« 真理の法則 (新しい人生の始まり) | トップページ | メンターとは? »

2011年5月 1日 (日)

どこに意識を合わせるか?

  
  
例えば、ガンに罹っている人がいるとします。

そのままガン細胞が増幅されて死に至る人もいます。

しかし克服する人もいればなんと不思議な事にがん細胞が消えて無くなることもある。

克服する人はもちろん、細胞が消えて無くなるとはどういうことなんだろう?

私はいくつかのこの “消えた” という人の共通点を発見しました。

そしてその多くは、ガンになった人のほとんどは、崇高な、大きな目標を持っていて意識がそちらの方に行っていた人たちだったとわかったのです。

つまりガンと宣言されても、それが末期の状態であったとしても

「ああ自分はガンなんだ」

「もうダメかもしれない」

「これからどうしよう、治療を受けた方がいいのか? 他の方法を探した方がいいのか?」

ということに意識を向けるのではなく

その人に大きな目標、目的があったとしたならば

そこから意識が外れないのです。

だから、一瞬ガンのことに気持ちがとらわれるかもしれない

しかし、意識はすぐに大きな目標に向かうのです。

「自分には大きな目的がある、だからそれが達成できないうちは死ねに死ねないんだ、入院している場合ではないんだ」

・・・・・・と

だからいくら周りで入院や手術を勧められても、ハッキリと断ります。

「いいんです、目標に向かっている途中で死んでも本望です」

その人の心の状態とは、ガンから外れています。

するとエネルギーは癌細胞には向けられていない、エネルギーを得ることを失ったガン細胞は大きくなることがなくそのうちに力尽きて死滅し無くなっていくのです。

それを人は奇跡という。

 

そんなに意識の高い人なんて滅多にいない

滅多にいないから奇跡というんだ

と思う人がほとんどでしょうね。

でも意識が変わればどんな奇跡も起ることは確かなようです。

前置きが長くなりましたが、今読んでいる本の中にそのことが書いてあったのです。

果因説という考え方なんですが、人類はこれから思考が変わって行きます。

マイナスを認めない、プラスのみの思考に変って行きます。

マイナスはないことがわかっていくのです。

そして次元が変わって次元上昇していく・・・・・。

果因説はそのプロセスの中にあります。

これからその説について本の中から抜粋します。

よかったらお付き合いください。








  

最終目標に意識を合わせる果因説の生き方



自らの人生を見事に花開かせてゆくためには、果因説による生き方が必要なのです。

自分の意識を、まず自分の目指す最終目標に合わせるのです(人類の究極の目標は、我即神也です)。

それを実現するために、あらゆる条件を設定し、形作ってゆく。

そしてそこに向かって努力を傾けてゆく。

要するに、意識を目指す結果に集中させてゆけばよいのです。

例えば、脳梗塞で倒れたとします。常識で考えると、脳梗塞に至るまでの過去の生活が問題となります。

病気になった原因が追求されるのです。

まず常識で考えると、暴飲暴食、睡眠不足、嗜好の好き嫌い、働き過ぎ、神経症、不安・・・・などの条件が幾つか重なって、ある臨界点に達し、ついに脳梗塞に至ったのです。


その時、生命には別状がなくとも右半身に麻痺が残った。

しかも、通常よりも非常に重い状態であるとします。

すると、医者も家族も、また本人自身もまずは一生寝たきりにならないためのリハビリテーションに意識を向けます。

この時、医者はそれまでのあらゆる経験、症例から、この人の場合、どう見てもほとんど歩くことは不可能と判断を下してしまいます。

だが、取り敢えずの目標はまず歩けるようになることですから、諦めずに歩くことに意識を集中させます。

その際、歩くための種々さまざまな目標が設定されます。

だが、どれもこれも到底歩くまでの道のりは長く、しかも相当な困難が強いられます。

忍耐力、努力、集中力、痛みを克服するための強い意志力が必要となります。

医者、家族、本人はみな一つになり、一致協力し、リハビリに専念します。


だが、本人は自分の身体が重く、何一つ自分の思うように動かないことを幾度となく体験するのです。

自分に出来る限りのあらゆる努力、忍耐、精神集中を行なっても、手を動かすことも、ましてや足を動かすことも出来ません。

歩くどころかベッドの上で寝返りを打つことさえ困難なことなのです。

とうとうその人は、歩くことを断念せざるを得ないところまで追い込まれてゆきます。

だが、この思考を果因説に変えて、同じリハビリを行なったらどうなるのか比較してみますと、一番重要なことは、自分の意識を“歩けない” ことに向けないということです。

悪い身体を元の身体に戻すのではないのです。

意識を常識思考から来るところの “絶対無理、不可能” などという、否定的分野に向けずに常に光明思想に向けるのです。

自分の意識に限定を下さず、無限なる可能性に意識を集中させるのです。

そして、歩くことのみを自分の目標とするのではなく、これからの輝かしい生き方に目標を設定するのです。

歩くことは、あくまでもプロセスであって最終目標ではなく、歩けることは結果的についてくることです。

そのために、自分が元気になったらまず何をしたいか? 家族のために生きたい、人のために少しでも役に立ちたいと、自分自身の魂が、精神が喜ぶこと、高揚すること、鼓舞すること、生き生きすることに意識を集中させることに重きを置くのです。

その輝かしい、これからの人生に向かって意識を集中させてゆくのです。

今までのように、極めて先の見えない苦しく困難な道を一歩一歩下から積み上げて昇りつめてゆく方法ではなく、自らの輝かしい人生の目標を持って、上から自分が自分自身を引っ張り上げてゆくのです。

人のために働きたい、家族と共に元気で生きたい、個人人類同時成道の崇高なる道をただひたすら極めてゆきたいと等と、その崇高な意識に従って、歩けるようになるための努力、忍耐を日々瞬々積み重ねてゆくのです。

輝かしい結果に向かって意識を集中させてゆくと、常に光明思想で一瞬一瞬が乗り越えられてゆきます。

最初は寝返りを打つことさえ困難であった重く不自由な身体が、自らの崇高な意識により、寝返りが打てるようになります。

自分の意識を常に本来の目標に向けて高め上げてゆきます。

自分はもっともっと崇高で気高く、広大で輝いているのである、と何度も何度も自らに言い聞かせつつ、立つこと、歩くことといったその小さな一つ一つの目標を、大きな目標の中に吸い込ませてゆきます。

常に大きな目的意識が小さな目的意識を一つ一つ引っ張り上げてゆく仕組みとなるのです。

 その時、たとえ駄目だ、出来ない、不可能だと思ったとしても、自らに諦めと限界を下さない限り、いくか必ずそれは成就するのです。

寝返りの次はベッドから起き上がること、そしてそれが出来たらベッドから立ち上がること、そのプロセスにおいて、何度も何度も苦しい挫折や困難を強いられるかも知れません。

だが目標が高く大きいだけに、枝葉の一挙手一投足に意識が煩わされ、引っ掛かることが少なくなるのです。

意識がそこに把(とら)われなければ、意外に一つ一つのステップはクリアしやすくなるのです。




   
     「真理の法則」 西園寺昌美 白光出版 本





   


    

« 真理の法則 (新しい人生の始まり) | トップページ | メンターとは? »

コメント

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/160971/39818232

この記事へのトラックバック一覧です: どこに意識を合わせるか?:

« 真理の法則 (新しい人生の始まり) | トップページ | メンターとは? »

最近のトラックバック

2017年7月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31          
無料ブログはココログ