田療法というそうです。


みなさんもご興味があれば是非
 わーい(嬉しい顔)


http://www.nishikai.net/japan/koda/index.html

http://www.geocities.jp/slimkoku/newpage1.html




   

2011年8月29日 (月)

偽善者になりたくない 7

    
  
お金を貸してくれと友人が頼って来たとします。

話を聞いてみるとその人に甘いところがある、もっとその人がしっかりとしていたのならこんなことにはならなかったのに

でも貸してあげないと路頭に迷う、へたをすれば自己破産をしてしまうかもしれない、自暴自棄になるかもしれない

そこで2つの考えが浮かびます。

「今、ここで助けてあげないとこの人は一生立ち直れなくなるかもしれない自分が助けてあげなければ」

「いや、一度自己破産でもなんでもしてもっと苦労すればいいんだ(命まで取られるわけではない)、甘やかして貸してしまうと後でもっと大変なことになる」

このようにどうしたらいいのか頭で考えてもわからないことがいくらでも起こってきます。

こんなとき神様だったらどうするだろう?

この人の守護霊守護神はどうして欲しいのだろう?

どうすることがこの人の魂にとって一番いいことなんだろう?

それはいくら肉体の自分の頭で考えても結論の出ないことなのです。

一番いい方法を知っているのは本当の親である

守護霊守護神です。

神様です。

だから自分の意識を守護霊守護神に合わせて

任せてしまえばいい

わからないことはわからないでいいのです。

わからないことをわかったふりをしたり

どちらかに無理やりに決めてしまうから

後で困ったことになってしまう

後悔することになる

肉体人間は全知全能ではないのです。

全知全能どころか何にもわかっちゃいないんです。

自分も他人もたいしたことはないんです。

そのことがわかって

私はもうダメです(肉体人間の)

だから神様助けてください

人間は切羽詰まってどうしようもなくなったとき

神様を信じていない人もこう言います。

「神様助けてください!」

「オーマイゴット!」


それは潜在意識の奥では

「神様しかいない」

とわかっているのです。

これは決して他力本願ではない

神様に頼るということではないのです。

なぜなら自分が神そのものだからです。

神である自分に頼る

自分の中に神性がある

人間が進化していくというのは自分が何者であるかに気づくということです。

だから肉体人間は本当の自分ではない

肉体人間を超えた自分が本当の自分ということなのです。












本文

それが行き過ぎてしまうと、どうにもならなくなってしまう。

猫を何十匹って飼っている家があります。

猫屋敷でしょ。 それじゃ人間が “私が家出しよう” と出ちゃうかもわかんない(笑)。

蚊は蚊菩薩、蝿は蝿菩薩にして、蝿がいるのは汚いところがある、と知らせているんだし、汚い水を溜めないように蚊は教えているんだから、人間の世界をだんだんきれいにするための蚊であり、蝿なんであるし、ウジ虫でもあるし、ノミでもある。

だからあんまり並外れたことをすると、他の者に迷惑になる場合がずいぶんあるんです。

たとえば、学校などに寄付を出すんでも、一人の人がズバ抜けて寄付金を出すと、後の人が金がなくても出さなければいられなくなっちゃう。

そうすると無理をしてでも、借金をしたり、物を質においても出さなければならない。

そうすると一人の人がいいことをしたんだけれども、後の人のためにはいいことじゃなくなっちゃう場合があんのよ。

とてもむつかしいことがある。

調和するためには、やりすぎてもいけない。

そういうことを考えたら、人間世界なんてのは神経症になります。

いいことか悪いことかわかんなくなっちゃう。

そこでイザコザしたことを、全部、神様に投げ出さなきゃダメなんです。

いっぺん全部、神様の中に想いを返しちゃえばいい、と言うんです。

神様の中に想いを返してしまうと、神様のほうから、適当に行動させてくれるんですよ。

どういう行動に出るかわかりませんよ。

けれど馬鹿気たことはしないに決まっている。

自然に自然に行なう。

小言をいう場合がいい時は小言を言うかもしれない。

優しいのがいい時は優しくするように出るかもしれない。

借金をしに来た者に、パタッと断ることもあるかもしれない。

あるいは貸してやるようになるかもしれない。

神様のみ心から、行ないとして現われて来たことは、すべて万事オーケーなんです。

万事いいんです。

そこまでいかないとダメなんです。



 
「自分も光る人類も光る」  五井昌久  白光出版




  

   

2011年8月28日 (日)

最近気づいたこと 16

  

  
・ 一生懸命にエネルギーを使った見返りとしてお金というエネルギーが与えられる、それは肉体を使った対価かもしれない、頭を使った智慧なのかもしれない、しかしどちらも人類にとってプラスのエネルギーでなければならない



・ 幸せになるためには幸せの波動に触れることだ、それは物質波動の中には無い、心の奥深く入って感じないところにある(統一という)



・ 終わったことはどんなに楽しかったことでも流して行こう(忘れてしまおう)、振り返ってしまうとエネルギーが滞ってしまう、苦しくなってくる。




   

   






  

宗教とは?

  
  
私が日記の中で宗教という字を書いているとどこからか宗教に対する批判や疑惑のエネルギーがやって来ます。(苦笑)

私も特に宗教を語っているつもりはないのでその部分を省こうか、別の言葉に置き換えても通じるのではないのかとも思ったりもするのですが、それもとらわれだと思い直しそのまま書き写すことにしました。

では、そもそも宗教ってなんだろう? という素朴な疑問が湧いて来ます。

世間一般ではいいイメージはほとんどありません。

オカルト宗教、邪教、霊感商法、脱税対策、坊主まる儲け、新興宗教、宗教と政治、暗い、弱いところにつけ込んでくる、信者を集める・・・・・

だから宗教と聞いただけでこれらの言葉が思い浮かぶのです。(宗教という言葉の持つ想念エネルギー、イメージですね)

もちろん善い宗教もあります。

しかしどんなに素晴らしい教えでもやっている人が信じられなければ元も信じられない

反対に素晴らしい人が信仰している宗教でも教えに納得出来ないところがあれば信じようとも思いません。(その人に止めておけばと言いたくなります)


だから私は、人を観て、人の影響を受ける(最初は影響を受けても最終的には自分で判断)のではなく素の自分になって直にスーッと入って来るものだけを受け入れたらいいと思うのです。(それが本当の素直だと思います)


そしてそこには何か懐かしい、心の底が熱くなって来るような感動がある。


それがその人にとって一番適した(その時点で)教えなのだと思います。


宗教って前にも書きましたが

宇宙を示す教えということです。

お釈迦様はご自分の故郷である金星の高い意識を地球に降ろして来ました。

金星=宇宙の教えを降ろして来られたのです。

これが宗教の本当の意味です。

ですから宇宙の教えでないと宗教とは言えないのです。

では宇宙とは何か?

それは私たちの本当の故郷なのです。

肉体の故郷ではなく

心の故郷です。

先ほど素直と言った

素とは素(もと)のこと、宇宙のことです。

宇宙と直接つながっている人を

素直といいます。

そして宇宙には曇りや雨はありません。

いつも晴れ渡っている

それを素晴らしいと言います。

すべては宇宙が根源なのです。

根源の教えが宗教なのです。

根源のことを宗(もと)ともいうのです。

私たちは今わけがわからなくなっています。

何が正しくて何が間違っているのか?

3次元的な正しい、間違っているは判断が難しいです。

時期、人の意見や考え方に左右されやすいからです。

そうではなく

宇宙的に観て、大局的に観て

神様のみ心から観て

どう判断したらいいかは

自分の心が宇宙と直結していないとわからないのです。

つながっていないから

おかしくなってしまっているのです。(無限なる愛)

それを正しくするために

宗教が出来た

でも今の宗教の多くは違う方向へ行っています。

正しい方向に戻す(波動調整と言います)方法が

私がいつも述べています世界平和の祈りであり、印であり、マンダラを書くことなのです。


宗教とは何なのか?


なんとなくわかっていただけましたでしょうか?




 
宇宙(神)とつながる祈り言霊



世界人類が平和でありますように

日本が平和でありますように

私たちの天命がまっとうされますように

守護霊様ありがとうございます

守護神様ありがとうございます



  



最近気づいたこと 15

  

   

・  神様事でお金儲けをしようとしたらとんでもないことになる
 


・ 神様(宇宙神)が認めていないのに人の運命を変えるようなことをしたらとんでもないことになる(その人の運命を背負うことになる)

 

・ 波動を細かくしていくと自分や他人の肉体(物質波動)を通り抜けるようになる(粗い波動と共鳴しなくなる)

 

・  反省、努力、勇気、目的意識、集中力 (調和波動気功セミナーで于先生がおっしゃったお言葉)
 


・  限界は常識や他人が決めるのではなく、自分で決めるもの、だから限界はないんだ (クルム伊達さん)
 


・  物質的な豊かさだけでは、精神的な豊かさはほんの少ししか補えない、しかし精神的に豊かになれば物質的なものは超越出来る。
 

 

・  経済が昔のように豊かになることが、人間にとって幸せになることだろうか?



・ 日本の経済、世界の経済が破たんするかしないかは宇宙からみればどうでもいいことなのだ


 
・  「心頭滅却すれば火もまた涼し」 頭をスッキリさせて心を神様のみ心で一杯にすれば、どんなところに居たとしてもそこは天国になる。



・ 未来は必ず善くなる



・ 世界人類が平和でありますように は 宇宙人類が平和になりますように と同じなのです。 宇宙の祈りごとなのです。



・ 人間の心の苦しみのすべては把われ(囚われ、捉われ、捕われ)にある。 

 

・ 把われを無くしたいと思っていたら、于先生が本をご紹介してくださいました。その本の中の文章に凄い気づきがありました。 
(捉われる心からの脱出、小笠原 日英 朱鷺書房)





  
  

偽善者になりたくない 6

  
 
  
自分はダメだからこそ、神様にすがるんだから。

ダメでなくて、自分が肉体のままで完全なる神様なら、何も要りませんよ。

自分の心のままにいけばいいんだからね。

それを間違える場合があるんですよ。

自分の思う通りに人間はなるんだ、というような考え方を持っていると、自分の思う通りになるんだから、神様は何にもいらなくなっちゃうんだ。

だから宗教の一番の第一歩というものは、まず自分というものはダメなものだと、肉体の人間というものはダメなものである、ということがわからないと、踏み出せない。


それにはやはり、正直に自分をみつめないと、そういうことがわからないんですよ。

肉体の人間に、理想をそのまま押しつけると、みんな責めるようになってしまいます。

何だあれは、宗教をやっているくせに、悪いことをしているじゃないか、他人をだますこともあるじゃないか、この間、猫の子を捨てたじゃないか、ということになり、責めるようになる。

宗教をやっているばかりに、猫が子どもをうんと産んでしまって、貰い手がなく、捨てるに捨てられず、猫をかかえてどうしていいかわからない。

それで自分育てなければいけないというんで、猫ばっかり育ててごらんなさい。

猫が二十匹も三十匹も増えちゃいますよ。

なるたけ人にやったほうがいいけれども、貰い手がなければ捨てるより仕方がない、ということもあるでしょ。

宗教精神というものにとらわれていると、何にも出来なくなってしまう。

私なんかその点で、非常に不便なことがあるんですよ。

蚊や蝿はナムアミダブツと殺せます。

ネズミなんてもう殺せない。

ネズミの子なんかチューチュー鳴いて、かわいそうでね、可愛いくなっちゃって殺す気になれません。

薬があるそうですけれど、それも使えない。

それでしょうがないから、ネズミさんに言ったんです。

「ネズミさんネズミさん、お前さんが天井でガタガタしていると、どうしても私はあんたを殺さなきゃならなくなっちゃうから、あなたを殺すに忍びないから、どこか他のところ行ってくれ。どこか一番あんたに適当なところに行っておくれ」と言ったら、いなくなっちゃった。

ネズミが出てくるたんびに、私はそうやって頼んでんだから。

そうじゃないと殺さないとならないでしょ。

それがいやなんです。

出来ないのね。

だけどそれも把われなの。

別にネズミは人間のために働いているわけじゃない。

お米を作っているわけではなくて、喰うばかりだからね。

だから人間には邪魔なわけですよ。

ところが生命としてそこに現われて来ていると、サァ殺すのに忍びないですね、そこで我慢すべきだと思っちゃうんだよね。

そこがむずかしいところ。

そこで悩むということが、それはいいことなんですよ。


あっさりとネズミをチューと殺してしまえ、猫は邪魔だから捨てちまえ、というんだったらそれは情がないということで、愛がないということで、生命を粗末にするということで、あまり感心したことじゃないんですよ。

把われがないと言っても、そこで可哀そうだから仕方がない、と涙をのんで、ナムアミダブツ、どうかいいところへ今度は生まれてくれと言って、ネズミがいいところ行ってというと、どこへ生まれるかは知らないけども(笑)

そういう気持ちで涙をのんで、まァ殺すくらいが丁度いいんですよ。

そういうふうに人間は出来ているんですよね。

殺してはいけないと悩んで、しかし仕方がない、どうか神様お許しください、という形で、ナムアミダブツの心境でやってゆくと、そこに人間の美しい情愛の世界が生まれて、本当の神の世界が生まれる第一歩になるんですよ。





 

        「自分も光る 人類も光る」 五井昌久 白光出版




  



  

偽善者になりたくない 5

  
  
  
この人は善い人だ、この人だけは間違いない

この人は私の味方だ、この人だけは私を理解してくれる

私たちはいつもそう期待(自分自身に対しても他人にも)して生きています。

だから期待が外れると、期待が裏切られる?と

すごくがっかりするのです。

だからといって

人間なんてみんなクズだ!

どうしようもないんだ

だから何でも無茶苦茶自分の好きなように生きればいいんだ

は違うのです。

だったらどこで線引きをしたらいいのか?

人間の何が馬鹿で何がそうでないのか?

何に期待していいのか?

期待してはいけないのか?

それがはっきりとわからない限りは

??????????・・・・・・・・・・・・・・・

迷ってばかりです。

期待する

裏切られる

がっかりする

光が観える

また期待してみる

裏切られる

もっとがっかりする

・・・・・・・・・・・・・・・・・

その繰り返しです。

そして疲れ果てて

自暴自棄になる


そんな人生なんてまっぴらです。

真理が知りたい

人間は神なのか 悪魔なのか

人間は善なのか 悪なのか

人間は光なのか 闇なのか
 

五井先生の本を読んでいると

答が書いてあるのです。

すると元気、勇気が心の底から湧いて来ます。 わーい(嬉しい顔) ぴかぴか(新しい)




 
ここから本文です。



“肉体人間はダメなんだ” と一旦認める



それで私のやっているのが何かというと、みんなが理想をそのまま自分だけで現わすことは出来ない、ということを覚悟しなさい、とまずこういうわけです。

肉体の人間というものはみんな凡夫なんだからね。

みんな業想念があって、理想を、神のみ心をそのまま現わすわけにはいけないんだから、仕方がない。

現わせられないものなんだと、いっぺん割り切っちゃったんですよ。

だから高きを望まない。

私はみんなに高きを望まないんだ。

肉体の人間には高いことを望んでないんです一つも。

姑さんが嫁さんよりも自分の娘が可愛いのは当り前だ。

こう思っちゃうです。

娘が姑より自分の親の方が好ましいに決まっている ━ こう思った。

自分の親に尽すほど姑に尽くせっこない ━ と思ったんだ私は。

自分の親ならば、何も尽くそうと思わなくたって、本能的に自然に親のために尽くすことは出来ます。

親も心配します。

しかし姑となると、これはつくりものなんですよ。

今度はね本当の親と同じように愛することは出来ないのです。

だから姑さんのほうじゃ嫁さんのことを、自分の娘と同じように、自分を愛させそうと思ったって、これは無理よ。

絶対無理なんです。

よほど前世の因縁があった人は別よ。

大体において、そうなんです。

それは無理があるわけです。

そういうことがハッキリわからなければならないんです。

人間というものは、現われている世界、自分の心というものを、本当に見極めなきゃダメです。

ダメなことはダメでいいんだから。

ああ人間というものはそういうもんだ、自分の心はどこまでいっているか、ああ私はこれだけのものだ、と。

私はどうやっても、自分の利害関係を全部捨てて、自分の子どもでも母親でも全部捨てて、それで本当に神様を掴めるか? 

ダメだなァと思う。

本当に他人と自分を同じに愛せるか?

自分を愛せるように他人を愛することが出来るか?

ダメだなァと思う。


自分の子と同じように他人の子を愛せるか?

ダメだなァ ━ こうなるでしょ。

私は自分の子以上に他人の子を愛します、なんて言う人があったら、手をあげてください。

ありゃしないんだから、嘘なんだからそれはね。

そういう嘘をやったらいけない。

嘘のままでもって、あたかも宗教信仰深き者のように嘘のことをやったらいけませんよ。

本当のことを他人に知らせることはないですよ。

私はダメなんだ ━ そんなことは言う必要はない。

自分の心の中で、自分の本当のものを出すのですよ。

自分の中で。

ああ私はこれだけの人間だ、とハッキリ自分で自覚しなければいけません。

それが宗教の第一歩です。

そこから宗教というものは始まるのです。

自分をごまかして、自分はなんとか出来るんだと、ごまかしているうちはダメですよ。

それは宗教ではないのです。 宗教でもなんでもない。

自分はダメなもんだ、肉体の自分というものはダメなもんだ、ということが、本当にわかってきた時に、はじめて “ああ神様、この何もわからない、ダメな人間をどうかお助けください” ってことになるわけなんです。

わかりますか?


 


 「自分も光る 人類も光る」 五井昌久 白光出版





  


  
 

2011年8月25日 (木)

偽善者になりたくない 4

  
  
みなさんは

自分は宗教には関係ない、無宗教だから宗教の話には興味がないと言われるかもしれませんが、今生では確かに薄いかもしれませんが過去世においてはかならずなんからの宗教を信仰していたのです。

いのちがけで悟ろうとしていたのです。

それを頭において読んでいただけたらと思います。






 
本文



自分のいのちは捨てられる人はあります。

自分のいのちを捨てても、神のみ心のために働くという人はあるかもしれない。

けれど、自分の妻や子どもや両親を痛い目に合わされて、それでも神のためにいのちを投げ出すか、というと、そこまでくると大変なんだ。

ほとんどないんです。

ところが今までの宗教観念というのは、そうしなければいけない、と言うんです。

二兎を選んではいけない。 神のみ心だけだ。

私の言葉で言えば、全然、業想念なんか捨てきって、それで神のみ心のままに生きなければならない、そうしなければ、あなた方は救われないんだし、人類は永劫に救われないんだ ━ というわけでしょ。


宗教というものは全部、そういうところにもっていってるわけです。

それは真理の一番頂点なんですね。

一番高い頂点なんだけれども、この世でみんな出来なきゃならない、出来るんだ。

それで出来ない人はダメなんだ、信仰が浅い人なんだ、それではダメなんだというふうに言われているわけなんですよ。

それでズーッと来たわけです。

そうすると、宗教をやろうとする人は、いかにも出来るような顔をするわけですよ。


“いつでも神様にいのちを投げ出せます”

“何があっても神様のためにすべて捨てます”

というふうにみんな表面上はそういう形をみせるわけです。

ところが実際、内面的には出来やしないんだ。

出来ないから、自分で自分の心を責め、痛め苛んでしまうんです。

事故被虐といって自分をいじめてしまうんですね。

それでいじめつづけてしまうんです。

そういう人が生まれ変わりをして、今生にはなんだか気の弱い人になって生まれてくる。

信仰のある宗教的な人が案外、気の弱い場合が随分あるんですよ。

なぜ宗教的な人が気が弱いかというと、過去世において、今言ったような経験をしているわけです。
 

自分の正直な想いを隠して、いかにも自分が信仰が深いというような生き方をみせるわけです。

昔のお坊さんなんかみんなそうなんです。

たとえば家庭も欲しい、女の人も欲しい、欲しいという心は中から燃えあがってくるものだから、これは本能的に出てくるものです。

それをギュッと抑えているわけです。

修行で抑えているわけです。

抑えて抑えて抑圧しているから、抑圧したものは必ず破裂するんですよ。

抑圧したものがないんじゃなくて、あるんだから、そこで抑圧したものがパッと出てくると、内緒事をするわけ。

内緒ごとをすると、だましたことになるわね。

だますと自分をいじめるわけ。

それがガタガタと廻ってきて、過去世において坊さんをやったような人は、今生ではならず者になったり、遊び人になったりする場合があるんです。

前の世でもって修行をして、要するに戒を守ってやって来たような人が、生まれ変わってくると、案外、道楽者になったりする場合が多いですよ。

要するに、道楽者なんかみていると、過去世において大分修行したような人があるんですよ。

修行に耐えられなくて、その時はごまかしていたんだけれど、生まれ変わってくると、今度はそれがパッと出て、女の人を三人も五人もつくったりするんです。

どうしてそうなるかというと、ごまかしているからね。

どうしてごまかしているかというと、本当は出来ないからです。

いっぺんに出来るようなものでない理想を、あたかもすぐ出来るように持ってくるからです。

宗教家が悪いんです。

自分でさえもなかなか出来ないようなことを、あたかもみんな出来るんだ、誰でも出来るんだ、自分はダメだから出来ないんだ、というように、自分をいじめてゆくんです。



 

 「自分も光る 人類も光る」 五井昌久 白光出版



     
  

偽善者になりたくない (途中経過)

  
  
人間は自分の中の素晴らしいもの(神性)を現わそうとします。

しかし、心に浮かんでくるのは愛薄い自分であったり、ずるい、なさけない、ダメな自分ばかりであったりする。

すると自分は神ではなく、どうしようもない馬鹿だと思い込んでしまいます。

しかし本性はそうではないので奥のほうから守護霊さん守護神さんが光を送って来て

「そうではないのだよ、あなたは神そのものなんだよ」

と告げるのです。

この繰り返しが何度も何度も、何回も何十、何千、何万回も輪廻転生しながら人間は神であったことも想い出していくのです。

自分が神であることを識るには最後は強い信仰心が必要です。

トンネルを抜ける一番最後の部分です。

人間は今出口に近いもうすぐ光が見える場所まで来ています。

夜明け前が一番暗いと言われるように

“ 産みの苦しみ ”なのです。

今苦しくもなんともないという人は真剣に人生を生きていないと言えば言い過ぎでしょうか?

それくらい地球を取り巻くエネルギーは厳しいのです。

しかし厳しいということは気づきやすい

目覚めやすい

悟りやすい

ということです。

そのためにはどうしたらいいか

現状の自分(心境を含めて)をどのようにとらえたらいいか?

これから続きを書いて述べていきたいと思います。


文章は強い信仰心(命を捨てるくらいの)がないと救われることはない


宗教心がないと苦難を乗り越えないといういうところから始まります。



  

2011年8月20日 (土)

偽善者になりたくない 3

  
   
  
何が自分を判断するのかというと、自分の好みとか自分の習慣の想いで、自分を判断し、人を判断するわけです。

習慣の想いは何かというと業想念という。

前の世、前の世の過去世からのいろいろな想いや行ないがありまして、それが幽体に積もって、習慣になり、習慣の想いというものが積もり積もって業になるわけなんですね。

そういう目から観じますと、人間というのは、業想念の、相対的な自分の善悪、いわゆる自分の都合で変わってくるわけ。

去年まで付き合って、あんないい人はいない、と言っていたのが、何かの都合で、自分に都合の悪いことを言ったり、やったりすると、あんな意地の悪い、あんな悪い人はない、と言ってきますものね。

この間まで、誉めて誉めて誉めちぎっていた人を、今度は、あんな悪い人はありませんと言う。

自分に都合が悪くなると、途端に悪くなっちゃうんですよ。

それほどに人間の頭の判断力というものはお粗末なもんです。

政治家なんかそうですよ。

昨日の友は今日の敵で、昨日は何々派だったと思うと、今日は何派に変わっちゃう。

年中変わっています。 自分の仲間だと思って 「やあ君、一緒にやろう」

と言っているうちに、いつの間にか勢力にいいほうにいいほうに移ってゆく場合が大分ある。

肉体人間というものは、おおむね自分の利害関係で動くものなのですよ。

だから他人(ひと)も利害関係で動いているから、あのヤロウはバカヤロウだ、ということを強く言える。

自信のある人は本当はいないんです。

自分の都合が悪くなれば、平気で動きます。

イエス・キリストの弟子にペテロという人はとてもいい人で、純真な偉い人です。

もう師がいなくては生きていられないような、そんなような人なんだけれど、そのペテロでさえも、自分のいのちが危うくなると

「あの人とは関係がありません」 と嘘を言ってしまう。

そういうふうに人間というものは、自分の不都合になると、嘘でもなんでも言うんですよ。

それが業想念なんです。

それは絶対にいけないかというと、いけないとかいいとかいうもんじゃなくて、そうなっちゃうんだから仕方がない。

咄嗟にそうなっちゃう。

たとえば五井先生についていけば、大丈夫だと思っている。

ところが、先生がやっている仕事を進めていったら、ハリツケになるとかいうことになるとしますね、おどかすわけじゃない。

そんなことは実際にないけれど。 たとえばの話です。

ハリツケになってしまう。 一緒にやっている者はみんなハリツケになるということに、サァついてくる人が何人あるでしょう?

なかなかついて来られないものなんです。

いざ命を捨てて、ということになると、ついて来られないもんです。

私はそれが悪いとも思わない。

仕方がないと思っているんですよ。

たとえば自分がついてゆくとしても、今度は子どもなり妻だとかがやられるという場合があります。

自分は生死を賭して、正義のために、やるんだ、と固い決意を持っていて、自分だけが出来ても、妻だの子どもだのがやられるという場合は、いっぺんに悲鳴をあげてしまうもんね。

大石蔵之介の忠臣蔵の芝居では、天野屋利兵衛は男でござる、という人がいたけれど、あの場合、子どもがやられるんですよね。

でもあの人は偉い人で白状しなかった。

あんな人はまれにみる人であって、大抵の人だったら子どもがやられたら、いっぺんに音をあげちゃう。

「私のいのちはどうなってもかまわないから、子どもだけは・・・」と命ごいをするでしょ。 

じゃ白状しろ、と言われれば白状しちゃうと思うんですね。

そうしたら、その人はダメな人間か?

そこまでしなければダメな人間だということになると、この27億ある人類のうち、ダメな人間でない人は何人いるかというんです。

ごく少ないです、そういう人は。

27億ほとんどダメだと思うんです。






   「自分も光る人類も光る」 五井昌久 白光出版



 
  



 
感想
 

判断するというのは、今生だけでなく前世の前世・・・もっとさかのぼったものがそうさせる。

「なぜ自分はこうなのだろう? なぜ、こんなことを想ってしまうのだろう?」

と考えてもわからないはずです。(笑)

ましてや他人(ひと)の前世なんてもっとわからない。

だから自分の判断力や他人の判断力に

期待するのは違うんですね。

肉体人間はその辺がまったくわかっていない

ついつい自分や偉いと思っている人の判断力に期待をしてしまう。

だけどいつも裏切られる げっそり

お釈迦様は肉体人間を超えるために

空になることを説いた

空にならなければ人間はいつまで経っても

まともにはなれない (人間は空になったときから本当の意味での第一歩が始まるとおっしゃっておられます)

おバカちゃんのままだというのです。

アセンション(次元上昇)というのは

人間が空になって

まともになるということです。

そうなるために

天から世界平和に祈りや印が降ろされた

これから本当の世界がやってくる

人間が本当の幸せをつかむときが来たのです。わーい(嬉しい顔)


 

世界人類が平和でありますように

日本が平和でありますように

私たちの天命がまっとうされますように

守護霊様ありがとうございます

守護神様ありがとうございます




  

    

2011年8月18日 (木)

病気というもの エピローグ

  
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

病気の正体というのも、抑圧した想いというものです。

あまり抑えに抑え、我慢に我慢をしていると、堪忍袋の緒が切れちゃうんです。

そうすると魂の緒まで切れてしまいます。

それで病気になるんです。

だから抑圧したものがいけないんです。

ストレスというのですが、それが病気の原因なんですよ、のんきなノウノウとした人はあまり病気しません。

「わしはまた病気になったアハハハ・・・・・」と言っている人はないと思う。

病気になれば皆ハーハーやっているでしょう。

のん気な明るい人は割り方病気しないんです。

なぜかというと、心が抑圧されていないから、のびのびしているから。

だからのびのびと生きなきゃね。

いのちというのは自由に生きるものなんだから。

いのちは自由に生き生きとしています。

赤ん坊は動いたらくたびれちゃうだろうと思うけれども年中じっとしていることはないです。

眠っていても動きます。

あれは生命が動いているんです。

生命が動かないではいられないんです。

ところが動かないでいられないものを、ぐっと抑えちゃうでしょ。

「我慢しなきゃならない。ここが堪忍のしどころだ」

とやっている。

「お嫁にいったら帰ってきてはいけない。二度と家の敷居をまたいではいけない」 と言われてお嫁にきたんでしょ皆さん。

大体今四十過ぎているような人はそうです。

涙ながらに別れの盃をかわしてゆくわけですよ。

個人と個人だけでなく、家と家とが結婚するんだからね、ひどいになると、見合いも何もしなくて、相手も知らなかった。

そして会ってみたら顔がひどかった(笑)

親が決めちゃうから、知らないで行ったりする。

そんな人もあったわけです。

それで忍耐して忍耐して暮らしているわけです。

そういうのが溜まっているのです。

それが病気の原因であり、不幸の原因であるんです。

小児麻痺でもやっぱりそういう原因もあるんです。

親たちが抑えている。

それが家に出てきた。 そこに迷ったものがついてくる、というわけですよ。

小児麻痺になった子どもが悪いわけではなく、親たちの想い方が間違っていたわけです。

だから治すにはどうしたらいいか、と言ったらほどいて元に返せばいい。

元に返すにはどうしたらいいかというと、迷っている想いをなくせばいいわけでしょ。

なくすのが祈りなんですよ。

我慢している想い、抑圧している想い、そういう想いをなくさなければダメです。

なくすためには、その想いをどこかにやらなければならない。

それが消えてゆく姿なんです。


ああこうやって溜まっている不幸や病気も短気も、悪い想いもみんな過去世から我慢に我慢していた想いが溜まっているんだから、なくさなければいけない。

なくすためにはどうやったらいいか。

と言ったら、神さまの中にやればいい。

神様の中といっても、神様は見えない。

どうやって神様につながろうかというんで、世界平和の祈りが出来たわけですから、世界平和というのは神様の望んでいることだから、望んでいることは神のみ心だから、世界人類が平和でありますように、と言って神様のみ心の中に自分の想いを全部入れてしまえば、心がきれいになってしまいます。

きれいになってしまうから、病気も治ってしまえば不幸も直ってくる、ということになるんです。


小児麻痺がいくら出ても、ワクチンだけに頼ることはないんです。

ワクチンはお医者さんがくれるから、あとは一生懸命祈るんですよ。

迷っているものを浄めなければいけない。

浄めるのに誰が一番いいかと言ったら、神様にやってもらうのが一番いい。


病というのは闇だから、光の中に入れればいい。

光はどこから来るかというと、救世の大光明から来る。

世界平和の祈りの中から来るんですよ。

だから世界平和の祈りの中に入れちゃえば、小児麻痺なんかでも治るんです。

ひまはかかりますよ。 かかりますけど、病気になりたてだったら早いです。

何年も経つとなかなか治らない。

想いが固まっちゃうからね。 始まりなら大丈夫なんですよね。

病気だって不幸だって、みんな自分がつくるわけなんだ本当は。

自分がつくるんだけれど、この世だけの自分がつくっているんじゃなくて、前の世前の世の過去世の自分がつくったわけなんです。


 



世界人類が平和でありますように

日本が平和でありますように

私たちの天命がまっとうされますように

守護霊様ありがとうございます

守護神様ありがとうございます



 




  「自分が光る 人類も光る」 五井昌久 白光出版




  


    
  

偽善者になりたくない 2

  
  
私は偽善者をつくらない宗教を開いた (昭和35年7月17日)


 
 
無理はいつか破裂する
 


ものが見える、というのは、何を見てるかというと、光の波を見ているいるんです。

光の波が反射して、それで見えるわけなんです。

肉体の人間同士が人間を見れば、今、皆さんが見えるように見えます。

人間が見るのではなく、犬が人間をどう見ているか、猫が人間をどう見ているか、象は人間をどう見ているか、蟻は人間をどう見ているか。

人間が人間を見るのと、猫が人間を見るのと、犬が人間を見るのと、蟻が人間を見るのとみんな見方が違うわけですよね。


おそらく蟻から人間を見れば、断崖絶壁のようなすごく巨大なものに見えると思うんです。

象から見れば蟻なんて、なんてちっぽけなものがいるのだろう、と思うでしょう。

肉体の人間同士が見ても、形の世界から見ると同じように見えるけれど、AならAという人が見た人と、Bが見た人と全く同じかというと違うんですね。

Aが見た中村さん市川さんと、Bが見た中村さん市川さんとは違うのです。

違うけれど総合してみると、やや似ている、やや形が掴めるというもんで、今度、中味になってくると、Aも違う、Bも違う、Cも違う。


本当の人間というのは、みんな見ている人とは違うかもしれないんですね。

たとえばやさしい穏やかないい人だ、と見た人が、実はたくましくて、素晴らしく強くて、もう底意地が悪いかもしれない。

表面で見ていて、つきあいが浅いとわからない。

つきあいが深くなれば深くなるほど、その人が本当にわかってくる。

ところが結婚して30年も経つけれども、私は主人のことがちっともわからないんですよ、と言って私に教えを乞いにくる人がおります。

30年も一緒にいてわからないのはおかしいようだけれど、実はわかったように思っているだけで、本当はわからい。

というよりもっと深く言えば、実は自分自身のことがわからないんですよ。

自分は一体どういうものかわからないのですよ。


いくつもいくつも心(想い)があって、いろいろ探ってみると、一体自分は気が弱いのか強いのか、気が長いのか短いのか、情深いのか冷淡なのか、わからなくなってくることがあるんです。




   「自分が光る人類も光る」 五井昌久 白光出版






 
感想


人間にはいくつもいくつも心(想い)がある、多重人格といいますがほんとうにいろんな性格が入り混じっていると思うのです。

自分には3人の人の人格が重なっているとしたら本当の自分なんてわからない

あっさりさっぱりしている人というのは想いが重なっていない人だと思うのです。

いろんな性格が重なっている

面倒臭くて、ややこしくて嫌ですよね げっそり

私たちは前世からもいろんな想いを受け継ぎ、今生でも他人からいろんな想いをもらいます。

だからそれらの想いを流し続けることが大切なんです。

話は変わりますが、私の妻はこの猛暑の中、外でテニスをしています。

私の友人もバレーボール(ママさんバレー)をしている。

こんなに暑いのにどうしてそんなに肉体を酷使するようなことをするのか?


それは汗を流すことでエネルギーを流そうとしているのです。 (本人はエネルギーを流しているなんて自覚していませんが)

このエネルギーとは想いのエネルギーなのです。

スポーツをすると余計なことを考えない、そして想い(重い)が取れていく。

実は世界平和の祈りとは前世の想いと今生の想いをきれいに流してくれるのです。

スポーツで汗を流すよりももっともっと凄まじい量のマイナスエネルギーを流すのです。

祈りながらスポーツ(ストレッチ、動功)をする。

これが究極のストレス解消法なのです。わーい(嬉しい顔)ぴかぴか(新しい)


あッ、私の妻も友人もすごくさっぱりしています。
スポーツ(体を動かす)ってほんとにいいものですよね。わーい(嬉しい顔)

 
 


世界人類が平和でありますように

日本が平和でありますように

私たちの天命がまっとうされますように

守護霊様ありがとうございます

守護神様ありがとうございます



  
 
 

偽善者になりたくない 

 
  
  
私がつくづく思うのは、人が人を評価するのなんてかなりいい加減であるということです。

ある人はAさんを素晴らしい!と絶賛する

しかし他の人はAさんのことを得体の知れないわけのわからい奴だと思っている。

人によってAさんは悪い人になったり善い人になったり素晴らしい人にもなりとんでもない人にもなるのです。

それはAさんがどんな人であるかというよりも、たくさんの人の目にAさんがどう写っているかだと思うのです。

たくさんの人の目には色が付いています。

無色透明であればそのままのAさんが写ってくるのでしょうけど、みんなそれぞれに色付きのメガネをかけている。

疑いのめがねであればAさんが善い人であってもあやしい人に写る。

嫉妬深い人から見れば、腹の立つ虫の好かない奴にみえる。

深い洞察力のある人から見れば、Aさんの奥で光輝いているダイヤモンドのような原石を発見しているかもしれません。

しかし10人が10人ともAさんのダイヤモンドの原石を発見できるわけではない。

ダイヤモンドどころかダイヤを覆っている煤の部分だけを見て

「あいつはどうしようもない奴だ」 と判断しているかもしれないのです。

自分で自分のことを信じて、人のいうことなんて気にしなければいいのですが自分に自信が持てないと他人の評価が自分だと思ってしまいます。


「お前はダメな奴だ!」と評価されると

本当にダメな奴だと信じてしまう。

そしてどうせ自分はダメなんだと自暴自棄になる

「もったいないなぁ」

って思うけど

いい加減な評価をする人に腹が立ってくるけれども

それをくつがえして

本来の素晴らしい自分を発見していくことが大切で

力強く生きていかなければならないとも思うのです。

人の評価を信じるのも究極は自分の責任です。

人のせいばかりにしていては本当の意味での

「自立」 は出来ない。

どうして自分を客観的に真っすぐに等身大で見ることが出来ないんだろう?

自分というものがわかれば自分を卑下したり、過小評価することもない

ソクラテスは

「汝自身を知れ!」

と言いました。

自分のことがわからないから人のこともわからない

すべては自分というものがわかっていないことから始まっているのです。

だから他人の方が自分をわかっていると思ってしまう。

でも冒頭にも書いたように人の評価もいい加減です。

まちまちです。

誰が言っているのが本当の自分に近いのさえもわからない


人間はもっと

自分というもの

自分を取り巻く他人というものとは何なのか?

を追求すべきだと思うのです。

それをしないでいい加減にしているから

いつまでたっても人のことも自分のこともわからない

だからいい加減な生き方になってしまう

とりあえず

自分をいい人に見せとけば

無難に生きられる

人からもそんなに悪い評価を受けないだろうと思ってしまう

中途半端な生き方になってしまう

偽善者になってしまうのです。

私は性格的にそういうことが出来ない人間のようです。

五井先生のご著書を読んでいると私の知りたい(本心が)が書いてある。

今までわからなかったモヤモヤしたものが晴れていく。

こんなに嬉しいことはありません。

みなさんもきっと同じだと思うです。

本の中からググッと響いた言葉を抜粋します。

気づき を共有できたらこんなに嬉しいことはありません。

気づきとは最高の喜ぶだとおもうからです。

わからないからしんどい

わからないからモヤモヤしている

わからないからスッキリしない

わからないから不安になる

すべては真理がわかっていないことからくるのです。

でもここに書いていくのはあくまでも

真理の中のほんの一部にしか過ぎません。

みなさんが本を購入されて

ご自分で追求されることが一番だと思います。



次から 「私は偽善者をつくらない宗教を開いた」 五井昌久著から書いていきます。





     

2011年8月17日 (水)

病気というもの 4

  
   
 
精神状態によって、たとえば腹を立てれば胃腸が悪くなる。

癇癪を起せば胃の中に毒素が出来て、胃が悪くなるんだから、癇癪を起こしてはいけない、というようなことです。

想いと健康の関連を研究するのが精神医学。

それからもっと深くなると、それは障りだから、自分の心だけでなく、生命が素直に動いているのを邪魔しているものがある。

それは亡くなった人の想いだ、というのを研究するのが心霊医学なんです。


この三つが今の医学になっているわけなんですが、国家が開業を許可しているのは、一と二の医学だけで、症状を見て、現われてきたものだけを治す、というやり方なんです。

しかしこれは遅れているんです。

これからはだんだん訳のわからない病気がたくさん増えてきます。

これまで小児麻痺(ポリオ)などは日本になかったですね。

それがだんだん現われてきている。

ポリオを非常に恐れています。

伝染するというのです。 本当は伝染するのではない。

そういうとお医者さんに怒られる。

けれど伝染するわけじゃない。 想いが感染するのです。

ポリオになるような想いがこの中にある。

あるところに祖先の迷った想いがついてくる。

そうするとそこに麻痺状態が起こるわけです。

生命がそのまま素直に動いていれば、病気にもならない。

不幸にもならないのだけれど、生命が素直に動かないようになる。

それは自分の想いで動かないようにするのか、あるいは他界(幽界)からの干渉で動かなくなるのか、どちらか二つなんですよ。

そこでポリオなんかの場合には、90%が幽界からの迷いの想いが来る。

うしろからあるいは前からかぶさってくる。

そうすると生命はまっすぐに進もうと思っても進めなくなるでしょう。

少し歪んでしまうんです。

これが病気の状態ですね。

それが骨あるいは、筋肉に来たのがポリオです。

今までは小児麻痺を治す方法がなかったんです。

ワクチンの普及で治ってきたけれど、そんなに治っているわけじゃないんですよ。

ワクチンで治るなら、アメリカなんか小児麻痺がなくなってしまうわけだけれど、アメリカが一番多いのです。

日本などは少ないですよ。

なぜ、日本が少ないかというと、日本は祖先崇拝でしょう。

祖先を祀って、祖先のためにお経を読んだり、いくらかやっています。

やっているから割り方そういう障りが少なかった。

アメリカなどは祖先を問題にしません。 そういう意味で外国は割り方小児麻痺が多かった。

ところが近頃では日本でも、祖先なんか問題にしていない。

親だって問題にしやしない。





   「自分も光る人類も光る」 五井昌久 白光出版




  


2011年8月16日 (火)

病気というもの 3

  
  
病気の正体は抑圧された想い

 


病気の原因はどこにあるか、というと幽体にある。 潜在意識の中にあるわけです。

思っているのが現われている。 これは顕在意識です。

自分では思っていないけれど、以前思ったことが知らないで溜まっている、それが潜在意識です。

潜在意識というのはズーッと深くて、神界までつづいているわけです。

肉体界、幽界、霊界、神界とつながっています。

潜在意識もつながっているわけ。

顕在意識の心の現われているものは、僅かしか現われていない。

その僅か現われているものだけで、人間は生活しているんです。

しかし作用するものは、現われている心ではなくて、現われていない潜んでいる心の方で、それが人間の運命を創ってゆくわけです。

病気なども大方が潜在意識から現われてくる。

仏教的に言えば因縁です。

因があって縁にふれ、そして果が現われてくる。

因縁因果の法則なんです。

だから急に病気になるということはないわけです。

病気になるには、前に潜在意識の中に病気の種がありまして、その病菌の種が縁にふれて現われてくるわけです。

因縁因果の波が現われて、病気になってり、不幸になったりするんです。

どんなにいい薬をもってきて、その症状を治しても、その人が良くなったというんではない。

病気が変わった、症状が変わっただけで、抑えられて、一旦、内に潜んだというわけです。

やがて折があると、縁にふれて、今度は違う病気になって現われてくるわけです。

そこで本当に健康になり、本当に運命をよくするためにはどうしたらいいかというと、潜在意識 ━ 潜んでいる心いわゆる幽界の幽体の中に、いろいろな病気になる原因の想いが潜んでいるわけです。

それがある折にふれると、毒素になって体に現われてくるわけです。

はじめは想いだから気体なわけです。 それが液体となり固体となり、毒素になってくるわけです。

すると毒素が邪魔ですから、中の生命力、治す力が働いて、毒素を融かすわけです。 融かしてゆく時に、熱が出たりして病気になるんです。

その病気になったものだけをとらえて、病気を治そうとするのが医学です。

精神状態を治そうとするのが精神医学だと言われています。




  

      「自分も光る人類も光る」 五井昌久 白光出版


 
  

  

2011年8月15日 (月)

病気というもの 2

  
  
  
病気というもの


医業と霊作用 (昭和35年8月25日)


今、小児麻痺がはやっているのですね。

これに対してワクチンが非常に効果があるということです。

昔は天然痘がはやり、亡くなる人が多かったのですが、種痘が発見されて、天然痘はなくなりましたね。

そこで今、薬というものと霊作用というものとは、どういう関係があるのだろうか、という質問が出たわけです。

人間の病気には大体3つあります。

一つは霊作用といわれる障り、つまり幽界のいろいろな想いがついて、生命がまっすぐ通ることを邪魔することによって起こるもの。

二つは肉体だけのもの、三つは精神状態、自分の心が乱れて病気になるもの、こういう三種類があるんです。

小児麻痺というのは、完全なる霊作用なんです。

祖先の迷った人の想いが骨に来るわけです。

骨というのは頭がい骨から足までつながっている。

天から地までつながっているものですから、祖先を現わすものです。

特に背骨というのは、それで小児麻痺をみると、祖先の親戚縁者の迷いの波がかかって、足や手がぶらぶらなっちゃう。

ところがワクチンで治るという。

天然痘は種痘がはやらなかったら、ずーっと蔓延していったでしょう。

種痘でどうして治ったか、ということですね問題は。


それはこういうことなんです。

種痘を発見した人、ワクチンを発見した人の愛の想いが癒す、ということになるんです。

薬自身も効きめがありますよ、しかし、それに愛の想いが加わって病気を治すわけなんです。

一人が治り二人が治り、大勢治ってくると、ワクチンを使えば治る、種痘をやれば大丈夫だということが、世の中に非常に強く影響するわけです。


人の心に伝わってゆく。

そうすると、病気にならない、治るという信念が強くなってきます。

それで治りが非常によくなってくる、ということがあるんです。

発見者の愛の想い、薬の効きめ、それが効いたことによって「効いた」という信念、この三つが加わって病気が治ってゆくんです。

だから本当のことを言えば、病気にならないという信念があったならば病気にはならないわけなんです。

ところが心の底から 「オレは病気にはならない、絶対に病気になんかならない」 という信念を持った人は数少ないわけです。


そこで医学等が必要なわけなんです。

だから霊作用と医業の問題が一番難しいわけです。

小児麻痺を医学的処置だけで治る、というよりも、中に押しこんでしまうわけです。

出てきたものを抑える、抑える現象的には治ったように見えるけれど、今度は違う病気になって現われてくる。

種痘でもって天然痘はなくなりましたね、なくなった代わりに、他にガンが増えたり、不思議な病気がいろいろと増えてくるわけです。

症状は変わるけれども病気が治ったわけじゃないんです。

症状は変わった、依然として毒素は中にある。

障りも依然とあるわけです。

それは本当に治ったわけではなく、抑えておくだけです。

実際問題とすると、その場が治ればそれで助かった感じがするから、それでいいわけなのです。

今の西洋医学というものはそういう医学なのです。

現われてきたもの、症状を治す。

だけれども病気を治したわけではない。




 


    「自分も光る 人類も光る」 五井昌久 白光出版




  




  

病気というもの

  
  

  
私の周りには病気の人がたくさんいます。

病気でない人の方が少ないくらいです。

でも、この病気っていうのはなんなのか?

ほとんどの人はわかっていない

病気というのは気が病むということ

つまり気(エネルギー)が痛んでいるということなんです。

人間は光の波動体(エネルギー体)です。

この光の波がすこやかにスムーズに流れていれば

人間はすっきり爽やか、病気にはならないのです。

または、過去世で病気になる種を持っていなければ

今生で病気の花を咲かすことはない

そしてエネルギーの流れを邪魔する障りがなければいいわけなんです。

それから病気を治してあげたい

救ってあげたいという愛の想いが病気を治したりします。

五井先生のご著書の中である薬が発明されてその薬でたくさんの人が治ったとあるのです。

いい薬というのは、薬を作った人の愛の気持ちが込められているのです。

愛の波動が薬になってそれが広がっていく

わたしはこの話が大好きです。

同じ薬を作っても

愛の薄い人がお金目的で作ったとしたら

それはまったく同じ原料で出来たものでも効かないのです。

それはその薬には愛の波動がないからです。

10時間にも及ぶ大手術をする場合

普通の人間であればそんなに長く集中力が続くわけがありません。

細かい血管をつなげたり神業(かみわざ)と云われるような技術はどこから来るのか?

それは、手術をしているのは肉体人間のお医者さんではなく守護霊・守護神が代わりにしているのだそうです。

守護霊守護神の愛がお医者様に乗り移ってやっている。

その愛が手術を成功させ、場合によっては(成功することがその患者さんにとってよいとは限らない)うまくいかないこともある。


つまり私たちは、自分でなんでもやっていると思っているけど

実は背後にいる守護霊守護神によって動かされているのです。

目の球を動かすのでも足を動かすのでも

守護霊守護神が全部動かしている

逆にいうと

病気は

守護霊守護神の手にかかれば

簡単に治したりできるそうです。

西園寺昌美さんが生死をさまよっていたとき

守護霊様が

「明日だけ病気を治してやろう」

といったら

ほんとうにその通りになった


だけど病気になっているのは守護霊さんのいじわるではないのです。

いくら守護霊さんでも人の運命を変えることはできない

病気になる種は人間が

大事なことに気づいて

そして自分で波動調整をしていくしかないのです。

守護霊様はそれをじっと待っているだけです。

前置きがかなり長くなってしまいました。(笑)

次の日記から 病気というもの について五井先生のご著書から書き写していきます。

よかったらお付き合いください。



   


 

むやみやたらに出歩かない

   
  
今、お盆で花火大会やお祭りが各地で盛んに行なわれています。

一見華やかで楽しそうにみえるけど

私はそういう所へは一切行きたいとは思いません。

それはそこにはいろんな浮遊霊がいるからです。

浮遊霊とは霊界、神界に行けずに幽界をさ迷っている感情霊、動物霊のことです。

浮遊霊は、人間にとりつきたくてしかたがない、隙があれば憑依しようとしています。

自分は死んだけれど想いは残っている、だから肉体がないことがわかっていない、身近な人に話しかけても通じない


だからその人の肉体にくっついている幽体に入っていく

それが憑依です。

または死んだことはわかっていても霊界や神界は波動が細か過ぎて自分には合わない、だから不良霊になって人間をからかってやろうというやからです。


そんなとんでもない霊がお祭りや神社、仏閣にはたくさん居るのです。


だから行くと生温かいじめっとした重い空気が漂っています。

そんな雰囲気も感じるんだろうけど

「祭りは楽しい」

「花火がきれい」

「どこかに素敵な女性(男性)はいないかな?」(笑)

という感情が勝ってしまって

幽界(迷い)の世界に入って行ってしまうのです。

私の息子も以前京都が好きで祖父母に連れられて祇園祭に行っていました。

帰って来ると人がげっそりして人相が変わっていました。

お祭りとは先祖の霊を慰めて成仏してもらう意味があるのですが

その場が清まっていないかぎり成仏できていない霊魂の集合場所となっているのです。

今霊場と言われる場所で霊力があるところはほとんどありません。

それだけ人の想念で汚れているのです。

「なんでわざわざ汚れた場所に行くのだろう」

私は疑問に思います。

目に見えないマイナスのエネルギーをあなどってはいけないのです。

先ほどブログの読者の方からお祭りに行って身体の調子が悪くなったという相談を受けました。

みなさんも思い当たるふしがあると思います。

気もちが浮かれていては

正常な判断はできません。

行く前に気が進まなかったり

嫌な気分になったときは

断る勇気を持ちましょう

エネルギーは先に来るので

行ってはいけない場合は

直観が働くはずです。

守護霊様が知らせてくださるのです。

自分のことは自分(守護霊、守護神)でしか守ることは出来ません。

肉体人間の親や友達は何にもわかっていません。

世界平和の祈りの中に入って

本当の自分とつながってください。

 
世界人類が平和でありますように

日本が平和でありますように

私たちの天命がまっとうされますように

守護霊様ありがとうございます

守護神様ありがとうございます





  



 
  

病気の原因とは?

  

   
一言に病気といってもいろんな原因でなるのです。

今の西洋医学では現れて来た症状を抑えるというものです。

人間は肉体だけで出来ているのではない。

肉体の他に幽体、霊体、神体も同時にまとっています。

病気は突然になるものではありません。

潜在意識、過去世の想念(考えていること、想っていたこと)が現在に顕われてきているのです。

病気と言う花が咲くということは病気になる種を蒔いている。

過去において種を蒔いているのです。

病気を根本的に治すというのは種までさかのぼらないと本当に治すことにはならないのです。

そして、それだけでなく障りということもあります。

以前、「神と人間」という本から抜粋した文章を日記にも書いていたのですが、よかったら読んでみてください。

ご自分の心、魂を浄めることがいかに大切なことなのか?

守護霊守護神がいかにありがたいかがわかります。

 









問  俗に、キツネとか、タヌキが憑くといわれているが事実あることでしょうか。



 

答 


狐、狸といっても、動物の狐狸のことをいうのではないので、幽界に住む、感情霊、動物霊ともいう、霊魂のことなのである。


医学でいう精神病や、行者の一部には、こうした感情霊に憑依されている場合がたくさんある。


神詣りばかりしている人が、突然、種々の予言をするようになったりすることがあるが、この場合にも、この感情霊の作用が多い。


この感情霊は、霊と普通にいわれているが、実は魂(因縁の波の集り)つまり、迷いの念の波の中に生まれたもので、迷いの念の一つの現われともいえる。


すべて、興味本意、感情本意に行動していて、人間のように、愛(神)を内部に持っている霊魂ではないのである。


従って、人間の本体(本性)とは、まるで違った生物なのである。


いいかえれば、人間にとって一番大事な心、愛と知性を取り除いた、その他の念(おも)いでできているものである、といっても間違いではない。


人間の中にも、愛も知性もなく、利害や、感情のみで、敵になったり、味方になったり、やたら褒めたり、けなりしたりする徒輩(やから)があるが、こうした人たちは、人間というよりは、動物霊に近いというべきで、こうした念の人が、幽界に行くと、今度は、これらの動物霊と、一つになって、迷信家や、低い念の行者に憑依して、肉体の人間を面白半分に迷わせるのである。


形の世界は、すべて、想いが写ってできているので、狐のような想いは、そのような形に、蛇のような想いは、蛇のような形に霊眼に見えたりするのである。(心霊家や、研究家の一部では、天狗、狐、狸などを、自然霊と呼んでいるが、私はただたんに感情霊と呼んでおく。何故ならば、私の説明は自然霊と呼ぶ広範囲の説明ではないからである)



こうした感情霊の憑依を受けぬためには、私の最も主張する、守護霊、守護神への感謝と、愛と真心の行動をしていればよいので、いたずらに奇を好み、霊力を欲するような態度は、厳に戒むべきである。



懸命に信仰をしているように、自分も思い、人にも思われていながら、不幸が絶えぬ人や、信仰していることが、かえって家庭の調和を乱している人や、信仰しているその信仰のしかたや、日常の行動が、奇矯に流れているようでは、その信仰のしかたのどこか誤りがあるので、そうした家庭には憑依霊作用が多いのである。



興味本位の神廻りや、ご利益本位の信仰は、実に危ない気がするのである。


まず、よく自己の本心を顧みて、一生はおろか、神と真に一体になるまで、導いてくれる良い師に出会うよう、守護霊、守護神に祈るべきである。


守護霊は、自己と全く一つの者であるともいえるので、心の中で、常に守護霊、守護神を念じていれば、必ず、その人を邪道から引き出してくれるのである。


そうした心で、入った信仰や、集まりなら、たとえ、その入会の動機が、ご利益からであっても、ついには、真の浄まりにまで、その人を高めてくれるに違いない。


そうなれば、憑依霊の心配は勿論ないのである。




 

   
             『神と人間』  問答篇 五井昌久





  


2011年8月12日 (金)

楽観的に構想し・・・・

  
  
 
  
「楽観的に構想し、悲観的に計画し、楽観的に実行するべき」

 

楽観的にプラスにイメージする、しかしその途中ですべてが計画通りにいくとは限らない、だから最悪の場合も想定する、しかし最後には絶対に大丈夫なんだと自らに言い聞かせながら行動(実行)する


これって凄く大切ですよね。

先日新聞を読んでいたら陸上の朝原さんが走るときのイメージとして最良と最悪の両方を持っておくんだと云っていました。

例えば、リレーをする場合スムーズにバトンがつながることをイメージしながらも頭の隅に自分や誰かがバトンを落とした場合を想定しておく


するとプラスとマイナスの両方がイメージされて幅が出るのです。

これが余裕です。

余裕があるとリラックスできる

力が抜ける

力が抜けると本来潜在的に持っている思わぬ力が出て来るのです。

そしてもしバトンを落とした(失敗)としてもあわてずに

「大丈夫、大丈夫」

と楽観的に実行していれば

大丈夫なようにエネルギーは流れて行きます。(実際にバトンを落としたらもうダメですが)


朝原さんを擁する日本チームがリレーで銅メダルが取れたのは

他の国のチームはここまで細心の心の準備をしていなかったと思うのです。

個人の成績を最優先させているのでチームでメダルを取ることにはそれほど意識していない。

もし上手く行ったなら余分にメダルがもらえる

バトンの練習にも力が入らないしいろんな場面を想定するイメージもしていない

だからすべてがうまくいっていないとすぐに諦める。(そこに隙が生まれる)

バトンをうまく渡せなくても(ちょっとしたことでも)

「もうダメだ」 とチームのみんなが思ってしまう。


この世の中

「もうダメだ」

「ダメかもしれない」

とおもうことなんかしょっちゅうですよね。(笑)

そこで

「そんなこともあるさ」

と想定の枠の中に入れていれば

落胆も少ない


そしてすぐに楽観的に頭を切り替えることが出来る。


これからアセンションにむけていろんなことが起ります。

善くなるためのプロセスとして

マイナスと思われるようなこと(実はマイナスではない)も起きて来ます。


病気になる

リストラされて仕事が無くなる

人間関係がうまくいかなくなる


しかしそれはすべて善くなっていくために

悪いもの(そのときの都合の悪いこと)が消えてゆく姿なのです。

善くなっていくためには悪いものという膿(うみ)が出ないと

善くなっていかないのです。


私たちは

少しでも自分の計画が行き詰ると

「最悪」とか

「もうダメだ」

という言葉を云ってしまいます。

言葉はエネルギー

言霊です。

霊とは神様のことです。

言葉には神様が宿っているのです。

だから力があるのです。

その通りに働くエネルギーがあるのです。

ですから安易にマイナスの言葉を吐いてはいけないのです。

現実にマイナスの通りになってしまうからです。


「楽観的に構想し、悲観的に計画し、楽観的に実行するべき」


善い考え方だと思います。


今読んでいる本は京セラの稲盛さんの考え方が書いてあります。
破たんしたJAL(日本航空)が稲盛さんの手腕によって凄いスピードで再建されつつあるそうです。

考え方次第でどんなマイナスもプラスに転じることが出来る。

経営だけでなくいろんなことに応用できそうですね。





「京セラ稲盛和夫心の経営システム」 青山敦 日刊工業 本



  
  
  
  

2011年8月 7日 (日)

エネルギーは先に行っている

  

  
少し神秘的と申しますか不思議な話をします。

先日、私はオーラ診断をしているオーラ・オーラにある人(男女2人)をお連れしました。

その2人は私の知人で今同棲をしているのですがお互いに引き合っているにもかかわらず衝突があったり感情の行き違いが多いのです。

経済的にも問題があって男性の方に借金があります。

女性の方は情緒不安定で人と話すときに感情的になったり被害妄想があるので彼氏だけでなく人間関係でトラブルが絶えません。

このお二人に限らず問題は今生だけでなく前世のこと(トラウマ)も大きく関係しているので大局的に観ないと本当のことはわからないのです。

オーラは一つの目安にすぎず、オーラを観なくても私の気功仲間(ハーモニーの人たちと言います)のOさんとYさんはその人たちのことがわかるのです。

なぜわかるのかはまた別の機会に説明しますが、ここでお話しするのはエネルギーのことです。

実は、私がお連れした2人が来る前から2人のエネルギー(正確には私のエネルギーもそうですが)がOさんとYさんのところにもやってきていたのです。

2人のエネルギーは凄まじかったのでOさんとYさんは前の日から手が上がらなかったり身体が重たくなったりして大変だったそうです。


私もそのことがよくわかっているのでOさんYさんに

「すいません、申し訳ありません、ありがとうございます」

と心の中でお詫びをしたのです。

私がお連れした2人は私のエネルギーの範疇にあります。

私がもっと祈ってスッキリしていればOさんYさんに行く想いのエネルギーは軽減されるのです。

私が事前にたくさん祈って最大(出来るだけ)の努力をしていたかというとそうではありません。

エネルギーはこういうふうに人に迷惑をかけるのです。

人と会う前にはエネルギーは先に行っていてもうその人に会っています。

だから会う前にエネルギーでそのときの様子は大体わかるのです。

いい出逢いにしたいのならば事前に自分のエネルギーを整えておくことです。


それを私は祈りや印によってしています。

今週から来週、そして月末にかけて私はいろんな人と会うことになっています。

だから波動調整はとても大切なことなのです。

みなさんも自分の出しているエネルギーのことは知っておいた方がいいと思います。

お近くの方は是非

オーラ・オーラへ行ってみてください。わーい(嬉しい顔)

きっと、いや絶対

行ってよかったと思いますよ。(笑)







オーラ・オーラ


http://auraaura7.com/




  

3つのおにぎり

  
   
  
波動(エネルギー)を説明するわかりやすい例をご紹介します。

おばあさんのにぎるおにぎりが絶品だとしますよね。

おばあさんのおにぎりは塩加減といいやわらかさといい絶妙ににぎられている

だけど本人に聴いても特にコツなんてないと云う

ただ美味しく食べてもらえたら嬉しいという気持ちだけです。

実はそれが波動なのです。

そしてここに後2つのおにぎりがあるとします。

そのうちの一つは機械でにぎられたものです。

まったく同じお米で塩の量も同じ、握る力もおばあさんと同じにしています。

そして、もう一つは朝から機嫌の悪い腹を立てたままの状態で握っている一流料亭の職人さんのおにぎりです。


愛情がこもった おにぎり

機械が握った  おにぎり

怒りの感情で握られた おにぎり


どのおにぎりもまったく材料は同じ条件です。

しかし食べた人への波動の伝わり方は全然違います。

そして食べた美味しさも全然ちがうのです。

喧嘩をして怒りに狂って感情的になっているときに食べる料理は

どんなに評判の高いお店で食べても美味しくありません。

作る側と食べる側の心の状態が味という波動(エネルギー)に現われるのです。


形のあるものも元(原点)をたどれば、心の波動なのです。

私たちは形にこだわります。

材料がよければ腕のいい職人さんが作れば何でもいつでも美味しいと思っています。

しかしそうではないのです。

想いがすべてのエネルギーの元なのです。

想いをすっきりさせてこころを光の波動でいっぱいにすれば ぴかぴか(新しい)

自分も周りも幸せになります。


自分のエネルギーをスッキリさせて (感情のエネルギーを消して)

周りも浄化させるのが

世界平和の祈りなのです。


このおばあさんが世界平和の祈りを祈りながらおにぎりをにぎったら

もっと美味しいおにぎりになるのです。(笑)



 

世界人類が平和でありますように

日本が平和でありますように

私たちの天命がまっとうされますように

守護霊様ありがとうございます

守護神様ありがとうございます




   

最近気づいたこと 15

  
  
  
・目にみえることをよくしようとしたら目にみえないエネルギーを整えるしかないのだ

 

 

・大事なことは長生きすることではなくて、いかにスッキリした状態で逝こうするかなのだ、死後、魂が迷っていては長生きしてもなんの意味もない



 
 
・人間は病気で死ぬのではない、寿命で死ぬのだ、若い年齢であっても天寿をまっとうしていればそれは目的もなくただ生きていることよりずっと意味がある。

 

 

・ 死は永遠の眠りではない、死は肉体という鎧(よろい)から脱皮出来る、自由自在心になれる喜びの瞬間なのだ、ただ本人が生前にそれを理解していればの話だが・・・・





・今まで何をしてきたかより、今自分がどんなエネルギー(波動)を出しているかの方がずっとずっと大事なことなのです。(過去はどうでもいい)




             



                     

                   グッドムーン




  

結論は何か?

  
    

「神道のこころ」を読んでいると感動します。

感謝する気持ちがいかに大切か


感謝は光である ぴかぴか(新しい)

光は愛である

愛は神である

か~ぁ

み~ぃ



だから感謝する気持ちを持てばそれは神に通じるから

奇跡は起こるんだ


だからみんな感謝しましょう

どんなことにも感謝できる人間になりましょう

立派な人間になると奇跡が起こせるのです。


だったら立派でない人間は病気は治らないのか?

奇跡は起きないのか?

になってしまいます。げっそり


感動する本はたくさんあります

心が洗われる本もいっぱい出ています。



しかしどうしたら感謝できるようになるのか?

どうしたら神に通じることができるのか?

どうしたらお釈迦様のように

悟ること(空になる)が出来るのか?

どうしたらどんなことがあっても安心立命した心境になれるのか?



そのことはどの本を読んでも書いていないのです。

その先のことは書いていない


だから

「あ~ぁやっぱりダメなんだ」

って思ってしまう。


ありがとうって言霊を唱えれば素晴らしいことが起こると書いてあります。

ありがとうでなくても

南無妙法蓮華経、南無阿弥陀仏でも、アーメンでも

宇宙とつながる、神、仏とつながる言葉や唱え(お経)ごとはたくさんあります。

だからどの言葉が良いとか悪いとかはないのです。

ならばなぜ

私が世界平和の祈りを唱えているかと申しますと

今の時代に合った

一番宇宙からの光がたくさん降りて来る言霊だからです。

私たちは心というエネルギー体を持っています。

このエネルギー体は地球中のいろんな人の想念を受けてダメージを受けているのです。

それだけではなく、自分自身の過去からの想念行為でマイナスをいっぱい植え付けてしまっているのです。

これが潜在意識(幽体)です。

幽体が汚れているから肉体界に不調和なことが起きている。

肉体界を善くしようとしたら幽界(潜在意識の世界)を浄化するしかないのです。

コテコテに汚れた幽界を浄めるためには強烈な強いプラスのエネルギーを当てるしかないのです。

世界平和の祈り、そして印は、この地上最高のエネルギーなのです。

これは宇宙神からのメッセージなのです。

世界平和の祈り、印によって人類は目覚めていき

そして浄化されることによって幽界が浄まり

神界(宇宙)の波動(エネルギー)がそのまま肉体界に降りて来るのです。

だから世界平和の祈り、印は人類に残された最終手段なのです。

病気を治すにはどうしたらいい?

幸せになるにはどうしたらいい?

人類が平和になるためにはどうしたらいい?

その答が世界平和の祈りの中にすべて入っているのです。

世界平和の祈りを祈ると自分のマイナスが消えてゆくので結果的に病気が治り、神の波動にふれて幸せ感を得るのです。




 
 
世界人類が平和でありますように

日本が平和でありますように

私たちの天命がまっとうされますように

守護霊様ありがとうございます

守護神様ありがとうございます



 

 


 
追伸

どうしたら自分(個人)や人類が平和で幸せになれるのか?

上辺だけの幸せではなく魂、心が本当に救われる本はめったにあるものではありません。

それは宇宙のこと神界のことが本当にわかっていないと書けないからです。

神我一体になった人でないと書けないからです。

そんな本が本物であり、天に通じる本なのです。

だからどうしたらいいのかを

ズバリ書くことができる

宇宙神のみ心をそのまま伝えることができるからです。

五井昌久先生、西園寺昌美先生、于寿明先生の本は神書です。

結論がズバリ書かれています。(私たちはもう寄り道をしている時間はありません)

これからは本物の時代に入っていきます。

そのときに上記の先生方の書いた本は必ず必要とされる書籍になるでしょう。

 


   

2011年8月 6日 (土)

神道のこころ

  
    
  
ガンに罹った親父に必要なのは心のやすらぎだと思うのです。

ガンを恐れるのではなく、死を怖がるのではなく

ガンが治っても治らなくても

平常心でいられたら

どんなに幸せでしょう

そんなとき昔読んだ本の事が心に浮かびました。

それは今、春日大社の宮司さんで

葉室 賴昭(はむろよりあき)さんが書いた 「神道のこころ」です。

葉室さんは、外科のお医者さんから神様の道へ入った人です。

ご自身が不治の病であった肺結核になって死の間際までいったときに

ある人からもらった本を読んだ。

そこには人間は万物(神)によって生かされていることが書いてあった。

生かされていること、今生きていることがありがたくてありがたくて

涙が溢れ出て止まらなくなった

そして身体の底が熱くなって

身体中が光に包まれていく感覚があった ぴかぴか(新しい)

その後、病院に行って診断を受けたら

肺結核はきれいに消えていた・・・・・・

私はこれが本当の奇跡だとおもうのです。

心のバランスが整ったとき

心が宇宙の光で包まれたとき

神の愛を知ったとき

宇宙から無限のエネルギーが流れ入って来て

すべてのマイナス(病気)が消えてゆく・・・・


葉室さんはこの後、形成外科のお医者さんになるのですが

患者さんに

感謝する気持ちや

病気はなにかを伝えようとしてなるものなのだということを伝えてきました。

そして多くの人のいのちを救ってきた

救ったのは魂だったのかもしれません

そして定年を控えたある日

神様の道に入ろうと思った

それは医学の道も神様の道も

同じだとわかったからです。

人間の身体は小宇宙と云われています。

宇宙と人間は同じなのです。

宇宙は神です。

つまり神様の道は人間の本来の姿と通じている

宗教もそうなのです。

宗教の宗は宇宙を示す教えという意味です。

神様の道(宗教)を究めれば

そこには人間があり

地球がある

 

私たちは何にもわかっていないと思っている

だから不安なのです。

でも本当は

本心はすべてを知っているのです。

それを想い出すだけでいい

神様に意識を合わすだけでいいのです。

そのために宇宙に波長を合わす

それが祈りなのです。

世界平和の祈りは宇宙に意識を合わすツールなのです。

すると身体中の細胞に宇宙のエネルギーが流れて来る ぴかぴか(新しい)

この瞬間が 最高の

至福のとき なのです。

病気も一瞬で治ってしまうのです。



 

世界人類が平和でありますように

日本が平和でありますように

私たちの天命がまっとうされますように

守護霊様ありがとうございます

守護神様ありがとうございます





  
 「神道のこころ」 葉室 賴昭 春秋社




   

2011年8月 3日 (水)

人はみな認めてもらいたいんだ

  
  
  
人の想念の強さ、凄まじさがわかった話をします。

私の調和波動気功の仲間(ハーモニー)の方の経験談です。

その方は世界平和の祈りを一生懸命にされて真理の伝達を実践されています。

決して霊能者ではないのですが祈りを通して役割りとしていろんな場面に遭遇されています。

その方は教師をされているのですが教え子のお母さんから娘を助けてくれと電話があったそうです。

「なぜ私なんですか?」 と聞くと

「なぜだかわかりません、でもなぜか先生だと思ったのです」・・・・・・・・・・

駆けつけてみると

その娘さんは人が違ったようになっていたそうです。

憑依されていたのです。

わけのわからないことを口走り、目もうつろ

こちらの云うことがまったく通じない

そこで先生は世界平和の祈りを一生懸命にした。

するとその娘さんにとり憑いている女の人がみえた

その女性とはその娘さんが付き合っている彼氏の元彼女だったことがなぜかわかったそうです。

そしてその場所には彼氏も来ていました。

先生は彼氏に

取り憑いている彼女の好きだったところ、良かったところ、素晴らしかったところを全部云いなさいと言いました。

彼氏は、とつとつと彼女の好きだったところを話し出したのだそうです。

すると、しばらくして憑いていた彼女は離れていった。

部屋のカーテンが揺れて出ていったのがわかったそうです。

娘さんは

「あれっ先生なんでここに居るの?」

「私お腹が空いた」

と言っていたそうです。

とり憑いていた彼女が亡くなっていたのか?

生きていたのか それは聞いていませんが(笑)

人の認めてもらいたい、わかってもらいたいという想念は

それほど強いのです。

そして憑依することがあるのです。

その話を聞いて身体が震えました。

肩が重たくなりました。

私に関係する話だったのかもしれません。


 
コミュニケーションって大事ですよね。

以心伝心だけでなく

言葉を使って相手に自分の本心を伝える

そのことによって相手の心が晴れてゆく ぴかぴか(新しい)


そして相手の良い所を発見して

それを言葉にして伝えてゆく


自分も認めてもらいたいという思いがあります。


だからそれを相手の人にしてあげる


これも美しい愛だと思います。




   
オーラ・オーラ

http://auraaura7.com/


 

   

対処療法で病気は・・・・・

  
  
  
父が前立腺のガンに罹りました。(父は78歳)

息子としてなにができるだろう?

なにがつたえられるだろう?

そして以前読んだことがある本の内容を想い出しました。

そこにはこんなことが書かれていました。

ガン細胞は35・Cで増殖し、39・3C以上になると死滅する

ガンは、心臓や脾臓、小腸になど体温の高い臓器にはまず絶対に発生しない。

逆に、ガンが多発する臓器は、食道、胃、肺、大腸、子宮などの中空になっており細胞が少なく体温の低い管腔臓器である。・・・・・


よって患部を温める温熱療法が有効である・・・と



そして父にそのことを伝え

「よさそうだからやってみたら」

と云いました。


しかし私の中では

「そのことをいうのが私の本当のすべきことではない」

とわかっていたのです。


ガンが消えることが大切なのか?

ガンが治れば父は幸せになれるのか?

ガンになってもならなくてもそれはどうでもいいことではないのか?


最後の言葉はちょっと過激で不謹慎かもしれませんが

人間いつかは死にます、病気にもなります。

それを人を不幸といいます。

だったら死ななかったら、病気にならなかったら人間は本当に幸せになれるのか?


それは違うと思うのです。

私は真理を探求し追究しています。

そこからわかったことは


人間は神そのものである

人間の命は永遠である

人間は肉体界と同時に幽界、霊界、神界にも生きている

人間は神の愛によって生かされている

人間は必ず守護霊、守護神によって守られてる

人間は神を知り、自分を知ることによって初めて幸せになれる


などです。

その根本のことを伝えずに

枝葉の対処療法を伝えるのは違うのです。

今の父にとって

どちらが受け入れてもらいやすいか?

真理よりも一般的な話の方が伝わりやすいからと

私は思ってしまったのです。


対処療法が悪いのではありません。

しかしそれは真理があっての話だと思うのです。

いつ云うべきか?

どう伝えればいいのか?

それは頭で考えてもわかりません。

しかし父の守護霊は

私から話してやってくれときっと云っています。

だから絶好のタイミングが訪れるように

祈ろうと思います。




  
 
世界人類が平和でありますように ぴかぴか(新しい)

日本が平和でありますように

私たちの天命がまっとうされますうように

守護霊様ありがとうございます

守護神様ありがとうございます




  


ドラマの奥に何があるか?

  

  
NHKのドラマで「おひさま」が放映されています。

井上真央さんは素敵な女優さんで素晴らしい演技もする、ハートもある、

しかしなぜかずっと続けて観る気になれない。げっそり

それはなにかというと共演している人たちが自然体でないからです。(私独自の感覚かもしれませんが)

自分を出そう出そうとしている。

ドラマの中でほんの数人自己主張の強い人がいるとそのエネルギーが画面を通じて伝わってくるのです。

オーケストラでもそうですよね、自分がバイオリンを弾いているとすると自分はあくまでも全体の一部なのです。(自分の役割りだけに集中していればいい)

ハーモニーを崩して、自分は上手いんだ、自分がもっと注目されたい、目立ちたいと思い、それを音に出してしまったら、不調和なエネルギーが漂ってしまう。


ドラマも同じです。


主役でないのに自分を目立たせたいと思ったら、それが演技に出てしまったらそのドラマは台無しです。

私はいつからかそういうエネルギーを微妙にキャッチするようになってから余程、調和(バランス)の取れたドラマや番組でないと受け付けられなくなったのです。

しかし、この「おひさま」はいい番組だと聞いていたので時々観るようにはしていました。

そして、今日も何気なく観ていると

あることがわかったのです。

このドラマは何が伝えたいのか?

それがわかったとき、私はどうでもいいことでつまらないことにこだわっていたことにも気が付きました。


それはなにかと云いますと

このドラマは守護霊の存在を訴えているということでした。

主人公の陽子の娘が病気になった

家族のみんなは心配のあまり右往左往しています。(友人までもが集まって深刻になっている)

悲しみに暮れています。


そんな中で陽子は夢をみた

そこに亡くなったお母さんが現われた

陽子はお母さんに孫を抱くように言った

だけどお母さんは首を横に振って抱こうとはしなかった

そこで目が覚めると娘の熱は下がっていた


これは何を意味しているかというと

陽子の母は肉体界でも親だったのですが

亡くなった後、陽子の守護霊になったのです。

陽子を守ろうとする霊界の母の愛が娘を救ったのです。

肉体界の母はなにもすることはできません。

悲しいけれど病気を治したり、奇跡を起こせる力は宿っていないのです。

子を想う母の愛は強いけれど

肉体界の力では母の無償の愛もどんなに発達した医学の力でもどうにもならないのです。

それは人の生命(いのち)はどこから来ているのか?

どこから生まれているか?

なのです。

肉体人間が肉体人間を作っているわけではありません。

肉体人間の肉体界のもっともっと奥の世界から来ているのです。

それを人は神と云います。

神とは神界、宇宙のことです。

それはそうですよね、人間のような素晴らしい存在が

神界も宇宙もなくて

ただ突然変異でいきなり顕われるなんてあり得ませんよね。

でも人間の多くはまだ

神の存在も

守護霊守護神の存在もないと思っているのです。

ないと思っている人は守護霊守護神は守りにくくてしかたがないそうです。(笑)

話がちょっとそれましたが

このドラマは守護霊の存在を知らすために出来たと私は思うのです。


何事もそうだけど

根本が大切です。

病気になった、悲しい、苦しい、かわいそう

だから病気が治ってほしい

だれでもそう想います。

しかし病気の根本はなになのか?

いのちはどこから来ているのか?

この病気を通して神様はなにを伝えようとされているのか?

それがわからなければ

ただ

知らない間に病気が治った

治って欲しいという想いが通じた

なんにせよよかったよかった


だけではダメだと思うのです。

陽子は夢に出てきたお母さんが娘を助けてくれたとわかっています。

でもその他の人たちは

な~にもわかっていない



これからはその他の人たちも

み~んな陽子と同じように

守護霊の存在がわかるようになるのです。

そのためにこのドラマは出来たのだ。


それがわかったのです。

だからつまらないキャスティングなどにこだわっていた

私はバカでした。(笑)


これからはドラマの奥に何が隠されているのか?

作者(神)は私たちに何を伝えようとしているのか?

そういう目でいろんなものを観ていきたいと思います。






世界人類が平和でありますように

日本が平和でありますように

私たちの天命がまっとうされますように

守護霊様ありがとうございます

守護神様ありがとうございます



  

   

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